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重野安正

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
重野 安正
しげの やすまさ
2011年2月22日撮影
生年月日 (1941-12-01) 1941年12月1日
出生地 日本の旗 日本 大分県大野郡野津町
(現・臼杵市
没年月日 (2021-04-09) 2021年4月9日(79歳没)
死没地 日本の旗 日本 大分県大分市
出身校 大分県立農業講習所
前職 大分県職員
大分県議会議員
所属政党日本社会党→)
社会民主党
称号 従四位
旭日中綬章

選挙区比例九州ブロック→)
大分2区
当選回数 3回
在任期間 2000年 - 2003年
2005年 - 2012年11月16日

選挙区 大分市選挙区
当選回数 7回
在任期間 1975年 - 2000年
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重野 安正(しげの やすまさ、1941年12月1日 - 2021年4月9日)は、日本政治家従四位衆議院議員(3期)、大分県議会議員(7期)、社会民主党幹事長(第6代)、同国会対策委員長(第6代)を歴任。

経歴

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2011年2月22日内閣府副大臣末松義規(左)と

1962年農業改良普及員として大分県庁に入庁。その後、労働組合活動に没頭するようになり政治に目覚めた。自治労大分県職員連合労働組合の加盟労組である大分県職員労働組合(大分県職労)から大分県議会議員に転身。2000年大分2区から衆議院議員に立候補し比例復活で初当選。

国政では、社会民主党の国会対策委員長を経て幹事長に就任した。民社国連立政権下でも引き続き幹事長を務め、内閣府特命担当大臣消費者及び食品安全少子化対策男女共同参画担当)として入閣した党首の福島瑞穂に代わり党務全般を指揮した。また、全国国公立幼稚園PTA連絡協議会の顧問や大分県国際農友会の会長、さらに自治労大分県職員連合労働組合や大分県職員労働組合の特別執行委員も務めた。

2012年2月25日、社民党党大会において幹事長選挙が行われた。国対副委員長の服部良一との一騎討ちとなり、重野が173票を獲得し、服部の57票を上回って再選。しかし同年10月に脳梗塞のため東京都内の病院に入院[1]し、衆議院解散後の11月18日、社民党大分県連は健康問題を理由として第46回衆議院議員総選挙には擁立しないことを発表した[2]。その結果、急遽吉川元を後継に擁立し、吉川は小選挙区で敗れたが、比例区で初当選した。

2021年4月9日4時35分、心筋梗塞のため大分市内で死去[3]。79歳没。死没日をもって、従四位に叙される[4]

略歴

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政策・主張

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人物

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大分県職労から大分県議、国会議員になり国会対策委員長を務めた経歴は、大分1区選出の社民党の元総理大臣村山富市と同じである。また、重野の後継として大分県議となった吉田忠智参議院議員)は九州大学農学部卒業後、大分県職員となった人物であるが、大分県職労の幹部を務めていた。さらに重野は大分県立農業講習所(現・大分県立農業大学校)出身で、村山富市は漁師の出身なので、村山・重野・吉田はともに農林水産業に関わりがあると言える。

所属していた団体・議員連盟

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脚注

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  1. ^ “重野幹事長の擁立断念=社民”. wsj.com (ウォール・ストリート・ジャーナル). (2012年11月18日). http://jp.wsj.com/Japan/Politics/node_549951 2012年11月18日閲覧。 
  2. ^ 社民・重野氏、衆院選出馬断念…脳梗塞で入院中”. 読売新聞 (2012年11月18日). 2012年11月18日閲覧。
  3. ^ 元衆議院議員の重野安正氏が死去 元社民党幹事長 - 共同通信 2021年4月9日
  4. ^ 『官報』第491号10頁 令和3年5月14日号
  5. ^ 重野安正”. 社会民主党. 2018年1月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月14日閲覧。
  6. ^ 北朝鮮によるロケット発射に抗議する(談話)
  7. ^ ミサイル対応、日本は過剰=社民幹事長 時事通信 2012年4月12日
  8. ^ 第180回国会 衆議院本会議 3号議事録 平成24年01月27日

外部リンク

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党職
先代
又市征治
社会民主党幹事長
第6代 : 2007年 - 2013年
次代
又市征治
先代
横光克彦
社会民主党国会対策委員長
第6代 : 2005年 - 2007年
次代
日森文尋