「ドナルド・キーン」の版間の差分
編集の要約なし |
4th protocol (会話 | 投稿記録) m →日本国外: 内部リンク |
||
(4人の利用者による、間の23版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{出典の明記|date=2016年2月}} |
|||
{{Infobox 作家 |
{{Infobox 作家 |
||
| name = ドナルド・キーン<br />(Donald Keene) |
| name = ドナルド・キーン<br />(Donald Keene) |
||
33行目: | 32行目: | ||
<!--| footnotes = --> |
<!--| footnotes = --> |
||
}} |
}} |
||
'''ドナルド・キーン'''({{Lang-en|Donald Keene}}、[[1922年]][[6月18日]] - [[2019年]][[2月24日]]<ref>{{cite news|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190224/k10011826221000.html|title=ドナルド・キーンさん死去 96歳|newspaper=NHKニュース|date=2019-02-24|access-date=2019-02-24}}</ref>)は、[[アメリカ合衆国]]出身の[[日本文学者]]・[[日本学]]者。[[コロンビア大学]][[名誉教授]]。 |
|||
'''ドナルド・キーン'''([[1922年]][[6月18日]] - [[2019年]][[2月24日]] |
|||
<ref>{{cite news|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190224/k10011826221000.html|title=ドナルド・キーンさん死去 96歳|newspaper=NHKニュース|date=2019-02-24|access-date=2019-02-24}}</ref>) |
|||
は、[[アメリカ合衆国]]出身の[[日本文学者]]・[[日本学]]者。[[コロンビア大学]][[名誉教授]]。 |
|||
[[日本文学]]と[[日本文化]]研究の第一人者であり、[[文芸評論家]]としても多くの著作がある。[[日本の文化|日本文化]]の[[欧米]]への紹介でも数多くの業績がある。[[ケンブリッジ大学]]、[[東北大学]]、[[杏林大学]]ほかから[[名誉博士]]。[[賞|受賞歴]]は全米文芸評論家賞受賞ほか多数。2002年[[文化功労者]]。2008年[[文化勲章]]。また、[[日本ペンクラブ]]の名誉会員であり、2012年11月26日の日本ペンクラブ創立記念懇談会では演説を行った<ref>{{Cite web |url=http://www.japanpen.or.jp/news/event-report/post_396.html |title=ドナルド・キーン名誉会員のスピーチ |publisher=日本ペンクラブ |accessdate=2013-09-10}}</ref>。 |
|||
[[日本文学]]と[[日本文化]]研究の第一人者であり、[[文芸評論家]]としても多くの著作がある。 |
|||
[[日本の文化|日本文化]]の[[欧米]]への紹介でも数多くの業績がある。[[ケンブリッジ大学]]、[[東北大学]]、[[杏林大学]]ほかから[[名誉博士]]。[[賞|受賞歴]]は全米文芸評論家賞受賞ほか多数。2002年[[文化功労者]]。2008年[[文化勲章]]。また、[[日本ペンクラブ]]の名誉会員であり、2012年11月26日の日本ペンクラブ創立記念懇談会では演説を行った<ref>{{Cite web |url=http://www.japanpen.or.jp/news/event-report/post_396.html |title=ドナルド・キーン名誉会員のスピーチ |publisher=日本ペンクラブ |accessdate=2013-09-10}}</ref>。 |
|||
日本国籍取得後、本名を出生名の「Donald Lawrence Keene」から、カタカナ表記の「'''キーン ドナルド'''」へと改めた。通称([[雅号]])として漢字で'''鬼怒鳴門'''(きーん どなるど)を使う<ref name="20120308-OYT1T01125">{{Cite news |url=http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20120308-OYT1T01125.htm |title=「鬼怒鳴門」と申します、よろしくお願いします |newspaper=YOMIURI ONLINE |publisher=読売新聞社 |date=2012-03-08 |accessdate=2012-03-08 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120311034320/http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20120308-OYT1T01125.htm |archivedate=2012年3月11日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。 |
[[日本国籍]]取得後、本名を出生名の「Donald Lawrence Keene」から、カタカナ表記の「'''キーン ドナルド'''」へと改めた。通称([[雅号]])として漢字で'''鬼怒鳴門'''(きーん どなるど){{efn|[[鬼怒川|'''鬼怒'''川]]と'''[[鳴門]]'''を組み合わせて作った当て字である<ref name="20120308-OYT1T01125" />。}}を使う<ref name="20120308-OYT1T01125">{{Cite news |url=http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20120308-OYT1T01125.htm |title=「鬼怒鳴門」と申します、よろしくお願いします |newspaper=YOMIURI ONLINE |publisher=読売新聞社 |date=2012-03-08 |accessdate=2012-03-08 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120311034320/http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20120308-OYT1T01125.htm |archivedate=2012年3月11日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。 |
||
== 来歴 == |
== 来歴 == |
||
=== 生い立ち === |
=== 生い立ち === |
||
[[ニューヨーク市]][[ブルックリン区]]に生まれる<ref name=":0">{{Cite journal|author=北嶋藤郷|title=日本におけるドナルド・キーン略年譜1922-1977|url=http://id.nii.ac.jp/1697/00000766/|journal=敬和学園大学研究紀要|volume=23|pages=173-193|publisher=敬和学園大学人文学部}}</ref>。9歳のとき父と共に[[ヨーロッパ]]を旅行し、このことがきっかけで[[フランス語]]など外国語の習得に強い興味を抱くようになる。両親 |
[[ニューヨーク市]][[ブルックリン区]]で貿易商の家庭に生まれる<ref name=":9">{{Cite web|title=年譜|url=https://www.donaldkeenecenter.jp/profile01.html|website=www.donaldkeenecenter.jp|accessdate=2021-07-23|publisher=ドナルド・キーン・センター柏崎}}</ref><ref name=":0">{{Cite journal|author=北嶋藤郷|title=日本におけるドナルド・キーン略年譜1922-1977|url=http://id.nii.ac.jp/1697/00000766/|journal=敬和学園大学研究紀要|volume=23|pages=173-193|publisher=敬和学園大学人文学部}}</ref>。9歳のとき父と共に[[ヨーロッパ]]を旅行し、このことがきっかけで[[フランス語]]など外国語の習得に強い興味を抱くようになる<ref name=":9" />{{sfn|キーン|2019|pp=29-36}}。しかし、[[世界恐慌]]の最中に妹が死亡し、15歳のときに両親が離婚{{sfn|キーン|2019|pp=17-18}}。以後母とともに生活を営むこととなり経済的困難に遭遇したが、[[飛び級]]を繰り返していたキーンは[[ニューヨーク州]]最優秀生徒として、[[コロンビア大学]]のピュリッツァー奨学金をもらうことができ、[[1938年]](昭和13年)に16歳で同大学[[文学部]]に入学した<ref name=":9" />{{sfn|キーン|2019|pp=37-39}}{{sfn|キーン|河路|2014|pp=18-28}}。 |
||
同校で[[マーク・ヴァン・ドーレン]]や[[ライオネル・トリリング]]の薫陶を受け |
同校で[[マーク・ヴァン・ドーレン]]や[[ライオネル・トリリング]]の薫陶を受け、フランス語や[[古代ギリシア語]]を習得<ref name=":9" /><ref name=":0" />{{sfn|キーン|河路|2014|pp=18-28}}{{sfn|キーン|2019|pp=40-42}}。同じ頃、ヴァン・ドーレンの講義で中国人学生李と親しくなり、そのことがきっかけで[[中国語]]、特に[[漢字]]の学習に惹かれるに至る<ref name=":0" />{{sfn|キーン|河路|2014|pp=18-28}}{{sfn|キーン|2019|pp=45-47}}。 |
||
=== 第二次世界大戦 === |
=== 第二次世界大戦 === |
||
[[1940年]](昭和15年)のある日、[[ナチス・ドイツのフランス侵攻]]など、欧州情勢に鬱屈とした日々を過ごしていたキーンは、[[タイムズスクエア]]で[[ゾッキ本]]として売られていた[[アーサー・ウェイリー]]訳『[[源氏物語]]』を手にとった。厚さに比して安価だったというだけの理由で49セントで購入したキーンは、やがてその世界に魅せられるようになる<ref name=":9" /><ref name=":0" />{{sfn|キーン|河路|2014|pp=18-28}}{{sfn|キーン|2019|pp=45-47}}<ref name=":7" />。 |
|||
[[1940年]](昭和15年)、厚さに比して安価だったというだけの理由で[[タイムズスクエア]]で49セントで購入した[[アーサー・ウェイリー]]訳『[[源氏物語]]』に感動<ref name=":0" />。漢字への興味の延長線上で[[日本語]]を学び始めると共に、[[角田柳作]]のもとで[[日本思想史]]を学び、[[日本研究]]の道に入る。[[1942年]](昭和17年)、[[コロンビア大学]]にて学士号を取得。コロンビア大学当時はフランス文学も研究していたが、ともに日本語を学習した[[ポール・ブルーム]]から、「フランスに比べて日本は研究者が少ない」という理由で日本を研究することを薦められたという<ref>[[春名幹男]]『秘密のファイル CIAの対日工作(上)』[[新潮社]]<[[新潮文庫]]>2003年、p.224</ref><ref>[http://echigo-kakutayu.blog.so-net.ne.jp/2014-03-04-2 ブルームさんに関する書籍 ドナルド・キーン先生]</ref>。 |
|||
その後も反日感情を持つ李への遠慮から[[日本語]]は学ばなかったが、[[ジョージ・H・カー]]{{efn|自伝では"ジャック・ケーア"と表記{{sfn|キーン|2019|pp=53-67}}。}}の誘いを受けて、[[ポール・ブルーム]](後:[[中央情報局|CIA]]初代東京支局長)とともに有志による日本語勉強合宿に参加。[[サクラ読本]]を教材にして[[日系アメリカ人]]の猪俣{{efn|その後猪俣はコロラド大学海軍日本語学校に教員として勤務した<ref name=":4" />。}}からレクチャーを受けた{{sfn|キーン|河路|2014|pp=18-28}}<ref name=":4">{{Cite web|title=1930 年代〜50 年代のジョージ・H・カーと 環太平洋文化交渉の地政学|url=https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/records/39453|website=つくばリポジトリ|accessdate=2021-07-17|publisher=筑波大学附属図書館|date=2016-10-17|author=吉原ゆかり}}</ref>。合宿を終えたあとも、最初に愛着を覚えたフランス文学にうちこむか中国語と日本語の研究を続けるかキーンには迷いがあったが、フランス出身のブルームから「フランスで育って完璧なフランス語を話すアメリカ人は山ほどいる、しかし日本語がわかるアメリカ人は皆無に近い」と説得された。大学では、カーの勧めにより[[角田柳作]]の[[日本思想史]]を受講し、[[日本研究]]の道に入る{{sfn|キーン|2019|pp=53-67}}<ref>[[春名幹男]]『秘密のファイル CIAの対日工作(上)』[[新潮社]]<[[新潮文庫]]>2003年、p.224</ref>。 |
|||
1941年12月の日米間の開戦に伴って[[アメリカ海軍]]の日本語学校に入学し<ref name=":0" />、[[長沼直兄]]の『標準日本語讀本』などで[[日本語教育]]の訓練を積んだのち[[士官|情報士官]]として海軍に勤務し、太平洋戦線で[[日本語]]の通訳官を務めた。 |
|||
[[真珠湾攻撃]]から間もない1942年はじめ、[[カリフォルニア大学バークレー校]]に設けられた海軍語学校{{efn|[[アメリカ陸軍]]では[[アメリカ陸軍情報部|情報部]]<ref>{{Cite web|title=あの戦争でアメリカを勝たせたのは、日系人陸軍情報部員たちだった|url=https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57022|website=現代ビジネス|accessdate=2021-07-17|author=すずきじゅんいち|authorlink=すずきじゅんいち|date=2018-08-15}}</ref>や[[第442連隊戦闘団]]などで日系二世に活躍の機会が与えられたが、[[アメリカ海軍]]は日系人の入隊を認めていなかったため、日系人以外の通訳を必要としていた{{sfn|キーン|2019|p=74}}。}}{{efn|戦時法規により講師を務める日系人が西海岸での滞在が許されなくなったため、途中で内陸にあるコロラド大学に移転している{{sfn|キーン|河路|2014|pp=34-45}}。}}に志願し、[[アメリカ合衆国西海岸|西海岸]]に渡る<ref name=":9" /><ref name=":0" />{{sfn|キーン|河路|2014|pp=34-45}}{{sfn|キーン|2019|pp=61-64}}。語学校には、語学に長けた一流大学の学生や日本または中国に駐在していた宣教師や実業家の子弟らが集められ、[[日本語教育]]のカリキュラムでは[[長沼直兄]]の『標準日本語讀本』{{efn|駐日米国海軍士官向けに長沼が作成した教科書{{sfn|キーン|2019|pp=64-67}}<ref>{{Cite web|title=標準日本語讀本|url=https://www.naganuma-school.ac.jp/jp/japanese_teachers/reader.html|website=東京日本語学校(長沼スクール)|accessdate=2021-07-17}}</ref>。}}が用いられ言語の習得のみに専念できる環境が整えられており、日本で教育を受けて帰米した日系アメリカ人らが教師を務めた{{sfn|キーン|2019|pp=64-67}}。同年6月、[[虫垂炎]]を患い、海軍病院に入院中に[[火野葦平]]の『[[土と兵隊]]』を読む。これが初めてキーンが読んだ日本文学作品となった<ref name=":0" />{{sfn|キーン|河路|2014|p=119}}。同年、[[コロンビア大学]]にて学士号を取得し卒業<ref name=":0" /><ref>{{Cite web|title=杏林大学:【お知らせ】 ドナルド・キーン氏に本学名誉博士号授与へ|url=https://www.kyorin-u.ac.jp/cn/html/kyorin/00003/200711081/index.html|website=杏林大学|accessdate=2021-07-17}}</ref>。 |
|||
[[1943年]](昭和18年)4月、通訳官として訊問した最初の捕虜が、のちに作家となった[[豊田穣]]である<ref>初めて訊問した捕虜が作家の[[豊田穣]]で、ケーリの後ろに隠れて、顔を見せるのも恥ずかしい様子だったという(『わたしの日本語修行)。</ref>。豊田は海軍のパイロットとして[[い号作戦]]に参加し[[ラバウル]]に移動、4月7日、[[ブイン]]基地から[[九九式艦上爆撃機|九九艦爆]]を操縦し[[ガダルカナル島]]飛行場攻撃を行った際、[[ソロモン諸島|ソロモン]]方面で撃墜され、[[アメリカ軍]]の[[捕虜]]になった<ref>ドナルド・キーン「わたしの日本語修行」([[白水社]] [[2014年]])</ref>。 |
|||
翌年[[1943年]](昭和18年)2月にキーンらのグループは軍務に急を要するとして語学校を繰り上げ卒業となり、キーンは卒業生総代として在学中にマスターした日本語で「告別の辞」を述べた{{sfn|キーン|2019|pp=64-67}}{{sfn|キーン|河路|2014|pp=34-45}}。 |
|||
その後[[コテージ作戦]]に同行し、[[キスカ島撤退作戦]]の際に日本軍の軍医がいたずらで残した『[[ペスト]]患者収容所』と書かれた立て看板を命令に応じて素直に翻訳したため、アメリカ軍は緊急に本国へ大量のペスト用ワクチンを発注するなど大混乱に陥った<ref>{{Cite journal|和書|date=2000-08 |title=敗戦への序章|journal=朝日クロニクル週刊20世紀 日本人の100年|issue=78(1943)|page=7|publisher=[[朝日新聞社]]|accessdate=2021-04-06}}</ref>。また、これが元でキーン自身もペスト感染を疑われ、戦線後方に送られた。キーンがこれがいたずらだったと知ったのはそれからかなり時間が経ってからのことであった。 |
|||
その後キーンは海軍情報士官としてハワイの翻訳局に赴任し、日課の報告書や物資の明細書などの[[ガダルカナル島の戦い]]で得られた[[日本軍]]の文書を英語に訳す任務を負った。中には死亡した兵士から押収された[[日記]]もあり、[[草書体|くずし字]]を習得したキーンは好んで翻訳した。最期の思いが赤裸々に綴られた手書きの文書を通じてキーンは日本人の心に接した{{efn|中には日記を発見するであろうアメリカ人に宛てて、戦後家族に届けてほしい旨の英文が住所とともに書かれていたものもあり、解読を通して兵士らに同情したキーンはこれを密かに保管していたが、後で没収されてしまった{{sfn|キーン|河路|2014|pp=140-141}}{{sfn|キーン|2019|pp=70-71}}<ref name=":5" />。}}<ref name=":7" />{{sfn|キーン|河路|2014|pp=140-141}}{{sfn|キーン|河路|2014|pp=46-47}}{{sfn|キーン|2019|pp=70-71}}<ref name=":5">{{Cite web|title=ドナルド・キーン 私が日本人になった理由|url=https://shuchi.php.co.jp/article/1408|website=PHPオンライン衆知|accessdate=2021-07-17|publisher=PHP研究所|date=2013-04-15}}</ref>。通訳官として尋問{{efn|このときの尋問は同僚であった[[オーテス・ケーリ]]が主に行った{{sfn|キーン|河路|2014|p=143}}。}}した最初の捕虜は、のちに作家となった[[豊田穣]]{{sfn|キーン|河路|2014|p=143}}。 |
|||
[[1945年]]5月には、[[沖縄戦|沖縄攻略作戦]]に従軍。なお、アメリカ軍の通訳時代からの友人に[[オーテス・ケーリ|オーティス・ケーリ]](後:[[同志社大学]][[名誉教授]])や[[アイヴァン・モリス]]がいる。 |
|||
その後[[オーテス・ケーリ]](後:[[同志社大学]][[名誉教授]])とともに[[アッツ島の戦い]]に参加する部隊に同行。初めての実戦経験となる。[[アッツ島]]では激しい抵抗を見せながらも最後には集団自決で果ててしまう日本兵たちに、キーンは困惑する<ref name=":7" />{{sfn|キーン|2019|pp=71-79}}{{sfn|キーン|河路|2014|p=142}}。続いて[[コテージ作戦]]にも参加し、[[キスカ島]]上陸部隊の一員に加えられる。実際には[[キスカ島撤退作戦]]により日本軍はすでに島を去っていたが、キーンのもとに持ち込まれた"標識"は大騒動をもたらし、大量の[[血清]]を求める緊急電が本国に向けて打たれた。その看板には『[[ペスト]]患者収容所』と日本語で書かれていたのである{{sfn|キーン|2019|pp=71-79}}<ref>{{Cite journal|和書|date=2000-08 |title=敗戦への序章|journal=朝日クロニクル週刊20世紀 日本人の100年|issue=78(1943)|page=7|publisher=[[朝日新聞社]]|accessdate=2021-04-06}}</ref>。キーンがこれが日本軍の軍医によるいたずらだったと知ったのはそれからかなり時間が経ってからのことであった{{sfn|キーン|2019|pp=71-79}}。 |
|||
[[1945年]](昭和20年)には、[[沖縄戦|沖縄攻略作戦]]に従軍。[[沖縄本島]]へ向かう途上、乗艦していた輸送船が[[神風特別攻撃隊]]の標的となるが、特攻機は突入直前に別の船のマストに接触して水中に墜落し、命拾いした。上陸初日に接触した現地住民とは意思疎通ができず、沖縄にいるうちの多くが日本語話者でないことを知った。その日の遅く、日本語を上手に話す少年が見つかり、彼を通訳にして[[ガマ (洞窟)|ガマ]]に潜む住民に投降を呼び掛けた{{sfn|キーン|2019|pp=92-97}}。陸軍の[[第92歩兵師団 (アメリカ軍)|第96歩兵師団]]が語学将校を求めていることを知るとこれに志願{{sfn|キーン|2019|pp=92-97}}。主に[[普天間]]に駐留して捕虜の尋問を担当し、前線ではスピーカーで投降を呼びかけたが、勝ち目がない中で日本兵や民間防衛隊が自爆攻撃を行い、女性や子どもが自殺する姿を目の当たりにした{{efn|「捕虜になると女性は強姦され、子どもは殺される」と書かれた日本軍の文書を沖縄で見たキーンは、これがその一因であったと考え、「だから、死ななくていい人たちが命を絶った。日本軍がしたことは許せない」と語っている<ref name=":6" />。}}<ref name=":6">{{Cite web|title=【2012年6月20日朝刊社会面】67年前、私は沖縄の戦場にいた 日本国籍取得のドナルド・キーンさん|url=https://www.asahi.com/articles/ASLBT7683LBTUEHF00X.html|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2021-07-17|date=2018-10-25}}</ref>。終戦の[[玉音放送]]を[[グアム]]の収容所で日本人捕虜とともに聞いた{{sfn|キーン|2019|pp=91-97}}。 |
|||
日本のポツダム宣言受諾後、キーンは日本に赴任することを望んだが、折り合いが悪い上官によってこの願いは聞き届けられず、[[第6海兵師団 (アメリカ軍)|第6海兵師団]]として中国に派遣されることとなった。赴任先の[[青島市|青島]]では当初現地の日本軍人と良好な関係を築いたが、まもなく混乱に乗じた腐敗や密告が入り乱れるようになり、[[戦争犯罪]]の取り調べなどに嫌気が差したキーンは帰国願いを出し、原隊復帰の命令書を得てこの地を後にした<ref name=":9" />{{sfn|キーン|2019|pp=91-97}}。 |
|||
帰路、[[厚木海軍飛行場|厚木飛行場]]を経由したキーンは、初めて訪れた日本を見て回りたい衝動を抑えられず、原隊の現在地を[[横須賀市|横須賀]]と「誤って」報告。横須賀の司令部に出頭し、自分が「誤解」していたと申告するまで、1週間にわたり滞在し戦後間もない日本を堪能した{{efn|軍隊での勤務を通してこれまでに知り合った捕虜などの日本人が無事生きていることを知らせるため、その家族に会うことを試みた後、翻訳局での仲間であった日系二世らとともに[[日光東照宮]]などを訪問した{{sfn|キーン|2019|pp=98-105}}。}}<ref name=":9" />{{sfn|キーン|2019|pp=98-105}}。 |
|||
=== 研究者として === |
=== 研究者として === |
||
戦争が終わると、遠い未来まで日本が強国の地位を取り戻すことはないという考え方が一般的であり、語学将校だった者の多くは日本語に対する興味をなくしてしまった。一方、前職を持たないキーンは、将来のあてがあるわけではなかったが、気質的にあっていると感じた日本研究を続けることを決め、{{仮リンク|復員兵援護法|en|G.I. Bill}}の制度を利用してコロンビア大学に戻り、大学院で再び角田に学ぶ<ref name=":9" />{{sfn|キーン|2019|pp=111-114}}。キーンの願望は日本へ再び渡航することであったが[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]による制約などにより叶わず、代わりに中国へ行くことを考えて中国語会話の授業を受けたが、クラスメートから中国の不穏な情勢を伝えられて断念した{{sfn|キーン|2019|pp=111-114}}。[[1947年]](昭和22年)に修士号を角田のもとで取得<ref name=":9" /><ref name=":0" />。 |
|||
復員後コロンビア大学に戻り、[[角田柳作]]のもとで[[1947年]](昭和22年)に修士号を取得<ref name=":0" />。同年、[[ハーヴァード大学]]に転じ、[[セルゲイ・エリセーエフ]]の講義を受ける。[[1948年]](昭和23年)から5年間[[ケンブリッジ大学]]に学び、同時に[[講師 (教育)|講師]]を務める<ref name=":0" />。同校では[[バートランド・ラッセル]]に気に入られ、飲み友達として交際した。このころ、[[E・M・フォースター]]や[[アーサー・ウェイリー]]とも交際。この間、[[1949年]]にコロンビア大学大学院東洋研究科博士課程を修了。 |
|||
同年秋、[[ハーヴァード大学]]に転じ、海軍語学校時代の友人であった{{仮リンク|ジョゼフ・レヴェンソン|en|Joseph R. Levenson|label=}}とともに学び、[[エドウィン・O・ライシャワー]]や{{仮リンク|ウィリアム・フン|en|William Hung (sinologist)}}の薫陶を受ける{{efn|当時アメリカで最も著名な日本学者であった[[セルゲイ・エリセーエフ]]の講義も受けたが、その内容も彼の姿勢もキーンを失望させるものであり、後年自分が教鞭を執ったときの反面教師としている{{sfn|キーン|2019|pp=115-121}}。}}<ref name=":9" />{{sfn|キーン|2019|pp=115-121}}。 |
|||
[[1948年]](昭和23年)から5年間[[ケンブリッジ大学]]に学び、同時に[[講師 (教育)|講師]]を務める{{Efn|1952年には、「日本の文学」についての5回連続の講義を開くが、250人入る大教室に僅か10人しか集まらず挫折を覚えたキーンは日本文学研究を棄ててロシア語を学ぼうとするも習得できず、日本語が一番合っていることを再確認して日本文学研究を続行した<ref name=":9" /><ref name=":0" />。}}{{efn|朝鮮人捕虜から習った経験を生かして朝鮮語の講師も務め、受講者には後にロンドン大学で朝鮮語の権威となる{{仮リンク|ウィリアム・スキレンド|en|William E. Skillend}}がいた{{sfn|キーン|河路|2014|p=21}}。}}<ref name=":9" /><ref name=":0" />。同校では[[バートランド・ラッセル]]に気に入られ、飲み友達として交際した。このころ、[[E・M・フォースター]]や自らが日本語との関わりを持つきっかけとなった源氏物語を英訳したウェイリーとも交際した<ref name=":9" />{{sfn|キーン|2019|pp=124-140}}。この間、[[1949年]]にコロンビア大学大学院東洋研究科博士課程を修了<ref>{{Cite web|title=日本文学研究者ドナルド・キーンさんが死去 96歳|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO41685710U9A220C1000000/|website=日本経済新聞|date=2019-02-24|accessdate=2021-07-23}}</ref>。 |
|||
[[1953年]](昭和28年)、[[エリザベス2世]]の戴冠式出席のための来英に際しケンブリッジを訪問した[[明仁]][[皇太子]]の案内役を務める<ref>{{Cite web|title=(2ページ目)ドナルド・キーンが知る「上皇上皇后両陛下の素顔」|url=https://fujinkoron.jp/articles/-/202?page=2|website=婦人公論.jp|accessdate=2021-07-22|date=2019-04-23}}</ref>。同年、[[フォード財団]]の研究奨学金を得て[[京都大学]][[大学院]]に留学<ref name=":0" />{{sfn|キーン|2019|pp=141-165}}。[[京都市]][[東山区]]今熊野の下宿「無賓主庵」{{efn|この下宿はオーテス・ケーリがキーンに紹介した。現在は[[同志社大学今出川キャンパス]]に移築されている{{sfn|キーン|2019|p=368}}<ref name=":11" />。}}にて知り合った[[永井道雄]]と生涯の友となり、永井の紹介で[[嶋中鵬二]]とも親友となった<ref name=":11">{{Cite web|title=キーンさん愛した「世界一の家」 下宿中に運命の出会い|url=https://www.asahi.com/articles/ASM2V3JHTM2VPLZB004.html|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2021-07-23|date=2019-02-27|author=大村治郎}}</ref>{{sfn|キーン|2019|pp=175-183}}。 |
|||
[[ |
[[1955年]](昭和30年)、留学を終えて帰国しコロンビア大学[[准教授|助教授]]{{efn|ケンブリッジ大学が留学の延長を認めなかったことから、コロンビア大学に再移籍している{{sfn|キーン|2019|p=184}}。}}。のち同[[教授]]を経て、[[1978年]](昭和53年)ケンブリッジ大学文学博士号<ref name=":1">{{Cite journal|author=北嶋藤郷|title=日本におけるドナルド・キーン略年譜 1978-2014〈2〉|url=http://id.nii.ac.jp/1697/00000777/|journal=敬和学園大学研究紀要|volume=24|pages=163-190|publisher=敬和学園大学人文学部}}</ref>、[[1992年]](平成4年)に同大学[[名誉教授]]となった([[1987年]](昭和62年)から[[1989年]](平成元年)の2年間は[[国際日本文化研究センター]]教授も併任)<ref name=":1" />。 |
||
[[1982年]](昭和57年)から[[1992年]](平成4年)まで[[朝日新聞]]社客員編集委員<ref name=":1" />。[[1986年]](昭和61年)にはコロンビア大学に自らの名を冠した「ドナルド・キーン日本文化センター」が設立された<ref name=":1" />。1998年(平成10年)、早稲田大学より名誉文学博士号を授与される<ref name=":1" />。[[1999年]](平成11年)から「ドナルド・キーン財団」理事長<ref name=":1" />。[[2006年]](平成18年)[[11月1日]]、[[源氏物語千年紀]]の呼びかけ人となる<ref name=":1" />。 |
[[1982年]](昭和57年)から[[1992年]](平成4年)まで[[朝日新聞]]社客員編集委員<ref name=":1" />。[[1986年]](昭和61年)にはコロンビア大学に自らの名を冠した「ドナルド・キーン日本文化センター」が設立された<ref name=":1" />。1998年(平成10年)、早稲田大学より名誉文学博士号を授与される<ref name=":1" />。[[1999年]](平成11年)から「ドナルド・キーン財団」理事長<ref name=":1" />。[[2006年]](平成18年)[[11月1日]]、[[源氏物語千年紀]]の呼びかけ人となる<ref name=":1" />。 |
||
69行目: | 79行目: | ||
=== 東日本大震災と日本国籍取得 === |
=== 東日本大震災と日本国籍取得 === |
||
[[2011年]](平成23年)[[3月11日]]の[[東日本大震災]]を契機に |
キーンは、ニューヨークと東京に半年ずつ交互に棲む生活を約35年間続けていたが、[[2011年]](平成23年)[[3月11日]]の[[東日本大震災]]を契機に[[日本国籍]]を取得し[[日本]]に[[永住]]する意思を表明<ref>{{Cite news |url=http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20110416-OYT1T00058.htm |title=ドナルド・キーン氏が日本国籍取得、永住へ |newspaper=YOMIURI ONLINE |publisher=読売新聞社 |date=2011-04-16 |accessdate=2013-09-10}}</ref>。同年[[9月1日]]に永住のため来日したキーンは、「家具などを全部処分して、やっと日本に来ることができて嬉しい。今日は曇っているが、雲の合間に日本の畑が見えて美しいと思った」と日本語で感慨を語り、[[仙台市]]の講演など被災地を訪問して被災者を激励したいとも話している{{efn|キーンは、国籍取得を決意した当時の心境を「私の思いは、今まで受けてきた親切に応える謝意から生じたもので、生涯の最後を自分に最も愛着の深い人々と共に過ごしたいという望みなのである」「外国人が日本から逃げていくニュースにも落胆していた私は、今こそ、最も率直なかたちで日本のみなさんと一緒になる、その思いを表明しなければと思ったのである」と綴っている{{sfn|キーン|2019|pp=361-366}}。一方、キーンと交流があった[[タフツ大学]]のチャールズ・イノウエは「キーンさんはずっと日本のよいところを語ってきたわけなんですけれども、いまになって、もう少し、悪いところも言わなければならないけれど、アメリカ人として言うのはつらくて、できないと。愛する日本を外国人として批判するのではなく、日本人として苦言を呈したかったんです」としているが、国籍取得後の2014年にイノウエに宛てたメールでキーンは「私が懸念しているのは、日本人は私がいかに日本を愛しているかを語ったときしか、耳を傾けてくれないことだ」と述べている<ref name=":8"/>。}}<ref>『読売新聞』2011年9月3日13版37面</ref><ref>{{Cite news |url=http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20110901-OYT1T00950.htm |title=永住決めたキーンさんが日本到着「希望持とう」 |newspaper=YOMIURI ONLINE |publisher=読売新聞社 |date=2011-09-01}}{{リンク切れ|date=2013年9月}}</ref>。[[2012年]](平成24年)[[3月8日]]に国籍取得が認められ、正式に日本人となった<ref>{{Cite web|title=ドナルド・キーン氏が日本国籍取得|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0801M_Y2A300C1CR0000/|website=日本経済新聞|date=2012-03-08|accessdate=2021-07-18}}</ref><ref>「告示」『[[官報]]』5755号、[[国立印刷局]]、2012年3月8日、2面。</ref>。 |
||
[[2012年]](平成24年)[[11月17日]]、[[トーストマスターズ|トーストマスターズ・インターナショナル]]日本支部(District76)は、「このキーンさんの行動に対して、「日本国籍を取り余生を日本で過ごす」という『言葉』(コミュニケーション)と、日本に移住した『行動』(リーダーシップ)により、希望を失っていた日本人に深い感銘と勇気を与えた」という理由で、第一回コミュニケーション・リーダーシップ賞を贈った<ref>{{Cite web|title=第1回 コミュニケーション・リーダーシップ賞|url=https://district76.org/ja/pressrelease/cl1/|website=district76.org|date=2017-11-18|accessdate=2021-07-18|publisher=トーストマスターズ日本}}</ref>。 |
|||
ドナルド・キーンは[[東京外国語大学]]の[[名誉教授]]でもあるが、『東京外語会会報』への寄稿では「実は東日本大震災が起こる前から日本への永住を希望していた」とのことである。第二世界大戦中、軍国主義の日本と浮世絵文化の美しい日本に戸惑っていたが、捕虜の日記の中に「ふるさとに帰りたい」という文章を見つけ日本人の葛藤する心が分かったそうである。[[東京大空襲|3月10日の空襲]]の翌朝、家を焼かれ家族を失った人々が上野駅で整然と疎開列車を待つ姿を見て「私はこの人々と生きこの人々と共に死にたい」という若い作家の文章に感銘を受けたそうである<ref>「告示」『[[官報]]』5755号、[[国立印刷局]]、[[2012年]][[3月8日]]、2面。</ref>。 |
|||
[[2013年]](平成25年)[[9月21日]]、菓子メーカー・[[ブルボン]]が、[[新潟県]][[柏崎市]]にキーンの業績を紹介する記念館「[https://www.donaldkeenecenter.jp/ ドナルド・キーン・センター柏崎]」をオープンした<ref>{{Cite web|title=設立趣旨|url=https://www.bourbon-yoshidakinen-foundation.or.jp/about01.html|website=www.bourbon-yoshidakinen-foundation.or.jp|accessdate=2021-07-17|publisher=ブルボン吉田記念財団}}</ref><ref>[http://www.niigata-nippo.co.jp/news/national/20130921067967.html 新潟日報 2012年9月22日]{{リンク切れ|date=2021-07-17}}</ref>。 |
|||
[[雅号]]の鬼怒鳴門は[[鬼怒川|'''鬼怒'''川]]と'''[[鳴門]]'''を組み合わせて作った当て字である<ref name="20120308-OYT1T01125" />。[[2012年]](平成24年)[[11月17日]]、[[トーストマスターズ|トーストマスターズ・インターナショナル]]日本支部(District76)は、「このキーンさんの行動に対して、「日本国籍を取り余生を日本で過ごす」という『言葉』(コミュニケーション)と、日本に移住した『行動』(リーダーシップ)により、希望を失っていた日本人に深い感銘と勇気を与えた」という理由で、第一回コミュニケーション・リーダーシップ賞を贈った。 |
|||
[[2019年]](平成31年)[[2月24日]]6時21分(JST)、[[心不全]]のため東京都の病院で死去<ref>{{Cite web|url=https://www.sankei.com/smp/life/news/190224/lif1902240045-s1.html|title=ドナルド・キーンさん死去 「日本のことを考えない日はなかった」|publisher=産経ニュース|date=2019-02-24|accessdate=2020-11-19}}</ref><ref>[https://this.kiji.is/472201091128247393 日本文学研究者ドナルド・キーンさん死去] -共同通信 2019年2月24日{{リンク切れ|date=2021-07-17}}</ref>。{{没年齢|1922|6|18|2019|02|24}}。叙[[従三位]]<ref>[https://www.jiji.com/jc/article?k=2019032200543&g=pol 故ドナルド・キーン氏に従三位] - 時事ドットコム 2019年3月22日{{リンク切れ|date=2021-07-17}}</ref><ref>『官報』7479号、平成31年4月2日</ref>。 |
|||
[[2013年]](平成25年)[[9月21日]]、菓子メーカー・[[ブルボン]]が、[[新潟県]][[柏崎市]]にキーンの業績を紹介する記念館「ドナルド・キーン・センター柏崎」をオープンした<ref>[http://www.bourbon-yoshidakinen-foundation.or.jp/about01.html 公益財団法人ブルボン吉田記念財団]</ref><ref>[http://www.niigata-nippo.co.jp/news/national/20130921067967.html 新潟日報 2012年9月22日]</ref><ref>[http://www.donaldkeenecenter.jp/ ドナルド・キーン・センター柏崎 Web]</ref>。 |
|||
[[2020年]](令和2年)1月8日、養子の[[キーン誠己]](後述)は、ドナルド・キーンの命日2月24日を「黄犬(キーン)忌」と名付け、キーンを顕彰するイベントを毎年開くことになったと発表した<ref>{{Cite web|title=ドナルド・キーンさんの命日は「黄犬忌」 資料も公開へ|url=https://www.asahi.com/articles/ASN185JR2N18UCVL01W.html|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2021-07-17|date=2020-01-08}}</ref>。 |
|||
[[2019年]](平成31年)[[2月24日]]6時21分(JST)、[[心不全]]のため東京都の病院で死去<ref>{{Cite web|url=https://www.sankei.com/smp/life/news/190224/lif1902240045-s1.html|title=ドナルド・キーンさん死去 「日本のことを考えない日はなかった」|publisher=産経ニュース|date=2019-02-24|accessdate=2020-11-19}}</ref><ref>[https://this.kiji.is/472201091128247393 日本文学研究者ドナルド・キーンさん死去] -共同通信 2019年2月24日</ref>。{{没年齢|1922|6|18|2019|02|24}}。叙[[従三位]]<ref>[https://www.jiji.com/jc/article?k=2019032200543&g=pol 故ドナルド・キーン氏に従三位] - 時事ドットコム 2019年3月22日</ref><ref>『官報』7479号、平成31年4月2日</ref>。 |
|||
2020年1月8日、養子のキーン誠己は、ドナルド・キーンの命日2月24日を「黄犬(キーン)忌」と名付け、キーンを顕彰するイベントを毎年開くことになったと発表した<ref>{{Cite news |url=https://www.asahi.com/articles/ASN185JR2N18UCVL01W.html|title=ドナルド・キーンさんの命日は「黄犬忌」 資料も公開へ:朝日新聞デジタル|newspaper=|date=2020-02-18}}</ref>。 |
|||
== 業績 == |
== 業績 == |
||
日本に関する著作は、日本語のものが30点、[[英語]]のものもおよそ25点ほど出版されている。[[近松門左衛門]]、[[松尾芭蕉]]、[[三島由紀夫]]など[[古典]]から[[現代文学]]まで研究対象の幅は広 |
「日本文学の[[伝道師]]」を自認し、主に[[英語圏]]への日本文化の紹介・解説者として大きな役割を果たした<ref name=":7">{{Cite web|title=NHKスペシャル 「私が愛する日本人へ~ドナルド・キーン 文豪との70年~」|url=https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2015065567SA000/index.html?|website=NHKオンデマンド|accessdate=2021-07-21|publisher=日本放送協会|date=2015-10-10}}{{Subscription required}}</ref>。日本に関する著作は、日本語のものが30点、[[英語]]のものもおよそ25点ほど出版されている。[[近松門左衛門]]、[[松尾芭蕉]]、[[石川啄木]]{{efn|キーンは、「石川啄木について連載しているが、難しい。彼の作品のすばらしさと、彼の人を不快にさせるような人生との間で揺れ動く」と述べている<ref name=":8"/>。}}、[[太宰治]]{{efn|キーンいわく、「太宰治は非常に訳しやすかった」「まったく自分が書いているような感じでした」<ref name=":7" />。}}、[[三島由紀夫]]{{efn|「日本の小説を翻訳するときに誰(の作品)が大変だったか」との[[渡辺謙]]の問いに対し、キーンは「三島由紀夫さんは難しかった」「彼は非常に複雑な比喩があって」と答え、渡辺も「お芝居し始めた頃に読んでもさっぱりわからないことが多かったですからね」と同意している<ref name=":7" />。}}など[[古典]]から[[現代文学]]まで研究対象の幅は広い。英語版の[[万葉集]]や[[19世紀]]日本文学、[[中国文学]]の[[アンソロジー]]の編纂にも関わった。 |
||
[[1976年]]より、日本語版、英語版で『日本文学史』([[近世]]、[[近代]]・[[現代 (時代区分)|現代]]、[[古代]]・[[中世]]の三部構成)の刊行がなされた。2011年から2018年にかけ『著作集』(新潮社、全15巻)が刊行された。 |
[[1976年]]より、日本語版、英語版で『日本文学史』([[近世]]、[[近代]]・[[現代 (時代区分)|現代]]、[[古代]]・[[中世]]の三部構成)の刊行がなされた。2011年から2018年にかけ『著作集』(新潮社、全15巻)が刊行された<ref>{{Cite web|title=ドナルド・キーン著作集(全15巻)|url=https://www.shinchosha.co.jp/zenshu/donald_keene/|website=新潮社コーポレートサイト|accessdate=2021-07-16}}</ref><ref name=":3">{{Cite journal|和書|author=北嶋藤郷|year=2015|title=日本におけるドナルド・キーン略年譜 1978-2014〈2〉|url=http://id.nii.ac.jp/1697/00000777/|journal=紀要論文|volume=24}}</ref>。 |
||
[[文科省]]公認の高等学校の英語科の教科書にも、その功績が記されている。 |
[[文科省]]公認の高等学校の英語科の教科書にも、その功績が記されている<ref name=":3" />。 |
||
ノーベル財団が公開した[[ノーベル文学賞]]の選考資料(1960年代)においては、[[エドワード・G・サイデンステッカー]]とともに日本人文学者の選考に当たって参考意見を求められていたことが明らかになっている<ref>大木ひさよ「{{PDFlink|[https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/KG/0021/KG00210L042.pdf 川端康成とノーベル文学賞 -スウェーデンアカデミー所蔵の選考資料をめぐって-]}} - 『京都語文』No.21、[[仏教大学]]、2014年</ref>。 |
ノーベル財団が公開した[[ノーベル文学賞]]の選考資料(1960年代)においては、[[エドワード・G・サイデンステッカー]]とともに日本人文学者の選考に当たって参考意見を求められていたことが明らかになっている<ref>大木ひさよ「{{PDFlink|[https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/KG/0021/KG00210L042.pdf 川端康成とノーベル文学賞 -スウェーデンアカデミー所蔵の選考資料をめぐって-]}} - 『京都語文』No.21、[[仏教大学]]、2014年</ref>。キーンは日本社会の[[年功序列]]も配慮して、挙げられた候補者([[川端康成]]・[[三島由紀夫]]・[[谷崎潤一郎]]・[[西脇順三郎]])の中で、谷崎が最も受賞に値し、次点が川端で、三島がそれに次ぐと回答。谷崎は選考の途中で他界し、川端が日本初のノーベル文学賞受賞者となった<ref name=":7" />。 |
||
== 人物 == |
== 人物 == |
||
96行目: | 104行目: | ||
; 本名 |
; 本名 |
||
: 日本国籍を取得した際、[[戸籍]]上の本名は[[片仮名]]表記の「キーン ドナルド」<ref>{{Cite news|url=http://www.asahi.com/national/update/0308/TKY201203080224.html|title=ドナルド・キーンさん、日本国籍取得 震災後永住を決意|newspaper=朝日新聞デジタル|publisher=朝日新聞社|date=2012-03-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120308161841/http://www.asahi.com/national/update/0308/TKY201203080224.html|archivedate=2012年3月8日|deadurldate=2017年9月}}</ref>として登録した。また、日本国籍取得時の記者会見の席上、「人を笑わせる時に使います」<ref>{{Cite news |url=http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp0-20120308-914510.html |title=ドナルド・キーンさんが日本国籍取得 |newspaper=nikkansports.com |publisher=日刊スポーツ新聞社 |date=2012-03-08}}{{リンク切れ|date=2013年9月}}</ref>と述べつつ、[[漢字]]で「鬼怒鳴門」と表記した[[名刺]]を披露した。 |
: 日本国籍を取得した際、[[戸籍]]上の本名は[[片仮名]]表記の「キーン ドナルド」<ref>{{Cite news|url=http://www.asahi.com/national/update/0308/TKY201203080224.html|title=ドナルド・キーンさん、日本国籍取得 震災後永住を決意|newspaper=朝日新聞デジタル|publisher=朝日新聞社|date=2012-03-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120308161841/http://www.asahi.com/national/update/0308/TKY201203080224.html|archivedate=2012年3月8日|deadurldate=2017年9月}}</ref>として登録した。また、日本国籍取得時の記者会見の席上、「人を笑わせる時に使います」<ref>{{Cite news |url=http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp0-20120308-914510.html |title=ドナルド・キーンさんが日本国籍取得 |newspaper=nikkansports.com |publisher=日刊スポーツ新聞社 |date=2012-03-08}}{{リンク切れ|date=2013年9月}}</ref>と述べつつ、[[漢字]]で「鬼怒鳴門」と表記した[[名刺]]を披露した。 |
||
; 日本感 |
|||
: 日本人の特徴として、以下の5点を挙げている<ref name=":7" />。 |
|||
:* あいまい(余情){{Efn|あえて表現をぼかして想像力に委ねる<ref name=":7" />。}} |
|||
:* はかなさへの共感{{Efn|[[源義経]]のような悲劇的な最後を迎える人物を英雄視する点などに着目し、人間的な弱さに同情するようなものの見方が日本的だと考えた<ref name=":7" />。}} |
|||
:* 礼儀正しい{{Efn|敬語など、社会的立場を示す言葉が用いられることなどに着目した<ref name=":7" />。}} |
|||
:* 清潔 |
|||
:* よく働く |
|||
: 「私はだいたいにおいて日本は良い方に来たと思います」としながらも「自分たちの伝統に興味がないということは一つの弱点だと思います」としている<ref name=":7" />。 |
|||
; 趣味 |
; 趣味 |
||
: [[クラシック音楽]]、特に[[オペラ]]の熱心な愛好家であり、関連する著書にエッセイ集『音盤風刺花伝』『音楽の出会いとよろこび』(音楽之友社刊)がある。ただし、[[オペレッタ]]はその関連音楽である[[ウィンナ・ワルツ]]も含め大嫌いで、[[メトロポリタン歌劇場]]が指揮者[[リチャード・ボニング]]の主導で『[[後宮からの誘拐]]』を『[[メリー・ウィドウ]]』に演目変更しようとしたときは、下等な音楽を[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]と同一線上で扱うことに激怒する一文を書いている。本場ウィーンが拠って立つ伝統音楽で多くの著名演奏家が関係もしており、ワルツとオペレッタの両方を嫌悪する立場を明確にしたのは、しがらみのない業界外部の筆者ならではでもある。 |
: [[クラシック音楽]]、特に[[オペラ]]の熱心な愛好家であり、関連する著書にエッセイ集『音盤風刺花伝』『音楽の出会いとよろこび』(音楽之友社刊)がある。<!-- ただし、[[オペレッタ]]はその関連音楽である[[ウィンナ・ワルツ]]も含め大嫌いで、[[メトロポリタン歌劇場]]が指揮者[[リチャード・ボニング]]の主導で『[[後宮からの誘拐]]』を『[[メリー・ウィドウ]]』に演目変更しようとしたときは、下等な音楽を[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]と同一線上で扱うことに激怒する一文を書いている。本場ウィーンが拠って立つ伝統音楽で多くの著名演奏家が関係もしており、ワルツとオペレッタの両方を嫌悪する立場を明確にしたのは、しがらみのない業界外部の筆者ならではでもある。 --> |
||
:[[伊勢神宮]]に対する崇敬が厚く、[[神宮式年遷宮]]の[[遷御]]に際して4度特別奉拝に立会っている<ref>伊勢神宮と、遷宮の「かたち」』、神社本庁監修 [[扶桑社]] 2017年 p.184 ISBN 978-4-594-07887-4</ref>他、第62回式年遷宮に際して特別神領民として[[お白石持]]神事にも参加している |
: [[伊勢神宮]]に対する崇敬が厚く、[[神宮式年遷宮]]の[[遷御]]に際して4度特別奉拝に立会っている<ref>伊勢神宮と、遷宮の「かたち」』、神社本庁監修 [[扶桑社]] 2017年 p.184 ISBN 978-4-594-07887-4</ref>他、第62回式年遷宮に際して特別神領民として[[お白石持]]神事にも参加している<ref>[http://www.sankei.com/life/news/190224/lif1902240045-n1.html ドナル・ドキーンさん死去 「日本のことを考えない日なかった」] 産経新聞{{リンク切れ|date=2021-07-17}}</ref>。 |
||
: 京都留学時代には、日本の文化をより理解するために[[茂山千之丞]]に師事して[[狂言]]を学び、1956年に喜多能楽堂で『[[千鳥 (狂言)|千鳥]]』の[[太郎冠者]]を演じた{{efn|谷崎潤一郎・川端康成・三島由紀夫・[[松本白鸚 (初代)|八代目松本幸四郎]]が観覧した{{sfn|キーン|2019|pp=166-174}}。}}{{sfn|キーン|2019|pp=166-174}}。キーンのこのような文化活動は、日本の作家たちとのつながりを作るきっかけとなった<ref name=":7" />。 |
|||
; 交友関係 |
|||
: [[三島由紀夫]]とは[[1956年]]に「[[班女 (戯曲)|班女]]」([[近代能楽集]])の翻訳で知り合って以来、親交深い事で知られている。ドナルド・キーンの当て字「怒鳴門鬼韻」は文通時に三島が書いて送ったものである<ref>{{Harvnb|ドナルド書簡|2001}}</ref>。[[安部公房]]も親友として知られていた。 |
|||
: 友人であった安部公房からは、[[明治天皇]]について書くことを告げると、書けば右翼から脅迫に遭うだろうと忠告された。何年かを経て実際書いてみると、どこからも脅迫されず逆に意気消沈したという。 |
|||
: 交流のあった作家らは、上記の他に[[谷崎潤一郎]]、[[川端康成]]、[[吉田健一 (英文学者)|吉田健一]]、[[石川淳]]、[[司馬遼太郎]]、[[丸谷才一]]、[[篠田一士]]など。かつて[[大江健三郎]]とも親しかったが、大江の態度の変化によって疎遠になった。大江から避けられるようになったことについて『私と20世紀のクロニクル』p.223-224では原因不明としている。ただ、大江の縁があって、安部公房と終生の親友になれた。1994年の[[井上靖]]文化賞授賞式の際には、出席できない予定だった大江が急遽駆けつけてキーンに祝辞を述べた。 |
|||
;好物 |
;好物 |
||
:自宅の[[北区 (東京都)|北区]]にある「霜降銀座商店街」の豆腐屋で売っている揚げ出し豆腐や絹ごし豆腐が好物であった<ref> |
: 自宅の[[北区 (東京都)|北区]]にある「霜降銀座商店街」の豆腐屋で売っている揚げ出し豆腐や絹ごし豆腐が好物であった<ref>{{Cite web|title=キーンさん死去 地元で愛され、好物は揚げ出し豆腐|url=https://www.sankei.com/article/20190224-5O7TQCECHFISJF3UFFWARSXR6A/|website=産経ニュース|date=2019-02-25|accessdate=2021-07-17}}</ref>。 |
||
;政治思想 |
|||
: 平和主義者を自認し、アメリカの選挙ではいつも[[民主党 (アメリカ)|民主党]]に投票していた{{sfn|キーン|2019|p=260}}。2013年に書き送ったメールでは[[安倍晋三]]首相の[[靖国神社問題|靖国参拝]]に触れて<!-- メールが送られたのが12月であることから、同月の参拝を指すものと解釈。 -->、「以前、私は日本が左翼に乗っ取られるのではないかと心配していたが、今は右翼が乗っ取らないか心配だ」と述べている<ref name=":8">{{Cite web|title=ドナルド・キーンさんの秘めたメッセージ|url=https://www.nhk.or.jp/d-navi/sci_cul/2019/10/story/story_191004/|website=NHK NEWS WEB|accessdate=2021-07-19|publisher=日本放送協会|date=2019-10-04|author=籔内潤也}}</ref>。日本の[[皇室制度]]は高く評価し{{efn|「日本の民主主義も素晴らしいと思いますが、たとえば選挙のときには『憲法を変えます』とか『原発を造ります』とかは小さな字で書いておいて、勝ったら堂々とやる、というところがあります。為政者が、民主主義の仕組みを状況に合わせて上手に使うわけですね」「ですから、一方に天皇のような、その時々の世の中の変化に動じない存在があるというのは、とても意味のあることではないでしょうか。もちろん皇室は政治的な存在ではありませんが、ずっと動かない精神的な柱があるのは、国にとってとてもいいことだと思うのです」としている<ref name=":10" />。}}、特に自らも面識がある明仁天皇・[[上皇后美智子|美智子]]皇后(当時)について「私は、両陛下は天皇と皇后である前に、最高の夫婦だと思います。いろんなしぐさにお互いへの愛情を感じます」と述べている<ref name=":10">{{Cite web|title=(4・5ページ目)ドナルド・キーンが知る「上皇上皇后両陛下の素顔」|url=https://fujinkoron.jp/articles/-/202?page=4|website=婦人公論.jp|accessdate=2021-07-22|date=2019-04-23}}</ref>。 |
|||
== 交友関係 == |
|||
=== 日本文壇 === |
|||
* [[三島由紀夫]] |
|||
**[[1954年]]に知り合って以来{{sfn|キーン|2019|p=203}}、親交を重ねた{{efn|両者は意気投合したものの、三島は「べたべたした」関係は望まないと明言しており、キーンも気楽な昔なじみのような話をするよう提案した三島に応じず、秘密の共有などすることなく文学談義や雑談をする間柄であった。キーンは、「私は三島の『心の友』ではなかった」としているが、完結間近の『[[豊饒の海]]』について、作家として身につけたすべてをこの作品に注ぎ込んだ、あと残っているのは死ぬことだけだと三島が言うのを聞いて「なにか悩んでいることがあるんだったら、話してくれませんか」と問いかけた。このとき三島は目をそらして何も言わなかったという{{sfn|キーン|2019|pp=276-284}}。}}。ドナルド・キーンの当て字「怒鳴門鬼韻」は文通時に三島が書いて送ったものである<ref>{{Harvnb|ドナルド書簡|2001}}</ref>。[[三島事件]]で三島が死亡したときには日本への渡航を調整し、自らの『[[仮名手本忠臣蔵]]』の翻訳本を祭壇に供えた。当初キーンは弔事を読むことも引き受けたが、三島の右翼思想を擁護しているように捉えられるとの友人らの説得により葬式には出席せず、そのことを後に何度も悔やんだと著書で述べている{{sfn|キーン|2019|pp=276-284}}。 |
|||
*[[安部公房]] |
|||
**文学者の中でキーンと一番親しい友人であった{{sfn|キーン|2019|pp=244-250}}。[[明治天皇]]について書くことを告げたキーンに、安部は書けば右翼から脅迫に遭うだろうと忠告したが、何年かを経て実際書いてみるとどこからも脅迫されず、キーンは逆に意気消沈したという。 |
|||
*[[大江健三郎]] |
|||
**中央公論が主催した講演旅行が縁で知り合い、キーンが大江の著書の翻訳を取り計らったことなどで親交を深め、大江が仲を取り持ったことで{{efn|初対面ではキーンが[[時差ぼけ]]でやられていた上に日本語が話せるにも関わらず通訳([[オノ・ヨーコ]])をたてられたことで立腹していたことなどから、阿部のキーンに対する当初の印象は悪かった{{sfn|キーン|2019|pp=244-250}}。}}安部公房とキーンは終生の親友になることができた。しかし、大江はその後キーンを避けるようになった。1994年にキーンが[[井上靖]]文化賞を受賞したときには大江が急遽授賞式に駆けつけて祝辞を述べるなど、時折好意を見せることもあったが、結局最後まで関係が修復されることはなく、キーンにもその原因がなんであったのか不明だった模様である{{sfn|キーン|2019|pp=244-250}}<ref>『私と20世紀のクロニクル』p.223-224</ref>。 |
|||
*他に[[谷崎潤一郎]]<ref name=":7" />{{sfn|キーン|2019|pp=219-227}}、[[川端康成]]<ref name=":7" />{{sfn|キーン|2019|pp=285-292}}、[[大岡昇平]]<ref name=":7" />、[[有吉佐和子]]<ref name=":7" />、[[永井荷風]]<ref name=":7" />、[[吉田健一 (英文学者)|吉田健一]]{{sfn|キーン|2019|pp=219-227}}、[[石川淳]]{{sfn|キーン|2019|pp=219-227}}、[[篠田一士]]{{sfn|キーン|2019|pp=219-227}}、[[司馬遼太郎]]{{efn|酒に酔った司馬が朝日の編集局長に「今、朝日を良い新聞にする唯一の方法は、ドナルド・キーンを雇うことだ」と主張したことを契機に客員編集委員のポストが与えられ、キーンの連載が始まった{{sfn|キーン|2019|pp=295-296}}。}}など。 |
|||
=== 日本国外 === |
|||
*[[アイヴァン・モリス]] |
|||
**コロンビア大学での同僚。キーンが英訳した三島の『[[班女 (戯曲)|班女]]』の初演では吉雄の役を演じた{{sfn|キーン|2019|p=204}}。 |
|||
*[[バートン・ワトソン]] |
|||
**京都留学時代の留学生仲間{{sfn|キーン|2019|pp=141-165}}。 |
|||
*[[フォービアン・バワーズ]]{{sfn|キーン|2019|pp=184-191}} |
|||
== 受賞・栄典 == |
== 受賞・栄典 == |
||
431行目: | 464行目: | ||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
||
{{脚注ヘルプ}} |
{{脚注ヘルプ}} |
||
=== 注釈 === |
|||
{{Notelist|2}} |
|||
=== 出典 === |
|||
{{Reflist|25em}} |
|||
== 参考文献 == |
|||
* {{Citation|和書|title=ドナルド・キーン自伝-増補新版|publisher=中央公論新社|date=2019-03-25|isbn=978-4-12-206730-1|oclc=1097659731|last=キーン|first=ドナルド|translator=幸男角地}} |
|||
{{Reflist|2}} |
|||
* {{Citation|和書|title=ドナルド・キーン わたしの日本語修行|isbn=978-4-560-08677-3|oclc=891024087|first=ドナルド|last=キーン|year=2014|last2=河路|first2=由佳|publisher=白水社}} |
|||
* {{Citation|和書|author=[[三島由紀夫]]|date=2001-03|title=三島由紀夫未発表書簡 ドナルド・キーン氏宛の97通|publisher=[[中公文庫]]|isbn=978-4122038028|ref={{Harvid|ドナルド書簡|2001}}}} |
|||
== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
||
441行目: | 480行目: | ||
* [[日本文学]] |
* [[日本文学]] |
||
* [[日本語教育]] |
* [[日本語教育]] |
||
<!-- | |
|||
* [[エドワード・G・サイデンステッカー]] |
* [[エドワード・G・サイデンステッカー]] |
||
* [[アーサー・ウェイリー]] |
|||
* [[エドウィン・O・ライシャワー]] |
|||
* [[ロイヤル・タイラー]] |
* [[ロイヤル・タイラー]] |
||
* [[ピーター・マックミラン]] |
* [[ピーター・マックミラン]] |
||
* [[セルゲイ・エリセーエフ]] |
|||
| |
| |
||
* [[永井道雄]] |
|||
* [[嶋中鵬二]] |
|||
* [[三島由紀夫]] 中央公論社、同文庫でキーン宛ての「書簡集」が刊行された。 |
|||
* [[谷崎潤一郎]] |
|||
* [[川端康成]] |
|||
* [[池島信平]] |
* [[池島信平]] |
||
* [[佐々木茂索]] |
* [[佐々木茂索]] |
||
* [[佐藤亮一 (実業家)|佐藤亮一]] |
* [[佐藤亮一 (実業家)|佐藤亮一]] |
||
* [[小西甚一]] |
* [[小西甚一]] |
||
| |
|||
* [[石川淳]] |
|||
* [[安部公房]] |
|||
* [[吉田健一 (英文学者)|吉田健一]] |
|||
* [[河上徹太郎]] |
* [[河上徹太郎]] |
||
* [[千宗室]] |
* [[千宗室]] |
||
* [[篠田一士]] |
|||
* [[司馬遼太郎]] |
|||
* [[丸谷才一]] |
* [[丸谷才一]] |
||
* [[YOUは何しに日本へ? ]] ご長寿YOUとして紹介されたがインタビューには答えなかった。 --> |
|||
* [[トーストマスターズ・インターナショナル]] 日本支部(District76) |
|||
}} |
}} |
||
* [[YOUは何しに日本へ? ]] ご長寿YOUとして紹介されたがインタビューには答えなかった。 |
|||
== 参考文献 == |
|||
*{{Citation|和書|author=[[三島由紀夫]]|date=2001-03|title=三島由紀夫未発表書簡 ドナルド・キーン氏宛の97通|publisher=[[中公文庫]]|isbn=978-4122038028|ref={{Harvid|ドナルド書簡|2001}}}} |
|||
== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
||
* [https://www.keenecenter.org/ ドナルド・キーン日本文化センター](コロンビア大学内) |
* [https://www.keenecenter.org/ ドナルド・キーン日本文化センター](コロンビア大学内) |
||
* [https://www.donaldkeenecenter.jp/profile01.html 年譜|プロフィール|ドナルド・キーン(雅号 鬼怒鳴門)] |
|||
* [https://www.donaldkeenecenter.jp/ ドナルド・キーン・センター柏崎] |
* [https://www.donaldkeenecenter.jp/ ドナルド・キーン・センター柏崎] |
||
** [https://www.donaldkeenecenter.jp/profile01.html プロフィール・年譜] |
|||
* {{NHK人物録|id=D0009250568_00000|name=ドナルド・キーン}} |
|||
* {{Kotobank|キーン・ドナルド(Donald Keene)}} |
|||
* {{Commonscat-inline}} |
* {{Commonscat-inline}} |
||
{{Normdaten}} |
{{Normdaten}} |
||
{{DEFAULTSORT:きいん となると}} |
{{DEFAULTSORT:きいん となると}} |
||
[[Category:第二次世界大戦期のアメリカ合衆国の軍人]] |
[[Category:第二次世界大戦期のアメリカ合衆国の軍人]] |
2021年7月31日 (土) 08:50時点における版
ドナルド・キーン (Donald Keene) | |
---|---|
ペンネーム | ドナルド・キーン |
誕生 |
Donald Lawrence Keene 1922年6月18日 アメリカ合衆国・ニューヨーク州ニューヨーク市 |
死没 |
2019年2月24日(96歳没) 日本 東京都 |
職業 | 文学者・文芸評論家 |
言語 |
英語 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 博士 |
最終学歴 | コロンビア大学大学院東洋研究科博士課程修了 |
ジャンル | 文学研究・文芸評論・随筆 |
主題 | 日本文学・日本文化 |
代表作 |
『日本文学史』(1976年-) 『明治天皇』(2001年) |
主な受賞歴 |
菊池寛賞(1962年) 山片蟠桃賞(1983年) 読売文学賞(1985年) 日本文学大賞(1985年) 福岡アジア文化賞芸術・文化賞(1991年) 勲二等旭日重光章(1993年) 朝日賞(1998年) 毎日出版文化賞(2002年) 文化勲章(2008年) 従三位(2019年) |
ウィキポータル 文学 |
ドナルド・キーン(英語: Donald Keene、1922年6月18日 - 2019年2月24日[1])は、アメリカ合衆国出身の日本文学者・日本学者。コロンビア大学名誉教授。
日本文学と日本文化研究の第一人者であり、文芸評論家としても多くの著作がある。日本文化の欧米への紹介でも数多くの業績がある。ケンブリッジ大学、東北大学、杏林大学ほかから名誉博士。受賞歴は全米文芸評論家賞受賞ほか多数。2002年文化功労者。2008年文化勲章。また、日本ペンクラブの名誉会員であり、2012年11月26日の日本ペンクラブ創立記念懇談会では演説を行った[2]。
日本国籍取得後、本名を出生名の「Donald Lawrence Keene」から、カタカナ表記の「キーン ドナルド」へと改めた。通称(雅号)として漢字で鬼怒鳴門(きーん どなるど)[注釈 1]を使う[3]。
来歴
生い立ち
ニューヨーク市ブルックリン区で貿易商の家庭に生まれる[4][5]。9歳のとき父と共にヨーロッパを旅行し、このことがきっかけでフランス語など外国語の習得に強い興味を抱くようになる[4][6]。しかし、世界恐慌の最中に妹が死亡し、15歳のときに両親が離婚[7]。以後母とともに生活を営むこととなり経済的困難に遭遇したが、飛び級を繰り返していたキーンはニューヨーク州最優秀生徒として、コロンビア大学のピュリッツァー奨学金をもらうことができ、1938年(昭和13年)に16歳で同大学文学部に入学した[4][8][9]。
同校でマーク・ヴァン・ドーレンやライオネル・トリリングの薫陶を受け、フランス語や古代ギリシア語を習得[4][5][9][10]。同じ頃、ヴァン・ドーレンの講義で中国人学生李と親しくなり、そのことがきっかけで中国語、特に漢字の学習に惹かれるに至る[5][9][11]。
第二次世界大戦
1940年(昭和15年)のある日、ナチス・ドイツのフランス侵攻など、欧州情勢に鬱屈とした日々を過ごしていたキーンは、タイムズスクエアでゾッキ本として売られていたアーサー・ウェイリー訳『源氏物語』を手にとった。厚さに比して安価だったというだけの理由で49セントで購入したキーンは、やがてその世界に魅せられるようになる[4][5][9][11][12]。
その後も反日感情を持つ李への遠慮から日本語は学ばなかったが、ジョージ・H・カー[注釈 2]の誘いを受けて、ポール・ブルーム(後:CIA初代東京支局長)とともに有志による日本語勉強合宿に参加。サクラ読本を教材にして日系アメリカ人の猪俣[注釈 3]からレクチャーを受けた[9][14]。合宿を終えたあとも、最初に愛着を覚えたフランス文学にうちこむか中国語と日本語の研究を続けるかキーンには迷いがあったが、フランス出身のブルームから「フランスで育って完璧なフランス語を話すアメリカ人は山ほどいる、しかし日本語がわかるアメリカ人は皆無に近い」と説得された。大学では、カーの勧めにより角田柳作の日本思想史を受講し、日本研究の道に入る[13][15]。
真珠湾攻撃から間もない1942年はじめ、カリフォルニア大学バークレー校に設けられた海軍語学校[注釈 4][注釈 5]に志願し、西海岸に渡る[4][5][18][19]。語学校には、語学に長けた一流大学の学生や日本または中国に駐在していた宣教師や実業家の子弟らが集められ、日本語教育のカリキュラムでは長沼直兄の『標準日本語讀本』[注釈 6]が用いられ言語の習得のみに専念できる環境が整えられており、日本で教育を受けて帰米した日系アメリカ人らが教師を務めた[20]。同年6月、虫垂炎を患い、海軍病院に入院中に火野葦平の『土と兵隊』を読む。これが初めてキーンが読んだ日本文学作品となった[5][22]。同年、コロンビア大学にて学士号を取得し卒業[5][23]。
翌年1943年(昭和18年)2月にキーンらのグループは軍務に急を要するとして語学校を繰り上げ卒業となり、キーンは卒業生総代として在学中にマスターした日本語で「告別の辞」を述べた[20][18]。
その後キーンは海軍情報士官としてハワイの翻訳局に赴任し、日課の報告書や物資の明細書などのガダルカナル島の戦いで得られた日本軍の文書を英語に訳す任務を負った。中には死亡した兵士から押収された日記もあり、くずし字を習得したキーンは好んで翻訳した。最期の思いが赤裸々に綴られた手書きの文書を通じてキーンは日本人の心に接した[注釈 7][12][24][27][25][26]。通訳官として尋問[注釈 8]した最初の捕虜は、のちに作家となった豊田穣[28]。
その後オーテス・ケーリ(後:同志社大学名誉教授)とともにアッツ島の戦いに参加する部隊に同行。初めての実戦経験となる。アッツ島では激しい抵抗を見せながらも最後には集団自決で果ててしまう日本兵たちに、キーンは困惑する[12][29][30]。続いてコテージ作戦にも参加し、キスカ島上陸部隊の一員に加えられる。実際にはキスカ島撤退作戦により日本軍はすでに島を去っていたが、キーンのもとに持ち込まれた"標識"は大騒動をもたらし、大量の血清を求める緊急電が本国に向けて打たれた。その看板には『ペスト患者収容所』と日本語で書かれていたのである[29][31]。キーンがこれが日本軍の軍医によるいたずらだったと知ったのはそれからかなり時間が経ってからのことであった[29]。
1945年(昭和20年)には、沖縄攻略作戦に従軍。沖縄本島へ向かう途上、乗艦していた輸送船が神風特別攻撃隊の標的となるが、特攻機は突入直前に別の船のマストに接触して水中に墜落し、命拾いした。上陸初日に接触した現地住民とは意思疎通ができず、沖縄にいるうちの多くが日本語話者でないことを知った。その日の遅く、日本語を上手に話す少年が見つかり、彼を通訳にしてガマに潜む住民に投降を呼び掛けた[32]。陸軍の第96歩兵師団が語学将校を求めていることを知るとこれに志願[32]。主に普天間に駐留して捕虜の尋問を担当し、前線ではスピーカーで投降を呼びかけたが、勝ち目がない中で日本兵や民間防衛隊が自爆攻撃を行い、女性や子どもが自殺する姿を目の当たりにした[注釈 9][33]。終戦の玉音放送をグアムの収容所で日本人捕虜とともに聞いた[34]。
日本のポツダム宣言受諾後、キーンは日本に赴任することを望んだが、折り合いが悪い上官によってこの願いは聞き届けられず、第6海兵師団として中国に派遣されることとなった。赴任先の青島では当初現地の日本軍人と良好な関係を築いたが、まもなく混乱に乗じた腐敗や密告が入り乱れるようになり、戦争犯罪の取り調べなどに嫌気が差したキーンは帰国願いを出し、原隊復帰の命令書を得てこの地を後にした[4][34]。
帰路、厚木飛行場を経由したキーンは、初めて訪れた日本を見て回りたい衝動を抑えられず、原隊の現在地を横須賀と「誤って」報告。横須賀の司令部に出頭し、自分が「誤解」していたと申告するまで、1週間にわたり滞在し戦後間もない日本を堪能した[注釈 10][4][35]。
研究者として
戦争が終わると、遠い未来まで日本が強国の地位を取り戻すことはないという考え方が一般的であり、語学将校だった者の多くは日本語に対する興味をなくしてしまった。一方、前職を持たないキーンは、将来のあてがあるわけではなかったが、気質的にあっていると感じた日本研究を続けることを決め、復員兵援護法の制度を利用してコロンビア大学に戻り、大学院で再び角田に学ぶ[4][36]。キーンの願望は日本へ再び渡航することであったがGHQによる制約などにより叶わず、代わりに中国へ行くことを考えて中国語会話の授業を受けたが、クラスメートから中国の不穏な情勢を伝えられて断念した[36]。1947年(昭和22年)に修士号を角田のもとで取得[4][5]。
同年秋、ハーヴァード大学に転じ、海軍語学校時代の友人であったジョゼフ・レヴェンソンとともに学び、エドウィン・O・ライシャワーやウィリアム・フンの薫陶を受ける[注釈 11][4][37]。
1948年(昭和23年)から5年間ケンブリッジ大学に学び、同時に講師を務める[注釈 12][注釈 13][4][5]。同校ではバートランド・ラッセルに気に入られ、飲み友達として交際した。このころ、E・M・フォースターや自らが日本語との関わりを持つきっかけとなった源氏物語を英訳したウェイリーとも交際した[4][39]。この間、1949年にコロンビア大学大学院東洋研究科博士課程を修了[40]。
1953年(昭和28年)、エリザベス2世の戴冠式出席のための来英に際しケンブリッジを訪問した明仁皇太子の案内役を務める[41]。同年、フォード財団の研究奨学金を得て京都大学大学院に留学[5][42]。京都市東山区今熊野の下宿「無賓主庵」[注釈 14]にて知り合った永井道雄と生涯の友となり、永井の紹介で嶋中鵬二とも親友となった[44][45]。
1955年(昭和30年)、留学を終えて帰国しコロンビア大学助教授[注釈 15]。のち同教授を経て、1978年(昭和53年)ケンブリッジ大学文学博士号[47]、1992年(平成4年)に同大学名誉教授となった(1987年(昭和62年)から1989年(平成元年)の2年間は国際日本文化研究センター教授も併任)[47]。
1982年(昭和57年)から1992年(平成4年)まで朝日新聞社客員編集委員[47]。1986年(昭和61年)にはコロンビア大学に自らの名を冠した「ドナルド・キーン日本文化センター」が設立された[47]。1998年(平成10年)、早稲田大学より名誉文学博士号を授与される[47]。1999年(平成11年)から「ドナルド・キーン財団」理事長[47]。2006年(平成18年)11月1日、源氏物語千年紀の呼びかけ人となる[47]。
2008年、外国人の学術研究者として史上初めての文化勲章受章[47]。2014年(平成26年)に京都名誉観光大使。2017年(平成29年)から田原市博物館名誉館長[48][49]。
東日本大震災と日本国籍取得
キーンは、ニューヨークと東京に半年ずつ交互に棲む生活を約35年間続けていたが、2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災を契機に日本国籍を取得し日本に永住する意思を表明[50]。同年9月1日に永住のため来日したキーンは、「家具などを全部処分して、やっと日本に来ることができて嬉しい。今日は曇っているが、雲の合間に日本の畑が見えて美しいと思った」と日本語で感慨を語り、仙台市の講演など被災地を訪問して被災者を激励したいとも話している[注釈 16][53][54]。2012年(平成24年)3月8日に国籍取得が認められ、正式に日本人となった[55][56]。
2012年(平成24年)11月17日、トーストマスターズ・インターナショナル日本支部(District76)は、「このキーンさんの行動に対して、「日本国籍を取り余生を日本で過ごす」という『言葉』(コミュニケーション)と、日本に移住した『行動』(リーダーシップ)により、希望を失っていた日本人に深い感銘と勇気を与えた」という理由で、第一回コミュニケーション・リーダーシップ賞を贈った[57]。
2013年(平成25年)9月21日、菓子メーカー・ブルボンが、新潟県柏崎市にキーンの業績を紹介する記念館「ドナルド・キーン・センター柏崎」をオープンした[58][59]。
2019年(平成31年)2月24日6時21分(JST)、心不全のため東京都の病院で死去[60][61]。96歳没。叙従三位[62][63]。
2020年(令和2年)1月8日、養子のキーン誠己(後述)は、ドナルド・キーンの命日2月24日を「黄犬(キーン)忌」と名付け、キーンを顕彰するイベントを毎年開くことになったと発表した[64]。
業績
「日本文学の伝道師」を自認し、主に英語圏への日本文化の紹介・解説者として大きな役割を果たした[12]。日本に関する著作は、日本語のものが30点、英語のものもおよそ25点ほど出版されている。近松門左衛門、松尾芭蕉、石川啄木[注釈 17]、太宰治[注釈 18]、三島由紀夫[注釈 19]など古典から現代文学まで研究対象の幅は広い。英語版の万葉集や19世紀日本文学、中国文学のアンソロジーの編纂にも関わった。
1976年より、日本語版、英語版で『日本文学史』(近世、近代・現代、古代・中世の三部構成)の刊行がなされた。2011年から2018年にかけ『著作集』(新潮社、全15巻)が刊行された[65][66]。
文科省公認の高等学校の英語科の教科書にも、その功績が記されている[66]。
ノーベル財団が公開したノーベル文学賞の選考資料(1960年代)においては、エドワード・G・サイデンステッカーとともに日本人文学者の選考に当たって参考意見を求められていたことが明らかになっている[67]。キーンは日本社会の年功序列も配慮して、挙げられた候補者(川端康成・三島由紀夫・谷崎潤一郎・西脇順三郎)の中で、谷崎が最も受賞に値し、次点が川端で、三島がそれに次ぐと回答。谷崎は選考の途中で他界し、川端が日本初のノーベル文学賞受賞者となった[12]。
人物
- 本名
- 日本国籍を取得した際、戸籍上の本名は片仮名表記の「キーン ドナルド」[70]として登録した。また、日本国籍取得時の記者会見の席上、「人を笑わせる時に使います」[71]と述べつつ、漢字で「鬼怒鳴門」と表記した名刺を披露した。
- 日本感
- 日本人の特徴として、以下の5点を挙げている[12]。
- 「私はだいたいにおいて日本は良い方に来たと思います」としながらも「自分たちの伝統に興味がないということは一つの弱点だと思います」としている[12]。
- 趣味
- クラシック音楽、特にオペラの熱心な愛好家であり、関連する著書にエッセイ集『音盤風刺花伝』『音楽の出会いとよろこび』(音楽之友社刊)がある。
- 伊勢神宮に対する崇敬が厚く、神宮式年遷宮の遷御に際して4度特別奉拝に立会っている[72]他、第62回式年遷宮に際して特別神領民としてお白石持神事にも参加している[73]。
- 京都留学時代には、日本の文化をより理解するために茂山千之丞に師事して狂言を学び、1956年に喜多能楽堂で『千鳥』の太郎冠者を演じた[注釈 23][74]。キーンのこのような文化活動は、日本の作家たちとのつながりを作るきっかけとなった[12]。
- 政治思想
- 平和主義者を自認し、アメリカの選挙ではいつも民主党に投票していた[76]。2013年に書き送ったメールでは安倍晋三首相の靖国参拝に触れて、「以前、私は日本が左翼に乗っ取られるのではないかと心配していたが、今は右翼が乗っ取らないか心配だ」と述べている[52]。日本の皇室制度は高く評価し[注釈 24]、特に自らも面識がある明仁天皇・美智子皇后(当時)について「私は、両陛下は天皇と皇后である前に、最高の夫婦だと思います。いろんなしぐさにお互いへの愛情を感じます」と述べている[77]。
交友関係
日本文壇
- 三島由紀夫
- 安部公房
- 大江健三郎
- 他に谷崎潤一郎[12][83]、川端康成[12][84]、大岡昇平[12]、有吉佐和子[12]、永井荷風[12]、吉田健一[83]、石川淳[83]、篠田一士[83]、司馬遼太郎[注釈 27]など。
日本国外
受賞・栄典
受賞歴
- 1962年 菊池寛賞
- 1969年 国際出版文化賞
- 1983年 山片蟠桃賞
- 1983年 国際交流基金賞
- 1985年 読売文学賞
- 1985年 日本文学大賞
- 1991年 第2回福岡アジア文化賞 芸術・文化賞
- 1990年 全米文芸評論家賞
- 1994年 第2回井上靖文化賞
- 1997年 朝日賞
- 2002年 毎日出版文化賞
- 2010年 第5回安吾賞
- 2012年 コミュニケーション・リーダーシップ賞
- 2013年 第13回現代俳句大賞
他多数
栄典
- 1993年 勲二等旭日重光章
- 2002年 文化功労者
- 2006年 東京都北区名誉区民[88]
- 2008年 文化勲章(外国出身の学術研究家としては初の受章)[89]
- 2014年 新潟県柏崎市名誉市民
- 2019年 従三位
名誉博士
- 1978年 ケンブリッジ大学
- 1990年 セント・アンドルーズ大学, ノースカロライナ州
- 1995年 ミドルベリー大学
- 1997年 東北大学
- 1998年 早稲田大学(名誉文学博士)
- 1999年 東京外国語大学
- 2000年 敬和学園大学(名誉文化博士)
- 2007年 杏林大学
- 2011年 東洋大学
- 2012年 日本女子大学[90]
- 2012年 二松學舍大学
- 2013年 同志社大学[91]
著作
日本語の著作
日本の文学 (筑摩書房, 1963、中公文庫, 新版2020). 吉田健一訳、解説三島由紀夫 |
日本の作家 (中央公論社, 1972) のち中公文庫 |
Ryotaro Shiba and Donald Keene 日本人と日本文化 司馬遼太郎と対談 (中公新書, 1972、中公文庫, 1984) |
Kobo Abe and Donald Keene, 反劇的人間 安部公房との対話 (中公新書,1973) のち中公文庫 |
Ooka Shouhei and Donald Keene, 東と西のはざまで 大岡昇平との対談 (朝日出版社, 1973) |
Tokuoka Takao and Donald Keene, 悼友紀行 三島由紀夫の作品風土 徳岡孝夫との共著 (中央公論社, 1973、新潮文庫, 2020) |
ドナルド・キーンの日本文学散歩(朝日選書, 1975). Column in Asahi Weekly 週刊朝日, 8th Jan 1957 - 26th Sept 1975 |
ドナルド・キーンの音盤風刺花伝 (音楽之友社, 1977) のち「わたしの好きなレコード」中公文庫 |
日本文学を読む (新潮選書, 1977、新版2020) 、後者は日本の面影を増補 |
対談集 日本の魅力 (中央公論社, 1979) |
日本を理解するまで (新潮社, 1979) |
日本文学のなかへ (文藝春秋, 1979) |
音楽の出会いとよろこび (音楽之友社, 1980) 中矢一義訳、のち中公文庫 |
ついさきの歌声 (中央公論社, 1981) 中矢一義訳 |
私の日本文学逍遥 (新潮社, 1981) |
日本人の質問 (朝日選書, 1983) |
百代の過客 日記にみる日本人(朝日新聞社, 1984)Column in the Asahi Evening News, 4th Jul 1983 - 13th Apr 1984. |
少し耳の痛くなる話 (新潮社, 1986) |
二つの母国に生きて (朝日新聞社, 1987) |
続 百代の過客 日記にみる日本人(朝日新聞社, 1988) |
古典を楽しむ 私の日本文学 (朝日選書, 1990) |
日本人の美意識 (中央公論社, 1990) |
世界のなかの日本 十六世紀まで遡って見る 司馬遼太郎と対談 (中央公論社, 1992、中公文庫, 1996) |
声の残り 私の文壇交遊録 (朝日新聞社, 1992) |
このひとすじにつながりて(朝日選書, 1993). Column in the Asahi Evening News, 7th Jan 1990 - 9th Feb 1992. |
Yukio Mishima & Donald Keene (editor), 三島由紀夫未発表書簡 ドナルド・キーン氏宛の97通 (中央公論社, 1998) |
日本語の美 (中公文庫, 2000) |
明治天皇を語る (新潮新書, 2003). 講演録 |
日本文学は世界のかけ橋 (たちばな出版, 2003) |
Jakucho Setouchi, Donald Keene & Shunsuke Tsurumi, 同時代を生きて 忘れえぬ人びと (岩波書店, 2004) |
私の大事な場所 (中央公論新社, 2005、中公文庫, 2010) |
ドナルド・キーン著作集(全15巻)(新潮社, 2011‐2016)
The collected works of Donald Keene (15 volumes) 、日本文学史 The history of Japanese literatureは未収録 |
Donald Keene & Koike Masayuki, 戦場のエロイカ・シンフォニー 私が体験した日米戦 (藤原書店, 2011) |
Donald Keene and Setouchi Jakuchou, 日本を、信じる (中央公論新社, 2012) |
私が日本人になった理由―日本語に魅せられて (PHP研究所, 2013) |
ドナルド・キーン―わたしの日本語修行 (白水社, 2014、新版2020)、共著者 河路由佳 |
ドナルド・キーンの東京下町日記 (東京新聞, 2019) |
黄犬(キーン)交遊抄 (岩波書店, 2020) |
日本を寿ぐ (新潮選書, 2021) |
英語の著作
原作 | 翻訳 |
---|---|
The Battles of Coxinga: Chikamatsu's Puppet Play, Its Background and Importance (Taylor's Foreign Pr, 1951) | |
The Japanese Discovery of Europe: Honda Toshiaki and other discoverers 1720-1952 (Routledge and K. Paul, 1952) | 日本人の西洋発見 (錦正社, 1957). 和訳者 藤田豊 & 大沼雅彦
日本人の西洋発見 (中公叢書, 1968). 和訳者 芳賀徹 [2nd ed]、のち中公文庫 |
Japanese Literature an Introduction for Western Readers (Grove Pr, June 1, 1955) | |
Modern Japanese Literature: An Anthology (Grove Pr, June 1, 1956) | |
Living Japan (Doubleday, 1959) | 生きている日本 (朝日出版社, 1973). 和訳者 江藤淳 & 足立康
Revised edition published as 果てしなく美しい日本 (講談社学術文庫, 2002). 改訳版・足立康 [?mistake. ?Separate work] |
Major Plays of Chikamatsu (Columbia Univ Pr, January 1, 1961) | |
Four Major Plays of Chikamatsu (Columbia Univ Pr, June 1, 1961) | |
Donald Keene, Kaneko Hiroshi (photography) & Jun'ichirō Tanizaki (introduction), Bunraku: The Art of the Japanese Puppet Theatre (kodansha International, 1965) | 文楽 (講談社, 1966). 和訳者 吉田健一 |
Japanese Discovery of Europe, 1720-1830. Revised/2nd ed. (Stanford Univ Pr, June 1, 1969) | |
The Manyoushu (Columbia Univ Press, 1969) | |
Twenty Plays of the Noh Theatre (Columbia Univ Pr, June 1, 1970) | |
War-Wasted Asia: letters, 1945-46 (Kodansha International, 1975) | 昨日の戦地から (中央公論新社, 2006). 和訳者 松宮史朗. |
World Within Walls: Japanese Literature of the Pre-Modern Era, 1600-1867 (Henry Holt & Co, October 1, 1976)
Second book in the "A History of Japanese Literature" series |
日本文学史 近世篇, 2 vols. (中央公論社, 1976–77). 和訳者 徳岡孝夫 |
Landscapes and Portraits: Appreciations of Japanese culture (Kodansha International, 1978) | |
Meeting with Japan (学生社, 1979) | 日本との出会い (中央公論社, 1972). 和訳者 篠田 一士 |
Some Japanese Portraits (Kodansha Amer Inc, March 1, 1978/9) | 日本文学散歩 (朝日選書, 1975). 和訳者 篠田 一士 |
Travels in Japan (Gakuseisha, 1981) | 日本細見 (中央公論社, 1980). 和訳者 ?? |
Dawn to the West: Japanese Literature of the Modern Era; Fiction (Holt Rinehart & Winston, April 1, 1984)
Third book in the "A History of Japanese Literature" series |
|
* Dawn to the West: Japanese Literature in the Modern Era; Poetry, Drama, Criticism (Holt Rinehart & Winston, April 1, 1984)
Fourth book in the "A History of Japanese Literature" series |
|
Dawn to the West: Japanese Literature in the Modern Era (Henry Holt & Co, September 1, 1987) | |
The Pleasures of Japanese Literature (Columbia Univ Pr, October 1, 1988) | 古典の愉しみ (JICC, 1992). 和訳者 大庭みな子、のち宝島社文庫で再版, 2000. |
Donald Keene with Herbert E. Plutschow, Introducing Kyoto (Kodansha Amer Inc, April 1, 1989) | |
Travelers of a Hundred Ages: The Japanese As Revealed Through 1,000 Years of Diaries (Diane Pub Co, June 1, 1989) | 百代の過客 日記にみる日本人 (朝日選書(正・続), 1984 and 1988). 和訳者 金関寿夫、のち講談社学術文庫, 2011 and 2012. [trans of revised edition] |
Modern Japanese Novels and the West (Umi Research Pr, July 1, 1989) | |
No and Bunraku: Two Forms of Japanese Theatre (Columbia Univ Pr, December 1, 1990) | 能・文楽・歌舞伎 (講談社, 2001). 和訳者 吉田健一 & 松宮史朗 |
Appreciations of Japanese Culture (Kodansha Amer Inc, April 1, 1991) | |
Donald Keene with Ooka Makoto, The Colors of Poetry: Essays in Classic Japanese Verse (Katydid Books, May 1, 1991) | |
Travelers of a Hundred Ages (Henry Holt & Co, August 1, 1992) | |
Seeds in the Heart: Japanese Literature from Earliest Times to the Late Sixteenth Century (Henry Holt & Co, June 1, 1993)
First book in the "A History of Japanese Literature" series |
|
On Familiar Terms: A Journey Across Cultures (Kodansha Amer Inc, January 1, 1994)
Reworking of the 1990-1992 Japanese newspaper column. |
このひとすじにつながりて (朝日選書, 1993). 和訳者 金関寿夫 |
Modern Japanese Diaries: The Japanese at Home and Abroad As Revealed Through Their Diaries (Henry Holt & Co, March 1, 1995)
後で Columbia Univ Press二出版された, 1999 [?revised edition] Japanese edition published first. |
|
The Blue-Eyed Tarokaja: A Donald Keene Anthology (Columbia Univ Pr, June 1, 1996). Editor. J. Thomas Rimer | 碧い眼の太郎冠者 |
On Familiar Terms: To Japan and Back, a Lifetime Across Cultures (Kodansha Amer Inc, April 1, 1996) | |
もう一つの母国、日本へ - Living in Two Countries (Kodansha International, 1999). 和訳者 塩谷紘
English and Japanese bilingual text |
|
Donald Keene with Anne Nishimura & Frederic A. Sharf, Japan at the Dawn of the Modern Age: Woodblock Prints from the Meija Era, 1868-1912 (Museum of Fine Arts Boston, May 1, 2001) | |
Sources of Japanese Tradition: From Earliest Times to 1600 compiled by Donalde Keen, Wm. Theodore De Bary, George Tanabe and Paul Varley (Columbia Univ Pr, May 1, 2001) | |
Emperor of Japan: Meiji and His World, 1852-1912 (Columbia Univ Pr, April 1, 2002) | 明治天皇 (新潮社(上下), 2001). 和訳者 角地幸男、のち新潮文庫
Also published in 4 volumes, 2007. |
Donald Keene with Lee Bruschke-Johnson & Ann Yonemura, Masterful Illusions: Japanese Prints from the Anne Van Biema Collection (Univ of Washington Pr, September 1, 2002) | |
Five Modern Japanese Novelists (Columbia Univ Pr, December 1, 2002) | 思い出の作家たち―谷崎・川端・三島・安部・司馬 (新潮社, 2005). 和訳者 松宮史朗 |
Yoshimasa and the Silver Pavilion: The Creation of the Soul of Japan (Columbia Univ Pr, November 1, 2003) | 足利義政と銀閣寺 (中央公論新社, 2008). 和訳者 角地幸男. |
Frog In The Well: Portraits of Japan by Watanabe Kazan 1793-1841 (Asia Perspectives),(Columbia Univ. Press, 2006) | 渡辺崋山 (新潮社, 2007). 和訳者 角地幸男 |
Chronicles of My Life: An American in the Heart of Japan. (Columbia Univ. Press, 2008) | 私と20世紀のクロニクル (中央公論新社, 2007)
改題:ドナルド・キーン自伝 (中公文庫, 2011). 和訳者 角地幸男 Un Occidental En Japon (Nocturna Ediciones, 2011). スペイン語・訳者 José Pazó Espinosa |
So Lovely A Country Will Never Perish: Wartime Diaries of Japanese Writers (Columbia Univ. Press, 2010) | ? 日本人の戦争 作家の日記を読む (文藝春秋, 2009). 和訳者 角地幸男、のち文春文庫 |
The Winter Sun Shines In: A Life of Masaoka Shiki (Columbia Univ. Press, 2013) | 正岡子規 (新潮社, 2012). 和訳者 角地幸男 |
History of Japanese literature叢書の翻訳の出版
日本文学史
|
翻訳の著作
- 近松門左衛門, The Battles of Coxinga: Chikamatsu's Puppet Play, Its Background and Importance (Taylor's Foreign Pr, 1951)
- 太宰治, Villon's wife (New Directions, 1955)
- 太宰治, The Setting Sun (New Directions, 1956)
- 太宰治, No Longer Human (New Directions, 1958)
- 近松門左衛門, The Major Plays of Chikamatsu (Columbia Univ Pr, June 1, 1961)
- 批判的な論評も含まれる。
- 吉田兼好, Essays in Idleness: The Tsurezuregusa of Kenko (Columbia Univ Pr, June 1, 1967)
- 三島由紀夫, Five Modern Noh Plays - Including: Madame de Sade (Tuttle, 1967)
- Chushingura(忠臣蔵): The Treasury of Loyal Retainers, a Puppet Play (Columbia Univ Pr, April 1, 1971)
- 三島由紀夫, After the Banquet (Random House Inc, January 1, 1973)
- 安部公房 The man who turned into a stick: three related plays (Columbia Univ Press, 1975). Original text published by Tokyo University Press.
- 源氏物語絵巻 :The tale of the shining Princess (Metropolitan Museum of Art and Viking Press, 1981)
- 安部公房, Friends: a play (Tuttle, 1986)
- 安部公房, Three Plays (Columbia Univ Pr, February 1, 1997)
- 松尾芭蕉, The Narrow Road to Oku (Kodansha Amer Inc, April 1, 1997)
- 川端康成, The Tale of the Bamboo Cutter (Kodansha Amer Inc, September 1, 1998)
- 山本有三, One Hundred Sacks of Rice: A Stage Play (Nagaoka City Kome Hyappyo Foundation, 1998)
- Miyata Masayuki (illustrations), Donald Keene (essay), H. Mack Horton [En trans], 源氏物語 - The tale of Genji (Kodansha International, 2001). Bilingual illustrated text with essay.
- Donald Keene & 小田実, The Breaking Jewel, Keene, Donald (trans) (Columbia Univ Pr, March 1, 2003)
編者
- Anthology of Japanese Literature from the Earliest Era to the Mid-Nineteenth Century (Grove Pr, March 1, 1960)
- The Old Woman, the Wife,and the Archer: Three Modern Japanese Short Novels (Viking Press, 1961)
- Anthology of Chinese Literature: From the 14th Century to the Present Day (co-editor with Cyril Birch) (Grove Pr, June 1, 1987)
- Love Songs from the Man'Yoshu (Kodansha Amer Inc, August 1, 2000)
評伝
- 『ドナルド・キーン 世界に誇る日本文学者の軌跡』河出書房新社〈道の手帖〉、2014年2月
- 『ドナルド・キーン 知の巨人、日本美を語る!』小学館〈和樂ムック〉、2017年6月
- 『ドナルド・キーン 日本の伝統文化を思う』平凡社〈別冊太陽 日本のこころ〉、2017年8月
ドナルド・キーンを演じた人物
脚注
注釈
- ^ 鬼怒川と鳴門を組み合わせて作った当て字である[3]。
- ^ 自伝では"ジャック・ケーア"と表記[13]。
- ^ その後猪俣はコロラド大学海軍日本語学校に教員として勤務した[14]。
- ^ アメリカ陸軍では情報部[16]や第442連隊戦闘団などで日系二世に活躍の機会が与えられたが、アメリカ海軍は日系人の入隊を認めていなかったため、日系人以外の通訳を必要としていた[17]。
- ^ 戦時法規により講師を務める日系人が西海岸での滞在が許されなくなったため、途中で内陸にあるコロラド大学に移転している[18]。
- ^ 駐日米国海軍士官向けに長沼が作成した教科書[20][21]。
- ^ 中には日記を発見するであろうアメリカ人に宛てて、戦後家族に届けてほしい旨の英文が住所とともに書かれていたものもあり、解読を通して兵士らに同情したキーンはこれを密かに保管していたが、後で没収されてしまった[24][25][26]。
- ^ このときの尋問は同僚であったオーテス・ケーリが主に行った[28]。
- ^ 「捕虜になると女性は強姦され、子どもは殺される」と書かれた日本軍の文書を沖縄で見たキーンは、これがその一因であったと考え、「だから、死ななくていい人たちが命を絶った。日本軍がしたことは許せない」と語っている[33]。
- ^ 軍隊での勤務を通してこれまでに知り合った捕虜などの日本人が無事生きていることを知らせるため、その家族に会うことを試みた後、翻訳局での仲間であった日系二世らとともに日光東照宮などを訪問した[35]。
- ^ 当時アメリカで最も著名な日本学者であったセルゲイ・エリセーエフの講義も受けたが、その内容も彼の姿勢もキーンを失望させるものであり、後年自分が教鞭を執ったときの反面教師としている[37]。
- ^ 1952年には、「日本の文学」についての5回連続の講義を開くが、250人入る大教室に僅か10人しか集まらず挫折を覚えたキーンは日本文学研究を棄ててロシア語を学ぼうとするも習得できず、日本語が一番合っていることを再確認して日本文学研究を続行した[4][5]。
- ^ 朝鮮人捕虜から習った経験を生かして朝鮮語の講師も務め、受講者には後にロンドン大学で朝鮮語の権威となるウィリアム・スキレンドがいた[38]。
- ^ この下宿はオーテス・ケーリがキーンに紹介した。現在は同志社大学今出川キャンパスに移築されている[43][44]。
- ^ ケンブリッジ大学が留学の延長を認めなかったことから、コロンビア大学に再移籍している[46]。
- ^ キーンは、国籍取得を決意した当時の心境を「私の思いは、今まで受けてきた親切に応える謝意から生じたもので、生涯の最後を自分に最も愛着の深い人々と共に過ごしたいという望みなのである」「外国人が日本から逃げていくニュースにも落胆していた私は、今こそ、最も率直なかたちで日本のみなさんと一緒になる、その思いを表明しなければと思ったのである」と綴っている[51]。一方、キーンと交流があったタフツ大学のチャールズ・イノウエは「キーンさんはずっと日本のよいところを語ってきたわけなんですけれども、いまになって、もう少し、悪いところも言わなければならないけれど、アメリカ人として言うのはつらくて、できないと。愛する日本を外国人として批判するのではなく、日本人として苦言を呈したかったんです」としているが、国籍取得後の2014年にイノウエに宛てたメールでキーンは「私が懸念しているのは、日本人は私がいかに日本を愛しているかを語ったときしか、耳を傾けてくれないことだ」と述べている[52]。
- ^ キーンは、「石川啄木について連載しているが、難しい。彼の作品のすばらしさと、彼の人を不快にさせるような人生との間で揺れ動く」と述べている[52]。
- ^ キーンいわく、「太宰治は非常に訳しやすかった」「まったく自分が書いているような感じでした」[12]。
- ^ 「日本の小説を翻訳するときに誰(の作品)が大変だったか」との渡辺謙の問いに対し、キーンは「三島由紀夫さんは難しかった」「彼は非常に複雑な比喩があって」と答え、渡辺も「お芝居し始めた頃に読んでもさっぱりわからないことが多かったですからね」と同意している[12]。
- ^ あえて表現をぼかして想像力に委ねる[12]。
- ^ 源義経のような悲劇的な最後を迎える人物を英雄視する点などに着目し、人間的な弱さに同情するようなものの見方が日本的だと考えた[12]。
- ^ 敬語など、社会的立場を示す言葉が用いられることなどに着目した[12]。
- ^ 谷崎潤一郎・川端康成・三島由紀夫・八代目松本幸四郎が観覧した[74]。
- ^ 「日本の民主主義も素晴らしいと思いますが、たとえば選挙のときには『憲法を変えます』とか『原発を造ります』とかは小さな字で書いておいて、勝ったら堂々とやる、というところがあります。為政者が、民主主義の仕組みを状況に合わせて上手に使うわけですね」「ですから、一方に天皇のような、その時々の世の中の変化に動じない存在があるというのは、とても意味のあることではないでしょうか。もちろん皇室は政治的な存在ではありませんが、ずっと動かない精神的な柱があるのは、国にとってとてもいいことだと思うのです」としている[77]。
- ^ 両者は意気投合したものの、三島は「べたべたした」関係は望まないと明言しており、キーンも気楽な昔なじみのような話をするよう提案した三島に応じず、秘密の共有などすることなく文学談義や雑談をする間柄であった。キーンは、「私は三島の『心の友』ではなかった」としているが、完結間近の『豊饒の海』について、作家として身につけたすべてをこの作品に注ぎ込んだ、あと残っているのは死ぬことだけだと三島が言うのを聞いて「なにか悩んでいることがあるんだったら、話してくれませんか」と問いかけた。このとき三島は目をそらして何も言わなかったという[79]。
- ^ 初対面ではキーンが時差ぼけでやられていた上に日本語が話せるにも関わらず通訳(オノ・ヨーコ)をたてられたことで立腹していたことなどから、阿部のキーンに対する当初の印象は悪かった[81]。
- ^ 酒に酔った司馬が朝日の編集局長に「今、朝日を良い新聞にする唯一の方法は、ドナルド・キーンを雇うことだ」と主張したことを契機に客員編集委員のポストが与えられ、キーンの連載が始まった[85]。
出典
- ^ “ドナルド・キーンさん死去 96歳”. NHKニュース. (2019年2月24日) 2019年2月24日閲覧。
- ^ “ドナルド・キーン名誉会員のスピーチ”. 日本ペンクラブ. 2013年9月10日閲覧。
- ^ a b “「鬼怒鳴門」と申します、よろしくお願いします”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2012年3月8日). オリジナルの2012年3月11日時点におけるアーカイブ。 2012年3月8日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n “年譜”. www.donaldkeenecenter.jp. ドナルド・キーン・センター柏崎. 2021年7月23日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k 北嶋藤郷. “日本におけるドナルド・キーン略年譜1922-1977”. 敬和学園大学研究紀要 (敬和学園大学人文学部) 23: 173-193 .
- ^ キーン 2019, pp. 29–36.
- ^ キーン 2019, pp. 17–18.
- ^ キーン 2019, pp. 37–39.
- ^ a b c d e キーン & 河路 2014, pp. 18–28.
- ^ キーン 2019, pp. 40–42.
- ^ a b キーン 2019, pp. 45–47.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r “NHKスペシャル 「私が愛する日本人へ~ドナルド・キーン 文豪との70年~」”. NHKオンデマンド. 日本放送協会 (2015年10月10日). 2021年7月21日閲覧。(要購読契約)
- ^ a b キーン 2019, pp. 53–67.
- ^ a b 吉原ゆかり (2016年10月17日). “1930 年代〜50 年代のジョージ・H・カーと 環太平洋文化交渉の地政学”. つくばリポジトリ. 筑波大学附属図書館. 2021年7月17日閲覧。
- ^ 春名幹男『秘密のファイル CIAの対日工作(上)』新潮社<新潮文庫>2003年、p.224
- ^ すずきじゅんいち (2018年8月15日). “あの戦争でアメリカを勝たせたのは、日系人陸軍情報部員たちだった”. 現代ビジネス. 2021年7月17日閲覧。
- ^ キーン 2019, p. 74.
- ^ a b c キーン & 河路 2014, pp. 34–45.
- ^ キーン 2019, pp. 61–64.
- ^ a b c キーン 2019, pp. 64–67.
- ^ “標準日本語讀本”. 東京日本語学校(長沼スクール). 2021年7月17日閲覧。
- ^ キーン & 河路 2014, p. 119.
- ^ “杏林大学:【お知らせ】 ドナルド・キーン氏に本学名誉博士号授与へ”. 杏林大学. 2021年7月17日閲覧。
- ^ a b キーン & 河路 2014, pp. 140–141.
- ^ a b キーン 2019, pp. 70–71.
- ^ a b “ドナルド・キーン 私が日本人になった理由”. PHPオンライン衆知. PHP研究所 (2013年4月15日). 2021年7月17日閲覧。
- ^ キーン & 河路 2014, pp. 46–47.
- ^ a b キーン & 河路 2014, p. 143.
- ^ a b c キーン 2019, pp. 71–79.
- ^ キーン & 河路 2014, p. 142.
- ^ 「敗戦への序章」『朝日クロニクル週刊20世紀 日本人の100年』78(1943)、朝日新聞社、2000年8月、7頁、2021年4月6日閲覧。
- ^ a b キーン 2019, pp. 92–97.
- ^ a b “【2012年6月20日朝刊社会面】67年前、私は沖縄の戦場にいた 日本国籍取得のドナルド・キーンさん”. 朝日新聞デジタル (2018年10月25日). 2021年7月17日閲覧。
- ^ a b キーン 2019, pp. 91–97.
- ^ a b キーン 2019, pp. 98–105.
- ^ a b キーン 2019, pp. 111–114.
- ^ a b キーン 2019, pp. 115–121.
- ^ キーン & 河路 2014, p. 21.
- ^ キーン 2019, pp. 124–140.
- ^ “日本文学研究者ドナルド・キーンさんが死去 96歳”. 日本経済新聞 (2019年2月24日). 2021年7月23日閲覧。
- ^ “(2ページ目)ドナルド・キーンが知る「上皇上皇后両陛下の素顔」”. 婦人公論.jp (2019年4月23日). 2021年7月22日閲覧。
- ^ a b キーン 2019, pp. 141–165.
- ^ キーン 2019, p. 368.
- ^ a b 大村治郎 (2019年2月27日). “キーンさん愛した「世界一の家」 下宿中に運命の出会い”. 朝日新聞デジタル. 2021年7月23日閲覧。
- ^ キーン 2019, pp. 175–183.
- ^ キーン 2019, p. 184.
- ^ a b c d e f g h 北嶋藤郷. “日本におけるドナルド・キーン略年譜 1978-2014〈2〉”. 敬和学園大学研究紀要 (敬和学園大学人文学部) 24: 163-190 .
- ^ “広報たはらNo.820(平成29年5月号)『山下市長の元気通信 崋山先生が導いた縁』” (PDF). 田原市. p. 15 (2017年5月1日). 2017年5月3日閲覧。
- ^ “愛知)ドナルド・キーンさん、名誉館長に 田原市博物館”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2017年4月4日) 2017年5月3日閲覧。
- ^ “ドナルド・キーン氏が日本国籍取得、永住へ”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2011年4月16日) 2013年9月10日閲覧。
- ^ キーン 2019, pp. 361–366.
- ^ a b c 籔内潤也 (2019年10月4日). “ドナルド・キーンさんの秘めたメッセージ”. NHK NEWS WEB. 日本放送協会. 2021年7月19日閲覧。
- ^ 『読売新聞』2011年9月3日13版37面
- ^ “永住決めたキーンさんが日本到着「希望持とう」”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2011年9月1日)[リンク切れ]
- ^ “ドナルド・キーン氏が日本国籍取得”. 日本経済新聞 (2012年3月8日). 2021年7月18日閲覧。
- ^ 「告示」『官報』5755号、国立印刷局、2012年3月8日、2面。
- ^ “第1回 コミュニケーション・リーダーシップ賞”. district76.org. トーストマスターズ日本 (2017年11月18日). 2021年7月18日閲覧。
- ^ “設立趣旨”. www.bourbon-yoshidakinen-foundation.or.jp. ブルボン吉田記念財団. 2021年7月17日閲覧。
- ^ 新潟日報 2012年9月22日[リンク切れ]
- ^ “ドナルド・キーンさん死去 「日本のことを考えない日はなかった」”. 産経ニュース (2019年2月24日). 2020年11月19日閲覧。
- ^ 日本文学研究者ドナルド・キーンさん死去 -共同通信 2019年2月24日[リンク切れ]
- ^ 故ドナルド・キーン氏に従三位 - 時事ドットコム 2019年3月22日[リンク切れ]
- ^ 『官報』7479号、平成31年4月2日
- ^ “ドナルド・キーンさんの命日は「黄犬忌」 資料も公開へ”. 朝日新聞デジタル (2020年1月8日). 2021年7月17日閲覧。
- ^ “ドナルド・キーン著作集(全15巻)”. 新潮社コーポレートサイト. 2021年7月16日閲覧。
- ^ a b 北嶋藤郷「日本におけるドナルド・キーン略年譜 1978-2014〈2〉」『紀要論文』第24巻、2015年。
- ^ 大木ひさよ「川端康成とノーベル文学賞 -スウェーデンアカデミー所蔵の選考資料をめぐって- (PDF) - 『京都語文』No.21、仏教大学、2014年
- ^ “キーンさん、養子縁組を公表 新潟市出身の浄瑠璃三味線奏者と”. 新潟日報 (新潟日報社). (2013年4月30日). オリジナルの2013年5月13日時点におけるアーカイブ。
- ^ 日本経済新聞社・日経BP社. “浄瑠璃三味線奏者、キーン誠己さん 文楽が結ぶ養父|アート&レビュー|NIKKEI STYLE”. NIKKEI STYLE(2017年2月15日). 2019年2月24日閲覧。
- ^ “ドナルド・キーンさん、日本国籍取得 震災後永住を決意”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2012年3月8日). オリジナルの2012年3月8日時点におけるアーカイブ。
- ^ “ドナルド・キーンさんが日本国籍取得”. nikkansports.com (日刊スポーツ新聞社). (2012年3月8日)[リンク切れ]
- ^ 伊勢神宮と、遷宮の「かたち」』、神社本庁監修 扶桑社 2017年 p.184 ISBN 978-4-594-07887-4
- ^ ドナル・ドキーンさん死去 「日本のことを考えない日なかった」 産経新聞[リンク切れ]
- ^ a b キーン 2019, pp. 166–174.
- ^ “キーンさん死去 地元で愛され、好物は揚げ出し豆腐”. 産経ニュース (2019年2月25日). 2021年7月17日閲覧。
- ^ キーン 2019, p. 260.
- ^ a b “(4・5ページ目)ドナルド・キーンが知る「上皇上皇后両陛下の素顔」”. 婦人公論.jp (2019年4月23日). 2021年7月22日閲覧。
- ^ キーン 2019, p. 203.
- ^ a b キーン 2019, pp. 276–284.
- ^ ドナルド書簡 2001
- ^ a b c キーン 2019, pp. 244–250.
- ^ 『私と20世紀のクロニクル』p.223-224
- ^ a b c d キーン 2019, pp. 219–227.
- ^ キーン 2019, pp. 285–292.
- ^ キーン 2019, pp. 295–296.
- ^ キーン 2019, p. 204.
- ^ キーン 2019, pp. 184–191.
- ^ “名誉区民 ドナルド・キーン 氏”. 東京都北区公式 (2006年11月1日). 2013年9月10日閲覧。
- ^ “Donald Keene, 7 others win Order of Culture” (英語). DAILY YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2008年10月29日). オリジナルの2008年10月30日時点におけるアーカイブ。
- ^ “日本女子大がドナルド・キーンさんに名誉博士号”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2012年6月30日). オリジナルの2012年7月4日時点におけるアーカイブ。 2012年6月30日閲覧。
- ^ “同志社大:ドナルド・キーンさんに名誉博士号”. 毎日jp (毎日新聞社). (2013年7月11日) 2013年9月10日閲覧。
参考文献
- キーンドナルド 著、幸男角地 訳『ドナルド・キーン自伝-増補新版』中央公論新社、2019年3月25日。ISBN 978-4-12-206730-1。OCLC 1097659731。
- キーンドナルド; 河路由佳『ドナルド・キーン わたしの日本語修行』白水社、2014年。ISBN 978-4-560-08677-3。OCLC 891024087。
- 三島由紀夫『三島由紀夫未発表書簡 ドナルド・キーン氏宛の97通』中公文庫、2001年3月。ISBN 978-4122038028。
関連項目
外部リンク
- ドナルド・キーン日本文化センター(コロンビア大学内)
- ドナルド・キーン・センター柏崎
- ドナルド・キーン - NHK人物録
- 『キーン・ドナルド(Donald Keene)』 - コトバンク
- ウィキメディア・コモンズには、ドナルド・キーンに関するカテゴリがあります。