北海道日本ハムファイターズ (ファーム)
北海道日本ハムファイターズ | |
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Hokkaido Nippon-Ham Fighters | |
会社名 | 株式会社北海道日本ハムファイターズ |
創設 | 1948年 |
今シーズン | |
2024年の北海道日本ハムファイターズ | |
所属リーグ | |
イースタン・リーグ | |
歴代チーム名 | |
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本拠地 | |
ファイターズ鎌ケ谷スタジアム(千葉県鎌ケ谷市) | |
永久欠番 | |
なし | |
獲得タイトル | |
シリーズ優勝(1回) | |
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リーグ優勝(7回) | |
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球団組織 | |
オーナー | 大社啓二 |
運営母体 | 日本ハム |
監督 | 稲葉篤紀 |
北海道日本ハムファイターズ(ほっかいどうにっぽんハムファイターズ、Hokkaido Nippon-Ham Fighters)のファームは、日本のプロ野球球団・北海道日本ハムファイターズの下部組織として設置されているファームチームである。イースタン・リーグの球団のひとつ。
球団のルーツは1948年に創設された日本最初のファームチーム・急映チックフライヤーズ(きゅうえいチックフライヤーズ)である。
本拠地
[編集]1997年より千葉県鎌ケ谷市にあるファイターズ鎌ケ谷スタジアムを使用している[1]。
過去の本拠地
[編集]歴史・概要
[編集]大映の社長だった永田雅一は連盟未加盟の大映球団を国民野球連盟(国民リーグ)の大塚アスレチックスに帯同させて巡業を行っていたが、大映球団をプロ化させるため東急フライヤーズに対して統合を持ちかける。東急はこれに応じ、1948年より「急映フライヤーズ」となるが統合により選手の余剰が生じたために急遽二軍を創設することとなった。この際に旧大塚アスレチックスの名称を一部残して「チック」を付け、「急映チックフライヤーズ」と命名された。なお、急映チックの創設は巨人、阪急、南海よりも1年早く、これが日本における最初のファームチームとなった。
これとは別に、大塚アスレチックスのオーナーだった大塚幸之助は金星スターズを買収して大塚球団に合流させていたが1948年末、永田は金星を買収し新たに大映スターズを立ち上げる。この際に旧大映球団より急映に預けられていた選手もスターズへ移籍。球団は再び東急が経営主体となり「東急チックフライヤーズ」に改称。1954年には東映が東急から球団運営の委託を受けたことにより「東映チックフライヤーズ」へ改称。
1955年、同年に発足した新日本リーグ(セ・リーグ加盟6球団の二軍で構成)を改組する形で発足したイースタン・リーグ(第1期)に参加するが、運営の方向性が定まらずリーグ戦は長期の中断を余儀なくされ、1961年にようやくイースタン・リーグ(第2期)が開幕。この際には球団名より「チック」を外し、名称は一軍と同じ「東映フライヤーズ」となっている。
1973年、球団売却により「日拓ホームフライヤーズ」へ改称するも、翌1974年には日本ハムへ売却され「日本ハムファイターズ」となる。1992年、東映時代より使用していた多摩川グランドから神奈川県立相模原球場へ本拠地を移転。
1997年、千葉県鎌ケ谷市に練習場と合宿所「勇翔寮」を備えた「日本ハムファイターズタウン鎌ケ谷」が完成し、本拠地を同施設内のファイターズスタジアムへ移転[1]。一軍は2004年、東京都から北海道に本拠地を移転したが、二軍については移動にかかる負担を考慮し引き続き鎌ケ谷市を本拠地としている[注釈 3]。
現在、ファームの独立採算化や一軍とは別の名称採用が球団鎌ケ谷事業部を中心に検討されているが、千葉県が千葉ロッテマリーンズの保護地域である関係もあり活動範囲は鎌ケ谷市内に限定されている。
2024年7月、施設の老朽化や一軍との本拠地が離れている問題を解消する目的で二軍本拠地を北海道内に移転することを検討していることが複数の道内メディアから報じられた。北海道新聞によると、複数の道央地域の都市が候補地として挙がっており、地元の自治体が球場を建設した上で球団が運営を担う公設民営方式を想定していると報じている[2][3]。ただし、報道された時点で球団側は「さまざまな検討が必要」としながらも「現時点では何も決まっていない」と具体案の存在は否定しており[4]、一軍監督の新庄剛志も事態を静観しつつ、イースタン・リーグ他球団の移動費の増加などを懸念している[5]。鎌ケ谷市は球団へ問い合わせた結果、「現段階において、具体的に決定している事項は一切ない」と回答されたことを2024年8月1日付の市長メッセージで公表している[6]。
沿革
[編集]- 1948年 「急映チックフライヤーズ」として創設
- 1949年 「東急チックフライヤーズ」に改称
- 1954年 「東映チックフライヤーズ」に改称
- 1955年 イースタン・リーグ(第1期)に参加
- 1961年 イースタン・リーグ(第2期)再開、一軍と同じ「東映フライヤーズ」に改称
- 1973年 「日拓ホームフライヤーズ」に改称
- 1974年 「日本ハムファイターズ」に改称
- 1992年 神奈川県立相模原球場へ本拠地を移転
- 1997年 鎌ケ谷市のファイターズスタジアムへ本拠地を移転
- 2004年 一軍の北海道への本拠地移転に伴い「北海道日本ハムファイターズ」へ改称(二軍本拠地は引き続き鎌ケ谷市とする)
監督・コーチ
[編集]歴代監督
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
- 1948年:赤根谷飛雄太郎(選手兼任)
- 1956年 - 1960年途中:保井浩一
- 1961年 - 1966年:不明
- 1967年:藤村富美男
- 1968 - 1969年:飯島滋弥
- 1970年:高木公男
- 1971年:杉山悟(第1次)
- 1972年 - 1973年前期:土橋正幸
- 1973年後期:不明
- 1974年:杉山悟(第2次)
- 1975年:岩本尭
- 1976年:岩下光一(第1次)
- 1977年 - 1978年:福田昌久
- 1979年 - 1983年:岩下光一(第2次)
- 1984年 - 1988年:種茂雅之(第1次)
- 1989年 - 1990年:安藤順三
- 1991年 - 1992年:近藤和彦
- 1993年 - 1995年:種茂雅之 (第2次)
- 1996年 - 2000年:佐野嘉幸
- 2001年 - 2002年:白井一幸
- 2003年 - 2006年:岡本哲司
- 2007年:福良淳一
- 2008年 - 2009年:水上善雄
- 2010年 - 2012年:五十嵐信一
- 2013年 - 2014年:西俊児
- 2015年 - 2017年:田中幸雄
- 2018年 - 2020年:荒木大輔
- 2021年:原田豊
- 2022年 - 2023年:木田優夫[注釈 4]
- 2024年 - :稲葉篤紀[注釈 5]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 1992年~1996年は練習のみで使用し、練習場としての使用終了後も引き続き球団が所有していたが、2011年3月31日に国への所有権返還のため閉鎖。その後改修が施され、2015年4月に「川崎市多摩川丸子橋硬式野球場」として開業した。
- ^ 現在の呼称は「サーティーフォー相模原球場」
- ^ 過去には埼玉西武ライオンズが前身の西鉄ライオンズ時代、一軍は福岡県に本拠地を置いていたが、二軍は現在の日本ハムと同様の理由で大阪府に本拠を置いていた。
- ^ 木田が一軍の監督代行を務めた2022年7月20日から同25日までは、渡辺浩司が代行。
- ^ 稲葉の体調不良に伴い、2024年6月30日・7月1日は清水雅治が代行。
出典
[編集]- ^ a b “「日本ハムファイターズタウン鎌ケ谷」完成 市民ら待望のプロ野球施設”. 千葉日報 (千葉日報社): pp. 朝刊 10-11. (1997年1月21日)
- ^ “ファイターズ二軍本拠地が道内移転を検討!?「鎌スタ」の売却先は千葉ロッテ?”. Zaisatsu.jp【財さつJP】. 株式会社財界さっぽろ (2024年7月12日). 2024年7月13日閲覧。
- ^ 須貝剛、綱島康之 (2024年7月13日). “日本ハム2軍、北海道内へ移転検討 千葉・鎌ケ谷から 道央5市候補”. 北海道新聞. 2024年7月13日閲覧。
- ^ 木下大輔. “【日本ハム】2軍施設も老朽化で北海道移転構想「さまざまな検討を行うのは企業として当然」 - プロ野球 : 日刊スポーツ”. nikkansports.com. 2024年7月14日閲覧。
- ^ INC, SANKEI DIGITAL (2024年7月14日). “日本ハムが2軍本拠地移転検討 新庄監督、他球団の遠征費懸念「めちゃくちゃ、お金がかかるじゃない」”. サンスポ. 2024年7月14日閲覧。
- ^ “新鎌ケ谷駅の1日あたり乗降客数、ファイターズ鎌ケ谷スタジアムにかかる報道について(令和6年8月1日)|鎌ケ谷市ホームページ”. www.city.kamagaya.chiba.jp. 2024年8月22日閲覧。