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摩多羅神

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
牛祭の摩多羅神(都年中行事画帖 1928年)

摩多羅神(またらじん)は、密教、特に天台宗玄旨帰命壇における本尊で、阿弥陀経および念仏守護神ともされる。

概要

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摩多羅神の祭祀は、平安時代末から鎌倉時代における天台の恵檀二流によるもので、特に檀那流の玄旨帰命壇の成立時と同時期と考えられる。

この神は、丁禮多(ていれいた)・爾子多(にした)の二童子と共に三尊からなり、これは三毒煩悩の象徴とされ、衆生の煩悩身がそのまま本覚法身の妙体であることを示しているとされる。

室町時代の多武峰の修正会延年においては「ヤマタラ神ハ仏カナ」「ヤホトケカマイレハ願ヲミテ給フ」などの「摩多羅神拍子」が歌われた。

江戸時代までは、天台宗における灌頂の際に祀られていた。民間信仰においては、大黒天マハーカーラ)などと習合し、福徳神とされることもある。更に荼枳尼天を制御するものとして病気治療・延命の祈祷としての「能延六月法」に関連付けられることもあった[1]。また一説には、広隆寺の牛祭の祭神は、源信僧都が念仏の守護神としてこの神を勧請して祀ったとされる。

服部幸雄は、宿神である秦河勝の実体は摩多羅神であるという論を展開し、摩多羅神と秦河勝は同一視できると主張した[2]

曽根原理は、玄旨帰命壇で説かれる「一心三観=無である」という論を重視し、摩多羅神を信奉する乗因などのいわゆる「異端派」が、それに反対する霊空などの「正統派(安楽律派)」と対立し、それゆえに摩多羅神が弾圧されたかのように見えたと主張した[3]

しかし実際は、「正統派(安楽律派)」の中で権僧都に昇り執当に任じられた真如院覚深は『摩多羅神私考』の中で「摩多羅神は(崇神天皇紀の大物主神のように)行疫神であり国家守護の神である」と述べている上、寛永寺貫主公弁法親王に重用され大僧正に昇った鶏足山覚深も『摩多羅神行要記』の中で同様の旨を述べており、摩多羅神自体が弾圧されていたという事実は存在しない[3]

また、妙法院では18世紀になっても摩多羅神が信仰されていたことが掛軸により判明している。玄玄院堯憲からの付法を妙法院門跡であった堯恕法親王が書き留めた『帰命壇聞書』には、中世の玄旨帰命壇や摩多羅神信仰の様子が色濃く残されている。妙法院には、寛永寺とは異なり、伝統教学に基づく玄旨帰命壇・摩多羅神観が存在していたと考えられる[3]

なお、真如院の摩多羅神図について、『諸抄記』に

  • 長三尺巾一尺五寸程、絹地にて中古表せしものと見ゆ。
  • 烏帽子狩衣様の服、共に俗士なり、中の上位の俗士(摩多羅神とされる)は口の上下共にあり、下の俗士向って右は口の上にあり、左手に竹枝をもち、右手に杓を持つ。向つて左はなし、左手に皷を持ち右の手にて打たんとす。面して上段の俗士は静止して鼓を打つ。下段の二士は共に舞ふ相なり。下の俗士は童男女にあらす。赤、此画には星の図なし茗荷なし、又、狩衣の模様はなでしこの繪なり、『鹽尻』に出づるものと異なれり。

とある[4]

資料に見える摩多羅神

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摩多羅神についての記述が初めて見えるのは、守覚法親王が記した『北院御室拾要集』である。それによると、空海が亡くなった後、檜尾僧都(実恵)が東寺の「西御堂」を継承した際に摩多羅神像が付属していたという。この摩多羅神の神格については、法親王は「奇神」であり「夜叉神」であり、「吉凶を告げる神」であると説明している。また、神像の造形は三面六臂であり、中央の顔は金、左の顔は白、右の顔は赤であったとしている。加えて、中央は聖天(歓喜天)、左は荼枳尼天、右は弁財天を表しているとする。儀式については、毎月15日に供物をすると、神の慈悲によって災いが除かれ福が与えられるという。さらに、『天長御記』という書物から引用する形で、「東寺の守護天(法親王は摩多羅神のことだと考えていた)」は稲荷神の使者であり、菩提心の使者であったと述べている[注釈 1]

鎌倉時代末期に光宗によって記された『渓嵐拾葉集』第39「常行堂摩多羅神の事」では、天台宗円仁から五会念仏の行法を相伝しての帰途、船の虚空に声が聞こえ、その声は「私は摩多羅神であり、障りをなす神である。私を祀らなければ往生の願いを成就させることはできない」と言ったという。これがきっかけとなり、常行堂には摩多羅神が祀られることになった。また、光宗は、摩多羅神とは摩詞迦羅天のことであり、荼枳尼天のことでもあるとしている。そして、荼枳尼天の事(肝を食べること)はまったくの秘事であり、常行堂の堂僧でさえ知らず、口にしてはならない大事であり、秘めて尊崇すべきであると述べている。加えて「一説には」という形で、摩多羅神とは摩詞迦羅天のことであり、それは経典の「能延六月法」が根拠となっているという。それによると、人間の臨終に際し、その精気を奪うため悪鬼がやってくるが、摩詞迦羅天はそれらを降伏せしめ、精気が奪われるのを防ぐ。これによって人間は臨終正念が得られるため、6ヶ月の間成し遂げられる秘法を思うべきである、としている[4][注釈 2]

月舟寿桂が記した『日本書紀神代巻抄』では、唐土の青龍寺の鎮守である金毘羅権現の父は素戔嗚尊であり、その別名が摩多羅神であると説かれている[5][注釈 3]

叡山真如蔵『玄旨灌頂私記』によると、「摩多羅」とはサンスクリット語であり、その意は「大日如来(大=人間の六大=地、水、火、風、空、識を、日=人間の六識を表す)」であるという。そして摩多羅神とは「六識ノ心王=(六識の心の主体)」であり、脇の二童子は「六識ノ麁細ノ心數(大小の六識の在り処)」を表す。また、摩多羅神が小鼓を鳴らすのは「細念の姿」を、舞うのは「麁強の念」を表しているという。一説には摩多羅神は「八識心王」を、丁令多は「七識ノ念」を、爾子多は「六識念」を表すという。他には、「摩多羅神ハカミカトヨ歩ヲハコベ皆人ノネガヒヲミテヌコトゾナキ」という歌が歌われたという[6]

玄旨帰命壇秘録集』には、玄旨帰命壇が摩多羅神を祀る際の手順やその意味が記されている[4][注釈 4]

定珍の口伝を記した『天台宗玄旨帰命壇伝記』には、本尊=摩多羅神は衆生の有様に対し大鼓を、細念ノ心數に小鼓を打つことで麁強の心所を囃し立て、「十二因縁の袖」を翻すと記されている。また、人間の「心水」が澄んでいれば、摩多羅神は人天の善趣に舞い出て、心水が濁っていれば、地獄の悪趣に舞い降りるとされる。故に、鬼畜の振る舞いも、仏果の荘厳も、「心念舞楽」の内にあり、三尊は迷いに約すれば三道の流転に、悟りに約すれば三徳の妙理に繋がるとされる。二童子が持つ植物のうち、茗荷は「周利槃特の愚鈍」や三毒を、竹は邪智や三観を、二つで迷悟の元にあることを表すという。一説には、茗荷と竹は最澄延暦寺根本中堂の庭前に植えたものであるとされ、茗荷は普賢菩薩の無分別の智を、竹は文殊菩薩の自受用の智を表すともいう[7]

実俊の『摩多羅神軌儀』によると、摩多羅神は「妙観察智・根本万法」の元の神であるとされ、かつその体は「元品無明」であるとされる。摩多羅神が錦装束や黒冠を着け歌を歌い鼓を打つと、二童子が立ち舞うという。その二童子は、であり肩に青色の錦を打ち懸け「弊零」を着る「丁禮多」と、仮であり赤色の錦を打ち懸ける「爾子多」であると説明される。二童子は倶に左手に茗荷を持ち「指々利子爾子々利指(理体惣持の梵語)」、右手に竹葉を持ち「蘇々呂蘇蘇爾ソソロ蘇(智慧惣持の梵語)」と歌う。中間にいる摩多羅神が座り鼓を打つのは、「十波羅蜜の鼓」を打ち、「十界を舞」い、「二徳」を施すことを表しているとされる[8]

覚深の『摩多羅神私考』によると、天海日光山東照三所を祀り天下泰平を祈ったという。そして、東照三所のうち山王権現のことは世に知られているが、摩多羅神のことは天竺の神なのか、中国の神なのか、日本の神なのかも知られていないとし、尤もであると述べている。また、幾つかの経典には摩多羅神の名前が現れるものの、その意は伝えられることなく、三昧耶形も知られていないと摩多羅神の当時の状況を説いている。加えて、覚深は大日義疏第十一巻に登場し、真言宗の杲宝七母天の1人であるとした「忙怛哩天」を摩多羅神と関係があるとした。また、誰のものか不明としながらも、「摩多羅神と摩怛哩神は同一である」、「疏第五巻の『七摩怛哩』は七母と訳され、その真言は『摩怛哩弊也(またりびと)』である」という説を紹介し、肯定している。 覚深は他にも

    • 摩多羅神は天竺の神で胎蔵界曼荼羅の中にもいる密乗の神である。
    • 摩怛哩と摩怛羅を同一視するのは牽強付会であると言われるが、出雲鰐淵寺の伝説(覚深の記述から大黒天や七母天に関するものであったと思われる)や、「摩多羅神は一ではなく『衆多の義』である」故に七母天などと同一であったのは明らかである。
    • 摩多羅神の本地は阿弥陀如来である。
    • 摩多羅神は行疫神であり一切の人に大疫を齎すが、天下泰平・子孫繁昌を祈るならこの神に如く存在はいない。
    • 無道の人が国家を乱し万民を苦しめる時は摩多羅神が流行神となり大疫を以って天下泰平を齎すが、それは摩多羅神自身の徳ではなく大日如来の一部であるからであり、徳がないとはいえ摩多羅神は疑うべき存在ではない。

と述べている[9]

寛保年間に記された『顕密威儀便覧続編』では、摩多羅神及びその祭礼について、摩多羅神は時代とともに神格が変化していると述べられている。また、唐土青龍寺の鎮守であり、金毘羅神の別名であるとしている。さらに、太秦広隆寺の護伽藍神中に摩多羅神像があると述べている。そして「或説」を引用する形で、其像(摩多羅神像)は炎魔王に二腎があり、左手に鼓を持ち、右手に「三股を安じ」ているという。これを蓮華光院と「殊る」という。加えて、「伝」によると、摩多羅神は念仏守護の存在であり、称名念仏の人を導き、導いた人々を楽邦(浄土)に送り、蓮台に坐せしむるという。またその徳化であるともする。

天海の『唯授一人灌頂私記』では、摩都羅神は「大日」のことであるとし、「大とは六大=定、日とは六識=恵」であり、「迷悟一体・本迹不二・無始無極の神僧」であると説かれる。

乗因の『東叡山縁起』によると、摩多羅神は最澄が勧請し、玄旨帰命壇の本尊であり、天海が東照三所権現の1つとして崇めたことが記されており、さらにそれに続く朱引部分には、「摩多羅神を貶す『僻僧(=霊空光謙などの安楽律派)』がおり、彼等は『摩多羅神の存在の根拠は中国に見られない」』と主張しているが、重視すべきなのは異朝ではなく本朝での習合である。」と記されている。ただ、『東叡山縁起』と同じ記述を持つ『東叡山諸堂建立記』、『東叡山記』、『東叡山仏閣神社宗廟記』には朱引部分が全て欠落しており、この部分は本来の伝承には存在せず、勧善院乗因が新たに付加したと考えられる[3]

同じく乗因が彼の最晩年に記した『金剛㡧』によると、『金光明経』懺悔品の信相菩薩の夢に現れた婆羅門は『摩訶止観』に説かれる「夢王(懺悔の深さを保証する神)」であり、即ち摩多羅神であるとする。

甲子夜話』には、ある人が下谷新寺町にあった松前氏の邸の屋根の上に、烏帽子を戴き浄衣を着て、風詠しているのを見つけ、それが摩多羅神であったという話がある。

天野信景の『塩尻』では、常行三昧堂常行堂)の守護神(現代では俗に「後戸の神」と呼ばれる)として知られる[10]

形象

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一般的にこの神の形象は、主神は頭に唐制の頭巾(『空華叢書』によれば幞頭)を被り、服は和風の狩衣姿、左手に、右手でこれを打つ姿として描かれる。また左右の丁禮多・爾子多のニ童子は、頭に風折烏帽子、右手に竹、あるいは、左手に茗荷を持って舞う姿をしている。また中尊の両脇にも竹と茗荷があり、頂上には雲があり、その中に北斗七星が描かれる。これを摩多羅神の曼陀羅という。

清水寺には、嘉暦4年(1329)に仏師南都方法橋覚清が清水寺常行堂の摩多羅大明神として造ったいわゆる「木造摩多羅神坐像覚清作」があった。摩多羅神像の現存最古の作例で、大黒天や禅宗伽藍神と近似しているとされる。

祭礼

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この神の祭礼としては、京都太秦広隆寺の牛祭、岩手県平泉毛越寺延年(二十日夜祭)、茨城県雨引観音マダラ鬼神祭が知られる。

牛祭

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牛祭(都年中行事画帖 1928年)

太秦の牛祭(うしまつり)は京の三大奇祭の一つに挙げられる。明治以前は旧暦9月12日の夜半、広隆寺の境内社であった大酒神社の祭りとして執り行われていた。明治に入りしばらく中断していたが、広隆寺の祭りとして復興してからは新暦10月12日に行われるようになった。

広隆寺大略縁起』によれば、三条天皇の御代、長和元年9月11日に比叡山恵心僧都(源信)が声明念仏を行なっていたところ、仏法の守護神である摩多羅神から「この法会は末世まで絶やしてはならない」と夢のお告げがあり、恵心は翌日の12日に祭文を書き、摩多羅神の祭祀(「祭礼無双の儀式」と本文中では呼ばれる)を行った。その祭祀は、神主が牛に乗っているので「牛祭」と呼ばれるようになったという。祭文の意趣は、神明の威風によって年中の災禍を払い、天下を太平にし、君は長寿を得、民を安穏とするというものである、と説明される。

都名所図会』によれば、毎年9月12日の夜、戊の刻に牛祭の神事があり、広隆寺の僧侶五人が五尊の形を表し、異形の面をかけ、風流の冠を着し、太刀を侃き、一人は幣を掲げて牛に乗り、四人は前後を囲み、従者は松明をふり立て、行列をなして本堂の傍から後ろに巡り、西側から祖師堂の前の檀上に登り祭文を読んだという。祭文の文法は古代のもので奇怪であったため、耳を驚かさない人はいなかったという。

牛祭の祭文

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夫れ以れば、性を乾坤の気にうけ、徳を陰陽の間に保ち、信を専にして仏に仕え、慎を致して神を敬ひ、天尊地卑の礼を知り、是非得失の品を弁ふる、これ偏へに神明の広恩なり。茲に因つて単微の幣帛を捧げて、敬みて以って摩吒羅神に奉上す。豈神の恩を蒙らざるべけんや。弦に因て四番大衆等、一心の懇切を抽でて十抄の儀式を学び、万人の逸興を催すを以て自ら神明の法楽に備へ、諸衆の感嘆を成すを以て、暗に神の納受を知らんとなり。然る間に柊槌頭に木冠を戴き、銀平足に旧鼻高を絡げつけ、緘牛に荷鞍を置き、痩馬に鈴を付けて馳るもあり。踊るもあり。跳ねるもあり。偏に百鬼夜行に異ならず。如是等の振舞を以て、摩吒羅神を敬祭し奉る事、偏に天下安穏、寺家安泰のためなり。因て永く遠く拂ひ退くべきものなり。先は三面の僧坊の中に忍び入りて、物取る銭盗人め、奇怪すわいふはいやふ童ども、木木のなり物ならんとて明り障子打破る。骨なき法師頭も危くぞ覚ゆる。堵は、あだ腹、頓病、すはふき、疔瘡、ようせふ、閘風。ここには尻瘡、蟲かさ、うみかさ、あふみ瘡、冬に向かへる大あかがり、竝にひひいかひ病、鼻たり、おこり、心地具つちさはり、傳死病。しかのみならず、鐘鏤法華堂のかはづるみ、讒言仲人、いさかひ合の仲間口、貧苦界の入たけり、無能女の隣ありき、又は堂塔の檜皮喰ひぬく大鳥小鳥め、聖教破る大鼠、小鼠め、田の嚋穿つ土豹、此の如き奴原に於ては、永く遠く根の国底の国まで払ひ退くべきものなり。敬白謹上再拜。[11]

牛祭はかつて毎年10月12日に行われていたが、現在は牛の調達が困難のため不定期開催となっており、特に近年では暫く実施されておらず今後も再開の見通しもたっていない。

摩多羅神を祀る寺社

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上記の他に「摩怛利神」が北関東一帯に多く祀られているが、摩多羅神と同一神であるかそうでないかは未だ不明。

脚注

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  1. ^ 異神 中世日本の秘教的世界[要ページ番号]
  2. ^ 服部幸雄『宿神論―日本芸能民信仰の研究』(岩波書店、2009年)p.47,58 ISBN 978-4-000-23459-7
  3. ^ a b c d 『徳川時代の異端的宗教』.
  4. ^ a b c 『日本天台史 別冊』.
  5. ^ 原克昭 2017.
  6. ^ 『玄旨灌頂私記』(上杉文秀編纂『日本天台史』別冊)
  7. ^ 『天台宗玄旨帰命壇伝記』(上杉文秀編纂『日本天台史』別冊)
  8. ^ 『摩多羅神軌儀』(上杉文秀編纂『日本天台史』別冊)
  9. ^ 『摩多羅神私考』(上杉文秀編纂『日本天台史』別冊)
  10. ^ 「此の神、密部諸経儀軌に云ふ阿弥陀教令輪身にして常行三昧の時の守護神たり。故に台徒尊ひあへり」天野信景『塩尻』
  11. ^ 「太秦広隆寺牛祭祭文」『大日本仏教全書』119
  1. ^ 『北院御室拾要集』「大師御入定後、於西御堂授檜尾僧都給条々有之。摩多羅神其一也。大師云、此寺有奇神名夜叉神。摩多羅神則是也。持者告吉凶神也。其形三面六臂。云云。彼三面者三天也。中面金色、左面白色、右面赤色也。中聖天、左吒吉尼、右弁才也。毎日十五日可供之。此神具。大慈悲不生怨害、除災与福。『天長御記』曰、東寺有守護天等、稲荷明神使者也。名大菩提心使者神。云々。」
  2. ^ 常行堂摩多羅神事。示云、覺大師大唐より引聲念佛御相傳アテ帰朝の時、船中ニ於テ虚空ニ聲アリ告テ曰く、我ハ名摩密神ト、即障碍神我ヲ崇敬セサル者往生ノ素懐ヲ遂グヘカラストいへり。仍て常行堂に勧請せらるる也云々。摩多羅神、即摩訶羅天是亦是託枳尼也、彼天本誓云、欲臨絶時我行彼處食肝屍故得臨終正念若我不食、肝者不得正念不遂往生といへり。此事随分秘事。人都不知事にされは彼堂僧等尚不知、況餘人をや。不可口外大事也。可秘二勝秘二勝耳。又一義云、摩多羅神は摩訶迦羅是能延六月ノ祕事に是天一切衆生の精氣を奪摩訶迦羅天降伏之除奪精鬼難仍臨終正念六月成就秘法可思之。
  3. ^ 一書曰。素戔鳴尊所行無状到新羅国(中略)(伝教)大師帰叡山時ニ大ナル杉ニ有三光。認其光行、則今ノ日吉ノ宮地辺也。其ヨリ渡唐スルゾ。帰朝無為ニトハ唐土青龍寺ノ鎮守ニ禱也。其鎮守乃金毘羅神ノ父素戔鳴也。 又号摩多羅神也。金毘羅神ハ此ハ何神ト問ヘバ、三輪金光神ト答也。サテハ前ノ三光ハ此神ニテアルゾト悟ゾ。帰朝セバ為仏法可敬之ト思テ、其影響ノ地ニ立ツルハ、今ノ大宮権現也。大宮ハ即三輪明神也。三国伝来仏法 擁護之神也。(中略)弘法大師渡唐時、大唐ニテ青龍寺鎮守ニ伝法ヲ禱也。其鎮守ハ素戔鳴尊也。仏法東漸、則吾国立廟可為鎮守ト云ゾ。帰朝ノ後ニ上ノ醍醐ト下ノ醍醐トニ清瀧トテ立廟ゾ。清瀧ハ青龍二字ニ加水也。慈覚大 師渡唐、為求法禱于青龍鎮守。帰朝之後、所建西坂ノ赤山権現也。赤山即素戔鳴也。智証大師入唐シテ帰朝之日、至新羅国。有神于舟中。問之、青 龍寺鎮守也。乃素戔鳴尊也。三井之社、号新羅大明神也。
  4. ^ 次西方本摩多羅神ノ寳前師資俱ニ詣ス。次師示云、西方ハ本地ノ方ナルニ垂迹ノ神明ナリ。奉安置、事ハ還テ此本尊ノ深義幷奧旨ヲ爲顯也。次ニ本地 ノ相貌ハ帰命壇ノ演說也。而ルニ此本尊ハ俗形ニテ持鼓シ玉ヘリ。二童子ハ歌舞ノ形也、左、丁禮多童子、假也、定也、右、爾子多童子、空也、惠也、是即一心三觀を尊形ニ顯シ玉ヘリ。摩都羅神ハ神語示云シツシリシツシリシ ササラサニササラサ又云、此尊ハ天台佛法擁護ノ靈神也、故ニ根本大師御在唐之時於天童山、此神明ニ値遇シ給ヘリ。 (中略)又云、此神明ヲ大日ト號ス可有意趣也。 又云、殊更此神誓テ曰、吾是不住天ニモ不住地、但住一切衆生心域、心城即法界ナル故ニ遍一切處住ナリト於此寶前檀那一流ノ奥旨ヲ究竟スル故ニ 師資ノ觀念一大事也、故ニ先哲各絕。口說何況末派ノ頑魯ニ於テヲヤ、穴賢。

参考文献

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関連文献

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関連項目

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