登別温泉軌道
種類 | 株式会社 |
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本社所在地 |
胆振国幌別郡登別温泉湯元[1] 胆振国幌別郡幌別村字登別温泉町貮桧六番地[1] *2 |
設立 | 1915年 (大正4年) 4月16日 |
資本金 | 四拾萬圓[1] |
決算期 | 5月(改正時に6月) |
関係する人物 | 栗林五朔 |
特記事項:*1 = 1933年5月30日に社名変更 *2 = 定款改定時の所在地 |
登別温泉軌道 | |
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概要 | |
現況 | 廃止 |
起終点 |
起点:登別駅前 終点:登別温泉場 |
駅数 | 3駅 |
運営 | |
開業 | 1915年12月1日 |
廃止 | 1933年10月15日 |
所有者 | 登別温泉軌道 |
使用車両 | 車両の節を参照 |
路線諸元 | |
路線総延長 | 8.6 km (5.3 mi)[2] |
軌間 | 1,067 mm (3 ft 6 in) |
過去の軌間 | 762 mm (2 ft 6 in) |
電化 | 直流600 V 架空電車線方式 |
停車場・施設・接続路線(廃止当時) | ||||||||||||||||||||||||||||||
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登別温泉軌道(のぼりべつおんせんきどう)は、かつて北海道登別市の登別駅前より、登別温泉街までを結んでいた路面電車およびそれを運営していた軌道事業者である。
概説
[編集]登別温泉の交通は登別温泉の旅館「第一滝本館」の創業者である滝本金蔵が、駅と温泉の間を結ぶ馬車道[要曖昧さ回避]を1891年(明治24年)に私費で開削・整備したのが前史である。当時は6人乗りの馬車が片道2時間かけて登別温泉にむかっていた。
滝本金蔵の死後、跡を継いだ長男の2代目金蔵も早世し、長男の嫁が一人旅館を経営するには限界があったので室蘭市に本拠を構える運送業栗林合名会社(現在の商社「栗林商会」)の創業者・栗林五朔(ごさく)が、懇請されて「第一滝本館」をはじめ登別の地約21,000坪その他関連施設を10万円で譲り受けることになった。
栗林は登別温泉を再開発するにはまず交通機関の改革が必要と考え、登別駅と登別温泉を結ぶ軌道を計画した。当初は旧道に敷設しようとしたが勾配が続き馬の休息が取れないため紅葉谷経由に変更したが、この時に紅葉谷を専用軌道にするよう希望したため住民が反対した。これにより折衝に時間がかかったが紅葉谷を併用軌道にすることで1915年(大正4年)12月に762mm軌間の馬車鉄道が開通した[3]。温泉行きは1時間20分。官設駅行きは1時間で運行した。
馬車鉄道は、乗合馬車に比べ時間が短縮され乗り心地がよくなったが 馬の暴走による事故や御者の罷業にはなやまされ、また登別温泉が標高の高い所にあるため馬力では輸送力にも限界があった。そのため1917年(大正6年)3月の臨時株主総会において動力を蒸気に変更することを決議した。
1918年(大正7年)5月より蒸気機関車が運転され、上り下りとも所要時間は1時間になった。運賃は1等50銭、2等23銭とした[4]。ただ非力な蒸気機関車のため勾配に弱いことや煙突から吐き出される火の粉による火災発生など問題は残った。そこで1923年(大正12年)6月の株主総会において動力を電気に変更することを決議し、1925年(大正14年)11月に1,067mmへ改軌・電化された。電力は登別温泉街の電燈用として、登別川に水力発電所が1916年(大正5年)に建設されていたのでこれを供給源に利用した。路面電車の登場により所要時間は35分となった。
昭和に入って並行道路の整備が進むとバスとの競争が激化[5]、対抗上輸送力向上のため発電所の増設を検討した[6]が過大投資になるおそれがあるため断念し、1933年(昭和8年)に廃線となった。
沿革
[編集]- 1915年(大正4年)
- 1916年(大正5年)
- 1918年(大正7年)5月1日:蒸気機関車導入
- 1925年(大正14年)8月6日:改軌・電気動力認可を得る。同年11月10日電化完成、蒸気軌道から電気軌道に変更。同時に1067mmに改軌
- 1930年(昭和5年)10月26日:貸切自動車(ハイヤー)を登別 - 登別温泉間で運行開始
- 1933年(昭和8年)
社名は廃止直前に「軌道」を省いた「登別温泉」に改称されていた。登別温泉株式会社は、「株式会社栗林商会」(本社・室蘭市)のグループ会社として2014年(平成26年)時点でも存続しており、登別温泉の一部泉源の権利を保有して、地元の旅館向け給湯事業を行っている。
軌道廃止後、保有電動車3両は旭川市街軌道に譲渡された。
路線データ
[編集]廃線時
- 路線距離:8.6km[2]
- 軌間:1067mm
- 停留所数:3
- 複線区間:なし(全線単線)
- 電化区間:全線(直流600V)
- 登別温泉変電所、同期変流機(交流側375V直流側600V)直流側の出力100kW、製造所奥村電気、常用1[15]
運行概要
[編集]1930年4月1日改正時
- 運行本数:日12往復
- 所要時間:35-38分
輸送・収支実績
[編集]年度 | 人員(人) | 貨物数量(噸) | 営業収入(円) | 営業費(円) | 営業益金(円) | 雑収入(円) | 雑支出(円) | 支払利子(円) |
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1915(大正4)年 | 2,450 | 195 | 1,019 | 1,418 | ▲ 399 | |||
1916(大正5)年 | 33,946 | 4,776 | 11,159 | 10,206 | 953 | 1,856 | 953 | 898 |
1917(大正6)年 | 45,449 | 1,470 | 12,492 | 11,479 | 1,013 | 電気4,811 | 2,634 | 1,797 |
1918(大正7)年 | 61,173 | 3,449 | 24,589 | 23,091 | 1,498 | 電気6,689 | 3,449 | 1,510 |
1919(大正8)年 | 61,769 | 4,062 | 34,011 | 29,452 | 4,559 | 電気23,245 | 13,278 | 2,014 |
1920(大正9)年 | 61,954 | 2,196 | 47,412 | 40,907 | 6,505 | 32,700 | 12,966 | 3,128 |
1921(大正10)年 | 60,687 | 1,537 | 39,607 | 46,625 | ▲ 7,018 | |||
1922(大正11)年 | 61,774 | 1,458 | 38,524 | 39,125 | ▲ 601 | |||
1923(大正12)年 | 64,315 | 4,088 | 43,303 | 34,835 | 8,468 | 35,551 | 19,035 | |
1924(大正13)年 | 62,381 | 888 | 39,011 | 31,573 | 7,438 | |||
1925(大正14)年 | 69,054 | 1,391 | 43,003 | 34,214 | 8,789 | 87,537 | 8,3729 償却金5,950 雑損75 |
2,013 |
1926(昭和1)年 | 81,257 | 2,459 | 52,428 | 42,383 | 10,045 | 18,643 | 償却金8,992、雑損20 | 14,321 |
1927(昭和2)年 | 102,489 | 1,960 | 53,940 | 37,793 | 16,147 | 29,397 | 償却金25,651、雑損4 | 14,198 |
1928(昭和3)年 | 121,121 | 2,032 | 59,728 | 44,238 | 15,490 | 温泉、電気8,836 | 償却金雑損3,716 | 13,320 |
1929(昭和4)年 | 126,181 | 2,608 | 62,084 | 40,061 | 22,023 | 温泉、電気13,375 | 償却金9,948 | 11,710 |
1930(昭和5)年 | 122,470 | 1,649 | 56,395 | 40,922 | 15,473 | 温泉、電気4,761 | 償却金5,916 | 8,634 |
1931(昭和6)年 | 98,035 | 910 | 43,561 | 43,550 | 11 | 温泉、電気4,500 | 雑損98 | 7,501 |
1932(昭和7)年 | 94,106 | 504 | 41,021 | 35,011 | 6,010 | 温泉、電気2,901 | 償却金1,557 | 6,330 |
1933(昭和8)年 | 84,012 | 903 | 36,088 | 22,768 | 13,320 | 温泉、電気138,747 | 雑損償却金122 財産滅失差損139,255 |
5,399 |
- 鉃道院年報、鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計より
- 兼営事業は温泉経営、所有地の賃貸、電気供給、石材、製材、湯花
車両
[編集]1918年(大正7年)に、魚沼鉄道で余剰となっていた雨宮鉄工所製の0-4-0(B)形タンク機関車2両を譲り受け、改軌まで使用した。
1930年度時点において、電動車3両[16]、付随車2両(いずれも木造4輪単車。電動車は1925年(大正14年)の電化時、付随車は1927年(昭和2年)にそれぞれ製造)、貨車3両を保有していた。電動車の電装品はシーメンス製であったという。
停留所一覧
[編集]全駅北海道に所在。『日本の市内電車』227頁には神威若 - 登別(駅前)間に西阿寄、阿寄の停留所が記載されている。
停留所名 | 営業キロ | 接続路線・備考 |
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登別駅前 | 0.0 | 国有鉄道:室蘭本線(登別駅) |
神威若 | ? | 現・サンクス中登別店前 |
登別温泉場 | 8.6 |
脚注および参考文献
[編集]- ^ a b c 登別温泉軌道株式会社定款 (昭和十三年一月二日改正)
- ^ a b c 今尾 (2008) では8.7km
- ^ 敷設工事の完成により10月から仮営業していた。『遠い日の鉄道風景』11頁
- ^ 北海道鉄道管理局『北海道鉄道沿線案内』、1918年、196頁。荒山正彦監修・解説『シリーズ明治・大正の旅行 第I期 旅行案内書集成』第13巻(北海道旅行案内/樺太の鉄道旅行案内)、ゆまに書房、2014年、248頁。
- ^ 1930年8月から室蘭自動車が登別温泉-室蘭駅間に乗合自動車の運行を始めた。所要時間は1時間半
- ^ 登別温泉街の電燈の使用量も増えており発電力の増強は求められていた。
- ^ 『鉄道院年報. 大正4年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『日本全国諸会社役員録. 第24回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『鉄道院年報. 大正4年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『電気事業要覧. 第9回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『鉄道統計資料. 昭和8年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『遠い日の鉄道風景』13頁
- ^ 「軌道営業廃止」『官報』1933年12月20日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 1934年時バス路線1、2『全国乗合自動車総覧』1934年(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『電気事業要覧. 第19回 昭和3年3月』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 1号電車形式図『最新電動客車明細表及型式図集』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- 登別温泉株式会社(編)『70年の小録』1985年。
- 宮田憲誠 『遠い日の鉄道風景 - 明治のある日 人車や馬車鉄道が走り始めた』 径草社、2001年、11-15頁
- 和久田康雄『日本の市内電車』成山堂書店、2009年、pp. 136-137頁。
- 和久田康雄『私鉄史ハンドブック』電気車研究会、1993年、p. 26頁。
- 今尾恵介(監修)『日本鉄道旅行地図帳 - 全線・全駅・全廃線』 1 北海道、新潮社、2008年。ISBN 978-4-10-790019-7。
- 『登別町史』1967年、997 - 999頁
- 『栗林100年史』栗林商会、1996年、54-57頁
外部リンク
[編集]- 夢元 さぎり湯 - 登別温泉軌道の後身、登別温泉株式会社が運営
- 函館市中央図書館デジタル資料館より
- 紅葉谿汽車通行の景 蒸気機関車時代。
- 紅葉谷と電車
- (登別温泉名勝)湯乃町より地獄谷を望む 右下に登別温泉停車場と客車