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2016年6月8日 (水) 04:09時点における版
林家 彦六 | |
蝶花楼馬楽時代 | |
本名 | 岡本 義 |
---|---|
別名 | 8代目林家正蔵 |
生年月日 | 1895年5月16日 |
没年月日 | 1982年1月29日(86歳没) |
出身地 | 日本・東京府荏原郡品川町(現:東京都品川区) |
死没地 | 日本・東京都渋谷区 |
師匠 | 2代目三遊亭三福(後の3代目三遊亭圓遊) 4代目橘家圓蔵 3代目柳家小さん 4代目蝶花楼馬楽(後の4代目柳家小さん) |
名跡 | 1. 三遊亭福よし(1912年 - 1914年) 2. 扇遊亭金八(1914年 - 1918年) 3. 橘家二三蔵(1918年 - 1919年) 4. 3代目三遊亭圓楽(1919年 - 1928年) 5. 5代目蝶花楼馬楽(1928年 - 1950年) 6. 8代目林家正蔵(1950年 - 1981年) 7. 林家彦六(1981年 - 1982年) |
活動期間 | 1912年 - 1982年 |
活動内容 | 古典落語 |
配偶者 | 岡本マキ |
家族 | 花柳衛彦(息子) |
所属 | 落語協会(1923年 - 1925年) 落語革新派(1925年 - 1926年) フリー(1926年 - 1927年) 落語協会(1927年 - 1982年) |
受賞歴 | |
文部省芸術祭(大衆芸能部門)奨励賞(1963年・1965年) 紫綬褒章(1968年) 文化庁芸術祭(1部・大衆芸能部門)芸術祭賞(1968年) 勲四等瑞宝章(1974年) 芸術選奨文部大臣賞(1976年) 叙・従五位、賜・銀杯一個(菊紋)(1982年) | |
備考 | |
落語協会副会長(1965年 - 1972年) 落語協会顧問(1972年 - 1982年) | |
林家 彦六(はやしや ひころく、1895年5月16日 - 1982年1月29日)は、落語家。東京府下荏原郡品川町(現在の品川区)出身。生前は落語協会所属。本名は岡本 義(おかもと よし)。前名の林家正蔵としては8代目。俗に「彦六の正蔵」。
出囃子は『菖蒲浴衣(あやめ浴衣)』。噺家からは居住地の「稲荷町(の師匠)」また性格から「トンガリの正蔵」と呼ばれた。妻は岡本マキ。息子は日本舞踊家花柳衛彦。芝居噺や怪談噺を得意とし、「林家正蔵」の名を更に高めた。
経歴
- 1907年 尋常小学校卒業。
- 1908年 質屋、ホーロー工場、木地屋などを丁稚奉公で転々とする。
- 1912年 2代目三遊亭三福(後の3代目三遊亭圓遊)に入門し「福よし」を名乗る。
- 1914年5月 師匠三福が「扇遊亭金三」に改名し「扇遊亭金八」に改名。
- 1915年 この頃から大師匠4代目三遊亭圓生の弟弟子2代目三遊亭圓楽(後の三遊一朝)に稽古を付けて貰う様になる。
- 1917年1月 師匠金三と共に4代目橘家圓蔵の内輪弟子となる。
- 1918年2月 二つ目昇進し「橘家二三蔵」に改名。
- 1919年4月 圓楽が「三遊一朝」に改名し、圓楽の名を譲られ二つ目のまま「3代目三遊亭圓楽」襲名。この頃は初代桂小南らの三遊分派に所属。
- 1920年6月 真打昇進。結婚。
- 1922年2月 師匠圓蔵死去に伴い、3代目柳家小さんの預かり弟子となる。その後3か月ほど上方噺家2代目桂三木助の元で修行し『啞の釣』『莨の火』などを教わる。
- 1925年9月 兄弟子初代柳家小はん、柳家小山三(後の5代目古今亭今輔)らと共に「落語革新派」を旗揚げする。
- 1926年1月 落語革新派解散。
- 1927年 東京落語協会(現落語協会)に復帰、兄弟子4代目蝶花楼馬楽(後の4代目柳家小さん)の内輪弟子になる。
- 1928年4月 前師匠小さん引退に伴い、師匠馬楽が4代目柳家小さんを襲名し、馬楽の名を譲られ「5代目蝶花楼馬楽」襲名。
- 1929年10月以降の世界恐慌による不景気の影響で、寄席も客が大幅に減る。馬楽は芝居の脚本の朗読会「とんがり会」を開いていた[1]。また、この頃、徳川夢声主催の「談譚集団」という漫談研究会に入り、木下華声らと漫談の修行をしていたこともあった[2]。
- 1950年4月22日 一代限りの条件で海老名家から正蔵の名跡を借り「8代目林家正蔵」を襲名する。
- 1963年12月 第18回 文部省芸術祭(大衆芸能部門)奨励賞受賞。
- 1965年 落語協会副会長就任。12月 第20回 文部省芸術祭(大衆芸能部門)奨励賞受賞。
- 1968年11月3日 紫綬褒章受章。
- 1968年12月 第23回 文化庁芸術祭(1部・大衆芸能部門)芸術祭賞受賞。
- 1970年2月からの隔月(偶数月) 「芝居噺 林家正蔵の会」を、東京・岩波ホールにて開催(この模様の一部は、16mmフィルムで記録映画として撮影された)。
- 1971年1月 日本テレビ演芸番組「笑点」師弟大喜利、鶴亀大喜利、演芸コーナーに出演。以降1981年まで不定期に出演。
- 1972年4月 9代目桂文治、6代目三遊亭圓生と共に落語協会顧問就任。
- 1974年4月29日 勲四等瑞宝章受章。
- 1976年 芸術選奨文部大臣賞受賞。
- 1980年9月20日 林家三平死去。9月28日「正蔵」の名跡を海老名家に返上。正蔵として最後の口演は『旅の里扶持』である。
- 1981年1月 「林家彦六」に改名。4月 昭和55年度第1回花王名人大賞功労賞受賞。11月7日日本橋たいめい軒で行われた一門会の『一眼国』が最後の高座となる。
- 1982年1月29日 肺炎のため代々木病院にて死去。86歳没。叙・従五位、賜・銀杯一個(菊紋)。遺体は医学研究用に献体、角膜はアイバンクへ提供された。
来歴・人物
母方の祖父は、鎌倉河岸の船宿「岡本屋正兵衛」に生まれた息子だったが、岡本屋を飛び出して鳶職▪火消しになってしまう。祖母は武士の家出身で、その二人の間に生まれた娘が、岡本義(後の8代目正蔵)の母親である。
稲荷町時代の逸話、名跡の返還など古き良き噺家として名を残した事でも知られる。「かくしゃくとした老人の噺家の代名詞」としてビートたけしなどに引き合いに出され、秋本治の漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」では「彦六みたいな奴だ」との台詞が登場する。
独特な人柄、最晩年の非常に特徴的なヘナヘナしたしゃがれ声やスローなテンポの話し方などから、落語家などに物真似されることが多い。語尾を曖昧にせず常に明瞭に発声する独特の語り口は、若いころに三遊一朝に徹底的に芝居噺を仕込まれたためだと本人は語っている。林家木久扇は二つ目昇進まで付人として面倒を見て貰った師匠彦六の物真似が得意で、新作落語「林家彦六伝」を十八番としている。
通称「トンガリ」。曲ったことが嫌いで、すぐにカッとなるところから来ている。弟子に対しても、失敗する度に破門を口にする。しかし謝れば許し、翌日にはもうケロリとしている。
若い頃は、学があり理屈っぽいことから噺家仲間から「インテリ」「新人」(学生運動団体の新人会から)と呼ばれ、「菜ッ葉服(労働服)をきて共産党とつきあっている」と陰口を叩かれた。実際に日本共産党の熱烈な支持者として知られるが、イデオロギーに共感した訳ではなく、本人談によれば「あたしゃ判官贔屓」あるいは「共産党は書生っぽいから好きなんですよ。」とのことであった。自身が贔屓にしている共産党金子満広などに、参院議員時代の7代目立川談志が侮辱的な野次を飛ばして辞職後も場外で続けていたことを快く思っておらず、会えばしょっちゅう喧嘩になっていたという、いかにも通称「トンガリ」らしいエピソードがある。その一方で談志については、「自殺するのではないか」という危惧を親しい知人にしばしば漏らしていた。なお、談志本人も自殺願望があったことを後に認めている。詳細は立川談志の項を参照。
30年以上に亘って朝日新聞を愛読したが、紙上で落語評論家が当代の名人について、5代目古今亭志ん生・8代目桂文楽・6代目春風亭柳橋・10代目金原亭馬生の名を挙げ「ここまでくると次の指が折れない」と書いたことに激怒し、執筆者に宛てて「お前さんの小指はリウマチじゃねえのかい」と書いた葉書きを速達で送りつけ、朝日新聞の購読を停止し、しんぶん赤旗を取るようになった。
江戸、明治の香りを持った人物だが、オフの時は英国調に洋服も着こなし、意外に現代的な面があった。巡業に出ると必ず昼食はカレーライスで[3]、客が自宅に遊びにくると「どうです。コーシー(コーヒーの下町訛り)でも。」と勧めていた。朝食は必ずジャムを塗ったトーストにコーヒーだった。
無駄使いを嫌い、新聞の折込みチラシの中で片面印刷のチラシを見つけたら切ってネタ帳の代用していたという逸話があるほど。
仕事で頻繁に寄席へ通うため「通勤用定期券」で地下鉄を利用していたが、「これは通勤用に割り引いて貰っているんだから、私用に使うべきでない」として、私用で地下鉄に乗る際には別に通常乗車券を購入し、改札口では駅員に突きつけるように見せていた。談志もこの律儀さには呆れつつも感心し、国会議員当時に「世の中にはこんな人もいる」と国会で彦六の逸話を紹介している[4][5]。
せっかちな性格で、飛行機を使って東京に帰った時、たまたま羽田空港が満員のため、しばらく上空を旋回したことに「てめえの家の玄関先まできてて入れねえって法があるもんけい。」と腹を立て、爾来、飛行機を使わず鉄道で地方巡業に行くようになった。それでも、出発の1時間前にホームに向かうので周囲から早すぎると止められても、「遅れることがあるんだから、間違って早く出るかもしれねえ。」と言って意に介さなかった。
5代目柳家小さん名跡の襲名をめぐり、彦六は弟弟子9代目柳家小三治(後の5代目小さん)と争ったが、当時の大御所である8代目桂文楽に若いながらも見込まれていた9代目小三治が5代目小さんを襲名することになる。替わりに貰うことになったのが、空き名跡だった8代目の正蔵であった。この際に浅草の金看板だった「山春」山田春雄は興行の関係で彦六と縁があった関係で法界悋気を病んだと「聞書き」の中で北村銀太郎は説明している。
稲荷町の住居は昔ながらの四軒長屋の隅の家で、近所に銭湯があり、まさに落語の世界そのままだったという。若手落語家からは、「下町の落語家さん」と呼ばれていた。玄関には「林家」の暖簾がかかっており、春夏・秋冬で2色あった。現在、長屋は取り壊されコインパーキングになっている。銭湯は近所の「寿湯」が昔風の銭湯の印象を残した建物で営業しているが、向かいの同潤会上野下アパートメントは「最後の同潤会アパート」として惜しまれながらも2013年に解体されている。
「正蔵」襲名と「彦六」への改名
いずれは名跡を三平に返上するつもりでいたが、三平の好意により終生正蔵を名乗る事とし、自らの死後三平に返上する事にした。しかし1980年三平急逝に伴い、正蔵の名跡を海老名家に返上、「彦六」に改名する。「彦六」の由来は木村荘十二の監督した映画、『彦六大いに笑ふ』(1940年)で徳川夢声が演じた役名彦六から。
人間関係
住んでいた四軒長屋の隣は二軒長屋で、前師匠3代目小さんの弟子で友人の9代目桂文治が住んでおり、公私共に仲が良かった。
元兄弟子の6代目三遊亭圓生とは「天敵」と呼ばれる間柄であり、最後まで徹底してそりが合わなかった。対立関係の表面化は、(馬楽時代の)彦六が6代目三遊亭圓生襲名に際して、「あの人に6代目が務まるわけがない」と酷評したことにまで遡る。ただし、笑点師弟大喜利では隣り合せで座っていた時もあった。なお、圓生の師匠は彦六が一時期師匠金三(圓蔵門下時の名は月の家圓鏡)と共に内輪弟子として所属していた4代目圓蔵である。だが、一方で圓生の総領弟子三遊亭全生は気に入り、自身の前名の一つである三遊亭圓楽を襲名させた。このことは、六代目圓楽襲名披露口上時に、弟子の林家木久扇によって触れられている。また、弟弟子4代目鈴々舎馬風も圓生の天敵だった。1978年、圓生が中心人物となって引き起こした落語協会分裂騒動では、師匠圓生に逆らって落語協会残留を決めたために破門にされ、芸名の強制返却の目に遭った3番弟子三遊亭好生を救い、自らの客分格の弟子とし春風亭一柳に改名させた。
ある寒い冬の夜、楽屋で圓生が「お先イ」と彦六に声をかけると、彦六は「外も寒いからお気をつけてエ」と答えたという。関係者は「いかにも林家らしい」と思ったという。
また、かつて共に一朝に教えを受けた5代目古今亭今輔は喧嘩友達だった。もっとも、影では互いの健康を気遣っていたという。今輔の元師匠4代目古今亭今輔の妻つねと、彦六の妻マキは姉妹である。上方噺家2代目露の五郎(後の2代目露の五郎兵衛)とも繋がりがあり、怪談噺の幾つかは五郎に伝授し、彦六没後は五郎改め五郎兵衛が高座で行ったりしている。
前師匠3代目小さんを尊敬し、小さんの心で居ろという戒めをこめて「小心居」を座右の銘としていた。その点では同じ元小さん一門の兄弟子5代目今輔も同じだった。
また、気の合った劇作家宇野信夫、川柳家の坊野寿山、東京新聞の富田宏、TBSの出口一雄との5人で、「はしば会」という会を作り、日本橋「たいめい軒」で食事をしながら歓談をしていた。
得意ネタ
- 馬楽時代にはSPレコードも吹き込んでいる。
『火事息子』『中村仲蔵』『蔵前駕籠』『文七元結』『怪談牡丹灯籠』『真景累ヶ淵』『鰍沢』『山崎屋』『一眼国』『ぞろぞろ』『淀五郎』『紫壇楼古木』『権兵衛狸』。芝居噺では『菊模様皿山奇談』『雪の戸田川』『引窓与兵衛』『双蝶々』『名月若松城』『新助市五郎』。新作では平岩弓枝作の『笠と赤い風車』、正岡容作の『髑髏柳(どくろやなぎ)』、自作の『すててこ誕生』『年枝の怪談』『二つ面』等がある。
芝居噺 林家正蔵の会
- 1970年2月からの隔月(偶数月)に、江戸時代から伝え継がれている本式の道具仕立てでの「芝居噺」を、東京・岩波ホールで催した落語会。
- 世話人は秋庭太郎、白井喬二、知切光蔵、藤浦富太郎
- 当時、この口演の模様は、今後の資料として残すために、日本大学芸術学部映画学科の協力を得て16mmフィルムで撮影されており、貴重な記録映画である。予算の関係で基本的にはモノクロで撮影されたが、特に舞台装置等で「色彩に凝ったもの」に関しては、カラーで撮影をした。パートカラーの作品もある。
- この記録映画は後に貸し出されてもおり、後にビデオ化されて、三一書房で販売もされたこともある。2004年、松竹系のCS放送局の歌舞伎チャンネルで「八代目林家正蔵 正本芝居噺の世界」として、この記録映画が番組として放送され、以後、衛星劇場等でも放送された。番組の進行役は、彦六の弟子3代目八光亭春輔、解説は舞台美術家(日本大学芸術学部講師)の伊東清で、番組内では貴重な当時の資料等も紹介されていた。
「岩波ホール 古典芸能シリーズ 『芝居噺 林家正蔵の会』」 開催日 および 演目
- 第1期
- 第1回 1970年2月23日(月)
- 演目:「戸田の渡し」「おふじ松五郎」
- 講演:藤浦富太郎
- 対談:三国一郎 林家正蔵
- 第2回 1970年4月27日(月)
- 演目:「五月雨坊主」「眞景累ケ淵」
- 講演:村上元三
- 対談:小沢昭一 林家正蔵
- 第3回 1970年6月29日(月)
- 演目:「めだか」「菊模様皿山奇談」
- 講演:小島二朔
- 対談:江国滋 林家正蔵
- 第1回 1970年2月23日(月)
- 第2期
- 第1回 1970年8月24日(月)
- 演目:「鰍沢」「眞景累ケ淵」
- 講演:越智治雄
- 対談:桂米朝
- 第2回 1970年10月26日(月)
- 演目:「新助市五郎」「名月若松城」
- 講演:暉峻康隆
- 対談:尾崎秀樹
- 第3回 1970年12月28日(月)
- 演目:「怪談累草紙」「粟田口霑笛竹」
- 講演:結城孫三郎
- 対談:秋庭太郎 他
- 第1回 1970年8月24日(月)
記録映画
記録映画の収録日および記録映画でのクレジットを以下に記す。クレジットは表示順に準じている。(CS放送で放送された「八代目林家正蔵 正本芝居噺の世界」の番組より)
- 「おふじ松五郎」
- 「戸田の渡し〜お紺殺し」
- 1970年2月23日(月)、東京・岩波ホール収録、モノクロ作品
- おはやし:加藤八重、小島つた、林家枝二
- 後見:林家時蔵、林家照蔵、林家九蔵
- 装置:伊東清
- 背景:土屋修身
- 大道具制作:林家正蔵、林家時蔵
- 照明:海阪雄藤
- タイトル:神馬俊二
- 映画制作:日本大学芸術学部映画学科
- 林家正蔵芝居噺の会
- 世話人:秋庭太郎、白井喬二、知切光蔵、藤浦富太郎
- 協力:岩波ホール
- 企画制作:松原剛、伊東清、麻生芳信
- 「眞景累ケ淵〜新五郎の捕り物」(作:三遊亭圓朝) - 第25回芸術祭参加公演
- 「五月雨坊主」(作:村上元三)
- 1970年4月27日(月)、東京・岩波ホール収録、モノクロ作品
- おはやし:加藤八重、林家枝二
- 後見:林家時蔵、林家照蔵、林家九蔵、林家上蔵
- 装置:伊藤雨晴
- 大道具制作:林家正蔵、林家時蔵
- 題字:橘右近
- 照明:海阪雄藤
- タイトル:神馬俊二
- 映画制作:日本大学芸術学部映画学科
- 林家正蔵芝居噺の会
- 世話人:秋庭太郎、白井喬二、知切光蔵、藤浦富太郎
- 協力:岩波ホール
- 企画制作:松原剛、伊東清、麻生芳信
- 「めだか」(作:浜本浩)
- 1970年6月29日(月)、東京・岩波ホール収録、モノクロ作品
- 芝居噺:「めだか」八代目林家正蔵
- 画:田中佐一郎
- 効果:岡芹秀次
- 映画制作:日本大学芸術学部映画学科
- 林家正蔵芝居噺の会
- 世話人:秋庭太郎、白井喬二、知切光蔵、藤浦富太郎
- 協力:岩波ホール
- 企画制作:松原剛、伊東清、麻生芳信
- 「菊模様皿山奇談(楼門の場)」(作:三遊亭圓朝)
- 「鰍沢」(作:三遊亭圓朝)
- 1970年8月24日(月)、東京・岩波ホール収録、モノクロ作品
- 出演:八代目林家正蔵
- 装置書割:伊藤晴雨
- おおざつま:橘家圓太郎、柳家亀松
- おはやし:加藤八重、柳亭燕路、橘家文蔵、三遊亭円弥
- 後見:林家時蔵、林家照蔵、林家九蔵、林家上蔵
- 題字:橘右近
- タイトル:神馬俊二
- 照明:海阪雄藤
- 映画制作:日本大学芸術学部映画学科
- 林家正蔵芝居噺の会
- 世話人:秋庭太郎、白井喬二、知切光蔵、藤浦富太郎
- 協力:岩波ホール
- 企画制作:松原剛、伊東清、麻生芳信
- 「眞景累ケ淵〜水門の場」(作:三遊亭圓朝)
- 1970年8月24日(月)、東京・岩波ホール収録、モノクロ作品
- 「この一巻を恩師一朝老に捧ぐ 八代目林家正蔵」
- 出演:八代目林家正蔵
- おはやし:加藤八重、小島つた、三遊亭円弥
- 後見:林家時蔵、林家照蔵、林家上蔵
- 装置:伊東清
- 背景:土屋修身
- 大道具制作:林家正蔵、林家時蔵
- 題字:橘右近
- タイトル:神馬俊二
- 照明:海阪雄藤
- 映画制作:日本大学芸術学部映画学科
- 企画制作:松原剛、伊東清、麻生芳信
- 「今昔芝居噺〜名月若松城」 - 第25回文化庁芸術祭参加公演
- 1970年10月26日(月)、東京・岩波ホール収録、モノクロ作品
- 芝居噺:「名月若松城」
- 出演:八代目林家正蔵
- 装置:水島爾保布
- 背景:唐木三郎
- 大道具制作:林家正蔵、林家時蔵
- 題字:橘右近
- タイトル:神馬俊二
- 照明:海阪雄藤
- おはやし:加藤八重、三遊亭円弥
- 後見:林家照蔵、林家時蔵、林家九蔵、林家上蔵
- 映画制作:日本大学芸術学部映画学科
- 林家正蔵芝居噺の会
- 世話人:秋庭太郎、白井喬二、知切光蔵、藤浦富太郎
- 協力:岩波ホール
- 企画制作:松原剛、伊東清、麻生芳信
- 「新助市五郎〜原の郷の捕り物」(作:三遊亭圓朝) - 第25回文化庁芸術祭参加公演
- 1970年10月26日(月)、東京・岩波ホール収録、モノクロ作品
- 芝居噺:「新助市五郎 原ノ郷捕物」
- 出演:八代目林家正蔵
- 装置:伊東清
- 背景:土屋修身
- 大道具制作:林家正蔵、林家枝二
- 題字:橘右近
- タイトル:神馬俊二
- 照明:海阪雄藤
- おはやし:加藤八重、三遊亭円弥、林家枝二、林家照蔵
- 後見:林家時蔵、林家九蔵、林家上蔵
- 映画制作:日本大学芸術学部映画学科
- 林家正蔵芝居噺の会
- 世話人:秋庭太郎、白井喬二、知切光蔵、藤浦富太郎
- 協力:岩波ホール
- 企画制作:松原剛、伊東清、麻生芳信
- 「怪談累草紙・親不知の場」
- 1970年12月28日(月)、東京・岩波ホール収録、モノクロ作品
- 装置背景:伊藤晴雨
- おはやし:加藤八重、小島つた、林家文蔵
- 後見:林家時蔵、林家照蔵、林家九蔵、林家上蔵
- 題字:橘右近
- タイトル:神馬俊二
- 照明:海阪雄藤
- 映画制作:日本大学芸術学部映画学科
- 林家正蔵芝居噺の会
- 世話人:秋庭太郎、白井喬二、知切光蔵、藤浦富太郎
- 協力:岩波ホール
- 企画制作:松原剛、伊東清、麻生芳信
- 「粟田口霑笛竹〜国府台の場」(作:三遊亭圓朝)
- 1970年12月28日(月)、東京・岩波ホール収録、カラー作品
- 芝居噺:「粟田口霑笛竹 国府台の場」
- 出演:八代目林家正蔵
- おはやし:加藤八重、小島つた、柳亭燕路、橘家文蔵
- 後見:林家時蔵、林家照蔵、林家九蔵、林家上蔵
- 装置:伊東清
- 背景:小林純朔
- 大道具制作:林家正蔵、林家時蔵
- 題字:橘右近
- タイトル:神馬俊二
- 照明:海阪雄藤
- 映画制作:日本大学芸術学部映画学科
- 林家正蔵芝居噺の会
- 世話人:秋庭太郎、白井喬二、知切光蔵、藤浦富太郎
- 協力:岩波ホール
- 企画制作:松原剛、伊東清、麻生芳信
一門弟子
- 蝶花楼花蝶(馬楽時代の弟子、後に囃子方の梅谷福三郎)
- 三遊亭市馬(後に廃業し、落語協会事務員に転職。九蔵の“九”は彼から弟子を数えていることになっている)
- 5代目春風亭柳朝
- 2代目林家正楽(落語家として正蔵門下に入り、後に紙切りに転向して初代紙切り林家正楽の預かり弟子になる。彦六一門には籍を置いていた)
- 橘家文蔵
- 7代目春風亭栄枝(元は8代目春風亭柳枝門下。師匠柳枝の死去に伴い、彦六門下に移籍)
- 林家木久扇(元は3代目桂三木助門下。師匠三木助の死去に伴い、彦六門下に移籍)
- はやし家林蔵(元は3代目三遊亭金馬門下。師匠金馬の死去に伴い、彦六門下に移籍)
- 3代目八光亭春輔
- 三遊亭好楽(前名は林家九蔵、彦六の死後は5代目三遊亭圓楽門下に移籍)
- 3代目桂藤兵衛(彦六の死後、二つ目のため、兄弟子文蔵門下に移籍)
- 林家時蔵(彦六の死後、二つ目のため、兄弟子の柳朝一門に移籍。柳朝が病となったため木久蔵(木久扇)門下に移籍)
- 林家正雀(彦六の死後、二つ目のため、兄弟子の文蔵門下に移籍)
- 色物
客分格弟子
- 7代目橘家圓太郎(元は初代橘ノ圓の弟子。師匠圓夫妻が京都で死去し、京都で巡業中だった彦六一門に移籍)
- 6代目蝶花楼馬楽(元は彦六の弟弟子。師匠小さん死去に伴い、彦六一門に移籍)
- 春風亭一柳(元は圓生の弟子。落語協会分裂騒動時に破門され、彦六一門に移籍)
映画出演
- 初代林家正蔵役で、「怪談百物語」の語り手を演じている。
演じた俳優
林家彦六賞・岡本マキ賞
将来性のある若手芸人や、寄席文化に著しく貢献した人を顕彰して、落語・演芸界の活性化をはかると同時に、一徹に生きた名人林家彦六、そして夫人である岡本マキの名を後世に伝えるための顕彰制度。1995年6月に制定、1996年5月に第1回の表彰式を日本橋・たいめいけんで開催。毎年5月に開催。2009年に終了(後述)。
- 林家彦六賞
- 対象は、二ツ目から真打昇進5年以内の芸人。選考基準は、将来性や芸に取り組む姿勢。
- 過去の受賞者
- 岡本マキ賞
- 対象は、前座から二ツ目昇進直後の芸人。選考基準は、将来性と、寄席の楽屋等で誠実に業務に励む姿勢。
- 過去の受賞者
- 第1回(1996年) 春風亭朝吉(現 6代目春風亭柳朝)
- 第2回(1997年) ※受賞者なし
- 第3回(1998年) 古今亭菊朗(現 古今亭菊志ん)
- 第4回(1999年) 神田ひまわり(現 日向ひまわり)
- 第5回(2000年) 五街道のぼり(現 3代目蜃気楼龍玉)
- 第6回(2001年) 桂才ころ(現 3代目桂やまと)
- 第7回(2002年) 古今亭いち五(現 5代目古今亭志ん好)
- 第8回(2003年) 柳家小権太(現 3代目柳家東三楼)
- 第9回(2004年) 入船亭遊一(現 4代目入船亭扇蔵)
- 第10回(2005年) 春風亭一之輔
- 第11回(2006年) 三笑亭春夢(現 2代目三笑亭夢丸)
- 第12回(2007年) 立川フラ談次(現 立川左平次)
- 第13回(2008年) 三笑亭可女次
- 第14回(2009年) 笑福亭和光
- 特別賞
- 対象は、寄席文化に著しく貢献した人。
- 過去の受賞者
- 第1回(1996年) 松本みつ子(元・池袋演芸場お茶子)
- 第2回(1997年) ※受賞者なし
- 第3回(1998年) 根岸京子(木馬亭席亭)
- 第4回(1999年) 橘左近(寄席文字)
- 第5回(2000年) 小島豊美(CD-ROM「古今東西噺家紳士録」プロデューサー)、稲葉守治・富美子(日本演芸若手研精会主催)
- 第6回(2001年) 横井洋司(写真家)
- 第7回(2002年) 柳家紫朝(音曲師)
- 第8回(2003年) 榎本滋民(劇作家、落語評論家)
- 第9回(2004年) ※受賞者なし
- 第10回(2005年) 稲見茂久(うなぎ書房)
- 第11回(2006年) 京須偕充(落語プロデューサー、落語評論家)
- 第12回(2007年) 玉置宏(司会者、横浜にぎわい座館長)
- 第13回(2008年) 永田稔(文芸坐)
- 第14回(2009年) 永谷浩司(永谷商事社長)
1970年に開催の「林家正蔵 芝居噺の会」の模様の一部を残した16mmフィルムの記録映画の貸し出し時の謝礼や、寄席や落語会などでの口演の模様を収録し放送やレコードなどの販売での二次使用料等の印税などを元に、賞の基金を贈っている。これは彦六が「既に寄席や落語会では、幾らかの出演料は頂いており、このお金(印税等)は不労所得で二重取りになる」と受け取りを固辞し、舞台美術家の伊東清が預かっていたものを元にしている。
伊東が2009年、第14回開催後に亡くなったことにより終了した。
書籍
速記集
- 『林家正蔵集』上巻・下巻(青蛙房)1974
- 『古典落語 正蔵・三木助集』飯島友治編(ちくま文庫)1990
著書
彦六は筆まめな人で、多くの著書を残している。月々のファンクラブ会報も自らの手で書いており、永井啓夫・伊東清著『彦六からの手紙 <林家正蔵会>の記録』(三一書房)に全容が残されている。
林家正蔵名義
- 『正蔵一代』(林家正蔵集別巻)山本進編(青蛙房)1974
- 『芸の話』(新日本出版社)1974
- 麻生芳伸『林家正蔵随談』(青蛙房)
- 坊野寿山と共著『落語寄席風俗誌』展望社、1975
- 暉峻康隆『落語藝談』(平凡社ライブラリー / 三省堂新書では上巻)
- 『八代目正蔵戦中日記』瀧口雅仁編 青蛙房 2014
林家彦六名義
- 『噺家の手帖』一声社 1982
- 『正蔵世相談義』一声社 1982
弟子による関連書
その他関連書
- 吉川潮『江戸前の男』ランダムハウス講談社文庫