松山義雄
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松山義雄 まつやま よしお | |
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生年月日 | 1903年3月31日 |
出生地 | 長崎県諫早市 |
没年月日 | 1958年10月25日(55歳没) |
出身校 | 中央大学法学部卒業 |
前職 | 埼玉県副知事 |
所属政党 |
(日本進歩党→) (民主党→) (自由党→) 自由民主党 |
称号 |
正五位勲三等 弁護士 |
配偶者 | 松山千恵子(元衆議院議員) |
親族 |
義父・松永東(元衆議院議長) 義弟・松永光(元大蔵大臣) 娘婿・舟橋功一(元川越市長) 孫・舟橋一浩(元埼玉県議会議員) |
選挙区 | 旧埼玉2区 |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1952年10月1日 - 1958年10月25日 |
松山 義雄(まつやま よしお、1903年(明治36年)3月31日[1] - 1958年(昭和33年)10月25日[2])は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員、埼玉県副知事。正五位勲三等に叙せられた。
来歴・人物
[編集]長崎県諌早市出身[1][注 1]。中央大学法学部卒業[1][2]。
1936年、弁護士登録[1]。1938年、東京弁護士会常議員に就任。1941年、日本弁護士会理事に就任。
その後は中央政界への進出をもくろみ、1946年4月の第22回衆議院議員総選挙に進歩党公認で立候補したが落選[3]。1947年4月の第23回衆議院議員総選挙では民主党公認で埼玉2区から立候補したが落選[4]。1949年1月の第24回衆議院議員総選挙でも落選した[4]。同年、埼玉県知事大沢雄一の要請により、埼玉県副知事に就任[1]。
1952年10月の第25回衆議院議員総選挙に自由党公認で出馬し、初当選(当選同期に福田赳夫・大平正芳・黒金泰美・内田常雄・丹羽喬四郎・灘尾弘吉・宇都宮徳馬・植木庚子郎・加藤精三・山崎巌・今松治郎・重政誠之・町村金五・古井喜実など)[4]。以後、連続当選4回。法務委員、農林委員、地方行政委員、予算委員、裁判官訴追委員、弾劾裁判所裁判員、畑地農業改良促進対策審議会委員、米価審議会委員などの要職を歴任。1955年には衆議院運輸委員長に就任した[2]。1956年衆議院から中南米へ派遣される。
また、埼玉県土地改良協会会長として農業振興に尽力[2]。武蔵野線建設推進でも先頭に立って活動した。
1958年10月25日、現職のまま死去した。享年55。10月27日、衆議院本会議で平岡忠次郎により弔詞がよまれた。
家族・親族
[編集]- 松山千恵子 - 妻。埼玉県初の女性代議士。厚生政務次官・郵政政務次官を歴任。
- 松永東 - 妻の父。弁護士。衆議院議員。衆議院議長・文部大臣等歴任。
- 松永光 - 義弟(松永東の養子)。弁護士。衆議院議員。文部大臣・通産大臣・大蔵大臣等歴任。
- 舟橋功一 - 娘・浩子の夫。弁護士。元埼玉県議会議員。前川越市長。
- 舟橋一浩 - 孫。功一・浩子の長男。前埼玉県議会議員。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』610頁では「埼玉県出身」と記載。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第19版 東日本篇』帝国秘密探偵社、1956年。
- 日本国政調査会編『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』国政出版室、1977年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 朝日新聞選挙本部編『朝日選挙大観』朝日新聞社、1997年。
関連人物
[編集]議会 | ||
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先代 原健三郎 |
衆議院運輸委員長 1955年 - 1957年 |
次代 淵上房太郎 |