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島津久通

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
島津久通
時代 江戸時代
生誕 慶長19年12月29日1605年2月16日
死没 延宝2年11月29日1674年12月26日
改名 鎌安丸(幼名)→久慶(初名)→久通
別名 又七郎(通称)→図書
戒名 湛水院殿徳源道智大居士
墓所 鹿児島県宮之城町宗功寺
主君 島津家久光久
薩摩国薩摩藩
氏族 島津氏
父母 父:島津久元、母:新納忠増の娘
兄弟 久通、久茂
室:島津忠倍の娘
久武、久竹、北郷久盛室
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島津 久通(しまづ ひさみち)は、江戸時代前期の武士薩摩国薩摩藩家老宮之城島津家第4代。

家系

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宮之城島津家は、日新斎の号で知られる島津忠良の三男・尚久に始まる。代々の当主の通称が「図書」で、忠長(尚久の子)以降に薩摩国宮之城を領した。

略歴

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慶長9年(1605年)、島津氏家臣・新納忠在(島津久元)の長男として生まれる。母は新納忠増の娘。当時、父・忠在は新納家に養子入りしていた。

元和元年(1615年)12月、元服した。寛永4年(1627年)、薩摩藩初代藩主・島津家久の供をして江戸に出府した。江戸に滞在中に荒木元政に入門し、荒木流馬術の伝書を受ける。

寛永17年(1640年)3月、永野金山を発見した。の産出量は一時期は佐渡金山をしのぎ、江戸幕府の命で寛永19年(1642年)から明暦2年(1656年)にかけて採掘中止になったほどであった。

寛永20年(1643年)父・久元死去により、宮之城島津家の家督を相続。正保2年(1645年)3月、2代藩主・島津光久の命で家老に就任。「島津世録」八巻を編纂した。

正保4年(1647年)11月13日、藩主・光久が、3代将軍徳川家光を招いて武蔵国王子村で犬追物を開催。久通は射手を率いて参加し、将軍に拝謁した。寛文2年(1662年)には、藩主・光久の命で、新田開発のために天降川の河川改修に着手し、4年後の寛文6年(1666年)に完成させた。

寛文12年(1672年)、隠居。家督を子・久竹に譲る。[1]

延宝2年(1674年)11月29日、死去。享年71。

人物

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  • 髭が濃い容貌から「髭図書殿」、法号から「徳源様」と民衆から呼ばれたという。
  • 儒学者林春斎の門人となり、江戸に滞在中は度々その元を訪ねて教えを受けた。

出典

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  1. ^ 平田四郎兵衛、明治29年、P9

参考文献

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