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{{Infobox recurring event
{{皇室祭祀}}
| name = {{big|宮中祭祀}}
'''宮中祭祀'''(きゅうちゅうさいし)は、[[天皇]]が[[国家]]と[[国民]]の安寧と繁栄を祈ることを目的におこなう[[祭祀 (神道)|祭祀]]。'''皇室祭祀'''とも呼ばれる<ref>{{Cite web |url=https://www.jinjahoncho.or.jp/en/publications/shinto/jp01.html|title=皇室祭祀|publisher=神社本庁 |accessdate=2024-01-15}}</ref>{{Sfnp|皇室編集部|2017|p=108}}。[[皇居]]の'''[[宮中三殿]]'''で行われる祭祀には、天皇が自ら祭典を斎行し、御告文を奏上する'''大祭'''と、掌典長([[掌典職]])が祭典を行い、天皇が親拝する'''小祭'''、毎月1日・11日・21日に掌典長が祭典を行い、原則として1日には天皇が親拝する'''旬祭'''がある<ref name="宮中祭祀">{{Cite web |url=https://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/kyuchu/saishi/saishi.html|title=宮中祭祀|publisher=宮内庁 |accessdate=2024-01-15}}</ref>。
| native_name = (皇室祭祀)
[[ファイル:Emperor Akihito Daijōsai(1990).jpg|thumb|right|250px|[[大嘗祭]]・大嘗宮の儀に臨む天皇明仁<br/>1990年(平成2年)11月]]
| native_name_lang =
| logo = [[File:Imperial Seal of Japan.svg|45px]] [[File:Inari - daiwa torii.svg|55px]]
| logo_caption =
| image = [[File:Niiname-sai.png|300px]]
| caption = 一年で最も重要な祭典・[[新嘗祭]]
| genre = [[祭祀 (神道)|神道祭祀]]<ref>{{Cite book |和書 |url=https://kotobank.jp/word/皇室祭祀-62192#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2|title=皇室祭祀|publisher=[[コトバンク]] |author=[[小学館]] [[日本大百科全書]] }}</ref>
| venue = [[宮中三殿]]、[[陵墓]]
| founder_name = 伝・[[神武天皇]]<ref>{{Cite book |和書 |url=https://kotobank.jp/word/鳥見山-584880#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8|title=鳥見山|publisher=[[コトバンク]] |author=[[小学館]] [[デジタル大辞泉]] }}</ref>
| budget = [[内廷費]]
| member =
; [[皇室]]
:[[天皇]](主宰者<ref>{{Cite web |url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/shukenshi095.pdf/$File/shukenshi095.pdf|title=「第一章(天皇)」に関する資料|publisher=衆議院憲法審査会|accessdate=2024-10-06}}</ref>)
:[[皇族]]
; [[掌典職]]
:掌典長
:掌典次長
:掌典
:内掌典
:掌典補
:出仕
}}
'''宮中祭祀'''(きゅうちゅうさいし)とは、[[天皇]]が[[国家]]と[[国民]]の安寧と繁栄を祈ることを目的におこなう[[祭祀 (神道)|祭祀]]。'''皇室祭祀'''とも呼ばれる<ref>{{Cite web |url=https://www.jinjahoncho.or.jp/en/publications/shinto/jp01.html|title=皇室祭祀|publisher=神社本庁 |accessdate=2024-01-15}}</ref>{{Sfnp|皇室編集部|2017|p=108}}{{Sfn|村上重良|1977|p=まえがきⅱ}}。主に[[皇居]]の'''[[宮中三殿]]'''で行われる祭祀には、天皇が自ら祭典を斎行し、[[祝詞|御告文]]を奏上する'''大祭'''と、掌典長([[掌典職]])が祭典を行い、天皇が親拝する'''小祭'''、毎月1日・11日・21日に掌典長が祭典を行い、原則として1日には天皇が親拝する'''旬祭'''がある<ref name="宮中祭祀">{{Cite web |url=https://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/kyuchu/saishi/saishi.html|title=宮中祭祀|publisher=宮内庁 |accessdate=2024-01-15}}</ref>。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 先史時代 ===
=== 先史時代 ===
[[部族社会]]においては、祭祀の家系は部族の創始者、すなわちその社会および世界の創造者に由来し、その地位は種々の神話伝承によって権威化されるという{{Sfnp|佐々木宏幹|1992|pp=130-138}}。天皇や皇室はこうした古代社会以来の[[祭司王]]の伝統を代々受け継いでいる{{Sfnp|佐々木宏幹|1992|pp=130-138}}。
[[部族社会]]においては、[[祭祀]][[家系]][[部族]]の創始者、すなわちその社会および世界の創造者に由来し、その地位は種々の神話伝承によって権威化されるという{{Sfnp|佐々木宏幹|1992|pp=130-138}}。天皇や皇室はこうした古代社会以来の[[祭司王]]の伝統を代々受け継いでいる{{Sfnp|佐々木宏幹|1992|p=130-138}}。

古代国家、未開社会の王は、巫王、祭司王、呪王の3形態に分類されるが{{Sfn|村上重良|1977|p=4}}、古代天皇は、[[血統]]による[[カリスマ]]で補強された、国家の最高祭司であった{{Sfn|村上重良|1977|p=8}}。

[[新嘗祭]]の原型は、紀元前にまで遡る日本の原始農耕社会で行われていた[[イネ]]の[[収穫祭]]である{{Sfn|村上重良|1977|p=1}}。王は大司祭として収穫祭を執行し、カミと一体化することであらためて王権の保持者たることを示した{{Sfn|村上重良|1977|p=6}}。


=== 古墳時代 ===
=== 古墳時代 ===
神話学者の[[松前健]]は「[[記紀]]」等に見える初期の[[大王]]の記録や古社の記録等から、初期[[ヤマト王権]]では[[三輪山]]を斎場とした[[太陽神|日神]]祭祀があった可能性を指摘している{{Sfnp|松前健|2003|pp=55-63}}。やがてヤマト王権の勢力が日本の東西に広まるにつれ、古くから日神崇拝の聖地として中央にも知られていた[[伊勢]]の地を大王の聖地とし、皇祖[[天照大神|アマテラス大神]]として信仰するようになっていった{{Sfnp|松前健|2003|pp=66-76}}{{Efn2|なおアマテラス大神以前の大王家の至高神は[[タカミムスビ|タカミムスビ神]](高産霊神/高御産巣日神)であったと言われている{{Sfnp|松前健|2003|pp=77-86}}。}}。「遅くとも[[6世紀]]前半」「どんなに遅く見積もっても6世紀末以前」には[[皇祖神]]の[[天照大神]]として[[伊勢神宮]]に祭られていたという{{Sfnp|木村大樹|2022|p=22}}。 また、大王自身も「カミ」を祭るのが本来の主要な任務であったとされ、しばしば「ウツシイワイ」を行った[[神武天皇]]や、自ら神床に通夜し夢告を受けた[[崇神天皇]]の記事にその様子が伝えられている{{Sfnp|伊藤聡|2012|p=24}}。奈良県桜井市の[[纏向遺跡]]からは、[[3世紀]]中頃のものとみられる祭祀土坑から祭祀で使用された食物や[[伊勢]]製の土器が出土し、それらには[[大嘗祭]]神饌との共通点も多く、大王や天皇の祭祀の原型が見られるという{{Sfnp|木村大樹|2022|pp=93-94}}。
神話学者の[[松前健]]は「[[記紀]]」等に見える初期の[[大王]]の記録や古社の記録等から、初期[[ヤマト王権]]では[[三輪山]]を斎場とした[[太陽神|日神]]祭祀があった可能性を指摘している{{Sfnp|松前健|2003|pp=55-63}}。やがてヤマト王権の勢力が日本の東西に広まるにつれ、古くから日神崇拝の聖地として中央にも知られていた[[伊勢]]の地を大王の聖地とし、皇祖[[天照大神|アマテラス大神]]として信仰するようになっていった{{Sfnp|松前健|2003|pp=66-76}}{{Efn2|なおアマテラス大神以前の大王家の至高神は[[タカミムスビ|タカミムスビ神]](高産霊神/高御産巣日神)であったと言われている{{Sfnp|松前健|2003|pp=77-86}}。}}。「遅くとも[[6世紀]]前半」「どんなに遅く見積もっても6世紀末以前」には[[皇祖神]]の[[天照大神]]として[[伊勢神宮]]に祭られていたという{{Sfnp|木村大樹|2022|p=22}}。 また、大王自身も「カミ」を祭るのが本来の主要な任務であったとされ、しばしば「ウツシイワイ」を行った[[神武天皇]]や、自ら神床に通夜し夢告を受けた[[崇神天皇]]の記事にその様子が伝えられている{{Sfnp|伊藤聡|2012|p=24}}。奈良県桜井市の[[纏向遺跡]]からは、[[3世紀]]中頃のものとみられる祭祀土坑から祭祀で使用された食物や[[伊勢]]製の土器が出土し、それらには[[大嘗祭]]神饌との共通点も多く、大王や天皇の祭祀の原型が見られるという{{Sfnp|木村大樹|2022|pp=93-94}}。
[[ファイル:Naiku 05.jpg|thumb|250px|皇室の祖先神を祀る[[伊勢神宮]][[皇大神宮|内宮]]]]
[[ファイル:Naiku 05.jpg|thumb|250px|皇室の祖先神を祀る[[伊勢神宮]][[皇大神宮|内宮]]]]
『[[日本書紀]]』[[敏達天皇]]紀には宮廷内に日祀部設置が記されているが、これは[[神祇官]]以前の古い祭官であり、太陽神の祭祀を司っていた<ref>(松前健『日本神話の謎がよくわかる本』大和書房、2007年12月30日、50頁)</ref>。
『[[日本書紀]]』[[敏達天皇]]紀には宮廷内に[[日祀部]]を設置したことが記されているが、これは[[神祇官]]以前の古い祭官であり、太陽神の祭祀を司っていた<ref>(松前健『日本神話の謎がよくわかる本』大和書房、2007年12月30日、50頁)</ref>。


=== 飛鳥~奈良時代 ===
=== 飛鳥~奈良時代 ===
[[天武天皇]]と[[持統天皇]]の時代に多くの国家祭祀が整備・成立したことが、多くの[[先行研究]]で明らかになっている{{Sfnp|木村大樹|2022|p=31}}。[[新嘗祭]]や[[大嘗祭]]の祭祀としての形式確立はこの時代と思われる{{Efn2|天武二年十二月には「大嘗」、天武五年九月、十一月と天武六年十一月には「新嘗」の記録が見られ、持統五年の十一月にも「大嘗」の記録が見られる{{Sfnp|木村大樹|2022|p=31}}。}}。
[[天武天皇]]と[[持統天皇]]の時代に数々の国家祭祀が整備・成立したことが、多くの[[先行研究]]で明らかになっている{{Sfnp|木村大樹|2022|p=31}}。[[新嘗祭]]や[[大嘗祭]]の祭祀としての形式確立はこの時代と思われる{{Efn2|天武二年十二月には「大嘗」、天武五年九月、十一月と天武六年十一月には「新嘗」の記録が見られ、持統五年の十一月にも「大嘗」の記録が見られる{{Sfnp|木村大樹|2022|p=31}}。}}。


奈良時代になると、当時の先進国であった[[唐]]の国家体制を範として[[律令]]の制定が行われた。この時、祭祀についても従来行われていた「カミマツリ」が[[神祇官]]を中心に再編成された。これが律令祭祀であり、その規定が[[神祇令]]である{{Sfnp|伊藤聡|2012|pp=33-37}}。神祇令では、10の四時祭と2つの臨時祭、二季に行われる大祓が規定された。[[祈年祭]]は唐の「祈穀郊(きこくこう)」に倣ったものと思われ、鎮火祭や道饗(みちあえ)祭は都城成立後と思われるが、それ以外は伝統的祭祀に由来するという{{Sfnp|伊藤聡|2012|p=35}}。神祇官より全国の主要諸社に定期的に幣帛を頒布することで、中央政府は地方神社の祭祀にも関与した{{Sfnp|伊藤聡|2012|pp=33-37}}。特に[[伊勢神宮]]の[[神嘗祭]]に対しては、宮中で天皇が自ら伊勢神宮を遥拝する「勅使発遣の儀」が行われ、幣帛が毎年必ず送られるとされた([[伊勢例幣使|神嘗祭賢所の儀]]){{Sfnp|八束清貫|1957|pp=20-22}}{{Sfnp|中澤伸弘|2010|pp=78-80}}。
[[奈良時代]]になると、当時の先進国であった[[唐]]の国家体制を範として[[律令]]の制定が行われた。この時、祭祀についても従来行われていた「カミマツリ」が[[神祇官]]を中心に再編成された。これが律令祭祀であり、その規定が[[神祇令]]である{{Sfnp|伊藤聡|2012|pp=33-37}}。神祇令では、10の四時祭と2つの臨時祭、二季に行われる大祓が規定された。[[祈年祭]]は唐の「祈穀郊(きこくこう)」に倣ったものと思われ、鎮火祭や道饗(みちあえ)祭は[[都城]]の成立後と思われるが、それ以外は伝統的祭祀に由来するという{{Sfnp|伊藤聡|2012|p=35}}。神祇官より全国の主要諸社に定期的に[[幣帛]]を頒布することで、中央政府は地方神社の祭祀にも関与した{{Sfnp|伊藤聡|2012|pp=33-37}}。特に[[伊勢神宮]]の[[神嘗祭]]に対しては、宮中で天皇が自ら伊勢神宮を遥拝する「勅使発遣の儀」が行われ、幣帛が毎年必ず送られるとされた([[伊勢例幣使|神嘗祭賢所の儀]]){{Sfnp|八束清貫|1957|pp=20-22}}{{Sfnp|中澤伸弘|2010|pp=78-80}}。


=== 平安時代 ===
=== 平安時代 ===
平安時代、[[病気]]や[[疫病]]、[[地震]]、[[火災]]、[[天災]]といった災い事は[[神]]の[[祟り]]などが起こすものと考えられ、人々は、祟りを起こす神の存在を[[鬼]]に例えたり、[[疫神]]として恐れていた{{Sfnp|小池康寿|2015|p=36}}{{Sfnp|斎藤英喜|2007|p=31}}{{Sfnp|繁田信一|2005|p=129}}。[[疫神祭]]、[[鎮花祭]]、[[風神祭]]、[[大祓]]、[[宮城四隅疫神祭]]、[[防解火災祭]]、[[螢惑星祭]]{{Sfnp|小池康寿|2015|p=38}}{{Sfnp|林淳|2005|p=53}}等の[[陰陽道]]は平安貴族社会を基盤にして[[呪術]]的に展開され、[[律令制]]の[[神祇祭祀]]の中には陰陽要素が含まれていた{{Sfnp|小池康寿|2015|p=38}}{{Sfnp|林淳|2005|p=52}}。
[[平安時代]]、[[病気]]や[[疫病]]、[[地震]]、[[火災]]、[[天災]]といった災い事は[[神]]の[[祟り]]などが起こすものと考えられ、人々は、祟りを起こす神の存在を[[鬼]]に例えたり、[[疫神]]として恐れていた{{Sfnp|小池康寿|2015|p=36}}{{Sfnp|斎藤英喜|2007|p=31}}{{Sfnp|繁田信一|2005|p=129}}。[[疫神祭]]、[[鎮花祭]]、[[風神祭]]、[[大祓]]、[[宮城四隅疫神祭]]、[[防解火災祭]]、[[螢惑星祭]]{{Sfnp|小池康寿|2015|p=38}}{{Sfnp|林淳|2005|p=53}}等の[[陰陽道]]は平安貴族社会を基盤にして[[呪術]]的に行われ、[[律令制]]の[[神祇祭祀]]の中には陰陽要素が含まれていた{{Sfnp|小池康寿|2015|p=38}}{{Sfnp|林淳|2005|p=52}}。


平安時代には、年始の「[[四方拝|元旦四方拝]]」や宮中における天皇の毎朝の神事である「[[毎朝御拝]]」、宮中女官による[[内侍所]]祭祀が成立した{{Sfnp|小倉慈司|山口輝臣|2018|pp=60-63}}。また、天皇親祭の[[新嘗祭]]、[[神今食]]や[[神祇官]]による[[祈年祭]]、[[御体御卜]](おおみまのみうら)などは継承された{{Sfnp|小倉慈司|山口輝臣|2018|pp=59-61}}。
平安時代には、年始の「[[四方拝|元旦四方拝]]」や宮中における天皇の毎朝の神事である「[[毎朝御拝]]」、宮中女官による[[内侍所]]祭祀が成立した{{Sfnp|小倉慈司|山口輝臣|2018|pp=60-63}}。また、天皇親祭の[[新嘗祭]]、[[神今食]]や[[神祇官]]による[[祈年祭]]、[[御体御卜]](おおみまのみうら)などは継承された{{Sfnp|小倉慈司|山口輝臣|2018|pp=59-61}}。
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平安期には官社から名神が選ばれ、名神奉幣が行われるようになった。[[9世紀]]末には、さらに数が絞られて十六社奉幣の制が成立した。その分類は、天皇守護神(伊勢、石清水、賀茂、平野)、王城守護神(賀茂、松尾、平野、稲荷)、対外関係守護神(住吉)、藤原氏氏神(春日、大原野)、大和の名社(大神、石上、大和、広瀬、龍田)、祈雨神(丹生、貴布禰)である。その後、[[991年]]([[正暦]]2年)に吉田、北野、広田が、[[994年]](正歴5年)に梅宮が、[[996年]]([[長徳]]2年)に祇園が、[[1039年]]([[長暦]]3年)に日吉社が加わり、最終的には[[二十二社奉幣]]となった。二十二社には、2月と7月の年2回、祈年穀奉幣が行われた{{Sfnp|小倉慈司|山口輝臣|2018|pp=54-55}}。
平安期には官社から名神が選ばれ、名神奉幣が行われるようになった。[[9世紀]]末には、さらに数が絞られて十六社奉幣の制が成立した。その分類は、天皇守護神(伊勢、石清水、賀茂、平野)、王城守護神(賀茂、松尾、平野、稲荷)、対外関係守護神(住吉)、藤原氏氏神(春日、大原野)、大和の名社(大神、石上、大和、広瀬、龍田)、祈雨神(丹生、貴布禰)である。その後、[[991年]]([[正暦]]2年)に吉田、北野、広田が、[[994年]](正歴5年)に梅宮が、[[996年]]([[長徳]]2年)に祇園が、[[1039年]]([[長暦]]3年)に日吉社が加わり、最終的には[[二十二社奉幣]]となった。二十二社には、2月と7月の年2回、祈年穀奉幣が行われた{{Sfnp|小倉慈司|山口輝臣|2018|pp=54-55}}。


天皇が勅使を遣わして[[伊勢神宮]]以下の諸神社に幣帛を捧げることは[[醍醐天皇]]の代に始まったといわれ、伊勢神宮以下の特定の神社への奉幣使発遣の神事は天皇の親祭とされた{{Sfn|井原今朝男|2013|p=298}}。奉幣使は例幣をはじめとして伊勢神宮がもっとも頻繁であり、平安時代から院政期・鎌倉期には公卿が伊勢奉幣使([[伊勢例幣使]])に任命される習慣となり公卿勅使と呼ばれた{{Sfn|井原今朝男|2013|p=298}}。
天皇が勅使を遣わして[[伊勢神宮]]以下の諸神社に幣帛を捧げることは[[醍醐天皇]]の代に始まったといわれ、伊勢神宮以下の特定の神社への奉幣使発遣の神事は天皇の親祭とされた{{Sfn|井原今朝男|2013|p=298}}。奉幣使は例幣をはじめとして伊勢神宮がもっとも頻繁であり、平安時代から院政期・鎌倉期には公卿が伊勢奉幣使([[伊勢例幣使]])に任命される習慣となり公卿勅使と呼ばれた{{Sfn|井原今朝男|2013|p=298}}。


==== 神事優先と神仏分離 ====
==== 神事優先と神仏分離 ====
[[御七日御修法]]、[[大元帥法]]など[[密教]]による護国修法が宮中で行われるようになったのもこの頃からであった{{Sfnp|小倉慈司|山口輝臣|2018|p=81}}、神事と仏事は厳密に分離され、神事優先原則とされており{{Sfn|井原今朝男|2013|p=310}}、天皇主祭の神事には僧侶は遠ざけられ、[[仁寿殿]]観音像や経典類まで別の場所に移され、僧侶達の供物も神饌に供することは禁ぜられた{{Sfn|井原今朝男|2013|p=288}}。仏教法会の期間が神事の期間に重なる場合がある時は仏教法会の期間を短縮した{{Sfn|井原今朝男|2013|p=318}}。
[[御七日御修法]]、[[大元帥法]]など[[密教]]による護国修法が宮中で行われるようになったのもこの頃からであった{{Sfnp|小倉慈司|山口輝臣|2018|p=81}}、神事と仏事は厳密に分離され、神事優先原則とされており{{Sfn|井原今朝男|2013|p=310}}、天皇主祭の神事には僧侶は遠ざけられ、[[仁寿殿]]観音像や経典類まで別の場所に移され、僧侶達の供物も神饌に供することは禁ぜられた{{Sfn|井原今朝男|2013|p=288}}。仏教法会の期間が神事の期間に重なる場合がある時は仏教法会の期間を短縮した{{Sfn|井原今朝男|2013|p=318}}。


他にも、新嘗祭、月次祭、祈年祭、神今食、神社への勅使派遣などの祭祀がこの時期に行われていた{{Sfnp|小倉慈司|山口輝臣|2018|pp=56-63}}。
他にも、新嘗祭、月次祭、祈年祭、神今食、神社への勅使派遣などの祭祀がこの時期に行われていた{{Sfnp|小倉慈司|山口輝臣|2018|pp=56-63}}。
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=== 鎌倉~戦国時代 ===
=== 鎌倉~戦国時代 ===
[[順徳天皇]]が『[[禁秘抄]]』で「禁中作法先神事」と述べたように、天皇は「神事」を最優先としたが{{Sfnp|中澤伸弘|2010|p=15}}、[[鎌倉時代]]から[[戦国時代]]になると、戦乱により多くの祭祀が中断することになった。特に[[応仁の乱]]の影響が大きく、[[神嘗祭]]例幣使や[[祈年祭]]、[[月次祭]]が中絶し、[[神祇官]]も焼失してしまった。また、新嘗祭は応仁の乱以前の[[1463年]]([[寛正]]4年)に中絶した。しかし、[[1472年]]([[文明]]4年)には、応仁の乱の最中にも関わらず避難先の[[室町殿]]に内侍所を新造して遷座の神楽を執り行い、[[1474年]](文明6年)からは[[内侍所御神楽]]を再興した{{Sfn|中本真人|2021|p=54-56}}{{Sfn|中本真人|2021|p=117-129}}。全ての朝儀が途絶えた中で真っ先に内侍所([[賢所]])の神事を再興させたことは、天皇や近臣達の「神事優先」の伝統理念の現れであり、内侍所御神楽は戦国時代を通しても継続された{{Sfn|中本真人|2021|p=133-135}}。

[[1545年]]([[天文 (元号)|天文]]14年)8月、[[後奈良天皇]]は大嘗祭が行えないことを伊勢神宮にお詫びした。この時期、朝廷の祭祀は[[内侍所]]祭祀雨や伊勢神宮への臨時奉幣、京都近辺の神社への勅使派遣程度に縮小したが、内侍所では、[[白川家]]による百度祓や千度祓、[[吉田家]]による清祓が[[文明 (日本)|文明]]頃から確認された。「内侍所法楽御楽」や「内侍所法楽和歌」などは室町時代から行われ、元日は廷臣の参拝も許され「[[内侍所御神楽]]」は貴賤の群衆が見物できたという{{Sfnp|小倉慈司|山口輝臣|2018|pp=120-129}}。

[[豊臣秀吉]]による[[陰陽師]][[弾圧]]や[[迫害]]が始まると、[[祈祷]]や[[占い]]を[[生業]]とする陰陽師は地方に追いやられて一気に力を失っていき、当時[[陰陽寮]]にいた正式な陰陽師の数をはるかに超える陰陽師と名乗る人間が全国に流れた{{Sfnp|小池康寿|2015|p=33}}{{Sfnp|林淳|2005|pp=44-48}}{{Sfnp|圭室文雄|2006|p=279}}。戦国時代の[[迫害]]により、筆頭の[[土御門家]]であっても[[陰陽道]]の[[相伝]]や[[法具]]などの多くを焼失した。陰陽道の最も重要な「[[大法]]」の[[泰山府君]]祭(たいざんふくんさい)の[[祭壇]]も喪失し、[[京都]][[吉田神社]]から法具を借用して[[御所]]の地鎮祭を行った。その影響が大きくあり、宮中祭祀は神道色を色濃くしていった{{Sfnp|小池康寿|2015|p=34}}{{Sfnp|繁田信一|2006|pp=72-76}}{{Sfnp|林淳|2005|pp=75-77}}{{Sfnp|岡田荘司|2010|pp=136-137}}。一方陰陽道は、後に[[江戸幕府|幕府]]からの認可のもと、[[土御門泰福]]が[[垂加神道]]の影響を受けて[[天社神道]]として神道化させた{{Sfnp|木場明志|1982|pp=55-65}}
[[豊臣秀吉]]による[[陰陽師]][[弾圧]]や[[迫害]]が始まると、[[祈祷]]や[[占い]]を[[生業]]とする陰陽師は地方に追いやられて一気に力を失っていき、当時[[陰陽寮]]にいた正式な陰陽師の数をはるかに超える陰陽師と名乗る人間が全国に流れた{{Sfnp|小池康寿|2015|p=33}}{{Sfnp|林淳|2005|pp=44-48}}{{Sfnp|圭室文雄|2006|p=279}}。戦国時代の[[迫害]]により、筆頭の[[土御門家]]であっても[[陰陽道]]の[[相伝]]や[[法具]]などの多くを焼失した。陰陽道の最も重要な「[[大法]]」の[[泰山府君]]祭(たいざんふくんさい)の[[祭壇]]も喪失し、[[京都]][[吉田神社]]から法具を借用して[[御所]]の地鎮祭を行った。その影響が大きくあり、宮中祭祀は神道色を色濃くしていった{{Sfnp|小池康寿|2015|p=34}}{{Sfnp|繁田信一|2006|pp=72-76}}{{Sfnp|林淳|2005|pp=75-77}}{{Sfnp|岡田荘司|2010|pp=136-137}}。一方陰陽道は、後に[[江戸幕府|幕府]]からの認可のもと、[[土御門泰福]]が[[垂加神道]]の影響を受けて[[天社神道]]として神道化させた{{Sfnp|木場明志|1982|pp=55-65}}


なお、中世、近世を通じて全国の神社は[[神祇伯]]の[[白川家]]と[[神祇官代]]の[[吉田家]]の管轄下にあり、天皇と近い関係を維持していた{{Sfn|村上重良|1977|p=42}}。有力神社も特定の[[公卿]]、[[堂上家|堂上]]を[[執奏家]]として朝廷と結びつくことが多かった{{Sfn|村上重良|1977|p=42}}。[[伏見宮家]]の[[御香宮神社|御香宮]]、[[中山家]]の[[座摩神社|座摩社]]、[[広橋家]]の[[石清水八幡宮|石清水社]]、[[烏丸家]]の[[宇佐八幡|宇佐八幡社]]、[[柳原家]]の[[出雲大社]]がその例である{{Sfn|村上重良|1977|p=42}}。
[[順徳天皇]]が『[[禁秘抄]]』で「禁中作法先神事」と述べたように、天皇は「神事」を最優先としたが{{Sfnp|中澤伸弘|2010|p=15}}、鎌倉時代から戦国時代になると、戦乱により多くの祭祀が中断することになった。特に[[応仁の乱]]の影響が大きく、[[神嘗祭]]例幣使や[[祈年祭]]、[[月次祭]]が中絶し、[[神祇官]]も焼失してしまった。新嘗祭は、応仁の乱以前の[[1463年]]([[寛正]]4年)に中絶した。[[1545年]]([[天文 (元号)|天文]]14年)8月、[[後奈良天皇]]は大嘗祭が行えないことを伊勢神宮にお詫びした。この時期、朝廷の祭祀は[[内侍所]]祭祀雨や伊勢神宮への臨時奉幣、京都近辺の神社への勅使派遣程度に縮小したが、内侍所では、[[白川家]]による百度祓や千度祓、[[吉田家]]による清祓が[[文明 (日本)|文明]]頃から確認された。「内侍所法楽御楽」や「内侍所法楽和歌」などは室町時代から行われ、元日は廷臣の参拝も許され「内侍所御神楽」は貴賤の群衆が見物できたという{{Sfnp|小倉慈司|山口輝臣|2018|pp=120-129}}。


=== 江戸時代 ===
=== 江戸時代 ===
江戸時代の天皇は、神事再興を第一の悲願とし{{Sfnp|藤田覚|2018|pp=23-24}}、幕府の援助を得て[[伊勢例幣使]]、[[大嘗祭]]、[[新嘗祭]]など戦乱により途絶えていた多くの神事を再興した{{Sfnp|小倉慈司|山口輝臣|2018|pp=136-137}}。また、[[毎朝御拝]]や[[四方拝]]など、[[江戸時代]]以前から歴代の天皇に引き継がれた行事もある{{Sfnp|中澤伸弘|2010|pp=59-61}}。
[[江戸時代]]の天皇は、神事再興を第一の悲願とし{{Sfnp|藤田覚|2018|pp=23-24}}、幕府の援助を得て[[伊勢例幣使]]、[[大嘗祭]]、[[新嘗祭]]など戦乱により途絶えていた多くの神事を再興した{{Sfnp|小倉慈司|山口輝臣|2018|pp=136-137}}。また、[[毎朝御拝]]や[[四方拝]]など、[[江戸時代]]以前から歴代の天皇に引き継がれた行事もある{{Sfnp|中澤伸弘|2010|pp=59-61}}。


近世の宮中祭祀は、中世より引き継がれた[[内侍所]](現[[賢所]])の祭祀を中心に行われた{{Sfnp|小倉慈司|山口輝臣|2018|p=133}}。また、[[節分]]の日には、庶民にも内侍所の参詣が許され、内侍所の刀自(今の内掌典か)に鈴を上げてもらい(「御鈴上げ」)供米や煎り豆を賜ったりしたという{{Sfnp|小倉慈司|山口輝臣|2018|pp=133-138}}。
近世の宮中祭祀は、中世より引き継がれた[[内侍所]](現[[賢所]])の祭祀を中心に行われた{{Sfnp|小倉慈司|山口輝臣|2018|p=133}}。また、[[節分]]の日には、庶民にも内侍所の参詣が許され、内侍所の刀自(今の内掌典か)に鈴を上げてもらい(「御鈴上げ」)供米や煎り豆を賜ったりしたという{{Sfnp|小倉慈司|山口輝臣|2018|pp=133-138}}。


来より明治時代まで天皇毎食ごとにかたわらに置かれた皿に一品ずつ、自分が治めるこの国に飢えた民がひとりでもいるのは申し訳ないという気持ちで名もなき民のために捧げるという「さば」という行事があった。この行事は仏教に由来するとされるが、仏教以前の古来からの伝統行事だったという見解もある{{Sfn|斎藤吉久|2009|p=20‐21}}。
代から明治時代まで天皇毎食ごとにかたわらに置かれた皿に一品ずつけ、自分が治めるこの国に飢えた民が一人でもいるのは申し訳ないという気持ちで名もなき民のために捧げる「さば」という行事があった。この行事は仏教に由来するとされるが、仏教以前からの伝統行事だったという見解もある{{Sfn|斎藤吉久|2009|p=20‐21}}。


江戸時代の中期・後期に[[国学]]や[[水戸学]]に基づいた[[尊王論]]の高まりによって祭祀の再興が盛んになったという背景もあり{{Sfnp|小倉慈司|山口輝臣|2018|pp=165-170}}、幕末には[[孝明天皇]]により[[神武天皇祭]]が制定された{{Sfnp|武田秀章|1996|pp=79-82}}。
江戸時代の中期・後期に[[国学]]や[[水戸学]]に基づいた[[尊王論]]の高まりによって祭祀の再興が盛んになったという背景もあり{{Sfnp|小倉慈司|山口輝臣|2018|pp=165-170}}、幕末には[[孝明天皇]]により[[神武天皇祭]]が制定された{{Sfnp|武田秀章|1996|pp=79-82}}。
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=== 明治期から戦前まで ===
=== 明治期から戦前まで ===
今日行われている祭祀は、江戸時代後期から[[明治維新]]期に[[大宝律令|大宝令]]、[[貞観儀式]]、[[延喜式]]などを継承して再編されたものも多い{{要出典|date=2023年11月}}
今日行われている祭祀は、江戸時代後期から[[明治維新]]期に[[大宝律令|大宝令]]、[[貞観儀式]]、[[延喜式]]などを継承して再編されたものも多い。

[[1868年]]([[慶応]]4年)3月13日に[[祭政一致]]、神祇官再興の布告が出され、翌14日には[[五箇条の御誓文]]が神祇に誓う誓祭として行われた{{Sfn|村上重良|1977|p=47}}。


[[1871年]]([[明治]]4年)には「神社は国家の宗祀」との[[太政官布告]]が出され、[[1908年]](明治41年)には、宮中祭祀について定めた[[皇室祭祀令]]が[[皇室令]]の一つとして制定された{{Sfnp|西川誠|2018|pp=300-305}}。
[[1871年]]([[明治]]4年)には「神社は国家の宗祀」との[[太政官布告]]が出され、[[1908年]](明治41年)には、宮中祭祀について定めた[[皇室祭祀令]]が[[皇室令]]の一つとして制定された{{Sfnp|西川誠|2018|pp=300-305}}。

[[1888年]](明治21年)に新皇居の造営に際して[[吹上御苑]]内に新神殿が造営され、[[宮中三殿]]が成立した{{Sfn|村上重良|1977|p=65}}。


近代制度としての宮中祭祀が確立して以降、[[明治天皇]]や[[大正天皇]]は国家元首として多忙のため、[[侍従]]らが代拝するのが主となった{{Efn2|明治天皇の代拝が増加したのは日清戦争以降{{Sfnp|小倉慈司|山口輝臣|2018|pp=232-234}}、大正天皇の代拝が増加したのは病状が悪化して以降である{{Sfnp|小倉慈司|山口輝臣|2018|p=235}}。}}。一方で、[[貞明皇后]]・[[昭和天皇]]・[[香淳皇后]]は非常に熱心であった。
近代制度としての宮中祭祀が確立して以降、[[明治天皇]]や[[大正天皇]]は国家元首として多忙のため、[[侍従]]らが代拝するのが主となった{{Efn2|明治天皇の代拝が増加したのは日清戦争以降{{Sfnp|小倉慈司|山口輝臣|2018|pp=232-234}}、大正天皇の代拝が増加したのは病状が悪化して以降である{{Sfnp|小倉慈司|山口輝臣|2018|p=235}}。}}。一方で、[[貞明皇后]]・[[昭和天皇]]・[[香淳皇后]]は非常に熱心であった。
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[[1945年]](昭和20年)8月に日本は敗戦し、[[連合国軍最高司令官総司令部|連合国軍]]の占領下に置かれた。昭和天皇は、同年の9月3日には[[宮中三殿]]に、11月13日には警備もほとんどない状態で[[伊勢神宮]]の外宮と内宮に、同月15日には[[武蔵陵墓地|多摩陵]]に行幸して終戦を自ら報告した{{Sfnp|木下道雄|2017|pp=545-548}}。また、123代の歴代天皇陵に[[高松宮宣仁親王|高松宮]]、[[三笠宮崇仁親王|三笠宮]]、[[賀陽宮邦寿王]]、[[閑院宮春仁王]]、[[竹田宮恒徳王]]、[[朝香宮鳩彦王]]、[[東久邇宮盛厚王]]らを代拝に立て、終戦の報告と新日本建設の加護をお願いした{{Sfnp|木下道雄|2017|pp=554-556}}。
[[1945年]](昭和20年)8月に日本は敗戦し、[[連合国軍最高司令官総司令部|連合国軍]]の占領下に置かれた。昭和天皇は、同年の9月3日には[[宮中三殿]]に、11月13日には警備もほとんどない状態で[[伊勢神宮]]の外宮と内宮に、同月15日には[[武蔵陵墓地|多摩陵]]に行幸して終戦を自ら報告した{{Sfnp|木下道雄|2017|pp=545-548}}。また、123代の歴代天皇陵に[[高松宮宣仁親王|高松宮]]、[[三笠宮崇仁親王|三笠宮]]、[[賀陽宮邦寿王]]、[[閑院宮春仁王]]、[[竹田宮恒徳王]]、[[朝香宮鳩彦王]]、[[東久邇宮盛厚王]]らを代拝に立て、終戦の報告と新日本建設の加護をお願いした{{Sfnp|木下道雄|2017|pp=554-556}}。


1945年(昭和20年)には[[政教分離原則|政教分離]]を建前に国家と[[神社神道]]を切り離すべく[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]から「[[神道指令]]」が出された。[[伊勢神宮]]や[[靖国神社]]の国家護持は失われ、内務省[[神祇院]]も廃止された{{Sfnp|高橋紘|鈴木邦彦|1989|pp=195-208}}、宮中祭祀についてはGHQからの干渉がましいことはなく、天皇家の「個人の信仰の自由」として戦前どおり執り行われること認められた。[[掌典職]]を務めた八束清貫は「敗戦の結果は、正に未曾有の国辱を受けたにもかかわらず、皇室祭祀の精神は微動だにしなかった」と語っている{{Sfnp|高橋紘|鈴木邦彦|1989|pp=209-214}}。
1945年(昭和20年)には[[政教分離原則|政教分離]]を建前に国家と[[神社神道]]を切り離すべく[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]から「[[神道指令]]」が出された。[[伊勢神宮]]や[[靖国神社]]の国家護持は失われ、内務省[[神祇院]]も廃止された{{Sfnp|高橋紘|鈴木邦彦|1989|pp=195-208}}、宮中祭祀についてはGHQからの干渉がましいことはなく、天皇家の「個人の信仰の自由」として戦前と同じように執り行われること認められた。[[掌典職]]を務めた八束清貫は「敗戦の結果は、正に未曾有の国辱を受けたにもかかわらず、皇室祭祀の精神は微動だにしなかった」と語っている{{Sfnp|高橋紘|鈴木邦彦|1989|pp=209-214}}。


[[1947年]](昭和22年)の[[日本国憲法]]施行とともに[[宮内省]]は[[宮内府]]となり、[[1949年]](昭和24年)には[[宮内庁]]へと移行した。また、国政と切り離されていた[[旧皇室典範]]は新憲法の施行に合わせて廃止され、全面的に改定された[[皇室典範]]は一般法の1つとなった。
[[1947年]](昭和22年)の[[日本国憲法]]施行とともに[[宮内省]]は[[宮内府]]となり、[[1949年]](昭和24年)には[[宮内庁]]へと移行した。また、国政と切り離されていた[[旧皇室典範]]は新憲法の施行に合わせて廃止され、全面的に改定された[[皇室典範]]は一般法の1つとなった。


これに伴い、皇室祭祀令など戦前の[[皇室令]]も一旦全て廃止されたものの、宮内庁は内部通牒を出し「新たに明文の規定がなくなった事項については、旧皇室令に準じて実施すること」を確認した<ref>宮内省以命通牒(昭和22年5月3日宮内府長官官房文書課発第45号)</ref>。以後、現在に至るまで、宮中祭祀は旧皇室祭祀令に準拠して行われている<ref>{{Cite book |和書 |url=https://kotobank.jp/word/皇室祭祀-62192#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2|title=皇室祭祀|publisher=[[コトバンク]] |author=[[ブリタニカ・ジャパン]] [[ブリタニカ国際大百科事典]] }}</ref>。
これに伴い、皇室祭祀令など戦前の[[皇室令]]も一旦全て廃止されたものの、宮内府(のちの宮内庁は内部通牒を出し「新たに明文の規定がなくなった事項については、旧皇室令に準じて実施すること」を確認した<ref>宮内省以命通牒、「皇室令及び附属法令廃止に伴い事務取扱に関する通牒」(昭和22年5月3日宮内府長官官房文書課発第45号)</ref>。以後、現在に至るまで、宮中祭祀は旧皇室祭祀令に準拠して行われている<ref>{{Cite book |和書 |url=https://kotobank.jp/word/皇室祭祀-62192#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2|title=皇室祭祀|publisher=[[コトバンク]] |author=[[ブリタニカ・ジャパン]] [[ブリタニカ国際大百科事典]] }}</ref>。


== 日本国憲法下の位置付け ==
== 日本国憲法下の位置付け ==
[[政教分離]]を原則とする[[日本国憲法]]の下では、宮中祭祀は天皇の私的行為とされる。[[憲法学]]の学説は、天皇の行為について、[[国事行為]]、私的行為のほかに[[天皇の公的行為|公的行為]]の存在を認める「三行為説(通説)」と、国事行為、私的行為しか認めない「二行為説」に大別されるが、いずれの見解に立ったとしても、宮中祭祀は私的行為に分類されるのが通例である{{Sfnp|高乗智之|2020|pp=27-28}}。政府見解においては、天皇の行為を国事行為、公的行為、その他の行為に分類したで、宮中祭祀を「その他の行為」の中の「純粋に私的なもの」に分類している<ref>{{Cite web |url=https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/taii_tokurei/dai1/siryou5-3.pdf|title=皇室の御活動|publisher=内閣官房|accessdate=2024-01-16}}</ref>{{Sfnp|高乗智之|2020|pp=24-26}}。
[[政教分離]]を原則とする[[日本国憲法]]の下では、宮中祭祀は天皇の私的行為とされる。[[憲法学]]の学説は、天皇の行為について、[[国事行為]]、私的行為のほかに[[天皇の公的行為|公的行為]]の存在を認める「三行為説(通説)」と、国事行為、私的行為しか認めない「二行為説」に大別されるが、いずれの見解に立ったとしても、宮中祭祀は私的行為に分類されるのが通例である{{Sfnp|高乗智之|2020|pp=27-28}}。政府見解においては、天皇の行為を国事行為、公的行為、その他の行為に分類した三分説{{Sfn|大原康男|1997|p=73}}で、宮中祭祀を「その他の行為」の中の「純粋に私的なもの」に分類している<ref>{{Cite web |url=https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/taii_tokurei/dai1/siryou5-3.pdf|title=皇室の御活動|publisher=内閣官房|accessdate=2024-01-16}}</ref>{{Sfnp|高乗智之|2020|pp=24-26}}{{Sfn|大原康男|1997|p=116‐117}}。
布教の意図も概念もなく国民の信教の自由を圧迫しようがない儀式を中心とする宮中祭祀はそもそも憲法の政教分離で禁じられている国の宗教活動には当たらないとする見解もある{{Sfn|斎藤吉久|2009|p=139}}。
布教の意図も概念もなく国民の信教の自由を圧迫しようがない儀式を中心とする宮中祭祀はそもそも憲法の政教分離原則で禁じられている国の宗教活動には当たらないとする見解もある{{Sfn|斎藤吉久|2009|p=139}}。


[[大金益次郎]]は戦後の憲法調査会において、個人的祈願はまったく行われずに「ただひたすらに国家の安寧と世界の平和とをお願いになっておるだけ」の皇室祭祀を「象徴たる天皇の行事である」として、この皇室祭祀こそ「天皇が象徴であるということに本当の意義が生まれて来る」ものだと述べている{{Sfn|大原康男|1997|p=116}}。
[[葦津珍彦]]は「内廷における宮中祭祀は国家権力の及ぼざる範囲による『皇室の重儀』である」とした<ref>『[[中外日報]]』昭和59年2月10日付</ref><ref>『小日本』昭和59年10月</ref>。[[小堀桂一郎]]は「宮中祭祀とは決して皇室の私事ではなく、日本人の敬神崇祖といふ精神伝統それ自体の代表であり、象徴である」と述べている{{Sfnp|小堀桂一郎|2019|p=83}}。
[[葦津珍彦]]は「内廷における宮中祭祀は国家権力の及ぼざる範囲による『皇室の重儀』である」とした<ref>『[[中外日報]]』昭和59年2月10日付</ref><ref>『小日本』昭和59年10月</ref>。[[小堀桂一郎]]は「宮中祭祀とは決して皇室の私事ではなく、日本人の敬神崇祖といふ精神伝統それ自体の代表であり、象徴である」と述べている{{Sfnp|小堀桂一郎|2019|p=83}}。


[[内閣総理大臣]]はじめ[[三権の長]]が大祭を中心に一部の祭祀に陪席していることが確認されている。[[佐藤栄作]]は首相在任期間中、春季皇霊祭・春季神殿祭、秋季皇霊祭・秋季神殿祭、新嘗祭にほとんど出席しており、[[NHKスペシャル]]『象徴天皇 素顔の記録』<ref>[https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009010568_00000 NHKスペシャル 象徴天皇 素顔の記録 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス]</ref>(2009年4月10日放送、天皇・皇后成婚50周年の記念番組)では、当時の内閣総理大臣・[[麻生太郎]]ほか三権の長が春季皇霊祭・春季神殿祭に出席している映像が放映された。
[[内閣総理大臣]]はじめ[[三権の長]]が大祭を中心に一部の祭祀に陪席していることが確認されている。[[佐藤栄作]]は首相在任期間中、春季皇霊祭・春季神殿祭、秋季皇霊祭・秋季神殿祭、新嘗祭にほとんど出席しており、[[NHKスペシャル]]『象徴天皇 素顔の記録』<ref>[https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009010568_00000 NHKスペシャル 象徴天皇 素顔の記録 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス]</ref>(2009年4月10日放送、天皇・皇后成婚50周年の記念番組)では、当時の内閣総理大臣・[[麻生太郎]]ほか三権の長が春季皇霊祭・春季神殿祭に出席している映像が放映された。


在位後期に侍従長であった[[入江相政]]は、昭和40年代から50年代に昭和天皇の高齢を理由とした祭祀の簡略化を推進したことがその日記から窺えるが、昭和天皇は[[1986年]](昭和61年)まで新嘗祭の親祭を続けた。
在位後期に侍従長であった[[入江相政]]は、昭和40年代から50年代に昭和天皇の高齢を理由とした祭祀の簡略化を推進したことがその日記から窺えるが、昭和天皇は[[1986年]](昭和61年)まで新嘗祭の親祭を続けた。
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[[2016年]]([[平成]]28年)[[8月8日]]、当時の天皇[[明仁]]は、[[退位]]する意向を伝える国民に向けたビデオメッセージの中で「国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々の深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした」と語っている{{Sfnp|茂木貞純|佐藤健二|2019|p=10}}。
[[2016年]]([[平成]]28年)[[8月8日]]、当時の天皇[[明仁]]は、[[退位]]する意向を伝える国民に向けたビデオメッセージの中で「国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々の深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした」と語っている{{Sfnp|茂木貞純|佐藤健二|2019|p=10}}。


祭祀に関しては、事前の潔斎と[[平安装束]]の着用に加え、長時間の正座が必要であり、昭和天皇は祭祀が近づくと、正座にてテレビを視聴するなど、意識的に長時間正座することを心がけていたという。明仁も新嘗祭の時節が近づくと、昭和天皇と同様に正座の練習をしていたといわれていたが、在位20年を経た[[2009年]](平成21年)以降は、高齢の明仁の健康への配慮や負担軽減のため、祭祀の簡略化や調整が計画・実施されていた。
{{Double image aside|center|Emperor Akihito 199011 1.jpg|165|Emperor Akihito, Daijosai (1990).jpg|170|[[黄櫨染御袍]]姿の明仁|[[御祭服]]姿の明仁}}


== 祭儀の一覧 ==
祭祀に関しては、事前の潔斎と[[平安装束]]の着用に加え、長時間の正座が必要であり、昭和天皇は祭祀が近づくと、正座にてテレビを視聴するなど、意識的に長時間正座することを心がけていたという。上皇も新嘗祭の時節が近づくと、昭和天皇と同様に正座の練習をしていたといわれていたが、在位20年を経た[[2009年]](平成21年)以降は、高齢の上皇の健康への配慮や負担軽減のため、祭祀の簡略化や調整が計画・実施されていた。

== 祭儀 ==
=== 主要祭儀 ===
=== 主要祭儀 ===
{| class="wikitable" style="font-size:small"
{| class="wikitable" style="font-size:small"
117行目: 150行目:
|rowspan="2"|[[4月3日]]||[[神武天皇祭]](じんむてんのうさい)||大祭<ref name="皇室祭祀"/>||皇霊殿、[[畝傍山東北陵]]<ref name="主要祭儀一覧"/>||[[神武天皇]]の崩御日に行われる祭典<ref name="主要祭儀一覧"/>。
|rowspan="2"|[[4月3日]]||[[神武天皇祭]](じんむてんのうさい)||大祭<ref name="皇室祭祀"/>||皇霊殿、[[畝傍山東北陵]]<ref name="主要祭儀一覧"/>||[[神武天皇]]の崩御日に行われる祭典<ref name="主要祭儀一覧"/>。
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|皇霊殿御神楽(こうれいでんみかぐら)||-||皇霊殿<ref name="主要祭儀一覧"/>||神武天皇祭の夜、特に御神楽を奉奏して神霊をなごめる祭典<ref name="主要祭儀一覧"/>。
|皇霊殿御神楽(こうれいでんみかぐら)||-||皇霊殿<ref name="主要祭儀一覧"/>||神武天皇祭の夜、特に[[御神楽]]を奉奏して神霊をなごめる祭典<ref name="主要祭儀一覧"/>。
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|[[6月16日]]||[[香淳皇后例祭]](こうじゅんこうごうれいさい)||小祭<ref name="皇室祭祀"/>||皇霊殿、[[武蔵陵墓地|武藏野東陵]]<ref name="主要祭儀一覧"/>||先后の例祭<ref name="皇室祭祀"/>。[[香淳皇后]]の崩御日に行われる祭典<ref name="主要祭儀一覧"/>。
|[[6月16日]]||[[香淳皇后例祭]](こうじゅんこうごうれいさい)||小祭<ref name="皇室祭祀"/>||皇霊殿、[[武蔵陵墓地|武藏野東陵]]<ref name="主要祭儀一覧"/>||先后の例祭<ref name="皇室祭祀"/>。[[香淳皇后]]の崩御日に行われる祭典<ref name="主要祭儀一覧"/>。
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|[[11月23日]]||[[新嘗祭]](にいなめさい)||大祭<ref name="皇室祭祀"/>||神嘉殿<ref name="主要祭儀一覧"/>|| 宮中の恒例祭儀の中で最も重要な祭儀<ref name="主要祭儀一覧"/>。天皇が神嘉殿において、新穀を[[天照大御神]]はじめ天神地祇に供え、神恩を感謝した後、自らもそれを食する祭典<ref name="主要祭儀一覧"/>。皇居内の水田で天皇が自ら収穫した新穀も供えられる<ref name="主要祭儀一覧"/>。なお、天皇の即位後には、最初の新嘗祭として「[[大嘗祭]]」が行われる<ref>{{Cite book |和書 |url=https://kotobank.jp/word/大嘗祭-39450|title=大嘗祭|publisher=[[コトバンク]] |author=[[小学館]] [[日本国語大辞典]] }}</ref>。
|[[11月23日]]||[[新嘗祭]](にいなめさい)||大祭<ref name="皇室祭祀"/>||神嘉殿<ref name="主要祭儀一覧"/>|| 宮中の恒例祭儀の中で最も重要な祭儀<ref name="主要祭儀一覧"/>。天皇が神嘉殿において、新穀を[[天照大御神]]はじめ天神地祇に供え、神恩を感謝した後、自らもそれを食する祭典<ref name="主要祭儀一覧"/>。皇居内の水田で天皇が自ら収穫した新穀も供えられる<ref name="主要祭儀一覧"/>。なお、天皇の即位後には、最初の新嘗祭として「[[大嘗祭]]」が行われる<ref>{{Cite book |和書 |url=https://kotobank.jp/word/大嘗祭-39450|title=大嘗祭|publisher=[[コトバンク]] |author=[[小学館]] [[日本国語大辞典]] }}</ref>。
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|[[12月]][[中旬]]||賢所御神楽(かしこどころみかぐら)||小祭<ref name="皇室祭祀"/>||賢所<ref name="主要祭儀一覧"/>||夕刻から賢所に御神楽を奉奏して神霊をなごめる祭典<ref name="主要祭儀一覧"/>。
|[[12月]][[中旬]]||[[賢所御神楽]](かしこどころみかぐら)||小祭<ref name="皇室祭祀"/>||賢所<ref name="主要祭儀一覧"/>||夕刻から賢所に御神楽を奉奏して神霊をなごめる祭典<ref name="主要祭儀一覧"/>。
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|[[12月25日]]||[[大正天皇祭|大正天皇例祭]](たいしょうてんのうれいさい)||小祭<ref name="皇室祭祀"/>||皇霊殿、[[武蔵陵墓地|多摩陵]]<ref name="主要祭儀一覧"/>||先帝以前三代の例祭<ref name="皇室祭祀"/>。[[大正天皇]]の崩御日に行われる祭典<ref name="主要祭儀一覧"/>。
|[[12月25日]]||[[大正天皇祭|大正天皇例祭]](たいしょうてんのうれいさい)||小祭<ref name="皇室祭祀"/>||皇霊殿、[[武蔵陵墓地|多摩陵]]<ref name="主要祭儀一覧"/>||先帝以前三代の例祭<ref name="皇室祭祀"/>。[[大正天皇]]の崩御日に行われる祭典<ref name="主要祭儀一覧"/>。
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!月日!!名称!!区分!!場所!!内容
!月日!!名称!!区分!!場所!!内容
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|nowrap|毎月1日・11日・21日||旬祭(しゅんさい)||旬祭||賢所、皇霊殿、神殿||掌典長により行われる祭典。原則として毎月1日には天皇の親拝がある<ref name="宮中祭祀"/>。
|nowrap|毎月1日・11日・21日||旬祭(しゅんさい)||旬祭||[[賢所]][[皇霊殿]][[神殿]]||[[掌典長]]により行われる祭典。原則として毎月1日には[[天皇]]の親拝がある<ref name="宮中祭祀"/>。
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|毎日||[[毎朝御代拝]](まいちょうごだいはい)||-||賢所、皇霊殿、神殿||[[侍従]]により毎朝行われる代拝。
|毎日||[[毎朝御代拝]](まいちょうごだいはい)||-||賢所、皇霊殿、神殿||[[侍従]]により毎朝行われる代拝。
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|[[2月11日]]||三殿御拝(さんでんぎょはい)||旬祭||賢所、皇霊殿、神殿||神武天皇即位の日に天皇が宮中三殿を親拝する祭典。旬祭と同じ作法で行われる{{Sfnp|大岡弘|2009|p=113}}。1948年以前は、大祭の[[紀元節|紀元節祭]]が行われていた<ref name="皇室祭祀"/>。
|[[2月11日]]||三殿御拝(さんでんはい)||旬祭||賢所、皇霊殿、神殿||[[建国記念の日|神武天皇即位の日]]に天皇が[[宮中三殿]]を親拝する祭典。旬祭と同じ作法で行われる{{Sfnp|大岡弘|2009|p=113}}。[[1948年]]以前は、大祭の[[紀元節|紀元節祭]]が行われていた<ref name="皇室祭祀"/>。
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!月日!!名称!!区分!!場所!!内容
!月日!!名称!!区分!!場所!!内容
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|rowspan="4" nowrap|崩御日||神武天皇及び先帝の[[式年祭]]||大祭<ref name="皇室祭祀"/>||各[[天皇陵|陵所]]、皇霊殿||神武天皇と昭和天皇の式年祭。各々の崩御の年から3年・5年・10年・20年・30年・40年・50年・以後100年ごとに行われる<ref>{{Cite book |和書 |url=https://kotobank.jp/word/式年祭-72674#w-72674|title=式年祭|publisher=[[コトバンク]] |author=[[小学館]] [[日本国語大辞典]] }}</ref><ref>{{Cite book |和書 |url=https://kotobank.jp/word/式年-517852#goog_rewarded|title=式年|publisher=[[コトバンク]] |author=[[小学館]] [[日本国語大辞典]] }}</ref>。天皇が自ら陵所を訪れて親祭を行うのは、神武天皇と先帝の式年祭のみであり、他の式年祭とは別格の扱いとされる。皇霊殿での祭典は皇太子か掌典長によって行われる<ref>{{Cite web |url=http://mikado-bunko.jp/?p=1163|title=昭和天皇祭|publisher=ミカド文庫|accessdate=2024-01-15}}</ref>{{Efn2|神武天皇及先帝ノ式年祭ハ陵所及皇霊殿ニ於テ之ヲ行フ但シ皇霊殿ニ於ケル祭典ハ掌典長之ヲ行フ(皇室祭祀令第18条)}}。直近では、神武天皇2600年式年祭が[[2016年]](平成28年)に行われ、昭和天皇30年式年祭が[[2019年]](平成31年)に行われた<ref>「[https://www.sankei.com/article/20160404-V7FSRKAJXZPEPBPRUKZUUHPRLQ/ 神武天皇二千六百年式年祭 両陛下ご拝礼]」『産経新聞』2016年4月4日付</ref><ref>「[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO39704230X00C19A1CR8000/ 昭和天皇しのび30年式年祭 両陛下、武蔵野陵を参拝]」『[[日本経済新聞]]』2019年1月7日付</ref>。
|rowspan="4" nowrap|崩御日||神武天皇及び先帝の[[式年祭]]||大祭<ref name="皇室祭祀"/>||各[[天皇陵|陵所]]、[[皇霊殿]]||[[神武天皇]][[昭和天皇]]の式年祭。各々の[[崩御]]の年から3年・5年・10年・20年・30年・40年・50年・以後100年ごとに行われる<ref>{{Cite book |和書 |url=https://kotobank.jp/word/式年祭-72674#w-72674|title=式年祭|publisher=[[コトバンク]] |author=[[小学館]] [[日本国語大辞典]] }}</ref><ref>{{Cite book |和書 |url=https://kotobank.jp/word/式年-517852#goog_rewarded|title=式年|publisher=[[コトバンク]] |author=[[小学館]] [[日本国語大辞典]] }}</ref>。天皇が自ら陵所を訪れて親祭を行うのは、神武天皇と先帝の式年祭のみであり、他の式年祭とは別格の扱いとされる。皇霊殿での祭典は[[皇太子]][[掌典長]]によって行われる<ref>{{Cite web |url=http://mikado-bunko.jp/?p=1163|title=昭和天皇祭|publisher=ミカド文庫|accessdate=2024-01-15}}</ref>{{Efn2|神武天皇及先帝ノ式年祭ハ陵所及皇霊殿ニ於テ之ヲ行フ但シ皇霊殿ニ於ケル祭典ハ掌典長之ヲ行フ(皇室祭祀令第18条)}}。直近では、神武天皇2600年式年祭が[[2016年]](平成28年)に行われ、昭和天皇30年式年祭が[[2019年]](平成31年)に行われた<ref>「[https://www.sankei.com/article/20160404-V7FSRKAJXZPEPBPRUKZUUHPRLQ/ 神武天皇二千六百年式年祭 両陛下ご拝礼]」『産経新聞』2016年4月4日付</ref><ref>「[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO39704230X00C19A1CR8000/ 昭和天皇しのび30年式年祭 両陛下、武蔵野陵を参拝]」『[[日本経済新聞]]』2019年1月7日付</ref>。
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|先帝以前三代の式年祭||大祭<ref name="皇室祭祀"/>||皇霊殿、各陵所||大正天皇、明治天皇、孝明天皇の式年祭。各々の崩御の年から3年・5年・10年・20年・30年・40年・50年・以後100年ごとに行われる<ref name="皇室祭祀"/>。
|先帝以前三代の式年祭||大祭<ref name="皇室祭祀"/>||皇霊殿、各陵所||[[大正天皇]][[明治天皇]][[孝明天皇]]の式年祭。各々の崩御の年から3年・5年・10年・20年・30年・40年・50年・以後100年ごとに行われる<ref name="皇室祭祀"/>。
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|先后及び皇妣たる皇后の式年祭{{Efn2|皇室祭祀令では「先后の式年祭」と「皇妣たる皇后の式年祭」に分けられているが、制定以降の皇位継承は全て父子間で行われているため、「先后(先帝の皇后)」と「皇妣たる皇后(母后)」は一致している。}}||大祭<ref name="皇室祭祀"/>||皇霊殿、武藏野東陵||香淳皇后の式年祭。崩御の年から3年・5年・10年・20年・30年・40年・50年・以後100年ごとに行われる<ref name="皇室祭祀"/>。なお、平成年間には、既に「先后及び皇妣たる皇后」ではない[[英照皇太后]]と[[昭憲皇太后]]の100年式年祭も行われた<ref>{{Cite web |url=https://www.kunaicho.go.jp/20years/20kiroku/saishi/saishi-h09.html|title=宮中祭祀のお出まし(平成9年)|publisher=宮内庁 |accessdate=2024-01-15}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.kunaicho.go.jp/page/gonittei/show/1?quarter=201402|title=天皇皇后両陛下のご日程|publisher=宮内庁 |accessdate=2024-01-15}}</ref>{{Efn2|[[貞明皇后]]の50年式年祭は、香淳皇后の大喪期間中であったため行われなかった<ref>{{Cite web |url=https://www.kunaicho.go.jp/20years/20kiroku/saishi/saishi-h13.html|title=宮中祭祀のお出まし(平成13年)|publisher=宮内庁 |accessdate=2024-01-15}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/goryou/pdf/arikata.pdf|title=今後の御陵及び御喪儀のあり方について|publisher=宮内庁 |accessdate=2024-01-15}}</ref>。}}。
|先后及び皇妣たる皇后の式年祭{{Efn2|皇室祭祀令では「先后の式年祭」と「皇妣たる皇后の式年祭」に分けられているが、制定以降の皇位継承は全て父子間で行われているため、「先后(先帝の皇后)」と「皇妣たる皇后(母后)」は一致している。}}||大祭<ref name="皇室祭祀"/>||皇霊殿、[[武蔵陵墓地|武藏野東陵]]||[[香淳皇后]]の式年祭。崩御の年から3年・5年・10年・20年・30年・40年・50年・以後100年ごとに行われる<ref name="皇室祭祀"/>。なお、[[平成]]年間には、既に「先后及び皇妣たる皇后」ではない[[英照皇太后]]と[[昭憲皇太后]]の100年式年祭も行われた<ref>{{Cite web |url=https://www.kunaicho.go.jp/20years/20kiroku/saishi/saishi-h09.html|title=宮中祭祀のお出まし(平成9年)|publisher=宮内庁 |accessdate=2024-01-15}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.kunaicho.go.jp/page/gonittei/show/1?quarter=201402|title=天皇皇后両陛下のご日程|publisher=宮内庁 |accessdate=2024-01-15}}</ref>{{Efn2|[[貞明皇后]]の50年式年祭は、香淳皇后の大喪期間中であったため行われなかった<ref>{{Cite web |url=https://www.kunaicho.go.jp/20years/20kiroku/saishi/saishi-h13.html|title=宮中祭祀のお出まし(平成13年)|publisher=宮内庁 |accessdate=2024-01-15}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/goryou/pdf/arikata.pdf|title=今後の御陵及び御喪儀のあり方について|publisher=宮内庁 |accessdate=2024-01-15}}</ref>。}}。
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|緩靖天皇以下先帝以前四代に至る歴代天皇の式年祭||小祭<ref name="皇室祭祀"/>||皇霊殿、各陵所||[[綏靖天皇]]から[[仁孝天皇]]までの[[天皇の一覧|歴代天皇]]の式年祭。各々の崩御の年から3年・5年・10年・20年・30年・40年・50年・以後100年ごとに行われる<ref>{{Cite book |和書 |url=https://kotobank.jp/word/式年祭-72674#w-72674|title=式年祭|publisher=[[コトバンク]] |author=[[ブリタニカ・ジャパン]] [[ブリタニカ国際大百科事典]] }}</ref>。
|緩靖天皇以下先帝以前四代に至る歴代天皇の式年祭||小祭<ref name="皇室祭祀"/>||皇霊殿、各陵所||[[綏靖天皇]]から[[仁孝天皇]]までの[[天皇の一覧|歴代天皇]]の式年祭。各々の崩御の年から3年・5年・10年・20年・30年・40年・50年・以後100年ごとに行われる<ref>{{Cite book |和書 |url=https://kotobank.jp/word/式年祭-72674#w-72674|title=式年祭|publisher=[[コトバンク]] |author=[[ブリタニカ・ジャパン]] [[ブリタニカ国際大百科事典]] }}</ref>。
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|rowspan="2" nowrap|薨去日||近親皇族の式年祭||-||[[霊舎]]、[[豊島岡墓地]]||近親の[[皇族]]の式年祭。各々の[[薨去]]の年から3年、5年、10年、20年、30年、40年、50年・以後100年ごとに、主に[[宮家]]の構成員によって行われる。宮邸にある霊舎で行われる「霊舎祭の儀」、豊島岡墓地で行われる「墓所祭の儀」がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kunaicho.go.jp/searchresult.html?q=霊舎祭%E3%80%80墓所祭|title=霊舎祭・墓所祭|publisher=宮内庁 |accessdate=2024-10-07}}</ref>。
|-
|歴代皇族の式年祭||-||各[[墓所]]||歴代の皇族の式年祭。各々の薨去の年から3年、5年、10年、20年、30年、40年、50年・以後100年ごとに、[[宮内庁]]の職員によって行われる<ref>{{Cite book |和書 |url=https://kotobank.jp/word/陵墓-182934#w-878114|title=陵墓|publisher=[[コトバンク]] |author=[[朝日新聞社]] [[知恵蔵]] }}</ref><ref>「[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45724480V00C19A6AA1P00/ 天皇陵の素顔(上)「閉じた聖域」戦後から時を刻む]」『[[日本経済新聞]]』2019年6月6日付</ref>。
|-
|}

=== 正辰祭 ===
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!月日!!名称!!区分!!場所!!内容
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|崩御日||緩靖天皇以下先帝以前四代に至る歴代天皇の正辰祭||-||各[[天皇陵|陵所]]||[[綏靖天皇]]から[[仁孝天皇]]までの[[天皇の一覧|歴代天皇]]の正辰祭(命日祭)。毎年の[[崩御]]日に、[[宮内庁]]の職員によって行われる<ref name="陵墓">{{Cite book |和書 |url=https://kotobank.jp/word/陵墓-182934#w-878114|title=陵墓|publisher=[[コトバンク]] |author=[[共同通信社]] 共同通信ニュース用語解説 }}</ref>。
|-
|薨去日||歴代皇族の正辰祭||-||各[[墓所]]||歴代の[[皇族]](近親の皇族を除く)の正辰祭。毎年の[[薨去]]日に、宮内庁の職員によって行われる<ref name="陵墓"/>。
|}

=== 大祭・小祭に準ずる祭儀 ===
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!時期!!名称!!区分!!場所!!内容
|-
|[[皇室]]または[[日本|国家]]の大事||神宮賢所皇霊殿神殿及び山陵に親告の儀||大祭に準ず<ref name="皇室祭祀令第19条">皇室祭祀令第19条</ref>||[[伊勢神宮|神宮]]、[[宮中三殿|三殿]]、各[[天皇陵|陵所]]||皇室や国家にとって重大な出来事が起こった際に、[[天皇]]が宮中三殿、伊勢神宮、神武天皇陵、先帝陵を親拝する儀式。戦後の例には、[[終戦]]の奉告([[1945年]])と[[サンフランシスコ講和条約]]発効の奉告([[1952年]])がある<ref>「[https://www.jinja.co.jp/ycBBS/Board.cgi/00_backnumber_db/db/ycDB_01news-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=103012&opt:htmlcache=1 御譲位・御即位の見解 時の流れ研究会]」『[[神社新報]]』2017年9月11日付</ref>。
|-
|[[神宮式年遷宮|式年遷宮]]||遥拝の儀||大祭に準ず<ref name="皇室祭祀令第19条"/>||[[神嘉殿]]||式年遷宮における[[伊勢神宮]][[皇大神宮|内宮]]の「[[遷御|遷御の儀]]」と同時刻に、[[神嘗祭]]の場合と同じく、天皇が神嘉殿において神宮を遥拝する。直近では、[[2013年]](平成25年)に行われた<ref>「[https://www.sankei.com/article/20131003-LGZEKLSVBBOBVB3MQRYAROEZCM/ 天皇陛下が遙拝の儀]」『[[産経新聞]]』2013年10月03日付</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kunaicho.go.jp/searchresult.html?q=遙拝の儀|title=遙拝の儀|publisher=宮内庁 |accessdate=2024-10-07}}</ref>。
|-
|[[宮中三殿]]の奉遷||奉遷の儀||大祭に準ず<ref name="皇室祭祀令第19条"/>||[[御所]]||[[賢所]]、[[皇霊殿]]、[[宮中三殿|神殿]]の[[ご神体]]を移す時に、天皇が御所から三殿を遙拝する儀式。直近では、宮中三殿の耐震改修工事のために、[[2006年]]([[平成]]18年)に本殿から仮殿へ、[[2008年]](平成20年)に仮殿から本殿へ奉遷の儀が行われた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kunaicho.go.jp/20years/20kiroku/saishi/saishi-h18.html|title=宮中祭祀のお出まし(平成18年)|publisher=宮内庁 |accessdate=2024-10-07}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kunaicho.go.jp/20years/20kiroku/saishi/saishi-h20.html|title=宮中祭祀のお出まし(平成20年)|publisher=宮内庁 |accessdate=2024-10-07}}</ref>。
|-
|[[天皇]]、[[太皇太后]]、[[皇太后]]の霊代奉遷||皇霊殿親祭の儀||大祭に準ず<ref name="皇室祭祀令第19条"/>||[[皇霊殿]]||[[大喪儀]]の締めくくりである「一周年祭の儀」を終えて、[[崩御]]した「天皇、太皇太后、皇太后」の[[御霊代|霊代]]が[[掌典長]]によって皇霊殿に移された後に、天皇が皇霊殿において親祭を行う<ref>皇室祭祀令附式</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kunaicho.go.jp/20years/20kiroku/saishi/saishi-h02.html|title=宮中祭祀のお出まし(平成2年)|publisher=宮内庁 |accessdate=2024-10-07}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kunaicho.go.jp/20years/20kiroku/saishi/saishi-h13.html|title=宮中祭祀のお出まし(平成13年)|publisher=宮内庁 |accessdate=2024-10-07}}</ref>。
|-
|その他の[[皇族]]の霊代遷移||皇霊殿祭典の儀||小祭に準ず<ref name="皇室祭祀令第19条">皇室祭祀令第19条</ref>||皇霊殿||[[喪儀|皇族喪儀]]の締めくくりである「一周年祭の儀」を終えて、[[薨去]]した皇族の霊代が掌典長によって皇霊殿に移された後に、掌典長が皇霊殿で祭典を行う。このとき、特別の理由がない限り、天皇は皇霊殿の親拝を行わない<ref>皇室祭祀令第26条</ref><ref>皇室祭祀令附式</ref>。
|-
|-
|}
|}


=== 皇室祭祀令との差異 ===
=== 皇室祭祀令との差異 ===
*2月11日 '''紀元節祭'''(きげんせつさい)の廃止。
*[[2月11日]] '''紀元節祭'''(きげんせつさい)の廃止。
**[[紀元節]]が廃止されたことにより、賢所・皇霊殿・神殿で行われていた大祭の「紀元節祭」は廃止された。ただし、廃止後も「臨時御拝」として、旬祭と同じ作法で、天皇の親拝が行われた{{Sfnp|大岡弘|2009|p=113}}。平成以降は「三殿御拝」に名称が改められ、同様に天皇の親拝が行われている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kunaicho.go.jp/searchresult.html?q=三殿御拝|title=三殿御拝|publisher=宮内庁 |accessdate=2024-01-15}}</ref>。
**[[紀元節]]が廃止されたことにより、[[賢所]][[皇霊殿]][[宮中三殿|神殿]]で行われていた大祭の「紀元節祭」(大祭)は廃止された。ただし、廃止後も「臨時御拝」として、旬祭と同じ作法で、天皇の親拝が行われた{{Sfnp|大岡弘|2009|p=113}}。[[平成]]以降は「三殿御拝」に名称が改められ、同様に天皇の親拝が行われている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kunaicho.go.jp/searchresult.html?q=三殿御拝|title=三殿御拝|publisher=宮内庁 |accessdate=2024-01-15}}</ref>。
*11月3日 '''明治節祭'''(めいじせつさい)の廃止。
*[[11月3日]] '''明治節祭'''(めいじせつさい)の廃止。
** [[明治節]]が廃止され、[[文化の日]]が新たに制定されたことにより、賢所・皇霊殿・神殿で行われていた小祭の「明治節祭」は廃止された<ref name="皇室祭祀"/>。その後も[[1987年]](昭和62年)まで「臨時御拝」が行われたが、平成に至って廃絶した{{Sfnp|茂木貞純|2019|p=280}}。
** [[明治節]]が廃止され、[[文化の日]]が新たに制定されたことにより、賢所・皇霊殿・神殿で行われていた小祭の「明治節祭」(大祭)は廃止された<ref name="皇室祭祀"/>。その後も[[1987年]]([[昭和]]62年)まで「臨時御拝」が行われたが、平成に至って廃絶した{{Sfnp|茂木貞純|2019|p=280}}。なお、この日は[[明治神宮]]の例祭にあたり、今でも[[勅使]]が派遣されている{{Sfnp|中澤伸弘|2010|pp=94}}。

*'''天長節祭'''(てんちょうせつさい)から'''天長祭'''(てんちょうさい)へ名称を変更。
*'''天長節祭'''(てんちょうせつさい)から'''天長祭'''(てんちょうさい)へ名称を変更。
**[[天皇誕生日|天長節]]が[[天皇誕生日]]へと改称されたことによる<ref name="皇室祭祀"/>。
**[[天皇誕生日|天長節]]が[[天皇誕生日]]へと改称されたことによる<ref name="皇室祭祀"/>。

=== 即位、崩御、立太子、成年、結婚に伴う祭儀 ===
*[[即位]]、[[崩御|崩御・薨去]]、[[立太子]]、[[成年]]、[[結婚]]に伴う祭儀は、'''皇室祭祀令'''ではなく、'''[[登極令]]'''、'''[[皇室喪儀令]]'''、'''[[皇室令|立儲令]]'''、'''[[皇室令|皇室成年令]]'''、'''[[皇室令|皇室親族令]]'''によって規定されていた。
*これら祭儀の詳細については「'''[[即位の礼]]'''」「'''[[大嘗祭]]'''」「'''[[大喪儀]]'''」「'''[[立太子の礼]]'''」「'''[[皇室の儀式]]'''」を参照のこと。


== 服装 ==
== 服装 ==
; [[天皇]]
参列者の服装は、洋装の場合[[モーニングコート]]及び[[ドレス|アフタヌーンドレス]]、和装の場合は白襟[[紋付]]及びそれに準ずるものとされている。冬期は、[[外套]]を着用する事ができる。
:; 御祭服(ごさいふく){{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=358}}:天皇が祭祀で着用する装束の中で最も清浄で神聖な装束{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=358}}<ref name="衣紋道">{{Cite web |url=https://kyoto-kyuteibunka.or.jp/column/1/|title=衣紋道|publisher=京都宮廷文化研究所 |accessdate=2024-11-09}}</ref>。[[白|純白]]の生絹で作られる[[束帯]]であり{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=358}}<ref name="衣紋道"/>、[[袍]]は「御斎衣(おんさいい)」と呼ばれるもので、普通の「[[縫腋袍]]」とは異なる仕立てとなっている{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=358}}。冠は「[[日本の冠#特殊な着装|御幘の冠]]」である{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=358}}<ref name="衣紋道"/>。[[淳和天皇]]の時から用いられた{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=358}}。[[大嘗祭]]における「悠紀殿供饌の儀」「主基殿供饌の儀」及び[[新嘗祭]]に着用する{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=358}}<ref name="衣紋道"/>。
:; 御束帯「帛御袍」(おんそくたい はくのごほう){{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=358}}:御祭服に次ぐ装束<ref name="衣紋道"/>。純白の練絹で作られる束帯であり、袍は「縫腋袍」で冠は「[[日本の冠#構成|御立纓の冠]]」である{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=358}}<ref name="衣紋道"/>。[[嵯峨天皇]]以来[[神事]]に用いられた{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=359}}。[[即位礼]]に伴う祭儀である「賢所大前の儀」及び大嘗祭において[[大嘗祭#大嘗宮|頓宮]]から[[大嘗祭#大嘗宮|廻立殿]]に入る時に着用する{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|pp=358-359}}<ref name="衣紋道"/>。
:; 御束帯「黄櫨染御袍」(おんそくたい こうろぜんのごほう){{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=358}}:祭祀で最も用いる装束{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=359}}<ref name="衣紋道"/>。[[櫨]]と[[蘇芳]]で練絹を染め上げた黄茶色の束帯であり、袍は「縫腋袍」で冠は「御立纓の冠」である{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=359}}{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=262}}<ref>{{Cite web |url=https://costume.iz2.or.jp/costume/573.html|title=黄櫨染の御袍|publisher=日本服飾史 |accessdate=2024-11-09}}</ref>。[[太陽]]が一番高く登った時の色を表しているとされ、嵯峨天皇以来、天皇以外は着ることが許されない「禁色(きんじき)」とされた<ref>{{Cite book |和書 |url=https://kotobank.jp/word/黄櫨染御袍-1829903#w-1829903|title=黄櫨染御袍|publisher=[[コトバンク]] |author=[[朝日新聞出版]] [[知恵蔵|知恵蔵mini]] }}</ref>。年間の大祭及び小祭、即位に伴う祭儀などに着用する<ref name="衣紋道"/>。
{{For1|詳細|黄櫨染御袍}}
:; 御引直衣(おひきのうし){{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=358}}:身丈の長い[[直衣]]であり、[[裾]]を長く引いて着用するためこの名がある<ref>{{Cite web |url=https://costume.iz2.or.jp/costume/574.html|title=御引直衣|publisher=日本服飾史 |accessdate=2024-11-09}}</ref>。袍は[[白]]で、[[単衣|単]]と[[袴]]は[[紅色|紅]]である{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=359}}。[[鎌倉時代]]以降、天皇のみが用いた{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=359}}。即位に伴う[[伊勢神宮]]、[[神武天皇陵]]、前四代の[[天皇陵]]への「勅使発遣の儀」などに着用する{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=359}}<ref name="衣紋道"/>。
:; 御直衣(おのうし){{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=358}}:天皇が用いる直衣。臨時に行われる伊勢神宮、天皇陵への「勅使発遣の儀」に着用する。また「大嘗祭前二日[[御禊]]」にも着用する。年間の祭儀では、[[神武天皇祭]]及び[[先帝祭|昭和天皇祭]]の夜に行われる「御神楽の儀」のほか、旬祭において親拝する場合に着用する<ref name="衣紋道"/>{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=359}}。
:; 御小直衣(おこのうし){{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=358}}:天皇が用いる[[小直衣]]。[[狩衣]]に襴を付けたものであり、御直衣よりも略儀の装束{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=359}}<ref name="衣紋道"/>。冠は「[[日本の冠#特殊な着装|御金巾子]]」である{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=359}}。年間の祭儀では、[[節折]]に着用する{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=359}}<ref name="衣紋道"/>。また、宮中から伊勢神宮及び神社に奉納する[[御霊代]]を見る場合にも着用する。[[大喪]]の後、一周年祭の翌日に行われる「御禊の儀」にも着用する<ref name="衣紋道"/>。
:; 礼服:即位に伴う前四代の天皇陵への「親謁の儀」や式年祭における「山陵の儀」などに着用する。現在は[[モーニングコート]]が用いられる{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=361}}。戦前は[[軍服 (大日本帝国陸軍)#天皇の軍服|陸軍式御服]]が用いられていた{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=361}}。

; [[皇后]]
:; 帛御服(はくのごふく){{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=359}}:白色の御五衣・御唐衣・御裳{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=359}}。天皇の「御祭服」と「帛御袍」に相当し{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=359}}、純白の平絹で作られる<ref>{{Cite book |和書 |url=https://kotobank.jp/word/祭服-68207#w-1168356|title=祭服|publisher=[[コトバンク]] |author=[[小学館]] [[日本大百科全書]] }}</ref>。髪は[[大垂髪]]である{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}。即位礼に伴う祭儀である「賢所大前の儀」及び[[大嘗祭]]における「悠紀殿供饌の儀」「主基殿供饌の儀」に着用する{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}。
:; 御五衣・御唐衣・御裳(おんいつつぎぬ・おんからぎぬ・おんも){{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=359}}:いわゆる「[[十二単]]」である{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}。色については特に規定はない{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}。即位礼及び大嘗祭後に行う伊勢神宮への「親閲の儀」に着用する{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}。
:;御五衣・御小袿・御長袴(おんいつつぎぬ・おんこうちき・おんながばかま){{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=359}}:祭祀で最も用いる装束{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}。年間の大祭及び小祭、即位に伴う祭儀などに着用する{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}<ref>{{Cite web |url=https://costume.iz2.or.jp/costume/598.html|title=皇族女子盛装|publisher=日本服飾史 |accessdate=2024-11-09}}</ref>。髪は「お中」と呼ぶ垂髪を普通は用いる{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}。なお、略服として、常には「御小袿・御長袴」(構成は[[小袿]]・[[単衣|単]]・[[袴#種類|長袴]])を代用している{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}。
:; 礼服:即位に伴う前四代の天皇陵への「親謁の儀」や式年祭における「山陵の儀」などに着用する。[[アフタヌーンドレス]]([[ローブ・モンタント]])が用いられる{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=362}}。

; [[皇太子]]/[[皇嗣]]
:; 斎服(さいふく){{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}:純白の束帯{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}。白袍・白単・白切袴よりなる{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}。袍は「縫腋袍」で冠は「[[日本の冠#構成|垂纓の冠]]」である{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}。新嘗祭に着用する{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}。
:; 束帯「黄丹袍」(そくたい おうにのほう){{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}:祭祀で最も用いる装束{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}。[[紅花]]と[[支子]]で染め上げた黄赤色の束帯であり、袍は「縫腋袍」で冠は「垂纓の冠」である{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}。成年、立太子、結婚に伴う祭儀、年間の大祭及び小祭で着用する{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}。なお、大嘗祭では、清浄を表す[[小忌衣]]と[[日陰蔓]]を着けた束帯を用いる{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}。
:; 衣冠単(いかんひとえ){{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}:[[単衣|単]]を着用した[[衣冠]]。垂纓の冠・袍・単・[[指貫]]よりなる{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}。即位礼及び大嘗祭後に行う伊勢神宮への「親閲の儀」に供奉する場合に用いる{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}。
:; 直衣(のうし){{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}:祭祀の作法の習礼などに用いる{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}。
:; 礼服:式年祭における「墓所祭の儀」などに着用する。モーニングコートが用いられる。

; [[皇太子妃|皇太子妃/皇嗣妃]]
:; 五衣・唐衣・裳(いつつぎぬ・からぎぬ・も){{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}:いわゆる「十二単」である。結婚に伴う祭儀及び大嘗祭で着用する。なお、大嘗祭では、清浄を表す小忌衣、日陰蔓、心葉(貝や金銀の金具の造花)<ref>{{Cite book |和書 |url=https://kotobank.jp/word/心葉-500713|title=心葉|publisher=[[コトバンク]] |author=[[小学館]] デジタル大辞泉 }}</ref>を着ける{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}。
:; 五衣・小袿・長袴(いつつぎぬ・こうちき・ながばかま){{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}:祭祀で最も用いる装束。年間の大祭及び小祭に着用する{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}。略服として「小袿・長袴」も用いる{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}。
:; 袿袴(うちきばかま/けいこ){{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}:袿・単・切袴からなる。即位礼及び大嘗祭後に行う伊勢神宮への「親閲の儀」に供奉する場合に用いる{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}。
:; 礼服:式年祭における「墓所祭の儀」などに着用する。アフタヌーンドレス(ローブ・モンタント)が用いられる。

; [[皇族|男性皇族]]
:; 束帯「黒袍」(そくたい くろほう){{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}:黒色の束帯。袍は「縫腋袍」で冠は「垂纓の冠」である。成年や結婚に伴う祭儀で着用する{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}。なお、大嘗祭では、清浄を表す小忌衣と日陰蔓を着けた束帯を用いる{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}。
:; 衣冠単(いかんひとえ){{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}:即位礼及び大嘗祭後に行う伊勢神宮への「親閲の儀」に供奉する場合に用いる{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}。
:; 小直衣(このうし){{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}:祭祀の作法の習礼などに用いる{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}。
:; 礼服:最も用いる服装。天皇、皇太子/皇嗣以外の男性皇族が宮中三殿の殿上に上がることができるのは成年と結婚の時だけであるため{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=384}}{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=466}}、年間の祭儀では礼服で三殿の下の庭から拝礼する{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=457}}。モーニングコートが用いられる{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=457}}。

; [[皇族|女性皇族]]
:; 五衣・唐衣・裳(いつつぎぬ・からぎぬ・も){{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}:いわゆる「十二単」である。結婚に伴う祭儀及び大嘗祭で着用する。なお、大嘗祭では、清浄を表す小忌衣、日陰蔓、心葉を着ける{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}。
:; 五衣・小袿・長袴(いつつぎぬ・こうちき・ながばかま){{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}:結婚に伴う祭儀では、略服の「小袿・長袴」も用いられる<ref>皇室親族令附式</ref><ref>「[https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG02H01_S4A001C1CR0000/ 典子さま、宮中三殿に拝礼 5日に結婚式]」『日本経済新聞』2014年10月2日付</ref><ref>「[https://www.sankei.com/article/20181026-7BWTM47UV5OQNKAH77Q7KGDJXI/ 絢子さま、先祖に結婚ご報告 宮中三殿をご拝礼]」『産経新聞』2018年10月26日付</ref>。
:; 袿袴(うちきばかま/けいこ){{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}:即位礼及び大嘗祭後に行う伊勢神宮への「親閲の儀」に供奉する場合に用いる{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=360}}。
:; 礼服:最も用いる服装。皇后、皇太子妃/皇嗣妃以外の女性皇族が宮中三殿の殿上に上がることができるのは結婚の時だけであるため{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=466}}、年間の祭儀では礼服で三殿の下の庭から拝礼する{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=457}}。アフタヌーンドレス(ローブ・モンタント)が用いられる{{Sfnp|皇室事典編集委員会|2009|p=457}}。

; 参列者
: 参列者の服装については、洋装の場合はモーニングコート及びアフタヌーンドレス、和装の場合は白襟[[紋付]]及びそれに準ずるものとされている。冬期は[[外套]]を着用する事ができる。

=== ギャラリー ===
<gallery widths="200">
Emperor Akihito, Daijosai (1990).jpg|帛御袍を着用した[[明仁]]
Emperor Akihito 199011 1.jpg|[[黄櫨染御袍]]を着用した明仁
Empress Michiko, Daijosai (1990).jpg|帛御服を着用した[[上皇后美智子|美智子]]
Empress_Michiko_199011_1.jpg|御五衣・御唐衣・御裳を着用した美智子
Prince Naruhito wearing Sokutai.jpg|[[黄丹袍]]を着用した[[徳仁]]
Prince Fumihito.jpg|黒袍を着用した[[秋篠宮文仁親王|文仁]]
</gallery>


== 脚注 ==
== 脚注 ==
217行目: 336行目:
* {{Citation|和書|author=斎藤吉久|date=2009-2-5|title=天皇の祈りはなぜ簡素化されたか|publisher=並木書房|ref={{SfnRef|斎藤吉久|2009}} }}
* {{Citation|和書|author=斎藤吉久|date=2009-2-5|title=天皇の祈りはなぜ簡素化されたか|publisher=並木書房|ref={{SfnRef|斎藤吉久|2009}} }}
* {{Citation|和書|author=井原今朝男|date=2013-6-15|title=史実 中世仏教 第2巻|publisher=興山舎|ref={{SfnRef|井原今朝男|2013}} }}
* {{Citation|和書|author=井原今朝男|date=2013-6-15|title=史実 中世仏教 第2巻|publisher=興山舎|ref={{SfnRef|井原今朝男|2013}} }}
* {{Citation|和書|author=大原康男|date=1997-10-20|title=詳録・皇室をめぐる国会論議|publisher=展転社|ref={{SfnRef|大原康男|1997}} }}
* {{Citation|和書|author=中本真人|date=2021-12-22|title=なぜ神楽は応仁の乱を乗り越えられたのか|publisher=新典社|ref={{SfnRef|中本真人|2021}} }}
* {{Citation|和書|author=村上重良|date=1977-2-21|title=天皇の祭祀|publisher=岩波書店|series=岩波新書|ref={{SfnRef|村上重良|1977}} }}


;論文
;論文
228行目: 350行目:
* {{Cite book|和書|editor=國學院大學日本文化研究所|title=神道事典|edition=縮刷版|publisher=[[弘文堂]]|date=1999-05|origdate=1994-07|isbn=433516033X|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|editor=國學院大學日本文化研究所|title=神道事典|edition=縮刷版|publisher=[[弘文堂]]|date=1999-05|origdate=1994-07|isbn=433516033X|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|editor=薗田稔|editor2=橋本政宣|title=神道史大辞典|publisher=吉川弘文館|date=2004-07|isbn=4642013407|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|editor=薗田稔|editor2=橋本政宣|title=神道史大辞典|publisher=吉川弘文館|date=2004-07|isbn=4642013407|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=皇室事典編集委員会|title=皇室事典|publisher=角川学芸出版|date=2009-04|isbn=9784046219633|ref=harv}}
;その他
;その他
* [[八木秀次 (法学者)|八木秀次]]「宮中祭祀廃止論に反駁する」(「[[正論 (雑誌)|正論]]」、2008年6月5日付)[https://web.archive.org/web/20080607042542/http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/080605/imp0806050311000-n1.htm]
* [[八木秀次 (法学者)|八木秀次]]「宮中祭祀廃止論に反駁する」(「[[正論 (雑誌)|正論]]」、2008年6月5日付)[https://web.archive.org/web/20080607042542/http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/080605/imp0806050311000-n1.htm]
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[天皇]]
*[[皇室]]
*[[皇室の儀式]]
*[[皇室の儀式]]
*[[京都御所]]
*[[神道]]
*[[清涼殿]]
*[[伊勢神宮]]
*[[四方拝]]
*[[賢所]]
*[[宮中三殿]]
*[[宮内庁治定陵墓の一覧]]
*[[有職故実]]
*[[有職故実]]
*[[帝王学]]
*[[帝王学]]
*[[皇室祭祀令]]
*[[祝祭日]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
*[https://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/kyuchu/saishi/saishi.html 宮中祭祀] 宮内庁公式ページの宮中祭祀についての説明
*[https://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/kyuchu/saishi/saishi.html 宮中祭祀宮内庁)]
*[{{NDLDC|992231/2}} 平田久編『宮中儀式略』民友社、1904年。]
* [http://www.nipponkaigi.org/1700-rekishi/1710-04kamata.html 鎌田純一『皇室祭祀と建国の心』]
* [http://moura.jp/scoop-e/seigen/pdf/20060417/sg060417_kyuchu_01_2.pdf 原武史・保阪正康「宮中祭祀というブラックボックス」](講談社「MouRa」HP)
* {{NHK放送史|D0009170160_00000|天皇陛下 宮中祭祀}}
* {{NHK放送史|D0009170160_00000|天皇陛下 宮中祭祀}}
*[https://hourei.ndl.go.jp/simple/detail?lawId=0000010195&current=-1 皇室祭祀令(日本法令索引)]


{{天皇項目}}
{{天皇項目}}

2024年11月10日 (日) 15:22時点における最新版

宮中祭祀
(皇室祭祀)
一年で最も重要な祭典・新嘗祭
種類 神道祭祀[1]
会場 宮中三殿陵墓
創始者 伝・神武天皇[2]
予算 内廷費
メンバー
皇室
天皇(主宰者[3]
皇族
掌典職
掌典長
掌典次長
掌典
内掌典
掌典補
出仕

宮中祭祀(きゅうちゅうさいし)とは、天皇国家国民の安寧と繁栄を祈ることを目的におこなう祭祀皇室祭祀とも呼ばれる[4][5][6]。主に皇居宮中三殿で行われる祭祀には、天皇が自ら祭典を斎行し、御告文を奏上する大祭と、掌典長(掌典職)が祭典を行い、天皇が親拝する小祭、毎月1日・11日・21日に掌典長が祭典を行い、原則として1日には天皇が親拝する旬祭がある[7]

歴史

[編集]

先史時代

[編集]

部族社会においては、祭祀家系部族の創始者、すなわちその社会および世界の創造者に由来し、その地位は種々の神話伝承によって権威化されるという[8]。天皇や皇室は、こうした古代社会以来の祭司王の伝統を代々受け継いでいる[9]

古代国家、未開社会の王は、巫王、祭司王、呪王の3形態に分類されるが[10]、古代天皇は、血統によるカリスマで補強された、国家の最高祭司であった[11]

新嘗祭の原型は、紀元前にまで遡る日本の原始農耕社会で行われていたイネ収穫祭である[12]。王は大司祭として収穫祭を執行し、カミと一体化することであらためて王権の保持者たることを示した[13]

古墳時代

[編集]

神話学者の松前健は「記紀」等に見える初期の大王の記録や古社の記録等から、初期ヤマト王権では三輪山を斎場とした日神祭祀があった可能性を指摘している[14]。やがてヤマト王権の勢力が日本の東西に広まるにつれ、古くから日神崇拝の聖地として中央にも知られていた伊勢の地を大王の聖地とし、皇祖アマテラス大神として信仰するようになっていった[15][注 1]。「遅くとも6世紀前半」「どんなに遅く見積もっても6世紀末以前」には皇祖神天照大神として伊勢神宮に祭られていたという[17]。 また、大王自身も「カミ」を祭るのが本来の主要な任務であったとされ、しばしば「ウツシイワイ」を行った神武天皇や、自ら神床に通夜し夢告を受けた崇神天皇の記事にその様子が伝えられている[18]。奈良県桜井市の纏向遺跡からは、3世紀中頃のものとみられる祭祀土坑から祭祀で使用された食物や伊勢製の土器が出土し、それらには大嘗祭神饌との共通点も多く、大王や天皇の祭祀の原型が見られるという[19]

皇室の祖先神を祀る伊勢神宮内宮

日本書紀敏達天皇紀には、宮廷内に日祀部を設置したことが記されているが、これは神祇官以前の古い祭官であり、太陽神の祭祀を司っていた[20]

飛鳥~奈良時代

[編集]

天武天皇持統天皇の時代に数々の国家祭祀が整備・成立したことが、多くの先行研究で明らかになっている[21]新嘗祭大嘗祭の祭祀としての形式確立はこの時代と思われる[注 2]

奈良時代になると、当時の先進国であったの国家体制を範として律令の制定が行われた。この時、祭祀についても従来行われていた「カミマツリ」が神祇官を中心に再編成された。これが律令祭祀であり、その規定が神祇令である[22]。神祇令では、10の四時祭と2つの臨時祭、二季に行われる大祓が規定された。祈年祭は唐の「祈穀郊(きこくこう)」に倣ったものと思われ、鎮火祭や道饗(みちあえ)祭は都城の成立後と思われるが、それ以外は伝統的祭祀に由来するという[23]。神祇官より全国の主要諸社に定期的に幣帛を頒布することで、中央政府は地方神社の祭祀にも関与した[22]。特に伊勢神宮神嘗祭に対しては、宮中で天皇が自ら伊勢神宮を遥拝する「勅使発遣の儀」が行われ、幣帛が毎年必ず送られるとされた(神嘗祭賢所の儀[24][25]

平安時代

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平安時代病気疫病地震火災天災といった災い事は祟りなどが起こすものと考えられ、人々は、祟りを起こす神の存在をに例えたり、疫神として恐れていた[26][27][28]疫神祭鎮花祭風神祭大祓宮城四隅疫神祭防解火災祭螢惑星祭[29][30]等の陰陽道は平安貴族社会を基盤にして呪術的に行われ、律令制神祇祭祀の中には陰陽要素が含まれていた[29][31]

平安時代には、年始の「元旦四方拝」や宮中における天皇の毎朝の神事である「毎朝御拝」、宮中女官による内侍所祭祀が成立した[32]。また、天皇親祭の新嘗祭神今食神祇官による祈年祭御体御卜(おおみまのみうら)などは継承された[33]

平安期には官社から名神が選ばれ、名神奉幣が行われるようになった。9世紀末には、さらに数が絞られて十六社奉幣の制が成立した。その分類は、天皇守護神(伊勢、石清水、賀茂、平野)、王城守護神(賀茂、松尾、平野、稲荷)、対外関係守護神(住吉)、藤原氏氏神(春日、大原野)、大和の名社(大神、石上、大和、広瀬、龍田)、祈雨神(丹生、貴布禰)である。その後、991年正暦2年)に吉田、北野、広田が、994年(正歴5年)に梅宮が、996年長徳2年)に祇園が、1039年長暦3年)に日吉社が加わり、最終的には二十二社奉幣となった。二十二社には、2月と7月の年2回、祈年穀奉幣が行われた[34]

天皇が勅使を遣わして伊勢神宮以下の諸神社に幣帛を捧げることは、醍醐天皇の代に始まったといわれ、伊勢神宮以下の特定の神社への奉幣使発遣の神事は、天皇の親祭とされた[35]。奉幣使は、例幣をはじめとして伊勢神宮がもっとも頻繁であり、平安時代から院政期・鎌倉期には公卿が伊勢奉幣使(伊勢例幣使)に任命される習慣となり公卿勅使と呼ばれた[35]

神事優先と神仏分離

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御七日御修法大元帥法など密教による護国修法が宮中で行われるようになったのもこの頃からであったが[36]、神事と仏事は厳密に分離され、神事優先が原則とされており[37]、天皇主祭の神事には僧侶は遠ざけられ、仁寿殿観音像や経典類まで別の場所に移され、僧侶達の供物も神饌に供することは禁ぜられた[38]。仏教法会の期間が神事の期間に重なる場合がある時は、仏教法会の期間を短縮した[39]

他にも、新嘗祭、月次祭、祈年祭、神今食、神社への勅使派遣などの祭祀がこの時期に行われていた[40]

なお、律令国家の成立以来、祭祀の法制化が進んだが、平安中期の『延喜式』によって一応の纏まりを見せた[41]

鎌倉~戦国時代

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順徳天皇が『禁秘抄』で「禁中作法先神事」と述べたように、天皇は「神事」を最優先としたが[42]鎌倉時代から戦国時代になると、戦乱により多くの祭祀が中断することになった。特に応仁の乱の影響が大きく、神嘗祭例幣使や祈年祭月次祭が中絶し、神祇官も焼失してしまった。また、新嘗祭は応仁の乱以前の1463年寛正4年)に中絶した。しかし、1472年文明4年)には、応仁の乱の最中にも関わらず避難先の室町殿に内侍所を新造して遷座の神楽を執り行い、1474年(文明6年)からは内侍所御神楽を再興した[43][44]。全ての朝儀が途絶えた中で真っ先に内侍所(賢所)の神事を再興させたことは、天皇や近臣達の「神事優先」の伝統理念の現れであり、内侍所御神楽は戦国時代を通しても継続された[45]

1545年天文14年)8月、後奈良天皇は大嘗祭が行えないことを伊勢神宮にお詫びした。この時期、朝廷の祭祀は内侍所祭祀雨や伊勢神宮への臨時奉幣、京都近辺の神社への勅使派遣程度に縮小したが、内侍所では、白川家による百度祓や千度祓、吉田家による清祓が文明頃から確認された。「内侍所法楽御楽」や「内侍所法楽和歌」などは室町時代から行われ、元日は廷臣の参拝も許され「内侍所御神楽」は貴賤の群衆が見物できたという[46]

豊臣秀吉による陰陽師弾圧迫害が始まると、祈祷占い生業とする陰陽師は地方に追いやられて一気に力を失っていき、当時陰陽寮にいた正式な陰陽師の数をはるかに超える陰陽師と名乗る人間が全国に流れた[47][48][49]。戦国時代の迫害により、筆頭の土御門家であっても陰陽道相伝法具などの多くを焼失した。陰陽道の最も重要な「大法」の泰山府君祭(たいざんふくんさい)の祭壇も喪失し、京都吉田神社から法具を借用して御所の地鎮祭を行った。その影響が大きくあり、宮中祭祀は神道色を色濃くしていった[50][51][52][53]。一方陰陽道は、後に幕府からの認可のもと、土御門泰福垂加神道の影響を受けて天社神道として神道化させた[54]

なお、中世、近世を通じて全国の神社は神祇伯白川家神祇官代吉田家の管轄下にあり、天皇と近い関係を維持していた[55]。有力神社も特定の公卿堂上執奏家として朝廷と結びつくことが多かった[55]伏見宮家御香宮中山家座摩社広橋家石清水社烏丸家宇佐八幡社柳原家出雲大社がその例である[55]

江戸時代

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江戸時代の天皇は、神事再興を第一の悲願とし[56]、幕府の援助を得て伊勢例幣使大嘗祭新嘗祭など戦乱により途絶えていた多くの神事を再興した[57]。また、毎朝御拝四方拝など、江戸時代以前から歴代の天皇に引き継がれた行事もある[58]

近世の宮中祭祀は、中世より引き継がれた内侍所(現賢所)の祭祀を中心に行われた[59]。また、節分の日には、庶民にも内侍所の参詣が許され、内侍所の刀自(今の内掌典か)に鈴を上げてもらい(「御鈴上げ」)供米や煎り豆を賜ったりしたという[60]

古代から明治時代まで、天皇が毎食ごとに、かたわらに置かれた皿に一品ずつ取り分け、自分が治めるこの国に飢えた民が一人でもいるのは申し訳ないという気持ちで、名もなき民のために捧げる「さば」という行事があった。この行事は仏教に由来するとされるが、仏教以前からの伝統行事だったという見解もある[61]

江戸時代の中期・後期に国学水戸学に基づいた尊王論の高まりによって祭祀の再興が盛んになったという背景もあり[62]、幕末には孝明天皇により神武天皇祭が制定された[63]

江戸時代の女性天皇

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江戸時代には二人の女性天皇がいたが、「穢れ」によって神事を十分に果たせなかった。明正天皇は在位中に四方拝や小朝拝を行うことはなく、後桜町天皇も四方拝の場を設けるだけで出御することなく、新嘗祭にも出御しなかった[64]。江戸時代の女性天皇は「つなぎ」役であり政務は摂政が代行し、神事も不十分に行えない「半天皇」でしかなかったと言われている[65]

明治期から戦前まで

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今日行われている祭祀は、江戸時代後期から明治維新期に大宝令貞観儀式延喜式などを継承して再編されたものも多い。

1868年慶応4年)3月13日に祭政一致、神祇官再興の布告が出され、翌14日には五箇条の御誓文が神祇に誓う誓祭として行われた[66]

1871年明治4年)には「神社は国家の宗祀」との太政官布告が出され、1908年(明治41年)には、宮中祭祀について定めた皇室祭祀令皇室令の一つとして制定された[67]

1888年(明治21年)に新皇居の造営に際して吹上御苑内に新神殿が造営され、宮中三殿が成立した[68]

近代制度としての宮中祭祀が確立して以降、明治天皇大正天皇は国家元首として多忙のため、侍従らが代拝するのが主となった[注 3]。一方で、貞明皇后昭和天皇香淳皇后は非常に熱心であった。

明治天皇は敬神の念篤く、賢所の御拝、新嘗祭の親祭もしていたことを側近の者が記録している。また、年に2、3回「剣璽の間」の奥で、古くからの皇親の御霊位をかなり長い間非常に熱心に御拝していた(これは大正時代に中止され御霊位は賢所に納められたという)[71]日清戦争の際、戦争には反対であった明治天皇は、宣戦布告の報告のために伊勢神宮と孝明天皇陵に勅使を派遣することを拒否し、宮中三殿での奉告祭にも出御しなかったという[72]

宮城内の水田では、稲作が行われ、昭和天皇以降は自ら田植えをするようになった[注 4]。収穫された米は供物として、祭祀の際に用いられている[73]

太平洋戦争中の1945年昭和20年)元旦には、B29爆撃機の襲来を知らせる空襲警報が鳴ったが、昭和天皇は防空壕としていた御文庫前を臨時の斎場として四方拝を執り行った[74][注 5]

戦後

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1945年(昭和20年)8月に日本は敗戦し、連合国軍の占領下に置かれた。昭和天皇は、同年の9月3日には宮中三殿に、11月13日には警備もほとんどない状態で伊勢神宮の外宮と内宮に、同月15日には多摩陵に行幸して終戦を自ら報告した[76]。また、123代の歴代天皇陵に高松宮三笠宮賀陽宮邦寿王閑院宮春仁王竹田宮恒徳王朝香宮鳩彦王東久邇宮盛厚王らを代拝に立て、終戦の報告と新日本建設の加護をお願いした[77]

1945年(昭和20年)には政教分離を建前に国家と神社神道を切り離すべくGHQから「神道指令」が出された。伊勢神宮靖国神社の国家護持は失われ、内務省神祇院も廃止されたが[78]、宮中祭祀については、GHQからの干渉がましいことはなく、天皇家の「個人の信仰の自由」として、戦前と同じように執り行われることが認められた。掌典職を務めた八束清貫は「敗戦の結果は、正に未曾有の国辱を受けたにもかかわらず、皇室祭祀の精神は微動だにしなかった」と語っている[79]

1947年(昭和22年)の日本国憲法施行とともに、宮内省宮内府となり、1949年(昭和24年)には宮内庁へと移行した。また、国政と切り離されていた旧皇室典範は、新憲法の施行に合わせて廃止され、全面的に改定された皇室典範は一般法の1つとなった。

これに伴い、皇室祭祀令など戦前の皇室令も一旦全て廃止されたものの、宮内府(のちの宮内庁)は内部通牒を出し「新たに明文の規定がなくなった事項については、旧皇室令に準じて実施すること」を確認した[80]。以後、現在に至るまで、宮中祭祀は旧皇室祭祀令に準拠して行われている[81]

日本国憲法下の位置付け

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政教分離を原則とする日本国憲法の下では、宮中祭祀は天皇の私的行為とされる。憲法学の学説は、天皇の行為について、国事行為、私的行為のほかに公的行為の存在を認める「三行為説(通説)」と、国事行為、私的行為しか認めない「二行為説」に大別されるが、いずれの見解に立ったとしても、宮中祭祀は私的行為に分類されるのが通例である[82]。政府見解においては、天皇の行為を国事行為、公的行為、その他の行為に分類した三分説[83]で、宮中祭祀を「その他の行為」の中の「純粋に私的なもの」に分類している[84][85][86]。 布教の意図も概念もなく国民の信教の自由を圧迫しようがない儀式を中心とする宮中祭祀はそもそも憲法の政教分離原則で禁じられている国の宗教活動には当たらないとする見解もある[87]

大金益次郎は戦後の憲法調査会において、個人的祈願はまったく行われずに「ただひたすらに国家の安寧と世界の平和とをお願いになっておるだけ」の皇室祭祀を「象徴たる天皇の行事である」として、この皇室祭祀こそ「天皇が象徴であるということに本当の意義が生まれて来る」ものだと述べている[88]葦津珍彦は「内廷における宮中祭祀は国家権力の及ぼざる範囲による『皇室の重儀』である」とした[89][90]小堀桂一郎は「宮中祭祀とは決して皇室の私事ではなく、日本人の敬神崇祖といふ精神伝統それ自体の代表であり、象徴である」と述べている[91]

内閣総理大臣はじめ三権の長が大祭を中心に一部の祭祀に陪席していることが確認されている。佐藤栄作は首相在任期間中、春季皇霊祭・春季神殿祭、秋季皇霊祭・秋季神殿祭、新嘗祭にほとんど出席しており、NHKスペシャル『象徴天皇 素顔の記録』[92](2009年4月10日放送、天皇・皇后成婚50周年の記念番組)では、当時の内閣総理大臣・麻生太郎ほか三権の長が春季皇霊祭・春季神殿祭に出席している映像が放映された。

在位後期に侍従長であった入江相政は、昭和40年代から50年代に昭和天皇の高齢を理由とした祭祀の簡略化を推進したことがその日記から窺えるが、昭和天皇は1986年(昭和61年)まで新嘗祭の親祭を続けた。

第125代天皇明仁と皇后美智子も祭祀にはきわめて熱心であり、諒闇(服喪中)や病気を除くとほとんどの宮中祭祀に代拝を立てず親拝していた。

2016年平成28年)8月8日、当時の天皇明仁は、退位する意向を伝える国民に向けたビデオメッセージの中で「国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々の深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした」と語っている[93]

祭祀に関しては、事前の潔斎と平安装束の着用に加え、長時間の正座が必要であり、昭和天皇は祭祀が近づくと、正座にてテレビを視聴するなど、意識的に長時間正座することを心がけていたという。明仁も新嘗祭の時節が近づくと、昭和天皇と同様に正座の練習をしていたといわれていたが、在位20年を経た2009年(平成21年)以降は、高齢の明仁の健康への配慮や負担軽減のため、祭祀の簡略化や調整が計画・実施されていた。

祭儀の一覧

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主要祭儀

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月日 名称 区分 場所 内容
1月1日 四方拝(しほうはい) - 神嘉殿南庭[94] 早朝に天皇伊勢神宮山陵および四方の神々を遙拝する年中最初の行事[94]
歳旦祭(さいたんさい) 小祭[95] 賢所皇霊殿神殿[94] 国民の福祉、五穀豊穣皇室の繁栄を祈願する祭典[96]
1月3日 元始祭(げんしさい) 大祭[95] 賢所、皇霊殿、神殿[94] 年始に当たって皇位の元始を祝し、国家国民の繁栄を祈る祭典[94][97]。「皇位の元始」とは「天壌無窮の神勅」を指す[98]
1月4日 奏事始(そうじはじめ) - 宮殿「鳳凰の間」[99] 掌典長が年始に当たって、伊勢神宮および宮中の祭事について天皇に報告する行事[94]
1月7日 昭和天皇祭(しょうわてんのうさい) 大祭[95] 皇霊殿、武蔵野陵[94] 先帝祭[95]昭和天皇崩御日に行われる祭典。夜に御神楽がある[94]
1月30日 孝明天皇例祭(こうめいてんのうれいさい) 小祭[95] 皇霊殿、御月輪東山陵[94] 先帝以前三代の例祭[95]孝明天皇の崩御日に行われる祭典[94]
2月17日 祈年祭(きねんさい) 小祭[95] 賢所、皇霊殿、神殿[94] 五穀豊穣を祈願する祭典[94]
2月23日 天長祭(てんちょうさい) 小祭[95] 賢所、皇霊殿、神殿[94] 天皇徳仁の誕生日を祝して行われる祭典[94]
春分の日 春季皇霊祭(しゅんきこうれいさい) 大祭[95] 皇霊殿[94] 先祖祭[95]。歴代の天皇・皇族の霊を祭る儀式[100]
春季神殿祭(しゅんきしんでんさい) 大祭[95] 神殿[94] 神恩感謝の祭典[94]天神地祇を祭る儀式[101]
4月3日 神武天皇祭(じんむてんのうさい) 大祭[95] 皇霊殿、畝傍山東北陵[94] 神武天皇の崩御日に行われる祭典[94]
皇霊殿御神楽(こうれいでんみかぐら) - 皇霊殿[94] 神武天皇祭の夜、特に御神楽を奉奏して神霊をなごめる祭典[94]
6月16日 香淳皇后例祭(こうじゅんこうごうれいさい) 小祭[95] 皇霊殿、武藏野東陵[94] 先后の例祭[95]香淳皇后の崩御日に行われる祭典[94]
6月30日 節折(よおり) - 宮殿「竹の間」[102] 天皇のために行われるお祓いの行事[94]。天皇の体に小竹の枝をあてて身長などを測り、それを折るなどして祓い清める儀式[102]
大祓(おおはらい) - 神嘉殿南庭[103] 皇族と国民のために行われるお祓いの行事[94]。皇族および宮内庁皇宮警察本部の職員が参列し、掌典職によりお祓や大祓詞の奏上などが行われる[103]
7月30日 明治天皇例祭(めいじてんのうれいさい) 小祭[95] 皇霊殿、伏見桃山陵[94] 先帝以前三代の例祭[95]明治天皇の崩御日に行われる祭典[94]
秋分の日 秋季皇霊祭(しゅうきこうれいさい) 大祭[95] 皇霊殿[94] 先祖祭[94]。歴代の天皇・皇族の霊を祭る儀式[100]
秋季神殿祭(しゅうきしんでんさい) 大祭[95] 神殿[94] 神恩感謝の祭典[94]。天神地祇を祭る儀式[101]
10月17日 神嘗祭(かんなめさい) 大祭[95] 賢所、神嘉殿[94] 神恩感謝の祭典[94]。朝に神嘉殿において天皇が伊勢神宮を遙拝する[94]。その後、天皇は新穀を賢所に供え、親祭を行う[94]。皇居内の水田で天皇が自ら収穫した新穀は伊勢神宮の神嘗祭に使われる[104]
11月23日 新嘗祭(にいなめさい) 大祭[95] 神嘉殿[94] 宮中の恒例祭儀の中で最も重要な祭儀[94]。天皇が神嘉殿において、新穀を天照大御神はじめ天神地祇に供え、神恩を感謝した後、自らもそれを食する祭典[94]。皇居内の水田で天皇が自ら収穫した新穀も供えられる[94]。なお、天皇の即位後には、最初の新嘗祭として「大嘗祭」が行われる[105]
12月中旬 賢所御神楽(かしこどころみかぐら) 小祭[95] 賢所[94] 夕刻から賢所に御神楽を奉奏して神霊をなごめる祭典[94]
12月25日 大正天皇例祭(たいしょうてんのうれいさい) 小祭[95] 皇霊殿、多摩陵[94] 先帝以前三代の例祭[95]大正天皇の崩御日に行われる祭典[94]
12月31日 節折(よおり) - 宮殿「竹の間」[102] 天皇のために行われるお祓いの行事[94]。天皇の体に小竹の枝をあてて身長などを測り、それを折るなどして祓い清める儀式[102]
大祓(おおはらい) - 神嘉殿南庭[103] 皇族と国民のために行われるお祓いの行事[94]。皇族および宮内庁・皇宮警察本部の職員が参列し、掌典職によりお祓や大祓詞の奏上などが行われる[103]

その他の恒例祭儀

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月日 名称 区分 場所 内容
毎月1日・11日・21日 旬祭(しゅんさい) 旬祭 賢所皇霊殿神殿 掌典長により行われる祭典。原則として毎月1日には天皇の親拝がある[7]
毎日 毎朝御代拝(まいちょうごだいはい) - 賢所、皇霊殿、神殿 侍従により毎朝行われる代拝。
2月11日 三殿御拝(さんでんごはい) 旬祭 賢所、皇霊殿、神殿 神武天皇即位の日に天皇が宮中三殿を親拝する祭典。旬祭と同じ作法で行われる[106]1948年以前は、大祭の紀元節祭が行われていた[95]

式年祭

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月日 名称 区分 場所 内容
崩御日 神武天皇及び先帝の式年祭 大祭[95] 陵所皇霊殿 神武天皇昭和天皇の式年祭。各々の崩御の年から3年・5年・10年・20年・30年・40年・50年・以後100年ごとに行われる[107][108]。天皇が自ら陵所を訪れて親祭を行うのは、神武天皇と先帝の式年祭のみであり、他の式年祭とは別格の扱いとされる。皇霊殿での祭典は皇太子掌典長によって行われる[109][注 6]。直近では、神武天皇2600年式年祭が2016年(平成28年)に行われ、昭和天皇30年式年祭が2019年(平成31年)に行われた[110][111]
先帝以前三代の式年祭 大祭[95] 皇霊殿、各陵所 大正天皇明治天皇孝明天皇の式年祭。各々の崩御の年から3年・5年・10年・20年・30年・40年・50年・以後100年ごとに行われる[95]
先后及び皇妣たる皇后の式年祭[注 7] 大祭[95] 皇霊殿、武藏野東陵 香淳皇后の式年祭。崩御の年から3年・5年・10年・20年・30年・40年・50年・以後100年ごとに行われる[95]。なお、平成年間には、既に「先后及び皇妣たる皇后」ではない英照皇太后昭憲皇太后の100年式年祭も行われた[112][113][注 8]
緩靖天皇以下先帝以前四代に至る歴代天皇の式年祭 小祭[95] 皇霊殿、各陵所 綏靖天皇から仁孝天皇までの歴代天皇の式年祭。各々の崩御の年から3年・5年・10年・20年・30年・40年・50年・以後100年ごとに行われる[116]
薨去日 近親皇族の式年祭 - 霊舎豊島岡墓地 近親の皇族の式年祭。各々の薨去の年から3年、5年、10年、20年、30年、40年、50年・以後100年ごとに、主に宮家の構成員によって行われる。宮邸にある霊舎で行われる「霊舎祭の儀」、豊島岡墓地で行われる「墓所祭の儀」がある[117]
歴代皇族の式年祭 - 墓所 歴代の皇族の式年祭。各々の薨去の年から3年、5年、10年、20年、30年、40年、50年・以後100年ごとに、宮内庁の職員によって行われる[118][119]

正辰祭

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月日 名称 区分 場所 内容
崩御日 緩靖天皇以下先帝以前四代に至る歴代天皇の正辰祭 - 陵所 綏靖天皇から仁孝天皇までの歴代天皇の正辰祭(命日祭)。毎年の崩御日に、宮内庁の職員によって行われる[120]
薨去日 歴代皇族の正辰祭 - 墓所 歴代の皇族(近親の皇族を除く)の正辰祭。毎年の薨去日に、宮内庁の職員によって行われる[120]

大祭・小祭に準ずる祭儀

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時期 名称 区分 場所 内容
皇室または国家の大事 神宮賢所皇霊殿神殿及び山陵に親告の儀 大祭に準ず[121] 神宮三殿、各陵所 皇室や国家にとって重大な出来事が起こった際に、天皇が宮中三殿、伊勢神宮、神武天皇陵、先帝陵を親拝する儀式。戦後の例には、終戦の奉告(1945年)とサンフランシスコ講和条約発効の奉告(1952年)がある[122]
式年遷宮 遥拝の儀 大祭に準ず[121] 神嘉殿 式年遷宮における伊勢神宮内宮の「遷御の儀」と同時刻に、神嘗祭の場合と同じく、天皇が神嘉殿において神宮を遥拝する。直近では、2013年(平成25年)に行われた[123][124]
宮中三殿の奉遷 奉遷の儀 大祭に準ず[121] 御所 賢所皇霊殿神殿ご神体を移す時に、天皇が御所から三殿を遙拝する儀式。直近では、宮中三殿の耐震改修工事のために、2006年平成18年)に本殿から仮殿へ、2008年(平成20年)に仮殿から本殿へ奉遷の儀が行われた[125][126]
天皇太皇太后皇太后の霊代奉遷 皇霊殿親祭の儀 大祭に準ず[121] 皇霊殿 大喪儀の締めくくりである「一周年祭の儀」を終えて、崩御した「天皇、太皇太后、皇太后」の霊代掌典長によって皇霊殿に移された後に、天皇が皇霊殿において親祭を行う[127][128][129]
その他の皇族の霊代遷移 皇霊殿祭典の儀 小祭に準ず[121] 皇霊殿 皇族喪儀の締めくくりである「一周年祭の儀」を終えて、薨去した皇族の霊代が掌典長によって皇霊殿に移された後に、掌典長が皇霊殿で祭典を行う。このとき、特別の理由がない限り、天皇は皇霊殿の親拝を行わない[130][131]

皇室祭祀令との差異

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  • 2月11日 紀元節祭(きげんせつさい)の廃止。
    • 紀元節が廃止されたことにより、賢所皇霊殿神殿で行われていた大祭の「紀元節祭」(大祭)は廃止された。ただし、廃止後も「臨時御拝」として、旬祭と同じ作法で、天皇の親拝が行われた[106]平成以降は「三殿御拝」に名称が改められ、同様に天皇の親拝が行われている[132]
  • 11月3日 明治節祭(めいじせつさい)の廃止。
    • 明治節が廃止され、文化の日が新たに制定されたことにより、賢所・皇霊殿・神殿で行われていた小祭の「明治節祭」(大祭)は廃止された[95]。その後も1987年昭和62年)まで「臨時御拝」が行われたが、平成に至って廃絶した[133]。なお、この日は明治神宮の例祭にあたり、今でも勅使が派遣されている[134]
  • 天長節祭(てんちょうせつさい)から天長祭(てんちょうさい)へ名称を変更。

即位、崩御、立太子、成年、結婚に伴う祭儀

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服装

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天皇
御祭服(ごさいふく)[135]
天皇が祭祀で着用する装束の中で最も清浄で神聖な装束[135][136]純白の生絹で作られる束帯であり[135][136]は「御斎衣(おんさいい)」と呼ばれるもので、普通の「縫腋袍」とは異なる仕立てとなっている[135]。冠は「御幘の冠」である[135][136]淳和天皇の時から用いられた[135]大嘗祭における「悠紀殿供饌の儀」「主基殿供饌の儀」及び新嘗祭に着用する[135][136]
御束帯「帛御袍」(おんそくたい はくのごほう)[135]
御祭服に次ぐ装束[136]。純白の練絹で作られる束帯であり、袍は「縫腋袍」で冠は「御立纓の冠」である[135][136]嵯峨天皇以来神事に用いられた[137]即位礼に伴う祭儀である「賢所大前の儀」及び大嘗祭において頓宮から廻立殿に入る時に着用する[138][136]
御束帯「黄櫨染御袍」(おんそくたい こうろぜんのごほう)[135]
祭祀で最も用いる装束[137][136]蘇芳で練絹を染め上げた黄茶色の束帯であり、袍は「縫腋袍」で冠は「御立纓の冠」である[137][139][140]太陽が一番高く登った時の色を表しているとされ、嵯峨天皇以来、天皇以外は着ることが許されない「禁色(きんじき)」とされた[141]。年間の大祭及び小祭、即位に伴う祭儀などに着用する[136]
御引直衣(おひきのうし)[135]
身丈の長い直衣であり、を長く引いて着用するためこの名がある[142]。袍はで、である[137]鎌倉時代以降、天皇のみが用いた[137]。即位に伴う伊勢神宮神武天皇陵、前四代の天皇陵への「勅使発遣の儀」などに着用する[137][136]
御直衣(おのうし)[135]
天皇が用いる直衣。臨時に行われる伊勢神宮、天皇陵への「勅使発遣の儀」に着用する。また「大嘗祭前二日御禊」にも着用する。年間の祭儀では、神武天皇祭及び昭和天皇祭の夜に行われる「御神楽の儀」のほか、旬祭において親拝する場合に着用する[136][137]
御小直衣(おこのうし)[135]
天皇が用いる小直衣狩衣に襴を付けたものであり、御直衣よりも略儀の装束[137][136]。冠は「御金巾子」である[137]。年間の祭儀では、節折に着用する[137][136]。また、宮中から伊勢神宮及び神社に奉納する御霊代を見る場合にも着用する。大喪の後、一周年祭の翌日に行われる「御禊の儀」にも着用する[136]
礼服
即位に伴う前四代の天皇陵への「親謁の儀」や式年祭における「山陵の儀」などに着用する。現在はモーニングコートが用いられる[143]。戦前は陸軍式御服が用いられていた[143]
皇后
帛御服(はくのごふく)[137]
白色の御五衣・御唐衣・御裳[137]。天皇の「御祭服」と「帛御袍」に相当し[137]、純白の平絹で作られる[144]。髪は大垂髪である[145]。即位礼に伴う祭儀である「賢所大前の儀」及び大嘗祭における「悠紀殿供饌の儀」「主基殿供饌の儀」に着用する[145]
御五衣・御唐衣・御裳(おんいつつぎぬ・おんからぎぬ・おんも)[137]
いわゆる「十二単」である[145]。色については特に規定はない[145]。即位礼及び大嘗祭後に行う伊勢神宮への「親閲の儀」に着用する[145]
御五衣・御小袿・御長袴(おんいつつぎぬ・おんこうちき・おんながばかま)[137]
祭祀で最も用いる装束[145]。年間の大祭及び小祭、即位に伴う祭儀などに着用する[145][146]。髪は「お中」と呼ぶ垂髪を普通は用いる[145]。なお、略服として、常には「御小袿・御長袴」(構成は小袿長袴)を代用している[145]
礼服
即位に伴う前四代の天皇陵への「親謁の儀」や式年祭における「山陵の儀」などに着用する。アフタヌーンドレスローブ・モンタント)が用いられる[147]
皇太子/皇嗣
斎服(さいふく)[145]
純白の束帯[145]。白袍・白単・白切袴よりなる[145]。袍は「縫腋袍」で冠は「垂纓の冠」である[145]。新嘗祭に着用する[145]
束帯「黄丹袍」(そくたい おうにのほう)[145]
祭祀で最も用いる装束[145]紅花支子で染め上げた黄赤色の束帯であり、袍は「縫腋袍」で冠は「垂纓の冠」である[145]。成年、立太子、結婚に伴う祭儀、年間の大祭及び小祭で着用する[145]。なお、大嘗祭では、清浄を表す小忌衣日陰蔓を着けた束帯を用いる[145]
衣冠単(いかんひとえ)[145]
を着用した衣冠。垂纓の冠・袍・単・指貫よりなる[145]。即位礼及び大嘗祭後に行う伊勢神宮への「親閲の儀」に供奉する場合に用いる[145]
直衣(のうし)[145]
祭祀の作法の習礼などに用いる[145]
礼服
式年祭における「墓所祭の儀」などに着用する。モーニングコートが用いられる。
皇太子妃/皇嗣妃
五衣・唐衣・裳(いつつぎぬ・からぎぬ・も)[145]
いわゆる「十二単」である。結婚に伴う祭儀及び大嘗祭で着用する。なお、大嘗祭では、清浄を表す小忌衣、日陰蔓、心葉(貝や金銀の金具の造花)[148]を着ける[145]
五衣・小袿・長袴(いつつぎぬ・こうちき・ながばかま)[145]
祭祀で最も用いる装束。年間の大祭及び小祭に着用する[145]。略服として「小袿・長袴」も用いる[145]
袿袴(うちきばかま/けいこ)[145]
袿・単・切袴からなる。即位礼及び大嘗祭後に行う伊勢神宮への「親閲の儀」に供奉する場合に用いる[145]
礼服
式年祭における「墓所祭の儀」などに着用する。アフタヌーンドレス(ローブ・モンタント)が用いられる。
男性皇族
束帯「黒袍」(そくたい くろほう)[145]
黒色の束帯。袍は「縫腋袍」で冠は「垂纓の冠」である。成年や結婚に伴う祭儀で着用する[145]。なお、大嘗祭では、清浄を表す小忌衣と日陰蔓を着けた束帯を用いる[145]
衣冠単(いかんひとえ)[145]
即位礼及び大嘗祭後に行う伊勢神宮への「親閲の儀」に供奉する場合に用いる[145]
小直衣(このうし)[145]
祭祀の作法の習礼などに用いる[145]
礼服
最も用いる服装。天皇、皇太子/皇嗣以外の男性皇族が宮中三殿の殿上に上がることができるのは成年と結婚の時だけであるため[149][150]、年間の祭儀では礼服で三殿の下の庭から拝礼する[151]。モーニングコートが用いられる[151]
女性皇族
五衣・唐衣・裳(いつつぎぬ・からぎぬ・も)[145]
いわゆる「十二単」である。結婚に伴う祭儀及び大嘗祭で着用する。なお、大嘗祭では、清浄を表す小忌衣、日陰蔓、心葉を着ける[145]
五衣・小袿・長袴(いつつぎぬ・こうちき・ながばかま)[145]
結婚に伴う祭儀では、略服の「小袿・長袴」も用いられる[152][153][154]
袿袴(うちきばかま/けいこ)[145]
即位礼及び大嘗祭後に行う伊勢神宮への「親閲の儀」に供奉する場合に用いる[145]
礼服
最も用いる服装。皇后、皇太子妃/皇嗣妃以外の女性皇族が宮中三殿の殿上に上がることができるのは結婚の時だけであるため[150]、年間の祭儀では礼服で三殿の下の庭から拝礼する[151]。アフタヌーンドレス(ローブ・モンタント)が用いられる[151]
参列者
参列者の服装については、洋装の場合はモーニングコート及びアフタヌーンドレス、和装の場合は白襟紋付及びそれに準ずるものとされている。冬期は外套を着用する事ができる。

ギャラリー

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脚注

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注釈

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  1. ^ なおアマテラス大神以前の大王家の至高神はタカミムスビ神(高産霊神/高御産巣日神)であったと言われている[16]
  2. ^ 天武二年十二月には「大嘗」、天武五年九月、十一月と天武六年十一月には「新嘗」の記録が見られ、持統五年の十一月にも「大嘗」の記録が見られる[21]
  3. ^ 明治天皇の代拝が増加したのは日清戦争以降[69]、大正天皇の代拝が増加したのは病状が悪化して以降である[70]
  4. ^ 溥傑自伝は、満州国皇帝溥儀と昭和天皇の会話の後から天皇が自ら田に入るようになったとしている[要出典]
  5. ^ このように真摯に宮中祭祀に取り組んでいた昭和天皇であるが、摂政宮時代の1922年、新嘗祭に出御せずにビリヤードに興じていたという若い頃のエピソードもある[75]
  6. ^ 神武天皇及先帝ノ式年祭ハ陵所及皇霊殿ニ於テ之ヲ行フ但シ皇霊殿ニ於ケル祭典ハ掌典長之ヲ行フ(皇室祭祀令第18条)
  7. ^ 皇室祭祀令では「先后の式年祭」と「皇妣たる皇后の式年祭」に分けられているが、制定以降の皇位継承は全て父子間で行われているため、「先后(先帝の皇后)」と「皇妣たる皇后(母后)」は一致している。
  8. ^ 貞明皇后の50年式年祭は、香淳皇后の大喪期間中であったため行われなかった[114][115]

出典

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参考文献

[編集]
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  • 松前健『古代王権の神話学』雄山閣、2003年1月。ISBN 4639017863 
  • 繁田信一『平安貴族と陰陽師』吉川弘文館、2005年5月。ISBN 9784642079426 
  • 林淳『近世陰陽道の研究』吉川弘文館、2005年12月。ISBN 9784642034074 
  • 圭室文雄『日本人の宗教と庶民信仰』吉川弘文館、2006年3月。ISBN 9784642013673 
  • 斎藤英喜『陰陽道の神々』佛教大学通信教育部、2007年10月。ISBN 9784784213665 
  • 原武史『昭和天皇』岩波書店〈岩波新書〉、2008年1月。ISBN 9784004311119 
  • 岡田荘司『日本神道史』吉川弘文館、2010年6月。ISBN 9784642080385 
  • 中澤伸弘『宮中祭祀:連綿と続く天皇の祈り』展転社、2010年7月。ISBN 9784886563460 
  • 伊藤聡『神道とは何か:神と仏の日本史』中央公論新社中公新書〉、2012年4月。ISBN 9784121021588 
  • 藤田尚徳『侍従長の回想』講談社〈講談社学術文庫〉、2015年3月(原著1961年10月)。ISBN 9784062922845 
  • 小池康寿『日本人なら知っておきたい正しい家相の本』プレジデント社、2015年11月。ISBN 9784833421492 
  • 木下道雄 著、高橋紘 編『側近日誌:侍従次長が見た終戦直後の天皇』中央公論新社〈中公文庫〉、2017年2月(原著1990年6月)。ISBN 9784122063686 
  • 藤田覚『江戸時代の天皇』講談社〈講談社学術文庫〉、2018年5月(原著2011年6月)。ISBN 9784065116401 
  • 西川誠『明治天皇の大日本帝国』講談社〈講談社学術文庫〉、2018年6月(原著2011年7月)。ISBN 9784065118511 
  • 小倉慈司、山口輝臣『天皇と宗教』講談社〈講談社学術文庫〉、2018年8月(原著2011年9月)。ISBN 9784065126714 
  • 坊城俊良『宮中五十年』講談社〈講談社学術文庫〉、2018年10月(原著1960年)。ISBN 9784065133828 
  • 小堀桂一郎『象徴天皇考』明成社、2019年4月。ISBN 9784905410546 
  • 茂木貞純、佐藤健二『時代を動かした天皇の言葉』グッドブックス、2019年9月。ISBN 9784907461225 
  • 木村大樹『古代天皇祭祀の研究』吉川弘文館、2022年1月。ISBN 9784642046657 
  • 斎藤吉久『天皇の祈りはなぜ簡素化されたか』並木書房、2009年2月5日。 
  • 井原今朝男『史実 中世仏教 第2巻』興山舎、2013年6月15日。 
  • 大原康男『詳録・皇室をめぐる国会論議』展転社、1997年10月20日。 
  • 中本真人『なぜ神楽は応仁の乱を乗り越えられたのか』新典社、2021年12月22日。 
  • 村上重良『天皇の祭祀』岩波書店〈岩波新書〉、1977年2月21日。 
論文
辞書類
  • 安津素彦、梅田義彦 編『神道辭典』堀書店、1968年8月。 
  • 國學院大學日本文化研究所 編『神道事典』(縮刷版)弘文堂、1999年5月(原著1994年7月)。ISBN 433516033X 
  • 薗田稔、橋本政宣 編『神道史大辞典』吉川弘文館、2004年7月。ISBN 4642013407 
  • 皇室事典編集委員会『皇室事典』角川学芸出版、2009年4月。ISBN 9784046219633 
その他
  • 八木秀次「宮中祭祀廃止論に反駁する」(「正論」、2008年6月5日付)[1]
  • NHKスペシャル「象徴天皇 素顔の記録」(NHK、2009年4月10日放送、のちDVD)
  • 皇室編集部 編『皇室75号:2017年夏』扶桑社、2017年7月。 

関連項目

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外部リンク

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