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利用者:ヘギー/sandbox

イギリス海軍潜水艦一覧(イギリスかいぐんせんすいかんいちらん)は、イギリス海軍が過去保有した、または現在保有する、あるいは将来保有する予定の、未完成・計画中止を含めた歴代潜水艦一覧である。現役艦型を太字で示す。

第一次世界大戦以前[編集]

艦級 画像 同型艦数 就役年 排水量 同型艦 注釈
ホランド級潜水艦英語版 5 1903年-1914年 水上:112t
水中:125t
ホランド1英語版
ホランド2英語版
ホランド3英語版
ホランド4英語版
ホランド5英語版
A級潜水艦英語版 13 1903年-1920年 水上:190t
水中:207t
A1英語版
A2英語版
A3英語版
A4英語版
A5英語版
A6英語版
A7英語版
A8英語版
A9英語版
A10英語版
A11英語版
A12英語版
A13英語版
B級潜水艦英語版 11 1905年-1918年 水上:292t
水中:321t
C級潜水艦 38 1906年-1922年 水上:292t
水中:321t

第一次世界大戦[編集]

艦級 画像 同型艦数 就役年 排水量 同型艦 注釈
D級潜水艦英語版 8 1909年-1919年 水上:483t
水中:595t
E級潜水艦 58 1913年-1924年 水上:665t
水中:796t
F級潜水艦英語版 3 1915年-1922年 水上:359t
水中:533t

脚注[編集]

出典[編集]


バドル作戦 (第四次中東戦争)

スエズ運河に架かる仮設浮橋を渡るエジプト軍車列
戦争第四次中東戦争
年月日:1973年10月6日 - 10月8日
場所エジプトシナイ半島
結果:エジプトの勝利
交戦勢力
イスラエルの旗 イスラエル エジプトの旗 エジプト
指導者・指揮官
イスラエルの旗 ダビッド・エラザール
参謀総長
イスラエルの旗 シュムエル・ゴネン英語版
南部軍司令官)
イスラエルの旗 アブラハム・マンドラー英語版
第252機甲師団長)
イスラエルの旗 アリエル・シャロン
第143予備役機甲師団ヘブライ語版長)
イスラエルの旗 アブラハム・アダン
第162予備役機甲師団長)
エジプトの旗 アフマド・イスマイル・アリ英語版
国防相英語版
エジプトの旗 サード・エル・シャズリ英語版
(参謀総長)
エジプトの旗 サード・マムーン英語版
第2軍英語版司令官)
エジプトの旗 アブドゥル・ムネイム・ワッセルアラビア語版
第3軍英語版司令官)
戦力
1個師団
戦車300~360輌
歩兵8,000名(うち460~600名はバーレブ・ライン駐屯)
(10月6日時点)
3個師団
戦車640輌
(10月8日時点)
歩兵32,000名
(10月6日時点)
戦車200輌
(10月7日午前1時時点)
5個師団
戦車980輌
歩兵90,000名
(10月8日時点)
損害
戦死950名
戦傷2,000名
戦車400輌
戦死280名
戦車20輌
(10月6日~7日)
第四次中東戦争
ヨム・キプール戦争/十月戦争
Yom Kippur War/October War
戦闘序列と指導者一覧
ゴラン高原方面
ゴラン高原の戦いヘブライ語版 - ナファク基地攻防戦 - ドーマン5作戦英語版 - 涙の谷 - ダマスカス平原の戦いヘブライ語版 - ヘルモン山攻防戦英語版
シナイ半島方面
バドル作戦 - タガール作戦 - ブダペスト英語版 - ラザニ英語版 - 第一次反撃戦ヘブライ語版 - 10月14日の戦車戦 - 中国農場の戦い - アビレイ・レブ作戦英語版 - スエズ市の戦い英語版
海上戦ヘブライ語版
ラタキア沖海戦 - ダミエッタ沖海戦 - ラタキア港襲撃
アメリカ・ソ連の対イスラエル・アラブ援助
ニッケル・グラス作戦

バドル作戦(バドルさくせん、アラビア語: عمليةبدر‎)またはバドル計画(バドルけいかく、アラビア語: خطة بدر‎)は、第四次中東戦争におけるエジプト軍スエズ運河渡河作戦のコードネームである。1973年10月6日、スエズ運河西岸に展開したエジプト軍第2軍英語版第3軍英語版が10地点で渡河を行い、東岸のイスラエル軍防衛線(バーレブ・ライン)を突破、10月8日までに縦深10から13kmの橋頭堡を確保した。また、本作戦と並行してシリア軍によるゴラン高原進攻ヘブライ語版が行われた。

イスラエル軍は予期していなかったエジプト・シリア軍の奇襲攻撃により、緒戦で敗北を喫し、各地で苦戦を強いられることとなった。

開戦に至る経緯[編集]

1967年6月5日にイスラエル軍の奇襲攻撃により勃発した第三次中東戦争で、エジプト、シリア、ヨルダンを中心としたアラブ軍は大損害を被り、シナイ半島全域及びゴラン高原ヨルダン川西岸地区東エルサレムを占領された。エジプトはスエズ運河閉鎖により年間2億ドルの通関料収入を喪失し、ヨルダンは人口の45パーセントと東エルサレムの観光収入を失った[1]

イスラエルはこれら地域を占領したことで、エジプト正面では200km以上の縦深を得ることができ、イスラエル領内にエジプト軍の砲爆撃が及ぶ恐れがほぼなくなった[2]

一方で、イスラエル国内では第三次中東戦争の結果を受け、アラブ諸国との和平交渉がすぐにでも始まるような期待感が広がり[3]、終結後の1967年6月19日、イスラエルのレヴィ・エシュコル内閣は講和と非武装化を条件に、シナイ半島(シャルム・エル・シェイクを除く)とゴラン高原の占領地返還を全員一致で閣議決定し、ヨルダン川西岸地区についてはヨルダンのフセイン国王と交渉に入る動きがあった。しかし、誇り高きアラブの名誉を傷つけられたアラブ諸国はイスラエルとの和平交渉を受け入れることは到底できず、エジプトとシリアは戦争終結後ほどなくしてソビエト連邦の援助の下、軍の再建に着手したほか、8月29日から9月1日にスーダンハルツームで開催されたアラブ首脳会議において、「イスラエルと交渉せず」、「イスラエルと講和せず」、「イスラエルを承認せず」のいわゆる「3つのノー」を決議した[4]。11月22日に開催された国際連合安全保障理事会においては、イスラエル軍の占領地からの撤退や中東諸国すべての主権を認めることなどを求めた安保理決議242を全会一致で可決したが、アラブ側はイスラエルが占領地から撤退しても戦争前の状態に戻るだけで第三次中東戦争敗北の事実は消えず、得られるものが何もないため決議の履行は困難だった。

エジプトの復讐[編集]

前線を視察するエジプト軍ガマシィ英語版作戦部長

エジプトのガマール・アブドゥル=ナーセル大統領は、イスラエルと第三次中東戦争の停戦を結んだ翌6月9日、敗北の責任を取り辞任の演説を行い、後任にザカリア・ムヒエディン英語版副大統領を指名した。しかし、エジプト唯一の政党であるアラブ社会主義連合英語版が扇動した退任反対の大規模デモを受け、ナーセルは辞任を撤回し、6月11日にはアブドルハキーム・アーメル国防相のほか、陸海空軍司令官と多数の上級将校を敗北の責任から追放した[5]

アラブ諸国の敗北は、援助国であるソビエト連邦にも衝撃を与え、1967年6月21日にニコライ・ポドゴルヌイ最高会議幹部会議長マトヴェイ・ザハロフ元帥を帯同してカイロを訪問、エジプト軍再建の協議を行った[6][7]。同年7月末にはソビエト連邦から軍用機110機、戦車200~250輌等の兵器がエジプトに到着し、10月になると軍用機数が第三次中東戦争前の水準に回復し、戦車も700輌まで増強された。エジプトはソビエト連邦に大量の軍事顧問団の派遣も求め、数千人規模の軍事顧問団がエジプト入りし、エジプト軍の再編成と訓練にあたった。なお、ソビエト連邦は これらの対価として、アレクサンドリアポートサイドなど港湾4箇所、カイロ西空軍基地など飛行場7箇所の使用権を得た[8]

イスラエル軍の防衛計画[編集]

バーレブ・ライン[編集]

バーレブ・ラインの拠点。

1968年にイスラエル軍参謀総長ハイム・バーレブ英語版中将は、エジプト軍のスエズ運河東岸への攻撃に対処するため、アブラハム・アダン少将を長とする東岸防衛計画委員会にシナイ半島の防衛構想を参謀本部へ検討案として上程するよう命じた。委員会からの答申案は、東岸沿いに監視警戒と敵軍を拘束する拠点を11km間隔で15個配置し、拠点後方に機動予備部隊を配置して渡河進攻するエジプト軍に対処することを骨子とした内容だった[9][10]。しかし、参謀本部の訓練部長アリエル・シャロン少将と計画室長イスラエル・タル少将は、この答申案に反対し、代わって機甲偵察部隊で東岸沿いを巡察警戒する方法を主張した。1969年にバーレブ参謀総長は委員会答申案を支持し、防衛線の構築が開始された。いわゆるバーレブラインと呼ばれる防衛線は同年3月15日に完成した[11]

バーレブ・ラインは、スエズ運河東岸沿い約160kmにわたって構築され、33個の拠点と3線の築堤、4本のコンクリート舗装道路と3本の新道、指揮通信施設が設置された[12]

開戦[編集]

戦況図を見つめるエジプト軍首脳。
(中央)サダト大統領、(右)ガマシィ作戦部長、(左)イスマイル英語版国防相。

10月6日[編集]

1973年10月6日のエジプト軍による攻勢とイスラエル軍の反撃。
赤:エジプト軍、青:イスラエル軍

1973年10月6日13:50から14:43にかけてエジプト軍は、スエズ運河東岸のバーレブ・ラインに対して攻撃準備射撃を行い、135個砲兵大隊約2,000門の砲迫から約3,000tの砲弾が拠点、機甲部隊集結地、砲兵陣地、指揮所等の目標に降り注ぎ、土塁の前方斜面に埋設された地雷等の人工障害物は多連装ロケット砲の掃射で破壊された。また、戦車砲等の直接照準火器約2,000門も攻撃に加わり、各種工作物を砲撃した。14:20からは3か所の陣地に展開したスカッド地対地ミサイル10基とFROG地対地ロケット20基が、ウムハシバ(Umm Hashiba)のSIGINT施設、タサ(Tasa)、ビルギフガファ(Bir Gifgafa)の師団指揮所を攻撃した[13]

14:00には240機のエジプト空軍機がスエズ運河を越え、シナイ半島の航空基地3か所、補助航空基地3か所、ホーク地対空ミサイル陣地10か所、砲兵陣地2か所、指揮所3か所、レーダーサイト2か所、SIGINT施設2か所、段列地域3か所、拠点ブダペストを空爆した[14][15]

スエズ運河渡河[編集]

築堤に消火用ポンプで放水して開口するエジプト軍工兵。

14:05、エジプト軍本隊の渡河に先立ち、対戦車火器を携行したレンジャー部隊がゴムボートで渡河し、ロープや竹梯子で堤防をよじ登り、東岸1kmまで進出して阻止陣地を構築、イスラエル軍機甲部隊の反撃に備えた[16]。14:20に第一波の5個歩兵師団8,000名が1,000艘のゴムボートに分乗して渡河を開始。この第一波には工兵のほか、誘導要員、砲兵隊の前進観測班も含まれていた[17]。第二波には歩兵部隊と消火用ポンプを装備した工兵隊80組が含まれ、15分間隔で15波に分かれて渡河した。

ポートサイド方面[編集]

10月7日[編集]

10月8日[編集]

イスラエル軍反撃[編集]

余波[編集]

政治的影響[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ 村松・1972年 253頁
  2. ^ 高井・1983年 20頁
  3. ^ Chaim・1985年 191頁
  4. ^ Chaim・1985年 190頁
  5. ^ 村松・1972年 234頁-235頁
  6. ^ 田上・1982年 190頁
  7. ^ Mohamed・1975年 50頁-51頁
  8. ^ 鹿島・2003年 170頁-171頁
  9. ^ 高井・1983年 26頁
  10. ^ Chaim 1985年 197頁-199頁
  11. ^ Chaim 1985年 199頁
  12. ^ 田上 1982年 193頁-194頁
  13. ^ 高井・1983年 67頁-68頁
  14. ^ 高井・1983年 68頁-73頁
  15. ^ Chaim・1985年 232頁
  16. ^ 田上・1982年 257頁
  17. ^ 高井・1983年 79-92頁

参考文献[編集]

  • 村松剛 1972 「中東戦記-六日間戦争からテル・アヴィヴ事件まで 初版」 文藝春秋 1972年8月1日
  • モハメド・ヘイカル、時事通信社外信部訳 1975 「アラブの戦い 第四次中東戦争の内幕 初版」 時事通信社 1975年7月1日
  • 田上四郎 1982 「中東戦争全史 第四版」 原書房 1982年8月30日 ISBN 4-562-01190-4
  • 高井三郎 1983 「第四次中東戦争 シナイ正面の戦い 第五版」 原書房 1983年8月25日 ISBN 4-562-01138-6
  • ハイム・ヘルツォーグ、滝川義人訳 1985 「図解中東戦争-イスラエル建国からレバノン進攻まで 初版」 原書房 1985年5月31日 ISBN 4-562-01587-X
  • 鳥井順 2000 「中東軍事紛争史IV 1967~1973 初版」 第三書館 2000年6月10日 ISBN 4-8074-0007-X
  • ガリア・ゴラン、木村申二・花田朋子・丸山功訳 2001 「冷戦下・ソ連の対中東戦略 初版」 第三書館 2001年7月20日 ISBN 4-8074-0109-2
  • ジョージ・レンツォウスキー、木村申二・北澤義之訳 2002 「冷戦下・アメリカの対中東戦略 歴代の米大統領は中東危機にどう決断したか 初版」 第三書館 2002年3月20日 ISBN 4-8074-0205-6
  • 鹿島正裕 2003 「中東戦争と米国 米国・エジプト関係史の文脈 初版」 御茶の水書房 2003年3月25日 ISBN 4-275-01956-3
  • マーティン・ギルバート、千本健一郎訳 2009 「イスラエル全史 下 初版」 朝日新聞出版 2009年1月30日 ISBN 978-4-02-250495-1
  • PANZER6月号臨時増刊第607号 2016 「WAR MACHINE REPORT NO.45 写真と戦史 第四次中東戦争 -増補改訂版-」 アルゴノート社 2016年5月27日
  • モルデハイ・バルオン、滝川義人訳 2017 「イスラエル軍事史 終わりなき紛争の全貌 初版」 並木書房 2017年2月20日 ISBN 978-4-89063-347-0


ゴラン高原の戦い

1973年10月6日のシリア軍展開状況
戦争第四次中東戦争
年月日1973年10月6日 - 10月10日
場所ゴラン高原
結果
交戦勢力
イスラエルの旗 イスラエル シリアの旗 シリア
指導者・指揮官
イスラエルの旗 シリアの旗
第四次中東戦争
ヨム・キプール戦争/十月戦争
Yom Kippur War/October War
戦闘序列と指導者一覧
ゴラン高原方面
ゴラン高原の戦いヘブライ語版 - ナファク基地攻防戦 - ドーマン5作戦英語版 - 涙の谷 - ダマスカス平原の戦いヘブライ語版 - ヘルモン山攻防戦英語版
シナイ半島方面
バドル作戦 - タガール作戦 - ブダペスト英語版 - ラザニ英語版 - 第一次反撃戦ヘブライ語版 - 10月14日の戦車戦 - 中国農場の戦い - アビレイ・レブ作戦英語版 - スエズ市の戦い英語版
海上戦ヘブライ語版
ラタキア沖海戦 - ダミエッタ沖海戦 - ラタキア港襲撃
アメリカ・ソ連の対イスラエル・アラブ援助
ニッケル・グラス作戦


アメリカ海軍の飛行隊一覧(あめりかかいぐんのひこうたいいちらん)は、アメリカ海軍において現在編成されている飛行隊及びすでに解隊した飛行隊の一覧である。

飛行隊の構成[編集]

固定翼機飛行隊[編集]

電子攻撃飛行隊[編集]

VAQ-136のEA-18G
飛行隊名 略称 ニックネーム テイルコード 運用機種 上級組織 航空団 基地 飛行隊変遷 備考
第129電子攻撃飛行隊英語版 VAQ-129 ヴァイキングス
Vikings
NJ EA-18G 太平洋艦隊電子攻撃航空団司令官 ホイッドビー・アイランド海軍航空基地英語版 第10重攻撃飛行隊(1961年5月1日 - 1970年9月1日)
第129電子攻撃飛行隊(1970年9月1日 - )
EA-18Gの艦隊転換飛行隊
第130電子攻撃飛行隊英語版 VAQ-130 ザッパーズ
Zappers
AC EA-18G 太平洋艦隊電子攻撃航空団司令官 第3空母航空団英語版 ホイッドビー・アイランド海軍航空基地英語版 第13空中早期警戒飛行隊(1959年9月1日 - 1968年10月1日)
第130電子攻撃飛行隊(1968年10月1日 - )
第131電子攻撃飛行隊英語版 VAQ-131 ランサーズ
Lancers
AJ EA-18G 太平洋艦隊電子攻撃航空団司令官 第8空母航空団英語版 ホイッドビー・アイランド海軍航空基地英語版 第920哨戒飛行隊(1946年5月1日 - 1946年11月15日)
第70中陸上哨戒飛行隊(1946年11月15日 - 1950年2月)
第931哨戒飛行隊(1950年2月 - 1953年2月4日)
第57哨戒飛行隊(1953年2月4日 - 1956年7月3日)
第4重攻撃飛行隊(1956年7月3日 - 1968年11月1日)
第131電子攻撃飛行隊(1968年11月1日 - )
第132電子攻撃飛行隊英語版 VAQ-132 スコーピオンズ
Scorpions
NL EA-18G 太平洋艦隊電子攻撃航空団司令官 ホイッドビー・アイランド海軍航空基地英語版 第2重攻撃飛行隊(1955年11月1日 - 1968年11月1日)
第132電子攻撃飛行隊(1968年11月1日 - )
第133電子攻撃飛行隊英語版 VAQ-133 ウィザーズ
Wizards
NG EA-18G 太平洋艦隊電子攻撃航空団司令官 第9空母航空団英語版 ホイッドビー・アイランド海軍航空基地英語版 第133電子攻撃飛行隊(1996年4月1日 - )
第134電子攻撃飛行隊英語版 VAQ-134 ガルーダス
Garudas
NL EA-18G 太平洋艦隊電子攻撃航空団司令官 ホイッドビー・アイランド海軍航空基地英語版 第134電子攻撃飛行隊(1969年6月17日 - )
第135電子攻撃飛行隊英語版 VAQ-135 ブラックレイヴンス
Black Ravens
NL EA-18G 太平洋艦隊電子攻撃航空団司令官 ホイッドビー・アイランド海軍航空基地英語版 第135電子攻撃飛行隊(1969年5月15日 - )
第136電子攻撃飛行隊英語版 VAQ-136 ガーントレッツ
Gauntlets
NE EA-18G 太平洋艦隊電子攻撃航空団司令官 第2空母航空団英語版 ホイッドビー・アイランド海軍航空基地英語版 第136電子攻撃飛行隊(1973年4月6日 - )
第137電子攻撃飛行隊英語版 VAQ-137 ルークス
Rooks
AB EA-18G 太平洋艦隊電子攻撃航空団司令官 第1空母航空団 ホイッドビー・アイランド海軍航空基地英語版 第137電子攻撃飛行隊(1996年10月1日 - )
第138電子攻撃飛行隊英語版 VAQ-138 イエロージャケッツ
Yellow Jackets
NL EA-18G 太平洋艦隊電子攻撃航空団司令官 ホイッドビー・アイランド海軍航空基地英語版 第138電子攻撃飛行隊(1976年2月27日 - ) 日本の三沢基地に前方展開中
第139電子攻撃飛行隊英語版 VAQ-139 クーガーズ
Cougars
NA EA-18G 太平洋艦隊電子攻撃航空団司令官 第17空母航空団英語版 ホイッドビー・アイランド海軍航空基地英語版 第139電子攻撃飛行隊(1983年7月1日 - )
第140電子攻撃飛行隊英語版 VAQ-140 ペイトリオッツ
Patriots
AG EA-18G 太平洋艦隊電子攻撃航空団司令官 第7空母航空団英語版 ホイッドビー・アイランド海軍航空基地英語版 第140電子攻撃飛行隊(1985年10月1日 - )
第141電子攻撃飛行隊英語版 VAQ-141 シャドウホークス
Shadowhawks
NF EA-18G 太平洋艦隊電子攻撃航空団司令官 第5空母航空団 岩国航空基地 第141電子攻撃飛行隊(1987年7月1日 - )
第142電子攻撃飛行隊英語版 VAQ-142 グレイウルヴズ
The Gray Wolves
NH EA-18G 太平洋艦隊電子攻撃航空団司令官 第11空母航空団英語版 ホイッドビー・アイランド海軍航空基地英語版 第142電子攻撃飛行隊(1997年4月1日 - )
第209電子攻撃飛行隊英語版 VAQ-209 スターウォリアーズ
Star Warriors
NL EA-18G 太平洋艦隊電子攻撃航空団司令官 ホイッドビー・アイランド海軍航空基地英語版 第209電子攻撃飛行隊(1977年10月1日 - ) 予備役飛行隊

空中早期警戒飛行隊[編集]

VAW-124のE-2C
飛行隊名 略称 ニックネーム テイルコード 運用機種 上級組織 航空団 基地 飛行隊変遷 備考
第113空中早期警戒飛行隊英語版 VAW-113 ブラックイーグルス
Black Eagles
NE E-2C 空中指揮統制兵站航空団司令官 第2空母航空団英語版 ポイント・マグー海軍航空基地英語版 第113空中早期警戒飛行隊(1967年4月20日 - )
第115空中早期警戒飛行隊英語版 VAW-115 リバティベルズ
Liberty Bells
NH E-2C 空中指揮統制兵站航空団司令官 第11空母航空団英語版 ポイント・マグー海軍航空基地英語版 第115空中早期警戒飛行隊(1967年4月20日 - )
第116空中早期警戒飛行隊英語版 VAW-116 サンキングス
Sun Kings
NA E-2C 空中指揮統制兵站航空団司令官 第17空母航空団英語版 ポイント・マグー海軍航空基地英語版 第116空中早期警戒飛行隊(1967年4月20日 - )
第117空中早期警戒飛行隊英語版 VAW-117 ウォールバンガーズ
Wallbangers
NG E-2C 空中指揮統制兵站航空団司令官 第9空母航空団英語版 ポイント・マグー海軍航空基地英語版 第117空中早期警戒飛行隊(1974年7月1日 - )
第120空中早期警戒飛行隊英語版 VAW-120 グレイホークス
Grey Hawks
E-2C
E-2D
C-2A
空中指揮統制兵站航空団司令官 ノーフォーク海軍基地 第120予備役空中早期警戒飛行隊(1967年7月1日 - 1983年5月1日)
第120空中早期警戒飛行隊(1983年5月1日 - )
E-2C/D、C-2Aの艦隊転換飛行隊
第121空中早期警戒飛行隊英語版 VAW-121 ブルーテイルス
Blue Tails
AG E-2D 空中指揮統制兵站航空団司令官 第7空母航空団英語版 ノーフォーク海軍基地 第121空中早期警戒飛行隊(1967年4月1日 - )
第123空中早期警戒飛行隊英語版 VAW-123 スクリュートップス
Screwtops
AC E-2C 空中指揮統制兵站航空団司令官 第3空母航空団英語版 ノーフォーク海軍基地 第123空中早期警戒飛行隊(1967年4月1日 - )
第124空中早期警戒飛行隊英語版 VAW-124 ベアエイセズ
Bear Aces
AJ E-2C 空中指揮統制兵站航空団司令官 第8空母航空団英語版 ノーフォーク海軍基地 第124空中早期警戒飛行隊(1967年4月1日 - )
第125空中早期警戒飛行隊英語版 VAW-125 タイガーテイルス
Tigertails
NF E-2D 空中指揮統制兵站航空団司令官 第5空母航空団 岩国航空基地 第125空中早期警戒飛行隊(1968年10月1日 - )
第126空中早期警戒飛行隊英語版 VAW-126 シーホークス
Seahawks
AB E-2D 空中指揮統制兵站航空団司令官 第1空母航空団 ノーフォーク海軍基地 第126空中早期警戒飛行隊(1969年4月1日 - )

打撃戦闘飛行隊[編集]

VFA-41のF/A-18F
飛行隊名 略称 ニックネーム テイルコード 運用機種 上級組織 航空団 基地 飛行隊変遷 備考
第2打撃戦闘飛行隊英語版 VFA-2 バウンティハンターズ
Bounty Hunters
NE F/A-18F 太平洋艦隊打撃戦闘航空団司令官 第2空母航空団英語版 リムーア海軍航空基地英語版 第2戦闘飛行隊(1942年10月14日 - 2003年7月21日)
第2打撃戦闘飛行隊(2003年7月21日 - )
第11打撃戦闘飛行隊英語版 VFA-11 レッドリッパーズ
Red Rippers
AB F/A-18F 大西洋艦隊打撃戦闘航空団司令官 第1空母航空団 オシアナ海軍航空基地英語版 第43戦闘飛行隊(1950年9月1日 - 1959年2月16日)
第11戦闘飛行隊(1959年2月16日 - 2005年10月18日)
第11打撃戦闘飛行隊(2005年10月18日 - )
第14打撃戦闘飛行隊英語版 VFA-14 トップハッターズ
Tophatters
NG F/A-18E 太平洋艦隊打撃戦闘航空団司令官 第9空母航空団英語版 リムーア海軍航空基地英語版 太平洋艦隊航空分遣隊(1919年9月 - 1920年6月15日)
第5雷撃飛行隊(1920年6月15日 - 1921年9月7日)
第1哨戒飛行隊(1921年9月7日 - 1921年9月23日)
第4戦闘飛行隊(1921年9月23日 - 1922年7月1日)
第1戦闘飛行隊(1922年7月1日 - 1927年7月1日)
第1戦闘飛行隊(爆撃)(1927年7月1日 - 1934年7月1日)
第2爆撃飛行隊(爆撃)(1934年7月1日 - 1937年7月1日)
第3爆撃飛行隊(1937年7月1日 - 1939年7月1日)
第4爆撃飛行隊(1939年7月1日 - 1941年3月15日)
第41偵察飛行隊(1941年3月15日 - 1943年3月1日)
第41爆撃飛行隊(1943年3月1日 - 1943年8月4日)
第4爆撃飛行隊(1943年8月4日 - 1946年11月15日)
第1攻撃飛行隊(攻撃)(1946年11月15日 - 1948年8月2日)
第14攻撃飛行隊(1948年8月2日 - 1949年12月15日)
第14戦闘飛行隊(1949年12月15日 - 2001年12月1日)
第14打撃戦闘飛行隊(2001年12月1日 - )
第22打撃戦闘飛行隊英語版 VFA-22 ファイティングレッドコックス
Fighting Redcocks
NA F/A-18F 太平洋艦隊打撃戦闘航空団司令官 第17空母航空団英語版 リムーア海軍航空基地英語版 第63戦闘飛行隊(1948年7月28日 - 1956年3月)
第63攻撃飛行隊(1956年3月 - 1959年7月1日)
第22攻撃飛行隊(1959年7月1日 - 1990年5月4日)
第22打撃戦闘飛行隊(1990年5月4日 - )
第25打撃戦闘飛行隊英語版 VFA-25 フィスト・オブ・ザ・フリート
Fist of the Fleet
AG F/A-18E 太平洋艦隊打撃戦闘航空団司令官 第7空母航空団英語版 リムーア海軍航空基地英語版 第17雷撃飛行隊(1943年1月1日 - 1946年11月15日)
第6攻撃飛行隊(爆撃)(1946年11月15日 - 1948年7月27日)
第65攻撃飛行隊(1948年7月27日 - 1959年7月1日)
第25攻撃飛行隊(1959年7月1日 - 1983年7月1日)
第25打撃戦闘飛行隊(1983年7月1日 - )
第27打撃戦闘飛行隊英語版 VFA-27 ロイヤルメイセス
Royal Maces
NF F/A-18E 太平洋艦隊打撃戦闘航空団司令官 第5空母航空団 岩国航空基地 第27攻撃飛行隊(1967年9月1日 - 1991年1月24日)
第27打撃戦闘飛行隊(1991年1月24日 - )
第31打撃戦闘飛行隊 VFA-31 トムキャッターズ
Tomcatters
AJ F/A-18E 大西洋艦隊打撃戦闘航空団司令官 第8空母航空団英語版 オシアナ海軍航空基地英語版 第1戦闘飛行隊(B)(1935年7月1日 - 1937年7月1日)
第6戦闘飛行隊(1937年7月1日 - 1943年7月15日)
第3戦闘飛行隊(1943年7月15日 - 1946年11月15日)
第3戦闘飛行隊(A)(1946年11月15日 - 1948年8月7日)
第31戦闘飛行隊(1948年7月1日 - 2006年8月1日)
第31打撃戦闘飛行隊(2006年8月1日 - )
第32打撃戦闘飛行隊英語版 VFA-32 ソーズメン
Swordsmen
AC F/A-18F 大西洋艦隊打撃戦闘航空団司令官 第3空母航空団英語版 オシアナ海軍航空基地英語版 第3戦闘爆撃飛行隊(1945年2月1日 - 1946年11月15日)
第4戦闘飛行隊(A)(1946年11月15日 - 1948年8月7日)
第32戦闘飛行隊(1948年8月7日 - 2006年8月1日)
第32打撃戦闘飛行隊(2006年8月1日)
第34打撃戦闘飛行隊英語版 VFA-34 ブルーブラスターズ
Blue Blasters
NE F/A-18C 大西洋艦隊打撃戦闘航空団司令官 第2空母航空団英語版 オシアナ海軍航空基地英語版 第34攻撃飛行隊(1970年1月1日 - 1996年8月30日)
第34打撃戦闘飛行隊(1996年8月30日 - )
F/A-18Eへ機種転換中。
第37打撃戦闘飛行隊英語版 VFA-37 レイジン・ブルズ
Ragin Bulls
AJ F/A-18C(N) 大西洋艦隊打撃戦闘航空団司令官 第8空母航空団英語版 オシアナ海軍航空基地英語版 第37攻撃飛行隊(1967年7月1日 - 1990年11月28日)
第37打撃戦闘飛行隊(1990年11月28日)
F/A-18Eへ機種転換予定。
第41打撃戦闘飛行隊 VFA-41 ブラックエイセス
Black Aces
NG F/A-18F 太平洋艦隊打撃戦闘航空団司令官 第9空母航空団英語版 リムーア海軍航空基地英語版 第41戦闘飛行隊(1950年9月1日 - 2001年12月1日)
第41打撃戦闘飛行隊(2001年12月1日)
第81打撃戦闘飛行隊英語版 VFA-81 サンライナーズ
Sunliners
AB F/A-18E 大西洋艦隊打撃戦闘航空団司令官 第1空母航空団 オシアナ海軍航空基地英語版 第66攻撃飛行隊(1955年7月1日 - 1955年7月1日)
第81戦闘飛行隊(1955年7月1日 - 1959年7月1日)
第81攻撃飛行隊(1959年7月1日 - 1988年2月4日)
第81打撃戦闘飛行隊(1988年2月4日 - )



戦技競技会 (航空自衛隊)[編集]

航空自衛隊の戦技競技会(こうくうじえいたいのせんぎきょうぎかい)は、航空総隊の元で毎年実施される。

航空機による騒音が長時間続くため、基地周辺の自治体にはあらかじめ通知が出される[1]

戦闘機部門[編集]

戦競塗装を施した第203飛行隊隊長機のF-15J(2013年戦競)
対抗機を務める飛行教導群のF-15DJ

全国の戦闘機飛行隊を一堂に集め、模擬戦闘(戦術競技)を行う。特別な事情がない限り、航空自衛隊全戦闘機飛行隊が参加し、戦闘機パイロットとしての任務遂行に必要な技術を競う。

主に参加する飛行隊は、予備機を含む航空機3機と同競技会に参加経験の無いパイロット5名(予備隊員1名)、整備員で構成され、第一編隊、第二編隊と分かれて飛行教導隊(仮想敵役)との模擬戦闘を行い、ガンカメラなどで判定を行う。ただ撃墜判定を出せばいいわけでなく、僚機との連携や戦術の能力も要求される。

この競技会に参加する戦闘機の多くにはノーズアートなどの飛行隊独自の塗装が施され、航空ファンの注目を集める事柄でもある。

競技種目[編集]

対戦闘機戦闘
競技機はAIM-9またはAAM-3模擬弾1~2発を搭載し、対抗機との格闘戦を行う。AIM-7及び固定武装の機関砲は模擬弾を搭載せず、ロックオンはシミュレートになる。競技は2~4機の競技機と対抗機が相対する形で行われ、レーダーによる索敵後、発見した対抗機に対してミサイルまたは機関砲による攻撃をシミュレートし、シミュレートで撃墜判定された機体は競技エリア外へ離脱する[2]
援護戦闘
戦爆連合対処や戦偵連合対処といった競技内容で、攻撃機または偵察機と護衛機、フェイカー(囮)役の電子戦機で編成された攻撃側を防御側の要撃機がレーダーサイトからの誘導を受けて迎撃する[2][3]。なお、攻撃側フェイカー役の電子戦機には、YS-11E電子戦訓練機のほか、AN/ALE-41チャフディスペンサー装備のT-2F-4EJなどが使用された[4]
組織戦闘
援護戦闘と同じく多数機目標を要撃機がレーダーサイトや早期警戒機と連携して迎撃するもので、競技参加部隊は戦闘機部隊と航空警戒管制団、高射群の合同部隊となる[2][4]
空対空射撃
競技支援機が曳航する空中射撃用標的に対して、固定武装の機関砲により射撃を行い、標的への命中精度を競う[2][3]
空対地射爆撃
地上標的に対して模擬爆弾及び機関砲によって攻撃し、命中精度を競う[2]
航空阻止
護衛機の支援を受けつつ、敵要撃機からの攻撃をかわして水上標的に対して模擬爆撃または空対艦ミサイルによる模擬攻撃を行い、戦闘空域の状況を判断しながら帰還する。競技機は空対艦ミサイルを模した増槽を1~2本装備して発射をシミュレートする[2][5]
精密戦闘航法
基地を離陸後、洋上戦闘航法で定時定点到達精度を競う。競技が実施される場合は空対地射爆撃と同時に行われる[2][4]
歴代戦技競技会(戦闘機部門)優勝飛行隊一覧
開催年度 日程 開催基地 競技種目 機種 優勝飛行隊 備考
1960年
(昭和35年)
10月11日~14日 千歳基地 航空総隊競点射撃競技会 F-86F 第5飛行隊 1チーム4機編成で、各機100発の機関銃弾を携行し、バンナーターゲットを射撃。命中弾は1発1点とし、チーム満点400点で採点した。
1961年2月13日~15日 小牧基地 F-86D 第101飛行隊 DF-4MFC標的へ2.75インチロケット弾を射撃。ガンカメラの映像でロケット弾の集束状態を見て命中判定を行った。
1961年
(昭和36年)
10月9日~13日 小松基地 航空総隊競点射撃及び整備競技会 F-86F 第3飛行隊 本競技会から整備部門開催。
1962年2月5日~7日 小牧基地 F-86D 第103飛行隊
1962年
(昭和37年)
10月15日~16日 新田原基地 航空総隊競点射撃及び整備競技会 F-86F 第8飛行隊
12月3日~6日 小牧基地 F-86D 第103飛行隊
1963年
(昭和38年)
9月30日~10月3日 小牧基地 航空総隊競点射撃及び整備競技会 F-86D 第103飛行隊 第103飛行隊が3連覇達成。
10月7日~8日 松島基地 F-86F 第8飛行隊 第8飛行隊が2連覇達成。
1964年
(昭和39年)
7月7日~8日 小牧基地 航空総隊競点射撃競技会 F-86D 第102飛行隊
1965年2月26日 小牧基地 F-86F 競技未実施のため優勝飛行隊なし。
1965年
(昭和40年)
5月25日~27日 松島基地 航空総隊競点射撃競技会 F-86F 第5飛行隊
1966年
(昭和41年)
10月5日~6日 築城基地 航空総隊射撃競技会 F-86F 第5飛行隊
(FI部門)
本競技会からF-86FはFI(要撃機)部門とFS(支援機)部門の区分により開催。
第6飛行隊
(FS部門)
11月29日~12月2日 小松基地 F-86D 第102飛行隊
1967年
(昭和42年)
9月1日~8日 松島基地
三沢基地
小松基地
小牧基地
岩国基地
築城基地
新田原基地
航空総隊射撃競技会 F-86F 第10飛行隊
(FI部門)
第7飛行隊
(FS部門)
9月11日~27日 F-104J 第203飛行隊
(ガン射撃部門)
本競技会よりF-104Jが初参加。
第207飛行隊
(ロケット射撃部門)
9月25日~28日 F-86D 第103飛行隊 本競技会がF-86D最後の参加。
1968年
(昭和43年)
7月29日~8月17日 三沢基地
築城基地
新田原基地
航空総隊射撃競技会 F-86F 第10飛行隊
(FI部門)
第6飛行隊
(FS部門)
8月15日~ F-104J 第202飛行隊
(ガン射撃部門)
第204飛行隊
(ロケット射撃部門)
1969年
(昭和44年)
9月2日~3日 小松基地 航空総隊射撃研究会 F-86F F-86F(FI部門)の射撃研究会を開催。
9月29日~30日 千歳基地 F-86F
F-104J
F-86F(FS部門)とF-104Jの射爆・射撃研究会を開催。
12月1日 百里基地 F-104J F-104Jのロケット射撃研究会を開催。
1970年
(昭和45年)
8月18日~21日 小松基地 F-86射撃演習 F-86F 第8飛行隊
(FI部門)
FI部門は応用ダート射撃、FS部門は海自護衛艦が曳航する水上標的へのロケット弾射撃、スキップ爆弾投下を実施。
11月16日~ 新田原基地 F-104射撃演習 F-104J 第202飛行隊
1971年
(昭和46年)
全日空機雫石衝突事故により全機飛行停止となったため、競技会中止。
1972年
(昭和47年)
8月9日 小松基地 F-86射撃演習 F-86F
9月11日~15日 千歳基地 F-104射撃演習 F-104J 第201飛行隊
1973年
(昭和48年)
第1次オイルショックにより競技会中止。
1974年
(昭和49年)
6月3日~8日 小松基地 F-104等戦技競技会 F-104J 第201飛行隊 第1次オイルショックの影響により、本競技会から1機種1年開催となる。
1975年
(昭和50年)
5月17日~22日 小松基地 F-86F射撃競技大会 F-86F 第3飛行隊 本競技会がF-86F最後の参加。
1976年
(昭和51年)
7月27日~29日 千歳基地 F-104J要撃戦技競技会 F-104J 第207飛行隊 ロケット弾使用は本競技会が最後。
1977年
(昭和52年)
第2次オイルショックにより競技会中止。
1978年
(昭和53年)
5月11日 小松基地 射撃及び要撃戦技競技会 F-4EJ 第304飛行隊 本競技会よりF-4EJが初参加。異機種での同基地・同時開催は本競技会が初。
F-104J 第203飛行隊・北空チーム
1979年
(昭和54年)
7月23日~28日 千歳基地 F-104J射撃競技会 F-104J 悪天候により競技中止。
10月15日~16日 小松基地 対戦闘機戦闘競技会 F-4EJ 第301飛行隊 ガン及びAIM-9の想定武装により、同機種での対戦闘機戦闘(ACM)を実施。
F-104J 第203飛行隊
第204飛行隊
1980年
(昭和55年)
7月16日~19日 千歳基地 組織戦闘競技会 F-104J 第205飛行隊
11月10日~11日 対戦闘機戦闘競技会 F-4EJ 第301飛行隊 ガン及びAIM-9とF-4EJのみAIM-7の想定武装により、異機種間対戦闘機戦闘(DACT)を実施。本競技会より迷彩塗装機が登場。
三沢基地 F-104J 第203飛行隊
1981年
(昭和56年)
11月16日~18日 小松基地 航空総隊総合戦技競技会
第1部門援護戦闘及び対艦攻撃
F-4EJ 第303飛行隊 本競技会よりF-1が初参加。
F-104J 第202飛行隊
F-1 第3飛行隊
航空総隊総合戦技競技会
第2部門組織戦闘
F-4EJ 第303飛行隊・中空笠取チーム
1982年
(昭和57年)
6月7日~9日 小松基地 航空総隊総合戦技競技会
第1部門援護戦闘
F-4EJ 第303飛行隊
F-104J 第204飛行隊
F-1 第3飛行隊
RF-4E 第501飛行隊
第1チーム
T-2 飛行教導隊
第2チーム
航空総隊総合戦技競技会
第2部門組織戦闘
F-4EJ 第306飛行隊・南混チーム
1983年
(昭和58年)
11月11日~19日 小松基地 航空総隊総合戦技競技会
第1部門援護戦闘
F-4EJ 第306飛行隊
F-104J 第204飛行隊
F-1 第8飛行隊
RF-4E 第501飛行隊
第2チーム
航空総隊総合戦技競技会
第2部門組織戦闘
F-4EJ 第303飛行隊・中空笠取チーム
1984年
(昭和59年)
11月5日~8日 小松基地 航空総隊総合戦技競技会
第1部門援護戦闘
F-4EJ 第303飛行隊
F-104J 第207飛行隊
第2チーム
F-15J 第202飛行隊
RF-4E 第501飛行隊
第1チーム
T-2 飛行教導隊
第3チーム
航空総隊総合戦技競技会
第2部門組織戦闘
F-4EJ 第306飛行隊・南混チーム
1985年
(昭和60年)
6月10日~16日 千歳基地
三沢基地
百里基地
小松基地
築城基地
新田原基地
那覇基地
航空総隊射爆撃戦技競技会 F-4EJ 第302飛行隊
F-104J 第207飛行隊
第3チーム
F-15J 第203飛行隊
F-1 第8飛行隊
11月5日~6日 千歳基地
三沢基地
航空総隊組織戦闘戦技競技会 F-4EJ
F-15J
北空チーム
(第203飛行隊、第302飛行隊、北部航空警戒管制団第3高射群
1986年
(昭和61年)
11月4日~6日 百里基地 航空総隊射爆撃戦技競技会
第1部門模擬ミサイル射撃及び応用ダート射撃
F-4EJ 第305飛行隊
11月5日~8日 千歳基地 F-15J 第203飛行隊
11月6日 三沢基地 航空総隊射爆撃戦技競技会
第2部門空対地射撃及び精密戦闘航法
F-1 第8飛行隊
1987年
(昭和62年)
11月10日~11日 千歳基地 航空総隊射爆撃戦技競技会 F-4EJ 第304飛行隊
F-15J 第203飛行隊
第204飛行隊
三沢基地 F-1 第8飛行隊
1988年
(昭和63年)
12月5日~7日 新田原基地 航空総隊射爆撃戦技競技会 F-4EJ 第302飛行隊
F-15J 第204飛行隊
三沢基地 F-1 第8飛行隊
1989年
(平成元年)
11月6日~9日 小松基地 航空総隊射爆撃戦技競技会 F-4EJ 悪天候により競技会中止
F-15J
千歳基地 F-1
1990年
(平成02年)
9月10日~14日 千歳基地 航空総隊射爆撃戦技競技会
第1部門空対空射撃
F-4EJ
F-4EJ改
第305飛行隊
F-15J 第202飛行隊
9月10日~11日 三沢基地 航空総隊射爆撃戦技競技会
第2部門空対地射撃及び精密戦闘航法
F-1 第3飛行隊
1991年
(平成03年)
競技会未実施。
1992年
(平成04年)
7月20日~23日 小松基地 航空総隊戦技競技会
第1部門組織戦闘
F-4EJ 第305飛行隊
F-4EJ改 第301飛行隊
F-15J 第303飛行隊
7月7日~9日 三沢基地 航空総隊戦技競技会
第2部門空対地射爆撃
F-1 第3飛行隊
1993年
(平成05年)
競技会未実施。
1994年
(平成06年)
5月31日~6月2日 千歳基地 航空総隊戦技競技会
ACM部門
F-4EJ改 第302飛行隊
F-15J 第305飛行隊
F-1 第8飛行隊
三沢基地 航空総隊戦技競技会
FS部門
第3飛行隊
6月13日~17日 小松基地 航空総隊戦技競技会
FI部門
F-4EJ 第306飛行隊
F-15J 第201飛行隊
第203飛行隊
1998年
(平成10年)
5月26日~6月3日 千歳基地 航空総隊戦技競技会
FI部門
F-4EJ改 第302飛行隊[2] FI部門にF-4EJ改初参加。競技空域はFI部門が北海道西側のC空域、FS部門が天ケ森射爆場で、競技種目はFI部門が4対4のACM、FS部門が対地攻撃及び戦闘精密航法[2]
F-15J 第306飛行隊[2]
三沢基地 航空総隊戦技競技会
FS部門
F-1
F-4EJ改
第6飛行隊[2]
1999年
(平成11年)
5月21日~6月5日 小松基地 航空総隊戦技競技会
FI部門
F-4EJ改 第301飛行隊[6] 競技空域はFI部門が小松基地沖G空域、FS部門が天ケ森射爆場で、競技種目はFI部門が2対2のACM、FS部門が対地攻撃及び戦闘精密航法。FS部門では訓練爆弾投下に加え、2年ぶりに機関砲による対地射撃が復活[6]
F-15J 第304飛行隊[6]
三沢基地 航空総隊戦技競技会
FS部門
F-1
F-4EJ改
第3飛行隊[6]
2000年
(平成12年)
6月13日~16日 千歳基地 航空総隊戦技競技会
FI部門
F-4EJ改 第301飛行隊[5] 競技空域は青森県東方沖のB空域で、競技種目はFI部門が援護戦闘、FS部門が航空阻止[5]
F-15J 悪天候により競技中止[5]
三沢基地 航空総隊戦技競技会
FS部門
F-1
F-4EJ改
第3飛行隊[6]
2001年
(平成13年)
5月21日~29日 小松基地 航空総隊戦技競技会
FI部門
F-4EJ改 第302飛行隊[7] 競技空域は小松基地沖G空域、競技種目は2対2のACM。F-15部門は第203飛行隊と第305飛行隊の同点優勝。FS部門は開催見送り[7]
F-15J 第203飛行隊
第305飛行隊[7]
2002年
(平成14年)
5月20日~23日 小松基地 航空総隊戦技競技会
FI部門
F-4EJ改 第301飛行隊[8] 競技空域は小松基地沖G空域、競技種目は4対6の対多数機戦闘。FS部門は未開催[8]
F-15J 第305飛行隊[8]
2003年
(平成15年)
7月14日~16日 小松基地 航空総隊戦技競技会
FI部門
F-4EJ改 第8飛行隊[9] 競技空域は小松基地沖G空域、競技種目は2対2のACM。第201、第203飛行隊が参加見送り。FS部門は未開催[9]
F-15J 第305飛行隊[9]
2004年
(平成16年)
6月1日~3日 新田原基地 航空総隊戦技競技会
FI部門
F-4EJ改 第302飛行隊[10] 競技空域はF-4部門が四国沖L空域及び九州西方沖P空域、F-15部門が小松基地沖G空域。競技種目は2対3のACM。第204、第305飛行隊が参加見送り。FS部門は未開催[10]
5月24日~26日 小松基地 F-15J 第303飛行隊[10]
2005年
(平成17年)
競技会未実施。
2006年
(平成18年)
10月10日~13日 新田原基地 航空総隊戦技競技会
FI部門
F-4EJ改 第302飛行隊[11] 競技空域はF-4部門が四国沖L空域、F-15部門が小松基地沖G空域。競技種目は2対1+1のACM。FS部門は未開催[11]
10月16日~20日 小松基地 F-15J 第204飛行隊[11]
2007年
(平成19年)
10月9日~12日 新田原基地 航空総隊戦技競技会
FI部門
F-4EJ改 第302飛行隊[12] 競技空域はF-4部門が四国沖L空域、F-15部門が小松基地沖G空域。競技種目はF-4部門が2対1+1のACM、F-15部門が2対2のACM。FS部門は未開催[12]
10月15日~17日 小松基地 F-15J 第304飛行隊[12]
2008年
(平成20年)
競技会未実施。
2009年
(平成21年)
5月26日~29日 新田原基地 航空総隊戦技競技会 F-4EJ改 悪天候により競技中止[13] 競技空域はF-2・F-4部門が四国沖L空域、F-15部門が小松基地沖G空域。競技種目はF-2・F-4部門が2対1のACM、F-15部門が2対1+1のACM。第8、第302飛行隊が参加見送り。F-4部門はオープン参加。本競技会よりF-2Aが初参加[13]
F-2A
5月29日~6月4日 小松基地 F-15J 第306飛行隊[13]
2010年
(平成22年)
5月24日~6月3日 千歳基地
三沢基地
航空総隊戦技競技会 F-2A
F-15J
第3飛行隊
第303飛行隊
中部防空管制群Bチーム[14]
競技空域はF-2・F-15部門が北海道沖B空域、F-4・F-2部門が四国沖L空域で、競技種目は戦術戦闘。第305飛行隊が参加見送り。F-4部門でのF-2飛行隊はオープン参加[14][15]
9月10日~14日 新田原基地 F-4EJ改
F-2A
第302飛行隊
中部防空管制群チーム[15]
2011年
(平成23年)
競技会未実施。
2012年
(平成24年)
競技会未実施。
2013年
(平成25年)
9月24日~27日 百里基地 航空総隊戦技競技会 F-4EJ改 第302飛行隊[16] 競技空域はF-4・F-15部門は百里基地沖E空域、F-2部門は北海道沖B空域。競技種目は2対2のACM[16]
9月30日~10月4日 F-15J 悪天候により競技中止[16]
10月7日~10月10日 三沢基地 F-2A 第6飛行隊[16]

救難部門[編集]

航空救難団では、飛行群レベルで救助技術向上を目的に救難競技会が行われていたが、救難隊での組織的な競技会は2006年(平成18年)から始まった[17]

救難部門の戦技競技会では、想定された災害派遣状況における的確な状況把握及び対処を目的とした「指揮所活動」、飛行前点検と故障探求における航空機の稼働率向上を目的とした「部隊整備活動」、一定時間内での航空機による遭難者の捜索救助を目的とした「捜索救助活動」の3部門を統括して行われ、各部門の総合評価で優勝部隊が決まる[17][18][19]

参加する救難隊は人員のみの参加で、競技会で使用する機体は競技会開催基地所属の救難隊がホストユニットとして提供していたが、後の競技会から各参加部隊が機体を提供して競技時に共用する形となり、ホストユニットは整備等の支援を担当するようになった[20]。また、開催当初は戦闘機部門同様、前回の競技会参加者は原則として次回の競技会には出場できないことになっていたが[18]、平成22年度競技会から連続参加が可能となった[21]

歴代戦技競技会(救難部門)優勝救難隊一覧
開催年度 日程 開催基地 競技種目 機種 優勝飛行隊 備考
2006年
(平成18年)
9月7日~12日 小松基地 第1回航空救難団救難戦技競技会 MU-2
U-125A
KV-107
UH-60J
秋田救難隊[17] ホストユニットとなった小松救難隊は競技不参加。
2008年
(平成20年)
2月1日~7日 百里基地 第2回航空救難団救難戦技競技会 U-125A
UH-60J
浜松救難隊[18] ホストユニットとなった百里救難隊は競技不参加。
2008年
(平成20年)
9月22日~28日 千歳基地 第3回航空救難団救難戦技競技会 U-125A
UH-60J
新潟救難隊[22] 本競技会からホストユニットも競技に参加。
2009年
(平成21年)
6月15日~22日 小松基地 第4回航空救難団救難戦技競技会 U-125A
UH-60J
新潟救難隊[20] 新潟救難隊が二連覇。
2010年
(平成22年)
10月18日~24日 百里基地 第5回航空救難団救難戦技競技会 U-125A
UH-60J
百里救難隊[21] 本競技会から競技参加者の連続参加が可能[21]
2012年
(平成24年)
10月5日~12日 千歳基地 第6回航空救難団救難戦技競技会 U-125A
UH-60J
芦屋救難隊[19]

空輸部門[編集]

航空救難団の全ヘリコプター空輸隊が「指揮所活動競技」、「整備競技」、「飛行競技」の3部門で競う。

歴代戦技競技会(空輸部門)優勝救難隊一覧
開催年度 日程 開催基地 競技種目 機種 優勝飛行隊 備考
2005年
(平成17年)
9月27日 那覇基地 平成17年度航空救難団空輸戦技競技会 CH-47J
2008年
(平成20年)
12月8日~12日 入間基地
峯岡山分屯基地
平成20年度航空救難団空輸戦技競技会 CH-47J 三沢ヘリコプター空輸隊[23]
2009年
(平成21年)
10月5日~8日 三沢基地
八雲分屯基地
平成21年度航空救難団空輸戦技競技会 CH-47J 入間ヘリコプター空輸隊[24]
2017年
(平成29年)
3月1日~2日 入間基地 平成28年度航空救難団空輸戦技競技会 CH-47J 那覇ヘリコプター空輸隊[25]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ 平成25年度 航空総隊戦技競技会の実施のお知らせ - 北海道千歳市公式ホームページ - City of Chitose
  2. ^ a b c d e f g h i j k イカロス出版 Jwing No.1 1998年9月号 43頁-59頁 「特集 戦競の真実」
  3. ^ a b 酣燈社 別冊航空情報 戦競98 航空自衛隊戦技競技会 18頁-28頁 「38年目の戦技競技会」坪田敦史
  4. ^ a b c 大日本絵画 月刊モデルグラフィックス2月号別冊 戦競1988 航空自衛隊昭和63年度航空総隊戦技競技会 68頁-70 「戦競史 航空総隊戦技競技会28年の歩み」
  5. ^ a b c d イカロス出版 Jwing No.25 2000年9月号 18頁-25頁 「平成12年度航空総隊戦技競技会」松崎豊一
  6. ^ a b c d e イカロス出版 Jwing No.12 1999年8月号 38頁-43頁 「戦競'99、今年の勝者はだれだ?」松崎豊一
  7. ^ a b c イカロス出版 Jwing No.36 2001年8月号 14頁-26頁 「戦闘機パイロットが最強の腕を競う!戦競01」
  8. ^ a b c イカロス出版 Jwing No.48 2002年8月号 18頁-37頁 「日本最強の戦闘機部隊はどこだ!? 平成14年度航空総隊戦技競技会実施!」松崎豊一
  9. ^ a b c イカロス出版 Jwing No.62 2003年10月号 7頁-16頁 「平成15年度航空総隊戦技競技会」松崎豊一
  10. ^ a b c イカロス出版 Jwing No.72 2004年8月号 19頁-33頁 「平成16年度航空総隊戦技競技会」坪田敦史
  11. ^ a b c イカロス出版 Jwing No.101 2007年1月号 4頁-29頁 「戦競&飛行教導隊 総力レポート・2006戦競!!」洲﨑秀憲
  12. ^ a b c イカロス出版 Jwing No.113 2008年1月号 4頁-18頁 「戦技競技会2007」洲﨑秀憲
  13. ^ a b c イカロス出版 Jwing No.132 2009年8月号 4頁-19頁 「祝・F-2初参加!"最強戦闘機部隊"を決するファイターたちの熱いバトル 戦技競技会2009」坪田敦史
  14. ^ a b イカロス出版 Jwing No.144 2010年8月号 4頁-25頁 「初対決!F-15&F-2VS飛行教導隊 平成22年度航空総隊戦技競技会」坪田敦史
  15. ^ a b イカロス出版 Jwing No.148 2010年12月号 12頁-17頁 「3年ぶりの頂上決戦!!F-4戦競」石原肇
  16. ^ a b c d イカロス出版 Jwing No.184 2013年12月号 6頁-17頁 「戦競2013」中井俊治
  17. ^ a b c イカロス出版 Jwing No.100 2006年12月号 82頁 「平成18年度航空救難団戦技競技会救難部門」中井俊治
  18. ^ a b c イカロス出版 Jwing No.117 2008年5月号 32頁-33頁 「第2回航空救難団戦技競技会」大石真裕
  19. ^ a b イカロス出版 Jwing No.173 2013年1月号 91頁 「行くぞ!NEWSマン 自衛隊NEWS」
  20. ^ a b イカロス出版 Jwing No.133 2009年9月号 14頁-15頁 「第4回航空自衛隊航空救難団救難戦技競技会」赤塚聡
  21. ^ a b c イカロス出版 Jwing No.149 2011年1月号 16頁-17頁 「平成22年度航空救難団救難戦技競技会」中野耕志
  22. ^ イカロス出版 Jwing No.124 2008年12月号 30頁-31頁 「第3回航空救難団救難戦技競技会」品川陽二
  23. ^ イカロス出版 Jwing No.126 2009年2月号 29頁 「平成20年度航空救難団空輸戦技競技会」鈴崎利治
  24. ^ イカロス出版 Jwing No.137 2010年1月号 123頁 「行くぞ!NEWSマン 自衛隊NEWS」
  25. ^ イカロス出版 Jwing No.225 2017年5月号 60頁-61頁 「航空自衛隊輸送ヘリ部隊の戦い! 平成28年度航空救難団空輸戦技競技会」大石真裕