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Wikipedia‐ノート:信頼できる情報源/過去ログ7

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博物館や美術館の資料について[編集]

Wikipedia:出典を明記するに現地案内板とありますが、次のようなものは信頼できる情報源でしょうか?

  1. 博物館や美術館の公刊資料
  2. 博物館や美術館の館内で提供されてるガイドブック、パンフレット、リーフレット
  3. 博物館や美術館の館内にある案内板(常設展の場合)
  4. 博物館や美術館の館内にある案内板(特別展の場合)
  5. 博物館や美術館の館内で用いられている音声ガイド(常設展の場合)
  6. 博物館や美術館の館内で用いられている音声ガイド(特別展の場合)
  7. 博物館や美術館の館内で放映されている映像資料(常設展の場合)
  8. 博物館や美術館の館内で放映されている映像資料(特別展の場合)
  9. 博物館や美術館の館内で開催されたイベントでの配布資料

現地案内板との比較で質問致します。--Nansyrsyr会話2019年4月2日 (火) 21:19 (UTC)

コメント 情報源の検証可能性が、一つの目安になるのではないかと思います。案内板が常設板であれば検証可能性が高いと言えますが、特別展では案内板が展示終了後に撤去されると検証可能性が担保されなくなってしまいますよね。また、案内板が「誰によって」書かれた(または設置された)ものであるか明示されていなければ、信頼できる情報源とは言えないと思います。--小石川人晃会話2019年4月2日 (火) 21:58 (UTC)
  • コメント 実際問題であれば、これらを使わずとも別の資料が提示できないのか?となりますが、あくまで方針の話として。Wikipediaで言うところの「信頼できる情報源」とは「検証可能な信頼できる情報源」を指します。全てpublisherは問題ないと判断しますし、著者も大抵の場合問題ないでしょう。一方、検証可能かと言われれば、判断つきかねます。1は図書館等に収録されるはずなので問題ないと思います。2と9は公式サイトより通信販売で購入できる/できない10年前の映画のパンフレット、3と5と7は石碑に刻まれた碑文自体、4と6と8は期間限定のWEBサイトと同じ問題でしょうか。--JapaneseA会話2019年4月3日 (水) 03:50 (UTC)
  • コメント JapaneseAさんのおっしゃっているとおり、1は問題なく、一方でほかは検証可能性(入手困難)や信頼性の問題がありそうです。あえて案内板や音声ガイド等を用いなくても、たいていそれらの内容は(より詳細に)博物館・美術館刊行の特別展・常設展の図録、あるいは専門書等に含まれているでしょう。映像資料は図録等に含まれない内容が含まれているかもしれませんが、貴重・重要な資料であれば、国立歴史民俗博物館のように貸出・視聴サービスがあるでしょうし、そうであれば検証可能性の問題はクリアできそうです。--伊佐坂安物会話/履歴2019年4月3日 (水) 11:17 (UTC)
  • コメント きちんとした図書館、博物館、美術館であれば、紀要、年報などが公刊

されるでしょうが、そうでなくても、こちらから問い合わせたら、自館の展示資料のことであれば典拠となる資料などを教えてくれる可能性がそれなりにありそうです。とはいえ、地方自治体の自治体史・地誌と同じで、検証可能性はともかく信頼性という面では不安が残りますが。--Rasalghul会話2019年4月14日 (日) 20:51 (UTC)

  • コメント 現地案内板は製作された年代が古いものがあり、必ずしも現在の見解を反映したものではないありません。また、製作された日付が記されていないものもあり、刊行日が書かれた1,2,9に比べると、資料としての信頼性は劣ると思われます。残りのものは、刊行された展示の図録や解説が存在するのでしたら、そちらを出典として使われるほうがよろしいかと思います。大学所属の研究者の著書や論文と比較して、自治体や関連施設の刊行物が信頼性で劣るかと言われれば、籍を置いている身としては一言申し上げたい気持ちになります。地域に密着しているからこそ分かっていることも多々あり、より広範な視点で研究されている方と比べて、必ずしも研究の質が劣っているわけではありません。--Days for archaeology会話2019年4月21日 (日) 04:44 (UTC)

「公表者自身についての記事内での自己公表された情報源」への追記提案[編集]

以上2点の内容を追記してもよろしいでしょうか。言及している内容がそれぞれ近しい事柄であり、また人物に関連する記事において、当該人物が自主公表している経歴などを参照する場合などに出典として扱うかなどの判断指針として目を通すべき事柄であると思いましたので。 --Animataru会話2019年9月11日 (水) 23:46 (UTC)

コメント 私もリンクはあった方がよいと思いますが、{{See}}は説明を他の項目に丸投げする時に用いるテンプレートなので(詳細は「Template‐ノート:See」を参照)、{{See}}よりは{{See also}}の方が良いと思います。
あと、ウィキペディアを編集しようとしている本人自身が自主公表した情報源を用いる場合の指針として、「Wikipedia:自分自身の記事をつくらない」「Wikipedia:自著作物の持ち込み」「Wikipedia:有償の寄稿の開示」といったガイドラインもあります。個人的にはセクションの末尾に「なお、あなた自身がその情報源の公表者である場合、併せて……のガイドラインもご覧ください」のような一文もあってもいいかな、と思います。--Kanohara会話2019年9月12日 (木) 07:09 (UTC)
上記提案を受けまして、以下のような構成(現在の文面の最下部に加筆する形)での追記を提案します。
自己公表された情報源または...(中略)
  • 記事が、自己公表されたじょうほうげんを最重要な情報源としていないこと。
なお、あなた自身がその情報源の公表者である場合、併せて「Wikipedia:自分自身の記事をつくらない」「Wikipedia:自著作物の持ち込み」「Wikipedia:有償の寄稿の開示」のガイドラインもご覧ください。
この文面について追加案などがありましたらご意見よろしくお願いいたします。ページの編集は反対意見がなければ最後の議論から1週間以上経過した頃合いに実施しようかと思います。 --Animataru会話2019年10月22日 (火) 15:58 (UTC)
報告 提案から1週間以上経過したので加筆しました。 --Animataru会話2019年10月31日 (木) 04:57 (UTC)

「存命人物の伝記」節の改訂を提案します[編集]

「存命人物の伝記」のセクションにおける「存命中の人物の項目中で、その人物に関する批判、否定、あるいは有害と解釈できる情報が掲載された場合にはすぐに取り除くべきであり、ノートページに移動してもいけません。」との一文に関してですが、誘導先ページであるWikipedia:存命人物の伝記に記された指針と相当の齟齬があります(この点が元で実際にトラブル[*]も生じています)。編集者にそれ相応の注意を促す意図はあろうとはいえこの書き方ではあまりに大雑把ですし、元は黎明期の英語版からの移入された条文のようですが今となっては英語版の方も既に改訂されており、ウィキメディア全体からしても一般的とは言えないようです。またこの箇所において否定的な記述同様にプライバシーに関する記述に関しても注意を促す必要はあると考えますし、同時に「実在の人物が、あなたの言葉で傷付く」といった曖昧な言葉選びから、もう少し具体的に実在の人物の名誉や権利、加えてウィキメディア財団全体にとってのリスク等等の観点も盛り込んだ方が良いかと存じます。以上の点を踏まえ、掲載の内容を以下のように改訂する事を提案させて頂きます。

  • (改訂前)存命中の人物の項目中で、その人物に関する批判、否定、あるいは有害と解釈できる情報が掲載された場合にはすぐに取り除くべきであり、ノートページに移動してもいけません。他の記事の、存命の人物に関する記述を含んだ節についても同じです。実在の人物が巻き込まれ、あなたの言葉で傷つく可能性があります。私達は雑誌の記述活動をしているのではありません。私達は百科事典を作っているのです。
  • (改訂後)存命中の人物の項目中で、その人物に関する批判、否定、あるいは有害と解釈できる情報の掲載には強い注意を払って下さい。特に信頼できる情報源に基づかない否定的な情報やプライバシーに関わる情報の掲載は絶対に行ってはいけませんし、そうした性質の情報のうち参考文献や出典のない、あるいは貧弱な情報源しか存在しないものはすぐに取り除くべきであり、ノートページに移動してもいけません。他の記事やページの、存命の人物に関する記述を含んだ箇所についても同じです。実在の人物の名誉や権利が侵害され、加えて掲載したユーザーのみならずウィキメディア財団全体にまで法的なリスクが波及する可能性があります。私達は雑誌の記述活動をしているのではありません。私達は百科事典を作っているのです。

--Miraburu会話 / 投稿記録 2020年9月15日 (火) 14:38 (UTC)

チェック 実施いたしました。--Miraburu会話 / 投稿記録 2020年9月26日 (土) 02:21 (UTC)

用語の定義の改定を提案します[編集]

事実と意見の箇所の本文について、以下のような方向での改定を提案します。二段落目からの変更を念頭に置いていて、火星よりは地球の方が具体的であり事実らしさを有していること、その論旨であれば原文の起草者が著名であり、事実らしさが高いこと、先人に対する配慮があった方が良いこと、それにより現状の文を活かせることなどの理由により適当だと判断しています。以下の三段落目は、意見の二段落目を予定したものですが、事実には書かれているのに意見には書かれていないこと、明示した方が誤解を招く危険性も第三者を騙す危険性も低いことなどの理由により、改定が適当だと判断しています。そして、自由の意味が不適当かつ不明瞭なことから言い換えてあります。それから、読点についても、伝統的な日本語の慣行に従うべきであり、そのような方向での変更を加えてあります。更に、太字の部分の意図が不鮮明なことから、省略してあります。また、火星文については、「という」が冗長かつ不要なことから削除してあります。

  • (改訂前 f-2) 事実や、意見についての事実は主張してください。しかし、意見そのものを主張しないでください。ある調査により結果が公刊されたということは事実です。火星と呼ばれる天体が存在する、ということは事実です。プラトンは哲学者であったということも事実です。これらのうちいずれかに真剣に異議を唱える人はいませんから、私たちはそれらを自由に主張できます。
  • (改訂前 o) 意見とは、誰かが抱いている見解であり、その内容は検証できる場合もできない場合もあります。しかし、ある人やグループがある意見を表明したということは事実であり(つまり、その人がその意見を表明したのは真である)、そのことが検証可能である(つまり、そうした人や団体が意見を表明したことを示す適切な情報源を参照できる)ならば、そのことはウィキペディアに含めることができます。
  • (改訂後 f-2) 事実や、意見についての事実は主張してください。しかし、意見そのものを主張しないでください。ある調査により結果が公刊されたということは事実です。地球と呼ばれる天体が存在することは事実です。ジョージ・エドワード・ムーアはイギリス人であったということも、プラトンは哲学者であったということも事実です。これらのうちいずれかに真剣に異議を唱える人はいませんから、私たちはそれらを主体的かつ任意に主張できます。
  • (改訂後 o-1) 意見とは、誰かが抱いている見解であり、その内容は検証できる場合もできない場合もあります。しかし、ある人やグループがある意見を表明したということは事実であり(つまり、その人がその意見を表明したのは真である)、そのことが検証可能である(つまり、そうした人や団体が意見を表明したことを示す適切な情報源を参照できる)ならば、そのことはウィキペディアに含めることができます。
  • (改訂後 o-2) 適切な情報源がないのに、「世界は事実の総体である」とか、「ウィトゲンシュタインは、世界は物の総体ではないと述べるべきでなかった」と投稿してはいけません。適切な情報源がある場合には、「クレタ人は分離型GCだ」とか、「思想は実在しない」といった投稿も許容される余地があります。

以上について、ご検討をお願いします。--Textural会話2021年2月9日 (火) 23:42 (UTC)

アキバblogやマンガペディア、Amazonについて[編集]

私は、漫画やライトノベル作品のWikipediaを閲覧することが多いのですが、そこでアキバblogマンガペディアAmazonを出典として利用している記事を見かけたことがあります。これらはWikipediaの出典として使用できる「信頼できる情報源」と言えるのか皆様のご意見をお聞かせいただければ幸いです。--PMmgwwmgmtwp'g会話2021年3月17日 (水) 04:12 (UTC)

  • コメント マンガペディア平凡社小学館によって設立された一般社団法人による運営サイトのため、信頼できる情報源(三次資料)として出典が可能なようです。--柏尾菓子会話2021年3月17日 (水) 07:50 (UTC)
    • 返信 コメントありがとうございます。マンガペディアは三次資料でありながらも、ブリタニカやWikipediaとは違い運営元が大手で適切な執筆者に依頼して執筆されているということで、Wikipediaのルールにのっとれば使用できるのではと思っておりましたが、マンガペディアを出典として使用する編集者の方が殆どおらず、私自身迷っていた次第です。今後マンガペディアが有効に使える機会もあると思うので活用していきたいと思います。ご教示いただきありがとうございました。--PMmgwwmgmtwp'g会話2021年3月23日 (火) 07:35 (UTC)
  • コメント 基礎的なこととして、「Aという情報源は信頼できる情報源かどうか、Yes or No」のように単純二元論では考えないでください。情報源の信頼性は「スペクトルのように幅がある」ものです。すなわち、Yes or Noではなくて、信頼性がすごく高い・高い・まあまあ高い・わりと低い・すごく低い・・・と言う具合に考えてください。
  • 信頼性の高低を求める基本的な考え方は、「専門家による入念な査読を経て公開されたもの」は信頼性が高いということです。逆に言うと、発売元が小学館だろうが山川出版社だろうが東京大学だろうが、「専門家による」「入念な」査読を経ないで公開されていそうなものは、信頼性は低いです。通常、信頼性が高い情報源は、その執筆者も公表されています。たとえば市販の百科事典では、記事毎に執筆者が明記されているようなものと、そうでないものがあります。この場合、一般的には、署名記事のほうが信頼性を上にみるべきでしょう。たとえば百科事典では、「(天文学の権威として有名な)T大学名誉教授(天文学)のS博士が監修した」というようなことが明記されているものであり、それが権威として「信頼性」を担保するカタチになっています。
  • そして、「Aという情報源は」という大雑把な条件ではなく、「こういう記述を書く場合には」というように、ひとつひとつケースバイケースです。たとえばグラビアモデルについて書こうと思ったら『週刊プレイボーイ』は情報源足り得るでしょうけど、最先端の物理学について書こうと思ったら『週刊プレイボーイ』はダメということです。
  • こうした原則に照らすと、たとえばAmazonは、マンガやDVDの作者・監督の名前や出版社、収録時間や総ページ数、ISBNなどの情報源としては信頼してよいでしょう。一方、ユーザーレビューは「信頼できる」に値しませんし、商品説明・あらすじ・評価などは、商品を売るための宣伝的内容になっているでしょうから、使用しないべきです。
  • アキバBlogは個人サイトですから、基本的には情報源としての利用は極力慎重であるべきです。(いまちょっと眺めましたが)多くは商品の宣伝の様相を呈していますから、情報源としても不適切です。正直私は不得意分野なので深いことは言えませんが、ときには、この分野の個人ブログとしては高い知名度があるということで、分析的な記述をする際に、明確に帰属化したうえで使用することは許容されうるでしょう。つまり「Xという作品をアキバブログは『歴史的な名作』と評した[1]」のように書くことは、ありうるでしょう。(「ありうる」というのは、常にオッケーという意味ではないです。こういう分析的な記述をするときは、「アキバブログによる評価」が世界の代表的な評価であるようになってはダメで、ほかにも「メディアBはこう評した。メディアCはこう評した。」のようにいろいろ並べるのが肝要です。いずれにせよ、そうした評価・分析的記述は、宣伝のためのウリ文句のような場合には使えません。たとえばXという作品単独の紹介ページでの評価は、使用を避けるべきです。「2020年のトップ5」みたいな総評ページでの言及は、情報源として使うことがありうるでしょう。
  • マンガペディアは、確かに大手出版社が出資した媒体ではあります。ただし実際の執筆者は執筆者一覧をみると、(私はよくわかりませんが)明らかにペンネームの人物(?)もいます。各々が「専門家」や「権威ある」のかどうか私にはわかりません。もしかするとその分野の有名人などもいるでしょうし、無名の人もいるでしょう。どういう権威でどういう査読が行われているのかよくわかりませんから、無批判に「信頼できる」として取り扱うことはできません。
  • たとえば黒子のバスケをみると、おそらく無署名記事です。「比較的かんたんな事実」のような記述の情報源としては、ダメではないと思います。ですが「社会に与えた影響」のように、突っ込んだ分析的記述をするには上等な情報源ではありません(この作品に起因して現実社会で色々騒動があったことは事実でしょうけど、それは他のもっと信頼性の高い情報源でも確認できるはずです。)。アキバブログと違うのは「アキバブログはこう評した」と書くと責任者は1人に帰属できるのに対し、「マンガペディアはこう評した」では責任者が特定できません。もし署名記事があれば「マンガペディアのMはこう評した」のように帰属化して使用するなら、「絶対ダメではない」という感じでしょう。
  • いずれの場合でも、それらの記述が、多くの人から見て「まあふつうだな」と思えるような、ほかのメディアでも大筋で似たようなことが書かれているような、常識的な文脈にある限りは、大きな問題ではないでしょう。
  • 逆に「驚くべき記述」「他の情報源では見当たらないような記述」を書く場合には、これらの情報源の使用は慎重にするべきです。
  • また、WP:NOTの観点からも、「他の情報源では見当たらないような情報」については、そもそも書くようなことではないと判断することも必要です。
  • いずれの情報源も、ネットでイージーにアクセスできるという利点はありますが、ネット情報源というのはイージーに発信されるという面もあります。また、注目を集めて読者を誘引するためにトンガッたことを書いたり、商業主義のために宣伝的なことを書いたりしやすい面もあります。トンガッたことを書いているがゆえに飛びつきたくなる誘惑は常にあると思いますが、百科事典に相応しい記述かどうか、よく吟味してできるだけ慎重に取り扱うべきです。
  • 結局のところ、他の情報源も広くあたり、似たようなことが書かれているのかどうかというのも、信頼性の評価には必要な視点です。ひと手間ふた手間かけて、紙で刊行された情報源もきちんと調べるというのが基本です。検証可能性・信頼性の観点からも、それは書くに値するようなことかどうかを判断するためにも。--柒月例祭会話2021年3月23日 (火) 11:41 (UTC)

中国発の情報源について[編集]

Wikipedia:信頼できる情報源#日本語以外の言語で書かれた情報源には、「日本語の情報源はできるだけ提供されるべきであり、外国語の情報源より常に優先して使われるべきです(同じ品質と信頼性だと仮定しています)。・・・」とありますので、日本語の情報源が優先されることは言うまでもないのですが、中国をはじめ、学問の自由が保証されていない地域で発行れたものの妥当性について考える必要があるかと思われます。

例えば日中戦争に関して最も懸念される問題は習近平の「十四年抗戦」史観であると考えられます。秦郁彦は「一昨年の政治局会議で習近平主席が提議し、今年一月発行の国定教科書の記述で、戦争の呼称をそれまでの『八年抗戦』から『十四年抗戦』に改めたのです。」「つまり、抗日戦争の起点を、三七年ではなく、教科書ではほとんど無視してきた三一年の満洲事変に変えたわけです。中国共産党が国民党史観の継承から脱し、自前の国定史観を確立しようとしていることが読み取れます。」と述べています。 (秦郁彦『実証史学への道 — 一歴史家の回想』中央公論新社、2018年7月25日 初版発行、ISBN 978-4-12-005099-2、132頁。) 習近平の「十四年抗戦」史観は、政治的・イデオロギー的な見解であり実証歴史学とは見なせません。この史観を紹介するのは可能ですが、この史観をあたかも事実であるかのように断定的に記述することや、この史観でメインストーリーを執筆することは、特定の観点の推進にあたります。

習近平のそれのみならず、より一般的な問題として、中国共産党と学問の自由の欠如の指摘には枚挙のいとまがありませんが、いくつかのものを紹介しておきます。

  • 大沼保昭:「南京事件については三〇万人が虐殺されたという中国共産党の公式見解から中国の学者は一歩も動くことができません。日中の歴史認識を共有する上で、そうした中国共産党政権の言論統制の問題は、今後克服すべき課題として残っています。」 (東京大学名誉教授大沼保昭「東京裁判―歴史と法と政治の狭間で―」『外交史料館報』第31号、平成30年3月。)
  • 朝日新聞の社説:「中国で問題なのは、ひとたび政権が見解を出せば、その歴史観に社会全体が縛られる点だ。すでに教科書の改訂が進み、異論を唱えた歴史学者の文章はネットから削除されている。自由であるべき歴史研究が妨げられているのは憂うべき事態だ。」 ((社説)中国の歴史観 政治利用の不毛な動き朝日新聞』2017年10月9日)
  • 譚璐美:「『学問の自由』がない中国では、国家の政治方針に異議を唱えるような発言や研究テーマは速やかに潰される危険が満ちている。とくに近現代史や政治を扱う分野では、往々にして研究者は学者生命を断ち切られ、断罪される危険もある。」(「封じられた「真実の声」はやがて実証される 日本とちがう「学問の自由」と三峡ダム─建設に反対した水利学者」『COURRiER Japon(クーリエ・ジャポン)』講談社、2020.11.7.)
  • 川島真:「大学の中に限定しても、個々の大学教員の海外での研究報告などがチェックされるだけでなく、授業内容が録画されたり、学生に教員の授業内容がチェックされたりする制度もできている。つまり、「学問の自由」は保証されていない。」(川島真中国「教授拘束事件」の意味…内外の研究者に及ぶ管理・統制) 「中国は日本との歴史認識問題や、台湾との歴史観をめぐる相違もあって、対外的に自らの歴史観が正しいということを広める歴史戦を展開していることは指摘しておきたい。」 (。)

こうした事情から、中国発の情報源には注意を要し、少なくとも歴史分野においては、それを使用してメインストーリーを書くのはルール上、アウトであると考えています。Wikipedia:信頼できる情報源#日本語以外の言語で書かれた情報源あたりで明文化しておく必要はありますでしょうか?-- Takabeg会話2021年4月24日 (土) 22:50 (UTC)

コメント 「日本語以外の言語で書かれた情報源」は、単純に、翻訳の問題・JAWPの主要な利用者である日本語話者にとって誤読が生じにくいかどうか、の問題を述べているにすぎません。

Takabegさんがおっしゃっているのは専らWikipedia:中立的な観点に属するもので、Wikipedia:中立的な観点#情報源が内包する偏向で説明されています。何語であるとかの問題ではありません。「中国発だから」とか「歴史分野」とかではなく、何語で誰が何を書いたとしても、「意見を事実として記さない」「深刻な論争がある主張を事実として記さない」などのWP:YESPOVを入念に実現する必要があります。

近現代史というものは、どの国の何を書こうとしても常に「中立性」の確保は難しものです。あなたが示したような例、南京事件だとか台湾問題とか東京裁判だとかのようなテーマでは、中国発だろうと、日本発だろうと、たいていの情報源には何かしらのバイアスがかかっているのは、大人ならば判断できることです。そうしたテーマ(Wikipedia:論争のある記事)を取り扱うときには入念に中立性に配慮が必要です。「中国発だから禁止な」みたいな主張は、すでにあなたがある種のバイアスに囚われていることを間接的に示唆しているでしょう。--柒月例祭会話2021年4月25日 (日) 00:10 (UTC)

柒月例祭さんへ:「中国発の情報源について」というタイトルがザックリし過ぎていたのかもしれません。「中国発だから禁止な」みたいな主張はしていません。私も人間ですので、様々なバイアスに曝されているのは自覚しつつ、WP:CENSORに反対し、多様性を認める立場から、常に是々非々で臨んでいるつもりです。それが、「『中国発だから禁止な』みたいな主張は、すでにあなたがある種のバイアスに囚われていることを間接的に示唆しているでしょう。」というのが結論部分に書かれているのはとても残念です。残念に思う理由は、柒月例祭さんが書かれた当該箇所などが、(日本語版のWikipedia:個人攻撃はしないでは何故か明示されていないませんが、)en:Wikipedia:No personal attacksの冒頭にある"Comment on content, not on the contributor." という極めて基本的なウィキペディアの精神から逸脱している、からというだけではありませんが、それはそれとして、ノート:南京事件#南京事件_(1937年)から南京事件への改名提案でも提示したように、非日本語文献だけでなく日本語文献も含めてのことですが、極端な論者による典拠でもって「メインストーリー」を執筆すべきではないというのは、「意見を事実として記さない」「深刻な論争がある主張を事実として記さない」に適合していると思います。ここで申し上げたいのは、「禁止すること」ではなくて「メインストーリを書くのに使用しない」ということであり、ある程度の明文化をするべきか否かの意見をつのっているだけです。もちろん、どの論者も同意する「最大公約数」的な内容についてはその限りではありません。これもまた「バイアス」と言われるかもしれませんが、中華人民共和国の公定史観を信奉する人々が増加して、人海戦術で浸食し始めた場合、「中立性」が確保できなくなるのではないかと思われます。それと、私は、政府が決めた史観から外れることができないことで、一番悔しい思いをしているのは、実証研究を目指している中国 (含む香港) の研究者たちなのだと思っています。それでは。-- Takabeg会話2021年4月25日 (日) 06:01 (UTC)

コメント Takabegさんの懸念点はごもっともで、中国に限らず全体主義国家だったり、韓国みたいに国民情緒優先で国際社会の通史を無視して公定史観を信奉してしまう人が増えた際、そこに歯止めを掛ける必要はあると思います。併記する場合も、「中国共産党によれば」等枕詞は必要だと思います。--S.S.E.H.Talk/Contribs 2021年7月5日 (月) 02:14 (UTC)

労働組合の資料は信頼できる情報源として使用できるか[編集]

誰でもパソコンやスマートフォン等から閲覧が可能な労働組合の資料は信頼できる情報源として使用は可能でしょうか?例えばJR東日本の駅のページにおいては、みどりの窓口及びびゅうプラザの閉鎖や日本の鉄道駅#業務委託駅になる際に出典として扱われております。私個人の意見として、労働組合はその会社員(労働者)等で結成されているものですし、加盟者の労働条件の改善に向けて、加盟者に対して正確な情報を提供しているものであると思い、Wikipedia:信頼できる情報源としても扱っても良いと思うのですが…--Tokyo-Good会話2021年8月21日 (土) 12:57 (UTC)

  • 反対 私は労働組合の資料は情報源として信頼できないと思います。JRの労働組合のウェブサイトを見ると反戦運動や改憲反対の運動など明らかな政治主張なども行っているものもあり、政党や宗教団体のウェブサイトと同等に扱うべきだと考えます。特に一部のページで出典となっているいわゆる過激派と呼ばれる国鉄千葉動力車労働組合などのホームページは尚更です。自分たちに都合の良い情報を多く載せており、必ずしもと加盟者の労働条件の改善に向けて、加盟者に対して正確な情報を提供しているわけではないと私自身としては思います。また、労働組合などのホームページで労働組合が提案を受けたと発表しているのはあくまで会社側から打診があったと言っているだけで決して信用できるわけではないと思いますし、会社としてまだ決まっていないことなのかもしれませんし、予定が本当にあるかも不明です。自治体のホームページや会社のホームページ、報道機関などWikipedia:信頼できる情報源を出典にするべきだと思います。

 以上のことから労働組合の資料はWikipedia:信頼できる情報源ではないと思います。--名無し1124会話2021年8月21日 (土) 13:59 (UTC)

  • コメント - Tokyo-Goodさんが例示された使い方と名無し1124さんが懸念される使い方が噛み合ってないように見えます。「○月×日に○駅のみどりの窓口が閉鎖された」といった、政治主張など中立性を欠く問題が入る余地がない記述なら使っても問題ないのではないでしょうか。ただし、成田駅のびゅうプラザ営業終了日、みどりの窓口営業終了日については提案・予定であり、特に前者はすでに期日が過ぎた出来事であるもかかわらず実施後の出典に差し替えられていないことから、「労働組合だから」ではなく「予定だから」問題だという指摘はできます。これは本節の議題から外れますが、予定は予定であって実行されたか否かまで検証できておらず、信頼できる情報源であっても適切ではありません。
本題に戻ると、情報源の属性で直ちに判断するのではなく、使い方次第と言ったところではないでしょうか。会社との闘争などの記述に使う場合は組合側、会社側双方の資料を見比べて中立的な記述を心掛けるべきであり、一方の主張を鵜呑みにはできないものです。しかし、例えば資料編に載っている統計や年表など、客観的事実が淡々と並べられた情報であれば使えないことはないでしょう。今のところ私は労働組合関係の資料を用いたことはありませんが、例えば名鉄の労働組合は三十年史や五十年史を発行しているようで、他で見当たらない中でその中に同種の記録を発見した場合は普通に使うと思います。--ButuCC+Mtp 2021年8月21日 (土) 15:58 (UTC)
  • コメント - 確かに使い方次第だと思いますが、「提案を受ける」という記事では私は客観的事実かは不明だと思いますし、会社や自治体、報道機関など確実に[[[Wikipedia:信頼できる情報源]]となる機関が発表していない時点ではまだ予定が本当に立っているかも不明です。

 また、[[[Wikipedia:信頼できる情報源]]には「政党や宗教団体のウェブサイトや出版物は、政治的主張や宗教的信条が含まれていなくても注意して扱うべきであり、情報源として使わない理由になります。とりわけ、よく知られた過激派さらにはテロリスト集団などは、それらが政治的、宗教的、人種的あるいはほかの特徴を持つもののどれであっても、けっしてウィキペディアの情報源として使われてはなりません。一次資料、つまりそうした組織の意見を論ずる記事に含まれるというのは例外です。ただしそのような場合でも、非常に注意して使うべきであり、他の情報源で裏付けすべきです。」と記載されています。よく記事の出典とされているJR東労組などは改憲反対など政治主張も行っており、また国鉄千葉動力車労働組合に至ってはよく知られた過激派です。会社との闘争や政治主張と関係のない資料でも組合の資料だけを出典として記事にするのはそれに反すると思います。--名無し1124会話2021年8月22日 (日) 07:36 (UTC)

3点ほど。
1点目。「「提案を受ける」という記事では私は客観的事実かは不明」というのは私が述べた『「予定だから」問題だ』と全く同じ論点であり、信頼できる情報源であっても問題になりますので、本件の議題とは関係ないです。会社のプレスリリース等でも予定事項を確定事項として使うのは駄目です。これは出典の素性が信頼できる情報源か否か、とは別の問題です。
2点目。JR東労組など特定の団体(の資料)に絞った議論がしたいのか、一般論として「労働組合資料」全般について議論したいのか、はっきりしていただきたい。コメント依頼の文面や方針文書のノートという場所の性質上、後者の議論と私は認識していますが、前者なら(私がその団体の資料を参照することはこの先もないと思うので)特にいう事はないです。
3点目。後者、すなわち特定の組合ではなく労働組合全般に対しての議論とする場合、JR東労組等の過激な存在一つをもって世に存在するあらゆる労働組合もそうだとは言えません。WP:BIASEDに労働組合というカテゴリは列挙されておらず、結局はケースバイケースであって、機械的にダメと言えるものではないでしょう。むしろ、Wikipedia:信頼できる情報源#企業や組織のウェブサイトが抱える企業ソースの贔屓を補完する視点を提供することが期待されます。--ButuCC+Mtp 2021年8月22日 (日) 12:35 (UTC)
  • コメント - ここに議論を設けた利用者:Tokyo-Goodさんのコメントや私の会話ページに利用者:Tokyo-Goodさんが書かれた内容からJR東労組や動労千葉などの鉄道会社の労働組合の資料に絞った議論をするためにこの節が作られたのだと思います。

 また、労働組合の資料はWikipedia:信頼できる情報源#企業や組織のウェブサイトが抱える企業ソースの贔屓を補完する視点を提供することが期待されるので、鉄道会社などのホームページと労働組合の資料を併せて出典とすることなら望ましいと思います。--名無し1124会話2021年8月22日 (日) 14:23 (UTC)

  • コメント 中立三者三様のご意見でしょうが、どこの企業か問わず、会社やメディアの情報源を優先すべきと考えますが、Wikipedia:信頼できる情報源として利用する場合もあるのではないのでしょうか。残念ながら、メディアも一つの企業で、スポンサー等で利害関係が発生しないとは言い切れない部分があります。ただ、政治的主張や公開前の内部情報があるので、会社やメディアに比べて情報源として利用するには注意が必要かと思います。--MK-950131会話2021年8月22日 (日) 16:27 (UTC)

出所の不確かな素材 の文章について[編集]

この節の文章について、全体的にわかりにく、意味不明になっている箇所もある文章だと感じております。大幅な改善が必要ではないかと認識しております。 現状は、文章での説明になっていますが、 読み手側が文章の中のどの部分を参考すればよいのか明確ではないと思います。 文章の中に登場している事象をケース分けし、個々のケースでの対応方針、方法を明確に記載すべきと思います。 説明のメインとして、以下のような表で表現する形に変更することを提案します。 表に対する補足として文章を用意することで、簡潔でかつ充実した説明になるのではないかと思っております。

以下、表の内容については、元の文章を元に作成しましたが、ご意見いただければと思います。 よろしくお願いいたします。

ケース 出典(A) 記事内容(編集者にとって)(B) 奨励される編集方針(C) 記事への編集対応(D) ノートへの編集対応(E)
1-1 なし 真実かつ常識である 除去しない 未検証/要出典/出典の明記 タグの追加 タグを付けた記事内容についての質問を行う
1-2 なし 真実とは言えない
もしくは記述が不適切、不条理、有害である
除去してよいが、ノートで情報源を要求 WP:ES 除去 除去した記事内容は、ノートページに転記し、それについての出典を要求する
1-3 なし 真実かどうかはわからないが、少なくとも一般的な常識とは思えない
記述が不適切または、不条理、有害かどうか、わからない
除去しない 未検証/要出典/出典の明記 タグの追加 タグを付けた記事内容についての質問を行う
1-4 なし 真実かどうかはわからないし、一般的な常識かどうかもわからない
記述が不適切または、不条理、有害かどうか、わからない
除去しない 未検証/要出典/出典の明記 タグの追加 タグを付けた記事内容についての質問を行う
2-1 あるが不確か 真実かつ常識である 除去しない 信頼性要検証/信頼性要検証範囲タグの追加 タグを付けた記事内容についての質問を行う
2-2 あるが不確か 真実とは言えない
もしくは記述が不適切、不条理、有害である
除去してよいが、ノートで情報源を要求 WP:ES 除去 除去した記事内容は、ノートページに転記し、それについての信頼できる出典を要求する
2-3 あるが不確か 真実かどうかはわからないが、少なくとも一般的な常識とは思えない
記述が不適切または、不条理、有害かどうか、わからない
除去しない 信頼性要検証/信頼性要検証範囲タグの追加 タグを付けた記事内容についての質問を行う
2-4 あるが不確か 真実かどうかはわからないし、一般的な常識かどうかもわからない
記述が不適切または、不条理、有害かどうか、わからない
除去しない 信頼性要検証/信頼性要検証範囲タグの追加 タグを付けた記事内容についての質問を行う
3-1 確かな情報 真実かつ常識である 編集不要 編集不要 編集不要
3-2 確かな情報 真実とは言えない
もしくは記述が不適切、不条理、有害である
除去しない。出典を検証する 編集不要 出典と記事内容に相違があると思うなら、ノートで議論
3-3 確かな情報 真実かどうかはわからないが、少なくとも一般的な常識とは思えない
記述が不適切または、不条理、有害かどうか、わからない
除去しない。出典を検証する 編集不要 出典と記事内容に相違があると思うなら、ノートで議論
3-4 確かな情報 真実かどうかはわからないし、一般的な常識かどうかもわからない
記述が不適切または、不条理、有害かどうか、わからない
除去しない。出典を検証する 編集不要 出典と記事内容に相違があると思うなら、ノートで議論

--ひできち東京会話) 2021年12月21日 (火) 17:31 (UTC) --ひできち東京会話) 2021年12月21日 (火) 17:46 (UTC) --ひできち東京会話2021年12月22日 (水) 00:35 (UTC)

  • コメント 出典があるからといって永遠に残さなければならない(記述を除去するのが常に不適切)とは限らないので(出典があろうと些末とみなされる情報はいくらでもあります。出典自体はあろうとケースEで削除される主題もあるわけですから)、「確かな情報」かつ「真実かつ常識である」だとしても除去が非推奨という書き方だと混乱を招くおそれがあるように思います(もちろん特段の理由なく除去するような行為は問題ではありますが)。しかし、そのよう場面があればノートで事前提案を経たうえで編集する、出典の原典を確認する、などを提示しておくのはあるとは思います。あと、Wikipedia:存命人物の伝記関連では無出典の否定的な記述の即時除去({{要出典}}付与対応も不適切、ノート転記も不適切)となっているので、その点も考慮いただければと思います。--郊外生活会話2021年12月21日 (火) 18:20 (UTC)
コメントありがとうございます。表形式を採用することについては賛同していただいた上でのご意見ということで解釈いたしました。
とりあえず、表の行列に番号を振って、各項目についての議論をしやすくする必要性があると認識いたしましたので、まず、その点だけ表を修正いたします。--ひできち東京会話2021年12月22日 (水) 00:30 (UTC)

--ひできち東京会話2021年12月22日 (水) 00:35 (UTC)

出典についてのガイドラインとしては、こちらの他に、出典を明記する#出典なき記載の扱いがあります。既に表形式での表現方法を採用されていて、文章も簡潔な内容ですので、基本的には、出典がないケースについてはそちらを参照させるように変更するのがよいと考えております。

ただ、現状、既に、両者の記述内容に、大きな違いがあると認識しております。具体的には、 出典を明記する#出典なき記載の扱いには、以下の文章で、明確に、即時の除去ではなくタグ付けを要求しています。 「{{出典の明記}}テンプレートを使って出典の提示を求めることができます。十分な期間を経てもなお、出典が見つからない記述は除去してください。」

それに対して、こちら(信頼できる情報源#出所の不確かな素材)では、「~~が奨励されます。」という文体で終わっており、編集者の裁量の範囲のように解釈され、結果として即時削除の編集行為、それを発端とする編集合戦のトラブルに陥ることを予防できていないと思います。

まずは、このケース(出典がないケース)について、統一された「記事の内容についてのガイドライン」を示す必要があると思います。 ご意見いただきたくお願い申し上げます。 --ひできち東京会話2021年12月23日 (木) 00:49 (UTC)

  • コメント 強く反対するというわけでもないのですが、「状況にあわせて適切に判断してください」的なシンプルなことを表にした結果としてボリュームがだいぶ大きくはなりますね。そこは自力で考えられるかどうかということであり、いくらかヒント的な示唆があるのは親切であるとは思いますが、行き過ぎればWP:CREEP(指示の肥大化)となります。加減は必要ですが、それは相手次第なので、悩ましいですね。(細部に渡り指示すると長くなり、読まない人が増える。)
  • たとえば、本文中でしっかりと出典が示されている場合には、その本文の要約である概要節や冒頭文ではわざわざ出典を示さなくても許容されるケースがあります。一方、名称が「概要」というだけで実際には本文の要約になっていないケースでは、概要節でも出典は不可欠でしょう。またBLP等では、記述の正確によって出典提示が厳格になったり、出典があってもダメ、というケースがあります。そういう様々なケースを全部網羅して場合分けして表に収める・・・というのは難しい。
  • 仮に「統一」したとして、一見「この場合はこうしろ」とすべてのケースを網羅しているように見えますが、じゃあ「確かなのかどうか、その度合」「真実・常識なのかどうか、その度合」はどうやって判断するんですかってところは結局各利用者の判断に委ねられています。なので、結局は個々の事例でもめるときに争点がシフトするだけという感じはします。
  • 結局、情報源の信頼性は「スペクトルのように幅があり、それぞれの背景を考慮する必要」があり、本文の記述も同様です。「スペクトルのように幅があるもの」はつまり、信頼性は有無ではなく大小の問題だということで「確かだ・確かでない」と明確な一本線があるわけではないです。
  • WP:RSWP:CSもガイドライン(推奨)ですから、その文書の中で「必ずこうしろ(必須)」「できればこうしろ(推奨)」と表現に差異があったとして、実際上の効力はそう大きくは変わらないような感じもします。これらの文書は、「三大方針」を実現するための手段なので、三大方針が上位文書です。たとえばWikipedia:検証可能性には「信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません。」「(BLPでは)直ちに除去」となっています。同文書中では、出典の明記などのタグ付けは、どちらかというと礼儀の問題(方針)としていますね。
  • たとえばひできち東京さんは、現在の説明文を「全体的にわかりにく」「意味不明になっている箇所もある」「どの部分を参考すればよいのか明確ではない」とお感じとのことですが、私は「全体的にわかりにくい」とは感じません。各種の方針文書類の全体を読んだ時に、Wikipediaの基本原理は根本原理たる五本の柱で示されていて、そのうち一本のWP:5P5から「ウィキペディアは規則主義ではありません」が導かれています。その都度誠実に振る舞って下さいというだけです。過度に細かい指示を増やしてルールの字面に拘泥するのは誤りということになります。そこは明確なのです。
  • お示しのような表を参考としてどこかに(私論とかに)掲載するのはダメではないとは思いますが、あくまで参考程度という扱いを超えないのでは。--柒月例祭会話2021年12月23日 (木) 01:59 (UTC)
    おそらく拡大解釈されてしまっているのかと思いますが、
    私は、現状の文章が想定している基本的な範囲を拡張して、全網羅するような意図はありません。
    最初からそのような意見をしている認識は全くなく、現時点で、私の意図していることは以下となります。
    • 表による表現方法をメインとして、文章は簡潔な表現とする。
    →内容を変更する意図はなく、わかりやすさ、読み手側による解釈のブレが生じない簡潔さ、の観点で改善したいです。
    出典を明記する#出典なき記載の扱い をお手本としたい。
    この他にもないことはないですが、まずは上記の点について合意形成ができることを主目標と考えております。
    そして、次のステップの可能性が見いだせるならば、次の目標として、さらなる議論と合意形成によって達成したいという考えです。
    柒月例祭さんにコメントいただいような内容の大部分は、次のステップの目標と分類させていただきたいと思います。--ひできち東京会話2021年12月23日 (木) 03:15 (UTC)