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島津久元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
新納忠在から転送)
 
島津久元
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正9年4月22日1581年5月24日
死没 寛永20年6月13日1643年7月28日
改名 信竜丸(幼名)→新納忠在→島津久元
別名 通称:新八郎
戒名 鉄心宗昆大居士
墓所 宮之城大道寺
官位 近江下野
主君 義弘家久光久
薩摩藩
氏族 島津氏新納氏→島津宮之城家
父母 父:島津忠長、母:島津忠将次女
養父:新納忠真
兄弟 島津豊久室(後町田久幸室)、忠倍久元敷根頼幸
正室:新納忠増
継室:御下(島津義弘次女)
久通佐多忠治正室、基多村久茂
島津久基室、久近
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島津 久元(しまづ ひさもと)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将薩摩国島津氏の家臣、薩摩藩家老

生涯

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島津忠長の次男として誕生した。新納四郎忠真の養子となり新納近江守忠在と称する。慶長4年(1599年)の庄内の乱慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにも、新納氏として従軍した。しかし、慶長14年(1609年)に兄・忠倍が32歳で死去すると、父・忠長の願いにより新納氏を去って父の家督を相続、以後より島津下野守久元と称した。また、翌慶長15年(1610年)には地頭であった馬越(現・鹿児島県伊佐市)から宮之城(現・鹿児島県薩摩郡さつま町宮之城)へと移り、同年11月の父の死去に伴い、その翌年には父の在所であった鹿児島(現・鹿児島市)へと移った。

元和4年(1618年)に主君・家久(忠恒)の家老となる。元和7年(1621年)、主君・家久の命で、正室であった新納忠増の娘と離縁させられ家久の妹(島津義弘の次女)・御下を娶る[1][2]

寛永元年(1624年)に家久の嫡子・光久元服すると、その理髪役となる。寛永9年(1632年)に加藤忠広肥後国より改易となった際は、万一の加藤氏側の反抗に備え、460人を率いて出張している。寛永14年(1637年)の島原の乱では、病の家久に代わり出征する光久の供をし、家久死後も光久の家老を務めた。

寛永20年(1643年)に死去した。享年63。

脚注

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参考文献

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  • 本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会)