島津久元
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(新納忠在から転送)
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正9年4月22日(1581年5月24日) |
死没 | 寛永20年6月13日(1643年7月28日) |
改名 | 信竜丸(幼名)→新納忠在→島津久元 |
別名 | 通称:新八郎 |
戒名 | 鉄心宗昆大居士 |
墓所 | 宮之城大道寺 |
官位 | 近江守、下野守 |
主君 | 義弘→家久→光久 |
藩 | 薩摩藩 |
氏族 | 島津氏→新納氏→島津宮之城家 |
父母 |
父:島津忠長、母:島津忠将次女 養父:新納忠真 |
兄弟 | 島津豊久室(後町田久幸室)、忠倍、久元、敷根頼幸 |
妻 |
正室:新納忠増娘 継室:御下(島津義弘次女) |
子 |
久通、佐多忠治正室、基多村久茂、 島津久基室、久近 |
島津 久元(しまづ ひさもと)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。薩摩国島津氏の家臣、薩摩藩の家老。
生涯
[編集]島津忠長の次男として誕生した。新納四郎忠真の養子となり新納近江守忠在と称する。慶長4年(1599年)の庄内の乱や慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにも、新納氏として従軍した。しかし、慶長14年(1609年)に兄・忠倍が32歳で死去すると、父・忠長の願いにより新納氏を去って父の家督を相続、以後より島津下野守久元と称した。また、翌慶長15年(1610年)には地頭であった馬越(現・鹿児島県伊佐市)から宮之城(現・鹿児島県薩摩郡さつま町宮之城)へと移り、同年11月の父の死去に伴い、その翌年には父の在所であった鹿児島(現・鹿児島市)へと移った。
元和4年(1618年)に主君・家久(忠恒)の家老となる。元和7年(1621年)、主君・家久の命で、正室であった新納忠増の娘と離縁させられ家久の妹(島津義弘の次女)・御下を娶る[1][2]。
寛永元年(1624年)に家久の嫡子・光久が元服すると、その理髪役となる。寛永9年(1632年)に加藤忠広が肥後国より改易となった際は、万一の加藤氏側の反抗に備え、460人を率いて出張している。寛永14年(1637年)の島原の乱では、病の家久に代わり出征する光久の供をし、家久死後も光久の家老を務めた。
寛永20年(1643年)に死去した。享年63。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会)