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細川基経

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
細川基経
時代 室町時代中期
生誕 不明
死没 明応9年9月1日1500年9月24日
別名 勝信(細川家文書)、久之(永源師檀紀年録)、黙雲蒿木、春台居士[1]
官位 民部大輔阿波守[2]
幕府 室町幕府 和泉半国守護
主君 足利義尚
氏族 細川和泉下守護家
父母 父:不明(細川奥州家の人物か[3])、養父:細川持久
兄弟 政賢[4]
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細川 基経(ほそかわ もとつね)は、室町時代中期の守護大名和泉半国守護

官職は民部大輔細川和泉下守護家4代当主[3]

出自

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従来、確認されている系図では勝信(細川家文書)や久之(永源師檀紀年録)という名前であるとされてきた。しかし、岡田謙一によって本来の名前が基経であったことが判明した[3]。和泉下守護家の通字である「久」の字が名前に使われていないことから、養子であるとされ、細川奥州家の人物であると推察されているものの、具体的な実父は不明[3]

概要

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文明17年(1485年)には、和泉国国一揆が発生したのを、細川和泉上守護細川元有とともに鎮圧している。この際、基経は既に守護であったため、守護就任はこれ以前と推察されている[3]

蔭涼軒日録延徳元年(1489年)11月12日条によれば、先代の和泉下守護であった細川持久が、基経との不和によって出奔したという。

明応4年(1495年)には、元有と共に畠山尚順と手を結び、本家筋細川政元と敵対したが、政元に敗れて降伏し、その家臣となった。このため、尚順とは対立するようになった。

後慈眼院殿御記』明応9年(1500年)9月1日条によれば、神尾合戦の影響で基経と元有が自害したという[3]

脚注

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  1. ^ 「細川之系図[1]
  2. ^ 「細川之系図[2]
  3. ^ a b c d e f 岡田謙一「室町後期の和泉下守護細川民部大輔基経」、日本歴史学会編『日本歴史』p87-99、(1995年-07月、吉川弘文館)
  4. ^ 「細川之系図[3]

参考文献

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  • 岡田謙一「室町後期の和泉下守護細川民部大輔基経」(『日本歴史』566号、1995年)p87-99