渚滑駅
渚滑駅 | |
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駅舎(1989年3月) | |
しょこつ Shokotsu | |
所在地 | 北海道紋別市渚滑町3丁目 |
所属事業者 |
北海道旅客鉄道(JR北海道) 日本国有鉄道(国鉄) |
電報略号 | コツ |
駅構造 | 地上駅 |
ホーム | 2面3線 |
開業年月日 | 1921年(大正10年)3月25日 |
廃止年月日 | 1989年(平成元年)5月1日 |
乗入路線 2 路線 | |
所属路線 | 名寄本線 |
キロ程 | 88.9 km(名寄起点) |
◄富丘 (7.5 km) (3.0 km) 潮見町► | |
所属路線 | 渚滑線 |
キロ程 | 0.0 km(渚滑起点) |
(4.7 km) 下渚滑*► | |
備考 | 渚滑線は国鉄時代の1985年(昭和60年)4月1日に廃止。 |
*この間に元西仮乗降場が存在(当駅より3.3 km先)。 |
渚滑駅(しょこつえき)は、北海道(網走支庁)紋別市渚滑町3丁目にかつて存在した、北海道旅客鉄道(JR北海道)名寄本線の駅(廃駅)である。事務管理コードは▲122116[1]。1985年(昭和60年)までは渚滑線の分岐駅であった。
歴史
[編集]1980年(昭和55年)まで運行されていた急行「天都」、及び1986年(昭和61年)まで運行されていた急行「紋別」の停車駅であった。
年表
[編集]- 1921年(大正10年)
- 1923年(大正12年)11月5日:名寄線が名寄本線に改称され、同線の駅となる[2]。また、渚滑線の当駅 - 北見滝ノ上駅間開通に伴い、同線の分岐駅となる[2]。渚滑機関庫設置[4]。
- 1932年(昭和7年)10月1日:渚滑機関庫が遠軽機関庫渚滑分庫となる[4]。
- 1949年(昭和24年)6月1日:日本国有鉄道に移管。
- 1960年(昭和35年)5月1日:渚滑機関支区廃止[4]。
- 1982年(昭和57年)11月15日:貨物の取り扱いを廃止[3]。
- 1984年(昭和59年)2月1日:荷物の取り扱いを廃止[3]。
- 1985年(昭和60年)4月1日:渚滑線廃止[2]。
- 1986年(昭和61年)11月1日:交換設備の運用を取りやめ、同時に無人駅化[5]。乗車券販売は簡易委託化。
- 1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により、JR北海道に継承[3]。
- 1989年(平成元年)5月1日:名寄本線の全線廃止[2]に伴い、廃駅となる[3]。
駅名の由来
[編集]当駅が所在していた地名、「渚滑町」より。地名は、アイヌ語の「ソー・コッ」(滝壺)に由来する[6]。その滝壺から砂金が産出し、鴻之舞金山の起源となった[6]。
駅構造
[編集]廃止時点で、1面1線の単式ホームと線路を有する地上駅であった。ホームは、線路の北側(遠軽方面に向かって左手側)に存在した。
国鉄時代末期に無人化されるまでは、単式ホーム・島式ホームを複合した計2面3線のホームと線路を有する、列車交換可能な交換駅であった[6]。互いのホームは、駅舎側ホーム西側と島式ホーム西側を結んだ跨線橋で連絡した[6]。1983年(昭和58年)時点では、駅舎側単式ホーム(北側)が下りの1番線、島式ホーム駅舎側が上りの2番線、外側が渚滑線発着の上下共用3番線となっていた[6]。3番線の外側(山側)に旧貨物側線を5線有し、そこから車庫線などの行き止まりの側線も数線有した。そのほか、1番線の遠軽方から分岐し駅舎東側のホーム切欠き部分の貨物ホームへの貨物側線を1線有していた[6]。
無人駅となっていたが、有人駅時代の駅舎が残っていた。駅舎は構内の北側に位置し、ホーム中央部分に接していた[6]。改札口は西側1箇所にあった。
利用状況
[編集]乗車人員の推移は以下のとおり。年間の値のみ判明している年については、当該年度の日数で除した値を括弧書きで1日平均欄に示す。乗降人員のみが判明している場合は、1/2した値を括弧書きで記した。
年度 | 乗車人員 | 出典 | 備考 | |
---|---|---|---|---|
年間 | 1日平均 | |||
1978年(昭和53年) | 187 | [7] |
駅弁
[編集]1935年(昭和10年)から1978年(昭和53年)まで、駅前の食堂の村上待合所が帆立めしを駅弁として販売していた。
駅周辺
[編集]- 国道238号(オホーツク国道)[8]
- 国道273号(渚滑国道)[8]
- 紋別市役所渚滑出張所
- 紋別警察署渚滑駐在所
- 渚滑郵便局
- 北見信用金庫渚滑出張所
- 紋別市立渚滑中学校
- 紋別市立渚滑小学校
- 渚滑川[8]
- オムサロ原生花園 - 駅から北西に約2.8km[6]。
バス路線
[編集]- 流氷もんべつ号
- 「渚滑」停留所:旭川・札幌方面
- 北紋バス
- 「渚滑4丁目」停留所:興部・雄武方面、滝上方面、紋別市内方面
駅跡地の再開発
[編集]名寄本線が廃止となった後、当駅の旧駅本屋はバスの待合所として活用された。この他、旧駅構内は渚滑パークゴルフ協会が管理するパークゴルフコースとなり、1991年12月からは市民有志によって冬季間、旧機関庫を「旧渚滑駅機関庫跡室内パークゴルフ場」として利用するようになった。機関庫内の室内パークゴルフ場は現在も地元住民の同好会が管理し、毎年12月から翌年4月まで開放されている。
当駅の跡地は渚滑地区の中心部にあることから跡地利用が課題となっていたが、紋別市は1997年度から再開発に着手した[9]。駅本屋は同年解体され、1999年までに市食品加工センター(うまいっしょ工房)、渚滑高齢者ふれあいセンター、バス待合所が入る紋別市渚滑総合交流促進施設とオホーツク農業共済組合紋別家畜診療所が建設されたほか、パークゴルフコースが「渚滑ふれあいパークゴルフ場」として再整備された[10]。
紋別市は2004年度、渚滑ふれあいパークゴルフ場などの周辺再整備を行い、この際、市が紋別市運動公園(紋別市南が丘町7丁目)で静態保存していた9600形蒸気機関車(69644)が移設された。同機は国鉄から1975年に無償貸与されたもので、老朽化が進んだため、所管する紋別市教育委員会は機関車を解体して車体の一部のみを保存することにしていたが、全国のSLファンから完全保存を求める声があがり、市教委が方針を転換して補修の上、渚滑駅跡地に移して保存した[11]。
渚滑線跡は、現在も一部が築堤として残存している。1985年の同線廃止後、レールなどの設備はいったんすべて撤去されたが、駅から数百メートル西方の渚滑小学校地内の校門と運動場の間を横切っていたことから、地元の渚滑小・中学校PTAが「全国で唯一鉄道が走っていた学校」を後世に伝えようと国鉄からレールや踏切遮断機、信号機、駅名標などを譲り受け、校地内の渚滑線跡地に1989年、線路(約30メートル)を復元して保存している[12]。
隣の駅
[編集]- 北海道旅客鉄道
- 名寄本線
脚注
[編集]- ^ 日本国有鉄道営業局総務課 編『停車場一覧 昭和41年3月現在』日本国有鉄道、1966年、242頁。doi:10.11501/1873236 。2023年3月21日閲覧。
- ^ a b c d e f 停車場変遷大事典 国鉄・JR編I 1998年JTB発行、P251。
- ^ a b c d e f 停車場変遷大事典 国鉄・JR編II 1998年JTB発行、P911。
- ^ a b c 北海道鉄道百年史 下巻 1981年 日本国有鉄道北海道総局発行、巻末年表。
- ^ 「通報 ●飯田線三河川合駅ほか186駅の駅員無配置について(旅客局)」『鉄道公報号外』日本国有鉄道総裁室文書課、1986年10月30日、12面。
- ^ a b c d e f g h 宮脇俊三 編『国鉄全線各駅停車1 北海道690駅』原田勝正、小学館、1983年7月、210頁。ISBN 978-4093951012。
- ^ 藤田, 稔 編『国鉄全駅大事典』藤田書店、1980年4月30日、905頁。doi:10.11501/12065814 。
- ^ a b c 『北海道道路地図 改訂版』地勢堂、1980年3月、18頁。
- ^ 「97年度紋別市補正予算案 渚滑駅跡地再開発に着手 一般会計は196億4千万円 赤井市政初の編成」北海道新聞朝刊北見版、1997年7月17日付
- ^ 「紋別・渚滑駅跡地 パークゴルフ場完成 地区整備計画が一段落」北海道新聞朝刊遠紋版、1999年7月14日付
- ^ 「紋別市運動公園のSL→旧渚滑駅跡地に移転 車体の部分補修も 市立博物館『長期の原形保存へ努力』」北海道新聞朝刊遠紋版、2004年3月30日付
- ^ 「線路の輝き再び 渚滑小の校庭に復元 14年たち児童ら補修」北海道新聞朝刊遠紋版、2003年6月24日付
- ^ 今尾恵介 編『新 鉄道廃線跡を歩く1 北海道・北東北編』JTBパブリッシング、2010年3月、214頁。ISBN 978-4533078583。