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「ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2012年1月|ソートキー=人1997年没}}
{{基礎情報 皇族・貴族
{{基礎情報 皇族・貴族
| 人名 = ダイアナ
| 人名 = ダイアナ
| 各国語表記 = Diana, Princess of Wales
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| 家名・爵位 = プリンセス・オブ・ウェールズ
| 家名・爵位 = '''[[プリンセス・オブ・ウェールズ|ウェールズ公妃]]'''
| 画像 = Diana, Princess of Wales 1997 (2).jpg
| 画像 = Международная Леонардо-премия 18.jpg
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| 画像説明 = ([[1995]])
| 画像説明 = 1997
| 在位 = [[1981年]][[7月29日]] - [[1997年]][[8月31日]]
| 続柄 =
| 続柄 = [[エドワード・スペンサー (第8代スペンサー伯爵)|エドワード・スペンサー]]第3女子
| 称号 = Princess of Wales(ウェールズ公妃)
| 称号 = [[プリンセス・オブ・ウェールズ|ウェールズ公妃]](※離婚後保持)<br />[[ロスシー公|ロスシー公爵夫人]](※離婚後剥奪)
| 全名 = Diana Frances
| 全名 = {{lang|en|Diana Frances Spencer}}<br />ダイアナ・フランセス・スペンサー
| 身位 = Princess(王子妃)
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| 配偶者1 = [[チャールズ (・オブ・ウェールズ)|ウェールズ公チャールズ]]([[1981]] - [[1996年]]離婚
| 配偶者1 = [[チャールズ3世 (イギリス)|チャールズ3世]]<br />(1981年 - 1996年)
| 子女 = [[ウィリアム (プリンス・オブ・ウェールズ)|ウィリアム]]<br />[[ヘンリー (サセックス公)|ヘンリー]]
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| 父親 = [[エドワード・スペンサー (第8代スペンサー伯爵)|スペンサー伯爵エドワード・スペンサー]]
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| 母親 = [[フランセス・シャンド・キッド]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ellegirl.jp/celeb/g161285/princess-diana-childhood-photos-170808-hns/|title=ダイアナ元妃がプリンセスになるまでのフォトアルバム18選|publisher=ELLEgirl|date=2017-08-08|accessdate=2020-12-27}}</ref>
| 父親 = [[エドワード・スペンサー (第8代スペンサー伯爵)|第8代スペンサー伯爵]]
| 役職 = [[英国赤十字社]]副総裁
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| 役職 =
}}
}}

'''ウェールズ公妃ダイアナ'''(''Diana, Princess of Wales;全名Diana Frances(旧姓Spencer)''、[[1961年]][[7月1日]] - [[1997年]][[8月31日]])は、[[チャールズ (プリンス・オブ・ウェールズ)|ウェールズ公チャールズ]]の最初の妃。[[1996年]]に離婚した。[[1997年]]、[[パリ]]での交通事故により不慮の死を遂げた。それぞれ第2位および第4位のイギリス王位継承者である[[ウィリアム (ケンブリッジ公)|ケンブリッジ公ウィリアム王子]]および[[ヘンリー・オブ・ウェールズ|ヘンリー王子]]の実母。元来ドイツ発祥で、王位継承者にもドイツ系を主に外国から配偶者を迎える慣例があった同王家としては初めての、両親ともイギリス人の妃であった。
'''ウェールズ公妃ダイアナ'''({{lang|en|Diana, Princess of Wales}}、全名: '''ダイアナ・フランセス'''({{lang|en|Diana Frances}})、旧姓: '''スペンサー'''({{lang|en|Spencer}})、[[1961年]][[7月1日]] - [[1997年]][[8月31日]])は[[イギリス王室]]のチャールズ皇太子(現:[[イギリスの君主|国王]][[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]])の前妻([[1996年]]に離婚)。[[日本語]]では[[離婚]]により[[イギリス王室|英王室]]を離れた立場にあるため「'''ダイアナ元妃'''」と表現される場合が多い。

[[1961年]]7月、イギリスの名門[[世襲貴族|貴族]][[スペンサー伯爵]]家の4人目の[[令嬢]]として誕生。[[1977年]]、ダイアナの姉[[セーラ・マッコーコデール|セーラ・スペンサー]]の紹介が基となってチャールズ皇太子(当時)とダイアナは[[1981年]]2月に19歳で[[婚約]]し、同年7月に20歳で[[結婚]]。翌年6月には夫との間に[[ウェールズ公]][[ウィリアム (プリンス・オブ・ウェールズ)|ウィリアム皇太子]](第1位王位継承権者)次いで、その翌々年9月には[[サセックス公]][[ヘンリー (サセックス公)|ヘンリー王子]]を授かる。しかし、婚約当初からの[[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ皇太子]]と[[カミラ (イギリス王妃)|カミラ夫人]](当時)の[[不貞|不貞問題]]により夫婦関係は悪化し、[[1992年]]12月からの別居を経て[[1996年]]8月に離婚が成立。

離婚後は[[慈善活動]]等に積極的になり、多くの英国民から慕われた。しかし、翌年の1997年8月31日未明に[[フランス]]・[[パリ]]市内で大富豪[[ドディ・アルファイド]]氏との交際関係が浮上し、執拗なパパラッチから[[ハイヤー]]を猛スピードで振り切ろうとした車体は[[交通事故]]を起こした。瀕死だったダイアナは収容先の病院で4時間後[[ダイアナ妃の死|息を引き取った]]。

ダイアナは、息子のウィリアム皇太子夫妻やハリー王子夫妻の[[嫡出子|嫡内子]]であり英王室の[[王位継承権]]を持つ[[ジョージ・オブ・ウェールズ|ジョージ王子]]、[[シャーロット・オブ・ウェールズ|シャーロット王女]]、[[ルイ・オブ・ウェールズ|ルイ王子]]、[[アーチー・マウントバッテン=ウィンザー]]、[[リリベット・マウントバッテン=ウィンザー]]の父方の祖母にあたる。

== 概要 ==
<!-- ここは概要部分です。本文に書いたことで重要なことのみここにも記載してください。ここだけに新情報を追加するのはおやめください。 -->
[[1961年]]に[[スペンサー伯爵]]家の嫡男であるオールトラップ子爵[[エドワード・スペンサー (第8代スペンサー伯爵)|エドワード・ジョン・スペンサー]]とその夫人[[フランセス・シャンド・キッド|フランセス]]の間の三女として{{仮リンク|サンドリンガム (ノーフォーク)|label=サンドリンガム|en|Sandringham, Norfolk}}の屋敷パークハウスで生まれる。[[スペンサー家]]は[[17世紀]]以来続く貴族の家系である(''→[[#生誕と出自|生誕と出自]]'')。

両親は[[1967年]]から別居し、[[1969年]]に離婚した。ダイアナら子供の親権は父が獲得した。弟[[チャールズ・スペンサー (第9代スペンサー伯爵)|チャールズ]]とともにパークハウスで育てられたが、[[1970年]]には[[ノーフォーク]]の寄宿学校{{仮リンク|リドルズワース・ホール学校|en|Riddlesworth Hall School}}に入学、ついで[[1973年]]に[[ケント (イングランド)|ケント州]]にある寄宿学校{{仮リンク|ウェスト・ヒース学校|en|The New School at West Heath}}に入学した。[[1975年]]に父がスペンサー伯爵位を継承したのに伴い、ダイアナもLadyの[[儀礼称号]]を得た(''→[[#少女時代|少女時代]]'')。

[[1977年]]に姉[[セーラ・マッコーコデール|セーラ]]と交際していた[[プリンス・オブ・ウェールズ|ウェールズ公]][[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ]](当時)と初めて出会った(''→[[#チャールズ3世との出会い|チャールズ皇太子との出会い]]'')。同年末に[[スイス]]にある花嫁学校{{仮リンク|アルパン・ヴィデマネット学院|en|Institut Alpin Videmanette}}に入学するも、すぐに帰国し、[[ロンドン]]で一人暮らしを始める(''→[[#ロンドンで独り暮らし|ロンドンで独り暮らし]]'')。[[1979年]]に王室の[[サンドリンガムハウス|サンドリンガム邸]]のパーティーで皇太子に再会したのがきっかけで皇太子と親しい関係になり、[[1980年]]に交際が深まった(''→[[ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)#チャールズ3世との交際|チャールズ3世との交際]]'')。

[[1981年]]2月に若干19歳であった彼女は皇太子と婚約し、20歳の誕生月の[[7月29日]]に[[セント・ポール大聖堂]]で結婚式を執り行った(''→[[#チャールズ3世との婚約|皇太子との婚約]]、[[#結婚式|結婚式]]'')。[[1982年]]5月から皇太子とともに[[ケンジントン宮殿]]で生活をはじめ、[[ウィリアム (プリンス・オブ・ウェールズ)|ウィリアム皇太子]]と[[ヘンリー (サセックス公)|ヘンリー王子]]の2子をもうけるも、やがて結婚生活や家庭生活、公務についての皇太子との考え方の違いが深刻化した。ダイアナは[[過食症]]に苦しむようになり、チャールズ3世も[[1980年代]]半ば以降にはダイアナのいるケンジントン宮殿に戻らず、{{仮リンク|ハイグローヴ・ハウス|label=ハイグローヴ邸|en|Highgrove House}}で暮らすことが増え、[[カミラ (イギリス王妃)|カミラ]]との交際を再開するようになる(''→[[#ケンジントン宮殿での生活|ケンジントン宮殿での生活]]、[[#ウィリアム皇太子とヘンリー王子の誕生|ウィリアム王子とヘンリー王子の誕生]]、[[#チャールズ3世との関係の冷却化|皇太子との関係の冷却化]]'')。

[[1992年]]12月に皇太子夫妻が別居生活に入ることが正式に発表された。[[1993年]]に皇太子とカミラが愛を囁き合う電話のテープが公開され、[[1994年]]には皇太子自身もカミラが自分の人生の「中心的人物」であることを公表した。ダイアナは[[1995年]]11月に[[英国放送協会|BBC]]のインタビューに答えてチャールズ3世との結婚生活について「3人の結婚生活だった」と総括し、またダイアナ自身も元騎兵連隊将校{{仮リンク|ジェームズ・ヒューイット|en|James Hewitt}}と5年にわたって不倫していたことを認めた。そして自分はイギリス王妃にはならないことと「人々の心の王妃」になりたいという希望を表明した(''→[[#別居生活|別居生活]]'')。

[[1996年]]8月に離婚が成立。2人の王子の親権をチャールズ3世と平等に持ち、[[プリンセス・オブ・ウェールズ|ウェールズ公妃]]の[[称号]]維持と妃殿下(HRH)の剥奪の引換に莫大な[[損害賠償|慰謝料]]を獲得した。離婚後、[[後天性免疫不全症候群|エイズ]]問題や[[地雷]]除去問題など[[フィランソロピー|慈善活動]]への取り組みを本格化させる(''→[[#離婚と慈善活動|離婚と慈善活動]]'')。またこの頃から[[パキスタン]]人[[心臓血管外科学|心臓外科]]医[[ハスナット・カーン]]と交際するようになる。さらに[[1997年]]7月からは[[エジプト]]人[[映画]][[プロデューサー]]の[[ドディ・アルファイド]]との交際も開始する(''→[[#ハスナット・カーンとドディ・アルファイドとの二股交際|ハスナット・カーンとドディ・アルファイドとの二股交際]]'')。

1997年[[8月31日]]未明、[[フランス]]・[[パリ]]でドディとともに乗車していた[[自動車|車]]が交通事故を起こして死去する(''→[[#パリで交通事故死|パリで交通事故死]]'')。死後、チャールズ3世の意向により[[イギリス王室]]が彼女の遺体を引き取り、準国葬の「王室国民葬」に付された。英国民の強いダイアナ哀悼の機運から、当時の女王(国王)[[エリザベス2世]]が特別声明を出し、また葬儀中には[[バッキンガム宮殿]]に[[半旗]]が掲げられるという異例の処置が取られた(''→[[#哀悼・葬儀|哀悼・葬儀]]'')。

生前、ダイアナはファッションセンスを高く評価されており、女性のファッションに大きな影響を与えた(''→[[#ファッション|ファッション]]'')。また慈善事業への積極的な取り組みも高く評価されていた(''→[[#離婚と慈善活動|離婚と慈善活動]]、[[#他者への愛|他者への愛]]'')。死後も彼女の人気は極めて高い(''→[[#人気|ダイアナ人気]]'')。訪日は三度行っており、[[1986年]]([[昭和]]61年)の最初の訪日では日本に「[[ダイアナフィーバー]]」と呼ばれる社会現象を巻き起こした(''→[[#来日|ダイアナの来日]]'')。

{{-}}


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 生誕と出自 ===
[[ファイル:Althorp House1.jpg|250px|thumb|[[スペンサー伯爵]]家の本邸{{仮リンク|オールソープ (エステート)|label=オールソープ|en|Althorp}}邸。ダイアナ生誕時・幼少期には祖父[[アルバート・スペンサー (第7代スペンサー伯爵)|アルバート]]が居住する邸宅であったが、幼少期のダイアナもしばしば遊びに行った{{efn2|幼い頃のダイアナは祖父[[アルバート・スペンサー (第7代スペンサー伯爵)|アルバート]]の{{仮リンク|オールソープ (エステート)|label=オールソープ|en|Althorp}}邸へ行くのが怖かったという。自分の方をじっと見ているように見える先祖の肖像画がかかった薄暗い廊下など、幽霊が出てきそうな雰囲気の場所が多数あったためという。また祖父と父[[エドワード・スペンサー (第8代スペンサー伯爵)|エドワード]]の関係が悪かったのでダイアナは祖父を怖がっていたという{{sfn|モートン|1997|p=119}}。}}。1975年に父[[エドワード・スペンサー (第8代スペンサー伯爵)|エドワード]]が相続する。]]
[[1961年]][[7月1日]]午後に[[イングランド]]・[[ノーフォーク]]・{{仮リンク|サンドリンガム (ノーフォーク)|label=サンドリンガム|en|Sandringham, Norfolk}}・パークハウスに生まれる。父はオールトラップ子爵[[エドワード・スペンサー (第8代スペンサー伯爵)|エドワード・ジョン・スペンサー]](後の第8代[[スペンサー伯爵]])。母はその夫人である[[フランセス・シャンド・キッド|フランセス]](第4代[[ファーモイ男爵]][[モーリス・バーク・ロッシュ (第4代ファーモイ男爵)|モーリス・バーク・ロッシュ]]の娘)。父方の先祖と母の名前をとって「ダイアナ・フランセス」と名付けられた。ダイアナは三女であり、姉に[[セーラ・マッコーコデール|セーラ]]、[[ジェーン・フェローズ|ジェーン]]がいる。またダイアナ誕生から3年後に弟[[チャールズ・スペンサー (第9代スペンサー伯爵)|チャールズ]]が生まれている{{sfn|モートン|1997|pp=116, 118, 120}}{{sfn|キャンベル|1998|pp=13, 26-27}}。
[[スペンサー家]]は羊商として財をなし、[[1603年]]に[[ロバート・スペンサー (初代スペンサー・オブ・ウォームレイトン男爵)|ロバート・スペンサー]]がスペンサー・オブ・ウォームレイトン男爵に叙されて以来続く貴族の家系である。スペンサー家の本家はチャーチル家から[[マールバラ公]]爵位を継承し、スペンサー=チャーチル家と改称した{{efn2|[[第二次世界大戦]]中の[[イギリスの首相|英国首相]][[ウィンストン・チャーチル|ウィンストン・スペンサー=チャーチル]]は[[ジョン・スペンサー=チャーチル (第7代マールバラ公)|第7代マールバラ公爵]]の三男[[ランドルフ・チャーチル (1849-1895)|ランドルフ卿]]の息子である。ダイアナとチャーチルの関係は[[スペンサー家#家系図|スペンサー家]]の項目参照。}}。一方ダイアナのスペンサー伯爵家は[[1765年]]に[[チャールズ・スペンサー (第3代マールバラ公)|第3代マールバラ公爵]]の甥[[ジョン・スペンサー (初代スペンサー伯爵)|ジョン・スペンサー]]がスペンサー伯爵位を与えられたことに始まる家柄である。スペンサー伯爵家の者は[[19世紀]]には政界の中枢で活躍する者が多かったが、[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員が政界中枢になることが忌避されるようになった[[20世紀]]以降は政界での活躍はほとんど見られなくなり、廷臣や軍人としての活動が目立つようになった<ref>{{Cite book|和書|author=海保眞夫|authorlink=海保眞夫|year=1999|month=10|title=イギリスの大貴族|series=[[平凡社新書]]020|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4-5828-5020-8|pages=14-21}}</ref>。ダイアナ生誕時の当主は祖父である第7代スペンサー伯爵[[アルバート・スペンサー (第7代スペンサー伯爵)|アルバート・スペンサー]]だった{{sfn|モートン|1997|p=119}}。その嫡男である父エドワードはオールトラップ子爵の[[儀礼称号]]を使用していた。

母方のロッシュ家は[[アイルランド]]に屋敷を構え、[[ファーモイ男爵]]の爵位を継承する家柄である。家格や財産の面ではスペンサー伯爵家の方が上だが、母フランセスの父である第4代ファーモイ男爵モーリス・ロッシュは王室と親しい関係にあり、パークハウスを王室から貸し与えられ、また彼の妻(ダイアナの祖母)[[ルース・ロッシュ (ファーモイ男爵夫人)|ルース]]は[[1956年]]以降[[エリザベス・ボーズ=ライアン|エリザベス皇太后]]に女官として仕えていた{{sfn|キャンベル|1998|pp=17-21}}{{efn2|{{仮リンク|コリン・キャンベル (作家)|label=コリン・キャンベル|en|Lady Colin Campbell}}は、ダイアナがチャールズ皇太子に嫁ぐうえで最も重要な役割を果たしたのは、この母方の祖母ルースであるとしている{{sfn|キャンベル|1998|p=19}}。}}。

スペンサー伯爵家の嫡孫である弟チャールズは女王[[エリザベス2世]]を[[代父母]]として[[ウェストミンスター寺院]]で[[洗礼]]を受けた。長姉セーラもエリザベス皇太后、次姉ジェーンも[[ケント公]][[エドワード (ケント公)|エドワード]]を代父母にしていた。しかし三女であるダイアナは低く扱われ、ノーフォーク知事夫人メアリー・コールマンや[[クリスティーズ]]会長ジョン・フロイドなど資産家ながら平民が代父母であり、洗礼を受けた場所も地元サンドリンガムの{{仮リンク|聖メアリー・マグダレン教会 (サンドリンガム)|label=聖メアリー・マグダレン教会|en|St. Mary Magdalene Church, Sandringham}}だった{{sfn|モートン|1997|p=117}}{{sfn|キャンベル|1998|pp=13-14}}。

ダイアナの生家パークハウスは王室御用邸[[サンドリンガムハウス|サンドリンガム邸]]に近い場所にある。サンドリンガム邸に招く客を収容するために[[イギリスの君主|国王]][[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]が建てさせた屋敷であり、国王[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]の代に母方の祖父ファーモイ卿に貸し出され、ファーモイ卿の死後、ダイアナの父母が同屋敷の借家権を相続していた{{sfn|デイビス|1992|p=39}}。[[駐車場]]、屋外[[プール]]、[[テニスコート]]、[[クリケット]]場などを備え、6人の住み込み使用人が働いていたが、貴族の邸宅としては小規模な方だった。しかし周囲の環境は[[牧歌]]的であり、子供の教育場としては最適であった。ダイアナはここで育つことになる{{sfn|モートン|1997|pp=118-121}}。

=== 少女時代 ===
=== 少女時代 ===
[[ファイル:A New School on the old Ashgrove Estate and its history - geograph.org.uk - 919317.jpg|250px|thumb|ケント州[[セブンノークス]]にある寄宿学校{{仮リンク|ウェスト・ヒース学校|en|The New School at West Heath}}。ダイアナは[[1973年]]から[[1977年]]までここに入学していた。]]
ダイアナは、[[エドワード・スペンサー (第8代スペンサー伯爵)|オールトラップ子爵エドワード・ジョン・スペンサー]]と子爵夫人[[フランセス・バークロシュ|フランセス]]([[:en:Frances Shand Kydd|en]])の3女として、[[サンドリンガム・ハウス]]([[イングランド]]の[[ノーフォーク]]にあるイギリス王室の邸宅)で生まれた。父のオールトラップ子爵は[[1975年]]、第8代[[スペンサー伯爵]]を相続した。
姉二人はそれぞれ6歳、4歳年上であり、ダイアナが彼女らの仲間入り出来る年齢になる前の[[1967年]]9月にはケント州[[セブノークス|セブンノークス]]の{{仮リンク|ウェスト・ヒース学校|en|The New School at West Heath}}に入学したため、幼いダイアナは弟チャールズとともに育った{{sfn|モートン|1997|pp=122-124}}{{sfn|キャンベル|1992|pp=35-36, 38}}。


父オールトラップ卿と母フランセスは不仲で、母は[[オーストラリア]]帰りの裕福な実業家{{仮リンク|ピーター・シャンド・キッド|en|Peter Shand Kydd}}と不倫するようになった。1967年夏に父と母は「試験的」に別居し、ダイアナと弟チャールズは母とともに[[ロンドン]]へ移った。オールトラップ卿はフランセスがいずれ同居に戻るものと思っていたが、彼女に離婚の意志があることを知るとパークハウスを訪れたダイアナとチャールズをロンドンに帰さず、パークハウスの生活に戻させ、近隣の[[キングズ・リン]]のシルフィールド学校(Silfield School)に入学させた。これに反発した母は親権を求めて訴訟を起こした。イギリスの離婚訴訟は一般に母親有利だが、不倫の事実や貴族の地位が父に有利に働き、[[1968年]]からはじまった離婚申請審問の結果、親権は父が得た{{sfn|モートン|1997|pp=124-129}}{{sfn|キャンベル|1998|pp=31-36}}。
スペンサー家は[[15世紀]]に欧州でも有数の羊商として財をなし、[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]からスペンサー伯爵の地位を受けた。婚姻関係によって[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]と[[マールバラ公]][[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|ジョン・チャーチル]]の血筋も受け継いでいる。母方のファーモイ[[男爵]]家はノーフォークの名士であった。姉にセーラ・マッコーコデールとジェーン・フェローズ、弟に[[チャールズ・スペンサー (第9代スペンサー伯爵)|チャールズ]](1992年より第9代スペンサー伯爵)がいる。


[[1970年]]9月にノーフォークの寄宿学校{{仮リンク|リドルズワース・ホール学校|en|Riddlesworth Hall School}}に入学した。ダイアナは優等生ではなかったが、スポーツ万能で[[バレエ]]、[[ダンス]]、[[テニス]]、[[ネットボール]]、[[水泳]]などで活躍した。友達も多かったという{{sfn|キャンベル|1998|pp=37-38}}{{sfn|モートン|1997|pp=135-137}}。
オールトラップ子爵夫妻はフランセスの不倫が原因で[[1967年]]に別居し、[[1969年]]に正式に離婚した。父は後に再婚したが、両親の離婚はダイアナ姉妹に大きな心の傷を与えた。ダイアナは最初はノーフォーク、後にケントの寄宿学校で教育を受けたが、極端に勉強を嫌い、成績は悪かった。ただ、乗馬や水泳などのスポーツやピアノは得意だった。16歳の時に[[スイス]]の[[フィニッシングスクール]]に入っている。


[[1973年]]には姉二人と同様にケント州のウェスト・ヒース学校に入学した。この頃のダイアナは[[バーバラ・カートランド]]の恋愛小説に熱中し、勉強を怠っていたため、成績が悪かったという{{sfn|キャンベル|1998|pp=38, 42}}{{sfn|モートン|1997|pp=138-144}}。しかしこの学校においても引き続きスポーツ分野では活躍した。この頃のダイアナは[[バレリーナ]]になりたがっていたが、身長が180センチ近くまで伸びたため、断念せざるをえなかった。姉セーラと比べると劣るものの[[ピアノ]]も得意だった{{sfn|モートン|1997|p=142}}。この学校は学生のボランティア活動に力を入れており、ダイアナも毎週のように老夫婦の家を訪問してはその話し相手になったり、家事の手伝いをした。この経験を通じてダイアナは自らの社会奉仕への適性を発見したという{{sfn|モートン|1997|pp=142-143}}{{sfn|石井|2000|pp=201-202}}。
母フランセスは、チャールズ皇太子と再婚したカミラ・ローズマリー・シャンド(パーカー=ボウルズ夫人)の一族、ピーター・シャンド=キッドと再婚し、父エドワードはロマンス作家バーバラ・カートランドの娘レイヌ・マッコーコデール(ダートマス伯爵夫人)と再婚した。ダイアナの姉セーラはニール・マッコーコデールと結婚した(レイヌはジョンの死後、フランスのジャン=フランソワ・ド・シャンブラン伯爵と再々婚した)。


[[1975年]][[6月9日]]に祖父第7代スペンサー伯爵[[アルバート・スペンサー (第7代スペンサー伯爵)|アルバート・スペンサー]]が死去し、父エドワードが第8代スペンサー伯爵位を継承する。弟チャールズはオールトラップ子爵の[[儀礼称号]]を継承し、ダイアナら三姉妹はLady(姫、令嬢)の称号を得た。これに伴い一家はスペンサー伯爵家の本邸である{{仮リンク|オールソープ (エステート)|label=オールソープ|en|Althorp}}邸に引っ越した。この邸宅にはダイアナのダンス室が設けられ、ダイアナはホールでダンスの練習に励んだという{{sfn|キャンベル|1992|p=53}}{{sfn|モートン|1997|p=144}}。
=== チャールズとの出会い ===
スイスから帰国したダイアナは[[社交界]]にデビューし、[[1978年]]11月に[[バッキンガム宮殿]]で開かれたチャールズ王太子の誕生日パーティーで初めて将来の夫と対面する。ダイアナがこのパーティーに招待されたのは長姉のセーラが[[1977年]]から1978年にかけてチャールズ王太子と交際していたからである。この交際はうまくいかなかったが、チャールズはスペンサー家のことはよく知っていたのである。


父はオルソープ邸を相続して間もなく、以前から付き合っていた[[レイン・スペンサー (スペンサー伯爵夫人)|レイン]](バーバラ・カートランドの娘でダートマス伯爵夫人)と再婚した。しかしダイアナ含むスペンサー家の子供たちはこの継母のことを嫌っていた{{sfn|キャンベル|1992|pp=55-58}}{{sfn|モートン|1997|pp=147-148}}。
やがてダイアナはロンドンのアパートで住むことを許され、[[保育士]]として働きはじめた。[[1980年]]7月ダイアナは再びチャールズと出会い、交際を深めていった。だが、チャールズには既に恋人の[[カミラ・パーカー・ボウルズ]]がおり、カミラがチャールズにダイアナとの結婚を薦めたと言われる。


=== チャールズ3世との出会い ===
=== 結婚 ===
[[ファイル:HRH Prince Charles 43 Allan Warren.jpg|180px|thumb|[[プリンス・オブ・ウェールズ|ウェールズ公]][[チャールズ3世|チャールズ]]、1972年当時]]
[[1981年]][[2月24日]]チャールズ王太子とダイアナの婚約が発表され、同年[[7月29日]]、20歳の時にチャールズ王太子とロンドンの[[セント・ポール大聖堂|セントポール大聖堂]]で結婚し、その模様は[[イギリス連邦]]をはじめとする世界各国で生中継され、その後も2人の動向は世界各国のマスコミで大きく報道されることとなった。
[[1977年]]6月の[[ロイヤルアスコット開催]](王室主催競馬)でダイアナの姉セーラが[[プリンス・オブ・ウェールズ|ウェールズ公]](皇太子)[[チャールズ3世|チャールズ]]と恋仲になった。皇太子はセーラの誘いを受けて11月にもスペンサー伯爵家の地所オルソープを訪問した。当時16歳のダイアナもウェスト・ヒース校の週末の休みでオルソープに滞在しており、狩猟場でチャールズ皇太子に紹介された。これが皇太子とダイアナの初めての出会いだった。しかしこの段階では特にロマンスが芽生えたわけではなかったようである。チャールズ皇太子の友人によればこの時に皇太子が抱いたダイアナへの感想は「陽気で明るい[[ティーンエイジャー]]」という程度のものだったという{{sfn|キャンベル|1992|pp=59, 62-63}}{{sfn|モートン|1997|pp=152-153}}{{sfn|ディンブルビー|1995|p=17}}{{efn2|この頃にダイアナや彼女の家族が考えていたダイアナの結婚相手はチャールズ皇太子の弟である[[アンドルー (ヨーク公)|アンドリュー王子]]だったという。彼とダイアナは年齢が近かったし、パークハウスでの幼少期にダイアナは王室のサンドリンガム邸に招かれた際、よく彼と一緒に遊んだためである{{sfn|キャンベル|1998|pp=23-24}}。}}。


ダイアナは1977年12月に{{仮リンク|Oレベル試験|en|GCE Ordinary Level}}に二度目の挑戦をするも失敗し{{efn2|Oレベル試験とは、標準(Ordinary)レベルの全国試験のことである。イギリスでは義務教育終了前の15歳から16歳ぐらいの子が7科目から10科目この試験を受けるのが一般的である。優秀な成績を収めた子は更に[[一般教育修了上級レベル|Aレベル試験]]を受験する。ダイアナはOレベル試験を二度受験しているが、二度とも全科目不合格になっている。全科目落ちるというのは劣等生の中でも極めて珍しいことである。しかも二度目の受験ではダイアナは4科目しか受けなかったが、それでも全部不合格だった{{sfn|デイビス|1992|pp=61, 67}}。}}、進学を断念した。父母の話し合いの結果、ダイアナは[[スイス]]・[[グシュタード|クシュタート]]近くにある[[フィニッシングスクール]]、{{仮リンク|アルパン・ヴィデマネット学院|en|Institut Alpin Videmanette}}に入れることになった{{sfn|キャンベル|1998|p=53}}{{sfn|モートン|1997|p=150}}。ダイアナは入学から6週間後にはイギリスに帰国している{{sfn|デイビス|1992|p=177}}{{efn2|この早期帰国について[[ノスタルジア|ホームシック]]にかかったとか、異性問題を起こしたとか様々な噂を呼んだが、同校の校長ハイジ・ヤルセンは「ダイアナははじめから一学期しか登録していなかったのです。楽しくやってましたからホームシックなんてとんでもありません。ユーモアのセンスで人気があり、友達がたくさんいました。シャイではありませんでした。どちらかというと控え目でしたが、誰とでもうまくやっていけました」と証言している。またこの学校でダイアナの同級生だったイギリス人女性ソフィー・キンブルも「イギリスから来た生徒は大抵数カ月しかいませんでした。為替レートは恐ろしいほどでとても高くついたから」と証言している(当時のイギリスは厳格な外国為替規制を行っていた){{sfn|キャンベル|1998|pp=53, 55}}。}}。
[[Image:Prince_Charles,_Princess_Diana,_Nancy_Reagan,_and_Ronald_Reagan_(1985).jpg|220px|thumb|[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ロナルド・レーガン]][[大統領]]夫妻とともに]]
[[1982年]]には長男[[ウィリアム (ケンブリッジ公)|ウィリアム・アーサー・フィリップ・ルイス]]が、[[1984年]]に次男[[ヘンリー・オブ・ウェールズ|ヘンリー・チャールズ・アルバート・デイヴィッド]]が生まれ、同じく世界各国で大きく報道された。


一方チャールズ皇太子と姉セーラは、1978年2月にクシュタート近くの[[クロスタース|クロスターズ]]に[[スキー]]旅行にやってきたが、この時セーラはマスコミの取材に対して「私は愛していない男性とは結婚しません。例え相手がクズ屋でもイギリス国王でもね。もし彼が求婚してきても断るでしょう。」と答えた。この発言の真意は定かでないが、繊細な皇太子はこれに傷ついて以降セーラと距離を置くようになった{{sfn|キャンベル|1992|pp=65-66}}{{sfn|モートン|1997|p=155}}。
その後もイギリス国王の世継ぎの妃としてチャールズとともに様々な王室の行事に出席するほか、[[日本]]や[[アメリカ合衆国|アメリカ]]など世界各国を訪れ、各地で「ダイアナ・フィーバー」と呼ばれるような熱狂的な歓迎を受けることとなった。併せて世界各国のマスコミに常に追いかけられる立場となり「理想のカップル」的な扱いを受けた。


=== ロンドンで独り暮らし ===
だが、将来イギリスの国王となることを念頭に、伝統に基づいたつつましやかな生活と公式行事への参加を常に優先するよう教育され、自らもそれを実践していたチャールズと、まだ20代前半で、公的な生活よりも自由奔放に[[セレブリティ]]との派手な付き合いを行うことを好んだダイアナとは、その生活様式や趣味、嗜好が合わず、次第に2人の間には深い溝ができていくこととなった。
スイスからオルソープ邸に戻ったダイアナは、これから何をするか全く決まっていなかったが、とりあえず継母レインが仕切っているオルソープ邸でくすぶっていたくなかった{{sfn|デイビス|1992|p=70}}。子供の面倒を見る仕事をしたいという漠然とした夢を持ってロンドンでの独り暮らしを希望したが、両親からは18歳までは独り暮らしは認めないと申し渡された。代わりにスペンサー伯爵家の友人であるジェレミー・ウィテカー少佐夫妻の[[ハンプシャー]]の邸宅に住み込んで、そこで子供の面倒や家事の手伝いをするようになった。


その後、母がロンドン・{{仮リンク|カドガン・スクウェア|en|Cadogan Square}}にある母のフラットで暮らすことを許可してくれたため、事実上ロンドンでの独り暮らし生活を始めることができた(母はスコットランドで日常生活を送っていたのでロンドンを訪れるのはまれだった)。ロンドンでのダイアナはパーティのウェイトレスをしたり、家政婦をするなどして生計を立てた{{sfn|モートン|1997|p=157}}{{sfn|デイビス|1992|pp=70-71}}{{efn2|ダイアナはほとんどの場合匿名で働いており、彼女の雇い主は彼女をスペンサー伯爵家の令嬢とは知らなかったようである{{sfn|デイビス|1992|p=71}}。}}。
=== 不倫と離婚 ===
しかも結婚後もチャールズはカミラとの交際をやめず、この秘密の交際にダイアナは早くから気付いていた。このため、彼女は手首を切る[[リストカット]]や腕や太ももを傷つける自傷行為、[[過食嘔吐]]などの[[摂食障害]]を起こすようになったことを、自叙伝『ダイアナの真実』や[[英国放送協会|BBCテレビ]]のインタビューで明かしている。当時「私は二人分の食事をとっているかもしれないわ」という言葉が、「三人目懐妊か」と世界中の新聞に掲載されたが、これは実際は妊娠ではなく過食症の状況を暗示していた。なお[[1988年]]から専門医による治療を受け、これらの症状は回復したという<ref>林 直樹 『よくわかる境界性パーソナリティ障害』〈主婦の友社〉2011年7月</ref>。


ダイアナは1978年11月に[[ウィンブルドン (ロンドン)|ウィンブルドン]]にある貴族の娘のための料理学校に入学し、そこで3か月ほど料理の勉強をした{{sfn|モートン|1997|pp=160-161}}{{sfn|キャンベル|1998|p=56}}。ダンサーになる夢は高身長のために断念したが、代わりにダンス講師を夢見るようになり、{{仮リンク|ブロンプトン・ロード|en|Brompton Road}}にあるダンス学校に通った。しかしこの学校で才能がないと言われたことに傷つき、また[[1979年]]3月に友人と行ったフランス・[[アルプス山脈|アルプス]]への[[スキー]]旅行で転倒して足を怪我したため、ダンス学校に通うのを止めた{{sfn|モートン|1997|pp=160-161}}{{sfn|デイビス|1992|pp=74-75}}。
チャールズとカミラの交際は世間に知れ渡り、これを機にダイアナも王室職員や大富豪の[[ドディ・アルファイド]]など、複数のさまざまな男性と大っぴらに付き合うようになった上に、マスコミにチャールズとの不仲について自らリークを行っていたとも伝えられた。夫婦は[[1992年]][[12月9日]]に別居し、[[1996年]][[8月28日]]に正式[[離婚]]した。


母のフラットが売却されたため、1979年7月にはコールハーン・コート(Coleherne Court)60番地のフラットを5万ポンドで購入してそこへ引っ越した。念願の自分のフラットを持ったダイアナは、維持費を稼ぐため、女友達にもこの部屋を貸して同居した(最終的には4人の共同生活になった)。彼女たちとの同居を通じてボーイフレンドもたくさんできるようになったが、チャールズ皇太子が現れるまで男性とは誰とも深い付き合いにはならなかったという{{sfn|モートン|1997|pp=162-164, 167}}{{sfn|デイビス|1992|pp=71-72}}。
ダイアナは離婚後は定冠詞のない「[[プリンセス・オブ・ウェールズ|Princess of Wales]](ウェールズ公妃)」を名乗ることと、[[ケンジントン宮殿]]の居住を認められ、その後は自由奔放に様々な男性との交際を行ったほか、[[地雷|対人地雷]]廃止運動や[[後天性免疫不全症候群|エイズ]]啓発活動などに関っていた。


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=== 事故死 ===
[[Image:Alma tunnel Paris.jpg|220px|thumb|事故現場。[[パリ]]・[[アルマ橋]]]]
[[1997年]][[8月31日]]に、[[フランス]]の[[首都]]の[[パリ]]で、当時の恋人である[[エジプト]]系イギリス人の[[大富豪]]のドディ・アルファイドとともに[[パパラッチ]]に追跡された果てに、乗車したパリのリッツ・[[ホテル]]の[[メルセデス・ベンツ W140|メルセデスベンツS280]]の[[ハイヤー]]がパリ市内のトンネル内で[[交通事故]]を起こし急逝した。36歳という若さであった。


=== チャールズ3世との交際 ===
ダイアナは事故直後は生存しており救急隊員に対応していたため、譫言で「Leave me alone(放っておいて・私に構わないで)」、「oh my god(なんていうことなの)」と言い続けていた。また、事故直後の現場にはなお9人ものパパラッチが居合わせていたが、救助活動にも手を貸さず彼女の写真を撮り続けていたという。
[[ファイル:Britannia (4532545688).jpg|250px|thumb|ダイアナとチャールズ皇太子が初めてキスをした場所、王室船「{{仮リンク|ブリタニア号|en|HMY Britannia}}」。]]
一方その頃、チャールズ皇太子(当時)も様々な女性と関係を持っていた。その一人がチャールズ皇太子の後妻となる[[カミラ (イギリス王妃)|カミラ]]だった。皇太子とカミラは[[1972年]]に出会っており、以来友達のような間柄だった。その後カミラは[[アンドリュー・パーカー・ボウルズ]]と結婚するも皇太子との関係は断続的に続いた。だが当時の[[マスメディア|マスコミ]]はカミラのことはほとんど掴んでいなかった{{sfn|デイビス|1992|pp=94-98}}。


当時マスコミが皇太子妃最有力候補として注目していたのは、皇太子の大叔父にあたる[[ルイス・マウントバッテン|マウントバッテン卿]]の孫娘で美しく聡明で人格的にも優れた{{仮リンク|アマンダ・ナッチブル|label=アマンダ・ナッチブル嬢|en|Lady Amanda Ellingworth}}だった。チャールズは[[1974年]]、アマンダが17歳の時に彼女の母に結婚の意思を告げるが、まだ若すぎると断られた<ref>[[#君塚 2020|君塚 2020]], p.139.</ref>。その後[[1979年]]8月にマウントバッテン卿がアイルランド民族主義団体「[[IRA暫定派|IRA]]」に暗殺された後に皇太子とアマンダの絆が強まっているように見えた{{sfn|モートン|1997|pp=169-172}}。そして皇太子はマウントバッテン卿を失って1ヶ月もしない時期に、悲劇的体験を共有できるアマンダにプロポーズをしたが、祖父をテロで失った彼女には王室に嫁ぐ気は無かった<ref>[[#君塚 2020|君塚 2020]], pp.139-140.</ref>。
その折シートベルトを着用しておらず、着用していれば生存可能だったとも言われる。


そんな中の1979年、王室のサンドリンガム邸で開かれたパーティにダイアナらスペンサー伯爵家令嬢たちが招かれた。チャールズ皇太子はスペンサー伯爵家の上の娘二人(セーラとジェーン)のことはよく知っていたが、まだ子供のダイアナにはこれまでほとんど関心を持たなかった。しかしこの時の再会で皇太子はダイアナが美しく育っていることを知った。皇太子とダイアナはダンスを踊って楽しんだ。この段階では恋愛関係には至らなかったものの、以降ダイアナは、しばしば皇太子から招待を受けるようになり、親しい友人になっていった{{sfn|デイビス|1992|pp=113-114}}。
BBCでは「足に重傷を追ったが生命は無事」と報道していたものの、その後間もなく事故の際に受けた[[外傷性脳損傷|脳損傷]]などが原因で死去した。ダイアナの急死のニュースは世界中のマスメディアがただちに各国へ配信、世界中が驚愕することとなった。


チャールズ皇太子の証言によれば、[[1980年]]7月に[[サセックス]]・{{仮リンク|ペットワース|en|Petworth}}近くの[[カントリー・ハウス]]で[[バーベキュー]]をしていた際にマウントバッテン卿の死を悲しんでいる皇太子をダイアナが「貴方の寂しさは理解できるし、貴方には誰かが必要だ」と慰めたことに皇太子は心打たれたという{{sfn|ディンブルビー|1995|p=17}}。
訃報が知れわたった翌日9月1日には、ダイアナの居住していたケンジントン宮殿の門前にはたくさんの人々が訪れ献花や死を悼むカードが捧げられ、各国のイギリス[[大使館]]には記帳台が設置された。ダイアナの遺体をフランスまで引き取りに行ったのは、かつての夫チャールズであった。


同年8月に[[ワイト島]]の港街{{仮リンク|カウズ (イギリス)|label=カウズ|en|Cowes}}で[[ヨット]]レース「{{仮リンク|カウズ・ウィーク|en|Cowes Week}}」が開催された際、ダイアナは王室船「{{仮リンク|ブリタニア号|en|HMY Britannia}}」に招待された{{sfn|モートン|1997|pp=175-176}}。この船上で皇太子とダイアナは初めて[[接吻|キス]]をした{{sfn|デイビス|1992|p=115}}。
=== 「国民葬」 ===
[[国葬]]にすべきとの世論がすぐにイギリス国内で高まったが、王室の伝統に鑑みて、[[トニー・ブレア]]首相は「国民葬」にする旨を発表した。[[9月6日]]、[[ウェストミンスター寺院]]で[[国葬]]に準じた盛大な葬儀が行われた。[[バッキンガム宮殿]]に[[半旗]]が掲げられないことから「王室はダイアナの死を悼んでない」との非難も沸きあがった(当時の世論調査では王室について廃止意見が存続意見を上回った)。


皇太子が80万ポンドで購入したばかりの[[グロスタシャー]]にある{{仮リンク|ハイグローヴ・ハウス|label=ハイグローヴ邸|en|Highgrove House}}にも頻繁に招かれるようになり、さらにパーカー・ボウルズ家にも連れて行かれ、カミラに紹介された。この際に皇太子はダイアナと結婚することについてカミラの意見を聞いたが、カミラは推奨した。以降、皇太子はダイアナとの結婚を本気で考えるようになったという{{sfn|デイビス|1992|p=116}}。
それまでバッキンガム宮殿には半旗を掲げる伝統は無く、またそもそもバッキンガム宮殿の王室旗の掲揚は国王が宮殿にいる事を示すものであって、女王はスコットランドに滞在していたことから、伝統に従えば旗を掲げてはならない状況だった。しかし、世論の王室への風当たりが強まるのを見て、これまでの伝統は覆された。女王が葬儀に出発し宮殿を出て、掲揚していた王室旗を下ろしたあとに、あらたに[[ユニオンジャック]]が半旗として掲げられた。


=== マスコミの追跡の始まり ===
王室旗に包まれたダイアナの棺は衛兵に担がれ、ケンジントン宮殿からウェストミンスター寺院に移された。葬列には前の夫のチャールズと2人の息子、ウィリアムとヘンリーも参加した。3人は喪服ではなく紺のスーツを着用していた。沿道には多くの人々が集まり、ダイアナの死を悼んだ。エリザベス女王も沿道に立ち、棺が目前を通過すると頭を下げた。
1980年秋にはマスコミが皇太子とダイアナの関係を突きとめた。この時から昼夜問わずマスコミがダイアナのところへ押し寄せてくるようになり、ダイアナに私生活は無くなった。当時ダイアナが勤務していた[[幼稚園]]にまでマスコミがやって来るようになった。彼女の赤い[[ローバー・メトロ]]は何台ものマスコミの車から追跡を受けるようになった。ダイアナ報道は過熱の一途をたどり、やがて[[タブロイド]]紙『{{仮リンク|サンデー・ミラー|en|Sunday Mirror}}』紙が「ダイアナが夜中の二時に停車中の[[お召し列車]]に乗り込み、皇太子と一夜を共にした」という[[捏造]]を報じるに至った{{efn2|王室報道担当官は事実無根として同紙にこの記事の撤回を要求したが、当時同紙は捏造記事であることを否認して撤回を拒否した。しかしお召し列車の警備にあたっていた警察官にダイアナの姿を目撃した者はなく、現在ではこの記事の関係者全員が捏造記事だったことを認めている{{sfn|デイビス|1992|pp=118-119}}。}}。ダイアナはこの記事にひどく傷つき、皇太子も不快に感じた{{sfn|モートン|1997|p=180}}{{sfn|デイビス|1992|pp=117-119}}。


娘を不憫に思った母フランセスは12月に『[[タイムズ]]』紙に宛ててプライベート無視のマスコミ報道を批判する手紙を送った。これがきっかけとなり[[イギリスの議会|英国議会]]も「ダイアナ・スペンサー嬢に対するマスコミの扱いを遺憾に思う」とする批判動議を決議した。だがマスコミはスクープを物にしようとダイアナ追跡を続けた。ダイアナはルームメイトの協力も得て、様々な手段でマスコミを煙に巻いては、コールハーン・コートの自宅を脱出して皇太子に会いに行った{{sfn|モートン|1997|pp=181-182}}。
=== 埋葬 ===
[[Image:Paris sculpture pont de l'alma.jpg|220px|thumb|事故現場に建つ記念碑「自由の炎(The Flame of Liberty)」]]
遺体は[[ノーサンプトンシャー州|ノーサンプトン州]]オルソープのスペンサー家の領地内にある池の中の小島に設けられた墓所に埋葬された。ダイアナの葬儀時、友人の[[エルトン・ジョン]]が、[[マリリン・モンロー]]への追悼曲であった「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」の歌詞を書き直した「キャンドル・イン・ザ・ウィンド1997」を生演奏した。


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生前「人々のプリンセスでありたい」と述べていたダイアナだが、その通り、国民の多くからは現在も“[[イングランド]]の[[バラ]]”(「キャンドル・イン・ザ・ウィンド1997」には「Good Bye England's Rose」という歌詞が登場する)として慕われている。なお、ダイアナの墓所は部外者による盗掘を防ぐために墓碑はなく、正確な位置を知っているのは一部の関係者だけである。


=== チャールズ3世との婚約 ===
死後、くしくも事故現場のちょうど真上に当たる陸橋にあった記念碑「自由の炎(The Flame of Liberty)」は、ダイアナ妃の事故死により半ば慰霊碑として観光スポットの一つとなっている。後に禁止されるまで献花が絶えず、また自由の炎のある場所はダイアナの死後、ダイアナがファンだった[[マリア・カラス]]にちなんで「マリア・カラス広場」と命名されている。
[[ファイル:Buckingham Palace (255640837).jpg|thumb|250px|婚約から結婚の間の5ヶ月間を暮らしていた[[バッキンガム宮殿]]]]
すでに30過ぎの皇太子は結婚を急がねばならず、そういう中で家柄もよく、マスコミのネタにされそうな過去(恋愛経験)もなく、また当時は控えめな女性に見えたダイアナは無難な選択肢に思えた。皇太子の親族や取り巻きの多くもこの結婚に賛成か、少なくとも反対はしなかった{{sfn|ディンブルビー|1995|pp=19-20}}{{efn2|数少ない反対者はマウントバッテン卿の孫{{仮リンク|ノートン・ナッチブル (第8代ブラボーン男爵)|label=ブラボーン卿|en|Norton Knatchbull, 8th Baron Brabourne}}夫人ペニーであった。ペニーによれば、この頃ダイアナは「もし、うまいこと[[プリンセス・オブ・ウェールズ]]になれたら」といった表現をしていたと言い、それを聞いたペニーはダイアナは舞台の[[オーディション]]でも受けているような感覚で、皇太子妃になることの重要性を理解していないと感じたという{{sfn|ディンブルビー|1995|p=20}}。}}。


[[1981年]][[2月6日]]にチャールズ皇太子が[[ウィンザー城]]でダイアナに求婚した。皇太子は「スキー旅行に出てる間、どんなに貴女に会いたかったことか」と述べたうえで「私と結婚してほしい」と簡潔に求婚したが、ダイアナは冗談だと思って笑っていたという。皇太子は真剣な求婚であることを強調し、「貴女はいつの日か王妃となるのだ」と述べたという。ダイアナはこのプロポーズを受け入れた{{sfn|モートン|1997|pp=184-185}}。
== ダイアナの死が陰謀によるものだとする説(陰謀論) ==
=== 「ダイアナ謀殺説」 ===
ダイアナ妃の最後の恋人は、[[武器商人]]でありロンドンの名門百貨店[[ハロッズ]]およびパリの[[オテル・リッツ・パリ|リッツ・ホテル]]の[[エジプト]]人オーナー[[モハメド・アルファイド]]の息子[[ドディ・アルファイド]]であった。事故当時も車に同席しており、彼も同時に死亡している。このことからアラブ世界などで(ヨーロッパ他でも)、早い段階から「[[イギリス情報局秘密情報部]](MI6)により暗殺されたのだ」、[[陰謀]]だとする説([[陰謀説]])が広がった。動機としては、


婚約発表の前日の2月23日夜、ダイアナはルームメイトたちに別れを告げた後、[[スコットランドヤード]]のポール・オフィサー警部の警備のもと、コールハーン・コートを出た。この際に警部は「今夜が貴女の人生で最後の自由な夜ですよ。精一杯お楽しみなさい」と述べたといい、ダイアナは「剣で心臓を貫かれたようでした」と回顧している{{sfn|モートン|1997|pp=187-188}}。
# 事故当時、ダイアナ妃はアルファイドの子どもを妊娠しており、出生後アルファイド一族によって将来のイギリス国王の異父弟としての地位を利用される事を恐れた。
# 事故の数か月前にダイアナ妃の実母が[[カトリック教会|カトリック]]に[[改宗]]しており、ダイアナ妃を通じて王太子らに影響を与える事を恐れたため。
# アルファイドは[[アラブ人]]の[[イスラム教徒]]であり、ダイアナ妃を通じて王太子らに影響を与える事を恐れたため。


ダイアナは[[エリザベス・ボーズ=ライアン|エリザベス皇太后]]の[[クラレンス邸]]での一時滞在を経て[[バッキンガム宮殿]]へ移り、結婚までそこで過ごしたが、宮殿の慇懃なよそよそしさに監獄に入ったかのような息苦しさを感じるようになった{{efn2|ダイアナはオルソープ邸にいた頃、何もやることがなくてストレスがたまると通りすがった使用人を捕まえて(誰も通りすがらなかったら台所へ行って)おしゃべりをした。貴族の邸宅ではそれでよくてもバッキンガム宮殿ではそれは通用しなかった。バッキンガム宮殿内は全てが身分で動いており、その分をわきまえることが何よりも重要だった。ダイアナも皇太子の近侍からそのことを注意され、ダイアナが台所へ行こうとしても使用人から「ここから先は手前どもの領分、そこから先が妃殿下の領分です」と立ち入りを断られた。また元来勉強が苦手なダイアナは王室史などロイヤルファミリー向けの[[帝王学]]を嫌がっていたという{{sfn|キャンベル|1992|pp=168-169}}。}}。また皇太子とカミラの関係に敏感になっていった{{efn2|皇太子はカミラとは親しい友人だが、それ以上の関係ではないことをダイアナに説明したが、ダイアナは信じなかったという{{sfn|ディンブルビー|1995|p=25}}。}}。そのストレスでこの頃から後の[[拒食症]]の初期症状を見せるようになった。飢餓状態となり、婚約発表時72.5センチあったウェストは結婚式までに57.5センチまで落ちた{{sfn|ディンブルビー|1995|pp=22-23}}{{sfn|モートン|1997|pp=189-198, 200}}。
などが取り上げられた。だが、これらの動機に対する証拠は一切無いとし「[[陰謀論]]に過ぎない」と見做している人々も多い。


それでも公的な社交場に出るときのダイアナはリラックスして楽しんでいるかのようだった。未来の義弟[[アンドルー (ヨーク公)|アンドリュー王子]](皇太子の弟)の21歳誕生日パーティでは、アンドリュー王子がイギリスで一番の資産家の[[ナタリア・グローヴナー (ウェストミンスター公爵夫人)|ウェストミンスター公爵夫人]]がどこにいるのか尋ねたのに対して、ダイアナは「まあアンドリュー。有名な方のお名前をさも親しいように言うのはおやめなさい」とジョークを飛ばして場を和ませた{{sfn|モートン|1997|p=195}}。
事故の際、ダイアナの運転手は[[抗うつ薬]]を飲んでいた上、相当量の飲酒もしていたとする媒体もあった。直前に撮影された映像では、運転手が特に酩酊している様子がないことから、服薬と飲酒の程度については疑問が残っている。


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だが、パパラッチの追跡を逃れようと、160キロ以上という非常に高速でパリ中心部の一般道路を走行した末、トンネル直前で合流路から進入してきたパパラッチが所有する白い[[フィアット・ウーノ]]をよけようとして接触し、トンネル内の道路側壁に激突したという事実は証明されている{{要出典|date=2010年1月}}という。この白塗りウーノの運転者は未だに当局に出頭していない。


=== 結婚式 ===
=== 警察(政府側)による調査と発表 ===
[[ファイル:St Paul's Cathedral London02-2.jpg|180px|thumb|皇太子とダイアナの結婚式が挙行された[[セント・ポール大聖堂]]。]]
事故現場で捜査に当たった[[パリ警視庁]]は否定しているが、「ダイアナは謀殺された」とする説は根強く残っている。また、ダイアナと交際していた王室職員の事故死についても、「あれは殺されたのだ」とダイアナ自身が語ったテープが最近公表されたことから、イギリス検察当局も再調査を開始しており、チャールズ皇太子にも事情聴取が行われた。審問は2004年1月に開廷された。
王室儀式の準備は{{仮リンク|宮内長官 (イギリス)|label=宮内長官|en|Lord Chamberlain}}の任務だが、結婚式の準備はチャールズ皇太子自らが取り仕切り、宮内長官{{仮リンク|チャールズ・マクレーン (マクレーン男爵)|label=マクレーン卿|en|Charles Maclean, Baron Maclean}}に様々な指示を出した。皇太子の決定により結婚式は1981年[[7月29日]]に[[セント・ポール大聖堂]]で挙行されることになった。ここはバッキンガム宮殿から離れているため警備上の不安があるものの、[[ウェストミンスター寺院]]よりも広いので多くの人間を収容できた。式で流す音楽も皇太子が選定し、[[キリ・テ・カナワ]]に祝賀の歌が依頼されることになった。[[聖歌]]も皇太子が選定した。ダイアナは式の準備にはほとんど関与しなかったが、彼女の好きな愛国歌『[[我は汝に誓う、我が祖国よ]]』は曲目に入れてもらえた。招待客については基本的に女王が取りきめた(ダイアナと彼女の父スペンサー卿にも一応提案権はあった){{sfn|デイビス|1992|pp=137-138}}。


祝典は実質的に結婚式前夜の[[7月23日]]夜から始まっていた。[[ハイド・パーク (ロンドン)|ハイド・パーク]]では1万2000発の花火が打ち上げられ、近衛隊と{{仮リンク|モリストン・オルペウス合唱団|en|Morriston Orpheus Choir}}が聖歌の合同演奏を行った。英国中がお祭り騒ぎになった。イギリスがこれほど全国民あげての祝賀ムードに包まれたのは[[1953年]]のエリザベス2世戴冠式以来のことであったという{{sfn|デイビス|1992|pp=140-141}}。
捜査は2006年12月まで続けられ、[[ロンドン警視庁]]前警視総監ジョン・スティーブンズが12月14日に約3年にわたる調査の結果を発表。「運転手の飲酒運転と無謀運転が事故の原因であり、殺害の[[陰謀]]はなかった」と暗殺説を否定した。同時に事故当時ダイアナが妊娠していたとする説も公式に否定された。


結婚式前夜、ダイアナはクラレンス邸に入り、早めに就寝した。翌日朝6時におきたダイアナは、[[風呂|浴槽]]につかった後、朝食をたっぷりと取り、美容師や[[メイクアップアーティスト]]に整髪や化粧をしてもらい、[[ウェディングドレス]]を着用した。ウェディングドレスは、英国製[[絹|シルク]]でできたこの上なく豪華なものだった。そのドレスの裾は王室史上最長の7.6メートルにも達した<ref name="名前なし-20240628121447">[[#君塚 2020|君塚 2020]], p.142.</ref>。[[ティアラ]]は実家スペンサー伯爵家伝来の[[ダイヤモンド]]の物、[[イヤリング]]は母から贈られたダイヤモンドの物を着用した。用意が済むと父スペンサー卿とともに馬車に乗り込み、群衆に手を振りながらセント・ポール大聖堂へ向かった。大聖堂には世界中の君主、王族、大統領、首相などが集合していた。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]からは[[アメリカ合衆国のファーストレディ|ファーストレディ]]の[[ナンシー・レーガン]]、[[日本]]からは[[上皇明仁|皇太子明仁親王]]と[[上皇后美智子|美智子皇太子妃]]が出席していた<ref name="名前なし-20240628121447"/>。大聖堂に到着したダイアナは、[[バージンロード]]を父とともにゆっくり進み、[[イギリス海軍|王立海軍]]礼服を着用して待つチャールズ皇太子の横に立った。カンタベリー大主教ロバート・ランシーの司式で、結婚の誓いが行われた<ref name="名前なし-20240628121447"/>。この結婚式の模様はテレビ中継され、全世界70か国7億5000万人もの人々が見守っていた。(日本ではNHKが放送した<ref>{{NHKアーカイブス|A198107291735001300100|チャールズ皇太子ご結婚(衛星中継)}}</ref>。)式に出席していた旧[[ユーゴスラビア王国|ユーゴスラビア]]王族のカタリナ王女は「ダイアナが神々しいほどに美しかった」と回想している。ダイアナが文字通り全世界の人々の視線を釘付けにした瞬間だった{{sfn|モートン|1997|pp=198-200}}{{sfn|キャンベル|1992|pp=180-185}}{{sfn|デイビス|1992|pp=141-146}}。
2007年1月8日に、ダイアナの死因究明の審問が3年ぶりに再開された。検視官は2006年末の資料その他を基に、事故原因の特定を進めた。スティーブンス前警視総監は、「報告書が審問結果を予断しているわけではない」、と述べ、イギリス警察は、ダイアナの妊娠説とアルファイドとの婚約説をきっぱり否定し国民に報告した。


式を終えたダイアナと皇太子は国民の歓声を受けながら馬車でバッキンガム宮殿へ戻った。宮殿の庭にも国旗を振りながら「ダイ(ダイアナ)万歳!チャーリー(チャールズ皇太子)万歳!」と叫ぶ国民が集まっていた。その歓声にこたえて王族一同は[[バルコニー]]に出て国民に手を振って挨拶した。皇太子とダイアナはキスして見せ、群衆はそれに拍手喝采を送った{{sfn|デイビス|1992|pp=140-141}}。
しかし、イギリス国内には陰謀説が根強くあり、2013年8月17日、[[イギリス陸軍]][[特殊部隊]]「[[特殊空挺部隊|SAS]]」所属の[[狙撃手|狙撃兵]]の裁判で、SASがダイアナ元妃殺害に関与したという情報が発覚し、[[ロンドン警視庁]]が信憑性を確かめるために調査が開始している<ref>{{cite news |title=ダイアナ元妃の死は「おぜん立てされた」 ロンドン警視庁の新情報「英特殊部隊関与」 |newspaper=[[産経新聞]] |date=2013-8-19|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130819/crm13081908440000-n1.htm |accessdate=2013-8-31}}</ref>。


[[新婚旅行]]は王室船ブリタニア号での[[地中海]]と[[エーゲ海]]の[[クルージング]]だった{{sfn|キャンベル|1992|pp=187-191}}。マスコミに追いまわされないよう王立海軍の協力を得て極秘裏に行われた。英国マスコミは[[ギリシャ]]に飛んで皇太子夫妻を探し回ったが、ついに発見できなかった{{sfn|デイビス|1992|p=152}}。
=== 政府以外からの反応 ===
しかし、アルファイドがダイアナへのプロポーズのために婚約指輪をオーダーした高級宝石店が、2人の近日中の婚約の予定を認め、その証拠としてアルファイドが婚約指輪をピックアップした瞬間の防犯カメラの映像と、その指輪の写真を世界中に同時公開した。


{{-}}
政府側の見解では、最終的にダイアナの乗った車は「無謀な高速走行による事故」と断定され、陰謀説は否定された形となっている。しかし疑惑を完全に払拭したとはいえないこともあり、政府側ではない見解では、陰謀だとする説(「陰謀論」)を支持したり唱える人が後を絶たない状況である。


=== 女王との同居生活 ===
== 称号および敬称 ==
ハネムーンから帰国した皇太子夫妻は8月から10月下旬まで女王が滞在中の[[スコットランド]]・[[バルモラル城]]で休暇生活に入った{{sfn|モートン|1997|p=204}}。しかしバルモラル城での女王との同居生活は全てを女王に合わせなければならないため、ダイアナにとっては息苦しかった{{sfn|デイビス|1992|pp=155-157}}{{efn2|女王との同居生活で特にダイアナが嫌がっていたのが、毎晩開かれる女王の晩餐会だった。晩餐会は客の顔ぶれや話題にもよるが、大抵は1時間から2時間かけてゆっくり行われる。食事の終了を決めるのは女王であり、それまでは誰も席を立つことは許されない。皇太子はそれに慣れていたが、ダイアナはこれまで早々に食事を済ませて自分のやりたいことをする生活を送ってきたため、我慢できなかった。またこのような場でのダイアナは大体の場合、皇太子と切り離され、自分と接点のない立派な男性二人に挟まれる。ダイアナは自分より頭のよさそうな人間と話してボロを出し、女王の前で馬鹿げたことを口走ってしまう事態を恐れていたため、こういう場では大抵沈黙していた。ダイアナはかつてのルームメイトに送った手紙の中で「ここでは私は完全に場違いのような感じがします。ときどき、いったい私はどうしてこんな羽目になっちゃったんだろうと思うことがあります。とても肩身が狭くて、寂しくて、無力な気がします」と吐露している{{sfn|デイビス|1992|pp=155-156}}。}}。またダイアナは結婚式が終わればマスコミや世論の自分への関心も無くなると思っていたが、ダイアナ人気はその後も長く続き、様々な雑誌の表紙を彼女が飾り続け、常にマスコミの目を気にしなければならないプレッシャーが続いた。また皇太子とカミラの関係も相変わらず気になった。ダイアナのストレスと過食症はひどくなる一方で嘔吐を繰り返した{{sfn|モートン|1997|pp=204-206, 215-216}}。他人の面前で泣いたり、苛立ったりすることも増えた。幼い頃から感情を出さない訓練を受けている皇太子は、彼女の感情爆発にどう対応すればいいのか分からず、困惑させられることが多かった{{sfn|デイビス|1992|pp=159-160}}。
[[Image:Coat of Arms of Diana, Princess of Wales (1981-1996).svg|250px|thumb|ウェールズ公妃ダイアナの[[紋章]]]]
チャールズ王太子との離婚に伴い、ダイアナは「Her Royal Highness the Princess of Wales(ウェールズ公妃殿下)」との称号および敬称は失ったが、「Diana, Princess of Wales(ウェールズ公妃ダイアナ)」と称することは許された。これは有爵者と離婚した女性が、離婚後も(再婚までは)前夫の爵位の女性形(ただし、離婚前とは異なり定冠詞はつかない)を一種の姓として名乗ることができる慣習によるものであり、王室側とダイアナ側での協議により決定された。[[2005年]]にチャールズと結婚した[[カミラ・パーカー・ボウルズ|カミラ]]は、[[プリンス・オブ・ウェールズ]]の妻として自動的に(定冠詞付きの)「The Princess of Wales」(ウェールズ公妃)の称号を与えられたものの、国民のダイアナ人気に配慮しこの称号の使用を辞退し、夫の有する他の称号に基づいて「The Duchess of Cornwall」([[コーンウォール公|コーンウォール公爵]]夫人)([[スコットランド]]においては「The Duchess of Rothesay」([[ロスシー公爵]]夫人)の称号を名乗っている。


ダイアナは皇太子とともに[[ケンジントン宮殿]]{{efn2|ケンジントン宮殿は環境省が管理し、王室が貸している屋敷の集合体である。女王の裁量で貸し出され、主に親戚や廷臣、友人などが入居する。賃料は払わなくてよいが、女王が立ち退きを命じれば直ちに出て行かねばならない{{sfn|キャンベル|1992|p=207}}。}}で暮らすことになっていたが、同宮殿の改修工事が完了するまではバッキンガム宮殿で女王との同居を続けなければならなかった。ダイアナは早く女王から離れたがっており、改修工事を急がせ、[[1982年]]5月からそこで生活できるようになった{{sfn|デイビス|1992|p=207}}。
[[イングランド]]におけるダイアナの称号および敬称は、彼女の生涯にわたって次のように変わった。
* ダイアナ・フランシス・スペンサー令嬢 - The Honourable Diana Frances Spencer (1961年7月1日-1975年6月9日:出生から父の伯爵位相続まで)
* ダイアナ・フランシス・スペンサー令嬢 - The Lady Diana Frances Spencer (1975年6月9日-1981年7月29日:父の伯爵位相続から結婚まで)
* ウェールズ公妃殿下(スコットランドではロスシー公爵夫人) - Her Royal Highness The Princess of Wales (Her Royal Highness The Duchess of Rothesay) (1981年7月29日-1996年8月28日:結婚から離婚まで)
* (元)ウェールズ公妃ダイアナ - Diana, Princess of Wales (1996年8月28日-1997年8月31日:離婚から死去まで)


=== ケンジントン宮殿での生活 ===
== 主な文献 ==
[[ファイル:Kensington Palace, the South Front - geograph.org.uk - 287402.jpg|250px|thumb|[[ケンジントン宮殿]]]]
{{参照方法|section=1|date=2013-08-18}}
皇太子とともにケンジントン宮殿に移ったダイアナは今度こそ皇太子と二人っきりの生活を始められると思っていたが、皇太子には膨大な公務があり、また公務以外にも最低週一回は[[コーンウォール公領]]の統治業務にあたる必要があった。そのため皇太子とダイアナが私的に一緒にいられる時間はほとんどなく、寝る時だけ一緒という日もあった。国王の座に就く時が来るべく躾けられていた皇太子は幼い頃からプライベートのない生活に慣れていたが、ダイアナはそうではなかった{{sfn|デイビス|1992|p=162}}。ダイアナは皇太子にいつも自分と一緒にいて愛を囁いてほしがっていた{{sfn|デイビス|1992|pp=161-162, 194-195, 207}}{{sfn|キャンベル|1992|pp=194-197}}が、将来の国王と結婚した身にはそれが困難であることをダイアナは理解していなかった。
[[画像:ArmenianStamps-140.jpg|thumb|250x|1998年のアルメニアの切手]]
* アンドリュー・モートン、入江真佐子訳 『ダイアナ妃の真実 彼女自身の言葉による』 [[早川書房]] 1992年、新版1997年
*: 新版は、事故死直後に刊行、本人インタビューである事が明かされた。
* アンドリュー・モートン、木村博江・石戸谷滋訳 『ダイアナ妃13年目の選択』 [[文藝春秋]]、1994年
* ニコラス・デイヴィス、[[広瀬順弘]]訳 『ダイアナ妃 ケンジントン宮殿の反乱』 [[読売新聞社]]、1992年
* コリン・キャンベル、平形澄子訳 『ダイアナ妃 その秘められた素顔と私生活』 イースト・プレス 1992年
* ポール・バレル、川崎麻生訳 『ダイアナ妃 遺された秘密』 [[ワニブックス]]、2003年
*: ダイアナ妃の元執事、未公開の手紙や写真を掲載。
* トレバー・リース・ジョーンズ、高月園子訳 『そして薔薇は散った ダイアナ妃事故3年目の真実』 ショパン、2000年
*: 著者は事故時のボディーガードで唯一の生存者。
* ティナ・ブラウン 『ダイアナ クロニクル <small>伝説のプリンセス 最後の真実</small>』 [[中央公論新社]]、2011年
*: 菊池由美・笹山裕子・村上利佳・高橋美江訳(発行・マーブルトロン)


そのためケンジントン宮殿に入ってからのダイアナは、公務の同行を拒否したり{{sfn|デイビス|1992|p=162}}、皇太子が公務に出るのを阻止しようとしたり{{efn2|皇太子に仕えたスティーヴン・バリーによれば1981年12月にダイアナが皇太子の書斎に入って来て、気分が悪いのでどこにも行かないで側にいてほしいと皇太子にお願いしたことがあるという。それに対して皇太子は医者を呼ぶから横になっているよう言ったが、ダイアナは医者など必要ない、貴方が側にいてくれればいいと食い下がった。皇太子は公務があるからでかけなければならないと穏やかに説得したが、ダイアナはそれに怒り心頭になり、「公務?貴方の頭の中にあるのは、クソ忌々しい公務だけなのね。そろそろ私のことを考えて下さってもいい頃だわ。卑しくも私は貴方の妻なのですから」とわめいて部屋を飛び出してしまったという。それを見た皇太子は首を振りながら足元を見つめていたという。何も言わなかったが、深刻な顔をしていたという{{sfn|デイビス|1992|pp=164-165}}。}}、皇太子と親しい使用人を宮殿から追い出したり{{efn2|ダイアナは皇太子の側近たちが自分から皇太子を遠ざけていると思い込んでいた。<br />そのため、皇太子個人秘書(Private Secretary to the Prince of Wales)の{{仮リンク|エドワード・アディーン|en|Edward Adeane}}や皇太子近侍のスティーヴン・バリー、皇太子個人秘書補佐でダイアナ個人秘書となった{{仮リンク|オリバー・エヴェレット|en|Oliver Everett}}、執事のアラン・フィッシャー、王子二人の乳母バーバラ・バーンズ、警護のポール・オフィサー警部やジョン・マクリーン警部補などの使用人たちが次々とダイアナの不興を買って辞職・解雇に追い込まれていったという{{sfn|デイビス|1992|pp=161-162, 165-166, 175-198}}{{sfn|キャンベル|1992|pp=232-235}}。ただしダイアナ自身は「どの解雇も私のせいではない」と主張している{{sfn|モートン|1997|p=221}}。}}、[[自傷行為]]をしたり{{sfn|ディンブルビー|1995|p=66}}{{efn2|ダイアナの自傷行為は[[1988年]]まで続いたという。1988年から専門医による治療を受け、その症状は回復したという<ref>{{Cite book|和書|author=林直樹|authorlink=林直樹|date=2011-07-29|title=よくわかる境界性パーソナリティ障害|series=セレクトBOOKS|publisher=[[主婦の友社]]|isbn=978-4-0727-8965-0|page=12}}</ref>。}}、一人でショッピングに出ようとして王室警備隊に止められるなど{{sfn|デイビス|1992|pp=162-163}}、身勝手な反抗が急増した。
== 逸話 ==
[[Image:John Travolta and Princess Diana.jpg|300px|thumb|[[ジョン・トラボルタ]]とダンスを踊るダイアナ]]
{{Double image aside|right|Rosa Princess of Wales01.jpg|150|Rosa Diana Princess of Wales01.jpg|150|<small>[[バラ]] 「プリンセス・オブ・ウェールズ」<br/>(FL) [[:en:Harkness Roses|ハークネス]] (1997)</small>|<small>バラ 「ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ」<br/>(HT) [[:en:Jackson & Perkins Company|J&P]] (1999)</small>}}


皇太子は王室の環境になれていない間は仕方ないと考え、ダイアナの我がままにもなるべく付き合っていたが、やがてダイアナがいつまでも王室に適応しないのにうんざりさせられてきた{{sfn|デイビス|1992|p=194}}。
* [[1986年]]5月に夫のチャールズ皇太子とともに来日しダイアナ旋風が沸き起こった。東京・青山で行われたパレードでは約9万人が沿道に集まり2人を歓迎した。(しかし、その時には既に2人の関係は危機的状況に陥っていた)<ref>http://wwwz.fujitv.co.jp/diana/biography.html

{{リンク切れ|date=2011年12月}}</ref>。
{{-}}
* 1986年5月1日に日本の[[All-nippon News Network|テレビ朝日系列]]で放送された特別番組『華麗!!ダイアナ妃のすべて見せます』の中で、少女時代のダイアナを主人公としたアニメ『[[虹のかなたへ! 少女ダイアナ物語]]』が放送されている。キャストはダイアナ([[島本須美]])、ダイアナの祖母レディ・ファーモイ([[麻生美代子]])、ダイアナの父([[徳丸完]])、ダイアナの母([[上田みゆき (声優)|上田みゆき]])、チャールズ皇太子([[堀内賢雄]])等。その後のソフト化は行われていない。

* [[2002年]][[英国放送協会|BBC]]が行った「[[100名の最も偉大な英国人|偉大な英国人]]」投票で第3位となった。
=== ウィリアム皇太子とヘンリー王子の誕生 ===
* 「[[ディアーナ|ダイアナ]]」とは[[ローマ神話]]での狩猟の女神の名前である。それを踏まえ、「狩猟の女神の名を持つあなたが、人々に追い掛け回されるのはなんという皮肉であろう」とダイアナの弟のスペンサーは弔辞を述べた。
[[Image:Reagan with Charles and Diana C31901-3.jpg|250px|thumb|1985年の訪米時、[[ホワイトハウス]]で[[ロナルド・レーガン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]夫妻とともに]]
* 1995年に、[[英国放送協会|BBC]]テレビのインタビューで自らが自分の腕と足を傷つける、[[自傷行為]]を行っていた事、拒食・過食の状態にあったことを告白した。これによって自傷行為・過食症に対する関心は強まった。ただし、この番組のインタビュアーの[[マーティン・バシール]]は巧みな話術で知られ、ダイアナ本人が意図して言ったことなのかどうかは不明である。だが、現在知られる彼女のイメージはこの番組の影響が大きい。
ケンジントン宮殿でそのような生活を送りながらもダイアナは二人の王子を出産した。
* また、チャールズの不倫とそれに対する自傷行為などを、自分に好意的な[[報道機関|マスコミ]]に対して自ら積極的に売り込んでいたことを暴露されている。

* 首相官邸([[ダウニング街10番地]])に電話して「[[君主制廃止論|君主制反対]]」と言ったことがある。
[[1981年]]10月に最初の妊娠が判明した。王室はこれまでバッキンガム宮殿内で出産するのが伝統だったが、ダイアナは最新医療設備のある病院での出産を希望し、西ロンドンの{{仮リンク|セント・メアリー病院|en|St Mary's Hospital, London}}での出産を決めた。出産に際しては皇太子も付きっきりになり、ダイアナの手を握りながら励ましの言葉をかけ続けたという。ダイアナは[[1982年]][[6月21日]]午後9時3分に第2王位継承権者となる長男を出産した。この長男には「ウィリアム・アーサー・フィリップ・ルイス」という名前が与えられた(現在の[[ウィリアム (プリンス・オブ・ウェールズ)|ウィリアム皇太子]]){{sfn|ディンブルビー|1995|pp=42-43}}{{sfn|キャンベル|1992|pp=235-240}}。ちょうど[[フォークランド紛争]]の戦勝と重なり、イギリス国民の祝賀気分は高揚した{{sfn|キャンベル|1998|p=149}}<ref>[[#君塚 2020|君塚 2020]], p.145.</ref>。
* ダイアナのロングヘアが途中からショートカットに変わったのは[[イギリス陸軍]]の特殊空挺部隊([[SAS (イギリス陸軍)|SAS]])のキルハウス(Kill House 家宅捜索訓練用モックアップ)を見学中、フラッシュバン(特殊閃光音響手榴弾)によって髪の先が焦げたためである。彼女は見学前に一切の事故に対しSASを免責とするという証書にサインしていたため、隊員が処分されることはなかった。

* 離婚後、王族として自国のデザイナーの服を着る、という縛りがなくなり、[[ジャンニ・ヴェルサーチ]]などのトレンドに乗った服を身につけるようになり、ファッション・アイコンとして知られるようになった。のちに、息子ウィリアムの「ママは服をいっぱい持っているけど、着ないなら、チャリティーに寄付したら?」の一言で、所有するドレス類をチャリティー・オークションにかけ、収益金を慈善団体に寄付した。
ウィリアム王子の出産後、皇太子は秘書官たちの反対を押し切って公務への出席を減らし、ダイアナと一緒に王子を育てることに専念した。この時期がダイアナにとって最も幸せな家族団欒の日々であったという{{sfn|キャンベル|1992|pp=240-244}}。
* 死後「イングランドのバラ」と呼ばれた彼女だが、亡くなる直前の[[1997年]]にイギリスのハークネス社がバラの品種を彼女に献呈。苗木の売上の一部をイギリス肺病基金に寄付することを条件に、「プリンセス・オブ・ウェールズ」の品種名を下賜された。彼女は「このような素敵なバラに私の名前を付けてくださいましてありがとうございます。このバラの苗木の売上が肺病の患者とその研究に貢献できることを大変嬉しく思っています」と直筆の謝辞を贈っている。死後には、[[アメリカ合衆国]]のJ&P社で作られたバラの品種が、苗木の売上の一部を途上国支援のための「ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ記念基金」に寄付する条件で、「ダイアナ・[[プリンセス・オブ・ウェールズ]]」と命名することが許された。

* [[賛美歌]]、''"I vow to thee, my country"''([[我は汝に誓う、我が祖国よ|私は汝に誓う、我が祖国よ]])が学生時代より好きだった事をウィリアム王子が知っていたため、王子の希望により、葬儀でも演奏された。またこの曲は結婚の時にも演奏された曲でもあった。
[[1984年]][[9月15日]]午後4時20分にはセント・メアリー病院で第3位王位継承権者である次男を出産し、「ヘンリー・チャールズ・アルバート・デイビス(通称ハリー)」と名付けられた([[ヘンリー (サセックス公)|ヘンリー王子]])。この時にも皇太子は出産に付き添った{{efn2|しかしダイアナによればチャールズ皇太子は二番目の子は女の子を欲しがっており、生まれたのが男子と知ると「何だ男か。しかも赤茶色の髪じゃないか」と述べたという。ダイアナは「(この時に)私の中で何かが死んだの」と主張している{{sfn|モートン|1997|p=230}}。}}。皇太子は公務をさらに減らして次男を可愛がった{{sfn|キャンベル|1992|pp=257-260}}。

しかし皇太子の父である[[エディンバラ公]][[フィリップ (エディンバラ公)|フィリップ]]は、皇太子が家族にかまけて公務をないがしろにしていることを批判した。その抗議の意味を込めてエディンバラ公はヘンリー生誕から5カ月に渡ってヘンリーの顔を見ようとしなかったが、ダイアナはそれに強く憤慨した。父とダイアナの板挟みになった皇太子はコーンウォール公領の農場に引きこもって領主の仕事に安らぎを見出すようになった{{sfn|デイビス|1992|p=365}}。

=== チャールズ3世との関係の冷却化 ===
[[ファイル:Prince Charles, Lady Di, 19860723.jpg|250px|thumb|1986年7月23日、[[ヨーク公]][[アンドリュー (ヨーク公)|アンドリュー王子]]の結婚パレードの際のチャールズ皇太子とダイアナ。]]
ダイアナによれば1984年に次男ヘンリーが生まれた時点で気持ちのうえでの二人の関係は終わっていたという{{sfn|モートン|1997|p=290}}。皇太子は[[1985年]]から[[1986年]]にかけてコーンウォール公領のハイグローヴ邸で暮らすことが増えた。[[1987年]]にはケンジントン宮殿は皇太子不在状態が常態化してダイアナが事実上の女主人になっていたという{{sfn|デイビス|1992|p=366}}。同年の皇太子夫妻の[[ポルトガル]]訪問にも夫妻は別々に寝所をとっている{{sfn|モートン|1997|p=290}}。皇太子は婚約以来カミラとの関係を断っていたが、この頃から交際を再開するようになった{{sfn|キャンベル|1992|pp=273-275}}{{sfn|ディンブルビー|1995|pp=124-129}}。

別居状態が長く続くと、ダイアナの方も皇太子が一緒にいない時の方が落ち着くようになった。彼女の友人は「皇太子がケンジントン宮殿にいると、ダイアナはすっかり途方に暮れて、子供のように戻ってしまうのです。自分が一人でいるときに築きあげた全てを失ってしまうのです」と証言している{{sfn|モートン|1997|pp=292-293}}。皇太子への情熱を失ったダイアナは、代わりに王子二人の養育と慈善事業に情熱を注ぐようになった。ダイアナが熱心に取り組んだ慈善事業の一つがエイズ問題だった。ダイアナは「英国エイズ救援信託基金」を財政支援し、また積極的にエイズ患者と触れ合うことでエイズ患者に対する偏見を無くすことに尽力した。エイズ問題以外でも様々な慈善事業に取り組み、英国産婦人科医師会の死産・新生児死亡・不妊症問題の研究のための募金機関「バースライト」、麻薬中毒者やアルコール中毒者の救済のための慈善団体「ターニングポイント」などに財政支援を行った{{sfn|デイビス|1992|pp=321-337, 366}}。

[[1987年]]から[[1992年]]にかけてマスコミの皇太子批判報道が高まり、ダイアナの立場は有利になっていった{{efn2|特に[[1991年]]6月に{{仮リンク|ラドグローブ校|en|Ludgrove School}}でウィリアム王子がクラスメイトから[[クラブ (ゴルフ用具)|ゴルフクラブ]]で頭を打たれて[[頭蓋骨]]に小さな陥没ができる負傷をして病院に担ぎ込まれた際にそれは最高潮に達した。この時、皇太子は少し病院に寄っただけですぐに公務に戻ったためである(医者から両親揃って待合室で待つほど深刻ではないと言われたからだったが)。これについて『[[ザ・サン]]』は「それでも父親?」という皇太子批判記事を掲載している{{sfn|ディンブルビー|1995|pp=188-189}}{{sfn|モートン|1997|pp=287-289}}。}}。

ダイアナは、1992年[[3月29日]]に[[オーストリア]]・{{仮リンク|レヒ (フォアアールベルク)|label=レヒ|de|Lech (Vorarlberg)}}で皇太子や王子2人とともにスキー旅行をしていた際{{efn2|この家族4人そろってのスキー旅行は皇太子が希望し、当初ダイアナが反対して揉めたが、皇太子の熱心な訴えで実現した{{sfn|ディンブルビー|1995|p=191}}。}}、父スペンサー卿の死を知った。彼女は一人で帰国しようとしたが、この際に皇太子も同行を希望した。これに対してダイアナははじめ「優しい夫を演じるにはもう遅すぎる」と主張して皇太子の同行を拒否しようとした。彼女は自分の悲しみを王室の宣伝に利用されるのが嫌であったという。しかし同行しなければマスコミに叩かれるのは明らかなので皇太子は強引にでもダイアナを説得して一緒に帰国した{{sfn|モートン|1997|pp=291-292}}{{sfn|ディンブルビー|1995|pp=191-192}}。

[[1992年]]6月7日から『[[サンデー・タイムズ]]』に{{仮リンク|アンドリュー・モートン (作家)|label=アンドリュー・モートン|en|Andrew Morton (writer)}}の著作『ダイアナ妃の真実』から抜粋した連載記事が掲載され始めた<ref>[[#君塚 2020|君塚 2020]], p.169.</ref>。これはダイアナ本人やダイアナの友人の証言に基づいた物で皇太子を一方的に批判する内容だった。この出版以来、皇太子とダイアナの関係は完全に冷却化した{{sfn|ディンブルビー|1995|pp=192-198}}。正式な別居を希望するダイアナは、1992年10月の韓国訪問の際、露骨かつ子供じみたデモンストレーションを行った。すなわち皇太子と一緒にいる時は不機嫌そうな顔で、皇太子が一緒にいない時はにこやかな顔でマスコミの撮影に応じたのだった{{sfn|キャンベル|1992|p=293}}。

{{-}}

=== 別居生活 ===
[[ファイル:Международная Леонардо-премия 2.1.jpg|250px|thumb|1995年の国際レオナルド賞でのダイアナ。]]
ダイアナと皇太子の合意により、1992年[[12月9日]]に夫妻が別居生活に入ることが、庶民院で[[ジョン・メージャー]]首相から正式に発表された{{sfn|モートン|1997|p=369}}{{sfn|ディンブルビー|1995|p=203}}<ref>[[#君塚 2020|君塚 2020]], p.173.</ref>。ダイアナが暮らすケンジントン宮殿からは皇太子の私物や痕跡が取り払われ、一方皇太子が暮らすハイグローヴ邸からはダイアナの私物や痕跡が取り払われていった。ダイアナがこの模様替えで最初に指示したのは皇太子と夜を共にしたダブルベッドを廃棄処分させたことだったという{{sfn|モートン|1997|p=373}}。別居の際の条件でダイアナは王子二人と隔週の週末に会うようになった。その日にはダイアナは学校まで車で王子たちを迎えに行って、ケンジントン宮殿に連れ帰り、親子水入らずの日を過ごした{{sfn|モートン|1997|pp=381-382}}。

1993年1月に皇太子とカミラが愛をささやき合っている電話のテープをマスコミが入手し、これが報道されたことで皇太子批判が高まった。別居後のダイアナは皇太子とカミラの関係に無関心を装っていたが、実際にはお抱えの[[占星術]]師にカミラの星座チャートを調べさせて二人の運勢を占わせるなどかなり気にしている様子だったという{{sfn|モートン|1997|pp=383-384}}。1994年6月に放送された{{仮リンク|ジョナサン・ディンブルビー|en|Jonathan Dimbleby}}制作のドキュメンタリー番組の中で皇太子は、結婚生活が崩壊するまでは妻に対して貞節を守っていたと述べつつ、カミラは自分の人生の中で「中心的な存在」であり、今後もそうあり続けるであろうことを公表した。これについてダイアナは「私自身かなり打ちのめされました。でも、その正直さは称えたいと思いました」と語った{{sfn|モートン|1997|pp=402-403}}。

1993年12月3日には公務からの引退を宣言した{{sfn|キャンベル|1998|p=306}}。

1994年10月には5年に渡るダイアナの不倫相手だった元騎兵連隊将校{{仮リンク|ジェームズ・ヒューイット|en|James Hewitt}}がダイアナと自分の不倫についての暴露本『恋するプリンセス(Princess in Love)』({{ISBN2|978-0-5259-4017-3}})を出版したが、ダイアナはこれにだいぶショックを受けたようだった{{sfn|渡辺|2013|pp=160-161}}。

=== BBCのインタビュー ===
ダイアナは1995年11月放送のBBCテレビ番組『{{仮リンク|パノラマ (テレビ番組)|label=パノラマ|en|Panorama (TV series)}}』のインタビュー録画映像に出演した。このインタビューはBBC上層部にも無断で行われたものだった(当時のBBC社長{{仮リンク|マーマデューク・ハッセイ (ハッセイ・オブ・ノースブラッドレー男爵)|label=マーマデューク・ハッセイ|en|Marmaduke Hussey, Baron Hussey of North Bradley}}は女王や皇太子と親しい関係だった){{sfn|モートン|1997|pp=407-408}}{{sfn|キャンベル|1998|p=331}}。このインタビュー映像は英国のみならず日本を含む101カ国で放送された{{sfn|渡辺|2013|p=117}}。

その中で彼女は皇太子とカミラの関係について「この結婚生活には三人の人間がいたのです。少し窮屈すぎますね」と表現した{{sfn|モートン|1997|p=408}}{{sfn|キャンベル|1998|p=332}}。また彼女自身もヒューイットと不倫していたことを認めた(ヒューイットが金目当てで暴露本を出版したことにショックを受けており、現在彼への熱は冷めたと主張した){{sfn|キャンベル|1998|p=332}}{{sfn|渡辺|2013|p=122}}。

結婚生活が崩壊した責任はどちらにあるのかという質問に対しては「半分は私にあると思います。しかしそれ以上ではありません」と述べた。離婚するのかという質問に対しては「私は離婚を望んでいません。夫の決断を待っています」と述べた。王室は変化する必要があると思うかという質問には「皆、王室が好きではなくなってしまっています。私自身嫌になってしまっているのですから。もっと国民と触れ合いを持ってほしいです」と述べたが、王室廃止論については「子供の将来がかかっているのに、そんなことを望むはずがありません。ただ子供たちのために必要な闘いはなんでもします」と述べている。そして自分が王妃になると思うかという質問に対しては「思いません。(私は皆さんの)心の王妃になりたいです。チャールズも国王になることには葛藤があります」と述べた{{sfn|渡辺|2013|pp=117-124}}。

この放送はドキュメンタリー番組としては過去最高の視聴率を記録した{{sfn|キャンベル|1998|p=333}}。イギリス全土で2280万人に視聴されたという<ref>[[#君塚 2020|君塚 2020]], p.174.</ref>。放送を見た国民の大半はダイアナに同情的であったという意見もあるが、それを裏付ける信憑性のあるデータはない{{sfn|渡辺|2013|p=125}}。

=== 離婚と慈善活動 ===
[[ファイル:Diana, Princess of Wales, with Hillary Clinton.jpg|250px|thumb|1997年6月18日にホワイトハウスで大統領夫人[[ヒラリー・クリントン]]と会見するダイアナ。]]
皇太子夫妻の離婚交渉の混迷は王室人気に大きな打撃を与えており、やがてエリザベス女王は皇太子とダイアナ双方に手紙を送って早期離婚を促すようになり、座礁しかけていた離婚交渉が進展を見せるようになった{{sfn|モートン|1997|p=409}}。

1996年2月28日にチャールズ皇太子との会見を終えたダイアナは離婚の合意に達したことを発表した。その中で彼女は「今後も王子二人の養育に関する全てに携わり続け、また[[プリンセス・オブ・ウェールズ]]の称号を維持し、ケンジントン宮殿にも留まり、セント・ジェームス宮殿にある執務室も運営し続ける」旨を一方的に主張した。これに対して女王は「非常に興味深い」という冷ややかな反応をすることでダイアナの称号、今後の役割、財産分与はまだ決まっていない旨を示唆した{{sfn|キャンベル|1998|pp=338-340}}{{sfn|モートン|1997|pp=409-410}}。

その後も離婚交渉は4カ月にわたって続いた。最終的に皇太子とダイアナが離婚について合意に至ったのは、皇太子がダイアナに推定1700万ポンド(約29億円){{efn2|慰謝料の金額は離婚時の合意により秘匿されており、1700万ポンドという金額はマスコミの推定である{{sfn|渡辺|2013|p=131}}。}}の慰謝料を一括支払いすること{{sfn|キャンベル|1998|p=341}}{{sfn|モートン|1997|p=410}}、ダイアナがケンジントン宮殿に引き続き居住し続けること{{sfn|キャンベル|1998|p=341}}、ダイアナのセント・ジェームズ宮殿の執務室の維持費年40万ポンド(約6800万円)を皇太子が拠出すること{{sfn|キャンベル|1998|p=341}}{{sfn|渡辺|2013|p=131}}、また「Her Royal Highness(妃殿下、HRH)」の敬称は剥奪されること{{sfn|キャンベル|1998|p=341}}{{sfn|モートン|1997|p=411}}{{sfn|渡辺|2013|p=133}}{{efn2|妃殿下(HRH)の敬称は法的な根拠はないが、君主の縁者であることを意味しており、君主の判断で与えられたり、剥奪されたりする。この敬称を維持することで今後も国事に関わることや未来の国王の母であることを示すことができた{{sfn|ブラウン|2011|p=313}}。ダイアナの[[弁護士]]{{仮リンク|ヴィクター・ミシュコン (ミシュコン男爵)|label=ミシュコン卿|en|Victor Mishcon, Baron Mishcon}}も離婚交渉に際して彼女の妃殿下の敬称を守ることを最重要視していた{{sfn|モートン|1997|p=405}}。}}、王子二人の養育権は夫妻が平等に持つことであった{{sfn|渡辺|2013|p=133}}。

1996年8月28日の離婚確定判決をもって正式にダイアナと皇太子の結婚生活は幕を閉じた{{sfn|モートン|1997|pp=410-411}}。

離婚後王室の公務が無くなったダイアナは、その隙間を埋めるようにこれまで以上に国際的慈善活動に積極的に取り組んだ。特にエイズ問題、[[ハンセン病]]問題、[[地雷]]除去問題への取り組みに熱心だった。[[1997年]]1月にはBBCの取材チームとともに[[アンゴラ内戦|内戦]]の影響で地雷の多い[[アンゴラ]]を訪問した。地雷原を歩く姿をマスコミに撮影させ、地雷問題への世界の関心を集めた。1996年12月にアメリカ元国務長官[[ヘンリー・キッシンジャー]]はダイアナを「今年の人道主義者」に選出しており、ダイアナはニューヨークでの授賞式に出席している{{sfn|モートン|1997|pp=418, 420}}。

[[1997年]][[6月25日]]にはニューヨーク・[[マンハッタン]]で自分のドレスの[[競売|オークション]]を行い{{efn2|この時に売却されたダイアナのドレスの数は79着。うち5着は日本の法人が落札している([[小学館]]が3着、[[ミネルヴァ学園]]が2着){{sfn|宮北|平林|2009|p=278}}。}}、その売上金はエイズ・[[悪性腫瘍|癌]]患者に寄付した{{sfn|渡辺|2013|pp=24-25}}。

=== ハスナット・カーンとドディ・アルファイドとの二股交際 ===
[[ファイル:112407-Harrods-DiannaDodiMemorial2.jpg|thumb|250px|ハロッズにあるダイアナと[[ドディ・アルファイド]]の追悼碑]]
[[1996年]]には[[パキスタン人]]の心臓外科医[[ハスナット・カーン]]と交際を深めた。二人の交際は同年11月の『{{仮リンク|サンデーミラー|en|Sunday Mirror}}』紙にも報道された。ダイアナは1996年と[[1997年]]5月の二度、[[パキスタン]]を訪問してハスナットの家族と会見している。またハスナットに二人の王子を紹介したという{{sfn|渡辺|2013|pp=18-23}}。

[[1997年]]7月、亡き父スペンサー卿や継母レインが親しくしていた、エジプト人の大富豪の[[モハメド・アルファイド]]が所有する南フランスの[[サントロペ]]の別荘に招待された。モハメドはロンドンの老舗デパート「[[ハロッズ]]」のオーナーではあったものの、武器取引や詐欺、さらにハイチの独裁者の[[フランソワ・デュヴァリエ]]と深い仲にあるなどの黒い噂があり、ダイアナの友人たちはこのような怪しい人物に関わらない方がいいと忠告したが、ダイアナは忠告に感謝しつつも聞き入れず、夏休み中の二人の王子とともに招待を受けることにした{{sfn|モートン|1997|pp=426-427}}{{sfn|渡辺|2013|pp=161-162}}。

アルファイド家所有の[[クルーザー]]で地中海クルージングを楽しんだが、この際にダイアナは、モハメドと武器商人の[[アドナン・カショギ]]の妹のサミラの間に出来た息子[[ドディ・アルファイド|ドディ]]と親しくなった。ドディは当時41歳の映画プロデューサーであり、[[アカデミー賞]]受賞作品『[[炎のランナー]]』を手掛けた人物だった。既に中年であるにもかかわらず父親から月10万ドルの仕送りを受けており、5台の[[フェラーリ]]を所有する[[プレイボーイ]]だった。ドディとダイアナの交際が深まると、モハメドはイギリス王室と親戚関係を持つ野望を公然と口にするようになった{{sfn|モートン|1997|pp=428-431}}。

王子2人は7月20日にロンドンに帰国したが、ダイアナとドディは地中海のクルージングを続けた(一時的にダイアナは地雷キャンペーンのために[[ボスニア]]に行っている)。8月初めにはダイアナとドディのクルージングがマスコミによって写真に収められ、「ダイアナの新しい恋人」との報道が過熱した{{sfn|渡辺|2013|pp=161-163}}。

なお、ハスナットとの交際とドディとの交際は同時進行、つまり「二股交際」だったという。どちらが本命だったかは不明だが、ハスナットは[[2008年]]に行われたダイアナの死因究明審問の証言の中で「彼女が自分を裏切るはずはない」と述べており、ダイアナとドディが妊娠していたなどという噂は信じられないと主張している{{sfn|渡辺|2013|pp=22-23}}。

{{-}}

=== パリで交通事故死 ===
[[ファイル:Alma tunnel Paris.jpg|250px|thumb|事故現場。[[8区 (パリ)|パリ8区]]と[[16区 (パリ)|16区]]境界上にある{{仮リンク|アルマ広場|fr|Place de l'Alma}}下のトンネル。]]
{{main|[[ダイアナ妃の死]]}}
[[1997年]][[8月30日]]にダイアナとドディはチャーター機で[[パリ]]郊外の[[ル・ブルジェ空港]]に到着した。宿泊予定の[[オテル・リッツ・パリ]]から派遣された運転手とボディーガードに伴われて、5ツ星ホテルのリッツに入った{{sfn|モートン|1997|p=438}}。

このホテル滞在中にダイアナはウィリアム王子から電話を受けている。マスコミから単独での写真撮影を依頼されたことについての相談の電話だった。これが息子との最後の会話となった。この日の夜はドディと[[ポンピドゥー・センター]]近くのレストラン「ブノワ」で夕食を取る予定だったが、マスコミがレストランで待ち受けていたので中止し、結局夜9時50分頃にホテルの部屋の中で夕食を取った{{sfn|モートン|1997|p=438}}。

その日の夜はドディのアパートで寝る予定だったが、ホテル外で待ち構えているマスコミの数が急増していたため、ドディとダイアナは囮の車を何台かホテル正面から出した後、[[8月31日]]に入った0時24分頃、ホテル裏口から[[メルセデス・ベンツ・W140|メルセデス・ベンツ・S280]]で出発した。乗車していたのはダイアナとドディ、運転手{{仮リンク|アンリ・ポール|fr|Henri Paul}}、ボディーガードの{{仮リンク|トレヴァー・リース=ジョーンズ|en|Trevor Rees-Jones (bodyguard)}}(トレバー・リース・ジョーンズとも<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2273888 |title=ダイアナ元妃の死から10年、その人生に関わった重要人物たちのその後とは? |website=AFPBB News |publisher=クリエイティヴ・リンク |date=2007-08-31 |accessdate=2023-07-11}}</ref>)の4人だった。4人を乗せた車は、追跡してきたマスコミの車をまこうと135キロから150キロという違法な猛スピードで[[コンコルド広場]]から{{仮リンク|アルマ広場|fr|Place de l'Alma}}へ向かったが、アルマ広場下の[[トンネル]]で他車と接触事故を起こし<ref name="Gregory">Martyn Gregory [https://books.google.com/books?id=vZPJjwm6ITMC&pg=PT70 ''Diana: The Last Days''], Random House, 2010, p.70</ref>、これを避けようとして運転を誤り、[[中央分離帯]]のコンクリートに正面衝突した。[[シートベルト]]を締めていなかったドディとポールは即死し、ダイアナとジョーンズは重傷を負った(助手席のジョーンズただ1人が生き残る){{sfn|モートン|1997|pp=441-442}}。当初、この事故では生存したジョーンズのみがシートベルトを装着していたと一部メディアでは報道されたが、実際は搭乗者全員がシートベルトを装着していなかったことが後に明らかになった<ref>{{Cite web|url=https://news.sky.com/story/trevor-rees-jones-what-happened-to-the-sole-survivor-of-dianas-crash-11005463|title=Trevor Rees-Jones: What happened to the sole survivor of Diana's crash|publisher=Sky News|first=Connor|last=Sephton|date=2017-08-28|access-date=2023-07-11}}</ref>。

車を追跡していたマスコミたちと通りすがりの医師が第一発見者となった。医師が携帯電話で救急車を手配し、救急隊が到着するまで医師と一人のカメラマンがダイアナの応急処置にあたったが、それ以外のカメラマンたちは写真を撮ってばかりだった。彼らは殺人罪と緊急援助義務違反の容疑でフランス警察に逮捕された。救急隊は1時間かかって潰れた車の屋根を切って前部座席と後部座席に挟まれたダイアナを車外に出すことに成功し、最寄りの[[サルペトリエール病院]]へ搬送したが、ダイアナの頭部と胸部はひどい傷を負っており、すでに助かる見込みはなかった。意識を取り戻すことなく、午前4時頃に正式に死亡宣告を受けた{{sfn|モートン|1997|pp=442-443}}{{sfn|渡辺|2013|pp=31-35}}。

=== 哀悼・葬儀 ===
[[ファイル:Flowers for Princess Diana's Funeral.jpg|250px|thumb|1997年9月1日、ケンジントン宮殿前に寄せられたダイアナ哀悼の花束]]
[[ファイル:Diana's funeral.jpg|250px|thumb|1997年9月6日のダイアナの王室国民葬の葬列。]]
事故があった際、女王と皇太子は[[バルモラル城]]に滞在しており睡眠中だった。侍従に起こされた二人は、ダイアナがパリで重傷を負ったことを知らされた。皇太子は王子二人を起こさず、一晩中[[ラジオ]]のニュース速報で情報収集をしていた。そして朝起きてきた王子二人にダイアナの死を告げたという。それに対してウィリアム王子は「何かあったことは分かっていたよ。それで一晩中眠れなかったんだ」と述べたという{{sfn|モートン|1997|pp=443-444}}。

皇太子はパリに行ってダイアナの遺体を引き受ける決心をした。女王は「ダイアナは離婚して[[ウィンザー朝|ウィンザー家]]を去った人です。遺体は民間の安置所に安置されるべきです」と主張して反対したが、時の首相[[トニー・ブレア]]の支持も得て皇太子は女王を説得した{{sfn|渡辺|2013|p=42}}。ダイアナの姉二人とともに王室専用機でパリに飛んだ皇太子は、病院の緊急医療室に安置されたダイアナの遺体と対面した。皇太子は30分も元妃の亡きがらの前に立って涙を流したという。午後7時、皇太子はダイアナの棺を王室専用機の中に運ばせてフランスを発ち、王立空軍の{{仮リンク|ノーソルト基地|en|RAF Northolt}}に帰国した。ダイアナの棺はそこから[[セント・ジェームズ宮殿]]へ運ばれた{{sfn|モートン|1997|pp=445-447}}。

ブレア首相はダイアナの遺体がイギリスに戻る直前にダイアナについての演説を行い、「彼女は人々のプリンセスでした。そしてこれからも永遠に私たちの心と記憶に留まり続けるでしょう」と述べた。それを立証するかのように国民が次々とバッキンガム宮殿やケンジントン宮殿にやってきてダイアナのために献花し、宮殿前は無数の花束で埋め尽くされた{{sfn|モートン|1997|pp=446-447}}。

一方バルモラル城の女王は平常通りの宮中運営を希望し当初は緊急にロンドンへは戻らず、特別な声明を出したり、バッキンガム宮殿に[[半旗]]を掲げることに反対した。しかし、ダイアナへの冷淡さに対して国民の批判が高まり[[君主制廃止論|王制廃止の声]]まで出るに至ったため、皇太子やブレア首相の説得を受け入れロンドンへ帰還し、テレビカメラの前で国民に向けた特別声明を発した。その声明の中で女王は「私は今から女王として、そして一人の祖母として、皆さんに心からお話したいと思います。まず、私自身ダイアナに弔意を捧げたいと思います。彼女は非凡で才能に恵まれた人でした。いい時も悪い時も彼女は決して笑顔を失うことなく、他人を温かく親切に励ましました。私は彼女のエネルギーと他人の関わり、特に二人の息子への専心ぶりにおいて彼女を称え、尊敬しておりました」と述べた{{sfn|モートン|1997|pp=450-451}}。

{{main|[[ダイアナ妃の葬儀]]}}
1997年9月6日にはダイアナのための準国葬「王室国民葬」が取り行われた。大砲の台車に乗せられたダイアナの棺は、葬列を伴って[[ウェストミンスター寺院]]へ運ばれた。棺のすぐ後ろにはチャールズ皇太子、ウィリアム王子、ヘンリー王子、皇太子の父[[エディンバラ公]][[フィリップ (エディンバラ公)|フィリップ]]、ダイアナの弟スペンサー伯爵[[チャールズ・スペンサー (第9代スペンサー伯爵)|チャールズ]]が歩いた。バッキンガム宮殿では女王が外に出てダイアナの棺を見送り、頭を下げて弔意を示した。イギリス王室史上前例のないことだがバッキンガム宮殿には国旗が半旗として掲げられた。
{{seealso|クィーン (映画)}}
ウェストミンスター寺院には2000人の会葬者が集まっており、その中には[[マーガレット・サッチャー]]元首相やアメリカ大統領夫人[[ヒラリー・クリントン]]、映画監督[[スティーヴン・スピルバーグ]]、俳優[[トム・クルーズ]]、[[トム・ハンクス]]、[[アーノルド・シュワルツェネッガー]]などもいた{{sfn|渡辺|2013|pp=47-49}}{{sfn|キャンベル|1998|pp=421-423}}。

葬儀が終わるとダイアナの棺は、スペンサー伯爵家の地所オルソープへ移送され、湖の中に浮かぶ小島(通称「ラウンド・オーバル島」)の中に葬られた{{sfn|モートン|1997|p=452}}{{sfn|渡辺|2013|p=51}}。ただし、遺骨が盗まれることを防ぐため、小島のどこに葬られたかは一切公表されず、埋葬の位置を示す[[墓碑]]も建てられていない{{sfn|宮北|平林|2009|p=279}}。

[[2004年]]にはハイド・パークに{{仮リンク|ダイアナ妃記念噴水|en|Diana, Princess of Wales Memorial Fountain}}が作られた{{sfn|渡辺|2013|p=177}}。ダイアナの死から10年たつ[[2007年]]7月1日にはウィリアム王子とヘンリー王子が母を追悼するコンサート「[[コンサート・フォー・ダイアナ]]」を[[ウェンブリー・スタジアム]]で主催している。6万3000人の観客を前にダイアナの友人だった[[エルトン・ジョン]]はじめイギリスの歌手たちが曲を披露した{{sfn|渡辺|2013|pp=178-183}}{{sfn|宮北|平林|2009|p=282}}。また命日の8月31日にはウィリアム王子が入隊している陸軍近衛騎兵連隊{{仮リンク|ウェリントン兵舎|en|Wellington Barracks}}の礼拝堂{{仮リンク|ガーズ・チャペル (ウェリントン兵舎)|label=ガーズ・チャペル|en|Guards Chapel, Wellington Barracks}}でウィリアム王子とヘンリー王子主催の追悼[[礼拝]]が開催され、女王や皇太子、[[ゴードン・ブラウン]]首相などが臨席した。この席でウィリアム、ヘンリー両王子は「母は多くの人を幸せにし、世界中で最高の母でした」とスピーチしている{{sfn|宮北|平林|2009|p=282}}{{sfn|渡辺|2013|pp=183-185}}。

{{Gallery
|lines=4
|File:The Diana, Princess of Wales, Memorial - geograph.org.uk - 1175343.jpg|オルソープにあるダイアナの慰霊碑。
|File:Flamme de la Liberté Lady Di.JPG|ダイアナの事故現場の真上にあるモニュメント「{{仮リンク|自由の火|fr|Flamme de la Liberté|en|Flame of Liberty}}」。ダイアナの死後に半ば慰霊碑化した。
|File:Princess Diana Memorial Fountain - geograph.org.uk - 747870.jpg|ハイド・パークの{{仮リンク|ダイアナ妃記念噴水|en|Diana, Princess of Wales Memorial Fountain}}
|File:112407-Harrods-DiannaDodiMemorial1.jpg|ハロッズにあるダイアナとドディの銅像。
}}

{{-}}

== 人物 ==
=== 息子たちの自由のために ===
ダイアナはなるべく二人の王子を普通の子供のように育てたかった。ダイアナはよく王子二人とともにケンジントン宮殿近くの[[マクドナルド]]に[[ハンバーガー]]や[[フライドポテト]]を食べに行った。店長がびっくりして最前列へ案内しようと近づいてきた際、ダイアナは「しーっ」と制したという{{sfn|デイビス|1992|p=19}}。ダイアナと王子二人の最後の親子団欒となった1997年8月初旬も、三人はスティーヴン・スピルバーグ監督の映画『[[ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク|ロストワールド]]』を鑑賞して過ごしたのだった{{sfn|渡辺|2013|p=40}}。

こうした彼女の庶民的子育ては、王室の伝統への反逆と看做された。ダイアナの葬儀の際、ダイアナの弟[[チャールズ・スペンサー (第9代スペンサー伯爵)|スペンサー卿]]も「私たち血縁者はあらゆる努力を尽くして貴女の二人の素晴らしい息子たち、貴女が想像力と愛情を注いで育てあげたこの少年たちを育てていくことを誓います。貴女が望んだように彼らの魂が伝統と義務を受け継ぐだけではなく、自由に歌うことができるように」と姉の霊前に誓いを立てている{{sfn|渡辺|2013|p=50}}。

=== 他者への愛 ===
[[ファイル:Princess diana bristol 1987 02.jpg|200px|thumb|1987年5月、[[ホワイトホール (ロンドン)|ホワイトホール]]の[[コミュニティセンター]]のオープニングセレモニーで沿道の人々と話すダイアナ。]]
ダイアナは少女時代から勉強はまるでダメだったが、気質の優しい娘だった。スペンサー家3姉妹が入学したウェスト・ヒース校の校長ルース・ラッジは「スペンサー家3姉妹のことはよく覚えています。3人とも性格が違っていました。ダイアナは上の二人ほど頭はよくなかったですが、一番気持ちの優しい子でした。小さい子が好きで、すぐに仲良しになれるのです。学校の近くにある施設に障害児のお世話によく通っていました。どうしてあげれば喜ばれるかを心得ていて、楽しそうに進んでお世話していました」と述懐している。ウェスト・ヒース校でダイアナは社会福祉活動の功績を称えられて学校から「ミス・クロース・ローレンス賞」を贈られている{{sfn|石井|2000|pp=200-201}}。この学校での社会奉仕経験で彼女は他者への献身という自らの特性を発見したという{{sfn|モートン|1997|pp=142-143}}。

映画『[[ダイアナ (映画)|ダイアナ]]』の監督[[オリヴァー・ヒルシュビーゲル]]は「彼女は愛を受けずに育ったので、小さいときから愛されたい、受け入れられたい、という気持ちが強かった」「とても無垢でもあり、必要としている人には何でも与えようとしていた」好意的に評している<ref name="産経2013-10-18">{{Cite news |title=映画「ダイアナ」 オリバー・ヒルシュビーゲル監督 とても魅力的な女性の普遍的な愛の物語 |newspaper=[[産経新聞]] |date=2013-10-18|url=http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/131018/ent13101808040003-n1.htm |accessdate=2013-11-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131025113645/http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/131018/ent13101808040003-n1.htm |archivedate=2013-10-25}}</ref>。

別居・離婚の結果、王室の公務と国民への奉仕の義務から解放されたダイアナは、その代わりに精力的な慈善事業家になっていく{{sfn|モートン|1997|p=331}}。特にダイアナが熱心に取り組んだのが[[地雷]]除去問題だった。ダイアナが地雷問題に関心を持ったのは、[[リチャード・アッテンボロー|アッテンボロー卿]]が監督を務める映画『[[ラブ・アンド・ウォー]]』のチャリティー初上演会に招待され、地雷の民間人に与える影響に衝撃を受けたのがきっかけだった。そして[[英国赤十字社]]のマイク・ウィットラム事務総長から地雷除去キャンペーンへの協力を要請されたため、協力を約束したのだった。[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争|内戦]]の爪痕が残る[[ボスニア]]を訪問した際、ダイアナは[[サラエヴォ]]の墓地で息子の墓参りをする女性と抱き合った。その光景を見たジャーナリストのディーズ卿は「こんなことが他の誰にできるだろうか。誰にもできはしない」という感想を書いている{{sfn|モートン|1997|pp=420-421}}。

地雷問題は政治的な問題でもあり、ダイアナの運動は[[保守党 (イギリス)|保守党]]政権の反発を買っていたが、彼女は「私は人道主義者です。今までもずっとそうでしたし、今後もそうあり続けます」と述べてそうした批判を一蹴していた。彼女の地雷除去キャンペーンは1997年に成立した[[トニー・ブレア|ブレア]]労働党政権を動かし、またアメリカの[[ビル・クリントン|クリントン]]政権にも影響を与えたという{{sfn|モートン|1997|pp=420-421}}。彼女の死から3カ月後に[[対人地雷の使用、貯蔵、生産及び移譲の禁止並びに廃棄に関する条約|対人地雷禁止条約]]が締結されている。しかしその反面、武器取引に関わっていたアルファイド家との交流には何の躊躇もなかった。

{{-}}

=== 過食症 ===
1995年のBBCの番組のインタビューでダイアナは何年も[[過食症]]に苦しんでいることを明らかにした。過食症はストレスで心が空虚になるのを過食で満たそうとするが、その後嘔吐し、するとまた胃と心が空虚になってきて過食をするという病気である{{sfn|石井|2000|p=7}}。

ダイアナはインタビューの中で「プレッシャーに影響されました。公務で外出する日は胃も心も空虚になって帰宅するのが常でした。その頃私は瀕死の人や重病者、結婚生活に悩む人と関わっておりましたが、帰宅すると先ほどまでたくさんの人を慰めていたのに、自分自身をどう慰めたらいいか分からず、冷蔵庫の中の食べ物を胃の中に流し込むのが習慣になってしまったのです」「一日に4回か5回、時にはそれ以上お腹一杯に食べます。すると気分が楽になります。二本の腕で抱かれているような気分になるのです。でもそれは一時的なものです」とその苦しみを語っている{{sfn|石井|2000|pp=7-8}}。

しかしウェストヒース学校の同級生の証言によればダイアナは学生時代から大食いで太り気味だったという{{sfn|キャンベル|1998|pp=39-40}}。マスコミから注目されるようになってから、太って見えないかを気にするようになり、過食した後に吐き出すという独自の「ダイエット法」を行うようになったという。侍従にも「すごくいいダイエット方法を見つけたの。好きなだけ食べて、その後でこうするだけ」と言って、吐くジェスチャーをして見せたことがある。これが過食症の直接の原因で王室生活のストレスでどんどん悪化していったという流れのようである{{sfn|キャンベル|1998|pp=111-119}}。

心理学者バジル・パンツァー博士は「二人の女友達と暮らすフラットから宮殿に移ることは誰にとっても大きな変化である(略)精神医学の対象として彼女を見ると、こうした変化の後で心の病の症状が現れたことが分かる。摂食障害だ。よくある過食症の症例である。(略)ふっくらした10代の少女から体重不足の痩せた女性に変わっていった」「義務を果たすことに慣れていないのだろう。(略)立ち向かえずにプレッシャーに押しつぶされてしまう」と分析している{{sfn|キャンベル|1998|p=119}}。

=== 「シャイ・ダイ」 ===
ダイアナは恥ずかしそうに上目づかいでしゃべったり内気に見える時があり、「シャイ・ダイ(Shy Di)」という渾名があった{{sfn|石井|2000|p=199}}。

ただダイアナ自身や身近な人々は内気ではないと主張する。ダイアナは「マスコミがどうしてシャイ・ダイなんて言葉を思いついたのか分からない。私は昔から内気だったことなんてない」と述べている。友人のサイモン・ベリーは「マスコミが内気と誤解したのは彼女が慎重でどう出るか決めるまでは控えめな態度を取って内心を悟られないようにしたからでしょう。(略)でもそれは内気さとは関係ないわ。用心と計算と打算かしら。自信がある無しの問題でもない。自分がそうしたいと思ったらためらうような人ではなかったから」と述べている。またダイアナの継母レインの母バーバラ・カートランドも「マスコミが誤解したのは彼女がうつむいて猫背で歩くからだけど、あれは背の高さをカバーしているだけ。内気さとは関係ないわ」と主張している{{sfn|キャンベル|1998|pp=94-95}}。

=== 無言電話疑惑 ===
1994年8月の『[[ニュース・オブ・ザ・ワールド]]』誌はダイアナの[[迷惑電話|無言電話]]疑惑を報じた。それによればダイアナの不倫相手であるジェームズ・ヒューイットのガールフレンドとダイアナとの関係が噂される人物の一人である美術商[[オリヴァー・ホー]](Oliver Hoare)が何者かから無言電話を受けたが、被害届を受けた警察が調査したところその発信元はダイアナのケンジントン宮殿であったという{{sfn|石井|2000|pp=10-12}}。

これに対してダイアナは8月22日の『[[デイリー・メール]]』において自分を陥れるために何者かが仕組んだことであり、自分は無言電話のあった時間帯にケンジントン宮殿にいなかったと[[アリバイ]]を主張して疑惑を否定したが、後にこのアリバイが崩れたため、疑惑が拡大した。この疑惑によってダイアナのイメージが一時期かなり悪くなった{{sfn|石井|2000|p=13}}。

なおダイアナは1995年11月のBBCのインタビューの際にも無言電話疑惑を否定しており、「私が調べたところ、それは若い男性がかけたことが分かっています」と述べている{{sfn|渡辺|2013|p=121}}。

=== スピリチュアル、セラピー ===
[[ファイル:Princess Diana Sri Chinmoy.jpg|250px|thumb|1997年5月29日、ケンジントン宮殿前のダイアナと霊能者[[シュリ・チンモイ]]。]]
ダイアナは1986年から6年に渡って占星術師ペニー・ソーントン(Penny Thornton)と親しく付き合い、以降占星術や霊的な物に関心を持つようになった。ペニーによればダイアナはもともと「霊的な人間」であるといい、自分はダイアナにそのチャンネルの存在を気付かせ、霊感を伸ばすよう忠告しただけとペニーは主張している{{sfn|キャンベル|1998|pp=191-192}}。

やがてペニーが「皇太子妃の占星術師」の立場を利用し始めたため(ペニーは1995年にダイアナの結婚生活の暴露本『ダイアナ ペニー・ソーントンより愛をこめて』({{ISBN2|978-0-6718-9186-2}})を出版している)、ペニーとは手を切ったが、ダイアナの占星術への興味は続いた。ダイアナは占星術師にかなりの金額を使ったようである。無言電話疑惑でダイアナ人気が落ちた際に反撃に出たチャールズ皇太子は、ダイアナがファッションやカウンセリングのために使っている金額が尋常ではないことを国民に公表したが、それによればダイアナは占星術師と心理療法家に年間650万円支払っているという。これに対してダイアナは皇太子が[[ポロ]]のために注ぎ込む巨額に比べたら微々たる金額と反撃している{{sfn|石井|2000|pp=14-15, 203}}。

晩年の3年ほどは[[心理療法|セラピスト]]との予定が多かったという。結腸洗浄療法士クリシー・フィッツジェラルド、心理療法士スージー・オーバック、薬草医アイリーン・ウィッタカー、精神治療医シモーネ・シモンズ、鍼治療師リリー・ファ・ユーの治療をよく受けていた。特にファ・ユーの鍼治療はダイアナのストレスを軽減するのに効果的だったといい、ダイアナは彼女のことを「奇跡の人」と呼んでいた{{sfn|キャンベル|1998|pp=345-346}}。

ダイアナの伝記を書いた{{仮リンク|アンドリュー・モートン (作家)|label=アンドリュー・モートン|en|Andrew Morton (writer)}}は「生前ずっと彼女は議論や討論ではなく、本能や直感に導かれていた。一本の川のような流れが彼女を占星術師や霊能者、占い師、療法家などの世界に誘った」と評している{{sfn|モートン|1997|p=455}}。しかしこのような科学的に根拠が無い「[[オカルト]]」かつ、きわめて個人的な事柄に国費を注いだことに関する批判も多い。

{{-}}

=== ファッション ===
[[file:Photograph of Princess Diana dancing with John Travolta at a White House dinner for the Prince and Princess of Wales - NARA - 198569.jpg|250px|thumb|1985年11月9日の訪米時、[[ホワイトハウス]]で[[ジョン・トラボルタ]]とダンスを踊るダイアナ。]]
[[file:Sandro Pertini con i Principi di Galles.jpg|250px|thumb|1985年のイタリア訪問時、[[アレッサンドロ・ペルティーニ]]大統領と会見するダイアナとチャールズ皇太子。]]
自己顕示欲が強いダイアナは自分の記事の切り抜きを集めさせており、どうすれば美しく写真を撮られるかをモデル並みに研究していた。美容師を毎朝宮殿に召集し、海外訪問にも同行させていた。化粧は自ら行い、メイクアップが整うまで誰にも顔を見せなかった{{sfn|キャンベル|1992|pp=248-249}}。

一番気を使っていたのはファッションだった。婚約時から結婚後最初の数年間はファッション雑誌『{{仮リンク|ヴォーグ (イギリス雑誌)|label=ヴォーグ|en|Vogue (British magazine)}}』の編集員{{仮リンク|アンナ・ハーヴィ|en|Anna Harvey}}がダイアナ専属のスタイリストとして服を選んでいた。彼女を通じてダイアナは様々なイギリスのデザイナーと知己になった。とりわけ彼女が愛したのは{{仮リンク|キャサリン・ウォーカー (ファッションデザイナー)|label=キャサリン・ウォーカ―|en|Catherine Walker (fashion designer)}}のデザインした服と[[フィリップ・サマーヴィル]](Philip Somerville)のデザインした帽子だった{{sfn|デイビス|1992|p=275}}。1985年と1992年にイギリス女性を対象に行われた世論調査によれば、「最も似たい女性」の一位はダイアナであったという{{sfn|デイビス|1992|p=301}}。

英国ファッション界に貢献したいと考えていたダイアナは公的な場では英国製の服を着ることが多かった。しかし「私服」として外国ブランドの服も集めていた。外国ブランドで彼女が愛したのは、[[フランス]]の[[シャネル]]と[[イヴ・サン=ローラン]]、[[イタリア]]の{{仮リンク|モスキーノ|it|Moschino|en|Moschino}}、[[西ドイツ]]の[[エスカーダ]]である。公務であっても外国訪問の場合にはこれらの服を着ていくこともあった。たとえば[[1980年]]のフランス訪問ではシャネル、[[1987年]]の西ドイツ訪問ではエスカーダを着ている。フランスでも西ドイツでもダイアナのファッションセンスに喝采が贈られた{{sfn|デイビス|1992|pp=275-276}}という意見もある一方、イギリスの王族がかつてナチス・ドイツの諜報員であった[[ココ・シャネル]]の服を安易に着ることに対するイギリス、フランス両方からの批判もあった。

ダイアナの服の購入は洋服店の開店前、あるいは閉店後に特別な手配がなされるのが一般的だったが、突然思い立って警官の護衛で買い物に出ることもあった。皇太子妃が来店したと聞いた支配人は慌てて飛び出してきて、あれこれ気を使いだすことが多かったが、そういう時ダイアナは「私は皆さんに迷惑をかけたくありません。ただ普通の人と同じように買い物をしたいだけです。どうか大袈裟に騒がないでくださいな。」と答えたという。ちなみにダイアナが公的な場に出るための衣装は王室費から、個人的な衣装はチャールズ皇太子の個人的収入(コーンウォール公領の収入)から支払われていた{{sfn|デイビス|1992|p=277}}。

{{仮リンク|ジェフ・バンクス|en|Jeff Banks}}が毎週ホストをしているBBCテレビのファッション番組『{{仮リンク|ザ・クローズ・ショー|en|The Clothes Show}}』は、ダイアナのお気に入りの番組だった。番組の中でジェフ・バンクスはダイアナのファッションについて「彼女は華麗さと実用性の妥協点を見出しました。王族の服にはある種の公式が必要で、それがダイアナ妃の服装が時々古臭く見える唯一の原因です。腰丈のジャケットとスカートという組み合わせは彼女にとって着心地がよく、何の心配もなく着ていられるに違いありません。これは生涯、様々な人と会って過ごし、しかもそのなかには鑑識眼の鋭い人もいるのに、常に一分の隙もない恰好をしていなければならないという人には極めて重要なことです」と評している{{sfn|デイビス|1992|p=292}}。

[[マリー・クヮント]]のファッションデザイナーのエルカ・フンデルマルクは「(ダイアナのファッションが)イギリスのファッション業界に与えた影響は、幾ら述べても誇張ではないわ。彼女のおかげで80年代のイギリスのデザイナーたちは国際的な舞台で活躍できたんですもの。それに彼女はたった一人で王侯貴族の女性の服を一新させたわ。ダイアナが登場するまで彼女たちはいつも決まった服しか着なかったし、[[キャサリン (ケント公爵夫人)|ケント公妃]]のようなおしゃれな人でも控え目な色の服に、いつも大きな帽子と白い手袋を身に着けていた。まったくもって退屈でつまらない服装だった。だけど今では誰もがおしゃれな帽子と派手で大胆な色の組み合わせを身に付けている。女王でさえ、服装に合わせて黒や赤の手袋をするようになったのよ。これはファッション革命よ。ダイアナのおかげだわ」と述べている{{sfn|キャンベル|1992|pp=250-251}}。

== 人気 ==
[[2002年]]にBBCが行った「[[100名の最も偉大な英国人]]」の世論調査では[[ウィンストン・チャーチル]]と[[イザムバード・キングダム・ブルネル]]についで3位になった<ref name="wayback1to10">{{Cite web|url=http://www.bbc.co.uk/history/programmes/greatbritons.shtml/|title=Great Britons 1-10|publisher=BBC via Wayback Machine|accessdate=2012-08-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20040204074057/http://www.bbc.co.uk/history/programmes/greatbritons.shtml/|archivedate=2004年2月4日}}</ref>。

[[2013年]]9月にアメリカの[[CBS]]ニュース番組『[[60 Minutes]]』と雑誌『[[ヴァニティ・フェア]]』が共同で行ったアメリカ世論調査によれば「生き返ってほしい有名人」の第1位はダイアナであったという。全得票の35%も得ている。ちなみに2位は[[Apple]]CEOの[[スティーブ・ジョブズ|スティーヴ・ジョブズ]](全得票の14%)だった<ref name="ロイター2013-9-4">{{Cite news |title=生き返って欲しい有名人、1位はダイアナ元妃=米調査 |newspaper=[[ロイター]]通信 |date=2013-09-04|url=https://jp.reuters.com/article/entertainmentNews/idJPTYE98300A20130904/ |accessdate=2013-11-17}}</ref>。

ダイアナは世界で一番多く写真を撮られ、記事にされた人間だったと言われている{{sfn|キャンベル|1998|p=92}}。

== 来日 ==
[[ファイル:State Guest House Akasaka Palace main entrance.jpg|250px|thumb|東京にいる間、ダイアナが過ごした赤坂・[[迎賓館]]。]]
ダイアナは生涯に3度来日している。最初は[[1986年]](昭和61年)の公式訪問、2度目は[[1990年]]([[平成]]2年)の[[上皇明仁]]の[[即位の礼]]への出席、3度目は[[1995年]](平成7年)の[[英国赤十字社]]副会長としての来日である。この来日時には[[第二次世界大戦]]の[[コモンウェルス]]の無名戦士墓地に献花をしている。20年後、長男ウィリアムが来日献花をしているが、亡き母の献花を報ずる日本の新聞のスクラップが記帳の際に用意された。初回目と2回目の来日はチャールズ皇太子とともに、3度目の来日は一人でだった{{sfn|渡辺|2013|p=191}}。

とりわけ1986年(昭和61年)の最初の公式訪問は、日本に「ダイアナフィーバー」と呼ばれる社会現象を巻き起こしたことで知られる<ref>{{Cite book|和書|author=君塚直隆|authorlink=君塚直隆|date=2013-07-10|title=チャールズ皇太子の地球環境戦略|publisher=[[勁草書房]]|isbn=978-4-3262-4843-8|page=163}}</ref>。そのブームに乗じて日本の[[日本テレビ系列]]で1986年5月1日{{sfn|『全記録 日本の6日間』|1986|loc=「テレビ欄」}}に放送された特別番組『華麗!!ダイアナ妃のすべて見せます』では、少女時代のダイアナを主人公としたオリジナルアニメ『[[虹のかなたへ! 少女ダイアナ物語]]』が放送されている。キャストはダイアナ([[島本須美]])、ダイアナの祖母レディ・ファーモイ([[麻生美代子]])、ダイアナの父([[徳丸完]])、ダイアナの母([[上田みゆき (声優)|上田みゆき]])、チャールズ皇太子([[堀内賢雄]])等。その後のソフト化は行われていない。

最初の公式訪問は以下の通りだった。

5月8日午後7時40分、英国王室機で[[大阪国際空港]]に到着したダイアナとチャールズ皇太子は、[[英語]]が得意な[[徳仁親王|浩宮徳仁親王]]の出迎えを受け、その日の宿泊先である[[京都市|京都]]の[[大宮御所]]に案内された{{sfn|渡辺|2013|p=200}}{{sfn|『全記録 日本の6日間』|1986|p=50}}。

翌[[5月9日]]にダイアナが着た衣装は訪日用に作った[[日本の国旗|日の丸]]の水玉ドレスだった。同日午前に徳仁親王の案内で[[修学院離宮]]を見学したダイアナは、「大宮御所のインテリアも[[修学院離宮|修学院]]の庭園も美しい」と感想を述べた{{sfn|渡辺|2013|pp=200-201}}。午後には[[二条城]]を訪問し、[[裏千家]]家元の[[千宗室 (15代)|第15代千宗室]]、元皇族の[[千容子]]([[三笠宮崇仁親王]]次女。[[千宗室 (16代)|第16代千宗室]]に嫁いだ)らとともに[[茶道]]を楽しんだ{{sfn|渡辺|2013|p=202}}{{sfn|『全記録 日本の6日間』|1986|pp=15-19, 50}}。東山の料亭「つる屋」では[[懐石]]料理を[[箸]]を使って食べた。ダイアナも皇太子も接待の[[舞妓]]の化粧や髪形を面白がっていたという{{sfn|渡辺|2013|pp=200-202}}。

[[5月10日]]午前に[[大阪]]や[[神戸]]を訪問し、午後には大阪国際空港から[[東京]]・[[東京国際空港|羽田空港]]へ飛んだ。羽田では[[上皇明仁|明仁親王]]と[[雍仁親王妃勢津子|秩父宮妃勢津子]]の出迎えを受け、[[元赤坂]]の[[迎賓館]]に案内された。迎賓館で[[中曽根康弘]]首相らを引見した{{sfn|『全記録 日本の6日間』|1986|p=50}}。午後8時には[[東宮御所]]に入り、皇太子明仁親王、[[上皇后美智子|皇太子妃美智子]]、浩宮徳仁親王、[[黒田清子|紀宮清子内親王]]との内輪の晩餐会に参加した{{sfn|渡辺|2013|pp=202-203}}。晩餐を終えて別れる際に皇太子妃美智子はダイアナにキスをしており、ダイアナもお礼に皇太子妃美智子にキスをしている{{sfn|『全記録 日本の6日間』|1986|p=50}}。

[[5月11日]]午前に東京観光したチャールズ皇太子夫妻は、お昼に訪問先の青山の[[本田技研工業|ホンダ本社]]から元赤坂の迎賓館までの2.3キロの道路を[[オープンカー]]でパレードした{{sfn|『全記録 日本の6日間』|1986|p=50}}。沿道には皇太子夫妻を一目見ようと9万人もの日本人が殺到した。この10日前に皇太子夫妻の訪日に反対する過激派が迎賓館に向けて[[迫撃砲]]を撃ち、その弾が青山通りのカナダ大使館の近くに落ちるという事件が発生していたが、皇太子夫妻はその曰くつきのカナダ大使館前の地点ですっと立ちあがって観衆に向かって手を振っている{{sfn|渡辺|2013|pp=198-199}}。迎賓館でダイアナは秩父宮妃や[[憲仁親王妃久子|高円宮妃久子]]から[[華道|生け花]]を教わった。[[市松人形]]をプレゼントされた際には「For me?」を3回繰り返すなど嬉しそうであったという{{sfn|渡辺|2013|p=199}}。夕方には[[寬仁親王]]夫妻の案内で[[両国国技館]]を訪問し、[[大相撲]]を観戦をした。観戦後には[[大関]][[大乃国康|大乃国]]と[[関脇]][[小錦八十吉 (6代)|小錦]]を引見したが、この際にダイアナは大乃国が「体重199キロです」と述べたのに驚いている様子だった。また小錦のお腹を突きながら「これは本物?」とジョークを述べて場を和ませた{{sfn|『全記録 日本の6日間』|1986|pp=36, 50}}。

[[5月12日]]には皇太子とともに[[国会 (日本)|国会]]や[[歌舞伎座]]などを訪問。歌舞伎座では『[[勧進帳]]』を観劇した。観劇後には[[市川團十郎 (12代目)|市川團十郎]]や[[尾上菊五郎 (7代目)|尾上菊五郎]]らを引見している{{sfn|『全記録 日本の6日間』|1986|pp=39, 50}}。

訪日のフィナーレを飾ったのは[[5月13日]]夜に[[皇居]]・[[豊明殿]]で行われた[[昭和天皇]]主催の宮中晩餐会だった。チャールズ皇太子夫妻は[[公賓]]として来日していたが、日英両国の歴史的に深い絆から国賓待遇での接遇となった。皇太子夫妻は、晩餐会に先立って[[昭和天皇]]と会見しており、その席で昭和天皇は皇太子夫妻に[[九谷焼]]の壺を、皇太子夫妻は昭和天皇が好きな[[生物海洋学|海洋生物学]]の本をそれぞれ贈呈し合った{{sfn|『全記録 日本の6日間』|1986|pp=8, 50}}。ダイアナは宮中晩餐会にロイヤルブルーのイブニングドレスで出席した。そのドレスについてダイアナは昭和天皇に「ロンドンでユキ(ロンドン在住の日本人デザイナーの[[鳥丸軍雪]])に日本の絹で作れ、と言われて高い物になりました」と説明している{{sfn|渡辺|2013|p=203}}。晩餐会の料理を手がけた宮内庁大膳課は、京都でダイアナが日の丸をモチーフにした水玉ドレスを着用した返礼をと考え、デザートの[[ブラン・マンジェ|ブラマンジェ]]に丸くくりぬいた赤いゼリーをいくつか貼り付けた。供されたものを一目見たダイアナは、そのアレンジに手を叩いて喜んだという。晩餐会を終えた後の午後9時27分に羽田空港から帰国の途についた。6日にわたる訪日だった{{sfn|『全記録 日本の6日間』|1986|p=50}}。

== 事故死をめぐる陰謀論 ==
[[ファイル:Mohamed Al-Fayed.jpg|180px|thumb|陰謀説を唱える[[モハメド・アルファイド]]。]]
{{see also|{{仮リンク|ダイアナ妃の死をめぐる陰謀論|en|Death of Diana, Princess of Wales conspiracy theories}}}}
ダイアナ妃の事故死について、ダイアナがドディ・アルファイドとの結婚を機に[[イスラム教]]に改宗する恐れがあり、未来の英国王([[イングランド国教会|国教会]]首長)の母親が[[ムスリム|イスラム教徒]]という事態を防ぐため、あるいはダイアナがドディの子を身ごもっていて、アルファイド一族が未来の英国王の異父兄弟になることを阻止するため、[[イギリス政府]]が暗殺したとする[[陰謀論]]がある<ref name="産経2013-8-31">{{Cite news |title=ダイアナ元妃の死は「おぜん立てされた」 ロンドン警視庁の新情報「英特殊部隊関与」 |newspaper=[[産経新聞]] |date=2013-08-19 |url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130819/crm13081908440000-n1.htm |accessdate=2013-08-31 |archivedate=2013年8月20日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130820141423/http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130819/crm13081908440000-n1.htm |deadurldate=2017年9月 }}</ref>{{sfn|ブラウン|2011|p=377}}{{efn2|一方リビアが暗殺したとする陰謀説もある。それによればアルファイド家にはもともとハロッズや[[ハウス・オブ・フレーザー]]を買い取れるほどの金はないはずで、それができたのはリビア政府がバックにいたからだという(そのためイギリス政府は頑なにモハメドにイギリス市民権を与えないのだという)。そしてモハメドが収入をリビアに還元しなくなったため、見せしめのためドディはリビアによって消されたという。この陰謀説によればターゲットはダイアナではなかったことになる{{sfn|キャンベル|1998|pp=434-435}}。}}。

これを初めに主張し出したのは当時[[ムアンマル・アル=カッザーフィー|カダフィ大佐]]の独裁体制下に置かれていた[[大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国|リビア政府]]であり、ダイアナの死後24時間以内には陰謀説を流し始めている(当時イギリス政府とリビア政府は[[パンアメリカン航空103便爆破事件]]のリビア人犯人の裁判管轄をめぐって激しく争っていた)。やがてドディの父モハメドもカダフィーの陰謀説に乗り始め、「99.9%、確実にダイアナとドディは殺された。その理由はイギリス支配層が息子のことを[[ニガー]]と看做したからである」と主張しだした{{sfn|キャンベル|1998|p=430}}。彼は主犯を「人種差別主義者」エディンバラ公フィリップと断定し、1998年2月の『[[デイリー・ミラー]]』紙で陰謀説を訴えた。これが[[ITV (イギリス)|ITV]]に特番『ダイアナ 最後の日々』としてドラマ化されたため、一時多くの国民が陰謀説を信じ込むようになった{{sfn|ブラウン|2011|pp=377-379}}。

しかしダイアナの検死ではダイアナは妊娠していないとされている{{sfn|アーロノビッチ|2011|p=300}}。またダイアナとドディのギリシャ旅行前に[[月経前症候群|月経前緊張症]]でダイアナを診察したリリー・ファ・ユー博士もダイアナは死の2週間前に[[月経]]を迎えており、妊娠は生物学的にあり得ないと指摘している{{sfn|キャンベル|1998|p=429}}。

また{{仮リンク|コリン・キャンベル (作家)|label=コリン・キャンベル|en|Lady Colin Campbell}}によればフランス警察筋は「陰謀説のことだが、実にくだらない。ダイアナとドディがどんなルートを取るかなど誰も知らなかったのだから。場所も車種も知らず衝突事故を目論むなど土台無理な話だ」「ダイアナとドディがシートベルトを着用していたら一命を取り留める可能性はかなり高かった。特にダイアナはね。被害者が生き残りそうな、しかも結果がどう転ぶかわからない事故を企てる奴がどこにいるのか。もしダイアナとドディを殺すつもりなら1週間前に彼らが泳いでいた時に実行しているだろう。潜水工作員を一人か二人送り込んで標的の足を掴み、溺死するまで離さず、死んだら手を離す。文句のつけようがない筋肉の腓返りによる事故死ということになる」と述べたという{{sfn|キャンベル|1998|p=407}}。

ダイアナの伝記を書いた{{仮リンク|ティナ・ブラウン|en|Tina Brown}}は「ポールも、ドディも納得して車に乗ったのだし、[[パパラッチ]]のバイクや車が猛スピードで走行し、状況が刻一刻と変化していた。そういう中で事前に事故を計画したグループが存在したかのように語るのは、かなりのつじつま合わせが必要となるだろう」と述べている{{sfn|ブラウン|2011|p=381}}。

ダイアナの死についてはイギリスでも10年に及ぶ調査と裁判が行われた。裁判ではモハメドが証言台に立って陰謀論を展開し、エディンバラ公を「陰謀公爵」と批判し、また陰謀論に都合の悪い存在(生き残ったボディーガードのジョーンズ、ドディの元愛人{{仮リンク|ケリー・フィッシャー|en|Kelly Fisher}}、ダイアナの恋人ハスナット)も「陰謀の加担者」と批判したが、モハメドの証言は裁判で次々と論破されていった。裁判により「現場から消えた白い[[フィアット・ウーノ]]の事件への関与{{efn2|フランス警察の調査の結果、この白いフィアットに乗っていたのはレ・バン・タンという[[ベトナム人]]であることが判明した。彼が現場から離れたのは移民だったため、警察沙汰に巻き込まれるのを嫌がったというだけだった{{sfn|ブラウン|2011|p=380}}。}}」も「トンネルでのまばゆい閃光{{efn2|調査の結果、ポールが運転を制御できなくなったのはトンネルに入る前からであることが判明した。また「衝突の前にフラッシュがあった」と証言しているのはフランシス・レビという男だったが、この男は前科が多数あり、虚言癖があることで有名な人物で証人としての信憑性に乏しいことも明らかになった{{sfn|ブラウン|2011|p=380}}。}}」もないことが確定し、ついにはモハメドの弁護団も陰謀説を裏付ける証拠がないことを認めざるを得なくなり、[[2008年]]4月7日の陪審でダイアナの死は「過失による交通事故死」という公式結論が出されるに至った{{sfn|アーロノビッチ|2011|pp=273-274, 299-303}}。

[[2013年]][[8月17日]]の[[イギリス陸軍]][[特殊部隊]]「[[特殊空挺部隊|SAS]]」所属の[[狙撃手|狙撃兵]]{{仮リンク|ダニー・ナイチンゲール|en|Danny Nightingale (soldier)}}の裁判で、SASがダイアナ元妃殺害に関与したとする情報が出てきて再び波紋が広がり、[[ロンドン警視庁]]がこの情報の信憑性を確かめるための裏付け捜査を行った<ref name="産経2013-8-31" />。その結果、ロンドン警視庁は同年[[12月17日]]に新情報を裏付ける証拠は何もなく信用性なしとの結論を出している<ref name="産経2013-12-17">{{Cite news |title=ダイアナ元妃暗殺説を否定 証拠なしとロンドン警視庁 |newspaper=[[産経新聞]] |date=2013-12-17 |url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/131217/erp13121720450005-n1.htm |accessdate=2013-12-22 |archivedate=2013年12月17日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131217124514/http://sankei.jp.msn.com/world/news/131217/erp13121720450005-n1.htm |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。

== 系図 ==
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|1= 1. '''ダイアナ(プリンセス・オブ・ウェールズ)'''
|2= 2. 第8代[[スペンサー伯爵]][[エドワード・スペンサー (第8代スペンサー伯爵)|ジョン・スペンサー]]
|3= 3. [[フランセス・シャンド・キッド|フランセス・ロッシュ]]
|4= 4. [[アルバート・スペンサー (第7代スペンサー伯爵)|第7代スペンサー伯爵アルバート・スペンサー]]
|5= 5. {{仮リンク|レディ・シンシア・ハミルトン|en|Cynthia Spencer, Countess Spencer|シンシア・スペンサー (スペンサー伯爵夫人)}}
|6= 6. 第4代[[ファーモイ男爵]][[モーリス・バーク・ロッシュ (第4代ファーモイ男爵)|モーリス・ロッシュ]]
|7= 7. [[ルース・ロッシュ (ファーモイ男爵夫人)|ルース・ギル]]
|8= 8. [[チャールズ・スペンサー (第6代スペンサー伯爵)|第6代スペンサー伯爵チャールズ・スペンサー]]
|9= 9. マーガレット・ベアリング
|10= 10. 第3代[[アバコーン公爵]][[ジェイムズ・ハミルトン (第3代アバコーン公爵)|ジェームズ・ハミルトン]]
|11= 11. {{仮リンク|レディ・ロザリンド・ビンガム|en|Rosalind Hamilton, Duchess of Abercorn|ロザリンド・ハミルトン (アバコーン公爵夫人)}}
|12= 12. {{仮リンク|ジェームズ・ロッシュ (第3代ファーモイ男爵)|en|James Roche, 3rd Baron Fermoy|label=第3代ファーモイ男爵ジェームズ・ロッシュ}}
|13= 13. {{仮リンク|フランセス・エレン・ワーク|en|Frances Ellen Work}}
|14= 14. {{仮リンク|ウィリアム・スミス・ギル|en|William Smith Gill}}
|15= 15. ルース・リトルジョン
|16=16. [[フレデリック・スペンサー (第4代スペンサー伯爵)|第4代スペンサー伯爵フレデリック・スペンサー]]
|17=17. アデレイド・ホラティア・エリザベス・シーモア<br /><small>(初代[[ハートフォード侯爵]][[フランシス・シーモア=コンウェイ (初代ハートフォード侯爵)|フランシス・シーモア=コンウェイ]]の曾孫)</small>
|18=18. 初代[[レヴェルストーク男爵]][[エドワード・ベアリング (初代レヴェルストーク男爵)|エドワード・ベアリング]]
|19=19. ルイーザ・ブルティール
|20=20. [[ジェイムズ・ハミルトン (第2代アバコーン公爵)|第2代アバコーン公爵ジェイムズ・ハミルトン]]
|21=21. {{仮リンク|メアリ・ハミルトン|en|Maria Hamilton, Duchess of Abercorn|label=メアリ・アンナ・カーゾン=ハウ}}<br /><small>(初代[[ハウ伯爵]][[リチャード・カーゾン=ハウ (初代ハウ伯爵)|リチャード・カーゾン=ハウ]]の娘)</small>
|22=22. 第4代[[ルーカン伯爵]]{{仮リンク|チャールズ・ビンガム (第4代ルーカン伯爵)|en|Charles Bingham, 4th Earl of Lucan|label=チャールズ・ビンガム}}
|23=23. セシリア・キャサリン・ゴードン=レノックス<br /><small>(第5代[[リッチモンド公]][[チャールズ・ゴードン=レノックス (第5代リッチモンド公)|チャールズ・ゴードン=レノックス]]の娘)</small>
|24=24. {{仮リンク|エドムンド・ロッシュ (初代ファーモイ男爵)|en|James Roche, 3rd Baron Fermoy|label=初代ファーモイ男爵エドムンド・ロッシュ}}
|25=25. エリザベス・キャロライン・ブースビー
|26=26. フランクリン・H・ワーク{{efn2|アメリカの[[実業家]]・[[証券会社|株式仲買人]]}}
|27=27. エレン・ウッド
|28=28. アレクサンダー・オグストン・ギル
|29=29. バーバラ・スミス・マー
|30=30. デイヴィッド・リトルジョン
|31=31. ジェーン・クロムビー
}}
{{ahnentafel bottom}}

== 関連出版物 ==
[[画像:ArmenianStamps-140.jpg|thumb|250px|1998年発行の[[アルメニア]]切手]]

* {{Cite book|和書|title=素顔のダイアナ妃 全記録 日本の6日間|publisher=[[朝日新聞社]]|date=1986-06-10|isbn=978-4-0225-5538-0|id={{NDLJP|12220577}} }}
* {{仮リンク|コリン・キャンベル (作家)|label=コリン キャンベル|en|Lady Colin Campbell}}著、平形澄子 訳『ダイアナ妃 その秘められた素顔と私生活』[[イースト・プレス]]、1992年。{{ISBN2|978-4-9005-6849-5}}。
* {{仮リンク|アンドリュー・モートン (作家)|label=アンドリュー・モートン|en|Andrew Morton (writer)}}、[[入江真佐子]] 訳『ダイアナ妃の真実 彼女自身の言葉による』[[早川書房]] 1992年、新版1997年
*: 新版は、事故死直後に刊行、本人インタビューである事が明かされた。
* {{仮リンク|ニコラス・ディヴィス|en|Nicholas Davies (journalist)}}、[[広瀬順弘]] 訳『ダイアナ妃 ケンジントン宮殿の反乱』[[読売新聞社]]、1992年。{{ISBN2|978-4-6439-2115-1}}
* アンドリュー・モートン、[[木村博江]]・石戸谷滋 訳『ダイアナ妃13年目の選択』[[文藝春秋]]、1994年。
* [[石井美樹子]]著『ダイアナ 恵まれない人びとに手をさしのべたプリンセス』[[小学館]]「学習まんが人物館」、1998年、{{ISBN2|978-4-0927-0014-7}}
* デイリー・オードリー著、ティム・グレアム著『ダイアナ 想い出のアルバム』南雲堂フェニックス、1998年。{{ISBN2|978-4-8889-6177-6}}
* コリン・キャンベル著、[[小沢瑞穂]] 訳『ダイアナ“本当の私”』光文社、1998年。{{ISBN2|978-4-3349-6083-4}}。
* {{仮リンク|トレヴァー・リース=ジョーンズ|en|Trevor Rees-Jones (bodyguard)}}著、高月園子 訳『そして薔薇は散った ダイアナ妃事故3年目の真実』ショパン、2000年、{{ISBN2|978-4-8836-4138-3}}
*: 著者は事故時のボディーガードで唯一の生存者。
* ポール・バレル、川崎麻生 訳『ダイアナ妃 遺された秘密』[[ワニブックス]]、2003年
*: ダイアナ妃の元執事、未公開の手紙や写真を掲載。
* [[リタ・エイダ]]著、森晴季 訳『ダイアナ―愛のスピリチュアルガイダンス・14章 天界のダイアナ妃より』[[三雅]]、2003年、{{ISBN2|978-4-4340-3181-6}}
* ケイト・スネル著、大城光子 訳『ダイアナ 最後の恋』[[竹書房]]文庫、2013年。{{ISBN2|978-4-8124-9666-4}}
*: ダイアナと[[ハスナット・カーン]]の交際についての著作
* ティナ・ブラウン著、菊池由美・笹山裕子・村上利佳・高橋美江 訳『ダイアナ クロニクル <small>伝説のプリンセス 最後の真実</small>』[[中央公論新社]]、2011年
* [[渡辺みどり]] 『愛のダイアナ ウィリアム王子の生母「生と性」の遍歴』[[講談社]]、2013年。{{ISBN2|978-4-0621-8614-8}}。
* [[東園子]]、[[和田奈津子]]著『ダイアナ』[[集英社]]「学習漫画 世界の伝記NEXT」、[[2013年]][[12月13日]]、{{ISBN2|978-4-0824-0063-7}}


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Notelist2|30em}}
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}

== 参考文献 ==
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* {{Cite book|和書|year=1986|month=5|title=素顔のダイアナ妃 全記録 日本の6日間|publisher=[[朝日新聞社]]|isbn=978-4-0225-5538-0 |ref={{sfnref|『全記録 日本の6日間』|1986}} }}
* {{Cite book|和書|author=コリン・キャンベル|authorlink=:en:Lady Colin Campbell|others=[[平形澄子]] 訳|date=1992-08-04|title=ダイアナ妃 その秘められた素顔と私生活|publisher=イースト・プレス|isbn=978-4-9005-6849-5 |ref={{sfnref|キャンベル|1992}} }}
* {{Cite book|和書|author=ニコラス・デイビス|authorlink=:en:Nicholas Davies (journalist)|others=[[広瀬順弘]] 訳|year=1992|month=12|title=ダイアナ妃 ケンジントン宮殿の反乱|publisher=[[読売新聞社]]|isbn=978-4-6439-2115-1 |ref={{sfnref|デイビス|1992}} }}
* {{Cite book|和書|author=ジョナサン・ディンブルビー|authorlink=:en:Jonathan Dimbleby|others=[[仙名紀]] 訳|year=1995|month=7|title=チャールズ皇太子の人生修業〈下〉|publisher=朝日新聞社|isbn=978-4-0225-6880-9 |ref={{sfnref|ディンブルビー|1995}} }}
* {{Cite book|和書|author=アンドリュー・モートン|authorlink=:en:Andrew Morton (writer)|others=[[入江真佐子]] 訳|year=1997|month=12|title=完全版 ダイアナ妃の真実 彼女自身の言葉による|publisher=[[早川書房]]|isbn=978-4-1520-8131-5 |ref={{sfnref|モートン|1997}} }}
* {{Cite book|和書|author=レディ・コリン キャンベル|others=[[小沢瑞穂]] 訳|year=1998|month=5|title=ダイアナ“本当の私”|publisher=[[光文社]]|isbn=978-4-3349-6083-4 |ref={{sfnref|キャンベル|1998}} }}
* {{Cite book|和書|author=石井美樹子|authorlink=石井美樹子|year=2000|month=12|title=恋する王冠 ダイアナ妃と迷宮の王室|publisher=[[御茶の水書房]]|isbn=978-4-2750-1846-5 |ref={{sfnref|石井|2000}} }}
* {{Cite book|和書|author1=宮北惠子|author2=平林美都子|authorlink2=平林美都子|year=2009|month=12|title=映画を通して知るイギリス王室史 歴史・文化・表象|publisher=[[彩流社]]|isbn=978-4-7791-1469-4 |ref={{sfnref|宮北|平林|2009}} }}
* {{Cite book|和書|author=デビッド・アーロノビッチ|authorlink=:en:David Aaronovitch|others=[[佐藤美保]] 訳|date=2011-04-29|title=陰謀説の嘘 ユダヤ陰謀論から9.11まで|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=978-4-5697-9690-1 |ref={{sfnref|アーロノビッチ|2011}} }}
* {{Cite book|和書|author=ティナ・ブラウン|authorlink=:en:Tina Brown|others=菊池由美、[[笹山裕子]]、[[村上利佳]]、[[高橋美江]] 訳|year=2011|month=4|title=ダイアナクロニクル 伝説のプリンセス最後の真実|publisher=[[マーブルトロン]]|isbn=978-4-1239-0295-3 |ref={{sfnref|ブラウン|2011}} }}
* {{Cite book|和書|author=渡辺みどり|authorlink=渡辺みどり|date=2013-09-19|title=愛のダイアナ ウィリアム王子の生母「生と性」の遍歴|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4-0621-8614-8 |ref={{sfnref|渡辺|2013}} }}
* {{Cite book|和書|author=君塚直隆|authorlink=君塚直隆|year=2020-2|title=エリザベス女王 <small>史上最長・最強のイギリス君主</small>|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公新書]]|isbn=978-4-12-102578-4|ref=君塚 2020}}
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{Commons|Diana, Princess of Wales}}
{{Commons&cat|||ダイアナ}}
{{Wikiquote|:en:Diana, Princess of Wales|ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)}}
{{Wikiquotelang|en|Diana, Princess of Wales}}
* [[クィーン (映画)]] - ダイアナ事故死直後の王室の舞台裏をドキュメントタッチで描く[[2006年]]公開のイギリス映画。
* [[イギリス王室]]
* [[ダイアナ (映画)]] - ダイアナと[[ハスナット・カーン]]の交際を描く[[2013年]]公開のイギリス映画。
* [[エリザベス2世]] - [[1926年]]4月21日生まれ。[[1952年]]に[[英連邦王国|イギリス連邦王国]]の[[女王]]として在位、現在に至る。
* [[スペンサー ダイアナの決意]] - ダイアナがチャールズ皇太子との離婚を決意した1991年のクリスマス休暇の3日間を描いた[[2021年]]のイギリス映画。
* [[チャールズ (プリンス・オブ・ウェールズ)|チャールズ王太子]] - [[1948年]]11月14日生まれ。エリザベス2世と[[フィリップ (エディンバラ公)|エディンバラ公爵フィリップ]]の間に生まれた長男。ダイアナの元夫で[[1996年]]に離婚。
* {{仮リンク|プリンセス・ダイアナ|en|The Princess (2022 documentary film)}} - 2022年のイギリスのドキュメンタリー映画。
* [[ウィリアム (ケンブリッジ公)|ウィリアム王子]] - [[1982年]]6月21日生まれ。チャールズ王太子とダイアナの間に生まれた長男。
* [[ー・オブ・ウェルズ|ヘンリー王子]] - [[1984年]]9月15日生まれ。チャルズ子とダイアナの間に生まれた次男
* [[フォ・ダイアナ]] - [[2007年]]開催の追悼コンサト。ウィリアム王子とヘンリー王子が企画
* [[赤十字社]] - ダイアナが晩年赤十字のボランティアで地雷除去や社会的弱者への救済を行った。
* [[ジョージ・オブ・ケンブリッジ|ジョージ・オブ・ケンブリッジ王子]] - [[2013年]]7月22日生まれ。ウィリアム王子と同夫人キャサリンとの間に生まれた長男。ダイアナの最初の孫。
* [[エルトン・ジョン]] - イギリスの歌手。ダイアナの生前から交友があり、ダイアナの葬儀の時に歌唱した。
* [[カミラ (コーンウォール公爵夫人)|カミラ夫人]] - [[1947年]]7月17日生まれ。[[2005年]]にチャールズ王太子が再婚した女性。
* [[マザー・テレサ]] - 晩年、交流があったとされる。
* [[クィーン (映画)|クィーン]] - [[2006年]]9月15日に公開されたイギリス映画。ダイアナが事故死した直後の王室の舞台裏をドキュメントタッチで描く。
* [[フレディ・マーキュリー]] - 生前に交流したことがある。
* [[コンサート・フォー・ダイアナ]] - [[2007年]]7月1日に開催された追悼コンサート。ウィリアム王子とヘンリー王子が企画した。
* [[ブレッド・アンド・バター・プディング]] - 生前ダイアナ妃が好んで食べていた[[ブレッドプディング]]の一種とされるスイーツ。


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* [http://www.royal.gov.uk/HistoryoftheMonarchy/The%20House%20of%20Windsor%20from%201952/DianaPrincessofWales/Background.aspx 英国王室の公式サイト ダイアナ(プリンセス・オブ・ウェールズ)]{{En icon}}
* [https://www.royal.uk/diana-princess-wales 英国王室の公式サイト ダイアナ(プリンセス・オブ・ウェールズ)]{{En icon}}
* [http://www.theworkcontinues.org/ ダイアナ(プリンセス・オブ・ウェールズ)記念基金] Theworkcontinues.orgのオフィシャル・サイト{{En icon}}
* [http://www.dianaprincessofwalesmemorialfund.org/ ダイアナ(プリンセス・オブ・ウェールズ)記念基金] Theworkcontinues.orgのオフィシャル・サイト{{En icon}}
* [http://www.people.com/people/static/h/package/dianaremembered/ "Diana Remembered"] [[ピープル (雑誌)|ピープル]]マガジン{{En icon}}
* {{Wayback |url=http://www.people.com/people/static/h/package/dianaremembered/ |title="Diana Remembered" |date=20160507170554}} [[ピープル (雑誌)|ピープル]]マガジン{{En icon}}
* [http://www.mmjp.or.jp/motorcar-museum-of-japan/ 日本自動車博物館]{{リンク切れ|date=2011年12月}} - ダイアナが3回にわたり来日した際に乗った車が展示されている。
* {{Wayback|url=http://mmj-car.com/event/diana.html |title=日本自動車博物館|date=20091213073743}} - ダイアナ来日際に乗車した[[ロールス・ロイス・シルヴァースパー|ロールス・ロイス]]が展示されている。
* {{NHK放送史|D0009030177_00000|チャールズ皇太子 ダイアナ妃と結婚}}
* {{NHK放送史|D0009030206_00000|チャールズ皇太子ダイアナ妃 来日}}
* {{NHK放送史|D0009170114_00000|ダイアナ元皇太子妃 死去の知らせ届く}}
* {{YouTube|VXjEQfMtUbI|英 チャールズ皇太子・ダイアナ妃が来日(1986年・TBSアーカイブ)}}
* [https://www.ina.fr/ina-eclaire-actu/video/cab97125637/f2-le-journal-20h-emission-du-31-aout-1997 F2 Le Journal 20H : émission du 31 août 1997] - [[フランス国立視聴覚研究所|INA]]{{fr icon}}
* {{YouTube|9TIwnOOAFH8|31 aout 1997 : La mort de Lady Diana}} - [[フランス国立視聴覚研究所|INA Actu]]{{fr icon}}
* {{YouTube|QV2xGqapeHk|YouTube "Concert for Diana"}} 2007年7月1日にウィリアム、ヘンリー両王子が母のために主催した[[コンサート・フォー・ダイアナ]]の動画。
* {{Kotobank|ダイアナ}}


{{プリンセス・オブ・ウェールズ|1981年 - 1997年}}
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[[Category:ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)|*]]
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2024年12月1日 (日) 19:47時点における最新版

ダイアナ
Diana
ウェールズ公妃
1997年
在位 1981年7月29日 - 1997年8月31日
続柄 エドワード・スペンサー第3女子

全名 Diana Frances Spencer
ダイアナ・フランセス・スペンサー
称号 ウェールズ公妃(※離婚後保持)
ロスシー公爵夫人(※離婚後剥奪)
身位 Princess of Walesウェールズ公妃、※離婚後保持)
敬称 Her Royal Highness妃殿下、※離婚後剥奪)
出生 1961年7月1日
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランドサンドリンガム英語版、パークハウス
死去 (1997-08-31) 1997年8月31日(36歳没)
フランスの旗 フランスパリサルペトリエール病院
埋葬 1997年9月6日
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランドノーサンプトンシャー州オルソープ
配偶者 チャールズ3世
(1981年 - 1996年)
子女 ウィリアム
ヘンリー
父親 スペンサー伯爵エドワード・スペンサー
母親 フランセス・シャンド・キッド[1]
役職 英国赤十字社副総裁
サイン
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ウェールズ公妃ダイアナDiana, Princess of Wales、全名: ダイアナ・フランセスDiana Frances)、旧姓: スペンサーSpencer)、1961年7月1日 - 1997年8月31日)はイギリス王室のチャールズ皇太子(現:国王チャールズ3世)の前妻(1996年に離婚)。日本語では離婚により英王室を離れた立場にあるため「ダイアナ元妃」と表現される場合が多い。

1961年7月、イギリスの名門貴族スペンサー伯爵家の4人目の令嬢として誕生。1977年、ダイアナの姉セーラ・スペンサーの紹介が基となってチャールズ皇太子(当時)とダイアナは1981年2月に19歳で婚約し、同年7月に20歳で結婚。翌年6月には夫との間にウェールズ公ウィリアム皇太子(第1位王位継承権者)次いで、その翌々年9月にはサセックス公ヘンリー王子を授かる。しかし、婚約当初からのチャールズ皇太子カミラ夫人(当時)の不貞問題により夫婦関係は悪化し、1992年12月からの別居を経て1996年8月に離婚が成立。

離婚後は慈善活動等に積極的になり、多くの英国民から慕われた。しかし、翌年の1997年8月31日未明にフランスパリ市内で大富豪ドディ・アルファイド氏との交際関係が浮上し、執拗なパパラッチからハイヤーを猛スピードで振り切ろうとした車体は交通事故を起こした。瀕死だったダイアナは収容先の病院で4時間後息を引き取った

ダイアナは、息子のウィリアム皇太子夫妻やハリー王子夫妻の嫡内子であり英王室の王位継承権を持つジョージ王子シャーロット王女ルイ王子アーチー・マウントバッテン=ウィンザーリリベット・マウントバッテン=ウィンザーの父方の祖母にあたる。

概要

[編集]

1961年スペンサー伯爵家の嫡男であるオールトラップ子爵エドワード・ジョン・スペンサーとその夫人フランセスの間の三女としてサンドリンガム英語版の屋敷パークハウスで生まれる。スペンサー家17世紀以来続く貴族の家系である(生誕と出自)。

両親は1967年から別居し、1969年に離婚した。ダイアナら子供の親権は父が獲得した。弟チャールズとともにパークハウスで育てられたが、1970年にはノーフォークの寄宿学校リドルズワース・ホール学校英語版に入学、ついで1973年ケント州にある寄宿学校ウェスト・ヒース学校英語版に入学した。1975年に父がスペンサー伯爵位を継承したのに伴い、ダイアナもLadyの儀礼称号を得た(少女時代)。

1977年に姉セーラと交際していたウェールズ公チャールズ(当時)と初めて出会った(チャールズ皇太子との出会い)。同年末にスイスにある花嫁学校アルパン・ヴィデマネット学院英語版に入学するも、すぐに帰国し、ロンドンで一人暮らしを始める(ロンドンで独り暮らし)。1979年に王室のサンドリンガム邸のパーティーで皇太子に再会したのがきっかけで皇太子と親しい関係になり、1980年に交際が深まった(チャールズ3世との交際)。

1981年2月に若干19歳であった彼女は皇太子と婚約し、20歳の誕生月の7月29日セント・ポール大聖堂で結婚式を執り行った(皇太子との婚約結婚式)。1982年5月から皇太子とともにケンジントン宮殿で生活をはじめ、ウィリアム皇太子ヘンリー王子の2子をもうけるも、やがて結婚生活や家庭生活、公務についての皇太子との考え方の違いが深刻化した。ダイアナは過食症に苦しむようになり、チャールズ3世も1980年代半ば以降にはダイアナのいるケンジントン宮殿に戻らず、ハイグローヴ邸英語版で暮らすことが増え、カミラとの交際を再開するようになる(ケンジントン宮殿での生活ウィリアム王子とヘンリー王子の誕生皇太子との関係の冷却化)。

1992年12月に皇太子夫妻が別居生活に入ることが正式に発表された。1993年に皇太子とカミラが愛を囁き合う電話のテープが公開され、1994年には皇太子自身もカミラが自分の人生の「中心的人物」であることを公表した。ダイアナは1995年11月にBBCのインタビューに答えてチャールズ3世との結婚生活について「3人の結婚生活だった」と総括し、またダイアナ自身も元騎兵連隊将校ジェームズ・ヒューイット英語版と5年にわたって不倫していたことを認めた。そして自分はイギリス王妃にはならないことと「人々の心の王妃」になりたいという希望を表明した(別居生活)。

1996年8月に離婚が成立。2人の王子の親権をチャールズ3世と平等に持ち、ウェールズ公妃称号維持と妃殿下(HRH)の剥奪の引換に莫大な慰謝料を獲得した。離婚後、エイズ問題や地雷除去問題など慈善活動への取り組みを本格化させる(離婚と慈善活動)。またこの頃からパキスタン心臓外科ハスナット・カーンと交際するようになる。さらに1997年7月からはエジプト映画プロデューサードディ・アルファイドとの交際も開始する(ハスナット・カーンとドディ・アルファイドとの二股交際)。

1997年8月31日未明、フランスパリでドディとともに乗車していたが交通事故を起こして死去する(パリで交通事故死)。死後、チャールズ3世の意向によりイギリス王室が彼女の遺体を引き取り、準国葬の「王室国民葬」に付された。英国民の強いダイアナ哀悼の機運から、当時の女王(国王)エリザベス2世が特別声明を出し、また葬儀中にはバッキンガム宮殿半旗が掲げられるという異例の処置が取られた(哀悼・葬儀)。

生前、ダイアナはファッションセンスを高く評価されており、女性のファッションに大きな影響を与えた(ファッション)。また慈善事業への積極的な取り組みも高く評価されていた(離婚と慈善活動他者への愛)。死後も彼女の人気は極めて高い(ダイアナ人気)。訪日は三度行っており、1986年昭和61年)の最初の訪日では日本に「ダイアナフィーバー」と呼ばれる社会現象を巻き起こした(ダイアナの来日)。

生涯

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生誕と出自

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スペンサー伯爵家の本邸オールソープ英語版邸。ダイアナ生誕時・幼少期には祖父アルバートが居住する邸宅であったが、幼少期のダイアナもしばしば遊びに行った[注 1]。1975年に父エドワードが相続する。

1961年7月1日午後にイングランドノーフォークサンドリンガム英語版・パークハウスに生まれる。父はオールトラップ子爵エドワード・ジョン・スペンサー(後の第8代スペンサー伯爵)。母はその夫人であるフランセス(第4代ファーモイ男爵モーリス・バーク・ロッシュの娘)。父方の先祖と母の名前をとって「ダイアナ・フランセス」と名付けられた。ダイアナは三女であり、姉にセーラジェーンがいる。またダイアナ誕生から3年後に弟チャールズが生まれている[3][4]スペンサー家は羊商として財をなし、1603年ロバート・スペンサーがスペンサー・オブ・ウォームレイトン男爵に叙されて以来続く貴族の家系である。スペンサー家の本家はチャーチル家からマールバラ公爵位を継承し、スペンサー=チャーチル家と改称した[注 2]。一方ダイアナのスペンサー伯爵家は1765年第3代マールバラ公爵の甥ジョン・スペンサーがスペンサー伯爵位を与えられたことに始まる家柄である。スペンサー伯爵家の者は19世紀には政界の中枢で活躍する者が多かったが、貴族院議員が政界中枢になることが忌避されるようになった20世紀以降は政界での活躍はほとんど見られなくなり、廷臣や軍人としての活動が目立つようになった[5]。ダイアナ生誕時の当主は祖父である第7代スペンサー伯爵アルバート・スペンサーだった[2]。その嫡男である父エドワードはオールトラップ子爵の儀礼称号を使用していた。

母方のロッシュ家はアイルランドに屋敷を構え、ファーモイ男爵の爵位を継承する家柄である。家格や財産の面ではスペンサー伯爵家の方が上だが、母フランセスの父である第4代ファーモイ男爵モーリス・ロッシュは王室と親しい関係にあり、パークハウスを王室から貸し与えられ、また彼の妻(ダイアナの祖母)ルース1956年以降エリザベス皇太后に女官として仕えていた[6][注 3]

スペンサー伯爵家の嫡孫である弟チャールズは女王エリザベス2世代父母としてウェストミンスター寺院洗礼を受けた。長姉セーラもエリザベス皇太后、次姉ジェーンもケント公エドワードを代父母にしていた。しかし三女であるダイアナは低く扱われ、ノーフォーク知事夫人メアリー・コールマンやクリスティーズ会長ジョン・フロイドなど資産家ながら平民が代父母であり、洗礼を受けた場所も地元サンドリンガムの聖メアリー・マグダレン教会英語版だった[8][9]

ダイアナの生家パークハウスは王室御用邸サンドリンガム邸に近い場所にある。サンドリンガム邸に招く客を収容するために国王エドワード7世が建てさせた屋敷であり、国王ジョージ5世の代に母方の祖父ファーモイ卿に貸し出され、ファーモイ卿の死後、ダイアナの父母が同屋敷の借家権を相続していた[10]駐車場、屋外プールテニスコートクリケット場などを備え、6人の住み込み使用人が働いていたが、貴族の邸宅としては小規模な方だった。しかし周囲の環境は牧歌的であり、子供の教育場としては最適であった。ダイアナはここで育つことになる[11]

少女時代

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ケント州セブンノークスにある寄宿学校ウェスト・ヒース学校英語版。ダイアナは1973年から1977年までここに入学していた。

姉二人はそれぞれ6歳、4歳年上であり、ダイアナが彼女らの仲間入り出来る年齢になる前の1967年9月にはケント州セブンノークスウェスト・ヒース学校英語版に入学したため、幼いダイアナは弟チャールズとともに育った[12][13]

父オールトラップ卿と母フランセスは不仲で、母はオーストラリア帰りの裕福な実業家ピーター・シャンド・キッド英語版と不倫するようになった。1967年夏に父と母は「試験的」に別居し、ダイアナと弟チャールズは母とともにロンドンへ移った。オールトラップ卿はフランセスがいずれ同居に戻るものと思っていたが、彼女に離婚の意志があることを知るとパークハウスを訪れたダイアナとチャールズをロンドンに帰さず、パークハウスの生活に戻させ、近隣のキングズ・リンのシルフィールド学校(Silfield School)に入学させた。これに反発した母は親権を求めて訴訟を起こした。イギリスの離婚訴訟は一般に母親有利だが、不倫の事実や貴族の地位が父に有利に働き、1968年からはじまった離婚申請審問の結果、親権は父が得た[14][15]

1970年9月にノーフォークの寄宿学校リドルズワース・ホール学校英語版に入学した。ダイアナは優等生ではなかったが、スポーツ万能でバレエダンステニスネットボール水泳などで活躍した。友達も多かったという[16][17]

1973年には姉二人と同様にケント州のウェスト・ヒース学校に入学した。この頃のダイアナはバーバラ・カートランドの恋愛小説に熱中し、勉強を怠っていたため、成績が悪かったという[18][19]。しかしこの学校においても引き続きスポーツ分野では活躍した。この頃のダイアナはバレリーナになりたがっていたが、身長が180センチ近くまで伸びたため、断念せざるをえなかった。姉セーラと比べると劣るもののピアノも得意だった[20]。この学校は学生のボランティア活動に力を入れており、ダイアナも毎週のように老夫婦の家を訪問してはその話し相手になったり、家事の手伝いをした。この経験を通じてダイアナは自らの社会奉仕への適性を発見したという[21][22]

1975年6月9日に祖父第7代スペンサー伯爵アルバート・スペンサーが死去し、父エドワードが第8代スペンサー伯爵位を継承する。弟チャールズはオールトラップ子爵の儀礼称号を継承し、ダイアナら三姉妹はLady(姫、令嬢)の称号を得た。これに伴い一家はスペンサー伯爵家の本邸であるオールソープ英語版邸に引っ越した。この邸宅にはダイアナのダンス室が設けられ、ダイアナはホールでダンスの練習に励んだという[23][24]

父はオルソープ邸を相続して間もなく、以前から付き合っていたレイン(バーバラ・カートランドの娘でダートマス伯爵夫人)と再婚した。しかしダイアナ含むスペンサー家の子供たちはこの継母のことを嫌っていた[25][26]

チャールズ3世との出会い

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ウェールズ公チャールズ、1972年当時

1977年6月のロイヤルアスコット開催(王室主催競馬)でダイアナの姉セーラがウェールズ公(皇太子)チャールズと恋仲になった。皇太子はセーラの誘いを受けて11月にもスペンサー伯爵家の地所オルソープを訪問した。当時16歳のダイアナもウェスト・ヒース校の週末の休みでオルソープに滞在しており、狩猟場でチャールズ皇太子に紹介された。これが皇太子とダイアナの初めての出会いだった。しかしこの段階では特にロマンスが芽生えたわけではなかったようである。チャールズ皇太子の友人によればこの時に皇太子が抱いたダイアナへの感想は「陽気で明るいティーンエイジャー」という程度のものだったという[27][28][29][注 4]

ダイアナは1977年12月にOレベル試験英語版に二度目の挑戦をするも失敗し[注 5]、進学を断念した。父母の話し合いの結果、ダイアナはスイスクシュタート近くにあるフィニッシングスクールアルパン・ヴィデマネット学院英語版に入れることになった[32][33]。ダイアナは入学から6週間後にはイギリスに帰国している[34][注 6]

一方チャールズ皇太子と姉セーラは、1978年2月にクシュタート近くのクロスターズスキー旅行にやってきたが、この時セーラはマスコミの取材に対して「私は愛していない男性とは結婚しません。例え相手がクズ屋でもイギリス国王でもね。もし彼が求婚してきても断るでしょう。」と答えた。この発言の真意は定かでないが、繊細な皇太子はこれに傷ついて以降セーラと距離を置くようになった[36][37]

ロンドンで独り暮らし

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スイスからオルソープ邸に戻ったダイアナは、これから何をするか全く決まっていなかったが、とりあえず継母レインが仕切っているオルソープ邸でくすぶっていたくなかった[38]。子供の面倒を見る仕事をしたいという漠然とした夢を持ってロンドンでの独り暮らしを希望したが、両親からは18歳までは独り暮らしは認めないと申し渡された。代わりにスペンサー伯爵家の友人であるジェレミー・ウィテカー少佐夫妻のハンプシャーの邸宅に住み込んで、そこで子供の面倒や家事の手伝いをするようになった。

その後、母がロンドン・カドガン・スクウェア英語版にある母のフラットで暮らすことを許可してくれたため、事実上ロンドンでの独り暮らし生活を始めることができた(母はスコットランドで日常生活を送っていたのでロンドンを訪れるのはまれだった)。ロンドンでのダイアナはパーティのウェイトレスをしたり、家政婦をするなどして生計を立てた[39][40][注 7]

ダイアナは1978年11月にウィンブルドンにある貴族の娘のための料理学校に入学し、そこで3か月ほど料理の勉強をした[42][43]。ダンサーになる夢は高身長のために断念したが、代わりにダンス講師を夢見るようになり、ブロンプトン・ロード英語版にあるダンス学校に通った。しかしこの学校で才能がないと言われたことに傷つき、また1979年3月に友人と行ったフランス・アルプスへのスキー旅行で転倒して足を怪我したため、ダンス学校に通うのを止めた[42][44]

母のフラットが売却されたため、1979年7月にはコールハーン・コート(Coleherne Court)60番地のフラットを5万ポンドで購入してそこへ引っ越した。念願の自分のフラットを持ったダイアナは、維持費を稼ぐため、女友達にもこの部屋を貸して同居した(最終的には4人の共同生活になった)。彼女たちとの同居を通じてボーイフレンドもたくさんできるようになったが、チャールズ皇太子が現れるまで男性とは誰とも深い付き合いにはならなかったという[45][46]

チャールズ3世との交際

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ダイアナとチャールズ皇太子が初めてキスをした場所、王室船「ブリタニア号英語版」。

一方その頃、チャールズ皇太子(当時)も様々な女性と関係を持っていた。その一人がチャールズ皇太子の後妻となるカミラだった。皇太子とカミラは1972年に出会っており、以来友達のような間柄だった。その後カミラはアンドリュー・パーカー・ボウルズと結婚するも皇太子との関係は断続的に続いた。だが当時のマスコミはカミラのことはほとんど掴んでいなかった[47]

当時マスコミが皇太子妃最有力候補として注目していたのは、皇太子の大叔父にあたるマウントバッテン卿の孫娘で美しく聡明で人格的にも優れたアマンダ・ナッチブル嬢英語版だった。チャールズは1974年、アマンダが17歳の時に彼女の母に結婚の意思を告げるが、まだ若すぎると断られた[48]。その後1979年8月にマウントバッテン卿がアイルランド民族主義団体「IRA」に暗殺された後に皇太子とアマンダの絆が強まっているように見えた[49]。そして皇太子はマウントバッテン卿を失って1ヶ月もしない時期に、悲劇的体験を共有できるアマンダにプロポーズをしたが、祖父をテロで失った彼女には王室に嫁ぐ気は無かった[50]

そんな中の1979年、王室のサンドリンガム邸で開かれたパーティにダイアナらスペンサー伯爵家令嬢たちが招かれた。チャールズ皇太子はスペンサー伯爵家の上の娘二人(セーラとジェーン)のことはよく知っていたが、まだ子供のダイアナにはこれまでほとんど関心を持たなかった。しかしこの時の再会で皇太子はダイアナが美しく育っていることを知った。皇太子とダイアナはダンスを踊って楽しんだ。この段階では恋愛関係には至らなかったものの、以降ダイアナは、しばしば皇太子から招待を受けるようになり、親しい友人になっていった[51]

チャールズ皇太子の証言によれば、1980年7月にサセックスペットワース英語版近くのカントリー・ハウスバーベキューをしていた際にマウントバッテン卿の死を悲しんでいる皇太子をダイアナが「貴方の寂しさは理解できるし、貴方には誰かが必要だ」と慰めたことに皇太子は心打たれたという[29]

同年8月にワイト島の港街カウズ英語版ヨットレース「カウズ・ウィーク英語版」が開催された際、ダイアナは王室船「ブリタニア号英語版」に招待された[52]。この船上で皇太子とダイアナは初めてキスをした[53]

皇太子が80万ポンドで購入したばかりのグロスタシャーにあるハイグローヴ邸英語版にも頻繁に招かれるようになり、さらにパーカー・ボウルズ家にも連れて行かれ、カミラに紹介された。この際に皇太子はダイアナと結婚することについてカミラの意見を聞いたが、カミラは推奨した。以降、皇太子はダイアナとの結婚を本気で考えるようになったという[54]

マスコミの追跡の始まり

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1980年秋にはマスコミが皇太子とダイアナの関係を突きとめた。この時から昼夜問わずマスコミがダイアナのところへ押し寄せてくるようになり、ダイアナに私生活は無くなった。当時ダイアナが勤務していた幼稚園にまでマスコミがやって来るようになった。彼女の赤いローバー・メトロは何台ものマスコミの車から追跡を受けるようになった。ダイアナ報道は過熱の一途をたどり、やがてタブロイド紙『サンデー・ミラー英語版』紙が「ダイアナが夜中の二時に停車中のお召し列車に乗り込み、皇太子と一夜を共にした」という捏造を報じるに至った[注 8]。ダイアナはこの記事にひどく傷つき、皇太子も不快に感じた[56][57]

娘を不憫に思った母フランセスは12月に『タイムズ』紙に宛ててプライベート無視のマスコミ報道を批判する手紙を送った。これがきっかけとなり英国議会も「ダイアナ・スペンサー嬢に対するマスコミの扱いを遺憾に思う」とする批判動議を決議した。だがマスコミはスクープを物にしようとダイアナ追跡を続けた。ダイアナはルームメイトの協力も得て、様々な手段でマスコミを煙に巻いては、コールハーン・コートの自宅を脱出して皇太子に会いに行った[58]

チャールズ3世との婚約

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婚約から結婚の間の5ヶ月間を暮らしていたバッキンガム宮殿

すでに30過ぎの皇太子は結婚を急がねばならず、そういう中で家柄もよく、マスコミのネタにされそうな過去(恋愛経験)もなく、また当時は控えめな女性に見えたダイアナは無難な選択肢に思えた。皇太子の親族や取り巻きの多くもこの結婚に賛成か、少なくとも反対はしなかった[59][注 9]

1981年2月6日にチャールズ皇太子がウィンザー城でダイアナに求婚した。皇太子は「スキー旅行に出てる間、どんなに貴女に会いたかったことか」と述べたうえで「私と結婚してほしい」と簡潔に求婚したが、ダイアナは冗談だと思って笑っていたという。皇太子は真剣な求婚であることを強調し、「貴女はいつの日か王妃となるのだ」と述べたという。ダイアナはこのプロポーズを受け入れた[61]

婚約発表の前日の2月23日夜、ダイアナはルームメイトたちに別れを告げた後、スコットランドヤードのポール・オフィサー警部の警備のもと、コールハーン・コートを出た。この際に警部は「今夜が貴女の人生で最後の自由な夜ですよ。精一杯お楽しみなさい」と述べたといい、ダイアナは「剣で心臓を貫かれたようでした」と回顧している[62]

ダイアナはエリザベス皇太后クラレンス邸での一時滞在を経てバッキンガム宮殿へ移り、結婚までそこで過ごしたが、宮殿の慇懃なよそよそしさに監獄に入ったかのような息苦しさを感じるようになった[注 10]。また皇太子とカミラの関係に敏感になっていった[注 11]。そのストレスでこの頃から後の拒食症の初期症状を見せるようになった。飢餓状態となり、婚約発表時72.5センチあったウェストは結婚式までに57.5センチまで落ちた[65][66]

それでも公的な社交場に出るときのダイアナはリラックスして楽しんでいるかのようだった。未来の義弟アンドリュー王子(皇太子の弟)の21歳誕生日パーティでは、アンドリュー王子がイギリスで一番の資産家のウェストミンスター公爵夫人がどこにいるのか尋ねたのに対して、ダイアナは「まあアンドリュー。有名な方のお名前をさも親しいように言うのはおやめなさい」とジョークを飛ばして場を和ませた[67]

結婚式

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皇太子とダイアナの結婚式が挙行されたセント・ポール大聖堂

王室儀式の準備は宮内長官英語版の任務だが、結婚式の準備はチャールズ皇太子自らが取り仕切り、宮内長官マクレーン卿英語版に様々な指示を出した。皇太子の決定により結婚式は1981年7月29日セント・ポール大聖堂で挙行されることになった。ここはバッキンガム宮殿から離れているため警備上の不安があるものの、ウェストミンスター寺院よりも広いので多くの人間を収容できた。式で流す音楽も皇太子が選定し、キリ・テ・カナワに祝賀の歌が依頼されることになった。聖歌も皇太子が選定した。ダイアナは式の準備にはほとんど関与しなかったが、彼女の好きな愛国歌『我は汝に誓う、我が祖国よ』は曲目に入れてもらえた。招待客については基本的に女王が取りきめた(ダイアナと彼女の父スペンサー卿にも一応提案権はあった)[68]

祝典は実質的に結婚式前夜の7月23日夜から始まっていた。ハイド・パークでは1万2000発の花火が打ち上げられ、近衛隊とモリストン・オルペウス合唱団英語版が聖歌の合同演奏を行った。英国中がお祭り騒ぎになった。イギリスがこれほど全国民あげての祝賀ムードに包まれたのは1953年のエリザベス2世戴冠式以来のことであったという[69]

結婚式前夜、ダイアナはクラレンス邸に入り、早めに就寝した。翌日朝6時におきたダイアナは、浴槽につかった後、朝食をたっぷりと取り、美容師やメイクアップアーティストに整髪や化粧をしてもらい、ウェディングドレスを着用した。ウェディングドレスは、英国製シルクでできたこの上なく豪華なものだった。そのドレスの裾は王室史上最長の7.6メートルにも達した[70]ティアラは実家スペンサー伯爵家伝来のダイヤモンドの物、イヤリングは母から贈られたダイヤモンドの物を着用した。用意が済むと父スペンサー卿とともに馬車に乗り込み、群衆に手を振りながらセント・ポール大聖堂へ向かった。大聖堂には世界中の君主、王族、大統領、首相などが集合していた。アメリカからはファーストレディナンシー・レーガン日本からは皇太子明仁親王美智子皇太子妃が出席していた[70]。大聖堂に到着したダイアナは、バージンロードを父とともにゆっくり進み、王立海軍礼服を着用して待つチャールズ皇太子の横に立った。カンタベリー大主教ロバート・ランシーの司式で、結婚の誓いが行われた[70]。この結婚式の模様はテレビ中継され、全世界70か国7億5000万人もの人々が見守っていた。(日本ではNHKが放送した[71]。)式に出席していた旧ユーゴスラビア王族のカタリナ王女は「ダイアナが神々しいほどに美しかった」と回想している。ダイアナが文字通り全世界の人々の視線を釘付けにした瞬間だった[72][73][74]

式を終えたダイアナと皇太子は国民の歓声を受けながら馬車でバッキンガム宮殿へ戻った。宮殿の庭にも国旗を振りながら「ダイ(ダイアナ)万歳!チャーリー(チャールズ皇太子)万歳!」と叫ぶ国民が集まっていた。その歓声にこたえて王族一同はバルコニーに出て国民に手を振って挨拶した。皇太子とダイアナはキスして見せ、群衆はそれに拍手喝采を送った[69]

新婚旅行は王室船ブリタニア号での地中海エーゲ海クルージングだった[75]。マスコミに追いまわされないよう王立海軍の協力を得て極秘裏に行われた。英国マスコミはギリシャに飛んで皇太子夫妻を探し回ったが、ついに発見できなかった[76]

女王との同居生活

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ハネムーンから帰国した皇太子夫妻は8月から10月下旬まで女王が滞在中のスコットランドバルモラル城で休暇生活に入った[77]。しかしバルモラル城での女王との同居生活は全てを女王に合わせなければならないため、ダイアナにとっては息苦しかった[78][注 12]。またダイアナは結婚式が終わればマスコミや世論の自分への関心も無くなると思っていたが、ダイアナ人気はその後も長く続き、様々な雑誌の表紙を彼女が飾り続け、常にマスコミの目を気にしなければならないプレッシャーが続いた。また皇太子とカミラの関係も相変わらず気になった。ダイアナのストレスと過食症はひどくなる一方で嘔吐を繰り返した[80]。他人の面前で泣いたり、苛立ったりすることも増えた。幼い頃から感情を出さない訓練を受けている皇太子は、彼女の感情爆発にどう対応すればいいのか分からず、困惑させられることが多かった[81]

ダイアナは皇太子とともにケンジントン宮殿[注 13]で暮らすことになっていたが、同宮殿の改修工事が完了するまではバッキンガム宮殿で女王との同居を続けなければならなかった。ダイアナは早く女王から離れたがっており、改修工事を急がせ、1982年5月からそこで生活できるようになった[83]

ケンジントン宮殿での生活

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ケンジントン宮殿

皇太子とともにケンジントン宮殿に移ったダイアナは今度こそ皇太子と二人っきりの生活を始められると思っていたが、皇太子には膨大な公務があり、また公務以外にも最低週一回はコーンウォール公領の統治業務にあたる必要があった。そのため皇太子とダイアナが私的に一緒にいられる時間はほとんどなく、寝る時だけ一緒という日もあった。国王の座に就く時が来るべく躾けられていた皇太子は幼い頃からプライベートのない生活に慣れていたが、ダイアナはそうではなかった[84]。ダイアナは皇太子にいつも自分と一緒にいて愛を囁いてほしがっていた[85][86]が、将来の国王と結婚した身にはそれが困難であることをダイアナは理解していなかった。

そのためケンジントン宮殿に入ってからのダイアナは、公務の同行を拒否したり[84]、皇太子が公務に出るのを阻止しようとしたり[注 14]、皇太子と親しい使用人を宮殿から追い出したり[注 15]自傷行為をしたり[91][注 16]、一人でショッピングに出ようとして王室警備隊に止められるなど[93]、身勝手な反抗が急増した。

皇太子は王室の環境になれていない間は仕方ないと考え、ダイアナの我がままにもなるべく付き合っていたが、やがてダイアナがいつまでも王室に適応しないのにうんざりさせられてきた[94]

ウィリアム皇太子とヘンリー王子の誕生

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1985年の訪米時、ホワイトハウスロナルド・レーガン大統領夫妻とともに

ケンジントン宮殿でそのような生活を送りながらもダイアナは二人の王子を出産した。

1981年10月に最初の妊娠が判明した。王室はこれまでバッキンガム宮殿内で出産するのが伝統だったが、ダイアナは最新医療設備のある病院での出産を希望し、西ロンドンのセント・メアリー病院英語版での出産を決めた。出産に際しては皇太子も付きっきりになり、ダイアナの手を握りながら励ましの言葉をかけ続けたという。ダイアナは1982年6月21日午後9時3分に第2王位継承権者となる長男を出産した。この長男には「ウィリアム・アーサー・フィリップ・ルイス」という名前が与えられた(現在のウィリアム皇太子[95][96]。ちょうどフォークランド紛争の戦勝と重なり、イギリス国民の祝賀気分は高揚した[97][98]

ウィリアム王子の出産後、皇太子は秘書官たちの反対を押し切って公務への出席を減らし、ダイアナと一緒に王子を育てることに専念した。この時期がダイアナにとって最も幸せな家族団欒の日々であったという[99]

1984年9月15日午後4時20分にはセント・メアリー病院で第3位王位継承権者である次男を出産し、「ヘンリー・チャールズ・アルバート・デイビス(通称ハリー)」と名付けられた(ヘンリー王子)。この時にも皇太子は出産に付き添った[注 17]。皇太子は公務をさらに減らして次男を可愛がった[101]

しかし皇太子の父であるエディンバラ公フィリップは、皇太子が家族にかまけて公務をないがしろにしていることを批判した。その抗議の意味を込めてエディンバラ公はヘンリー生誕から5カ月に渡ってヘンリーの顔を見ようとしなかったが、ダイアナはそれに強く憤慨した。父とダイアナの板挟みになった皇太子はコーンウォール公領の農場に引きこもって領主の仕事に安らぎを見出すようになった[102]

チャールズ3世との関係の冷却化

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1986年7月23日、ヨーク公アンドリュー王子の結婚パレードの際のチャールズ皇太子とダイアナ。

ダイアナによれば1984年に次男ヘンリーが生まれた時点で気持ちのうえでの二人の関係は終わっていたという[103]。皇太子は1985年から1986年にかけてコーンウォール公領のハイグローヴ邸で暮らすことが増えた。1987年にはケンジントン宮殿は皇太子不在状態が常態化してダイアナが事実上の女主人になっていたという[104]。同年の皇太子夫妻のポルトガル訪問にも夫妻は別々に寝所をとっている[103]。皇太子は婚約以来カミラとの関係を断っていたが、この頃から交際を再開するようになった[105][106]

別居状態が長く続くと、ダイアナの方も皇太子が一緒にいない時の方が落ち着くようになった。彼女の友人は「皇太子がケンジントン宮殿にいると、ダイアナはすっかり途方に暮れて、子供のように戻ってしまうのです。自分が一人でいるときに築きあげた全てを失ってしまうのです」と証言している[107]。皇太子への情熱を失ったダイアナは、代わりに王子二人の養育と慈善事業に情熱を注ぐようになった。ダイアナが熱心に取り組んだ慈善事業の一つがエイズ問題だった。ダイアナは「英国エイズ救援信託基金」を財政支援し、また積極的にエイズ患者と触れ合うことでエイズ患者に対する偏見を無くすことに尽力した。エイズ問題以外でも様々な慈善事業に取り組み、英国産婦人科医師会の死産・新生児死亡・不妊症問題の研究のための募金機関「バースライト」、麻薬中毒者やアルコール中毒者の救済のための慈善団体「ターニングポイント」などに財政支援を行った[108]

1987年から1992年にかけてマスコミの皇太子批判報道が高まり、ダイアナの立場は有利になっていった[注 18]

ダイアナは、1992年3月29日オーストリアレヒドイツ語版で皇太子や王子2人とともにスキー旅行をしていた際[注 19]、父スペンサー卿の死を知った。彼女は一人で帰国しようとしたが、この際に皇太子も同行を希望した。これに対してダイアナははじめ「優しい夫を演じるにはもう遅すぎる」と主張して皇太子の同行を拒否しようとした。彼女は自分の悲しみを王室の宣伝に利用されるのが嫌であったという。しかし同行しなければマスコミに叩かれるのは明らかなので皇太子は強引にでもダイアナを説得して一緒に帰国した[112][113]

1992年6月7日から『サンデー・タイムズ』にアンドリュー・モートン英語版の著作『ダイアナ妃の真実』から抜粋した連載記事が掲載され始めた[114]。これはダイアナ本人やダイアナの友人の証言に基づいた物で皇太子を一方的に批判する内容だった。この出版以来、皇太子とダイアナの関係は完全に冷却化した[115]。正式な別居を希望するダイアナは、1992年10月の韓国訪問の際、露骨かつ子供じみたデモンストレーションを行った。すなわち皇太子と一緒にいる時は不機嫌そうな顔で、皇太子が一緒にいない時はにこやかな顔でマスコミの撮影に応じたのだった[116]

別居生活

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1995年の国際レオナルド賞でのダイアナ。

ダイアナと皇太子の合意により、1992年12月9日に夫妻が別居生活に入ることが、庶民院でジョン・メージャー首相から正式に発表された[117][118][119]。ダイアナが暮らすケンジントン宮殿からは皇太子の私物や痕跡が取り払われ、一方皇太子が暮らすハイグローヴ邸からはダイアナの私物や痕跡が取り払われていった。ダイアナがこの模様替えで最初に指示したのは皇太子と夜を共にしたダブルベッドを廃棄処分させたことだったという[120]。別居の際の条件でダイアナは王子二人と隔週の週末に会うようになった。その日にはダイアナは学校まで車で王子たちを迎えに行って、ケンジントン宮殿に連れ帰り、親子水入らずの日を過ごした[121]

1993年1月に皇太子とカミラが愛をささやき合っている電話のテープをマスコミが入手し、これが報道されたことで皇太子批判が高まった。別居後のダイアナは皇太子とカミラの関係に無関心を装っていたが、実際にはお抱えの占星術師にカミラの星座チャートを調べさせて二人の運勢を占わせるなどかなり気にしている様子だったという[122]。1994年6月に放送されたジョナサン・ディンブルビー英語版制作のドキュメンタリー番組の中で皇太子は、結婚生活が崩壊するまでは妻に対して貞節を守っていたと述べつつ、カミラは自分の人生の中で「中心的な存在」であり、今後もそうあり続けるであろうことを公表した。これについてダイアナは「私自身かなり打ちのめされました。でも、その正直さは称えたいと思いました」と語った[123]

1993年12月3日には公務からの引退を宣言した[124]

1994年10月には5年に渡るダイアナの不倫相手だった元騎兵連隊将校ジェームズ・ヒューイット英語版がダイアナと自分の不倫についての暴露本『恋するプリンセス(Princess in Love)』(ISBN 978-0-5259-4017-3)を出版したが、ダイアナはこれにだいぶショックを受けたようだった[125]

BBCのインタビュー

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ダイアナは1995年11月放送のBBCテレビ番組『パノラマ英語版』のインタビュー録画映像に出演した。このインタビューはBBC上層部にも無断で行われたものだった(当時のBBC社長マーマデューク・ハッセイ英語版は女王や皇太子と親しい関係だった)[126][127]。このインタビュー映像は英国のみならず日本を含む101カ国で放送された[128]

その中で彼女は皇太子とカミラの関係について「この結婚生活には三人の人間がいたのです。少し窮屈すぎますね」と表現した[129][130]。また彼女自身もヒューイットと不倫していたことを認めた(ヒューイットが金目当てで暴露本を出版したことにショックを受けており、現在彼への熱は冷めたと主張した)[130][131]

結婚生活が崩壊した責任はどちらにあるのかという質問に対しては「半分は私にあると思います。しかしそれ以上ではありません」と述べた。離婚するのかという質問に対しては「私は離婚を望んでいません。夫の決断を待っています」と述べた。王室は変化する必要があると思うかという質問には「皆、王室が好きではなくなってしまっています。私自身嫌になってしまっているのですから。もっと国民と触れ合いを持ってほしいです」と述べたが、王室廃止論については「子供の将来がかかっているのに、そんなことを望むはずがありません。ただ子供たちのために必要な闘いはなんでもします」と述べている。そして自分が王妃になると思うかという質問に対しては「思いません。(私は皆さんの)心の王妃になりたいです。チャールズも国王になることには葛藤があります」と述べた[132]

この放送はドキュメンタリー番組としては過去最高の視聴率を記録した[133]。イギリス全土で2280万人に視聴されたという[134]。放送を見た国民の大半はダイアナに同情的であったという意見もあるが、それを裏付ける信憑性のあるデータはない[135]

離婚と慈善活動

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1997年6月18日にホワイトハウスで大統領夫人ヒラリー・クリントンと会見するダイアナ。

皇太子夫妻の離婚交渉の混迷は王室人気に大きな打撃を与えており、やがてエリザベス女王は皇太子とダイアナ双方に手紙を送って早期離婚を促すようになり、座礁しかけていた離婚交渉が進展を見せるようになった[136]

1996年2月28日にチャールズ皇太子との会見を終えたダイアナは離婚の合意に達したことを発表した。その中で彼女は「今後も王子二人の養育に関する全てに携わり続け、またプリンセス・オブ・ウェールズの称号を維持し、ケンジントン宮殿にも留まり、セント・ジェームス宮殿にある執務室も運営し続ける」旨を一方的に主張した。これに対して女王は「非常に興味深い」という冷ややかな反応をすることでダイアナの称号、今後の役割、財産分与はまだ決まっていない旨を示唆した[137][138]

その後も離婚交渉は4カ月にわたって続いた。最終的に皇太子とダイアナが離婚について合意に至ったのは、皇太子がダイアナに推定1700万ポンド(約29億円)[注 20]の慰謝料を一括支払いすること[140][141]、ダイアナがケンジントン宮殿に引き続き居住し続けること[140]、ダイアナのセント・ジェームズ宮殿の執務室の維持費年40万ポンド(約6800万円)を皇太子が拠出すること[140][139]、また「Her Royal Highness(妃殿下、HRH)」の敬称は剥奪されること[140][142][143][注 21]、王子二人の養育権は夫妻が平等に持つことであった[143]

1996年8月28日の離婚確定判決をもって正式にダイアナと皇太子の結婚生活は幕を閉じた[146]

離婚後王室の公務が無くなったダイアナは、その隙間を埋めるようにこれまで以上に国際的慈善活動に積極的に取り組んだ。特にエイズ問題、ハンセン病問題、地雷除去問題への取り組みに熱心だった。1997年1月にはBBCの取材チームとともに内戦の影響で地雷の多いアンゴラを訪問した。地雷原を歩く姿をマスコミに撮影させ、地雷問題への世界の関心を集めた。1996年12月にアメリカ元国務長官ヘンリー・キッシンジャーはダイアナを「今年の人道主義者」に選出しており、ダイアナはニューヨークでの授賞式に出席している[147]

1997年6月25日にはニューヨーク・マンハッタンで自分のドレスのオークションを行い[注 22]、その売上金はエイズ・患者に寄付した[149]

ハスナット・カーンとドディ・アルファイドとの二股交際

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ハロッズにあるダイアナとドディ・アルファイドの追悼碑

1996年にはパキスタン人の心臓外科医ハスナット・カーンと交際を深めた。二人の交際は同年11月の『サンデーミラー英語版』紙にも報道された。ダイアナは1996年と1997年5月の二度、パキスタンを訪問してハスナットの家族と会見している。またハスナットに二人の王子を紹介したという[150]

1997年7月、亡き父スペンサー卿や継母レインが親しくしていた、エジプト人の大富豪のモハメド・アルファイドが所有する南フランスのサントロペの別荘に招待された。モハメドはロンドンの老舗デパート「ハロッズ」のオーナーではあったものの、武器取引や詐欺、さらにハイチの独裁者のフランソワ・デュヴァリエと深い仲にあるなどの黒い噂があり、ダイアナの友人たちはこのような怪しい人物に関わらない方がいいと忠告したが、ダイアナは忠告に感謝しつつも聞き入れず、夏休み中の二人の王子とともに招待を受けることにした[151][152]

アルファイド家所有のクルーザーで地中海クルージングを楽しんだが、この際にダイアナは、モハメドと武器商人のアドナン・カショギの妹のサミラの間に出来た息子ドディと親しくなった。ドディは当時41歳の映画プロデューサーであり、アカデミー賞受賞作品『炎のランナー』を手掛けた人物だった。既に中年であるにもかかわらず父親から月10万ドルの仕送りを受けており、5台のフェラーリを所有するプレイボーイだった。ドディとダイアナの交際が深まると、モハメドはイギリス王室と親戚関係を持つ野望を公然と口にするようになった[153]

王子2人は7月20日にロンドンに帰国したが、ダイアナとドディは地中海のクルージングを続けた(一時的にダイアナは地雷キャンペーンのためにボスニアに行っている)。8月初めにはダイアナとドディのクルージングがマスコミによって写真に収められ、「ダイアナの新しい恋人」との報道が過熱した[154]

なお、ハスナットとの交際とドディとの交際は同時進行、つまり「二股交際」だったという。どちらが本命だったかは不明だが、ハスナットは2008年に行われたダイアナの死因究明審問の証言の中で「彼女が自分を裏切るはずはない」と述べており、ダイアナとドディが妊娠していたなどという噂は信じられないと主張している[155]

パリで交通事故死

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事故現場。パリ8区16区境界上にあるアルマ広場フランス語版下のトンネル。

1997年8月30日にダイアナとドディはチャーター機でパリ郊外のル・ブルジェ空港に到着した。宿泊予定のオテル・リッツ・パリから派遣された運転手とボディーガードに伴われて、5ツ星ホテルのリッツに入った[156]

このホテル滞在中にダイアナはウィリアム王子から電話を受けている。マスコミから単独での写真撮影を依頼されたことについての相談の電話だった。これが息子との最後の会話となった。この日の夜はドディとポンピドゥー・センター近くのレストラン「ブノワ」で夕食を取る予定だったが、マスコミがレストランで待ち受けていたので中止し、結局夜9時50分頃にホテルの部屋の中で夕食を取った[156]

その日の夜はドディのアパートで寝る予定だったが、ホテル外で待ち構えているマスコミの数が急増していたため、ドディとダイアナは囮の車を何台かホテル正面から出した後、8月31日に入った0時24分頃、ホテル裏口からメルセデス・ベンツ・S280で出発した。乗車していたのはダイアナとドディ、運転手アンリ・ポールフランス語版、ボディーガードのトレヴァー・リース=ジョーンズ英語版(トレバー・リース・ジョーンズとも[157])の4人だった。4人を乗せた車は、追跡してきたマスコミの車をまこうと135キロから150キロという違法な猛スピードでコンコルド広場からアルマ広場フランス語版へ向かったが、アルマ広場下のトンネルで他車と接触事故を起こし[158]、これを避けようとして運転を誤り、中央分離帯のコンクリートに正面衝突した。シートベルトを締めていなかったドディとポールは即死し、ダイアナとジョーンズは重傷を負った(助手席のジョーンズただ1人が生き残る)[159]。当初、この事故では生存したジョーンズのみがシートベルトを装着していたと一部メディアでは報道されたが、実際は搭乗者全員がシートベルトを装着していなかったことが後に明らかになった[160]

車を追跡していたマスコミたちと通りすがりの医師が第一発見者となった。医師が携帯電話で救急車を手配し、救急隊が到着するまで医師と一人のカメラマンがダイアナの応急処置にあたったが、それ以外のカメラマンたちは写真を撮ってばかりだった。彼らは殺人罪と緊急援助義務違反の容疑でフランス警察に逮捕された。救急隊は1時間かかって潰れた車の屋根を切って前部座席と後部座席に挟まれたダイアナを車外に出すことに成功し、最寄りのサルペトリエール病院へ搬送したが、ダイアナの頭部と胸部はひどい傷を負っており、すでに助かる見込みはなかった。意識を取り戻すことなく、午前4時頃に正式に死亡宣告を受けた[161][162]

哀悼・葬儀

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1997年9月1日、ケンジントン宮殿前に寄せられたダイアナ哀悼の花束
1997年9月6日のダイアナの王室国民葬の葬列。

事故があった際、女王と皇太子はバルモラル城に滞在しており睡眠中だった。侍従に起こされた二人は、ダイアナがパリで重傷を負ったことを知らされた。皇太子は王子二人を起こさず、一晩中ラジオのニュース速報で情報収集をしていた。そして朝起きてきた王子二人にダイアナの死を告げたという。それに対してウィリアム王子は「何かあったことは分かっていたよ。それで一晩中眠れなかったんだ」と述べたという[163]

皇太子はパリに行ってダイアナの遺体を引き受ける決心をした。女王は「ダイアナは離婚してウィンザー家を去った人です。遺体は民間の安置所に安置されるべきです」と主張して反対したが、時の首相トニー・ブレアの支持も得て皇太子は女王を説得した[164]。ダイアナの姉二人とともに王室専用機でパリに飛んだ皇太子は、病院の緊急医療室に安置されたダイアナの遺体と対面した。皇太子は30分も元妃の亡きがらの前に立って涙を流したという。午後7時、皇太子はダイアナの棺を王室専用機の中に運ばせてフランスを発ち、王立空軍のノーソルト基地英語版に帰国した。ダイアナの棺はそこからセント・ジェームズ宮殿へ運ばれた[165]

ブレア首相はダイアナの遺体がイギリスに戻る直前にダイアナについての演説を行い、「彼女は人々のプリンセスでした。そしてこれからも永遠に私たちの心と記憶に留まり続けるでしょう」と述べた。それを立証するかのように国民が次々とバッキンガム宮殿やケンジントン宮殿にやってきてダイアナのために献花し、宮殿前は無数の花束で埋め尽くされた[166]

一方バルモラル城の女王は平常通りの宮中運営を希望し当初は緊急にロンドンへは戻らず、特別な声明を出したり、バッキンガム宮殿に半旗を掲げることに反対した。しかし、ダイアナへの冷淡さに対して国民の批判が高まり王制廃止の声まで出るに至ったため、皇太子やブレア首相の説得を受け入れロンドンへ帰還し、テレビカメラの前で国民に向けた特別声明を発した。その声明の中で女王は「私は今から女王として、そして一人の祖母として、皆さんに心からお話したいと思います。まず、私自身ダイアナに弔意を捧げたいと思います。彼女は非凡で才能に恵まれた人でした。いい時も悪い時も彼女は決して笑顔を失うことなく、他人を温かく親切に励ましました。私は彼女のエネルギーと他人の関わり、特に二人の息子への専心ぶりにおいて彼女を称え、尊敬しておりました」と述べた[167]

1997年9月6日にはダイアナのための準国葬「王室国民葬」が取り行われた。大砲の台車に乗せられたダイアナの棺は、葬列を伴ってウェストミンスター寺院へ運ばれた。棺のすぐ後ろにはチャールズ皇太子、ウィリアム王子、ヘンリー王子、皇太子の父エディンバラ公フィリップ、ダイアナの弟スペンサー伯爵チャールズが歩いた。バッキンガム宮殿では女王が外に出てダイアナの棺を見送り、頭を下げて弔意を示した。イギリス王室史上前例のないことだがバッキンガム宮殿には国旗が半旗として掲げられた。

ウェストミンスター寺院には2000人の会葬者が集まっており、その中にはマーガレット・サッチャー元首相やアメリカ大統領夫人ヒラリー・クリントン、映画監督スティーヴン・スピルバーグ、俳優トム・クルーズトム・ハンクスアーノルド・シュワルツェネッガーなどもいた[168][169]

葬儀が終わるとダイアナの棺は、スペンサー伯爵家の地所オルソープへ移送され、湖の中に浮かぶ小島(通称「ラウンド・オーバル島」)の中に葬られた[170][171]。ただし、遺骨が盗まれることを防ぐため、小島のどこに葬られたかは一切公表されず、埋葬の位置を示す墓碑も建てられていない[172]

2004年にはハイド・パークにダイアナ妃記念噴水英語版が作られた[173]。ダイアナの死から10年たつ2007年7月1日にはウィリアム王子とヘンリー王子が母を追悼するコンサート「コンサート・フォー・ダイアナ」をウェンブリー・スタジアムで主催している。6万3000人の観客を前にダイアナの友人だったエルトン・ジョンはじめイギリスの歌手たちが曲を披露した[174][175]。また命日の8月31日にはウィリアム王子が入隊している陸軍近衛騎兵連隊ウェリントン兵舎英語版の礼拝堂ガーズ・チャペル英語版でウィリアム王子とヘンリー王子主催の追悼礼拝が開催され、女王や皇太子、ゴードン・ブラウン首相などが臨席した。この席でウィリアム、ヘンリー両王子は「母は多くの人を幸せにし、世界中で最高の母でした」とスピーチしている[175][176]

人物

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息子たちの自由のために

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ダイアナはなるべく二人の王子を普通の子供のように育てたかった。ダイアナはよく王子二人とともにケンジントン宮殿近くのマクドナルドハンバーガーフライドポテトを食べに行った。店長がびっくりして最前列へ案内しようと近づいてきた際、ダイアナは「しーっ」と制したという[177]。ダイアナと王子二人の最後の親子団欒となった1997年8月初旬も、三人はスティーヴン・スピルバーグ監督の映画『ロストワールド』を鑑賞して過ごしたのだった[178]

こうした彼女の庶民的子育ては、王室の伝統への反逆と看做された。ダイアナの葬儀の際、ダイアナの弟スペンサー卿も「私たち血縁者はあらゆる努力を尽くして貴女の二人の素晴らしい息子たち、貴女が想像力と愛情を注いで育てあげたこの少年たちを育てていくことを誓います。貴女が望んだように彼らの魂が伝統と義務を受け継ぐだけではなく、自由に歌うことができるように」と姉の霊前に誓いを立てている[179]

他者への愛

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1987年5月、ホワイトホールコミュニティセンターのオープニングセレモニーで沿道の人々と話すダイアナ。

ダイアナは少女時代から勉強はまるでダメだったが、気質の優しい娘だった。スペンサー家3姉妹が入学したウェスト・ヒース校の校長ルース・ラッジは「スペンサー家3姉妹のことはよく覚えています。3人とも性格が違っていました。ダイアナは上の二人ほど頭はよくなかったですが、一番気持ちの優しい子でした。小さい子が好きで、すぐに仲良しになれるのです。学校の近くにある施設に障害児のお世話によく通っていました。どうしてあげれば喜ばれるかを心得ていて、楽しそうに進んでお世話していました」と述懐している。ウェスト・ヒース校でダイアナは社会福祉活動の功績を称えられて学校から「ミス・クロース・ローレンス賞」を贈られている[180]。この学校での社会奉仕経験で彼女は他者への献身という自らの特性を発見したという[21]

映画『ダイアナ』の監督オリヴァー・ヒルシュビーゲルは「彼女は愛を受けずに育ったので、小さいときから愛されたい、受け入れられたい、という気持ちが強かった」「とても無垢でもあり、必要としている人には何でも与えようとしていた」好意的に評している[181]

別居・離婚の結果、王室の公務と国民への奉仕の義務から解放されたダイアナは、その代わりに精力的な慈善事業家になっていく[182]。特にダイアナが熱心に取り組んだのが地雷除去問題だった。ダイアナが地雷問題に関心を持ったのは、アッテンボロー卿が監督を務める映画『ラブ・アンド・ウォー』のチャリティー初上演会に招待され、地雷の民間人に与える影響に衝撃を受けたのがきっかけだった。そして英国赤十字社のマイク・ウィットラム事務総長から地雷除去キャンペーンへの協力を要請されたため、協力を約束したのだった。内戦の爪痕が残るボスニアを訪問した際、ダイアナはサラエヴォの墓地で息子の墓参りをする女性と抱き合った。その光景を見たジャーナリストのディーズ卿は「こんなことが他の誰にできるだろうか。誰にもできはしない」という感想を書いている[183]

地雷問題は政治的な問題でもあり、ダイアナの運動は保守党政権の反発を買っていたが、彼女は「私は人道主義者です。今までもずっとそうでしたし、今後もそうあり続けます」と述べてそうした批判を一蹴していた。彼女の地雷除去キャンペーンは1997年に成立したブレア労働党政権を動かし、またアメリカのクリントン政権にも影響を与えたという[183]。彼女の死から3カ月後に対人地雷禁止条約が締結されている。しかしその反面、武器取引に関わっていたアルファイド家との交流には何の躊躇もなかった。

過食症

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1995年のBBCの番組のインタビューでダイアナは何年も過食症に苦しんでいることを明らかにした。過食症はストレスで心が空虚になるのを過食で満たそうとするが、その後嘔吐し、するとまた胃と心が空虚になってきて過食をするという病気である[184]

ダイアナはインタビューの中で「プレッシャーに影響されました。公務で外出する日は胃も心も空虚になって帰宅するのが常でした。その頃私は瀕死の人や重病者、結婚生活に悩む人と関わっておりましたが、帰宅すると先ほどまでたくさんの人を慰めていたのに、自分自身をどう慰めたらいいか分からず、冷蔵庫の中の食べ物を胃の中に流し込むのが習慣になってしまったのです」「一日に4回か5回、時にはそれ以上お腹一杯に食べます。すると気分が楽になります。二本の腕で抱かれているような気分になるのです。でもそれは一時的なものです」とその苦しみを語っている[185]

しかしウェストヒース学校の同級生の証言によればダイアナは学生時代から大食いで太り気味だったという[186]。マスコミから注目されるようになってから、太って見えないかを気にするようになり、過食した後に吐き出すという独自の「ダイエット法」を行うようになったという。侍従にも「すごくいいダイエット方法を見つけたの。好きなだけ食べて、その後でこうするだけ」と言って、吐くジェスチャーをして見せたことがある。これが過食症の直接の原因で王室生活のストレスでどんどん悪化していったという流れのようである[187]

心理学者バジル・パンツァー博士は「二人の女友達と暮らすフラットから宮殿に移ることは誰にとっても大きな変化である(略)精神医学の対象として彼女を見ると、こうした変化の後で心の病の症状が現れたことが分かる。摂食障害だ。よくある過食症の症例である。(略)ふっくらした10代の少女から体重不足の痩せた女性に変わっていった」「義務を果たすことに慣れていないのだろう。(略)立ち向かえずにプレッシャーに押しつぶされてしまう」と分析している[188]

「シャイ・ダイ」

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ダイアナは恥ずかしそうに上目づかいでしゃべったり内気に見える時があり、「シャイ・ダイ(Shy Di)」という渾名があった[189]

ただダイアナ自身や身近な人々は内気ではないと主張する。ダイアナは「マスコミがどうしてシャイ・ダイなんて言葉を思いついたのか分からない。私は昔から内気だったことなんてない」と述べている。友人のサイモン・ベリーは「マスコミが内気と誤解したのは彼女が慎重でどう出るか決めるまでは控えめな態度を取って内心を悟られないようにしたからでしょう。(略)でもそれは内気さとは関係ないわ。用心と計算と打算かしら。自信がある無しの問題でもない。自分がそうしたいと思ったらためらうような人ではなかったから」と述べている。またダイアナの継母レインの母バーバラ・カートランドも「マスコミが誤解したのは彼女がうつむいて猫背で歩くからだけど、あれは背の高さをカバーしているだけ。内気さとは関係ないわ」と主張している[190]

無言電話疑惑

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1994年8月の『ニュース・オブ・ザ・ワールド』誌はダイアナの無言電話疑惑を報じた。それによればダイアナの不倫相手であるジェームズ・ヒューイットのガールフレンドとダイアナとの関係が噂される人物の一人である美術商オリヴァー・ホー(Oliver Hoare)が何者かから無言電話を受けたが、被害届を受けた警察が調査したところその発信元はダイアナのケンジントン宮殿であったという[191]

これに対してダイアナは8月22日の『デイリー・メール』において自分を陥れるために何者かが仕組んだことであり、自分は無言電話のあった時間帯にケンジントン宮殿にいなかったとアリバイを主張して疑惑を否定したが、後にこのアリバイが崩れたため、疑惑が拡大した。この疑惑によってダイアナのイメージが一時期かなり悪くなった[192]

なおダイアナは1995年11月のBBCのインタビューの際にも無言電話疑惑を否定しており、「私が調べたところ、それは若い男性がかけたことが分かっています」と述べている[193]

スピリチュアル、セラピー

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1997年5月29日、ケンジントン宮殿前のダイアナと霊能者シュリ・チンモイ

ダイアナは1986年から6年に渡って占星術師ペニー・ソーントン(Penny Thornton)と親しく付き合い、以降占星術や霊的な物に関心を持つようになった。ペニーによればダイアナはもともと「霊的な人間」であるといい、自分はダイアナにそのチャンネルの存在を気付かせ、霊感を伸ばすよう忠告しただけとペニーは主張している[194]

やがてペニーが「皇太子妃の占星術師」の立場を利用し始めたため(ペニーは1995年にダイアナの結婚生活の暴露本『ダイアナ ペニー・ソーントンより愛をこめて』(ISBN 978-0-6718-9186-2)を出版している)、ペニーとは手を切ったが、ダイアナの占星術への興味は続いた。ダイアナは占星術師にかなりの金額を使ったようである。無言電話疑惑でダイアナ人気が落ちた際に反撃に出たチャールズ皇太子は、ダイアナがファッションやカウンセリングのために使っている金額が尋常ではないことを国民に公表したが、それによればダイアナは占星術師と心理療法家に年間650万円支払っているという。これに対してダイアナは皇太子がポロのために注ぎ込む巨額に比べたら微々たる金額と反撃している[195]

晩年の3年ほどはセラピストとの予定が多かったという。結腸洗浄療法士クリシー・フィッツジェラルド、心理療法士スージー・オーバック、薬草医アイリーン・ウィッタカー、精神治療医シモーネ・シモンズ、鍼治療師リリー・ファ・ユーの治療をよく受けていた。特にファ・ユーの鍼治療はダイアナのストレスを軽減するのに効果的だったといい、ダイアナは彼女のことを「奇跡の人」と呼んでいた[196]

ダイアナの伝記を書いたアンドリュー・モートン英語版は「生前ずっと彼女は議論や討論ではなく、本能や直感に導かれていた。一本の川のような流れが彼女を占星術師や霊能者、占い師、療法家などの世界に誘った」と評している[197]。しかしこのような科学的に根拠が無い「オカルト」かつ、きわめて個人的な事柄に国費を注いだことに関する批判も多い。

ファッション

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1985年11月9日の訪米時、ホワイトハウスジョン・トラボルタとダンスを踊るダイアナ。
1985年のイタリア訪問時、アレッサンドロ・ペルティーニ大統領と会見するダイアナとチャールズ皇太子。

自己顕示欲が強いダイアナは自分の記事の切り抜きを集めさせており、どうすれば美しく写真を撮られるかをモデル並みに研究していた。美容師を毎朝宮殿に召集し、海外訪問にも同行させていた。化粧は自ら行い、メイクアップが整うまで誰にも顔を見せなかった[198]

一番気を使っていたのはファッションだった。婚約時から結婚後最初の数年間はファッション雑誌『ヴォーグ英語版』の編集員アンナ・ハーヴィ英語版がダイアナ専属のスタイリストとして服を選んでいた。彼女を通じてダイアナは様々なイギリスのデザイナーと知己になった。とりわけ彼女が愛したのはキャサリン・ウォーカ―英語版のデザインした服とフィリップ・サマーヴィル(Philip Somerville)のデザインした帽子だった[199]。1985年と1992年にイギリス女性を対象に行われた世論調査によれば、「最も似たい女性」の一位はダイアナであったという[200]

英国ファッション界に貢献したいと考えていたダイアナは公的な場では英国製の服を着ることが多かった。しかし「私服」として外国ブランドの服も集めていた。外国ブランドで彼女が愛したのは、フランスシャネルイヴ・サン=ローランイタリアモスキーノイタリア語版英語版西ドイツエスカーダである。公務であっても外国訪問の場合にはこれらの服を着ていくこともあった。たとえば1980年のフランス訪問ではシャネル、1987年の西ドイツ訪問ではエスカーダを着ている。フランスでも西ドイツでもダイアナのファッションセンスに喝采が贈られた[201]という意見もある一方、イギリスの王族がかつてナチス・ドイツの諜報員であったココ・シャネルの服を安易に着ることに対するイギリス、フランス両方からの批判もあった。

ダイアナの服の購入は洋服店の開店前、あるいは閉店後に特別な手配がなされるのが一般的だったが、突然思い立って警官の護衛で買い物に出ることもあった。皇太子妃が来店したと聞いた支配人は慌てて飛び出してきて、あれこれ気を使いだすことが多かったが、そういう時ダイアナは「私は皆さんに迷惑をかけたくありません。ただ普通の人と同じように買い物をしたいだけです。どうか大袈裟に騒がないでくださいな。」と答えたという。ちなみにダイアナが公的な場に出るための衣装は王室費から、個人的な衣装はチャールズ皇太子の個人的収入(コーンウォール公領の収入)から支払われていた[202]

ジェフ・バンクス英語版が毎週ホストをしているBBCテレビのファッション番組『ザ・クローズ・ショー英語版』は、ダイアナのお気に入りの番組だった。番組の中でジェフ・バンクスはダイアナのファッションについて「彼女は華麗さと実用性の妥協点を見出しました。王族の服にはある種の公式が必要で、それがダイアナ妃の服装が時々古臭く見える唯一の原因です。腰丈のジャケットとスカートという組み合わせは彼女にとって着心地がよく、何の心配もなく着ていられるに違いありません。これは生涯、様々な人と会って過ごし、しかもそのなかには鑑識眼の鋭い人もいるのに、常に一分の隙もない恰好をしていなければならないという人には極めて重要なことです」と評している[203]

マリー・クヮントのファッションデザイナーのエルカ・フンデルマルクは「(ダイアナのファッションが)イギリスのファッション業界に与えた影響は、幾ら述べても誇張ではないわ。彼女のおかげで80年代のイギリスのデザイナーたちは国際的な舞台で活躍できたんですもの。それに彼女はたった一人で王侯貴族の女性の服を一新させたわ。ダイアナが登場するまで彼女たちはいつも決まった服しか着なかったし、ケント公妃のようなおしゃれな人でも控え目な色の服に、いつも大きな帽子と白い手袋を身に着けていた。まったくもって退屈でつまらない服装だった。だけど今では誰もがおしゃれな帽子と派手で大胆な色の組み合わせを身に付けている。女王でさえ、服装に合わせて黒や赤の手袋をするようになったのよ。これはファッション革命よ。ダイアナのおかげだわ」と述べている[204]

人気

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2002年にBBCが行った「100名の最も偉大な英国人」の世論調査ではウィンストン・チャーチルイザムバード・キングダム・ブルネルについで3位になった[205]

2013年9月にアメリカのCBSニュース番組『60 Minutes』と雑誌『ヴァニティ・フェア』が共同で行ったアメリカ世論調査によれば「生き返ってほしい有名人」の第1位はダイアナであったという。全得票の35%も得ている。ちなみに2位はAppleCEOのスティーヴ・ジョブズ(全得票の14%)だった[206]

ダイアナは世界で一番多く写真を撮られ、記事にされた人間だったと言われている[207]

来日

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東京にいる間、ダイアナが過ごした赤坂・迎賓館

ダイアナは生涯に3度来日している。最初は1986年(昭和61年)の公式訪問、2度目は1990年平成2年)の上皇明仁即位の礼への出席、3度目は1995年(平成7年)の英国赤十字社副会長としての来日である。この来日時には第二次世界大戦コモンウェルスの無名戦士墓地に献花をしている。20年後、長男ウィリアムが来日献花をしているが、亡き母の献花を報ずる日本の新聞のスクラップが記帳の際に用意された。初回目と2回目の来日はチャールズ皇太子とともに、3度目の来日は一人でだった[208]

とりわけ1986年(昭和61年)の最初の公式訪問は、日本に「ダイアナフィーバー」と呼ばれる社会現象を巻き起こしたことで知られる[209]。そのブームに乗じて日本の日本テレビ系列で1986年5月1日[210]に放送された特別番組『華麗!!ダイアナ妃のすべて見せます』では、少女時代のダイアナを主人公としたオリジナルアニメ『虹のかなたへ! 少女ダイアナ物語』が放送されている。キャストはダイアナ(島本須美)、ダイアナの祖母レディ・ファーモイ(麻生美代子)、ダイアナの父(徳丸完)、ダイアナの母(上田みゆき)、チャールズ皇太子(堀内賢雄)等。その後のソフト化は行われていない。

最初の公式訪問は以下の通りだった。

5月8日午後7時40分、英国王室機で大阪国際空港に到着したダイアナとチャールズ皇太子は、英語が得意な浩宮徳仁親王の出迎えを受け、その日の宿泊先である京都大宮御所に案内された[211][212]

5月9日にダイアナが着た衣装は訪日用に作った日の丸の水玉ドレスだった。同日午前に徳仁親王の案内で修学院離宮を見学したダイアナは、「大宮御所のインテリアも修学院の庭園も美しい」と感想を述べた[213]。午後には二条城を訪問し、裏千家家元の第15代千宗室、元皇族の千容子三笠宮崇仁親王次女。第16代千宗室に嫁いだ)らとともに茶道を楽しんだ[214][215]。東山の料亭「つる屋」では懐石料理をを使って食べた。ダイアナも皇太子も接待の舞妓の化粧や髪形を面白がっていたという[216]

5月10日午前に大阪神戸を訪問し、午後には大阪国際空港から東京羽田空港へ飛んだ。羽田では明仁親王秩父宮妃勢津子の出迎えを受け、元赤坂迎賓館に案内された。迎賓館で中曽根康弘首相らを引見した[212]。午後8時には東宮御所に入り、皇太子明仁親王、皇太子妃美智子、浩宮徳仁親王、紀宮清子内親王との内輪の晩餐会に参加した[217]。晩餐を終えて別れる際に皇太子妃美智子はダイアナにキスをしており、ダイアナもお礼に皇太子妃美智子にキスをしている[212]

5月11日午前に東京観光したチャールズ皇太子夫妻は、お昼に訪問先の青山のホンダ本社から元赤坂の迎賓館までの2.3キロの道路をオープンカーでパレードした[212]。沿道には皇太子夫妻を一目見ようと9万人もの日本人が殺到した。この10日前に皇太子夫妻の訪日に反対する過激派が迎賓館に向けて迫撃砲を撃ち、その弾が青山通りのカナダ大使館の近くに落ちるという事件が発生していたが、皇太子夫妻はその曰くつきのカナダ大使館前の地点ですっと立ちあがって観衆に向かって手を振っている[218]。迎賓館でダイアナは秩父宮妃や高円宮妃久子から生け花を教わった。市松人形をプレゼントされた際には「For me?」を3回繰り返すなど嬉しそうであったという[219]。夕方には寬仁親王夫妻の案内で両国国技館を訪問し、大相撲を観戦をした。観戦後には大関大乃国関脇小錦を引見したが、この際にダイアナは大乃国が「体重199キロです」と述べたのに驚いている様子だった。また小錦のお腹を突きながら「これは本物?」とジョークを述べて場を和ませた[220]

5月12日には皇太子とともに国会歌舞伎座などを訪問。歌舞伎座では『勧進帳』を観劇した。観劇後には市川團十郎尾上菊五郎らを引見している[221]

訪日のフィナーレを飾ったのは5月13日夜に皇居豊明殿で行われた昭和天皇主催の宮中晩餐会だった。チャールズ皇太子夫妻は公賓として来日していたが、日英両国の歴史的に深い絆から国賓待遇での接遇となった。皇太子夫妻は、晩餐会に先立って昭和天皇と会見しており、その席で昭和天皇は皇太子夫妻に九谷焼の壺を、皇太子夫妻は昭和天皇が好きな海洋生物学の本をそれぞれ贈呈し合った[222]。ダイアナは宮中晩餐会にロイヤルブルーのイブニングドレスで出席した。そのドレスについてダイアナは昭和天皇に「ロンドンでユキ(ロンドン在住の日本人デザイナーの鳥丸軍雪)に日本の絹で作れ、と言われて高い物になりました」と説明している[223]。晩餐会の料理を手がけた宮内庁大膳課は、京都でダイアナが日の丸をモチーフにした水玉ドレスを着用した返礼をと考え、デザートのブラマンジェに丸くくりぬいた赤いゼリーをいくつか貼り付けた。供されたものを一目見たダイアナは、そのアレンジに手を叩いて喜んだという。晩餐会を終えた後の午後9時27分に羽田空港から帰国の途についた。6日にわたる訪日だった[212]

事故死をめぐる陰謀論

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陰謀説を唱えるモハメド・アルファイド

ダイアナ妃の事故死について、ダイアナがドディ・アルファイドとの結婚を機にイスラム教に改宗する恐れがあり、未来の英国王(国教会首長)の母親がイスラム教徒という事態を防ぐため、あるいはダイアナがドディの子を身ごもっていて、アルファイド一族が未来の英国王の異父兄弟になることを阻止するため、イギリス政府が暗殺したとする陰謀論がある[224][225][注 23]

これを初めに主張し出したのは当時カダフィ大佐の独裁体制下に置かれていたリビア政府であり、ダイアナの死後24時間以内には陰謀説を流し始めている(当時イギリス政府とリビア政府はパンアメリカン航空103便爆破事件のリビア人犯人の裁判管轄をめぐって激しく争っていた)。やがてドディの父モハメドもカダフィーの陰謀説に乗り始め、「99.9%、確実にダイアナとドディは殺された。その理由はイギリス支配層が息子のことをニガーと看做したからである」と主張しだした[227]。彼は主犯を「人種差別主義者」エディンバラ公フィリップと断定し、1998年2月の『デイリー・ミラー』紙で陰謀説を訴えた。これがITVに特番『ダイアナ 最後の日々』としてドラマ化されたため、一時多くの国民が陰謀説を信じ込むようになった[228]

しかしダイアナの検死ではダイアナは妊娠していないとされている[229]。またダイアナとドディのギリシャ旅行前に月経前緊張症でダイアナを診察したリリー・ファ・ユー博士もダイアナは死の2週間前に月経を迎えており、妊娠は生物学的にあり得ないと指摘している[230]

またコリン・キャンベル英語版によればフランス警察筋は「陰謀説のことだが、実にくだらない。ダイアナとドディがどんなルートを取るかなど誰も知らなかったのだから。場所も車種も知らず衝突事故を目論むなど土台無理な話だ」「ダイアナとドディがシートベルトを着用していたら一命を取り留める可能性はかなり高かった。特にダイアナはね。被害者が生き残りそうな、しかも結果がどう転ぶかわからない事故を企てる奴がどこにいるのか。もしダイアナとドディを殺すつもりなら1週間前に彼らが泳いでいた時に実行しているだろう。潜水工作員を一人か二人送り込んで標的の足を掴み、溺死するまで離さず、死んだら手を離す。文句のつけようがない筋肉の腓返りによる事故死ということになる」と述べたという[231]

ダイアナの伝記を書いたティナ・ブラウン英語版は「ポールも、ドディも納得して車に乗ったのだし、パパラッチのバイクや車が猛スピードで走行し、状況が刻一刻と変化していた。そういう中で事前に事故を計画したグループが存在したかのように語るのは、かなりのつじつま合わせが必要となるだろう」と述べている[232]

ダイアナの死についてはイギリスでも10年に及ぶ調査と裁判が行われた。裁判ではモハメドが証言台に立って陰謀論を展開し、エディンバラ公を「陰謀公爵」と批判し、また陰謀論に都合の悪い存在(生き残ったボディーガードのジョーンズ、ドディの元愛人ケリー・フィッシャー英語版、ダイアナの恋人ハスナット)も「陰謀の加担者」と批判したが、モハメドの証言は裁判で次々と論破されていった。裁判により「現場から消えた白いフィアット・ウーノの事件への関与[注 24]」も「トンネルでのまばゆい閃光[注 25]」もないことが確定し、ついにはモハメドの弁護団も陰謀説を裏付ける証拠がないことを認めざるを得なくなり、2008年4月7日の陪審でダイアナの死は「過失による交通事故死」という公式結論が出されるに至った[234]

2013年8月17日イギリス陸軍特殊部隊SAS」所属の狙撃兵ダニー・ナイチンゲール英語版の裁判で、SASがダイアナ元妃殺害に関与したとする情報が出てきて再び波紋が広がり、ロンドン警視庁がこの情報の信憑性を確かめるための裏付け捜査を行った[224]。その結果、ロンドン警視庁は同年12月17日に新情報を裏付ける証拠は何もなく信用性なしとの結論を出している[235]

系図

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ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)の系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. 第4代スペンサー伯爵フレデリック・スペンサー
 
 
 
 
 
 
 
8. 第6代スペンサー伯爵チャールズ・スペンサー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. アデレイド・ホラティア・エリザベス・シーモア
(初代ハートフォード侯爵フランシス・シーモア=コンウェイの曾孫)
 
 
 
 
 
 
 
4. 第7代スペンサー伯爵アルバート・スペンサー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. 初代レヴェルストーク男爵エドワード・ベアリング
 
 
 
 
 
 
 
9. マーガレット・ベアリング
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19. ルイーザ・ブルティール
 
 
 
 
 
 
 
2. 第8代スペンサー伯爵ジョン・スペンサー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. 第2代アバコーン公爵ジェイムズ・ハミルトン
 
 
 
 
 
 
 
10. 第3代アバコーン公爵ジェームズ・ハミルトン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21. メアリ・アンナ・カーゾン=ハウ英語版
(初代ハウ伯爵リチャード・カーゾン=ハウの娘)
 
 
 
 
 
 
 
5. レディ・シンシア・ハミルトン英語版
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
22. 第4代ルーカン伯爵チャールズ・ビンガム英語版
 
 
 
 
 
 
 
11. レディ・ロザリンド・ビンガム英語版
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
23. セシリア・キャサリン・ゴードン=レノックス
(第5代リッチモンド公チャールズ・ゴードン=レノックスの娘)
 
 
 
 
 
 
 
1. ダイアナ(プリンセス・オブ・ウェールズ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 初代ファーモイ男爵エドムンド・ロッシュ英語版
 
 
 
 
 
 
 
12. 第3代ファーモイ男爵ジェームズ・ロッシュ英語版
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25. エリザベス・キャロライン・ブースビー
 
 
 
 
 
 
 
6. 第4代ファーモイ男爵モーリス・ロッシュ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26. フランクリン・H・ワーク[注 26]
 
 
 
 
 
 
 
13. フランセス・エレン・ワーク英語版
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
27. エレン・ウッド
 
 
 
 
 
 
 
3. フランセス・ロッシュ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
28. アレクサンダー・オグストン・ギル
 
 
 
 
 
 
 
14. ウィリアム・スミス・ギル英語版
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
29. バーバラ・スミス・マー
 
 
 
 
 
 
 
7. ルース・ギル
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
30. デイヴィッド・リトルジョン
 
 
 
 
 
 
 
15. ルース・リトルジョン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
31. ジェーン・クロムビー
 
 
 
 
 
 

関連出版物

[編集]
1998年発行のアルメニア切手

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 幼い頃のダイアナは祖父アルバートオールソープ英語版邸へ行くのが怖かったという。自分の方をじっと見ているように見える先祖の肖像画がかかった薄暗い廊下など、幽霊が出てきそうな雰囲気の場所が多数あったためという。また祖父と父エドワードの関係が悪かったのでダイアナは祖父を怖がっていたという[2]
  2. ^ 第二次世界大戦中の英国首相ウィンストン・スペンサー=チャーチル第7代マールバラ公爵の三男ランドルフ卿の息子である。ダイアナとチャーチルの関係はスペンサー家の項目参照。
  3. ^ コリン・キャンベル英語版は、ダイアナがチャールズ皇太子に嫁ぐうえで最も重要な役割を果たしたのは、この母方の祖母ルースであるとしている[7]
  4. ^ この頃にダイアナや彼女の家族が考えていたダイアナの結婚相手はチャールズ皇太子の弟であるアンドリュー王子だったという。彼とダイアナは年齢が近かったし、パークハウスでの幼少期にダイアナは王室のサンドリンガム邸に招かれた際、よく彼と一緒に遊んだためである[30]
  5. ^ Oレベル試験とは、標準(Ordinary)レベルの全国試験のことである。イギリスでは義務教育終了前の15歳から16歳ぐらいの子が7科目から10科目この試験を受けるのが一般的である。優秀な成績を収めた子は更にAレベル試験を受験する。ダイアナはOレベル試験を二度受験しているが、二度とも全科目不合格になっている。全科目落ちるというのは劣等生の中でも極めて珍しいことである。しかも二度目の受験ではダイアナは4科目しか受けなかったが、それでも全部不合格だった[31]
  6. ^ この早期帰国についてホームシックにかかったとか、異性問題を起こしたとか様々な噂を呼んだが、同校の校長ハイジ・ヤルセンは「ダイアナははじめから一学期しか登録していなかったのです。楽しくやってましたからホームシックなんてとんでもありません。ユーモアのセンスで人気があり、友達がたくさんいました。シャイではありませんでした。どちらかというと控え目でしたが、誰とでもうまくやっていけました」と証言している。またこの学校でダイアナの同級生だったイギリス人女性ソフィー・キンブルも「イギリスから来た生徒は大抵数カ月しかいませんでした。為替レートは恐ろしいほどでとても高くついたから」と証言している(当時のイギリスは厳格な外国為替規制を行っていた)[35]
  7. ^ ダイアナはほとんどの場合匿名で働いており、彼女の雇い主は彼女をスペンサー伯爵家の令嬢とは知らなかったようである[41]
  8. ^ 王室報道担当官は事実無根として同紙にこの記事の撤回を要求したが、当時同紙は捏造記事であることを否認して撤回を拒否した。しかしお召し列車の警備にあたっていた警察官にダイアナの姿を目撃した者はなく、現在ではこの記事の関係者全員が捏造記事だったことを認めている[55]
  9. ^ 数少ない反対者はマウントバッテン卿の孫ブラボーン卿英語版夫人ペニーであった。ペニーによれば、この頃ダイアナは「もし、うまいことプリンセス・オブ・ウェールズになれたら」といった表現をしていたと言い、それを聞いたペニーはダイアナは舞台のオーディションでも受けているような感覚で、皇太子妃になることの重要性を理解していないと感じたという[60]
  10. ^ ダイアナはオルソープ邸にいた頃、何もやることがなくてストレスがたまると通りすがった使用人を捕まえて(誰も通りすがらなかったら台所へ行って)おしゃべりをした。貴族の邸宅ではそれでよくてもバッキンガム宮殿ではそれは通用しなかった。バッキンガム宮殿内は全てが身分で動いており、その分をわきまえることが何よりも重要だった。ダイアナも皇太子の近侍からそのことを注意され、ダイアナが台所へ行こうとしても使用人から「ここから先は手前どもの領分、そこから先が妃殿下の領分です」と立ち入りを断られた。また元来勉強が苦手なダイアナは王室史などロイヤルファミリー向けの帝王学を嫌がっていたという[63]
  11. ^ 皇太子はカミラとは親しい友人だが、それ以上の関係ではないことをダイアナに説明したが、ダイアナは信じなかったという[64]
  12. ^ 女王との同居生活で特にダイアナが嫌がっていたのが、毎晩開かれる女王の晩餐会だった。晩餐会は客の顔ぶれや話題にもよるが、大抵は1時間から2時間かけてゆっくり行われる。食事の終了を決めるのは女王であり、それまでは誰も席を立つことは許されない。皇太子はそれに慣れていたが、ダイアナはこれまで早々に食事を済ませて自分のやりたいことをする生活を送ってきたため、我慢できなかった。またこのような場でのダイアナは大体の場合、皇太子と切り離され、自分と接点のない立派な男性二人に挟まれる。ダイアナは自分より頭のよさそうな人間と話してボロを出し、女王の前で馬鹿げたことを口走ってしまう事態を恐れていたため、こういう場では大抵沈黙していた。ダイアナはかつてのルームメイトに送った手紙の中で「ここでは私は完全に場違いのような感じがします。ときどき、いったい私はどうしてこんな羽目になっちゃったんだろうと思うことがあります。とても肩身が狭くて、寂しくて、無力な気がします」と吐露している[79]
  13. ^ ケンジントン宮殿は環境省が管理し、王室が貸している屋敷の集合体である。女王の裁量で貸し出され、主に親戚や廷臣、友人などが入居する。賃料は払わなくてよいが、女王が立ち退きを命じれば直ちに出て行かねばならない[82]
  14. ^ 皇太子に仕えたスティーヴン・バリーによれば1981年12月にダイアナが皇太子の書斎に入って来て、気分が悪いのでどこにも行かないで側にいてほしいと皇太子にお願いしたことがあるという。それに対して皇太子は医者を呼ぶから横になっているよう言ったが、ダイアナは医者など必要ない、貴方が側にいてくれればいいと食い下がった。皇太子は公務があるからでかけなければならないと穏やかに説得したが、ダイアナはそれに怒り心頭になり、「公務?貴方の頭の中にあるのは、クソ忌々しい公務だけなのね。そろそろ私のことを考えて下さってもいい頃だわ。卑しくも私は貴方の妻なのですから」とわめいて部屋を飛び出してしまったという。それを見た皇太子は首を振りながら足元を見つめていたという。何も言わなかったが、深刻な顔をしていたという[87]
  15. ^ ダイアナは皇太子の側近たちが自分から皇太子を遠ざけていると思い込んでいた。
    そのため、皇太子個人秘書(Private Secretary to the Prince of Wales)のエドワード・アディーン英語版や皇太子近侍のスティーヴン・バリー、皇太子個人秘書補佐でダイアナ個人秘書となったオリバー・エヴェレット英語版、執事のアラン・フィッシャー、王子二人の乳母バーバラ・バーンズ、警護のポール・オフィサー警部やジョン・マクリーン警部補などの使用人たちが次々とダイアナの不興を買って辞職・解雇に追い込まれていったという[88][89]。ただしダイアナ自身は「どの解雇も私のせいではない」と主張している[90]
  16. ^ ダイアナの自傷行為は1988年まで続いたという。1988年から専門医による治療を受け、その症状は回復したという[92]
  17. ^ しかしダイアナによればチャールズ皇太子は二番目の子は女の子を欲しがっており、生まれたのが男子と知ると「何だ男か。しかも赤茶色の髪じゃないか」と述べたという。ダイアナは「(この時に)私の中で何かが死んだの」と主張している[100]
  18. ^ 特に1991年6月にラドグローブ校英語版でウィリアム王子がクラスメイトからゴルフクラブで頭を打たれて頭蓋骨に小さな陥没ができる負傷をして病院に担ぎ込まれた際にそれは最高潮に達した。この時、皇太子は少し病院に寄っただけですぐに公務に戻ったためである(医者から両親揃って待合室で待つほど深刻ではないと言われたからだったが)。これについて『ザ・サン』は「それでも父親?」という皇太子批判記事を掲載している[109][110]
  19. ^ この家族4人そろってのスキー旅行は皇太子が希望し、当初ダイアナが反対して揉めたが、皇太子の熱心な訴えで実現した[111]
  20. ^ 慰謝料の金額は離婚時の合意により秘匿されており、1700万ポンドという金額はマスコミの推定である[139]
  21. ^ 妃殿下(HRH)の敬称は法的な根拠はないが、君主の縁者であることを意味しており、君主の判断で与えられたり、剥奪されたりする。この敬称を維持することで今後も国事に関わることや未来の国王の母であることを示すことができた[144]。ダイアナの弁護士ミシュコン卿英語版も離婚交渉に際して彼女の妃殿下の敬称を守ることを最重要視していた[145]
  22. ^ この時に売却されたダイアナのドレスの数は79着。うち5着は日本の法人が落札している(小学館が3着、ミネルヴァ学園が2着)[148]
  23. ^ 一方リビアが暗殺したとする陰謀説もある。それによればアルファイド家にはもともとハロッズやハウス・オブ・フレーザーを買い取れるほどの金はないはずで、それができたのはリビア政府がバックにいたからだという(そのためイギリス政府は頑なにモハメドにイギリス市民権を与えないのだという)。そしてモハメドが収入をリビアに還元しなくなったため、見せしめのためドディはリビアによって消されたという。この陰謀説によればターゲットはダイアナではなかったことになる[226]
  24. ^ フランス警察の調査の結果、この白いフィアットに乗っていたのはレ・バン・タンというベトナム人であることが判明した。彼が現場から離れたのは移民だったため、警察沙汰に巻き込まれるのを嫌がったというだけだった[233]
  25. ^ 調査の結果、ポールが運転を制御できなくなったのはトンネルに入る前からであることが判明した。また「衝突の前にフラッシュがあった」と証言しているのはフランシス・レビという男だったが、この男は前科が多数あり、虚言癖があることで有名な人物で証人としての信憑性に乏しいことも明らかになった[233]
  26. ^ アメリカの実業家株式仲買人

出典

[編集]
  1. ^ ダイアナ元妃がプリンセスになるまでのフォトアルバム18選”. ELLEgirl (2017年8月8日). 2020年12月27日閲覧。
  2. ^ a b モートン 1997, p. 119.
  3. ^ モートン 1997, pp. 116, 118, 120.
  4. ^ キャンベル 1998, pp. 13, 26–27.
  5. ^ 海保眞夫『イギリスの大貴族』平凡社平凡社新書020〉、1999年10月、14-21頁。ISBN 978-4-5828-5020-8 
  6. ^ キャンベル 1998, pp. 17–21.
  7. ^ キャンベル 1998, p. 19.
  8. ^ モートン 1997, p. 117.
  9. ^ キャンベル 1998, pp. 13–14.
  10. ^ デイビス 1992, p. 39.
  11. ^ モートン 1997, pp. 118–121.
  12. ^ モートン 1997, pp. 122–124.
  13. ^ キャンベル 1992, pp. 35–36, 38.
  14. ^ モートン 1997, pp. 124–129.
  15. ^ キャンベル 1998, pp. 31–36.
  16. ^ キャンベル 1998, pp. 37–38.
  17. ^ モートン 1997, pp. 135–137.
  18. ^ キャンベル 1998, pp. 38, 42.
  19. ^ モートン 1997, pp. 138–144.
  20. ^ モートン 1997, p. 142.
  21. ^ a b モートン 1997, pp. 142–143.
  22. ^ 石井 2000, pp. 201–202.
  23. ^ キャンベル 1992, p. 53.
  24. ^ モートン 1997, p. 144.
  25. ^ キャンベル 1992, pp. 55–58.
  26. ^ モートン 1997, pp. 147–148.
  27. ^ キャンベル 1992, pp. 59, 62–63.
  28. ^ モートン 1997, pp. 152–153.
  29. ^ a b ディンブルビー 1995, p. 17.
  30. ^ キャンベル 1998, pp. 23–24.
  31. ^ デイビス 1992, pp. 61, 67.
  32. ^ キャンベル 1998, p. 53.
  33. ^ モートン 1997, p. 150.
  34. ^ デイビス 1992, p. 177.
  35. ^ キャンベル 1998, pp. 53, 55.
  36. ^ キャンベル 1992, pp. 65–66.
  37. ^ モートン 1997, p. 155.
  38. ^ デイビス 1992, p. 70.
  39. ^ モートン 1997, p. 157.
  40. ^ デイビス 1992, pp. 70–71.
  41. ^ デイビス 1992, p. 71.
  42. ^ a b モートン 1997, pp. 160–161.
  43. ^ キャンベル 1998, p. 56.
  44. ^ デイビス 1992, pp. 74–75.
  45. ^ モートン 1997, pp. 162–164, 167.
  46. ^ デイビス 1992, pp. 71–72.
  47. ^ デイビス 1992, pp. 94–98.
  48. ^ 君塚 2020, p.139.
  49. ^ モートン 1997, pp. 169–172.
  50. ^ 君塚 2020, pp.139-140.
  51. ^ デイビス 1992, pp. 113–114.
  52. ^ モートン 1997, pp. 175–176.
  53. ^ デイビス 1992, p. 115.
  54. ^ デイビス 1992, p. 116.
  55. ^ デイビス 1992, pp. 118–119.
  56. ^ モートン 1997, p. 180.
  57. ^ デイビス 1992, pp. 117–119.
  58. ^ モートン 1997, pp. 181–182.
  59. ^ ディンブルビー 1995, pp. 19–20.
  60. ^ ディンブルビー 1995, p. 20.
  61. ^ モートン 1997, pp. 184–185.
  62. ^ モートン 1997, pp. 187–188.
  63. ^ キャンベル 1992, pp. 168–169.
  64. ^ ディンブルビー 1995, p. 25.
  65. ^ ディンブルビー 1995, pp. 22–23.
  66. ^ モートン 1997, pp. 189–198, 200.
  67. ^ モートン 1997, p. 195.
  68. ^ デイビス 1992, pp. 137–138.
  69. ^ a b デイビス 1992, pp. 140–141.
  70. ^ a b c 君塚 2020, p.142.
  71. ^ チャールズ皇太子ご結婚(衛星中継) - NHKクロニクル
  72. ^ モートン 1997, pp. 198–200.
  73. ^ キャンベル 1992, pp. 180–185.
  74. ^ デイビス 1992, pp. 141–146.
  75. ^ キャンベル 1992, pp. 187–191.
  76. ^ デイビス 1992, p. 152.
  77. ^ モートン 1997, p. 204.
  78. ^ デイビス 1992, pp. 155–157.
  79. ^ デイビス 1992, pp. 155–156.
  80. ^ モートン 1997, pp. 204–206, 215–216.
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  83. ^ デイビス 1992, p. 207.
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  85. ^ デイビス 1992, pp. 161–162, 194–195, 207.
  86. ^ キャンベル 1992, pp. 194–197.
  87. ^ デイビス 1992, pp. 164–165.
  88. ^ デイビス 1992, pp. 161–162, 165–166, 175–198.
  89. ^ キャンベル 1992, pp. 232–235.
  90. ^ モートン 1997, p. 221.
  91. ^ ディンブルビー 1995, p. 66.
  92. ^ 林直樹『よくわかる境界性パーソナリティ障害』主婦の友社〈セレクトBOOKS〉、2011年7月29日、12頁。ISBN 978-4-0727-8965-0 
  93. ^ デイビス 1992, pp. 162–163.
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参考文献

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関連項目

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外部リンク

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