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=== 必殺シリーズに出演 ===
=== 必殺シリーズに出演 ===
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『必殺仕置人』は当初、[[山崎努|山﨑努]]が演じる[[念仏の鉄]]を中心に描かれていたが、次第に藤田の中村主水を中心に物語が展開するようになった<ref name="#5">[[#藤田2006|藤田2006]]、75頁。</ref>。硬軟合わせた意外性と二面性を演じ分けた藤田主水の人気は爆発した<ref name="nikkan200966" />。「あんたはもう死んでいるぜ」は[[流行語]]になり<ref name="nikkan200966" />、テレビ時代劇から初のオリジナル・ヒーローが誕生した<ref name="nikkan200966" />。『必殺仕置人』で複数回監督を担当した[[三隅研次]]は、はじめ「おっさん!あんた芝居下手やなぁ」「こんなんで飯食えると思てんのか!」と藤田の演技を酷評した<ref>[[#藤田2006|藤田2006]]、73頁。</ref>が、次第に「だいぶ芝居が落ち着いてきた」「これあと3回くらいやったら、一生もんのシリーズになるかもしれへん」と評するようになり<ref name="#5"/>、シリーズ終盤には「おっさん、これ必ず続き物になるで。あと半年やったら、中村主水があんたの体ん中入って、これは一生もんやで」と発言した<ref>[[#藤田1991|藤田1991]]、18-19頁。</ref>。三隅の予想は的中し、藤田主演の『[[必殺シリーズ]]』は中断を挟みつつ[[1992年]]3月まで続いた<ref>[[#藤田2006|藤田2006]]、76頁。</ref>。『必殺シリーズ』に出演していた間、藤田はテレビへの出演を同シリーズ1本に絞り、あとは舞台に出るというスタンスをとった<ref>[[#藤田1999|藤田1999]]、151頁。</ref>。
『必殺仕置人』は当初、[[山﨑努]]が演じる[[念仏の鉄]]を中心に描かれていたが、次第に藤田の中村主水を中心に物語が展開するようになった<ref name="#5">[[#藤田2006|藤田2006]]、75頁。</ref>。硬軟合わせた意外性と二面性を演じ分けた藤田主水の人気は爆発した<ref name="nikkan200966" />。「あんたはもう死んでいるぜ」は[[流行語]]になり<ref name="nikkan200966" />、テレビ時代劇から初のオリジナル・ヒーローが誕生した<ref name="nikkan200966" />。『必殺仕置人』で複数回監督を担当した[[三隅研次]]は、はじめ「おっさん!あんた芝居下手やなぁ」「こんなんで飯食えると思てんのか!」と藤田の演技を酷評した<ref>[[#藤田2006|藤田2006]]、73頁。</ref>が、次第に「だいぶ芝居が落ち着いてきた」「これあと3回くらいやったら、一生もんのシリーズになるかもしれへん」と評するようになり<ref name="#5"/>、シリーズ終盤には「おっさん、これ必ず続き物になるで。あと半年やったら、中村主水があんたの体ん中入って、これは一生もんやで」と発言した<ref>[[#藤田1991|藤田1991]]、18-19頁。</ref>。三隅の予想は的中し、藤田主演の『[[必殺シリーズ]]』は中断を挟みつつ[[1992年]]3月まで続いた<ref>[[#藤田2006|藤田2006]]、76頁。</ref>。『必殺シリーズ』に出演していた間、藤田はテレビへの出演を同シリーズ1本に絞り、あとは舞台に出るというスタンスをとった<ref>[[#藤田1999|藤田1999]]、151頁。</ref>。


この間、[[1977年]]11月には渡辺プロから独立。[[1978年]]1月には「藤田が座長で座員は藤田一人の劇団」との体裁で個人事務所「新演技座」を設立。客演ゲスト扱いで[[野川由美子]]、[[芦屋雁之助]]、[[芦屋小雁]]の3名が名を連ね、結成に関わっている。7月1日 - 7月25日には大阪・[[中座]]で旗揚げ公演「ちりれんげ<ref group = "†">原作:[[藤本義一 (作家)|藤本義一]]、脚本:逢坂勉、演出:山本禎男、共演:[[林美智子 (女優)|林美智子]]、芦屋雁之助、芦屋小雁・、[[白木万理]]・[[菅井きん]]、ほか</ref>/必殺仕置人 - 私 中村主水です<ref group = "†">企画:朝日放送、演出・脚本:竹内伸光、共演:白木万里、菅井きん、雪代敬子、芦屋小雁、平井昌一、天野新士、ほか</ref>」を行っている<ref>{{Cite web |url=http://space.geocities.jp/wrjsw332/siokininn-butai1.htm|title=「必殺仕置人」…私 中村主水です|publisher=空想の匣 |date=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140414115458/http://space.geocities.jp/wrjsw332/siokininn-butai1.htm|archivedate= 2014-04-14|accessdate=2014-04-14}}</ref>。
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2022年12月5日 (月) 09:47時点における版

ふじた まこと
藤田 まこと
藤田 まこと
放送ジャーナル社『PRエコノミー』9月号(1961)より
本名 原田 眞(はらだ まこと)
別名義 はぐれ亭馬之助
生年月日 (1933-04-13) 1933年4月13日
没年月日 (2010-02-17) 2010年2月17日(76歳没)
出生地 日本の旗 日本東京府東京市豊島区(現:東京都豊島区池袋
死没地 日本の旗 日本大阪府吹田市阪大病院
血液型 AB型
職業 コメディアン俳優歌手
ジャンル 舞台テレビドラマ映画CM
活動期間 1950年代中期 - 2010年
活動内容 1950年頃:旅回りの歌謡ショーでデビュー
1957年:『びっくり捕物帳』(大阪テレビ
1961年:『スチャラカ社員』(ABC
1962年:『てなもんや三度笠』(ABC)
1973年:『必殺仕置人』(ABC、以来『必殺シリーズ』で中村主水役)
1979年:『京都殺人案内』(ABC・土曜ワイド劇場
1986年ミュージカルその男ゾルバ
1988年:『はぐれ刑事純情派』(テレビ朝日
1998年:『剣客商売』(フジテレビ
配偶者 一般人女性(1959年 - 2010年)
著名な家族 原田敬子(長女、「株式会社藤田まこと企画」社長)
長男
次女(EMIKO
主な作品
てなもんや三度笠
夫婦旅日記 さらば浪人
松本清張の聞かなかった場所
必殺仕事人
京都殺人案内』シリーズ
はぐれ刑事純情派』シリーズ
はぐれ医者・お命預かります!
剣客商売』シリーズ
法廷荒らし 弁護士・猪狩文助
受賞
紫綬褒章2002年
第41回芸術選奨文部大臣賞
文化庁芸術祭優秀賞2回
 『東海林太郎物語・歌こそ我が命』(1984年)
 『旅役者駒十郎日記・人生まわり舞台』(1987年)
おおさかシネマフェスティバル主演男優賞
明日への遺言』(2009年)
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藤田 まこと(ふじた まこと、1933年昭和8年〉4月13日 - 2010年平成22年〉2月17日)は、日本俳優歌手コメディアン東京府東京市(現:東京都豊島区池袋生まれ、京都府京都市育ち。京都市立堀川高等学校中退[1]血液型はAB型。身長173cm。

父は俳優の藤間林太郎。次女は『必殺仕事人V』『必殺橋掛人』の主題歌「さよならさざんか」を歌った藤田絵美子(現:EMIKO)。孫(長女・敬子の娘)は歌手の花リーナ[2]大正三美人の一人林きむ子は父の異父姉[3]で伯母に当たる。曾我廼家喜劇の女形だった曾我廼家弁天は父の異父兄[3]で伯父に当たる。

オフィス斉藤所属。過去には渡辺プロダクション、ごく一時期には吉本興業、その後は新演技座(個人事務所)に所属していた。2002年に紫綬褒章を受章[4]

生涯

誕生・少年時代

1933年4月13日木曜日)、東京府東京市(現:東京都)豊島区池袋に生まれる。父親は無声映画時代のスター俳優だった藤間林太郎[† 1]で、母親は林太郎が大阪の帝国キネマに在籍していた時に身請けした芸妓であった[5]。藤田は芸能人となった後、林太郎にしばしば「お前が生まれるのには金がかかっている。芸人ならばお前の代で元を取れ」と言われたという[5][6]。姉と兄が生まれた後、帝国キネマは撮影所の火災が原因で倒産したため林太郎は大都映画に移籍。そのため藤田は東京で生まれた[7]。母親は藤田を産んだ後伏せりがちとなり間もなく他界したため、藤田は実母の記憶がほとんどないという[8]

小学校時代に林太郎が再婚したが継母とそりが合わず(藤田によると再婚した当初は特に反感は抱いておらず兄が反抗していたが、兄に影響されて反抗するようになった。やがて兄は反抗を止めるようになり、藤田だけが反抗するようになった)[9]、藤田は継母を決して「お母さん」とは呼ばず、兄と姉から「『お母さん』と言え」と殴られたこともあった[10]

1943年、一家は関西(近畿)へ移った。はじめは大阪府枚方市光善寺へ引っ越したが、近くに兵器工場があったため空襲に遭う危険のあることが分かり、すぐに京都府京都市の四条堀川へ再度引っ越した[11]。終戦後の1946年、かつて住んでいた光善寺の長屋の大家との養子縁組の話が持ち上がると、継母を嫌っていた藤田は承諾した。藤田は養父母に馴染んだ[12]が、間もなく志願兵として兵役についていた兄の戦死が判明(搭乗していた輸送船江龍丸が沖縄の久米島沖で十・十空襲に遭い、沈没)し、家族のもとへ戻った[13]

兄が家を出た後、藤田は姉から「お前がお母さんの言うことを聞かないので、家の中がめちゃめちゃになってしまった。だから、お兄ちゃんは居づらくなって戦争に行ったんだ」と言われた[14]。そのため藤田は兄からの最期の音信である葉書を見ては「新しいお母さんと僕が上手くやれていたら、兄貴は戦争に行かなかったかもしれない」、「僕はどうして『お母さん』と素直に呼べなかったんやろう」と後悔するようになった[15]。後に藤田は兄からの葉書をコピーし、常に携帯するようになった[† 2][16]。藤田は後年、継母について「いい人でした」[6]、「大金持ちのところ(藤田は継母の前夫について、「とある著名な文化人」と述べている[17])から、惚れて貧乏役者のところに来たのに、子供が全くなつかなかったというのは辛いことだったでしょう。彼女にも悪かった」と述べている[15]。継母は4、5年で林太郎と離婚した[6]

家族の元へ戻った時、姉は肺を患い伏せっていた(間もなく死去[18])。加えて、林太郎は家庭を顧みない性格の人間だったため、藤田は「頼れるのは自分の才覚だけ」という心境に至り[19]、学校をサボって闇市を徘徊[20]、夜は京都市内のキャバレー将校クラブの近くで進駐軍兵士の靴磨きや連絡係をして金を稼いだ[21]。稼いだ金で買ったどぶろくが藤田が飲んだ最初の酒で、ヒロポンエフェドリンにも手を出した[22]。19歳の時に九州から大阪へ向かう夜行列車の中でヒロポンを使用していたところを警察官に見つかり、逮捕されたこともある[23]。後年、藤田は『はぐれ刑事純情派』で刑事役を演じたことがきっかけである警察幹部と親しくなったが、ある時ヒロポン使用での逮捕歴を持ち出され、「藤田さん、若い頃はやんちゃだったんですね」とからかわれた[24]

俳優・歌手・司会者として活動

1940年代後半[† 3]、林太郎が所属していた一座に雑用係として参加するようになり、他の一座の巡業にも参加するようになった[25]。17歳の時に歌謡ショーの一座の公演で「旅笠道中」を歌ったのが藤田の初舞台で[26]、やがて舞台俳優としても活動するようになった[27]。「藤田まこと」の芸名を名乗るようになったのはこの時期である[28]。舞台俳優からキャリアをスタートさせたことから、藤田は「映画俳優を含め、舞台に上がっていない芸人は芸人ではない」という考えを持っていた[29]

10代の終わりに歌手を志して上京し、ディック・ミネのカバン持ちをしながら前座の歌手として活動した[30]。1年ほどで大阪へ戻り、日本マーキュリーレコードでアルバイトとして働きながら歌手としての修業を積んだ[31][† 4]。藤田は日本マーキュリーレコード所属の歌手の地方巡業に前座歌手として参加したが、ある時病気になった司会者の代役を務めたのをきっかけに、巡業の司会者としても活動するようになった[32]。司会者時代に最も印象に残っている歌手は東海林太郎で、癌の手術を受けた直後で体調が悪かったにもかかわらず、客の入り悪い冬の公演を一切手を抜かずにこなした姿に感銘を受けた。後に東海林の生涯を芝居にしたいと考えた藤田は、1981年10月から1982年3月にかけて東京・大阪・名古屋で『東海林太郎物語・歌こそ我が命』を上演し、1984年に文化庁芸術祭優秀賞を受賞した[33][34]

藤田は中田ダイマル・ラケットの助言を受けて司会の仕事をやめ、俳優として中田ダイマル率いる「ダイマル・ラケット劇団」に入団[35]。藤田曰く当時の大阪では俳優とコメディアンの区別がなく、「役者志望の見習いコメディアン」として活動した[36]。1957年、コメディー時代劇『ダイラケのびっくり捕物帖』で初めてテレビ番組に出演[37]。藤田が演じたのは縁側に座っているだけの与力の役で[38]、藤田によると「なにがなんやらわからんうちにはじまって、終わってしもた」[39]1961年、『笑いの王国』で生放送のCM(亜細亜製薬「強力ベルベ」)に出演。水戸黄門西郷隆盛丹下左膳など知名度の高い人物に扮したことが人気を博した。藤田曰く、この頃に初めて街で視聴者から声をかけられるようになった[40]

てなもんや三度笠に出演

1962年、時代劇コメディー『てなもんや三度笠』に出演。それまで脇役しか演じたことのなかった藤田が初めて主役(あんかけの時次郎)に抜擢された。出演依頼が来た時点で藤田は脇役としてテレビで6本、ラジオで5本の番組にレギュラー出演していたが、ディレクター澤田隆治に「主役の役者が他の番組で脇役を演じては恰好がつかない」という理由からそれらの番組を全て降板するよう要求された。藤田は「三軍[† 5]から一軍に上がるチャンスかもしれん」と思い、条件を受け入れた[41]。澤田によると、突然のレギュラー降板に激怒し、これ以降長い間藤田を起用しなかったテレビ局もあったという[42]

『てなもんや三度笠』は1年間52回の予定で放映を開始した[43]。当初藤田は番組が予定通り1年間存続することさえ危ぶんでいたが、予想外の人気を博し、同番組のスポンサーであった前田製菓のCMフレーズ「俺がこんなに強いのも、当たり前田のクラッカー![† 6]白木みのる財津一郎ら個性的なレギュラー陣のギャグも大当たりとなり、1968年まで放映された[† 7]。また藤田はこの時期渡辺プロダクションに在籍し、クレージーキャッツの主演映画などへの助演のほか、自らの主演映画、谷啓とのコンビ主演映画など、『三度笠』と並行して数多くの映画・テレビ番組等に出演した。『三度笠』の視聴率は最高64.8%を記録(1965年)したが、番組末期には3% - 4%台にまで低迷、藤田自身の人気も凋落の一途を辿った[44]。周囲からの扱いが高視聴率を記録していた時期から一変して悪くなるのを目の当たりにした藤田は「視聴率という、実体のないものの怖さ」を実感したという[45]。『三度笠』の終了後は『てなもんや一本槍』、『てなもんや二刀流』と、続編2作が製作されたが、初期の人気には遠く及ばず、1971年2月末にシリーズは終了した[† 8]

てなもんやシリーズの終了後、藤田のもとには「コメディのどうでもいい仕事の話」がきたが、「コメディそのものにも、いまひとつ乗りきれないものを感じていた」[46]ことからすべて断り、地方のキャバレーを回る巡業に出た[47]。この時、藤田は「僕はもともと旅芸人、元に戻るだけや」という心境だったという[48]。キャバレーでの興業は「意外に楽しく」、そのことが伝わったせいかキャバレー側から「また来てほしい」と要望されることも多かった。収入も『てなもんや三度笠』に出演していた頃よりも良かったが、巡業先でテレビをつけて見知った顔が出てくると焦りを感じたという[49]

必殺シリーズに出演

1973年、広島のキャバレー出演中に朝日放送(ABC)[† 9]プロデューサーの山内久司から電話で、時代劇『必殺仕置人』の中村主水役出演オファーを受ける[50]。山内は、殺し屋グループ『必殺仕置人』といっても家庭で楽しむホームドラマであるし、現代サラリーマンを映した役として「同心」を考え、家庭に馴染む役者として藤田を思いついた[50]。しかし藤田は『てなもんや三度笠』での「意地にゃ強いが情けに弱い、...腕と度胸じゃ、負けないけれど、なぜか女にゃチョイと弱い」イメージが強すぎ[50]、「それが闇の殺し屋?無理じゃないの」という反対意見が朝日放送内で起こったが、その反対を押し切り山内は藤田の起用を決めた[50]。藤田は山内から「主役は山﨑努やけど、あんたは人間の善と悪の二面性を出してくれ」といわれた[50]。「一見情けない男だが、実は腕利きの殺し屋」という設定が「自分にぴったりの役」と感じた藤田は出演を承諾した[51]。交渉の際に山内は「監督の深作欣二が『どうしても藤田まことでやりたい』と言っている」と藤田に話したが、後になって有名な役者4人、5人に依頼を打診したものの「安物の同心で、家に帰ったら養子で肩身が狭い」という設定を嫌われたという話を知った[50]。藤田はその時、出演承諾から撮影開始まで1週間しかなかったことに合点がいったという[52]。藤田は『必殺仕置人』の放映開始時はまだ「コメディアン」で、コメディのみならずシリアスな演技もできる「役者」になったのは2年ほどが経ってからだったと回顧している[53]

『必殺仕置人』は当初、山﨑努が演じる念仏の鉄を中心に描かれていたが、次第に藤田の中村主水を中心に物語が展開するようになった[54]。硬軟合わせた意外性と二面性を演じ分けた藤田主水の人気は爆発した[50]。「あんたはもう死んでいるぜ」は流行語になり[50]、テレビ時代劇から初のオリジナル・ヒーローが誕生した[50]。『必殺仕置人』で複数回監督を担当した三隅研次は、はじめ「おっさん!あんた芝居下手やなぁ」「こんなんで飯食えると思てんのか!」と藤田の演技を酷評した[55]が、次第に「だいぶ芝居が落ち着いてきた」「これあと3回くらいやったら、一生もんのシリーズになるかもしれへん」と評するようになり[54]、シリーズ終盤には「おっさん、これ必ず続き物になるで。あと半年やったら、中村主水があんたの体ん中入って、これは一生もんやで」と発言した[56]。三隅の予想は的中し、藤田主演の『必殺シリーズ』は中断を挟みつつ1992年3月まで続いた[57]。『必殺シリーズ』に出演していた間、藤田はテレビへの出演を同シリーズ1本に絞り、あとは舞台に出るというスタンスをとった[58]

この間、1977年11月には渡辺プロから独立。1978年1月には「藤田が座長で座員は藤田一人の劇団」との体裁で個人事務所「新演技座」を設立。客演ゲスト扱いで野川由美子芦屋雁之助芦屋小雁の3名が名を連ね、結成に関わっている。7月1日 - 7月25日には大阪・中座で旗揚げ公演「ちりれんげ[† 10]/必殺仕置人 - 私 中村主水です[† 11]」を行っている[59]

藤田によると、末期の『必殺シリーズ』は荒唐無稽なストーリーが続出し、若い視聴者に向けて、まるで「饅頭の上に苺のっけたり、生クリームかけたり、ちょっとチェリーをのせたり、そんな雰囲気のデコレーション」を施すようになった。これを契機に藤田は制作サイドにシリーズ終了を訴えた[60]。藤田はこの事について「『必殺シリーズ』で時代劇は終焉をみたのであり、それ以降の番組は我々の失敗したことをまた懲りずにやってる状態だった」と当時の状況を客観的に述べている[60]

必殺シリーズ終了後

1988年、『はぐれ刑事純情派』シリーズの放映が開始。派手な演出がない作品だったことから藤田は当初ヒットしないという予感を抱いていたが、「なんや知らんうちに、長続き」し、18年間にわたって放映された[61]。藤田は『必殺シリーズ』と『はぐれ刑事純情派』シリーズとを比較し、「コメディアン」として起用された前者と「役者」として起用された後者とでは重みが違ったと述べている[62]

1998年から放映された『剣客商売』シリーズは、藤田の晩年を代表する作品のひとつとなった。藤田は『東海林太郎物語』や『その男ゾルバ』を上演した50代を自らの人生の中で最も充実した時期であったと振り返っている[63]が、50代のうちに60代で行うことを考えなかったため、この先に何をすべきか迷い、頭の中が真っ白な状態になったという。藤田はそんな中で『剣客商売』に出会い、迷いが消えたと述べている[64]

2006年11月4日にはフジテレビの『仕掛人・藤枝梅安』で音羽の半右衛門を演じ、翌2007年7月7日にはABCテレビ・テレビ朝日の『必殺仕事人2007』で再び中村主水を演じた。

晩年

2008年4月に体調不良を訴えて検査を受けたところ、食道がんであることが判明、6月の明治座剣客商売』の舞台公演を降板して入院加療を行い[65]10月下旬より復帰、ABCテレビテレビ朝日の『必殺仕事人2009』に中村主水役でレギュラー出演した。

2009年10月期の『JIN-仁-』(TBS)にも新門辰五郎役で出演予定であったが、慢性閉塞性肺疾患により降板している[66]

その後リハビリを続けていたが、2010年2月16日箕面市の自宅で夕食後の家族団欒中に突然吐血し、大阪大学医学部付属病院に搬送されるも、翌17日7時25分、大動脈瘤破裂のため死去[67]、76歳没。1月には体調の回復もあってナレーションの仕事を務め、3月の完全復帰を予定していた矢先の事であった。

藤田死去の報に、テレビ創世記の時代に共に活躍した戦友でもあった大村崑は「まこちゃんとの思い出はつきない。彼は大阪人の宝です」、『てなもんや三度笠』で共演した白木みのるは「僕の大きな友達を亡くした」とそれぞれ追悼の辞を発表(白木は『情報ライブ ミヤネ屋』で宮根誠司から訊かれるまで藤田まことの死を知らなかったと言う)[68]。『てなもんや三度笠』のスポンサーを務めた前田製菓も公式サイトのトップページにおいて追悼文を掲載した。戒名は、「寿量院修芸日真居士(じゅりょういんしゅうげいにっしんこじ)」。遺作は『京都殺人案内』の第32作目(2010年2月27日放送)。死去5か月後に放送されたスペシャルドラマ「必殺仕事人2010」(2010年7月10日放送)では、過去の映像と声のみ出演した(そのため、エンディングのキャストロールで藤田の名前が表示されていた)。

通夜・葬儀は、長男が喪主を務め、近親者のみで執り行った為(しかし密葬にも関わらず約100名の弔問客が訪れ、後述の「偲ぶ会」では約600名が参列した)、政財界や芸能関係者から「藤田さんにお別れを言いたい」と望む声が寄せられたことから遺族側は2011年4月13日(藤田の78回目の誕生日に当たっていた)にお別れの会を計画した。しかし、東日本大震災が発生したことによりこれを取り止め、日を改めて同年11月24日森光子野中広務石原慎太郎森喜朗らを発起人に東京国際フォーラムで『藤田まことさんを偲ぶ会』が「藤田まこと 役者人生最後の花道」と銘打って行われ[69]、当日は塩川正十郎黒柳徹子東山紀之京本政樹など、藤田にゆかりのある関係者が出席し、藤田を偲んだ[70]

俳優としての特徴・エピソード

  • 陰がある役柄や必ずしも恰好がよく人生で成功を収めたわけではない人物を演じるのを好んだ[71]。逆に成功譚は嫌いで、「出世していく男」「偉くなっていく男」を演じるのは「願い下げである」と述べている。その理由について藤田は、「成功者は成功する過程で他人を追い落とすなど人間らしいとはとても言えないような生き方をするものだが、芝居にするとそのような人間らしくない生き方が省略されたり強引に美化されるからだ」と述べている[72]。藤田は「一種のスーパーマンなのだが、だからといって…別に出世するわけでもないし、偉くなっていくわけでもない」中村主水は「納得しながら演じられた役」だと述べている[73]
  • 尊敬する俳優として、新国劇のスター、辰巳柳太郎の名を挙げている。藤田は幼い頃、ファンだった父親に連れられてしばしば新国劇を観に行き、辰巳の楽屋を訪れた[74]。藤田は『てなもんや三度笠』の放映終了後キャバレー回りをしていた時期に、「役者の顔」でなくなる(藤田曰く、俳優が食い繋ぐために俳優以外の仕事を長くすると、次第に「役者の匂い」が抜けていき、その仕事をする者の顔になっていくという)ことを恐れ、当時所属していた渡辺プロに頼んで芝居を上演したことがある[75]が、その時辰巳との共演を果たし、以降辰巳の「勝手弟子」を自称した[76][77]
  • 藤田は自身を「ひとつの役を何十回とやらないとモノにできない」タイプの俳優だと分析している[78]。ただし「人のセリフまで通して本を全部を覚えてしまう」というほどセリフ覚えがよく、セリフが出てこなくなった失敗はなかったという[79]
  • 俳優はある程度ミステリアスで、「何を考えているんやろ」「どんな奴なんやろう」と想像されるほうがいいという考えの持ち主であった。手の内を明かしたくないという理由からバラエティ番組にはあまり出演しなかった[80]。藤田は「テレビでチャラチャラしてる人は芸人じゃない。芸を売ってる人じゃない。…呼び名はタレントでええ」とも述べている[29]
  • 撮影において「こんなもんでええかな」と妥協してしまった際にはその作品をビデオに録画し、後で観賞する習慣があった。そうして録画された作品はビデオテープ100本分以上にのぼった。逆に「上手く行った」と思える作品は1本も録画しなかった[81]。それらのビデオテープについて藤田は「この失敗作こそ僕の"財産"かもしれませんな。でも、ふつうの財産と違うのは、増やしてはならない財産であるところ」と述べている[82]
  • 藤田はハイビジョンについて、「技術革新が進むことについては賛成」としつつ、ハイビジョン撮影された映像は「光と影の交わった部分の微妙な部分の味わい」が消えてしまい、人々の微妙な機微を表現できないという理由からハイビジョンでの撮影に否定的だった。藤田は「いずれ元のフィルムに戻そうという時代が来るのではないか」と述べている[83]
  • 時間に厳しく、俳優生活の中で遅刻したのは2度だけだという[84]。藤田にとって時間を守ることは「最低限の約束事」で、遅刻する人間のことは無視した[85]
  • 「まわりに人をいっぱい置いておくのは嫌い」という理由から弟子をとらなかった[86]西川きよしは藤田に弟子入りを志願して断られたことがあり、西川によると漫才師として成功を収めた後、しばしば藤田に「弟子にしてたら今の“やすきよ”はないぞ」と言われたという[87]
  • 芝居と俳優との関係について、台本を書く演出家は芝居という子供を「産みっぱなしですぐどっかに行ってしまう」ため、俳優の力でアレンジし、育てなければならないと述べている。俳優には芝居を育てるための感性が必要だと述べている[88]
  • 「余分なところがないと、いいものはできない」という考えから、作品を作るにあたって「大きな絵を描いて、そこから余分なものを削っていって、無駄をそぎ落としていく」ことをよしとした。藤田は舞台では3分、40分長めの脚本を書くよう、ドラマでは長めに撮影するようスタッフに要求した[89]
  • NHK大河ドラマ武蔵 MUSASHI』に柳生石舟斎役で出演した際、台本にある台詞を役柄に合ったものに変えたいと数回要望したが、その度に現場のディレクターからは「プロデューサーとの相談なしに現場で処理することはできない」と返答され、撮影を後回しにされた。このことに対するストレスから藤田はNHKのスタジオに近づくだけで熱っぽさ、息苦しさ、頭痛などを覚えるようになった。藤田はこの症状をNHK病と呼び、『武蔵』以降NHKのドラマには一切出演しなくなった(但し、テレビドラマ以外の番組にはその後も出演しており、藤田の死亡時には追悼番組が放送されている)[90]。なお、『武蔵』の総集編からは藤田の登場シーンがカットされており、作品自体がその後封印状態になったが、この時のトラブルが原因かどうかは定かでない。
  • 舞台『浪花恋しぐれ・桂春団治』を演じたのをきっかけに落語を演じるようになり、1999年5月には独演会を催した[91]。この独演会には春風亭小朝が観に来ており、そのことを後で知った藤田は「もう二度とやらへんぞ」と思ったという[92]
  • 「耳の穴から指つっこんで奥歯ガタガタいわせたろうか」とのフレーズは藤田が作ったものとされる[93]

私生活

  • 1959年に結婚。結婚資金のなかった藤田は新居を購入するにあたり、新居のほか自らを担保に入れて家を購入[94]した。結婚式と披露宴の費用は、それらの様子を収めた映像を1年間式場のテレビコマーシャルに使用させることと引き換えに、無料にすることに成功した[95]。しかし、披露宴に招待した芸能人にはそのことが知らされておらず、勝手にコマーシャルに使われたと苦情が殺到[96]。最終的には中田ダイマルが「今回のカタに自分のところで一生ただ働きさせる」と仲裁して解決した[97]
  • 「芸人は夢を売る商売。派手に遊ばな」という主義の持ち主で、しばしば高級クラブを飲み歩いた。大阪では南都雄二藤山寛美とともに「キタの雄二か、ミナミのまこと、東西南北藤山寛美」(南都雄二は北新地、藤田はミナミを飲み歩き、藤山寛美はどこにでも現れる、という意味)と評された[98]渡辺プロダクション所属時には社長の渡辺晋よりもクラブからの請求書が多かったという逸話がある[99]
  • 酒好きで知られており「飲むのをやめるときは、グラスを口にもってくのが面倒くそうなったときくらい」、「だれかが飲ませてくれるなら、ずーっと飲み続けてるかもわかりません」と述べている[100]
  • バブル景気が到来すると、藤田は自らが保証人となって銀行から巨額の事業資金を借り入れ、妻と息子、娘に料理店やブティックを経営させ、さらに1600平方メートルの自宅を新築する(藤田曰く、土地の建物を合わせて10億円以上の費用を要した[101])などした。しかし総量規制の影響から資金調達が滞るようになり、28億の負債を抱え[102][103]、不動産をはじめ車や絵画など資産のほとんどを手放す羽目になった[104]。藤田はバブル景気について、「あの時代はおかしかった」と振り返っている[105][† 12]
  • 『近鉄パールス』時代から筋金入りの大阪近鉄バファローズの大ファンとして知られており、2004年プロ野球再編問題では合併反対運動にも関わった[† 13]
  • 生前は、娘と孫(上述の花リーナ)がハワイに住んでいたこともあり、年に数回訪れるほどのハワイ好きでもあった。現地で『はぐれ刑事純情派』が放送されていたこともあり、現地での知名度も高く、訪れるたびに現地の日本語ラジオ局に出演し、シルバー・センター訪問なども行っていたほか、当時の市長とも交流があったという。映画『明日への遺言』で岡田資陸軍中将を演じた際は、英語での台詞もあったため、孫に英語の発音を直してもらっていたとのこと[106]

受賞

賞詞

1984年

  • 第39回文化庁芸術祭優秀賞 『東海林太郎物語・歌こそ我が命』

1987年

  • 第42回文化庁芸術祭優秀賞 『旅役者駒十郎日記・人生まわり舞台』

1990年

2009年

栄典

2002年

  • 紫綬褒章

出演

テレビドラマ

NHK総合

日本テレビ系列

  • 東西とーざい(1959年、YTV
  • しゃっくり寛太(1960年、YTV)
  • 愛の劇場『あしあと』(1961年、YTV)
  • ごきげん野郎(1962年、日本テレビ)
  • 日立ファミリー劇場『泥棒と令嬢』(1962年、日本テレビ)
  • まぼろしの花(1962年、YTV)
  • 日産スター劇場(日本テレビ)
    • 堂々たる人生(1963年)
    • やぶにらみの時計(1964年)
    • オトコにオトコの物語(1966年)
    • クレイジーのアメリカ珍道中 ニセ者は奴だ!(1966年)
    • どんでん野郎(1966年)
    • 養子天国(1967年)
  • こんにちは幸福さん(1964年、日本テレビ)
  • 俺はすけてん(1964年、日本テレビ)
  • うそ八万騎(1964年、日本テレビ)
  • 夫婦百景(第375回)なんとかなるわい(1966年、日本テレビ)
  • (1967年、日本テレビ)
    • 第17話「珍説天保水滸伝」
    • 第37話「俺は陰陽師」
  • ざっくばらん(1968年、日本テレビ)
  • 夜のグランド劇場『雲に乗りたい』(1969年、日本テレビ)
  • 夫婦学校 第1シリーズ第5話「ホット亭主とパワー女房」(1971年、日本テレビ)
  • 愛の山河(1974年、日本テレビ)
  • 木曜ゴールデンドラマ(日本テレビ)
    • 『求婚旅行』(1981年2月26日)
    • 『ご臨終、です!』(1988年5月12日)
    • 『あやしい家族、です』(1989年8月3日) - 田代圭策
  • 火曜サスペンス劇場(日本テレビ系)
    • 黒いカーテン』(1982年12月28日放送) - 上垣洋三
    • 『掏摸(スリ)』(1993年1月5日放送、東映) - 杉本治
    • 女監察医・室生亜季子18・時効なし』(1995年、東映)
    • 『共犯関係』(1996年10月29日、東映)- 大野修造
    • 『窓辺の女』(2001年1月30日、東映) - 野崎修平
    • 『親父』(2002年1月29日、東映)- 木暮公平
    • 『容疑者』(2005年2月22日、東映) - 坂口剛(八木昌夫)
    • 弁護士・高林鮎子 志摩の旅・みえ6号毒殺連鎖〜保険金狙いで魂を売った魔性の女!完全無欠の時刻表トリックを暴く』(2005年7月5日、東映)- 矢島正一
  • 火曜ドラマゴールド監察医・室生亜季子37・最後の解剖』(2007年3月27日、 東映) - 難波一

テレビ朝日系列

ネットチェンジ前(1975年3月まで)[† 14]

  • 街のどんぐり(1959年、MBS
  • 初姿賑浪華(1960年、MBS)
  • ただいま往診中(1960年、MBS)
  • たたけよさらば(1960年、MBS)
  • はみだし十郎(1960年、MBS)
  • 天外のいじわる爺さん(1962年、MBS)
  • 京は日本晴れ(1963年、MBS)
  • まじめに行こうぜ ザ・サービスマン(1967年、NETテレビ)
  • みんな世のため(第6回)鬼課長、(第8回)ドンと来い!ムコはん(1967年、NETテレビ)
  • 元禄一代女 1回(1968年、NETテレビ)
  • 大変だァ (1970年、NETテレビ)
  • 右門捕物帖(1974年4月 - 8月、NETテレビ) - 政五郎

ネットチェンジ後(1975年4月以降)[† 14]

TBS系列

ネットチェンジ前(1975年3月まで)[† 14]

ネットチェンジ後(1975年4月以降)[† 14]

  • 東芝日曜劇場(TBS)
    • 『おんなの家』(1975年9月10日)
    • 『あかとんぼ』(1978年9月10日)
    • 『神戸 元町 おもかげ通り』(1979年7月15日)
    • 『もういちど旅立ち』(1982年12月5日)
    • 『紙のダイヤモンド』(1984年4月15日)
    • 『男ごころとたらの芽は…』(1986年1月26日)
  • 結婚前夜シリーズ(第8回)別れ話(1976年、TBS)
  • 重役室午前0時(1989年6月23日、TBS) - 牧野豊三
  • 社長が震えた日(1992年4月5日、TBS) - 松本弥一郎
  • 月曜ドラマスペシャル(TBS)
    • 『保護司堂本ガンバります!郡上八幡連続殺人事件』(1996年3月4日) - 堂本道明
    • 『恥ずかしながら私、社長です』(1996年11月18日) - 岩佐隆一郎
    • 『クラッカー(侵入者)』(1997年11月10日) - 田所修平
  • 佐々木夫妻の仁義なき戦い(2008年1月 - 3月、TBS)

テレビ東京系列

フジテレビ系列

  • 十六文からす堂(1958年、関西テレビ
  • 南蛮小天狗(1959年、フジテレビ)
  • そのネタ買います(1960年、関西テレビ)
  • 風の武士(1960年、関西テレビ)
  • 軍歌(いくさのうた)(第15回)桃太郎高地(1960年、関西テレビ)
  • 御寮人さん(1960年、関西テレビ)
  • 街の下にも街がある(1962年、関西テレビ)
  • シャープ火曜劇場『一坪の空』(1962年、関西テレビ)
  • トップ屋捕物帳(1963年、関西テレビ)
  • 天下の若者(1964年 - 1965年、フジテレビ)
  • 松本清張シリーズ 「俺は知らない」(1966年、関西テレビ)
  • 座頭市物語 第19話「故郷に虹を見た」(1974年、フジテレビ) - 壮吉 役
  • ふたりは夫婦(第13回)(1974年、フジテレビ)
  • ふたりは夫婦(第15回)くされ縁やな、(第17回)中年の眼にも涙(1975年、フジテレビ)
  • あなただけ今晩は(1975年、フジテレビ)
  • 夫婦旅日記 さらば浪人(1976年、フジテレビ)
  • ああ、お父ちゃん(1978年、フジテレビ)
  • 日曜恐怖シリーズ『穴の牙』(1979年、フジテレビ)
  • 手錠をかけろ! 第9話「狙われた目撃者 怪盗VS子連れ刑事 神戸・淡路島」(1979年、フジテレビ) - 中本刑事
  • 花王名人劇場『熱唱!藤田まこと 男涙の子守歌〜34歳の新人歌手』(1980年、フジテレビ)
  • 和宮様御留(1981年1月3日、フジテレビ) - 橋本実麗
  • 千利休とその妻たち(1983年、フジテレビ)
  • 男と女のミステリー幻の殺意』(1990年1月26日、フジテレビ) - 田代圭策
  • 忠臣蔵(1996年10月 - 12月、フジテレビ) - 垣見五郎兵衛
  • 剣客商売(1998年 - 2010年、フジテレビ) - 秋山小兵衛
  • 金曜エンタテイメント『てなもんや駅長奮闘記』(2002年1月18日、フジテレビ)
  • 大奥〜第一章〜(2004年10月 - 12月、フジテレビ) - 徳川家康
  • 役者魂!(2006年10月 - 12月、フジテレビ) - 本能寺海造
  • 仕掛人・藤枝梅安(2006年11月4日、フジテレビ) - 音羽の半右衛門

独立放送局、衛星放送局

映画

Vシネマ

  • 首領への道 - 鳥居半造(殺し屋)
    • 首領への道9
    • 首領への道10
  • 忠臣蔵2(2005年)
  • 横浜暗黒街 華炎(2008年) - 仁藤会伍城組組長 伍城完侍(伍城不動産会長)
  • 横浜暗黒街 侠華(2008年) - 仁藤会伍城組組長 伍城完侍(伍城不動産会長)

テレビバラエティ司会

舞台

ラジオ

  • まこちゃんのユーモアジョッキー(1962年4月23日 - 8月27日、月曜12時15分 - 12時45分、毎日放送[110]) ※歌謡曲をベースにしたDJ番組として全19回放送、脚本は山路洋平が担当した[110])
  • 大西部開拓史(1963年3月1日 - 3月30日、平日・土曜23時25分 - 23時45分、TBSラジオ[† 15]、単発番組)[111]
  • 十二球団に送るミュージック・プレゼント(1963年4月7日・4月14日、日曜18時 - 18時55分、TBSラジオ、単発番組)[111]
  • サラリーマン三冠王(1963年9月2日 - 9月30日、平日・土曜10時35分 - 10時40分、TBSラジオ)[111]
  • 歌謡大行進(1970年8月 - 1971年3月、月曜15時00分 - 16時30分、文化放送) ※林家三平、天地総子と共同パーソナリティー
  • 洞爺丸はなぜ沈んだか(1981年11月8日、日曜21時 - 23時、TBSラジオ、特別番組) ※小池朝雄、吉行和子と共演[111]
  • FMシアター「夫婦うどん」(2002年11月30日、NHK-FMNHK大阪放送局制作)

CM

ディスコグラフィ

著書

  • 『必殺男の切れ味 -熟年の魅力をどうつくるか-』 潮出版社、1983年
  • 『こんなもんやで人生は -ムコ殿の人間修行-』 主婦と生活社、1988年
  • 『料理の上手な女性にささげる本 -ちょっとやれる面白料理-』 青春出版社〈プレイブックス〉、1989年
  • 『年をとるのも悪くない』 飛鳥新社、1991年
  • 『人生番狂わせ』 集英社、1999年
  • 『最期』 日本評論社、2006年

脚注

注釈

  1. ^ 藤田によると、物心ついた時林太郎は俳優として落ち目になっていた。しかし、「売れないことやお金がないことを苦にするふうでもなく、綺麗に美しく落ちて行った」という。藤田は俳優として陰がある人物や必ずしも成功者とはいえないような人物を演じることを好んだが、父親の生き様の影響かもしれないとも述べている(藤田1991、40-43頁。)。1964年、藤田は梅田コマ劇場で上演された「てなもんや三度笠」の舞台で林太郎と共演した。これが親子の唯一の共演である(藤田2006、31-32頁)。この時林太郎は「俺から見てもおまえは絶対にうまい俳優じゃない。人気だって急に出た人気だ。おまえから俺を見ても、うまい役者だとはとても思えないだろう」「親子揃って大根役者だ。そんな二人が客の前で恥をかくのはやめよう。恥かくんなら別々に恥かこう」と述べ、自分が俳優を続けるとまた共演の話がくるという理由で廃業し、出版社で校正の仕事をするようになった(藤田1999、88-89頁。)。藤田は林太郎から「道の真ん中を歩くのはお客さん。芸人は道の脇を歩け。」と教えられ、終生その教えを守った(藤田2006、35頁。)。
  2. ^ 2006年9月、藤田は著書『最期』で兄について執筆したのを機に沖縄を訪れ、那覇沖の海に白米のおにぎり、卵、花束、を投げ入れて冥福を祈った(藤田2006、216-220頁。)。
  3. ^ 「家」の履歴書』(210頁)によると中学校2年の時、『最期』によると高校1年の時、『年をとるのも悪くない』(36頁)によると1949年。
  4. ^ 藤田は俳優となった後も歌に自信を持っていた。ただし小節を回せず、演歌は苦手だった(藤田1999、146頁。)。
  5. ^ 藤田は『てなもんや三度笠』出演を決めた当時の自らの格について、中田ダイマル・ラケット森光子横山エンタツ花菱アチャコミヤコ蝶々南都雄二ら一軍、芦屋雁之助芦屋小雁大村崑佐々十郎茶川一郎ら二軍に次ぐ三軍であったと述べている。
  6. ^ 藤田死去の報を受け、前田製菓のホームページでは前田寛司取締役社長名で「藤田まことさんのご逝去の報に接し、ご生前のお姿をしのび、心よりお悔やみを申し上げます」とのコメントを掲載した。放送当時、藤田の「当たり前田の…」のCMフレーズの効果で、主力商品「ランチクラッカー」はじめ、各商品の売り上げは飛躍的に伸びたという。“前田製菓HPでも藤田まことさん追悼”. nikkansports.com. (2010年2月19日). オリジナルの2013年7月21日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/AjFIL 2014年4月14日閲覧。 
  7. ^ 藤田によると、三木のり平森繁久彌を除く当時の喜劇俳優とはすべて共演した(藤田1999、109頁。)。唯一藤田のほうから共演を拒否したのがかつて藤田をいじめたことのある佐々十郎であった(部屋付きで佐々の世話をしながら芝居に出ることになったが佐々が拒否したため、楽屋なしで出演する羽目になった。藤田2006、129-132頁。)。
  8. ^ 人気に陰りが出たことに加え、同局の『スチャラカ社員』をめぐる、演出の澤田と脚本の香川登志緒との確執も『三度笠』終了の要因となった。『一本槍』と『二刀流』は引き続き香川の筆による脚本だが、澤田は参加していない。
  9. ^ 1951年3月15日に朝日放送(ABC)として会社設立。同11月11日ラジオ単営局として開局。1959年6月に大阪テレビ放送(OTV)を合併しラジオ・テレビ兼営局となる。2018年4月に朝日放送グループホールディングスへと社名変更・放送持株会社化し、ラジオ放送業務は朝日放送ラジオ(ABCラジオ)、テレビ放送業務は朝日放送テレビ(ABCテレビ)としてそれぞれ子会社の運営に移行。
  10. ^ 原作:藤本義一、脚本:逢坂勉、演出:山本禎男、共演:林美智子、芦屋雁之助、芦屋小雁・、白木万理菅井きん、ほか
  11. ^ 企画:朝日放送、演出・脚本:竹内伸光、共演:白木万里、菅井きん、雪代敬子、芦屋小雁、平井昌一、天野新士、ほか
  12. ^ この時にできた負債を巡り、藤田の妻に対して融資していた大阪市内の金融業者(経営破綻済)の破産管財人が、藤田夫妻に対して貸付金3億円の支払いを求め訴訟を起こし、藤田は「妻が勝手に印章を捺した」「この業者は違法な高金利で貸し付けていた」などと主張するも受け入れられず、大阪地裁から2009年9月7日に、藤田夫妻全面敗訴の判決を言い渡された “藤田まこと夫妻に貸付金3億円支払い命令”. nikkansports.com. (2009年9月8日). オリジナルの2013年7月20日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/HOzRP 2014年4月14日閲覧。  
  13. ^ 近鉄の内野手として活躍した野球解説者でタレントの金村義明や、捕手として活躍後監督も務めた梨田昌孝が藤田の死に際して感謝を込めた追悼コメントを寄せている。“藤田まことさん近鉄を熱心に応援、梨田監督「残念」”. スポーツ報知. (2010年2月19日). オリジナルの2013年11月5日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/jdUta 2014年4月14日閲覧。 
  14. ^ a b c d 1975年3月30日付放送まで、テレビ朝日(当時NETテレビ。1977年4月より改称)系列の近畿地区におけるネット局は、毎日放送(MBS)だった。同31日付放送より、それまでTBSテレビのネット局であった朝日放送(ABC)とネットワークの交換が行われた。
  15. ^ a b 1951年5月にラジオ東京として会社設立。同年12月25日にラジオ放送局として開局。1953年12月よりKRTの略称を採用。1955年4月にテレビ本放送開始・ラテ兼営局となる。1960年11月29日に社名を東京放送・略称をTBSへ変更。2001年10月にラジオ局部門がTBSラジオ&コミュニケーションズ(略称:TBS R&C)、2009年4月にテレビ局部門がTBSテレビへそれぞれ分離し、放送持株会社化(社名を東京放送ホールディングス・略称をTBSHDにそれぞれ変更)。TBSの略称はTBSテレビへ移行した。2016年4月にTBS R&CはTBSラジオへ社名変更。

出典

  1. ^ 藤田1991、72頁。
  2. ^ “藤田まことさん孫娘・花リーナ、“覆面”歌手デビュー”. MSN産経ニュース. (2013年7月3日). オリジナルの2013年11月6日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/guDgE 2014年4月14日閲覧。 
  3. ^ a b 森2000、41-42・50-53頁
  4. ^ 藤田まことさんが大動脈瘤破裂のため死去”. ORICON NEWS (2010年2月18日). 2021年6月7日閲覧。
  5. ^ a b 藤田2006、7頁。
  6. ^ a b c 週刊文春(編)2001、209頁。
  7. ^ 週刊文春(編)2001、208-209頁。
  8. ^ 藤田2006、6・8頁。
  9. ^ 藤田2006、9-10頁。
  10. ^ 藤田2006、11頁。
  11. ^ 藤田2006、10-11頁。
  12. ^ 藤田2006、15頁。
  13. ^ 藤田2006、16-17頁。
  14. ^ 藤田2006、12頁。
  15. ^ a b 藤田2006、17-18頁。
  16. ^ 藤田2006、5-6頁。
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参考資料

  • 毎日放送50年史編纂委員会事務局編『毎日放送50年史』(2001年9月、毎日放送発行)…国立国会図書館サーチの書誌情報
  • 『TBS50年史』(2002年1月、東京放送編・発行)
    • 付録DVD-ROM『ハイブリッド検索編』
      • ラジオ番組データベース

参考文献

  • 澤田隆治『笑いをつくる -上方芸能笑いの放送史-』日本放送出版協会〈NHKライブラリー151〉、2002年。ISBN 4-14-084151-6 
  • 藤田まこと『年をとるのも悪くない』飛鳥新社、1991年。ISBN 4-87031-101-1 
  • 藤田まこと『人生番狂わせ』集英社、1999年。ISBN 4-08-333006-6 
  • 藤田まこと『最期』日本評論社、2006年。ISBN 4-535-58488-5 
  • 森まゆみ『大正美人伝 林きむ子の生涯』文藝春秋、2000年。ISBN 4-16-356330-X 
  • 週刊文春(編) 編『「家」の履歴書』光進社、2001年。ISBN 4-87761-054-5 

関連項目

外部リンク