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「イタリア・ルネサンス年表」の版間の差分

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*1517年 - 【ドイツ】ヨハネス・ロイヒリン『[[カバラ]]の術について』。
*1517年 - 【ドイツ】ヨハネス・ロイヒリン『[[カバラ]]の術について』。
*1517年 - 【ドイツ】[[ハンス・バルドゥング|ハンス・バルドゥング・グリーン]]「死と乙女」。
*1517年 - 【ドイツ】[[ハンス・バルドゥング|ハンス・バルドゥング・グリーン]]「死と乙女」。
*1518年 - [[ミラノ公国|ミラノ]]公女[[ボナ・スフォルツァ]]と[[ポーランド王国|ポーランド]]王[[ジグムント1世]]の結婚。
*1518年 - [[ミラノ公国|ミラノ]]公女[[ボナ・スフォルツァ]]と[[ポーランド王国|ポーランド]]王[[ジグムント1世 (ポーランド王)|ジグムント1世]]の結婚。
*1518年 - [[ニッコロ・マキャヴェッリ|マキャヴェッリ]]喜劇『[[マンドラゴラ]]』。
*1518年 - [[ニッコロ・マキャヴェッリ|マキャヴェッリ]]喜劇『[[マンドラゴラ]]』。
*1519年 - [[ロレンツォ2世・デ・メディチ|ウルビーノ公ロレンツォ2世]]が死去。
*1519年 - [[ロレンツォ2世・デ・メディチ|ウルビーノ公ロレンツォ2世]]が死去。

2021年7月17日 (土) 21:52時点における版

イタリア・ルネサンス年表では、主に「イタリアルネサンスの文化」に関する年表を示す。

1300年 - 1399年

1300年代(トレチェント Trecento)

1400年 - 1499年

1400年代(クアトロチェント Quattrocento):フィレンツェの経済力を背景に文芸、美術など各分野に人材が輩出し、ルネサンス文化が栄える。東ローマ帝国の知識人がもたらしたギリシャ語文献や印刷術の発明から大きな刺激を受ける。

1500年 - 1599年

1500年代(チンクエチェント Cinquecento):ローマを中心にルネサンス文化が最盛期を迎えるが、間もなく宗教改革が起こり、1527年のローマ略奪により荒廃。文化の中心はフランスやヴェネツィアなどに移り、マニエリスムと呼ばれる傾向が表れる。宗教改革への反動と外国の侵略によりイタリアのルネサンス文化は衰退に向かう。

1600年以降

1600年代(セイチェント Seicento):トリエント公会議以後、ローマはカトリックの首都として装いも新たに作り変えられ、イエズス会を中心に強化された対抗改革の美学が新しい時代の規範とされていく。前世紀までの晦渋で複雑な貴族趣味的なマニエリスム芸術は忌避されるようになり、一般信徒に向けたカトリック信仰の教化のため、写実主義と古典主義が復活する。写実主義を代表するのがカラヴァッジオであり、古典主義を代表するのがカラッチ一族である。これらの傾向とともに、演劇的な表現が加味されたバロックと呼ばれる新しい様式が生み出された。

関連項目