青森県立木造高等学校
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青森県立木造高等学校 | |
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北緯40度48分38.9秒 東経140度23分32.4秒 / 北緯40.810806度 東経140.392333度座標: 北緯40度48分38.9秒 東経140度23分32.4秒 / 北緯40.810806度 東経140.392333度 | |
過去の名称 | 青森県立木造中学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 青森県 |
学区 |
全県学区 秋田県の一部[1] |
校訓 | 誠實・勤勉・親切 |
設立年月日 | 1927年(昭和2年) |
共学・別学 | 男女共学 |
課程 | 全日制課程 |
単位制・学年制 | 単位制 |
設置学科 | 総合学科 |
学期 | 3学期制 |
学校コード | D102210000111 |
高校コード | 02115G |
所在地 | 〒038-3139 |
青森県つがる市木造日向73-2 | |
外部リンク | 公式ウェブサイト |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
青森県立木造高等学校(あおもりけんりつ きづくりこうとうがっこう, 英: Aomori Prefectural Kizukuri High School)は、青森県つがる市木造日向に所在する公立の高等学校。略称「木高」(もっこう)。
設置学科
[編集]- 総合学科
- 人文科学系列
- 自然科学系列
- 流通ビジネス系列
- 情報システム系列
概要
[編集]- 歴史
- 1927年(昭和2年)創立の「青森県立木造中学校」(旧制中学校)を前身とする。1948年(昭和23年)の学制改革により、新制高等学校となった。当初は男子校であったが1950年(昭和25年)から男女共学を開始した。かつては定時制課程も有していたが、2000年(平成12年)に廃止された。また全日制課程では長く普通科と商業科の2学科が設置されていたが、学科改編により2003年(平成15年)に総合学科が設置された。2022年(令和4年)に創立95周年を迎えた。
- 校歌
- 歌詞は2番まであり、校名は登場しない。
沿革
[編集]- 前史
- 1902年(明治35年)4月1日 - 西津軽郡木造町字曙71番地に「青森県立第四中学校[2]」(旧制中学校)が創立。
- 1909年(明治42年)4月1日 - 統合により「青森県立弘前中学校木造分校」となる。
- 1914年(大正3年)3月31日 - 廃校。
- 正史
- 1926年(大正15年)11月20日 - 旧・第四中学校の校地に新校舎が完成。
- 1927年(昭和2年)
- 1934年(昭和9年)7月21日 - 校旗を制定。
- 1943年(昭和18年)4月1日 - 中等学校令の施行により、この時の入学生から修業年限が4年となる。
- 1944年(昭和19年)- 勤労動員が開始。
- 1945年(昭和20年)
- 3月 - 教育ニ関スル戦時非常措置方策により、修業年限4年施行の前倒しが決定され、4年生と5年生の合同卒業式を挙行[3]。
- 4月 - 学校での授業が停止される。ただし勤労動員は継続される。
- 8月 - 終戦。
- 9月 - 授業を再開。
- 1946年(昭和21年)4月1日 - 修業年限が5年となる(ただし4年修了時点で卒業することもできた)。
- 1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革(六・三制の実施)が行われる。
- 旧制中学校の募集を停止。
- 新制中学校を併設し(以下・併設中学校)、旧制中学校1・2年修了者を新制中学校2・3年生として収容。
- 併設中学校は経過措置としてあくまで暫定的に設置されたため、新たに生徒募集は行われず、在校生が2・3年生のみの中学校であった。
- 旧制中学校3・4年修了者はそのまま在籍し、4・5年生となった(ただし4年修了時点で卒業することもできた)。
- 1948年(昭和23年)
- 1949年(昭和24年)3月31日 - 併設中学校を廃止。
- 1950年(昭和25年)4月6日 - 男女共学を開始。
- 1951年(昭和26年)2月21日 - 校旗を制定。
- 1962年(昭和37年)
- 4月1日 - 全日制商業課程を新設。
- 10月 - 商業科専用校舎が完成。
- 1963年(昭和38年)
- 4月1日 - 通常制普通課程を全日制普通科に、通常制商業課程を全日制商業科に、定時制普通課程を定時制課程普通科に改称。
- 5月 - 体育館が完成。
- 1964年(昭和39年)4月1日 - 稲垣分校が青森県に移管される(稲垣村立から青森県立となる)。
- 1966年(昭和41年)5月25日 - 新校歌(現校歌)を制定。
- 1967年(昭和42年)4月1日 - 車力分校が青森県に移管される(車力村立から青森県立となる)。
- 1972年(昭和47年)
- 2月19日 - 現在地に新校舎が完成。
- 4月1日 - 新校舎に移転を完了。
- 1973年(昭和48年)
- 1974年(昭和49年)9月10日 - 陸上競技場が完成。
- 1975年(昭和50年)
- 1976年(昭和51年)11月20日 - 前庭テニスコートが完成。
- 1977年(昭和52年)8月6日 - 第二体育館が完成。
- 1978年(昭和53年)4月1日 - 稲垣分校と車力分校が定時制課程から全日制課程に転換。
- 1980年(昭和55年)9月25日 - 剣道場が完成。
- 1981年(昭和56年)5月31日 - 野球場を拡張。
- 1987年(昭和62年)8月31日 - 新銀杏ヶ丘会館が完成。
- 1988年(昭和63年)10月1日 - 情報処理教室を開設。
- 1991年(平成3年)2月28日 - 弓道場を改修。
- 1992年(平成4年)12月23日 - 校門が完成。
- 1997年(平成7年)3月 - 定時制課程の募集を停止。
- 2000年(平成12年)3月31日 - 定時制課程を廃止。
- 2001年(平成13年)10月30日 - 特別教室棟の耐震改修を実施。
- 2003年(平成15年)
- 3月31日 - 礼法室を図書室に改修。
- 4月1日 - 学科改編により、普通科と商業科の募集を停止し、総合学科を新設。
- 11月3日 - 総合学科設置に伴う校舎改修を実施。介護実習室、情報総合実践室等を設置。
- 2005年(平成17年)3月31日 - 普通科と商業科を廃止。
- 2006年(平成18年)3月31日 - 車力分校を廃止。
- 2007年(平成19年)4月1日 - 青森県立深浦高等学校を統合し深浦校舎とする。
- 2010年(平成22年)3月31日 - 稲垣分校を廃止。
- 2023年(令和5年) 3月31日- 深浦校舎が閉校。
部活動
[編集]- 運動部
- 文化部
エピソード
[編集]- 夏の甲子園出場
- 1982年(昭和57年)8月、第64回全国高校野球で、当時市部以外からは初出場を果たし、現在も春夏通じて唯一の甲子園出場となった。外崎監督率いる木高ナインは同年8月8日の1回戦、後に西武ライオンズに入団する佐賀商・新谷博投手に、9回二死までパーフェクトに抑えられてしまう。しかし、27人目のピンチヒッター世永幸仁がデッドボールで出塁したため、なんとか夏の甲子園史上初の完全試合負けを阻止した(それでも最後の打者はセカンドゴロで試合終了、ノーヒットノーランでの敗戦となった)。この瞬間は伝説となり、たった1度の出場ながらも日本中に「きづくり」を知らしめた。
著名な出身者
[編集]- 升田世喜男(元衆議院議員)
- 田中英壽(元日本大学理事長、元日本大学相撲部監督、元日本オリンピック委員会(JOC)副会長)
- 舞の海秀平(元大相撲力士・スポーツキャスター)
- 栃翼祐一(元大相撲力士)
- 寶智山幸観(元大相撲力士)
- 藤田博保(児童文学作家・旧木造中学校出身)
- 青山良平(青森放送のパーソナリティー兼ディレクター)
- 本間雅夫(宮城教育大学名誉教授)
- 小島和恵(元女子マラソン日本記録保持者)
- 瓜田吉久(元砲丸投げ日本記録保持者)
- 草野徹(俳優、山田まりやの夫)
- 佐々木健(プロ野球選手)
- 盛貢(元木造町長)
交通アクセス
[編集]- 最寄りの鉄道駅
- 最寄りのバス停
- 弘南バス 「木造高校前」バス停下車後、目の前。(停車する路線については、弘南バス五所川原営業所の項目を参照か、営業所へ問い合わせを。)
- つがる市地域内交通吹原線(木高生の部活帰り対応で、復路最終便のみ、始発バス停となる。)
脚注
[編集]- ^ 大館、能代、鹿角、北秋田各市および藤里、八峰、小坂の各町
- ^ 第一中学校は青森県立弘前高等学校の前身、第二中学校は青森県立八戸高等学校の前身、第三中学校は青森県立青森高等学校の前身。
- ^ 本来であれば中等教育令が施行された1943年(昭和18年)4月に入学した生徒が4年を修了する1947年(昭和22年)に修業年限4年が施行される予定であったが、戦況の悪化等により、中等教育令の施行される前に入学した生徒にも修業年限4年が適用されることとなり、1940年(昭和15年)入学の5年生と1941年(昭和16年)入学の4年生の合同卒業式が行われることになった。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- * 青森県立木造高等学校
- 地図 - Google マップ