コンテンツにスキップ

「武上四郎」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
Cewbot (会話 | 投稿記録)
46行目: 46行目:


=== 引退後 ===
=== 引退後 ===
引退後はヤクルトで一軍打撃コーチ([[1976年]], [[1979年]])・一軍守備コーチ([[1977年]] - [[1978年]])を務め、1978年には球団史上初のリーグ優勝・日本一に貢献。[[1980年]]には39歳の若さで監督に就任。待望の「チーム生え抜き監督」が誕生し、NPBのドラフト会議で指名を受けてプロ入りした元選手では初めての監督就任となり、監督としての最初の仕事は選手の家族の誕生日調べであった。細やかな配慮や面倒見の良さもあって選手に慕われ、際どい判定や自軍選手が死球に遭った時は審判員や投手に大きなジェスチャーでつっかかり、選手を引っ張った。1年目の開幕カード・中日戦(ナゴヤ)では、[[4月5日]]の1戦目を先発の[[鈴木康二朗]]から[[井原慎一朗]]につなぐリレーで接戦をモノにすると、[[4月6日|翌6日]]の2戦目では打たれてもいない先発の[[神部年男]]を短イニングで降板させて継投する奇抜な采配で派手な監督デビューを飾った。開幕から6試合で5勝1敗と上々の滑り出しを見せ、[[4月26日|同26日]]の阪神戦(神宮)では[[角富士夫]]に劇的なサヨナラ2ラン本塁打が飛び出すと、[[4月30日|同30日]]の大洋戦(神宮)では[[酒井圭一]]が4年目で初勝利を挙げるなど、[[4月]]末の時点で単独トップ。[[5月3日]]からの広島との首位攻防3連戦に2敗1分で2位に後退するも、直後に連勝して首位に返り咲くなど、リーグ連覇を狙う広島と激しい鍔競り合いを演じたが、[[5月13日|同13日]]からの広島との3連戦はまたも2敗1分に終わり、首位の座から陥落。[[5月28日|同28日]]に[[梶間健一]]の完封で広島戦の連敗を7で止めると、[[5月29日|翌29日]]の同カードでは22安打の猛攻で18-2と圧勝して溜飲を下げたが、ここで2.5ゲーム差まで迫ったのが精一杯であった。結局、シーズンを通じて広島に7勝15敗4分と大きく負け越したのが響き、最下位から一気のリーグ優勝はならず。それでも最後まで2位の座を死守し、球団史上5度目のAクラス入りを果たした。投手陣では梶間がいずれもチームトップの15勝・11完投をマークし、リーグ5位の防御率2.76と大車輪の活躍。前年は2桁勝利に届かなかった[[松岡弘]]も、[[7月10日]]の阪神戦(神宮)で通算150勝を達成するなど13勝と復活し、防御率2.35で球団3人目(5度目)の最優秀防御率に輝いた。また、鈴木は2年ぶりの2桁となる11勝を挙げ、3年目の[[尾花高夫]]も8勝と健闘。チーム防御率3.17は巨人に次いでリーグ2位であったが、それ以上に威力を発揮したのがともにリーグトップのチーム打率.270、537打点を誇った打線であった。若松は首位打者こそアキレス腱断裂から復活した[[谷沢健一]](中日)に譲ったものの、打率.351で堂々のリーグ2位に入る。[[杉浦亨]]は2年連続の20本塁打と自身初の打率3割で初めてベストナインに選出され、打率.301・21本塁打と見事に甦った大杉勝男と共に強力クリーンアップを形成。1年目は広島と優勝争いを繰り広げての2位と健闘したが、[[1981年]]以降チームは低迷。1981年は1978年の初優勝・日本一に貢献した[[チャーリー・マニエル]]が3年ぶりに復帰。[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]移籍後は2年連続で[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]本塁打王に輝き、チームをリーグ連覇に導いていた「優勝請負人」の古巣復帰は大きな話題となったが、期待された大砲のバットはなかなか火を噴かなかった。マニエルに待望のシーズン1号本塁打が飛び出したのは開幕から15試合目、実に57打席目のことであった。この時点ではチームはまだ6勝8敗で4位であったが、翌日から引き分けを挟んで7連敗を喫し、最下位に転落。さらに不動の三番・若松が[[4月22日]]の広島戦(神宮)で右肩のじん帯を損傷して戦列を離れると、[[5月26日]]の阪神戦(甲子園)ではトップバッターの[[ジョン・スコット]]が左足関節挫傷で離脱。2人の主力打者を失いながらも[[5月]]はなんとか勝ち越し、マニエルが[[6月3日]]の大洋戦(神宮)から5試合連続本塁打を打てば、前年までさしたる実績のなかった[[青木実]]が新たなリードオフマンとして躍動するなど、[[6月]]も11勝8敗の成績で2位まで浮上した。しかし、前半戦を4位で折り返すと、広島・阪神と激しい争いを繰り広げていた[[8月]]初旬に、今度はマニエルが左脇腹を負傷。それでも[[8月18日]]からの6連勝で2位に返り咲き、一時は貯金を5まで増やしたが、これが精一杯であった。勝負どころの[[9月]]に大きく負け越し、最後は勝率5割にも届かずBクラスの4位に終わった。シーズン途中から正中堅手の座をつかんだ青木は、規定打席未満ながら34盗塁で球団史上4人目の盗塁王に輝く。大杉は自己ベストの打率.343でリーグ3位に食い込み、[[7月21日]]の中日戦([[浜松球場|浜松]])で通算2000安打を達成。自身13度目の20本塁打以上で、通算本塁打では長嶋茂雄を抜いて歴代5位(当時)となった。若松は負傷のために規定打席到達を逃したものの、日本記録に並ぶ(当時)3本のサヨナラ弾を放つなど勝負強さを発揮し、通算サヨナラ本塁打8本のリーグタイ記録を樹立。投手陣では松岡が12勝で3年ぶりの勝ち頭になったものの、鈴木、井原は共に2桁に届かなかった。前年15勝の梶間健一も6勝にダウンしたが、ルーキー[[立野政治]]は6勝と健闘し、38歳のベテラン[[神部年男]]が抑えに回ってリーグ4位の10セーブを挙げたのも光った。[[8月15日]]の巨人戦(神宮)では[[松本匡史]]が振り逃げで一塁セーフになると、自軍が4番手に送り出した[[大川章]]の投球を「今のはボールだ」と審判に抗議。自軍の投球がボールだという前代未聞の抗議をし、結局それが認められて打席に戻された松本は本塁打を打ってしまう<ref>サンケイスポーツ 1981年8月16日 3面</ref>。[[1982年]]・[[1983年]]には2年連続の最下位と低迷。1982年は前年不振に終わったマニエル、スコットの両外国人を解雇し、俊足・巧打の触れ込みの[[ラリー・ハーロー]]と、[[ユマ]]キャンプで入団テストを受けた[[デビッド・デントン]]を獲得。この2人がとんだ誤算であり、[[4月3日]]の巨人との開幕戦(後楽園)ではそのハーローが拙守を連発し、9回には松岡を投入しながらサヨナラ負けを喫す。[[4月4日|翌4日]]の2戦目もルーキー[[宮本賢治]]の好投むなしく惜敗し、前途多難なスタートとなった。それでもこの年から人工芝に生まれ変わった神宮に戻ると、2日後の[[4月6日|同6日]]の広島戦で[[岩下正明]]の代打サヨナラ満塁本塁打が飛び出すなど持ち直し、[[4月18日|同18日]]には貯金を1とした。しかし[[4月25日|同25日]]から[[5月4日]]まで8連敗し、4日後の[[5月8日|同8日]]には最下位に転落。ハーローのバットは湿りっぱなしで、デントンも時折[[渡辺進]]に代わって二塁を守るぐらいであり、チームを浮上させるだけの力は無かった。5月に入って2度の5連敗を喫すると、[[内藤博文]]二軍監督をヘッドコーチとして一軍に昇格させるなどの打開策を講じたが、上位との差は広がる一方であった。結局、ハーローはオールスター前に解雇。代わりに獲得した[[ダン・ブリッグス]]は[[8月6日]]の広島戦(神宮)で一気に3本塁打を打って期待を抱かせたが、その後はわずか3本を加えたのみであった。チームは8月下旬から9月にかけてリーグ連覇を狙う巨人に2カード連続で勝ち越すなど意地を見せたが、最後まで最下位脱出はならなかった。打者では若松が打率.310でリーグ6位となったが、外国人が揃って期待を裏切り、20本塁打以上は皆無に終わった。大杉は[[5月11日]]の大洋戦([[横浜スタジアム|横浜]])で史上5人目の通算450本塁打を達成したものの、シーズンでは17本にとどまった。杉浦は初の全試合出場を果たして22盗塁と足でもアピールしたが、2年ぶりの3割・20本塁打には届かなかった。投手陣では6年目の尾花がチーム唯一の2ケタ勝利を挙げ、リーグ6位の防御率2.60をマーク。松岡も時に抑え、時に先発と起用法が一貫しない中で9勝3セーブと健闘した。ルーキーの宮本も4勝したが、2年目の[[鈴木正幸]]は[[6月9日]]の阪神戦(神宮)でプロ初勝利を1安打完封で飾るも、[[6月18日|同18日]]の大洋戦(神宮)では再び1安打ピッチングを演じながらも0-1で敗れる不運もあり、2勝どまりであった。1983年は[[早稲田大学系属早稲田実業学校初等部・中等部・高等部|早実]]1年夏の準優勝を皮切りに5季連続で甲子園に出場した[[荒木大輔]]を、ドラフト1位で巨人と競合の末に獲得。「甲子園のアイドル」の入団は一大フィーバーを巻き起こした一方で、鈴木と西井らを放出し、[[ロッテ]]から抑え投手の[[倉持明]]、近鉄からは2桁勝利3度の[[井本隆]]を獲得するなど出血を惜しまぬ思い切ったトレードを敢行。さらには元打点王の[[ボビー・マルカーノ]]に代打男として鳴らした[[萩原康弘]]を加え、投打ともに積極的な補強を施して開幕を迎えた。[[4月9日]]の阪神との開幕戦(甲子園)は、先発の尾花が阪神打線を1点に封じる快投を演じれば、打っては杉浦享に通算100号となるソロ本塁打、新加入のマルカーノには3ラン本塁打が飛び出して4対1で快勝。直後に神宮で巨人に3連敗を喫すも、そこから2分を挟んで連勝してすかさず勝率を5割に戻したが、その後に再び3連敗を喫して借金生活に終始。それでも8月半ば過ぎまでは3位争いを演じていたが、[[8月20日]]からの4連敗で5位まで後退すると、9月は6位がほぼ定位置となる。最後は5位の中日と0.5ゲーム差ながら、2年連続の最下位に終わった。注目の荒木は[[4月26日]]の広島戦(神宮)にリリーフで初登板した後も救援での出番が続いたが、[[5月19日]]の阪神戦(神宮)で待望の初先発登板。神宮に詰め掛けた4万7000人の大観衆の前で5回を無失点に抑えると、6回からは尾花がロングリリーフでリードを守り、嬉しいプロ初勝利を手にしたが、このシーズンで荒木が挙げた白星はこれだけであった。梶間が3年ぶりの2桁となる14勝、松岡と尾花も揃って11勝を挙げたものの、井本は6勝14敗と大きく負け越し、倉持に至っては0勝3敗0セーブと移籍組が誤算であった。打線では若松勉が終盤まで[[真弓明信]](阪神)と首位打者を争うなどリーグ2位の打率.337、移籍のマルカーノはいずれもチームトップの25本塁打・78打点をマーク。[[八重樫幸雄]]は14年目にして自己最多の97試合に出場し、16本塁打・45打点と起用に応えた。大杉は6月3日に史上初めてセ・パ両リーグで1000安打を達成したものの、シーズン終了後に引退を発表し、19年間の現役生活に別れを告げた。[[1984年]]は球団の抽選で獲得したドラフト1位のルーキー[[高野光]]([[東海大学硬式野球部|東海大]])がいきなり開幕戦に先発。ルーキーの開幕投手はドラフト制施行後では初とあって、大きな話題を呼んだ。その開幕戦、高野は大洋を相手に4回3失点でマウンドを下りたものの、打線が試合をひっくり返して逆転勝利。翌日も梶間、尾花のリレーでモノにして開幕連勝を飾ったが、神宮に戻って広島に3連敗を喫すと、4月18日の巨人戦([[平和台野球場|平和台]])からは8連敗で、あっという間に最下位に転落。開幕から絶不調であったこともあり、[[4月26日]]の中日戦(神宮)限りで辞任。後任には[[中西太]]一軍ヘッド兼打撃コーチ(監督代行)を経て、[[土橋正幸]]一軍投手コーチが就任。在任中は「[[三原脩|三原]]監督と[[広岡達朗|広岡]]監督をマッチした監督になりたい」と言っていたが、[[大杉勝男]]が自著『サムライたちのプロ野球』で、自身に対する仕打ちと「好き嫌いで選手を使っている」という批判しているような状況であった。監督辞任後の[[5月]]からはヤクルトの駐米スカウト兼任で、[[サンディエゴ・パドレス]]客員コーチに就任。言葉も通じず、プレッシャーから[[血尿]]や[[血便]]が出るほどであったが<ref name=odajuntaro>[[織田淳太郎]]「ニッポン野球珍事件珍記録大全」[[東京書籍]]、[[2003年]]</ref>、[[8月12日]]の[[アトランタ・ブレーブス|ブレーブス]]戦では両軍合わせて12人の退場者を出した[[乱闘]]に巻き込まれる<ref name=odajuntaro />。武上はスタンドでパドレスの選手がブレーブスファンと揉み合っている所を目撃し、スタンドへ飛び込んでブレーブスファンの一人に挑みかかったが、[[額]]に[[ピストル]]の銃口を押し付けられて降参している<ref name=odajuntaro />。パドレスでも球団史上初のリーグ優勝に貢献し、日本人として初めて[[ワールドシリーズ]]のベンチに入った。帰国後は[[フジテレビ]]「[[プロ野球ニュース]]」に出演し、ベンチから見た大リーグについて語った。[[1985年]]から[[1994年]]までは[[テレビ朝日]]解説者・[[サンケイスポーツ]]評論家を務め、サンスポではコラム「考Q筆打」を連載し、テレ朝では解説者の他に[[全英オープンゴルフ]]のリポーターも務めたことがある。その一方で、[[1991年]]オフに[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]の監督候補に挙がったが、交渉が難航したために就任に至らなかった<ref>{{Cite news |title=【復刻】日本ハム次期監督、土橋正幸氏 |newspaper=[[日刊スポーツ|nikkansports.com]] |date=2013-08-26 |url=http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20130826-1179162.html |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] |accessdate=2017-08-11}}</ref>。[[1995年]]から[[1996年]]、[[1998年]]から[[2000年]]まで巨人の一軍打撃コーチを務めた。その合間の[[1997年]]に1年間だけ、[[テレビ東京]]解説者・サンケイスポーツ評論家を務めた。1998年[[8月2日]]の[[阪神タイガース|阪神]]戦([[阪神甲子園球場|甲子園]])で[[槙原寛己]]が投じた死球を巡って、阪神の[[大熊忠義]]外野守備・走塁コーチと共に退場処分を受けたことがある。バットを振りまくる熱血指導を[[長嶋茂雄]]監督に買われ<ref name=kashiwahideki>[https://ameblo.jp/kashiwahideki/entry-10326488918.html あぁ!武さん...|柏 英樹のハーフタイム]</ref>、試合後は室内練習場でのバットスイングを毎晩深夜まで行うなど打線強化に取り組む<ref name=kashiwahideki />。帰宅後も試合のビデオを見て分析するなど、ベッドに入るのが朝になるのも珍しくはなかった<ref name=kashiwahideki />。[[1999年]]頃から食欲がなくなりやたら寒気がするなど体に変調が現れ、以前より悪かった[[腎臓]]が激務と心労で悪化<ref name=kashiwahideki />。透析治療が必要になることも予想されるほどであったが、2000年もコーチを続行<ref name=kashiwahideki />。シーズン中は腎臓のほか[[胃潰瘍]]や[[肝臓癌]]も見つかり、[[名古屋市|名古屋]]遠征中に[[貧血]]で緊急入院するなど壮絶なものとなり、退院後も毎晩試合後の自宅に主治医が来て点滴治療をしていた<ref name=kashiwahideki />。オフに深刻な体調不良を理由に辞任し、[[2001年]]からは[[2002年]]までは、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]解説者・サンケイスポーツ評論家を務めた。
引退後はヤクルトで一軍打撃コーチ([[1976年]], [[1979年]])・一軍守備コーチ([[1977年]] - [[1978年]])を務め、1978年には球団史上初のリーグ優勝・日本一に貢献。[[1980年]]には39歳の若さで監督に就任。待望の「チーム生え抜き監督」が誕生し、NPBのドラフト会議で指名を受けてプロ入りした元選手では初めての監督就任となり、監督としての最初の仕事は選手の家族の誕生日調べであった。細やかな配慮や面倒見の良さもあって選手に慕われ、際どい判定や自軍選手が死球に遭った時は審判員や投手に大きなジェスチャーでつっかかり、選手を引っ張った。1年目の開幕カード・中日戦(ナゴヤ)では、[[4月5日]]の1戦目を先発の[[鈴木康二朗]]から[[井原慎一朗]]につなぐリレーで接戦をモノにすると、[[4月6日|翌6日]]の2戦目では打たれてもいない先発の[[神部年男]]を短イニングで降板させて継投する奇抜な采配で派手な監督デビューを飾った。開幕から6試合で5勝1敗と上々の滑り出しを見せ、[[4月26日|同26日]]の阪神戦(神宮)では[[角富士夫]]に劇的なサヨナラ2ラン本塁打が飛び出すと、[[4月30日|同30日]]の大洋戦(神宮)では[[酒井圭一]]が4年目で初勝利を挙げるなど、[[4月]]末の時点で単独トップ。[[5月3日]]からの広島との首位攻防3連戦に2敗1分で2位に後退するも、直後に連勝して首位に返り咲くなど、リーグ連覇を狙う広島と激しい鍔競り合いを演じたが、[[5月13日|同13日]]からの広島との3連戦はまたも2敗1分に終わり、首位の座から陥落。[[5月28日|同28日]]に[[梶間健一]]の完封で広島戦の連敗を7で止めると、[[5月29日|翌29日]]の同カードでは22安打の猛攻で18-2と圧勝して溜飲を下げたが、ここで2.5ゲーム差まで迫ったのが精一杯であった。結局、シーズンを通じて広島に7勝15敗4分と大きく負け越したのが響き、最下位から一気のリーグ優勝はならず。それでも最後まで2位の座を死守し、球団史上5度目のAクラス入りを果たした。投手陣では梶間がいずれもチームトップの15勝・11完投をマークし、リーグ5位の防御率2.76と大車輪の活躍。前年は2桁勝利に届かなかった[[松岡弘]]も、[[7月10日]]の阪神戦(神宮)で通算150勝を達成するなど13勝と復活し、防御率2.35で球団3人目(5度目)の最優秀防御率に輝いた。また、鈴木は2年ぶりの2桁となる11勝を挙げ、3年目の[[尾花髙夫|尾花高夫]]も8勝と健闘。チーム防御率3.17は巨人に次いでリーグ2位であったが、それ以上に威力を発揮したのがともにリーグトップのチーム打率.270、537打点を誇った打線であった。若松は首位打者こそアキレス腱断裂から復活した[[谷沢健一]](中日)に譲ったものの、打率.351で堂々のリーグ2位に入る。[[杉浦亨]]は2年連続の20本塁打と自身初の打率3割で初めてベストナインに選出され、打率.301・21本塁打と見事に甦った大杉勝男と共に強力クリーンアップを形成。1年目は広島と優勝争いを繰り広げての2位と健闘したが、[[1981年]]以降チームは低迷。1981年は1978年の初優勝・日本一に貢献した[[チャーリー・マニエル]]が3年ぶりに復帰。[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]移籍後は2年連続で[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]本塁打王に輝き、チームをリーグ連覇に導いていた「優勝請負人」の古巣復帰は大きな話題となったが、期待された大砲のバットはなかなか火を噴かなかった。マニエルに待望のシーズン1号本塁打が飛び出したのは開幕から15試合目、実に57打席目のことであった。この時点ではチームはまだ6勝8敗で4位であったが、翌日から引き分けを挟んで7連敗を喫し、最下位に転落。さらに不動の三番・若松が[[4月22日]]の広島戦(神宮)で右肩のじん帯を損傷して戦列を離れると、[[5月26日]]の阪神戦(甲子園)ではトップバッターの[[ジョン・スコット]]が左足関節挫傷で離脱。2人の主力打者を失いながらも[[5月]]はなんとか勝ち越し、マニエルが[[6月3日]]の大洋戦(神宮)から5試合連続本塁打を打てば、前年までさしたる実績のなかった[[青木実]]が新たなリードオフマンとして躍動するなど、[[6月]]も11勝8敗の成績で2位まで浮上した。しかし、前半戦を4位で折り返すと、広島・阪神と激しい争いを繰り広げていた[[8月]]初旬に、今度はマニエルが左脇腹を負傷。それでも[[8月18日]]からの6連勝で2位に返り咲き、一時は貯金を5まで増やしたが、これが精一杯であった。勝負どころの[[9月]]に大きく負け越し、最後は勝率5割にも届かずBクラスの4位に終わった。シーズン途中から正中堅手の座をつかんだ青木は、規定打席未満ながら34盗塁で球団史上4人目の盗塁王に輝く。大杉は自己ベストの打率.343でリーグ3位に食い込み、[[7月21日]]の中日戦([[浜松球場|浜松]])で通算2000安打を達成。自身13度目の20本塁打以上で、通算本塁打では長嶋茂雄を抜いて歴代5位(当時)となった。若松は負傷のために規定打席到達を逃したものの、日本記録に並ぶ(当時)3本のサヨナラ弾を放つなど勝負強さを発揮し、通算サヨナラ本塁打8本のリーグタイ記録を樹立。投手陣では松岡が12勝で3年ぶりの勝ち頭になったものの、鈴木、井原は共に2桁に届かなかった。前年15勝の梶間健一も6勝にダウンしたが、ルーキー[[立野政治]]は6勝と健闘し、38歳のベテラン[[神部年男]]が抑えに回ってリーグ4位の10セーブを挙げたのも光った。[[8月15日]]の巨人戦(神宮)では[[松本匡史]]が振り逃げで一塁セーフになると、自軍が4番手に送り出した[[大川章]]の投球を「今のはボールだ」と審判に抗議。自軍の投球がボールだという前代未聞の抗議をし、結局それが認められて打席に戻された松本は本塁打を打ってしまう<ref>サンケイスポーツ 1981年8月16日 3面</ref>。[[1982年]]・[[1983年]]には2年連続の最下位と低迷。1982年は前年不振に終わったマニエル、スコットの両外国人を解雇し、俊足・巧打の触れ込みの[[ラリー・ハーロー]]と、[[ユマ]]キャンプで入団テストを受けた[[デビッド・デントン]]を獲得。この2人がとんだ誤算であり、[[4月3日]]の巨人との開幕戦(後楽園)ではそのハーローが拙守を連発し、9回には松岡を投入しながらサヨナラ負けを喫す。[[4月4日|翌4日]]の2戦目もルーキー[[宮本賢治]]の好投むなしく惜敗し、前途多難なスタートとなった。それでもこの年から人工芝に生まれ変わった神宮に戻ると、2日後の[[4月6日|同6日]]の広島戦で[[岩下正明]]の代打サヨナラ満塁本塁打が飛び出すなど持ち直し、[[4月18日|同18日]]には貯金を1とした。しかし[[4月25日|同25日]]から[[5月4日]]まで8連敗し、4日後の[[5月8日|同8日]]には最下位に転落。ハーローのバットは湿りっぱなしで、デントンも時折[[渡辺進]]に代わって二塁を守るぐらいであり、チームを浮上させるだけの力は無かった。5月に入って2度の5連敗を喫すると、[[内藤博文]]二軍監督をヘッドコーチとして一軍に昇格させるなどの打開策を講じたが、上位との差は広がる一方であった。結局、ハーローはオールスター前に解雇。代わりに獲得した[[ダン・ブリッグス]]は[[8月6日]]の広島戦(神宮)で一気に3本塁打を打って期待を抱かせたが、その後はわずか3本を加えたのみであった。チームは8月下旬から9月にかけてリーグ連覇を狙う巨人に2カード連続で勝ち越すなど意地を見せたが、最後まで最下位脱出はならなかった。打者では若松が打率.310でリーグ6位となったが、外国人が揃って期待を裏切り、20本塁打以上は皆無に終わった。大杉は[[5月11日]]の大洋戦([[横浜スタジアム|横浜]])で史上5人目の通算450本塁打を達成したものの、シーズンでは17本にとどまった。杉浦は初の全試合出場を果たして22盗塁と足でもアピールしたが、2年ぶりの3割・20本塁打には届かなかった。投手陣では6年目の尾花がチーム唯一の2ケタ勝利を挙げ、リーグ6位の防御率2.60をマーク。松岡も時に抑え、時に先発と起用法が一貫しない中で9勝3セーブと健闘した。ルーキーの宮本も4勝したが、2年目の[[鈴木正幸]]は[[6月9日]]の阪神戦(神宮)でプロ初勝利を1安打完封で飾るも、[[6月18日|同18日]]の大洋戦(神宮)では再び1安打ピッチングを演じながらも0-1で敗れる不運もあり、2勝どまりであった。1983年は[[早稲田大学系属早稲田実業学校初等部・中等部・高等部|早実]]1年夏の準優勝を皮切りに5季連続で甲子園に出場した[[荒木大輔]]を、ドラフト1位で巨人と競合の末に獲得。「甲子園のアイドル」の入団は一大フィーバーを巻き起こした一方で、鈴木と西井らを放出し、[[ロッテ]]から抑え投手の[[倉持明]]、近鉄からは2桁勝利3度の[[井本隆]]を獲得するなど出血を惜しまぬ思い切ったトレードを敢行。さらには元打点王の[[ボビー・マルカーノ]]に代打男として鳴らした[[萩原康弘]]を加え、投打ともに積極的な補強を施して開幕を迎えた。[[4月9日]]の阪神との開幕戦(甲子園)は、先発の尾花が阪神打線を1点に封じる快投を演じれば、打っては杉浦享に通算100号となるソロ本塁打、新加入のマルカーノには3ラン本塁打が飛び出して4対1で快勝。直後に神宮で巨人に3連敗を喫すも、そこから2分を挟んで連勝してすかさず勝率を5割に戻したが、その後に再び3連敗を喫して借金生活に終始。それでも8月半ば過ぎまでは3位争いを演じていたが、[[8月20日]]からの4連敗で5位まで後退すると、9月は6位がほぼ定位置となる。最後は5位の中日と0.5ゲーム差ながら、2年連続の最下位に終わった。注目の荒木は[[4月26日]]の広島戦(神宮)にリリーフで初登板した後も救援での出番が続いたが、[[5月19日]]の阪神戦(神宮)で待望の初先発登板。神宮に詰め掛けた4万7000人の大観衆の前で5回を無失点に抑えると、6回からは尾花がロングリリーフでリードを守り、嬉しいプロ初勝利を手にしたが、このシーズンで荒木が挙げた白星はこれだけであった。梶間が3年ぶりの2桁となる14勝、松岡と尾花も揃って11勝を挙げたものの、井本は6勝14敗と大きく負け越し、倉持に至っては0勝3敗0セーブと移籍組が誤算であった。打線では若松勉が終盤まで[[真弓明信]](阪神)と首位打者を争うなどリーグ2位の打率.337、移籍のマルカーノはいずれもチームトップの25本塁打・78打点をマーク。[[八重樫幸雄]]は14年目にして自己最多の97試合に出場し、16本塁打・45打点と起用に応えた。大杉は6月3日に史上初めてセ・パ両リーグで1000安打を達成したものの、シーズン終了後に引退を発表し、19年間の現役生活に別れを告げた。[[1984年]]は球団の抽選で獲得したドラフト1位のルーキー[[高野光]]([[東海大学硬式野球部|東海大]])がいきなり開幕戦に先発。ルーキーの開幕投手はドラフト制施行後では初とあって、大きな話題を呼んだ。その開幕戦、高野は大洋を相手に4回3失点でマウンドを下りたものの、打線が試合をひっくり返して逆転勝利。翌日も梶間、尾花のリレーでモノにして開幕連勝を飾ったが、神宮に戻って広島に3連敗を喫すと、4月18日の巨人戦([[平和台野球場|平和台]])からは8連敗で、あっという間に最下位に転落。開幕から絶不調であったこともあり、[[4月26日]]の中日戦(神宮)限りで辞任。後任には[[中西太]]一軍ヘッド兼打撃コーチ(監督代行)を経て、[[土橋正幸]]一軍投手コーチが就任。在任中は「[[三原脩|三原]]監督と[[広岡達朗|広岡]]監督をマッチした監督になりたい」と言っていたが、[[大杉勝男]]が自著『サムライたちのプロ野球』で、自身に対する仕打ちと「好き嫌いで選手を使っている」という批判しているような状況であった。監督辞任後の[[5月]]からはヤクルトの駐米スカウト兼任で、[[サンディエゴ・パドレス]]客員コーチに就任。言葉も通じず、プレッシャーから[[血尿]]や[[血便]]が出るほどであったが<ref name=odajuntaro>[[織田淳太郎]]「ニッポン野球珍事件珍記録大全」[[東京書籍]]、[[2003年]]</ref>、[[8月12日]]の[[アトランタ・ブレーブス|ブレーブス]]戦では両軍合わせて12人の退場者を出した[[乱闘]]に巻き込まれる<ref name=odajuntaro />。武上はスタンドでパドレスの選手がブレーブスファンと揉み合っている所を目撃し、スタンドへ飛び込んでブレーブスファンの一人に挑みかかったが、[[額]]に[[ピストル]]の銃口を押し付けられて降参している<ref name=odajuntaro />。パドレスでも球団史上初のリーグ優勝に貢献し、日本人として初めて[[ワールドシリーズ]]のベンチに入った。帰国後は[[フジテレビ]]「[[プロ野球ニュース]]」に出演し、ベンチから見た大リーグについて語った。[[1985年]]から[[1994年]]までは[[テレビ朝日]]解説者・[[サンケイスポーツ]]評論家を務め、サンスポではコラム「考Q筆打」を連載し、テレ朝では解説者の他に[[全英オープンゴルフ]]のリポーターも務めたことがある。その一方で、[[1991年]]オフに[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]の監督候補に挙がったが、交渉が難航したために就任に至らなかった<ref>{{Cite news |title=【復刻】日本ハム次期監督、土橋正幸氏 |newspaper=[[日刊スポーツ|nikkansports.com]] |date=2013-08-26 |url=http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20130826-1179162.html |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] |accessdate=2017-08-11}}</ref>。[[1995年]]から[[1996年]]、[[1998年]]から[[2000年]]まで巨人の一軍打撃コーチを務めた。その合間の[[1997年]]に1年間だけ、[[テレビ東京]]解説者・サンケイスポーツ評論家を務めた。1998年[[8月2日]]の[[阪神タイガース|阪神]]戦([[阪神甲子園球場|甲子園]])で[[槙原寛己]]が投じた死球を巡って、阪神の[[大熊忠義]]外野守備・走塁コーチと共に退場処分を受けたことがある。バットを振りまくる熱血指導を[[長嶋茂雄]]監督に買われ<ref name=kashiwahideki>[https://ameblo.jp/kashiwahideki/entry-10326488918.html あぁ!武さん...|柏 英樹のハーフタイム]</ref>、試合後は室内練習場でのバットスイングを毎晩深夜まで行うなど打線強化に取り組む<ref name=kashiwahideki />。帰宅後も試合のビデオを見て分析するなど、ベッドに入るのが朝になるのも珍しくはなかった<ref name=kashiwahideki />。[[1999年]]頃から食欲がなくなりやたら寒気がするなど体に変調が現れ、以前より悪かった[[腎臓]]が激務と心労で悪化<ref name=kashiwahideki />。透析治療が必要になることも予想されるほどであったが、2000年もコーチを続行<ref name=kashiwahideki />。シーズン中は腎臓のほか[[胃潰瘍]]や[[肝臓癌]]も見つかり、[[名古屋市|名古屋]]遠征中に[[貧血]]で緊急入院するなど壮絶なものとなり、退院後も毎晩試合後の自宅に主治医が来て点滴治療をしていた<ref name=kashiwahideki />。オフに深刻な体調不良を理由に辞任し、[[2001年]]からは[[2002年]]までは、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]解説者・サンケイスポーツ評論家を務めた。


2002年[[8月23日]]、[[肝不全]]のため、神宮球場にほど近い[[東京都]][[新宿区]]の[[慶應義塾大学病院]]で逝去。[[享年]]61歳。
2002年[[8月23日]]、[[肝不全]]のため、神宮球場にほど近い[[東京都]][[新宿区]]の[[慶應義塾大学病院]]で逝去。[[享年]]61歳。

2020年12月23日 (水) 05:07時点における版

武上 四郎
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 宮崎県宮崎市
生年月日 1941年4月8日
没年月日 (2002-08-23) 2002年8月23日(61歳没)
身長
体重
170 cm
73 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 二塁手
プロ入り 1966年 第1次ドラフト8位
初出場 1967年4月8日
最終出場 1975年10月17日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

武上 四郎(たけがみ しろう、1941年4月8日 - 2002年8月23日)は、宮崎県宮崎市出身の元プロ野球選手内野手)・コーチ監督解説者評論家

経歴

プロ入りまで

中学時代から子分を40人も持つガキ大将で「ケンカ四郎」と呼ばれ、進学校の宮崎大宮高校では100メートル走を10秒9で走る俊足であった。1年次の1957年夏の甲子園に出場しているが、武上の出場は無かった。高校卒業後は1961年中央大学へ進学し、東都大学リーグでは3年次の1963年秋季、4年次の1964年秋季と2度の優勝を経験。3年時のエースは三浦宏(北海道拓殖銀行)であった。1964年10月には東京五輪デモンストレーションゲームとして開催された日米大学野球選抜試合に二塁手として出場している。リーグ通算86試合出場、330打数82安打、打率.248、0本塁打、21打点、ベストナイン3回(三塁手2回、二塁手1回)を記録。大学同期に末次民夫外野手、2年下には高橋善正投手がいる。大学卒業後の1965年河合楽器へ入社し、1年目の秋の産業対抗では日本楽器に補強され、決勝で日本石油に敗退するが敢闘賞を受賞。2年目の1966年都市対抗にも1番打者として出場するなど活躍。

現役時代

1966年の1次ドラフト8位でサンケイアトムズに入団し、1年目の1967年からレギュラーとして活躍。4月8日阪神との開幕戦(甲子園)に7番・二塁手で初出場し、2回表に村山実から右前適時打を放って初打席・初安打・初打点を記録。同24日巨人戦(後楽園)で5回表に金田正一から初本塁打となる中越ランニング本塁打を放つが、2リーグ制以後初の「プロ初本塁打がランニング本塁打」という記録を打ち立てる。この時の試合は、1回裏3点、2回裏2点と巨人に早くも得点を奪われ、5、6回にも長嶋茂雄の本塁打などで合わせて9点を奪われて諦めムードが漂っていた。5回表に武上のランニング本塁打が出るも焼け石に水で、サンケイは4投手が21安打を浴び、3-14と一方的に大敗[1]。しかしこの日の武上は4打数4安打と猛打賞の活躍で、5月30日大洋戦(川崎)と8月9日の大洋戦(神宮)でも4安打を放ち、セ・リーグ新人最多記録となるシーズン3度の4安打を打つなど活躍[2]。107試合に出場して自己最多の6三塁打、打率.299はリーグ6位を記録。盗塁は5つの成功に対して失敗は11であったが、失策が僅か9個で、土井正三(巨人)らを凌ぐセ・リーグ1位の守備率残す。ベストナイン高木守道中日)に譲ったが、江夏豊(阪神)を抑えて新人王を獲得。2年目の1968年には自己最多の136安打とリーグ最多の19犠打を記録し、同年から1971年まで4年連続でオールスターゲーム出場を果たす。アマチュア時代で大舞台慣れしていた度胸満点の闘志溢れるプレーで人気を博し、攻守ともに攻撃的な姿勢を見せる二塁手として弱小時代のアトムズ→スワローズを支えた。死球でも痛さを顔に出さず、長打を放った時は頭から滑り込むなど闘志を前面に出して存在感を示した。打者としてはチャンスに強く、小柄ながら「すりこぎバット(つちのこバット)」と呼ばれるヘッドとグリップが太く重いバットを使用して強撃する打法でパンチ力もあった。この「すりこぎバット」は若松勉が使用したほか、武上の中大の後輩である南海高畠導宏打撃コーチが譲り受けて藤原満に使わせ[3]、さらに藤原の近畿大学の先輩である阪急大熊忠義福本豊に使わせた[4]。若松・藤原・福本の三人がこのバットで好成績を収めたことにより、以後「すりこぎバット」は俊足のリードオフマン型の選手の間で広く使用されるようになった。守備では二遊間や一・二塁間の難ゴロをダイビングキャッチでさばく美技も見せた一方、正面のゴロをしばしばトンネルした。福富邦夫と1・2番コンビを組んで中軸につなぐ役割を期待されたが、1969年には自己最多の21本塁打を放ち、1970年から1972年まではチームの打線が安定しなかったため、主に中軸を任された。1970年に別所毅彦監督が解任される際、別所に「兼任監督をしてくれ」と要請されたが、当時29歳の武上はこれを固辞[5]。同年10月7日の中日戦(中日)で若生和也から初めて満塁本塁打を放った。1971年には自己最多の126試合出場で2年ぶりの2桁となる15本塁打をマークし、唯一の2桁となる14盗塁も記録して、打率.272でベストテンに滑り込んだ。5月13日広島戦(広島市民)で佐伯和司から、8月12日の巨人戦(後楽園)では堀内恒夫から2本の満塁本塁打を記録。3日後の同16日の阪神戦(甲子園)では0-2で迎えた4回表に上田二朗からソロ本塁打を放ち、チームは1点差に迫るが、6回裏に藤田平のソロ本塁打でまた差を広げられる。7回表に2死二塁から大矢明彦の適時二塁打で差を縮め、代打の内田順三が内野安打で一、三塁となったところで阪神は先発の上田から2番手の山本重政へスイッチ。ここでヤクルトは投手の外山義明を代打に起用し、期待に応えた外山の適時二塁打で逆転。先発の浅野啓司から藤原真安木祥二へのリレーで4-3と何とか逃げ切り、浅野は前年7月以来の勝ち星となった[1]。2日後の同18日の巨人戦(県営富山)で高橋一三から1試合2本塁打をマーク。1972年は本塁打が15本から5本と大きく減らすが、5本中4本は本拠地の神宮で、5本中3本は巨人戦から放っている。8月8日の広島戦(広島市民)で白石静生から初の代打本塁打を記録。1973年には故障もあって定位置を中村国昭に譲り、68試合出場と唯一の3桁を切る。本塁打も自己最低の2本に終わるが、その内の一本が6月14日の中日戦(中日)で三沢淳から放った満塁本塁打であった。全本塁打71本中7本は堀内から放ったものであり、8月1日の巨人戦(神宮)では先頭打者本塁打を放った。この試合では1回表に長嶋のタイムリー安打で1点を失ったその裏、武上が先頭打者本塁打であっさり同点とし、2回裏に2死二塁から浅野のタイムリー安打で勝ち越すとさらに2点を追加し優位に立った。3回表に高田繁の犠飛、6回表には王貞治のソロ本塁打で1点差に迫られたがその裏、巨人投手陣を攻め2点挙げた後、2死満塁で4番手の小川邦和から荒川堯が満塁本塁打を放ち、さらに若松にもソロ本塁打が飛び出し一挙7点を奪って試合を決定づけた。その後を先発の浅野から西井哲夫へのリレーで11-5と巨人に圧勝した[6]。チーム名が「ヤクルトスワローズ」となった1974年には復活して13年ぶりのAクラス入りに貢献し、同年は9月12日の大洋戦(神宮)で山下律夫から満塁本塁打を放った。1975年は7本中4本が神宮で放ったもので、5月28日の大洋戦では平松政次から代打本塁打を記録。9月5日の中日戦(中日)で稲葉光雄から最後の本塁打を放ち、同25日の阪神戦(甲子園)で最後の打点、2日後の同27日の広島戦(長岡悠久山)で最後の安打を記録。10月17日の大洋戦(神宮)に永尾泰憲の代打で起用をされたのを最後に現役を引退。

引退後

引退後はヤクルトで一軍打撃コーチ(1976年, 1979年)・一軍守備コーチ(1977年 - 1978年)を務め、1978年には球団史上初のリーグ優勝・日本一に貢献。1980年には39歳の若さで監督に就任。待望の「チーム生え抜き監督」が誕生し、NPBのドラフト会議で指名を受けてプロ入りした元選手では初めての監督就任となり、監督としての最初の仕事は選手の家族の誕生日調べであった。細やかな配慮や面倒見の良さもあって選手に慕われ、際どい判定や自軍選手が死球に遭った時は審判員や投手に大きなジェスチャーでつっかかり、選手を引っ張った。1年目の開幕カード・中日戦(ナゴヤ)では、4月5日の1戦目を先発の鈴木康二朗から井原慎一朗につなぐリレーで接戦をモノにすると、翌6日の2戦目では打たれてもいない先発の神部年男を短イニングで降板させて継投する奇抜な采配で派手な監督デビューを飾った。開幕から6試合で5勝1敗と上々の滑り出しを見せ、同26日の阪神戦(神宮)では角富士夫に劇的なサヨナラ2ラン本塁打が飛び出すと、同30日の大洋戦(神宮)では酒井圭一が4年目で初勝利を挙げるなど、4月末の時点で単独トップ。5月3日からの広島との首位攻防3連戦に2敗1分で2位に後退するも、直後に連勝して首位に返り咲くなど、リーグ連覇を狙う広島と激しい鍔競り合いを演じたが、同13日からの広島との3連戦はまたも2敗1分に終わり、首位の座から陥落。同28日梶間健一の完封で広島戦の連敗を7で止めると、翌29日の同カードでは22安打の猛攻で18-2と圧勝して溜飲を下げたが、ここで2.5ゲーム差まで迫ったのが精一杯であった。結局、シーズンを通じて広島に7勝15敗4分と大きく負け越したのが響き、最下位から一気のリーグ優勝はならず。それでも最後まで2位の座を死守し、球団史上5度目のAクラス入りを果たした。投手陣では梶間がいずれもチームトップの15勝・11完投をマークし、リーグ5位の防御率2.76と大車輪の活躍。前年は2桁勝利に届かなかった松岡弘も、7月10日の阪神戦(神宮)で通算150勝を達成するなど13勝と復活し、防御率2.35で球団3人目(5度目)の最優秀防御率に輝いた。また、鈴木は2年ぶりの2桁となる11勝を挙げ、3年目の尾花高夫も8勝と健闘。チーム防御率3.17は巨人に次いでリーグ2位であったが、それ以上に威力を発揮したのがともにリーグトップのチーム打率.270、537打点を誇った打線であった。若松は首位打者こそアキレス腱断裂から復活した谷沢健一(中日)に譲ったものの、打率.351で堂々のリーグ2位に入る。杉浦亨は2年連続の20本塁打と自身初の打率3割で初めてベストナインに選出され、打率.301・21本塁打と見事に甦った大杉勝男と共に強力クリーンアップを形成。1年目は広島と優勝争いを繰り広げての2位と健闘したが、1981年以降チームは低迷。1981年は1978年の初優勝・日本一に貢献したチャーリー・マニエルが3年ぶりに復帰。近鉄移籍後は2年連続でパ・リーグ本塁打王に輝き、チームをリーグ連覇に導いていた「優勝請負人」の古巣復帰は大きな話題となったが、期待された大砲のバットはなかなか火を噴かなかった。マニエルに待望のシーズン1号本塁打が飛び出したのは開幕から15試合目、実に57打席目のことであった。この時点ではチームはまだ6勝8敗で4位であったが、翌日から引き分けを挟んで7連敗を喫し、最下位に転落。さらに不動の三番・若松が4月22日の広島戦(神宮)で右肩のじん帯を損傷して戦列を離れると、5月26日の阪神戦(甲子園)ではトップバッターのジョン・スコットが左足関節挫傷で離脱。2人の主力打者を失いながらも5月はなんとか勝ち越し、マニエルが6月3日の大洋戦(神宮)から5試合連続本塁打を打てば、前年までさしたる実績のなかった青木実が新たなリードオフマンとして躍動するなど、6月も11勝8敗の成績で2位まで浮上した。しかし、前半戦を4位で折り返すと、広島・阪神と激しい争いを繰り広げていた8月初旬に、今度はマニエルが左脇腹を負傷。それでも8月18日からの6連勝で2位に返り咲き、一時は貯金を5まで増やしたが、これが精一杯であった。勝負どころの9月に大きく負け越し、最後は勝率5割にも届かずBクラスの4位に終わった。シーズン途中から正中堅手の座をつかんだ青木は、規定打席未満ながら34盗塁で球団史上4人目の盗塁王に輝く。大杉は自己ベストの打率.343でリーグ3位に食い込み、7月21日の中日戦(浜松)で通算2000安打を達成。自身13度目の20本塁打以上で、通算本塁打では長嶋茂雄を抜いて歴代5位(当時)となった。若松は負傷のために規定打席到達を逃したものの、日本記録に並ぶ(当時)3本のサヨナラ弾を放つなど勝負強さを発揮し、通算サヨナラ本塁打8本のリーグタイ記録を樹立。投手陣では松岡が12勝で3年ぶりの勝ち頭になったものの、鈴木、井原は共に2桁に届かなかった。前年15勝の梶間健一も6勝にダウンしたが、ルーキー立野政治は6勝と健闘し、38歳のベテラン神部年男が抑えに回ってリーグ4位の10セーブを挙げたのも光った。8月15日の巨人戦(神宮)では松本匡史が振り逃げで一塁セーフになると、自軍が4番手に送り出した大川章の投球を「今のはボールだ」と審判に抗議。自軍の投球がボールだという前代未聞の抗議をし、結局それが認められて打席に戻された松本は本塁打を打ってしまう[7]1982年1983年には2年連続の最下位と低迷。1982年は前年不振に終わったマニエル、スコットの両外国人を解雇し、俊足・巧打の触れ込みのラリー・ハーローと、ユマキャンプで入団テストを受けたデビッド・デントンを獲得。この2人がとんだ誤算であり、4月3日の巨人との開幕戦(後楽園)ではそのハーローが拙守を連発し、9回には松岡を投入しながらサヨナラ負けを喫す。翌4日の2戦目もルーキー宮本賢治の好投むなしく惜敗し、前途多難なスタートとなった。それでもこの年から人工芝に生まれ変わった神宮に戻ると、2日後の同6日の広島戦で岩下正明の代打サヨナラ満塁本塁打が飛び出すなど持ち直し、同18日には貯金を1とした。しかし同25日から5月4日まで8連敗し、4日後の同8日には最下位に転落。ハーローのバットは湿りっぱなしで、デントンも時折渡辺進に代わって二塁を守るぐらいであり、チームを浮上させるだけの力は無かった。5月に入って2度の5連敗を喫すると、内藤博文二軍監督をヘッドコーチとして一軍に昇格させるなどの打開策を講じたが、上位との差は広がる一方であった。結局、ハーローはオールスター前に解雇。代わりに獲得したダン・ブリッグス8月6日の広島戦(神宮)で一気に3本塁打を打って期待を抱かせたが、その後はわずか3本を加えたのみであった。チームは8月下旬から9月にかけてリーグ連覇を狙う巨人に2カード連続で勝ち越すなど意地を見せたが、最後まで最下位脱出はならなかった。打者では若松が打率.310でリーグ6位となったが、外国人が揃って期待を裏切り、20本塁打以上は皆無に終わった。大杉は5月11日の大洋戦(横浜)で史上5人目の通算450本塁打を達成したものの、シーズンでは17本にとどまった。杉浦は初の全試合出場を果たして22盗塁と足でもアピールしたが、2年ぶりの3割・20本塁打には届かなかった。投手陣では6年目の尾花がチーム唯一の2ケタ勝利を挙げ、リーグ6位の防御率2.60をマーク。松岡も時に抑え、時に先発と起用法が一貫しない中で9勝3セーブと健闘した。ルーキーの宮本も4勝したが、2年目の鈴木正幸6月9日の阪神戦(神宮)でプロ初勝利を1安打完封で飾るも、同18日の大洋戦(神宮)では再び1安打ピッチングを演じながらも0-1で敗れる不運もあり、2勝どまりであった。1983年は早実1年夏の準優勝を皮切りに5季連続で甲子園に出場した荒木大輔を、ドラフト1位で巨人と競合の末に獲得。「甲子園のアイドル」の入団は一大フィーバーを巻き起こした一方で、鈴木と西井らを放出し、ロッテから抑え投手の倉持明、近鉄からは2桁勝利3度の井本隆を獲得するなど出血を惜しまぬ思い切ったトレードを敢行。さらには元打点王のボビー・マルカーノに代打男として鳴らした萩原康弘を加え、投打ともに積極的な補強を施して開幕を迎えた。4月9日の阪神との開幕戦(甲子園)は、先発の尾花が阪神打線を1点に封じる快投を演じれば、打っては杉浦享に通算100号となるソロ本塁打、新加入のマルカーノには3ラン本塁打が飛び出して4対1で快勝。直後に神宮で巨人に3連敗を喫すも、そこから2分を挟んで連勝してすかさず勝率を5割に戻したが、その後に再び3連敗を喫して借金生活に終始。それでも8月半ば過ぎまでは3位争いを演じていたが、8月20日からの4連敗で5位まで後退すると、9月は6位がほぼ定位置となる。最後は5位の中日と0.5ゲーム差ながら、2年連続の最下位に終わった。注目の荒木は4月26日の広島戦(神宮)にリリーフで初登板した後も救援での出番が続いたが、5月19日の阪神戦(神宮)で待望の初先発登板。神宮に詰め掛けた4万7000人の大観衆の前で5回を無失点に抑えると、6回からは尾花がロングリリーフでリードを守り、嬉しいプロ初勝利を手にしたが、このシーズンで荒木が挙げた白星はこれだけであった。梶間が3年ぶりの2桁となる14勝、松岡と尾花も揃って11勝を挙げたものの、井本は6勝14敗と大きく負け越し、倉持に至っては0勝3敗0セーブと移籍組が誤算であった。打線では若松勉が終盤まで真弓明信(阪神)と首位打者を争うなどリーグ2位の打率.337、移籍のマルカーノはいずれもチームトップの25本塁打・78打点をマーク。八重樫幸雄は14年目にして自己最多の97試合に出場し、16本塁打・45打点と起用に応えた。大杉は6月3日に史上初めてセ・パ両リーグで1000安打を達成したものの、シーズン終了後に引退を発表し、19年間の現役生活に別れを告げた。1984年は球団の抽選で獲得したドラフト1位のルーキー高野光東海大)がいきなり開幕戦に先発。ルーキーの開幕投手はドラフト制施行後では初とあって、大きな話題を呼んだ。その開幕戦、高野は大洋を相手に4回3失点でマウンドを下りたものの、打線が試合をひっくり返して逆転勝利。翌日も梶間、尾花のリレーでモノにして開幕連勝を飾ったが、神宮に戻って広島に3連敗を喫すと、4月18日の巨人戦(平和台)からは8連敗で、あっという間に最下位に転落。開幕から絶不調であったこともあり、4月26日の中日戦(神宮)限りで辞任。後任には中西太一軍ヘッド兼打撃コーチ(監督代行)を経て、土橋正幸一軍投手コーチが就任。在任中は「三原監督と広岡監督をマッチした監督になりたい」と言っていたが、大杉勝男が自著『サムライたちのプロ野球』で、自身に対する仕打ちと「好き嫌いで選手を使っている」という批判しているような状況であった。監督辞任後の5月からはヤクルトの駐米スカウト兼任で、サンディエゴ・パドレス客員コーチに就任。言葉も通じず、プレッシャーから血尿血便が出るほどであったが[8]8月12日ブレーブス戦では両軍合わせて12人の退場者を出した乱闘に巻き込まれる[8]。武上はスタンドでパドレスの選手がブレーブスファンと揉み合っている所を目撃し、スタンドへ飛び込んでブレーブスファンの一人に挑みかかったが、ピストルの銃口を押し付けられて降参している[8]。パドレスでも球団史上初のリーグ優勝に貢献し、日本人として初めてワールドシリーズのベンチに入った。帰国後はフジテレビプロ野球ニュース」に出演し、ベンチから見た大リーグについて語った。1985年から1994年まではテレビ朝日解説者・サンケイスポーツ評論家を務め、サンスポではコラム「考Q筆打」を連載し、テレ朝では解説者の他に全英オープンゴルフのリポーターも務めたことがある。その一方で、1991年オフに日本ハムファイターズの監督候補に挙がったが、交渉が難航したために就任に至らなかった[9]1995年から1996年1998年から2000年まで巨人の一軍打撃コーチを務めた。その合間の1997年に1年間だけ、テレビ東京解説者・サンケイスポーツ評論家を務めた。1998年8月2日阪神戦(甲子園)で槙原寛己が投じた死球を巡って、阪神の大熊忠義外野守備・走塁コーチと共に退場処分を受けたことがある。バットを振りまくる熱血指導を長嶋茂雄監督に買われ[10]、試合後は室内練習場でのバットスイングを毎晩深夜まで行うなど打線強化に取り組む[10]。帰宅後も試合のビデオを見て分析するなど、ベッドに入るのが朝になるのも珍しくはなかった[10]1999年頃から食欲がなくなりやたら寒気がするなど体に変調が現れ、以前より悪かった腎臓が激務と心労で悪化[10]。透析治療が必要になることも予想されるほどであったが、2000年もコーチを続行[10]。シーズン中は腎臓のほか胃潰瘍肝臓癌も見つかり、名古屋遠征中に貧血で緊急入院するなど壮絶なものとなり、退院後も毎晩試合後の自宅に主治医が来て点滴治療をしていた[10]。オフに深刻な体調不良を理由に辞任し、2001年からは2002年までは、日本テレビ解説者・サンケイスポーツ評論家を務めた。

2002年8月23日肝不全のため、神宮球場にほど近い東京都新宿区慶應義塾大学病院で逝去。享年61歳。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1967 サンケイ
アトムズ
ヤクルト
107 431 405 45 121 12 6 3 154 27 5 11 5 1 16 0 4 41 7 .299 .332 .380 .712
1968 125 536 480 55 136 22 1 4 172 30 7 7 19 1 34 2 1 68 7 .283 .332 .358 .690
1969 114 495 432 58 108 15 1 21 188 53 2 7 12 2 44 0 5 49 10 .250 .326 .435 .762
1970 121 480 431 51 114 11 1 9 154 39 8 7 4 1 40 0 4 52 7 .265 .333 .357 .690
1971 126 521 478 64 130 19 1 15 196 51 14 8 9 3 27 0 4 36 12 .272 .316 .410 .726
1972 101 335 294 31 82 19 2 5 120 38 8 6 10 2 27 1 2 30 1 .279 .344 .408 .752
1973 68 167 147 11 31 6 1 2 45 12 1 2 7 0 12 0 1 17 3 .211 .275 .306 .581
1974 113 427 384 45 100 13 0 5 128 33 7 8 1 1 40 1 1 38 7 .260 .332 .333 .665
1975 102 345 301 36 69 8 1 7 100 18 5 3 5 1 32 1 6 28 6 .229 .316 .332 .648
通算:9年 977 3737 3352 396 891 125 14 71 1257 301 57 59 72 12 272 5 28 359 60 .266 .326 .375 .701
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • サンケイ(サンケイアトムズ)は、1969年にアトムズ、1970年にヤクルト(ヤクルトアトムズ)に球団名を変更

年度別監督成績

年度 チーム 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1980年 昭和55年 ヤクルト 2位 130 68 52 10 .567 6.5 132 .270 3.17 39歳
1981年 昭和56年 4位 130 56 58 16 .491 13.5 120 .255 4.30 40歳
1982年 昭和57年 6位 130 45 75 10 .375 23.5 95 .240 3.64 41歳
1983年 昭和58年 6位 130 53 69 8 .434 19 149 .266 4.52 42歳
1984年 昭和59年 5位 18 4 13 1 .235 25 101 .264 4.76 43歳
通算:5年 538 226 267 45 .458 Aクラス1回、Bクラス3回
※1980年から1996年までは130試合制
※1984年 開幕から4月26日まで

表彰

記録

初記録
その他の記録
  • プロ初本塁打がランニング本塁打:同上 ※2リーグ制以後初
  • 新人選手でシーズン3度の4安打 ※セ・リーグ史上初
  • オールスターゲーム出場:4回 (1968年 - 1971年)

背番号

  • 2 (1967年 - 1975年)
  • 70 (1976年 - 1984年)
  • 72 (1995年 - 1996年、1998年 - 2000年)

関連情報

出演

TV

CM

  • ヤクルトタフマン」(1981年 - 1983年。スワローズ監督としてビジター用[11]ユニフォーム姿で出演。1983年版ではヘッド兼打撃コーチの中西太と共演)

脚注

  1. ^ a b クラシックSTATS鑑賞 武上四郎、全本塁打一覧|本塁打大全
  2. ^ 【阪神】高山、早くも新人セ・タイ記録…シーズン3度目の4安打 2016年4月23日閲覧[リンク切れ]
  3. ^ 門田隆将『甲子園への遺言』196-197頁
  4. ^ 福本豊『走らんかい!』158頁
  5. ^ サンケイスポーツ 1970年8月20日 2面
  6. ^ クラシックSTATS鑑賞 武上四郎、チーム別&投手別&球場別本塁打数|本塁打大全
  7. ^ サンケイスポーツ 1981年8月16日 3面
  8. ^ a b c 織田淳太郎「ニッポン野球珍事件珍記録大全」東京書籍2003年
  9. ^ “【復刻】日本ハム次期監督、土橋正幸氏”. nikkansports.com (日刊スポーツ新聞社). (2013年8月26日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20130826-1179162.html 2017年8月11日閲覧。 
  10. ^ a b c d e f あぁ!武さん...|柏 英樹のハーフタイム
  11. ^ 「野菜ジュース」の若松勉、「ジョア」の荒木大輔などはホーム用ユニフォームを着用しており、「タフマン」だけビジター用となった理由は不明。

参考文献

関連項目

外部リンク