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「イタリア・ルネサンス年表」の版間の差分

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*1345年 - 【フランス】[[パリ]]の[[ノートルダム大聖堂 (パリ)|ノートルダム大聖堂]]完成(1163年 - )。
*1345年 - 【フランス】[[パリ]]の[[ノートルダム大聖堂 (パリ)|ノートルダム大聖堂]]完成(1163年 - )。
*[[1347年]] - [[ニコラ・ディ・リエンツォ]]、[[ローマ]]で[[護民官]]となるが失脚(コーラ革命)。
*[[1347年]] - [[ニコラ・ディ・リエンツォ]]、[[ローマ]]で[[護民官]]となるが失脚(コーラ革命)。
*1347年 - [[ハンガリー王国|ハンガリー]]王[[ラヨシュ1世]]がナポリ女王[[ジョヴァンナ1世・ダンジョ|ジョヴァンナ1世]]を追放、[[ナポリ王国|ナポリ王]]位を要求し首都[[ナポリ]]を占領(→1382年)。
*1347年 - [[ハンガリー王国|ハンガリー]]王[[ラヨシュ1世 (ハンガリー王)|ラヨシュ1世]]がナポリ女王[[ジョヴァンナ1世・ダンジョ|ジョヴァンナ1世]]を追放、[[ナポリ王国|ナポリ王]]位を要求し首都[[ナポリ]]を占領(→1382年)。
*1347年 - 【クリミア】モンゴル人と交戦中の[[ジェノヴァ]]領[[フェオドシヤ|カッファ]]でヨーロッパで最初の[[ペスト]]罹患者が記録される。
*1347年 - 【クリミア】モンゴル人と交戦中の[[ジェノヴァ]]領[[フェオドシヤ|カッファ]]でヨーロッパで最初の[[ペスト]]罹患者が記録される。
*:[[黒海]]から[[地中海]]へのジェノヴァ人の航路をたどり、[[シチリア]]島の[[メッシーナ]]で初めてイタリアにペストが上陸する。
*:[[黒海]]から[[地中海]]へのジェノヴァ人の航路をたどり、[[シチリア]]島の[[メッシーナ]]で初めてイタリアにペストが上陸する。
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*1381年 - [[キオッジャ]]の戦いで[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]が[[ジェノヴァ共和国|ジェノヴァ]]に勝利して海上覇権を握る(1379年 - )。
*1381年 - [[キオッジャ]]の戦いで[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]が[[ジェノヴァ共和国|ジェノヴァ]]に勝利して海上覇権を握る(1379年 - )。
*1382年 - [[ナポリ王国|ナポリ]]女王[[ジョヴァンナ1世・ダンジョ|ジョヴァンナ1世]]が又従弟のカルロ・ディ・ドゥラッツォによって暗殺される
*1382年 - [[ナポリ王国|ナポリ]]女王[[ジョヴァンナ1世・ダンジョ|ジョヴァンナ1世]]が又従弟のカルロ・ディ・ドゥラッツォによって暗殺される
*:カルロに暗殺を命じたのは[[ハンガリー王]][[ラヨシュ1世]]、カルロは[[カルロ3世 (ナポリ王)|カルロ3世]]としてナポリ王位に就く。
*:カルロに暗殺を命じたのは[[ハンガリー王]][[ラヨシュ1世 (ハンガリー王)|ラヨシュ1世]]、カルロは[[カルロ3世 (ナポリ王)|カルロ3世]]としてナポリ王位に就く。
*1382年 - 【フランス】数学者・天文学者であり、国王[[シャルル5世 (フランス王)|シャルル5世]]の貨幣改革の理論家として活躍した[[ニコル・オレーム]]死去。
*1382年 - 【フランス】数学者・天文学者であり、国王[[シャルル5世 (フランス王)|シャルル5世]]の貨幣改革の理論家として活躍した[[ニコル・オレーム]]死去。
*1385年 - チョンピの乱が鎮圧され、サルヴェストロ・デ・メディチやミケーレ・ディ・ランドがフィレンツェから追放される(→1378年)。
*1385年 - チョンピの乱が鎮圧され、サルヴェストロ・デ・メディチやミケーレ・ディ・ランドがフィレンツェから追放される(→1378年)。
*1385年 - [[ミラノ]]の[[ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ|ジャン・ガレアッツォ]]が叔父のベルナボを失脚させ、ミラノの完全な支配権を手中に収める。
*1385年 - [[ミラノ]]の[[ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ|ジャン・ガレアッツォ]]が叔父のベルナボを失脚させ、ミラノの完全な支配権を手中に収める。
*:以後ミラノによる北イタリア統一が進む(1387年に[[ヴェローナ]]、1399年に[[ピサ]]と[[シエーナ|シエナ]]、1402年に[[ボローニャ]]と[[ペルージア]])。
*:以後ミラノによる北イタリア統一が進む(1387年に[[ヴェローナ]]、1399年に[[ピサ]]と[[シエーナ|シエナ]]、1402年に[[ボローニャ]]と[[ペルージア]])。
*1385年 - [[ナポリ王国|ナポリ]]王[[カルロ3世 (ナポリ王)|カルロ3世]]が[[ラヨシュ1世]]亡き後の[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王に迎え入れられる(カーロイ2世)。
*1385年 - [[ナポリ王国|ナポリ]]王[[カルロ3世 (ナポリ王)|カルロ3世]]が[[ラヨシュ1世 (ハンガリー王)|ラヨシュ1世]]亡き後の[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王に迎え入れられる(カーロイ2世)。
*:しかし翌1386年にカルロ3世は、反対派であるラヨシュ1世未亡人[[エリザベタ・コトロマニッチ]]に暗殺される。
*:しかし翌1386年にカルロ3世は、反対派であるラヨシュ1世未亡人[[エリザベタ・コトロマニッチ]]に暗殺される。
*1386年 - [[ミラノのドゥオーモ|ミラノ大聖堂]]の建設開始( - 1813年)。
*1386年 - [[ミラノのドゥオーモ|ミラノ大聖堂]]の建設開始( - 1813年)。

2021年5月24日 (月) 21:51時点における版

イタリア・ルネサンス年表では、主に「イタリアルネサンスの文化」に関する年表を示す。

1300年 - 1399年

1300年代(トレチェント Trecento)

1400年 - 1499年

1400年代(クアトロチェント Quattrocento):フィレンツェの経済力を背景に文芸、美術など各分野に人材が輩出し、ルネサンス文化が栄える。東ローマ帝国の知識人がもたらしたギリシャ語文献や印刷術の発明から大きな刺激を受ける。

1500年 - 1599年

1500年代(チンクエチェント Cinquecento):ローマを中心にルネサンス文化が最盛期を迎えるが、間もなく宗教改革が起こり、1527年のローマ略奪により荒廃。文化の中心はフランスやヴェネツィアなどに移り、マニエリスムと呼ばれる傾向が表れる。宗教改革への反動と外国の侵略によりイタリアのルネサンス文化は衰退に向かう。

1600年以降

1600年代(セイチェント Seicento):トリエント公会議以後、ローマはカトリックの首都として装いも新たに作り変えられ、イエズス会を中心に強化された対抗改革の美学が新しい時代の規範とされていく。前世紀までの晦渋で複雑な貴族趣味的なマニエリスム芸術は忌避されるようになり、一般信徒に向けたカトリック信仰の教化のため、写実主義と古典主義が復活する。写実主義を代表するのがカラヴァッジオであり、古典主義を代表するのがカラッチ一族である。これらの傾向とともに、演劇的な表現が加味されたバロックと呼ばれる新しい様式が生み出された。

関連項目