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{{otheruses| |
{{otheruses|競走馬|結婚式で米を降らせる儀式|結婚式}}{{馬齢旧}}{{競走馬 |
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|画 = [[File:Riceshower.JPG|300px]] |
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{{競走馬 |
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|説 = 1995年6月4日 [[京都競馬場]]にて |
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|画 = [[File:Rice-shower19950423.jpg|250px]] |
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|説 = 1995年天皇賞(春)優勝時 |
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|名 = ライスシャワー |
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|国 = {{JPN}}([[北海道]][[登別市]]) |
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|主 = 栗林英雄 |
|主 = 栗林英雄 |
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|調 = |
|調 = 飯塚好次([[美浦トレーニングセンター|美浦]]) |
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|助 = 宗像安二 |
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|厩 = 川島文夫 |
|厩 = 川島文夫 |
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|冠 = [[JRA賞特別賞]](1995年) |
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|績 = 25戦6勝 |
|績 = 25戦6勝 |
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|金 = 7億2949万7200円 |
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'''ライスシャワー'''は[[日本]]の[[競走馬]]。1992年の[[菊花賞]]、1993年・1995年の[[天皇賞 |
'''ライスシャワー'''(欧字名:{{Lang|en|Rice Shower}}<ref>{{Cite web|和書|title=ライスシャワー |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000224986/ |website=JBISサーチ |accessdate=2021-02-26}}</ref>、[[1989年]][[3月5日]] - [[1995年]][[6月4日]])は[[日本]]の[[競走馬]]。[[1992年]]の[[菊花賞]]、[[1993年]]・[[1995年]]の[[天皇賞(春)]]と[[中央競馬]]の長距離[[競馬の競走格付け|GI競走]]に優勝した。 |
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菊花賞では[[ミホノブルボン]]の[[中央競馬クラシック三冠|クラシック三冠]]制覇を、1993年の天皇賞(春)では[[メジロマックイーン]]の同競走三連覇をそれぞれレコードタイム(当時)で阻止したことから「'''関東の刺客'''」「'''黒い刺客'''」「'''レコードブレイカー'''」の異名を取った<ref name="moment-1">{{Cite web|和書|url=https://moment.nikkan-gendai.com/keiba/13912 |title=平成を駆けた名馬たち~前編~ |website=Moment |accessdate=2021-06-27}}</ref>。 |
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*記事中の[[馬齢]]はすべて2000年以前に使用された旧表記([[数え年]])とする。 |
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その後低迷期を迎えるも、1995年の天皇賞(春)で優勝し復活を果たす。しかし、続いて出走した[[宝塚記念]]の競走中に骨折、[[予後不良 (競馬)|予後不良]]と診断され安楽死となった。同年、[[JRA賞特別賞]]を受賞<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=名馬メモリアル ライスシャワー JRA-VAN |url=https://jra-van.jp/fun/memorial/1989107699.html |website=JRA-VAN |accessdate=2022-03-24 |language=ja}}</ref>。[[主戦騎手]]は[[的場均]]。 |
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== 経歴 == |
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1989年3月、[[栗林商船|栗林運輸]]会長の栗林英雄が[[北海道]][[登別市]]に所有するユートピア牧場に生まれる。その出生間もなくから、小柄ながら身体能力に優れた馬との評価を受け、購買の申し入れが複数あった<ref>柴田 p.33</ref>。しかし栗林は生産馬を自ら所有する[[オーナーブリーダー]]であったためこれらの要望を断り、1990年10月末には育成を行うため、[[千葉県]]に所有する大東牧場に移動させた。こちらでも身体のバネと柔らかさは高く評価された<ref group="注">育成担当者は初めてライスシャワーに跨ったときの印象を「雲の上に乗っているような気分だった」と表現している。(柴田 p.51)</ref>。また、性質的に馴致に全く手が掛からない馬であり、育成の進捗は常に他馬よりも先んじていた<ref>柴田 p.51</ref>。 |
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== 生涯 == |
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1991年初冬に育成を終え、栗林より「ライスシャワー」と名付けられ、3月23日に[[美浦トレーニングセンター]]の[[飯塚好次]]の元へ入厩した。馬名は、結婚式のライスシャワーのように本馬に触れる全ての人々に幸福が訪れるようにとの意味が込められていた<ref>柴田 p.54</ref>。異説として、[[秋篠宮文仁親王]]と[[紀子]]妃の結婚の時期であったため、祝賀の気持ちを込めて「ライスシャワー」としたとも言われている<ref>『ライスシャワー 55分55秒5』(ビデオ)学習研究社 ISBN 978-4054005976</ref>。 |
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=== 生い立ち === |
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[[1989年]]3月、[[栗林商船|栗林運輸]]会長の栗林英雄が[[北海道]][[登別市]]に所有するユートピア牧場に生まれる。小柄ながら健康で、近隣の牧場から訪れた人々からも体躯のバランスの良さを高く評価され、購買の申し入れもあった<ref>柴田(1998)p.33</ref>。[[1990年]]10月末には、育成調教を行うため[[千葉県]]にある分場・大東牧場に移動<ref>柴田(1998)p.48</ref>。外見では「身体の硬い馬」という印象を与えていたが、担当者によれば騎乗してみると「雲の上に乗っているような気分だった」というほど柔らかかったと言う<ref name="shibata">柴田(1998)pp.50-51</ref>。また、性質的に馴致に全く手が掛からない馬であり、育成の進捗は常に他馬よりも先んじていた<ref name="shibata" />。 |
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育成を終えたのち、[[1991年]]3月23日に[[茨城県]][[美浦トレーニングセンター]]の飯塚好次の元へ入厩<ref>柴田(1998)p.53</ref>。4月4日には「ライスシャワー」と馬名登録された<ref name="shibata2">柴田(1998)p.54</ref>。これは結婚式のライスシャワーのように、本馬に触れる全ての人々に幸福が訪れるようにとの意味が込められていた<ref name="shibata2" />。異説として、[[秋篠宮文仁親王]]と[[紀子]]妃の結婚の時期であったため、祝賀の気持ちを込めたとも言われている<ref>『ライスシャワー 55分55秒5』(ビデオ)学習研究社 ISBN 978-4054005976</ref>。飯塚はライスシャワーの印象について「男馬にしては体が小さい。それもあって大物感はなく、もちろんグレードレースでどうの、といったことは少しも考えなかった。ただ小さいけれど、いかにもバランスがいい体型なので、うまくいけば中堅クラスまではいくかな、と思いましたよ」と述べている<ref name="rice">『名馬列伝ライスシャワー』p.18</ref><ref>渡辺(1999)p.173</ref>。担当厩務員となった川島文夫は、体の小ささが目について期待よりも不安の方が大きかったという<ref name="rice" /><ref name="watanabe174"/>。 |
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=== 戦績 === |
=== 戦績 === |
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==== デビューから東京優駿まで ==== |
==== デビューから東京優駿まで ==== |
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調教が積まれ、3歳戦が始まる7月の[[札幌競馬場|札幌開催]]にはデビューを迎えられる状態となった。しかし7月の初旬に熱発を起こして札幌での初戦は見送られ<ref>柴田(1998)pp.59-60</ref>、デビューは1ヶ月後、8月10日の[[新潟競馬場|新潟開催]]で迎えた。当日は飯塚[[厩舎]]所属であった若手騎手・[[水野貴広]]を鞍上に、2番人気に支持される。ここは先行策から最後の直線でダイイチリュモンをクビ差競り落とし、初戦勝利を挙げた。水野は後年このレースについて「調教の時から、この馬は走ると思った。ふつう新馬戦というのは、不安と期待が半々なんですが、この新馬レースだけは絶対に負けないと自信をもって乗りました」と振り返っている<ref name="watanabe174">渡辺(1999)p.174</ref>。 |
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[[重賞]]初出走となった2戦目の[[新潟2歳ステークス|新潟3歳ステークス]]では、水野が前日に騎乗停止処分を受けたことから急遽[[菅原泰夫]]が代役を務めた<ref name="rice2">『名馬列伝ライスシャワー』pp.20-21</ref>。当日は3番人気に推されたが、スタートで遅れて後方からのレースとなり、馬群の内側に包まれたまま11着と敗れた<ref name="rice2" />。レース後に菅原は「条件が悪すぎていいとこなしだったが、乗った印象としては短いところで忙しいレースをするより、長距離でじっくり勝負するタイプだと思った」とコメントした<ref name="watanabe174"/>。3戦目に格上挑戦で出走した芙蓉ステークスでは騎手が水野に戻ると、最後の直線入り口で先頭に立ってから、1番人気アララットサンとの競り合いを制し、2勝目を挙げた<ref>柴田(1998)p.74</ref>。しかし、この競走後に右前脚の骨折が判明。全治3ヶ月と診断され、トレーニングセンター内での療養が図られた<ref>柴田(1998)p.76</ref>。 |
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明けて[[1992年]]、4歳となったライスシャワーは[[スプリングステークス]]で復帰し、4着となる。なお、この競走の勝ち馬が中距離の[[ミホノブルボン]]、12着に短距離の[[サクラバクシンオー]]が入り、それぞれ異なる距離でGIを制する3頭が出揃った唯一のレースである。この次走・[[皐月賞]]でGI競走に初出走するも8着(本競走より的場が騎乗)、[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]でもやはり8着と精彩を欠いた。迎えた[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]では、18頭立て16番人気の低評価だった。しかし、レースでは逃げるミホノブルボンの2番手を追走、直線では同馬から4馬身突き放されたものの、一度交わされた[[マヤノペトリュース]]をゴール寸前で差し返し、2着で入線。ミホノブルボンとの[[投票券 (公営競技)|馬連]]配当2万9580円という波乱の立役者となった。 |
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翌[[1992年]]3月29日、4歳となったライスシャワーは[[皐月賞]]への[[トライアル競走]]・[[スプリングステークス]]で復帰する。若手の水野では荷が重いとの判断から、ベテランの[[柴田政人]]が騎乗した<ref name="rice3">『名馬列伝ライスシャワー』pp.24-25</ref>。的場均にも声が掛けられていたが、的場は先約があるとの理由でこれを断っている<ref name="rice4">『名馬列伝ライスシャワー』pp.26-27</ref>。この競走で[[ミホノブルボン]]と初対戦したが、同馬が2着に7馬身差をつけて勝利した後方で4着となった。柴田政人は「この勝負ではミホノブルボンとの差は決定的だが、この先体調も良くなり、レースの距離も伸びれば、かなりいいところまで行く馬だと思ったよ。ぼくはもう皐月賞、ダービーに乗る馬が決まっていたんで、この馬に乗るのは多分この1回だけと思ったけど、もう乗らないのが惜しい気持ちになったもの」と述懐している<ref name="rice3" />。ちなみにこのレースには[[サクラバクシンオー]]も出走しており、同馬はこのレースで12着と大敗を喫したことでクラシック出走を諦め<ref>『週刊100名馬 Vol.31 サクラバクシンオー』p.14</ref>、後の主戦場となる短距離路線へ進んでいる<ref>『週刊100名馬 Vol.31 サクラバクシンオー』p.13</ref>。 |
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次走・クラシック初戦の皐月賞より、的場均が騎手を務めた。この競走では最終コーナー手前から失速し、ミホノブルボン優勝の後方で8着<ref name="rice4" />、[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]へのトライアル競走・[[NHK杯_(競馬)|NHK杯]]でもやはり8着となった。的場はこの結果について「最初から過度の期待はしていなかった」とし、「このままじゃ本番(ダービー)も苦しいかなと、相手の実力を比較して考えました」と述べている<ref>『名馬列伝ライスシャワー』pp.28-29</ref>。5月31日に迎えた日本ダービーでは18頭立て16番人気の評価だったが、最終調教でライスシャワーの調子が上がっていることを感じた的場は「いい位置で粘りきることが、馬の力を引き出す一番の方法だと思って」逃げたミホノブルボンに続く2番手でレースを進めた<ref>『名馬列伝ライスシャワー』pp.30-31</ref>。最後の直線ではミホノブルボンとの差を詰めることができず、後方から追い込んできたマヤノペトリュース([[田原成貴]]騎乗)に一旦は交わされたが、最後に失速した同馬を差し返す形となり2着で入線。ミホノブルボンとの馬連配当2万9580円という波乱の立役者となった。2着という結果について的場は「すべてがうまく運んで2着に入ったんだ」と思った程度であったが<ref name="number378-75">『Sports Graphic Number』378号、p.75</ref>、引退後に出版した自著において、「もし田原騎手が『ブルボンを負かすのは無理』と、照準をブルボンではなく僕らに向けて2着狙いできていたら、おそらく楽に捉えられてしまっただろうし、そういう意味では、この2着はラッキーであったかもしれない」としながらも、「日が経つにつれて『この馬で、あのミホノブルボンに、三冠最後の[[菊花賞]]で何とか立ち向かいたい』という気持ちが、僕にも強く湧いてきた」と述懐している<ref>的場(2001)p.129</ref>。 |
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==== ミホノブルボンのクラシック三冠を阻止 ==== |
==== ミホノブルボンのクラシック三冠を阻止 ==== |
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夏は休養のため大東牧場で過ごし、7月下旬に帰厩<ref>柴田(1998)pp.93-97</ref>。9月24日に[[セントライト記念]]で復帰した。この日、的場は[[函館2歳ステークス|函館3歳ステークス]]に出走する[[インターマイウェイ]]に騎乗するため[[函館競馬場]]にいた<ref name="rice34-35">『名馬列伝ライスシャワー』pp.34-35</ref>。そのため、鞍上には代わって[[田中勝春]]を迎えてのレースとなった。レースはミホノブルボンの僚馬[[レガシーワールド]]が先行し、ライスシャワーは第3コーナーからこれを捉えに動いたが、アタマ差届かす2着となった<ref>『名馬列伝ライスシャワー』pp.32-33</ref>。ライスシャワーに騎乗せず函館に行った的場に飯塚は不快感を示し、競走後には騎手交替が取り沙汰されたが、これを知った的場が飯塚に謝罪したことで事態は収拾し、主戦騎手は的場のまま据え置かれた<ref name="matoba121-122">的場(2001)p.121</ref>。的場はこの件について「ライスシャワーはもう必要な教育がすべてできているので、ある意味では誰に手綱を譲っても安心である。しかし、若馬はそうはいかない。もしも何かのきっかけでレースが嫌いになったら、悪い癖がついたら……。能力がある馬でも、それを出し切れないまま終わってしまうかもしれない。どうしても僕らは心配性になってしまうし、先々を考えて選択したつもりだった」と述べている<ref name="matoba121-122">的場(2001)p.121</ref>。ただし、的場はセントライト記念を函館競馬場のテレビで見た際に「夏を超し、体が戻って逞しくなっているのがわかった。いい状態だな、望みはあるな」と思ったという<ref name="number378-75"/>。 |
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夏は休養のため大東牧場で過ごし、7月下旬に帰厩。9月24日に[[セントライト記念]]で復帰した。この日は的場が[[函館競馬場]]で騎乗していたため、鞍上には[[田中勝春]]を迎えた。結果は逃げた[[レガシーワールド]]を捉えきれず2着。騎手が的場に戻った[[京都新聞杯]]でもミホノブルボンに1馬身半差を付けられ、3戦連続の2着となった。しかし3着ヤマニンミラクルに3馬身半差を付けており、名実共に菊花賞への有力馬の1頭となった。本競走以降、騎手は全て的場が務めている。 |
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騎手が的場に戻った次走・[[京都新聞杯]]ではミホノブルボンと4度目の対戦となり、同馬に次ぐ2番人気に支持された。結果はミホノブルボンから1馬身半差の2着となり4連敗を喫したが、菊花賞はライスシャワーに向き、ミホノブルボンには不向きな3000[[メートル]]の長距離となることから的場・飯塚ともに本番での逆転に自信を深めたという<ref name="rice4" />。的場はレース後にオーナーの栗林英雄の夫人・育子に対し「もし逃げ馬のキョウエイボーガンさえ出走してくれば、ライスシャワーでミホノブルボンを負かす可能性がある」と口にした<ref name="number378-75"/>。的場は馬主たちと気軽に言葉を交わすようなことはほとんどなく、自分から親しげに話すようなこともなかったため、これを聞いた育子はこの的場の言葉と態度に驚いたという<ref>『Sports Graphic Number』378号、pp.75-76</ref>。 |
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迎えたクラシック最終戦の菊花賞では、無敗の[[三冠_(競馬)|三冠]]達成が懸かったミホノブルボンが単勝オッズ1.5倍の圧倒的な1番人気に支持され、ライスシャワーは7.3倍と離れた2番人気であった。レースは、逃げ馬であったミホノブルボンに先んじて[[キョウエイボーガン]]が先頭を奪い、ライスシャワーは5番手という展開となる。2周目の最終コーナーで失速したキョウエイボーガンをミホノブルボンが交わして先頭に立ったが、直線半ばでライスシャワーが差し切り、1馬身1/4差を付けて優勝。重賞初制覇をクラシックで果たした<ref group="注">的場均は菊花賞初優勝、管理調教師の飯塚はこれがGI競走の初優勝となった。また、馬主の栗林は1943年の第6回競走をクリフジで制している父・[[栗林友二|友二]]に続く、父子二代の菊花賞優勝オーナーとなった。</ref>。優勝タイム3分5秒0は当時の芝3000mにおける日本レコードタイムであった。またこの勝利は、ミホノブルボンのデビュー以来8連勝・三冠を阻止し、その競走馬生活における唯一の黒星を与える結果ともなった<ref group="注">ミホノブルボンはこの競走後に[[屈腱炎]]を発症、休養中にも骨膜炎・骨折など故障が相次ぎ、1年以上に及ぶ療養生活の末に競走に復帰することなく引退している。</ref>。 |
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11月8日の菊花賞当日は、史上5頭目、無敗馬としては史上2頭目の[[中央競馬クラシック三冠|クラシック三冠]]達成が懸かったミホノブルボンが単勝オッズ1.5倍の1番人気に支持され、ライスシャワーは7.3倍と離れた2番人気であった。レースは、[[脚質#逃げ|逃げ馬]]であったミホノブルボンに先んじて[[キョウエイボーガン]]が先頭を奪い、ライスシャワーは5番手という展開となる。2周目の最終コーナーで失速したキョウエイボーガンをミホノブルボンが交わして先頭に立ったが、直線半ばでライスシャワーがこれを差し切り、1馬身1/4差を付けて優勝。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=-K7aJZFBd14 1992年 菊花賞<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}重賞初制覇をクラシックで果たした{{Efn|的場均は菊花賞初優勝、管理調教師の飯塚はこれがGI競走の初優勝となった。また、馬主の栗林は1943年の第6回競走を[[クリフジ]]で制している父・[[栗林友二|友二]]に続く、父子二代の菊花賞優勝オーナーとなった。}}。優勝タイム3分5秒0は当時の芝3000メートルにおける日本レコードタイムであった。またこの勝利は、ミホノブルボンの三冠を阻止する結果ともなった{{Efn|ミホノブルボンはこの競走後に骨膜炎を発症して休養。休養中にも骨折するなど故障が相次ぎ、1年以上に及ぶ療養生活の末に競走に復帰することなく引退している。}}。的場は競走後のインタビューにおいて「人馬ともども、なんとかミホノブルボンを負かしてやろうという気持ちでいたんですが、それが実って本当に嬉しいですね<ref>『優駿』1993年1月号、p.141</ref>」と語ったが、三冠達成への期待が高かったことから、競走後の場内には「拍手もなくて、[[ブーイング]]のような雰囲気」(栗林育子)、「今までにない、ちょっと何かおかしな雰囲気」([[小島貞博]])も漂った<ref>松永(2000)pp.109-110</ref>。 |
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==== メジロマックイーンの天皇賞(春)3連覇を阻止 ==== |
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年末の[[グランプリ (中央競馬)|グランプリ]]・[[有馬記念]]の8着を経て、[[古馬]]となった翌1993年は、緒戦の[[目黒記念]]で59kgという[[斤量]]を背負い2着となると、続く[[日経賞]]で初めて1番人気の支持を受け、これに応えての勝利を挙げた。次走はかねて目標としていた天皇賞(春)となり、当日に向けて非常に厳しい調教が課された。この競走を2連覇中であった[[メジロマックイーン]]を意識してのものであったが、「馬を虐め過ぎではないか」との批判が上がり、「メジロマックイーンに勝つ前に馬が潰れる」と揶揄されたほどの過酷な内容であった<ref>柴田 p.142</ref>。しかしこの調教が功を奏し、天皇賞当日は前走から12kg減・東京優駿以来となる430kgと、限界まで絞り込んだ馬体での出走となった<ref group="注">関西テレビで中継実況を担当した杉本清は、「この時のライスの身体は、まさに研ぎ澄まされた鋼のようでした」と述べている。(杉本 p.133)</ref>。 |
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菊花賞後は年末のグランプリ競走・[[有馬記念]]に出走し、前走の[[ジャパンカップ]]を優勝した[[トウカイテイオー]]に次ぐ2番人気に推された。しかし、的場が後方に位置したトウカイテイオーの不調に気付かずスパートが遅れる結果となり、8着に終わった{{Efn|トウカイテイオーは11着。}}。的場はこの競走について「僕が乗った中で、ライスシャワーに対して最も失礼なレースだった」と述べている<ref>的場(2001)p.133</ref>。 |
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レースは[[メジロパーマー]]が逃げ、マックイーンが2番手、ライスシャワーが両馬を見る形の先行集団という形で進み、2周目最終コーナーでは完全にこの3頭が抜け出した。しかし直線半ばでメジロマックイーンをライスシャワーが捉えると、ゴールでは2馬身半の差を付けて同馬の天皇賞3連覇を阻止する形で優勝した。走破タイム3分17秒1は菊花賞に続き再びのレコードタイムであった。入線直後、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列放送で実況アナウンスを担当した [[杉本清]]が「関東の刺客、ライスシャワー」という言葉を使用し、以降ライスシャワーは「刺客」、あるいは「レコードブレイカー」等と渾名されることとなった<ref group="注">当時は平成初頭の関西馬全盛期にあって、最もピークを極めた関東馬不遇の時代であったが、この4月25日のライスシャワーの天皇賞勝利は、1993年の関西圏の競馬場における関東馬の初勝利でもあった。これは、その年の関東馬による関西圏での初勝利としては平成以降でも最も遅い記録である。</ref>。 |
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==== メジロマックイーンの天皇賞(春)三連覇を阻止 ==== |
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[[古馬]]となった翌[[1993年]]は[[天皇賞(春)]]を目標に据え、[[目黒記念]]より始動。[[負担重量]]は59kgと過去最高であったが、的場は天皇賞制覇のために「自力で勝負できる"格"」が必要であると考え、相手を菊花賞3着馬の[[マチカネタンホイザ]]に定め、これを自力で追走し差し切る競馬を試みた<ref name="rice6">『名馬列伝ライスシャワー』pp.40-41</ref>。結果は2馬身半離されての2着であったが、調整途上でもあり陣営には納得のいく内容であった<ref name="rice6" />。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=SbTZZi9dSZw&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1993年 日経賞(GⅡ)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}続く[[日経賞]]では初めて1番人気の支持を受け、これに応えての勝利を挙げた。 |
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次走はかねて目標としていた天皇賞(春)となり、同競走を2連覇していた[[メジロマックイーン]]を意識して徹底的に追い込む調教が行われた。しかし、あまりの厳しさから「馬を虐め過ぎではないか」との批判が上がり、「メジロマックイーンに勝つ前に馬が潰れる」と揶揄されたほどの過酷な内容であった<ref>柴田(1998)p.142</ref>。しかしこの調教が功を奏し、天皇賞当日は前走から12kg減・東京優駿以来となる430kgと、限界まで絞り込んだ馬体での出走となった。このときのライスシャワーについて的場は「なにか猛獣というか、すごい生命体というか、そばに近づいたときから、火でも吹かれるんじゃないかって、そんな恐ろしいような雰囲気がありましたが、乗ったらもう、馬じゃない別の生き物でしたよ。これで下手に怒らせたら、指や足を食いちぎられるんじゃないかと思ったぐらい」<ref name="rice5">『名馬列伝ライスシャワー』pp.44-45</ref>、「馬の気力が充実していたんで、多少過酷なことをしても大丈夫だと思った。マックイーンを負かすには、精神的にも肉体的にも研ぎ澄まさなければならない。今なら、それに耐えてくれるだろうって」<ref name="number378-76">『Sports Graphic Number』378号、p.76</ref>と述べ、また飯塚は「当日馬を見たとき、これは凄い、と思ったよ。走るという気力というか、迫力というか。見た目にはそれまでと特別変わっていないんだが、内から溢れ出るものがすごいんだ。このとき初めて、今日は勝つ、と確信したよ」と述べている<ref name="rice5" />。また[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列放送で実況を担当した[[杉本清]]は「この時のライスの身体は、まさに研ぎ澄まされた[[鋼]]のようでした」と述べている<ref>杉本(1995)p.133</ref>。 |
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[[File:Matoba_hitoshi_on_rice_shower.jpg|thumb|1993年天皇賞(春)パドック|180px]] |
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{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=y0tWHuTcTXU&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1993年 天皇賞(春)(GI)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}当日はメジロマックイーンに次ぐ2番人気に支持された。レースは前年の有馬記念を制した[[メジロパーマー]]が逃げ、メジロマックイーンはこれを見る一団の中に位置、さらにライスシャワーがその直後につけた。周回2周目の最終コーナーでは完全にこの3頭が抜け出したが、直線半ばでメジロマックイーンをライスシャワーが捉えると、ゴールでは2馬身半の差を付けて優勝。同馬の天皇賞(春)三連覇および鞍上・[[武豊]]の五連覇を阻止した。走破タイム3分17秒1は菊花賞に続き再びのレコードタイムであった。ゴールの直後、杉本清は「関東の刺客、ライスシャワー。天皇賞でも圧倒的な人気のメジロマックイーンを破りました」と実況<ref name="shibata5">柴田(1998)p.155</ref>。この競走以降、ライスシャワーには「刺客」「レコードブレイカー」という異名も冠された<ref name="moment-1" /><ref name="shibata5" />。 |
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しかし、競走後に行われた勝利騎手インタビューにおいて、インタビューが的場に対して質問したのは「勝利の感想」ではなく「マックイーンの三連覇を阻止した感想」であった<ref name="number378-76"/>。的場はライスシャワーを悪役・敵役とする見方に不快感を抱いていたといい、自著の中で次のように述べている。 |
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{{Quotation|確かに僕らはミホノブルボンの三冠を阻止し、メジロマックイーンの天皇賞三連覇を阻んだ。アイドルホースたちが歴史的偉業を達成する瞬間を邪魔してばかり、そんな印象なのだろうか。しかし、競走馬と勝負師が勝ちにいっているのだ。そこには悪役も何も、ないはずである。<br /><small>''(中略)''</small>メジロマックイーンのときもそうだった。《関東の刺客》とか《マーク屋》とか言われるのは、決して気持ちのいいものではない。「こっちの気も知らないで……」と僕などは思ってしまう。<br />僕らは勝つために、最大限の努力をしている。その努力には、さまざまな思いや戦略が、たとえひとつでも違っていたら勝利を勝ち取ることなどできないほどの緊密さ、複雑さで絡み合っている。そのあたりをこそ見てほしいのだ。それこそが勝負の面白さ、レースの面白さでもあると僕は思う。<br />アイドルだとか悪役だとか、馬たちを擬人化しては、ドラマ仕立てで眺めるのも競馬のひとつの楽しみ方なのかも知れないが、そうした見方では決して感じ取れない、ずっと奥の深い、面白い世界が、そこには広がっているはずである<ref>的場(2001)p.138</ref>。}} |
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==== スランプ ==== |
==== スランプ ==== |
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天皇賞後は放牧に出され、9月初頭に帰厩<ref>『名馬列伝ライスシャワー』pp.46-47</ref>。秋緒戦の[[オールカマー]]では1番人気に支持されたが、道中で後続を大きく離して逃げた[[ツインターボ (競走馬)|ツインターボ]]を捉えられず、勝った同馬から6馬身弱の差で3着となる<ref>{{Cite web|和書|title=【復刻】韋駄天ツインターボ大逃走劇!ライスシャワーを完封/オールカマー|極ウマ・プレミアム |url=https://p.nikkansports.com/goku-uma/news/article.zpl?topic_id=1&id=202109220000435&year=2021&month=09&day=22 |website=p.nikkansports.com |accessdate=2022-03-24 |language=ja}}</ref>。春秋連覇を目指した天皇賞では再度1番人気となったが6着と敗れ、以後[[ジャパンカップ]]、有馬記念も14着、8着と大敗した。飯塚は当時の状態について「見た目は普通、というか、春とほとんど変わらないデキなんだが……。どこか足りないというか、本当じゃない。調教も走るし、内臓だってまるで悪いところはない。そうなると、精神的な原因ということを考えたが、それがなにかわからない。そういう状態が、このシーズンずっと続いた」と述べている<ref>『名馬列伝ライスシャワー』p.50</ref>。 |
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天皇賞後は放牧に出されたが、帰厩後はそれまでに見られたレースにおける闘争心を表に出さなくなり、秋緒戦の[[オールカマー]]では前走のパフォーマンスから圧倒的1番人気に支持されるが[[ツインターボ (競走馬)|ツインターボ]]の大逃げに全く迫れず3着。春秋連覇がかかった秋の天皇賞ではメジロマックイーンが直前で故障で引退したこともありもありGⅠで初めて1番人気に支持されるが、直線で伸びず[[安田記念]]を連覇した[[ヤマニンゼファー]]の6着に敗れた。[[ジャパンカップ]]では天皇賞の惨敗に加え、天皇賞のとき以上に調子を落としてしまい7番人気と大きく人気を落とした。レースでも果敢に先行策をとるも直線で失速し、14着と二桁着順の大敗を喫した。続く有馬記念も8着に敗れた<ref>柴田 pp.166-174</ref>。年の明けた[[1994年]]緒戦の[[京都記念]]でも5着と敗れる。しかし次走の[[日経賞]]では直線で鋭い反応を見せ、差し込んできた[[ステージチャンプ]]とハナ差の2着と復活の兆しを見せた。 |
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翌[[1994年]]の初戦は、関西の競馬場が合っているのではないかという飯塚の考えにより、西下して[[阪神競馬場]]で行われた[[京都記念]]に臨んだ<ref name="rice7">『名馬列伝ライスシャワー』pp.54-55</ref>。結果は前年の菊花賞馬[[ビワハヤヒデ]]の5着となったが、的場によると「直線の動きは一瞬あれっ、というところがあり、もうひと追いすれば伸びる予感があった。長いスランプだったけど、ここらあたりがトンネルの出口かとも思った」という<ref name="rice7" />。京都記念の後には状態の向上が見られ始め<ref>『名馬列伝ライスシャワー』pp.56-57</ref>、関東に戻っての日経賞では最後の直線で先頭に立ち、差し込んできた[[ステージチャンプ]]にハナ差の2着と、復活の兆しを見せた。 |
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この後は連覇が懸かる天皇賞(春)を目標に、関西馬の調教拠点である[[栗東トレーニングセンター]]に入り調教が積まれたが、天皇賞の前週である4月16日の調教中、3歳時に骨折した右前管骨に再び故障を発生する<ref>柴田 p.179-180</ref>。3歳時とは異なり競走生命を危ぶまれる重傷で、この時点で引退が検討され、[[種牡馬]]となる道が模索された<ref name="shibata6">柴田(1998)pp.181-182</ref>。しかし長距離競走以外の実績に乏しかった点や、小柄な馬体が敬遠され受け入れ先が見つからず、現役続行が決定する<ref name="shibata6" />。その後はユートピア牧場に移動して療養。復帰は翌春になると見込まれていたが、予想より回復が早く、10月末に帰厩を果たした<ref>柴田 pp.188-192</ref>。 |
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2ヶ月後には復帰戦の有馬記念を迎えた。この年史上5頭目のクラシック三冠を達成した[[ナリタブライアン]]、当時最強牝馬と評されていた[[ヒシアマゾン]]に続く3着となった。しかし[[1995年]]の年明け2戦ではいずれも1番人気に推されたが、それぞれ60kg、59kgという斤量も響き<ref>柴田 pp.199-201</ref>、いずれも6着と敗れた。 |
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==== 2年ぶりの復活 ==== |
==== 2年ぶりの復活 ==== |
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{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=C3yW8CI82Ck&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1995年 天皇賞(春)(GI)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}} |
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2年振りの出走を決定した[[天皇賞(春)]]では、ナリタブライアンが故障により回避し、主力馬不在の中、出走馬中で唯一のGⅠ優勝馬であったが4番人気の評価であった。しかしレースが始まると、鞍上の[[的場均]]は2周目の向正面から徐々に仕掛け始め、第3コーナーから800mのロングスパートという勝負を仕掛ける。第4コーナーで馬群から抜け出して先頭に立ち、最後は追い込んできたステージチャンプと内外馬体が重なった状態で入線した。この時ステージチャンプに騎乗していた[[蛯名正義]]が[[ガッツポーズ]]を見せたため敗れたと思われたが、写真判定の結果わずかに先着(着差ハナ)しており、1993年の同競走以来728日振りの勝利で復活を果たした<ref group="注">3着にも[[ハギノリアルキング]]が入り、[[リアルシャダイ]]産駒が1着から3着までを独占した</ref>。着差は16cmという僅差であった(競走詳細は[[第111回天皇賞]]を参照のこと)。 |
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2年振りの出走を決定した天皇賞(春)では、前哨戦の[[阪神大賞典]]を圧勝していたナリタブライアンが故障により回避。主力馬不在の中、4番人気の評価であった。逃げ馬が不在であったことからレースはスローペースで推移。ライスシャワーは2周目の向正面で行く気を見せたことから、的場は「この瞬間の馬のやる気にのって、その勢いでゴールまで粘りこむという、一種の奇襲戦法をとれば、僅かだが勝つチャンスがある」と考え<ref name="rice8">『名馬列伝ライスシャワー』pp.64-65</ref>、第3コーナーから800メートルのロングスパートを仕掛けた。最終コーナーで馬群から抜け出して先頭に立ち、最後の直線で逃げこみを図ったが、最後は追い込んできたステージチャンプと内外馬体が重なった状態で入線した。この時ステージチャンプに騎乗していた[[蛯名正義]]が[[ガッツポーズ]]を見せ、一方[[関西テレビ]]でこのレースを実況した[[杉本清]]はゴール後すぐ「やったやったライスシャワーです!」「メジロマックイーンもミホノブルボンも喜んでいる事でしょう」とライスシャワーの勝利を伝えた<ref>杉本(1995)</ref>。写真判定の結果、ハナ差ライスシャワーが先着しており、1993年の同競走以来728日振りの勝利で復活を果たした{{Efn|3着にも[[ハギノリアルキング]]が入り、[[リアルシャダイ]]産駒が1着から3着までを独占した}}。着差は約10cmという僅差であった(競走詳細は[[第111回天皇賞]]を参照のこと)。 |
|||
かつて[[福永洋一]]が[[ニホンピロムーテー]]を駆り、似た作戦で菊花賞を制した前例はある<ref>的場(2001)p.148</ref>ものの、[[京都競馬場]]の長距離戦で第3コーナーから仕掛けることはセオリーを無視した騎乗とされており、的場はスパートを実行するまでゴール直前で誰かに差される光景を思い浮かべ、言い訳の言葉も考えていたという<ref name="rice8" />。的場は後に「あの騎乗は、もしライスシャワーが絶好調だったら絶対に選ばなかった乗り方だ。でもそのまま無難にのっていたら、おそらく着がいいところだったと思う。勝つ確率が、あの乗り方なら少しは高くなる。その一点に賭けて、僕らは勝ちに行ったのだ」と述べている<ref>的場(2001)p.151</ref>。 |
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==== 宝塚記念 ==== |
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天皇賞の反動は大きく、陣営は疲労回復のために秋まで馬を休ませ、それで調子が戻らなければレースに出さずそのまま引退させることも考えていた<ref>柴田 p.227</ref>。しかし[[第36回宝塚記念]]のファン投票で1位に選出され、またこの競走が当年1月に発生した[[阪神・淡路大震災]]の震災復興支援競走と位置づけられたことにより、出走が決定する。この背景には「ファン投票1位」に対する義務の他に、阪神競馬場の被災により得意の京都競馬場で競走が施行されること、近走の酷量からは望外の軽量となる56kgで出走できることなどがあった。さらに種牡馬入りが再度検討された際、やはり中距離競走での実績が必須であると結論付けられた事情もあった<ref>『優駿』p.59</ref>。 |
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==== 宝塚記念で故障、非業の死==== |
|||
当日は3番人気に支持され、レースでは後方を進んだ。しかし第3コーナーで人馬共に前のめりに転倒する。左第一指関節開放脱臼、粉砕骨折を発症しており手当ての術が無く、[[予後不良 (競馬)|予後不良]]と診断された。トラックが直ちに用意され現場まで直行し、その場に幔幕が張られた中で安楽死処分となった。最期の様子は明らかではないが、遺体を運ぶ馬運車を[[敬礼|最敬礼]]で見送る的場の写真が残されている。 |
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天皇賞の後は疲れが見られたことから、放牧に出ることも考えられていた<ref name="shibata9">柴田(1998)pp.227-228</ref>。しかし[[第36回宝塚記念|宝塚記念]]のファン投票で1位に選出されたこと、またこの競走が当年[[1月17日]]に発生した[[兵庫県南部地震]]([[阪神・淡路大震災]])の影響で例年開催の阪神競馬場が使用できず、得意の京都競馬場での代替開催となったこと、そして天皇賞に続いてこのレースもナリタブライアンが出走しないことが決まったことで<ref>『Sports Graphic Number』378号、p.78</ref>、出走が決定する<ref name="yushun199510">『優駿』1995年10月号、pp.52-53</ref>。他に近走の重量からは望外の軽量となる56kgで出走できることもあり<ref name="shibata9" />、さらに種牡馬入りが再度検討された際、やはり中距離競走での実績が必須であると結論付けられた事情もあった<ref name="yushun200107">『優駿』2001年7月号、p.59</ref>。宝塚記念2日後の6月6日には、種牡馬入りへの支援を申し出たJRAの担当者がライスシャワーを見に来る予定となっていた<ref>柴田(1995)p.230</ref>。 |
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当日は3番人気に支持され、レースでは後方を進んだ。的場は最初のコーナーを回った時点で様子がおかしいことを感じ取り「今日は勝つどころじゃない、慎重にまわってこようと」考えたという<ref name="rice10">『名馬列伝ライスシャワー』pp.66-67</ref>。第3コーナーでライスシャワーは自らスピードを上げたが、直後に前のめりになり、いったん身体を起こした後に転倒<ref name="rice10" />。左第一指関節開放脱臼、粉砕骨折を発症しており、診療所まで運ぶことができず、その場に幔幕が張られた中で安楽死の措置が執られた<ref name="yushun200107" />。的場は[[打ち身|打撲]]で済んでいたことから、その最期を看取り<ref name="matoba">的場(2001)p.154</ref>、亡骸を馬場から運ぶ馬運車に深く礼をしたまま見送ったシーンが映像に残されている。担当厩務員の川島は、手綱を握りしめたまま泣いていたという<ref name="matoba" />。 |
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=== 死後 === |
=== 死後 === |
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[[ファイル:Rice Shower monument.jpg|thumb|250px|ライスシャワー記念碑 |
[[ファイル:Rice Shower monument.jpg|thumb|250px|京都競馬場内のライスシャワー記念碑。栗林育子の姉が詠んだ「疾走の馬 青嶺の魂<small>(たま)</small>となり」という句が刻まれている<ref name="matsunaga" />。]] |
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死から1か月後の7月3日、故郷・ユートピア牧場には墓が建てられた<ref name="yushun199509-74">『優駿』1995年9月号、p.74</ref>。表には「ライスシャワー ここに眠る」との文字が刻まれ、裏には戦績が記された<ref name="yushun199509-74" />。この年度の[[JRA賞]]において「[[JRA賞特別賞|特別賞]]」が贈られた<ref name=":0" />。また京都競馬場の職員たちの発案により、翌1996年9月7日には京都競馬場内にライスシャワーの遺髪が収められた記念碑が建立された<ref>『Sports Graphic Number』378号、p.79</ref><ref name="matsunaga">松永(2000)pp.115-116</ref>。また、育成場であった大東牧場には栗林英雄・育子夫人の手により建立された記念碑がある<ref name="yushun199510-72">『優駿』1995年10月号、p.72</ref>。他にも、茨城県の美浦トレーニングセンターにはライスシャワーを管理していた飯塚好次の手による記念碑があり、[[栃木県]][[大田原市]]のくろばねスプリングスには供養塔が建立されている。 |
|||
亡くなった馬が使用した[[蹄鉄]]は、通常トレーニングセンターの馬頭観音に納められるが、飯塚はライスシャワーの蹄鉄に限ってそれをすることができなかった<ref name="優駿-蹄鉄" />。最期、宝塚記念で着用した蹄鉄は、飯塚がその日の京都競馬場の土を付着した状態で保管しているという<ref name="優駿-蹄鉄" />。「この馬は特に思い入れが深くて、(馬頭観音に)持って行く気になれなくて…。いつか自分のお棺に一緒に入れてもらおうかな、と(笑)<ref name="優駿-蹄鉄">『優駿』2008年12月号 88頁</ref>」と述べている。 |
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[[2010年]]の菊花賞当日に行われた「京都クラウンプレミアム」の競走名は、歴代菊花賞優勝馬を対象としたファン投票の結果「ライスシャワーメモリアル」となり<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20140815214054/http://www.sponichi.co.jp/gamble/special/race/2010kiku/KFullNormal20100928097.html |title=菊花賞当日の最終は「ライスシャワーM」 |author= |publisher=[[スポーツニッポン|Sponichi Annex]] |accessdate=2013年4月22日 |date=2010-9-28}}</ref>、当日にはライスシャワーへのメッセージが募集され、それらは競走後にユートピア牧場のライスシャワーの墓前に供えられた<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20160304222909/http://www.jra.go.jp/facilities/race/kyoto/news/20101125.html |title=ジョッキーチャリティーオークション及びライスシャワー号メッセージ受付へのご協力ありがとうございました! |author= |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2013年4月22日 |date=2010-11-25}}</ref>。 |
|||
[[2021年]]に京都競馬場が行った、ファン投票によりこれまでに作られていない、または過去に製作実績があっても現在販売されていない競走馬のアイドルホースを制作するアイドルホースオーディションでは4位となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://kyotorc-cp.com/ |title=JRA 京都競馬場 Presents アイドルホースオーディション |accessdate=2022-03-14}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://news.sp.netkeiba.com/?pid=news_view&no=191750 |title=『京都競馬場アイドルホースオーディション』結果発表 ライスシャワーやキセキ超える京都のアイドルは…|accessdate=2022-03-14}}</ref>。 |
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[[2010年]][[10月24日]]に[[京都競馬場]]で行われる[[JRAプレミアムレース]]「京都クラウンプレミアム」のメモリアルホースに選出され「ライスシャワーメモリアル」として施行される。ライスシャワー碑付近に献花台が設置され予定で、同馬へのメッセージを受け付ける<ref>[http://www.jra.go.jp/news/201010/100202.html#6_11 JRAニュース 伝説に逢いにいく。京都競馬。【第5回京都競馬開催日イベント】]</ref>。 |
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== 競走成績 == |
== 競走成績 == |
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以下の内容はnetkeiba.comの情報<ref>{{Cite web|和書|title=ライスシャワー {{!}} 競走成績 |url=https://db.netkeiba.com/horse/1989107699/ |website=netkeiba.com |accessdate=2021-05-30}}</ref>に基づく。 |
|||
{| style="font-size: 90%; text-align: center; border: 0; border-collapse: collapse;" |
|||
{| style="font-size: 90%; text-align: center; border-collapse: collapse; white-space:nowrap" |
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|- |
|- |
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! style="text-align: center;" colspan="2"|年月日 |
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![[競馬場]] |
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!競走名 |
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![[競馬の競走格付け|格]] |
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!頭<br />数 |
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!枠<br />番 |
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!馬<br />番 |
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!オッズ(人気) |
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!着順 |
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![[騎手]] |
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![[負担重量|斤量]]<br/>[kg] |
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![[競走馬#競走馬の適性|距離]]([[馬場状態|状態]]) |
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!タイム<br />([[上がり (競馬)|上り]]3[[ハロン (単位)|F]]) |
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!着差 |
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!1着馬(2着馬) |
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!馬体重<br />[kg] |
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|- |
|- |
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|[[1991年|1991]] |
| [[1991年|1991.]] |
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| [[8月10日|{{0}}8.10]] |
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|8. |
|||
|[[ |
| [[新潟競馬場|新潟]] |
||
|[[新 |
| [[新馬|3歳新馬]] |
||
|[[新馬|3歳新馬]] |
|||
| |
| |
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|10 |
| 10 |
||
|7 |
| 7 |
||
|8 |
| 8 |
||
|3. |
| {{00}}3.1{{0}}(2人) |
||
|{{color| |
| {{0}}{{color|darkred|1着}} |
||
|[[水野貴広]] |
| [[水野貴広]] |
||
|▲50 |
| ▲50 |
||
|芝1000m(良) |
| 芝1000m(良) |
||
|0:58. |
| {{0}}0:58.6(34.8) |
||
| {{Nowiki|-}}0.1 |
|||
|クビ |
|||
|(ダイイチリユモン) |
| (ダイイチリユモン) |
||
|440 |
| 440 |
||
|- |
|- |
||
| |
| |
||
| [[9月1日|{{0}}9.{{0}}1]] |
|||
|9. |
|||
| 新潟 |
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|[[9月1日|1]] |
|||
| [[新潟2歳ステークス|新潟3歳S]] |
|||
|新潟 |
|||
|{{JRAGIII}} |
|||
|[[新潟2歳ステークス|新潟3歳S]] |
|||
| 14 |
|||
|style="color: #0c0;"|GIII |
|||
| |
| 1 |
||
|1 |
| 1 |
||
| {{00}}4.3{{0}}(3人) |
|||
|1 |
|||
| 11着 |
|||
|4.3(3人) |
|||
| [[菅原泰夫]] |
|||
|11着 |
|||
| 53 |
|||
|[[菅原泰夫]] |
|||
| 芝1200m(良) |
|||
|53 |
|||
|{{0}}1:11.7(37.0) |
|||
|芝1200m(良) |
|||
| |
| {{0|-}}1.0 |
||
| ユートジェーン |
|||
| -1.0 |
|||
| 440 |
|||
|ユートジェーン |
|||
|440 |
|||
|- |
|- |
||
| |
| |
||
| [[9月21日|{{0}}9.21]] |
|||
|9. |
|||
|[[ |
| [[中山競馬場|中山]] |
||
| 芙蓉S |
|||
|[[中山競馬場|中山]] |
|||
|{{OP}} |
|||
|芙蓉S |
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| |
| 8 |
||
|8 |
| 8 |
||
|8 |
| 8 |
||
| {{00}}3.7{{0}}(2人) |
|||
|8 |
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| {{0}}{{color|darkred|1着}} |
|||
|3.7(2人) |
|||
| 水野貴広 |
|||
|{{color|red|1着}} |
|||
| 53 |
|||
|水野貴広 |
|||
| 芝1600m(重) |
|||
|53 |
|||
|{{0}}1:36.1(36.7) |
|||
|芝1600m(重) |
|||
| {{Nowiki|-}}0.0 |
|||
|1:36.1 (36.7) |
|||
| (アララットサン) |
|||
|頭 |
|||
| 444 |
|||
|(アララットサン) |
|||
|444 |
|||
|- |
|- |
||
|[[1992年|1992.]] |
| [[1992年|1992.]] |
||
| [[3月29日|{{0}}3.29]] |
|||
|3. |
|||
| 中山 |
|||
|[[3月29日|29]] |
|||
| [[スプリングステークス|スプリングS]] |
|||
|中山 |
|||
| {{JRAGII}} |
|||
|[[スプリングステークス|スプリングS]] |
|||
| 14 |
|||
|{{color|blue|GII}} |
|||
| |
| 3 |
||
|3 |
| 3 |
||
| {{0}}68.9(12人) |
|||
|3 |
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| {{0}}4着 |
|||
|68.9(12人) |
|||
| [[柴田政人]] |
|||
|4着 |
|||
| 56 |
|||
|[[柴田政人]] |
|||
| 芝1800m(重) |
|||
|56 |
|||
|{{0}}1:51.7(38.5) |
|||
|芝1800m(重) |
|||
| {{0|-}}1.6 |
|||
|1:51.7 (38.5) |
|||
| [[ミホノブルボン]] |
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| -1.6 |
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| 450 |
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|[[ミホノブルボン]] |
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|450 |
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|- |
|- |
||
| |
| |
||
| [[4月19日|{{0}}4.19]] |
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|4. |
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| 中山 |
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|[[4月19日|19]] |
|||
| [[皐月賞]] |
|||
|中山 |
|||
| {{JRAGI}} |
|||
|[[皐月賞]] |
|||
| 17 |
|||
|{{color|red|GI}} |
|||
| |
| 5 |
||
| |
| 9 |
||
| {{0}}59.0(11人) |
|||
|9 |
|||
| {{0}}8着 |
|||
|59.0(11人) |
|||
| [[的場均]] |
|||
|8着 |
|||
| 57 |
|||
|[[的場均]] |
|||
| 芝2000m(良) |
|||
|57 |
|||
|{{0}}2:02.8(38.0) |
|||
|芝2000m(良) |
|||
| {{0|-}}1.4 |
|||
|2:02.8 (38.0) |
|||
| ミホノブルボン |
|||
| -1.4 |
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| 438 |
|||
|ミホノブルボン |
|||
|438 |
|||
|- |
|- |
||
| |
| |
||
| [[5月10日|{{0}}5.10]] |
|||
|5. |
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|[[ |
| [[東京競馬場|東京]] |
||
|[[ |
| [[NHK杯 (競馬)|NHK杯]] |
||
| {{JRAGII}} |
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|[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]] |
|||
| 16 |
|||
|{{color|blue|GII}} |
|||
| |
| 8 |
||
| |
| 15 |
||
| {{0}}25.0{{0}}(9人) |
|||
|15 |
|||
| {{0}}8着 |
|||
|25.0(9人) |
|||
| 的場均 |
|||
|8着 |
|||
| 56 |
|||
|的場均 |
|||
| 芝2000m(重) |
|||
|56 |
|||
|{{0}}2:03.4(36.3) |
|||
|芝2000m(重) |
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| {{0|-}}0.6 |
|||
|2:03.4 (36.3) |
|||
| [[ナリタタイセイ]] |
|||
| -0.6 |
|||
| 434 |
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|ナリタタイセイ |
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|中山 |
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| [[12月27日|12.27]] |
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| 中山 |
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|[[12月27日|27]] |
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|[[1993年|1993]] |
| [[1993年|1993.]] |
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|[[マチカネタンホイザ]] |
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| [[3月21日|{{0}}3.21]] |
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| 中山 |
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| [[11月28日|11.28]] |
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| [[12月26日|12.26]] |
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|[[トウカイテイオー]] |
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|[[1994年|1994]] |
| [[1994年|1994.]] |
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| [[2月13日|{{0}}2.13]] |
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|2. |
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|[[ |
| [[阪神競馬場|阪神]] |
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|京都 |
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|[[ビワハヤヒデ]] |
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| [[3月20日|{{0}}3.20]] |
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|3. |
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|[[3月20日|20]] |
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|[[ステージチャンプ]] |
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| [[12月25日|12.25]] |
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|12. |
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| 中山 |
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|[[12月25日|25]] |
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| 有馬記念 |
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|中山 |
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| {{JRAGI}} |
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|有馬記念 |
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| [[ナリタブライアン]] |
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| 452 |
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|[[ナリタブライアン]] |
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|452 |
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|[[1995年|1995]] |
| [[1995年|1995.]] |
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| [[2月12日|{{0}}2.12]] |
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|2. |
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| 京都 |
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|[[2月12日|12]] |
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|京都 |
| 京都記念 |
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| {{JRAGII}} |
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|{{color|blue|GII}} |
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|||
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|||
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|||
|60 |
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|||
|芝2200m(良) |
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|||
|2.12.5 (35.1) |
|||
| ワコーチカコ |
|||
| -0.7 |
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| 450 |
|||
|ワコーチカコ |
|||
|450 |
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|- |
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| |
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| [[3月19日|{{0}}3.19]] |
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|3. |
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| 中山 |
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|[[3月19日|19]] |
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| 日経賞 |
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|中山 |
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| {{JRAGII}} |
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|日経賞 |
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| 的場均 |
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|6着 |
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|的場均 |
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|芝2500m(不) |
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| -1.3 |
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| 446 |
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|インターライナー |
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|446 |
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|- |
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| |
| |
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| [[4月23日|{{0}}4.23]] |
|||
|4. |
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| 京都 |
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|[[4月23日|23]] |
|||
| 天皇賞(春) |
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|京都 |
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| {{JRAGI}} |
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|天皇賞(春) |
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|||
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|ハナ |
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| [[6月4日|{{0}}6.{{0}}4]] |
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|[[6月4日|4]] |
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| [[宝塚記念]] |
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|京都 |
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| {{JRAGI}} |
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|[[宝塚記念]] |
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|{{color|red|GI}} |
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| {{00}}6.0{{0}}(3人) |
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| 中止 |
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| 的場均 |
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|的場均 |
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| 芝2200m(稍) |
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|colspan="2"|競走中止 |
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|芝2200m(稍) |
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| [[ダンツシアトル]] |
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|競走中止 |
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|[[ダンツシアトル]] |
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|438 |
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*タイム欄の{{color|darkred|R}}はレコード勝ちを示す。 |
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*斤量▲は[[見習騎手#中央競馬の見習騎手|3kg減量]]を表す。 |
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== 競走馬としての特徴 == |
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優勝した菊花賞・天皇賞(春)はどちらも3000メートル以上の距離だったため、純然たるステイヤー(長距離向きの馬)であるとされる。競馬評論家の[[大川慶次郎]]は「ヘビーステイヤー」と呼び<ref>柴田(1998)p.222</ref>、競走番組が年々短・中距離偏重に向かっていたことから「最後のステイヤー」とも<ref>『名馬列伝ライスシャワー』p.132</ref><ref>渡辺(2004)p.46</ref>呼ばれた。飯塚好次は5歳秋以降の不振について、「ひとつの問題としては、やはり出るレースの距離が合わなかった」と述べている<ref name="yushun199510" />。一方、的場均は「あの馬が3000じゃないと走らないとかいうのは、人が勝手に言ってること<ref name="rice11">『名馬列伝ライスシャワー』p.108</ref>」、「2000メートルのレースでも、もし万全の状態で出ていれば十分勝負になるのがこの馬<ref>的場(2001)p.141</ref>」と述べている。 |
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また、日本中央競馬会が発行したポスター「[[ヒーロー列伝]]」のキャッチコピーが「[[淀]]を愛した、孤高のステイヤー{{Efn|淀=京都競馬場の俗称。競馬場が所在する地域の名称に由来する。}}」とされているように、京都競馬場を得意とする馬とも見られていた。京都競馬場におけるライスシャワーの優位性について、的場は次のように述べている。 |
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{{Quotation|京都競馬場は「ライスシャワーに合っていた」というより、他の馬だと御すだけで苦労するところを、この馬は問題を起こさないぶん有利になるという感じだった。<br />京都の場合、上り、下りやアンジュレーションをどうこなすのかが全体的な問題になってくる。普通の馬の場合は、上りや下りになると力んでしまうので、ここでは力んじゃいけないんだぞ、と手綱を通じてなだめてやらなくてはならない。<br />でも、ライスシャワーの場合はそうした必要がまったくない。こちらが指示しないことは、絶対にやらないのだ。要らないところで力んだりしないし、騎手が、<br /> 「ここでは、これだけ走ってくれ」<br />と、伝えた分だけしか走らないという、まったくもって器用な芸当を難なくこなしてみせるのだ。<br />余計なことは一切しない。それこそ、手綱で指示しなくてもこちらが思うだけで通じる、すばらしく賢い馬だった<ref>的場(2001)p.146</ref>。}} |
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== エピソード == |
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=== 「高速馬場」への批判 === |
=== 「高速馬場」への批判 === |
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宝塚記念施行前の京都競馬場は、2週間で3つのコースレコードが出 |
宝塚記念施行前の西日本の主場開催は、先述の通りこの年に発生した阪神・淡路大震災の影響で例年通りの阪神競馬場での開催のスケジュールを消化することが出来ず、本来阪神で開催される3・4月の競馬(桜花賞などを含む)も京都競馬場で代替開催を行っており、同年1月28日以降5月14日まで毎週、京都競馬場で開催を行う形となっていた。そこに同年6月4・5日に「震災復興支援競走」という形で震災発生で中止された同年1月21・22日分の代替開催を組み込んだことで、宝塚記念を当初の予定より1週前倒ししたうえで6月4日に行われることとなった。京都での連続開催が終了した後は一旦は中京競馬場での開催となったものの、宝塚記念の実施日まで2週間しか間が空いておらず、連続開催による馬場の傷みが進行していた。{{独自研究範囲|2週間で3つのコースレコードが出ており、非常に馬場が固く締まった状態にあることがその理由だと当時は考えられていた{{Efn|なお、タイムと馬場の固さの相関関係については議論があり、騎手の[[藤岡佑介]]は2021年に「時計が速い=馬場が硬いという方程式はまったく成り立たなくなっている」と述べている<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/b3485ebc667bf282bffe697cc8a992f269cc2b3f |accessdate=2022-02-08 |title=“時計が速いから故障する説”にJRA馬場造園課の本音は?「主催者として“高速馬場”と言われるのは心苦しい」}}</ref>。}}。前日のメインレースの[[阪急杯]]でもバンブーユージンが故障し、安楽死処分となっていた。また、これ以前からJRA主催競馬場の馬場は固すぎるのではないかという批判があった。こうした理由から、ライスシャワーの骨折は、タイムを縮めることを目的として固くしすぎた「[[高速馬場]]」に原因があると考えた者たちから、レース後に非難の声が上がった{{Efn|優勝した[[ダンツシアトル]]、3着だった[[エアダブリン]]、14着の[[ネーハイシーザー]]、最下位でゴールした[[ナリタタイシン]]の4頭がこの宝塚記念から少し経った後に屈腱炎を発症し、ダンツシアトルとナリタタイシンは引退に追い込まれているが、その原因がこの「高速馬場」で激走したのが原因だったのではないかとの指摘がある。}}|date=2019年9月}}。その一方で故障と馬場との因果関係は不明であり、短絡的な批判であるとの意見もあった。作家の[[月本裕]]はこうした人々を「単純な論者」と呼び、「(JRAは)恐らく世界でもトップのレベルで、競走馬の故障と馬場の関係を研究している。<small>''(中略)''</small>故障を避けるために努力を続けているJRAの力が及ばず起きてしまう事故もないとは言えない。事故の原因をしっかりと探ることは必要であるが、必要以上にセンティメンタルになっても仕方がないということは確かだ」と述べている<ref>『サラブレッド101頭の死に方』p.493</ref>。また、日本中央競馬会の広報誌『[[優駿]]』で京都競馬場がレポートされた際には、記事を執筆した辻谷秋人がライスシャワーの事故にも触れ、「最近はライスシャワーに限らず、馬が故障するとすぐに馬場状態が云々される傾向がある。<small>''(中略)''</small>馬場は口を利かないし、とりあえず馬場のせいにしておけば傷つく人がいない(馬場の担当者はいい気持ちではないだろうが)ということもあるだろう。もちろん馬場(あるいは馬場を酷使せざるを得ない現状)にいくらかの原因があるのは否定できないだろうが、なんでもかんでも馬場のせいにして事足れりでは、逆に競馬の進歩を阻害することになるだろう」と述べた<ref>『優駿』1995年9月号、p.47</ref>。 |
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また同誌上でイギリス人騎手[[アラン・ムンロ]]に行われたインタビューでは、記者から「日本は馬場が硬すぎる」などの批判が国内であることを聞かされたムンロが「馬場のことについて言えば、日本の馬場が他の国に比べてとくに硬いというようなことはありません。アメリカなどはどこへ行っても硬いし、だから骨折なんて日常茶飯事です。もちろんイギリスにだって硬い馬場はあります。だからそういうことを言う人がいるのなら、その人はたぶん馬場のこととか、世界の競馬のこととかをよく分かっていないのだと思います」と述べた<ref>『優駿』1995年11月号、pp.57-58</ref>。 |
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=== 「ライスシャワーブーム」と批判 === |
=== 「ライスシャワーブーム」と批判 === |
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天皇賞での復活劇から高まりつつあったライスシャワーの人気は、死を契機として頂点に達し、京都競馬場の記念碑建立等の一因となった。一方、この現象についてはライスシャワーの死が過剰に美化されているとの意見が存在し |
天皇賞での復活劇から高まりつつあったライスシャワーの人気は、死を契機として頂点に達し、京都競馬場の記念碑建立等の一因となった。一方、この現象についてはライスシャワーの死が過剰に美化されているとの意見が存在しており、ライターの北野海人は「ライスがああやって悲惨に死んだことだけを美化して、『ライスは永遠に不滅です』なんて取って付けたように英雄視するのはやめようよ」「偉大な『ヒール伝説』の本質を忘れて、レース中に死んだというごく日常の事象だけを取り上げてブルボンやマックイーン以上に正統な英雄として仕立て上げる。これはライスシャワーという馬の本質からかけ離れた無意味な崇拝でしかない」と述べている<ref>『競馬名馬&名勝負読本』pp.22-23</ref>。 |
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また、[[須田鷹雄]]は執筆各誌で不快感を露わにし、その理由として「それは要するに、利己的な目的のために過ぎないからだ。悲劇に酔うためにライスシャワーを利用した。そう断定してもいいと思う。だって、元気で走っている頃、ファンはどれだけライスシャワーに思い入れを抱いていただろうか?『ブーム』には明らかに基盤になるものがない」と述べた<ref>『名馬列伝ライスシャワー』p.125</ref>。また、一部ファンからの非難が厩舎関係者に及んだため、須田はこうしたファンに対し「(ファンの感傷に)本物の関係者を巻き込むな」と批判した<ref name="suda">『競馬名馬&名勝負読本』 pp.230-231</ref>。さらに「ライスシャワー報道のひとつひとつが、驚くほど似たテイストで統一されているのはどうしてなのか」「[[経済動物]]論のように、本来競馬を支えている基本理念みたいなものが罪悪視されている状況はどうなのか」とマスコミも同時に批判し、一連の「ライスシャワーブーム」を「[[全体主義]]的」と評した<ref name="suda" />。記者の片山良三は、「志半ばで散ったライスシャワーを『かわいそう』と感じるのはファンなら当然のことで、競馬雑誌のファンの声欄にそうした意見が溢れるのは健全な流れ。しかし、ジャーナリズムに携わる人間までがセンチメンタリズムに流されるのはいかがなものだろう。『君のことは一生忘れない』式の文章が氾濫したことしたこと<!--原文ママ-->。そんな"敬語"を使えば馬のことを親身に思っていると錯覚させるようなテクニックは、プロの文章家のものとしては見苦しく感じられた<ref>『ダビスタコミック 3R』p.63</ref>」とマスメディアを批判した。 |
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日本中央競馬会が[[2000年]]に行ったファン投票による名馬選定企画「[[Dream Horses 2000|20世紀の名馬大投票]]」では、13442票を集め11位にランクインした<ref>『優駿』2000年10月号、p.21</ref>。結果についての講評会の席上では、[[吉沢譲治]]が「一番おどろいた」結果としてライスシャワーの順位を挙げ、「どうしてもこの馬が11位の馬とは思えないんです。もっともっと上位に来るべき馬がいると思います。これはちょっと納得できないですね」と述べた<ref name="yushun200010">『優駿』2000年10月号、p.115</ref>。これに対し聞き手の結城恵助は「非業の死を遂げたという影響がある」とし、他にも競走中の事故が原因で死亡した馬が数々ランクインしていることを取り、作家の[[吉川良]]はこれを「日本人的美徳」と評した<ref name="yushun200010" />。 |
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== 血統 == |
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=== 血統背景 === |
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リアルシャダイの産駒は当時長距離競走において抜群の成績を挙げており、ライスシャワーはその代表であった。また[[ブルードメアサイアー|母の父]]・[[マルゼンスキー]]も長距離に優れた適性を示した産駒を多数輩出し、ともにスピードを備えた長距離馬を出すことで知られた{{Efn|ライスシャワー優勝以前の菊花賞レコードはマルゼンスキー産駒の[[ホリスキー]]が保持していた。}}{{#tag:ref|1996年版のデータブックでは、リアルシャダイは「スピード・底力ある中・長距離タイプ」、マルゼンスキーは「パワフルなスピード型万能タイプ」とされている<ref>飯田正美『種牡馬血統データブック』西東社、1996年</ref>。|group="注釈"}}。 |
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母ライラックポイントは現役時代に通算39戦4勝<ref name="flin" />。[[1982年]][[優駿牝馬]]にも出走したが、17着と惨敗した。ライスシャワー以外のおもな産駒は1989年[[フラワーカップ]]2着のクリダリア(父[[ニチドウアラシ]]、2勝)、ライラックスマイル(父[[トニービン]]、4勝)がいる。前述2頭に加えて3頭の牝馬が繁殖入りしている。 |
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従兄に1990年[[京都大障害]](秋)を勝ったクリバロン、3代母クリノホシの[[競走馬の血統#競走馬の血縁関係|全兄]]に[[1952年]]のクラシック[[二冠馬]][[クリノハナ]]がいる<ref name="flin" />。 |
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こうした出来事の後、ライスシャワーの担当厩務員であった川島文夫は、「ライスシャワーで燃え尽きた」として1998年を限りに飯塚厩舎を退職し、競馬界から離れている<ref>『優駿』 p.55</ref>。 |
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== 血統表 == |
=== 血統表 === |
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{{競走馬血統表 |
{{競走馬血統表 |
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|name = ライスシャワー |
|name = ライスシャワー |
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|f = *[[リアルシャダイ]]<br />Real Shadai<br />1979 黒鹿毛<br />アメリカ |
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|inf = [[ロベルト系]]/[[アウトブリード]] |
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|m = ライラックポイント<br />1979 鹿毛<br />日本 |
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|f = *[[リアルシャダイ]]<br />Real Shadai 1979<br />黒鹿毛 アメリカ |
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| |
|ff = [[ロベルト (競走馬)|Roberto]]<br />1969 鹿毛<br />アメリカ |
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| |
|fm = Desert Vixen<br />1970 黒鹿毛<br />アメリカ |
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| |
|mf = [[マルゼンスキー]]<br />1974 鹿毛<br />日本 |
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| |
|mm = クリカツラ<br />1962 黒鹿毛<br />日本 |
||
|mm = クリカツラ 1962<br />黒鹿毛 日本 |
|||
|fff = [[ヘイルトゥリーズン|Hail to Reason]] |
|fff = [[ヘイルトゥリーズン|Hail to Reason]] |
||
|ffm = Bramalea |
|ffm = Bramalea |
||
|fmf = [[インリアリティ|In Reality]] |
|fmf = [[インリアリティ|In Reality]] |
||
|fmm = Desert Trial |
|fmm = Desert Trial |
||
|mff = [[ニジンスキー |
|mff = [[ニジンスキー (競走馬)|Nijinsky]] |
||
|mfm = *シル<br />Shill |
|mfm = *シル<br />Shill |
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|mmf = *ティエポロ<br />Tiepolo |
|mmf = *ティエポロ<br />Tiepolo |
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606行目: | 632行目: | ||
|mmmf = *[[プリメロ]] |
|mmmf = *[[プリメロ]] |
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|mmmm = オホヒカリ [[ファミリーナンバー|F-No.]][[1号族|1-C]] |
|mmmm = オホヒカリ [[ファミリーナンバー|F-No.]][[1号族|1-C]] |
||
|ref1 = <ref name="jbis-5代血統表">{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000224986/pedigree/ |title=血統情報:5代血統表|ライスシャワー |website=JBISサーチ |accessdate=2020-01-03}}</ref> |
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|mlin = [[ロベルト系]] |
|||
|ref2 = <ref>{{Cite web|和書|url=http://db.netkeiba.com/horse/ped/1989107699/ |title=ライスシャワーの血統表 |website=netkeiba.com |accessdate=2020-01-03}}</ref> |
|||
|flin = アイリッシュアイズ系 |
|||
|FN = [[1号族|1-c]] |
|||
|ref3 = <ref name="flin">『優駿』1993年6月号、p.143</ref><ref name="jbis-5代血統表" /> |
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|inbr = 5代内[[アウトブリード]] |
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|ref4 = <ref name="jbis-5代血統表" /> |
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|}} |
|}} |
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リアルシャダイの産駒は、当時長距離競走において抜群の成績を挙げており、ライスシャワーはその代表であった。また[[ブルードメアサイアー|母の父]]マルゼンスキーも長距離に優れた適性を示した産駒が数々おり、ともにスピードを備えた長距離馬を出すことで知られた<ref group="注">ライスシャワー優勝以前の菊花賞レコードはマルゼンスキー産駒の[[ホリスキー]]が保持していた。</ref><ref group="注">1996年版のデータブックでは、リアルシャダイは「スピード・底力ある中・長距離タイプ」、マルゼンスキーは「パワフルなスピード型万能タイプ」とされている。(飯田正美『種牡馬血統データブック』西東社、1996年)</ref>。 |
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母ライラックポイントは現役時代に通算39戦4勝。[[1982年]][[優駿牝馬]]にも出走したが、17着と惨敗した。ライスシャワー以外のおもな産駒は[[1989年]][[フラワーカップ]]2着のクリダリア(父[[ニチドウアラシ]]、2勝)、ライラックスマイル(父[[トニービン]]、4勝)がいる。前述2頭に加えて3頭の牝馬が繁殖入りしている。また、引退後に乗用馬となったラベンダーポイント(父[[ノーアテンション]]、2勝)は「ライスシャワーの兄」として[[テレビ朝日]]の[[さんまのナンでもダービー]]に出演した。 |
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従兄に[[1990年]][[京都大障害]](秋)を勝ったクリバロン、3代母クリノホシの[[競走馬の血統#競走馬の血縁関係|全兄]]に1952年のクラシック[[二冠馬]][[クリノハナ]]がいる。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
=== 注釈 === |
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{{Notelist}} |
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{{Reflist|group="注"}} |
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=== 出典 === |
=== 出典 === |
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<!-- 文献参照ページ --> |
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{{Reflist|2}} |
{{Reflist|2}} |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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<!-- 実際に参考にした文献一覧 --> |
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*杉本清『三冠に向かって視界よし - 杉本清・競馬名実況100選』(日本文芸社、1995年) |
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*柴田哲孝『ライスシャワー物語』( |
* [[柴田哲孝]]『ライスシャワー物語』([[経済界 (出版社)|経済界]]、1995年)ISBN 476678118X |
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* |
* 柴田哲孝『伝説の名馬 ライスシャワー物語―人のために生き、人のために死す』([[祥伝社]]、1998年)ISBN 4396310943 |
||
* 柴田哲孝『[[サンデーサイレンス]]の奇跡』([[ベストセラーズ]]、2008年)ISBN 4584130841 |
|||
*月本裕「ライスシャワー - 小さなヘビーステイヤー」(『サラブレッド101頭の死に方(文庫版)』〈徳間書店、1998年〉所収) |
|||
** 静かなる生涯 リアルシャダイ |
|||
*北野海人「ステキな悪役ライスシャワーの殉職」(『競馬名馬&名勝負読本』〈宝島社、1996年〉所収) |
|||
* [[杉本清]]『三冠へ向かって視界良し 杉本清・競馬名実況100選』([[日本文芸社]]、1995年)ISBN 4537024836 |
|||
*須田鷹雄「ライスシャワー伝説はこれでいいのか?」(『競馬名馬&名勝負読本』〈宝島社、1996年〉所収) |
|||
* 松永郁子『名馬は劇的に生きる』([[講談社]]、2000年)ISBN 4062102803 |
|||
* 的場均『夢無限』(流星社、2001年)ISBN 4947770031 |
|||
* 渡辺敬一郎『最強の名馬たち 「競馬名勝負」真実の舞台裏』(講談社、1999年)ISBN 4062097125 |
|||
* 渡辺敬一郎『強すぎた名馬たち』(講談社、2004年)ISBN 4062722402 |
|||
* 『競馬名馬&名勝負読本―ファンのファンによるファンのための年度代表馬’95』([[宝島社]]、1996年)ISBN 4796692533 |
|||
** 北野海人「ステキな悪役ライスシャワーの殉職」 |
|||
** 須田鷹雄「ライスシャワー伝説はこれでいいのか?」 |
|||
* [[アスキー (企業)|アスキーコミックス]]編集部(編)『ダビスタコミック 3R』(アスキー、1995年)ISBN 4756111718 |
|||
** 片山良三「ライスシャワーの選択」 |
|||
* [[コーエー|光栄]]出版部(編)『名馬列伝 ライスシャワー』(光栄、1995年)ISBN 4877193189 |
|||
** 渡辺敬一郎「ライスシャワー全成績」 |
|||
** 須田鷹雄「外野からの祝福」 |
|||
** 「的場騎手インタビュー」 |
|||
* 『サラブレッド101頭の死に方(文庫版)』([[徳間書店]]、1999年)ISBN 4198911851 |
|||
*『週刊100名馬Vol.31 サクラバクシンオー』([[産業経済新聞社]]、2001年) |
|||
** 「スプリングステークス」 |
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** 「[[クリスタルカップ]]」 |
|||
* 『優駿』1993年6月号([[日本中央競馬会]]、1993年) |
|||
* 『優駿』1995年9月号(日本中央競馬会、1995年) |
|||
** 辻谷秋人「全国10場『馬場』レポート 中山/京都」 |
|||
**「monthly Topics 生まれ故郷に戻って・・・」 |
|||
* 『優駿』1995年10月号(日本中央競馬会、1995年) |
|||
** 「オーナー、調教師が語るMemory of RICE SHOWER」 |
|||
**「monthly Topics 栄光の、悲劇の京都にも・・・」 |
|||
* 『優駿』1995年11月号(日本中央競馬会、1995年) |
|||
** 「優駿ロングインタビュー アラン・ムンロ騎手『ステッキと好奇心を携えて』」 |
|||
* 『優駿』2001年7月号(日本中央競馬会、2001年) |
|||
** [[井口民樹]]「サラブレッド・ヒーロー列伝 20世紀を駆けた名馬たち - ライスシャワー 淀に咲き、淀に散ったステイヤー」 |
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*2008年12月号 |
|||
**永井富美子「【馬を愛する人たちの宝物】ライスシャワー最後の蹄鉄(飯塚好次元調教師所有)」 |
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* 『[[Sports Graphic Number]]』378号([[文藝春秋]]、1995年) |
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** 阿部珠樹「[ナンバーノンフィクション]ライスシャワー 京都という運命(さだめ)に生きて。」 |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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* {{競走馬成績|netkeiba=1989107699|yahoo=1989107699|jbis=0000224986|racingpost=90002}} |
* {{競走馬成績|netkeiba=1989107699|yahoo=1989107699|jbis=0000224986|racingpost=90002/rice-shower}} |
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[[Category:現役中に死亡した競走馬]] |
[[Category:現役中に死亡した競走馬]] |
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[[Category:安楽死された競走馬]] |
2024年11月8日 (金) 11:31時点における最新版
この記事は「旧馬齢表記」が採用されており、国際的な表記法や2001年以降の日本国内の表記とは異なっています。 |
ライスシャワー | ||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1995年6月4日 京都競馬場にて | ||||||||||||
品種 | サラブレッド | |||||||||||
性別 | 牡 | |||||||||||
毛色 | 黒鹿毛 | |||||||||||
生誕 | 1989年3月5日 | |||||||||||
死没 | 1995年6月4日(6歳没・旧7歳) | |||||||||||
登録日 | 1991年4月4日 | |||||||||||
抹消日 | 1995年6月4日 | |||||||||||
父 | リアルシャダイ | |||||||||||
母 | ライラックポイント | |||||||||||
母の父 | マルゼンスキー | |||||||||||
生国 | 日本(北海道登別市) | |||||||||||
生産者 | ユートピア牧場 | |||||||||||
馬主 | 栗林英雄 | |||||||||||
調教師 | 飯塚好次(美浦) | |||||||||||
調教助手 | 宗像安二 | |||||||||||
厩務員 | 川島文夫 | |||||||||||
競走成績 | ||||||||||||
タイトル | JRA賞特別賞(1995年) | |||||||||||
生涯成績 | 25戦6勝 | |||||||||||
獲得賞金 | 7億2949万7200円 | |||||||||||
|
ライスシャワー(欧字名:Rice Shower[1]、1989年3月5日 - 1995年6月4日)は日本の競走馬。1992年の菊花賞、1993年・1995年の天皇賞(春)と中央競馬の長距離GI競走に優勝した。
菊花賞ではミホノブルボンのクラシック三冠制覇を、1993年の天皇賞(春)ではメジロマックイーンの同競走三連覇をそれぞれレコードタイム(当時)で阻止したことから「関東の刺客」「黒い刺客」「レコードブレイカー」の異名を取った[2]。
その後低迷期を迎えるも、1995年の天皇賞(春)で優勝し復活を果たす。しかし、続いて出走した宝塚記念の競走中に骨折、予後不良と診断され安楽死となった。同年、JRA賞特別賞を受賞[3]。主戦騎手は的場均。
生涯
[編集]生い立ち
[編集]1989年3月、栗林運輸会長の栗林英雄が北海道登別市に所有するユートピア牧場に生まれる。小柄ながら健康で、近隣の牧場から訪れた人々からも体躯のバランスの良さを高く評価され、購買の申し入れもあった[4]。1990年10月末には、育成調教を行うため千葉県にある分場・大東牧場に移動[5]。外見では「身体の硬い馬」という印象を与えていたが、担当者によれば騎乗してみると「雲の上に乗っているような気分だった」というほど柔らかかったと言う[6]。また、性質的に馴致に全く手が掛からない馬であり、育成の進捗は常に他馬よりも先んじていた[6]。
育成を終えたのち、1991年3月23日に茨城県美浦トレーニングセンターの飯塚好次の元へ入厩[7]。4月4日には「ライスシャワー」と馬名登録された[8]。これは結婚式のライスシャワーのように、本馬に触れる全ての人々に幸福が訪れるようにとの意味が込められていた[8]。異説として、秋篠宮文仁親王と紀子妃の結婚の時期であったため、祝賀の気持ちを込めたとも言われている[9]。飯塚はライスシャワーの印象について「男馬にしては体が小さい。それもあって大物感はなく、もちろんグレードレースでどうの、といったことは少しも考えなかった。ただ小さいけれど、いかにもバランスがいい体型なので、うまくいけば中堅クラスまではいくかな、と思いましたよ」と述べている[10][11]。担当厩務員となった川島文夫は、体の小ささが目について期待よりも不安の方が大きかったという[10][12]。
戦績
[編集]デビューから東京優駿まで
[編集]調教が積まれ、3歳戦が始まる7月の札幌開催にはデビューを迎えられる状態となった。しかし7月の初旬に熱発を起こして札幌での初戦は見送られ[13]、デビューは1ヶ月後、8月10日の新潟開催で迎えた。当日は飯塚厩舎所属であった若手騎手・水野貴広を鞍上に、2番人気に支持される。ここは先行策から最後の直線でダイイチリュモンをクビ差競り落とし、初戦勝利を挙げた。水野は後年このレースについて「調教の時から、この馬は走ると思った。ふつう新馬戦というのは、不安と期待が半々なんですが、この新馬レースだけは絶対に負けないと自信をもって乗りました」と振り返っている[12]。
重賞初出走となった2戦目の新潟3歳ステークスでは、水野が前日に騎乗停止処分を受けたことから急遽菅原泰夫が代役を務めた[14]。当日は3番人気に推されたが、スタートで遅れて後方からのレースとなり、馬群の内側に包まれたまま11着と敗れた[14]。レース後に菅原は「条件が悪すぎていいとこなしだったが、乗った印象としては短いところで忙しいレースをするより、長距離でじっくり勝負するタイプだと思った」とコメントした[12]。3戦目に格上挑戦で出走した芙蓉ステークスでは騎手が水野に戻ると、最後の直線入り口で先頭に立ってから、1番人気アララットサンとの競り合いを制し、2勝目を挙げた[15]。しかし、この競走後に右前脚の骨折が判明。全治3ヶ月と診断され、トレーニングセンター内での療養が図られた[16]。
翌1992年3月29日、4歳となったライスシャワーは皐月賞へのトライアル競走・スプリングステークスで復帰する。若手の水野では荷が重いとの判断から、ベテランの柴田政人が騎乗した[17]。的場均にも声が掛けられていたが、的場は先約があるとの理由でこれを断っている[18]。この競走でミホノブルボンと初対戦したが、同馬が2着に7馬身差をつけて勝利した後方で4着となった。柴田政人は「この勝負ではミホノブルボンとの差は決定的だが、この先体調も良くなり、レースの距離も伸びれば、かなりいいところまで行く馬だと思ったよ。ぼくはもう皐月賞、ダービーに乗る馬が決まっていたんで、この馬に乗るのは多分この1回だけと思ったけど、もう乗らないのが惜しい気持ちになったもの」と述懐している[17]。ちなみにこのレースにはサクラバクシンオーも出走しており、同馬はこのレースで12着と大敗を喫したことでクラシック出走を諦め[19]、後の主戦場となる短距離路線へ進んでいる[20]。
次走・クラシック初戦の皐月賞より、的場均が騎手を務めた。この競走では最終コーナー手前から失速し、ミホノブルボン優勝の後方で8着[18]、東京優駿(日本ダービー)へのトライアル競走・NHK杯でもやはり8着となった。的場はこの結果について「最初から過度の期待はしていなかった」とし、「このままじゃ本番(ダービー)も苦しいかなと、相手の実力を比較して考えました」と述べている[21]。5月31日に迎えた日本ダービーでは18頭立て16番人気の評価だったが、最終調教でライスシャワーの調子が上がっていることを感じた的場は「いい位置で粘りきることが、馬の力を引き出す一番の方法だと思って」逃げたミホノブルボンに続く2番手でレースを進めた[22]。最後の直線ではミホノブルボンとの差を詰めることができず、後方から追い込んできたマヤノペトリュース(田原成貴騎乗)に一旦は交わされたが、最後に失速した同馬を差し返す形となり2着で入線。ミホノブルボンとの馬連配当2万9580円という波乱の立役者となった。2着という結果について的場は「すべてがうまく運んで2着に入ったんだ」と思った程度であったが[23]、引退後に出版した自著において、「もし田原騎手が『ブルボンを負かすのは無理』と、照準をブルボンではなく僕らに向けて2着狙いできていたら、おそらく楽に捉えられてしまっただろうし、そういう意味では、この2着はラッキーであったかもしれない」としながらも、「日が経つにつれて『この馬で、あのミホノブルボンに、三冠最後の菊花賞で何とか立ち向かいたい』という気持ちが、僕にも強く湧いてきた」と述懐している[24]。
ミホノブルボンのクラシック三冠を阻止
[編集]夏は休養のため大東牧場で過ごし、7月下旬に帰厩[25]。9月24日にセントライト記念で復帰した。この日、的場は函館3歳ステークスに出走するインターマイウェイに騎乗するため函館競馬場にいた[26]。そのため、鞍上には代わって田中勝春を迎えてのレースとなった。レースはミホノブルボンの僚馬レガシーワールドが先行し、ライスシャワーは第3コーナーからこれを捉えに動いたが、アタマ差届かす2着となった[27]。ライスシャワーに騎乗せず函館に行った的場に飯塚は不快感を示し、競走後には騎手交替が取り沙汰されたが、これを知った的場が飯塚に謝罪したことで事態は収拾し、主戦騎手は的場のまま据え置かれた[28]。的場はこの件について「ライスシャワーはもう必要な教育がすべてできているので、ある意味では誰に手綱を譲っても安心である。しかし、若馬はそうはいかない。もしも何かのきっかけでレースが嫌いになったら、悪い癖がついたら……。能力がある馬でも、それを出し切れないまま終わってしまうかもしれない。どうしても僕らは心配性になってしまうし、先々を考えて選択したつもりだった」と述べている[28]。ただし、的場はセントライト記念を函館競馬場のテレビで見た際に「夏を超し、体が戻って逞しくなっているのがわかった。いい状態だな、望みはあるな」と思ったという[23]。
騎手が的場に戻った次走・京都新聞杯ではミホノブルボンと4度目の対戦となり、同馬に次ぐ2番人気に支持された。結果はミホノブルボンから1馬身半差の2着となり4連敗を喫したが、菊花賞はライスシャワーに向き、ミホノブルボンには不向きな3000メートルの長距離となることから的場・飯塚ともに本番での逆転に自信を深めたという[18]。的場はレース後にオーナーの栗林英雄の夫人・育子に対し「もし逃げ馬のキョウエイボーガンさえ出走してくれば、ライスシャワーでミホノブルボンを負かす可能性がある」と口にした[23]。的場は馬主たちと気軽に言葉を交わすようなことはほとんどなく、自分から親しげに話すようなこともなかったため、これを聞いた育子はこの的場の言葉と態度に驚いたという[29]。
11月8日の菊花賞当日は、史上5頭目、無敗馬としては史上2頭目のクラシック三冠達成が懸かったミホノブルボンが単勝オッズ1.5倍の1番人気に支持され、ライスシャワーは7.3倍と離れた2番人気であった。レースは、逃げ馬であったミホノブルボンに先んじてキョウエイボーガンが先頭を奪い、ライスシャワーは5番手という展開となる。2周目の最終コーナーで失速したキョウエイボーガンをミホノブルボンが交わして先頭に立ったが、直線半ばでライスシャワーがこれを差し切り、1馬身1/4差を付けて優勝。
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1992年 菊花賞 レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画 |
重賞初制覇をクラシックで果たした[注釈 1]。優勝タイム3分5秒0は当時の芝3000メートルにおける日本レコードタイムであった。またこの勝利は、ミホノブルボンの三冠を阻止する結果ともなった[注釈 2]。的場は競走後のインタビューにおいて「人馬ともども、なんとかミホノブルボンを負かしてやろうという気持ちでいたんですが、それが実って本当に嬉しいですね[30]」と語ったが、三冠達成への期待が高かったことから、競走後の場内には「拍手もなくて、ブーイングのような雰囲気」(栗林育子)、「今までにない、ちょっと何かおかしな雰囲気」(小島貞博)も漂った[31]。
菊花賞後は年末のグランプリ競走・有馬記念に出走し、前走のジャパンカップを優勝したトウカイテイオーに次ぐ2番人気に推された。しかし、的場が後方に位置したトウカイテイオーの不調に気付かずスパートが遅れる結果となり、8着に終わった[注釈 3]。的場はこの競走について「僕が乗った中で、ライスシャワーに対して最も失礼なレースだった」と述べている[32]。
メジロマックイーンの天皇賞(春)三連覇を阻止
[編集]古馬となった翌1993年は天皇賞(春)を目標に据え、目黒記念より始動。負担重量は59kgと過去最高であったが、的場は天皇賞制覇のために「自力で勝負できる"格"」が必要であると考え、相手を菊花賞3着馬のマチカネタンホイザに定め、これを自力で追走し差し切る競馬を試みた[33]。結果は2馬身半離されての2着であったが、調整途上でもあり陣営には納得のいく内容であった[33]。
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1993年 日経賞(GⅡ) レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画 |
続く日経賞では初めて1番人気の支持を受け、これに応えての勝利を挙げた。
次走はかねて目標としていた天皇賞(春)となり、同競走を2連覇していたメジロマックイーンを意識して徹底的に追い込む調教が行われた。しかし、あまりの厳しさから「馬を虐め過ぎではないか」との批判が上がり、「メジロマックイーンに勝つ前に馬が潰れる」と揶揄されたほどの過酷な内容であった[34]。しかしこの調教が功を奏し、天皇賞当日は前走から12kg減・東京優駿以来となる430kgと、限界まで絞り込んだ馬体での出走となった。このときのライスシャワーについて的場は「なにか猛獣というか、すごい生命体というか、そばに近づいたときから、火でも吹かれるんじゃないかって、そんな恐ろしいような雰囲気がありましたが、乗ったらもう、馬じゃない別の生き物でしたよ。これで下手に怒らせたら、指や足を食いちぎられるんじゃないかと思ったぐらい」[35]、「馬の気力が充実していたんで、多少過酷なことをしても大丈夫だと思った。マックイーンを負かすには、精神的にも肉体的にも研ぎ澄まさなければならない。今なら、それに耐えてくれるだろうって」[36]と述べ、また飯塚は「当日馬を見たとき、これは凄い、と思ったよ。走るという気力というか、迫力というか。見た目にはそれまでと特別変わっていないんだが、内から溢れ出るものがすごいんだ。このとき初めて、今日は勝つ、と確信したよ」と述べている[35]。またフジテレビ系列放送で実況を担当した杉本清は「この時のライスの身体は、まさに研ぎ澄まされた鋼のようでした」と述べている[37]。
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1993年 天皇賞(春)(GI) レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画 |
当日はメジロマックイーンに次ぐ2番人気に支持された。レースは前年の有馬記念を制したメジロパーマーが逃げ、メジロマックイーンはこれを見る一団の中に位置、さらにライスシャワーがその直後につけた。周回2周目の最終コーナーでは完全にこの3頭が抜け出したが、直線半ばでメジロマックイーンをライスシャワーが捉えると、ゴールでは2馬身半の差を付けて優勝。同馬の天皇賞(春)三連覇および鞍上・武豊の五連覇を阻止した。走破タイム3分17秒1は菊花賞に続き再びのレコードタイムであった。ゴールの直後、杉本清は「関東の刺客、ライスシャワー。天皇賞でも圧倒的な人気のメジロマックイーンを破りました」と実況[38]。この競走以降、ライスシャワーには「刺客」「レコードブレイカー」という異名も冠された[2][38]。
しかし、競走後に行われた勝利騎手インタビューにおいて、インタビューが的場に対して質問したのは「勝利の感想」ではなく「マックイーンの三連覇を阻止した感想」であった[36]。的場はライスシャワーを悪役・敵役とする見方に不快感を抱いていたといい、自著の中で次のように述べている。
確かに僕らはミホノブルボンの三冠を阻止し、メジロマックイーンの天皇賞三連覇を阻んだ。アイドルホースたちが歴史的偉業を達成する瞬間を邪魔してばかり、そんな印象なのだろうか。しかし、競走馬と勝負師が勝ちにいっているのだ。そこには悪役も何も、ないはずである。
(中略)メジロマックイーンのときもそうだった。《関東の刺客》とか《マーク屋》とか言われるのは、決して気持ちのいいものではない。「こっちの気も知らないで……」と僕などは思ってしまう。
僕らは勝つために、最大限の努力をしている。その努力には、さまざまな思いや戦略が、たとえひとつでも違っていたら勝利を勝ち取ることなどできないほどの緊密さ、複雑さで絡み合っている。そのあたりをこそ見てほしいのだ。それこそが勝負の面白さ、レースの面白さでもあると僕は思う。
アイドルだとか悪役だとか、馬たちを擬人化しては、ドラマ仕立てで眺めるのも競馬のひとつの楽しみ方なのかも知れないが、そうした見方では決して感じ取れない、ずっと奥の深い、面白い世界が、そこには広がっているはずである[39]。
スランプ
[編集]天皇賞後は放牧に出され、9月初頭に帰厩[40]。秋緒戦のオールカマーでは1番人気に支持されたが、道中で後続を大きく離して逃げたツインターボを捉えられず、勝った同馬から6馬身弱の差で3着となる[41]。春秋連覇を目指した天皇賞では再度1番人気となったが6着と敗れ、以後ジャパンカップ、有馬記念も14着、8着と大敗した。飯塚は当時の状態について「見た目は普通、というか、春とほとんど変わらないデキなんだが……。どこか足りないというか、本当じゃない。調教も走るし、内臓だってまるで悪いところはない。そうなると、精神的な原因ということを考えたが、それがなにかわからない。そういう状態が、このシーズンずっと続いた」と述べている[42]。
翌1994年の初戦は、関西の競馬場が合っているのではないかという飯塚の考えにより、西下して阪神競馬場で行われた京都記念に臨んだ[43]。結果は前年の菊花賞馬ビワハヤヒデの5着となったが、的場によると「直線の動きは一瞬あれっ、というところがあり、もうひと追いすれば伸びる予感があった。長いスランプだったけど、ここらあたりがトンネルの出口かとも思った」という[43]。京都記念の後には状態の向上が見られ始め[44]、関東に戻っての日経賞では最後の直線で先頭に立ち、差し込んできたステージチャンプにハナ差の2着と、復活の兆しを見せた。
この後は連覇が懸かる天皇賞(春)を目標に、関西馬の調教拠点である栗東トレーニングセンターに入り調教が積まれたが、天皇賞の前週である4月16日の調教中、3歳時に骨折した右前管骨に再び故障を発生する[45]。3歳時とは異なり競走生命を危ぶまれる重傷で、この時点で引退が検討され、種牡馬となる道が模索された[46]。しかし長距離競走以外の実績に乏しかった点や、小柄な馬体が敬遠され受け入れ先が見つからず、現役続行が決定する[46]。その後はユートピア牧場に移動して療養。復帰は翌春になると見込まれていたが、予想より回復が早く、10月末に帰厩を果たした[47]。
2ヶ月後には復帰戦の有馬記念を迎えた。この年史上5頭目のクラシック三冠を達成したナリタブライアン、当時最強牝馬と評されていたヒシアマゾンに続く3着となった。しかし1995年の年明け2戦ではいずれも1番人気に推されたが、それぞれ60kg、59kgという斤量も響き[48]、いずれも6着と敗れた。
2年ぶりの復活
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1995年 天皇賞(春)(GI) レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画 |
2年振りの出走を決定した天皇賞(春)では、前哨戦の阪神大賞典を圧勝していたナリタブライアンが故障により回避。主力馬不在の中、4番人気の評価であった。逃げ馬が不在であったことからレースはスローペースで推移。ライスシャワーは2周目の向正面で行く気を見せたことから、的場は「この瞬間の馬のやる気にのって、その勢いでゴールまで粘りこむという、一種の奇襲戦法をとれば、僅かだが勝つチャンスがある」と考え[49]、第3コーナーから800メートルのロングスパートを仕掛けた。最終コーナーで馬群から抜け出して先頭に立ち、最後の直線で逃げこみを図ったが、最後は追い込んできたステージチャンプと内外馬体が重なった状態で入線した。この時ステージチャンプに騎乗していた蛯名正義がガッツポーズを見せ、一方関西テレビでこのレースを実況した杉本清はゴール後すぐ「やったやったライスシャワーです!」「メジロマックイーンもミホノブルボンも喜んでいる事でしょう」とライスシャワーの勝利を伝えた[50]。写真判定の結果、ハナ差ライスシャワーが先着しており、1993年の同競走以来728日振りの勝利で復活を果たした[注釈 4]。着差は約10cmという僅差であった(競走詳細は第111回天皇賞を参照のこと)。
かつて福永洋一がニホンピロムーテーを駆り、似た作戦で菊花賞を制した前例はある[51]ものの、京都競馬場の長距離戦で第3コーナーから仕掛けることはセオリーを無視した騎乗とされており、的場はスパートを実行するまでゴール直前で誰かに差される光景を思い浮かべ、言い訳の言葉も考えていたという[49]。的場は後に「あの騎乗は、もしライスシャワーが絶好調だったら絶対に選ばなかった乗り方だ。でもそのまま無難にのっていたら、おそらく着がいいところだったと思う。勝つ確率が、あの乗り方なら少しは高くなる。その一点に賭けて、僕らは勝ちに行ったのだ」と述べている[52]。
宝塚記念で故障、非業の死
[編集]天皇賞の後は疲れが見られたことから、放牧に出ることも考えられていた[53]。しかし宝塚記念のファン投票で1位に選出されたこと、またこの競走が当年1月17日に発生した兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)の影響で例年開催の阪神競馬場が使用できず、得意の京都競馬場での代替開催となったこと、そして天皇賞に続いてこのレースもナリタブライアンが出走しないことが決まったことで[54]、出走が決定する[55]。他に近走の重量からは望外の軽量となる56kgで出走できることもあり[53]、さらに種牡馬入りが再度検討された際、やはり中距離競走での実績が必須であると結論付けられた事情もあった[56]。宝塚記念2日後の6月6日には、種牡馬入りへの支援を申し出たJRAの担当者がライスシャワーを見に来る予定となっていた[57]。
当日は3番人気に支持され、レースでは後方を進んだ。的場は最初のコーナーを回った時点で様子がおかしいことを感じ取り「今日は勝つどころじゃない、慎重にまわってこようと」考えたという[58]。第3コーナーでライスシャワーは自らスピードを上げたが、直後に前のめりになり、いったん身体を起こした後に転倒[58]。左第一指関節開放脱臼、粉砕骨折を発症しており、診療所まで運ぶことができず、その場に幔幕が張られた中で安楽死の措置が執られた[56]。的場は打撲で済んでいたことから、その最期を看取り[59]、亡骸を馬場から運ぶ馬運車に深く礼をしたまま見送ったシーンが映像に残されている。担当厩務員の川島は、手綱を握りしめたまま泣いていたという[59]。
死後
[編集]死から1か月後の7月3日、故郷・ユートピア牧場には墓が建てられた[61]。表には「ライスシャワー ここに眠る」との文字が刻まれ、裏には戦績が記された[61]。この年度のJRA賞において「特別賞」が贈られた[3]。また京都競馬場の職員たちの発案により、翌1996年9月7日には京都競馬場内にライスシャワーの遺髪が収められた記念碑が建立された[62][60]。また、育成場であった大東牧場には栗林英雄・育子夫人の手により建立された記念碑がある[63]。他にも、茨城県の美浦トレーニングセンターにはライスシャワーを管理していた飯塚好次の手による記念碑があり、栃木県大田原市のくろばねスプリングスには供養塔が建立されている。
亡くなった馬が使用した蹄鉄は、通常トレーニングセンターの馬頭観音に納められるが、飯塚はライスシャワーの蹄鉄に限ってそれをすることができなかった[64]。最期、宝塚記念で着用した蹄鉄は、飯塚がその日の京都競馬場の土を付着した状態で保管しているという[64]。「この馬は特に思い入れが深くて、(馬頭観音に)持って行く気になれなくて…。いつか自分のお棺に一緒に入れてもらおうかな、と(笑)[64]」と述べている。
2010年の菊花賞当日に行われた「京都クラウンプレミアム」の競走名は、歴代菊花賞優勝馬を対象としたファン投票の結果「ライスシャワーメモリアル」となり[65]、当日にはライスシャワーへのメッセージが募集され、それらは競走後にユートピア牧場のライスシャワーの墓前に供えられた[66]。
2021年に京都競馬場が行った、ファン投票によりこれまでに作られていない、または過去に製作実績があっても現在販売されていない競走馬のアイドルホースを制作するアイドルホースオーディションでは4位となった[67][68]。
競走成績
[編集]以下の内容はnetkeiba.comの情報[69]に基づく。
年月日 | 競馬場 | 競走名 | 格 | 頭 数 |
枠 番 |
馬 番 |
オッズ(人気) | 着順 | 騎手 | 斤量 [kg] |
距離(状態) | タイム (上り3F) |
着差 | 1着馬(2着馬) | 馬体重 [kg] | |
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1991. | 8.10 | 新潟 | 3歳新馬 | 10 | 7 | 8 | 3.1 (2人) | 1着 | 水野貴広 | ▲50 | 芝1000m(良) | 0:58.6(34.8) | -0.1 | (ダイイチリユモン) | 440 | |
9. 1 | 新潟 | 新潟3歳S | GIII | 14 | 1 | 1 | 4.3 (3人) | 11着 | 菅原泰夫 | 53 | 芝1200m(良) | 1:11.7(37.0) | 1.0 | ユートジェーン | 440 | |
9.21 | 中山 | 芙蓉S | OP | 8 | 8 | 8 | 3.7 (2人) | 1着 | 水野貴広 | 53 | 芝1600m(重) | 1:36.1(36.7) | -0.0 | (アララットサン) | 444 | |
1992. | 3.29 | 中山 | スプリングS | GII | 14 | 3 | 3 | 68.9(12人) | 4着 | 柴田政人 | 56 | 芝1800m(重) | 1:51.7(38.5) | 1.6 | ミホノブルボン | 450 |
4.19 | 中山 | 皐月賞 | GI | 17 | 5 | 9 | 59.0(11人) | 8着 | 的場均 | 57 | 芝2000m(良) | 2:02.8(38.0) | 1.4 | ミホノブルボン | 438 | |
5.10 | 東京 | NHK杯 | GII | 16 | 8 | 15 | 25.0 (9人) | 8着 | 的場均 | 56 | 芝2000m(重) | 2:03.4(36.3) | 0.6 | ナリタタイセイ | 434 | |
5.31 | 東京 | 東京優駿 | GI | 18 | 7 | 13 | 114.1(16人) | 2着 | 的場均 | 57 | 芝2400m(稍) | 2:28.5(37.6) | 0.7 | ミホノブルボン | 430 | |
9.27 | 中山 | セントライト記念 | GII | 13 | 8 | 14 | 6.5 (3人) | 2着 | 田中勝春 | 56 | 芝2200m(良) | 2:13.6(36.9) | 0.0 | レガシーワールド | 442 | |
10.18 | 京都 | 京都新聞杯 | GII | 10 | 1 | 1 | 7.1 (2人) | 2着 | 的場均 | 57 | 芝2200m(良) | 2:12.2(35.9) | 0.2 | ミホノブルボン | 438 | |
11. 8 | 京都 | 菊花賞 | GI | 18 | 4 | 8 | 7.3 (2人) | 1着 | 的場均 | 57 | 芝3000m(良) | R3:05.0(34.6) | -0.2 | (ミホノブルボン) | 438 | |
12.27 | 中山 | 有馬記念 | GI | 16 | 8 | 16 | 4.9 (2人) | 8着 | 的場均 | 55 | 芝2500m(良) | 2:34.1(35.1) | 0.6 | メジロパーマー | 446 | |
1993. | 2.21 | 東京 | 目黒記念 | GII | 12 | 5 | 5 | 3.5 (2人) | 2着 | 的場均 | 59 | 芝2500m(良) | 2:32.8(36.6) | 0.4 | マチカネタンホイザ | 448 |
3.21 | 中山 | 日経賞 | GII | 12 | 8 | 11 | 1.8 (1人) | 1着 | 的場均 | 58 | 芝2500m(良) | 2:35.8(34.9) | -0.4 | (イタリアンカラー) | 442 | |
4.25 | 京都 | 天皇賞(春) | GI | 15 | 2 | 3 | 5.2 (2人) | 1着 | 的場均 | 58 | 芝3200m(良) | R3:17.1(36.3) | -0.4 | (メジロマックイーン) | 430 | |
9.19 | 中山 | オールカマー | GIII | 13 | 6 | 8 | 1.8 (1人) | 3着 | 的場均 | 57 | 芝2200m(良) | 2:13.6(35.0) | 1.0 | ツインターボ | 436 | |
10.31 | 東京 | 天皇賞(秋) | GI | 17 | 1 | 1 | 3.0 (1人) | 6着 | 的場均 | 58 | 芝2000m(良) | 1:59.6(36.8) | 0.7 | ヤマニンゼファー | 444 | |
11.28 | 東京 | ジャパンC | GI | 16 | 1 | 1 | 12.8 (7人) | 14着 | 的場均 | 57 | 芝2400m(良) | 2:25.9(37.4) | 1.5 | レガシーワールド | 444 | |
12.26 | 中山 | 有馬記念 | GI | 14 | 4 | 6 | 10.9 (5人) | 8着 | 的場均 | 57 | 芝2500m(良) | 2:32.1(35.9) | 1.2 | トウカイテイオー | 446 | |
1994. | 2.13 | 阪神 | 京都記念 | GII | 10 | 4 | 4 | 6.6 (2人) | 5着 | 的場均 | 60 | 芝2200m(稍) | 2:18.3(38.3) | 1.5 | ビワハヤヒデ | 444 |
3.20 | 中山 | 日経賞 | GII | 9 | 6 | 6 | 6.6 (2人) | 2着 | 的場均 | 59 | 芝2500m(良) | 2:32.8(36.8) | 0.0 | ステージチャンプ | 442 | |
12.25 | 中山 | 有馬記念 | GI | 13 | 6 | 10 | 17.7 (4人) | 3着 | 的場均 | 56 | 芝2500m(良) | 2:33.1(35.3) | 0.9 | ナリタブライアン | 452 | |
1995. | 2.12 | 京都 | 京都記念 | GII | 8 | 8 | 8 | 2.7 (1人) | 6着 | 的場均 | 60 | 芝2200m(良) | 2:12.5(35.1) | 0.7 | ワコーチカコ | 450 |
3.19 | 中山 | 日経賞 | GII | 9 | 1 | 1 | 1.9 (1人) | 6着 | 的場均 | 59 | 芝2500m(不) | 2:42.3(38.5) | 1.3 | インターライナー | 446 | |
4.23 | 京都 | 天皇賞(春) | GI | 18 | 2 | 3 | 5.8 (4人) | 1着 | 的場均 | 58 | 芝3200m(重) | 3:19.9(36.0) | -0.0 | (ステージチャンプ) | 442 | |
6. 4 | 京都 | 宝塚記念 | GI | 17 | 8 | 16 | 6.0 (3人) | 中止 | 的場均 | 56 | 芝2200m(稍) | 競走中止 | ダンツシアトル | 438 |
- タイム欄のRはレコード勝ちを示す。
- 斤量▲は3kg減量を表す。
競走馬としての特徴
[編集]優勝した菊花賞・天皇賞(春)はどちらも3000メートル以上の距離だったため、純然たるステイヤー(長距離向きの馬)であるとされる。競馬評論家の大川慶次郎は「ヘビーステイヤー」と呼び[70]、競走番組が年々短・中距離偏重に向かっていたことから「最後のステイヤー」とも[71][72]呼ばれた。飯塚好次は5歳秋以降の不振について、「ひとつの問題としては、やはり出るレースの距離が合わなかった」と述べている[55]。一方、的場均は「あの馬が3000じゃないと走らないとかいうのは、人が勝手に言ってること[73]」、「2000メートルのレースでも、もし万全の状態で出ていれば十分勝負になるのがこの馬[74]」と述べている。
また、日本中央競馬会が発行したポスター「ヒーロー列伝」のキャッチコピーが「淀を愛した、孤高のステイヤー[注釈 5]」とされているように、京都競馬場を得意とする馬とも見られていた。京都競馬場におけるライスシャワーの優位性について、的場は次のように述べている。
京都競馬場は「ライスシャワーに合っていた」というより、他の馬だと御すだけで苦労するところを、この馬は問題を起こさないぶん有利になるという感じだった。
京都の場合、上り、下りやアンジュレーションをどうこなすのかが全体的な問題になってくる。普通の馬の場合は、上りや下りになると力んでしまうので、ここでは力んじゃいけないんだぞ、と手綱を通じてなだめてやらなくてはならない。
でも、ライスシャワーの場合はそうした必要がまったくない。こちらが指示しないことは、絶対にやらないのだ。要らないところで力んだりしないし、騎手が、
「ここでは、これだけ走ってくれ」
と、伝えた分だけしか走らないという、まったくもって器用な芸当を難なくこなしてみせるのだ。
余計なことは一切しない。それこそ、手綱で指示しなくてもこちらが思うだけで通じる、すばらしく賢い馬だった[75]。
エピソード
[編集]「高速馬場」への批判
[編集]宝塚記念施行前の西日本の主場開催は、先述の通りこの年に発生した阪神・淡路大震災の影響で例年通りの阪神競馬場での開催のスケジュールを消化することが出来ず、本来阪神で開催される3・4月の競馬(桜花賞などを含む)も京都競馬場で代替開催を行っており、同年1月28日以降5月14日まで毎週、京都競馬場で開催を行う形となっていた。そこに同年6月4・5日に「震災復興支援競走」という形で震災発生で中止された同年1月21・22日分の代替開催を組み込んだことで、宝塚記念を当初の予定より1週前倒ししたうえで6月4日に行われることとなった。京都での連続開催が終了した後は一旦は中京競馬場での開催となったものの、宝塚記念の実施日まで2週間しか間が空いておらず、連続開催による馬場の傷みが進行していた。2週間で3つのコースレコードが出ており、非常に馬場が固く締まった状態にあることがその理由だと当時は考えられていた[注釈 6]。前日のメインレースの阪急杯でもバンブーユージンが故障し、安楽死処分となっていた。また、これ以前からJRA主催競馬場の馬場は固すぎるのではないかという批判があった。こうした理由から、ライスシャワーの骨折は、タイムを縮めることを目的として固くしすぎた「高速馬場」に原因があると考えた者たちから、レース後に非難の声が上がった[注釈 7][独自研究?]。その一方で故障と馬場との因果関係は不明であり、短絡的な批判であるとの意見もあった。作家の月本裕はこうした人々を「単純な論者」と呼び、「(JRAは)恐らく世界でもトップのレベルで、競走馬の故障と馬場の関係を研究している。(中略)故障を避けるために努力を続けているJRAの力が及ばず起きてしまう事故もないとは言えない。事故の原因をしっかりと探ることは必要であるが、必要以上にセンティメンタルになっても仕方がないということは確かだ」と述べている[77]。また、日本中央競馬会の広報誌『優駿』で京都競馬場がレポートされた際には、記事を執筆した辻谷秋人がライスシャワーの事故にも触れ、「最近はライスシャワーに限らず、馬が故障するとすぐに馬場状態が云々される傾向がある。(中略)馬場は口を利かないし、とりあえず馬場のせいにしておけば傷つく人がいない(馬場の担当者はいい気持ちではないだろうが)ということもあるだろう。もちろん馬場(あるいは馬場を酷使せざるを得ない現状)にいくらかの原因があるのは否定できないだろうが、なんでもかんでも馬場のせいにして事足れりでは、逆に競馬の進歩を阻害することになるだろう」と述べた[78]。
また同誌上でイギリス人騎手アラン・ムンロに行われたインタビューでは、記者から「日本は馬場が硬すぎる」などの批判が国内であることを聞かされたムンロが「馬場のことについて言えば、日本の馬場が他の国に比べてとくに硬いというようなことはありません。アメリカなどはどこへ行っても硬いし、だから骨折なんて日常茶飯事です。もちろんイギリスにだって硬い馬場はあります。だからそういうことを言う人がいるのなら、その人はたぶん馬場のこととか、世界の競馬のこととかをよく分かっていないのだと思います」と述べた[79]。
「ライスシャワーブーム」と批判
[編集]天皇賞での復活劇から高まりつつあったライスシャワーの人気は、死を契機として頂点に達し、京都競馬場の記念碑建立等の一因となった。一方、この現象についてはライスシャワーの死が過剰に美化されているとの意見が存在しており、ライターの北野海人は「ライスがああやって悲惨に死んだことだけを美化して、『ライスは永遠に不滅です』なんて取って付けたように英雄視するのはやめようよ」「偉大な『ヒール伝説』の本質を忘れて、レース中に死んだというごく日常の事象だけを取り上げてブルボンやマックイーン以上に正統な英雄として仕立て上げる。これはライスシャワーという馬の本質からかけ離れた無意味な崇拝でしかない」と述べている[80]。
また、須田鷹雄は執筆各誌で不快感を露わにし、その理由として「それは要するに、利己的な目的のために過ぎないからだ。悲劇に酔うためにライスシャワーを利用した。そう断定してもいいと思う。だって、元気で走っている頃、ファンはどれだけライスシャワーに思い入れを抱いていただろうか?『ブーム』には明らかに基盤になるものがない」と述べた[81]。また、一部ファンからの非難が厩舎関係者に及んだため、須田はこうしたファンに対し「(ファンの感傷に)本物の関係者を巻き込むな」と批判した[82]。さらに「ライスシャワー報道のひとつひとつが、驚くほど似たテイストで統一されているのはどうしてなのか」「経済動物論のように、本来競馬を支えている基本理念みたいなものが罪悪視されている状況はどうなのか」とマスコミも同時に批判し、一連の「ライスシャワーブーム」を「全体主義的」と評した[82]。記者の片山良三は、「志半ばで散ったライスシャワーを『かわいそう』と感じるのはファンなら当然のことで、競馬雑誌のファンの声欄にそうした意見が溢れるのは健全な流れ。しかし、ジャーナリズムに携わる人間までがセンチメンタリズムに流されるのはいかがなものだろう。『君のことは一生忘れない』式の文章が氾濫したことしたこと。そんな"敬語"を使えば馬のことを親身に思っていると錯覚させるようなテクニックは、プロの文章家のものとしては見苦しく感じられた[83]」とマスメディアを批判した。
日本中央競馬会が2000年に行ったファン投票による名馬選定企画「20世紀の名馬大投票」では、13442票を集め11位にランクインした[84]。結果についての講評会の席上では、吉沢譲治が「一番おどろいた」結果としてライスシャワーの順位を挙げ、「どうしてもこの馬が11位の馬とは思えないんです。もっともっと上位に来るべき馬がいると思います。これはちょっと納得できないですね」と述べた[85]。これに対し聞き手の結城恵助は「非業の死を遂げたという影響がある」とし、他にも競走中の事故が原因で死亡した馬が数々ランクインしていることを取り、作家の吉川良はこれを「日本人的美徳」と評した[85]。
血統
[編集]血統背景
[編集]リアルシャダイの産駒は当時長距離競走において抜群の成績を挙げており、ライスシャワーはその代表であった。また母の父・マルゼンスキーも長距離に優れた適性を示した産駒を多数輩出し、ともにスピードを備えた長距離馬を出すことで知られた[注釈 8][注釈 9]。
母ライラックポイントは現役時代に通算39戦4勝[87]。1982年優駿牝馬にも出走したが、17着と惨敗した。ライスシャワー以外のおもな産駒は1989年フラワーカップ2着のクリダリア(父ニチドウアラシ、2勝)、ライラックスマイル(父トニービン、4勝)がいる。前述2頭に加えて3頭の牝馬が繁殖入りしている。
従兄に1990年京都大障害(秋)を勝ったクリバロン、3代母クリノホシの全兄に1952年のクラシック二冠馬クリノハナがいる[87]。
血統表
[編集]ライスシャワーの血統 | (血統表の出典)[§ 1] | |||
父系 | ロベルト系 |
[§ 2] | ||
父 *リアルシャダイ Real Shadai 1979 黒鹿毛 アメリカ |
父の父 Roberto1969 鹿毛 アメリカ |
Hail to Reason | Turn-to | |
Nothirdchance | ||||
Bramalea | Nashua | |||
Rarelea | ||||
父の母 Desert Vixen1970 黒鹿毛 アメリカ |
In Reality | Intentionally | ||
My Dear Girl | ||||
Desert Trial | Moslem Chief | |||
Scotch Verdict | ||||
母 ライラックポイント 1979 鹿毛 日本 |
マルゼンスキー 1974 鹿毛 日本 |
Nijinsky | Northern Dancer | |
Flaming Page | ||||
*シル Shill |
Buckpasser | |||
Quill | ||||
母の母 クリカツラ1962 黒鹿毛 日本 |
*ティエポロ Tiepolo |
Blue Peter | ||
Trevisana | ||||
クリノホシ | *プリメロ | |||
オホヒカリ F-No.1-C | ||||
母系(F-No.) | アイリッシュアイズ系(FN:1-c) | [§ 3] | ||
5代内の近親交配 | 5代内アウトブリード | [§ 4] | ||
出典 |
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 的場均は菊花賞初優勝、管理調教師の飯塚はこれがGI競走の初優勝となった。また、馬主の栗林は1943年の第6回競走をクリフジで制している父・友二に続く、父子二代の菊花賞優勝オーナーとなった。
- ^ ミホノブルボンはこの競走後に骨膜炎を発症して休養。休養中にも骨折するなど故障が相次ぎ、1年以上に及ぶ療養生活の末に競走に復帰することなく引退している。
- ^ トウカイテイオーは11着。
- ^ 3着にもハギノリアルキングが入り、リアルシャダイ産駒が1着から3着までを独占した
- ^ 淀=京都競馬場の俗称。競馬場が所在する地域の名称に由来する。
- ^ なお、タイムと馬場の固さの相関関係については議論があり、騎手の藤岡佑介は2021年に「時計が速い=馬場が硬いという方程式はまったく成り立たなくなっている」と述べている[76]。
- ^ 優勝したダンツシアトル、3着だったエアダブリン、14着のネーハイシーザー、最下位でゴールしたナリタタイシンの4頭がこの宝塚記念から少し経った後に屈腱炎を発症し、ダンツシアトルとナリタタイシンは引退に追い込まれているが、その原因がこの「高速馬場」で激走したのが原因だったのではないかとの指摘がある。
- ^ ライスシャワー優勝以前の菊花賞レコードはマルゼンスキー産駒のホリスキーが保持していた。
- ^ 1996年版のデータブックでは、リアルシャダイは「スピード・底力ある中・長距離タイプ」、マルゼンスキーは「パワフルなスピード型万能タイプ」とされている[86]。
出典
[編集]- ^ “ライスシャワー”. JBISサーチ. 2021年2月26日閲覧。
- ^ a b “平成を駆けた名馬たち~前編~”. Moment. 2021年6月27日閲覧。
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- ^ “ライスシャワーの血統表”. netkeiba.com. 2020年1月3日閲覧。
参考文献
[編集]- 柴田哲孝『ライスシャワー物語』(経済界、1995年)ISBN 476678118X
- 柴田哲孝『伝説の名馬 ライスシャワー物語―人のために生き、人のために死す』(祥伝社、1998年)ISBN 4396310943
- 柴田哲孝『サンデーサイレンスの奇跡』(ベストセラーズ、2008年)ISBN 4584130841
- 静かなる生涯 リアルシャダイ
- 杉本清『三冠へ向かって視界良し 杉本清・競馬名実況100選』(日本文芸社、1995年)ISBN 4537024836
- 松永郁子『名馬は劇的に生きる』(講談社、2000年)ISBN 4062102803
- 的場均『夢無限』(流星社、2001年)ISBN 4947770031
- 渡辺敬一郎『最強の名馬たち 「競馬名勝負」真実の舞台裏』(講談社、1999年)ISBN 4062097125
- 渡辺敬一郎『強すぎた名馬たち』(講談社、2004年)ISBN 4062722402
- 『競馬名馬&名勝負読本―ファンのファンによるファンのための年度代表馬’95』(宝島社、1996年)ISBN 4796692533
- 北野海人「ステキな悪役ライスシャワーの殉職」
- 須田鷹雄「ライスシャワー伝説はこれでいいのか?」
- アスキーコミックス編集部(編)『ダビスタコミック 3R』(アスキー、1995年)ISBN 4756111718
- 片山良三「ライスシャワーの選択」
- 光栄出版部(編)『名馬列伝 ライスシャワー』(光栄、1995年)ISBN 4877193189
- 渡辺敬一郎「ライスシャワー全成績」
- 須田鷹雄「外野からの祝福」
- 「的場騎手インタビュー」
- 『サラブレッド101頭の死に方(文庫版)』(徳間書店、1999年)ISBN 4198911851
- 『週刊100名馬Vol.31 サクラバクシンオー』(産業経済新聞社、2001年)
- 「スプリングステークス」
- 「クリスタルカップ」
- 『優駿』1993年6月号(日本中央競馬会、1993年)
- 『優駿』1995年9月号(日本中央競馬会、1995年)
- 辻谷秋人「全国10場『馬場』レポート 中山/京都」
- 「monthly Topics 生まれ故郷に戻って・・・」
- 『優駿』1995年10月号(日本中央競馬会、1995年)
- 「オーナー、調教師が語るMemory of RICE SHOWER」
- 「monthly Topics 栄光の、悲劇の京都にも・・・」
- 『優駿』1995年11月号(日本中央競馬会、1995年)
- 「優駿ロングインタビュー アラン・ムンロ騎手『ステッキと好奇心を携えて』」
- 『優駿』2001年7月号(日本中央競馬会、2001年)
- 井口民樹「サラブレッド・ヒーロー列伝 20世紀を駆けた名馬たち - ライスシャワー 淀に咲き、淀に散ったステイヤー」
- 2008年12月号
- 永井富美子「【馬を愛する人たちの宝物】ライスシャワー最後の蹄鉄(飯塚好次元調教師所有)」
- 『Sports Graphic Number』378号(文藝春秋、1995年)
- 阿部珠樹「[ナンバーノンフィクション]ライスシャワー 京都という運命(さだめ)に生きて。」
外部リンク
[編集]- 競走馬成績と情報 netkeiba、スポーツナビ、JBISサーチ、Racing Post
- ライスシャワー - 競走馬のふるさと案内所