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「イタリア・ルネサンス年表」の版間の差分

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*:この時期からいわゆる[[プラトン・アカデミー]]の人文主義的サークルが動き出すか(存在の否定説もあり)。
*:この時期からいわゆる[[プラトン・アカデミー]]の人文主義的サークルが動き出すか(存在の否定説もあり)。
*1463年 - [[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]と[[オスマン帝国]]との全面戦争勃発( - 1479年)。
*1463年 - [[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]と[[オスマン帝国]]との全面戦争勃発( - 1479年)。
*:ヴェネツィアは[[アルゴス]]を奪取、ハンガリー王[[マーチャーシュ1世]]は[[ボスニア]]に進軍、[[スカンデルベク]]は[[アルバニア]]で奮戦。
*:ヴェネツィアは[[アルゴス]]を奪取、ハンガリー王[[マーチャーシュ1世 (ハンガリー王)|マーチャーシュ1世]]は[[ボスニア]]に進軍、[[スカンデルベク]]は[[アルバニア]]で奮戦。
*1463年 - [[マルシリオ・フィチーノ|フィチーノ]]『[[ヘルメス文書]]』を翻訳。
*1463年 - [[マルシリオ・フィチーノ|フィチーノ]]『[[ヘルメス文書]]』を翻訳。
*1464年 - 教皇[[ピウス2世 (ローマ教皇)|ピウス2世]]が[[アンコーナ]]で死去、後継の教皇は[[パウルス2世 (ローマ教皇)|パウルス2世]]。
*1464年 - 教皇[[ピウス2世 (ローマ教皇)|ピウス2世]]が[[アンコーナ]]で死去、後継の教皇は[[パウルス2世 (ローマ教皇)|パウルス2世]]。
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*1490年 - [[ドメニコ・ギルランダイオ|ギルランダイオ]]による[[サンタ・マリア・ノヴェッラ教会]]壁画「聖母マリアの生涯」完成(1486年 - )。
*1490年 - [[ドメニコ・ギルランダイオ|ギルランダイオ]]による[[サンタ・マリア・ノヴェッラ教会]]壁画「聖母マリアの生涯」完成(1486年 - )。
*:この壁画の「神殿のザカリアス」に[[マルシリオ・フィチーノ|フィチーノ]]、[[クリストフォロ・ランディーノ|ランディーノ]]、[[アンジェロ・ポリツィアーノ|ポリツィアーノ]]、デメトリオス・カルココンデュレスの肖像画がある。
*:この壁画の「神殿のザカリアス」に[[マルシリオ・フィチーノ|フィチーノ]]、[[クリストフォロ・ランディーノ|ランディーノ]]、[[アンジェロ・ポリツィアーノ|ポリツィアーノ]]、デメトリオス・カルココンデュレスの肖像画がある。
*1490年 - 【ハンガリー】ハンガリー国王[[マーチャーシュ1世]]死去。
*1490年 - 【ハンガリー】ハンガリー国王[[マーチャーシュ1世 (ハンガリー王)|マーチャーシュ1世]]死去。
*:アルプス以北で最大と言われた蔵書・[[コルヴィナ文庫]]を残す。
*:アルプス以北で最大と言われた蔵書・[[コルヴィナ文庫]]を残す。
*1490年頃 - 【フランドル】[[ヘールトヘン・トット・シント・ヤンス]]「荒野の[[洗礼者ヨハネ]]」([[絵画館 (ベルリン)|ベルリン絵画館]]蔵)。
*1490年頃 - 【フランドル】[[ヘールトヘン・トット・シント・ヤンス]]「荒野の[[洗礼者ヨハネ]]」([[絵画館 (ベルリン)|ベルリン絵画館]]蔵)。

2021年5月24日 (月) 22:02時点における版

イタリア・ルネサンス年表では、主に「イタリアルネサンスの文化」に関する年表を示す。

1300年 - 1399年

1300年代(トレチェント Trecento)

1400年 - 1499年

1400年代(クアトロチェント Quattrocento):フィレンツェの経済力を背景に文芸、美術など各分野に人材が輩出し、ルネサンス文化が栄える。東ローマ帝国の知識人がもたらしたギリシャ語文献や印刷術の発明から大きな刺激を受ける。

1500年 - 1599年

1500年代(チンクエチェント Cinquecento):ローマを中心にルネサンス文化が最盛期を迎えるが、間もなく宗教改革が起こり、1527年のローマ略奪により荒廃。文化の中心はフランスやヴェネツィアなどに移り、マニエリスムと呼ばれる傾向が表れる。宗教改革への反動と外国の侵略によりイタリアのルネサンス文化は衰退に向かう。

1600年以降

1600年代(セイチェント Seicento):トリエント公会議以後、ローマはカトリックの首都として装いも新たに作り変えられ、イエズス会を中心に強化された対抗改革の美学が新しい時代の規範とされていく。前世紀までの晦渋で複雑な貴族趣味的なマニエリスム芸術は忌避されるようになり、一般信徒に向けたカトリック信仰の教化のため、写実主義と古典主義が復活する。写実主義を代表するのがカラヴァッジオであり、古典主義を代表するのがカラッチ一族である。これらの傾向とともに、演劇的な表現が加味されたバロックと呼ばれる新しい様式が生み出された。

関連項目