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ドラガン・ストイコビッチ

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ドラガン・ストイコビッチ
名前
愛称 ピクシー(妖精)
ラテン文字 Dragan STOJKOVIĆ
セルビア語 Драган Стојковић
基本情報
国籍 セルビアの旗 セルビア
生年月日 (1965-03-03) 1965年3月3日(59歳)
出身地 ニシュ
身長 175cm
体重 72kg
選手情報
ポジション MFFW
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1983-1986
1986-1990
1990-1991
1991-1992
1992-1994
1994-2001
ユーゴスラビアの旗 ラドニツキ・ニシュ
ユーゴスラビアの旗 レッドスター
フランスの旗 マルセイユ
イタリアの旗 ヴェローナ
フランスの旗 マルセイユ
日本の旗 名古屋グランパス
0700(8)
120(54)
0110(0)
0190(1)
0180(5)
184(57)
代表歴2
1983-2001 ユーゴスラビアの旗 SFRY ユーゴスラビア連邦共和国の旗 FRY 84 (15)
監督歴
2008- 日本の旗 名古屋グランパス
1. 国内リーグ戦に限る。2001年7月21日現在。
2. 2001年7月4日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ドラガン・ストイコビッチ(セルビア語:Драган Стојковић ラテン文字表記:Dragan Stojković1965年3月3日 - )は、ユーゴスラビア(現・セルビア共和国ニシュ出身のサッカー選手。ニックネームは「Pixyピクシー)」。現役時代はユーゴスラビア代表として活躍。ユーゴスラビアサッカー界の英雄のひとり。

Jリーグ名古屋グランパスエイトに約7年間在籍し、外国人のJリーガーとして長く活躍した。そのため、日本人にとってもなじみが深い選手のひとりでもある。

現役引退後はセルビア・モンテネグロサッカー協会会長を経て、レッドスター・ベオグラード会長を務める(2007年10月12日辞任)。その他にも名古屋グランパスエイトのアドバイザーや、日本外務省の委嘱で西バルカン平和定着・経済発展のための「平和親善大使」を務めている。2008年より名古屋グランパス監督に就任。

略歴

ユース時代~ユーゴの「星」へ

1965年 3月3日、ニシュに生まれる。1981年には地元クラブ、ラドニツキ・ニシュに加入。1983年にはプロ契約へと移行し、プロとしてのキャリアをスタートさせた。1984年、弱冠19歳にしてEUROフランス大会に出場したユーゴスラビア代表に選出され、これが彼の国際大会デビューとなった。対フランス戦ではPKによってゴールを決め、当時のユーロ最年少得点記録を更新する。この記録はEURO2004にてルーニーに更新されるまで破られることはなかった。同年開催されたロサンゼルスオリンピックにも出場し、ユーゴスラビア代表の銅メダル獲得に貢献する。

1985年、20歳の時兵役コソボ社会主義自治州プリシュティナに赴任。除隊後の1986年、国内の名門レッドスター・ベオグラードに移籍する。移籍金は当時としては破格であった。1987年にはユーゴスラビア国内リーグのMVPを獲得するなど若き天才としてその名を轟かせ、1988年にはそれまで後塵を拝していたライバル、パルチザン・ベオグラードから覇権を奪回。国内リーグ優勝を果たし、2年連続で国内リーグMVPを獲得した。一部リーグの全チームの主将と監督による選手投票でもMVPを獲得し、名実ともにユーゴスラビアのスターとしての地位を確立する。同年開催のソウルオリンピックにもユーゴスラビア代表として出場、3試合出場で2得点1アシストと活躍。
オフシーズンには後に名古屋の監督となるアーセン・ベンゲル率いるASモナコと親善試合を行う。この試合後、ベンゲルはストイコビッチ獲得を申し込んだが、当時のユーゴは26歳未満は移籍禁止という旧共産圏の移籍条項が残っており、移籍話は流れる。

1989年 、レッドスター・ベオグラードより「星人」(Zvezdine Zvezde)の称号を与えられる。星人とはレッドスターに大きな貢献をした偉大な選手に贈られる称号でクラブの歴史10年に対して1人の選手にしか贈られない。ストイコビッチは1980年代の星人である。このシーズンも大活躍を見せたストイコビッチはリーグ戦こそ連覇を逃すものの、3年連続でリーグMVPに輝き、選手・監督による投票でも再びMVPに選出され、そのキャリアにさらなる輝きを添えた。

ワールドカップデビュー

ユーゴスラビアのみならずヨーロッパのサッカーシーンでもその名を噂されるサッカー選手へと成長したストイコビッチだったが、母国・ユーゴスラビアはスロヴェニアクロアチアの独立運動に大きく揺らぎ始め、国内リーグも混沌とした様相を呈し始めた(ナショナル・スタジアムの暴動など。詳細はユーゴ代表の歴史を参照)。政治対立に翻弄された1989-90シーズンではあったが、レッドスターは再びリーグ制覇を果たした。

ストイコビッチはユーゴ代表として自身初のW杯に臨む。戦前の不安を振り払うかのようにイビチャ・オシム率いる代表チームは躍動し、ストイコビッチもチームのベスト8進出に貢献。対スペイン戦で見せたプレーによって、彼は名を知られるようになった。続く準々決勝ではマラドーナブルチャガカニーヒアらを擁する前回王者、アルゼンチンと対戦。マラドーナのマークを任されたサバナゾビッチを前半のうちに退場で失うなど苦境に立たされ、延長まで0-0で戦い抜くもののPK戦の末2-3で敗れた。ストイコビッチはユーゴの1番手で登場したが、キックをバーに当て失敗してしまう。このとき、泣きじゃくるストイコビッチにマラドーナが声をかける姿が見られた。
大会終了後、当時隆盛を極めたフランスのオリンピック・マルセイユに多額の移籍金で移籍(当時ストイコビッチの年齢は25歳だったがユーゴサッカー協会は規定の26歳より1年早い移籍を最終的に認めた。これは社会主義時代では異例の決定)。当時マルセイユ監督のベッケンバウアーが『ストイコビッチは世界でも最高の才能を持った選手。数年後にバロンドールを獲らなかったとすれば、それは何か手違いがあっての事だろう』と発言。しかし移籍初年度リーグ戦開幕直後の第2節・メス戦でGKに足を掴まれ落下。左膝にその後の数年間彼を悩ませる怪我を負う(手術は計3回)。チームは同年リーグ優勝を飾る。また、UEFAチャンピオンズカップ決勝で古巣レッドスター・ベオグラードと対戦し、ストイコビッチは延長戦終了間際7分間出場したがチームは敗戦し準優勝で終わる。このとき、レッドスターの選手は『ピクシーなら20%のコンディションでも我々をパニックに陥れることが出来た』『ストイコビッチが出てくるのが一番怖かった』と口にしたという[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。
1991-92シーズンよりイタリア セリエAエラス・ヴェローナへレンタル移籍。しかし怪我で出場試合は少なく、ヴェローナはこのシーズン終了後セリエBに降格。シーズン終了後はオリンピック・マルセイユへ戻ることとなる。

1991年にはユーゴスラビア内戦が始まり、家族の生命が脅かされることを理由にユーゴ代表を辞退する選手が続出した。そんな中でもEUROスウェーデン大会への切符を手にしたが、大会開催直前の1992年5月28日、ストックホルムのアーランダ国際空港に降り立った代表チームに対し、ユーゴスラビア内戦に対するFIFAの制裁措置(ユーゴスラビアの国際大会への出場停止)が開始され、EUROの出場資格剥奪と国外強制退去の通達がなされた。この大会においてユーゴスラビア代表は優勝候補の筆頭とも言われていたが、この制裁と次々に分離独立を果たすユーゴ諸国の動向に合わせて「ユーゴスラビア代表」も完全に崩壊した。ストイコビッチはその後もユーゴ代表としてプレーを続けるが、その制裁が解かれたのは1994年12月23日であり、W杯・アメリカ大会には予選出場すら叶わなかった。

EURO後の1992-93シーズンは怪我のため1試合もリーグ戦に出場出来ず、名誉挽回を期して臨んだ1993-94シーズンではオリンピック・マルセイユの会長による八百長疑惑が発覚。『クラブがこのシーズンいかなる結果を出そうとも、シーズン終了後に2部降格させる』との措置が執られ、ストイコビッチは代表のみならずクラブにおいても不運を味わい続けることとなった。

名古屋への移籍

癒えない膝のケガ、所属クラブの八百長問題、ユーゴスラビア紛争によるユーゴスラビアの国際大会への参加禁止制裁などの不運が重なり続け、輝きを失いかけていたストイコビッチの転機になったのが創設間もないJリーグへの移籍だった。元イングランド代表ゲーリー・リネカーが在籍していた事もきっかけの一つとなり、半年の期限付きで名古屋グランパスエイトへと移籍を果たす。初公式戦の広島戦では前半のうちにイエローカード2枚で退場など慣れない環境やチーム事情、外国人枠の制限もあり彼らしいプレイを見せることはできなかったが、いくつかの試合で素晴らしいプレーを披露。しかしチームは低迷し、代表クラスの選手を多く抱えながら94年2ndステージは最下位に沈むなどまたしても苦境に立たされる。

クラブのみならずストイコビッチが輝きを取り戻す最大の切っ掛けとなったのが、1995年に名古屋の監督として招聘されたアーセン・ベンゲルとの出会いである。モナコ時代にストイコビッチの活躍を目にしていたベンゲルは、始めはなかなかうまくいかなかったものの、リーグ中断期間までかけてグランパスをストイコビッチを中心としたチームに作り替えることに成功した。ストイコビッチは1995年シーズンには45試合に出場し17得点29アシストと獅子奮迅の活躍を見せJリーグの年間MVPを獲得、ベストイレブンにも選出される。1996年には天皇杯優勝を勝ち取り、グランパスの躍進に貢献した。

96年シーズンを最後にベンゲルが去った後もストイコビッチは中心選手として活躍を続けた(ベンゲルがアーセナルの監督に就任した際にはストイコビッチも一緒に連れて行こうとしたという逸話もある)。1994年末に制裁の解けたユーゴ代表のキャプテンとしてもプレーし続け、FIFAの制裁措置解除後、初の国際Aマッチとなった1994年12月23日の対ブラジル戦でもプレー。このブラジル戦を貴賓席で観戦したペレは「もう一度W杯で彼のプレーが見たい」と絶賛した(その後ペレはイギリスのTV番組で世界最高の選手は誰か? との問いには「ロマーリオロベルト・バッジョ、ストイコビッチだ」と答えている)。

ユーゴ内戦の混乱が続く中でもユーゴ代表はW杯フランス大会のヨーロッパ予選を突破。FIFAの制裁措置解除後初の国際大会出場となる。代表は本戦のグループリーグも突破したが、決勝トーナメント1回戦でオランダに敗れてベスト16に終わる。ストイコビッチ自身はキャプテンとして4試合全てに出場し、グループリーグで1ゴールを決めた。

続く1999年もヨーロッパと日本の往復をこなしながら精力的に活躍を続け、その年の10月9日に行われたユーロ2000予選・クロアチア対ユーゴスラビア戦にも出場。マクシミル・スタディオンでの因縁の1戦に臨み、引き分けて本大会出場権を勝ち取る。

最後の国際大会~引退

2000年元旦には名古屋にて自身2度目の天皇杯優勝を飾り、個人タイトルとしてMVP獲得。幸先の良いスタートを切り、EURO2000に向けてのユーゴスラビア代表にも選出される。35歳とキャリアの晩年に差し掛かっており、欧州外のクラブでプレイしていると言うことで当時のヴヤディン・ボスコフ監督にも冷遇されがちだったストイコビッチだったが、グループリーグの対ノルウェー戦で先発。キレのあるドリブル、ピンポイントのスルーパスを何度も通し勝利(1-0)に貢献、マン・オブ・ザ・マッチに選ばれる。グループリーグを2位で突破し臨んだ決勝トーナメント1回戦ではオランダ代表に1-6と大敗を喫してベスト8に終わったものの、NATOによるユーゴ空爆など全土が戦火に喘ぐ中、不利を予想されながら示した代表の実力は確かなものであった。そしてこれがストイコビッチの現役時代最後のビッグトーナメントとなる。

2000年9月末、ストイコビッチはシーズン終了後の引退を公言する。しかし名古屋サポーターの強い慰留の声とストイコビッチ自身の「名古屋でリーグ優勝したい」という思いもあり、引退を半年延長。2001年7月4日、国際親善試合・日本対ユーゴスラビア戦にて代表としてのキャリアに終止符を打ち、リーグ優勝は果たせなかったものの、2001年第1ステージを最後に惜しまれつつ引退した。最終戦は同年7月21日、対東京ヴェルディ1969戦であった。東京スタジアム(現:味の素スタジアム)でのアウェー戦だったが、ゲーム終了後はヴェルディサポーターを含む全ての観衆がスタンディング・オベーションを行い、彼の引退を惜しんだ。

故国への帰郷、そして再びの日本~現在

故国ユーゴスラビアに帰国して間もない2001年9月、ユーゴスラビアサッカー協会会長に就任。10月1日には豊田スタジアムにて引退記念試合を(名古屋グランパスエイト対レッドスター・ベオグラード)、10月30日にはニシュのチャイル・スタジアムにて引退記念試合(ラドニツキ・ニシュ対ヴァルダル・スコピエ)を開催し、12月には2001年度のJリーグアウォーズにて功労選手賞を受賞する。また引退直後には名古屋グランパスとテクニカル・アドバイザーの契約を締結、日本との繋がりは途切れることなく続いていた(以降、ほぼ毎年来日している)。2004年3月には日本外務省より西バルカン平和定着・経済発展のための「平和親善大使」を委嘱される。

2005年7月6日にはレッドスター・ベオグラード会長に就任(セルビア・モンテネグロサッカー協会会長は9月の任期切れを待たず辞任した)。しかし2007年10月12日、「人生とスポーツの両面で疲れ果て、壁にぶち当たった。何かを終わりにし、新しいことを始めるちょうどいい時だ」(時事通信より[1])との言葉を残して、レッドスター会長を辞任。同時にレッドスターのクラブ関係者が、ストイコビッチは12月から名古屋グランパスエイトのスポーツディレクターに就任することが決まっていると発言したとの報道がされる。

その後、グランパス側がセフ・フェルホーセンに代わる2008年シーズンからの監督就任を要請し、交渉に応じたがストイコビッチの持つUEFAのコーチライセンスがJリーグで監督を行なうのに必要なS級ライセンスの資格を満たさないと判断され、10月末に交渉は中止になった。しかしグランパスがJリーグと協議した結果、コーチライセンスを取得すれば監督就任が可能であるとされ、本人も監督業に意欲を示していることから11月に入り交渉が再開され、27日に仮契約を行った。これに合わせライセンスを取得すべく講習会の受講を開始。かつての師・ベンゲルが率いるアーセナルFCでのプログラムも履修している。

年が明けた2008年1月、ライセンスを獲得。グランパス監督に正式に就任し、およそ6年半ぶりにJの現場へと復帰した。同年3月、開幕2戦目で浦和レッドダイヤモンズに勝利し、監督として初の白星を挙げる。その後もチームは順調に勝ち点を積み上げ、またグランパスにとってチーム創設以来未だかつて勝利がなかったカシマスタジアムでの鹿島アントラーズ戦にて勝ち星を記録し、同スタジアムで初勝利を上げた監督となった。その後故障者などが出るなどしたが、鹿島アントラーズ川崎フロンターレと最終節まで優勝争いを繰り広げるなどグランパスの躍進に貢献し、最終的には3位で終了してアジアチャンピオンズリーグへの出場権も獲得した。

選手としての特徴

プレースタイル

ゲームメーカー(攻撃的ミッドフィールダー)やフォワードをその役割とし、スピードを生かしたドリブル・ボールコントロール・パスセンス・フリーキック・体の使い方などヘディングを除くサッカーに必要なほとんどの要素で高レベルのプレーを見せる。ユーゴスラビア代表においては周囲からの絶大な信頼を受けた。

リフティングドリブルやヒールキックなどの印象が強く、曲芸師のようなイメージを抱かれがちだが、プレースタイルはシンプル。あらゆる状況で最も効果的なプレーを選択できるため、相手にボールを奪われることはあまりない。

キックの精度は極めて高く、種類も多彩。受ける相手が次のプレーをするために最適な柔らかいパスを繰り出す。繊細なコントロールができ、とくにロングパスは高い成功率で多くのチャンスを演出した。

スピードの緩急をいかしたドリブルで、相手の重心をわずかに崩して抜き去るのを得意とする。とくにサイドからセンタリングと見せかけての切り返しを得意としている。右足でも左足でも切り返しの精度が変わらないのも特徴。

10番へのこだわり

代表では当初、もう一つのエースナンバーである7番を着けていたが、1980年代後半途中(90年W杯欧州予選のアウェーフランス戦で代表10番デビュー)から2001年に引退するまで、サッカーにおけるエースナンバーである背番号10を背負いキャプテン(初キャプテンは89年の親善試合のギリシャ戦)を務めた。

周囲からの信頼を物語るものとして、1990年代に隆盛を極めたイタリアACミランで、かのR・バッジョにすら背番号10を譲らなかったジェニオ(天才)サビチェビッチもユーゴスラビア代表では友人ストイコビッチに対し、栄えある背番号10を譲っていたというエピソードもある。

クラブのレッドスターでは1988-89~1989-90シーズンに同じくユーゴスラビアを代表するトップテクニシャンのサビチェビッチ、プロシネツキと共にプレーし、それぞれの個性を損なうことなく見事に共存。ユーゴリーグでは圧倒的な強さと美しいパフォーマンスを見せた(レッドスターでも10番とキャプテンマークを着けたシンボリックな存在だった)。ちなみにこの3者は時期は異なるが、後にそれぞれが所属した当時西側の代表的なビッグクラブでも10番を着けたことでも有名である(ストイコビッチはオリンピック・マルセイユで。プロシネツキはレアル・マドリードで。そしてサビチェビッチはACミランで)。国名がユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴ)に変わってからも、当時レアル・マドリードのエースで新ユーゴ代表のエースストライカーでもあったミヤトヴィッチは、名古屋グランパスの10番ストイコビッチに代表でのエースナンバーを譲っている。

ストイコビッチ自身も10番に強いこだわりを持っており、1996年Jリーグオールスターサッカーでは、この試合を最後にパリ・サンジェルマンへの移籍が決まっていたレオナルド(当時鹿島アントラーズで10番を主につけていた)に10番を譲らなかった(この試合でレオナルドは9番をつけた)。

ちなみに来日当初のストイコビッチはなかなか10番をつけることができなかった。これは当時のJリーグが背番号固定制を導入しておらず、1番から11番がスタメン、12番から16番が控えの番号(ただし1番と16番はゴールキーパー)と決まっていたためで、途中出場の多かったストイコビッチは14番、またスタメンで出場してもゲーリー・リネカーが出場する時はリネカーに10番を明け渡し、8番で出場していた。なおストイコビッチ自身は「私が名古屋に来たのはリネカーがいると言うこともあってだったし、彼なら譲ってもいいかと思っていた」そうである。

2008年名古屋グランパスの監督就任当初、チームの練習時に当時10番を付けていた藤田俊哉の練習着やコートを度々間違えて着てしまったことから(通常、Jリーグ監督には「50番」のついた練習着が用意される)、以降チームの粋な計らいとして彼の練習着にも『10』の番号が刺繍されている。

人物

キャリアの「明」と「暗」

彼の現役生活は明暗の起伏に富んでいる。若くして自身の憧れでもあった国内の名門クラブレッドスター・ベオグラードやユーゴスラビア代表で活躍。特に、ユーゴスラビア代表では同国内で名将との呼び声の高いイビチャ・オシムのもとで、その能力を発揮していった。1990年イタリアW杯では、「1986年メキシコW杯は“マラドーナの大会”と言われたように、1990年イタリアW杯は彼の大会になる」との前評判が立つほど大いに期待され、実際にもスペイン戦での2得点や、負けはしたもののアルゼンチンとの準々決勝でのプレイは国際的なプレイヤーとして評価された。敗北に突っ伏して泣くストイコビッチにマラドーナは「泣くんじゃない。君はこれからの選手なんだ」と声を掛けたという。

スポーツと政治

旧ユーゴスラビア連邦出身の選手には、民族紛争や連邦分裂等の複雑な事情に対して、スポーツ選手という立場を政治的主義の主張に利用する者もいたのに対し、ストイコビッチは「スポーツと政治は無関係」という立場だったが、1999年のNATOセルビア空爆に対して、3月27日のヴィッセル神戸戦の試合終了間際にユニフォームのアンダーシャツに書いた「NATO Stop Strikes」(NATOは空爆を中止せよ)のメッセージを見せるパフォーマンスを行う。これに対しUEFA(欧州サッカー連盟)は29日、「政治とフットボールを混同してはならない」という声明を出した。同日、Jリーグもスタジアムでの政治的アピールの禁止をJ1およびJ2チームに通達している。

なお、彼をこの行動に駆り立てたのは、1992年にイタリアのヴェローナへレンタル移籍されている最中に、チームメイトから「悪魔のセルビア人」「ドラガン・ミロシェヴィッチ」呼ばわりされたことも一因だった。1990年から始まる一連のユーゴスラビア紛争では、独立の気概を持つ諸国が、セルビアに一方的に弾圧されているという決めつけの報道がなされており、ユーゴスラビア対岸のイタリアでさえそう受け止められていた。

ニックネーム

子供のころ、彼はサッカーの試合をさぼってまで、大好きだったアニメピクシー&ディクシー[1]」を見ていた。このことから当時の友達に「Pixie」と名付けられたという。後に,これから転じて「ピクシー」 ("Pixy"または"Piksi") と呼ばれるようになった。

また、「ピクシー=妖精」と紹介されるが、ピクシーは一般的にイメージされる(例えばピーター・パンに出てくるティンカーベルのような)羽根のある女性の姿をした妖精ではない。イングランドの伝説によると、眼はやぶにらみで口が大きく色白で痩せた男性の小人で、旅人を道に迷わせたり、鉱夫を騙して喜ぶなどずる賢く悪戯好きの妖精である。 実際は、テレビで彼自身が発言していたように、猫と鼠のアニメのピクシーという名前の鼠に似ていたからのようである。

名古屋の監督となってからは、チーム内では、愛称「ピクシー」ではなく、「ミスター」と呼ぶように求めている。 [2]

監督として

美しく攻撃的なフットボールが信条。

戦術としてはワンタッチ・ツータッチのパス回しによりボールポゼッションを高め、サイドバックの積極的な攻撃参加によりサイドに数的優位を作り敵陣深くまで切り込むサイド攻撃を基本にしている。
積極的なサイドチェンジや、試合中に右利きの小川を左サイドに左利きのマギヌンを右サイドにとポジションチェンジを繰り返したり、フラットな3ラインのシステムによるゾーンディフェンス等、現代サッカーの基本的な要素を取り入れ、長年Jリーグの中位チームだった名古屋を攻撃的なサッカーを披露する強豪チームに変貌させた。

後半の選手交代は、リードをしているなら守り切って勝つために守備的な選手を、リードされているなら点を取りに行くために攻撃的な選手を入れるなど、非常にシンプルで分かりやすいため、フィールド上の選手らにも瞬時に意志統一がなされる。 フォーメーションを無視して無闇にFWを入れてバランスを崩してしまいボロボロになる時もあるが、逆にその策が上手く嵌って鮮やかに逆転勝ちを収めることもある。

現役時代ほどではないが、試合中のテンションの高さは相変わらず。

その他

家族は妻と1男2女。

正教会を信仰し、セルビア正教会に属する(セルビア人の大半はセルビア正教会に属する正教徒である)。

イタリア料理が好物であるが、日本の食べ物の多くも好物。「自分の経験から、米は疲労回復に最適」というのが持論。また、うどんについては、セルビア・モンテネグロサッカー協会会長として来日した際、多忙なスケジュールの中、わざわざ時間を作ってまでトヨタスポーツセンター社員食堂のうどんを食べたという逸話も残っている[2]豚汁の塩焼きなども好物。その他、通常日本人でも苦手にすることもある食べ物も好物で、その中でも納豆については、グランパス選手時代にキャンプ中納豆を食べようとしない若手選手に食べさせようとしたばかりか、果ては納豆好きが昂じ、セルビア・モンテネグロサッカー協会会長時代に代表の食事メニューに納豆ご飯を取り入れようとし、選手から大ブーイングを食らったというエピソードもある。そんな納豆好きな彼の為に現在もチームのキャンプなどの合宿の朝食時は欠かさず納豆が用意されている(無い場合はチームのスタッフが調達してくるらしい)。

2004年7月、セルビア・モンテネグロの治安の悪さを理由にパリに移住し、その後に母国で仕事をするようになってからも自宅はパリにある。

ちなみに少年時代のアイドルはミシェル・プラティニであった。ただ同時に一般論として、個人マークの厳しい現在のプレッシング・サッカーにおいて、単純にプレースタイルを比較することは出来ない、ともしている。

ユーゴ代表時代の師匠である前日本代表監督イビツァ・オシムには絶対的な信頼を寄せ、「オシムがベストだ。」(ベンゲルとオシムが現役時代に会った最高の監督とも発言)、「どんな困難な状況でもベストの選択をする。オシムをサポートすれば日本は必ず強くなる」と太鼓判を押していた。また実現はしなかったが、その師弟関係から日本代表のコーチとしてオシムの右腕になるのではとマスコミ等で話題になった事もあった。

1997年7月9日の横浜マリノス戦で、小幡真一郎主審の出したイエローカードを取り上げ、逆に主審に向かって突き付けた。その結果、審判への侮辱行為として4試合の出場停止処分となった。

選手時代、Jリーグでは通算13回の退場処分を受けており、これはJリーグ史上最多。ちなみに、2007年シーズン終了時点での2位は8回(大久保嘉人松田直樹)である。

引退後の2001年9月、豊田スタジアムの北10番ゲートがストイコビッチにちなんで「ピクシーゲート」と命名される。

所属クラブ

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
ユーゴスラビア リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
1981-82 ラドニツキ・ニシュ 1 0
1982-83 ラドニツキ・ニシュ 17 1
1983-84 ラドニツキ・ニシュ 27 3 6 2 33 5
1985-86 ラドニツキ・ニシュ 25 4
1986-87 レッドスター 32 17 6 0 39 17
1987-88 レッドスター 28 15 3 1 31 16
1988-89 レッドスター 29 12 4 3 33 15
1989-90 レッドスター 31 10 6 0 37 10
フランス リーグ戦 F・リーグ杯フランス杯 期間通算
1990-91 マルセイユ 11 0 4 0 18 0
イタリア リーグ戦 イタリア杯オープン杯 期間通算
1991-92 ヴェローナ セリエA 19 1 2 1 21 2
フランス リーグ戦 F・リーグ杯フランス杯 期間通算
1992-93 マルセイユ 0 0
1993-94 マルセイユ 18 5 1 0 19 5
日本 リーグ戦 ナビスコ杯天皇杯 期間通算
1994 名古屋 - J 14 3 1 0 2 1 16 4
1995 名古屋 - J 40 15 - 5 2 45 17
1996 名古屋 - J 19 11 10 3 1 0 34 16
1997 名古屋 10 J 18 2 6 1 0 0 27 3
1998 名古屋 10 J 28 7 1 0 4 1 33 8
1999 名古屋 10 J1 24 11 5 2 5 2 34 15
2000 名古屋 10 J1 26 5 6 2 1 0 38 10
2001 名古屋 10 J1 15 3 2 1 - 17 4
通算 ユーゴスラビア 190 62
フランス 29 5
イタリア セリエA 19 1
日本 J1 184 57
総通算 422 125
  • プレシーズンマッチ14試合5得点2アシスト
  • Jリーグ通算で計239試合出場79得点134アシスト リーグ戦187試合出場57得点96アシスト
  • ナビスコ杯30試合出場5得点21アシスト 天皇杯18試合出場6得点11アシスト
  • 東海CS8試合出場2得点1アシスト アジアCWC6試合出場3得点8アシスト

代表歴

オリンピック
サッカー
1984 サッカー

代表キャップ:84試合(ユーゴスラビア/セルビア・モンテネグロ歴代2位) 得点:15得点

指導者経歴

監督成績

年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦
順位 試合 勝点 勝利 引分 敗戦 ナビスコ杯 天皇杯
2008 J1 名古屋 3位 34 59 17 8 9 ベスト4 ベスト8
2009 J1 名古屋 準々決勝敗退
J1通算 - 34 - 17 8 9

日本での出演CM

外部リンク

著書・参考文献

脚注

  1. ^ 日本でも1960年代に「チュースケとチュータ」の名で放映された
  2. ^ http://www.nikkansports.com/soccer/p-sc-tp0-20080124-311218.html
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