「大杉勝男」の版間の差分
2018年12月22日 (土) 10:52 (UTC)の版に戻します。「独自研究は載せない」、「検証可能性」などの方針や「大言壮語しない」などのガイドラインに反する加筆のため。ノート:大杉勝男#出典もない雑多な記述と、打点率なる独自研究についても参照 タグ: サイズの大幅な増減 |
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水原監督は大杉を入団1年目から積極的に起用し、2年目には101試合の出場で打率.269を記録。3年目の{{by|1967年}}は飯島コーチの「月に向かって打て」の助言で開眼し、5月の段階で両リーグトップの13号を放つ。レギュラーに定着し、[[1967年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]にも出場。第3戦で[[江夏豊]]から満塁本塁打を放ちMVPを獲得する。同年は全試合に出場して打率.291・27本塁打・81打点の成績を残すが、リーグ最多の107三振を喫した。 |
水原監督は大杉を入団1年目から積極的に起用し、2年目には101試合の出場で打率.269を記録。3年目の{{by|1967年}}は飯島コーチの「月に向かって打て」の助言で開眼し、5月の段階で両リーグトップの13号を放つ。レギュラーに定着し、[[1967年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]にも出場。第3戦で[[江夏豊]]から満塁本塁打を放ちMVPを獲得する。同年は全試合に出場して打率.291・27本塁打・81打点の成績を残すが、リーグ最多の107三振を喫した。 |
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翌{{by|1968年}}も三振が目立ったが、34本塁打を放ち89打点を残した。 |
翌{{by|1968年}}も三振が目立ったが、34本塁打を放ち89打点を残した。この年から73年まで6年連続30本塁打以上を記録。 |
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{{by|1969年}}からは三振も減り、5試合連続本塁打も達成。日本記録のサヨナラ安打5本。パリーグ記録のサヨナラ本塁打3本を成し遂げた。この年から73年まで6年連続30[[本塁打]]、{{by|1970年}}からは3年連続40本塁打を放った。1970年には自己最高となる打率.339・44本塁打・129打点、日本記録となるシーズン15犠飛を記録。同年と{{by|1971年}}には2年連続[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]のタイトルを獲得する。1970年と{{by|1972年}}には[[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]を獲得し、[[張本勲]]との3、4番コンビは[[OH砲]]と呼ばれた。1970年 |
{{by|1969年}}からは三振も減り、5試合連続本塁打も達成。日本記録のサヨナラ安打5本。パリーグ記録のサヨナラ本塁打3本を成し遂げた。この年から73年まで6年連続30[[本塁打]]、{{by|1970年}}からは3年連続40本塁打を放った。1970年には自己最高となる打率.339・44本塁打・129打点、日本記録となるシーズン15犠飛を記録。同年と{{by|1971年}}には2年連続[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]のタイトルを獲得する。1970年と{{by|1972年}}には[[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]を獲得し、[[張本勲]]との3、4番コンビは[[OH砲]]と呼ばれた。また1970年8月6日の阪急戦3本、8日の南海戦2本で2試合5本塁打の固め打ちを達成(これは1983年の引退年度にも達成し、史上唯一の両リーグ2試合5本塁打達成打者である) |
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1972年5月に当時の日本記録である月間15本塁打を達成。同年7月11日の対[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]戦で大杉は初回に26号本塁打を放つものの、降雨ノーゲームとなり、幻の本塁打となった。最終的に[[長池徳士|長池徳二]]([[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]])に本塁打1本差の2位。打点は[[野村克也]](南海)と同点1位に終わった。 |
1972年5月に当時の日本記録である月間15本塁打を達成。同時に9号目に王貞治を抜く最少試合での200号を達成。同年7月11日の対[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]戦で大杉は初回に26号本塁打を放つものの、降雨ノーゲームとなり、幻の本塁打となった。最終的に[[長池徳士|長池徳二]]([[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]])に本塁打1本差の2位。打点は[[野村克也]](南海)と同点1位に終わった。 |
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{{by|1973年}}、東映が日拓ホームになると同時に長年つけていた背番号「51」を「3」に変えるが34本塁打と40本を切り、本塁打2位に終わる。 |
{{by|1973年}}、東映が日拓ホームになると同時に長年つけていた背番号「51」を「3」に変えるが34本塁打と40本を切り、本塁打2位に終わる。しかし、6試合連続本塁打のパリーグ新記録を10月初旬で達成。 |
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{{by|1974年}}、本塁打王奪回に燃え、再び背番号を「51」に戻した。シーズン前半こそ打率0.300弱、14本塁打 両リーグトップの65打点を記録するも、後半戦に突入すると急失速。復調せず、打率.234と成績が低迷。球団の親会社が前年オフに日本ハムに替わり、東映カラーの払拭を目指すフロントは主力選手の大量放出を断行する。大杉も{{by|1975年}}、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]へ[[内田順三]]と[[小田義人]]との交換トレードで移籍した。 |
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移籍1年目は[[荒川博]]監督の指導が合わず<ref name="oosugi"/>、打率.237と結果を残せなかった。その後に猛練習を重ね、2年目の1976年に代打3試合連続本塁打の離れ業でレギュラーに返り咲き、打率.300・29本塁打・93打点の好成績を残す。{{by|1977年}}からは[[広岡達朗]]が監督に就任した。同年は[[打率]].329・31本塁打・104[[打点]]を記録した。 |
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1975年 移籍1年目は前半から絶不調。シーズン前半で打率0.230 8本塁打 39打点と振るわずオールスターからも漏れる。[[荒川博]]監督の指導が合わず<ref name="oosugi" />、打率.237と結果を残せなかったがシーズン最後になんとか13号を放ち、通算300号にギリギリ乗せた。 |
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⚫ | {{by|1978年}}には開幕から5番打者を務め、後半戦は4番で打線を引っ張り、チームも開幕から129試合連続得点という記録を打ち立てた。同年は打率.327・30本塁打・97打点を記録する活躍を見せて球団のリーグ初優勝に貢献。阪急との[[1978年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では同じ岡山出身の[[松岡弘]]とともに活躍した。大杉は第7戦の6回裏に[[足立光宏]]からレフトポール際に本塁打を放った。この判定を巡って阪急の監督の[[上田利治]]が猛抗議。1時間19分も試合が中断するも、判定は覆らなかった。抗議されたことに怒った大杉は、次の8回裏2アウトで迎えた第4打席で[[山田久志]]から文句なしの本塁打を放ち、チームは日本一となった。この2打席連続本塁打で大杉は第2戦・第5戦の本塁打と合わせて[[長嶋茂雄]]のシリーズ4本塁打の記録に並び、同じく長嶋のシリーズ記録であった9打点を更新する10打点を残し、シリーズ[[日本選手権シリーズ#各年の日本シリーズ|MVP]]を獲得した。 |
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1976年 キャンプから猛練習を重ねたが、控えが続いた。しかし代打3試合連続本塁打の離れ業でレギュラーに返り咲き、そこから怒濤の勢いで好調を維持しシーズン前半で打率0.312 13本塁打を記録。最終的にこの年はシーズン開幕から出遅れながら打率.300・29本塁打・93打点の好成績を残す。 |
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{{by|1977年}}からは[[広岡達朗]]が監督に就任した。同年は4番でチームを引っ張りシーズン前半で打率0.342 16本塁打 59打点を残しオールスターにも選出。終始好調で[[打率]].329・31本塁打・104[[打点]]を記録し、ヤクルト初の2位躍進に貢献した。 |
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⚫ | {{by|1978年}}にはマニエルと交互に4番、5番を組み、開幕から5番打者を務め、後半戦は4番で打線を引っ張り、チームも開幕から129試合連続得点という記録を打ち立てた。シーズン前半はヒルトン(ヤクルト)の0.351に次ぐ、打率2位の0.343で折り返した。同年は打率.327・30本塁打・97打点を記録する活躍を見せて球団のリーグ初優勝に貢献。阪急との[[1978年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では同じ岡山出身の[[松岡弘]]とともに活躍した。大杉は第7戦の6回裏に[[足立光宏]]からレフトポール際に本塁打を放った。この判定を巡って阪急の監督の[[上田利治]]が猛抗議。1時間19分も試合が中断するも、判定は覆らなかった。抗議されたことに怒った大杉は、次の8回裏2アウトで迎えた第4打席で[[山田久志]]から文句なしの本塁打を放ち、チームは日本一となった。この2打席連続本塁打で大杉は第2戦・第5戦の本塁打と合わせて[[長嶋茂雄]]のシリーズ4本塁打の記録に並び、同じく長嶋のシリーズ記録であった9打点を更新する10打点を残し、シリーズ[[日本選手権シリーズ#各年の日本シリーズ|MVP]]を獲得した。 |
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1979年は大スランプに陥り絶不調。本人も「サムライたちのプロ野球」(1984年)で「最も思い出したくない年」と書いていたように通算400号を星野仙一(中日)から放つ以外は目立った活躍がなく終わり、家族までが「ヤクルトが負けるのは大杉のスランプのせいだ」(1996年 テレビ番組「知ってるつもり」より)と、世間から叩かれるという事態にまで発展。 |
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1980年 「家族のためにもスランプから抜け出したい」(書籍 サムライたちのプロ野球)と奮起したが開幕から6月7日の対巨人戦まで6番を打たされ続けた。下位打線に置かれて気を削がれたのか、4月、5月は前年のスランプを引き摺るほどの惨憺たる結果であったが、6月8日の対巨人9回戦目から4番に戻り復調。オールスターにも選出。打率0.301 21本塁打 82打点と好成績を残した。 |
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{{by|1981年}}には打率.343を記録するも、[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]には及ばなかったが打率3位と健闘。7月21日の対中日16回戦 浜松球場にて中日先発の小松から通算2000安打を先制タイムリーツーベースで飾る。 |
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1982年 開幕から好調で6月中旬時点で打率0.340 10本塁打を維持し、前年の勢いをそのままに保っていたが、自著であるサムライたちのプロ野球の書籍内で「引退を考えざるを得ないことが起こった」と振り返っているように、その後急失速。途中退場が多くなり打率も急落していき、ついには規程打席にも届かずシーズンを終える。 |
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⚫ | {{by|1983年}}6月3日、史上初の両リーグ1000安打を達成<ref>リーグを問わない2球団での1000安打も史上初。</ref>。6月17日の対阪神戦で2本。翌18日の対阪神戦で3本。2試合5本塁打を達成し、史上初の両リーグ2試合5本塁打を成し遂げた。また8月8日に史上初の両リーグ1000試合出場達成。両リーグ200本塁打の記録<ref>この記録は後に[[落合博満]]によって達成された。</ref>もあと1本まで迫っていたが(通算本塁打はパ・リーグで287本、セ・リーグで199本)、持病の[[不整脈]]が悪化し、夫人が入院生活を送っていたこともあり、同年限りでの[[現役引退]]を表明した。引退試合のあいさつで「最後に、わがまま気ままなお願いですが、あと1本と迫っておりました両リーグ200号本塁打、'''この1本をファンの皆様の夢の中で打たして頂きますれば、これにすぐる喜びはございません'''」という言葉を残した。また引退会見の席では「'''さりし夢 神宮の杜に かすみ草'''」という句を詠んでいる。 |
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=== 引退後 === |
=== 引退後 === |
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== 人物 == |
== 人物 == |
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現役時代は道具を大切にし、特にバットにおいては毎日手入れを欠かさず、牛骨を使って木目を締め、体調に応じてバットの重さも変えていた。 |
現役時代は道具を大切にし、特にバットにおいては毎日手入れを欠かさず、牛骨を使って木目を締め、体調に応じてバットの重さも変えていた。ヤクルトスワローズ大百科内において、同僚で後輩の若松勉は「バットをミリ単位、グラム単位で細かに気にする神経の細かさを持っていたのが大杉さん」と振り返っている。また、打者ライバルであった、元阪急の長池は「最強の右打者は誰か」の書籍内で「大杉がポンポンと簡単にホームランを打つものだから、バットに秘密があると思い、バットを数本くれと頼んだら気前よくくれた。しかし、あまりにも軽くてボールも飛ばず、調子を落とした」と振り返っている。 |
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ライバルの1人であった、元阪急の山田久志は92年にNHKによる大杉を振り返るコーナーにて「大杉さんはパワーでガツッと打つタイプのように皆さん思われるかも知れないですが、そうではなく、技でカキンと器用に打つタイプだった。打たれたら次は絶対負けないと闘志を燃やさせてくれる人だった。勝負した男の爽快感を漂わせてくれる人だった。結構打たれましたけど、本当に良い勝負をさせていただいた打者の1人でしたね」と述懐している。 |
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1992年2月初版の書籍「最強のプロ野球論」(二宮清純 筆)において、元ヤクルトの八重樫幸雄が「右打者では少なくとも落合(博満)よりは大杉さんでしょう。落合は読みが素晴らしくどのピッチャーのどの軌道も把握しているため対応できるが、ナチュラルに曲がるスライダーやシュートには対応できなかった。反対に大杉さんは9割の確率でストレートを待ちながら、変化球が来ても本能的に体を開かずにボールを拾うことができた。イメージ的には落合が『流す』なら、大杉さんは『そのまま打撃する』感じ。それにパワーもある。大リーグに通用するのは大杉さんでしょう。」と大杉の適応力の凄さを振り返っている。 |
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野村克也は書籍「私がみた最高の選手 最低の選手」内において大杉のバッティングの観察力の凄さを讃えており、また八重樫が語った「そのまま打撃する」に近い発言「どんなボールにも素直に捌けるバッティングの体捌きは大杉が歴代ナンバーワンだったのではないか」と綴っている。実際に大杉は1984年の「大杉勝男のバット人生」の書籍内で「野村克也さんのバッティングを参考にした。野村克也さんは常に腰の辺りで判が返るように手が返っていた。バッティングの土台はこれだったのだ」と研究心の高さもうかがわせる内容を綴っている。 |
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ファンサービスにも積極的で、本塁打を打った後に観客に向けて投げキッスをするなどのパフォーマンスを行っていた。また、愛妻家であり、生前書いていた日記のほとんどは夫人にあてたもので、[[スランプ]]に陥れば妻も世間から責められるからと奮起したり、ヤクルトが初優勝した時は他の選手と違い、真っ先に夫人の待つ家に帰ったりしている。 |
ファンサービスにも積極的で、本塁打を打った後に観客に向けて投げキッスをするなどのパフォーマンスを行っていた。また、愛妻家であり、生前書いていた日記のほとんどは夫人にあてたもので、[[スランプ]]に陥れば妻も世間から責められるからと奮起したり、ヤクルトが初優勝した時は他の選手と違い、真っ先に夫人の待つ家に帰ったりしている。 |
2019年2月19日 (火) 11:32時点における版
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 岡山県勝田郡奈義町 |
生年月日 | 1945年3月5日 |
没年月日 | 1992年4月30日(47歳没) |
身長 体重 |
181 cm 88 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 一塁手 |
プロ入り | 1965年 |
初出場 | 1965年4月20日 |
最終出場 | 1983年9月29日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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野球殿堂(日本) | |
選出年 | 1997年 |
選出方法 | 競技者表彰 |
この表について
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大杉 勝男(おおすぎ かつお、1945年3月5日 - 1992年4月30日)は、岡山県勝田郡奈義町出身のプロ野球選手(内野手)。
NPBにおける通算本塁打数・通算打点数共に歴代9位(2016年シーズン終了時点)[1][2]。
経歴
プロ入り前
3兄弟の次男として生まれ、4歳年上の兄に影響されて野球を始めた。その後、兄と父を病で亡くす。白血病で亡くした兄の「兄の姿を甲子園に再現させて下さい」という願いを叶えることと、自身も兄の出場した甲子園に憧れ、野球に本格的に打ち込むようになった。
関西高校に入学し、硬式野球部に入部。1年でありながら真っ先にレギュラー捕手となる。しかし経済的負担もあって軟式に転向、甲子園に出場することは叶わなかった。卒業後は、1963年に野球部を新設し、高校の先輩である岡田悦哉が監督となった丸井に入社。都市対抗の東京都予選などで活躍するが、創部2年目の1964年に野球部は休部する。
1965年、岡田の勧めもあり東映フライヤーズの入団テストを受ける。テストでは力を発揮できず、球団幹部は獲得に難色を示した。しかし当時の打撃コーチ・藤村富美男が才能を見出し「東映が獲らないなら、私が(藤村の古巣である)阪神に推薦しますが、それでも構いませんか」と監督の水原茂に問い詰めると、「お前がそこまで言うのだから、さぞ凄い打者なんだろう」と水原は大杉の獲得を決意。入団に至った[3]。
また、張本勲氏は「新人の大杉を見ると非凡なものを感じた。軽く振っているのに物凄く勢いよく球がグンとびる。なぜかと思って、打率を意識すれば本塁打が出ず、本塁打を意識すれば打率が伸びず、その葛藤で悩んでいた私は新人の大杉のバッティングをよく観察した。するとバットの出方が投手でいう、スリークォーターで、低めに来たときは自然な無理のないアッパー。真ん中は綺麗なレベルスウィング。低めに来たときは腰を落として奇麗に払っていく。球の高低、コースによってもバットの出方はく変わらない。そのときに私は確信した。こいつは三冠王を獲る」と打ち明けている(別冊宝島珠玉の好敵手)
また、この大杉に感じたものは後の落合にも共通していたとも述べている。
ライバルであった、阪急の長池は丸井時代の大杉と顔を合わせており、大杉のバッティングを見て「凄いのがいるなあと思った」と振り返っている。
現役時代
水原監督は大杉を入団1年目から積極的に起用し、2年目には101試合の出場で打率.269を記録。3年目の1967年は飯島コーチの「月に向かって打て」の助言で開眼し、5月の段階で両リーグトップの13号を放つ。レギュラーに定着し、オールスターゲームにも出場。第3戦で江夏豊から満塁本塁打を放ちMVPを獲得する。同年は全試合に出場して打率.291・27本塁打・81打点の成績を残すが、リーグ最多の107三振を喫した。
翌1968年も三振が目立ったが、34本塁打を放ち89打点を残した。この年から73年まで6年連続30本塁打以上を記録。
1969年からは三振も減り、5試合連続本塁打も達成。日本記録のサヨナラ安打5本。パリーグ記録のサヨナラ本塁打3本を成し遂げた。この年から73年まで6年連続30本塁打、1970年からは3年連続40本塁打を放った。1970年には自己最高となる打率.339・44本塁打・129打点、日本記録となるシーズン15犠飛を記録。同年と1971年には2年連続本塁打王のタイトルを獲得する。1970年と1972年には打点王を獲得し、張本勲との3、4番コンビはOH砲と呼ばれた。また1970年8月6日の阪急戦3本、8日の南海戦2本で2試合5本塁打の固め打ちを達成(これは1983年の引退年度にも達成し、史上唯一の両リーグ2試合5本塁打達成打者である)
1972年5月に当時の日本記録である月間15本塁打を達成。同時に9号目に王貞治を抜く最少試合での200号を達成。同年7月11日の対南海ホークス戦で大杉は初回に26号本塁打を放つものの、降雨ノーゲームとなり、幻の本塁打となった。最終的に長池徳二(阪急ブレーブス)に本塁打1本差の2位。打点は野村克也(南海)と同点1位に終わった。
1973年、東映が日拓ホームになると同時に長年つけていた背番号「51」を「3」に変えるが34本塁打と40本を切り、本塁打2位に終わる。しかし、6試合連続本塁打のパリーグ新記録を10月初旬で達成。
1974年、本塁打王奪回に燃え、再び背番号を「51」に戻した。シーズン前半こそ打率0.300弱、14本塁打 両リーグトップの65打点を記録するも、後半戦に突入すると急失速。復調せず、打率.234と成績が低迷。球団の親会社が前年オフに日本ハムに替わり、東映カラーの払拭を目指すフロントは主力選手の大量放出を断行する。大杉も1975年、ヤクルトスワローズへ内田順三と小田義人との交換トレードで移籍した。
1975年 移籍1年目は前半から絶不調。シーズン前半で打率0.230 8本塁打 39打点と振るわずオールスターからも漏れる。荒川博監督の指導が合わず[3]、打率.237と結果を残せなかったがシーズン最後になんとか13号を放ち、通算300号にギリギリ乗せた。
1976年 キャンプから猛練習を重ねたが、控えが続いた。しかし代打3試合連続本塁打の離れ業でレギュラーに返り咲き、そこから怒濤の勢いで好調を維持しシーズン前半で打率0.312 13本塁打を記録。最終的にこの年はシーズン開幕から出遅れながら打率.300・29本塁打・93打点の好成績を残す。
1977年からは広岡達朗が監督に就任した。同年は4番でチームを引っ張りシーズン前半で打率0.342 16本塁打 59打点を残しオールスターにも選出。終始好調で打率.329・31本塁打・104打点を記録し、ヤクルト初の2位躍進に貢献した。
1978年にはマニエルと交互に4番、5番を組み、開幕から5番打者を務め、後半戦は4番で打線を引っ張り、チームも開幕から129試合連続得点という記録を打ち立てた。シーズン前半はヒルトン(ヤクルト)の0.351に次ぐ、打率2位の0.343で折り返した。同年は打率.327・30本塁打・97打点を記録する活躍を見せて球団のリーグ初優勝に貢献。阪急との日本シリーズでは同じ岡山出身の松岡弘とともに活躍した。大杉は第7戦の6回裏に足立光宏からレフトポール際に本塁打を放った。この判定を巡って阪急の監督の上田利治が猛抗議。1時間19分も試合が中断するも、判定は覆らなかった。抗議されたことに怒った大杉は、次の8回裏2アウトで迎えた第4打席で山田久志から文句なしの本塁打を放ち、チームは日本一となった。この2打席連続本塁打で大杉は第2戦・第5戦の本塁打と合わせて長嶋茂雄のシリーズ4本塁打の記録に並び、同じく長嶋のシリーズ記録であった9打点を更新する10打点を残し、シリーズMVPを獲得した。
1979年は大スランプに陥り絶不調。本人も「サムライたちのプロ野球」(1984年)で「最も思い出したくない年」と書いていたように通算400号を星野仙一(中日)から放つ以外は目立った活躍がなく終わり、家族までが「ヤクルトが負けるのは大杉のスランプのせいだ」(1996年 テレビ番組「知ってるつもり」より)と、世間から叩かれるという事態にまで発展。
1980年 「家族のためにもスランプから抜け出したい」(書籍 サムライたちのプロ野球)と奮起したが開幕から6月7日の対巨人戦まで6番を打たされ続けた。下位打線に置かれて気を削がれたのか、4月、5月は前年のスランプを引き摺るほどの惨憺たる結果であったが、6月8日の対巨人9回戦目から4番に戻り復調。オールスターにも選出。打率0.301 21本塁打 82打点と好成績を残した。
1981年には打率.343を記録するも、首位打者には及ばなかったが打率3位と健闘。7月21日の対中日16回戦 浜松球場にて中日先発の小松から通算2000安打を先制タイムリーツーベースで飾る。
1982年 開幕から好調で6月中旬時点で打率0.340 10本塁打を維持し、前年の勢いをそのままに保っていたが、自著であるサムライたちのプロ野球の書籍内で「引退を考えざるを得ないことが起こった」と振り返っているように、その後急失速。途中退場が多くなり打率も急落していき、ついには規程打席にも届かずシーズンを終える。
1983年6月3日、史上初の両リーグ1000安打を達成[4]。6月17日の対阪神戦で2本。翌18日の対阪神戦で3本。2試合5本塁打を達成し、史上初の両リーグ2試合5本塁打を成し遂げた。また8月8日に史上初の両リーグ1000試合出場達成。両リーグ200本塁打の記録[5]もあと1本まで迫っていたが(通算本塁打はパ・リーグで287本、セ・リーグで199本)、持病の不整脈が悪化し、夫人が入院生活を送っていたこともあり、同年限りでの現役引退を表明した。引退試合のあいさつで「最後に、わがまま気ままなお願いですが、あと1本と迫っておりました両リーグ200号本塁打、この1本をファンの皆様の夢の中で打たして頂きますれば、これにすぐる喜びはございません」という言葉を残した。また引退会見の席では「さりし夢 神宮の杜に かすみ草」という句を詠んでいる。
引退後
引退発表の日、背番号8がヤクルト初の欠番に内定。1984年から1989年までフジテレビ・ニッポン放送の野球解説者を務め、1990年に横浜大洋ホエールズの一軍打撃コーチに就任したが、1991年に癌が判明し退団。
1992年4月30日、肝臓癌のため死去。47歳没。名球会会員最初の物故者となった。
人物
現役時代は道具を大切にし、特にバットにおいては毎日手入れを欠かさず、牛骨を使って木目を締め、体調に応じてバットの重さも変えていた。ヤクルトスワローズ大百科内において、同僚で後輩の若松勉は「バットをミリ単位、グラム単位で細かに気にする神経の細かさを持っていたのが大杉さん」と振り返っている。また、打者ライバルであった、元阪急の長池は「最強の右打者は誰か」の書籍内で「大杉がポンポンと簡単にホームランを打つものだから、バットに秘密があると思い、バットを数本くれと頼んだら気前よくくれた。しかし、あまりにも軽くてボールも飛ばず、調子を落とした」と振り返っている。
ライバルの1人であった、元阪急の山田久志は92年にNHKによる大杉を振り返るコーナーにて「大杉さんはパワーでガツッと打つタイプのように皆さん思われるかも知れないですが、そうではなく、技でカキンと器用に打つタイプだった。打たれたら次は絶対負けないと闘志を燃やさせてくれる人だった。勝負した男の爽快感を漂わせてくれる人だった。結構打たれましたけど、本当に良い勝負をさせていただいた打者の1人でしたね」と述懐している。
1992年2月初版の書籍「最強のプロ野球論」(二宮清純 筆)において、元ヤクルトの八重樫幸雄が「右打者では少なくとも落合(博満)よりは大杉さんでしょう。落合は読みが素晴らしくどのピッチャーのどの軌道も把握しているため対応できるが、ナチュラルに曲がるスライダーやシュートには対応できなかった。反対に大杉さんは9割の確率でストレートを待ちながら、変化球が来ても本能的に体を開かずにボールを拾うことができた。イメージ的には落合が『流す』なら、大杉さんは『そのまま打撃する』感じ。それにパワーもある。大リーグに通用するのは大杉さんでしょう。」と大杉の適応力の凄さを振り返っている。
野村克也は書籍「私がみた最高の選手 最低の選手」内において大杉のバッティングの観察力の凄さを讃えており、また八重樫が語った「そのまま打撃する」に近い発言「どんなボールにも素直に捌けるバッティングの体捌きは大杉が歴代ナンバーワンだったのではないか」と綴っている。実際に大杉は1984年の「大杉勝男のバット人生」の書籍内で「野村克也さんのバッティングを参考にした。野村克也さんは常に腰の辺りで判が返るように手が返っていた。バッティングの土台はこれだったのだ」と研究心の高さもうかがわせる内容を綴っている。
ファンサービスにも積極的で、本塁打を打った後に観客に向けて投げキッスをするなどのパフォーマンスを行っていた。また、愛妻家であり、生前書いていた日記のほとんどは夫人にあてたもので、スランプに陥れば妻も世間から責められるからと奮起したり、ヤクルトが初優勝した時は他の選手と違い、真っ先に夫人の待つ家に帰ったりしている。
グラウンド上ではケンカっ早く、乱闘では相手選手に殴りかかることがたびたびあった。1970年の西鉄戦では、西鉄の攻撃時、西鉄の二塁走者カール・ボレスが左中間のフライでタッチアップした際に二塁のベースカバーに入った大杉がボレスと接触した。この接触が余りにも激しかったため、大杉は激怒し、ボレスにつかみかかった。ボレスも応戦して大杉に殴りにかかったが、大杉は回避して逆に右拳でボレスを殴り、昏倒させている[6]。 また1978年の巨人戦で両軍入り乱れての乱闘の際には、当時の巨人監督である長嶋茂雄にも殴り掛かって一発加えている。大杉自身は乱闘の際に興奮しすぎて、長嶋に殴り掛かったことは覚えていないという。巨人の選手として立ち会っていた元同僚の張本勲が暴れる大杉を止めないといけないほどであった。コーチになってからも同様で、不整脈の持病がありながらも1990年6月24日の広島戦では外野まで追い掛け回したマイク・ヤングに掴みかかるなど晩年でも血気盛んであった。
持論は「あいさつのできない奴は伸びない」であり、「あいさつのできない奴は大抵、二流か三流で終わる」と指摘している。
阪急の長池をライバルとして認めており、1967年のお互いの27本塁打を「あれが競争の合図だった」と生前語っていた。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1965 | 東映 日拓 日本ハム |
60 | 113 | 104 | 7 | 20 | 5 | 1 | 1 | 30 | 13 | 0 | 1 | 1 | 2 | 5 | 0 | 1 | 23 | 3 | .192 | .232 | .288 | .521 |
1966 | 101 | 203 | 186 | 29 | 50 | 6 | 1 | 8 | 82 | 28 | 1 | 0 | 2 | 3 | 7 | 0 | 5 | 29 | 1 | .269 | .308 | .441 | .749 | |
1967 | 134 | 552 | 491 | 64 | 143 | 25 | 1 | 27 | 251 | 81 | 1 | 4 | 4 | 3 | 46 | 4 | 8 | 107 | 11 | .291 | .359 | .511 | .871 | |
1968 | 133 | 536 | 476 | 76 | 114 | 17 | 1 | 34 | 235 | 89 | 4 | 6 | 1 | 3 | 51 | 7 | 5 | 106 | 15 | .239 | .318 | .494 | .811 | |
1969 | 130 | 548 | 495 | 71 | 141 | 22 | 2 | 36 | 275 | 99 | 3 | 3 | 0 | 3 | 43 | 9 | 7 | 77 | 16 | .285 | .349 | .556 | .904 | |
1970 | 130 | 556 | 492 | 84 | 167 | 27 | 2 | 44 | 330 | 129 | 5 | 4 | 0 | 15 | 44 | 1 | 5 | 61 | 18 | .339 | .388 | .671 | 1.059 | |
1971 | 130 | 562 | 489 | 74 | 154 | 17 | 1 | 41 | 296 | 104 | 7 | 8 | 0 | 4 | 63 | 18 | 6 | 65 | 15 | .315 | .397 | .605 | 1.002 | |
1972 | 130 | 559 | 492 | 81 | 145 | 18 | 1 | 40 | 285 | 101 | 0 | 1 | 0 | 2 | 57 | 9 | 8 | 58 | 21 | .295 | .376 | .579 | .955 | |
1973 | 130 | 548 | 478 | 74 | 129 | 14 | 1 | 34 | 247 | 85 | 3 | 1 | 0 | 7 | 59 | 2 | 4 | 56 | 21 | .270 | .350 | .517 | .867 | |
1974 | 130 | 521 | 461 | 54 | 108 | 14 | 0 | 22 | 188 | 90 | 4 | 2 | 0 | 8 | 48 | 7 | 4 | 73 | 12 | .234 | .307 | .408 | .715 | |
1975 | ヤクルト | 115 | 431 | 389 | 42 | 92 | 9 | 1 | 13 | 142 | 54 | 1 | 3 | 3 | 4 | 30 | 1 | 5 | 64 | 13 | .237 | .297 | .365 | .662 |
1976 | 121 | 466 | 423 | 62 | 127 | 21 | 1 | 29 | 237 | 93 | 0 | 3 | 0 | 3 | 35 | 2 | 5 | 43 | 19 | .300 | .358 | .560 | .919 | |
1977 | 123 | 505 | 453 | 62 | 149 | 19 | 1 | 31 | 263 | 104 | 0 | 2 | 0 | 8 | 37 | 9 | 7 | 65 | 16 | .329 | .382 | .581 | .963 | |
1978 | 125 | 516 | 462 | 73 | 151 | 17 | 0 | 30 | 258 | 97 | 0 | 2 | 0 | 3 | 47 | 4 | 4 | 51 | 27 | .327 | .391 | .558 | .950 | |
1979 | 118 | 456 | 413 | 46 | 100 | 18 | 0 | 17 | 169 | 68 | 1 | 1 | 0 | 2 | 38 | 1 | 3 | 74 | 10 | .242 | .309 | .409 | .718 | |
1980 | 118 | 462 | 425 | 52 | 128 | 19 | 1 | 21 | 212 | 82 | 0 | 3 | 0 | 7 | 27 | 2 | 3 | 42 | 14 | .301 | .342 | .499 | .841 | |
1981 | 120 | 453 | 414 | 59 | 142 | 21 | 2 | 20 | 227 | 78 | 1 | 3 | 0 | 4 | 33 | 8 | 2 | 43 | 12 | .343 | .391 | .548 | .939 | |
1982 | 88 | 324 | 298 | 30 | 84 | 11 | 0 | 17 | 146 | 59 | 1 | 0 | 0 | 4 | 22 | 3 | 0 | 39 | 11 | .282 | .327 | .490 | .817 | |
1983 | 99 | 349 | 322 | 40 | 84 | 6 | 2 | 21 | 157 | 53 | 0 | 0 | 0 | 1 | 23 | 5 | 3 | 40 | 11 | .261 | .315 | .488 | .803 | |
通算:19年 | 2235 | 8660 | 7763 | 1080 | 2228 | 306 | 19 | 486 | 4030 | 1507 | 32 | 47 | 11 | 86 | 715 | 92 | 85 | 1116 | 266 | .287 | .350 | .519 | .869 |
- 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBにおける歴代最高
- 東映(東映フライヤーズ)は、1973年に日拓(日拓ホームフライヤーズ)に、1974年に日本ハム(日本ハムファイターズ)に球団名を変更
タイトル
表彰
- ベストナイン:5回 (1967年、1969年 - 1972年)
- ダイヤモンドグラブ賞:1回 (1972年)
- 日本シリーズMVP:1回 (1978年)
- オールスターゲームMVP:1回 (1967年 第3戦)
- 野球殿堂競技者表彰(1997年)
背番号
- 51 (1965年 - 1972年、1974年)
- 3 (1973年)
- 8 (1975年 - 1983年)
- 88 (1990年 - 1991年)
関連情報
著書
- 『大杉勝男のバット人生:アイ・ラブ・素敵な野球野郎たち』(リイド社、1984年1月、ISBN 4947538422)
- 『サムライたちのプロ野球:プロ野球における監督と選手の研究』(徳間書店、1984年6月、ISBN 4195029295)
- 『ヤクルトスワローズ』(白帝社、1986年7月、ISBN 4891740248) - 監修
関連書籍
- 『大杉勝男:神宮に咲いたかすみ草』(奥田益也原作、高橋達央作画、ぎょうせい〈名球会comics 6〉、1992年11月、ISBN 4324026351)
出演番組
- enjoy! Baseball - かつてフジテレビ解説者として出演していた中継の現行統一タイトル
- プロ野球ニュース
- ニッポン放送ショウアップナイター
- 大杉・アッコのホームラン歌謡曲(ニッポン放送) - 和田アキ子と共にパーソナリティーを務めた
- そーっと歌ってみよう
- とんねるずのみなさんのおかげです - 涙目怪人選手権(審査員)
脚注
- ^ 本塁打 【通算記録】 - 日本野球機構オフィシャルサイト 2016年12月16日閲覧。
- ^ 打点 【通算記録】 - 日本野球機構オフィシャルサイト 2016年12月16日閲覧。
- ^ a b 大杉勝男『大杉勝男のバット人生 アイ・ラブ・素敵な野球野郎たち』リイド社、1984年、[要ページ番号]頁。ISBN 4947538422。
- ^ リーグを問わない2球団での1000安打も史上初。
- ^ この記録は後に落合博満によって達成された。
- ^ このような暴力行為があったにもかかわらず、大杉は退場となっていない。この時の二塁塁審は沖克己で、試合後記者に大杉を退場にしなかった理由を問われ「パンチが速過ぎて見えなかった」と答えた。
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 大杉勝男 - NPB.jp 日本野球機構
- 野球殿堂 大杉勝男 - 公益財団法人野球殿堂博物館