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沖ノ上

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本 > 埼玉県 > 上尾市 > 沖ノ上
沖ノ上
1965年頃の埼玉県立上尾高等学校
沖ノ上の位置(埼玉県内)
沖ノ上
沖ノ上
沖ノ上の位置
北緯35度58分43.46秒 東経139度34分3.28秒 / 北緯35.9787389度 東経139.5675778度 / 35.9787389; 139.5675778
日本の旗 日本
都道府県 埼玉県
市町村 上尾市
地区 大石地区
面積
 • 合計 0.0071[1] km2
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
362-0000[2]
市外局番 048(浦和MA[3][4]
ナンバープレート 大宮
座標の場所は鴨川河川区域内を示す

沖ノ上(おきのかみ)は、埼玉県上尾市にかつて存在した大字郵便番号は362-0000[2][注釈 1]

市の統計などでは大石地区に属していた[1]沖の上と記される場合があった。

地理

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埼玉県の県央地域で上尾市中央部の主に大宮台地[5]に位置していた地区である[6]。現在の浅間台の大半、および中妻井戸木小泉泉台春日弁財原新町の各一部に当たる。 西部を鴨川が流れ、周囲の低地には水田や沼沢地があった。台地との境界は傾斜が緩やかで、その境界は不明瞭である。地区内は後述の通り耕作地が多かった。

かつての隣接大字は時計回りに東側は久保上尾宿、南側は柏座谷津(飛地)、春日谷津(現、春日)、弁財、西側は小泉、北側は中妻、桶川町大字町谷[注釈 2]と隣接する。沖ノ上の飛地(字宮山)が大小複数あり、井戸木とも隣接していた。地区の東部は弁財や中妻の飛地があり、他の大字との境界が複雑に錯綜していた[注釈 3]

1971年(昭和46年)に協議の結果沖ノ上の八つある小字のひとつの浅間台(せんげんだい)から名を採り[7]浅間台(あさまだい)と称する行政町名が新設[注釈 4]されるなど、相次ぐ区画整理事業による地番整理によりほぼ消滅したものの、沖ノ上は長らく浅間台と並存した状況が続き、晩年は埼玉県道323号上尾環状線の鴨川橋の川下側から親橋の間の河川区域に取り残される形で字川西および字宮山が非常に細長い半円形の残部として僅かに残されていた[9][注釈 5]

2016年平成28年)9月17日小泉五丁目の成立により、同じ大石地区の中妻や小泉などのように地名が新町名などに継承されることなく完全に消滅した[10][注釈 6]。地名の廃止後も施設名などにその名残を残す例が見られるものだが、かつての区域内には沖ノ上の名が付く施設等は残されていない[注釈 7]。上尾市の消滅した大字・町名は、沖ノ上が唯一である。

歴史

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もとは江戸期より存在した武蔵国足立郡大谷領に属する沖ノ上村、古くは中世末期頃より見出せる伊奈荘に属されていたと云う[5][注釈 8]。沖ノ上村は漢字で沖之上村と記される場合がある[注釈 9]。正保の頃は沖村、元禄の頃は上村と記されていたが、それ以降より沖ノ上と称されるようになったと云われている[注釈 10]。地名は諸説あり、「沖」とは広々とした田畑を意味し、上村(現大字)の方角にある広い田畑という意味がある[13]。 村高は正保年間の『武蔵田園簿』では沖村として250(田90石余、畑141石余)[14]、『元禄郷帳』および『天保郷帳』によると283石であった[5]化政期の戸数は30軒余で、村の規模はおよそ東西15南北13町余であった[5][12]高札場が村の西部にあった。

1573年天正18年)より旗本西尾氏の知行地、後に1602年慶長7年)立藩して原市藩となる。1618年元和4年)より西尾氏の移封により上知され幕府領となる[5][13]1624年寛永元年)より旗本柴田氏の知行地となる[5]。なお検地は1661年(寛文元年)に実施。1698年元禄11年)より、再び幕府領となる[5]1768年明和5年)より川越藩(松平家)領となるが[5]、間もなく上知される[15][注釈 11]

明治期に入ると寺社領を除き新政府の直轄地となり、府藩県三治制が布かれ武蔵知県事の管轄となる[15]。寺社領は1871年(明治4年)1月5日 (旧暦)寺社領上知令で府藩県に帰属された[16]。 1880年代は農地の割合が49.5 %(田8.8 %、畑40.7 %)、宅地が8.7 %、山林が36.1 %、原野が0.8 %で[17][注釈 12]、1950年代でも山林が開墾されて農地がやや広がったが、大きな変化は特に見られなかった純農村地域であった[17]。山林はいわゆる武蔵野の平地林である。民家は疎らであった。大宮台地上に位置する地域に当たるため畑作が中心で、麦や米、大豆[5]甘藷などを主に生産出荷していた。戦後までは養蚕も盛んであった[18]1875年(明治8年)の農業産物高は武蔵国郡村誌によると米45石、大麦104石、小麦32石、大豆12、小豆6石、栗24石、甘藷10800貫であった[19]

なお、その後の上尾町が市制施行された後に大部分が浅間台となった1980年代では、区画整理事業により曲がりくねった狭い農道は廃道されると共に碁盤の目状に道路が整備され、農地や山林が開発されて景観は一変、古くからの農家や農地は市街地の中に残るが、住宅地が激増し都市的土地利用の比重が高い住宅都市に変貌を遂げている[13][17]

存在していた小字

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  • 川西[13][注釈 17]
  • 川東[注釈 18]
  • 台原[注釈 19]
  • 宮山[注釈 20][注釈 21]
  • 浅間台せんげんだい
  • 久保[注釈 22]
  • 沼上[注釈 23]

世帯数と人口

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世帯数と人口は1876年(明治9年)では46世帯、211人[5]、1889年(明治22年)では265人、1970年(昭和45年)では848人[5]、1978年(昭和53年)1月1日時点では64世帯239人[8]であった。

小・中学校の学区

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市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りであった[11]

大字 番地 小学校 中学校
大字沖ノ上 全域 上尾市立大石小学校 上尾市立大石中学校

交通

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鉄道

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当地区の東部を国鉄高崎線が通っていたが、駅はない。なお、後年設置された北上尾駅はかつての大字沖ノ上字原の場所に当たる。その駅ができるまでは、同じ場所に後述の道路の踏切があった。

道路

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当時の道路は区画整理により廃道となりほとんど残されていない[注釈 24]。上尾高等学校のすぐ北側の緩い「S」の字を描く道路や、並木通りの中妻3丁目交差点付近よりすぐ南西側に並木通りに南東方向へ並行する道路は、区画整理の際に一部付け替えられていて完全に一致しないが、当時の道路の名残である。その上尾高等学校のすぐ北側の道は高崎線を踏切で渡り、地区の東端を通る中山道(現、埼玉県道164号鴻巣桶川さいたま線[46]に通じていた。鴨川には現在の浅間台大公園の南角付近に子橋が架けられ小泉に通じていたが、1997年(平成9年)12月12日撤去され、下流側に場所を変えて架け替えられている[43]

祭事

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下記以外にも神楽が薬王寺または氷川神社の境内にて奉納、上演されていた[47]。沖ノ上の神楽師が結成した「共盛座」の「沖村の神楽」は近隣の村々からも大好評で各所から多数の公演依頼もあったが[48]、神楽師もいなくなり昭和40年頃より途絶えた。

  • 歳旦祭(初詣)[29] - 1月1日
  • 春祈祷祭(獅子廻し) - 3月1日
氷川神社にて行われる無病息災と五穀豊穣を願う祭り。獅子頭を納めた神輿が地内を一軒一軒廻り厄払いする。晩年は住民が増加し区画整理の工事を期に行われなくなった。
  • 花祭り(お釈迦様) - 5月8日
薬王寺の灌仏会。花御堂を花で飾る。
  • 初山祭(浅間様) - 7月1日
富士塚がある浅間社にて行われる子供の健やかな成長を願う祭り[29][49]
  • 祇園祭(夏祭り) - 7月14日
氷川神社で行われる疫病退散を願う祭り。山車や神輿の巡行も行われていた。八合神社の合祀前は大変賑やかだったと云う[29]。1919年の火事で祭器物も焼失した後は春祈祷祭のように獅子頭が地内を巡行した。
  • 大山講(灯籠初め) - 7月26日
  • 大山講(灯籠終い) - 8月17日
薬王寺(集会所)の墓地南隅に灯籠を上記の間設置して行われていた。なお、浅間台となった区画整理後は氷川神社に場所を移し、電灯による点燈に改められている。
  • 薬師祭 - 9月8日
婦人会活動の一環として戦後に薬王寺境内地(集会所)にて祭の余興として催された踊りが、後の浅間台大公園の納涼盆踊り大会となる。
  • 例祭(お日待ち) - 10月14日
氷川神社で行なわれる所謂収穫祭。神前に産物などのお供え物を奉献して収穫の感謝をする。甘藷栽培等の売上金を受領に全戸が集まった。
  • 氷川神社注連飾り - 12月30日
新年を迎えるための準備。神域の清掃や注連縄張りを行なう。

施設など

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寺院は新義真言宗 薬王寺(新義真言宗、日乗院末)があったが、上述の通り1872年(明治5年)11月廃寺となり、堂宇の一部は伊奈学校や古泉学校の時期を経たその後集会所(現、浅間台会館)となった[23]。なお、所在地が浅間台になった1978年(昭和53年)1月にお堂が集会所の敷地に併設するように再建され、集会所の中に安置されていた薬王寺のご本尊が独立安置された[24][50]

神社は大字沖ノ上字宮山707(現中妻にある宮前公園の東側付近)に1714年正徳4年)建立の薬王寺持の氷川神社(現浅間台氷川神社)が鎮座していたが、1894年(明治27年)[注釈 25]に神明社の跡地であり現在地となる沖ノ上台原446-1〜3、同447-1〜3の場所に鳥居や祭器具とともに遷座された[29]。また、地区内で現在の浅間台二丁目1-1の区画の中央でやや西寄りの場所には沖ノ上の小字浅間台(せんげんだい)の名前の由来となった浅間塚と称される富士塚(取り壊され現存しない)があり、浅間神社が鎮座していた[49][51]。ほかには庚申社、八雲社、八幡稲荷社、雷電社、稲荷社などがあり、これらは1907年(明治40年)に小泉の氷川神社に合祀[注釈 15]され、八合神社(畔吉村と藤波村を除く大石村の旧周辺八ヶ村にあった鎮守を合祀したのでこの名がある)に改称された[23][52]

大東亜戦争の頃は陸軍桶川飛行学校(現、桶川飛行学校平和祈念館およびホンダエアポート)の関連施設である陸軍探照灯基地が沖ノ上地内(現在の浅間台地内に相当[53])に設けられていた。そこで働く軍人たちは周辺の民家に終戦の頃まで宿泊していたという[53]

その他、晩年は埼玉県立上尾高等学校や、4階建てのBS社宅[注釈 26]などや、鴨川に架かる当時の子橋の川上側に河川施設として農業用堰が設置されていた(子橋の移築後の河川改修の際に撤去)。

脚注

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注釈

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  1. ^ 沖ノ上は上尾市の一覧に掲載されておらず、一覧の「以下に掲載がない場合は362-0000」に該当するため。
  2. ^ 朝日や神明などに住居表示されたため現存せず。
  3. ^ 『上尾市史 第八巻 別編1、地誌』の各章(1.上尾地区、4.大石地区、5.上平地区)に掲載された小字図より確認。
  4. ^ a b 『浅間台区30周年記念誌』では「大字沖ノ上から浅間台に町名地番変更」と記されているほか、いくつかの文献でも沖ノ上から浅間台に町名変更や改名と記されているが、1971年の浅間台成立以降も沖ノ上の残部が存続し続けており、しかもその地区内にはまだ住民も多数いることから[8]、厳密には行政町丁の新設であり、地名の変更ではない。
  5. ^ 『ゼンリン住宅地図 上尾市 2016』によると小泉側の民家3軒(つばさ保育園付近)が沖ノ上の区域に掛かっていることが確認できる。
  6. ^ a b 『統計あげお』の最新版では小泉土地区画整理事業の完成後にもかかわらず、未だに沖ノ上の面積が0.0071 km2と記されている。通学区一覧(大石地区)[11]からは抹消されている。
  7. ^ たとえばさいたま市緑区の廃止された大字である井沼方では井沼方自治会館や井沼方南公園といった公共施設にその名が残されている。
  8. ^ 『新編武蔵風土記稿』では「伊奈庄に属す」[12]
  9. ^ 『新編武蔵風土記稿』では「沖之上村」[12]
  10. ^ 『埼玉大百科事典 第1巻』 299頁では元禄期以降より沖ノ上村と記されている。
  11. ^ 『上尾市史 第八巻 別編1、地誌』 433-441頁では寛永年間(1624年・1645年)と記されている。
  12. ^ 残り4.9 %は雑種地
  13. ^ 『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』199頁では幕末は川越藩領と解釈される。
  14. ^ 沖ノ上村の字原の場所に当たる。
  15. ^ a b 1907年の合祀には氷川神社も含まれていたが、その後も氷川神社(現、浅間台氷川神社)として社殿が地内に鎮座し続けたその経緯は不明。
  16. ^ 上記八合神社に合祀された村社の氷川神社とは別の氷川神社(現、浅間台氷川神社)である。
  17. ^ 新編武蔵風土記稿』では「杉の下」と記されている[12]
  18. ^ 『新編武蔵風土記稿』では「杉の下・雷電山」と記されている[12]
  19. ^ 武蔵國郡村誌』では「臺原ダイハラだり」と記されている。
  20. ^ 中妻と井戸木の間と中妻のうちに大小二ヶ所の飛地として所在。
  21. ^ 『新編武蔵風土記稿』では「栗原」と記されている[12]
  22. ^ 中妻(字久保)のうちに飛地として所在。
  23. ^ 一部春日谷津のうちに飛び地あり。
  24. ^ 詳細は外部リンク節の『今昔マップ on the web』を参照。
  25. ^ 現地境内石碑には明治三七年遷座と刻まれている。
  26. ^ ブリヂストンサイクル浅間台社宅に建て替えられ現存しない。

出典

[編集]
  1. ^ a b 統計あげお 平成27年版 第1章 土地・気象”. 上尾市役所. p. 2 (2019年5月30日). 2017年4月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年5月23日閲覧。
  2. ^ a b 『ぽすたるガイド 新郵便番号簿 平成9年版』郵便局、1997年、129頁。 
  3. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2020年5月23日閲覧。
  4. ^ 単位料金区域別市外局番等一覧表”. NTT東日本. 2020年5月23日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k 『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』 199頁。
  6. ^ 『上尾市史 第八巻 別編1、地誌』 341-347頁。
  7. ^ 『浅間台区30周年記念誌』 18頁。
  8. ^ a b c 『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』 926頁。
  9. ^ 『ゼンリン住宅地図 上尾市 2016』ゼンリン、2016年7月、52頁。 
  10. ^ 『ゼンリン住宅地図 上尾市 2018』ゼンリン、2018年7月、52頁。ISBN 978-4-432-45955-1 
  11. ^ a b 市内小・中学校通学区一覧”. 上尾市教育委員会 (2015年4月1日). 2016年4月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年5月23日閲覧。
  12. ^ a b c d e f 新編武蔵風土記稿.
  13. ^ a b c d e f g 『上尾市史 第八巻 別編1、地誌』 433-441頁。
  14. ^ 東京市『東京市史稿. 市街篇第六附錄』東京市、1928年、82-83頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3450753/47 
  15. ^ a b c d 『上尾市史 第八巻 別編1、地誌』 117-123頁。
  16. ^ 上尾百年史639-649頁。
  17. ^ a b c 『上尾市史 第八巻 別編1、地誌』 451-457頁。
  18. ^ 『上尾市史 第八巻 別編1、地誌』 459-465頁。
  19. ^ 『上尾百年史』 250-254頁。
  20. ^ 『上尾百年史』 25頁。
  21. ^ 「旧高旧領取調帳データベース」の「沖之上村」の検索結果も参照。
  22. ^ 『上尾百年史』 26-30頁。
  23. ^ a b c 上尾百年史599-622頁。
  24. ^ a b c d 『浅間台区30周年記念誌』 29-36頁。
  25. ^ a b 『上尾市史 第八巻 別編1、地誌』 473-480頁。
  26. ^ 『上尾百年史』 388-393頁。
  27. ^ 学校の沿革 - 上尾市立大石小学校”. 上尾市役所 (2017年7月13日). 2019年7月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年5月13日閲覧。
  28. ^ a b 『校史』 72-75頁。
  29. ^ a b c d e f 『浅間台区30周年記念誌』 82-86頁。
  30. ^ a b 『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』1421頁。
  31. ^ 上尾市のあゆみ - 統計あげお平成23年版” (PDF). 上尾市役所. pp. 135-144 (2012年3月). 2014年4月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年7月4日閲覧。
  32. ^ a b 『上尾市史 第五巻 資料編5、近代・現代2』 686-689頁。
  33. ^ 『上尾市史 第五巻 資料編5、近代・現代2』 525頁。
  34. ^ a b c d e 『浅間台区30周年記念誌』 55-56頁。
  35. ^ 『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』 228頁。
  36. ^ a b 『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』 928頁。
  37. ^ a b c d 上尾市の土地区画整理事業”. 上尾市役所 (2018年4月1日). 2019年5月15日閲覧。
  38. ^ 『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』 702頁。
  39. ^ 『上尾市史 第八巻 別編1、地誌』 261-271頁。
  40. ^ 『上尾百年史』 233-235頁
  41. ^ 『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』 925頁。
  42. ^ 『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』 927頁。
  43. ^ a b 『浅間台区30周年記念誌「夢」』 160-163頁。
  44. ^ a b c 『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』 増補5頁。
  45. ^ 上尾市小泉地区 新旧地番対照表” (PDF). 上尾市役所 (2016年9月). 2019年5月15日閲覧。
  46. ^ 武井兼雄、梶拓二『埼玉大百科事典 第1巻』埼玉新聞社、1974年3月1日、299頁。 
  47. ^ 『浅間台区30周年記念誌』 87頁。
  48. ^ 『浅間台区30周年記念誌』 95-96頁。
  49. ^ a b 上尾歴史散歩315 初山と浅間塚・健やかな成長を願って・”. 上尾市役所 (2017年5月30日). 2018年1月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年5月15日閲覧。
  50. ^ 『浅間台区30周年記念誌』45頁。
  51. ^ 上尾市教育委員会『上尾市文化財調査報告 第五十八集「上尾の浅間塚」』埼玉県上尾市教育委員会、1999年3月31日、66-68頁。 
  52. ^ 広報広聴課「上尾歴史散歩309 神社の動向 - 明治後期の神社合祀 -」『広報あげお 平成28年12月号』第993号、上尾市、2016年12月、35頁、2020年6月25日閲覧 
  53. ^ a b 『わがまち 上尾を知ろう 上尾の戦中・戦後の姿』 59頁。

参考文献

[編集]
  • 上尾市教育委員会・編『上尾市史 第五巻 資料編5、近代・現代2』上尾市役所、1998年3月31日。 
  • 上尾市教育委員会・編『上尾市史 第八巻 別編1、地誌』上尾市役所、1997年3月31日。 
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』角川書店、1980年7月8日。ISBN 4040011104 
  • 『日本歴史地名大系 第11巻(埼玉県の地名)』平凡社、1993年11月1日。ISBN 4582490115 
  • 『浅間台区30周年記念誌「夢」』浅間台区30周年記念事業実行委員会、2001年6月5日。 
  • 上尾百年史編集委員会『上尾百年史』上尾市役所、1972年2月10日。 
  • 上尾の戦中・戦後を知り記録する会 編『わがまち 上尾を知ろう 上尾の戦中・戦後の姿 増補改訂版』三恵社、2019年10月30日。ISBN 978-4-86693-133-3 
  • 上尾市立大石小学校開校百周年記念行事実行委員会・編『大石小学校開校百周年記念誌 校史』上尾市立大石小学校開校百周年記念行事実行委員会、1986年10月25日。 
  • 「沖之上村」『新編武蔵風土記稿』 巻ノ147足立郡ノ13、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763999/48 
  • 旧高旧領取調帳データベース

関連文献

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外部リンク

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