西園寺嬉子
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(今出川院から転送)
西園寺 嬉子 | |
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第90代天皇后 | |
皇后 |
弘長元年8月20日(1261年9月16日) (中宮) |
今出川院 | |
院号宣下 | 文永5年12月6日(1269年1月9日) |
誕生 | 建長4年(1252年) |
崩御 |
文保2年4月25日(1318年5月26日) |
諱 | 嬉子(きし) |
氏族 | 藤原氏(西園寺家) |
父親 | 西園寺公相 |
母親 | 中原師朝女 |
配偶者 | 亀山天皇 |
入内 | 弘長元年6月14日(1261年7月12日) |
女御宣下 | 弘長元年6月20日(1261年7月18日) |
立后前位階 | 従三位 |
宮廷女房 | 今出川院近衛 |
西園寺 嬉子(さいおんじ きし、藤原 嬉子(ふじわら の きし)、1252年〈建長4年〉- 1318年5月26日〈文保2年4月25日〉)は、鎌倉時代の女性。亀山天皇の中宮。女院号は今出川院(いまでがわいん、今出河院)。
系譜
[編集]太政大臣西園寺公相の女。生母は大外記中原師朝の女。同母兄に太政大臣西園寺実兼がいる。なお入内に際し、叔母にあたり、後嵯峨天皇の中宮で後深草、亀山両天皇の生母である西園寺姞子(大宮院)の猶子となっている。
略歴
[編集]弘長元年(1261年)6月、10歳で入内して女御宣下を受け、同年8月に中宮に冊立される。このとき、先立の中宮洞院佶子は皇后となっている。しかし佶子は天皇の寵愛が深かったのに対し、嬉子は寵愛が薄く、子を産むこともないまま、入内から6年後の文永4年(1267年)、父公相が没したのをきっかけに嬉子は宮中を退出し、それ以降二度と戻らなかった。
その後、翌文永5年12月(1269年1月)に院号宣下を受けて今出川院と称され、弘安6年(1283年)に出家し、法名を仏性覚と称した。
文保2年(1318年)、67歳で崩御。
関連項目
[編集]- 今出川院近衛(今出河院近衛) - 嬉子に仕えた女房で、歌人。