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アグネスフライト

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アグネスフライト
京都新聞杯出走時
(2000年5月6日、京都競馬場)
欧字表記 Agnes Flight[1][2]
品種 サラブレッド[1]
性別 [1][2]
毛色 栗毛[1][2]
生誕 1997年3月2日(27歳)[1][2]
死没 (存命)
サンデーサイレンス[1][2]
アグネスフローラ[1][2]
母の父 ロイヤルスキー[1][2]
生国 日本の旗 日本北海道千歳市[1][2]
生産者 社台ファーム[1][2]
馬主 渡辺孝男[1][2]
調教師 長浜博之栗東[1][2]
厩務員 大川鉄雄[3]
競走成績
生涯成績 14戦4勝[1][2]
獲得賞金 2億9919万3000円[1][2]
勝ち鞍
GI 東京優駿 2000年
GII 京都新聞杯 2000年
オープン 若草ステークス 2000年
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アグネスフライト(欧字名:Agnes Flight1997年3月2日 - )は、日本競走馬種牡馬[1]

2000年の東京優駿(日本ダービー)(GI)優勝馬である。その他、同年の京都新聞杯GII)を制した。

祖母アグネスレディー、母アグネスフローラに続いてクラシックを優勝し、日本競馬史上初となる親仔三代クラシック優勝を達成。牝馬で大タイトルを多く得た騎手河内洋に、ダービージョッキーの称号を授けた馬として知られる。1歳下の全弟は、2001年の皐月賞を無敗で優勝したアグネスタキオンである。

デビューまで

誕生までの経緯

アグネスレディー
アグネスレディー

アグネスレディー(アグネスフライトの祖母)は、1976年に北海道三石町の折手牧場で生産された牝馬である。母はイコマエイカン、父はリマンドだった[4]。母はリマンドと初年度から5年連続で交配しており、アグネスレディーが産まれたその年には、同じ両親をもつ兄であるグレイトファイターが小倉大賞典を優勝[5]、同じく姉のクインリマンドが桜花賞テイタニヤに次ぐ2着となっていた[4]。兄姉の活躍から、注目が集まった妹は必然的に価値、価格が高騰[6]。その妹を渡辺孝男が、付き添いの長浜彦三郎調教師の制止を振り切って、1700万円[注釈 1]で購入していた[8]。渡辺は、妻を亡くしてから娘との共通の話題を持つために馬主を始めており、冠名は長女がファンだったアグネス・チャンから拝借し「アグネス」を用いていた[9]。兄姉は、母イコマエイカンと同じ、栗東トレーニングセンターの吉永猛厩舎に属していたが、アグネスレディーはそれとは異なり、長浜厩舎に入厩して競走馬デビュー[10]河内洋を主戦に据えて1979年の優駿牝馬(オークス)、1980年の京都記念(春)朝日チャレンジカップを優勝するなど18戦5勝で引退。その後は、繁殖牝馬となった。渡辺は、イギリスの経団連の会長に頼み込んで、年間44頭しか交配させないイギリスの種牡馬ミルリーフとの種付け権利を確保し、アグネスレディーをイギリスに送って交配を実行[11][12]。1982年に初仔となる牡馬を得るなど、渡辺はこの血統に心血を注いでいた[注釈 2][13]

アグネスレディーはその後、生まれ故郷の折手牧場に留まって生産を続けた[17]。1986年、6年目の種付けでは、渡辺がアグネスレディーの勝てなかった桜花賞を勝てる仔が欲しいと打ち明けて、折手はマイラーだったロイヤルスキー[注釈 3][18]を選択、しかし早期流産となり失敗していた[17]。このままでは空胎1年を過ごすところだったが、渡辺が熱意を見せて、繁殖シーズンの晩期にもう一度ロイヤルスキーと交配を敢行する[17]。無事受胎し、翌1987年、6番仔となる父ロイヤルスキーの牝馬が誕生する[17]

6番仔は、同じく渡辺所有となり「アグネスフローラ」(アグネスフライトの母)と命名されていた。アグネスフローラは、亡くなった長浜彦三郎の跡を継いだ息子の長浜博之厩舎に入厩し、母と同じく河内を主戦を務めた。1989年末からデビューし連勝を重ね、1990年春には、史上4頭目[注釈 4]となる無敗の5連勝で桜花賞を優勝[19][20]。また同時に史上5頭目となる母仔クラシック優勝を果たしていた[20][21]。アグネスフローラは、その後、母アグネスレディ―の制した優駿牝馬に1番人気で参戦[22]。不利な大外枠を得ながら、直線で抜け出したが、後方待機の5番人気エイシンサニーに内からかわされて2着[22][23]。競走中に左前脚を骨折しながら走り、初敗北を喫していた[24]。それからは怪我が重なって出走できず、そのまま引退となる[注釈 5][24]。引退後は繁殖牝馬となったが、繋養先は折手牧場ではなく、北海道千歳市の社台ファームだった。優駿牝馬当日、社台の吉田照哉が渡辺に接触して売却を頼んだが、売却話は保留となっていた[25]。しかしそれを心に留めていた渡辺が、引退直後に預託先として社台を選択していた[18]

アグネスフローラは初年度となる1992年、社台の産駒がまだ走っていない2年生種牡馬であるサンデーサイレンスと交配する。翌1993年には初仔となる牡馬が誕生[26]。サンデーサイレンス産駒の活躍馬が続出する中、その初仔は渡辺孝男の「タカオ」を用いて「アグネスタカオー」と命名している[27]。アグネスタカオーは浜田光正調教師に預けたが、母譲りの脚元の弱さを兼ね備えて思うように活躍できなかった[28][26]。続いた父トニービンの2番仔、3番仔は長浜に託されたが同様に活躍できなかった[26]。そして5年目となる1996年の交配相手には、初年度以来となるサンデーサイレンスが再び選ばれる[27]。そして1997年3月2日、社台ファームにて4番仔となる栗毛の牡馬(後のアグネスフライト)が誕生する[27]。なお4番仔を産んだ同年には、再びサンデーサイレンスとまぐわい、1998年に5番仔となる栗毛の牡馬が産まれている。この5番仔は、後のアグネスタキオンである[29]

幼駒時代

4番仔も祖母、母、兄姉と同様に渡辺の所有となる。渡辺は、自身が経営する会社の社内報のタイトル「飛翔」を英語にした「フライト」を冠名と組み合わせ「アグネスフライト」という競走馬名を授けている[30]。誕生直後のアグネスフライトは、社台ファームの田辺滋久によれば「走るサンデー(サイレンス)の牡馬らしく、それほど大きいというわけではないのですが、無駄のない雰囲気を持っているという印象[31]」であり、顔や雰囲気が母親似だったという[32]。兄姉は、いずれも脚元が悪く大成できなかったが、アグネスフライトは順調に育成されていた[31]。アグネスフライトは、母兄姉と同様に長浜厩舎の管理となる[27]。担当厩務員は、祖母や母も担当した大川鉄雄だった[27]。1999年、3歳夏に入厩するが、兄姉同様に脚元が弱かった[27]。そのためプールを用いるなど、慎重に調教がなされ、3歳のうちにデビューすることができなかった[26]

競走馬時代

京都新聞杯

2000年2月6日、京都競馬場新馬戦(芝1600メートル)でデビューを果たす。人気は、外国産馬のサザンスズカに次ぐ2番人気だった[26]。スタートから後方を追走し、直線で先行するサザンスズカを捉えた。それからサザンスズカを突き放し、4馬身差をつけて先頭で入線。初勝利を挙げる[26]。この後は、2か月後から開幕するクラシック出走を目指し、まず第一弾の皐月賞トライアル競走であり、2着までに優先出走権が与えられる3月18日の若葉ステークス(OP)に出走する。2番人気に支持されたが、本調子にあらず後方追走のまま12着敗退[33]。これにより皐月賞を断念する[26]。河内は後に敗因を「悪い要素がいろいろ重なった[34]」と述べている。またこのレース前、厩務員の大川は、河内にアグネスフライトの癖などを伝えなければならなかったが失念している[35]。おかげでレースは終始ちぐはぐになっていた[35]

陣営は目標を第二弾の東京優駿(日本ダービー)に切り替えて4月15日、皐月賞前日に行われる若草ステークス(OP)に臨む。7.4倍の3番人気に支持されていた。スタートで出遅れ再び後方の追走となったが、第3コーナーでまくって進出。直線ではすべてをかわしていた[26]。先行したジンワラベウタや、後方から追い込んだスターリングローズらに、半馬身差をつけて先頭で入線。2勝目を挙げる[26]

若草ステークスを優勝したことで、賞金加算に成功を果たす。ところが収得賞金1350万円のアグネスフライトは、ダービーの登録馬を出走馬決定順に並べても19番目であり、出走可能頭数の18頭には入っていなかった[33]。また、ダービーの優先出走権が与えられるトライアル競走の青葉賞なども控えており、このままではアグネスフライトのダービー出走は絶望的だった[36]。そこで陣営は、京都新聞杯への参戦を決意する。本音としては若草ステークスから直行したいところだったが、この年のボーダーラインは例年よりも高くなっていた[36]。京都新聞杯は、前年まで菊花賞のトライアル競走として挙行されていたが、この年から春に移設されていた。ただしダービーのトライアル競走ではないため、確実に出走できる優先出走の権利付与はなかった。それでもダービー出走馬決定順の当落線にいる馬にとっては、ダービー出走を叶える最後の機会[注釈 6]であり「最終関門」とされていた[37]。したがってアグネスフライトが、ダービーに出走を叶えるには、京都新聞杯で収得賞金が加算される2着以内になる必要があった[33]

5月6日、京都新聞杯(GIII)に臨む。同じようにダービー出走を目指す13頭との対決となっていた。中でも、新馬戦と京都3歳ステークス(OP)を優勝した2勝馬、皐月賞出走を叶えて5着。4着までに与えられるダービーの優先出走権をクビ差逃したヤマニンリスペクトに注目が集まっていた。そのヤマニンリスペクトが2.5倍の1番人気に推され、アグネスフライトは3.4倍の2番人気。以降の人気は、500万円以下条件で成り上がった2勝馬イングランドシチー、カネツフルーヴ、1勝馬タップダンスシチーと続いていた[38]

アグネスフライトはスタート直後に他から後れを取り、最後方を追走する[36]。向こう正面の後半から外に持ち出して、追い上げを開始。追い通しで第3コーナー、最終コーナーを回りながら、前を行く13頭に接近した[36]。10番手で迎えた直線では、大外から末脚を発揮し、内で抜け出しを図った大勢をすべて差し切った[39]。抜け出した後は後続を突き放す一方となり、後方に3馬身差をつけて、先頭で入線を果たす[39]。重賞初勝利を挙げ、ダービー出走を確定させた。河内にとっては、1978年メジロイーグル以来となる京都新聞杯2勝目だった[31]

東京優駿

5月28日、東京優駿(日本ダービー)(GI)に臨む。出走登録を行っていたのは27頭であり、アグネスフライトは出走を叶えたが、京都新聞杯を勝利する前のアグネスフライトと同じ境遇だったヤマニンリスペクトなど9頭が除外[注釈 7]されていた[40]。クビ差だった皐月賞1着のエアシャカールと2着のダイタクリーヴァがそのまま2番人気までを占め、エアシャカール2.0倍、ダイタクリーヴァ4.8倍だった[41]。一方、アグネスフライトはダイタクリーヴァに肉薄した5.0倍の3番人気だった[41]。続く4番人気は青葉賞優勝馬のカーネギーダイアンであり、この4頭がオッズ一桁台に支持されていた[42]。エアシャカールとアグネスフライトは、共に追い込みを決めて勝ち上がった2頭であり、長い直線を有する東京ではひときわ有利と考えられていた[42]。皐月賞優勝馬の支持を集めるのは当然としても、アグネスフライトは祖母、母が繋いだクラシック連続優勝しているという血統的な背景があった[42]。中でも舞台は、祖母1着、母2着の東京芝2400メートルだった。また鞍上の河内は、これまで数多の名馬に騎乗しながらダービーには縁がなく16戦16敗だった。この2点からアグネスフライトは、他の馬とは異なる種類の、ひときわ大きな期待を集めていた[42]

映像外部リンク
2000年 東京優駿(日本ダービー)
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

2枠4番からスタートしたアグネスフライトは、直後に控えて最後方18番手を得る[42]。後方有利のハイペースが刻まれる中、1番人気エアシャカールは14番手であり、相手を視野に入れながら追走することができた[42]。第3コーナーに差し掛かる頃から、エアシャカールが馬群の外に持ち出して進出を開始すると、アグネスフライトもそれに即応して、エアシャカールとの差を詰める[43]。直線では、先行勢が続々脱落する中で、エアシャカールが早めに抜け出し、独走状態を形成していた[43]。一方、アグネスフライトは一度突き放されていたが、末脚を発揮して追い上げていた。先頭のエアシャカールが独走して遊ぶ癖を見せて鈍っている間に差を縮めて、残り50メートルで外から並びかけることに成功する[43][44]。以降は、矯正されて再び走り始めたエアシャカールとの張り合いとなる。エアシャカールが外によれて来て、アグネスフライトは進路が塞がれるなど多分に不利を受けたが負けずに伸び[45]、2頭並んだままほとんど同時に決勝線を通過する[44]。2頭の優劣は写真判定にもつれ、外のアグネスフライトがハナ差、7センチメートル先着していることが判明、ダービー優勝を果たした[43]

アグネスレディ―、アグネスフローラに続いてクラシックを優勝。史上初めてとなる親仔三代クラシック優勝、母仔三代クラシック優勝を果たした[46][47]。三代連続優勝に限っても、メジロアサマメジロティターンメジロマックイーンの父仔三代天皇賞優勝があったのみで、それに続く記録だった[48]

母仔クラシック優勝(2000年まで)[46]
優勝 優勝 優勝
アステリモア 1938年優駿牝馬 ヒデヒカリ 1948年皐月賞
クリフジ 1943年優駿牝馬、東京優駿、菊花賞 ヤマイチ 1954年桜花賞、優駿牝馬
トキツカゼ 1947年皐月賞、優駿牝馬 オートキツ 1955年東京優駿
オーカン 1959年優駿牝馬 リュウズキ 1967年皐月賞
アグネスレディー 1979年優駿牝馬 アグネスフローラ 1990年桜花賞 アグネスフライト 2000年東京優駿
ダイナカール 1983年優駿牝馬 エアグルーヴ 1996年優駿牝馬
ベガ 1993年桜花賞、優駿牝馬 アドマイヤベガ 1999年東京優駿

また渡辺、長浜、河内はいずれもダービー初優勝だった[40][47]。特に河内は「夢」だったダービーを、17度目で制覇している。初騎乗はデビュー5年目の1979年トウホクハヤテに騎乗して25着[注釈 8]だったが、これはアグネスレディーで優駿牝馬を優勝した直後のことだった[49][50]。それから1986年ラグビーボール、1988年サッカーボーイ、1989年ロングシンホニーの3回は、1番人気に支持されながらそれぞれ4着、15着、5着[注釈 9][50]。1996年にはメイショウジェニエで3着[注釈 10]、1998年にはボールドエンペラーで2着[注釈 11]となっていた。

河内がアグネスフライトとダービーを意識したのは、京都新聞杯を優勝した後だと述懐している[51]。この時、年齢的にもダービーはラストチャンスだと考えていた[51]。そのため、縁起やジンクスを全面的に肯定するなどあらゆる用意をしていた[51]。例えば、感覚が狂わないように前日の中京競馬場騎乗を諦めて東京に留まったり、直前の数レースは騎乗を自粛したりして、後悔の無いようにしていたという[51]

東京優駿直後

17戦目の戴冠は、1993年をウイニングチケットで勝利した柴田政人の19度目に次いで歴代2番目の長さだった[46]。さらにデビュー27年目、45歳3か月7日目の河内は、1986年増沢末夫[注釈 12]、1979年松本善登[注釈 13]、1989年郷原洋行[注釈 14]に次いで歴代4番目に高齢なダービージョッキーだった[46]。またアグネスフライトと河内の優勝は、エアシャカールに騎乗した河内の弟弟子・武豊のスペシャルウィーク、アドマイヤベガに続くダービー3連覇の快挙をハナ差だけ阻んだ形[注釈 15]となった[注釈 16]。さらにこの後エアシャカールと武は、菊花賞を制して二冠を達成している[53]。結果的にアグネスフライトは、エアシャカールのクラシック三冠をハナの差だけ阻んだことにもなった[53]

東京優駿以後

東京優駿以後のアグネスフライトは、勝利を挙げることができなかった[2]

4歳夏は、宮城県山元町の山元トレーニングセンターで過ごした、初めの10日はソエがあったために休養している[54]。秋は、神戸新聞杯(GII)で始動。高熱に見舞われるアクシデントを乗り越えてのエアシャカールとの再戦となり、2番人気だった[55]。エアシャカールと並んで中団で直線に向いたが、前を行くフサイチソニックを捉えることができず、2馬身差の2着[56][55]。されどエアシャカールには半馬身先着を果たした[56]。続く菊花賞(GI)では、エアシャカールを上回る1.9倍の1番人気に推されたが5着敗退。エアシャカールに二冠を許している。その後ジャパンカップGI)で古馬に挑んだが、優勝したテイエムオペラオーに1.5秒後れを取る13着敗退している。この年のJRA賞では、全296票中15票を集めて最優秀4歳牡馬の次点だった[注釈 17]。古馬となった2001年は、京都記念GII)で始動してマックロウに次ぐ2着[59]、続く産経大阪杯GII)は10着。その後は天皇賞(春)出走を目指したが、屈腱炎を発症して戦線離脱、長期休養となった[60]

2000年ジャパンカップ

現役を続行して治療を選び、1年7か月後の2002年10月の天皇賞(秋)GI)で復帰する。勝浦正樹に乗り替わって臨んだが15着。後藤浩輝と臨んだジャパンカップでも最下位16着となる。翌2003年も走り、2月22日の京都記念に参戦し6着[61]。この京都記念では、鞍上は河内が舞い戻っていた。河内は2月末での騎手引退を決めており、最終騎乗日の前日の重賞最終騎乗のパートナーがアグネスフライトだった[61]。当日は雨が降っており、パドックからレース直前までカッパを着用するのが常であったが、河内は濡れながらもカメラを構えるファンを慮って、着用していなかった[61]。翌日の京都競馬場では、河内の引退式が行われるが、中山で騎乗していた武はビデオレターを綴っていた[62]。武は、ダービーでアグネスフライトと河内に抜かれたことで兄弟子を「嫌いになりました」と打ち明けている[62]

河内と別れた後のアグネスフライトは走り続け、続く3月23日の阪神大賞典GII)では、松永幹夫が騎乗し13着となっている。これを最後に競走馬を引退した[63]。5月10日、京都新聞杯の舞台である京都競馬場にて引退式が挙行され、東京優駿優勝時のゼッケン番号4を着用して登場[63]。同じく鞍上は、調教師に転身した河内が務め、直線コースでの走行が披露された[63]

種牡馬時代

競走馬引退後は、北海道浦河町日高スタリオンステーションで種牡馬として供用された[63][2]。全弟のアグネスタキオンが2004年の皐月賞を無敗で制してから間もなく引退しており、兄より先に種牡馬となっていた[64]。無敗のアグネスタキオンは、父サンデーサイレンスと同じ社台スタリオンステーションで繋養され、年間200頭の繁殖牝馬を絶えず集め続けていた[65]。一方のアグネスフライトは、初年度に鼠径ヘルニアを患い交配を中止して62頭に留まった[66]。2年目も病気で45頭まで、3年目は増加に転じたものの弟の半分にあたる92頭であり、これがピークだった[67][68]。弟アグネスタキオンは、2008年のリーディングサイアーとなった途端、翌2009年に早世している[64]。死んだ弟の代替を担える立場にいたアグネスフライトだったが、そこまでの需要はなく交配数は右肩下がりで減少を続け、6年目、2009年には交配数が一桁に突入[68]。2頭に終わった8年目の2011年を最後に種牡馬を引退する[69]

産駒は、2007年8月12日、札幌競馬場の新馬戦(ダート1000メートル)にてマルマツフライト(母父:アスワン)が産駒初勝利を挙げている[70]。以降日本国内では、産駒がいなくなる2019年までに166頭が平地競走に4367回出走し、369勝を挙げている[68]。そのうち重賞は地方の1勝であり、佐賀競馬所属の2007年産インザエア(母父:リンドシェーバー)が2010年のロータスクラウン賞を優勝したのみだった[71]

種牡馬を引退したアグネスフライトは、生まれ故郷の社台ファームで新人教育用の乗馬に転向[69]。それから2015年には乗馬も引退し、社台ブルーグラスファームで功労馬として余生を過ごしている[72]

競走成績

以下の内容は、netkeiba.com[73]並びにJBISサーチ[74]、『優駿』2008年6月号[2]の情報に基づく。

競走日 競馬場 競走名 距離(馬場) 頭数 枠番 馬番 オッズ

(人気)

着順 タイム

(上がり3F)

着差 騎手 斤量[kg] 1着馬(2着馬) 馬体重[kg]
2000.02.06 京都 4歳新馬 芝1600m(良) 15 2 3 06.1(02人) 01着 01:37.1(35.9) -0.7 河内洋 55 (サザンスズカ) 472
0000.03.18 阪神 若葉S OP 芝2000m(良) 16 4 8 04.6(02人) 12着 02:03.6(37.2) -1.2 河内洋 56 クリノキングオー 450
0000.04.15 阪神 若草S OP 芝2200m(良) 12 3 3 07.4(03人) 01着 02:18.4(35.0) -0.1 河内洋 55 (ジンワラベウタ) 448
0000.05.06 京都 京都新聞杯 GIII 芝2000m(良) 14 8 13 03.4(02人) 01着 01:59.8(34.5) -0.5 河内洋 55 (マルカミラー) 456
0000.05.28 東京 東京優駿 GI 芝2400m(良) 18 2 4 05.1(03人) 01着 02:26.2(35.4) -0.0 河内洋 57 エアシャカール 452
0000.09.24 阪神 神戸新聞杯 GII 芝2000m(良) 12 8 11 04.6(02人) 02着 02:01.9(34.9) -0.3 河内洋 56 フサイチソニック 462
0000.10.22 京都 菊花賞 GI 芝3000m(良) 18 3 6 01.9(01人) 05着 03:05.6(36.8) -0.9 河内洋 57 エアシャカール 460
0000.11.26 東京 ジャパンC GI 芝2400m(良) 16 7 14 013.8(04人) 13着 02:27.6(36.5) -1.5 河内洋 55 テイエムオペラオー 456
2001.02.17 京都 京都記念 GII 芝2200m(良) 14 8 14 03.4(02人) 02着 02:12.4(34.9) -0.1 河内洋 57 マックロウ 458
0000.04.01 阪神 産経大阪杯 GII 芝2000m(良) 14 4 5 08.0(03人) 10着 01:59.7(36.4) -1.3 河内洋 59 トーホウドリーム 458
2002.10.27 中山 天皇賞(秋) GI 芝2000m(良) 18 1 2 088.4(16人) 15着 01:59.8(35.2) -1.3 勝浦正樹 58 シンボリクリスエス 460
0000.11.24 中山 ジャパンC GI 芝2200m(良) 16 3 6 076.9(15人) 16着 02:14.7(38.1) -2.5 後藤浩輝 57 ファルブラヴ 462
2003.02.22 京都 京都記念 GII 芝2200m(稍) 16 4 8 010.5(05人) 06着 02:16.8(35.5) -0.3 河内洋 58 マイソールサウンド 460
0000.03.23 阪神 阪神大賞典 GII 芝3000m(良) 15 4 6 034.3(10人) 13着 03:07.2(35.8) -1.3 松永幹夫 59 ダイタクバートラム 460

種牡馬成績

以下の情報は、JBISサーチの情報に基づく[68]

種付年度 種付頭数 生産頭数 血統登録頭数 出走頭数 勝馬頭数 重賞勝馬頭数 AEI CPI
2004 62 29 27 26 16 0 0.71
2005 45 26 25 24 14 0.21
2006 92 58 56 54 28 1 0.39
2007 67 47 45 40 25 0 0.31
2008 20 16 16 15 12 0 0.69
2009 6 5 5 4 3 0.45
2010 2 2 2 2 2 0.62
2011 2 2 2 1 1 0 0.05
合計 178 166 101 1 0.41 1.10

主な産駒

血統表

アグネスフライト血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 ヘイロー系サンデーサイレンス系
[§ 2]

*サンデーサイレンス
Sunday Silence 1986
青鹿毛 アメリカ
父の父
Halo 1969
黒鹿毛 アメリカ
Hail to Reason Turn-to
Nothirdchance
Cosmah Cosmic Bomb
Almahmoud
父の母
Wishing Well 1975
鹿毛 アメリカ
Understanding Promised Land
Pretty Ways
Mountain Flower Montparnasse
Edelweiss

アグネスフローラ 1987
鹿毛 北海道三石
*ロイヤルスキー
Royal Ski 1974
栗毛 アメリカ
Raja Baba Bold Ruler
Missy Baba
Coz o'Nijinsky Involvement
Gleam
母の母
アグネスレディー 1976
鹿毛 北海道三石
*リマンド
Remand
Alcide
Admonish
イコマエイカン Sallymount
*ヘザーランズ F-No.1-l
母系(F-No.) 1号族(FN:1-l) [§ 3]
5代内の近親交配 5代内アウトブリード [§ 4]
出典
  1. ^ JBISサーチ アグネスフライト 5代血統表2017年8月28日閲覧。
  2. ^ netkeiba.com アグネスフライト 5代血統表2017年8月28日閲覧。
  3. ^ JBISサーチ アグネスフライト 5代血統表2017年8月28日閲覧。
  4. ^ JBISサーチ アグネスフライト 5代血統表2017年8月28日閲覧。


脚注

注釈

  1. ^ 1800万円の記述もある[7]
  2. ^ その初仔は牧場名「リスカム」[13]、競走馬名「ミルグロリー」と呼ばれる。ミルグロリーは、長浜厩舎に入ったが直後に骨折し、デビューすることができなかった[14][15][16]
  3. ^ ロイヤルスキーは、アメリカの競走馬。アメリカで種牡馬となり、すぐに売りに出されていた。社台ファーム代表の吉田善哉はこの時「喉から手が出るほど欲しがった」というが、金銭的余裕がなく断念している。後に日本中央競馬会が購買し、導入された。
  4. ^ 1941年ブランドソール、1957年ミスオンワード、1981年ブロケード
  5. ^ 秋に復帰し、エリザベス女王杯に出走して引退する予定だった。初年度は、母同様にイギリスに渡り、イギリスダービー馬のナシュワンと交配する計画もあったという。
  6. ^ スプリントやダート、あるいは牝馬など別方向からの出走も一応可能ではある。
  7. ^ もしアグネスフライトが京都新聞杯で3着以下だった場合、出走が叶わなかった。
  8. ^ 優勝:カツラノハイセイコ
  9. ^ 優勝はそれぞれ、ダイナガリバーサクラチヨノオーウィナーズサークル
  10. ^ 9番人気3着(優勝:フサイチコンコルド
  11. ^ 14番人気2着(優勝:スペシャルウィーク
  12. ^ 48歳7か月5日、1986年ダイナガリバー(初優勝は1967年アサデンコウ
  13. ^ 45歳11カ月12日、1979年カツラノハイセイコ
  14. ^ 45歳4か月7日、1989年ウィナーズサークル
  15. ^ そもそもダービー連覇の時点で史上初めてだった。クラシック競走3連覇では、1958年から1960年の皐月賞を優勝した渡辺正人、1972年から1974年の優駿牝馬を優勝した嶋田功に並び立つことになったが、叶わなかった。
  16. ^ エアシャカールの武騎手、森秀行は独走した際にセーフティリードだと思ったという。彼らにとってアグネスフライトの追い込みはまさか出来事だった[52]
  17. ^ 273票を集めたエアシャカールが受賞[57]。アグネスフライトを挟んで、アグネスデジタルが6票、フサイチソニックが1票だった[58]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o アグネスフライト|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2022年5月22日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『優駿』2008年6月号 73頁
  3. ^ 『優駿』2000年7月号 5頁
  4. ^ a b 『優駿』1990年8月号 22頁
  5. ^ グレイトフアイター|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2022年5月22日閲覧。
  6. ^ 『優駿』2019年4月号 79頁
  7. ^ 『優駿』1989年6月号 40頁
  8. ^ 『優駿』2000年7月号 86頁
  9. ^ 『優駿』1990年5月号 64頁
  10. ^ 『名馬を読む2』94頁
  11. ^ 『優駿』1990年5月号 63頁
  12. ^ 『優駿』2000年7月号 88頁
  13. ^ a b 『優駿』1990年5月号 14頁
  14. ^ 『優駿』1989年6月号 42頁
  15. ^ 『名馬を読む2』96頁
  16. ^ 『優駿』2005年10月号 78頁
  17. ^ a b c d 『優駿』1990年8月号 24頁
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  19. ^ 『優駿』1990年6月号 130-133頁
  20. ^ a b 『優駿』1990年6月号 128頁
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  23. ^ 『優駿』1990年7月号 16-20頁
  24. ^ a b 『優駿』1990年10月号 24頁
  25. ^ 『優駿』2019年4月号 80頁
  26. ^ a b c d e f g h i 『優駿』2008年6月号 69頁
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  51. ^ a b c d 『優駿』2003年4月号 12頁
  52. ^ 『優駿』2000年7月号 17頁
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  54. ^ 『優駿』2000年9月号 10頁」
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参考文献

  • 江面弘也「アグネスタキオン アグネス一族をつくった男」『名馬を読む2』三賢社、2019年8月30日(第1刷)、ISBN 4908655146
  • 優駿』(日本中央競馬会
    • 1989年6月号
      • 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝 40】オークスの令嬢 アグネスレディー」
    • 1990年5月号
      • 「【第50回桜花賞詳報】無敗の微笑みアグネスフローラ 燃えたレディーの血」
      • 「【オーナー愛馬を語る 44】アグネスフローラの渡辺孝男さん」
    • 1990年6月号
      • 瀬上保男(読売新聞)「【今月の記録室】桜花賞はアグネスフローラ 母仔二代のクラシック制覇」
      • 寺田文雄(デイリースポーツ)「【今月の記録室】第50回桜花賞(GI) アグネスフローラ」
    • 1990年7月号
      • 「【第51回オークス詳報】ゴール前の明暗はステイヤーに微笑を、エイシンサニー」
      • 伊藤元彦「【今月の記録室】第51回オークス(GI) エイシンサニー」
      • 瀬上保男(読売新聞)「【今月の記録室】お詫びと訂正」
    • 1990年8月号
      • かなざわいっせい「【GI勝ち馬の故郷紀行】アグネスフローラの故郷 折手牧場」
    • 1990年10月号
      • 「【'90秋4歳馬戦線】二冠馬ともにリタイア。ダービーでレコードタイムの出た年は!?」
    • 2000年6月号
      • 「【優駿ヘッドライン】迫り来る"大一番"の蹄音。――第67回日本ダービー、ステップレース進む」
      • 中井聖「【有力馬のノンフィクションストーリー ダービーにかける夢】アグネスフライト 名血を生かす個性」
    • 2000年7月号
      • 「【優駿ヘッドライン】血の継承。――第67回日本ダービー(GI)はアグネスフライトが優勝」
      • 優駿編集部「【第67回日本ダービー詳報】祖母、母とクラシック3代制覇を達成 アグネスフライト」
      • 辻谷秋人「【第67回日本ダービー詳報】河内洋 夢から現実への17回」
      • 「【Play-back the Grade-Races 2000】第48回京都新聞杯(GIII) アグネスフライト」
      • 優駿編集部「【杉本清の競馬談義 183】アグネスフライトのオーナー 渡辺孝男」
      • 「【重賞データファイル】東京優駿(GI)(第67回日本ダービー) アグネスフライト」
      • 「【重賞データファイル】第48回京都新聞杯(GIII)アグネスフライト」
      • 「【今月の記録室】親仔3代のクラシック制覇」
    • 2000年8月号
      • 吉沢譲治「【インタビュー・スペシャル】社台ファーム代表 吉田照哉 『試み』は続く」
    • 2000年9月号
      • 石田敏徳・棚井伸一郎「【有力馬の夏 4歳牡馬編】アグネスフライト」
    • 2000年11月号
      • 「【Play-back the Grade-Races 2000】第48回神戸新聞杯(GII)フサイチソニック」
      • 「【重賞データファイル】第48回神戸新聞杯(GII)(菊花賞トライアル)フサイチソニック」
    • 2001年2月号
      • 「【2000年度JRA賞決定!】年度代表馬は満票でテイエムオペラオー」
    • 2001年4月号
      • 河村清明「【皐月賞の主役はこの6頭の中にいる!】アグネスタキオン 兄を超える日」
    • 2001年6月号
      • 「【今月のトピックス】アグネスフライト、屈腱炎でリタイア――コイントス、ミスキャストは骨折」
    • 2003年4月号
      • 加賀谷修「【優駿インタビュー特別編】河内洋 『不屈の競馬人生、29年を語る』」
    • 2003年6月号
      • 「【今月のトピックス】ダービー馬が最後のコンビを組んで"第2の馬生"へ飛び立つ――アグネスフライトが引退式を挙行」
    • 2008年6月号
      • 河村清明「【サラブレッド・ヒーロー列伝】美しき母仔三代のロマン アグネスフライト」
    • 2008年10月号
      • 阿部珠樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝】エアシャカール "三冠"に限りなく近い二冠馬」
    • 2019年4月号
      • 江面弘也「【未来に語り継ぎたい名馬物語 42】幻のまま、超光速で駆けた名血 アグネスタキオンの血筋」

外部リンク