コンテンツにスキップ

「高辻正己」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: リクルートをパイプリンクにする - log
6行目: 6行目:
1972年7月、佐藤首相の退陣とともに内閣法制局長官を辞任。[[1973年]]から[[1980年]]まで[[最高裁判所裁判官|最高裁判所判事]]を務めた。[[1980年]]、[[勲一等旭日大綬章]]受章。1980年から[[国家公安委員会]]委員を務める。
1972年7月、佐藤首相の退陣とともに内閣法制局長官を辞任。[[1973年]]から[[1980年]]まで[[最高裁判所裁判官|最高裁判所判事]]を務めた。[[1980年]]、[[勲一等旭日大綬章]]受章。1980年から[[国家公安委員会]]委員を務める。


[[1988年]][[12月]]、[[リクルート事件]]が騒がれていた頃に[[リクルートホールディングス]]からの献金問題で[[長谷川峻]]法務大臣が辞任に追い込まれると、法律に詳しくリクルートとは無縁な点が評価され、残り2年の任期を残して国家公安委員会委員を辞任して後任の[[法務大臣]]に就任。リクルート事件の捜査終結を見届けると、[[1989年]]6月に竹下内閣総辞職とともに離任。
[[1988年]][[12月]]、[[リクルート事件]]が騒がれていた頃に[[リクルートホールディングス|リクルート]]からの献金問題で[[長谷川峻]]法務大臣が辞任に追い込まれると、法律に詳しくリクルートとは無縁な点が評価され、残り2年の任期を残して国家公安委員会委員を辞任して後任の[[法務大臣]]に就任。リクルート事件の捜査終結を見届けると、[[1989年]]6月に竹下内閣総辞職とともに離任。


1997年5月20日、[[敗血症]]のため[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]の病院で死去。[[享年]]88(87歳没)。叙・[[従二位]]、賜・[[賜杯|銀杯一組]]。
1997年5月20日、[[敗血症]]のため[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]の病院で死去。[[享年]]88(87歳没)。叙・[[従二位]]、賜・[[賜杯|銀杯一組]]。

2019年9月13日 (金) 16:05時点における版

高辻 正己(たかつじ まさみ、1910年1月19日 - 1997年5月20日)は、日本官僚裁判官竹下改造内閣法務大臣を務めた。甥に外交官青木盛久がいる。

来歴・人物

静岡県沼津出身。東京府立四中旧制三高を経て、東京帝国大学法学部卒業。内務省入省。戦後、地方自治庁部長などを経て、法制局次長時代に自衛隊を「必要最小限の戦力」と解釈する。1964年から1972年にかけて第1次佐藤内閣第3次佐藤内閣まで内閣法制局長官を務め、沖縄返還の時は法律面から佐藤内閣を支えた。

1972年7月、佐藤首相の退陣とともに内閣法制局長官を辞任。1973年から1980年まで最高裁判所判事を務めた。1980年勲一等旭日大綬章受章。1980年から国家公安委員会委員を務める。

1988年12月リクルート事件が騒がれていた頃にリクルートからの献金問題で長谷川峻法務大臣が辞任に追い込まれると、法律に詳しくリクルートとは無縁な点が評価され、残り2年の任期を残して国家公安委員会委員を辞任して後任の法務大臣に就任。リクルート事件の捜査終結を見届けると、1989年6月に竹下内閣総辞職とともに離任。

1997年5月20日、敗血症のため東京都港区の病院で死去。享年88(87歳没)。叙・従二位、賜・銀杯一組

著書

  • 『立法における常識』学陽書房 1954
  • 『憲法講説』良書普及会 1960 地方行政全書
  • 『時の舞 高辻正己・雑録集』ぎょうせい (製作) 1988

共編著

関連項目

公職
先代
長谷川峻
日本の旗 法務大臣
第48代:1988 - 1989
次代
谷川和穗
先代
林修三
日本の旗 内閣法制局長官
第50代:1964 - 1972
次代
吉國一郎