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本項では、1949年以前に発生した日本の鉄道事故について記述する。
- 1950年から1999年までに発生した日本の鉄道事故については日本の鉄道事故 (1950年から1999年)を参照。
- 2000年以降に発生した日本の鉄道事故については日本の鉄道事故 (2000年以降)を参照。
事故一覧
1870年代
新橋駅構内列車脱線事故
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故
- 東海道線・神戸駅~西ノ宮駅(現:西宮駅)間で上り旅客列車と下り回送列車が正面衝突。
- 上下列車は本来西ノ宮駅で行き違う予定だったが、上り旅客列車の直前に臨時列車が設定され、下り回送列車の運転士が臨時列車の到着後、旅客列車を待たずに発車したのが事故の原因である。上り旅客列車と正面衝突し、乗務員3人が死亡した。
- 従来は駅長同士の電信連絡で列車の運行を管理していたが、事故を機に1区間に1本の列車しか入れないようにする票券閉塞方式の導入が前倒しされた。日本最初の鉄道死亡事故。
1880年代
大森駅構内列車脱線事故
- 深夜1時頃、東海道線大森駅構内で、到着した新橋発大森行き臨時列車(客車14両編成、池上本門寺の参詣客用)を下り線から上り線に転線する作業中、分岐器上で客車が脱線転覆。乗客1名死亡、1名負傷。
- 事故原因は推進運転中の機関士が入換合図を見間違え、開通していない分岐器に進入したためといわれる。日本の鉄道において最初の旅客死亡事故。
1890年代
山陽鉄道軍用列車海中転落事故
- 当時山陽鉄道の路線だった山陽本線尾道駅~糸崎駅間を深夜に走行していた上り軍用列車(蒸気機関車牽引、客車23両)が、折からの暴風雨による満潮時の波浪で、築堤が300mにわたって崩壊していた線路に突入したため、機関車と客車6両が瀬戸内海に脱線転落した。
- 軍用列車には日清戦争に従軍した傷病兵362名が乗車していたが、11名が死亡し98名が負傷した。なお現在、同区間は海岸より少し離れたところに線路があり、海岸との間に国道2号線があるため、同種の災害が起きる危険度は低い。
箒川鉄橋列車転落事故
- 当時日本鉄道の路線だった東北本線矢板~野崎間で発生した明治時代最大の鉄道事故である。当日、折からの台風接近による強い風雨をついて、上野発福島行きの貨車客車混合第375列車(機関車2両+貨車11両+客車7両)は矢板駅を約1時間遅れで17時頃発車した。箒川鉄橋を通過中突風にあおられ、この瞬間貨車最後尾の緩急車の連結が外れて緩急車とその後ろの客車7両が鉄橋上で転覆、そのまま箒川へ転落した。増水した川の濁流で貨車・客車は砕かれ、一部の遺体は下流の茨城県まで流されたという。死者19名、負傷者38名。
- 対策として、大雨・強風時などに運転抑制を行うことが検討されたが、運転抑制するべきか判定が難しく具体化までまだ時間を要した。
- 現在、鉄橋の両詰には事故を悼んだ慰霊碑が残されている。
1900年代
東海道線山崎~高槻間列車脱線事故
- 1900年(明治33年)8月4日 19時45分頃
- 東海道線山崎~高槻間で下り第105混合列車(蒸気機関車、客車11両、貨車11両)が走行中突然前から11両目の客車と次位の貨車3両が脱線して貨車2両が築堤下に転落し1人が死亡、2名が負傷した。
- 当時は車両・線路に欠陥など無く単独では起こりえないため、原因不明とされてきたが、後年の2軸貨車の競合脱線事故の最初のものと考えられている。
横川~軽井沢間乗務員乗客転落事故
- 1901年(明治34年)7月13日
- 横川駅を発車し軽井沢駅へ向かって登坂中の長野行き第51列車において、21時頃蒸気機関車のスチームパイプが突然破裂し、噴出した蒸気によって機関助士2名が車外に吹き飛ばされて重軽傷を負った。機関士は非常制動をかけたがブレーキが効かず、列車は重力によって自然停止した後に退行しはじめた。このとき乗客は40人おり、うち1人が退行前に飛び降りて無事に軽井沢駅にたどり着いたが、退行開始後に飛び降りた日本鉄道副社長男爵毛利重輔とその子息の2人が列車に巻き込まれて死亡した。技術者だった毛利は碓氷峠の急勾配で退行し始めたことは制動不能になったと判断、その恐ろしさを知っていたため、他の乗客にも飛び降りることを勧めて飛び降りたという。列車は約1.9km退行したが、機関士の必死の操作により停車に成功し、残った乗客は無事だった。
1910年代
北陸線東岩瀬駅列車正面衝突事故
- 午前4時23分ころ、北陸本線東岩瀬駅(現在の東富山駅※)で、上り列車と行き違いを行う予定の下り臨時貨物列車第43がオーバーランを起こして本線に飛び出して上り対向転轍機外方約24mの箇所に停車したため手信号で退行中に、上り臨時団体旅客列車第700が停止信号を冒進し衝突、客車6両が転覆脱線、客車2両が破損、貨車1両が脱線した。このため旅客24名が死亡、旅客106名、職員1名が負傷した。
- 下り列車のオーバーラン、上り列車の停止信号の見落とし、またはブレーキ操作の遅れが衝突の原因とされている。
- ただし、後のこの事故に関する関係者の処分では、緩急車へのブレーキホースの連絡が不完全だったにもかかわらず(つながってはいたが、ブレーキはかからない状態だった)発車させ、そのときの虚偽報告が元で当時の富山駅助役が減俸処分となっている(『交通世界』大正4年2月15日号より)。
- この事故を機に安全側線が採用され、日本全国に整備された。安全側線は所定位置に停車すべき場合にオーバーランしたときには有効であるが、運転士に停車意志が無い場合はおおむね役に立たず、有効長が短いために砂利盛りに乗り上げなどして脱線転覆することが多い。その例として参宮線六軒駅列車脱線事故、常磐線三河島事故などがある。このようなことからATS、ATCなどの安全設備が進展した。
- 旅客列車運転士が禁錮8か月、貨物列車運転士が罰金200円に処せられた。旅客列車側の処罰が重いのは明治42年制定の列車運行及信号取扱心得第168条では、遠方信号機が確認できない場合は当該信号機に最大の制限のある危害信号(現在の停止信号)の現示があるものとして徐行し、必要に応じて停車しなければならず、場内信号機が停止信号であるならばその手前で停車しなければならないと規定されており、これに違反したためである。
- ※富山ライトレール富山港線にある東岩瀬駅は当時未開業で、1924年(大正13年)に越中岩瀬駅として開業した。
東北線列車正面衝突事故
- 東北本線下田駅~古間木駅(現三沢駅)間で、下り臨時旅客列車と上り貨物列車が正面衝突。20名が死亡した。
- 当時、東北本線は単線で通票閉塞方式をとっていた。当日夜、古間木駅助役と駅員1人が勤務時間中に外出し飲酒した。先に戻ってきた駅員は下り臨時列車の運転の連絡を受け閉塞扱いをしたのち就寝し、後に駅に戻った助役も寝てしまった。その後、下り臨時列車の運転を知らされていない別の駅員が、到着した上り貨物列車に渡す通票が見当たらないために助役を起こして指示を仰いだところ、泥酔した助役は閉塞機から通票が取り出せないのは故障だと判断し、針金を差し込む不正操作で通票を取り出して上り貨物列車に渡し発車させてしまった。当時の閉塞機は通票が引っかかって取り出せなくなる故障が時として起こっており、その際は針金などを差し込んで通票を取り出していたが、この事故を機に、不正扱いが出来ないよう閉塞機の改良が進んだ。
信越本線熊ノ平駅列車脱線事故
- 1918年(大正7年)3月7日
- 貨第191列車(補助機関車2両+貨車11両+本務機関車1両)の本務機関士が、熊ノ平駅を発車後第20号トンネル通過中に異臭を感じ停車した。本務機に異常はなく、補機機関士との連絡をとったところ補機の軽微な故障と判断した。そこで再発車しようとしたが起動せず、碓氷峠の急勾配を退行し始めた。機関士は制動を試みたが発電ブレーキが故障して効かず、10箇所のトンネルを通過暴走して熊ノ平駅の引込線に突っ込み、第10号トンネル終点側出口壁に衝突した。本務機と貨車は転覆して大破、補機も脱線した。これにより乗務員2名、熊ノ平駅転轍手1名が即死、本務機関士が重傷後死亡で計4名が犠牲となり、6名が負傷した。
- アプト式電気機関車時代の唯一の死亡事故である。機関車はドイツから輸入した10000形(後のEC40形)で、故障原因は不明。
1920年代
北陸線列車雪崩直撃事故
- 1922年(大正11年)2月3日
- 北陸本線親不知~青海間にあった勝山トンネル西口で65列車(2120型蒸気機関車2296号機関車牽引、6両編成)が雪崩の直撃を受け客車2両が脱線大破した。乗員乗客200名のうち除雪作業員88名と鉄道職員1名、乗客1名が死亡した。
- 事故原因は豪雪による積雪が季節外れの大雨によって緩んだために発生した雪崩に巻き込まれたものだった。雪崩による鉄道事故の犠牲者数では日本で最悪の数字である。
- 除雪作業員は幹線が積雪で不通になっていたため、鉄道省と陸軍省の要請により沿線村落から建設会社を仲介して集められた青年団などの住民だった。そのため地元は多くの働き手を失ったことに衝撃を受けた。また地元の糸魚川町と鉄道省との間で弔慰金を誰が支払うかで論争になったが、最終的には「奉仕隊」だったとして鉄道省が支払ったという。なお犠牲になった乗客1名の身元は判明しなかった。
参宮線列車転覆事故
- 1923年(大正12年)4月16日
- 参宮線(現在の紀勢本線)の下庄~一身田間(亀山から約8.1キロ地点)で、湊町駅(現在のJR難波駅)発鳥羽駅行急行62列車が脱線転覆した事故。死者15名、負傷者約160ないし200名。
- この日は先発列車の第60列車が定員オーバーにより連結器が破損、そのため2時間以上遅れ、その間に亀山駅より名古屋方面より来た乗客を乗せるため臨時列車が第60列車のダイヤに沿って発車(臨時60列車)、そして遅れて到着した第60列車が第62列車のダイヤに沿って運行、さらにその後ろを走っていた第62列車は下庄で上り第310列車を待ち合わせ、発車の時には32分遅れで運行された。
- 事故現場ではこの第310列車の通過後40分列車が来ないことになっており、この間にレール交換の予定になっていた。しかし、それを知らせる標識は一切出していなかった。そしてレールを外し終わったところに62号が来て脱線転覆。
- 機関車は線路の敷かれていた築堤上に停車、しかし木造客車7両のうち4輪単車だった1~3両目は築堤の下に落ちて大破、同じく4輪単車の4,5両目も折り重なるようにして大破、線路上に残っていたボギー車の6,7両目も破損した。そして築堤下に落ちたうちの1両は写真では一切確認できないほど、原型をとどめていない事故だった。
根府川駅列車転落事故
- 1923年(大正12年)9月1日(関東大震災)
- 熱海線(現在の東海道本線)の根府川駅にホームに停止しようとしていた真鶴駅行き下り列車(960形蒸気機関車牽引)が、折りしも発生した関東地震によって引き起こされた地滑りに遭遇し、根府川駅のホームごとおよそ45m下の海中に転落した。そのため、客車8両のうち最後部の1両が波打ち際に残ったほかは海中に没した。列車および駅員を合わせ112名が死亡し13名が負傷した。
- 遭難した下り列車を牽引していた機関車であるが、1932年9月に海中から引き上げられ、「977」のナンバープレートが交通博物館に所蔵されていた。
- 根府川駅で、下り事故列車と交換するはずだった東京駅行き上り列車も近づいていたが、駅直前の賽の目トンネルを出たところで地滑りに遭遇し蒸気機関車が埋没し、乗務員6名が死亡し3名が負傷した。こちらも、もう少し地震発生が遅かったら大惨事になった可能性があったという。なお根府川駅付近の住民も200名以上が死亡または行方不明となった。
- 関東大震災では12件の鉄道事故が発生し、犠牲者が出た事故は7件あったが、根府川駅における事故が最大の犠牲者を出していた。
- なお関東大震災での鉄道事故の葬儀は鉄道院が主宰して1回にまとめて行ったが、「葬儀出席者を死者1人に対し1人とされたし」という新聞広告を出すなどし、結果、遺族の神経を逆なですることになった(逆に言うと震災後の混乱のため、死者の特定さえもされないという厳しい事情も勘案すべきではあろう)。このため、報道関係を主源として、鉄道院はかなり激しい非難を浴びることになった。
箱根登山鉄道電車脱線転落事故
- 小田原電気鉄道(現在の箱根登山鉄道)小湧谷駅~宮ノ下駅間の80パーミルの下り勾配を走行していた下り単行電車のブレーキが利かなくなり、加速してカーブで脱線し、築堤から12m下に落下し、民家2軒(留守で誰もいなかった)を半壊させた。この事故で17名が死亡10名が負傷した。唯一無傷だったのは途中で飛び降りた乗客1名のみだった。
- 事故原因は電車の運転士が速度制御に失敗したとされているが、運転士は生存したものの重傷のうえ精神に異常をきたしたため、詳細を調査できなかったという。
山陽線特急列車脱線事故
- 山陽本線安芸中野駅~海田市駅間で、豪雨により築堤が崩壊し線路が浮き上がっていた場所に東京発下関行きの下り特急第1列車(事故後の1929年(昭和4年)に「富士」と命名)がさしかかり、築堤下に脱線転覆。34名が死亡した。
- 事故列車はヨーロッパ~アジア間国際連絡運輸の一部を担うものであり、著名人が多数犠牲となった。木造客車の車体強度の弱さが指摘され、この事故と参宮線における事故により木造車両の製造を中止し、翌年から鋼製客車が製造されるようになった。
→詳細は「山陽本線特急列車脱線事故」を参照
北陸線柳ヶ瀬トンネル窒息事故
- 北陸本線刀根駅~柳ヶ瀬駅間(別線が作られたため1964年に廃止)にある柳ヶ瀬トンネル(単線)を走行していた上り556貨物列車(D50蒸気機関車2両、前部本務機D5064、後部補機D50206)が、トンネル内の25パーミルの登り坂で車輪が空転し速度が低下し、トンネル内に煤煙が充満したため、出口から25mの地点で走行不能になった。そのため上り貨物列車の乗員10名が窒息したが、かろうじて前部本務機の乗務員3名が這いでて昏倒した。
- トンネル直前にあった雁ヶ谷信号所で待機していた下り553貨物列車の機関車が救助のために牽引し、トンネル外に押し出したが、下り機関車の乗務員2名も昏倒した。結果上下の貨物列車の乗務員12名全員が窒息し、上り貨物列車の車掌・荷扱手、機関助士見習の3名が死亡した(一部に5名死亡の記録もある)。
- 事故原因は、2日前に別の鉄道事故で1日間不通になったため、滞貨していた貨物を大量に牽引していたため、重量が超過していたこと、レールに積雪があり車輪が空転していたこと、風が貨物列車にとって追い風となり、煤煙が纏わり付いて拡散しなかったことがあげられている。しかし、最大の原因は柳ヶ瀬トンネルが1884年に開通したトンネルであり、明治時代の小さな蒸気機関車にあわせたトンネル幅の規格(後年の標準規格の71%のサイズしかなかった)で建設されていたことである。そのため、昭和時代になって大型蒸気機関車が通行すると、空間に余裕がないため煤煙が充満し当該窒息事故が発生した。
- 事故対策として、全国の長大トンネルで列車が入ると煤煙にまかれないように遮断幕を下ろす設備が整備されたほか、蒸気機関車の運転室に煤煙が入らないように、集煙装置が付けられるようになった。
1930年代
久大線機関車ボイラ破損事故
- 久大本線鬼瀬駅~小野屋駅間で、後進牽引(ボイラ側を客車に向けて牽引)していた機関車のボイラが破裂。煙室扉が開き、熱水(飽和蒸気もしくは水性ガスの説あり)が客車内に吹き込み、23名が死亡した。
- この事故を機に、後進牽引を極力抑えるため、終点駅への転車台設置が進められた。
山陽線急行列車脱線事故
- 山陽本線河内駅を通過中の上り急行列車が分岐器で脱線。機関車が横転して後位の客車5両が駅前方の川に転落し、7名が死亡した。
- 分岐器通過の際の速度超過が原因とされ、速度制限標の設置が進められた。
- なお、事故の原因については分岐器の設置ミスとの説もある(日本経済評論社発行 続・事故の鉄道史に該当記事あり)。
東海道線急行列車脱線転覆事故
- 東海道本線草津駅~石山駅間(現在の瀬田駅~石山駅間)の瀬田川橋梁上を徐行運転していた下り急行列車(11両編成)が室戸台風の強風により脱線。3両目以降の9両の客車が橋梁上に転覆し、11名が死亡、202名が負傷した。
- 事故を機に、主要駅に風速計を設置した。
鹿児島線列車火災事故
- 鹿児島本線小倉駅~上戸畑信号場(現在の九州工大前駅付近)間を走行していた上り12列車(7両編成)の4号車車内で爆発音が聞こえ火炎が上がったため車掌弁で急停車、火災は火元前後の客車に類焼し9名が死亡、36名が負傷した。乗客が玩具製造のセルロイド管の束を客車に持ち込み下車の際網棚から降ろしたときに自身の咥えタバコの火がセルロイド管に引火したのが原因。
山陽線列車脱線転覆事故
- 午前3時56分ごろ
- 山陽本線熊山駅~和気駅間を走行していた下関発京都行きの上り110列車(13両編成)が走行中、築堤が崩壊し機関車と前4両が脱線転覆し、その直後に走行してきた京都発宇野行きの下り801列車が下り線を塞いでいた110列車の5両目の側面に激突した。この事故で25名が死亡し108名が負傷した。
- 110列車の機関車乗務員2名が殉職したほか、機関車の次位に増結されていた木造車両が粉砕し、多くの死傷者が出たが、この増結車両には宮島への修学旅行に行った帰りだった和歌山県橋本高等小学校の生徒一行が乗車しており、多くの生徒が犠牲になった。また引率していた教師3名全員が殉職し、自分の身よりも生徒の安否を尋ねていたという最期が世間の同情を集めたという。
- 事故原因であるが、急曲線改良工事のために新たに盛土した築堤が、折りしも梅雨による長雨のために伏流水が増大し、C53形蒸気機関車の重量に耐え切れなくなり崩壊したというものだった。そのため設計ミスで水抜きが充分ではなく盛土工事の施工不良が原因とされた。そのため事故原因は天災よりも人為的ミスの割合が高かったとされた。
1940年代
西成線列車脱線火災事故
- 西成線(現桜島線)安治川口駅構内で、駅員の誤操作により列車通過中にポイントが転換したため、通勤客で満員のガソリン動車(ガソリンカー)3両編成のうち最後尾の1両(キハ42000形42056号車)が2対のレールにまたがったまま走行し、踏切付近の構築物に衝突して脱線・転覆。燃料のガソリンへの引火により火災が発生し、満員のまま横転した車両で189名が焼死・69名が負傷した。
→詳細は「西成線列車脱線火災事故」を参照
山陽線網干駅列車衝突事故
- 山陽本線網干駅構内で、下関発東京行き上り急行列車が駅場内信号の赤信号を冒進して駅構内に進入し、停車中の下関発京都行き普通列車に追突。双方の列車各3両が大破、85名が死亡、71名が負傷した。
- 当時の橙信号など中間現示には速度制限がなかったので、橙信号下で減速せず走行したことから次閉塞区間の赤信号で停車できずに事故を招いたとされた。この事故を機に、中間現示制限が試行され、それがダイヤ維持に悪影響のないことも分かり、橙信号下では30km/h制限などの変遷を経て45km/h以下(改良線55km/h以下)に落とす規定となり、また東海道・山陽・鹿児島線に連続コード速度照査式ATS設置工事を開始したが、受信機が運用直前に爆撃で使えなくなり頓挫、戦後は米占領軍に工事再開を拒否されて放置された。
豊肥線列車脱線転落事故
- 1941年(昭和16年)10月1日
- 豊肥本線竹中駅~中判田駅を走行していた下り列車(8620型蒸気機関車牽引)が、豪雨で路盤が軟弱化していた河原内鉄橋付近で機関車と客車4両すべてが脱線し、機関車と客車2両が立小野川に転落した。44名が死亡、72名が負傷した。
常磐線土浦駅列車衝突事故
- 常磐線土浦駅構内で、入換中の貨車が上り本線に進入し、同駅を通過した上り貨物列車と衝突。貨物列車は脱線して下り本線を支障し、下り普通列車と衝突した。普通列車の客車4両が脱線転覆、そのうち1両が桜川へ水没し、最終的に110名が死亡、107名が負傷した。
- 貨第294列車は18時40分頃土浦駅上り1番線に到着、入換のため貨車41両を持ち引上線に引上たところ、信号掛が転轍器を異方向に転換したため異線に進入、上り本線から分岐する転轍器を割出して進路を支障した(18時48分)。18時51分30秒、貨第254列車が場内信号機の進行指示によって進行したため支障車両に衝突し、牽引機関車は貨車に食込み、直後の貨車14両は脱線顛覆し、下り本線を支障した。18時54分、下り本線に進入した客第241列車は、貨第254列車に接触し脱線顛覆し、客車2両は脱線傾斜し、3両目は桜川橋梁上から脱線傾斜し、4両目は桜川に転落水没した。5両目以下は橋梁手前で転落は免れた。
- 原因は車両入換で信号掛と操車掛の打合せ不良と操車掛の進路確認不良のため車両を異線に進入させ上り本線を支障させたことと、信号掛が列車防御措置をとらなかったことである。操車掛は接近中の貨第254列車を停止すべく北部信号所に走行したが約500mの距離があり、間に合わなかったとされる。
- 事故内容が類似していることから三河島事故の予兆とされこの事故がしっかりと検証されていれば、その事故の重大化は避けられたものと思われる事故であるが、戦時中のため大きく報道されることはなかった。
- 第1の事故は貨車入換中に発生したもので、入換作業は操車掛の進路要求により信号掛が進路構成し操車掛が機関士に指示することで開始するが、この事故では信号掛が異進路を構成し、操車掛が入換標識を確認せず入換を開始したことに起因する。当時土浦駅の信号機は腕木式で、転轍器を割出しても自動的に場内信号機に停止信号を現示することはできなかったとされる。信号掛は戦時中に列車運行を阻害する事故を発生させたことに気が動顚したのか、北部信号所に連絡するなど上り列車抑止手配を取らなかったため、第2の事故が発生した(列車防護不適切)。南信号所で対応可能であった下り場内信号機に停止信号を現示していれば第3の事故は防止できた(列車防護不適切)。
- またこのときの事故車両D51 651は修理後運用復帰し、1949年に下山事件で下山総裁を轢断している。
高野山電気鉄道電車脱線転覆事故
- 高野山電気鉄道(現在の南海電鉄高野線)紀伊細川駅~上古沢駅を走行していた下り(勾配は上り)極楽橋駅行き電車が、床下より出火し急停車した。点検していたところ停止ブレーキのかけ方に不備があったため、33パーミルの急勾配を電車は逆走し曲線区間で脱線転覆した。71名が死亡、138名が負傷した。
- なお、事故の引き金になった出火原因であるが、戦中戦後の戦時強制合併とその解消など鉄道会社の変遷の激しかった時期ということもあり記録が残っておらず不明である。現在でも南海電鉄高野線では、乗務員の実地研修に、車内から床のフタを開け、機械的に楔を落とし込むことで車両暴走の停止を行う訓練を励行しているのは、この事故の経験を生かしているためという。
山陽線列車追突事故
- 1944年(昭和19年)11月19日
- 山陽本線上郡駅~三石駅を走行していた下り233旅客列車(C57牽引)が閉塞信号の停止現示で停止していたところ、午前1時56分に後続の下り345貨物列車(D52牽引)が追突し、追突した機関車と貨車56両中4両と、旅客列車11両中5両が脱線し大破した。38名が死亡、59名が負傷した。
- 事故は、後続の貨物列車の乗務員が居眠りし、信号冒進したためだった。なお後続列車の乗務員は生存していたが、自責の念から後に蒸気機関車の火室で焼身自殺した。
昭和20年代(1945~1954)
高山線列車脱線事故
- 高山線飛騨金山駅~焼石駅間にある益田川第三鉄橋を走行中の下り303列車(C58牽引)が競合脱線を起こし、客車6両のうち2両目と3両目が脱線のうえ下の益田川(現在の公式名称は飛騨川)に転落した。死者43名、負傷者56名。
- 競合脱線の原因として戦時体制下のため客車やレールなどの鉄道施設が荒廃していたことが背景にある。
飯田線電車脱線転覆事故
- 1945年(昭和20年)2月17日
- 飯田線三河槙原駅~三河川合駅間を走行中の201電車(三信デ306+伊那電気サハユニフ100)が山腹から突然落下してきた巨大な岩石の直撃を受け、2両編成の電車は脱線転覆し三輪川に転落した。死者20名、負傷者23名。
肥薩線列車退行事故
- 1945年(昭和20年)8月22日
- 肥薩線吉松駅~真幸駅間の山神第二トンネル内において、蒸気機関車(D51重連)牽引の上り人吉方面行き列車が、粗悪石炭使用のため出力が不足して勾配を登りきれずに停止。トンネル内に充満した煙に耐えられなくなった復員者などが列車から降りて出口へ向かって歩いていた所へ列車が逆走し始め、多くの乗客が轢死した。死者53名。
- 終戦直後の混乱期における、劣悪な輸送状況を象徴する一つの例として挙げられることがある。
→詳細は「肥薩線列車退行事故」を参照
八高線列車正面衝突事故
- 1945年(昭和20年)8月24日 7時40分頃
- 八高線小宮駅~拝島駅間の多摩川橋梁中央部において上り列車と下り列車(両列車とも機関車1両、客車5両)が正面衝突し、客車が川に転落。少なくとも105名の死亡、67名の重軽傷者が確認された。終戦直後の混乱期のため、列車は復員兵や疎開先から自宅に帰る人たちで超満員で、その多数の乗客が衝突により多摩川の濁流に流された。当日は激しい雷雨により多摩川が川幅いっぱいに増水していたこともあり、実際の死者数は上記の倍とも3倍とも言われている。
- 原因は、小宮~拝島間での列車の運行の連絡不備による人為的なものとされている。当日は朝から暴風雨で、そのような中に信号故障が発生、さらに激しい風雨が原因と見られる通信途絶が起こり、駅間の連絡が取れない状態となりダイヤが大幅に乱れていた。八王子行き列車が停車中の拝島駅では、通信途絶で通票閉塞が使用できなかったため、代用閉塞の一つである指導式により列車を運行することとし、指導員を機関車に添乗させて小宮駅に向け列車を発車させた。ところが、同じ頃、小宮駅でも八王子から来た列車に指導員を添乗させて拝島へ発車させてしまったのである。本来、指導式は、閉塞区間両端駅の駅長が相互に連絡を取り、閉塞区間内に列車が無いことを確認した上でタブレット(もしくはスタフ)の代替となるただ一人の指導員を列車に添乗させて運行する方式である。つまり、その区間で一人だけ選任される指導員の乗った列車のみがその閉塞区間内を運行可能となるのであるが、この時は双方の駅長が連絡が取れなかったにもかかわらず、独自に指導員を選任し、駅間の列車があるかも確認できない状況で列車を運行してしまったために正面衝突事故を引き起こしてしまった。
- 2001年に当時の車両の車輪が川の中州から引き上げられ、2004年に河原の公園脇に設置された。
中央線笹子駅構内脱線転覆事故
- 1945年(昭和20年)9月6日
- 中央線笹子駅構内で、スイッチバックのため折り返し線に午前3時41分に到着した下り403列車(ED16電気機関車牽引)が車止めを突破し機関車と客車9両のうち3両が大破転覆した。死者60名、負傷者91名。
- 原因は機関車の乗務員2名が居眠りしブレーキ操作が遅れたためとされている。
神戸有馬電気鉄道電車脱線転覆事故
- 1945年(昭和20年)11月18日
- 神戸有馬電気鉄道(現在の神戸電鉄)有馬線鷹取道駅(現在の丸山駅)~長田駅間を走行中の神戸行き上り電車が33パーミルの下り勾配でブレーキ制御が不能になり、長田付近の曲線で2両編成の電車は脱線転覆した。死者48名、負傷者180名。
- 事故原因として電車運転手の制御ミスとされているが、終戦直後のため電車の整備状態も悪かったことも背景にあると指摘されている。
東急小田原線列車脱線転覆事故
- 当時東京急行電鉄の路線だった小田原線大根駅(「おおねえき」、現・東海大学前駅)から渋沢駅までの区間は、上り勾配が延々と続いており、事故の発端はここで発生した。
- 事故を起こしたのは、東京急行(現・小田急電鉄)新宿駅を午前7時50分に発車した小田原駅行き2両編成の電車(第294列車)で、この電車が停電のため15分遅れで大秦野駅(現・秦野駅)を発車したところ、駅から約500mの地点で再び停電し、運転手は制動機をかけて停車したが、まもなく送電。この時、制動機故障のため電車がひとりでに逆行し始めたので、運転手と車掌が下車して車体点検を行ったが、電車は徐々に速度を増し、運転手と車掌は取り残されてしまった。逆行した電車の速度は約90km/hにも達し、鶴巻駅(現・鶴巻温泉駅)の急カーブで小田原側の車両が脱線し、転覆した。死者30人、重軽傷者165人。
中央線乗客転落事故
- 1946年(昭和21年)6月4日
- 中央本線大久保駅~東中野駅間で、上り電車の4両目の中央扉が満員の乗客の圧力により外れたため、乗客3名が車外に投げ出され神田川に転落して死亡した。
- 応急対策として扉に外れ止めが取り付けられ、恒久策としては鋼製扉への取替えが進められた。
尾道鉄道電車脱線転覆事故
- 1946年(昭和21年)8月13日
- 尾道鉄道(1964年に全線廃止)石畦(いしぐろ)駅を発車し終点の市駅に向かっていた下り(勾配は登り)電車が、尾道鉄道第五トンネルの急勾配ににさしかかった際に、突如、集電ポールが外れ猛烈な速度で退行しはじめ急カーブで脱線したうえ、山腹に激突し大破した。車両はほぼ満員だったため、死者37名、重軽傷者101名を出す事故となった。
- 事故原因は乗客による悪戯とブレーキ故障が複合したとされているが、後身企業である中国バスの社史にも記述は乏しく、終戦直後のため事故の詳細は不明である。
八高線列車脱線転覆事故
- 八高線東飯能駅~高麗川駅間の20‰下り勾配で、C57 93が牽引する超満員(屋根の上に乗客を乗せざるを得ないという異常ともいえる運行状態が常態化していた)の乗客を乗せた、八王子発高崎行き、6両編成の客車列車が過速度により半径250mの曲線を曲がりきれずに後部4両が脱線し、築堤上から5.6m下の畑に転落。客車の木造車体が大破し、184名が死亡し495名が負傷するという大事故となった。
- 死傷者の大部分は食料買出し目的の乗客だった。列車は超満員の乗客によって加重されたことにより、下り勾配で十分なブレーキが効かず、車両は事故の直前、左右に激しく揺れていた。
- 184名という死者は1940年(昭和15年)1月に発生した西成線列車脱線火災事故に次ぐものであり、負傷者とあわせた被害者数では当時最悪の鉄道事故だった。
- この事故で、事故車両が木造客車だったために被害が拡大したことからその脆弱性が問題視され、木造車の淘汰が決定したが、鋼製客車の新規製造のみによる置き換えはコスト的に困難だったため、木造客車の台車と台枠を再利用し、その上に鋼製車体を載せる鋼体化改造が実施されることになった(→国鉄60系客車の記事を参照)。
名鉄瀬戸線脱線転覆事故
- 名鉄瀬戸線の尾張瀬戸発堀川(現在は廃止)行き急行電車が、大森駅(現在の大森・金城学院前駅)東側にある半径160mのカーブに差し掛かったところ、後部の車両サ2241形が脱線転覆し大破。そのまま50mほど引きずられ、前方の電動車モ565形も転覆した。この事故により、36人が死亡、153人が負傷するという、瀬戸線史上最悪の事故となった。
- 原因はスピードの出し過ぎと見られている。熱田神宮への初詣客などで大混雑し、運悪くすし詰め状態だったことが、被害をさらに大きいものにした。その後、事故現場付近などで曲線改良を実施した。
近鉄奈良線暴走追突事故
(生駒トンネルノーブレーキ事故)
- 近鉄奈良線の奈良発上本町行き急行電車(デボ1形他3両編成)が、生駒トンネルを走行中にブレーキが効かなくなり、トンネル内からの下り坂を加速・暴走して70~100km/hで河内花園駅を発車しかけた前方の普通電車に追突。木造車体が大破し、特に一両目は原型さえもとどめていないほどだった。この事故により49名が死亡した。
- 原因は戦中戦後の酷使の結果、老朽状態で放置されていたブレーキホースの破損とされる。
→詳細は「近鉄奈良線列車暴走追突事故」を参照