バンブトンコート
バンブトンコート | |
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品種 | サラブレッド |
性別 | 牡 |
毛色 | 鹿毛 |
生誕 | 1975年4月10日 |
死没 | 1995年 |
父 | ロードリージ |
母 | イチバンブ |
母の父 | テューダーペリオッド |
生国 |
日本 北海道様似郡様似町 |
生産者 | 中村義繁 |
馬主 | 樋口正蔵 |
調教師 | 伊藤修司(栗東) |
競走成績 | |
生涯成績 | 26戦13勝 |
獲得賞金 | 2億3309万400円 |
勝ち鞍 |
函館3歳ステークス(1977年) デイリー杯3歳ステークス(1977年) 阪神3歳ステークス(1977年) 函館記念(1978年) 神戸新聞杯(1978年) マイラーズカップ(1979年) 朝日チャレンジカップ(1979年) |
バンブトンコート(1975年4月10日 - 1995年)は、日本中央競馬会に所属していた競走馬・種牡馬。
馬齢は2000年以前まで使用されていた旧表記(数え年)を用いる。
来歴
父・ロードリージはサーゲイロード系のアメリカ産馬で、現役時はイタリアで走って4戦1勝と平凡な成績に終わったが、サーアイヴァーの全弟という血統を買われて1972年に輸入された。
バンブトンコート以外の代表産駒にはデイリー杯3歳Sを勝って阪神3歳Sで2着に入ったニホンピロポリシー[1]、京阪杯・CBC賞2着、阪急杯3着のハンピンオー[2]などがいる。また、ブルードメアサイアーとしては、ナイスナイスナイス[3]・トシグリーン[4]・セントシーザー[5]・マルシゲアトラス[6]・メイショウジェニエ[7]・チヤンピオンスター[8]を出した。
馬主の樋口正蔵は元プロ野球選手で、現役時は南海で外野手として10年間プレー。主に400フィート打線の1番打者を務め、1964年のリーグ優勝・日本一に貢献。現役引退後は家業と馬主業を同時に引き継いだ。冠名の「バンブトン」は、14勝を挙げたニュージーランド産馬・ミスバンブトンから取ったものである。栗東・伊藤修司厩舎の管理馬として、伊藤の娘婿の伊藤清章が鞍上を任された。
戦績
3歳時
バンブトンコートは1977年6月18日、札幌でデビューした。デビュー戦を大差勝ちすると、2連勝で挑んだ3走目の北海道3歳Sではラブリトウショウの3着と初めて敗戦を喫するが、続く8月の函館で行われた平場のオープン特別では初の芝と初の1番人気で3勝目を挙げた。
函館3歳Sでは人気のファンタストが競走中止するアクシデントもあったが、6馬身差の圧勝で重賞初制覇。同じ札幌デビュー組のラブリトウショウ・インターグシケンと共に「関西3羽ガラス」と云われ、関西に戻った後はデイリー杯3歳Sで重賞2連勝をマークし、暮れの阪神3歳Sでは重賞3連勝で見事3歳王者となった。2着・インターグシケン、3着・ラブリトウショウと3羽ガラスが上位を独占し、実況の杉本清(関西テレビアナウンサー)がレース後「これが午年に送る関西の新しい星です」と謳った。
関東の朝日杯3歳Sで無敗のタケデンに初めて土をつけたギャラントダンサーを抑え、同年の最優秀3歳牡馬に選出されたバンブトンコートは、クラシックの最有力候補に躍り出たが、3歳王者になった翌日に右前脚の剥離骨折が判明し休養を余儀なくされることになる。
4歳時
年が明けて1978年、バンブトンコートは皐月賞をスキップして日本ダービーを照準に絞ることとなり、初戦は5月14日の東京で行われた平場のオープン特別だった。バンブトンコートはこのオープン特別を楽勝、阪神3歳Sでバンブトンコートに完敗したインターグシケンがソエを気にしながら皐月賞でクビ差の2着であったことから陣営はダービーへの手応えを感じた。
バンブトンコートは、日本ダービーでは1番人気に支持された。しかし、強行ローテーションが響いたのか、レースでは終始好位を追走するも直線残り1ハロンで脚が止まり、優勝したサクラショウリの4着に終わった。なお、このダービーではバンブトンコートと同枠に入ったアグネスホープが2着に入ったため、いわゆる代用品決着となっている。
ダービー後、バンブトンコートは夏の函館記念でトップハンデを背負いながらも快勝、続く神戸新聞杯でも河内洋が騎乗して快勝し、重賞を連勝した。ところが、菊花賞トライアルの京都新聞杯ではサクラショウリとの単枠指定同士の対決だったが、バンブトンコートと同厩だったメジロイーグルに逃げ切りを許し、6着と初めて掲示板を外した。本番の菊花賞でもサクラショウリとの単枠指定対決になったが、7着と完全に株を下げる結果となり、クラシックは無冠に終わった。
5歳時
1979年、古馬になったバンブトンコートはマイラーズカップから始動し、インターグロリアに1/2馬身差を付けて勝利したが、続く天皇賞・春は7着に終わった。
続く阪神で行われた平場のオープン特別では伊藤清章に替わって栗田伸一が騎乗して快勝、上り調子のまま第20回宝塚記念に向かうことになった。宝塚記念では河内が騎乗。レースではサクラショウリを徹底マークするが、直線でグリーングラスは交わしたものの2着とまたしてもサクラショウリの前に屈することになった。
次走の高松宮杯では4歳馬のネーハイジェットに敗れ2着。函館記念では伊藤清章に鞍上を戻して連覇を狙ったが、エンペラーエースの3着に敗れ、連覇に失敗した。
秋は中京で行われた朝日チャレンジカップから始動し快勝したが、続く目黒記念・秋は7着、天皇賞・秋は13着、有馬記念は11着と距離の壁や調子下降で見せ場なく惨敗し、この年を終えた。
6歳時
1980年は鳴尾記念から始動したが、60キロの斤量が祟って6着に終わった。それでも函館で行われた巴賞で9頭中8番人気ながらサーペンプリンスを退けて1着となり復活したか見えたが、その後故障し、これが引退レースとなった。
引退後
引退後は1981年に日高スタリオンステーションで種牡馬入りするが、あまり牝馬は集まらず、地方の重賞勝ち馬を2頭輩出するに過ぎなかった[9]。
ファンであったサラリーマンの人物が引き取り、故郷・北海道様似郡様似町の修栄牧場で繋養。1990年からは様似を離れ、宮城県玉造郡鳴子町(現・大崎市)の斉藤牧場で安い種付け料で種牡馬生活を送り、1994年引退。その後は山梨県の信玄牧場で余生を過ごしていたが、1995年に死亡した。21歳没。
競走成績
※太字はGI級レース。
- 1977年(9戦4勝)
- 1着 - 阪神3歳ステークス、デイリー杯3歳ステークス、函館3歳ステークス、はまなす賞
- 1978年(6戦2勝)
- 1着 - 函館記念、神戸新聞杯
- 1979年(11戦3勝)
- 1着 - マイラーズカップ、朝日チャレンジカップ
- 2着 - 宝塚記念、高松宮杯
- 3着 - 函館記念、地方競馬招待競走
- 1980年(2戦1勝)
- 1着 - 巴賞
種牡馬成績
- リベラルワールド[10] - 1985年新春ジュニア(名古屋)、1989年天山賞・大天山賞・サラブレッドグランプリ(佐賀)・サラブレッド大賞典(中津)
- アーバンカーボーイ[11] - 1991年中津王冠・サラブレッドチャンピオン(中津)
エピソード
バンブトンコートの資質を買っていた大橋巨泉が再三に渡り騎手交代を求めていたと言われている。その候補に福永洋一や河内などの名が上がっていた。
血統表
バンブトンコートの血統(ロイヤルチャージャー系/Selene 5×5=6.25%、Pharos 5×5=6.25%(母内)) | (血統表の出典) | |||
父 *ロードリージ Lord Liege 1969 鹿毛 |
父の父 Sir Gaylord1959 鹿毛 |
Turn-to | Royal Charger | |
Source Sucree | ||||
Somethingroyal | Princequillo | |||
Imperatrice | ||||
父の母 Attica1953 栗毛 |
Mr.Trouble | Mahmoud | ||
Motto | ||||
Athenia | Pharamond | |||
Salaminia | ||||
母 イチバンブ 1968 鹿毛 |
*テューダーペリオッド Tudor Period 1957 栃栗毛 |
Owen Tudor | Hyperion | |
Mary Tudor | ||||
Cornice | Epigram | |||
Cordon | ||||
母の母 マルセイユ1963 鹿毛 |
*フェリオール | Fastnet | ||
Aisse | ||||
*ミスバンブトン | Boissier | |||
Cerealia F-No.2-f |
脚注
- ^ “ニホンピロポリシー”. JBISサーチ. 2020年3月6日閲覧。
- ^ “ハンピンオー”. JBISサーチ. 2020年3月6日閲覧。
- ^ “ナイスナイスナイス”. JBISサーチ. 2020年3月6日閲覧。
- ^ “トシグリーン”. JBISサーチ. 2020年3月6日閲覧。
- ^ “セントシーザー”. JBISサーチ. 2020年3月6日閲覧。
- ^ “マルシゲアトラス”. JBISサーチ. 2020年3月6日閲覧。
- ^ “メイショウジェニエ”. JBISサーチ. 2020年3月6日閲覧。
- ^ “チヤンピオンスター”. JBISサーチ. 2020年3月6日閲覧。
- ^ 年度別種付け情報 - 1981年その2:父系馬鹿
- ^ “リベラルワールド”. JBISサーチ. 2020年3月6日閲覧。
- ^ “アーバンカーボーイ”. JBISサーチ. 2020年3月6日閲覧。