コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

国鉄103系電車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。114.183.139.171 (会話) による 2010年12月23日 (木) 12:03個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎JR西日本: 延命工事まで大幅に加筆修正)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。


国鉄103系電車
クハ103-248
量産冷房・延命N40改造車
2005年1月10日 大阪環状線大正
主要諸元
軌間 1,067
電気方式 直流1,500V
最高運転速度 100
設計最高速度 100
起動加速度 2.0*1 -3.3*2
減速度(常用) 3.5
減速度(非常) 5.0
編成定員 48(席)+88(立)=136名 *3
54(席)+90(立)=144名 *4
最大寸法
(長・幅・高)
20,000 ×2,832 ×3,935 mm
台車 ウイングばね式コイルばね台車
DT33・TR201
主電動機 直流直巻電動機
MT55形 110kW×4基 / 両
駆動方式 中空軸平行カルダン駆動方式
制御装置 抵抗制御・直並列組合せ・弱め界磁
バーニア制御(地下鉄対応型)
制動装置 発電ブレーキ併用電磁直通ブレーキ
(応荷重装置付)
手ブレーキ
備考 *1 : 4M4T編成
*2 : 8M2T編成(1000番台)
*3 : 先頭車
*4 : 中間車
テンプレートを表示

国鉄103系電車(こくてつ103けいでんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が設計・製造した直流通勤形電車

国鉄通勤形電車として、当時の国鉄の財政・設備・保守などの各事情を考慮の上で経済性を最重視して設計され、1963年昭和38年)3月から1984年(昭和59年)1月までの21年間に3,447両が製造された。

また、本項ではインドネシアの鉄道会社 (PT. Kereta Api) に譲渡された車両についても記述する。

概要

基本的な構成は、国鉄初の新性能通勤電車で前作に当たる101系を基に101系をおおむね踏襲している。

  • 切妻形車体・3枚窓による運転台のシンプルなデザイン・1300mmの両開き4扉・扉間7人掛け車端部3人掛けのロングシート・コイルばね台車はウイングばね軸箱支持直巻整流子電動機を用いた抵抗制御・MM'ユニット方式

比較的駅間が短く、速度の低い線区での使用を目的として設計されているため、継続して高速運転を行う線区には不向きとされる。

  • 高速運転時を配慮して弱界磁を35%として設計したが、実効値は40%程度で100km/hまでの加速所要時間は2分程度かかる。
  • 京阪神緩行線など一部の線区では、設計どおりの35%になるように小改造を行い、高速性能を改善した車両も存在する。

本系列の設計は帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄東西線乗入用のアルミ製車両である301系の基本となったほか、地方私鉄買収電化路線用の105系飯田線用の119系国鉄分割民営化直前に行われた四国電化開業用の121系にも応用された。

新造車3,447両の他、20両が72系から、36両が101系からそれぞれ編入され、総数は3,503両となっているが、全車が同時に存在したことはない。

  • 奈良線和歌山線の電化開業および可部線新性能化用として0・1000番台から61両(JR化後に事故廃車補充用としてさらに1両追加)、仙石線在籍車両のうちの4両が短編成化による増発を目的にそれぞれ105系に改造されたほか、事故で早期に廃車となった車両も数両[1]あるため。

JRグループ発足時に、前述事故廃車2両と105系改造車65両を除いた3,436両が北海道旅客鉄道(JR北海道)と四国旅客鉄道(JR四国)を除く各旅客鉄道会社に引き継がれたが、同時期に製造された他系列の車両同様に老朽による新型車両への取り換えによって廃車が進行し、会社によっては全廃されている。

分割民営化時(1987年)と2010年現在の在籍両数比較
会社 東日本旅客鉄道
(JR東日本)
東海旅客鉄道
(JR東海)
西日本旅客鉄道
(JR西日本)
九州旅客鉄道
(JR九州)
総計
1987年 2,418両 70両 894両 54両 3,436両
2010年 0両 0両 430両 54両 484両

開発までの経緯

101系全電動車化計画と中止

1958年から中央線を皮切りに量産車の導入が開始された101系は、特急形急行形などと共通設計となる主電動機の歯数比を変更して使用し、これによる全電動車方式で高加速性能を実現することを前提に設計され、当時の典型的な高性能通勤電車の一つであった。

  • 設計理念は、変電所容量の増大や架線設備の強化をも要求するものであり、通勤五方面作戦など緊急性の高いラッシュ対策に追われていた当時の国鉄の財政状況やスケジュールに適合するものではなく[2]、中央線でも変電所容量の不足および電動車製造のコスト高から全電動車方式での運用を断念し、電動機を装備しない付随車の挿入が実施された。

本来は全電動車で運用することが前提で設計された101系では、以下の点で問題が発生した。

  • 電動車と付随車の比率(MT比)を変更し付随車を挿入することは、性能の大幅な低下を招いた。
  • 経済的観点からはMT比1:1での運用をしたいという要求も強かったが、定格出力100kWのMT46A形主電動機では、出力曲線と減速歯車の歯数比の関係で事実上これは不可能[3]

このためMT比1:1を実現してより低コストに、そして大量に量産しうる新型通勤電車が必要となった。(詳細は国鉄101系電車#計画の頓挫参照)。

新形通勤電車の要件

新形通勤電車の投入候補線区[4]
候補線区 検討
対象
平均駅間
距離 (km)
平均速度
(km/h)
中央緩行 1.27 39.6
総武 1.74 46.0
京浜東北 1.45 44.4
阪和 1.26 38.6
常磐 - 2.64 52.8
京阪神緩行 - 3.29 56.7

101系が設備面で能力低下を強いられたことから国鉄本社運転局では「通勤電車の問題点」を1960年(昭和35年)2月にまとめ、次期通勤電車に対する要望として経済的で大量生産できる車両を挙げた。

  • カルダン駆動による新性能車では初期の全M車を前提とする101系に代表されるグループを高性能車、MT比1:1を目指して経済性を追求する本系列に代表されるグループを高経済車と呼ぶことがある。
    • 私鉄各社でも高性能車から高経済車への移行が見られ、日本の鉄道史での大きな流れの一つであった。このように電動車比率を下げるためには、主電動機の設計を変更し1基当たりの定格出力を増強することで編成全体の出力を確保すると共に特に低速域での牽引力を向上することが必要となった。

101系では当初全M車編成で3.2km/h/sという高い加速度が目標[5]とされたが、6M4T化により2.0km/h/sの加速度と3.0km/h/sの減速度になった。

  • 新形通勤電車の投入候補線区のうち、次期車両の投入予定4線区(右表○印)に関して検討した結果、高加速度のメリットが大きくないことが明らかになってきた。
    • 輸送力向上のための運転時隔短縮が本来の目的であり、高加速度は駅間での運転速度を高めて閉塞区間を速く通過することで次の列車を早く通すという考え方に基づく要求だが、これを達成するためには実際には高減速度の方が重要ということが判明したため、2.0km/h/s程度の加速度にとどめ、むしろ3.5km/h/sという減速度を目指すことになった[6]

主電動機の設計

1960年(昭和35年)1月には101系の主電動機出力を120kWに増強した試験車による試運転を実施し、高出力・高回転型の電動機を検討したほか、同年3月には回生ブレーキ付の101系910番台を試作製造している。これらの試験結果と上記投入予定線区の特性を考慮した結果、高回転型であるMT46A形の出力増強型では目標とする性能が得られないことから、新形通勤電車用には低回転型110kWのMT55形が開発されることになった。

MT55形主電動機は、以下の要求される条件に対して制約無く運転できるような設計とした。

  • 主として8両編成でにお運転を想定しMT比1:1程度
  • 駅間距離が短く平均速度が比較的低い路線

投入予定線区で8両運転をすることを前提にして当時の主電動機を用いてシミュレーションを行った結果、MT55形は新形通勤電車用として最大の目標だった低消費電力を達成できただけでなく、以下のメリットが認められた。

  • 駆動時の発熱に余裕があるため将来のスピードアップにも耐えうる構造
  • 1パンタグラフあたりの集電電流が小さいので架線の温度上昇も防げる

このため、以後の通勤電車用主電動機として採用されることになった。

  • 回生ブレーキの採用は、製造時のコストが後のランニングコストの低減をはるかに上回る試算になったため見送られた[4]
101系との主電動機比較

8両編成でMT比1:1とすることを前提として計画されたが、1968年10月の山手線10両編成化の際には6M4TとなるためMT比が3:2となった。

  • 単純に編成出力だけを見れば101系の2,400kWに対し本系列は2,640kWと大きく、同条件下での101系10両編成 (6M4T) に比して変電所負担が過大になるという見方もあり[要出典]、「10両ならば103系は不要で101系でいい[7]」という意見も存在した。

実際の変電所負担に関わる電力消費に関しては、加速度が低い101系は本系列の加速度に合わせるためには起動時の限流値を高めなければならない問題がある。

  • 同様な駅間距離を持つ総武・中央緩行線における101系と本系列6M4T同士の試算では、以下のようになる。
    • 運転時分を同等とした場合の限流値は本系列で415Aに対し101系では480Aとなる[8]
  • 同試算によると101系に比べ本系列の方が変電所設備や年間電力消費量を低減できるとされており、上記の編成出力だけを基準とした意見は必ずしも正確ではない。

101系のみならずMT46系主電動機を採用した形式は、主電動機の絶縁種別が低いこともあって熱容量(電動機の通電による熱に対しての耐性)が概ね不足しており、山手線のような加速・減速を繰り返すような線区ではオール電動車にしても熱容量が足らない[9]との試算がすでに1960年代初頭に出ており、101系は全電動車でも問題点があるとされていた

さらに101系は熱容量不足から応荷重装置が使えず、乗車効率が300%にもなるラッシュ時には乗客の数に応じて運転時分が変わる。一方で、応荷重装置を使える本系列は乗客の数に関わらず起動加速度は一定に保つことが出来るメリットがある。

そもそもMT比1:1設計をMT比3:2とすれば運転性能は上がり、1965年の京浜東北線本系列10両編成投入の際に、運転局で長短所について検討しているが省電力などのメリットはMT比3:2でも引き続き得られることを確認[10]している。

  • したがって、同じMT比3:2の6M4Tでも101系より本系列の方が加速度の高いことも長所となる。

切迫した電力供給事情

中央線の101系は全電動車方式で投入されたが変電所などの能力が追いつかず、限流値を480Aから350Aに下げて運転した。

  • 6M4T運転になり、限流値を420Aまで戻すことができたが、M車比率が高い場合は電力事情以外にも架線の温度上昇などの問題も発生しており、架線容量の増強も併せて行う必要があった。

1961年(昭和36年)首都圏での次の101系投入先は、変電所能力が他線に比べて大きかった山手線に4M3T編成で決定された。しかし、山手線でも電力事情から以下の制約・問題が発生した。

  • 限流値を300Aに設定。
  • 主電動機の熱容量不足を改善の観点から、主電動機の通電時間を短縮=力行時間を短縮。
  • 電気ブレーキのカット。

このため、当時同線で運用されていた旧性能車よりも時間を要する結果となった。

結果的に101系による新性能化を進めるためには、変電・送電設備などの増強をセットにする必要があり多大な費用がかかることや線区ごとに限流値などの細かな設定が必要になるため、経済的で運転に関して制約のない通勤車への要望が高まった。

本系列の投入先

新形通勤電車の概要がまとまってくると、どの線区に投入するかが焦点となった。

  • 1962年(昭和37年)6月頃には本系列を山手線に投入するのか、捻出される101系の転用先をどうするのか早急に決めるべきだという議論がなされた。

1962年秋の山手線8両化のための変電所増強では、101系6M2Tの限流値300Aでの運転を想定しており、さらに限流値を350A→480Aに変電所増強計画が提案・検討されていた。

  • 変電所増強時点で、本系列4M4Tで限流値415Aの場合、101系6M2Tの限流値480Aでの運転とほぼ同等の所要時間で運転を行うことが可能と決断されたため、本系列の山手線投入を早急に決定しなければ、不要な変電所増強を行うことになる。

このため1962年10月には国鉄本社運転局・営業局・電気局・工作局などにより「新形通勤電車の投入線区について」がまとめられ、103系の投入線区を山手線・京浜東北線・総武緩行線に絞り込んで議論が続けられた。その結果を踏まえ、同年11月5日の常務会にて本系列は山手線に投入し、捻出される101系を総武緩行線に転用することが決定された。

1962年11月15日に渋谷・東京などの変電所増強が完成し、11月19日のダイヤ改正から山手線の一部8両編成化が行われた。

  • 電動車比率が上がったことから限流値は300Aのままとされ、山手線一周の運転時分は5M3Tの旧性能車よりも20秒短縮できたに過ぎなかった。

このように変電所増強が完了するまで、新性能化がなされていながらも旧性能車並の運転速度に制約を受けざるを得なかったのが、当時の首都圏電力事情である。

試運転

1963年(昭和38年)3月25日先行試作車1編成が落成し、9か月にわたる試運転を繰り返した後、12月28日より営業運転に入った。

  • 試運転ではいくつかの問題が発生していたものの、早急な新車投入が求められていたことから、最低限の手直しで量産車を発注している。

量産

1964年(昭和39年)以降の国鉄における通勤用の標準車両として大量に製造され、直流通勤形電車はもとより日本の鉄道車両としても最大の車両数を誇り、(1970 - 1980年代昭和40 - 50年代)の首都圏近畿圏など日本都市圏通勤輸送を支えた。

山手線への投入

1964年(昭和39年)5月より量産車(ウグイス色)が山手線に配置され、1964年度だけで202両が製造された。

  • 捻出された101系(カナリア色)は当初の予定どおり総武緩行線に転出し、別途新製された先頭車2両を組み込み10両編成で運用された。

駅間距離の長い線区への進出

増備が進むと次第に本来の投入予定線区とは性格を異にする路線にも本系列が投入され始めることになった。

  • 1962年の新形通勤電車の投入候補線区には比較的駅間の長い常磐線(平均速度52.8Km/h)と京阪神緩行線(同56.7Km/h)も含まれていたが、本系列の仕様決定に関しては、これらの路線を除いた対象4線区での平均駅間距離 (1.34km) や平均速度が参考にされた。
    • 比較的駅間距離が長い路線向けにはMT46A形主電動機の界磁を40%からさらに弱めた35%にするなどの措置が必要であり、MT55形が35%まで界磁を弱めているのはこれに対応するためでもある。

もとより当時の多くの路線の最高速度は95km/hであり、80km/hを超える高速域では101系より加速力が高いため特に大きな問題にはなっていない。しかし、快速電車から逃げ切るために高加速高速の通勤電車を求めていた大阪鉄道管理局には1964年(昭和39年)に京阪神緩行線を新性能化する際に、関西支社として本系列で良いのか新形式を必要とするのか検討させている。

  • 大阪鉄道管理局では当時の線路使用方法(快速と緩行の内側線のみの集中)が改善されるなら、新形式ではなく、既存形式(101系や本系列)でも使えるとの認識を示した。

35%まで界磁を弱めて高速特性を高めたが、定格速度は30km/h台であることから、平均駅間距離が2km台の京浜東北線[11]1965年(昭和40年)に投入する際には、以下の案も検討された。

  • ノッチオフの速度が上がったことから、本系列のの歯車比を1:5.6にする。
  • MT54形主電動機により中速以上の特性を高めた通勤電車の可能性を模索。

しかし、いずれも本系列に比べて特に電力消費量が増加することのデメリットが大きく、高速運転区間においても本系列の経済性が高く、無理に高速タイプにする必要は無いとの結論を得た。

これらの調査結果を受け、1967年(昭和42年)末から常磐線に本系列が投入される際には、以下の設計変更が行われた。

  • ブレーキ初速と使用頻度が高くなることもあり、新規開発されたメンテナンスフリーのディスクブレーキ付きTR212形付随台車を採用した[12]

運転速度向上による問題

京阪神緩行線投入から3年後の1972年(昭和47年)3月15日のダイヤ改正後のスピードアップでは、ブレーキ初速が90km/h台になると電気ブレーキを使用した際に主電動機に過電圧がかかることから、保護回路が頻繁に作動し、電気ブレーキが作動せずに故障と紛らわしいと運転士から苦情が多発。保護回路が作動する際に衝動が大きく、乗り心地にも影響を与えることなどが判明した。

  • 設計上95km/h程度までは過電圧が発生しないため、101系に取り付けられていた減圧継電器を省略していたことも原因の1つではあるが、本来の性能に近づけるため一部の回路を改良し、1972年度中に過電圧を防止する対策が施工された[13]

構造

車体

車体構造は101系に準じており、普通鋼が採用された。

  • そのため、外観は前面以外において101系とほとんど差が無いが、床下機器が大きく変更された。
  • 製造が進むにつれ設計変更が盛り込まれており、初期製造車と最終増備車で相違が大きい。

走行装置

主電動機

MT比(電動車と付随車の比率)1:1で駅間距離の短い通勤線区で運用されることを前提に、主電動機を低回転数トルク特性を重視して定格回転数を引き下げ、これに合わせて電機子の磁気容量を大きく取った新設計のMT55形とした。

MT55形の主要諸元
  • 1時間定格出力=110kW/375V/330A/1350rpm(85%界磁)
  • 85%界磁定格速度=36.5km/h
  • 加速度=4M4T時2.0(6M4T時2.3)km/h/s[14]
  • 駆動方式=中空軸平行カルダン駆動

台車

試作車用台車
DT33形台車(JR西日本車)
DT33形台車(JR西日本車)
TR212形台車(JR西日本車)
TR212形台車(JR西日本車)
量産車用台車
  • DT33形電動台車
    • DT26C形の量産化形式。主電動機のMT55形がMT46系と比較して磁気容量確保や低定格回転数化のため大直径化したのに合わせ、車輪径は通常の860mmより大きい910mm、ホイールベースは通常の2100mmより長い2300mmとした。
    • 歯車比は15:91=1:6.07であるが、860mm車輪径換算で1:5.73に相当。
  • TR201形付随台車
    • TR62X形の量産化形式。
  • TR212形付随台車
    • TR201形のブレーキを再度ディスクブレーキ化した形式。

101系からの変更点

クハ103-235 運転台
  • 車内床のコルク材の使用をやめ、床の厚みが薄くなり台枠底面の高さがやや上昇。
  • パンタグラフは高圧引通線の短縮化などを目的にM車(クモハ103形・モハ103形)に搭載。
  • 運転中の乗務員に対する軌道の流れによる圧迫感を防ぐため、運転台窓を天地方向にやや縮小。
  • 運転台機器は人間工学を駆使した以下のものに改良。
    • 視認性を重視したメーター類配置
    • 操作性・疲労軽減性を考慮して手前に傾けられたマスコン・ブレーキハンドル・運転士座席
    • 扱いやすさの観点から多用するスイッチ類を制御卓に集約
  • 運転台下部正面中央にも外気導入口を追加。
  • 主電動機および電動発電機冷却風取入口は電動車の車体外側幕板部に設置し、戸袋を利用して車体下部へ導く新方式を採用。
  • 正面行先表示器の拡大。
  • 電動空気圧縮機を2倍の能力があるC2000形とし、搭載車両をM'車(クモハ102形・モハ102形)に集約。
  • 電動発電機は主抵抗器冷却送風機兼用形から独立させ、地下形を除く初期非冷房車は容量20kVAのものをM'車に搭載。
  • ドアエンジンを変更。

形式

本系列は電動車にMM'ユニット方式を採用しており、モハもしくはクモハの103形と102形に主要機器を分散搭載して、電動車2両を1単位としている。形式解説順序は過去からの慣例に準じて記述する。

クモハ103形(Mc)

モハ102形またはクモハ102形とユニットを組む制御電動車で、パンタグラフや主制御器などの主回路を構成する機器群を中心に搭載する。奇数向き専用。新造は製造初期の1965年 - 1968年に限られた。

  • 本系列は編成の半数以上が電動車でなければならないことから、3両または5両を組成する場合にはこの形式が必要となる。
クモハ102形(Mc')

モハ103形またはクモハ103形とユニットを組む制御電動車で、電動発電機や空気圧縮機などの補助的な機器を中心に搭載する。偶数向き専用。

  • 国鉄は車種が増えることを避けたために1970年から製造された1200番台5両以外に新造車はない。
  • しかし、短編成化時の必要性からJR化後に一部のモハ102形から改造されたほか、3000番台の片側先頭車はこの形式となった。
モハ103形(M)

クモハ102形またはモハ102形とユニットを組む電動車で、クモハ103形と同様にパンタグラフと主制御器を搭載する。

モハ102形(M')

クモハ103形またはモハ103形とユニットを組む電動車で、クモハ102形と同様に電動発電機と空気圧縮機を搭載する。

クハ103形(Tc)

制御車。75 - 91および線区の事情で方向転換した車両を除く0・900・1000・1500番台は、車番が奇数の車両は奇数向き、偶数の車両は偶数向きの先頭に連結される。

サハ103形(T)

運転台のない付随車で量産化開始の1964年から製造された。

車種分類

103系の場合、通勤形車両として大量に生産されたことから、製造時期や使用目的などにより、様々な設計変更や、後述する番号の重複を避けるため、番台区分が行われた。そのため、車番によりおよその仕様の判別が可能である。

0番台

0番台
クモハ103-131
2004年8月28日 大川
主要諸元
起動加速度 2.0 km/h/s
保安装置 ATS-SW.P.Ps
ATC-6(1974年以降製造の一部、すでに消滅)
テンプレートを表示

1964年から1984年まで製造された、103系の基本形式である。非常に長期にわたり大量に製造されたため、途中で様々な改良が加えられている。製造時期ごとに解説する。以下の分類は製造年度ではなく製造年による区分である。

1964年 - 1967年製造車

クハ103-6
1964年 - 1967年製造車グループ

クモハ103-1 - 133・モハ103-1 - 159・モハ102-1 - 292・クハ103-1 - 114・501 - 616・サハ103-1 - 225が該当する最初の量産車グループ。

  • 山手線向けを皮切に、順次首都圏各線区へ導入された。
  • 試作編成に存在しなかったクモハ103形サハ103形が追加。
    • 山手線に先行投入されていた試作車は、後にこのグループに合わせた仕様に改造。
  • 1967年10月以降に製造された「昭和42年度本予算車」から、客用ドアがステンレス製変更。
    • それ以前製造の鋼製ドア車も一部を除いてステンレス製のものに交換。
    • 改造工場・時期によって窓の支持にHゴムを使用したタイプと押え金具を使用したタイプがあり、併用車両も存在。

1967年 - 1970年製造車

サハ103-279
1967年 - 1970年製造車グループ

上記に続いて製造された量産車グループで、クモハ103-134 - 155・モハ103-160 - 278・モハ102-293 - 433・クハ103-115 - 177・617 - 638・サハ103-226 - 305が該当。

  • 1967年(昭和42年)に「昭和42年度本予算追加車」が常磐線に、続く「昭和42年度第3次債務車」が阪和線にと高速運転中心の路線への投入が開始され、本系列の使用方法に対する不満や疑問が発生する原因をつくったグループでもある。
  • クモハ103形0番台とクハ103形500番台は、本グループで製造が打切られた。
  • 本グループからは高速運転対策として、付随車の台車を踏面ブレーキ装備のTR201形からディスクブレーキ装備のTR212形に変更。

地下鉄直通用の1000番台・1200番台を除く1970年(昭和45年)までに製造された先頭車(クハ103-1 - 179・500番台・900番台全車・クモハ103-1 - 155)の前照灯は、101系と同じく250Wの白熱灯1灯装備で製造されたが、後年になってシールドビーム2灯に改造された車両が多数である。

一方で未改造のまま白熱灯で残存した車両も存在し、2000年(平成12年)11月6日廃車の京葉電車区所属クハ103-562が、最後の白熱灯車両である。

試作冷房車(1970年製造)

1968年(昭和43年)に京王帝都電鉄(現・京王電鉄)が5000・5100系電車増備車に冷房を装備したのを皮切りに、私鉄において冷房を取付けたロングシート車両が登場した[15]のに呼応し、私鉄とのサービス格差を改善する目的で試作冷房装置を搭載して山手線に10両編成1本が試験投入された。

試作車冷房編成[16]
車両番号 クハ103-179 モハ103-279 モハ102-434 サハ103-306 モハ103-280 モハ102-435 サハ103-307 モハ103-281 モハ102-435 クハ103-178
冷房装置
製造会社
AU75X形
三菱電機
AU74X形
日立製作所
AU73X形
東芝
クハ103-178
試作冷房車
床下にMGを搭載

冷房方式の比較・検討のために以下の仕様となった。

  • 異なるメーカーの試作した3種の試作冷房装置を屋根上に搭載。
    • 冷房装置の形式の後に付く「X」は「試作品」 (eXperimental) を意味するサフィクス。
  • 同じ冷房装置を搭載する車両でも各車で送風ダクト本数や室内通風口の位置といった風道構造、扇風機の有無などの差を付けた。
  • 冷房電源用のMGは通常のモハ102形搭載とは別途に編成両端のクハ103形に出力210kVAのものが各1基ずつ搭載され、それぞれ5両給電とした。

冷房装置の本体構造には次の大きな相違点がある。

  • AU73X形:AU74X形…冷房装置の内部に3基の小型ユニットクーラーを集約
  • AU75X形…冷房装置の内部に2基の大型ユニットクーラーを集約
    • 1ユニット故障時の冷却能力低下が少ないという点では前2が有利であったが、製造・保守コストの点ではAU75X形の方が有利。

後に東芝と日立も2ユニット構成のAU73X形およびAU74X形を試作したが、最終的にもっとも完成度が高かったAU75X形が標準機種として選定された。

  • 翌1971年以降冷房装置と扇風機を併用したAU75系としてこれら3社の手で量産が開始。

このグループはクハ103形が最後の白熱灯式前照灯採用車であるが、冷房搭載のほかに以下の設計変更が行われた。

  • 客室窓を製造工数低減と気密性向上の観点から外ハメ式のユニット窓に変更
  • 運転席下の通風口を省略
  • 客室座席を人間工学に配慮した新型に変更
    • 座面低下・奥行きの延長・背もたれの角度も増大を実施
  • 座席下の客室ヒーターとその設置方法を改良
    • 暖房放射面積の増大と暖房能力の強化の観点から、従来7人掛け中央に1基設置→U字型の取付幅が広いタイプを斜めになった座席下蹴込み部に2基設置へ変更

当初は池袋電車区(現・池袋運輸区)に配置されていたが、1978年(昭和53年)の冷房試験終了後に量産冷房車と同仕様に改造。1979年(昭和54年)以降は山手線のATC化に伴う転配により、各車がばらばらに転属を繰返すようになった。

1971年 - 1972年製造車

クハ103-184
1971年 - 1972年製造車グループ

モハ103-282 - 330・モハ102-437 - 486[17]・クハ103-180 - 212・サハ103-308 - 323が該当。発注時点で前述の試作冷房車が試験中であったことから非冷房車として製造されたグループであるが、これまでの運用で表面化した問題への対策が講じられ、随所に改良が行われたことから、俗に「1次改良車[18]」とも呼ばれる。

  • 客室窓をユニットサッシに変更。
  • クハ103形の前照灯を新造時から1000番台・1200番台と同じシールドビーム2灯に変更。
  • 冷房を搭載しないので先頭車運転席下の通風口を復活。
  • 主制御器をCS20A形からCS20D形に改良。

冷房化に際してはグループ全車にAU75系冷房装置は搭載されてはおらず、分割民営化後に軽量な集約分散式WAU102形(JR西日本)やAU712形(JR東日本)を搭載した車両も存在する[19]

  • 冷房改造時にクハ103形の前面通風口は埋込まれており、現存車両はすべて後述の1973年(昭和48年)製造車と同一形状となった。

京阪神緩行線に編成単位で集中投入されたため、大部分の車両が明石電車区に新製配置されており、クハ103形は188が松戸電車区に新製配置された以外はすべて関西に配属→JR西日本に承継されたのも特徴である。

1973年製造車

クハ103-239

前述の試作冷房車の試験結果を踏まえ、1次改良車を基本に当初から冷房装置を標準搭載して製造されたグループで、モハ103-331 - 413・モハ102-487 - 569・クハ103-213 - 268・サハ103-324 - 359が該当する。

  • 京浜東北線に配置されたモハ103-373 - 382・モハ102-529 - 538は、既存の非冷房車編成に組み込まれることから例外的に非冷房車として製造。

上述のとおり冷房装置としてはAU75系が採用されたが、電力供給用電動発電機(MG)はモハ102形に制御・補助回路兼用としつつ、冷房電源として自車を含め4両まで給電可能な出力160kVA)の物を搭載して、一括給電するように変更された。

  • 本系列のMT比が最大でも1:1で、編成中4両に1両は必ずモハ102形が含まれることを考慮して決定された。
  • これに併せて、車体2・4位側[20]にも、電動発電機用冷却風取入口を設置。

また、以下の改良も行われた。

  • 居住性の改善目的で、座面拡張と蛍光灯の増設を実施。
  • クハ103形の前面通風口は冷房化により再び廃止。
  • 主電動機をISOネジ採用のMT55A形に変更。
  • 後位側面に電動行先表示器方向幕)を設置し、その下の側窓は下段上昇・上段下降式に変更。
    • 併せて前面の行先表示器を電動化と位置若干変更を実施。
  • 行先表示器指令器と冷房制御盤を設置したことにより、運転室背後の客室仕切中央の窓を廃止。
  • 客室内3位側妻窓上部には配電盤を設置し、その下の妻窓上段を固定化。
  • 終着駅での折返しによる長時間停車による冷暖房効果を損失させないため半閉回路を新設。
    • 各車両の両端2ヵ所の側引戸を閉、中央2ヵ所を開とする。

当初、山手線・中央線快速および大阪環状線に投入されたが、後述のATC化と関連して関東配属の先頭車の多くは1年足らずの間に1974年(昭和49年)新製の中間車と組んで京阪神緩行線(配属は高槻電車区)に転属した。

  • 「低運転台+新造時からシールドビーム」形態のクハ103形は関東地区では極めて少数派となった。
    • 中央線快速残存車は、後に中央・総武緩行線に転用されて津田沼電車区に転属。さらに一部の車両は後述のリニューアル工事を受け、仙石線(陸前原ノ町→宮城野電車区)に転属した。

1974年 - 1981年製造車

クハ103-347 ATC準備車 乗務員室直後戸袋窓なし クハ103-831 非ATC準備車 乗務員室直後戸袋窓あり
クハ103-347
ATC準備車
乗務員室直後戸袋窓なし
クハ103-831
非ATC準備車
乗務員室直後戸袋窓あり

モハ103-414 - 786・モハ102-570 - 899・2001 - 2043・クハ103-269 - 499・701 - 844・846・848・850[21]・サハ103-360 - 503が該当する。

本グループでは、クハ103形に大幅な設計変更が実施された。

  • 踏切事故対策や視認性向上のために高運転台構造に変更。
    • 窓下の面が間延びしないように運転室窓下にはステンレスの飾帯を設置。
  • 山手線・京浜東北線ATC化のため準備工事を施工。
    • 運転台後部にATC装置(ATC-6形)搭載のため機器室を設置し、同部分の戸袋窓を廃止。
    • ブレーキ弁がME40A形からATC対応の非常抜き取り化されたME48形に変更。

後に中央快速線や福知山線などのATC非設置線区にも投入されことになり、対応するクハ103-797・799 - 808・810 - 815・817 - 844・846・848・850はATC関連を非装備で製造された[22]

  • ATC機器室の省略・戸袋窓を復活・ME40A形ブレーキ弁装備で落成。

さらにグループ全体で以下の変更が行われた。

  • 北陸トンネル火災事故の教訓を受けて火災対策が強化され、後述の1000番台などの地下鉄乗入車と同じA-A基準に準拠。
    • 妻扉のガラスが網入になり、消火器置場が1両につき2か所となった。
    • ただし地下線の走行は考慮しないため、前面貫通扉は未設置。
  • 1973年製造車で設置が開始された半閉回路は有効に使われないまま、本グループの途中(クハ103-317他以降)から廃止された。

ない、本グループをもってクハ・サハ103形は製造終了となった。

1983年 - 1984年製造車

モハ102-2050

モハ103-787 - 793・モハ102-2044 - 2050の計14両が該当する。

201系の製造が開始されてからのリピートオーダーであったため、これに準じた以下の設計変更を実施。

  • ゴム布張り屋根から塗屋根へ変更。
  • クーラー・パンタグラフの横のランボードを201系と同一形状に変更。
  • 各窓支持Hゴムが材質変更により白から黒に。
  • 側扉開口部周囲を完全溶接化。

赤羽線の10連化および山手線輸送改善の件名で新製され、それぞれ池袋電車区に配属された。

  • モハ103-787 - 791+モハ102-2044 - 2048の5ユニットがカナリヤ色で埼京線開業前の赤羽線用。
  • モハ103-792・793+モハ102-2049・2050の2ユニットがウグイス色で205系投入直前の山手線用。

その後カナリア色の5ユニットはウグイス色に塗り替えられ、1985年(昭和60年)9月末の埼京線開業(赤羽線の延長)による受持区所の変更のため川越電車区(現・川越車両センター)に転属し、そのまま埼京線で運用された。

分割民営化時には、全車JR東日本に承継された。

1983年 - 1984年製造車の配置区一覧
車両番号 新製配置 1985年 1988年 1989年 1990年 1996年 2004年 廃車
モハ103-787
+
モハ102-2044
池袋 川越 浦和 豊田 京葉 2005年
モハ103-788
+
モハ102-2045
モハ103-789
+
モハ102-2046
モハ103-790
+
モハ102-2047
1995年12月川越
翌年3月の八高線電化用
モハ103+102-3501に
大井工場で改造
モハ103-791
+
モハ102-2048
豊田 京葉
モハ103-792
+
モハ102-2049
川越 浦和 2002年
モハ103-793
+
モハ102-2050
凡例
備考
  • 2005年(平成17年)に最後にJR東日本の103系全廃計画により新造から21年で全車廃車。

クハ103形500番台

クハ103-580

1965年に京浜東北線への本系列投入が開始されたが、以下の問題点があった。

  • 当初は基本編成と付属編成の分離運転が考慮されていた。
  • 当時の車両基地の構内有効長などの関係で3両+7両(当初2両+6両)の分割編成とする必要。

そのため新たに奇数向き制御電動車のクモハ103形が設計され、反対側には両渡り式の制御車クハ103形0番台が連結された[23]が、クモハ103形と対になるクハ103形は基本的に偶数向きに固定され方向転換する必要がないことから、クハ103形0番台を片渡りとし偶数向き専用の500番台として新製された。

  • クモハ103形と対をなすことから、製造はクモハ103形と同じく1968年で打ち切られた。
  • 0番台クハとの外見上の違いは、片渡りとなったジャンパ連結器納めがない点である。
  • 617- では、台車がディスクブレーキのTR212形に変更。

試作車

モハ103形・モハ102形・クハ103形900番台

モハ103-902

1963年に先行試作車として新造された車両で、山手線用に4両編成2本が製造された。量産車との相違点を以下に示す。

  • 台車が、DT26C形(電動車)・TR62X形(付随車)を装着。
  • ジャンパ連結器が、KE58形2基(19芯×2)。
    • このためKE70形1基の量産車とは混結不可。
  • 製造当時の車両番号はウグイス色の地に白文字(量産車は黒文字)とした。

当初は1 - を称していたが、1964年(昭和39年)3月31日付けで900番台に区分変更・改番された。

  • モハ103/モハ102-1・2→モハ103/モハ102-901・902
  • クハ103-1 - 4→クハ103-901 - 904
    • 上記改番のため、クハ103-1 - 4・モハ103/モハ102-1 - 2は「2代目」車両。

1967年(昭和42年)2月に量産車化改造が施工された後は量産車と混用されたが、最終配置はクハ103形が豊田電車区で青梅五日市線、電動車ユニットが川越電車区で埼京線で、それぞれ老朽化により最後まで冷房化されることなく1992年(平成4年)までに全車廃車となった。

モハ103形・モハ102形910番台

加減速時に発生する空転を防止する観点から、1967年に制御段数を力行55段・ブレーキ51段と大幅に増やしたCS30形超多段バーニア式制御器を搭載した試作車の区分である。

制御器搭載のモハ103-911 - 913とユニット間の引通線を一部変更したモハ102-911 - 913の合計3ユニット6両が製造された。

  • 品川電車区に配置され、山手線で試験が行われた結果、問題点の改善策を講じた量産型であるCS40形が後述の地下鉄乗り入れ用1000番台に採用された。
    • 精密なバーニア機構は製造コストが高く保守にも手間がかかることから、1000番台・1200番台に採用されたに留まり、その他の増備車は従来型のCS20形のままで製造された。

山手線で910番台は1編成に集約の上で運用されていたが、同線の205系化により他線区に転出させる際、特殊な制御器淘汰を名目に以下の転用改造が施工された。

  • 冷房改造され160KVAMGを搭載していたモハ102-911・913以外の4両については電装解除のうえ、後述のサハ103形800番台に改造。
  • モハ102-911は浦和電車区に転属、モハ103-107とユニットを組成。
  • モハ102-913は豊田電車区に転属、モハ103-62とユニットを組成。
    • 新ユニット組成車は、ほぼ同時期に保全工事を施工された非冷房車(後にAU712形で冷房化)。
    • ユニットを組替で捻出されたモハ102-172・62はサハ103形800番台に改造。

1994年にモハ102-913が、1995年にモハ102-911が廃車となり区分番台消滅した。

地下鉄対応車両

地下鉄乗入用として、以下の車両が0番台と並行して製造された。乗入先各線はすべて保安設備が異なるため、投入路線ごとに仕様を変え、新たな番台が起こされているのが特徴である。

1000番台

1000番台
1000番台 登場時の塗色
1985年
主要諸元
起動加速度 3.3 km/h/s
保安装置 ATS-B・P
ATC-4(1000番台)
テンプレートを表示
1000番台常磐快速線転用後
2003年4月7日

常磐緩行線営団地下鉄千代田線直通運転用として、1970年(昭和45年)から10両編成16本160両が製造され、松戸電車区(現・松戸車両センター)に配置された。

  • 落成から千代田線乗入開始までの一時期は地上区間で運用された。

0番台からは以下の設計変更が行われた。

  • A-A基準に準拠して設計されたため、車体には不燃・難燃素材を使用。
  • 主回路ヒューズ箱は屋上へ移設。
  • クハ103形前面に貫通扉を設置。
    • 前面窓下へは警戒の意味で太帯を配置[24]
    • 前面運行番号表示窓上方と側面幕板部には青21号の国鉄マーク(JNRマーク)を掲出。
  • 千代田線用ATC機器を乗務員室直後の床上搭載としたため該当部分の戸袋窓は廃止。
  • 営団から要求された加速性能を実現するため編成中両先頭車以外の全車を電動車化(8M2T)。
    • 主電動機の限流値を上げ、制御器は910番台で解説した改良型のバーニヤCS40形制御器を搭載。
  • トンネル内での騒音防止の観点から、主抵抗器冷却には送風機を使用しない自然通風式を採用。
  • 乗入協定に従い前照灯をシールドビーム2灯化。
  • 塗装は灰色8号地に窓の上下に青緑1号の帯。

営団が新造した回生ブレーキ使用可能なチョッパ制御6000系より電力消費量が格段に多い[25]ことや、抵抗器からの排熱によってトンネル内温度が上昇する[26]という問題が発生したことから、1984年から1986年(昭和61年)3月までに203系へ置換えられた。

  • 詳細は常磐緩行線#複々線化の沿革と問題を参照。
  • 捻出された本区分番台は以下の対応となった、
    • 56両は105系に改造され、奈良線桜井線和歌山線の電化開業用として奈良電車区可部線の旧形電車置換用として広島運転所へ転属。
    • 松戸区残存の104両は地上線(常磐快速線・成田線)に転用され、後にATC機器を撤去。青緑1号一色に塗色変更された。
      • 当初は、当グループのみで編成を組んでいたが、後に地上用0番台とも混結されるようになり、冷房装置も搭載された。1987年の国鉄分割民営化時には全車JR東日本に継承。

1990年(平成2年)には10両編成1本が東西線乗入用として三鷹電車区(現・三鷹車両センター)に転属。

  • 営団東西線用ATC-3形(色灯式信号用ATC)・デッドマン装置付マスコンハンドル化・塗色変更を施工。

廃車は2002年(平成14年)からで、松戸区の車両は常磐快速線へのE231系0番台の投入によって2004年(平成16年)3月までに、三鷹区の車両は東西線乗入運用へのE231系800番台の投入によって2003年(平成15年)5月30日に、それぞれ運用を終了し全車廃車となった。

1200番台

1200番台
1200番台
2003年5月25日
主要諸元
起動加速度 3.3 km/h/s
保安装置 ATS-BPATC-3
テンプレートを表示
クハ103-1201
常磐快速線転用後
1993年2月1日 我孫子

中央・総武緩行線営団地下鉄東西線直通運転用のグループで、301系の増備車にあたる。

  • 国鉄の財政難により、地下鉄乗り入れ車の製造コスト低減のために製造された本系列の区分番台。
  • 301系と同じ7両(6M1T)編成を基本としたため、地上形にはないクモハ102形(Mc')が開発・製造された。

1970年に1本(7両)。1972年(昭和47年)・1978年(昭和53年)にそれぞれ2本(28両)の計5本(35両)が製造された。

1000番台からの変更点を以下に示す。

  • ATC機器は東西線のWS-ATC対応機器に変更。
    • そのため乗務員室直後の戸袋窓が復活。
  • 機器配置を301系に合わせたため蓄電池の搭載車などが異なる。
  • 塗装は301系に合わせたためライトグレー(灰色8号)に黄帯(黄5号)の塗装。
    • ただし、駅の放送や案内板などでは営団5000系が銀色だったことから「銀色の電車」という案内が行われていた。
  • 雨樋・窓枠・通風器形状や座席寸法は他の本系列と共通とした。
  • 地上型のマイナーチェンジに合わせ、第2編成以降はユニット窓を採用。座席寸法も301系と同一に変更した。

1987年の国鉄分割民営化に際しては、35両全車がJR東日本に継承された。

以降の状況については、#1200番台塗色変更・10両編成化関連も参照。

最後の1200番台となったK9編成が、拝島留置のまま2003年7月31日に大宮工場(現・大宮総合車両センター)へ廃車回送された。これをもって本区分番台は消滅。

1500番台

1500番台
ファイル:JNR EC Tc103-1513.jpg
クハ103-1513(製造当初)
1983年2月24日 西宮
主要諸元
起動加速度 2.5 km/h/s
保安装置 ATS-SK
ATC-9
テンプレートを表示
クハ103-1514 車内

唐津線筑肥線福岡市地下鉄1号線直通運転用として、1982年に6両編成(4M2T)9本54両が製造された。

  • 編成番号は3両ずつに分かれており、小倉工場に回送する際も3両ずつに分割される。

製造当時、すでに常磐緩行線・千代田線直通用としてチョッパ制御の203系が製作されていたが、筑肥線は筑前前原以西の駅間距離が長く列車密度も低いため、ブレーキ頻度や回生負荷の面でチョッパ制御車を導入しても省エネ効果や回生制動力が期待できないことから、経済性の高い本系列が一部設計変更のうえ導入され[27]、唐津電車区(現・唐津鉄道事業部唐津運輸センター)に配置された。

本区分番台の変更点を以下に示す。

  • 機器配置は他の地下鉄乗入車に準じているが、主制御器は0番台で広く使用されているCS20D形を基本に自然通風式主抵抗器を使用するために手直ししたCS20D-G3形を搭載。
  • 電動発電機は、コスト削減のため急行形の廃車発生品を搭載。
  • 車体や内装は実質的に本番台と同時期に製造された201系を基本としており、本系列で唯一、新造時から戸袋窓がない。
  • A-A基準準拠のため、先頭車両は105系に類似した貫通扉を有する前面デザインを採用[28]
  • 塗装はスカイブルー(青22号)にクリーム色(クリーム1号)の帯。
  • 国鉄車を示すJNRマークをクハ103形正面に掲出。
  • 折返時などの長時間停車での車内保温のため、4ドアのうち3ドアを締切るドアカット機能を搭載[28]

1987年の国鉄分割民営化に際しては、全車がJR九州に継承された(同社に継承された本系列は本グループのみ)。*その後の状況については、#JR九州も参照。

分割民営化後、4本が先頭車化改造により2分割されて3両編成化された(#編成分割参照)ため、2010年時点は13本54両となった。

  • 3両編成は限定運用、6両編成は303系代走運用も担当。
  • 乗入先の地下鉄空港線内でのワンマン運転には対応しておらず、同線内のホームドアとの連動もできないため、地下鉄線内では車掌が乗務しドア開閉は車掌スイッチとともにホームドア開閉ボタンを操作する。
  • クハ103-1504は1998年3月に今宿駅付近で強風により脱線破損したが、復旧。

国鉄時代の改造

国鉄は1970年代になると財政難により、新造費用を軽減する目的で、一度投入した車両を改造して別の用途に振り向けた。

101系サハ101形編入(750番台)

大阪環状線8両編成化対応工事

1970年に不足したサハ103形の補充として、森ノ宮電車区所属のサハ100-55・58・サハ101-55・58の計4両に本系列連結対応改造を吹田工場で施工した以下の改造工事。

  • ジャンパ連結器をKE57形2基からKE70形1基へ交換
  • 貫通幌の交換

この4両は独自工事で、番号変更は行われず1979年(昭和54年)までに全車復元され片町線の101系編成の5 → 6連化用に転用された。

サハ103形750番台改造工事

1972年より国鉄全体の工事としてサハ101形の編入改造工事が実施された。こちらは改造後、正式にサハ103形750番台として区分された。

  • 種車には1962年度製造以降の車両を選定。
  • サハ100形も同様工事を施工して700番台とする計画も存在したが、実施されなかった。

車体そのものにはほとんど手を加えられていないことや元々本系列が101系の構造を基本に設計されている関係で、連結時の外観上の違和感は少ない。

  • 細部ではサハ101形の車高はサハ103形よりやや低く、台車もDT21T形もしくはTR64形という若干の差異がある。

改造時期・種車形態・改造内容により以下の5種に細分できる。

タイプI:サハ101-111・112・113・114・133・134・139・140・143・144・145・137・138・141・142・100・107→サハ103-751 - 767
  • 非冷房のサハ101形から改造されたグループ。改造時にAU75形による冷房化改造と側面行先表示器の設置を施工。
タイプII:サハ101-123・124・126→サハ103-768 - 770
  • 改造時にAU75形で冷房化されていたサハ101形が種車のグループ。側面行先表示器は未設置。
タイプIII:サハ101-282・299→サハ103-771・772
  • タイプIIと同形態だが、種車がサハ101形200番台のグループ。
    • 200番台はMG・CPを搭載車であったが、改造時に撤去。側面行先表示器は未設置。
    • 101系試作冷房改造車で、冷房装置が車体中心からずれた位置に搭載。
タイプIV:サハ101-115・116・127・128→サハ103-773 - 776
  • 非冷房のサハ101形から改造されたグループ。冷房・側面行先表示器ともに未設置。
    • JR東日本継承車の775がAU712形で冷房改造された以外は非冷房のまま廃車。
    • JR東日本継承車の774は豊田→中原→松戸と転属。松戸区ではエメラルドグリーンに塗装されたが、101系車体ではこれが唯一の例である。
タイプV:サハ101-119・120・121・122→サハ103-777 - 780
  • 改造時にAU75形で冷房化改造済のサハ101形が種車のグループ。改造時に側面行先表示器を設置。
    • 779以外の3両はJR西日本継承後の1993年に台車をTR212形に交換。

分割民営化時にはJR東日本とJR西日本に継承。一部は延命工事が施工されたが、高車齢車が多かったことから早期に廃車対象となり、2002年にJR西日本で765が廃車となったのを最後に全廃となった。

仙石線投入

クモハ103-9
仙石線対応改造車

1979年より仙石線の旧形車(主に72系)の置換えのため、首都圏各線への0番台ATC対応車投入で捻出された山手線・京浜東北線・横浜線・青梅・五日市線で運用されていた0番台初期車が転用された。首都圏とは異なる寒冷地の仙石線事情から、投入時に以下の改造を施工した。

  • 塗装をスカイブルーに統一。
  • 出入り口の半自動ドア化。
  • 客室ヒーターの増設。
  • タブレット使用区間が存在したため、乗務員室扉直後の戸袋窓をタブレット衝突による破損防止の観点から埋込[29]
  • 2人乗務用に運転室助士側に座席とワイパーを増設。
  • 前面窓ガラスにデフロスタを取付(後に熱線入ガラスと交換されたため撤去)。
  • ATS-S形車上装置の搭載。

全車JR東日本に継承されたが、1993年までに全車廃車となった。

中央本線名古屋地区投入

クモハ103-36
中央本線名古屋地区対応改造車

1977年にATC対応車の投入で捻出された0番台初期車が中央本線(中央西線名古屋地区)に投入され、神領電車区(現・神領車両区)に配置された。

  • 初期投入分が京浜東北線・横浜線、後期投入分が青梅・五日市線からの転用と比較的統一された。

投入時に以下の改造を施工した。

  • 塗装をスカイブルーに統一。
  • 2人乗務用に運転室助士側に座席とワイパーを増設。
  • 前面窓ガラスにデフロスタを取付。
  • 先頭車側面にサボ(行先方向板)受けの設置。
    • サボを使う関係で冷房車でも方向幕の使用は行わず、前面の方向幕も「中央線」・「普通」などのステッカー貼付による固定表示とした。

運用はラッシュ時に10両編成とされていたが、以下の変遷を経ている。

← 名古屋
中津川 →
転入時
クハ
103
サハ
103
モハ
102
クモハ
103
+ クハ
103
モハ
102
モハ
103
サハ
103
モハ
102
クモハ
103
1986年11月1日ダイヤ改正後
クハ
103
モハ
102
クモハ
103
+ クハ
103
モハ
102
モハ
103
サハ
103
サハ
103
モハ
102
クモハ
103
  • 投入当初は置換え前の72系が5+5両編成であり、近い両数による組成としたため。
  • 1986年11月1日ダイヤ改正後は輸送力適正化のため日中運転用の付属編成を3両とした。

クハ103形0番台の1000番台併結対応化改造

クハ103-188
番号下の白線に注意

1983年に常磐線で車両需給上、クハ103形0番台2両+1000番台電動車8両の10両編成を組成する必要が生じ、該当編成に組まれるクハ103-93・188・627・636に対して施工された併結対応改造。

  • 乗務員室に非常用ブザーの取付ならびに非常用ブザー・連絡用電話回路切替スイッチの取付。
    • 188は車両数の関係で方向転換(偶数向き→奇数向き)を併せて実施。
  • 施工車は、一般車との識別のために外部の車両番号下部に白線を追加。

3000番台(川越線電化など)

3000番台
2005年2月6日 拝島

種車は1974年(昭和49年)に仙石線用72系4両編成5本計20両の車体を郡山工場(現・郡山総合車両センター)で同時期製造の本系列と同等の車体に更新[30]したアコモデーション改良車のモハ72形970番台・クハ79形600番台で、1985年 - 1986年に大井工場(現・東京総合車両センター)・大船工場(現・鎌倉車両センター)・大宮工場(現・大宮総合車両センター)・新津車両所(現・新津車両製作所)で本系列編入改造を施工した番台区分である。

  • モハ72形970番台・クハ79形600番台は、1980年までに本系列投入による仙石線の未更新旧形車両が置換え後も運用されていたが、1985年に同線の車両が本系列に統一されたために運用を喪失した。しかし、車体更新からの経年が浅かったことと当時の国鉄が逼迫する財政であったために転用先が検討された。

ほぼ同時期に埼京線の開業ならびに川越線電化が完成し、大宮 - 川越 - 高麗川間の区間運転用電車が必要となった。そのため、旧性能電車の新性能化[31]という国鉄的には稀な改造工事を施工しての投入となった。

  • 車端部装着の製造銘版には昭和27年(=1952年)や昭和29年(=1954年)など改造種車の製造年が記載されており、本系列オリジナル車より10年も前から存在していたことになる。
川越線区間運転用改造

仙石線時代の4両編成×5本から3両編成×5本への編成組替を含む本系列化改造である。

72系アコモ改良車仙石線編成
石巻
仙台
クハ
79600
モハ
72970
モハ
72970
クハ
79600
103系3000番台川越線区間運転車編成
← 高麗川
大宮 →
クモハ102
3001 - 3005
モハ103
3001 - 3005
クハ103
3001 - 3005
 

本系列化改造を施工するにあたり、制御器をはじめとする一部機器は新品としたが、以下で示す機器・部品の有効活用が行われた。

  • 1985年に集中台検[32]の廃止および工場の予備品見直しにより捻出したMT55形主電動機とDT33形台車を電動車に搭載。
  • クハ103形の台車は、101系廃車発生品のDT21T形を搭載。
  • 電動発電機(MG)は、モハ72形970番台が装備していたものをクモハ102形に移設。

また、種車の構造を有効に活用するため、0番台車とは以下の差異がある。

  • 中間電動車のモハ72形に搭載されていたパンタグラフを活かしつつ3両編成を組成することから、0番台のクモハ103形+モハ102形の構成から本区分番台ではクモハ102形+モハ103形に変更となった。
    • 通常ユニット相手の電動車側に搭載されるモハ103形のパンタグラフが、反対側のユニット外側に搭載。
    • 床下機器類の配置も0番台と逆位置の配置となる。
  • 主電動機冷却風は車体側面に設置された風道から採風していたが、元々は制御車であったクモハ102形では新たな風道設置は大工事なるため未施工。
    • 本区分番台では、モハ103形と共に主電動機にフィルタ箱を設けて直接採風する方式が採用され、モハ103形の風道・取入口は1両を除いて改造時に埋込れた。
    • クモハ102形搭載のMGについても同様の方式とした。
  • 川越線も仙石線同様に冬期寒冷となるため72系時代からのTK8形半自動扉[33]は残存。
  • 仙石線時代はタブレットが使用されていたため、タブレット衝突による運転室扉直後の戸袋部窓破損を防止する観点から保護板が設置されていたが、一部車両は保護板を撤去し埋込れた。
    • このため同時期のATC車と酷似した外観となった。
  • 仙石線時代の検査担当が郡山工場であったことから、検査時には交流区間を機関車に牽引される配給回送となっていた。そのため通常の尾灯とは別に外吊式の標識灯掛けフックが存在する。
    • 後に一部車両は撤去。
  • 冷房化改造・側面行先表示機の搭載は経費の都合で見送り。

なお、形式ごとの種車には以下の関連がある。

  • クハ79600(偶数)→クモハ102形
  • クハ79600(奇数)→クハ103形
  • モハ72970(偶数)→モハ103形
  • モハ72970(奇数)→休車
サハ103-3004
青梅・五日市線4両編成化対応改造

上記の改造に漏れたモハ72形5両は暫くの間休車となったが、1986年11月のダイヤ改正で青梅・五日市線の3両編成が4両化されることになり、電装解除されてサハ103形3000番台となった。

  • 電動車であったことから、屋根上にパンタグラフ台が残るなどの特徴のほか、機器類も流用品である。

オレンジバーミリオン(朱色1号)に塗装され豊田電車区配置となり、以下の編成を組成された。

立川
103系3000番台青梅・武蔵五日市線組込編成
クモハ103
0番台
モハ102
0番台
サハ103
3000番台
クハ103
500・900番台
分割民営化後

路線の関係で全車がJR東日本に継承された。以後以下の改造が施工された。

  • AU712形冷房装置とインバーター(SIV)を搭載して冷房化改造。
    • 側面行先表示機も同時に搭載。

1996年(平成8年)には八高線八王子 - 高麗川間の電化完成に伴い同線でも運用開始されるとともに、輸送力増強と新たに投入された本系列3500番台改造車、209系3000番台と編成を合わせることから、豊田配置となっていたサハ103形3000番台を川越線用3000番台編成に組込4両編成となった。

  • これにより3000番台は全車川越電車区配置となり、以下の編成が組成された。
103系3000番台川越電車区編成
 
← 八王子・高麗川
川越・大宮 →
 
編成番号 クモハ102
3000番台
モハ103
3000番台
サハ103
3000番台
クハ103
3000番台
廃車
ハエ51 3001
(大井)
3001
(大井)
3001
(大井)
3001
(大井)
2004年10月
ハエ52 3002
(大宮)
3002
(大宮)
3002
(大井)
3002
(大宮)
2005年5月
ハエ53 3003
(大宮)
3003
(大宮)
3003
(大井)
3003
(大宮)
2005年11月
ハエ54 3004
(大船)
3004
(大船)
3004
(大井)
3004
(大船)
2003年11月
ハエ55 3005
(新津)
3005
(新津)
3005
(大井)
3005
(新津)
2004年11月
  • ( )内は本系列化改造施工工場。
  • 旧番号との対照は72系の該当項目を参照。

老朽化により205系3000番台・209系3100番台への置換えで廃車が進行し、2005年(平成17年)10月2日の「川越線電化20周年記念号」をもって運用を終了。その後もハエ53編成が予備車扱いで残存したが[34]、同年11月中旬までに全車廃車・解体され区分消滅した。

関西方面編成数増加関連(2000・2050番台)

1986年(昭和61年)の関西本線大和路線)と阪和線の編成短縮・編成数増加政策[35]に伴い先頭車が不足したため、余剰となっていた101系の先頭車が改造・編入された。種車によって以下の番台区分とされた。

クハ103形2000番台
  • 非冷房のクハ100形から改造された車両。奈良電車区に配属され、主に関西本線で運用。
    • クハ100-92・35・31・60→クハ103-2001 - 2004
クハ103形2050番台
  • 非冷房のクハ101形から改造された車両。日根野電車区に配属され、主に阪和線で運用。
    • クハ101-78・83→クハ103-2051・2052

前述のサハ103形750番台同様、車体にはほとんど手が加えられていない。

  • しかし、101系と本系列では前面の窓形状が異なっているため、サハ103形750番台より差異が目立つ。
  • 全車とも冷房装置・側面行先表示器の搭載は未施工。

分割民営化時には全車JR西日本に継承された。1991年(平成3年)に2052が阪和線のATS-P形化に際し対応工事を施工されないまま京阪神緩行線に転用されたものの[36]、経年や事故で早期に廃車対象となり1992年(平成4年)までに全車廃車・解体され区分消滅。

冷房化改造

0番台1973年製造車以降は一部を除き冷房装置が標準搭載されるようになり、在来車についても1975年(昭和50年)以降冷房化改造が施工された。

主な改造内容
  • 構体を補強のうえでAU75形集中式冷房装置および側面行先表示器の搭載。
  • モハ102形のMGを制御電源用の20kVAから制御・冷房電源兼用の160kVAに換装。

これらは新製冷房車に準じたものである。

また、これらとは別に1975年夏に関西地区で両端の先頭車のみ非冷房車の編成が投入されたが、扇風機回路を冷房起動回路に代用することによって一斉起動できるように所属車両基地で施工された。

  • その後関東地区にも同様の事例が発生したが、こちらでは両端の乗務員室内に新たに冷房起動回路用のスイッチ(冷房制御スイッチ)を工場施工で取付けた。
  • 1981年(昭和56年)度からは中京地区でも冷房改造が始まり、非冷房先頭車全車に冷房制御スイッチ取付が施工された。

105系への改造

詳細は国鉄105系電車#改造編入車グループを参照。

JR分社後の状況と各社ごとの改造

本系列は、大量輸送に特化した国鉄の標準型通勤形電車という形態から、20年以上に渡り製造が継続された。そのため性能・設備面では陳腐化が目立ったが、1983年(昭和58年)3月の中央線快速が201系への、1986年(昭和61年)4月の常磐緩行線が203系への置換え完了を除外すると進行せず、分割民営化時には現役車両はすべて承継された。しかし、その後はJR各社で新型車の開発・投入による置換えにより急速に廃車が進行した。だが、その一方で国鉄時代より柔軟かつ徹底した改造施工例も多く、様々な新区分番台も発生した。

JR東日本

クモハ103形ATS-P搭載車(左)

同社では、東中野駅列車追突事故以降にATS-P形化を促進させた。単に機器搭載のみならず、以下の工事も施工した。

  • ME40形ブレーキ弁搭載車の大半はME48形への交換。
    • クモハ103形は、車上機器の搭載スペースが不足したことから、苦肉の策で運行番号表示窓を潰して搭載。運行表示器は前面ガラスに設置。

また、運用路線ごとに特化した仕様への改造も施工された。

南武線・鶴見線用(全車)京浜東北線・常磐快速線用(一部)
  • 外幌取付にとそれに伴う妻窓閉鎖。
京葉線用
  • 先頭車にスカート(排障器)を取付。
常磐快速線用
  • 運行番号表示器をLED式に変更。

しかし、1990年代からは205系・209系E231系などの量産とこれらへの置換えによりに廃車が進行した。

  • 首都圏では2006年(平成18年)3月18日のダイヤ改正までに全車が定期運用を離脱。同年4月8日の常磐快速線でのさよなら運転、その翌日の車両展示会を最後に営業運転が終了。
  • 仙石線では、最後まで残っていたRT-235編成が2009年(平成21年)10月21日に営業運転を終了。

これにより、同社の本系列は消滅。なお、以下で同社が施工した大掛かりな改造工事について解説を行う。

AU712形による冷房化

国鉄時代から引き続き非冷房車の冷房化改造は、従来からのAU75系冷房装置によるものであったが、これには以下の問題点があった。

  • 構体の補強
  • 多額の費用と時間を要す。

そこで1987年からは以下の方式に移行した。

  • 重量を分散することで補強を不要とする集約分散式冷房装置を採用。
    • 先行改造されたサハ103-128は後述するJR東海のC-AU711系冷房装置に類似したもの(メーカー形式日立FTUR-300-102形)が搭載されたが、その他の車両は独自開発のAU712形での改造となった。
  • 冷房電源は当初はモハ102形のMG交換による容量増強で対応していたが、1988年(昭和63年)後期からは工期・費用のさらなる削減から屋根上別取付のSC24形補助電源装置(SIV)に変更。

しかし、上述改造車は高車齢な上に次の問題も抱えていた。

  • AU712形の冷却能力が低い。
  • AU75系搭載車と混結した場合に電源の関係から冷房が使用できないケース[37]もあるため、編成組成上の制約がある。

2005年にモハ103-185+モハ102-340の廃車により、営業用車両から消滅。

クハ103形への自動分併装置(電気連結器)の取付

クハ103-574
自動分併装置取付車

1989年から分割併合運用の多い以下のクハ103形に自動分併装置取付工事取付が施工された。

  • 京葉電車区
    • 基本編成蘇我方・付属編成東京方
  • 豊田電車区
    • 青梅・五日市線用4両編成
  • 松戸電車区
    • 基本編成取手方・付属編成上野方
      • 松戸区基本編成の一部には、取手方先頭車にクモハ103形が組込まれていたが、クモハ103形への施工は工事内容が煩雑となることから、他車両基地からの転入車も活用しクハ103形に統一した上で施工。

車両更新工事

本系列には国鉄時代から特別保全工事が施工されていたが、同社では、1988年(昭和63年)から一層徹底した施工内容による延命工事に切り替えられた。

施工対象は
  • 1967年 - 1972年製造車。
    • 後に1972年以降製造車に対しても施工。
  • 一部車両は上述のAU712形による冷房化も同時に施工。
工事内容
  • 屋根鋼板補修とポリウレタン樹脂系塗屋根化
  • 雨樋取替
  • 外板取替(屋根・腰板部・窓周辺)
  • 側窓枠取替
  • 外板塗装更新
  • 空気配管取替および除湿装置取付
  • 主回路配線引替
  • ジャンパ連結器の取替および片栓車の両栓化
  • 引戸の取替(上レール・下レール座・戸車取替)
  • 室内化粧板とカーテン取替
  • シートモケット取替(フットライン入り)
  • 握り棒・荷物棚のステンレス化
  • 吊手の取替
  • 各ゴム類の黒ゴム化(戸先・戸当り・Hゴム・押えゴム)
  • 側扉ガラス支持方法の変更(Hゴム方式から金属押えゴム方式:一部車両はドア自体を金属押え方式のものに交換)

本工事は複数の工場が担当しており、化粧板の柄や腰掛モケットが微妙に異なるなど、仕様に差異が見られる。*大井工場施工車の一部は袖仕切設置が施工。

1992年(平成4年)に低コストで量産可能な901系(現209系)が登場するとJR東日本は方向を転換。以後は更新工事を中止し、新造車による老朽車の置換えに移行した。

訓練車

モヤ102-3

1991年に同社では、乗務員を対象に定期的に行う異常時の取扱いや応急処置等の教育訓練のため保留車を訓練用に整備することになった。。

  • 予備車の削減で一般営業用車両を現車訓練に用いることが難しくなったことも一因である

本系列の訓練車編成は非冷房車3両3編成が整備され、豊田電車区・浦和電車区・松戸電車区に配置した。一般車両との識別のため、これらの編成の車体には2本の白帯と「訓練車」の文字が書き込まれた。

  • 浦和・豊田配置のモハ102形は、一部のドアの締め切りや荷物棚の撤去、機材置場の設置などを行ったため営業用車両から事業用車両に変更となり、新形式のモヤ102形となった。
    • モハ102-138・140→モヤ102-1・2
1991年整備訓練車編成
豊田電車区 クモハ103-44 モヤ102-1 クハ103-522
浦和電車区 クモハ103-45 モヤ102-2 クハ103-540
松戸電車区 クモハ103-64 モハ102-168 クハ103-54

その後、改造種車が非冷房だったこと、ATC・ATS-S形・P形が未搭載で本線運転に制約があったことから、1995年に冷房車の4両3編成と交代となった。

  • 豊田・浦和配置編成は、前回と同様にモハ102形をモヤ102形に改造。
    • モハ102-508・519→モヤ102-3・4
1991年整備訓練車編成
豊田電車区 クハ103-341 モハ103-363 モヤ102-4 クハ103-342
浦和電車区 クハ103-399 モハ103-352 モヤ102-3 クハ103-400
松戸電車区 クハ103-335 モハ103-274 モハ102-429 クハ103-336
  • 浦和配置車は、同区の営業用車両が209系に統一された後も使用されていたが、旧仕様の本系列では訓練に対して実用性が低くなることもあり、2000年に廃車。
  • 豊田配置車は、201系四季彩編成が訓練車を兼ねることから、2001年に廃車。
  • 松戸配置車は、MM'ユニットが同区我孫子派出の車輪転削装置改修に伴う予備車確保のために白帯や「訓練車」の文字を消して営業車に復帰した経歴を持つ。同区の本系列が営業離脱した2006年に廃車。

これにより本系列の訓練車編成は消滅。

910番台転用関連

サハ103-803 (元・モハ103-913)
サハ103-803
(元・モハ103-913)
モハ103-107(非冷房)+モハ102-911(冷房車)
モハ103-107(非冷房)+モハ102-911(冷房車)
詳細は#モハ103形・モハ102形910番台も参照

CS30形超多段バーニア式制御器搭載試作車の同ユニットは一般車とは混結運用ができないことから、山手線から転用する際には以下の2グループにわかれた。

別ユニットのモハ103形と新ユニットを組成
  • モハ102-911+(モハ103-62)
  • モハ102-913+(モハ103-107)
    • ユニット組成時にモハ102形2両はAU75形冷房改造車、モハ103形は非冷房車。後にモハ103形2両はAU712形で冷房化。
サハ103形化改造

CS30形制御器搭載のモハ103-911 - 913・モハ102-912・上述のユニット解除されたモハ102形2両の計6両は以下の改造を施工されサハ103形800番台となり、松戸電車区配置で常磐快速線に投入された。

  • 電装関係機器の撤去
  • モハ103形はパンタグラフの撤去とベンチレータの設置
  • 台車をTR201形へ交換
    • モハ103-912・911・913・モハ102-912・172・62→サハ103-801 - 806
  • 全車が冷房改造を受けており、国鉄時代改造の802・803が集中式AU75形、サハ化後改造の残り4両が集約分散式AU712形を搭載。
  • 国鉄時代に特別保全工事を受けた802・803・805・806が1993年(平成5年)に、JR化後に車両更新工事を受けた801・804が2003年(平成15年)に廃車。

1200番台塗色変更・10両編成化関連

ファイル:Jr301+1031200.jpg
301系(左)と103系1200番台(右)の併結
2002年8月28日 西船橋
塗装変更

1989年に中央・総武緩行線に205系がステンレス地に黄帯[38]で登場し、東西線直通電車と間違える乗客に誤乗防止の観点から本系列ならびに301系の帯色を東西線のラインカラーであるスカイブルー(青22号)に変更[39]した。

  • 同時に駅の放送や案内板も「銀色に青帯の電車」に変更された。
    • 1987年4月1日の国鉄分割民営化後は、JNRマークをラインカラーで塗りつぶし[40]、白色の巨大なJRマークを両先頭車の側面窓下に貼付するという小変化はあったが、廃車時まで大きな変化はない。
  • ラインカラー変更とほぼ同時期ながらも冷房改造が若干早期に行われたため、冷房改造された黄帯車編成も存在した。
  • +同時にクモハ102形を除く全形式に側面行先表示器を搭載し、前面方向幕も連動電動化[41]
10両編成化

1991年12月1日ダイヤ改正では東西線完全10両化により、7両編成で残存していた本系列5本(35両)と301系2本(14両)はすべて10両編成に組み替えられることとなった。

運用に対して余裕が生じていたために12両が常磐快速・成田線用として松戸電車区に転出[42]した。

  • これは、冷房化の予備車を確保するために松戸電車区から借入扱いで転入していた103系1000番台を本配置(後のK8編成)とし、代わりに余剰となった車両を転出させて返却扱いとしたためである。

残存車は、7両編成時代の旧K12・K13編成を中心に以下の車両を組み合わせ10両の新K6・K7編成を組成した。

  • モハ103・102-1202[43]:松戸転出の旧K9編成から捻出
  • モハ103-1207+モハ102-1205:残存の旧K11編成から捻出
  • サハ103-429・430[44]:浦和電車区から転入

モハ103-1207+モハ102-1205を抜き取られた旧K11編成は、そのまま5両編成で新K9編成となり[45]、同じく10両編成化で5両編成で残った301系と組成した。

  • 後に301系5両編成が廃車されたため、予備編成となった。
編成表(10両統一後)
 
号車 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
編成番号 K6 クハ103
-1204
モハ103
-1211
モハ102
-1208
モハ103
-1210
モハ102
-1207
サハ
103-430
モハ103
-1214
モハ102
-1210
モハ103
-1212
クモハ102
-1204
K7 クハ103
-1205
モハ103
-1202
モハ102
-1202
モハ103
-1207
モハ102
-1205
サハ103
-429
モハ103
-1213
モハ102
-1209
モハ103
-1215
クモハ102
-1205
K9 クハ103
-1203
モハ103
-1208
モハ102
-1206
モハ103
-1209
クモハ102
-1203
 

前面強化工事

成田線大菅踏切事故運転士殉職したことから踏切事故などでの乗務員の保護のために前面を強化する工事が1995年3月末までに施工された。

  • 113系などでは車両基地で施工し、施工直後は前面がステンレス地の車両も見られたが、本系列では主に検査入場の際に工場にて鋼板を取付る工事を施工した。
  • 1974年以降に製造された高運転台車は製造当初から前面が強化されているため改造対象外。
  • 1993年12月までの大宮工場にて施工車は尾灯上部の足掛けが外側にズレて設置されているが、インドネシアに譲渡された初期先頭車は全車がこの形態。

八高線 一部電化関連(3500番台)

1996年3月の八高線・八王子 - 高麗川]間電化では、川越線用3000番台が同線でも運用されるようになったが、運用区間の延長で既存の車両では必要編成数が不足した。そのため、209系3000番台2本の新製と0番台4両編成1本が寒冷地走行用に半自動扉機能設置の改造を施工され川越電車区に投入された。

本改造施工車は新たに3500番台に区分された。

  • 半自動扉は3000番台の手動開閉方式に対し、本区分は押ボタン開閉方式とされた。
103系3500番台川越電車区編成
 
← 八王子・高麗川
川越・大宮 →
ハエ56 クハ103
-3501
モハ102
-3501
モハ103
-3501
クハ103
-3502
旧番号 (725) (2047) (790) (738)

3000番台と共通運用使用されたが、2005年(平成17年)4月に廃車・解体された。

  • JR西日本に播但線用「3500番台」区分車が存在するが、関連ならびに重複車番はない。

仙石線への車両更新車の投入

仙台車両センター宮城野派出所#過去の配置車両も参照

1989年以降に在来形本系列置換え用として仙石線に入線した車両は、車両更新工事が施工されたが、通常の更新車と異なり、以下の改造が施工された。

  • 窓を上段下降・下段固定のユニット窓に交換、
  • ドアを窓が大きいタイプに交換
    • 車両更新を終えてから転入した3編成は窓とドアの交換が省略
  • 前面窓を2枚窓化
  • 運行番号表示器の列車愛称・種別表示器

後に扇風機やベンチレーターの撤去も施工されたが、更新車も老朽化が進み205系3100番台に置換えが決定し、2004年7月までに17編成が運用を終了となり、廃車・解体された。

RT-235編成
RT-235編成
RT-235編成
クハ103-235 トイレと車椅子スペース(左) モハ103-343 交換された座席(右)
クハ103-235 トイレと車椅子スペース(左)
モハ103-343 交換された座席(右)
営業運転最終日
営業運転最終日

仙石線での本系列運用は2004年7月に一旦は終了したが、2006年以降に予定された多賀城駅付近の立体交差化工事の際に車両不足が想定[46]されることから、本編成のみ保留車として郡山総合車両センターで留置された。2006年11月に同センターで復帰のための整備が施工され、2007年3月19日より正式に営業運転に復帰した。

復帰の際に以下の改造工事も併せて施工された。

  • クハ103-235にトイレと車椅子スペースを設置[47]
  • ATS-Sw→ATS-Psに変更。
  • モハ103-343のパンタグラフをシングルアーム式2基に変更(本系列初かつ唯一)。
  • 台車をグレー塗装化。
  • 座席モケットを205系と同タイプに変更。

復帰後は平日朝のラッシュ時に区間運転2往復のみ限定で運用された[48]。しかし、老朽化と首都圏配置車の需給調整の結果、南武線209系2200番台投入により205系が捻出できることになり、2009年10月21日のあおば通8:25発871Sを最後に営業運転を終了[49]。同月26日に郡山総合車両センターへ廃車回送され[50]、2010年1月に解体された[51]

仙台車両センター宮城野派出所RT-235編成
← 石巻
クハ103-235 モハ103-343 モハ102-499 クハ103-236
  • 4両とも中央線快速→中央総武緩行線→仙石線と転属してきた車両である。

各線からの撤退

201系・205系・209系・E231系などの投入・転用により下記のとおり撤退した。時期は定期運用離脱時で撤退後にイベント運転されたケースもある。

  • 山手線 1988年6月
  • 横浜線 1989年2月
  • 埼京線・川越線(大宮 - 川越) 1990年12月
  • 京浜東北線・根岸線 1998年3月
  • 中央・総武緩行線 2001年3月
  • 青梅線・五日市線 2002年4月
  • 中央緩行線・営団東西線 2003年6月
  • 仙石線 2009年10月(2004年7月 - 2007年3月は運用されず)
  • 南武線 2004年12月
  • 八高線・川越線(八王子 - 川越間) 2005年10月
  • 京葉線 2005年11月
  • 武蔵野線 2005年12月
  • 鶴見線 2005年12月
  • 常磐快速線・成田線(我孫子 - 成田間) 2006年3月

保存車

クハ103-525 東芝府中工場
クハ103-525
東芝府中工場
東大宮センター訓練車
東大宮センター訓練車
クモハ102-1201
クモハ102-1201

同社営業エリアには以下の本系列車両が、保存もしくは用途変更を受けて存在する。なお、一部車両は解体されている。

クハ103-560
  • 埼玉県さいたま市見沼区の幼稚園運動場[52]静態保存
    • 1990年5月まで京浜東北線で運用されていた車両。保存後は盗難や落書などの被害に合い、戸袋部の外板の腐食が進行するなど状態はかなり悪く、2007年の夏ごろに姿を消した。
クモハ103-58+クハ103-525
  • 東京都府中市東芝府中工場。
    • JR東日本から譲渡後に機器類をインバータ制御対応に改造された状態で留置。
    • 車体は前面窓以外に田園風景が描かれ、クーラーはAU720形に交換。
    • クハ103形には走行のためにモハ102形相当の機器が増設されていると見られる。
クモハ103-147
  • 常磐線で運用された車両。廃車後に個人へ売却。
クハ103-713
  • 鉄道博物館内に乗務員室側約9メートルをカットし保存。
    • 館内のラーニングゾーン1Fの「駅構内ラボ」にて駅構内業務の体験用[53]
    • 搬入前は大宮総合車両センターでしばらく保管されており、残りの優先席側約11メートルは2007年2月中旬に解体された。乗務員室側は同年5月に鉄道博物館へ搬入。
クモハ103-100+モハ102-224(クハ103-332の先頭部を接合)
  • 東大宮操車場(現・大宮総合車両センター東大宮センター)内乗務員訓練所。
    • 無車籍の訓練車で、クハ103-332が装備していたATC機器も模擬ATCとして稼動。
    • 外観は山手線用205系をイメージしたオリジナル塗装のほか、閉鎖されたクモハ103形の運行番号表示窓と改造クモハ102形の新造車には存在しない非ユニット窓+高運転台の組合せやAU712形冷房装置が特徴。
    • 2008年に209系を改造した訓練車が導入されたために2009年3月に構内で解体。
クモハ102-1201+クモハ103-11
  • 大船工場(現・鎌倉車両センター)の構内入換機械。
    • 車籍は抹消済。クモハ103形は入換作業の関係でパンタグラフを前部に移設し、クモハ102形は前照灯を増設。そのため301系のようになり、貫通扉下部には小窓も追加。
    • 黄に赤と緑のストライプというオリジナルの塗装が施されているが、末期は退色・水垢の付着が激しい状態[54]で特別な整備がされてないと推測される。
    • 2005年まで使用されていたが、翌2006年の深沢地区(工場)の閉鎖時に解体。

これらとは別に横須賀線久里浜駅構内ならびに武蔵野線新秋津駅構内にある訓練所にも、本系列改造の105系から訓練車となった無車籍車両が存在した。

JR東海

70両を承継したが、1965年から翌1966年にかけて製造された初期車両のみであったことから、一部の冷房車を含む20両を更新工事など一切行わずに廃車し、残った50両には以下の改良工事を施工した。

塗色変更

承継車はすべてスカイブルーであったが、後述のリフレッシュ工事施工車両は、同社のイメージカラーであるクリームにオレンジと緑の帯に塗替えられた。

C-AU711A形による冷房化

モハ102-97
C-AU711A形冷房改造
床下SIV搭載
リフレッシュ工事施工
(側窓の変化に注意)

JR東日本のAU712形と同様に工期短縮と経費削減の観点からC-AU711A形集約分散式2基搭載による改造工事が施工された。

  • モハ102形には冷房電用SIVを搭載。

リフレッシュ工事

室内のアコモ関係が他の車両との格差が目立つようになったことから、特別保全工事に211系5000番台の水準をベース室内のリフレッシュ工事を併施した。内容を以下に示す。

  • 側窓の上段下降・下段固定のユニット窓化
  • 側扉・妻扉取替
  • 握り棒・荷物棚のステンレス化
  • 座席袖仕切取付
  • バケットシート化
  • 塗色変更

これらにメニューは、全車同様ではなく車両により異なったことから、側扉・側窓・冷房などに差異が発生した。

  • 施工後は、朝夕を中心に中央西線(名古屋 - 瑞浪間)で3両+7両の10両編成を組みラッシュ時輸送に投入されたほか、関西本線でも3両編成が単独で運用された。

老朽化とともに高速化された新形式が増えるにつれてダイヤ上のネックとなり、313系の導入に伴い1999年(平成11年)に定期運用から離脱、2001年(平成13年)までに全車廃車となった。

保存車

クモハ103-18
クモハ103-18
  • 美濃太田車両区に保管。
    • 屋外留置ため腐食や褪色が見られ、ユニットを組むモハ102形は既に解体されたことから自走不可。
    • 美濃太田車両区には多くの車両も保管されており、その一部は2011年開館予定のリニア・鉄道館に移動し展示される予定だが、同車は展示リストから外されており解体される予定。

JR西日本

承継車両の多くが初期 - 中期型車であったことから、積極的にな延命を図っている。また、JR化後に新たな用途が多数発生しており、それに合わせた改造も見られる。

羽衣線関連

羽衣線用2500番台
画像の編成は唯一体質改善車が含まれる

羽衣線には1987年クモニ143形荷物電車改造のクモハ123-5・6が投入されたが、同時にラッシュ時3両運転用増結車として日根野電車区のクハ103-194が投入され、1995年阪神・淡路大震災後の応援車両として貸し出されるまでの間専属で運用された。

1989年秋からはワンマン運転を行うことになり、クハ103-194・クモハ123形2両および予備車として本系列3両にワンマン運転対応改造が施工された。

  • クハ103-194は1991年にWAU102形による冷房化改造と延命N工事を施工。
    • 施工入場中は大阪環状線で使用されていたサハ103-758が朱色のままワンマン運転対応改造が施工され、クモハ123形2両で挟んだ3両編成で運用。

阪神大震災後の応援運用を終えた上述3両は、クハ103-194が事故廃車となったクハ103-839の補充として福知山線に転出。

  • あわせて塗装もカナリア色に変更されたが、前面行先表示機が手動であるなど異端な存在であったことから、後述の3500番台へ運転台部品供出のため1997年に廃車。

クモハ123形2両はクモハ84形置き換えのため岡山電車区に転出。 新たにワンマン運転対応改造を施工したクモハ103-23+モハ102-105+クハ103-26が追加投入された。

2007年には2編成6両にワンマン運転対応改造が施工される一方、1989年と1995年にワンマン化改造された2編成は廃車となった。

  • 1編成は、通常は一般のサハ103形を挟んだ4両編成にて阪和線で運用されるる。

WAU102形による冷房化

ファイル:P1000148.JPG
WAU102形搭載車

JR西日本の冷房改造は、当初は国鉄時代を踏襲したAU75形集中式冷房装置によって行われていたが、1988年より改造コスト削減と早期の改造進展のため、車体にかかる重量が分散されダクト設置も不要のWAU102形分散式を1両あたり3基搭載する方法に改められた。

  • 冷房電源は通常のモハ102形へのMG増強ではなく、1編成あたりクハ103形1両(大阪環状線用8両編成のみ両端のクハ103形2両)に冷房用静止形インバータ(SIV)搭載で対応。
  • WAU102形は製造会社による形状の違いも認められており、東芝製と三菱電機製では外部ルーパー形状などに差異がある。性能には大差はないため、混載する車両も存在する。

WAU102形搭載車は同車エリアに広く配置されていたが、AU75形に比べて冷房能力が不足することから、特に関西地区では優先的に廃車が進められた。

  • 2007年7月、日根野区に配置されていた羽衣線予備編成4連1本の廃車をもって近畿圏からは消滅。

2007年10月現在で残存しているのは以下の編成のみ。

広島運転所WAU102形冷房装置搭載車編成
クモハ103-48 モハ102-145 クハ103-86
クモハ103-2501 モハ102-403 クハ103-171
クモハ103-2502 モハ102-404 クハ103-170

関西本線関連(2500・2550番台)

国鉄時代に関西本線(大和路線)では、列車増発を編成短縮と編成数増加させることからクハ101・100形改造のクハ103形2000・2050番台で対応した。この方針は民営化後も引き続き行われたが、不足する先頭車は余剰中間車の改造で対応することになり1988年に以下の2形式7両が改造された。

クハ103形2500番台

モハ102形が種車で前位側に運転台を設置。方向転換し偶数向き専用。

  • モハ102-387・388・397・398→クハ103-2501 - 2504
クハ103形2550番台

モハ103形が種車で奇数向き専用。

  • モハ103-233・242・243→クハ103-2551 - 2553

両区分共通の改造内容は次に示す。

  • 電装解除と2550番台ではのパンタグラフの撤去。
    • ランボードや一部車両では側面の主電動機・電動発電機冷却風取入口も存置。
    • 2551・2552はパンタグラフ撤去跡に通風器が増設。
  • 台車は種車のDT33形を小改造したWDT33T形を継続使用。
  • 新設運転台は同社の方針から1974年以降製造の高運転台型ではなく、1次改良型の低運転台・シールドビームタイプ。

2500番台が1両多いのは、羽衣線に転用されたクハ103-194のを補充する必要からである。

改造時は全車非冷房であったが、後にに全車ともWAU102形による冷房化を施工。しかし、種車の車齢が高く、冷房能力も劣ることから早期に廃車対象となり、2500番台は播但線用3500番台へ運転台部品供出で1997年4月8日に、2550番台は状態のよい余剰車に置換えられて2006年3月1日に全廃。

片町線 一部電化関連(5000・2500番台)

1989年3月11日に片町線(学研都市線)が全線電化されたが、その際に開設された松井山手以西は7両編成での運転は可能であるが、以東の各駅はホーム長が短く入線不可であった。

  • そのため松井山手で京橋方4両を切離し、木津方3両のみが入線するという運用で対応することになった。さらに翌1990年には木津乗入れ編成を4両編成とする組成変更が行われた。
← 京橋
木津 →
1989年3月11日 - 1990年
クハ
103
モハ
103
モハ
102
サハ
102
+ クモハ
103
モハ
102
クハ
103
松井山手分離編成   木津直通編成
1990年 -
クハ
103
モハ
103
モハ
102
+ クモハ
103
モハ
102
サハ
103or102
クハ
103
松井山手分離編成   木津直通編成
  • 「+」は電気連結器使用。
  • この書体は以下で解説する連結・解放用装備搭載改造が施工され5000番台に区分された車両である。
クモハ103-5003 密着連結器下に電気連結器を装備
クモハ103-5003
密着連結器下に電気連結器を装備
サハ102-2 電気連結器撤去後
サハ102-2
電気連結器撤去後
クモハ103形5000番台
  • クモハ103-48・モハ103-248・249・241・295・304・427・435・480・485・499・727・729・770・772・780→クモハ103-5001 - 5016

分割・併合の迅速化のため、電気連結器と電気空気開閉器を搭載した区分。

  • 5001はクモハ103形が種車。他の15両はモハ103形に運転台を設置して対応。
    • 新番号は5004を除いて古い順に振り直された。
  • 新設運転台は、上述のクハ103形2500・2550番台と同様に1次改良型タイプだが、5001を含め奥行きがやや広く運転台直後の戸袋窓が改造時からない。
  • 種車が多岐に渡るため、前面以外の形態は各車ごとに異なる。
サハ102形5000番台
  • サハ103-385・277・280・281・286・290・320・323・366・383・386・390・416→サハ102-5001 - 5013

クモハ103形5000番台の分割・併合相手として、サハ103形0番台から改造された。

  • 電気連結器などの装備際、既存の床下機器と干渉するため方向転換されため通常のサハ103形と前後逆配置となり取扱が異なることから、別形式とされた。
  • 運用上松井山手に残されるため標識灯掛が設置され、運用範囲が狭いことから改造両数もクモハ103形5000番台より3両少ない13両(4両編成そのものが3本少ない)。
  • 5001を除いて新番号は古い順に振り直され、車両ごと形態に差異がある。

編成構成の変更により1年足らずで改造の意義が失われ、装備撤去と車番を-5000としたサハ102形0番台となった。

    • 方向転換は行われず、側面方向幕の設置位置[55]など、サハ103形との外観差異はその後も残った。
モハ102形5000番台
  • モハ102-395・450・459・590・635・638・640・654・882・884・2026・2028・2041→モハ102-5001 - 5013

編成組成の変更に伴い、新たにクモハ103形5000番台の分割・併合相手としてモハ102形0番台からの 改造された。

  • 改造内容はサハ102形5000番台に準じているが、方向転換はなされていない。
サハ103形2500番台
  • モハ103-232 → サハ103-2501

編成組成の変更に伴いモハ103形0番台から改造された付随車でクハ103形2550番台から運転台設置を省いた形態である。

  • 当初4両編成に組成されていたサハ102形を木津直通編成に転用されたが、編成本数に対して3両少なく車両不足が生じた。
    • 2両は一般のサハ103形が転用されたが、残りの1両にはユニット相手のモハ102-387がクハ103形2500番台に改造され余剰となったモハ103-232が種車。
片町線運用からの転用
クモハ103-2507

本区分番台は、1993年 - 1995年に207系の新製投入により、順次関連装備を撤去の上で他線に転用された。

クモハ103形

5001は原番復帰、5002以降は車番を-2501の2500番台に区分された。

  • 1997年 - 1998年にかけて9両が播但線用3500番台に改造され、2007年10月現在では以下の車両が残存する。
    • 広島運転所:48・2501・2502
    • 日根野電車区:2503・2504・2505・2507
      • 2504はユニットを組むモハ102-451とともに体質改善40N施工。
      • 2503・2504は羽衣線用ワンマン運転対応工事施工。
サハ102形

1・9 - 13は延命N40が施工されたが、2006年から廃車が始まり2008年に最後の1両となってい9が廃車となり形式消滅。

モハ102形

他線転用時などに電気連結器を撤去した車両もあったが、元番号復帰は電気空気開閉器を撤去した段階で実施。

  • 体質改善工事施工車もあるが、標識灯掛が残存しているため妻面の形状が一般のモハ102形と異なる。
サハ103形

WAU102形による冷房改造および延命N工事を施工されたが、2年後に廃車。

ATS-P形導入に伴うブレーキ弁改造・交換

ATS-P形搭載に付随して、ブレーキ弁の改修が施工された。

  • 電源投入方式がJR東日本と異なるため非常抜取対応のME48形は導入せず、従来からのME40形に電気接点部分改造施工で対応。
  • その後117系などに採用されたME49系への交換が開始された。

座席モケット交換

イメージアップの一環として、座席モケットが茶系統で3-1-3の区分入仕様に交換。

  • その後、緑色などの試験を経て近年ではシーマンブルー(わずかに紫がかった青)1色に再交換されつつある。

優先席も青地にピクトグラムの入ったものに交換されており、現存全車が施工済。

  • JR東日本からの売却車8両のうち、広島運転所に投入されたクハ103形2両は2010年現在もJR東日本仕様のまま残存。

腐食対策

延命の一環として、腐食の原因を取り除く、各種の改造がなされた。

窓閉塞

雨水の浸入を防ぎ車体腐食の遅延化ならびに窓清掃の簡略化から、1990年より戸袋窓の、1997年からは妻面窓の閉鎖工事を施工。

  • 2007年7月現在で戸袋窓残存車は日根野電車区・岡山電車区・広島運転所に4両編成1本ずつ、計12両のみである。
  • 妻面窓については閉鎖ではなく、オリジナルの2段開閉式から1枚固定ガラスへの交換車も存在。
扉交換

腐食防止のために側扉および貫通扉が鋼鉄製からステンレス製に交換。

  • 新扉は車両によって窓の支持方法が異なるほか、貫通扉はオリジナルより窓下方が長いものであり、現存するほぼ全車が施工済みである。
  • 扉に化粧板と同色のシールが貼られた車両も存在するが、側扉への施工はごく少数に限られ金属地むき出しが多数である。
前面金属板設置

窓支持用Hゴムの保護と運転台への風雨浸入防止のため、先頭車の前面ガラス・運行番号表示器・行先表示器の縁部分が金属板で覆う施策。

  • 金属枠支持の体質改善車・広島運転所所属車[56]和田岬線専用車・クモハ103形2500番台は対象外。

広島支社投入

下関運転所(現・下関総合車両所)の115系非冷房車置換えのため、山陽本線下関地区に本系列が投入されることになり、以下の転入対応改造が吹田工場鷹取工場で施工された。

  • ATS-S形・列車無線の搭載
  • 瀬戸内色への塗装変更
  • 方向幕不使用のため行先表示板(サボ)受けの設置
    • サボ受け設置位置の弱冷車表記は干渉するため移設
      • 弱冷車表記は移設前後とも未使用

1992年5月から順次運用開始したが、トイレ未装備が不評であったことからトイレ装備の近郊型電車に置き換えられ広島運転所に転属。後の転入車とともに広島地区での運用に投入された。

  • 側面方向幕の使用が開始されたがサボ受けは残存。
    • 前面方向幕は広島支社配置の他形式同様に未使用で運行表示機には編成番号を掲出。
    • 方向幕使用開始後に転入の4両編成1本はサボ受けが未設。
  • 車両需給の関係で一部は関西地区に再転属したが、サボ受けは未撤去。

2007年から順次関西地区で余剰となった113系[57]に置換えられ廃車となった。

  • 2008年に3本のみ配置されている3両編成のクハ103-86・170・171にトイレの設置と側面方向幕が移設された。

岡山支社投入

モハ103-497 1994年転入車
モハ103-497
1994年転入車
H17編成 日根野電車区転入車
H17編成
日根野電車区転入車
H18編成 奈良電車区転入車
H18編成
奈良電車区転入車
H19編成 広島運転所転入車
H19編成
広島運転所転入車

下関地区と同様に115系非冷房車を置換えるため、1994年より広島支社に続いて岡山支社にも投入された。

  • 岡山電車区に4両編成5本20両配置で、山陽本線岡山地区や宇野線などで運用。
  • 入線に際し、独自の「マスカット色」に塗装変更された。
1994年岡山地区転入編成構成
クハ103 モハ103 モハ102 クハ103

編成構成はすべて0番台でクハ103形は1次改良型、中間車も1971年以降のユニット窓装備車で統一された。

  • 冷房装置は全車一般的なAU75形搭載。
  • 中間MM'ユニット3組に延命N40施工。
  • 他の14両がN延命工事・戸袋窓閉塞施工済。

長らくこの20両で推移していたが、2004年213系「マリンライナー」の転用により運用離脱。

  • 3編成が広島支社に、N40施工MM'ユニット1組が奈良電車区にそれぞれ転属。
    • 対象MM'ユニットと編成を組成していたクハ2両は廃車。
  • 残存1編成は予備車とされたが2006年に廃車。

しかし、前後してアーバンネットワークでの車両置換えに伴い、奈良電車区・日根野電車区からの余剰車が転入して、本系列の運用が再開された。

2006年岡山地区転入編成構成
クモハ103 モハ102 サハ103 クハ103

1994年転入車と同じ0番台であるが、すべて上記の編成構成かつ初期車の率が高く1本は戸袋窓が存置されているなど比較的状態が悪いのが特徴。その後現在までに数度の車両交換があり、1994年転入車と同構成の編成も在籍するようになった。

  • ただし、塗装は転出元車両基地時代のままで統一されていない。

2008年末からは、広島運転所からの転入も行われたが、こちらも塗装変更は未施工[58]

スカート設置

201系などとともに、衝撃への耐久性を高める目的でスカート(排障器)が設置された。

  • 全先頭車に施工済。

延命工事

国鉄時代の「特別保全工事」を発展させる形で、車両延命と接客設備改善のための工事が行われた。試験的なものを除くと、内容によって以下の4種に分かれる。

延命N

製造から30年の使用を目指し外板整備・機器の一部更新・配管の交換および内壁の張替。

  • 1972年までの製造車大半が該当。
延命NA

国鉄時代の特別保全工事施工車に内壁の張替など前述の延命N工事と同様の工事を施工。

  • 施工済部分は省略。
延命NB

1970年以前製造の初期車が対象で延命N工事と同時にWAU102形搭載冷房改造・側窓の延命N40工事(後述)で使用されるものと同様の黒サッシへの交換を施工。

  • 施工車両は11両にとどまり、2006年4月までに全車運用終了により廃車。
延命N40

製造から40年の使用を目指し、外板整備・機器の一部更新・配管の交換・内壁の張替・窓サッシの交換(上段下降・下段固定の黒色サッシ)など上述3種よりも徹底した内容の工事。

  • 主に1973年 - 1976年製の車両に施工されたほか、広島運転所では1972年までに製造された車両の一部にも施工。
    • この工事で採用された黒色サッシは取付部枠の幅が太く、ガラス面積が従来より減少。

体質改善工事

体質改善工事試作車 クハ103-245
(2006年4月23日 上野芝駅)

1996年以降、後継車両の207系との落差改善と延命N40工事以上の徹底した延命を目的とした、リニューアル工事が実施された。これらの工事を受けた車両の車両番号標記は、国鉄時代の丸ゴシック体から、JR西日本独特の書体に変更されている(ただし、森ノ宮区所属車に見られる制御車前面の車番表記は国鉄書体である)。

体質改善40N

老朽車のイメージ払拭と保守性の向上のため、屋根の張上化、一部外板のステンレス化、屋根上通風器の撤去、側面ルーバー形状の変更、方向幕形状の変更、運転台の整備、運転台・ドア窓支持の変更(私鉄のような金属枠)、窓サッシの交換(ドア間は下段固定・上段上昇の3分割バス風逆T字サッシ、車端部は固定1枚)、運行番号表示器・行先表示器・前灯部分の内支持化(初期は金属枠)、内壁・床の張替、座席クッションの更新、荷棚のパイプ化、照明へのカバー取付、扇風機のラインデリアへの交換、冷房風道のラインフロー化が実施された。

この改造を最初に受けた8両編成1本(改造試作車)は、ドアエンジンが戸袋下部に設置された旧形国電以来のTK4形からドア上部設置の直動式に交換され、座席は全交換(207系と同一の、下部が空洞の片持ち式座席)、前灯は原形のまま、妻窓も残されたまま(後で埋められた)など、やや特殊な内容となっている。これらの工事内容は次第に簡略化が進み(冷房風道のラインフロー化をやめ従来風道の再用に、ラインデリア化をやめ扇風機の改造に変更など)、2002年からは後述の30N工事に移行した。

体質改善30N

2002年以降新車投入ペースが速まり、種車となる103系の車齢も高まっていたことから、内容が製造後30年程度まで使える程度に縮小されたものである。特に直接保守面、接客面への影響が少ない外装の改造は大幅に簡素化され、体質改善40Nに比べてドア・側窓・屋根樋などが原形のままとされている。1973年以降に製造された車両のうち、上記の5種類の更新工事を全く受けずに残っていたクハとモハが対象とされ、2005年までにそれに該当するクハ全車と1ユニット (M405-M'561、このユニットは廃車) を除くすべてのモハが実施されて終了した。

播但線投入(3500番台)

3500番台
クモハ102形3500番台
(2007年8月14日 寺前駅)
主要諸元
起動加速度 2.5 km/h/s
保安装置 ATS-Sw, ATS-P
テンプレートを表示
クモハ103形3500番台

1998年3月14日の播但線姫路駅 - 寺前駅間の電化により、同区間で本系列が使用されることになった。車両は需要とワンマン運転の利便性から、営業用としては本系列初の2両編成となり、改造費抑制のためにすでに片側に運転台を持つ2500(← 5000)番台クモハユニットから9本が1997年から1998年にかけて改造され、網干総合車両所に投入された。

この改造により、新たに3500番台と区分された。JR東日本に同じ番台区分が存在した(→#八高線 一部電化関連(3500番台))が、関連性は全くなく、設定形式も重複していない。改造には状態の良い車両が選ばれたため、種車が新しいユニットが中心となっている。

編成構成は以下のとおり。
↑寺前
  • クモハ103形3500番台:クモハ103-2506・2508 - 2515→クモハ103-3501 - 3509
クモハ103形2500番台から改造された車両。
  • クモハ102形3500番台:モハ102-583・636・641・655・883・885・2027・2029・2037→クモハ102-3501 - 3509
モハ102形0番台から改造された車両。運転台が設置され、クモハ102形となった[59]。運転台形状はクモハ103形2500番台に合わせ、1971 - 73年製造の先頭車に準じた低運転台の「1次改良型」とされている。なお、一部に廃車車両から流用された部品が使用されており、機器捻出のために廃車された車両も存在する。

全車とも改造と同時に体質改善40N工事が施行された。一部、すでに延命N40工事が施工されている車両が存在し、該当車は重複施工となっている。内容は基本的に同時期の一般の体質改善車に準じているが、ワンマン運転時の運転席からの視認性向上のために運転台仕切りと妻面貫通扉の窓が拡大されているのが特徴となっている。また、車内で運賃収受が行われることから、運転台仕切りにバスタイプの運賃表示器と非ワンマン時は運転台背面に格納できる運賃箱が設置されている。

車外では、ワンマン運転時に一部扉が閉め切られることから、客用扉付近に出入口を明示するLED表示器が設置され、クモハ103-3503と-3509には運転台上部に冬季の架線取用パンタグラフの増設準備がなされている。2005年から2007年にかけてクモハ102形に後述の3550番台と同型のトイレが設置され、該当部分の窓が埋め込まれた。塗装も独自のもの(→#JR設定色)である。2009年以降、ATS-PやTE装置の取り付けが順次行われている[60]

応援編成。投入当初で、比較的綺麗な状態。

これらに加え、2006年3月には日根野電車区から阪和線で使用していた0番台6両編成1本[61]が投入された。これは、姫路駅の高架化工事の進展によって山陽本線の線路と播但線の線路との間を構内入換で転線することが一時的に不可能となり、221系電車による朝ラッシュ時の応援運用ができなくなったためである[62]

この6両はラッシュ時以外に使用されないことから、3500番台に実施された各種の改造はなされず、塗装も阪和線のスカイブルーから変更されなかった。同年11月に検査期限が近づき、かつ同時期に223系2000番台4次車投入で113系に余裕が発生したのを受けて同系列の6両編成と交換された。全車最初期の1964年製造で老朽化が進んでいたため、同年12月15日付けで全車廃車されている。

和田岬線投入

和田岬線の103系

2001年の同線の電化に伴い、スカイブルーに塗られた延命N40工事車統一の6両編成1本が網干総合車両所明石支所に投入された。1本だけの配置のため、検査などで運用に就けない時には同区の207系などが代走する。

また、同線に列車の運行が無い日中時間帯に乗務員訓練に使用されるため、前面にワイパーが3本取り付けられているなどの特徴がある。

加古川線投入(3550番台)

3550番台
クモハ102形3550番台
後部の窓がない部分にトイレが設置されている。
(2004年12月19日 西脇市駅)
主要諸元
起動加速度 2.5 km/h/s
保安装置 ATS-Sw
テンプレートを表示
クモハ103形3550番台「2パンタ」車

2004年12月19日の加古川線全線電化に際し、播但線と同様(→#播但線投入(3500番台))と同様にワンマン運転対応の2両編成が投入されることになった。網干総合車両所加古川派出所に8本が配置されたが、これらは様々な変更が加えられており、新たに3550番台と区分されている。

編成構成は以下のとおり。
谷川
  • クモハ103形3550番台:モハ103-659・660・714・715・726・728・730・731→クモハ103-3551 - 3558
モハ103形0番台から改造された車両。運転台が設置され、クモハ103形となった。
  • クモハ102形3550番台:モハ102-815・816・870・871・882・884・886・887→クモハ102-3551 - 3558
モハ102形0番台から改造された車両。運転台が設置され、クモハ102形となった。

3500番台はクモハ103形ユニットの反対側のモハ102形に運転台が設置されて組成されたが、このグループは体質改善40N工事施工済みの中間モハユニットから改造された。これは、この時期体質改善工事は簡略化した体質改善30N工事に移行していたうえ、3500番台に改造されずに残っていたクモハ103形ユニットは年齢が高い車両が多く[63]、さらに、後述のとおり前面形状に変更があるため、既存の運転台がそのまま使えないという事情があったためである。

よって、種車捻出のために森ノ宮電車区奈良電車区の103系編成から中間モハユニットが抜き取られ、両端に運転台が設置された。運転台形状はそれまでの改造車から大幅に変更されて、前照灯が窓下に配され、2編成連結時に乗客の通行ができるよう貫通扉が設置され、105系に近いスタイルとなった。この措置は同時期に改造されたクモハ115形1600番台との共通点が見られる。

また、クモハ102形にJR西日本の103系で初めてトイレが設置された。これは洋式であるが、車椅子対応ではない。さらに、クモハ103形の一部は冬季の架線取用に、運転台上部にパンタグラフが増設(以下2パンタ車と表記)されている。

吹田工場で改造された車両と下関車両センターで改造された車両では、床面ビニールクロスの色や妻面部分化粧板の固定方法など細かい部分での仕様差がある。また、完成が電化より早く、登場からしばらくは網干駅や、網干総合車両所などに留置されていた。

3500番台とともに比較的分割・併合が多い路線に配置されるが、どちらも電気連結器などは未装備である。

福知山線脱線事故関連

戸袋窓閉塞後のモハ102-841の車内。この車両は壁材が2色になっている。

2005年4月25日の福知山線脱線事故により被災した207系の一部廃車および既存車両の帯色変更工事、117系ATS-P形非装備による同線からの撤退などの事象が重なり、車両が不足するようになった。このころは新車投入による網干総合車両所113系宮原総合運転所の103系の廃車・転出がほぼ完了していて一時的に代替車の都合が付かない状態にあったため、必要車両をJR東日本から購入してまかなうこととなり、武蔵野線で使用されていた8両編成1本を同年7月28日付で譲り受けた。なお、到着までの間は森ノ宮電車区が貸し出した大阪環状線の車両が不足分を補っていた。

これらの車両は既存の西日本車と編成を組み替えられ、先頭2両が広島地区、残りの中間車6両が関西地区に配備され、現在までバラバラに使用されている。車両不足が解消されてくると順次戸袋窓閉塞工事が行われたが、貫通扉は窓の小さいものを装備し続けており、深度の延命工事は行われていない。

現状

以上のような改造を受けつつ多くの車両が今も運用を続けているが、置換えも進んでおり、短編成化で余剰となったサハをはじめWAU102形搭載車や老朽化した初期車、ユニット窓の1971 - 1972年製造車の一部、さらには体質改善40Nを受けたサハにも廃車が発生している。

片町線(学研都市線)、東海道・山陽本線(JR京都・神戸線)福知山線(JR宝塚線)からは、JR東西線への入線対応や高速化のために207系に置き換えられてすでに消滅している。山陽本線岡山地区もロングシートである点やトイレがない点が不評であったために、213系などに置き換えられて一旦は消滅したが、2006年に入ってから日根野電車区および奈良電車区の余剰車(すべて4両編成)がそれぞれそのままの塗装で、行先表示幕を変更のうえで転属、岡山支社管内の電化区間で運行を再開しているが、2010年3月のダイヤ改正で再び定期運用から外された。

2006年 - 2007年には、JR京都・神戸・宝塚線系統に新型通勤形電車の321系が投入され、201系大阪環状線桜島線(JRゆめ咲線)・関西本線大和路線)に、205系阪和線に転用された関係で、西日本全域で大規模な103系の転属と廃車が行われた。JR東日本の場合と異なり、JR西日本では今後もしばらく103系を使用する方針のため、編成替えにより延命工事施工車や後期製造車で状態不良車を置き換えるという103系同士の置き換えも多々見られた。これによって以前より数が減ったが、現在でも初期製造車、延命工事未施工車も在籍し営業運転が続けられている。

JR九州

編成分割

ファイル:Electric car type 103-1500 kyushu 1.jpg
2代目九州色
3+3の6両編成で運行中の様子
(2008年8月4日 周船寺駅)
  • 以下の2形式が改造された。
    • クモハ103形1500番台
    • クモハ102形1500番台

筑肥線の日中の電車の一部が3両編成で運転されることになり、元々6両編成であった編成を2分割して中間運転台を取付ける改造を実施した。元の先頭車の向きにより「クハ103形-モハ103形-改造クモハ102形(奇数編成)」「改造クモハ103形-モハ102形-クハ103形(偶数編成)」の2通りの編成パターンが存在する。クハの前面貫通路が非常用なのに対し、改造先頭車は併結時に通路となるため105系仕様の前面が取付けられた。また、自動幌や電気連結器が取付けられている点とATCが設置されていない点に相違点がある。6両編成9本のうち4本が改造され、3両編成8本となっているが、ATCを搭載した先頭車(クハ)の向きの違いにより運用は二種類に分けられている。

現在、駅収受式ワンマン運転を行っている。ワンマン運転対応編成には車外スピーカーが追設されているほか、ドア開閉の際の安全確認対策として液晶モニターが取り付けられ、駅ホームに設置されたカメラの映像を確認して運転士がドアの開閉を行っている。先述のATCの関係から、西唐津 - 筑前前原間でワンマンの3両編成として運行し、地下鉄空港線に乗入れる際は筑前前原でクモハを中間に封じ込めるように奇数編成+偶数編成で6両編成を組んでから入線するという運行形態になっている。

スカート設置

国鉄時代に踏切事故対策として一部の先頭車にスカートを取付けたが、JR化後に全車取付を完了した。

トイレ設置

2002年度下期より103系としては初めてとなるトイレ設置を行った。全編成の唐津側先頭車(クハ103形奇数番号車またはクモハ103形)の車端部の海側に身体障害者対応の大型洋式トイレを設置し、トイレ設置部分の側窓・妻窓は埋込まれ、車椅子スペースとされたトイレ向いも側窓が4分の1ほどに縮小されている。この改造でJR九州の電車編成のトイレ設置率100%が達成された。

現状

腐食対策も他番台より徹底されていて車両の状態は良いものの、自動列車運転装置 (ATO) に対応しない点などから本来の製造目的であった地下鉄区間への乗入は1日18往復と減少している。また、VVVFインバータ制御の303系に比べて、抵抗制御で回生ブレーキを持たない103系は停止・起動を繰返さない方がエネルギー効率の点で有利という理由で、快速列車にはしばらく303系ではなく本形式が充当されていた[要出典][64]が、その快速運用も上りのみ一部を303系に譲っている。しかし、3両のワンマン運転も本形式のみが対応しており、しばらくは置換えとはならない模様である。

なお、地下鉄線内にはホームドアが設置されている。ホームドアの導入線区の車両には、通常ATOや電気指令式ブレーキによる定位置停止装置 (TASC) が装備されるが、本系列には搭載されていない。

その他

JR分社後共通して行われた改造

  • AU720形冷房装置搭載:松戸電車区(→松戸車両センター)所属車を中心にクーラーを209系と同タイプのものに交換した。効果の程は不明だが、結局一般車と区別なく廃車されている。また、JR西日本の日根野電車区森ノ宮電車区でも同様の工事を施工された車両が運用されている(JR西日本での呼称はWAU709形)。

特殊用途・試験改造車両

103系には、特殊な用途に使用されたり、車両試験を行うために改造された車両がある。

北海道へ渡った103系

北海道旅客鉄道(JR北海道)では元々、電化区間札幌近郊の交流電化区間のみで、かつ札幌都市圏における国鉄の輸送シェアも本州に比べ著しく低かったことや、車両自体にも徹底した耐寒・耐雪構造が必要なことから、国鉄時代から1両も103系が配置されたことはなかったが、1998年(平成10年)8月にJR東日本の廃車体が8両入線している。電動車はなく、クハとサハのみで、スカイブルーとエメラルドグリーンの混成編成を機関車牽引で北海道まで運び入れている。

ただし、この譲渡に関する情報は一般には全く公表されたことはなく、この北海道への移動自体、偶然列車を目撃した複数の者がネット上の掲示板および交友社『鉄道ファン』の1998年11月号 No.451のP.120に掲載された「103系が北海道へ」に津軽海峡線ED79形50番台に牽引された被験車8両編成の写真レポートが投稿されたため明らかになった。これらの車両が何の目的で北海道に集められたのかも分からないが、8両すべてが鉄道総研の所有物であったらしい。

『鉄道ファン』誌掲載の写真を見ると、大半の車両が窓、扉などの大幅な埋込、車体の延長または各部の欠取、クーラーの撤去、車番のRTRI-××への変更、密連から自連への換装などが行われている。また、この改造は東急車輛で行われた。

その後は苗穂工場内に留置されていた。工場内を移動することはあったが、関係者以外には一切非公開で、使用目的も明かされず、同年末までにすべて姿がなくなった。その後、同時期に廃車され、運転席などの窓を鉄板で塞がれた状態に改造された711系3両編成2本と衝突実験を行ったとの話であるが、これらの車両から集められたデータが何の役に立ったのかも公にはされていない。

参考:北海道へ渡った車両(所属は廃車直前のもの)
  • クハ103-396・454・481・482・719・724
  • サハ103-230・417

クハ103-396とサハ2両は松戸電車区所属でエメラルドグリーン塗装、他の5両は浦和電車区所属でスカイブルー塗装。

その他の試験

  • VVVF試験:JR東日本のクモハ103-87が東芝府中工場でVVVFインバータ装置を搭載する改造を行い、JR大船工場で試験が行われた。また、JR東海でも自社でクモハ103-4を改造してVVVF試験を行った。
  • DDM試験(モハ103-502):JR東日本が開発中だったダイレクトドライブ・モーターの試験搭載車。同期電動機駆動用制御装置としてIGBT素子のVVVFインバータ化され、ACトレイン(E993系)との比較実験に用いられたが、実験の終了にともない廃車されている。また、同様の試験が鉄道総研内でも行われていたが、試験車両は解体された。

インドネシアへの売却

2006年(平成18年)現在、本系列の国内私鉄各社への売却実績はないが、2004年(平成16年)にJR東日本の下記の16両がインドネシア鉄道会社 (PT. Kereta Api) に売却された。

クハ103-815 モハ103-752 モハ102-2009 クハ103-822
クモハ103-105 モハ102-231 サハ103-246 クハ103-597
クハ103-359 モハ103-654 モハ102-810 クハ103-384
クモハ103-153 モハ102-321 サハ103-210 クハ103-632

これらの譲渡車両は現地での長期使用を考慮し、すべて後期製造車もしくは車両更新工事施工車が選ばれた。その他の編成にも譲渡の計画があったが、その後103系より状態が良く、保守面において有利なオールステンレス車である東急8000系に変更されたため、103系の売却は16両で打切となった。

現地では前面下部にオレンジ色の大型スカート(排障器)が設置され、元都営6000形とともに、日本のODA・政府開発援助により整備されたジャカルタ首都圏通勤電車で、有料の急行 (Ekspres) 、準急(Semi Ekspres, 2008年に種別廃止)およびEkonomi AC(2007年新設)用として使用されている。

当初、塗装は武蔵野線のオレンジのまま使用されていたが、その後窓周りが黄色のツートンに塗られた。現在はさらに新たな塗装に変更されている。また、現地でもJR 103と呼ばれており、車番は日本での製造時から付番されていたものをステンシルで記入している模様である。ただし、「クハ」「モハ」に相当する記号標記は無い。

行先表示は前面窓内に方向板を掲出し、本来の行先表示器は使用しない。またJR時代の行先表示幕を掲げたまま走行していることもある。この他、車内には東京・首都圏の路線図がそのまま掲出されているなど、JR当時の装備が至るところで散見できる。また、前面窓に投石対策として金網が取り付けられた。現在ではおもにジャカルタコタ - タンゲラン (Tangerang) 方面のEkspres, Ekonomi ACに使用されている。

車両塗装

101系と同様に、103系では車両塗色にラインカラーが制定されて用いられ、JR発足後の現在でも使用されている。国鉄時代に定められた各路線の塗装は以下の5色と地下鉄乗入用車両の各専用色3色(それぞれの項で解説)の計8色であったが、現在では様々な地域色が発生している。なお、塗色の号数呼称は「国鉄車両関係色見本帳」に準拠し、その後の記号は修正マンセル記号である。また、JR設定色は塗料も含めすべて公式な呼称が存在しないため最も一般的と思われる呼称で紹介している。

  • なお、一部に車両の転属などで各路線の塗装として定められた色以外の塗装の車両を組込んだ編成も存在した。
    • この中には、誤乗防止のためにドア上などにステッカーを貼付したものも存在した。
現在の運用線区〔 〕は所属 過去の運用線区〔 〕は所属
ウグイス
黄緑6号 7.5GY6.5/7.8)
スカイブルー
青22号 3.2B5/8)
エメラルドグリーン
青緑1号 2BG5/8)
オレンジバーミリオン
朱色1号 0.5YR3/8.8)
カナリアイエロー
黄5号 2.5Y7.5/8.8)
  • 以上5種類は車体すべてを一色で塗装するものである。

地下鉄対応車両

過去の運用線区〔 〕は所属
シルバーグレー(灰色8号 N7)
+エメラルドグリーン(青緑1号 2BG5/8)
シルバーグレー(灰色8号 N7)
+カナリアイエロー(黄5号 2.5Y7.5/8.8)
シルバーグレー(灰色8号 N7)
+スカイブルー(青22号 3.2B5/8)
  • 中央・総武緩行線・東京地下鉄東西線〔三鷹電車区〕
    • 直通運転開始当初の帯色はカナリアイエローだったが、1989年(平成元年)より帯色をスカイブルーに変更した(直通する東西線のラインカラーに合わせた)。
スカイブルー(青22号 3.2B5/8)
+クリーム色(クリーム1号 1.5Y7.8/3.3)
  • 以上4種類は車体地色+帯色の組み合わせ塗装である。

JR設定色

現在の運用線区〔 〕は所属 過去の運用線区〔 〕は所属
九州色
  • 筑肥線〔唐津運輸区→唐津鉄道事業部唐津運輸センター〕
    • 1995年10月からシルバーと濃いグレーのツートーンに前面とドア部分のみレッド(乗務員扉はイエロー)というカラーリングに変更された。また2004年以降は塗装簡略化のためシルバーにドア部分のみレッドという303系に準じたカラーリングの車両も登場している。
    • 写真は上が初代九州色、下が2代目九州色
 
ファイル:JNR 103-Kyushu1500.jpg
仙石色□→□  
  • 仙石線〔陸前原ノ町電車区→宮城野電車区〕
    • 塗装が2回変わっている。詳細は仙台車両センター宮城野派出所#過去の配置車両を参照。
    • 写真
      • 上:初代仙石色(クハ103形500番台・AU712形冷房機を搭載している)
      • 下:2代目仙石色(クモハ103形・簡易版仙石線リニューアル工事が施行されている)
東海色  
  • 中央西線・関西本線〔最終配置:神領電車区〕
    • リフレッシュ工事(後述)施工車に塗られた塗装。それまでの青22号から変更された。クリーム色をベースに、窓下にオレンジと緑色(「湘南色」、または「JR東海色」ともいう)の帯が入る。床下機器もグレー一色に塗装された。
    • 写真はクハ103形。
マスカット色  
  • 山陽本線(岡山地区)
    • 薄緑に太い白帯1本と細い白帯2本というものだった。薄緑はマスカット岡山県の名産品の1つであることに由来している。
    • 写真はクハ103形。戸袋窓が閉鎖されている。
瀬戸内色
  • 広島シティネットワークエリア(山陽本線・呉線可部線)〔広島運転所
    • クリーム地(クリーム1号)に青帯(青20号)が1本入る。前面行先表示器は撤去。側面行先表示器も入線当初は使用せず、サボを使用していた。現在は方向幕を使用している。
    • 写真はクモハ103形。WAU102形冷房機を搭載している。
 
岡山・広島地区地域統一色
  • 広島シティネットワークエリア(山陽本線・呉線・可部線)〔広島運転所〕
    • JR西日本が2009年度から行っている地域に合わせた統一塗装で、瀬戸内地方の豊かな海に反射する陽光をイメージして、濃黄色の塗装が施される予定[65]
 
播但色(DIC N-727
  • 播但線姫路駅 - 寺前駅間(網干総合車両所)
    • ワインレッドに客用扉上部と運転台直後にダークグレー(DIC N-958)のアクセントが入る。運転台直後の戸袋のグレー部分には JR WEST JAPAN BANTAN103 の文字が書かれている。
 
加古川色
  • 加古川線(加古川鉄道部→網干総合車両所)
    • エメラルドグリーンに播但色同様のアクセントが入る。前面貫通扉下部と運転室直後の戸袋のグレー部分には JR WEST JAPAN KAKOGAWA103 の文字が書かれている。前面窓周りは黒色で塗装。
    • 写真はクモハ102形。車両後部の窓が無い部分にトイレが設置されている。
 

ラッピング・イベント塗装

  • USJ用
    • 桜島線(JRゆめ咲線)(森ノ宮電車区)
沿線にあるユニバーサル・スタジオ・ジャパンの広告車。同線専用の4本がそれぞれ違ったテーマのラッピングを施されている。ラッピングは時折変更がある。ユニバーサルグローブ編成は改装時に車体が白1色に塗られており、セサミストリート編成になった現在でも妻面は白1色である。
以下の6枚の写真はいずれも体質改善40N工事が施行されているクハ103形のものである。
  • 加古川線用
    • 加古川線(加古川鉄道部)
横尾忠則デザインで3551 (M1) 編成は2004年12月の運用開始時から「眼のある電車」としてチェックに目玉の(題名は「見る見る速い」)、3552 (M2) 編成は2005年12月から宇宙の(題名は「銀河の旅」)、3555 (M5) 編成は2006年3月からマーブル模様(題名は「滝の音、電車の音」)、3558 (M8) 編成は2007年6月から夜のY字路(題名は「走れ!Y字路」)のラッピングが施されている。
  • アニメ・ドリームトレイン1999用
イベントに合わせて車体を旧形客車を模したぶどう色2号に塗装した。
  • 関門・海峡物語

参考文献

通史

  • 福原俊一・永尾信幸・前納浩一『103系・301系通勤形直流電車』(車両史編さん会、2000年)
  • 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』156号、1964年4月 特集:国鉄通勤電車
  • 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』1985年5月号 No.447 特集:103系通勤形電車
  • 交友社『鉄道ファン』1993年4月号・5月号 No.384・385 特集:103系通勤形電車(1・2)
  • 「103系が北海道へ」(読者投稿)/交友社『鉄道ファン』1998年11月号 No.451 P.120
  • 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2003年12月臨時増刊号、鉄道友の会編「車両研究――1960年代の鉄道車両」(『車両研究』と略す)
    • 久保田博・福原俊一「インタビュー 1960年代前半の国鉄車両計画/動力近代化計画」
  • 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2004年4月号 No.745 特集:103系電車
  • 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2005年8月号 No.764 特集:惜別 JR東日本103系
  • 斎藤幹雄「インドネシアへ行った日本の電車」/電気社研究会『鉄道ビクトリアル』2006年12月号 No.783 P.107 - P.112
  • 交友社『鉄道ファン』2005年3月号 No.527 特集:101系 その顔の世界
  • 大熊孝夫「103系通勤形電車 誕生までのはなし」/交友社『鉄道ファン』2006年4月号 No.540 P.83 - P.105
  • 交友社『鉄道ファン』2006年5月号 No.541 特集:究極の標準形通勤電車103系
  • 特集:究極の標準形通勤電車103系〔訂正・補遺〕/交友社『鉄道ファン』2006年7月号 No.543 P.152 - P.153
  • 来住憲司「JR西日本 103系現況」/交友社『鉄道ファン』2007年1月号 No.549 P.32 - P.49
  • 岡本祐次「JR西日本・延命工事の概要」/交友社『鉄道ファン』2007年1月号 No.549 P.50 - P.53
  • 編集部「アーバンネットワーク2006年3月改正通勤・近郊形電車の現状」/鉄道ジャーナル社『鉄道ジャーナル』2006年8月号 No.478 P.52 - P.61

専門記事

  1. 岡部達郎(国鉄本社施設局停車場課)「中央線(東京-三鷹間)の増強計画について」『交通技術』1958年3月号、1958年、P.2 - P.6。
  2. 伊東正信(国鉄総裁室調査課)「昭和33年度国鉄の工事計画について」『交通技術』1958年5月号、1958年、P.6 - P.8。
  3. 酒井弘(国鉄本社電気局電力課)「通勤輸送に対処する自営電源と送電網」『交通技術』1958年6月号、1958年、P.32 - P.33。
  4. 国鉄臨時車両設計事務所 『これからの鉄道車両』1959年1月、1959年、P.11 - P.15。
  5. 大塚長一郎(京浜急行電鉄車両部長) 「補償線輪付車両用主電動機について」『電気車の科学』1959年5月号、1959年、P.11 - P.14。
  6. 塚本清治(国鉄技師長室)「昭和34年度の技術課題について」『交通技術』1959年7月号、1959年、P.2 - P.5。
  7. 榊原三郎(国鉄運転局客貨車課補佐)「昭和35年度電車計画の展望」『電車』1960年1月号、1960年、P.28 - P.33。
  8. 山村秀幸(小田急車両課長) 「小田急"HE車"の概要」『電気鉄道』1960年1月号、1960年、P.18 - P.21。
  9. 山村秀幸(小田急車両課長) 「小田急2400形HE車(1)」『電気車の科学』1960年2月号、1960年、P.12 - P.15。
  10. 「通勤電車とドア」『交通技術』1960年2月号、1960年、P.27。
  11. 山村秀幸(小田急車両課長) 「小田急2400形HE車(続)」『電気車の科学』1960年3月号、1960年、P.21 - P.26。
  12. 山村秀幸(小田急車両課長) 「小田急HE車(高性能高経済車)の概要(1)」『電車』1960年4月号、1960年、P.12 - P.20。
  13. 山村秀幸(小田急車両課長) 「小田急HE車(高性能高経済車)の概要(2)」『電車』1960年5月号、1960年、P.32 - P.39。
  14. 真宅正博・井上等(国鉄臨時車両設計事務所) 「国鉄試作電力回生ブレーキ電車」『電気鉄道』1960年9月号、1960年、P.25 - P.29。
  15. 真家昇(東鉄局電力課) 「中央線電車線路整備工事について」『電気鉄道』1960年10月号、1960年、P.14 - P.16。
  16. 井ノ口章太郎(国鉄本社電気局電力課)「国鉄関東地区の電気需要と供給力」『交通技術』1961年3月号、1961年、P.2 - P.5。
  17. 小沼清志(国鉄技師長室)「昭和36年度の国鉄技術課題」『運転協会誌』1961年6月号、1961年、P.26 - P.27。
  18. 大城康世・川添雄司(国鉄外務部・元国鉄関東支社大井工場)「こんごの通勤電車」『JREA』1961年6月号、1961年、P.14 - P.17。
  19. 太田清水(国鉄鉄道技術研究所電気材料調査研究室) 「H種絶縁」『電気鉄道』1961年9月号、1961年、P.23 - P.24。
  20. 太田益次(大阪鉄道管理局電気部変電課) 「大阪環状線の時間短縮に伴う運転用電力について」『電気鉄道』1962年6月号、1962年、P.6 - P.8。
  21. 井上等(国鉄臨時車両設計事務所技師)「今後の電車用主電動機」『電車』1962年7月号、1962年、P.36 - P.43。
  22. 萩原仁太郎(仙台鉄道管理局福島電力区・元千葉鉄道管理局電力課) 「トロリー線の集電摩耗とその対策について」『電気鉄道』1962年9月号、1962年、P.9 - P.12。
  23. 久保田博(国鉄工作局車両課補佐) 「103系通勤電車誕生のいきさつ」『電車』1963年1月号、1963年、P.27 - P.34。
  24. 岡田直昭(国鉄臨時車両設計事務所技師) 「103系電車の概要」『電車』1963年1月号、1963年、P.35 - P.44。
  25. 河合肇(国鉄運転局客貨車課)「新形通勤電車103系および101系の次期投入線区について」『電車』1963年1月号、1963年、P.45 - P.51。
  26. 井上等(国鉄臨時車両設計事務所技師)「103系電車の概要」『電気車の科学』1963年2月号、1963年、P.6 - P.10。
  27. 岡田直昭(国鉄臨時車両設計事務所技師)「新通勤形103系電車」『電気鉄道』1963年3月号、1963年、P.11 - P.13。
  28. 佐藤武士(静鉄静岡運転所) 「新形電車における1ユニット不動の推定法と運転扱いについて」『電車』1964年3月号、1964年、P.26 - P.37。
  29. 寺島和年(前大鉄運転部電車課長)「大阪国電の現状とその将来について」『鉄道ピクトリアル』1964年4月号、1964年、P.25 - P.27。
  30. 久保田博(仙鉄運転部長・元本社工作局)「国鉄通勤形電車の最近の動き」『鉄道ピクトリアル』1964年4月号、1964年、P.35 - P.37。
  31. 小沢耕一(東鉄運転部電車課長)「東京の通勤輸送の現状と問題点」『鉄道ピクトリアル』1964年4月号、1964年、P.4 - P.6。
  32. 石本祐吉(川崎製鉄KK千葉製鉄所)「通勤形電車はどうあるべきか」『鉄道ピクトリアル』1964年4月号、1964年、P.72 - P.73。
  33. 加藤精一(国鉄大井工場第1電車職場長)・望月旭(国鉄浜松工場製缶職場長) 「電車用主電動機の性能向上」『電車』1964年4月号、1964年、P.66 - P.76。 (注:ガラスバインドとハンダレス整流子関係)
  34. 久保卓三(国鉄運転局客貨車課) 「国鉄中央線と地下鉄5号線の相互乗り入れについて (1) 」『電車』1964年5月号、1964年、P.12 - P.18。
  35. 小沢耕一(東鉄運転部電車課長) 「東京付近の通勤輸送をめぐって」『電車』1964年5月号、1964年、P.45 - P.54。
  36. 川添雄司(国鉄臨時車両設計事務所技師) 「ユニット不動の推定法と運転扱いについてを読んで」『電車』1964年5月号、1964年、P.66 - P.68。
  37. 運転局客貨車課 「新形電車現行使用限流値調べ」『電車』1964年5月号、1964年、P.18。
  38. 大石一男(静鉄静岡運転所) 「現場から見たユニット不動時の運転の問題について」『電車』1964年6月号、1964年、P.52 - P.53。
  39. 久保卓三(国鉄運転局客貨車課) 「国鉄中央線と地下鉄5号線の相互乗り入れについて (2) 」『電車』1964年6月号、1964年、P.85 - P.93。
  40. 「103系量産車の運転性能試験が実施される!!」『電車』1964年7月号、1964年、P.31。
  41. 丹羽一夫(元運輸省都市交通課専門官・現運輸省保安課補佐) 「東京およびその周辺における都市交通について」『電車』1964年8月号、1964年、P.22 - P.27。
  42. 「国鉄中央線と地下鉄5号線との相互直通車両の規格仕様に関する覚え書が交換された」『電車』1964年8月号、1964年、P.54 - P.56。
  43. 岡田直昭(国鉄臨時車両設計事務所技師) 「運転台シリーズ (4)  国電103系の運転台 (1) 」『電車』1964年10月号、1964年、P.73 - P.78。
  44. 岡田直昭(国鉄臨時車両設計事務所技師) 「運転台シリーズ (4)  国電103系の運転台 (2) 」『電車』1964年11月号、1964年、P.32 - P.35。
  45. 「新らしい機器の紹介 C2000形空気圧縮機」『電車』1964年12月号、1964年、P.31 - P.33。
  46. 小田急電鉄株式会社 『新設計の通勤車について』1965年2月1日、1965年、P.1 - P.16。 (注:2600形の設計時資料)
  47. 森章(東鉄局電気部電力課長)「東鉄における電車線路の保守について(その1)」『電気鉄道』1965年5月号、1965年、P.19 - P.22。
  48. 川添雄司(国鉄臨時車両設計事務所)「電気車の性能と容量(その1)」『電気鉄道』1965年5月号、1965年、P.23 - P.25。
  49. 伊東正行(東京急行電鉄株式会社電気部変電課変電係長)「回生制動により生ずる回転変流機の逆流防止装置」『電気鉄道』1965年6月号、1965年、P.8 - P.11。
  50. 川添雄司(国鉄臨時車両設計事務所)「電気車の性能と容量(その2)」『電気鉄道』1965年6月号、1965年、P.20 - P.22。
  51. 小林喜幹(国鉄運転局客貨車課)「京浜東北線にはどのような性能の車両がよいか」『電車』1965年6月号、1965年、P.13 - P.19。
  52. 森章(東鉄局電気部電力課長)「東鉄における電車線路の保守について(その2) ダブルシンプルカテナリ (1) 」『電気鉄道』1965年8月号、1965年、P.24 - P.26。
  53. 森章(東鉄局電気部電力課長)「東鉄における電車線路の保守について(その3) ダブルシンプルカテナリ (2) 」『電気鉄道』1965年9月号、1965年、P.21 - P.24。
  54. 柿沼道夫・後閑始(東京鉄道管理局田端電力区)「東鉄における電車線路の保守について(その6) ダブトロ工事の施行および今後の保守」『電気鉄道』1966年1月号、1966年、P.27 - P.31。
  55. 石塚健次郎・山口義雄・杉野治之・小沼栄(以上 東鉄池袋電車区電車検査掛)・藤巻亀忠(東鉄池袋電車区電車運転士)「103系電車のブレーキ時の衝動と防止対策」『電気車の科学』1966年4月号、1966年、P.13 - P.17。
  56. 佐藤善一(国鉄電気局電化課)「列車運転における電力消費率」『電気鉄道』1966年9月号、1966年、P.2 - P.6。
  57. 高藤茂(国鉄池袋電車区長)「運転業務研究会をかえりみて」『電気鉄道』1966年11月号、1966年、P.24 - P.27。 (注:103系電車のブレーキ衝動対策関係)
  58. 平野慎吾(古河電工)・武田清治(昭和電線電纜)・皆川伯夫(日立電線)・稲川洋一(藤倉電線)・川端昭雄(大日日本電線)・宗像和夫(住友電工)「電車線路用裸電線について(第2章トロリー線について)」『電気鉄道』1966年12月号、1966年、P.39 - P.43。
  59. 平野慎吾(古河電工)・武田清治(昭和電線電纜)・皆川伯夫(日立電線)・稲川洋一(藤倉電線)・川端昭雄(大日日本電線)・宗像和夫(住友電工)「電車線路用裸電線について(第3章き電線について)」『電気鉄道』1967年1月号、1967年、P.31 - P.35。
  60. 内田真・藤村敏郎(以上 国鉄鉄道技術研究所)・権藤豊義・府川有治・佐藤善一・冨中昭三(以上 国鉄電気局電化課)「大都市通勤輸送区間における大電流き電回路の現状と問題点」『電気鉄道』1967年4月号、1967年、P.2 - P.18。
  61. 山本幸司・粥川昭二・飯島薫・塙三郎(以上 国鉄品川電車区)「ATS-B形諸問題の現状と対策について」『電気鉄道』1967年6月号、1967年、P.17 - P.21。(注:列車運転時の電圧変動関係)
  62. 金子一彦(国鉄新宿変電区)「車両の空転によるき電用高速しゃ断器の動作について」『電気鉄道』1968年2月号、1968年、P.16 - P.20。
  63. 浅野幸夫(国鉄運転局機関車課)「電気車の運転性能 (I) 」『電気鉄道』1968年3月号、1968年、P.9 - P.12。
  64. 浅野幸夫(国鉄運転局機関車課)「電気車の運転性能 (II) 」『電気鉄道』1968年4月号、1968年、P.22 - P.24。
  65. 猪野淳之助(国鉄車両設計事務所次長)「通勤電車設計の展望」『鉄道ピクトリアル』1968年4月号、1968年、P.4 - P.7。
  66. 小林喜幹(国鉄運転局客貨車課)「国鉄通勤電車の配置運用と見通し」『鉄道ピクトリアル』1968年4月号、1968年、P.8 - P.10。
  67. 浅野幸夫(国鉄運転局機関車課)「電気車の運転性能 (III) 」『電気鉄道』1968年5月号、1968年、P.19 - P.21。
  68. 高橋金吾(国鉄運転局列車課)「電気車の運転性能 (IV) 」『電気鉄道』1968年6月号、1968年、P.18 - P.21。
  69. 高橋金吾(国鉄運転局列車課)「電気車の運転性能 (V) 」『電気鉄道』1968年8月号、1968年、P.13 - P.15。
  70. 宇津木弘(東京西局運転部電車課)「青梅・五日市線に103系電車を迎えて」『電車』1977年3月号、1977年、P.37 - P.40。
  71. 角野勇・春日井竹次(以上 国鉄大阪電気幸司局) 「桜井線・和歌山線(王寺・五条間)及び草津線の電車線路設備の概要」『電気鉄道』1980年4月号、1980年、P.13 - P.17。
  72. 沼野稔夫(車両設計事務所電気車主任技師) 「電気車両の省エネルギー (1) 」『電車』1981年2月号、1981年、P.25 - P.29。
  73. 沼野稔夫(車両設計事務所電気車主任技師) 「電気車両の省エネルギー (2) 」『電車』1981年3月号、1981年、P.18 - P.23。
  74. 沼野稔夫(車両設計事務所電気車主任技師) 「電気車両の省エネルギー (3) 」『電車』1981年4月号、1981年、P.22 - P.25。
  75. 沼野稔夫(車両設計事務所電気車主任技師) 「電気車両の省エネルギー (4) 」『電車』1981年5月号、1981年、P.52 - P.54。
  76. 島秀雄(宇宙開発事業団理事長) 「電車列車の経済運転について」『電気車の科学』1982年7月号、1982年、P.56 - P.57。
  77. 加進昇(車両設計事務所電気車補佐) 「界磁制御車両について(昭和58年度技術課題の成果)」『電車』1984年10月号、1984年、P.18 - P.23。
  78. 大沢健(日本鉄道建設公団計画部調査課) 「運転曲線の作成 (1)  -パソコンによる-」『電車』1986年1月号、1986年、P.26 - P.31。
  79. 大沢健(日本鉄道建設公団計画部調査課) 「運転曲線の作成 (2)  -パソコンによる-」『電車』1986年2月号、1986年、P.15 - P.21。
  80. 大沢健(日本鉄道建設公団計画部調査課) 「運転曲線の作成 (3)  -パソコンによる-」『電車』1986年3月号、1986年、P.10 - P.14。
  81. 大沢健(日本鉄道建設公団計画部調査課) 「運転曲線の作成 (4)  -パソコンによる-」『電車』1986年4月号、1986年、P.16 - P.20。
  82. 大沢健(日本鉄道建設公団計画部調査課) 「運転曲線の作成 (5)  -パソコンによる-」『電車』1986年6月号、1986年、P.23 - P.28。
  83. 石川陽一(車両局設計課)「電力消費量の比較 山手線の205・103系」『電車』1987年3月号、1987年、P.6 - P.9。
  84. 古田良介(JR東日本運輸車両部車両課) 「機器別シリーズ 電車用主電動機 (1) 」『電車』1987年8月号、1987年、P.31 - P.37。
  85. 古田良介(JR東日本運輸車両部車両課) 「機器別シリーズ 電車用主電動機 (2) 」『電車』1987年9月号、1987年、P.25 - P.29。
  86. 古田良介(JR東日本運輸車両部車両課) 「機器別シリーズ 電車用主電動機 (3) 」『電車』1987年10月号、1987年、P.24 - P.29。
  87. 古田良介(JR東日本運輸車両部車両課) 「機器別シリーズ 電車用主電動機 (4) 」『電車』1987年11月号、1987年、P.19 - P.26。
  88. 須永宏資・田部井賢夫(以上 JR東日本下十条運転区経済運転プロジェクトチーム) 「経済運転実践の研究」『電車』1987年11月号、1987年、P.21 - P.29。
  89. 曽根悟(東京大学教授電気工学) 「101系電車の評価と日本の通勤電車」『鉄道ピクトリアル』1987年11月号、1987年、P.20 - P.23。
  90. 国井浩一(JR東日本運輸車両部運用課)「常磐線快速の15両化」『電車』1988年1月号、1988年、P.24 - P.27。
  91. 小口良夫(鈴木合金株式会社東京営業所・元国鉄車両局設計課) 「機器別シリーズ 電車用主抵抗器 (1) 」『電車』1988年5月号、1988年、P.17 - P.24。
  92. 小口良夫(鈴木合金株式会社東京営業所・元国鉄車両局設計課) 「機器別シリーズ 電車用主抵抗器 (2) 」『電車』1988年7月号、1988年、P.33 - P.39。
  93. 小口良夫(鈴木合金株式会社東京営業所・元国鉄車両局設計課) 「機器別シリーズ 電車用主抵抗器 (3) 」『電車』1988年8月号、1988年、P.49 - P.57。
  94. 曽根悟(東京大学教授電気工学) 「103系をどうするか」『鉄道ピクトリアル』1995年3月号、1995年、P.28 - P.29。
  95. 曽根悟(工学院大学電気工学科教授) 「私鉄高性能車は何をもたらしたか」『鉄道ピクトリアル』2003年1月号、2003年、P.10 - P.18。
  96. 日本規格協会 「JIS E 4001 鉄道車両用語:1999」『JISハンドブック69鉄道2008』2008年6月、2008年、P.957 - P.1032。
  97. 日本規格協会 「JIS E 6002 通勤用電車の性能通則:1989」『JISハンドブック69鉄道2008』2008年6月、2008年、P.2026 - P.2030。

地下鉄対応・他形式からの改造番台

  • 中村新一・野元 浩「103系3000番代通勤形直流電車」/電気車研究会『鉄道ピクトリアル』1985年10月号 No.454 P.65 - P.67
  • 「国鉄最初の地下鉄電車301系と103系1000・1200番台の活躍を振り返る」/交友社『鉄道ファン』2003年8月号 No.508 P.96 - P.103
当時の国鉄と営団の車両技術メンバーによる誌上座談会。
  • 久保 敏「旧形国電から103系に変身したウグイス色電車 103系3000番台」/交友社『鉄道ファン』2004年2月号 No.514 P.105 - P.109

国鉄資料

  1. 車両設計事務所 『103系通勤形直流電車』1964年
  2. 車両設計事務所 『103系通勤形直流電車』1971年3月
  3. 車両設計事務所 『電車性能曲線』1962年
  4. 車両設計事務所 『電車性能曲線(追録)』1964年2月
  5. 車両設計事務所 『電車性能曲線(追録)』1969年3月
  6. 車両設計事務所 『電気機関車性能曲線』1962年
  7. 運転局 『電車気動車加速力曲線』1966年
  8. 運転局 『速度定数便覧』1972年

脚注

  1. ^ 廃車第1号は1971年のモハ102-169・クハ103-548。
  2. ^ 設計途中での設備部門との打ち合わせでは容量不足の懸念はなぜか見落とされていた。(『車両研究』P.27 - P.28)
  3. ^ 試験の結果、4M4T編成では力行時における主電動機の電機子および界磁の温度上昇が著しく4M3Tが上限と判断され、実用上は4M2Tが望ましいとされた。
  4. ^ a b 『車両研究』p.27-30
  5. ^ 国鉄臨時車両設計事務所 『モハ90形電車詳説』1958年11月、1958年、P.4
  6. ^ RP156 P.35 - P.37
  7. ^ 「鉄道ファン訪問 -みたり きいたり はなしたり- 斎藤雅男氏」、『鉄道ファン Vol.9 No.96 1969年6月号』、交友社、1969年、P.34
  8. ^ 101系は限流値480Aで63分、本系列は限流値415Aで62分50秒の基準運転時分である。鉄道ファン2006年4月号。
  9. ^ 大城康世・川添雄司:「こんごの通勤電車」JREA1961年6月号、P.14 - P.17
  10. ^ 小林喜幹:「京浜東北線にはどのような性能の車両がよいか」電車1965年6月号、P.13 - P.19
  11. ^ 検討時の平均駅間距離は赤羽-蒲田間の値で、京浜東北線全体では2km台となる。
  12. ^ ブレーキ初速度が高い常磐線向けにこの台車を開発したのではなく、偶々開発終了と常磐線への投入時期が重なった。
  13. ^ 交友社「電車」1973年(昭和48年)7月号に明石電車区吹田工場担当者の記事あり。
  14. ^ 1000・1200・1500番台を除く
  15. ^ 通勤型電車というカテゴリーでは、それ以前の1959年(昭和34年)に名古屋鉄道5500系電車が冷房を装備して登場しているが、クロスシート車両であり登場当初優等列車に優先的に使用されていたことには注意する必要がある。
  16. ^ 番号は従来車の続番。
  17. ^ モハ102形がモハ103形より1両多く製造された理由は、1971年の発生した洋光台事故で廃車となったモハ102-105の補填として製造されたモハ102-445が含まれるため。
  18. ^ これ以降の製造分が「○次改良車」と呼ばれることはない。
  19. ^ JR西日本に継承された車両のうち、JR化後にWAU102形で冷房改造された車両については、側面の電動方向幕の取り付けが行われていない。
  20. ^ 東海道本線基準で山側
  21. ^ クハ103形・モハ102形の車番がそれぞれ701 -・2001 -と途中から飛番号になっているが、これは過去に製造された500・900・1000番台などとの干渉を防ぐための措置であり、飛番に伴う仕様変更はない。
  22. ^ クハ103-811・818は1984年2月のダイヤ改正に伴う山手線増発用としてATC設搭載工事を施工し、池袋電車区へ転属。
  23. ^ 最初の17編成は500番台ではなく、0番台のクハ103が製造された
  24. ^ 帝都高速度交通営団『東京地下鉄道千代田線建設史』(1983年(昭和58年)刊)より
  25. ^ そのため、両者の車両使用料に格差が生じた。
  26. ^ 無論ホームや車内の乗客にも熱風が浴びせられる。
  27. ^ 『鉄道ファン』交友社、1982年11月。 
  28. ^ a b 『電気車の科学』電気車研究会、1982年11月。 
  29. ^ 自動信号化後の1984年に転入したクモハ103-1・2・144・149・クハ103-74・81・92・503の8両は未施工。
  30. ^ ただし、冷房装置や側面行先表示機は未搭載。
  31. ^ 理由として、車体は新形であるが老朽化を含め下回りは旧性能電車のため検査周期が短く対費用効果の観点からも不利であったこと。埼京線開通の際に投入予定であった本系列が同じ路線を走行する場合に性能的にダイヤ編成上の障害となる恐れがあったためとされる。
  32. ^ 予備品の台車をあらかじめ整備しておき、台車検査を受ける車両の台車を整備済品と交換してすぐさま検査を終了させる方法。検査を受ける車両から抜取られた台車は整備の後、次に検査を受ける車両の交換などとしてストックしておく。検査期間が短くなるという利点があるが、常時各形式の予備台車をストックしておかなければならないという欠点がある。
  33. ^ 停車中、乗客が客用扉を1枚単位で自由に開閉できるようにする機能。主に冬期の車内保温の目的で装備される。3000番台の場合はドアに取手が付いており、手動で開閉するものを装備。なお、取手には2種類の形状が存在し、ともに装備する車両も存在した。
  34. ^ 予備車期間中に205系3000番台の車両故障で代走運用に投入され、これが本当の最終運用となった。
  35. ^ 国鉄では1980年代より1列車あたりの編成両数を減らし、代わりに運転本数を増やすことでサービス改善をする政策(フリークエント・サービス、広島シティ電車方式)を実行していた。具体的には長編成からモハユニットを抜取り、そこに新たに先頭車を連結するという方法が取られたので、この時期には全国的に先頭車が不足する傾向にあった。1984年2月1日国鉄ダイヤ改正1986年11月1日国鉄ダイヤ改正も参照。
  36. ^ 京阪神緩行線#分割民営化前後も参照。
  37. ^ SC24形補助電源装置は自車の冷房装置に供給するだけの容量しか持っていないため、混結したAU75系車に電源供給が出来ない。
  38. ^ 本系列の塗装変更が完了するまでは、「総武・中央線各駅停車」の透明ステッカーを205系編成の黄色帯の上部分に貼付して対応した。
  39. ^ 帯のスカイブルー化は301系の登場時より営団から依頼されていたが、国鉄側が拒んでいたために実現していなかったという。
  40. ^ 灰色で塗りつぶしていた時期もある。
  41. ^ この改造により「快速 中野」などの種別表示も追加。
  42. ^ 松戸転出車は、冷房電源のない車両ばかりで冷房化に支障があったことから1993年 - 1994年にかけてすべて廃車になり、製造年の古い1000番台より先に消滅した。モハ103・102-1044などの1000番台は2002年以降の廃車である。
  43. ^ 三鷹区では冷房用電源を装備していたMM'ユニット6組のみで、10両編成では2組の組成が必要なことから、第3 - 5編成が残存した。転出車の中にユニットサッシ車の第2編成が混ざっていたにもかかわらず、モハ103・102-1202(三鷹電車区に唯一残った非ユニットサッシ車)が残されたのは冷房電源のためであり、この2両は松戸転出車廃車後も2003年5月まで運用され続けた。
  44. ^ 元々A-A基準、AU75形集中式冷房装置装備で製造された車両であり、軽微な改造で編入。
  45. ^ この編成には両方の先頭車に幌が取り付けられた。
  46. ^ 構内配線の変更から本来は多賀城止り列車が、東塩釜まで延長運転せざるを得ない状況になるため、編成不足が予測されることから予備編成確保を迫られた。
  47. ^ 当初は準備工事で営業運転開始時に設置完了。
  48. ^ 試運転では石巻まで入線実績はある。
  49. ^ 「ありがとう!103系」ヘッドマーク取り付けと運行終了について (PDF)
  50. ^ 103系RT-235編成が郡山へ - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp 2009年10月27日
  51. ^ 103系RT-235編成,解体へ - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp 2010年1月14日
  52. ^ 私有地につき関係者以外立入禁止。
  53. ^ 駅名は「てっぱく」で自動改札機プラットホームなども設置。自動改札機は、旧式のJR型のものを設置。
  54. ^ 工場公開時もそのままで展示。
  55. ^ 向きが反転しているため、通常は偶数向きクハを除き揃っている側面方向幕の位置が逆側になる。
  56. ^ 2003年から2005年の間、金属板設置工事を施工された福知山線用車2両が転用された。現在は阪和線に再転用。
  57. ^ 一部を除き高速化対応を解除。
  58. ^ 『鉄道ファン』 交友社、2009年3月 P.193
  59. ^ モハ102形の番号が2500台でないのは、クモハ103形と異なり片町線 一部間電化に際して改造対象とならなかったためで、改造時に編成変更が行われたわけではない。
  60. ^ 『JR電車編成表 2010夏』交通新聞社、2010年、p.169頁。ISBN 9784330143101 
  61. ^ 寺前方からクハ103-15+モハ103-15+モハ102-15+モハ103-16+モハ102-16+クハ103-16を借り入れていた。元は中間に延命N40工事を受けたサハ102形サハ102-10および13が挟まれていたが、転入時に廃車された。
  62. ^ この間、車庫からの回送は一旦東へ走り、主に宝殿駅で折り返していた。
  63. ^ 3500番台となった車両と同世代のクモハ103形ユニットは1組が残るのみである。
  64. ^ 303系が地下鉄線内で自動放送を行うのに対し、本形式は車掌が放送を行っており、快速運転をする際に案内がしやすいこともある。303系には快速運転をする際の自動放送が録音されていない。快速は地下鉄線内では各駅停車のため、上りの快速の一部を303系で運行する際、地下鉄線内での快速停車駅などの案内放送は不要である。
  65. ^ 広島支社 車体塗装の変更について[リンク切れ] - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2009年12月9日

外部リンク

abc順に配列する。

関連項目

  1. ^ 地球環境保全への貢献”. 東海旅客鉄道. 2023年11月29日閲覧。