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「弋陽郡」の版間の差分

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[[583年]]([[開皇]]3年)、[[隋]]が郡制を廃すると、弋陽郡は廃止されて、光州に編入された。[[607年]]([[大業]]3年)に州が廃止されて郡が置かれると、光州は弋陽郡と改称された。弋陽郡は[[光山県|光山]]・楽安・[[川県|定城]]・[[商城県|殷城]]・[[固始県|固始]]・期思の6県を管轄した<ref>『[[隋書]]』地理志下</ref>。


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2020年9月11日 (金) 21:30時点における最新版

弋陽郡(よくよう-ぐん)は、中国にかつて存在した三国時代から唐代にかけて、現在の河南省南部に設置された。

豫州弋陽郡[編集]

220年黄初元年)、三国のにより汝南郡江夏郡を分割して弋陽郡が立てられた。弋陽郡は豫州に属した。

のとき、弋陽郡は西陽蘄春西陵期思弋陽の7県を管轄した[1]

南朝宋のとき、弋陽郡は南豫州に属し、期思・弋陽・安豊・楽安茹由の5県を管轄した[2]

南朝斉のとき、弋陽郡は豫州に属し、期思・南新息・弋陽・上蔡平輿の5県を管轄した[3]495年永明13年)、北魏がこの地を奪った。

527年孝昌3年)、南朝梁がこの地を奪った。

549年武定7年)、東魏がこの地を奪った。弋陽郡は東豫州に属し、弋陽県1県を管轄した[4]

光州弋陽郡[編集]

南朝梁のとき、光州が立てられた。弋陽郡は光州に属した。のちに東魏に奪われた。この弋陽郡は北弋陽・南弋陽の2県を管轄した[4]

583年開皇3年)、が郡制を廃すると、弋陽郡は廃止されて、光州に編入された。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、光州は弋陽郡と改称された。弋陽郡は光山・楽安・定城殷城固始・期思の6県を管轄した[5]

620年武徳3年)、唐により弋陽郡は光州と改められた。742年天宝元年)、光州は弋陽郡と改称された。758年乾元元年)、弋陽郡は光州と改称され、弋陽郡の呼称は姿を消した[6]

南定州弋陽郡[編集]

南朝梁により定州(東魏の南定州)に弋陽郡が僑置され、汝南・期思の2県を管轄した[4]

潁州弋陽郡[編集]

南朝梁により潁州に弋陽郡が僑置された[4]

脚注[編集]

  1. ^ 晋書』地理志上
  2. ^ 宋書』州郡志二
  3. ^ 南斉書』州郡志上
  4. ^ a b c d 魏書』地形志二中
  5. ^ 隋書』地理志下
  6. ^ 旧唐書』地理志三