「清史稿」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
→‎列伝: リンク調整
Cewbot (会話 | 投稿記録)
558行目: 558行目:
*巻527 列伝三百十四 属国二 - [[西山朝|越南]]
*巻527 列伝三百十四 属国二 - [[西山朝|越南]]
*巻528 列伝三百十五 属国三 - [[コンバウン王朝|緬甸]]・[[アユタヤ王朝|暹羅]]・[[ルアンパバーン王国|南掌]]・[[スールー王国|蘇禄]]
*巻528 列伝三百十五 属国三 - [[コンバウン王朝|緬甸]]・[[アユタヤ王朝|暹羅]]・[[ルアンパバーン王国|南掌]]・[[スールー王国|蘇禄]]
*巻529 列伝三百十六 属国四 - [[ネパール|廓爾喀]]・[[コーカンド・ハン国|浩罕]]・[[キルギス人|布魯特]]・[[カザフ|哈薩克]]・[[アンディジャン|安集延]]・[[マルギラン|瑪爾噶朗]]・[[ナマンガン|那木干]]・[[タシュケント|塔什干]]・[[バダフシャーン|巴達克山]]・[[博羅爾]]・[[阿富汗]]・[[フンザ|坎巨提]]
*巻529 列伝三百十六 属国四 - [[ネパール|廓爾喀]]・[[コーカンド・ハン国|浩罕]]・[[キルギス人|布魯特]]・[[カザフ|哈薩克]]・[[アンディジャン|安集延]]・[[マルギラン|瑪爾噶朗]]・[[ナマンガン|那木干]]・[[タシュケント|塔什干]]・[[バダフシャーン|巴達克山]]・[[博羅爾]]・[[阿富汗]]・[[フンザ|坎巨提]]


== 清史(中華民国) ==
== 清史(中華民国) ==

2021年6月28日 (月) 21:33時点における版

清史稿』(しんしこう)は、中国辛亥革命による中華民国成立後に、趙爾巽が中心となって約100人余りの学者が編纂した二十四史を継ぐ清朝1代の未定稿の紀伝体歴史書。「二十五史」・「二十六史」と称する場合には同書が数えられる。

本項では、『清史稿』を元に中華民国の国民政府によって編纂された『清史中国語版』(しんし)、および中華人民共和国が全く新しく編纂を進めている『清史中国語版』についても併せて解説する。

清史稿

編纂過程

中華民国(北洋軍閥)国務院は、先例にのっとり清史館を設立し、二十四史に続く清代の歴史書を残すよう、大総統袁世凱に意見書を出した。辛亥革命後に成立した中華民国は共和制の国家であり、長く続いた新王朝が前王朝の正史を編纂する形式を取ってきた事を考えれば、最後の王朝となった清の正史は編纂すべきかどうかが問題とされた。だが1914年3月9日、袁世凱は自らの皇帝即位への思惑を含めて清史館設立の布告を出した。清朝の遺臣である趙爾巽を館長に任命し、柯劭忞らが編纂主任となり、9月1日に正式に開館し、「清史」の編纂を開始した。約100人余りが編纂に参加した。編集方針は議論があったが、清史を「旧来の史書の最後」と位置付け、皇帝なき時代の歴史書は、「(その時になって)自ずから別に議論される」はずだから、清史は明史の形式を踏襲すべきという主張が大勢を占めた[1]

だが財政難と袁世凱死後の政治の混乱から編纂作業は遅れ、1920年に初稿が完成したものの、編集が一時中断された後に1926年から修正開始、翌1927年にほぼ脱稿した。趙爾巽は奉天張作霖らの協力を得て翌28年に出版するが、発行直前に趙爾巽が病死すると、その後の方針を巡って清史館が内紛状態に陥り、更に追い討ちをかけるように蔣介石率いる国民政府北伐軍が清史館のある北京を占領した。国民政府は「清史稿」が中国国民党を「賊」として扱っている事、辛亥革命後に及んだ記事についても宣統元号を用いている事(例えば清史館が設置された西暦1914年は中華民国では民国3年であるべきところを宣統6年と記されていた)、革命後も清朝復興と宣統帝の復位を画策していた張勲康有為列伝が立てられていたことに対して強く反発した。このため、国民政府では清史稿の出版禁止命令が出された。

だが、先の内紛の際に外部に持ち出された版があって、これらを元にして金梁満州において校訂したものが、国民政府の実効支配が及ばない満州国(清朝最後の皇帝であった宣統帝こと溥儀が皇帝として即位していた)や日本軍の占領地域で刊行され続けた。一般的には最初に出版されて国民政府に没収された版を「関内本」、満州で校訂されたものを「関外本」と呼ばれている。

なお、現在の中華人民共和国においては、封建主義的な執筆姿勢に対しては批判的であるものの、清朝1代を対象とした纏った正史形式の歴史書として『清史稿』に代わりとなるものが存在しないために、清史稿を他の正史同様に出版する事が認められており、現在は中華書局から発行されている(台湾国民政府が同政権を正統視する『清史』を刊行した事に対抗して従来の『清史稿』に正史に準じた地位を与える事を黙認している側面もあると考えられる)。

また、国共内戦を経て台湾に移転した中華民国では、國史館校注を行った『清史稿校注』が公刊されている。台湾ではこれを足がかりに、さらなる改訂を行った『新清史』を刊行する計画だったが、こちらは実現せずに終わった(#再改訂の試みと挫折参照)。

清史館職員

内容

全書536巻。本紀25巻、志142巻、表53巻、列伝316巻からなる。清太祖ヌルハチが建国即位した1616年から辛亥革命で清朝の幕が下りる1911年までの合計296年に及ぶ歴史が記されている(ただし、関外本は一部の巻の削除・追加が行われて529巻に再編されている)。特徴的な面として「邦交志」(日本欧米など冊封体制外の国々との関係を記す)や「交通志」(鉄道郵便などの交通・通信について記す)が設けられている。編纂時の社会的混乱から落ち着いた編纂が出来ずに杜撰な部分がある一方で、革命後も紫禁城などに残された行政資料などの貴重な内部資料からの引用も含まれており、評価が分かれている。

本紀

  • 巻1 本紀一 - 太祖本紀
  • 巻2 本紀二 - 太宗本紀一
  • 巻3 本紀三 - 太宗本紀二
  • 巻4 本紀四 - 世祖本紀一
  • 巻5 本紀五 - 世祖本紀二
  • 巻6 本紀六 - 聖祖本紀一
  • 巻7 本紀七 - 聖祖本紀二
  • 巻8 本紀八 - 聖祖本紀三
  • 巻9 本紀九 - 世宗本紀
  • 巻10 本紀十 - 高宗本紀一
  • 巻11 本紀十一 - 高宗本紀二
  • 巻12 本紀十二 - 高宗本紀三
  • 巻13 本紀十三 - 高宗本紀四
  • 巻14 本紀十四 - 高宗本紀五
  • 巻15 本紀十五 - 高宗本紀六
  • 巻16 本紀十六 - 仁宗本紀
  • 巻17 本紀十七 - 宣宗本紀一
  • 巻18 本紀十八 - 宣宗本紀二
  • 巻19 本紀十九 - 宣宗本紀三
  • 巻20 本紀二十 - 文宗本紀
  • 巻21 本紀二十一 - 穆宗本紀一
  • 巻22 本紀二十二 - 穆宗本紀二
  • 巻23 本紀二十三 - 徳宗本紀一
  • 巻24 本紀二十四 - 徳宗本紀二
  • 巻25 本紀二十五 - 宣統皇帝本紀

  • 巻26 志一 - 天文一
  • 巻27 志二 - 天文二
  • 巻28 志三 - 天文三
  • 巻29 志四 - 天文四
  • 巻30 志五 - 天文五
  • 巻31 志六 - 天文六
  • 巻32 志七 - 天文七
  • 巻33 志八 - 天文八
  • 巻34 志九 - 天文九
  • 巻35 志十 - 天文十
  • 巻36 志十一 - 天文十一
  • 巻37 志十二 - 天文十二
  • 巻38 志十三 - 天文十三
  • 巻39 志十四 - 天文十四
  • 巻40 志十五 - 異災一
  • 巻41 志十六 - 異災二
  • 巻42 志十七 - 異災三
  • 巻43 志十八 - 異災四
  • 巻44 志十九 - 異災五
  • 巻45 志二十 - 時憲一
  • 巻46 志二十一 - 時憲二
  • 巻47 志二十二 - 時憲三
  • 巻48 志二十三 - 時憲四
  • 巻49 志二十四 - 時憲五
  • 巻50 志二十五 - 時憲六
  • 巻51 志二十六 - 時憲七
  • 巻52 志二十七 - 時憲八
  • 巻53 志二十八 - 時憲九
  • 巻54 志二十九 - 地理一
  • 巻55 志三十 - 地理二
  • 巻56 志三十一 - 地理三
  • 巻57 志三十二 - 地理四
  • 巻58 志三十三 - 地理五
  • 巻59 志三十四 - 地理六
  • 巻60 志三十五 - 地理七
  • 巻61 志三十六 - 地理八
  • 巻62 志三十七 - 地理九
  • 巻63 志三十八 - 地理十
  • 巻64 志三十九 - 地理十一
  • 巻65 志四十 - 地理十二
  • 巻66 志四十一 - 地理十三
  • 巻67 志四十二 - 地理十四
  • 巻68 志四十三 - 地理十五
  • 巻69 志四十四 - 地理十六
  • 巻70 志四十五 - 地理十七
  • 巻71 志四十六 - 地理十八
  • 巻72 志四十七 - 地理十九
  • 巻73 志四十八 - 地理二十
  • 巻74 志四十九 - 地理二十一
  • 巻75 志五十 - 地理二十二
  • 巻76 志五十一 - 地理二十三
  • 巻77 志五十二 - 地理二十四
  • 巻78 志五十三 - 地理二十五
  • 巻79 志五十四 - 地理二十六
  • 巻80 志五十五 - 地理二十七
  • 巻81 志五十六 - 地理二十八
  • 巻82 志五十七 - 礼一(吉礼一)
  • 巻83 志五十八 - 礼二(吉礼二)
  • 巻84 志五十九 - 礼三(吉礼三)
  • 巻85 志六十 - 礼四(吉礼四)
  • 巻86 志六十一 - 礼五(吉礼五)
  • 巻87 志六十二 - 礼六(吉礼六)
  • 巻88 志六十三 - 礼七(嘉礼一)
  • 巻89 志六十四 - 礼八(嘉礼二)
  • 巻90 志六十五 - 礼九(軍礼)
  • 巻91 志六十六 - 礼十(賓礼)
  • 巻92 志六十七 - 礼十一(凶礼一)
  • 巻93 志六十八 - 礼十二(凶礼二)
  • 巻94 志六十九 - 楽一
  • 巻95 志七十 - 楽二
  • 巻96 志七十一 - 楽三
  • 巻97 志七十二 - 楽四
  • 巻98 志七十三 - 楽五
  • 巻99 志七十四 - 楽六
  • 巻100 志七十五 - 楽七
  • 巻101 志七十六 - 楽八
  • 巻102 志七十七 - 輿服一
  • 巻103 志七十八 - 輿服二
  • 巻104 志七十九 - 輿服三
  • 巻105 志八十 - 輿服四
  • 巻106 志八十一 - 選挙一
  • 巻107 志八十二 - 選挙二
  • 巻108 志八十三 - 選挙三
  • 巻109 志八十四 - 選挙四
  • 巻110 志八十五 - 選挙五
  • 巻111 志八十六 - 選挙六
  • 巻112 志八十七 - 選挙七
  • 巻113 志八十八 - 選挙八
  • 巻114 志八十九 - 職官一
  • 巻115 志九十 - 職官二
  • 巻116 志九十一 - 職官三
  • 巻117 志九十二 - 職官四
  • 巻118 志九十三 - 職官五
  • 巻119 志九十四 - 職官六
  • 巻120 志九十五 - 食貨一
  • 巻121 志九十六 - 食貨二
  • 巻122 志九十七 - 食貨三
  • 巻123 志九十八 - 食貨四
  • 巻124 志九十九 - 食貨五
  • 巻125 志一百 - 食貨六
  • 巻126 志一百一 - 河渠一
  • 巻127 志一百二 - 河渠二
  • 巻128 志一百三 - 河渠三
  • 巻129 志一百四 - 河渠四
  • 巻130 志一百五 - 兵一
  • 巻131 志一百六 - 兵二
  • 巻132 志一百七 - 兵三
  • 巻133 志一百八 - 兵四
  • 巻134 志一百九 - 兵五
  • 巻135 志一百十 - 兵六
  • 巻136 志一百十一 - 兵七
  • 巻137 志一百十二 - 兵八
  • 巻138 志一百十三 - 兵九
  • 巻139 志一百十四 - 兵十
  • 巻140 志一百十五 - 兵十一
  • 巻141 志一百十六 - 兵十二
  • 巻142 志一百十七 - 刑法一
  • 巻143 志一百十八 - 刑法二
  • 巻144 志一百十九 - 刑法三
  • 巻145 志一百二十 - 芸文一
  • 巻146 志一百二十一 - 芸文二
  • 巻147 志一百二十二 - 芸文三
  • 巻148 志一百二十三 - 芸文四
  • 巻149 志一百二十四 - 交通一
  • 巻150 志一百二十五 - 交通二
  • 巻151 志一百二十六 - 交通三
  • 巻152 志一百二十七 - 交通四
  • 巻153 志一百二十八 - 邦交一
  • 巻154 志一百二十九 - 邦交二
  • 巻155 志一百三十 - 邦交三
  • 巻156 志一百三十一 - 邦交四
  • 巻157 志一百三十二 - 邦交五
  • 巻158 志一百三十三 - 邦交六
  • 巻159 志一百三十四 - 邦交七
  • 巻160 志一百三十五 - 邦交八

  • 巻161 表一 - 皇子世表一
  • 巻162 表二 - 皇子世表二
  • 巻163 表三 - 皇子世表三
  • 巻164 表四 - 皇子世表四
  • 巻165 表五 - 皇子世表五
  • 巻166 表六 - 公主表
  • 巻167 表七 - 外戚表
  • 巻168 表八 - 諸臣封爵世表一
  • 巻169 表九 - 諸臣封爵世表二
  • 巻170 表十 - 諸臣封爵世表三
  • 巻171 表十一 - 諸臣封爵世表四
  • 巻172 表十二 - 諸臣封爵世表五上
  • 巻173 表十三 - 諸臣封爵世表五下
  • 巻174 表十四 - 大学士年表一
  • 巻175 表十五 - 大学士年表二
  • 巻176 表十六 - 軍機大臣年表一
  • 巻177 表十七 - 軍機大臣年表二
  • 巻178 表十八 - 部院大臣年表一上
  • 巻179 表十九 - 部院大臣年表一下
  • 巻180 表二十 - 部院大臣年表二上
  • 巻181 表二十一 - 部院大臣年表二下
  • 巻182 表二十二 - 部院大臣年表三上
  • 巻183 表二十三 - 部院大臣年表三下
  • 巻184 表二十四 - 部院大臣年表四上
  • 巻185 表二十五 - 部院大臣年表四下
  • 巻186 表二十六 - 部院大臣年表五上
  • 巻187 表二十七 - 部院大臣年表五下
  • 巻188 表二十八 - 部院大臣年表六上
  • 巻189 表二十九 - 部院大臣年表六下
  • 巻190 表三十 - 部院大臣年表七上
  • 巻191 表三十一 - 部院大臣年表七下
  • 巻192 表三十二 - 部院大臣年表八上
  • 巻193 表三十三 - 部院大臣年表八下
  • 巻194 表三十四 - 部院大臣年表九上
  • 巻195 表三十五 - 部院大臣年表九下
  • 巻196 表三十六 - 部院大臣年表十
  • 巻197 表三十七 - 疆臣年表一
  • 巻198 表三十八 - 疆臣年表二
  • 巻199 表三十九 - 疆臣年表三
  • 巻200 表四十 - 疆臣年表四
  • 巻201 表四十一 - 疆臣年表五
  • 巻202 表四十二 - 疆臣年表六
  • 巻203 表四十三 - 疆臣年表七
  • 巻204 表四十四 - 疆臣年表八
  • 巻205 表四十五 - 疆臣年表九
  • 巻206 表四十六 - 疆臣年表十
  • 巻207 表四十七 - 疆臣年表十一
  • 巻208 表四十八 - 疆臣年表十二
  • 巻209 表四十九 - 藩部世表一
  • 巻210 表五十 - 藩部世表二
  • 巻211 表五十一 - 藩部世表三
  • 巻212 表五十二 - 交聘年表一
  • 巻213 表五十三 - 交聘年表二

列伝

清史(中華民国)

編纂過程

関内本を没収してその出版を禁じた国民政府であったが、関外本の存在と日本との戦争によってその命令が有名無実と化したために、国民政府の手によって「清史」を編纂すべきであるという声が上がった。だが、国共内戦で敗北した国民政府は台湾に逃れるなどの混乱があり、正史編纂計画は進まなかった。そこで国民政府は辛亥革命50周年にあたる1961年を目途に国防研究院に正史編纂事業(関内本の改訂)を命じた。中国大陸の正統政権であることのアピールとしても、必要な編纂と認識された。1960年9月、張其昀中国語版・彭国棟らによって改訂に着手した。「清史編纂委員会」は張其昀を主任委員とし、総勢23名の陣容であった。当初予定通りの1961年に刊行された。

巻次説明

全書550巻。本紀25巻、志136巻、表53巻、列伝315巻、補編21巻からなる。また、綱目索引、人名索引も付された。

正史編纂と称するが、実質は『清史稿』関内本の改訂である。ただし、従来の正史執筆と同様に、辛亥革命や中国国民党(=(当時の)国民政府)を否定する記事の削除・書き換えが行われている。また、明らかな事実関係の誤り・誤植なども訂正されたが、改訂期間の短さもあり、訂正の多くは年表部分に留まった。補編には南明紀(5巻、南明政権を扱う)・明遺臣列伝(2巻、清に抵抗した明の旧臣達を扱う)、鄭成功載記(2巻、台湾の鄭氏政権を扱う、これには台湾に追われた国民政府と重ね合わせたものか)、洪秀全載記(2巻、太平天国を扱う)、革命党列伝(8巻、清朝の弾圧と戦った革命家達を扱う)の各巻が立てられて、清朝に対する抵抗の上に辛亥革命を成し遂げたとする中国国民党の歴史観を反映したものとなっている。

再改訂の試みと挫折

中華民国(台湾)では、改訂への肯定的な評価はあったが、不十分とする批判も多かった。張其昀は批判に自覚的で、民国版『清史』の序文で「新史学の体裁と風格によって、清一代の文献を網羅し、理想の新清史を完成させることが、後世の著述家への大きな期待である」と述べた。

その後、台湾では時間経過や経済発展などで、『清史稿』の史料価値に目を向ける余裕が出てきた。1978年より、改めて『清史稿』の校注が行われ、1987年、『清史稿校注』として書籍化された。

こうして『清史稿』の問題点を洗い出した上で、国史館は1990年より再度『新清史』の編纂に着手したが、完成させることはできなかった。これは、台湾としてのアイデンティティに関心が移った結果、台湾史に力点が置かれるようになったためである。『新清史』は本紀など一部はできあがっており、本紀はWebで閲覧することができる。

一方、大陸側の中華人民共和国・国家清史編纂委員会では、中華民国版『清史』を「台湾国民党政権が、中華人民共和国に対抗する手段として、清国史の修正に取り組んだ」ものと認識している[2]

清史(中華人民共和国)

編纂過程

中華人民共和国は、中華民国(台湾)に対する正統政権を主張する一環として、清史の編纂をかねてより計画していた。1950年代初頭、董必武は政府に、中国共産党史と清史の編纂を、国家の二大文化事業として行うべきと提案した[2]。董の提案は、中華民国が既に独自の清史編纂を計画していたことを意識したものだった。この時は計画は具体化しなかったが、政府は清史の編纂を将来の課題とした。

1958年周恩来は歴史家で北京市副市長の呉晗に清史編纂の検討を命じた。呉晗は清の歴史博物館の設立、外国語史料を分析するための英語フランス語ドイツ語満州語モンゴル語の翻訳者、大学の歴史科卒業生、専門の訓練を積んだ清史学者など、総勢100人規模の壮大な計画を立てた。3年間は紙上の計画に留まったが、毛沢東も清史編纂に賛同した。しかし、本格的な編纂は未だ検討段階だった。

1965年秋、中央宣伝部次官の周揚中国語版らにより、「清史編纂委員会」の設立が決まった。編集委員として、郭影秋中国語版、尹達、関山復、劉大年、佟冬、劉導生、戴逸中国語版の7人が招聘された。しかし、清史の歴史家として名声のあった、呉晗と鄭天挺は、中国共産党員では無いという理由で編集委員から外された[注 1]。その2カ月後、呉晗の『海瑞罷官』に対する、姚文元による糾弾を引き金に、文化大革命が勃発した。呉晗は「反革命」とされ獄死し、周揚も投獄された。そして、清史編纂の準備活動の母体である、中国人民大学の清史研究所までもが解散を命じられた。さらに、「清史編纂委員会」そのものが、「郭影秋による、文革に抵抗するための中央宣伝部の陰謀」[3]とレッテルを貼られ、潰されてしまった。

1976年、毛沢東が死去した。1978年、中国人民大学の清史研究所が再建された。1979年、ある人が手紙で、鄧小平に清史の国家編纂を訴えた。これを機に、4度目にして編纂計画が具体化し始めた。しかし、戴逸によると資金不足や清史研究の遅れ、中国学界における清史研究者の力の弱さから、編纂の着手は進まなかった。その間に清史研究所は実績を積み上げ、アメリカ合衆国、日本、ドイツフランスなどの研究者・大学院生との交流を深めた。清史研究所は1996年に独自の「清史」プロジェクトを立ち上げ、教育部の「211工程」の特別助成対象となった。清史研究所は2000年、全12巻の『清史編年』(主編:李文海中国語版)を上梓した。

2001年3月、全国人民代表大会・第4回中国人民政治協商会議第9部会において、清史編纂が正式に国家事業として承認された。2002年3月、戴逸を主任とした国家清史編纂委員会が立ち上げられ、ついに編纂に着手した。2003年、10年以内の完成を目指すと表明した。編纂は新世紀(21世紀)の一大国家プロジェクトと位置付けられており、経費は全て政府の出資となる。従来の正史と違い、共産党政権の基本理念であるマルクス・レーニン主義毛沢東思想鄧小平理論三個代表重要思想に基づく編纂となる。10月、台湾の佛光大学「第一届(回)清史学術研討会」に国家清史編纂委員会の委員も招待され、台中の学者による討論が行われた。その中で、台湾の荘吉発に人民共和国版『清史』の位置づけを問われ、「中華人民共和国政府が全面的にサポートする文化事業であるが、「官修」や「欽定」などの概念には該当しない。元来の「正史」なら皇帝の「欽定」によって初めて完結とされるが、新編『清史』はあくまでも一団の清史専門家による現時点の最高学術水準を反映した大型清史を目指している。学術の面においては政府の干渉を受けない」と回答した[4]

2004年に2013年の完成を予定とする計画が改めて発表され、目録も公開された[5]。主任の戴逸によると、2012年中に95%が完成したが、新史料発見が相次ぎ、また内容に万全を期すため、決定稿は2015年の完成になる見込みだという[6]。2013年12月17日中国人民大学の式典で『清史』初稿が完成したことが発表された。しかし完成は、やはり3年後(2016年)になるという[7]。2016年1月1日には、『人民日報』で改めて初稿の完成が報じられた[8]。しかし刊行は遅れており、2017年には、上級機関への引渡し予定を2018年とした[9]。引渡しは2018年11月に行われた[10]

2019年1月現在、編纂は「最終段階に入った」という[11]。上級機関による点検・変更は6月に終了し、2019年中に公刊予定という[12]。しかし2020年12月現在、公刊はされていない。

また、国家清史編纂委員会は、清史編纂の過程で収集した史料なども単行本化している[8]

巻次説明

当初予定では全書92巻。皇帝の伝記である本紀の代わりに、編年体の通紀[13]8巻を設ける。志39巻、列伝22巻、表29巻、正史で初めて設けられる図録10巻。分野毎の歴史である志の割合が4割を占める[14]。図録には肖像写真なども収録される。約3080人が立伝され、字数は3000万字以上になるという。2013年12月には、全書100巻になると報じられている[7]。最終的に、全書105巻になった[12]。また、正史では初めて現代白話口語)文となる。

批判

アメリカ合衆国の中国研究者であるパメラ・カイル・クロスリーによると、習近平政権は外国人研究者への非難を強めており、「帝国主義者」「歴史虚無主義者」と非難されているという。ここでいう「歴史虚無主義」とは、中国共産党の指導の否定、マルクス主義・社会主義・共産主義の否定を意味する[15]

クロスリーは、『清史』が「清の最大版図は自然かつ平和裏に実現した」とする見方を示すことで、「現在の中国が南シナ海、台湾、チベット、新疆の領有権を主張する根拠」にしていると主張した[16]

関連項目

出典

  1. ^ 張永江「近百年来における中国の清史編纂事業と最新の進展状況(上)」 7頁
  2. ^ a b 新修《清史》、清史工程与清史研究所 - 朱滸 中華文史網(中国語)
  3. ^ 哲人其萎 風範長存 - 戴逸 中華文史網(中国語)
  4. ^ 台湾 佛光大学 「第一届清史学術研討会」参加記 - 華立 中国・アジア研究論文データベース
  5. ^ 中国網 『清史』編纂プロジェクト、総体的な枠組みと目録が原則的に確定
  6. ^ 365ニュース 高毅哲(出典:『中国教育報』) 戴逸:修清史的第十年 日期:2012-12-29 07:37:46 作者: 来源:中国教育報 (中国語)
  7. ^ a b 新華網北京頻道 任敏(出典:『北京日報』) 国家清史編纂工程已完成初稿 2013-12-18 11:29:40 来源: 北京日報 (中国語)
  8. ^ a b 『人民日報』海外版 新修《清史》初稿完成 - 任成琦、郝倖仔 (中国語)
  9. ^ 中外両個清史学家的握手 - 『人民日報』海外版 郝倖仔 (中国語)
  10. ^ 清史編委会開展新修《清史》稿件通読工作 2019-03-27 08:56 - 中華人民共和国文化観光部 李慶禹 (中国語)
  11. ^ 牢牢把握清史研究話語権 - 『人民日報』 周群 (中国語)
  12. ^ a b 新修《清史》已進入稿件通読階段,預計今年出版問世 2019-04-03 20:03 - 『澎湃新聞』 岳懐譲 (中国語)
  13. ^ 『新民晩報』 熬夜写作已成常態 日期:2013-04-28 作者:楊麗瓊 来源:新民晩報 (中国語)
  14. ^ 郭飛 (2020年4月10日). “丹青難写是精神 ——戴逸先生談清史研究及相関問題” ((中国語)). 中国社会科学网-全球最大学術門戸网站. 2020年12月25日閲覧。
  15. ^ 【思享家】警惕歴史虚無主義的“塔西佗陥阱” 来源:光明网-理論頻道2019-06-24 18:40 - 『光明網』 責編:李澍
  16. ^ ニューズウィーク習近平が仕掛ける「清朝」歴史戦争 Streamrolling Its own History 2019年2月16日(土)16時00分

注釈

  1. ^ 実際は、呉晗は中国共産党に入党していた。

参考文献

外部リンク

  • 国学ネット — 原典宝庫(簡体字中国語)
上:1巻/本紀1 - 230巻/列伝17
下:231巻/列伝18 - 529巻/列伝316
  • 国家清史編纂委員会(簡体字中国語)
中華文史網
  • 國史館(繁体字中国語)
國史館史籍全文資料庫 - 『新清史』は本紀のみ公開