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「ポール・セザンヌ」の版間の差分

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'''ポール・セザンヌ'''({{Lang|fr|Paul Cézanne}}[[1839年]][[1月19日]] - [[1906年]][[10月22日]]([[10月23日]]説もある<ref>近年(特に[[1993年]]以降)の文献では、死没日を10月23日とするものが多くなっている。浅野春男著『セザンヌとその時代』(世界美術双書、東信堂、2000年)では、近研究セザンヌが10月23日に死去したことが判明したと指摘している。また、メアリー・トンプキンズ・ルイス著、宮崎克己訳『セザンヌ』(岩波世界の美術・[[岩波書店]] 2005年)のセザンヌ年表では、セザンヌの墓碑に記された10月22日という死没日は誤記であるとしている。その他の文献については、[[ポール・セザンヌ#参考文献|参考文献]]の項を参照。</ref>))は、[[フランス]]の[[画家]]。当初は[[クロード・モネ|モネ]]や[[ピエール=オーギュスト・ルノワール|ルノワール]]に[[印象派]]のグループの一員として活動していたが、1880年代からグループを離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求した。セザンヌはモネら印象派の画家たちと同時代の人物だが、[[ポスト印象派]]の画家として紹介されることが多く、[[キュビスム]]をはじめとする20世紀の美術に多大な影響を与えたことから、しばしば「近代絵画の父」として言及される。
'''ポール・セザンヌ'''({{Lang|fr|Paul Cézanne}}, [[1839年]][[1月19日]] - [[1906年]][[10月23日]](墓碑には[[10月22日]]と記されていが,近年は23日説が有力<ref group="注釈">近年(特に[[1993年]]以降)の文献では、死没日を10月23日とするものが多くなっている。[[#浅野|浅野 (2000: 68)]] は、近の調査死亡時刻が10月23日午前7時であったことが判明したと指摘している。また、[[#ルイス|ルイス (2005: 339)]] は、セザンヌの墓碑に記された10月22日という死没日は誤記であるとしている。</ref>))は、[[フランス]]の[[画家]]。当初は[[クロード・モネ]]や[[ピエール=オーギュスト・ルノワール]]ともに[[印象派]]のグループの一員として活動していたが、1880年代からグループを離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求した。[[ポスト印象派]]の画家として紹介されることが多く、[[キュビスム]]をはじめとする[[20世紀美術|20世紀の美術]]に多大な影響を与えたことから、しばしば「近代絵画の父」として言及される。

後進への手紙の中で「自然を円筒、球、円錐として捉えなさい」と書き、この言葉がのちのキュビスムの画家たちに大きな影響を与えた。

彼の肖像はその作品と共に[[ユーロ]]導入前の最後の100[[フランス・フラン]]紙幣に描かれていた。


== 概要 ==
== 概要 ==
南フランスの[[エクス=アン=プロヴァンス]]に、銀行家の父の下に生まれた。中等学校で下級生だった[[エミール・ゾラ]]と親友となった。当初は、父の希望に従い、法学部に通っていたが、先にパリに出ていたゾラの勧めもあり、1861年、絵を志してパリに出た(→''[[#出生から学生時代]]'')。パリで、後の[[印象派]]を形作る[[カミーユ・ピサロ|ピサロ]]や[[クロード・モネ|モネ]]、[[ピエール=オーギュスト・ルノワール|ルノワール]]らと親交を持ったが、この時期の作品はロマン主義的な暗い色調のものが多い。サロンに応募したが、落選を続けた。1869年、後に妻となるオルタンス・フィケと交際を始めた(→''[[#画家としての出発(1860年代)]]'')。
セザンヌは[[カミーユ・ピサロ|ピサロ]]ら印象派の画家とも交流があり、1874年の第1回印象派展にも出品しているが、やがて印象派のグループから離脱し、故郷の南仏・[[エクス=アン=プロヴァンス]]のアトリエで独自の探求を続けていた。印象派の絵画が、[[ジャン=バティスト・カミーユ・コロー|コロー]]、[[ギュスターヴ・クールベ|クールベ]]らに連なる写実主義の系譜上にあるのに対し、セザンヌは自然の模倣や再現から離れ、平面上に色彩とボリュームからなる独自の秩序をもった絵画世界を構築しようとした。


ピサロと戸外での制作をともにすることで、明るい印象主義の技法を身につけ、第1回と第3回の印象派展に出展したが、厳しい批評が多かった(→''[[#印象主義の時代(1870年代)]]'')。1879年頃から、制作場所を故郷のエクスに移した。印象派を離れ、平面上に色彩とボリュームからなる独自の秩序をもった絵画を追求するようになった。友人の伝手を頼りに1882年に1回サロンに入選したほかは、公に認められることはなかったが、若い画家や批評家の間では、徐々に評価が高まっていった。他方、長年の親友だったゾラが1886年に小説『制作 L'Œuvre』を発表した頃から、彼とは疎遠になった(→''[[#エクスでの隠遁生活(1880年代)]]'')。1895年に画商[[アンブロワーズ・ヴォラール]]がパリで開いたセザンヌの個展が成功し、パリでも知られるようになった(→''[[#個展の開催(1895年)]]'')。晩年までエクスで制作を続け、若い画家たちが次々と彼のもとを訪れた。その1人、エミール・ベルナールに述べた「自然を円筒、球、円錐によって扱う」という言葉は、後のキュビスムにも影響を与えた言葉として知られる。1906年、制作中に発病した肺炎で死亡した(→''[[#最晩年(1900年 - 1906年)]]'')。
[[ファイル:Cézanne Nature morte au panier.jpg||thumb|240px|right|『台所のテーブル』(1889頃) [[オルセー美術館]]]]
セザンヌは風景、人物、静物のいずれの画題の作品も多数手がけている。初期の作品には[[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロワ]]の影響が強く、ロマン主義的な傾向もみられたが、後半生に繰り返し描いた故郷の山・サント=ヴィクトワール山の風景や、晩年に描いた水浴群像などには主題に伴う物語性は希薄で、平面上に色彩とボリュームとからなる秩序だった世界を構築すること自体が目的となっている。西洋の伝統的絵画においては、線遠近法という技法が用いられ、事物は固定された単一の視点から眺められ、遠くに位置する事物ほど、画面上では小さく描かれるのが常であった。これに対し、セザンヌの作品では、複数の異なった視点から眺められたモチーフが同一画面に描き込まれ、モチーフの形態は単純化あるいはデフォルメされている。『台所のテーブル』を見ると、果物籠の上部の果物は斜め上から見下ろしているが、籠の側面は真横から描かれている。テーブル上のショウガ壺と砂糖壺・水指しは異なった視点から描かれている。テーブル面の角度やテーブルの手前の縁が描く線はテーブルクロスの右と左とでは異なっており、テーブル上、右端の梨は不釣合いに大きい<ref>ベックス=マローニー、2001、pp55 - 57及びボルゲージ、2007、pp96 - 97</ref>。こうした、西洋絵画の伝統的な約束事から離れた絵画理論は後の世代の画家たちに多大な影響を与えた。[[モーリス・ドニ]]は1900年に『セザンヌ礼賛』という絵を描いており、[[エミール・ベルナール (画家)|エミール・ベルナール]]は、1904年にエクスのセザンヌのもとに1か月ほど滞在し、後に『回想のセザンヌ』という著書でセザンヌの言葉を紹介している。


セザンヌはサロンでの落選を繰り返し、その作品がようやく評価されるようになるのは晩年のことであった。本人の死後、その名声と影響力はますます高まり、没後の1907年、[[サロン・ドートンヌ]]で開催されたセザンヌの回顧展(出品作品56点)は後の世代に多大な影響を及ぼした。この展覧会を訪れた画家としては、[[パブロ・ピカソ|ピカソ]]、[[ジョルジュ・ブラック|ブラック]]、[[フェルナン・レジェ|レジェ]]、[[アンリ・マティス|マティス]]らが挙げられる。また、詩人の[[ライナー・マリア・リルケ|リルケ]]は、当時滞在していたパリでこの展覧会を鑑賞し、その感動を妻あての書簡に綴っている。
セザンヌはサロンでの落選を繰り返し、その作品がようやく評価されるようになるのは晩年のことであった。本人の死後、その名声と影響力はますます高まり、没後の1907年、[[サロン・ドートンヌ]]で開催されたセザンヌの回顧展は後の世代に多大な影響を及ぼした。この展覧会を訪れた画家としては、[[パブロ・ピカソ]]、[[ジョルジュ・ブラック]]、[[フェルナン・レジェ]]、[[アンリ・マティス]]らが挙げられる。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 1860年以前 ===
=== 出生から学生時代 ===
{{Image label begin |width=300 |image=France Regions et departements.png |float=right}}
[[1839年]]1月19日、ポール・セザンヌは南フランスの[[エクス=アン=プロヴァンス]]に生まれた<ref name="Lindsay6">Lindsay (1969: 6)。</ref>。同年2月22日、教区の教会で[[洗礼]]を受けた<ref name="Lindsay6" />。父のルイ=オーギュスト・セザンヌ(1798年-1886年)は、[[銀行]]の共同創設者であり、このため、ポールは画家になってからも、同時代の画家たちには望むべくのない財政的支援を父から受けることができ、また後には多大な遺産を受け継ぐことができた<ref name="Biography.com">{{Cite web |url=http://www.biography.com/articles/Paul-Cezanne-9542036 |title=Paul Cézanne Biography (1839–1906) |accessdate=2013-09-28 |work=Biography.com}}</ref>。母アン・エリザベス・オノリーヌ・オベール(1814年-1897年)は、快活でロマンチストだが、気が短い女性で、ポールの想像力は母から受け継いだものと言われている<ref>Vollard (1984: 16)。</ref>。ポールには2人の妹、マリーとローズがおり、妹たちと一緒に小学校に通っていた<ref name="Lindsay6" />。
{{Image label small |scale=300 |x=0.52 |y=0.25 |text=[[ファイル:Red pog.svg|6px]][[パリ]]}}
{{Image label small |scale=300 |x=0.72 |y=0.73 |text=[[ファイル:Red pog.svg|6px]][[エクス=アン=プロヴァンス|エクス]]}}
{{Image label small |scale=300 |x=0.50 |y=0.23 |text=[[ファイル:Red pog.svg|6px]][[ポントワーズ]]}}
{{Image label end}}
[[1839年]]1月19日、ポール・セザンヌは、南フランスの[[エクス=アン=プロヴァンス]]に生まれた。同年2月22日、教区の教会で[[洗礼]]を受けた。父のルイ=オーギュスト・セザンヌ(1798年-1886年)は、最初は帽子の行商人であったが、商才があり、地元の[[銀行]]を買収して銀行経営者となった成功者であった<ref>[[高階|高階・上 (1975: 124)]]。</ref>。祖先はイタリア出身と考えられる<ref>[[#Rewald|Rewald (1986: 12)]]。</ref>。母アンヌ=エリザベート・オーベール(1814年-1897年)は、エクスの椅子職人の娘で、もともとルイ=オーギュストの使用人であった。セザンヌの出生時には2人は[[内縁]]関係にあり、1841年に妹マリーが生まれた後、[[1844年]]に入籍した。1854年、妹ローズが生まれた<ref>[[#新関|新関 (2000: 16)]]。</ref>。


{{Multiple image
10歳の時、エクスのサン・ジョセフ校に入学した<ref>Machotka (1996: 9)。</ref>。1852年(13歳の時)、コレージュ・ブルボンに入り、そこで下級生だった[[エミール・ゾラ]]と友達になった<ref name="Biography.com" /><ref>Vollard (1984: 14)。</ref>。パリ生まれのゾラはエクスではよそ者で、級友から除け者にされていた。ある時セザンヌがゾラに親しく話しかけたため、級友と喧嘩になる。その翌日、ゾラはセザンヌにリンゴを1籠贈り、これが縁で親友になったというエピソードがある。もう1人の少年バティスタン・バイユ(後に[[天文学者]])も併せた3人は、親友として絆を深めた<ref>{{cite web|url=http://www.nga.gov/exhibitions/2006/cezanne/chronology2.shtm |title=National Gallery of Art timeline |publisher=Nga.gov |accessdate=2013-09-28}}</ref>。同校に6年間在籍する間、[[1857年]]にエクスの市立素描学校に通い始め、ジョセフ・ジベールに素描を習った<ref>Gowing (1988: 215)。</ref>。1858年から1861年まで、父の希望に従い、[[エクス=マルセイユ大学|エクス大学]]の法学部に通い、同時に素描の勉強も続けていた<ref>Cézanne (1941: 10)。</ref>。
| align= left | direction = horizontal
| footer= 父の別荘ジャス・ド・ブッファンに描いた春・夏・冬・秋の壁画(1860年頃)。現在[[プティ・パレ|プティ・パレ美術館]]。
| image1= Cézanne, Le Printemps.jpg | width1= 45
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10歳の時、エクスのサン=ジョセフ校に入学した。[[1852年]](13歳の時)、ブルボン中等学校に入り、そこで下級生だった[[エミール・ゾラ]]と友達になった。パリ生まれで親を亡くしていたゾラは、エクスではよそ者で、級友からいじめられていた<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 14)]]。</ref>。セザンヌは、村八分を破ってゾラに話しかけたことで級友から袋叩きに遭い、その翌日、ゾラがリンゴの籠を贈ってきたというエピソードを、後に回想して語っている<ref>[[#ガスケ|ガスケ (2009: 24)]]。</ref>。もう1人の少年{{仮リンク|バティスタン・バイユ|en|Baptistin Baille}}(後に[[天文学者]])も併せた3人は、親友として絆を深めた<ref>{{Cite web|url=http://www.nga.gov/exhibitions/2006/cezanne/chronology2.shtm |title=National Gallery of Art timeline |publisher=Nga.gov |accessdate=2013-09-28}}</ref>。彼らは、散歩、水泳を楽しみ、[[ホメーロス]]、[[ウェルギリウス]]の詩、[[ヴィクトル・ユーゴー]]、[[アルフレッド・ド・ミュッセ]]への情熱を共有した<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 14-15)]]。</ref>。セザンヌは、同校に6年間在籍する間、[[1857年]]にエクスの市立素描学校に通い始め、ジョゼフ・ジベールに素描を習った<ref>[[#ルイス|ルイス (2005: 18)]]。</ref>。[[1858年]]11月に[[バカロレア (フランス)|バカロレア]]に合格すると、[[1861年]]まで、父の希望に従い、[[エクス=マルセイユ大学|エクス大学]]の法学部に通い、同時に素描の勉強も続けていた。そのうち、徐々に、画家になりたいという夢を持つようになった<ref>[[#Rewald|Rewald (1986: 19)]]。</ref>。父が[[1859年]]に購入した別荘ジャス・ド・ブッファンの1階の壁画に、四季図と父の肖像画を描いた<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 29)]]。</ref>。


しかし、セザンヌは法律の勉強にはなじめず、次第に大学の勉強を怠けるようになった。友人のゾラはすでにパリに戻っていた、絵の道に進むかどうか迷うセザンヌに、ゾラは早くパリに出てきて絵の勉強をするようにと繰り返し勧めている。ゾラからセザンヌ宛ての手紙には「勇気を持て。まだ君は何もしていないのだ。僕らには理想がある。だから勇敢に歩いていこう」、「僕が君の立場なら、アトリエと法廷の間を行ったり来たりすることはしない。弁護士になってもいいし、絵描きになってもいいが、絵具で汚れた法服を着た、骨無し人間にだけはなるな」とあった。
セザンヌは法律の勉強にはなじめず、次第に大学の勉強を怠けるようになった。[[1858年]]2月、ゾラパリの母親のもと発ち、残されたセザンヌは、ゾラとの文通を始め、詩や恋愛につて語り合っ<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 15-17)]]、[[#Rewald|Rewald (1986: 16)]]。</ref>。ゾラは、絵の道に進むかどうか迷うセザンヌに、早くパリに出てきて絵の勉強をするようにと繰り返し勧めている。ゾラからセザンヌ宛ての手紙には「勇気を持て。まだ君は何もしていないのだ。僕らには理想がある。だから勇敢に歩いていこう」、「僕が君の立場なら、アトリエと法廷の間を行ったり来たりすることはしない。弁護士になってもいいし、絵描きになってもいいが、絵具で汚れた法服を着た、骨無し人間にだけはなるな」とあった。


=== 画家としての出発(1860年代) ===
=== 画家としての出発(1860年代) ===
[[ファイル:Paul cezanne 1861.jpg|thumb|right|160px|1861年頃(22歳頃)の写真。]]
セザンヌは、ゾラの勧めもあって、大学を中退し、絵の勉強をするために[[1861年]]4月にパリに出た。[[ルーヴル美術館]]で[[ディエゴ・ベラスケス]]や[[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ|カラヴァッジオ]]の絵に感銘を受けた。しかし、美術学校への入学が断られたため、その年のうちにエクスに帰り、父の銀行で働きながら、美術学校に通った<ref name="Biography.com" />。銀行勤めはうまく行かず、[[1862年]]、再びパリを訪れ、アカデミー・シュイスで絵を勉強した。[[ロマン主義]]の[[ウジェーヌ・ドラクロワ]]、[[写実主義]]の[[ギュスターヴ・クールベ]]、のちに[[印象派]]の父と呼ばれる[[エドゥアール・マネ]]らから影響を受けた<ref name="Biography.com" />。この時期(1860年代)の作品は、ロマン主義的な暗い色調のものが多い。
セザンヌは、ゾラの勧めもあって、大学を中退し、絵の勉強をするために[[1861年]]4月に[[パリ]]に出た。[[ルーヴル美術館]]で[[ディエゴ・ベラスケス|ベラスケス]]や[[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ|カラヴァッジオ]]の絵に感銘を受けた。しかし、官立の美術学校([[エコール・デ・ボザール]])への入学が断られたため、画塾[[アカデミー・シュイス]]に通った。ここで、[[カミーユ・ピサロ]]や[[アルマン・ギヨマン]]と出会った<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 22)]]。</ref>。朝はアカデミー・シュイスに通い、午後はルーヴル美術館か、エクス出身の画家仲間{{仮リンク|ジョセフ・ヴィルヴィエイユ|fr|Joseph Villevieille}}のアトリエでデッサンをしていたという。そのほか、ゾラや、同じくエクス出身の画家[[アシル・アンプレール]]と交友を持った<ref>[[#ガスケ|ガスケ (2009: 57-58)]]。</ref>。セザンヌは、アカデミー・シュイスで、田舎者らしい粗野な振る舞いや、仕事への集中ぶりで、周囲の笑いものになっており、ピサロによれば、「美術学校から来た無能どもがこぞってセザンヌの裸体素描をこけにしていた」という<ref name="リウォルド 2004: 71。">[[#リウォルド|リウォルド (2004: 71)]]。</ref>。


同年9月には、成功の夢が遠いのを感じ、ゾラの引き留めにもかかわらず、エクスに帰ってしまった<ref name="リウォルド 2004: 71。"/>。エクスでは、父の銀行で働きながら、美術学校に通った。後年、セザンヌは、この時の話題には触れたがらなかったようである<ref>[[#ガスケ|ガスケ (2009: 67)]]。</ref>。銀行勤めはうまく行かず、翌[[1862年]]秋、再びパリを訪れ、アカデミー・シュイスで絵を勉強した。この時、[[クロード・モネ]]や[[ピエール=オーギュスト・ルノワール]]と出会ったようである<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 23)]]。</ref>。また、エクス出身の彫刻家で終生の友人となった{{仮リンク|フィリップ・ソラーリ|en|Philippe Solari}}とも知り合い、共同生活を送った<ref>[[#ガスケ|ガスケ (2009: 74-75)]]。</ref>。[[ロマン主義]]の[[ウジェーヌ・ドラクロワ]]、[[写実主義]]の[[ギュスターヴ・クールベ]]、後に[[印象派]]の父と呼ばれる[[エドゥアール・マネ]]らから影響を受けた。この時期(1860年代)の作品は、[[ロマン主義]]的な暗い色調のものが多い。
[[1863年]]、[[サロン・ド・パリ]]に応募したが落選し、同年開かれた[[落選展]]に出展した。翌1864年から1869年にかけても毎年サロンへの応募を繰り返したが、落選し続けた。


[[1863年]]、[[ナポレオン3世]]が開いた[[落選展]]に、マネが『[[草上の昼食]]』を出品してスキャンダルを巻き起こし、セザンヌもこれを見たと思われるが、セザンヌ自身が出品した記録はない<ref group="注釈">[[#リウォルド|リウォルド (2004: 89)]] に、セザンヌは落選展のカタログから漏れているが出品したと記載されていることから、これに従う文献もあるが、出品したという根拠や何を出品したかは示されておらず、近年はセザンヌは落選展を見ただけとする文献が多い。[[#新関|新関 (2000: 37, 330)]]。</ref>。[[1865年]]には、[[サロン・ド・パリ]]に応募したが、落選した。応募の時、ピサロに、「学士院の連中の顔を怒りと絶望で真っ赤にさせてやるつもりです」と書いている<ref>セザンヌのピサロ宛1865年3月15日付け書簡。[[#新関|新関 (2000: 148)]]。</ref><ref group="注釈">この年が、セザンヌがサロンに応募したことが資料上推定できる最初の年である。[[#新関|新関 (2000: 148)]]。</ref>。ゾラは、同年12月、セザンヌに捧げる小説『クロードの告白』を出版し、当局の検閲に遭った。このことを機に、ゾラは『レヴェヌマン』紙に転職した<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 127)]]。</ref>。
1865年頃に「カフェ・ゲルボワ」の常連たち(後の[[印象派]]グループ)と知り合い、とくに9歳年長の[[カミーユ・ピサロ]]と親しくなった。[[1869年]]、後に妻となるオルタンス・フィケ(当時19歳)と知り合い後に同棲するが、厳格な父を恐れ彼女との関係を隠し続けた。


[[1866年]]のサロンには、友人アントニー・ヴァラブレーグの肖像画を提出したが、審査員[[シャルル=フランソワ・ドービニー]]の熱心な擁護にもかかわらず、再度落選した<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 125)]]。</ref>。セザンヌは、美術総監[[エミリアン・ド・ニューウェルケルク]]伯爵に、これに抗議し落選展の開催を求める手紙<ref>{{Cite web |title=ポール・セザンヌ|ヴォラール|セザンヌの資料|1890年〜晩年 |url=http://www.project-archive.org/0/093.html |website=ARCHIVE |access-date=2024-04-26 |language=ja}}</ref>を送った<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 126)]]。</ref>。ゾラは、『レヴェヌマン』紙に連載したサロン評ではセザンヌについて一言も触れていないが<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 129)]]。</ref>、同年5月には、サロン評をまとめた『わがサロン』を刊行し、その序文でセザンヌに触れるなど、ゾラとの強い友情は続いていた<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 25)]]。</ref>。セザンヌは、同年5月から8月まで、[[セーヌ川]]沿いの小村{{仮リンク|ベンヌクール|fr|Bennecourt}}で制作活動を行ったが、ここを訪れたゾラは、「セザンヌは仕事をしている。彼はその性格の赴くままに、ますます独創的な道を突き進んでいる。彼には大いに希望が持てるよ。とはいっても、彼は向こう10年は落選するだろうとも僕らは踏んでいるんだ。今、彼はいくつかの大作を、4メートルから5メートルはある画布の作品をやろうと目論んでいる。」と友人に報告している<ref>ゾラのニュマ・コスト宛1866年7月26日付け書簡。[[#新関|新関 (2000: 62-63)]]。</ref>。美術批評家としての地位を確立しつつあったゾラは、マネを囲む革新的画家がたむろする[[カフェ・ゲルボワ]]の常連となり、セザンヌもこれに加わった<ref>[[#新関|新関 (2000: 20-21)]]。</ref>。もっとも、セザンヌは、都会の機知に富む会話の場にはなじめなかったようである<ref>[[#永井|永井 (2012: 25)]]。</ref>。
[[1870年]]に[[普仏戦争]]が勃発したが、母がエクスから約30キロ離れ地中海に面した村[[エスタック]]に用意してくれた家にフィケとともに移り、兵役を逃れた<ref>オーグ (2000: 44-45)。</ref>。

[[1867年]]のサロンにも落選した。シスレー、バジール、ピサロ、ルノワールといった仲間たちも軒並み同様の目に遭った<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 141)]]。</ref>。[[1868年]]のサロンでは、審査員ドービニーの尽力により、マネ、ピサロ、ドガ、モネ、ルノワール、シスレー、ベルト・モリゾといった仲間たちが入選したが、セザンヌだけは再び落選であった<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 150)]]。</ref>。カフェ・ゲルボワのメンバーの中でも、サロンに対する考えは様々であったが、セザンヌは、当たり障りのない作品を送って入選を目指すのではなく、最も攻撃的な作品を送って、自分たちを拒否している審査委員会の方が悪いことを明らかにすべきだとの考えの持ち主であった<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 172)]]。</ref>。

[[1869年]]、後に妻となる{{仮リンク|オルタンス・フィケ|en|Marie-Hortense Fiquet}}(当時18歳)と知り合い、後に同棲するが、厳格な父を恐れ彼女との関係を隠し続けた<ref>[[#新関|新関 (2000: 68)]]。</ref>。父からの月200[[フランス・フラン|フラン]]の仕送りで2人の生活を支えなければならず、経済的には苦しくなった<ref>[[#新関|新関 (2000: 231)]]。</ref>。

[[1870年]]のサロンには、画家仲間アシル・アンプレールを描いた肖像画を応募し、またも落選した<ref>[[#新関|新関 (2000: 156)]]。</ref>。この年の7月19日に[[普仏戦争]]が勃発したが、母がエクスから約30キロ離れ[[地中海]]に面した村[[エスタック]]に用意してくれた家にフィケとともに移り、兵役を逃れた<ref>[[#オーグ|オーグ (2000: 44-45)]]。</ref>。
<gallery>
ファイル:Paul Cézanne 130.jpg|『「レヴェヌマン」紙を読む画家の父』1866年、198.5 × 119.3&nbsp;cm。[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)]]。
ファイル:Paul Cézanne 045.jpg|『略奪』1867年頃、90.5 × 117&nbsp;cm。[[フィッツウィリアム美術館]]。
ファイル:Paul Cézanne 127.jpg|『アシル・アンプレールの肖像』1868年頃、200 × 120&nbsp;cm。[[オルセー美術館]]。
ファイル:Overture.jpg|『ピアノを弾く若い娘』(『[[タンホイザー]]序曲』)1869-70年頃、57 × 92&nbsp;cm。[[エルミタージュ美術館]]。
ファイル:Cezanne - Die Orgie.jpg|『饗宴』1870年頃、130 × 81&nbsp;cm。個人コレクション。
ファイル:Paul Cézanne 065.jpg|『草上の昼食』1870-71年頃、60 × 81&nbsp;cm。個人コレクション。
ファイル:Paul Cézanne 217.jpg|『聖アントワーヌの誘惑』1870年頃。油彩、キャンバス、52 × 73&nbsp;cm。[[ビュールレ・コレクション]]。
ファイル:Cézanne Pastorale.jpg|『田園詩』1870年頃、65 × 81&nbsp;cm。[[オルセー美術館]]。
</gallery>


=== 印象主義の時代(1870年代) ===
=== 印象主義の時代(1870年代) ===
[[ファイル:Atelier Nadar 35BoulevardDesCapucines 1860 Nadar.jpg|thumb|right|180px|1874年(当時35歳)、第1回印象派展が行われたパリの[[ナダール]]写真館。]]
[[ファイル:Paul Cézanne - La Maison du pendu.jpg|thumb|200px|right|『オーヴェールの首吊りの家』1872年-73年、オルセー美術館]]
[[パリ・コミューン]]の混乱が終わり、[[フランス第三共和政]]が発足すると、パリを逃れていた画家たちが戻ってきた。セザンヌも、[[1872年]]夏にはエスタックからパリに戻ったようである<ref>[[#新関|新関 (2000: 69-70)]]。</ref>。同年、フィケと1月に生まれたばかりの息子ポールを連れてパリ北西の[[ポントワーズ]]に移り、ピサロとイーゼルを並べて制作した。そのすぐ後、ピサロとともに近くの[[オーヴェル=シュル=オワーズ]]に移り住んだ。ここでアマチュア画家の医師[[ポール・ガシェ]]とも親交を結んだ<ref>[[#新関|新関 (2000: 70)]]。</ref>。1873年にパリ・[[モンマルトル]]に店を開いた絵具商[[タンギー爺さん]]ことジュリアン・タンギーも、ピサロの紹介で知り合ったセザンヌの作品を熱愛した<ref>[[#新関|新関 (2000: 334)]]。</ref>。セザンヌは、この時期にピサロから筆触分割などの印象主義の技法を習得し、セザンヌの作品は明るい色調のものが多くなった<ref>[[#永井|永井 (2012: 28)]]。</ref>。セザンヌは、印象派からの影響について、後年次のように語っている。
[[ファイル:Paul Cezanne, A Modern Olympia, c. 1873-1874.jpg|thumb|200px|『モデルヌ・オランピア』(第2作)1873年頃]]
{{Quotation|私だって、何を隠そう、印象主義者だった。ピサロは私に対してものすごい影響を与えた。しかし私は印象主義を、美術館の芸術のように堅固な、長続きするものにしたかったのだ<ref>[[#ガスケ|ガスケ (2009: 243)]]。</ref>。}}
エスタックからパリに戻った後、[[1872年]]にはフィケと生まれたばかりの息子ポールを連れて[[ポントワーズ]]に移り、ピサロとイーゼルを並べて制作した。この時期にピサロから印象主義の技法を習得してセザンヌの作品は明るい色調のものが多くなった。
また、これに続けて、モネについて、「モネは一つの眼だ、絵描き始まって以来の非凡なる眼だ。私は彼には脱帽するよ。」とも語っている<ref>[[#ガスケ|ガスケ (2009: 244)]]。</ref>。


[[ファイル:Groupe-a-auvers-en-1873-a-droite-pissarro-assis-cezanne-guillaumin-cordey-et-vignon.jpg|thumb|left|180px|1877年、ポントワーズのピサロ(右端=47歳)の家の庭で、ベンチに腰掛けるセザンヌ(38歳)<ref>[[#永井|永井 (2012: 24)]]。</ref>。]]
[[1874年]]、モネ、ドガらが開いた第1回印象派展に『首吊りの家』、『モデルヌ・オランピア』など3作品を出品した<ref>オーグ (2000: 51)。</ref>。中でも『モデルヌ・オランピア』には、新聞紙上で「腰を折った女を覆った最後の布を黒人女が剥ぎとって、その醜い裸身を肌の茶色いまぬけ男の視線にさらしている」と書かれるなど、厳しい酷評・皮肉が集中した<ref>オーグ (2000: 53-55)。</ref>。
[[1874年]]、モネ、ドガらが開いたグループ展に『首吊りの家』、『モデルヌ・オランピア』など3作品を出品した<ref>[[#オーグ|オーグ (2000: 51)]]。</ref>。『モデルヌ・オランピア』は、マネの『[[オランピア (絵画)|オランピア]]』に対抗して、より明るい色調と速いタッチで近代の絵画の姿を示そうとした作品であった<ref>[[#新関|新関 (2000: 49)]]。</ref>。この展覧会は、後に[[第1回印象派展]]と呼ばれることになるが、モネの『[[印象・日の出]]』を筆頭に、世間から酷評された<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 38-39)]]。</ref>。セザンヌの『モデルヌ・オランピア』も、新聞紙上で「腰を折った女を覆った最後の布を黒人女が剥ぎとって、その醜い裸身を肌の茶色いまぬけ男の視線にさらしている」と書かれるなど、厳しい酷評・皮肉が集中した<ref>[[#オーグ|オーグ (2000: 53-55)]]。</ref>。他方、ゾラは、マルセイユの新聞「セマフォール・ド・マルセイユ」に、無署名記事で、「その展覧会で心打たれた作品は多いが、中でも、ポール・セザンヌ氏の非常に注目すべき一風景画をここに特筆しておきたい。[……]その作はある偉大な独創性を証明していた。ポール・セザンヌ氏は長年苦闘を続けているが、真に大画家の気質を示している。」と援護している<ref>1874年4月18日「パリ便り」。[[#新関|新関 (2000: 87-89)]]。</ref>。また、『首吊りの家』は、アルマン・ドリア伯爵に300フランの高値で買い上げられた<ref>[[#新関|新関 (2000: 84)]]。</ref>。セザンヌは、この年の秋に母に書いた手紙で、「私が完成を目指すのは、より真実に、より深い知に達する喜びのためでなければなりません。世に認められる日は必ず来るし、下らないうわべにしか感動しない人々より、ずっと熱心で理解力のある賛美者を獲得するようになると本当に信じてください。」と自負心を表している<ref>セザンヌの1874年9月26日付け書簡。[[#新関|新関 (2000: 85-86)]]。</ref>。


その後、パリとエクスの間を行ったり来たりした。[[1876年]]の第2回印象派展には出品していない。辛辣な批評に自信を失って出品を断ったとも言われるが、サロンに応募を続けるセザンヌの姿勢が、グループ展に参加するからにはサロンに応募すべきではないという[[エドガー・ドガ]]の方針に反したためとも言われる<ref>[[#新関|新関 (2000: 95)]]。</ref><ref group="注釈">[[#リウォルド|リウォルド (2004: 269)]]は、セザンヌの父が、第1回展で赤字の分担金184.50フランを払わされたため、第2回展への参加に反対したことも挙げている。</ref>。
その後、パリとエクスの間を行ったり来たりした。辛辣な批評に自信を失ったセザンヌは、1876年の第2回印象派展には出品を断ったが、絵画収集家ヴィクトール・ショケの励ましにより、[[1877年]]の第3回印象派展に17作品を出品した。その中に含まれていたショケの肖像は再び厳しい批評にさらされたが、一方で、「『水浴図』を見て笑う人たちは、私に言わせれば[[パルテノン神殿|パルテノン]]を批判する未開人のようだ」と述べたジョルジュ・リヴィエールのほか、エドモン・デュランティ、テオドール・デュレのようにセザンヌの作品を賞賛する批評家も現れた<ref>オーグ (2000: 55)。</ref>。


絵画収集家[[ヴィクトール・ショケ]]の励ましもあり、[[1877年]]の第3回印象派展に、油彩13点、水彩3点の合計16点を出品した。ここには、既に、肖像画、風景画、静物、動物、水浴図、物語的構成図という、セザンヌが扱う主題が全て含まれていた<ref>[[#新関|新関 (2000: 96-103)]]。</ref>。その中に含まれていたショケの肖像は再び厳しい批評にさらされたが、一方で、「『水浴図』を見て笑う人たちは、私に言わせれば[[パルテノン神殿|パルテノン]]を批判する未開人のようだ」と述べた[[ジョルジュ・リヴィエール]]のほか、[[ルイ・エドモン・デュランティ]]、[[テオドール・デュレ]]のように、セザンヌの作品を賞賛する批評家も現れた<ref>[[#オーグ|オーグ (2000: 55)]]。</ref>。ゾラも、「セマフォール・ド・マルセイユ」紙に「ポール・セザンヌ氏は確かに、このグループ[印象派]で最高の偉大な色彩画家である」との賛辞を書いている<ref>[[#新関|新関 (2000: 119)]]、[[#リウォルド|リウォルド (2004: 281)]]。</ref>。
しかし、1878年頃から、時間とともに移ろう光ばかりを追いかけ、対象物の確固とした存在感がなおざりにされがちな印象派の手法に不満を感じ始め、同時期から印象派の他のメンバーとの交流が少なくなり、制作場所もパリを離れ故郷のエクスに戻した。1878年から1879年にかけて、エクスとエスタックに滞在することが多くなった<ref>オーグ (2000: 65)。</ref>。この頃、妻子の存在を父に知られたことで、父子の関係は悪化し、毎月の送金を減らされ、数か月間ゾラの援助に頼った<ref>オーグ (2000: 80)。</ref>。


<gallery>
=== 1880年代 ===
ファイル:Paul Cézanne - La Maison du pendu.jpg|『[[オーヴェル=シュル=オワーズ|オーヴェル]]の首吊りの家』1872-73年、55 × 66&nbsp;cm。[[オルセー美術館]]。
1880年代には、主にエクスの周辺で制作を続け、この時期から規則的な筆触を用いて対象物を再構築するという独特の制作手法が現れ始めた。
ファイル:Paul Cezanne, A Modern Olympia, c. 1873-1874.jpg|『モデルヌ・オランピア』(第2作)1873年頃、46 × 55&nbsp;cm。オルセー美術館。
ファイル:Paul Cézanne 144.jpg|『肘掛け椅子に座るヴィクトール・ショケ』1877年、46 × 38&nbsp;cm。[[コロンバス美術館]]。
ファイル:Paul Cézanne 004.jpg|『女性水浴図』1875-77年、38.1 × 46&nbsp;cm。[[メトロポリタン美術館]]。
ファイル:Cezanne Maincy.JPG|『マンシーの橋』1879-80年、60 × 73&nbsp;cm。[[オルセー美術館]]。
</gallery>


=== エクスでの隠遁生活(1880年代) ===
初めてサロン(官展)に入選したのは43歳([[1882年]])のときである(このとき出品したのは[[1866年]]に制作された『画家の父』である)。このとき、セザンヌは友人の審査委員に頼み込み、やっとの思いで入選を果たしたという。
セザンヌは、[[1878年]]頃から、時間とともに移ろう光ばかりを追いかけ、対象物の確固とした存在感がなおざりにされがちな印象派の手法に不満を感じ始めた。


そして、セザンヌは、モネ、ルノワール、ピサロとの友情は保ちながらも、第4回印象派展以降には参加していない。[[1879年]]4月、ピサロに対し、「私のサロン応募のことで論争が起こっている折から、私は印象派展覧会に参加しない方がよいのではないかと考えます。また他方では、作品搬入の面倒さから来る苦労を避けたくもありますし。それにここ数日のうちにパリを発つのです。」と書き送っている<ref>セザンヌの1879年4月1日付けピサロ宛書簡。[[#新関|新関 (2000: 106)]]。</ref>。印象派グループの中でも、モネやルノワールと、ドガとの対立が鋭くなり、ドガが出品する第4回(1879年)、第5回([[1880年]])印象派展を、モネやルノワールがボイコットするという事態になっていた<ref>[[#新関|新関 (2000: 107-08)]]。</ref><ref group="注釈">モネは、第4回印象派展に出品を断ったが、[[ギュスターヴ・カイユボット]]が所蔵者から借り集めて取り繕った。[[#新関|新関 (2000: 107-08)]]。</ref>。セザンヌは、こうしてサロン応募を優先したが、この年のサロンにも落選した<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 301, 303)]]。</ref>。
[[1886年]]、17年間同棲していたオルタンス・フィケと結婚した。その数か月後、父が死去した<ref name="Biography.com-3">{{Cite web |url=http://www.biography.com/people/paul-cezanne-9542036?page=3 |title=Paul Cezanne: Mature Work |publisher=Biography.com |accessdate=2013-10-05 }}</ref>。父から相続した遺産は40万フランであり、経済的には何も不安がなくなった<ref>Lindsay (1969: 232)。</ref>。


セザンヌは、同時期から、制作場所をパリから故郷のエクスに戻した。第3回印象派展の後、1895年に最初の個展を開くまで、パリの画壇からは知られることなく制作を続けた<ref name="浅野 2000: 51。">[[#浅野|浅野 (2000: 51)]]。</ref>。1878年から[[1879年]]にかけて、エクスとエスタックに滞在することが多くなった<ref>[[#オーグ|オーグ (2000: 65)]]。</ref>。この頃、妻子の存在を父に感付かれたことで、父子の関係は悪化し、1878年4月から8月頃、毎月の送金を半分に減らされ、ゾラに月60フランの援助を頼んだ<ref>[[#オーグ|オーグ (2000: 80)]]、[[#新関|新関 (2000: 231)]]。</ref>。
同じ1886年、ゾラが小説『{{仮リンク|制作 (小説)|en|L'Œuvre (novel)|label=制作}}』を発表した。ゾラはこの小説の中でセザンヌとマネをモデルにしたと見られる画家の主人公の芸術的失敗を描いた。この小説がきっかけとなり、セザンヌとゾラの友情は断たれてしまった。


画材をタンギーの店で買い、代金代わりに絵を渡すことも多く、[[ポール・ゴーギャン]]、[[フィンセント・ファン・ゴッホ]]はこの店でセザンヌを研究した。また、ショケ、ピサロ、ガシェなどもタンギーの店でセザンヌの作品を買った<ref>[[#新関|新関 (2000: 231-32)]]。</ref>。ゴーギャンは、ピサロに、「セザンヌ氏は万人に認められる作品を描くための正確な定式を発見したでしょうか。[……]どうか彼に[[ホメオパシー]]の神秘的な薬を与えて、眠っている間にそれをしゃべらせ、できるだけ早く私たちに報告しにパリまで来てください。」という手紙を送っている<ref>ゴーギャンのピサロ宛1881年書簡。[[#新関|新関 (2000: 343)]]。</ref>。また、ゴッホは、後に、[[アルル]]に移った時、「前に見たセザンヌの作品が、否応なく心に蘇ってくる。[[プロヴァンス]]の荒々しい面を力強く示しているからだ。」と書いている<ref>ゴッホの弟[[テオドルス・ファン・ゴッホ|テオ]]宛1888年6月書簡([http://vangoghletters.org/vg/letters/let624/letter.html 書簡624])。</ref>。
サント・ヴィクトワール山などをモチーフに絵画制作を続けたが、絵はなかなか理解されなかった。


[[ファイル:Médan - Maison d'Émile Zola01.jpg|thumb|right|180px|小説『[[居酒屋 (小説)|居酒屋]]』(1877年)で成功したゾラがメダンに買った別荘。友人の文学者たちが多数招待された<ref>[[#新関|新関 (2000: 227)]]。</ref>。]]
=== 晩年(1890年代 - 1906年) ===
1880年代前半には、10月から2月頃までは南仏で過ごし、エクスの父の家と[[マルセイユ]]の妻子のいる家とエスタックの自分の家を行き来し、サロンのシーズンが始まる3月にはパリに出て、パリのアパルトマンを借りたり、[[ムラン]]やポントワーズといった近郊の町に下宿したりする、という生活を繰り返していた<ref>[[#新関|新関 (2000: 228-29)]]。</ref>。パリを訪れた時は、ゾラが[[セーヌ川]]沿いの{{仮リンク|メダン (フランス)|en|Médan|label=メダン}}に買った別荘に招待されることも度々であった<ref>[[#新関|新関 (2000: 227-28)]]。</ref>。
[[ファイル:Paul Cézanne - Les Joueurs de cartes.jpg|thumb|240px|left|『カード遊びをする人々』(1890 - 1892) オルセー美術館]]
[[1895年]]、[[アンブロワーズ・ヴォラール]]の画廊で初個展を開き、一部の若い画家たちから注目され始めた。「オーヴェルの納屋の庭」と「エスタック」の2点が、[[ギュスターヴ・カイユボット]]からの遺贈によりリュクサンブール美術館に収められた。モネ、ドガ、ルノワール、ゴーギャンも、セザンヌを賞賛した<ref>オーグ (2000: 101)。</ref>。この頃手掛けた多数の水彩画は簡略な描線と淡彩によって描かれ、透明な色の重なりが影を、塗り残された紙の地の色が光を表し、色面で把握されモティーフが全体的な調和の中で画面を構築している。静物画のみならず、水浴をテーマとした水彩画「水浴の女たち」や「釣り」にもその例を見ることができる。


[[1882年]]、『L・A氏の肖像』という作品で初めてサロン([[フランス芸術家協会]]が1881年、美術アカデミーから引き継いで開催していたもの<ref>[[#島田|島田 (2009: 218)]]。</ref>)に入選した。この時、彼は、サロンの審査員となっていた友人[[アントワーヌ・ギュメ]]の弟子という形にしてもらい、審査員が弟子の1人を入選させることができるという特権を使って入選させてもらったという<ref>[[#新関|新関 (2000: 111)]]。</ref><ref group="注釈">『L・A氏の肖像』という作品は、セザンヌの父ルイ=オーギュストの肖像であると推定される。経済的に支え続けてくれた父に入選の名誉を捧げたかったとの推測もされている。[[#新関|新関 (2000: 157, 165-77)]]。</ref>。
[[ファイル:Paul Cézanne 108.jpg|thumb|240px|right|『サント・ヴィクトワール山』(1904) [[フィラデルフィア美術館]]]]
[[1900年]]にパリで開かれた[[パリ万国博覧会 (1900年)|万国博覧会]]の企画展である「フランス美術100年展」に他の印象派の画家たちと共に出品し、これ以降セザンヌは様々な展覧会に積極的に作品を出品するようになった。[[1904年]]から[[1906年]]までは、まだ創設されて間もなかった[[サロン・ドートンヌ]]にも3年連続で出品した。


[[1886年]]、ゾラが小説『{{仮リンク|作品 (小説)|en|L'Œuvre (novel)|label=作品}}』を発表した。ゾラはこの小説の中でセザンヌとマネをモデルにしたと見られる画家クロード・ランティエの主人公の芸術的失敗を描いた。同年4月、ゾラから献本されたこの本をエクスで受け取ったセザンヌは、ゾラに、「君の送ってくれた『作品』を受け取ったところだ。この思い出のしるしを[[ルーゴン・マッカール叢書|ルーゴン・マッカール]]の著者に感謝し、昔の年月のことを思いながら握手を送ることを許していただきたい。」という短い手紙を送った<ref>[[#新関|新関 (2000: 251)]]。</ref>。この小説がきっかけとなり、セザンヌとゾラの友情は断たれてしまったというのが、セザンヌ研究の第一人者{{仮リンク|ジョン・リウォルド|en|John Rewald}}の説であり、定説化しているが、これに対しては、『作品』にはセザンヌの助言が反映されており2人の関係を破綻させるような内容ではなく、むしろメダンの館に雇われていた女性{{仮リンク|ジャンヌ・ロズロ|fr|Jeanne Rozerot}}をめぐる恋愛関係が2人の距離を遠くしたとの説が唱えられている<ref>[[#新関|新関 (2000: 13-15, 244-52)]]。</ref>.
「自然を円筒、球、円錐によって扱いなさい」というフレーズは、1904年4月15日付けのエミール・ベルナール宛ての書簡に出てくるものである。このフレーズは後のキュビスムに影響を与えたものだが、セザンヌの真の意図については諸説ある。


しかし、[[2014年]]にこれまで絶交したと思われていた年より後年の交友を示す手紙(新著『大地』へのお礼と「君がパリに返ってきたら会いに行くよ」との内容)が発見されるに至り、断絶説の再考が求められている<ref>河北新報 2014年10月28日11面[[小倉孝誠]]</ref>。
1906年10月15日に野外で制作中に大雨に打たれ[[肺炎]]にかかり、同年10月22日(または10月23日)に死去した。


[[ファイル:Jas de Bouffan (Aix).JPG|thumb|left|200px|エクスの{{仮リンク|ジャス・ド・ブッファン別荘|en|Bastide du Jas de Bouffan}}。1859年にセザンヌの父が購入し、セザンヌがアトリエなどに使っていたが、1899年売却された<ref>{{Cite web |url=http://www.aixenprovencetourism.com/en/things-to-do/events/?detail=2642 |title=Bastide du Jas de Bouffan |publisher=Aix-en-Provence Tourist Office |accessdate=2015-06-30}}</ref>。]]
彼の「絵画は、堅固で自律的な再構築物であるべきである」という考え方は、続く[[20世紀美術]]に決定的な影響を与えた。
同年(1886年)4月28日、17年間同棲していたオルタンス・フィケと結婚した。同年10月、父が88歳で死去した<ref>[[#新関|新関 (2000: 252)]]。</ref>。父から相続した遺産は40万フランであり、経済的には不安がなくなった。


[[サント・ヴィクトワール山]]などをモチーフに絵画制作を続けたが、絵はなかなか理解されなかった。[[1889年]]に[[パリ万国博覧会 (1889年)|パリ万国博覧会]]で旧作『首吊りの家』が目立たない場所に展示されたほか、[[1890年]]、[[ブリュッセル]]の[[20人展]]に招待されて3点の油彩画を送ったが、余り反響はなかった<ref name="浅野 2000: 65。">[[#浅野|浅野 (2000: 65)]]。</ref>。しかし、前衛的な若い画家や批評家の間では、セザンヌに対する評価が高まりつつあった。ポール・ゴーギャン、[[アルベール・オーリエ]]、[[エミール・ベルナール (画家)|エミール・ベルナール]]、[[モーリス・ドニ]]、[[ポール・セリュジエ]]、[[ギュスターヴ・ジェフロワ]]、[[ジョルジュ・ルコント]]、{{仮リンク|シャルル・モリス|fr|Charles Morice}}などである<ref name="浅野 2000: 65。"/>。
== ギャラリー ==

<center><gallery widths="180px" heights="180px">
ルコントは、[[1892年]]の著書『印象主義者の芸術』の中で、「セザンヌは、最も平凡な対象を描く時でも常にそれを高貴なものにする。」、「限りなく柔らかな色調と、豊かな広がりをうまく抑制できる極めて単純な色彩の均一性にもかかわらず、彼の絵画には力強さがみなぎっている。」と賞賛し、ジェフロワも、[[1894年]]の『芸術生活』第3巻の一つの章をセザンヌに割いている<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 65-66)]]。</ref>。[[ギュスターヴ・カイユボット]]が、[[1894年]]に亡くなった時、ルーヴル美術館に入れられることを条件として、セザンヌを含む印象派の絵画コレクションを政府に[[遺贈]]したところ、アカデミーの画家やジャーナリズムから批判を浴びて大問題となり、政府が一部のみの遺贈を受け入れることで決着したが、このこともセザンヌの知名度を増すことになった<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 66)]]。</ref><ref>[[#高階97|高階 (1997: 205-06)]]。</ref>。
ファイル:Paul Cézanne 130.jpg|『「レヴェヌマン」紙を読む画家の父』 1866 [[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)]]

ファイル:Cezanne Ambroise Vollard.jpg|『アンブロワーズ・ヴォラールの肖像』 1899 [[プティ・パレ|プティ・パレ美術館]]
1890年頃からは、年齢と[[糖尿病]]のため、戸外制作が困難になり、人物画に重点を移すようになった<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 67)]]。</ref>。
ファイル:Paul Cézanne 082.jpg|『カード遊びをする人々』 1890 - 1892 [[メトロポリタン美術館]]
<gallery>
ファイル:Paul Cézanne 004.jpg|『女性水浴図』 1875 - 1877 メトロポリタン美術館
ファイル:Paul Cézanne 005.jpg|『男性水浴図1892 - 1894 [[シキン美術館]]
ファイル:Paul Cézanne 107.jpg|『サント・ヴィクトワール山1887年頃、67 × 92&nbsp;cm。[[コートールド・ギャラリー]]
ファイル:Paul Cézanne 047.jpg|『大水浴図 1898 - 1905 [[フィラデルフィア美術館]]
ファイル:Paul Cézanne 082.jpg|『[[カード遊びをする人々]]1890-92年、65 × 81&nbsp;cm。[[メトロポリタン美術館]]
ファイル:Paul Cézanne 179.jpg|『リンゴとオレンジのある静物 1895-1900 [[ー美術館]]
ファイル:Paul Cézanne 005.jpg|『男性水浴図1892-94年、26 × 40&nbsp;cm。[[ミタジュ美術館]]
ファイル:Paul Cézanne, The Basket of Apples.jpg|『リンゴの籠のある静物』 1890 - 1894 [[シカゴ美術館]]
ファイル:Paul Cézanne, The Basket of Apples.jpg|『リンゴの籠のある静物』1890-94年。[[シカゴ美術館]]
ファイル:Paul Cézanne 148.jpg|『シー湖1896 [[ートールド・ギャラリー]]
ファイル:Paul Cézanne 124.jpg|『黄色い椅子のセザン夫人1893-95年、81 × 85&nbsp;cm。個人レクション。
</gallery>
ファイル:Paul Cézanne O castelo de Medan.jpg|『メダンの館』 1879 - 1881 [[バレル・コレクション]]

ファイル:Paul Cézanne 107.jpg|『サント・ヴィクトワール山』 1887頃 コートールド・ギャラリー
=== 個展の開催(1895年) ===
</gallery></center>
[[1895年]]11月、パリの画商[[アンブロワーズ・ヴォラール]]が、ラフィット街の画廊で、セザンヌの初個展を開いた。もともと、ヴォラールにセザンヌの個展を開くことを勧めたのはピサロであった<ref name="浅野 2000: 66-67。">[[#浅野|浅野 (2000: 66-67)]]。</ref>。ヴォラールは、1894年に行われたタンギー爺さんの遺品売立てでセザンヌ作品が6点出品されたうち、4点を入手した<ref>[[#瀬木|瀬木 (1999: 127)]]。</ref>。さらに、ヴォラールは、パリの街でセザンヌの家を苦労して探り当てて息子に会い、説得を依頼した。すると、南仏にいた本人から、1868年頃から1895年までの集大成といえる約150点の油彩画が送られてきて、個展開催に漕ぎ着けた<ref>{{Cite web |url=http://www.artic.edu/aic/exhibitions/picasso/themes.html |title=Cézanne to Picasso: Ambroise Vollard, Patron of the Avant-Garde |year=2006 |publisher=The Art Institute of Chicago |accessdate=2015-06-29}}</ref><ref>[[#ヴォラール|ヴォラール (1980: 91-93)]]。</ref>。しかし、批評家たちの評価は芳しくなかった<ref>[[#ヴォラール|ヴォラール (1980: 93-94)]]。</ref>。一方、個展を見たピサロは、息子ジョルジュへの手紙で、「実に見事だ。静物画と大変美しい風景画、何とも奇妙な水浴者たちがとても落ち着いて描かれている。」、「蒐集家たちは仰天している。彼らは何も分かっていないが、セザンヌは、驚くべき微妙さ、真実、古典主義を持った第一級の画家だ。」と書いている<ref name="浅野 2000: 66-67。"/>。
<gallery>
ファイル:Paul Cézanne 179.jpg|『リンゴとオレンジのある静物』1895-1900年。[[オルセー美術館]]。
ファイル:Paul Cézanne 148.jpg|『アヌシー湖』1896年。[[コートールド・ギャラリー]]。
</gallery>
同郷の友人の息子で詩人だった[[ジョワシャン・ガスケ]]が、[[1896年]]、セザンヌと知り合い、後に彼の伝記を書いている<ref>[[#ガスケ|ガスケ (2009: 138)]]。</ref>。[[1897年]]、母が亡くなり、[[1899年]]、ジャス・ド・ブッファンは売られてしまった。ガスケによれば、セザンヌは、父の形見として大事にしていた肘掛け椅子や机が家族に処分のため燃やされてしまったことに、絶望を露わにしたという<ref>[[#ガスケ|ガスケ (2009: 21-22, 175)]]。</ref>。

[[1898年]]には、ヴォラールが第2回個展を企画し、[[1899年]]には、セザンヌは第15回[[アンデパンダン展]]に出展した<ref>[[#永井|永井 (2012: 60-61)]]。</ref>。セザンヌは、この両年には一時パリで過ごしたが、[[1900年]]以降はエクスでの制作に専念するようになった<ref>[[#ガスケ|ガスケ (2009: 169, 174)]]。</ref>。しかし、エクスでは周囲に理解されず、ゾラが[[ドレフュス事件]]で『[[私は弾劾する]]』(1898年)を発表したときなどは、その友人としてセザンヌを中傷する記事が地元の新聞に掲載されたこともあった<ref>[[#ガスケ|ガスケ (2009: 192)]]。</ref>。

=== 最晩年(1900年 - 1906年) ===
[[ファイル:Salon d'Automne, 1904, Ambroise Vollard, Salle Cézanne.jpg|thumb|180px|1904年の[[サロン・ドートンヌ]]の様子。]]
[[1900年]]にパリで開かれた[[パリ万国博覧会 (1900年)|万国博覧会]]の企画展である「フランス美術100年展」に他の印象派の画家たちとともに出品し、これ以降セザンヌは様々な展覧会に積極的に作品を出品するようになった。[[1904年]]から[[1906年]]までは、まだ創設されて間もなかった[[サロン・ドートンヌ]]にも3年連続で出品した。パリの[[ベルネーム=ジューヌ画廊]]も、セザンヌの作品を取り扱うようになった<ref>[[#永井|永井 (2012: 61)]]。</ref>。

{{Multiple image
|align=left
|image1=Compotier, verre et pommes, par Paul Cézanne.jpg |width1=112|caption1=セザンヌ『果物入れ、グラス、りんご』1879-82年。
|image2=Paul Gauguin 099.jpg |width2=80 |caption2=[[ポール・ゴーギャン|ゴーギャン]]『マリー・デリアンの肖像』1890年。
|image3=Maurice Denis Homage to Cezanne 1900.jpg |width3=125|caption3=[[モーリス・ドニ]]『[[セザンヌ礼賛]]』1900年。
}}
[[ナビ派]]の画家[[モーリス・ドニ]]は、1900年、画商ヴォラールの画廊を舞台として、セザンヌの静物画の周囲に、ドニ自身を含むナビ派の仲間、ヴォラール、批評家{{仮リンク|アンドレ・メレリオ|en|André Mellerio}}が、巨匠[[オディロン・ルドン]]と向い合って立っている作品『[[セザンヌ礼賛]]』を制作し、これを[[1901年]]の[[国民美術協会 (フランス)|国民美術協会]]サロンに出品した<ref>[[#高階|高階・下 (1975: 4-9)]]。</ref>。セザンヌは、一般社会からはまだ顧みられていなかったが、若い画家たちからは強い敬愛を受けていたことを示している<ref>[[#高階|高階・下 (1975: 4-5)]]。</ref>。このセザンヌの静物画は、ゴーギャンが愛蔵し、その肖像画の中に画中画として描き入れた絵でもあった<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 4-5)]]。</ref>。

ジャス・ド・ブッファンが売られた後は、ブールゴン通りのアパートを借りていたが、一時、「シャトー・ノワール(黒い館)」と呼ばれる建物を借りた。これは、石炭商が建てて黒く塗った建物だったが、セザンヌが住んだ頃には黒色が落ちて黄金色になっていた<ref>[[#ガスケ|ガスケ (2009: 175)]]。</ref>。[[1902年]]、エクス郊外に向かうローヴ街道沿いにアトリエを新築し<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.mmm-ginza.org/museum/special/backnumber/0609/special01-04.html |title = ローヴのアトリエを訪ねて |publisher = メゾン・デ・ミュゼ・デュ・モンド |accessdate = 2018-06-10 }}</ref><ref>{{Cite book|和書 |author= 布施英利|authorlink=布施英利 |year = 2015 |title = パリの美術館で美を学ぶ ルーブルから南仏まで |publisher = [[光文社]] |page = 214 |isbn = 978-4-334-03837-3}}</ref>、多くの静物画、風景画、肖像画を描いた。特に、大水浴図の制作に力を入れた<ref>[[#永井|永井 (2012: 74)]]。</ref>。

[[ファイル:Émil Bernard, Paul Cézanne in his studio at Les Lauves, 1904.jpg|thumb|right|180px|『大水浴図』の前に座るセザンヌ(エミール・ベルナール撮影、1904年3月。当時65歳)。]]
晩年には、セザンヌを慕うエミール・ベルナールや{{仮リンク|シャルル・カモワン|en|Charles Camoin}}といった若い芸術家たちと親交を持った<ref name="浅野 2000: 51。"/>。ベルナールは、[[1904年]]にエクスのセザンヌのもとに1か月ほど滞在し、後に『回想のセザンヌ』という著書でセザンヌの言葉を紹介している。ベルナールによれば、セザンヌは、朝6時から10時半まで郊外のアトリエで制作し、いったんエクスの自宅に戻って昼食をとり、すぐに風景写生に出かけ、夕方5時に帰ってくるという日課を繰り返していたという<ref>[[#ベルナール|ベルナール (1953: 22-23)]]。</ref>。また、日曜日には教会の[[ミサ]]に熱心に参加していたという<ref>[[#ベルナール|ベルナール (1953: 34)]]、[[#ガスケ|ガスケ (2009: 181)]]。</ref>。セザンヌは、同年4月15日付けのベルナール宛の書簡で、次のような芸術論を語っている。
{{Quotation|ここであなたにお話したことをもう一度繰り返させてください。つまり自然を[[円筒]]、[[球]]、[[円錐]]によって扱い、全てを遠近法の中に入れ、物やプラン(平面)の各側面が一つの中心点に向かって集中するようにすることです。水平線に平行な線は広がり、すなわち自然の一断面を与えます。もしお望みならば、全知全能にして永遠の父なる神が私たちの眼前に繰り広げる光景の一断面といってもいいでしょう。この水平線に対して垂直の線は深さを与えます。ところで私たち人間にとって、自然は平面においてよりも深さにおいて存在します。そのために、赤と黄で示される光の振動の中に、空気を感じさせるのに十分なだけの青系統の色彩を入れねばなりません<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 51-52)]]、[[#ベルナール|ベルナール (1953: 57-58)]]。</ref>。}}

[[1906年]]9月21日のベルナール宛書簡では、「私は年をとった上に衰弱している。絵を描きながら死にたいと願っている。」と書いている<ref>[[#ベルナール|ベルナール (1953: 71)]]。</ref>。その年の10月15日、野外で制作中に大雨に打たれて体調を悪化させ、肺充血を併発し、23日朝7時頃、自宅で死去した。翌日、エクスのサン・ソヴール大聖堂で葬儀が行われた<ref>[[#永井|永井 (2012: 61, 74)]]。</ref>。墓石には、死亡日が10月22日と刻まれているが、市役所の死亡届には23日と記録されている<ref>[[#永井|永井 (2012: 75)]]。</ref>。
<gallery>
ファイル:Paul Cézanne 047.jpg|『大水浴図』1898 - 1905年。[[フィラデルフィア美術館]]。
ファイル:Paul Cézanne 108.jpg|『サント・ヴィクトワール山』1904年。[[フィラデルフィア美術館]]。
</gallery>

== 後世 ==
[[ファイル:Atelierhaus-Cezanne1.jpg|thumb|right|160px|死後買い取られて保存されている、ローヴのアトリエ<ref>{{Cite web |url=http://www.atelier-cezanne.com/anglais/histoire-cezanne.htm |title=Atelier des Lauves |publisher=Atelier Cézanne |accessdate=2015-07-03}}</ref>。]]
{{Multiple image
|align=left |direction=vertical |width=100
|image1=FRA-100f-anv.jpg
|image2=FRA-100f-rev.jpg
|footer=旧100フラン紙幣(表裏)。
}}
[[1907年]]10月、[[サロン・ドートンヌ]]の一部として、セザンヌの回顧展が行われ、油彩画を中心とする56点が展示された<ref name="浅野 2000: 75。">[[#浅野|浅野 (2000: 75)]]。</ref>。[[オーストリア]]の詩人[[ライナー・マリア・リルケ]]は、この回顧展を見て感動し、妻に「僕は今日もまたセザンヌの絵を見に行った。……セザンヌの絵の実存が一つのまとまった巨大な『現実』を作り出している。」といった手紙を書いている<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 73)]]。</ref>。この回顧展と同時の1907年10月、エミール・ベルナールが、『[[メルキュール・ド・フランス]]』誌に、エクス訪問をまとめた「ポール・セザンヌの回想」を発表した<ref>[[#ドラン|ドラン編 (1995: 100)]]。</ref>。

1900年に『男の裸体』を描いた[[アンリ・マティス]]、1907年に『水浴者たち』を描いた[[アンドレ・ドラン]]など、[[フォーヴィスム]]の画家にも影響を与えた<ref name="浅野 2000: 75。"/>。マティスの1910年から1917年までの実験的な作品の中には、色彩による構築というセザンヌの手法への理解が見られ、マティスは、さらに、色彩の単純化と構図の平面化を押し進めていった<ref name="浅野 2000: 6。">[[#浅野|浅野 (2000: 6)]]。</ref>。ドランは、自分の部屋の壁に、セザンヌの『5人の浴女たち』の複製写真をかけており、『水浴者たち』は原始美術とセザンヌの影響を総合した作品であった<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 78)]]。</ref>。

[[ジョルジュ・ブラック]]は、1902年にはセザンヌの絵画を見ており、1904年には自分の絵の中にセザンヌの要素を取り入れている。さらに、1907年、南仏滞在の記憶をもとに描いた『家々のある風景』では、セザンヌによる細部の省略を推し進め、建物を幾何学的な形態に変化させている<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 79-80)]]。</ref>。

1960年代には、{{仮リンク|シドニー・ガイスト|de|Sidney Geist}}のように、セザンヌの絵画に性的イメージが隠されていることを指摘する精神分析美術史研究が現れた<ref name="女性像" />。

彼の肖像はその作品とともに[[ユーロ]]導入前の最後の100[[フランス・フラン]]紙幣に描かれていた。

=== 作品の高騰 ===
セザンヌの作品は、ヴォラールによる1895年の個展では100フランから700フランで売れたが、1899年のショケの遺品売立てでは、『首吊りの家』が6200フラン(248ポンド)で売れたが、同じ売立てでルノワール、モネ、マネの作品が1万フランから2万フランで売れたのと比べると、まだ差があった<ref>[[#瀬木|瀬木 (1999: 127-28)]]。</ref>。

ところが、1910年以降には、1000ポンド台、1925年以降には、1万ポンド台に達した。[[1948年]]、[[チューリッヒ]]のコレクター{{仮リンク|エミール・ビュールレ|en|Emil Georg Bührle}}が『赤いチョッキの少年』を3万7500ポンドの高値で購入したことが話題となった。[[1953年]]には、[[ロンドン]]の[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]が『ロザリオを持った老女の肖像』を3万2000ポンドで購入した。[[1958年]]、[[サザビーズ]]のオークションで、[[ポール・メロン]]が『赤いチョッキの少年』第2作を初めての6桁台となる22万ポンドで落札し、[[ワシントンD.C.]]の[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]に寄贈した。1970年代には6桁台の落札が22件も現れた。こうして、セザンヌは、ルノワールと並ぶ最高水準価格の画家となった<ref>[[#瀬木|瀬木 (1999: 129-30)]]。</ref>。

[[ファイル:Paul Cézanne 222.jpg|thumb|right|180px|2011年にカタールが2億5000万ドル超で購入したといわれる『カード遊びをする人々』(1892-93年)。]]
1980年代末には美術市場全体の高騰の中、日本人による高額購入が相次ぎ、[[1989年]]にはニューヨーク・サザビーズで『テーブルの上の水差しと果物』が1050万ドル(14億2905万円)で落札されて、大阪の高橋ビルディング所蔵となり、同じ年にロンドン・[[クリスティーズ]]で『リンゴとナプキン』が1000万ポンド(22億7540万円、1578万ドル)という記録的な価格で落札され、[[安田火災海上保険]]所蔵となった。1990年代にも次々記録が更新され、[[1999年]]5月10日のニューヨーク・サザビーズで『{{仮リンク|カーテン、水差しと果物入れ|en|Rideau, Cruchon et Compotier}}』が5500万ドル(67億1000万円)で落札され、更に記録を塗り替えた<ref>[[#瀬木|瀬木 (1999: 130-31)]]。</ref>。その後の[[2011年]]、相対取引のため詳細は公表されていないが、[[カタール]]が『[[カード遊びをする人々]]』を2億5000万ドル超で購入したと伝えられ、そのとおりとすれば美術取引史上最高値とされる<ref>{{Cite news |url=http://en.artmediaagency.com/12569/250-m-a-new-record-for-a-painting/ |title=250 M$, a new record for a painting? |publisher=Art Media Agency (AMA) |date=2011-05-04 |accessdate=2015-01-10}}</ref><ref>{{Cite news |url=http://www.vanityfair.com/culture/2012/02/qatar-buys-cezanne-card-players-201202 |title=Qatar Purchases Cézanne’s The Card Players for More Than $250 Million, Highest Price Ever for a Work of Art |author=Alexandra Peers |publisher=Vanity Fair |date=2012-02-02 |accessdate=2015-01-10}}</ref>。[[2013年]]には、『サント=ヴィクトワール山』が1億ドルで相対取引されたとされる<ref>{{Cite news |url=http://news.artnet.com/in-brief/secret-100-million-cezanne-sale-in-detroit-204252 |title=Secret $100 Million Cézanne Sale in Detroit |author=Sarah Cascone |publisher=Artnet News |date=2014-12-19 |accessdate=2015-01-10}}</ref>。

=== 関連映画 ===
* {{仮リンク|セザンヌ (映画)|fr|Cézanne : Conversation avec Joachim Gasquet}} - [[1990年の映画|1990年]]の[[フランスの映画|フランス]]の[[ドキュメンタリー映画]]。監督は[[ストローブ=ユイレ|ジャン=マリー・ストローブとダニエル・ユイレ]]。
* [[セザンヌと過ごした時間]] - [[2016年の映画|2016年]]のフランスの[[伝記映画]]。監督は{{仮リンク|ダニエル・トンプソン|fr|Danièle Thompson}}。[[ギヨーム・ガリエンヌ]]がセザンヌを演じた。

== 作品 ==
=== カタログ ===
{{See also|ポール・セザンヌの作品一覧}}
セザンヌの作品は、油絵900点余り、水彩画350点余り、デッサン350点余りである<ref>[[#瀬木|瀬木 (1999: 133)]]。</ref>。

[[1936年]]、美術史家の{{仮リンク|リオネロ・ヴェントーリ|en|Lionello Venturi}}により、初めて本格的なカタログ・レゾネが出版された<ref name="リウォルド">[[星野太]]「非‐感覚の論理――ジョン・リウォルドの理性」[[#ユリイカ|ユリイカ (2012.4: 206)]]。</ref>。

{{仮リンク|ジョン・リウォルド|en|John Rewald}}は、ヴェントーリのカタログ・レゾネの年代確定に疑問を呈し、個人的な調査に加え、研究者を中心とする小委員会を組織して、カタログ・レゾネの編纂作業を進めた。その際、様式分析による年代確定を非科学的であるとして排し、外的な資料やモデルの発言を手がかりとするとの方針を貫いた。そして、まず、[[1973年]]にシャピュイ編による素描のカタログ・レゾネ、[[1983年]]にリウォルド編による水彩画のカタログ・レゾネが刊行された。1994年、リウォルド自身は死去するが、[[1996年]]、その遺志に基づいて油彩画のカタログ・レゾネが刊行され、今日のセザンヌ研究の基礎となっている<ref name="リウォルド" /><ref>[[#新関|新関 (2000: 14-15)]]。</ref>。

=== 作風・技法 ===
リオネロ・ヴェントーリは、セザンヌの油彩画の発展段階を、(1)[[アカデミズム]]と[[ロマン主義]]の時期(1858年-71年)、(2)印象主義の時期(1872年-77年)、(3)構成主義の時期(1878年-87年)、(4)総合の時期(1888年-1906年)に分けて考察している<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 3)]]。</ref>。もっとも、印象主義との出会いの時期も必ずしも印象主義的な絵を描いたとはいえず、構成と総合は年代に依存するものではないため、初期のロマン主義的作品を除く後期作品については、年代によって区分することは恣意性を含むとの指摘もされている<ref>[[#ベーム|ベーム (2007: 26-27)]]。</ref>。

==== 初期のロマン主義的作品 ====
[[ファイル:Apothéose de Delacroix, par Paul Cézanne.jpg|thumb|right|200px|『ドラクロワ礼賛図』1890-94年。油彩、キャンバス。[[グラネ美術館]]。]]
セザンヌは、1860年代から70年代を中心に、現実のモデルに基づかず、空想で描く「構想画」を多く描いている。そのテーマは、暴力、虐殺、性的放縦、誘惑、女性の聖性、美とエロスといったものである<ref name="女性像">永井隆則「セザンヌの描いた女性像」[[#ユリイカ|ユリイカ (2012.4: 80)]]。</ref>。初期の絵画は、内面の情念を露骨に表出したものが多く、絵具を力強く盛り上げて描いている<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 25-27)]]。</ref>。この時期のセザンヌに最も大きな影響を与えたのは、[[ウジェーヌ・ドラクロワ]]と[[ギュスターヴ・クールベ]]であった<ref>[[#高階|高階・上 (1975: 125)]]。</ref>。また、マネの『[[草上の昼食]]』や『[[オランピア (絵画)|オランピア]]』に着想を得た挑発的な作品を複数制作している<ref name="女性像" />。

{{Multiple image
|align=left |direction=horizontal
|image1=Paolo Veronese, The Wedding at Cana.JPG |width1=180
|image2=Jean Auguste Dominique Ingres - The Spring - Google Art Project 2.jpg |width2=60
|footer=セザンヌが絶賛した[[パオロ・ヴェロネーゼ|ヴェロネーゼ]]の『[[カナの婚礼 (ヴェロネーゼ)|カナの婚礼]]』(左)<ref>[[#ガスケ|ガスケ (2009: 272-75)]]。</ref> と酷評した[[ドミニク・アングル|アングル]]の『[[泉 (絵画)|泉]]』<ref>[[#ガスケ|ガスケ (2009: 269)]]。</ref>。
}}
印象派と出会ってからは、こうした露骨なロマン主義は影を潜めたように見えるが、ガスケは、セザンヌの生涯は震えるような感受性と理論的な理性との戦いであって、自ら忌み嫌うロマン主義が芽を出し続け、後年の水浴図などにまで表れていると指摘している<ref>[[#ガスケ|ガスケ (2009: 41-42)]]。</ref>。

セザンヌ自身、晩年においても、フランス古典主義の巨匠[[ニコラ・プッサン]]を尊ぶと同時に、ドラクロワへの敬意を失わず、『ドラクロワ礼賛図』を描いている<ref>[[#永井|永井 (2012: 55)]]。</ref>。そのほか、[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ|ティツィアーノ]]、[[ティントレット]]、[[パオロ・ヴェロネーゼ|ヴェロネーゼ]]といった[[ヴェネツィア派]]の画家や、[[ピーテル・パウル・ルーベンス|ルーベンス]]、[[ディエゴ・ベラスケス|ベラスケス]]の生命感あふれる絵画を愛好した。他方で、[[新古典主義]]の[[ジャック=ルイ・ダヴィッド|ダヴィッド]]、[[ドミニク・アングル|アングル]]や、[[ボローニャ派]]に対しては、血の通わない技法(メチエ)に陥っているとして排斥した<ref>[[#ガスケ|ガスケ (2009: 227-28, 265-72)]]。</ref>。

セザンヌの初期構想画のオリジナリティに初めて注目したのは、{{仮リンク|メイヤー・シャピロ|en|Meyer Schapiro}}であった。その後、1988年から1989年にかけて[[オルセー美術館]]などで、セザンヌの初期作品を集めた大規模な展覧会が開かれたが、初期作品をセザンヌの恥部であるとして評価しない批評家も多かった<ref name="女性像" /><ref>荻野厚志「初期セザンヌの暴力とエロティシズム」[[#ユリイカ|ユリイカ (2012.4: 98)]]。</ref>。

==== 印象主義とその克服 ====
[[ファイル:Paul Cézanne O castelo de Medan.jpg|thumb|right|200px|『メダンの館』1879-81年。油彩、キャンバス、59.1 x 72.4 cm。{{仮リンク|バレル・コレクション|en|Burrell Collection}}([[グラスゴー]])。]]
パリで、ピサロから、戸外で自然を見て描くという印象主義の発想を教えられ、田園の風景画を描き始める<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 37, 42)]]。</ref>。彼は、印象派を通して、色彩を解放することを知った<ref name="浅野 2000: 6。"/>。しかし、モネや[[アルフレッド・シスレー]]が、色彩によって、瞬間的な色調の変化や、その場の雰囲気を伝えようとしたのに対し、セザンヌは、色彩による堅固な造形を目指している点に特徴がある<ref name="浅野 2000: 6-7。">[[#浅野|浅野 (2000: 6-7)]]。</ref>。[[第1回印象派展]]に出品した『首吊りの家』においては、明るい色彩を用いながら、一瞬の映像ではなく、建物の力強い実在感や、空間を構成しようとする意図が表れている<ref>[[#高階|高階 (1975: 125-26)]]。</ref>。

ゾラが[[セーヌ川]]沿いに購入した家を描いた『メダンの館』でも、水平線と垂直線が作り出す構図の中に、短い筆致(ストローク)が秩序立って並べられており、キャンバスの表面における秩序が追求されている<ref name="浅野 2000: 6-7。"/>。このように、色調を微妙に変えながら、斜めに平行して筆致を並置することで秩序を生み出そうとする技法は、{{仮リンク|シオドア・レフ|en|Theodore Reff}}によって'''構築的筆致'''と名付けられた<ref name="ストローク">平倉圭「多重周期構造――セザンヌのクラスター・ストローク」[[#ユリイカ|ユリイカ (2012.4: 130)]]。</ref><ref>[[#永井|永井 (2012: 49)]]。</ref><ref group="注釈">レフの名付けた{{Lang|en|constructive stroke}}を構築的筆触と訳す例もあるが、筆触(タッチ)ではなくストロークである。</ref>。最初はロマン主義的人物群像に用いられていたが、1879年-80年頃から、風景画に用いられるようになった<ref name="ストローク" />。

また、形態の喪失という印象派の抱える問題点を克服するために、輪郭線の復活によって対処しようとしたルノワールとは異なり、セザンヌは、人物、静物、風景を問わず、物の形を、面取りをしたように、面の集合として捉えた上で、キャンバス上に小さい色面を貼り合わせたように乗せ、立体感を強調した<ref>[[#西岡|西岡 (171-74)]]。</ref>。1895年以降の作品には、構築的筆致よりも広い色面が、撒き散らされたように並べられている<ref name="ストローク" />。そして、伝統的な[[明暗法]]や肉付法が、[[無彩色]]により陰影を付けていたのとは異なり、ストローク(筆致)で分割された有彩色を段階的に変化させる'''モデュラシオン'''('''転調''')という技法により、明暗や量感を表現した<ref>[[#永井|永井 (2012: 22)]]。</ref>。その代わり、肌の質感や輝きは、切り捨てられている<ref>[[#西岡|西岡 (2011: 172)]]。</ref>。彼の「自然を円筒、球、円錐によって扱う」というフレーズは、幾何学的形態への還元を勧めるものと解釈され、後の[[キュビスム]]に理論的基盤を与えた<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 52)]]。</ref>。もっとも、セザンヌの真の意図については様々な解釈があり、自然界の物が眼との距離によって様々な色彩を見せるため、モデュラシオンを行う必要があるという意味だとも言われる<ref>[[#永井|永井 (2012: 77)]]。</ref>。

[[ファイル:Paul Cézanne 188.jpg|thumb|left|200px|『果物籠のある静物』1888-90年、64 × 80 cm。[[オルセー美術館]]。]]
1880年代に制作した静物画では、緊張感をはらんだ歪み('''[[デフォルマシオン]]''')が現れる<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 10)]]。</ref>。オルセー美術館にある『果物籠のある静物』では、砂糖壺が傾いていたり、壺が上から覗き込んでいるように描かれているのに対し、果物籠が横から見たように描かれているなど、複数の視点が混在していたり、テーブルの左右の稜線が食い違っていたりという、多くのデフォルマシオンが生じている。それが物の圧倒的な存在感をもって見る者に迫ってくる要素となっている。こうした独特の造形は、同時代の人々からは激しく非難されたが、これも後のキュビスムによって評価されることになる<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 10-11, 48-49)]]。</ref>。

晩年のセザンヌは「自然にならって絵を描くことは、対象を模写することではない、いくつかの感覚(サンサシオン)を実現(レアリゼ)させることだ」と述べていた<ref>[[#ガスケ|ガスケ (2009: 36)]]。</ref>。このように、「'''感覚の実現'''(レアリザシオン)」はセザンヌのスローガンとなるが、そこでいう感覚には、自然が[[網膜]]にもたらす色彩の刺激という意味と、自然から得た感覚を統御して秩序を構築する芸術的感覚という意味の二つがあった<ref>[[#永井|永井 (2012: 44)]]。</ref>。すなわち、モネに代表される印象派が、眼を通して受け入れた感覚世界を色彩に分解してキャンバスに写し取ることを追求したのに対し、セザンヌにとっては、見ることとは、自己の内部にある知的秩序に基づく認識作用であり、しかも、認識の対象は、赤や青の斑点ではなく、りんごや山といった実在であった<ref>[[#高階|高階・上 (1975: 123-24)]]。</ref>。「絵画には、二つのものが必要だ。つまり眼と頭脳である。この両者は、お互いに助け合わなければならない。」という言葉にも、彼の考え方が表れている<ref>[[#高階|高階・上 (1975: 118)]]。</ref><ref>[[#ドラン|ドラン編(ベルナール)(1995: 75-76)]]。</ref>。

=== 主題とモチーフ ===
==== 人物画 ====
{{Multiple image
|align= left |direction=horizontal
| image1=Cezanne Ambroise Vollard.jpg |width1=120
|caption1=セザンヌ『アンブロワーズ・ヴォラールの肖像』1899年、[[プティ・パレ|プティ・パレ美術館]]。
| image2=Pierre-Auguste Renoir 106.jpg |width2=120
| caption2=ルノワールによるヴォラールの肖像。1908年。
}}
セザンヌは、作品制作に時間をかけたことで知られる。画商[[アンブロワーズ・ヴォラール]]は、セザンヌに自らの肖像画を依頼したが、毎回3時間半も、不安定な台の上に置かれた椅子に座ってポーズをするという苦行を強いられ、ある時、居眠りをすると、「りんごと同じようにしていなければならない。りんごが動くか。」と怒鳴られたという逸話を回想録で述べている。115回にわたりポーズを続けた時、セザンヌは、描きかけの肖像画について「ワイシャツの前の部分はそう悪くない」と言ったという。作品は、ルノワールが同じヴォラールを描いた暖かみのある肖像画とは異なり、余計なものを排した構築性の強いものとなっている<ref>[[#高階97|高階 (1997: 191-92)]]。</ref><ref>[[#ヴォラール|ヴォラール (1980: 306-08)]]。</ref>。もっとも、同様に肖像画のモデルとなったガスケによれば、ポーズをとったのは5、6回で、セザンヌは、モデルがいる間はその観察に時間を費やし、モデルが帰った後に筆を動かして作品を完成させたという<ref>[[#ガスケ|ガスケ (2009: 148-49)]]。</ref>。

妻オルタンスも、従順で辛抱強いモデルとして、多数の肖像画に登場している<ref>[[#永井|永井 (2012: 23)]]。</ref>。そのほか、ゾラなどの友人、家政婦ブレモン夫人、庭師ヴァリエなど身近な人物をモデルとしている。生涯[[パトロン]]を持たなかったため、富裕な人物から注文を受けての肖像画はない<ref>[[#永井|永井 (2012: 62)]]。</ref>。

セザンヌにとっての人物画は、ルノワールのようにモデルの生命感が問題になるのではなく、空間におけるヴォリュームを有する人体が問題であり、その点で、静物画と同じ意味を有したといえる<ref>[[#高階|高階 (1975: 127)]]。</ref>。

<gallery>
ファイル:Joachim-Gasquet.jpg|『ジョワシャン・ガスケの肖像』1896-97年。[[プラハ国立美術館]]。
ファイル:Paul Cézanne 126.jpg|『赤い肘掛け椅子のセザンヌ夫人』1877年頃。72.5×56cm。[[ボストン美術館]]。
ファイル:Paul Cézanne, 1888-90, Madame Cézanne (Hortense Fiquet, 1850–1922) in a Red Dress, oil on canvas, 116.5 x 89.5 cm, The Metropolitan Museum of Art, New York.jpg|『赤い服を着たセザンヌ夫人』1888-90年。116×189cm。[[メトロポリタン美術館]]。
ファイル:Paul Cézanne 161.jpg|『椅子に座った農夫』1892-96年。54.6×45.1cm。メトロポリタン美術館。
ファイル:Paul Cézanne 135.jpg|『庭師ヴァリエ』1906年。油彩、キャンバス、65×54cm。個人コレクション。
</gallery>

==== 自画像 ====
<gallery>
ファイル:Paul Cézanne 159.jpg|『オリーヴ色の壁紙の自画像』1880-81年。33.6 × 26&nbsp;cm。[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)]]。
ファイル:Paul Cézanne - Self Portrait in a Felt Hat.jpg|『フェルト帽の自画像』1890-95年。61.2 × 50.1&nbsp;cm。[[ブリヂストン美術館]]。
</gallery>

==== 水浴図 ====
セザンヌは、水浴を主題に多くの連作を制作している。最初は、男女混合で、男性水浴者が森の中で女性水浴者を覗き見するものなど、男女の関わり合いを描くものもあったが、その後、男女は別々に描かれるようになった。男性水浴図は、少年時代に{{仮リンク|アルク川|en|Arc (Provence)}}で水遊びを楽しんだ原体験が投影されており、攻撃性や闘争性が表れている。一方、女性水浴図は、ユートピアでくつろいでいる姿となっている<ref name="女性像" />。

マネ、ルノワール、モネ、ドガ、[[アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック|トゥールーズ=ロートレック]]などが、近代化の進むパリの情景を好んで描いたのに対し、セザンヌは、そうした近代的情景を好まず、自然を追い求めた。セザンヌの水浴図には、そうしたユートピアへの指向が表れている<ref>[[#永井|永井 (2012: 64)]]。</ref>。

1905年1月にエクスを訪問したR.P.リヴィエールとJ.F.シュネルブに対し、セザンヌは、描きかけの大水浴図(バーンズ・コレクション蔵のもの)について、「1894年から制作しています。クールベのように徹底した厚塗りで描きたいものだ。」と述べている<ref>[[#ドラン|ドラン編(リヴィエール、シュネルブ)(1995: 165)]]。</ref>。1904年のベルナールの訪問時には、セザンヌは、[[ヌード]]を描くのに、田舎ではモデルを見つけるのが難しいといった理由から、アカデミー・シュイス時代のデッサンを見ながら制作していることを打ち明けている<ref>[[#ドラン|ドラン編(ベルナール〉(1995: 113)]]。</ref>。

マティスは、1899年にヴォラール画廊で『3人の浴女』を購入し、長く制作の手本とし、『生きる喜び』(1905-06年)など多くの裸婦を描いた<ref name="女性像" />。
<gallery>
ファイル:Paul Cezanne Les baigneurs au repos.jpg|『休息する水浴者(男性水浴)』1876-77年。[[バーンズ・コレクション]]。
ファイル:Paul Cézanne 057.jpg|『3人の浴女』1879-82年。[[プティ・パレ]]美術館。
ファイル:Cezanne Bathers Basel.JPG|『女性水浴図(5人の浴女)』1885年頃。[[バーゼル市立美術館]]。
ファイル:Paul Cézanne 048.jpg|『大水浴図』1894-1905年。[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)]](ロンドン)。
ファイル:Paul Cézanne 047.jpg|『大水浴図』1906年。[[フィラデルフィア美術館]]。
</gallery>

==== 静物画 ====
セザンヌは、初期から、クールベ、マネ、[[ジャン・シメオン・シャルダン]]などを手本に、[[静物画]]に熱心に取り組んだ。中でも、ゾラとの少年時代の想い出にも登場する[[リンゴ|りんご]]を好んで描いた<ref>[[#永井|永井 (2012: 70-71)]]。</ref>。もっとも、ヴォラールによれば、制作に時間をかける余り、りんごが腐ってしまい、下絵だけで終わったこともあったという<ref>[[#ヴォラール|ヴォラール (1980: 307)]]。</ref>。

晩年には、骸骨を取り入れた[[ヴァニタス]]も制作している<ref>[[#永井|永井 (2012: 71)]]。</ref>。ベルナールは、1904年のエクス訪問中、セザンヌが毎朝6時から10時半までアトリエで三つの頭蓋骨を描き続け、「まだ足りないのは実現(レアリザシオン)だ」と述べていたのを報告している<ref>[[#ドラン|ドラン編(ベルナール)(1995: 111-12)]]。</ref>。

[[ナビ派]]の画家[[ポール・セリュジエ]]は、セザンヌの静物画について、「見る者に皮をむいて食べたいと思わせるのではなく、ただ見るだけで美しく模写したい気持ちにさせる。」と評している<ref>[[#ドラン|ドラン編(モーリス・ドニ)(1995: 301]]。</ref>。
<gallery>
ファイル:Paul Cézanne 169.jpg|『静物』1893-94年。59×72.4&nbsp;cm。[[ホイットニー美術館]]。
ファイル:Paul Cézanne - Still Life with a Skull.JPG|『骸骨のある静物』1895-1900年。
ファイル:Paul Cézanne, Pyramid of Skulls, c. 1901.jpg|『{{仮リンク|積み重ねた骸骨|en|Pyramid of Skulls}}』1901年。個人コレクション。
</gallery>

==== サント=ヴィクトワール山 ====
[[ファイル:Montagne Sainte-Victoire towards roofs of Aix-en-Provence.jpg|thumb|right|300px|エクス=アン=プロヴァンスの町から見た[[サント・ヴィクトワール山|サント=ヴィクトワール山]]。]]
[[サント・ヴィクトワール山|サント=ヴィクトワール山]]は、エクスの郊外にある標高1000メートルほどの山である。セザンヌは、1870年に描いた風景画の背景にこの山を取り入れたことがあるが、1880年代半ば以降、この山を重要なモティーフとする連作に取り組むようになった。油絵、水彩、素描で数十点が描かれている<ref>[[#永井|永井 (2012: 68)]]。</ref>。
<gallery>
ファイル:Paul Cézanne 107.jpg|『大きな松のあるサント=ヴィクトワール山』1887年頃。[[コートールド・ギャラリー]]。
ファイル:Paul Cézanne 108.jpg|『サント=ヴィクトワール山』1904年頃。[[フィラデルフィア美術館]]。
ファイル:Paul Cézanne - Mont Sainte-Victoire and Chateau Noir (Bridgestone Museum).jpg|『サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール』1904-06年。[[ブリヂストン美術館]]。
</gallery>

=== 手紙の訳書 ===
*『セザンヌの手紙』ジョン・リウォルド編([[池上忠治]]訳、[[筑摩書房]]・筑摩叢書 1967年、新版1985年/美術公論社 1982年)
*『セザンヌ=ゾラ往復書簡 1858-1887』アンリ・ミトラン校訂・解説(吉田典子・高橋愛訳、[[法政大学出版局]]・叢書ウニベルシタス、2019年)


== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist}}
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=ミシェル・オーグ |others=[[高階秀爾]]監修、村上尚子訳 |title=セザンヌ――孤高先駆者 |publisher=[[創元社]] |series=[[「知の再発見」双書]] |year=2000 |id=ISBN 4-422-2152-8 |ref=オーグ}}
* {{Cite book |和書 |author=浅野春男 |title=セザンヌとそ時代 |others=[[中森義宗]]、永井信一、小林忠、青柳正規監修 |series=世界美術双書 |publisher=[[東信堂]] |year=2000 |ref=浅野}}
* {{Cite book |和書 |author=レイチェル・バーンズ|title=セザ |others=永井隆則訳 |publisher=[[日本経済新聞]] |year=1991}}
* {{Cite book |和書 |author=ブロワー・ヴォラール|authorlink=ブロワーズ・ヴォラール |others=[[小山敬三]] |title=画商の想い出 |publisher=美術公論社 |year=1980 |origyear=1937 |ref=ヴォラール}}
* {{Cite book |和書 |author=リケベックス=マロニー |title=セザンヌ |publisher=タッシェン・ジャパン |year=2001}}
* {{Cite book |和書 |author=ミシェル・グ |others=[[高階秀爾]]監修、村上尚子訳 |title=セザンヌ――孤高の先駆者 |publisher=[[創元社]] |series=[[「知の再発見」双書]] |year=2000 |id=ISBN 4-422-21152-8 |ref=オーグ}}
* {{Cite book |和書 |author=シルヴィアボルゲージ |others=[[樺山紘一]]監修 |title=セザンヌ |publisher=[[]] |series=アートブックシリーズ |year=2007}}
* {{Cite book |和書 |author=ジョワャンガスケ|authorlink=ョワシャン・ガスケ |title=セザンヌ |others=[[與謝野文子]] |series= |publisher=[[岩波]] |year=2009 |origyear=1921 |id=ISBN 978-4-00-335731-6 |ref=ガスケ}}
* {{Cite book |和書 |author=島田紀夫|authorlink=島田紀夫 |title=印象派の挑戦――モネ、ルノワール、ドガたちの友情と闘い |publisher=[[小学館]] |year=2009 |isbn=978-4-09-682021-6 |ref=島田}}
* {{Cite book |last=Cézanne |first=Paul |coauthors=John Rewald, Émile Zola, and Marguerite Kay |title=Paul Cézanne, letters |year=1941 |publisher=B. Cassirer |isbn=0-87817-276-9 |oclc=1196743}}
* {{Cite book |和書 |author=瀬木慎一|authorlink=瀬木慎一 |title=西洋名画の値段 |series=[[新潮選書]] |publisher=[[新潮社]] |year=1999 |id=ISBN 4-10-600576-X |ref=瀬木}}
* {{Cite book|last=Gowing|first=Lawrence|coauthors=Adriani, Götz; Krumrine, Mary Louise; Lewis, Mary Tompkins; Patin, Sylvie; Rewald, John|year=1988|title=Cézanne: The Early Years 1859–1872|publisher=Harry N. Abrams}}
* {{Cite book |和書 |author=高階秀爾|authorlink=高階秀爾 |title=近代絵画史――ゴヤからモンドリアンまで |publisher=[[中央公論新社|中央公論社]] |series=[[中公新書]] 上・下|year=1975 |id=(上)ISBN 978-4121003850、(下)ISBN 978-4121003867|ref=高階}}改版2017年
* {{Cite book |last= Lindsay |first=Jack |title=Cézanne: His Life and Art |year= 1969|publisher=New York Graphic Society |location=United States |isbn=0-8212-0340-1 |oclc=18027 |ref=Lindsay}}
* {{Cite book |last= Machotka |first=Pavel |title=Cézanne: Landscape into Art |year= 1996|publisher=Yale University Press |location=United States |isbn=0-300-06701-1 |oclc=34558348 |ref=Machotka}}
* {{Cite book |和書 |author=高階秀爾 |title=芸術のパトロンたち |publisher=[[岩波新書]] |year=1997 |id=ISBN 4-00-430490-3 |ref=高階97}}
* {{Cite book |last=Vollard |first=Ambroise |title=Cézanne |year= 1984|publisher=Courier Dover Publications |location=England |isbn=0-486-24729-5 |oclc=10725645 |ref=Vollard}}
* {{Cite book |和書 |author=P. M. ドラン編 |others=高橋幸次・村上博哉訳 |title=セザンヌ回想 |publisher=[[淡交社]] |year=1995 |id=ISBN 4-473-01413-4 |ref=ドラン}}
* {{Cite book |和書 |author=永井隆則 |title=もっと知りたい セザンヌ――生涯と作品 |publisher=[[東京美術]] |series=アート・ビギナーズ・コレクション |year=2012 |id=ISBN 978-4-8087-0945-7 |ref=永井}}

* {{Cite book |和書 |author=新関公子|authorlink=新関公子 |title=セザンヌとゾラ――その芸術と友情 |publisher=ブリュッケ |year=2000 |id=ISBN 4-7952-1679-7 |ref=新関}}
* {{Cite book |和書 |author=西岡文彦|authorlink=西岡文彦 |title=簡単すぎる名画鑑賞術 |publisher=[[筑摩書房]] |series=[[ちくま文庫]] |year=2011 |id=ISBN 978-4-480-42885-1 |ref=西岡}}
* {{Cite book |和書 |author={{仮リンク|ゴットフリート・ベーム (美術史家)|en|Gottfried Boehm|label=ゴットフリート・ベーム}} |others=[[岩城見一]]、實淵洋次 |title=ポール・セザンヌ《サント・ヴィクトワール山》 |publisher=[[三元社]] |year=2007 |origyear=1988 |id=ISBN 978-4-88303-216-7|ref=ベーム}}
* {{Cite book |和書 |author=エミール・ベルナール|authorlink=エミール・ベルナール (画家) |others=[[有島生馬]]訳 |title=回想のセザンヌ |edition=改訳 |publisher=岩波書店 |series=岩波文庫 |year=1953 |origyear=1912 |ref=ベルナール}}
* {{Cite book |和書 |author=ジョン・リウォルド |others=[[三浦篤]]、[[坂上桂子]]訳 |title=印象派の歴史 |publisher=[[角川学芸出版]] |year=2004 |origyear=1946 (1st ed.) |isbn=4-04-651912-6 |ref=リウォルド}}[[角川ソフィア文庫]](上・下)、2019年
* {{Cite book |和書 |author=メアリー=トンプキンズ・ルイス |others=宮崎克己訳 |title=セザンヌ |publisher=岩波書店 |series=岩波 世界の美術 |year=2005 |origyear=2000 |id=ISBN 4-00-008981-1 |ref=ルイス}}
* {{Cite journal |和書|title=特集・セザンヌにはどう視えているか |date=2012年4月号 |publisher=[[青土社]] |journal=[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ 詩と批評]] |volume=44 |issue=4 |naid = |pages = 47- |isbn=978-4-7917-0236-7 |issn=1342-5641 |ref =ユリイカ}}
* {{Cite book |first=John |last=Rewald |title=Cézanne: a biography |publisher=Harry N. Abrams, Inc. |year=1986 |isbn=0-8109-0775-5 |ref=Rewald}}
* [[秋丸知貴]]「[https://critique.aicajapan.com/1048 セザンヌと蒸気鉄道]」『美術評論+』2023年9月6日公開。
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== 関連文献 ==
== 関連文献 ==
; 著作、交友のあった人物達による評伝
; 著作、交友のあった人物達による評伝
* ジョン・リウォルド編、池上忠治訳 『セザンヌの手紙』 (筑摩叢書、新版・美術公論社、1982年)
* ジョン・リウォルド編、[[池上忠治]] 『セザンヌの手紙』(筑摩叢書、新版・美術公論社、1982年)
* 『セザンヌ 絶対の探求者』 山梨俊夫編訳 (二玄社 1997年)
* 『セザンヌ 絶対の探求者』 山梨俊夫編訳 (二玄社 1997年)
* P. M. ドラン編 『セザンヌ回想』 高橋幸次訳・村上博哉訳 ([[淡交社]] 1995年)
* ジャワシャン・ガスケ 『セザンヌ』 [[與謝野文子]]訳 ([[岩波文庫]]、2009年、初版・求龍堂)
; 近年刊行の研究書
; 近年刊行の研究書
* メアリー・トンプキンズ・ルイス 『セザンヌ 岩波世界の美術』 宮崎克己訳([[岩波書店]] 2005年)
* アンリ・ペリュショ 『セザンヌ』 [[矢内原伊作]]訳、[[みすず書房]]
* アンリ・ペリュショ 『セザンヌ』 [[矢内原伊作]]訳、[[みすず書房]]
* 『[[吉田秀和]]全集18.セザンヌ』 [[白水社]]、2002年
* 『[[吉田秀和]]全集18 セザンヌ』 [[白水社]]、2002年
** 新編 『セザンヌ物語』 [[ちくま文庫]]、2009年
** 新編 『セザンヌ物語』 [[ちくま文庫]]、2009年
* 内田園生 『セザンヌの画』 みすず書房 1999年
* 内田園生 『セザンヌの画』 みすず書房 1999年
* 前田英樹 『セザンヌ 画家のメチエ』 [[青土社]]、2000年
* 前田英樹 『セザンヌ 画家のメチエ』 [[青土社]]、2000年
* {{Cite book |和書 |author=レイチェル・バーンズ編 |title=セザンヌ |others=永井隆則訳 |publisher=[[日本経済新聞社]] |year=1991}}
* 『[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]] 臨時増刊号 還ってきたセザンヌ』  1996年8月号、青土社
* アンリ・ララマン 『セザンヌ』 千足信行監修、小田部麻利子訳([[日本経済新聞社]]、1996年)
* アンリ・ララマン 『セザンヌ』 千足信行監修、小田部麻利子訳([[日本経済新聞社]]、1996年)
* コンスタンス・ノベール=ライザー 『セザンヌ 岩波世界の巨匠』 山梨俊夫訳 (岩波書店、1993年)
* コンスタンス・ノベール=ライザー 『セザンヌ 岩波世界の巨匠』 山梨俊夫訳 (岩波書店、1993年)
* 浅野春男 『セザンヌとその時代』 (世界美術双書、東信堂、2000年)
* 永井隆則『セザンヌ受容の研究』(中央公論美術出版、2007年)
* 永井隆則『セザンヌ受容の研究』(中央公論美術出版、2007年)
* 永井隆則『もっ知りたいセザンヌ』(東京美術、2012年)
* 永井隆則/工藤弘二/三浦篤/新畑泰秀シンポジウム「セザンヌーパリプロヴァンス」展から見る今日のセザンヌ』(記録集)(国立新美術2013年)
*永井隆則/工藤弘二/三浦篤/新畑泰秀『シンポジウム「セザンヌーパリとプロヴァンス」展から見る今日のセザンヌ』(記録集)(国立新美術館、2013年)
* 秋丸知貴『ポール・セザンヌと蒸気鉄道――近代技術による視覚の変容』(晃洋書房、2013年)
* 秋丸知貴『ポール・セザンヌと蒸気鉄道――近代技術による視覚の変容』(晃洋書房、2013年)
; カタログ・レゾネ
* {{Cite book |first=John |last=Rewald |title=Paul Cézanne: The Watercolors |location=Boston |publisher=Little Brown and Compagny |year=1983}}
* {{Cite book |first=John |last=Rewald |title=The Paintings of Paul Cézanne: A Catalogue Raisonné |location=New York |publisher=Harry N. Abrams |year=1996}}
-->


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commons|Category:Paul Cézanne|ポール・セザンヌ}}
{{Commons&cat|Paul Cézanne}}
* [https://www.project-archive.org/0/092.html ポール・セザンヌ「セザンヌの手紙」(1866年10月19日〜1906年10月17日)] - ARCHIVE。自身の芸術観を記した各氏への書簡
* [https://www.project-archive.org/0/093.html ポール・セザンヌ「セザンヌの資料[詩・落書き・手紙・配色]」] - ARCHIVE。セザンヌの詩やサロン落選時の手紙、晩年のパレットの配色など
* [http://www.cezanne-ecole.com/ Ecole Spéciale de dessin]
* [http://www.cezanne-ecole.com/ Ecole Spéciale de dessin]
* [http://owlstand.com/exhibition/room/448b60f5-c483-4887-b3af-22594d9e24b5 ポール・セザンヌオンライン展示会]


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2024年11月26日 (火) 15:05時点における最新版

ポール・セザンヌ
Paul Cézanne
生誕 (1839-01-19) 1839年1月19日
フランスの旗 フランス王国 エクス=アン=プロヴァンス
死没

1906年10月23日(1906-10-23)(67歳没)

(22日死亡説もあり)
フランスの旗 フランス共和国 エクス=アン=プロヴァンス
国籍 フランスの旗 フランス
教育 アカデミー・シュイス
著名な実績 画家
代表作カード遊びをする人々』、『大水浴図英語版』、『サント・ヴィクトワール山英語版
運動・動向 ポスト印象派
影響を受けた
芸術家
ウジェーヌ・ドラクロワエドゥアール・マネカミーユ・ピサロ
影響を与えた
芸術家
ジョルジュ・ブラックアンリ・マティスパブロ・ピカソアーシル・ゴーキー

ポール・セザンヌPaul Cézanne, 1839年1月19日 - 1906年10月23日(墓碑には10月22日と記されているが,近年は23日説が有力[注釈 1]))は、フランス画家。当初はクロード・モネピエール=オーギュスト・ルノワールらとともに印象派のグループの一員として活動していたが、1880年代からグループを離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求した。ポスト印象派の画家として紹介されることが多く、キュビスムをはじめとする20世紀の美術に多大な影響を与えたことから、しばしば「近代絵画の父」として言及される。

概要

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南フランスのエクス=アン=プロヴァンスに、銀行家の父の下に生まれた。中等学校で下級生だったエミール・ゾラと親友となった。当初は、父の希望に従い、法学部に通っていたが、先にパリに出ていたゾラの勧めもあり、1861年、絵を志してパリに出た(→#出生から学生時代)。パリで、後の印象派を形作るピサロモネルノワールらと親交を持ったが、この時期の作品はロマン主義的な暗い色調のものが多い。サロンに応募したが、落選を続けた。1869年、後に妻となるオルタンス・フィケと交際を始めた(→#画家としての出発(1860年代))。

ピサロと戸外での制作をともにすることで、明るい印象主義の技法を身につけ、第1回と第3回の印象派展に出展したが、厳しい批評が多かった(→#印象主義の時代(1870年代))。1879年頃から、制作場所を故郷のエクスに移した。印象派を離れ、平面上に色彩とボリュームからなる独自の秩序をもった絵画を追求するようになった。友人の伝手を頼りに1882年に1回サロンに入選したほかは、公に認められることはなかったが、若い画家や批評家の間では、徐々に評価が高まっていった。他方、長年の親友だったゾラが1886年に小説『制作 L'Œuvre』を発表した頃から、彼とは疎遠になった(→#エクスでの隠遁生活(1880年代))。1895年に画商アンブロワーズ・ヴォラールがパリで開いたセザンヌの個展が成功し、パリでも知られるようになった(→#個展の開催(1895年))。晩年までエクスで制作を続け、若い画家たちが次々と彼のもとを訪れた。その1人、エミール・ベルナールに述べた「自然を円筒、球、円錐によって扱う」という言葉は、後のキュビスムにも影響を与えた言葉として知られる。1906年、制作中に発病した肺炎で死亡した(→#最晩年(1900年 - 1906年))。

セザンヌはサロンでの落選を繰り返し、その作品がようやく評価されるようになるのは晩年のことであった。本人の死後、その名声と影響力はますます高まり、没後の1907年、サロン・ドートンヌで開催されたセザンヌの回顧展は後の世代に多大な影響を及ぼした。この展覧会を訪れた画家としては、パブロ・ピカソジョルジュ・ブラックフェルナン・レジェアンリ・マティスらが挙げられる。

生涯

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出生から学生時代

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1839年1月19日、ポール・セザンヌは、南フランスのエクス=アン=プロヴァンスに生まれた。同年2月22日、教区の教会で洗礼を受けた。父のルイ=オーギュスト・セザンヌ(1798年-1886年)は、最初は帽子の行商人であったが、商才があり、地元の銀行を買収して銀行経営者となった成功者であった[1]。祖先はイタリア出身と考えられる[2]。母アンヌ=エリザベート・オーベール(1814年-1897年)は、エクスの椅子職人の娘で、もともとルイ=オーギュストの使用人であった。セザンヌの出生時には2人は内縁関係にあり、1841年に妹マリーが生まれた後、1844年に入籍した。1854年、妹ローズが生まれた[3]

父の別荘ジャス・ド・ブッファンに描いた春・夏・冬・秋の壁画(1860年頃)。現在プティ・パレ美術館

10歳の時、エクスのサン=ジョセフ校に入学した。1852年(13歳の時)、ブルボン中等学校に入り、そこで下級生だったエミール・ゾラと友達になった。パリ生まれで親を亡くしていたゾラは、エクスではよそ者で、級友からいじめられていた[4]。セザンヌは、村八分を破ってゾラに話しかけたことで級友から袋叩きに遭い、その翌日、ゾラがリンゴの籠を贈ってきたというエピソードを、後に回想して語っている[5]。もう1人の少年バティスタン・バイユ英語版(後に天文学者)も併せた3人は、親友として絆を深めた[6]。彼らは、散歩、水泳を楽しみ、ホメーロスウェルギリウスの詩、ヴィクトル・ユーゴーアルフレッド・ド・ミュッセへの情熱を共有した[7]。セザンヌは、同校に6年間在籍する間、1857年にエクスの市立素描学校に通い始め、ジョゼフ・ジベールに素描を習った[8]1858年11月にバカロレアに合格すると、1861年まで、父の希望に従い、エクス大学の法学部に通い、同時に素描の勉強も続けていた。そのうち、徐々に、画家になりたいという夢を持つようになった[9]。父が1859年に購入した別荘ジャス・ド・ブッファンの1階の壁画に、四季図と父の肖像画を描いた[10]

セザンヌは、法律の勉強にはなじめず、次第に大学の勉強を怠けるようになった。1858年2月、ゾラがパリの母親のもとに発ち、残されたセザンヌは、ゾラとの文通を始め、詩や恋愛について語り合った[11]。ゾラは、絵の道に進むかどうか迷うセザンヌに、早くパリに出てきて絵の勉強をするようにと繰り返し勧めている。ゾラからセザンヌ宛ての手紙には「勇気を持て。まだ君は何もしていないのだ。僕らには理想がある。だから勇敢に歩いていこう。」、「僕が君の立場なら、アトリエと法廷の間を行ったり来たりすることはしない。弁護士になってもいいし、絵描きになってもいいが、絵具で汚れた法服を着た、骨無し人間にだけはなるな。」とあった。

画家としての出発(1860年代)

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1861年頃(22歳頃)の写真。

セザンヌは、ゾラの勧めもあって、大学を中退し、絵の勉強をするために1861年4月にパリに出た。ルーヴル美術館ベラスケスカラヴァッジオの絵に感銘を受けた。しかし、官立の美術学校(エコール・デ・ボザール)への入学が断られたため、画塾アカデミー・シュイスに通った。ここで、カミーユ・ピサロアルマン・ギヨマンと出会った[12]。朝はアカデミー・シュイスに通い、午後はルーヴル美術館か、エクス出身の画家仲間ジョセフ・ヴィルヴィエイユフランス語版のアトリエでデッサンをしていたという。そのほか、ゾラや、同じくエクス出身の画家アシル・アンプレールと交友を持った[13]。セザンヌは、アカデミー・シュイスで、田舎者らしい粗野な振る舞いや、仕事への集中ぶりで、周囲の笑いものになっており、ピサロによれば、「美術学校から来た無能どもがこぞってセザンヌの裸体素描をこけにしていた」という[14]

同年9月には、成功の夢が遠いのを感じ、ゾラの引き留めにもかかわらず、エクスに帰ってしまった[14]。エクスでは、父の銀行で働きながら、美術学校に通った。後年、セザンヌは、この時の話題には触れたがらなかったようである[15]。銀行勤めはうまく行かず、翌1862年秋、再びパリを訪れ、アカデミー・シュイスで絵を勉強した。この時、クロード・モネピエール=オーギュスト・ルノワールと出会ったようである[16]。また、エクス出身の彫刻家で終生の友人となったフィリップ・ソラーリ英語版とも知り合い、共同生活を送った[17]ロマン主義ウジェーヌ・ドラクロワ写実主義ギュスターヴ・クールベ、後に印象派の父と呼ばれるエドゥアール・マネらから影響を受けた。この時期(1860年代)の作品は、ロマン主義的な暗い色調のものが多い。

1863年ナポレオン3世が開いた落選展に、マネが『草上の昼食』を出品してスキャンダルを巻き起こし、セザンヌもこれを見たと思われるが、セザンヌ自身が出品した記録はない[注釈 2]1865年には、サロン・ド・パリに応募したが、落選した。応募の時、ピサロに、「学士院の連中の顔を怒りと絶望で真っ赤にさせてやるつもりです」と書いている[18][注釈 3]。ゾラは、同年12月、セザンヌに捧げる小説『クロードの告白』を出版し、当局の検閲に遭った。このことを機に、ゾラは『レヴェヌマン』紙に転職した[19]

1866年のサロンには、友人アントニー・ヴァラブレーグの肖像画を提出したが、審査員シャルル=フランソワ・ドービニーの熱心な擁護にもかかわらず、再度落選した[20]。セザンヌは、美術総監エミリアン・ド・ニューウェルケルク伯爵に、これに抗議し落選展の開催を求める手紙[21]を送った[22]。ゾラは、『レヴェヌマン』紙に連載したサロン評ではセザンヌについて一言も触れていないが[23]、同年5月には、サロン評をまとめた『わがサロン』を刊行し、その序文でセザンヌに触れるなど、ゾラとの強い友情は続いていた[24]。セザンヌは、同年5月から8月まで、セーヌ川沿いの小村ベンヌクールフランス語版で制作活動を行ったが、ここを訪れたゾラは、「セザンヌは仕事をしている。彼はその性格の赴くままに、ますます独創的な道を突き進んでいる。彼には大いに希望が持てるよ。とはいっても、彼は向こう10年は落選するだろうとも僕らは踏んでいるんだ。今、彼はいくつかの大作を、4メートルから5メートルはある画布の作品をやろうと目論んでいる。」と友人に報告している[25]。美術批評家としての地位を確立しつつあったゾラは、マネを囲む革新的画家がたむろするカフェ・ゲルボワの常連となり、セザンヌもこれに加わった[26]。もっとも、セザンヌは、都会の機知に富む会話の場にはなじめなかったようである[27]

1867年のサロンにも落選した。シスレー、バジール、ピサロ、ルノワールといった仲間たちも軒並み同様の目に遭った[28]1868年のサロンでは、審査員ドービニーの尽力により、マネ、ピサロ、ドガ、モネ、ルノワール、シスレー、ベルト・モリゾといった仲間たちが入選したが、セザンヌだけは再び落選であった[29]。カフェ・ゲルボワのメンバーの中でも、サロンに対する考えは様々であったが、セザンヌは、当たり障りのない作品を送って入選を目指すのではなく、最も攻撃的な作品を送って、自分たちを拒否している審査委員会の方が悪いことを明らかにすべきだとの考えの持ち主であった[30]

1869年、後に妻となるオルタンス・フィケ英語版(当時18歳)と知り合い、後に同棲するが、厳格な父を恐れ彼女との関係を隠し続けた[31]。父からの月200フランの仕送りで2人の生活を支えなければならず、経済的には苦しくなった[32]

1870年のサロンには、画家仲間アシル・アンプレールを描いた肖像画を応募し、またも落選した[33]。この年の7月19日に普仏戦争が勃発したが、母がエクスから約30キロ離れ地中海に面した村エスタックに用意してくれた家にフィケとともに移り、兵役を逃れた[34]

印象主義の時代(1870年代)

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1874年(当時35歳)、第1回印象派展が行われたパリのナダール写真館。

パリ・コミューンの混乱が終わり、フランス第三共和政が発足すると、パリを逃れていた画家たちが戻ってきた。セザンヌも、1872年夏にはエスタックからパリに戻ったようである[35]。同年、フィケと1月に生まれたばかりの息子ポールを連れてパリ北西のポントワーズに移り、ピサロとイーゼルを並べて制作した。そのすぐ後、ピサロとともに近くのオーヴェル=シュル=オワーズに移り住んだ。ここでアマチュア画家の医師ポール・ガシェとも親交を結んだ[36]。1873年にパリ・モンマルトルに店を開いた絵具商タンギー爺さんことジュリアン・タンギーも、ピサロの紹介で知り合ったセザンヌの作品を熱愛した[37]。セザンヌは、この時期にピサロから筆触分割などの印象主義の技法を習得し、セザンヌの作品は明るい色調のものが多くなった[38]。セザンヌは、印象派からの影響について、後年次のように語っている。

私だって、何を隠そう、印象主義者だった。ピサロは私に対してものすごい影響を与えた。しかし私は印象主義を、美術館の芸術のように堅固な、長続きするものにしたかったのだ[39]

また、これに続けて、モネについて、「モネは一つの眼だ、絵描き始まって以来の非凡なる眼だ。私は彼には脱帽するよ。」とも語っている[40]

1877年、ポントワーズのピサロ(右端=47歳)の家の庭で、ベンチに腰掛けるセザンヌ(38歳)[41]

1874年、モネ、ドガらが開いたグループ展に『首吊りの家』、『モデルヌ・オランピア』など3作品を出品した[42]。『モデルヌ・オランピア』は、マネの『オランピア』に対抗して、より明るい色調と速いタッチで近代の絵画の姿を示そうとした作品であった[43]。この展覧会は、後に第1回印象派展と呼ばれることになるが、モネの『印象・日の出』を筆頭に、世間から酷評された[44]。セザンヌの『モデルヌ・オランピア』も、新聞紙上で「腰を折った女を覆った最後の布を黒人女が剥ぎとって、その醜い裸身を肌の茶色いまぬけ男の視線にさらしている」と書かれるなど、厳しい酷評・皮肉が集中した[45]。他方、ゾラは、マルセイユの新聞「セマフォール・ド・マルセイユ」に、無署名記事で、「その展覧会で心打たれた作品は多いが、中でも、ポール・セザンヌ氏の非常に注目すべき一風景画をここに特筆しておきたい。[……]その作はある偉大な独創性を証明していた。ポール・セザンヌ氏は長年苦闘を続けているが、真に大画家の気質を示している。」と援護している[46]。また、『首吊りの家』は、アルマン・ドリア伯爵に300フランの高値で買い上げられた[47]。セザンヌは、この年の秋に母に書いた手紙で、「私が完成を目指すのは、より真実に、より深い知に達する喜びのためでなければなりません。世に認められる日は必ず来るし、下らないうわべにしか感動しない人々より、ずっと熱心で理解力のある賛美者を獲得するようになると本当に信じてください。」と自負心を表している[48]

その後、パリとエクスの間を行ったり来たりした。1876年の第2回印象派展には出品していない。辛辣な批評に自信を失って出品を断ったとも言われるが、サロンに応募を続けるセザンヌの姿勢が、グループ展に参加するからにはサロンに応募すべきではないというエドガー・ドガの方針に反したためとも言われる[49][注釈 4]

絵画収集家ヴィクトール・ショケの励ましもあり、1877年の第3回印象派展に、油彩13点、水彩3点の合計16点を出品した。ここには、既に、肖像画、風景画、静物、動物、水浴図、物語的構成図という、セザンヌが扱う主題が全て含まれていた[50]。その中に含まれていたショケの肖像は再び厳しい批評にさらされたが、一方で、「『水浴図』を見て笑う人たちは、私に言わせればパルテノンを批判する未開人のようだ」と述べたジョルジュ・リヴィエールのほか、ルイ・エドモン・デュランティテオドール・デュレのように、セザンヌの作品を賞賛する批評家も現れた[51]。ゾラも、「セマフォール・ド・マルセイユ」紙に「ポール・セザンヌ氏は確かに、このグループ[印象派]で最高の偉大な色彩画家である」との賛辞を書いている[52]

エクスでの隠遁生活(1880年代)

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セザンヌは、1878年頃から、時間とともに移ろう光ばかりを追いかけ、対象物の確固とした存在感がなおざりにされがちな印象派の手法に不満を感じ始めた。

そして、セザンヌは、モネ、ルノワール、ピサロとの友情は保ちながらも、第4回印象派展以降には参加していない。1879年4月、ピサロに対し、「私のサロン応募のことで論争が起こっている折から、私は印象派展覧会に参加しない方がよいのではないかと考えます。また他方では、作品搬入の面倒さから来る苦労を避けたくもありますし。それにここ数日のうちにパリを発つのです。」と書き送っている[53]。印象派グループの中でも、モネやルノワールと、ドガとの対立が鋭くなり、ドガが出品する第4回(1879年)、第5回(1880年)印象派展を、モネやルノワールがボイコットするという事態になっていた[54][注釈 5]。セザンヌは、こうしてサロン応募を優先したが、この年のサロンにも落選した[55]

セザンヌは、同時期から、制作場所をパリから故郷のエクスに戻した。第3回印象派展の後、1895年に最初の個展を開くまで、パリの画壇からは知られることなく制作を続けた[56]。1878年から1879年にかけて、エクスとエスタックに滞在することが多くなった[57]。この頃、妻子の存在を父に感付かれたことで、父子の関係は悪化し、1878年4月から8月頃、毎月の送金を半分に減らされ、ゾラに月60フランの援助を頼んだ[58]

画材をタンギーの店で買い、代金代わりに絵を渡すことも多く、ポール・ゴーギャンフィンセント・ファン・ゴッホはこの店でセザンヌを研究した。また、ショケ、ピサロ、ガシェなどもタンギーの店でセザンヌの作品を買った[59]。ゴーギャンは、ピサロに、「セザンヌ氏は万人に認められる作品を描くための正確な定式を発見したでしょうか。[……]どうか彼にホメオパシーの神秘的な薬を与えて、眠っている間にそれをしゃべらせ、できるだけ早く私たちに報告しにパリまで来てください。」という手紙を送っている[60]。また、ゴッホは、後に、アルルに移った時、「前に見たセザンヌの作品が、否応なく心に蘇ってくる。プロヴァンスの荒々しい面を力強く示しているからだ。」と書いている[61]

小説『居酒屋』(1877年)で成功したゾラがメダンに買った別荘。友人の文学者たちが多数招待された[62]

1880年代前半には、10月から2月頃までは南仏で過ごし、エクスの父の家とマルセイユの妻子のいる家とエスタックの自分の家を行き来し、サロンのシーズンが始まる3月にはパリに出て、パリのアパルトマンを借りたり、ムランやポントワーズといった近郊の町に下宿したりする、という生活を繰り返していた[63]。パリを訪れた時は、ゾラがセーヌ川沿いのメダン英語版に買った別荘に招待されることも度々であった[64]

1882年、『L・A氏の肖像』という作品で初めてサロン(フランス芸術家協会が1881年、美術アカデミーから引き継いで開催していたもの[65])に入選した。この時、彼は、サロンの審査員となっていた友人アントワーヌ・ギュメの弟子という形にしてもらい、審査員が弟子の1人を入選させることができるという特権を使って入選させてもらったという[66][注釈 6]

1886年、ゾラが小説『作品英語版』を発表した。ゾラはこの小説の中でセザンヌとマネをモデルにしたと見られる画家クロード・ランティエの主人公の芸術的失敗を描いた。同年4月、ゾラから献本されたこの本をエクスで受け取ったセザンヌは、ゾラに、「君の送ってくれた『作品』を受け取ったところだ。この思い出のしるしをルーゴン・マッカールの著者に感謝し、昔の年月のことを思いながら握手を送ることを許していただきたい。」という短い手紙を送った[67]。この小説がきっかけとなり、セザンヌとゾラの友情は断たれてしまったというのが、セザンヌ研究の第一人者ジョン・リウォルド英語版の説であり、定説化しているが、これに対しては、『作品』にはセザンヌの助言が反映されており2人の関係を破綻させるような内容ではなく、むしろメダンの館に雇われていた女性ジャンヌ・ロズロフランス語版をめぐる恋愛関係が2人の距離を遠くしたとの説が唱えられている[68].

しかし、2014年にこれまで絶交したと思われていた年より後年の交友を示す手紙(新著『大地』へのお礼と「君がパリに返ってきたら会いに行くよ」との内容)が発見されるに至り、断絶説の再考が求められている[69]

エクスのジャス・ド・ブッファン別荘英語版。1859年にセザンヌの父が購入し、セザンヌがアトリエなどに使っていたが、1899年売却された[70]

同年(1886年)4月28日、17年間同棲していたオルタンス・フィケと結婚した。同年10月、父が88歳で死去した[71]。父から相続した遺産は40万フランであり、経済的には不安がなくなった。

サント・ヴィクトワール山などをモチーフに絵画制作を続けたが、絵はなかなか理解されなかった。1889年パリ万国博覧会で旧作『首吊りの家』が目立たない場所に展示されたほか、1890年ブリュッセル20人展に招待されて3点の油彩画を送ったが、余り反響はなかった[72]。しかし、前衛的な若い画家や批評家の間では、セザンヌに対する評価が高まりつつあった。ポール・ゴーギャン、アルベール・オーリエエミール・ベルナールモーリス・ドニポール・セリュジエギュスターヴ・ジェフロワジョルジュ・ルコントシャルル・モリスフランス語版などである[72]

ルコントは、1892年の著書『印象主義者の芸術』の中で、「セザンヌは、最も平凡な対象を描く時でも常にそれを高貴なものにする。」、「限りなく柔らかな色調と、豊かな広がりをうまく抑制できる極めて単純な色彩の均一性にもかかわらず、彼の絵画には力強さがみなぎっている。」と賞賛し、ジェフロワも、1894年の『芸術生活』第3巻の一つの章をセザンヌに割いている[73]ギュスターヴ・カイユボットが、1894年に亡くなった時、ルーヴル美術館に入れられることを条件として、セザンヌを含む印象派の絵画コレクションを政府に遺贈したところ、アカデミーの画家やジャーナリズムから批判を浴びて大問題となり、政府が一部のみの遺贈を受け入れることで決着したが、このこともセザンヌの知名度を増すことになった[74][75]

1890年頃からは、年齢と糖尿病のため、戸外制作が困難になり、人物画に重点を移すようになった[76]

個展の開催(1895年)

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1895年11月、パリの画商アンブロワーズ・ヴォラールが、ラフィット街の画廊で、セザンヌの初個展を開いた。もともと、ヴォラールにセザンヌの個展を開くことを勧めたのはピサロであった[77]。ヴォラールは、1894年に行われたタンギー爺さんの遺品売立てでセザンヌ作品が6点出品されたうち、4点を入手した[78]。さらに、ヴォラールは、パリの街でセザンヌの家を苦労して探り当てて息子に会い、説得を依頼した。すると、南仏にいた本人から、1868年頃から1895年までの集大成といえる約150点の油彩画が送られてきて、個展開催に漕ぎ着けた[79][80]。しかし、批評家たちの評価は芳しくなかった[81]。一方、個展を見たピサロは、息子ジョルジュへの手紙で、「実に見事だ。静物画と大変美しい風景画、何とも奇妙な水浴者たちがとても落ち着いて描かれている。」、「蒐集家たちは仰天している。彼らは何も分かっていないが、セザンヌは、驚くべき微妙さ、真実、古典主義を持った第一級の画家だ。」と書いている[77]

同郷の友人の息子で詩人だったジョワシャン・ガスケが、1896年、セザンヌと知り合い、後に彼の伝記を書いている[82]1897年、母が亡くなり、1899年、ジャス・ド・ブッファンは売られてしまった。ガスケによれば、セザンヌは、父の形見として大事にしていた肘掛け椅子や机が家族に処分のため燃やされてしまったことに、絶望を露わにしたという[83]

1898年には、ヴォラールが第2回個展を企画し、1899年には、セザンヌは第15回アンデパンダン展に出展した[84]。セザンヌは、この両年には一時パリで過ごしたが、1900年以降はエクスでの制作に専念するようになった[85]。しかし、エクスでは周囲に理解されず、ゾラがドレフュス事件で『私は弾劾する』(1898年)を発表したときなどは、その友人としてセザンヌを中傷する記事が地元の新聞に掲載されたこともあった[86]

最晩年(1900年 - 1906年)

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1904年のサロン・ドートンヌの様子。

1900年にパリで開かれた万国博覧会の企画展である「フランス美術100年展」に他の印象派の画家たちとともに出品し、これ以降セザンヌは様々な展覧会に積極的に作品を出品するようになった。1904年から1906年までは、まだ創設されて間もなかったサロン・ドートンヌにも3年連続で出品した。パリのベルネーム=ジューヌ画廊も、セザンヌの作品を取り扱うようになった[87]

セザンヌ『果物入れ、グラス、りんご』1879-82年。
ゴーギャン『マリー・デリアンの肖像』1890年。

ナビ派の画家モーリス・ドニは、1900年、画商ヴォラールの画廊を舞台として、セザンヌの静物画の周囲に、ドニ自身を含むナビ派の仲間、ヴォラール、批評家アンドレ・メレリオ英語版が、巨匠オディロン・ルドンと向い合って立っている作品『セザンヌ礼賛』を制作し、これを1901年国民美術協会サロンに出品した[88]。セザンヌは、一般社会からはまだ顧みられていなかったが、若い画家たちからは強い敬愛を受けていたことを示している[89]。このセザンヌの静物画は、ゴーギャンが愛蔵し、その肖像画の中に画中画として描き入れた絵でもあった[90]

ジャス・ド・ブッファンが売られた後は、ブールゴン通りのアパートを借りていたが、一時、「シャトー・ノワール(黒い館)」と呼ばれる建物を借りた。これは、石炭商が建てて黒く塗った建物だったが、セザンヌが住んだ頃には黒色が落ちて黄金色になっていた[91]1902年、エクス郊外に向かうローヴ街道沿いにアトリエを新築し[92][93]、多くの静物画、風景画、肖像画を描いた。特に、大水浴図の制作に力を入れた[94]

『大水浴図』の前に座るセザンヌ(エミール・ベルナール撮影、1904年3月。当時65歳)。

晩年には、セザンヌを慕うエミール・ベルナールやシャルル・カモワン英語版といった若い芸術家たちと親交を持った[56]。ベルナールは、1904年にエクスのセザンヌのもとに1か月ほど滞在し、後に『回想のセザンヌ』という著書でセザンヌの言葉を紹介している。ベルナールによれば、セザンヌは、朝6時から10時半まで郊外のアトリエで制作し、いったんエクスの自宅に戻って昼食をとり、すぐに風景写生に出かけ、夕方5時に帰ってくるという日課を繰り返していたという[95]。また、日曜日には教会のミサに熱心に参加していたという[96]。セザンヌは、同年4月15日付けのベルナール宛の書簡で、次のような芸術論を語っている。

ここであなたにお話したことをもう一度繰り返させてください。つまり自然を円筒円錐によって扱い、全てを遠近法の中に入れ、物やプラン(平面)の各側面が一つの中心点に向かって集中するようにすることです。水平線に平行な線は広がり、すなわち自然の一断面を与えます。もしお望みならば、全知全能にして永遠の父なる神が私たちの眼前に繰り広げる光景の一断面といってもいいでしょう。この水平線に対して垂直の線は深さを与えます。ところで私たち人間にとって、自然は平面においてよりも深さにおいて存在します。そのために、赤と黄で示される光の振動の中に、空気を感じさせるのに十分なだけの青系統の色彩を入れねばなりません[97]

1906年9月21日のベルナール宛書簡では、「私は年をとった上に衰弱している。絵を描きながら死にたいと願っている。」と書いている[98]。その年の10月15日、野外で制作中に大雨に打たれて体調を悪化させ、肺充血を併発し、23日朝7時頃、自宅で死去した。翌日、エクスのサン・ソヴール大聖堂で葬儀が行われた[99]。墓石には、死亡日が10月22日と刻まれているが、市役所の死亡届には23日と記録されている[100]

後世

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死後買い取られて保存されている、ローヴのアトリエ[101]
旧100フラン紙幣(表裏)。

1907年10月、サロン・ドートンヌの一部として、セザンヌの回顧展が行われ、油彩画を中心とする56点が展示された[102]オーストリアの詩人ライナー・マリア・リルケは、この回顧展を見て感動し、妻に「僕は今日もまたセザンヌの絵を見に行った。……セザンヌの絵の実存が一つのまとまった巨大な『現実』を作り出している。」といった手紙を書いている[103]。この回顧展と同時の1907年10月、エミール・ベルナールが、『メルキュール・ド・フランス』誌に、エクス訪問をまとめた「ポール・セザンヌの回想」を発表した[104]

1900年に『男の裸体』を描いたアンリ・マティス、1907年に『水浴者たち』を描いたアンドレ・ドランなど、フォーヴィスムの画家にも影響を与えた[102]。マティスの1910年から1917年までの実験的な作品の中には、色彩による構築というセザンヌの手法への理解が見られ、マティスは、さらに、色彩の単純化と構図の平面化を押し進めていった[105]。ドランは、自分の部屋の壁に、セザンヌの『5人の浴女たち』の複製写真をかけており、『水浴者たち』は原始美術とセザンヌの影響を総合した作品であった[106]

ジョルジュ・ブラックは、1902年にはセザンヌの絵画を見ており、1904年には自分の絵の中にセザンヌの要素を取り入れている。さらに、1907年、南仏滞在の記憶をもとに描いた『家々のある風景』では、セザンヌによる細部の省略を推し進め、建物を幾何学的な形態に変化させている[107]

1960年代には、シドニー・ガイストドイツ語版のように、セザンヌの絵画に性的イメージが隠されていることを指摘する精神分析美術史研究が現れた[108]

彼の肖像はその作品とともにユーロ導入前の最後の100フランス・フラン紙幣に描かれていた。

作品の高騰

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セザンヌの作品は、ヴォラールによる1895年の個展では100フランから700フランで売れたが、1899年のショケの遺品売立てでは、『首吊りの家』が6200フラン(248ポンド)で売れたが、同じ売立てでルノワール、モネ、マネの作品が1万フランから2万フランで売れたのと比べると、まだ差があった[109]

ところが、1910年以降には、1000ポンド台、1925年以降には、1万ポンド台に達した。1948年チューリッヒのコレクターエミール・ビュールレ英語版が『赤いチョッキの少年』を3万7500ポンドの高値で購入したことが話題となった。1953年には、ロンドンナショナル・ギャラリーが『ロザリオを持った老女の肖像』を3万2000ポンドで購入した。1958年サザビーズのオークションで、ポール・メロンが『赤いチョッキの少年』第2作を初めての6桁台となる22万ポンドで落札し、ワシントンD.C.ナショナル・ギャラリーに寄贈した。1970年代には6桁台の落札が22件も現れた。こうして、セザンヌは、ルノワールと並ぶ最高水準価格の画家となった[110]

2011年にカタールが2億5000万ドル超で購入したといわれる『カード遊びをする人々』(1892-93年)。

1980年代末には美術市場全体の高騰の中、日本人による高額購入が相次ぎ、1989年にはニューヨーク・サザビーズで『テーブルの上の水差しと果物』が1050万ドル(14億2905万円)で落札されて、大阪の高橋ビルディング所蔵となり、同じ年にロンドン・クリスティーズで『リンゴとナプキン』が1000万ポンド(22億7540万円、1578万ドル)という記録的な価格で落札され、安田火災海上保険所蔵となった。1990年代にも次々記録が更新され、1999年5月10日のニューヨーク・サザビーズで『カーテン、水差しと果物入れ英語版』が5500万ドル(67億1000万円)で落札され、更に記録を塗り替えた[111]。その後の2011年、相対取引のため詳細は公表されていないが、カタールが『カード遊びをする人々』を2億5000万ドル超で購入したと伝えられ、そのとおりとすれば美術取引史上最高値とされる[112][113]2013年には、『サント=ヴィクトワール山』が1億ドルで相対取引されたとされる[114]

関連映画

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作品

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カタログ

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セザンヌの作品は、油絵900点余り、水彩画350点余り、デッサン350点余りである[115]

1936年、美術史家のリオネロ・ヴェントーリ英語版により、初めて本格的なカタログ・レゾネが出版された[116]

ジョン・リウォルド英語版は、ヴェントーリのカタログ・レゾネの年代確定に疑問を呈し、個人的な調査に加え、研究者を中心とする小委員会を組織して、カタログ・レゾネの編纂作業を進めた。その際、様式分析による年代確定を非科学的であるとして排し、外的な資料やモデルの発言を手がかりとするとの方針を貫いた。そして、まず、1973年にシャピュイ編による素描のカタログ・レゾネ、1983年にリウォルド編による水彩画のカタログ・レゾネが刊行された。1994年、リウォルド自身は死去するが、1996年、その遺志に基づいて油彩画のカタログ・レゾネが刊行され、今日のセザンヌ研究の基礎となっている[116][117]

作風・技法

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リオネロ・ヴェントーリは、セザンヌの油彩画の発展段階を、(1)アカデミズムロマン主義の時期(1858年-71年)、(2)印象主義の時期(1872年-77年)、(3)構成主義の時期(1878年-87年)、(4)総合の時期(1888年-1906年)に分けて考察している[118]。もっとも、印象主義との出会いの時期も必ずしも印象主義的な絵を描いたとはいえず、構成と総合は年代に依存するものではないため、初期のロマン主義的作品を除く後期作品については、年代によって区分することは恣意性を含むとの指摘もされている[119]

初期のロマン主義的作品

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『ドラクロワ礼賛図』1890-94年。油彩、キャンバス。グラネ美術館

セザンヌは、1860年代から70年代を中心に、現実のモデルに基づかず、空想で描く「構想画」を多く描いている。そのテーマは、暴力、虐殺、性的放縦、誘惑、女性の聖性、美とエロスといったものである[108]。初期の絵画は、内面の情念を露骨に表出したものが多く、絵具を力強く盛り上げて描いている[120]。この時期のセザンヌに最も大きな影響を与えたのは、ウジェーヌ・ドラクロワギュスターヴ・クールベであった[121]。また、マネの『草上の昼食』や『オランピア』に着想を得た挑発的な作品を複数制作している[108]

セザンヌが絶賛したヴェロネーゼの『カナの婚礼』(左)[122] と酷評したアングルの『[123]

印象派と出会ってからは、こうした露骨なロマン主義は影を潜めたように見えるが、ガスケは、セザンヌの生涯は震えるような感受性と理論的な理性との戦いであって、自ら忌み嫌うロマン主義が芽を出し続け、後年の水浴図などにまで表れていると指摘している[124]

セザンヌ自身、晩年においても、フランス古典主義の巨匠ニコラ・プッサンを尊ぶと同時に、ドラクロワへの敬意を失わず、『ドラクロワ礼賛図』を描いている[125]。そのほか、ティツィアーノティントレットヴェロネーゼといったヴェネツィア派の画家や、ルーベンスベラスケスの生命感あふれる絵画を愛好した。他方で、新古典主義ダヴィッドアングルや、ボローニャ派に対しては、血の通わない技法(メチエ)に陥っているとして排斥した[126]

セザンヌの初期構想画のオリジナリティに初めて注目したのは、メイヤー・シャピロ英語版であった。その後、1988年から1989年にかけてオルセー美術館などで、セザンヌの初期作品を集めた大規模な展覧会が開かれたが、初期作品をセザンヌの恥部であるとして評価しない批評家も多かった[108][127]

印象主義とその克服

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『メダンの館』1879-81年。油彩、キャンバス、59.1 x 72.4 cm。バレル・コレクション英語版グラスゴー)。

パリで、ピサロから、戸外で自然を見て描くという印象主義の発想を教えられ、田園の風景画を描き始める[128]。彼は、印象派を通して、色彩を解放することを知った[105]。しかし、モネやアルフレッド・シスレーが、色彩によって、瞬間的な色調の変化や、その場の雰囲気を伝えようとしたのに対し、セザンヌは、色彩による堅固な造形を目指している点に特徴がある[129]第1回印象派展に出品した『首吊りの家』においては、明るい色彩を用いながら、一瞬の映像ではなく、建物の力強い実在感や、空間を構成しようとする意図が表れている[130]

ゾラがセーヌ川沿いに購入した家を描いた『メダンの館』でも、水平線と垂直線が作り出す構図の中に、短い筆致(ストローク)が秩序立って並べられており、キャンバスの表面における秩序が追求されている[129]。このように、色調を微妙に変えながら、斜めに平行して筆致を並置することで秩序を生み出そうとする技法は、シオドア・レフ英語版によって構築的筆致と名付けられた[131][132][注釈 7]。最初はロマン主義的人物群像に用いられていたが、1879年-80年頃から、風景画に用いられるようになった[131]

また、形態の喪失という印象派の抱える問題点を克服するために、輪郭線の復活によって対処しようとしたルノワールとは異なり、セザンヌは、人物、静物、風景を問わず、物の形を、面取りをしたように、面の集合として捉えた上で、キャンバス上に小さい色面を貼り合わせたように乗せ、立体感を強調した[133]。1895年以降の作品には、構築的筆致よりも広い色面が、撒き散らされたように並べられている[131]。そして、伝統的な明暗法や肉付法が、無彩色により陰影を付けていたのとは異なり、ストローク(筆致)で分割された有彩色を段階的に変化させるモデュラシオン転調)という技法により、明暗や量感を表現した[134]。その代わり、肌の質感や輝きは、切り捨てられている[135]。彼の「自然を円筒、球、円錐によって扱う」というフレーズは、幾何学的形態への還元を勧めるものと解釈され、後のキュビスムに理論的基盤を与えた[136]。もっとも、セザンヌの真の意図については様々な解釈があり、自然界の物が眼との距離によって様々な色彩を見せるため、モデュラシオンを行う必要があるという意味だとも言われる[137]

『果物籠のある静物』1888-90年、64 × 80 cm。オルセー美術館

1880年代に制作した静物画では、緊張感をはらんだ歪み(デフォルマシオン)が現れる[138]。オルセー美術館にある『果物籠のある静物』では、砂糖壺が傾いていたり、壺が上から覗き込んでいるように描かれているのに対し、果物籠が横から見たように描かれているなど、複数の視点が混在していたり、テーブルの左右の稜線が食い違っていたりという、多くのデフォルマシオンが生じている。それが物の圧倒的な存在感をもって見る者に迫ってくる要素となっている。こうした独特の造形は、同時代の人々からは激しく非難されたが、これも後のキュビスムによって評価されることになる[139]

晩年のセザンヌは「自然にならって絵を描くことは、対象を模写することではない、いくつかの感覚(サンサシオン)を実現(レアリゼ)させることだ」と述べていた[140]。このように、「感覚の実現(レアリザシオン)」はセザンヌのスローガンとなるが、そこでいう感覚には、自然が網膜にもたらす色彩の刺激という意味と、自然から得た感覚を統御して秩序を構築する芸術的感覚という意味の二つがあった[141]。すなわち、モネに代表される印象派が、眼を通して受け入れた感覚世界を色彩に分解してキャンバスに写し取ることを追求したのに対し、セザンヌにとっては、見ることとは、自己の内部にある知的秩序に基づく認識作用であり、しかも、認識の対象は、赤や青の斑点ではなく、りんごや山といった実在であった[142]。「絵画には、二つのものが必要だ。つまり眼と頭脳である。この両者は、お互いに助け合わなければならない。」という言葉にも、彼の考え方が表れている[143][144]

主題とモチーフ

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人物画

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セザンヌ『アンブロワーズ・ヴォラールの肖像』1899年、プティ・パレ美術館
ルノワールによるヴォラールの肖像。1908年。

セザンヌは、作品制作に時間をかけたことで知られる。画商アンブロワーズ・ヴォラールは、セザンヌに自らの肖像画を依頼したが、毎回3時間半も、不安定な台の上に置かれた椅子に座ってポーズをするという苦行を強いられ、ある時、居眠りをすると、「りんごと同じようにしていなければならない。りんごが動くか。」と怒鳴られたという逸話を回想録で述べている。115回にわたりポーズを続けた時、セザンヌは、描きかけの肖像画について「ワイシャツの前の部分はそう悪くない」と言ったという。作品は、ルノワールが同じヴォラールを描いた暖かみのある肖像画とは異なり、余計なものを排した構築性の強いものとなっている[145][146]。もっとも、同様に肖像画のモデルとなったガスケによれば、ポーズをとったのは5、6回で、セザンヌは、モデルがいる間はその観察に時間を費やし、モデルが帰った後に筆を動かして作品を完成させたという[147]

妻オルタンスも、従順で辛抱強いモデルとして、多数の肖像画に登場している[148]。そのほか、ゾラなどの友人、家政婦ブレモン夫人、庭師ヴァリエなど身近な人物をモデルとしている。生涯パトロンを持たなかったため、富裕な人物から注文を受けての肖像画はない[149]

セザンヌにとっての人物画は、ルノワールのようにモデルの生命感が問題になるのではなく、空間におけるヴォリュームを有する人体が問題であり、その点で、静物画と同じ意味を有したといえる[150]

自画像

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水浴図

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セザンヌは、水浴を主題に多くの連作を制作している。最初は、男女混合で、男性水浴者が森の中で女性水浴者を覗き見するものなど、男女の関わり合いを描くものもあったが、その後、男女は別々に描かれるようになった。男性水浴図は、少年時代にアルク川英語版で水遊びを楽しんだ原体験が投影されており、攻撃性や闘争性が表れている。一方、女性水浴図は、ユートピアでくつろいでいる姿となっている[108]

マネ、ルノワール、モネ、ドガ、トゥールーズ=ロートレックなどが、近代化の進むパリの情景を好んで描いたのに対し、セザンヌは、そうした近代的情景を好まず、自然を追い求めた。セザンヌの水浴図には、そうしたユートピアへの指向が表れている[151]

1905年1月にエクスを訪問したR.P.リヴィエールとJ.F.シュネルブに対し、セザンヌは、描きかけの大水浴図(バーンズ・コレクション蔵のもの)について、「1894年から制作しています。クールベのように徹底した厚塗りで描きたいものだ。」と述べている[152]。1904年のベルナールの訪問時には、セザンヌは、ヌードを描くのに、田舎ではモデルを見つけるのが難しいといった理由から、アカデミー・シュイス時代のデッサンを見ながら制作していることを打ち明けている[153]

マティスは、1899年にヴォラール画廊で『3人の浴女』を購入し、長く制作の手本とし、『生きる喜び』(1905-06年)など多くの裸婦を描いた[108]

静物画

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セザンヌは、初期から、クールベ、マネ、ジャン・シメオン・シャルダンなどを手本に、静物画に熱心に取り組んだ。中でも、ゾラとの少年時代の想い出にも登場するりんごを好んで描いた[154]。もっとも、ヴォラールによれば、制作に時間をかける余り、りんごが腐ってしまい、下絵だけで終わったこともあったという[155]

晩年には、骸骨を取り入れたヴァニタスも制作している[156]。ベルナールは、1904年のエクス訪問中、セザンヌが毎朝6時から10時半までアトリエで三つの頭蓋骨を描き続け、「まだ足りないのは実現(レアリザシオン)だ」と述べていたのを報告している[157]

ナビ派の画家ポール・セリュジエは、セザンヌの静物画について、「見る者に皮をむいて食べたいと思わせるのではなく、ただ見るだけで美しく模写したい気持ちにさせる。」と評している[158]

サント=ヴィクトワール山

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エクス=アン=プロヴァンスの町から見たサント=ヴィクトワール山

サント=ヴィクトワール山は、エクスの郊外にある標高1000メートルほどの山である。セザンヌは、1870年に描いた風景画の背景にこの山を取り入れたことがあるが、1880年代半ば以降、この山を重要なモティーフとする連作に取り組むようになった。油絵、水彩、素描で数十点が描かれている[159]

手紙の訳書

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  • 『セザンヌの手紙』ジョン・リウォルド編(池上忠治訳、筑摩書房・筑摩叢書 1967年、新版1985年/美術公論社 1982年)
  • 『セザンヌ=ゾラ往復書簡 1858-1887』アンリ・ミトラン校訂・解説(吉田典子・高橋愛訳、法政大学出版局・叢書ウニベルシタス、2019年)

脚注

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注釈

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  1. ^ 近年(特に1993年以降)の文献では、死没日を10月23日とするものが多くなっている。浅野 (2000: 68) は、最近の調査で死亡時刻が10月23日午前7時であったことが判明したと指摘している。また、ルイス (2005: 339) は、セザンヌの墓碑に記された10月22日という死没日は誤記であるとしている。
  2. ^ リウォルド (2004: 89) に、セザンヌは落選展のカタログから漏れているが出品したと記載されていることから、これに従う文献もあるが、出品したという根拠や何を出品したかは示されておらず、近年はセザンヌは落選展を見ただけとする文献が多い。新関 (2000: 37, 330)
  3. ^ この年が、セザンヌがサロンに応募したことが資料上推定できる最初の年である。新関 (2000: 148)
  4. ^ リウォルド (2004: 269)は、セザンヌの父が、第1回展で赤字の分担金184.50フランを払わされたため、第2回展への参加に反対したことも挙げている。
  5. ^ モネは、第4回印象派展に出品を断ったが、ギュスターヴ・カイユボットが所蔵者から借り集めて取り繕った。新関 (2000: 107-08)
  6. ^ 『L・A氏の肖像』という作品は、セザンヌの父ルイ=オーギュストの肖像であると推定される。経済的に支え続けてくれた父に入選の名誉を捧げたかったとの推測もされている。新関 (2000: 157, 165-77)
  7. ^ レフの名付けたconstructive strokeを構築的筆触と訳す例もあるが、筆触(タッチ)ではなくストロークである。

出典

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参考文献

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外部リンク

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