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「国鉄キハ35系気動車」の版間の差分

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=== 房総地区 ===
=== 房総地区 ===
[[ファイル:Kazusa-Nakano Station c1980.jpg|thumb|国鉄[[木原線]]のキハ30形と[[小湊道]]の[[小湊鉄道キハ200形気動車|キハ200形]]([[上総中野駅]]、1980年)]]
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1962年のキハ36形18両を皮切りに、以後ステンレス車のキハ35形900番台10両を含む49両が[[千葉気動車区]]に、24両が同木更津支区(現・[[幕張車両センター木更津派出]])に配置され、[[総武本線]]・[[内房線|房総西線(現・内房線)]]・[[外房線|房総東線(現・外房線)]]・[[成田線]]・[[鹿島線]]・木原線(現・[[いすみ鉄道]][[いすみ鉄道いすみ線|いすみ線]])・[[久留里線]]で運用された。久留里線以外は電化又は[[第三セクター鉄道|第三セクター]]化され、余剰となったグループは高崎所・茅ヶ崎区などへ転属している。
1962年のキハ36形18両を皮切りに、以後ステンレス車のキハ35形900番台10両を含む49両が[[千葉気動車区]]に、24両が同木更津支区(現・[[幕張車両センター木更津派出]])に配置され、[[総武本線]]・[[内房線|房総西線(現・内房線)]]・[[外房線|房総東線(現・外房線)]]・[[成田線]]・[[鹿島線]]・木原線(現・[[いすみ鉄道]][[いすみ鉄道いすみ線|いすみ線]])・[[久留里線]]で運用された。久留里線以外は電化又は[[第三セクター鉄道|第三セクター]]化され、余剰となったグループは高崎所・茅ヶ崎区などへ転属している。
* 夏期臨時ダイヤ(「房総地区夏ダイヤ」)では、車両需給の関係から房総東・西線の臨時[[準急列車|準急]]・[[急行列車|急行]](いわゆる[[遜色急行]])に組み込まれることもあったが、房総各線の電化が進んだことにより[[1972年]](昭和47年)から[[1975年]](昭和50年)の間に木原線・久留里線用の車両を残して転出した。[[1988年]](昭和63年)に木原線がいすみ鉄道に転換されてからは、久留里線を唯一の運用先とした<ref group="注">木更津駅 - [[大原駅 (千葉県)|大原]]間 ([[安房鴨川駅|安房鴨川]]経由) の送り込み回送運用、[[勝浦運転区]]での駐泊もこの時点で消滅。</ref>。
* 夏期臨時ダイヤ(「房総地区夏ダイヤ」)では、車両需給の関係から房総東・西線の臨時[[準急列車|準急]]・[[急行列車|急行]](いわゆる[[遜色急行]])に組み込まれることもあったが、房総各線の電化が進んだことにより[[1972年]](昭和47年)から[[1975年]](昭和50年)の間に木原線・久留里線用の車両を残して転出した。[[1988年]](昭和63年)に木原線がいすみ鉄道に転換されてからは、久留里線を唯一の運用先とした<ref group="注">木更津駅 - [[大原駅 (千葉県)|大原]]間 ([[安房鴨川駅|安房鴨川]]経由) の送り込み回送運用、[[勝浦運転区]]での駐泊もこの時点で消滅。</ref>。

2023年1月7日 (土) 09:53時点における版

国鉄キハ35系気動車
八高線のキハ35形(1994年)
基本情報
運用者 日本国有鉄道
東日本旅客鉄道
東海旅客鉄道
西日本旅客鉄道
四国旅客鉄道
九州旅客鉄道
製造所 日本車輌製造
新潟鐵工所
富士重工業
帝國車輛工業
東急車輛製造
製造年 1961年 - 1966年
製造数 413両
運用終了 2012年12月1日
廃車 2013年
主要諸元
軌間 1,067 mm
最高速度 95 km/h
車両定員 58(席)+74(立)=132名(キハ35形)
62(席)+74(立)=136名(キハ36形)
56(席)+72(立)=128名(キハ30形:)
自重 32.0 t(キハ35形0番台)
31.2 t(キハ35形500番台)
28.4 t(キハ35形900番台)
31.0 t(キハ36形)
32.4 t(キハ30形0番台)
32.6 t(キハ30形500番台)
全長 20,000 mm
全幅 2,929 mm
全高 3,945 mm
車体 普通鋼
ステンレス(キハ35形900番台)
台車 コイルばね台車
DT22C(動力)・TR51B(付随)
動力伝達方式 液体式
機関 ディーゼルエンジン(DMH17H)×1
機関出力 180 PS / 1,500 rpm
変速機 TC2A / DF115A
制動装置 自動空気ブレーキ
DA1(キハ35形・キハ36形)
DA1A(キハ30形)
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キハ35系気動車(キハ35けいきどうしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が1961年昭和36年)から製造した気動車である[1]

この呼称は、車両称号規程に則った制式のものではないが、同一の設計思想によって製造された気動車を便宜的に総称したものである。具体的には、キハ35形キハ36形キハ30形およびこれらの改造車を指す。

概要

大都市近郊の非電化通勤路線向けとして開発され、1961年昭和36年)から1966年(昭和41年)にかけてグループ総計で413両が製造された。関西本線を皮切りに北海道地区を除く各地の非電化路線に配属された。

乗降の効率化のため、両開きの幅広ドアを片側あたり3か所に設け、収容力を重視して車内の座席をすべてロングシートとしたことが特徴である。ラッシュ時の輸送に絶大な能力を発揮したが、大都市近郊の路線が軒並み電化されたことや、長距離運用に不向きな設備が災いし、1983年(昭和58年)から廃車も開始された[2]

後継車は開発されておらず、同様の設計思想で製造された車両についても1997年(平成9年)にJR北海道が札幌近郊線区向けに投入したキハ201系(ただし扉は片開き式)の登場まで、約35年間途絶えることとなった[注 1]

開発の経緯

関西本線の湊町(現・JR難波) - 奈良間は大都市近郊区間であり、1950年代以降通勤客が大幅に増加していた。この区間は戦前に電化が計画されたが実現せず、1960年昭和35年)当時でも非電化のままで、かつ王寺 - 奈良間は単線であった。

当時は蒸気機関車牽引の客車列車が主力として運転されていたが、客車は老朽化し、乗降扉は走行中の施錠もできない手動式で、蒸気機関車の煤煙に悩まされる昭和初期と大差ない前時代的な旅客サービス水準であった。列車本数(片道)も日中は1時間に1 - 2本、朝ラッシュ時でも1時間に4 - 5本程度と、並行する複線電化の近鉄奈良線大阪線には、列車本数・スピード・接客設備ともに大きく水を開けられていた。

また蒸気機関車が主力であったことから、輸送量が同等の国鉄他線区に比べると固定資産が多く輸送コストが割高で、営業成績が低迷していたこともあり、収支改善のテコ入れを迫られていた。この状況に対して国鉄は、当時の関西本線の輸送量では電化では採算が合わないと判断し、気動車の大量投入により輸送力強化を図ることを決定した。

この当時の関西本線には既に気動車が他線からの直通によって湊町 - 王寺間などで部分的に導入されており、湊町から名古屋まで直通する気動車準急列車も運行されていた。しかし、普通列車用車両は2扉セミクロスシートキハ17系キハ20系であり、大都市近郊でのラッシュ時の客扱い能力にはいささか難があった。そこで、通勤電車並みの収容力と客扱い能力を備えた通勤形気動車として新たに開発されたのが本系列である。

車両概説

車体

先に登場していた通勤形電車101系の基本構造を踏襲しており、オールロングシート・切妻形の簡素な車端形状・気動車としては初採用となる1.3m幅(有効幅は1.2 m)の両開き扉・グローブ形ベンチレーター、前面行先表示器蛍光灯照明・扇風機の装備など共通点が見られる。しかし運用線区や輸送事情から、以下のような相違点も見られる。

キハ35形の外吊り扉
キハ35形の外吊り扉
外吊り式片側3扉の採用
扉は片側3箇所に設けられ、開口幅は101系と同じ1,300mmとなった[3]
乗降口にステップを設けた関係で台枠を切り欠く必要が生じ、車体強度が不足することとなった[3]。このため側出入口は強度確保のため戸袋を設けず、扉は上部のレールから車体外側に吊り下げられる「外吊り式」が本格採用された[3]。ドア下部は車両限界内に収めるため一段薄くされている。この構造は本系列における最大の特徴となったが、冬期には車体との隙間から冷気が入りやすい欠点もあり、後年本系列が地方に転用された際に不評の原因にもなった。
気動車が運行される路線の駅は客車基準の低いプラットホームが普通であり、乗降口にはステップを設ける必要があった。片引き狭幅扉の在来型2扉気動車では切り欠き長さはわずかで、強度対策はステップ下に補強を入れるだけで済んだが、戸袋式広幅3扉車体をステップ付きで製造するとなると、扉と戸袋部分の合計長は在来2扉車の2倍ほどにもなり、簡単な補強では済まず、著しい車体重量の増加が予想された。そこで扉両脇の戸袋を廃し、この部分の台枠の切欠きを無くすことで全体の強度を確保する設計とした。
窓は簡素な2段式であるが、通常なら戸袋窓に当たるドア両脇の小窓は開閉可能なものの、閉まる扉に手を挟まれる事故を防止するため、開口可能寸法は上段150 mm・下段50 mmと狭くしてある。
正面貫通扉の設置
国鉄の気動車は、頻繁な分割併合運用を行うことから、利便性確保のため、連結面の通り抜けを可能とする正面貫通扉の設置が一般化していた。本系列にもこれは踏襲され、特急形以外の車両との互換性を有している。埋め込み式前照灯尾灯・貫通扉・正面窓の位置関係はキハ20系に準じた簡素なデザインに仕上げた。
便所の設置
キハ35形は比較的長距離(長時間)の運用を想定し、従来の一般形気動車と同様に便所を設置している。便所の向かい側の座席は、便所利用者と着席客双方の心理を考え、クロスシートとされた。

その他電車との相違点として、小型の灰皿が座席の端のつかみ棒に取り付けられていた他、扇風機の取り付け位置もグローブ形ベンチレーターの直下ではなかったことが挙げられる。

車体塗装はクリーム4号朱色4号の国鉄一般形気動車標準色が採用されたが、幕板部分の塗装が省略されるなど塗り分けが簡素化され、それまでの一般形とは大きく印象が異なっている。

主要機器

同時期に登場したキハ58系気動車と共通設計である。温水暖房や客室内の床面積と見通しを犠牲にしない車端部に設置された排気管なども、キハ58系に引き続き採用された。また長大編成の電圧降下に対応すべく、総括予熱・始動回路を設置した。エンジン予熱用のグロープラグ機関始動回路・補助リレーを接続したもので、先頭車からの操作により編成各車の補助リレーを作動させ、個々の車両の自車電源(鉛蓄電池)で機関の予熱と始動を行う。

エンジンもキハ58系と同様の、水平シリンダー形のDMH17Hエンジン(180 PS / 1,500 rpm)である[4]。本系列では車両中央部にもステップ付き扉を設置したため、車体中央部分の床下面積が小さくなることからエンジンの2基搭載は困難であり、全形式が1基エンジンである。直立シリンダーエンジンは調達コストがやや低いものの、床に点検蓋を設置する必要があり、その補強でさらなる重量増を招くため、設計段階で廃案となった。これに標準形の液体変速機であるTC-2A形またはDF115A形が組み合わされた[4]

台車は標準形を改良した金属ばね式のDT22C(動台車)・TR51B(付随台車)を採用した[4]。ラッシュ時の荷重を考慮し、車軸径が従来の167 mmから175 mmと僅かに大きくされた[4]

形式

キハ35 199

基幹型式となる片運転台で便所付きのキハ35形、片運転台で便所なしのキハ36形、両運転台で便所なしのキハ30形が製造されている[5]

キハ35形

本系列の中核となる片運転台・便所付車。1961年から1966年に258両が製造された。

0番台

温暖地向けの一般形で1 - 217の217両が製造された[5]

  • 最終の217は便所内照明に蛍光灯が採用され、換気兼用の明り採り窓が細長くなる設計変更が行われた。

500番台

1962年(昭和37年)から501 - 531の31両が製造された寒冷地仕様。新潟地区に主に投入された。

900番台

キハ35 901

1963年(昭和38年)に901 - 910の10両が製造されたステンレス車。

  • 東急車輛製造アメリカバッド社ライセンスによるオールステンレス車両開発の一環として製造したもので、鋼製車の0番台と比べて3.6 tの軽量化が行われた[6]。車体の基本諸元は0番台に準ずるが、外板・骨組み・台枠に至るまですべてステンレス製で、幕板・腰板部分にはコルゲートが走り、側面外吊りドア上の戸車カバーは車体の強度確保を兼ねている事から車体全長にわたる長大なものである。
  • 製造当初は無塗装で銀色のステンレス地肌であったが、当初の配属先の房総半島は霧の発生しやすい気候のため、のちに安全上の問題から、遠方視認性を高める目的で前面に朱色4号の帯が入った[注 2]。さらに末期には、車体が朱色5号ベンチレーターを除いた屋根がねずみ色1号という一般車と同様の「首都圏色」に塗装された[注 3]
    • ステンレスが普通鋼より硬く錆びない特性を生かし、薄肉化[注 4]による軽量化と塗装の省略によるメンテナンスフリー(コスト低減)を長所とした。しかし、当時の塗装費と比較して、製造コストの高さ、バッド社のライセンスの関係から東急車輛製造以外での製造が難しいこと、鋼製車との取り扱いの差異のほか、塗装職場の省力化に対する労働組合の拒否反応など、多くの障害があり、量産化には至らなかった[6]
    • ステンレス車の開発および配属地は、房総東線(現・外房線)・房総西線(現・内房線勝浦 - 館山間における潮風による塩害対策という名目であったが、当時の房総半島各線は、朝夕の通勤時間帯には蒸気機関車牽引の客車列車をも多数動員していた状況で、本車も量産されなかったことから気動車列車で鋼製車とステンレス車の使い分けができるだけの数の余裕はなく、実際には混用されていた。
    • 904は、相模線色に塗り替えられ同線の電化直前まで運用された。電化後も他数両のキハ30形・キハ35形とともに茅ヶ崎運転区(現・茅ヶ崎運輸区)に留置され、1995年平成7年)11月に廃車となった。

キハ36形

片運転台・便所なし車。1962年に温暖地用のみ1 - 49の49両が製造された。

  • 基本構造はキハ35形0番台に準ずるが、便所がなく、車内が完全ロングシートであり、後位側の連結面(妻)にも窓を設けているなどの相違点がある。
  • 当初はキハ35形とユニットを組むことが想定されていたが、その目的であればより小回りの利く両運転台車の方が有利なため、翌1963年以降の量産はキハ30形に移行した。寒冷地仕様は存在しない。
  • 早期から廃車が進み、国鉄分割民営化直前の1987年(昭和62年)2月までに全車が廃車され、JRへの承継車はないが、関東鉄道への譲渡車両が存在した。そのうち、キハ36 17→キハ3518はフィリピン国鉄に譲渡され現役である。
    • キハ36 17・28 → 関東鉄道キハ3518・351

キハ30形

キハ30形一般色(復元車)
キハ30形一般色(復元車)
キハ30 27 旧高岡鉄道部色
キハ30 27 旧高岡鉄道部色
キハ30 83 美祢線色
キハ30 83 美祢線色
キハ30 82 広島色
キハ30 82 広島色

便所のない両運転台車。1963年 - 1966年に106両が製造された。

0番台

温暖地向けの一般形で1 - 100の100両が製造された。基本仕様はキハ35形0番台に準ずる。

  • 6は、1969年(昭和44年)に草津線を走行中に落石と衝突し転覆。本系列初の事故廃車となった。

500番台

1964年(昭和39年)から1965年(昭和40年)に501 - 506の6両が製造された寒冷地仕様。基本仕様はキハ35形500番台に準ずる。

製造年・製造会社別一覧

製造
年度
形式 日本車輌製造 新潟鐵工所 富士重工業 帝國車輛工業 東急車輛製造
1961 キハ
35
1 - 16
27 - 32
  17 - 26  
キハ
36
1 - 21   22 - 31  
1962 キハ
30
1 - 10 11 - 15  
キハ
35
33 - 37
501 - 512
  38 - 56   901 - 910
キハ
36
  32 - 49  
1963 キハ
30
16 - 22  
キハ
35
57 - 61  
1964 キハ
30
501 - 506 23 - 40  
キハ
35
62 - 72
83 - 105
  73 - 82
106 - 109
128 - 134
513 - 517
110 - 127  
1965 キハ
30
41 - 96  
キハ
35
  202 - 208 135 - 166
195 - 201
209 - 216
518 - 531
167 - 194  
1966 キハ
30
97 - 100  
キハ
35
  217  

JRへの承継数

1987年の国鉄分割民営化時には、キハ35形とキハ30形が北海道旅客鉄道(JR北海道)を除く各旅客鉄道会社に承継された。

形式 JR東日本 JR東海 JR西日本 JR四国 JR九州
キハ35 46両 19両 2両 10両
キハ30 43両 6両 11両 2両 17両

改造

前面強化工事

1975年(昭和50年)から踏切事故対策として、前面の腰板部分に鋼製の補強板を取り付けた。大半の車両が改造を受け前面の印象を大きく変えたが、未施行で残った車両も多かった。後述する相模線色は、前面強化の有無にかかわらず補強板に準じた塗り分けが採用された。

ワンマン化改造車

1988年(昭和63年)に美祢線南大嶺駅 - 大嶺駅間でJRグループ初のワンマン運転を実施することになったため、キハ30形5両が改造された。車内に整理券発行機が搭載され、塗装はグレーの濃淡にワインレッドに変更され、前方と後方の乗車口に三角形の塗装が施された。

お座敷改造車

1967年(昭和42年)10月に当時米子に配属されていたキハ30 75とキハ35 156の2両のロングシートを撤去し、畳を20枚設置した。同年11月に運行された急行『やえがき』に使用されたが、それ以降の運用実績は不明。

1985年(昭和60年)10月に、徳島気動車区のキハ35 198と199の2両がカーペット車への改造が行われた。この2両は木製パネルの上にカーペットを敷いたもので、一般輸送にも使用可能な簡易的なものだった。

キハ35・キクハ35形300番台

キハ35+キクハ35 300番台
キハ35+キクハ35 300番台

山陽本線支線である和田岬線では、西日本旅客鉄道(JR西日本)の発足後も旧型客車のオハ64形・オハフ64形が使用されていたが、プッシュプル運転に経費がかかることや車両の老朽化もあり、置き換えが検討されていた[7]1990年(平成2年)に鷹取工場でキハ35形0番台を種車に和田岬線向けの改造が施工され、キハ35形・キクハ35形300番台が登場した[7]

保守費低減のため兵庫方のキハ35形からはエンジンが撤去されてキクハ35形となり、和田岬方にキハ35形300番台、兵庫方にキクハ35形300番台を組成する2両ユニットとなった[7]。キクハ35形には暖房の熱源となるエンジンが搭載されていないことから、機関予熱器を搭載し、これを温水暖房の熱源とした[7]

1両当たりの平均出力わずか90 PSの1軸駆動で満員の乗客を乗せた2両編成を動かす、分割民営化後の旅客車両としては例のない低出力編成であるが、トルクコンバータのトルク増大効果で発進は可能であり、部分的に8 の勾配が存在するもののほぼ平坦で、最高速度も30 km/h程度の和田岬線では実用上問題はない[注 5]

兵庫駅と和田岬駅のホームが和田岬駅に向かって右側にしかないことから、ホームのない側の客用扉は非常用となる中央扉を除いて埋め込まれた[7]。便所は撤去され立席スペースとなったほか、一部の座席が撤去されている[7]。側窓は非ユニット窓のままである(外ハメ式ではない)が、後にサッシが黒色になった。

新旧番号対照は以下の通り[8]。4ユニット8両が改造されたが、通常は最大3ユニットを連結した6両編成で運用し、残る1ユニットは予備車である。

  • キハ35 123・137・189・207 → キハ35 301 - 304
  • キハ35 156・157・181・195 → キクハ35 301 - 304

キハ38形

キハ38形

八高線で使用されていたキハ35形を車体更新した形式で、1986年(昭和61年)から1987年にかけて7両が各地の国鉄工場で製造された[9]。車体は新造されたが、台車や変速機などの主要機器が流用されており、キハ35形の改造名義となっている[9]

運用の変遷

関西本線

関西本線では輸送力増強計画により、1961年12月10日のダイヤ改正より順次大量投入され、奈良気動車区(現・奈良電車区)に計81両が配置された。これにより従来の蒸機牽引による旅客列車はごく一部の通勤列車を除いて気動車化され、湊町 - 奈良間は国電形の定間隔運行ダイヤを導入し、「オールDC化」・「待たずに乗れる関西本線」と大々的なPRが行われた。

競合路線である近鉄への対抗上、快速列車が日中30分間隔で運転され[10]天王寺 - 奈良間を途中王寺郡山の2駅のみの停車で、所要33分、表定速度68.1 km/hで運転されていた[11]。阪奈間では、名古屋直通の準急「かすが」や、当時近鉄奈良線で運行されていた料金不要の特急電車(現在の快速急行に相当)とほぼ同等の所要時間であった。また、普通列車も大阪府内において並行する近鉄大阪線の準急電車とほぼ同等の速度で運行していた。気動車化に加えて、1961年(昭和36年)3月に王寺 - 奈良間の複線化が完了していたことがこのようなダイヤ設定を可能にした。

この体制は1973年(昭和48年)9月の湊町 - 奈良間電化まで続き、奈良電化後の本系列は奈良以東[注 6]および周辺支線区での運用に移り、一部は他線区へ転出した。

奈良・和歌山・伊勢地区

当初は奈良線草津線信楽線桜井線和歌山線紀勢本線片町線においても関西本線向け奈良気動車区配置車により共通運用された。

関西本線奈良電化以降は一部が和歌山機関区(現・吹田総合車両所日根野支所新在家派出所)に転入し、紀勢本線和歌山 - 紀伊田辺間でも運用された。なお、新宮 - 亀山間では伊勢運転区(現・伊勢車両区)所属車が投入された。紀勢本線では長距離運用が主となるため本系列単独での運用はなく、必ずキハ58系やキハ40系などのクロスシート車との併結が必須とされた[注 7]

上記各線の電化が進むごとに運用が縮小され、最後に残った奈良線和歌山線五条以西が1984年(昭和59年)10月までに電化された時点で奈良・和歌山区に配置されていた本系列はすべて廃車、または転属となった。片町線ではおもに長尾 - 木津間で1989年平成元年)まで運用され、奈良気動車区からの本系列撤退後は亀山機関区(現・亀山鉄道部)所属の車両が充当された[注 8]

伊勢運転区所属車のうち6両は東海旅客鉄道(JR東海)に継承されたが、1989年(平成元年)にキハ11形の投入に伴い営業運転終了。以降も保存目的でキハ30 51が伊勢車両区に在籍のまま美濃太田車両区で保管されていたが、2008年(平成20年)3月31日付で廃車された[注 9]

房総地区

国鉄木原線のキハ30形と小湊鉄道キハ200形上総中野駅、1980年)

1962年のキハ36形18両を皮切りに、以後ステンレス車のキハ35形900番台10両を含む49両が千葉気動車区に、24両が同木更津支区(現・幕張車両センター木更津派出)に配置され、総武本線房総西線(現・内房線)房総東線(現・外房線)成田線鹿島線・木原線(現・いすみ鉄道いすみ線)・久留里線で運用された。久留里線以外は電化又は第三セクター化され、余剰となったグループは高崎所・茅ヶ崎区などへ転属している。

  • 夏期臨時ダイヤ(「房総地区夏ダイヤ」)では、車両需給の関係から房総東・西線の臨時準急急行(いわゆる遜色急行)に組み込まれることもあったが、房総各線の電化が進んだことにより1972年(昭和47年)から1975年(昭和50年)の間に木原線・久留里線用の車両を残して転出した。1988年(昭和63年)に木原線がいすみ鉄道に転換されてからは、久留里線を唯一の運用先とした[注 10]
久留里線色
久留里線色
キハ30 98 国鉄一般色(復元)
キハ30 98
国鉄一般色(復元)

JR化後も久留里線で運用が残り、八高線から転入したキハ38形とともに運用に就いていた。幕張車両センター木更津派出に在籍したキハ30 62・98・100の3両[注 11]が最後まで運用された。

この3両は、車体更新工事とDMF14HZエンジン[注 12]への換装が施工されている。

また、2009年(平成21年)には、登場時の国鉄一般色に復元された。

  • キハ30 98 - 2009年7月1日施工[12]
    • 同年7月4日には「キハ30塗装変更記念臨時列車」として運行された[13]
  • キハ30 62 - 2009年12月19日施工[14]
  • キハ30 100 - 2010年(平成22年)2月8日施工[15]

なお、塗装変更を含めた検査郡山総合車両センターが担当した。

2012年(平成24年)からキハE130形100番台に置き換えが開始され[16]、2012年12月1日に定期運用を終了した[17][18]。その後、12月11日から12日にかけて98と100が新津へ配給輸送された[19][20]。また2013年1月17日に62がいすみ鉄道へ譲渡の上、いすみ線国吉駅に配給輸送された[21]。残された98と100の2両は長らく新津で留置されていたが、2013年水島臨海鉄道にキハ37形3両、キハ38形1両と共に2両とも譲渡されることになり、同年7月9日から10日にかけて甲種輸送が行われた[22]倉敷駅に到着した7月10日付で廃車となり[23]、JRグループからは廃系列となった。

川越線・八高線・足尾線

八高線でのキハ35系
中間車は寒冷地仕様の500番台

川越線へは1964年(昭和39年)に大宮機関区(現・大宮運転区[注 13])にキハ30形7両が新製配置され、以後はキハ35形も配置された。

  • 1972年(昭和47年)に大宮から高崎第一機関区(現・高崎車両センター高崎支所[注 14])に転属し、八高線と共通運用となった。電化前の1984年には新潟地区用500番台も投入したが電化に伴い短期間で終了。大宮 - 日進の1駅間で7両編成のラッシュ時輸送なども見られたが、1985年(昭和60年)9月30日の全線電化開業にともなって運用を離脱した。離脱後は、後述の八高線・足尾線のみの運用となる。

八高線へは1965年(昭和40年)から高崎第一機関区に6両が新製配置され、運用開始。1972年から1975年にかけて千葉地区から大量に転入し、川越線との共通運用を含み、同線の大半の列車で本系列が運用された。また、1989年(平成元年)まで足尾線(現・わたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線)においてもキハ20形、キハ40形との共通で運用された。

  • 後に弥彦線・越後線の電化により一部の500番台も転入しているが、1996年(平成8年)3月16日八王子 - 高麗川間電化開業、および高麗川 - 高崎間へのキハ110系投入にともなって撤退し、久留里線などに転用されたごく一部の車両を除いて大部分が廃車となった。
    • 末期にはキハ38形との共通運用を組んだが、朝のラッシュ時には最大5両編成となるなど、本系列の設計思想に合致した環境で運用されたほか、後述の相模線運用車も含めて半自動扉を押しボタン操作式に改造する工事が1972年から実施されている。

相模線

キハ35 212
相模線塗装

相模線では1965年(昭和40年)から1966年(昭和41年)にかけてキハ30形5両が茅ヶ崎運転区(現・茅ヶ崎運輸区)に配置[注 15]されたのち、1975年(昭和50年)ごろから本系列への車種統一が実施され、1982年(昭和57年)に統一を達成、全線が電化された1991年(平成3年)3月まで使用された。八高線とともに首都圏では数少ない非電化路線ということもあり、閑散時は1 - 2両、通勤時間帯は3 - 4両編成という、本系列想定本来の運用がなされた。

国鉄末期の1986年(昭和61年)、キハ30 25・49を皮切りに朱色一色からクリーム1号青20号の相模線色に塗装変更された[注 16]。1991年の相模線電化後、多くは高崎へ転属し、相模線カラーのまま八高線で運用されたが、工場入場時に朱色5号へ変更された。一方で、一部の車両は転用されず1995年(平成7年)に廃車された。

弥彦線・越後線

新潟地区には1962年(昭和37年)から1966年にかけて寒冷地用のキハ30形・キハ35形500番台を配置。越後線弥彦線の電化と弥彦線東三条 - 越後長沢間の廃止により、1985年に廃車または高崎所・茅ヶ崎区・木更津区へ転属となった。

山陰本線京都口

1965年から福知山機関区(現・福知山運転所)に当初は新製車が、後に千葉気動車区から転入車も配置され、山陰本線京都 - 園部 - 福知山間で運用されたが、キハ47形気動車の投入に伴い1977年に運用を離脱し、東唐津気動車区・直方気動車区(現・直方運輸センター)などに転出した。

和田岬線

1990年(平成2年)10月1日から前述した300番台が鷹取工場(同工場が廃止された2000年(平成12年)4月からは網干総合車両所鷹取支所)に配置されて運行を開始した。製造から35年経過して老朽化が進んでいることから2001年(平成13年)7月の和田岬線の電化により103系に置き換えられて廃車となり、キクハ35形は形式消滅した。キハ35 301のみ保留車として亀山鉄道部で保管された[7]が、2004年11月末に後藤総合車両所へ回送され、同年12月25日付で除籍・解体処分された。これをもってキハ35形は形式消滅となった。

高徳線・鳴門線・徳島線・牟岐線

昭和40年から翌年にかけて徳島運転所に10両が新製配置された。 このうち5両は廃車まで徳島を離れることなく、うち4両が四国旅客鉄道に継承されて平成2年までに全車引退した。

門司鉄道管理局

1965年(昭和40年)から東唐津気動車区(現・唐津運輸センター)に21両が新製配置された。1983年(昭和58年)に筑肥線唐津以東の電化・一部廃止が実施された後は、筑肥線非電化区間や長崎本線大村線・松浦線(現・松浦鉄道西九州線)で運用され、九州旅客鉄道(JR九州)承継後も1991(平成3)年まで運用された。

譲渡車

当形式は、一部が私鉄・第三セクターに譲渡された。2022年現在も水島臨海鉄道に1両が在籍する。また、関東鉄道からフィリピン国鉄へ譲渡されたものが6両存在する。

鉄道総合技術研究所

国鉄分割民営化直前の1987年2月に廃車となったキハ30 15は、鉄道総合技術研究所(鉄道総研)に試験用車両として譲渡された[24]。塗装は湘南色に変更され、クモニ83形とともに動力伝達方式などの駆動制御系に関する研究・開発に使用された[24]。 研究成果はJR九州キハ183系気動車オランダ村特急」の電車との協調運転JR九州キハ200系気動車の爪クラッチ式液体変速機、キハ47形改造の観光特急「指宿のたまて箱」の上下制振制御システムに採用されている[24]

関東鉄道

1987年(昭和62年)から1992年(平成4年)にかけて、関東鉄道が各形式計39両[注 17]をJR東日本・JR九州・国鉄清算事業団から購入し、キハ300形・キハ350形とした。また1997年の一部区間のワンマン化により、キハ300形の4両をワンマン化改造した車両をキハ100形とした。

  • 導入当時の常総線は利用客が増加しており、通勤需要に応えるという当形式の設計思想に合致した路線であり、大量導入に繋がった[注 18]。これらはほとんどが冷房装置の搭載とDMF13HZ機関への換装を受けたが、老朽化のため廃車が進み、2007年にキハ300形が廃形式となり、2011年10月10日にキハ350形が定期運用から外れて休車となっている。
  • なおキハ100形はその後も2両が運行されていたが、2017年1月8日の引退記念の撮影会を最後に廃車・廃形式となった[25]。その後茨城県筑西市のヒロサワシティで静態保存されている[26]
  • キハ350形は関東鉄道での引退後、6両がフィリピン国鉄に譲渡された。詳細は後述する。

また関東鉄道では前身となる常総筑波鉄道時代の1962年(昭和37年)にキハ35形に類似したキハ900形2両を日本車輌製造東京支店に発注・製造している。エンジンや車体設計は本系列と同一であるが、側窓など細部が異なっていた。

関東鉄道に承継された後も引き続き常総線で使用されていたが、1995年(平成7年)に廃車された。

会津鉄道

会津鉄道[2]にはJR東日本からキハ30形1両が譲渡され、1999年にトロッコ列車AT-300形へ改造された。2009年まで運用された。

水島臨海鉄道

2013年にJR東日本からキハ30 98と100の2両が譲渡されたが、100のみ車籍編入され(98は部品取り)、全般検査を実施し、2014年2月に出場した[27]。非冷房であるため、運用は基本的に秋冬の平日ダイヤのみとなっている[28]。2022年7月に全般検査のため入場し、同年9月に出場しており[29]、本系列で唯一の現役車となっている。

フィリピン国鉄

2011年に関東鉄道での運用が終了したキハ350形は、2015年にフィリピン国鉄へ譲渡され、同国で運用についている。譲渡された車両は以下の通りである。(括弧内は国鉄番号)

キハ353(キハ35 183)
キハ354(キハ35 190)
キハ358(キハ35 113)
キハ3511(キハ35 187)
キハ3518(キハ36 17)
キハ3519(キハ35 163)

保存車

すべて静態保存である。

キハ35系静態保存車一覧
画像 番号 所在地 備考
会津鉄道
AT-301
福島県会津若松市大戸町香塩乙
会津鉄道 芦ノ牧温泉駅
関東鉄道
キハ101
キハ102
茨城県筑西市茂田1858
ザ・ヒロサワ・シティ レールパーク

キハ30 35
キハ35 70
栃木県日光市足尾町掛水
わたらせ渓谷鐵道 足尾駅
1996年(平成8年)にJR東日本廃車後入線。2006年(平成18年)以降はイベントにも使用されている。2009年(平成21年)4月から6月にキハ30 35はツートーンの国鉄一般色に、2009年10月にキハ35 70は首都圏色に復元された。
キハ35 901 群馬県安中市松井田町横川
碓氷峠鉄道文化むら[6]
キハ30 62 千葉県いすみ市苅谷
いすみ鉄道 国吉駅
最終的には車籍編入を行い動態保存される予定であることが明らかにされている。
キハ30 51 岐阜県美濃加茂市川合町1丁目
美濃太田車両区
キハ30 70
キハ30 72
兵庫県西脇市市原町233-3
鍛冶屋線市原駅記念館
鍛冶屋線市原駅跡に整備された現在地に設置。設置当初は現役最終時の加古川・鍛冶屋線カラーのままであったが、2010年に修復を兼ねて地元西脇市出身の絵本作家・吉田稔美のデザインによるカラフルな塗装に変更された[30]
キハ30 69 兵庫県多可郡多可町中区鍛冶屋
鍛冶屋線記念館
鍛冶屋線鍛冶屋駅跡に整備された現在地に設置。現役最終時の加古川・鍛冶屋線カラーのまま保存されている。

脚注

注釈

  1. ^ 両開き3ドア・ロングシートの気動車はJRグループではキハE130系100番台JR東海キハ25形1000番台・1100番台JR九州キハ200系500・1500番台も存在しているが、これらはクロスシート車も存在し、JR社内でも一般型と区分されている。また関東鉄道では、国鉄などから購入した中古のキハ30形によるオーバーラン事故が1992年に発生したことから、3ドア・ロングシートのキハ2100形を新製し、その後もキハ2100形をベースとした車両を導入している。
  2. ^ …かつて千葉にステンレスの気動車が走り出したころ、‘保線屋’さんから「この車両が先頭に連結されていると列車が近づいてくるのが見えにくくて危ない」との苦情があった。今はたしか前面の一部に色を塗っていると思うが…(山之内秀一郎『鉄道車両の性能と速度』鉄道ジャーナル1975年1月号23頁)
  3. ^ 国鉄におけるステンレス車両は、これに限らず取り扱い上の問題からのちに一般車に準じて塗装された例が多い。
  4. ^ 腐食代(ふしょくしろ、くさりしろ)が不要になる。
  5. ^ 所属車両基地でもある鷹取工場のある鷹取 - 兵庫間で山陽本線上を自力回送されていたが、空車では最高速度60 - 70 km/hに達していたという。
  6. ^ 奈良電化以前にも亀山名古屋まで直通する運用があったが、冷気の入りやすい車体構造とロングシートの組み合わせから、冬期の暖房効果や長距離・長時間の運転には、本系列では若干の問題があった。このため次第にキハ58系へ置き換えられていった。
  7. ^ 国鉄分割民営化後はJR西日本が227系・JR東海がキハ25系と、紀勢本線の殆どの区間の普通列車が共にオールロングシート車のみで運用されている。
  8. ^ 非電化時代は関西本線亀山 - 奈良間の普通列車と共通運用していたため、奈良直通も一部存在した。関西・片町線においても末期には単独運用はなく、キハ58系などとの併結で朝夕を中心に運用されていた。
  9. ^ 現在も美濃太田車両区に留置中。ただし、2011年(平成23年)3月開館のリニア・鉄道館での展示対象にはなっていない。
  10. ^ 木更津駅 - 大原間 (安房鴨川経由) の送り込み回送運用、勝浦運転区での駐泊もこの時点で消滅。
  11. ^ 62・100は相模線電化により茅ヶ崎から、98は新製後は高崎配置のまま八高線で運用され続けた車両で同線の車両置換えにより、木更津派出に転入した車両である。
  12. ^ 本来なら最高出力350PSを発揮できる過給器および中間冷却器付エンジンであるが、流用品の変速器への負荷を考慮し、250 PSへデチューンされた。
  13. ^ 現在は運転士所属基地のため、車両配置はない。
  14. ^ 高崎第一機関区は分割民営化直前の1987年(昭和62年)3月1日に高崎客車区と統合し、高崎運転所に改称。2004年(平成16年)に現名称に改称。
  15. ^ 1970年代前半から1986年(昭和61年)にかけて相模線充当車両は八王子機関区(現・日本貨物鉄道(JR貨物)八王子総合鉄道部)配置とされていた。
  16. ^ JR化後、正面運転席窓下の青部分に形式と番号が白文字で斜めに入れられた。
  17. ^ うち1両(キハ301)は1986年(昭和61年)に筑波鉄道が国鉄よりキハ30 16を購入し、翌1987年の廃止により関東鉄道に移籍した車両。またキハ30 93・キハ35 158の2両は部品取り車で水海道駅構内留置とされ車籍は未入籍である。
  18. ^ 1992年に取手駅で発生した当型式によるオーバーラン事故がきっかけとなって中古車の導入は取りやめられ、以後の増備は新車のキハ2100形によって行われることとなった。

出典

  1. ^ ネコ・パブリッシング『公式パンフレットに見る 国鉄名車輛』p.158
  2. ^ a b 岡田誠一「国鉄通勤形・近郊形ディーゼル動車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2004年2月号、p.19
  3. ^ a b c 岡田誠一「国鉄通勤形・近郊形ディーゼル動車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2004年2月号、11頁。
  4. ^ a b c d 岡田誠一「国鉄通勤形・近郊形ディーゼル動車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2004年2月号、12頁。
  5. ^ a b 岡田誠一「国鉄通勤形・近郊形ディーゼル動車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2004年2月号、13頁。
  6. ^ a b c 「オールステンレス製ディーゼル動車の嚆矢 キハ35形900番代」『鉄道ピクトリアル』2004年2月号、46-47頁。
  7. ^ a b c d e f g 岡田誠一「国鉄通勤形・近郊形ディーゼル動車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2004年2月号、18頁。
  8. ^ 「キハ35・45系 車歴表」『鉄道ピクトリアル』2004年2月号、68-69頁。
  9. ^ a b 岡田誠一「国鉄通勤形・近郊形ディーゼル動車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2004年2月号、18頁。
  10. ^ 寺本光照『国鉄・JR関西圏近郊電車発達史 大阪駅140年の歴史とアーバンネットワークの成立ち』JTBパブリッシング〈キャンブックス〉、2014年、187頁。ISBN 978-4-533-09794-2 
  11. ^ 寺本光照『国鉄・JR関西圏近郊電車発達史 大阪駅140年の歴史とアーバンネットワークの成立ち』JTBパブリッシング〈キャンブックス〉、2014年、73頁。ISBN 978-4-533-09794-2 
  12. ^ キハ30 98が国鉄色となって郡山総合車両センターを出場 - 交友社鉄道ファン』railf.jp鉄道ニュース 2009年07月02日
  13. ^ 編集長敬白 国鉄色キハ30いよいよ運転開始。
  14. ^ キハ30 62が一般色になり郡山総合車両センターから出場 - 交友社『鉄道ファン』railf.jp鉄道ニュース 2009年12月29日
  15. ^ キハ30一般色+キハ40烏山色の試運転 - 交友社『鉄道ファン』railf.jp鉄道ニュース 2010年2月9日
  16. ^ 久留里線新型車両の導入について (PDF) - 東日本旅客鉄道プレスリリース 2011年12月15日
  17. ^ 久留里線でキハ30・キハ37・キハ38の運転終了 - 交友社 『鉄道ファン』railf.jp鉄道ニュース 2012年12月1日
  18. ^ 【JR東】久留里線のキハ30形・キハ37形・キハ38形 運転終了 - 鉄道ホビダス ネコ・パブリッシング RMニュース 2012年12月3日
  19. ^ 【JR東】久留里用気動車6輌 配給輸送 - 鉄道ホビダス ネコ・パブリッシング RMニュース 2012年12月11日
  20. ^ キハ30形,キハ37形,キハ38形が新津へ - 交友社 『鉄道ファン』railf.jp鉄道ニュース 2012年12月12日
  21. ^ キハ30 62がいすみ鉄道へ - 交友社 『鉄道ファン』railf.jp鉄道ニュース 2013年1月17日
  22. ^ キハ30,キハ37,キハ38の6両が水島臨海鉄道へ - 交友社 『鉄道ファン』railf.jp鉄道ニュース 2013年7月10日
  23. ^ 「JR電車編成表2014冬」ISBN 9784330424132 p.357。
  24. ^ a b c “鉄道総研の技術遺産 File No.18 試験車両キハ30形気動車”. RRR (Railway Research Review) Vol.70 (No.9): P.34-35. https://bunken.rtri.or.jp/doc/fileDown.jsp?RairacID=0004005912. 
  25. ^ 関東鉄道で『キハ100形撮影会』開催 railf.jp鉄道ニュース 2017年1月9日
  26. ^ 関東鉄道キハ100形2両が保存先へ陸送されるrailf.jp鉄道ニュース 2017年1月16日
  27. ^ 水島臨海鉄道キハ30 100が試運転|鉄道ファン・railf.jp|鉄道ニュース|2014年2月26日掲載|鉄道ファン・railf.jp”. 鉄道ファン・railf.jp. 2022年12月24日閲覧。
  28. ^ 水島臨海鉄道でキハ30+キハ38が定期列車に充当される|鉄道ファン・railf.jp|鉄道ニュース|2021年11月2日掲載|鉄道ファン・railf.jp”. 鉄道ファン・railf.jp. 2022年12月24日閲覧。
  29. ^ 水島臨海鉄道キハ30 100が全般検査から出場|鉄道ファン・railf.jp|鉄道ニュース|2022年9月30日掲載|鉄道ファン・railf.jp”. 鉄道ファン・railf.jp. 2022年12月24日閲覧。
  30. ^ 鍛冶屋線跡を訪ねて。 - 編集長敬白、2015年1月16日

参考文献

関連項目

  1. ^ 地球環境保全への貢献”. 東海旅客鉄道. 2023年11月29日閲覧。