コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「鶴見俊輔」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m WP:BOTREQ: Category:東京都区部出身の人物新設に伴う貼り変え作業
306行目: 306行目:
[[Category:京都大学人文科学研究所の人物]]
[[Category:京都大学人文科学研究所の人物]]
[[Category:ハーバード大学出身の人物]]
[[Category:ハーバード大学出身の人物]]
[[Category:東京都出身の人物]]
[[Category:東京都区部出身の人物]]
[[Category:1922年生]]
[[Category:1922年生]]
[[Category:2015年没]]
[[Category:2015年没]]

2016年6月8日 (水) 03:09時点における版

鶴見 俊輔
生誕 (1922-06-25) 1922年6月25日
日本の旗 日本 東京府東京市麻布区
死没 (2015-07-20) 2015年7月20日(93歳没)
京都府京都市左京区
研究分野 哲学
主な概念 アメリカのプラグマティズムを日本に紹介
テンプレートを表示

鶴見 俊輔(つるみ しゅんすけ、1922年大正11年〉6月25日 - 2015年平成27年〉7月20日)は、日本哲学者評論家政治運動家大衆文化研究者。

人物

経歴

鶴見祐輔の長男として東京市麻布区(現・港区麻布)に生まれる。外祖父は後藤新平。俊輔という名は父親の命名で、伊藤博文の幼名による[1]。厳格な母親に反撥し、東京高等師範学校附属小学校3年生のとき近所の中学生と組んで万引集団を結成。本屋から万引した本を別の本屋へ売りに行く、駅の売店から小物を盗むといった悪事を繰り返す[2]。このためクラスでは除け者にされていたが[2]、このときただ一人鶴見を庇っていた同級生が永井道雄だった[3]。しかし鶴見の側では永井をいじめる態度に出て、大塚駅の前でこうもり傘の柄で永井の足を引っ掛けて水溜りの中に倒し、その後で再びクラスから村八分にされることを恐れて翌日は早くから登校し、クラスの世論を鶴見側に有利に傾けるため事実の捏造をした[3]。肉体的に早熟だったため、小学生時代から性的な思念が頭から離れず、授業中は「パンツの中でペニスが右側に入っているか左側に入っているか」を気にして上の空だった[4]。10歳をいくつも出ない年齢で歓楽街に出入りし、女給やダンサーと肉体関係を持った他[5]、自殺未遂を5回繰り返して精神病院に3回入院させられ[6]、母から「あなたは悪い子だ」と言われ続けた[7]。当時、同校の生徒800人のうちただ1人の不良少年であることが誇りだったという。

「平常点はいつもビリに近いところにいた」ため[8]東京高等師範学校附属中学校に推薦されず、府立高等学校尋常科に入学するも、武蔵小山の古本屋で集めた莫大な数の性に関する文献を学校のロッカーに置いていたことが発覚したため[9]入学後1年1学期で同校を退学になり[10]東京府立第五中学校に編入学するもやはり中退。俊輔の将来を心配した父から「土地を買ってやるからそこで養蜂場を経営して女と暮らせ」と言われたこともあるが、最終的には父の計らいで1938年(昭和13年)に単身渡米し、同年9月、マサチューセッツ州コンコードミドルセックス・スクールに入学。全寮制の寄宿舎で9か月間の勉強を経て大学共通入学試験に合格。16歳のとき身元引受人アーサー・M・シュレジンジャー・シニアの勧めでハーバード大学に進学、哲学を専攻。ホワイトヘッドラッセルクワインカルナップに師事。大学では成績優秀で、1000人いる同級生の中の上位10%に入っていたため飛び級コースに入る[4]。18歳の時には、当時働いていたニューヨーク図書館ヘレン・ケラーと一度会い、言葉を交わしている。この頃、ハーバードの経済学講師の都留重人と出会い、プラグマティズムを学ぶことを勧められる。都留は生涯の師となった。

1941年(昭和16年)12月8日に日米開戦。1942年(昭和17年)3月末、大学の第3学年前期が終わったとき無政府主義者としてFBI逮捕され、東ボストン移民局留置場を経て、メリーランド州ミード要塞内の捕虜収容所に送られる。この間、後期はまったく授業に出られなかったが、収容所から提出した卒論が受理され、19歳のときSumma Cum Laude[11]の成績でハーバードを卒業。1942年(昭和17年)6月、日米交換船グリップスホルム」と「浅間丸」に乗ってロレンソマルケス経由でアメリカ留学から帰国。ただしこれは強制退去ではなく、送還か収容所送りかの選択を迫られて鶴見自身が決めたことであった。収容所にとどまれば食事の心配がないのに敢えて帰国を選んだ理由について鶴見は「(収容所にとどまれば)敗戦後の日本に帰るときには大変に後ろめたい思いをしなきゃいけない」「アメリカに残っていたら、収容所といえども飯は結構困ることないんだよ。イタリア人のコックだし。私にとって(収容所の)飯は旨かったんだよ。だけどそれを戦争の終りまで─負けることは判ってる─終りまで、これを食い続けるのは悪いなという気がしたんだよ」と説明している[12]

第二次世界大戦中には結核持ちであるにもかかわらず徴兵検査に合格したため、徴兵を避けるために海軍軍属に志願し、1943年(昭和18年)、インドネシアジャワ島に赴任。主に敵国の英語放送の翻訳に従事。福間良明の著書では「慰安所の仕事を担当させられ」たと述べられている[13]1944年(昭和19年)12月、胸部カリエスの悪化により帰国。敗戦を日本で迎えた。

戦後、海軍を除隊後に、姉鶴見和子の尽力で、和子と丸山眞男、都留重人、武谷三男武田清子渡辺慧とともに7人で「思想の科学研究会」を結成して雑誌『思想の科学』を創刊し、同会で『共同研究 転向』(上・中・下、平凡社、1959年 - 1962年)など思想史研究を行う。アメリカのプラグマティズムの日本への紹介者のひとりで、都留、丸山らとともに戦後の進歩的文化人を代表する1人とされる。京大助教授時代、1951年(昭和26年)にはスタンフォード大学から助教授として招聘されたが、原水爆反対運動に関与したことが神戸市の米国総領事館から問題視されて米国への入国を拒否され、その後一度も渡米していない。

60年安保時には、政治学者高畠通敏とともに「声なき声の会」を組織して岸内閣による日米安全保障条約改定に反対[14]。のちにこれを回想した際も「確認しておこう、あのとき、国会の中にいたトップ、岸信介首相は、A級戦犯じゃないか」と語っている[15]ベトナム戦争期には高畠らとともに「声なき声の会」を母体として「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」を結成し、代表に作家の小田実を迎えて、自身もその中心的な人物として活動した。ヤマギシ会を評価しており[16][17]、ベトナム戦争脱走兵をかくまうことに協力を得ている[18]。鶴見自身はマルクス主義者ではなく、「私は日本にいたときからクロポトキンを一生懸命読んでいた。クロポトキンにはマルクスに対する偏見がありますから、それが、私がマルクス主義者にならない、一種の予防注射になった」[19]と述べている。反戦運動を行う中で、戦時中に海軍軍属に志願した事に関して「なぜ戦争中に抗議の声を上げて牢屋に入らなかったっていう思いは、ものすごく辛いんだよね。だから、英語がしゃべれるのも嫌になっちゃって。戦争中から、道を歩いていても嫌だって感じだった。鬱病の状態ですよ」と本人は後に釈明している[20]。 

しかし2000年代以降は、「私は参政権を持ってから、共産党だけに投票してきたことは確か」[21]と、日本共産党支持の姿勢を明確にして、九条の会の呼びかけ人にもなっている。同党を「全ての陣営が、大勢に順応して、右に左に移動して歩く中で、創立以来、動かぬ一点を守り続けて来た。北斗七星のように、それを見ることによって、自分がどの程度時勢に流されたか、自分がどれほど駄目な人間になってしまったかを測ることの出来る尺度」と評価している[22]。九条の会でわかるように、護憲派の立場に立っている。福島瑞穂から対談の申し入れがあった際には、福島が参院本会議で行った長時間の演説(牛タン戦術)を見ていたという経緯から、「国会でのフィリバスター(議事妨害)に感動したので、お会いしましょう」と快諾している。議事妨害であることを認識した上でそれを高く評価しているのである[23][24]伊藤隆は鶴見をいいだもも飯沼二郎と並んで「進歩派」と定義している[25]

家族

父は前述の通り政治家鶴見祐輔であり[26]戦間期の日本を代表する親ソ派政治家だった後藤新平は母方の祖父[26]、政治家安場保和は曾祖父にあたる[27]社会学者である上智大学名誉教授の鶴見和子は姉[26]鶴見直輔は弟[27]。法学者の内山尚三は妹の夫[27]英文学者翻訳家横山貞子は妻[28]。息子の鶴見太郎早稲田大学文学部教授[28]

『ナマコの眼』等で知られる人類学者でベ平連の「外務省」、「英語使い」と呼ばれる有力活動家だった鶴見良行は父方の従弟[29]。獄中転向で有名な元日本共産党委員長の佐野学は母方の叔父。共産党系演劇人でインターナショナル訳詞者の佐野碩と、武装共産党時代の党指導者だった佐野博は母方の従兄。講座派法学者日本平和委員会会長だった平野義太郎は母方の親戚(安場保和の孫娘の婿)。

エピソード

筑摩書房の編集者松田哲夫によると、鶴見は専門の哲学はもとより、「マンガやジャーナリズム、近代史について、とてつもない知識」を持っていたという。『ちくま日本文学全集』の編集作業の際、鶴見が5歳の時からの膨大な既読書の内容をすべて覚えており、「古典的名作だけにとどまらない、例えば赤川次郎作品すべて」にまで及んでいることが判明した。これには名だたる読書人揃いの他の編者たち(安野光雅森毅井上ひさし池内紀)も唖然としたという(松田著『編集狂時代』より[要ページ番号])。

「人の下積みになれ」と説く母への反撥もあり、2年半に及ぶ米国留学時代には学校の成績に大変こだわる面があったことを自ら認め、これを「一番病」と名付けて自己批判している[30]。鶴見によると、この「一番病」を攻撃することが長らく自らの戦略となり、物を書いていく源泉になっていたという。その結果として大衆文化に着目し、大衆文化の表現形式として漫画を重視し、漫画評論の先駆けの一人となった。漫画の中では山上たつひこの『がきデカ』を高く評価し、「あの『がきデカ』というのがみんなに読まれているうちは、ああ、日本人にはこういう人がいるんだな、日本ってこんなんだなという自画像をもっているうちは、まだまだ安全だと思っているんですよ。「正義のために戦え」とか、「聖戦」とかいうふうにして戦争の態勢をつくるところまでにはまだ一歩あるなという感じがするのです」[31]「こういうふうに金とセックスだけを追い求める人間が活躍するわけでしょう。ああ、日本人はこうなんだな、こういう人間がたくさんいるんだなと思って大人になることがいいんです。日本人は神の子で、万邦無比の国体なんだと思って海外に出ていったら困るんですよ。『がきデカ』を読んでいれば、ちがった人間になるんじゃないかという希望をもっています」[32]と述べている。

テレビ番組ハケンの品格』がお気に入りで、軍属時代に翻訳新聞発行を一手に引き受けていた自分と、同番組で描かれていた派遣社員とが重なって見えると語っている[33]

敬虔なキリスト教徒であった母親への反撥、戦争推進を主張していた一部の僧侶や牧師への不信感から、宗教に反感を持っていたが、仏教徒の文化人との交流の中で仏教に理解を示すようになり、「かくれキリシタン」ならぬ「かくれ佛教徒」と自称するようになった。1975年に行われた松本清張との対談では「社会党の言うように、安保の全面廃棄、軍備の全面禁止というのは観念的か」という問いに「柳宗悦から習った言葉を使うと、一種の陀羅尼というか念仏で考えていくという方法をとっている」と答えている[34]

1986年8月15日、安田武山田宗睦と「坊主の会」を結成、以後毎年同日に剃髪することを15年間続けた。鶴見はその後も8月15日に断食を行っている[35][36]。また、その山田が1965年に刊行した『危険な思想家』に「この本はあくまで今の時代に肉薄し、重大な警告を発している」という推薦文を寄せている[37]

批判

蓮實重彦上野昂志絓秀実らは座談で、鶴見が左翼系知識人にすりよりながら、いつも左翼にならないこと、また蓮實重彦は「動体視力」つまり映画や文学を語る時の視力が鶴見には決定的に欠けており、それゆえ、鶴見の文化評論がことごとく無内容なものになっていると批判している[38]。また幸福会ヤマギシ会を支持し、ヤマギシ被害者から抗議を受けた[39]

略年譜

この年、アメリカの教育視察団が来日し、京大に人文科学研究所があるのは贅沢であると声を上げた。これに対し桑原が人文研有用論を演説し、鶴見が通訳を行った。視察団は京大に関する限り批判点なし、として帰国した。演説のあった夜、鳥養利三郎総長から桑原に電話があり、自分は鶴見が助教授となることに反対したがこれを取り消すと告げている[40]

著書

単著

  • 『哲学の反省』先駆社 1946
  • 『アメリカ哲学』世界評論社、1950 のち講談社学術文庫
  • 『哲学論』創文社 1953
  • 『大衆芸術』河出新書 1954
  • 『プラグマティズム』河出書房 1955
  • 『アメリカ思想から何を学ぶか』中央公論文庫 1958
  • 『誤解する権利 日本映画を見る』筑摩書房 1959
  • 『折衷主義の立場』筑摩書房 1961
  • 『日常的思想の可能性』筑摩書房 1967
  • 限界芸術論』勁草書房、1967 のち講談社学術文庫、ちくま学芸文庫
  • 『不定形の思想』文藝春秋 1968
  • 『同時代 鶴見俊輔対話集』合同出版社 1971
  • 『北米体験再考』岩波新書 1971
  • 『ひとが生まれる 五人の日本人の肖像』ちくま少年図書館 1972 のちちくま文庫
  • 『漫画の戦後思想』文藝春秋 1973
  • 鶴見俊輔著作集』全5巻 筑摩書房 1975-76
  • 『私の地平線の上に』潮出版社、1975
  • 高野長英朝日新聞社・朝日評伝選、1975 のち選書 のち『評伝 高野長英 1804-50』藤原書店
  • 『転向研究』筑摩叢書 1976
  • 『いくつもの鏡 論壇時評1974-1975 』朝日新聞社 1976
  • 『グアダルーペの聖母』筑摩書房 1976
  • 柳宗悦平凡社選書、1976 のち平凡社ライブラリー
  • 『読書のすすめ』潮出版社 1979
  • 『太夫才蔵伝 漫才をつらぬくもの』平凡社選書 1979 のちライブラリー
  • 『本と人と』西田書店 1979
  • 『文章心得帖』潮出版社 1980
  • 『戦争体験 戦後の意味するもの 鶴見俊輔対話集』ミネルヴァ書房 1980
  • 『戦後を生きる意味』筑摩書房 1981
  • 『戦後思想三話』ミネルヴァ書房 1981
  • 『戦時期日本の精神史 1931〜1945年』岩波書店 1982 のち同時代ライブラリー、現代文庫 ISBN 4006000502
谷沢永一はこの副題の表記を、「日本の年号なんかけっして使わないぞ、という姿勢がはっきりしている」と指摘しており、数多い反日的日本人の著作のうち、いちばん凝り固まった極端を行く代表作を挙げろと言われたら同書を選ぶと評している[44]。なお鶴見は『日本の百年』(ちくま学芸文庫に収録)のうち、9巻(1945年から52年)と10巻(52年から60年)を担当しているが、ここでも全編にわたって「昭和」という元号を使用していない。松本清張との対談の中でも一回使ったきりである[45]
  • 『家の中の広場』編集工房ノア 1982
  • 『戦後日本の大衆文化史 1945〜1980年』岩波書店、1984 のち現代文庫ISBN 4006000510
  • 『絵葉書の余白に 文化のすきまを旅する』東京書籍 1984
  • 『ことばを求めて』太郎次郎社 1984
  • 『人類の知的遺産 60 デューイ講談社 1984
  • 『読書日録』潮出版社、1985
  • 『大衆文学論』六興出版社、1985
  • 『テレビのある風景』マドラ出版 1985
  • 『老いの生きかた』筑摩書房 1988 のち文庫
  • 『思想の落とし穴』岩波書店、1988
  • 夢野久作-迷宮の住人-』リブロポート(シリーズ民間日本学者)1989 のち双葉文庫
  • 『らんだむ・りぃだぁ』潮出版社、1991
  • アメノウズメ伝-神話からのびてくる道』平凡社、1991 のちライブラリー
  • 鶴見俊輔集』12巻補巻5巻-全17巻 筑摩書房、1991-2001
  • 『書評10年』潮出版社、1992
  • 竹内好-ある方法の伝記-』リブロポート(シリーズ民間日本学者)1995 のち岩波現代文庫
  • 『民主主義とは何だろうか 鶴見俊輔座談』晶文社 1996
  • 『鶴見俊輔座談』全10巻、晶文社 1996
  • 『期待と回想』晶文社、1997 のち『期待と回想 語りおろし伝』朝日文庫
  • 『隣人記』晶文社 1998
  • 『教育再定義への試み』岩波書店 1999 のち現代文庫
  • 『夢野久作と埴谷雄高深夜叢書社 2001
  • 『未来におきたいものは 対談集』晶文社 2002
  • 『鶴見俊輔と中学生たち』全3巻、晶文社 2002
  • 『回想の人びと』潮出版社、2002 のちちくま文庫
  • 『本と私』岩波新書 2003
  • 『風韻 日本人として』フィルムアート社 2005
  • 『埴谷雄高』講談社、2005 のち文芸文庫
  • 『詩と自由 恋と革命』思潮社 2006
  • 『鶴見俊輔書評集成』全3巻 みすず書房 2007
  • 『たまたま、この世界に生まれて 半世紀後の『アメリカ哲学』講義—』(編集グループSURE)2007
  • 『アメリカ哲学(戦後日本思想の原点)』こぶし書房 2008
  • 『悼詩』(編集グループSURE)2008
  • 『言い残しておくこと』(作品社)2009
  • 『ちいさな理想』編集グループSURE 2010
  • 『思い出袋』(岩波新書)2010
  • 『もうろく帖』(編集グループSURE)2010
  • 『かくれ佛教』(ダイヤモンド社)2010
  • 『象の消えた動物園 同時代批評』(編集工房ノア)2011
  • 『鶴見俊輔語録1定義集 警句・読書・定義』(皓星社)2011
  • 『鶴見俊輔語録2この九十年』(皓星社)2011
  • 『日本人は状況から何をまなぶか』(編集グループSURE)2012
  • 『流れに抗して』(編集グループSURE)2013
  • 『まなざし』(藤原書店)2015

共著

映像

編著

  • 『20世紀を動かした人々1 世界の知識人』久野収共編 講談社 1964
  • 『現代日本思想大系12 ジャーナリズムの思想』筑摩書房,1965
  • 『反戦の論理 全国縦断日米反戦講演記録』小田実,開高健共編 河出書房新社 1967
  • 『反戦と変革』小田実共編 学芸書房 1968
  • 『戦後日本思想大系4 平和の思想』筑摩書房,1968
  • 『岩波講座哲学13 文化』生松敬三共編, 岩波書店, 1968
  • 『思想の科学事典』久野収と共編 勁草書房 1969
  • 『大衆の時代』平凡社 1969
  • 『脱走兵の思想 国家と軍隊への反逆』小田実,鈴木道彦共編 太平出版 1969
  • 『語りつぐ戦後史』全3巻 思想の科学社, 1969-1970
  • 『現代日本記録全集14 生活の記録』筑摩書房 1970
  • 『現代人の思想7 大衆の時代』平凡社 1970
  • 『現代漫画』全27巻 佐藤忠男,北杜夫と共編 筑摩書房 1970-1971
  • 『現代に生きる1 国際活動』東洋経済新報社 1971
  • 『右であれ左であれ、わが祖国』ジョージ・オーウェル著 平凡社 1971
  • 『近代日本思想大系24 柳宗悦集』筑摩書房 1975
  • 『日本の百年1 御一新の嵐』筑摩書房 1977
  • 『日本の百年9 廃墟の中から』筑摩書房 1978
  • 『日本の百年10 新しい開国』筑摩書房 1978
  • 『叢書児童文学5 児童文学の周辺』世界思想社 1979
  • 『抵抗と持続 世界思想ゼミナール』山本明と共編 世界思想社 1979
  • 『老いの発見』全5巻 伊東光晴,河合隼雄,副田義也,日野原重明と共編 岩波書店 1986-1987
  • 『老いの生きかた こころの本』筑摩書房 1988
  • 『祭りとイベントのつくり方』小林和夫共編 晶文社 1988
  • 『コミュニケーション事典』粉川哲夫共編 平凡社, 1988
  • 『天皇百話』上下 中川六平と共編 ちくま文庫 1989
  • 『ちくま哲学の森』全9巻 安野光雅,森毅共編 1989-1990
  • 『ちくま日本文学全集42 武田泰淳』筑摩書房 1992
  • 『帰ってきた脱走兵 ベトナムの戦場から25年』吉川勇一,吉岡忍共編 第三書館 1994
  • 『新ちくま文学の森』全16巻 安野光雅,森毅,井上ひさし,池内紀共編 筑摩書房 1994-1996
  • 『民間学事典 事項編、人名編』鹿野政直,中山茂共編 三省堂, 1997
  • 『日本人のこころ 原風景をたずねて』岩波書店 1997
  • 『現代日本文化論9 倫理と道徳』河合隼雄共編 岩波書店,1997
  • 『本音を聴く力 中学生は何を考えているのか』福島美枝子共編 同朋舎 1999
  • 『日本の名随筆 別巻97 昭和1』作品社 1999
  • 鶴見良行著作集1 出発』みすず書房 1999
  • 『鶴見良行著作集5 マラッカ』みすず書房 2000
  • 林達夫セレクション』全3巻 平凡社 2000
  • 『人生のエッセイ』全10巻 日本図書センター, 2000
  • 『日本人のこころ2 新しく芽ばえるものを期待して』岩波書店 2001
  • 『ハンセン病文学全集』全10巻 大岡信,大谷藤郎,加賀乙彦共編 皓星社, 2002-刊行中
  • 『本と私』岩波新書 2003
  • 『天皇 近代化のなかの王権』朝日新聞社 2004
  • 『源流から未来へ 『思想の科学』五十年』思想の科学社 2005
  • 『歩く学問ナマコの思想(鶴見良行論)』池澤夏樹共編 コモンズ, 2005
  • 『戦後史大事典 1945-2004』佐々木毅,富永健一,中村政則,正村公宏,村上陽一郎と共編 三省堂 2005
  • 『サザエさんの〈昭和〉』斎藤慎爾と共編 柏書房 2006
  • 『無根のナショナリズムを超えて 竹内好を再考する』加々美光行と共編 日本評論社 2007
  • 『アジアが生みだす世界像 竹内好の残したもの』編集グループSURE 2009

翻訳

受賞歴

関連学位論文

  • 原田達: 「鶴見俊輔、その苦悩と思想 : ある知的マゾヒズムの軌跡」2001年12月、大阪大学人間学博士論文。[46]

脚注

  1. ^ 新藤1994、p.12
  2. ^ a b 新藤1994、p.44
  3. ^ a b 鶴見俊輔『恩人』
  4. ^ a b 鶴見俊輔・加藤典洋・黒川創『日米交換船』(新潮社、2006年3月)p.28
  5. ^ 新藤1994、p.52
  6. ^ 新藤1994、p.58
  7. ^ 宮川匡司、鶴見俊輔氏死去――権威に寄らず立ち続け(評伝)日本経済新聞、2015年7月24日、夕刊、15面。
  8. ^ 新藤1994、p.53
  9. ^ 新藤1994、p.75
  10. ^ 府立高等学校尋常科で同期だった遠山一行は、鶴見と思しき同級生について「ある日突然──と私には見えた──中学の同級生が学校をやめてしまったことがあった。その男は頭がよく勉強もできたが、かなり変ったところがあって、たとえば試験の答案を、わざわざ四十点とか五十点とかに仕立て上げるために、正しい答えを消しゴムで消したりしておもしろがっていた。そして日ごろ反りの合わなかった教師をなぐって、学校をやめたのである。(中略)その男は戦後社会評論家として登場し、名をなした」(『遠山一行著作集』第4巻所収「集団の行為」p.196、新潮社1987年(昭和62年))と回想している。
  11. ^ ラテン語で、最上位から5-30%程度の成績での卒業生であることを意味する。
  12. ^ ETV特集『鶴見俊輔〜戦後日本 人民の記憶〜』(NHK教育テレビ2009年(平成21年)4月12日)での発言。[出典無効]
  13. ^ 福間良明 『「戦争体験」の戦後史 世代・教養・イデオロギー中公新書 1990 ISBN 978-4121019905、173p
  14. ^ 日ソ協会(現・日本ユーラシア協会)によれば、「声なき声の会」のデモの指揮は日ソ協会が行っていた。「回想・日ソ協会のあゆみ」編纂委員会編『回想・日ソ協会のあゆみ』(日ソ協会、1974年)p.96.
  15. ^ 村上義雄 『「朝日ジャーナル」現代を撃つ』 朝日新書 208 ISBN 978-4022733085、20p
  16. ^ 別冊宝島編集部 編 『「カルト」の正体。』 宝島社文庫 ISBN 4796616853、390-391p。当該部分の執筆は春木進。春木は取材のために会いたいという旨の手紙を送ったが、返事が来なかったことを記している。ヤマギシ会を否定することは、人生の晩年における自己批判につながるため、それを避けたいのではないかと春木は推測している。
  17. ^ 別冊宝島編集部 編 『「救い」の正体。』 宝島社SUGOI文庫 [A へ-1-36] ISBN 978-4796665025、390-391p。当該部分の執筆は春木。前掲書の改版。
  18. ^ 阿奈井文彦 『ベ平連と脱走米兵』 文春新書 126 ISBN 4166601261、12p
  19. ^ 鶴見俊輔・加藤典洋・黒川創『日米交換船』(新潮社、2006年3月)p.24
  20. ^ 鶴見俊輔・上野千鶴子小熊英二『戦争が遺したもの』(新曜社、2004年3月)pp.42-135.
  21. ^ しんぶん赤旗』2004年7月2日、第1面。
  22. ^ 『現代日本の思想』。[要ページ番号]
  23. ^ 佐高信佐高信が褒める いま、この人を見よ!』 光文社知恵の森文庫 [aさ-2-11] ISBN 4334783813、266p
  24. ^ 佐高信 『抵抗人名録 私が選んだ100人』 光文社知恵の森文庫 [aさ-2-12] ISBN 978-4334785888、47-48p
  25. ^ 伊藤隆 『歴史と私 史料と歩んだ歴史家の回想』 中公新書 2317 ISBN 978-4121023179、86p
  26. ^ a b c 『日本の有名一族』、p.177., p.179.
  27. ^ a b c 『日本の有名一族』、p.179.
  28. ^ a b 『日本の有名一族』、pp.178-179.
  29. ^ 『日本の有名一族』、pp.177-179.
  30. ^ 鶴見俊輔・加藤典洋・黒川創『日米交換船』(新潮社、2006年3月)p.20
  31. ^ 鶴見俊輔「マンガの歴史から」[要ページ番号]
  32. ^ 鶴見俊輔「日本のマンガの指さすもの」[要ページ番号]
  33. ^ 『論座』2007年4月号(朝日新聞社)[要ページ番号]
  34. ^ 松本清張 『対談 昭和史発掘』 文春新書 677 ISBN 978-4166606771、112p
  35. ^ 佐藤卓己 『八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学ちくま新書 544 ISBN 4480062440、131p
  36. ^ 佐藤卓己 『増補 八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学ちくま学芸文庫 [サ-31-2] ISBN 978-4480096548、141p
  37. ^ 林房雄 『大東亜戦争肯定論』 中公文庫 [は-68-1] ISBN 978-4122060401、470p
  38. ^ 「1968 (知の攻略 思想読本)」作品社2005年所収[要ページ番号]
  39. ^ 「洗脳の楽園」 ISBN 4795847827[要ページ番号]
  40. ^ 松尾尊兌 『滝川事件』 岩波現代文庫 G136 ISBN 4006001363、371p
  41. ^ 評論家・哲学者の鶴見俊輔氏 死去 - NHK NEWS WEB、2015年7月24日、同日閲覧。[リンク切れ]
  42. ^ 鶴見俊輔さん死去 「思想の科学」「ベ平連」93歳(2015年7月24日)、朝日新聞デジタル、2015年7月24日閲覧。/2015年7月24日時点でのウェブアーカイブ
  43. ^ 哲学者、思想家の鶴見俊輔さん死去=戦後リベラルの代表、「思想の科学」「ベ平連」(2015年7月24日)、時事ドットコム、2015年7月24日閲覧。[リンク切れ]
  44. ^ 谷沢永一 『反日的日本人の思想 国民を誤導した12人への告発状PHP文庫 [た-5-12] ISBN 4569573274、91-92p
  45. ^ 『対談 昭和史発掘』、93-94p
  46. ^ 博士論文書誌データベースによる

参考文献

  • 新藤謙『ぼくは悪人 少年鶴見俊輔』東方出版、1994年9月。ISBN 4-88591-397-7 
  • 原田達『鶴見俊輔と希望の社会学』世界思想社
  • ローレンス・オルソン『アンビヴァレント・モダーンズ』新宿書房
  • KAWADE道の手帖 鶴見俊輔 いつも新しい思想家』河出書房新社
  • 上原隆『「普通の人」の哲学-鶴見俊輔・態度の思想からの冒険-』毎日新聞社
  • 小谷野敦『日本の有名一族 近代エスタブリッシュメントの系図集幻冬舎幻冬舎新書〉2007年9月30日第1刷発行 ISBN 978-4-3449-8055-6

関連項目