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有馬英二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
有馬 英二
ありま えいじ
生年月日 1883年5月25日
出生地 日本の旗 日本 福井県
没年月日 (1970-04-16) 1970年4月16日(86歳没)
出身校 東京帝国大学医科大学卒業
所属政党 (無所属→)
民主党→)
国民民主党→)
改進党→)
日本民主党→)
自由民主党
称号 正三位
勲二等旭日重光章
藍綬褒章

選挙区 北海道第1区
当選回数 1回
在任期間 1946年 - 1947年

選挙区 北海道選挙区
当選回数 2回
在任期間 1950年 - 1959年
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有馬 英二(ありま ひでじ[1]/えいじ[2]1883年明治16年)5月25日 - 1970年昭和45年)4月6日[3])は、日本明治時代大正時代昭和時代医学者政治家位階正三位北海道帝国大学名誉教授衆議院議員(1期)、参議院議員(2期)。BCGの研究者としても知られる[4]

来歴

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朝鮮総督府医院

現在の福井県坂井市(旧坂井郡三国町)で旧福井藩藩医の次子として生まれ、1888年に有馬家の養嗣子となった。旧制福井中学校(現・福井県立藤島高等学校)、第四高等学校を経て、1908年東京帝国大学医科大学卒業。その後、同大学青山内科に入局。1914年朝鮮総督府医院内科に勤務。1916年朝鮮総督府医院第2内科科長。1921年北海道大学附属医院の院長に就任。同年、北海道帝国大学医学部第一内科教授にも就任。断層撮影や、集団間接撮影およびBCGの研究など、結核の診断・予防に尽力。中央結核研究会会長や日本胸部疾患学会会長なども務めた。1941年11月には、北方結核研究会を設立し、同会長に就任した。1944年、樺太医学専門学校の2代目校長に就任。

1946年3月31日に北海道帝国大学を停年退官。同名誉教授。同年4月10日第22回衆議院議員総選挙無所属で立候補して初当選。1947年1947年北海道庁長官選挙民主党から立候補するも4月5日投開票で次点で落選。同年の第23回衆議院議員総選挙に民主党から立候補を要請されるも体調不良を理由に辞退した。同年、北海道庁立女子医学専門学校(後の札幌医科大学客員教授に就任。1950年3月に同専門学校を退職し、同年6月4日第2回参議院議員通常選挙と同時に行われた補欠選挙国民民主党より当選。1953年4月24日第3回参議院議員通常選挙にて改進党から立候補し再選。1959年6月2日第5回参議院議員通常選挙には立候補せず政界を引退した。なお、1941年より1969年まで学校法人北星学園理事長も併任していた。

1963年秋の褒章で北星学園理事長として教育振興により藍綬褒章受章[5]、1963年春の叙勲で勲二等旭日重光章受章[6]

1970年4月16日死去、86歳。死没日をもって従三位から正三位に叙され、銀杯一組を賜った[7]

脚注

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  1. ^ 山本健一「人物紹介 有馬 英二」『結核』第86巻第6号、日本結核病学会、2011年3月、655頁、NAID 40019139955 
  2. ^ 歴代参議院議員一覧”. 参議院. p. 3. 2024年10月24日閲覧。
  3. ^ 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』30頁。
  4. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 63頁。
  5. ^ 『官報』第11067号10-13頁 昭和38年11月4日号
  6. ^ 『官報』第11211号19頁 昭和39年4月30日号
  7. ^ 『官報』第12993号18-19頁 昭和45年4月13日号

参考文献

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  • 小野純一編『わが七十七年之歩み : 有馬英二』(自費出版、1961年)
  • 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
議会
先代
大隈信幸
日本の旗 参議院外務委員長
1951年 - 1952年
次代
徳川頼貞