「藤沢市母娘ら5人殺害事件」の版間の差分
m →外部リンク: デフォルトソート修正 |
|||
366行目: | 366行目: | ||
F・Y両加害者とも家の中に上がり、Fの母親は息子の左手首の傷を不審がりつつも[[マーキュロクロム液]]を塗って包帯を巻くなどして手当てしたが<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.84"/>、Fはその傷を「人を殺してきた。母娘3人を殺した」と答えた<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.85">{{Harvtxt|遠藤允|1983|p=85}}</ref>。これを聞いて就寝していたFの父親が起き出し、両親ともFに警察への自首を勧めたがFは「絶対に自首しない。逃げる」と答え、なおも説得されると「警察に通報したら家族を皆殺しにするぞ」と言い放った<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.85"/>。F・Y両加害者は40分近くF宅に滞在している中でFの母親に「鈴木」の偽名でタクシーを呼ばせていったん茅ケ崎駅に向かい、Fは犯行前に同駅前駐輪場に駐輪してあった自動二輪車を自宅に持ち帰ると衣服を着替え、犯行時に着用していた衣服をボストンバッグに詰め込み、大阪方面への逃走を開始した<ref group="書籍">{{Harvtxt|遠藤允|1983|pp=85-86}}</ref>{{Refnest|group="注"|遠藤は「Fが茅ケ崎駅まで自動二輪車を取りに行っている間だけでも、既に犯行を把握していた両親が警察に通報するだけの時間は十分にあったはずだ」と指摘している<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.251-252"/>。}}。事件前の1982年5月12日に藤沢市内でひったくりをして得た現金66万円のうちこの時点で約半分の30万円ほどが残っていたため、それらの現金と同じくひったくりで得たハンドバッグを持参してタクシーで東海道線[[小田原駅]]へ向かった<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.86">{{Harvtxt|遠藤允|1983|p=86}}</ref>。F・Y両加害者は小田原駅で23時48分発・[[沼津駅]]行き普通電車に乗車し、沼津駅到着から約1時間後には後続の[[ムーンライトながら|大垣駅行き夜行列車]]・さらに[[大垣駅]]で同駅始発[[西明石駅]]行き普通電車を乗り継いだが<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.86"/>、その際にFは夜行列車内でYが母娘殺害事件の際に何もできずに立ちすくんでいたことを非難しており<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.87-88">{{Harvtxt|遠藤允|1983|pp=87-88}}</ref>、Yがその事実に負い目を感じていた一方、Fはこの時点から「Yが警察に自首するかもしれない」と疑心を抱いていた<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.91">{{Harvtxt|遠藤允|1983|p=91}}</ref>。 |
F・Y両加害者とも家の中に上がり、Fの母親は息子の左手首の傷を不審がりつつも[[マーキュロクロム液]]を塗って包帯を巻くなどして手当てしたが<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.84"/>、Fはその傷を「人を殺してきた。母娘3人を殺した」と答えた<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.85">{{Harvtxt|遠藤允|1983|p=85}}</ref>。これを聞いて就寝していたFの父親が起き出し、両親ともFに警察への自首を勧めたがFは「絶対に自首しない。逃げる」と答え、なおも説得されると「警察に通報したら家族を皆殺しにするぞ」と言い放った<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.85"/>。F・Y両加害者は40分近くF宅に滞在している中でFの母親に「鈴木」の偽名でタクシーを呼ばせていったん茅ケ崎駅に向かい、Fは犯行前に同駅前駐輪場に駐輪してあった自動二輪車を自宅に持ち帰ると衣服を着替え、犯行時に着用していた衣服をボストンバッグに詰め込み、大阪方面への逃走を開始した<ref group="書籍">{{Harvtxt|遠藤允|1983|pp=85-86}}</ref>{{Refnest|group="注"|遠藤は「Fが茅ケ崎駅まで自動二輪車を取りに行っている間だけでも、既に犯行を把握していた両親が警察に通報するだけの時間は十分にあったはずだ」と指摘している<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.251-252"/>。}}。事件前の1982年5月12日に藤沢市内でひったくりをして得た現金66万円のうちこの時点で約半分の30万円ほどが残っていたため、それらの現金と同じくひったくりで得たハンドバッグを持参してタクシーで東海道線[[小田原駅]]へ向かった<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.86">{{Harvtxt|遠藤允|1983|p=86}}</ref>。F・Y両加害者は小田原駅で23時48分発・[[沼津駅]]行き普通電車に乗車し、沼津駅到着から約1時間後には後続の[[ムーンライトながら|大垣駅行き夜行列車]]・さらに[[大垣駅]]で同駅始発[[西明石駅]]行き普通電車を乗り継いだが<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.86"/>、その際にFは夜行列車内でYが母娘殺害事件の際に何もできずに立ちすくんでいたことを非難しており<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.87-88">{{Harvtxt|遠藤允|1983|pp=87-88}}</ref>、Yがその事実に負い目を感じていた一方、Fはこの時点から「Yが警察に自首するかもしれない」と疑心を抱いていた<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.91">{{Harvtxt|遠藤允|1983|p=91}}</ref>。 |
||
翌日(1982年5月28日)9時57分に[[大阪駅]]へ到着したFは当初「犯行時の衣服を大阪駅周辺のコインランドリーで洗濯してから遺棄しよう」と考えていたが、同駅周辺は[[大阪梅田駅 (阪急)|阪急]]・[[大阪梅田駅 (阪神)|阪神]]・[[梅田駅 ( |
翌日(1982年5月28日)9時57分に[[大阪駅]]へ到着したFは当初「犯行時の衣服を大阪駅周辺のコインランドリーで洗濯してから遺棄しよう」と考えていたが、同駅周辺は[[大阪梅田駅 (阪急)|阪急]]・[[大阪梅田駅 (阪神)|阪神]]・[[梅田駅 (Osaka Metro)|大阪市営地下鉄(現:大阪市高速電気軌道)]]などの駅が集中して人通りも多かったため、Fは目標としていたコインランドリーが見つからないことにいら立ち「より馴染み深い兵庫県尼崎市内へに移動しよう」と決意し<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.86"/>、Yとともに[[阪神電気鉄道]][[阪神本線|本線]]・梅田駅から阪神電車に乗車して13時ごろに阪神[[尼崎駅 (阪神)|尼崎駅]]へ到着し、駅北口から[[尼崎中央・三和・出屋敷商店街]]に入ると商店街内のコインランドリーで衣服を洗濯して犯行当時の靴とともにごみ収集所へ投棄した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.87">{{Harvtxt|遠藤允|1983|p=87}}</ref>。その上でFは商店街付近の洋品店で「自分用の黒いジャージ上下」「Y用の近ズボン・青半袖シャツ」を購入したが、Yは「藤沢事件の際に何もできなかった負い目」からか退店時にFに「Fにばかり金を使わせて申し訳ない」と述べた上で「俺は恐喝で金を稼ぐ」と提案し、尼崎駅から北約200mの国道2号沿い商店街で刃渡り13.5cmのくり小刀を購入した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.87-88"/>。その後2人は大阪に戻って夕食を摂り、Fは夕食後に自宅に「逃亡開始から初の電話」をして実母から「刑事が自宅にやってきて『山田等』と名乗った男を探している」と伝えられ、行き先を「(大阪とは逆方向の)[[北海道]]に行っている」と伝えて電話を切った<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.88">{{Harvtxt|遠藤允|1983|p=88}}</ref>。 |
||
F・Y両加害者は20時12分[[新大阪駅]]発23時45分[[博多駅]]着の[[山陽新幹線]]「ひかり29号」に乗車して[[九州]]方面へ逃亡し、同夜は博多駅筑紫口(東口)付近のビジネスホテルに宿泊した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.88"/>。1982年5月29日 - 6月4日にかけてF・Y両加害者は[[福岡県]][[福岡市]]内に宿泊して{{Refnest|group="注"|『読売新聞』神奈川県版では宿泊先が「福岡県[[北九州市]]内」と報道されているが<ref group="新聞" name="読売新聞1982-09-08"/>、遠藤の著書では「福岡市内」となっている<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.89-90"/>。}}[[博多]]・[[中洲]]・[[天神 (福岡市)|天神]]など同市内の繁華街・[[熊本県]][[熊本市]]などをうろつきながら過ごしていたが<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.89-90">{{Harvtxt|遠藤允|1983|pp=89-90}}</ref>、その間に「一家殺害の時に全く度胸のなかったYが警察に[[自首]]するのではないか」と不安になったことことから<ref group="裁判" name="判例タイムズ1160"/>、投宿先のホテルで「Yが信用できる人物か試そう」という意図のもと、財布をポケットに入れたまま狸寝入りをした<ref group="新聞" name="神奈川新聞1982-12-01 冒頭陳述要旨"/>。このようにFがYに誘いの隙を見せたところ<ref group="裁判" name="判例タイムズ1160"/>、YはFが寝入る隙を突いてFから財布を盗もうとしたため、Fがくり小刀をYに突き付けたところ、Yは「Fは怖い。一緒にいるのが嫌になった」とこぼした<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.91-92"/>。この言葉を聞いたFは「Yは裏切り者だから口封じのために殺すしかない」と殺意を抱き<ref group="裁判" name="判例タイムズ1160"/><ref group="書籍" name="遠藤1983 p.91-92">{{Harvtxt|遠藤允|1983|pp=91-92}}</ref>、その殺害場所・機会を狙うために「無目的のようなぶらつき」を繰り返していた<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.89-90"/>。Fはその準備として凶器を購入するため、1982年5月29日には「Yが尼崎で購入したくり小刀の予備の凶器を得よう」とYに「恐喝で金を稼ぐんだよな。俺も手伝う」という口実で声をかけ、福岡市[[博多区]][[川端 (福岡市)|上川端町]]の金物店でくり小刀・バールを購入させた上に「恐喝の際に指紋を残さない目的」という口実でドライブ用の革手袋2足を購入した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.92">{{Harvtxt|遠藤允|1983|p=92}}</ref>。 |
F・Y両加害者は20時12分[[新大阪駅]]発23時45分[[博多駅]]着の[[山陽新幹線]]「ひかり29号」に乗車して[[九州]]方面へ逃亡し、同夜は博多駅筑紫口(東口)付近のビジネスホテルに宿泊した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.88"/>。1982年5月29日 - 6月4日にかけてF・Y両加害者は[[福岡県]][[福岡市]]内に宿泊して{{Refnest|group="注"|『読売新聞』神奈川県版では宿泊先が「福岡県[[北九州市]]内」と報道されているが<ref group="新聞" name="読売新聞1982-09-08"/>、遠藤の著書では「福岡市内」となっている<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.89-90"/>。}}[[博多]]・[[中洲]]・[[天神 (福岡市)|天神]]など同市内の繁華街・[[熊本県]][[熊本市]]などをうろつきながら過ごしていたが<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.89-90">{{Harvtxt|遠藤允|1983|pp=89-90}}</ref>、その間に「一家殺害の時に全く度胸のなかったYが警察に[[自首]]するのではないか」と不安になったことことから<ref group="裁判" name="判例タイムズ1160"/>、投宿先のホテルで「Yが信用できる人物か試そう」という意図のもと、財布をポケットに入れたまま狸寝入りをした<ref group="新聞" name="神奈川新聞1982-12-01 冒頭陳述要旨"/>。このようにFがYに誘いの隙を見せたところ<ref group="裁判" name="判例タイムズ1160"/>、YはFが寝入る隙を突いてFから財布を盗もうとしたため、Fがくり小刀をYに突き付けたところ、Yは「Fは怖い。一緒にいるのが嫌になった」とこぼした<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.91-92"/>。この言葉を聞いたFは「Yは裏切り者だから口封じのために殺すしかない」と殺意を抱き<ref group="裁判" name="判例タイムズ1160"/><ref group="書籍" name="遠藤1983 p.91-92">{{Harvtxt|遠藤允|1983|pp=91-92}}</ref>、その殺害場所・機会を狙うために「無目的のようなぶらつき」を繰り返していた<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.89-90"/>。Fはその準備として凶器を購入するため、1982年5月29日には「Yが尼崎で購入したくり小刀の予備の凶器を得よう」とYに「恐喝で金を稼ぐんだよな。俺も手伝う」という口実で声をかけ、福岡市[[博多区]][[川端 (福岡市)|上川端町]]の金物店でくり小刀・バールを購入させた上に「恐喝の際に指紋を残さない目的」という口実でドライブ用の革手袋2足を購入した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.92">{{Harvtxt|遠藤允|1983|p=92}}</ref>。 |
2020年3月23日 (月) 17:08時点における版
この項目には暴力的または猟奇的な記述・表現が含まれています。 |
藤沢市母娘ら5人殺害事件 | |
---|---|
正式名称 | 警察庁広域重要指定112号事件[新聞 1][新聞 2] |
場所 | |
座標 | |
日付 | |
概要 |
男Fが約半年間に計5人を刺殺した3件の連続殺人事件。 |
攻撃手段 | 刃物で刺す |
攻撃側人数 | 1人(2件目のみ+1人で計2人) |
武器 | 鋭利な刃物(くり小刀・文化包丁など)[新聞 6] |
死亡者 | 計5人(女子高生一家の女性3人+一家殺害事件前後に加害者Fと共謀して犯罪行為を行っていた共犯者男性2人) |
損害 | 被害総額計321万円あまりの窃盗[裁判 1] |
犯人 | 男F(逮捕当時21歳) |
動機 |
被害者たちに対し「裏切られた」と一方的な逆恨みを抱いたこと[新聞 7]
|
関与者 | 2件目の共犯者少年Y(死亡当時19歳・3件目でFに殺害される。被疑者死亡のまま神奈川県警から横浜地検へ書類送検・不起訴処分[新聞 8]) |
対処 | 神奈川県警が被疑者Fを逮捕[新聞 9][新聞 1]・横浜地検が被告人Fを起訴[新聞 10] |
謝罪 | 公判で被告人Fは身勝手な不規則発言・Vサインを掲げるなどの奇行を繰り返した。第41回公判にて犯行事実を認め反省の言葉を述べるとともにそれまで否認・黙秘し続けていたことを謝罪したが[書籍 1]、被害者・遺族への正式な謝罪の言葉は最期まで述べなかった[新聞 11][新聞 12]。 |
刑事訴訟 | 死刑(執行済み) |
影響 | 被害者Bが通学していた藤沢市立明治中学校で複数の在校生が心的外傷後ストレス障害(PTSD)を引き起こすなど、被害者の関係者に強い衝撃を与えた[新聞 13]。 |
管轄 | 横浜地方検察庁[新聞 10]・東京高等検察庁 |
藤沢市母娘ら5人殺害事件(ふじさわしおやこら ごにんさつがいじけん)は、1981年(昭和56年)10月6日 - 1982年(昭和57年)6月5日の約8か月間に神奈川県・兵庫県にて男女5人が相次いで殺害された3件の連続殺人事件[新聞 1]。
加害者の男F(逮捕当時21歳)は神奈川県藤沢市辻堂神台二丁目の民家にて1982年(昭和57年)5月27日夜、自身との交際を拒絶していた住人の女子高生A(事件当時16歳)とその家族(妹B・母親C)の計3人を刃物で刺殺したほか、同事件前後には神奈川県横浜市・兵庫県尼崎市でそれぞれ自身と金銭トラブルとなっていた元少年院仲間の男性2人(うち後者事件の被害者は藤沢事件でFと共犯)を刺殺した[新聞 1]。加害者Fが逮捕された直後、警察庁は一連の連続殺人事件を「警察庁広域重要指定112号事件」に指定した[新聞 2]。
概要
本事件は以下4つの事件からなる[裁判 1]。
- 1981年10月6日未明、神奈川県横浜市戸塚区中田町[注 1]で窃盗の共犯者だった元少年院仲間の男性Xを殺害した事件(殺人罪)[裁判 1] - 以下「X事件」もしくは「横浜事件」
- 1982年5月27日夜、神奈川県藤沢市内で交際に応じなかった女子高生Aとその妹B・母親Cの母娘3人を殺害した事件(殺人罪)[裁判 1] - 以下「藤沢事件」もしくは「母娘殺害事件」・「母娘3人殺害事件」
- 2.の事件後となる1982年6月5日夜、同事件の共犯者だった元少年院仲間の少年Yを兵庫県尼崎市内で殺害した事件(殺人罪)[裁判 1] - 以下「Y事件」もしくは「尼崎事件」
- 単独もしくは1件目殺人被害者Xと共謀して10回にわたり窃盗を繰り返し、被害総額321万円あまりを出した事件(窃盗罪)[裁判 1]
母娘3人を含め5人が殺害された一連の連続殺人事件は当時「第二次世界大戦後に神奈川県内を舞台とした殺人事件としては最悪の死者数」で[新聞 14][注 2]、いずれも上告審判決で「被害者の言動により被告人Fがその心情を害されることが多少はあったが、それでも被告人Fが殺害を決意・実行していく過程は誠に短絡的かつ身勝手なもので動機に酌量の余地はない。いずれの殺害行為もあらかじめ殺傷能力の高い鋭利な刃物を凶器として複数準備して計画的に行われており、攻撃の態様も確定的殺意の下に各被害者の身体の枢要部を刃物で滅多刺しにする執拗・残虐な犯行だった」と事実認定された[裁判 2]。
一連の事件はいずれも共通した動機として「裏切り者は消す」という論理を有していたことから捜査指揮に当たった神奈川県警捜査一課長(当時)・岩下孝之が「もう二度と手がけたくない事件だ」と漏らしたほか[新聞 15]、日本社会に大きな衝撃を与えた[新聞 16]。
- 中でも2件目の母娘3人殺害事件は被害者2人が多感な中高生だったことから最も衝撃的なものとして受け取られ[新聞 13]、地元・神奈川県の県紙『神奈川新聞』(神奈川新聞社)は1982年6月27日の朝刊記事で「10年に1度あるかないかの大事件」「横須賀線電車爆破事件(1968年・警察庁広域重要指定107号事件)以来の大事件」と言及したほか[新聞 17]、同年12月の同紙編集局幹部による投票でも「県内10大ニュース」のトップとして本事件が選出された[書籍 3]。
- また『読売新聞』(読売新聞社)も神奈川県内の各地方版で「年間トップニュース」の読者投票を行った結果、読者からのはがき2,540通中2,532通(99.3%)が本事件を挙げたもので[書籍 3]、本事件は『神奈川新聞』と同様に「県内10大ニュース」で1位に選出されたほか[新聞 18]、担当記者もコラム「相武言」にて本事件を「殺害方法・手段・動機とも鬼気迫る犯罪で、初公判でFが見せたVサインは常人の言動とは思えなかった」と回想した[新聞 19]。
被告人として起訴された加害者Fは1988年(昭和63年)に第一審・横浜地裁で死刑判決を受けて東京高裁に控訴したが、控訴審の最中(1991年)に不安定な精神状態で控訴を取り下げたため、その効力を巡り最高裁までもつれ込んだ「深刻な争い」が生じた[裁判 1]。このことから本事件の刑事訴訟は第一審判決から2000年(平成12年)の控訴審判決までに12年近く、2004年(平成16年)の上告審判決で死刑が確定するまでに計16年を要する異例の長期裁判となった[裁判 1][新聞 20]。
加害者・元死刑囚F
F・S 加害者・元死刑囚 | |
---|---|
個人情報 | |
生誕 |
1960年8月21日[書籍 4][書籍 5] 日本・神奈川県茅ヶ崎市[書籍 5](同県平塚市育ち) |
死没 |
2007年12月7日(47歳没)[書籍 4][新聞 21] 日本・東京都葛飾区小菅(東京拘置所)[書籍 4][新聞 21] |
死因 | 絞首刑 |
殺人 | |
犠牲者数 | 5人 |
犯行期間 | 1981年(昭和56年)10月6日–1982年(昭和57年)6月5日 |
国 | 日本 |
逮捕日 |
1982年6月14日(別件の脅迫容疑) 1982年6月24日(母娘殺害事件における殺人容疑で逮捕) |
司法上処分 | |
刑罰 | 死刑(横浜地方裁判所) |
有罪判決 | 殺人罪・窃盗罪 |
判決 | 死刑(横浜地方裁判所) |
国籍 | 日本 |
---|---|
別名 | 山田等(2件目の被害者一家と接触した際に名乗った偽名)[書籍 6] |
出身校 |
|
職業 | 新聞配達員・工場従業員など(事件当時は無職) |
刑罰 | 死刑(絞首刑・執行済み) |
動機 | 被害者たちへの一方的な逆恨み[新聞 7] |
有罪判決 |
横浜地裁・死刑判決(1988年3月10日)[新聞 22] 東京高裁・上記判決支持(2000年1月25日)[新聞 23] 最高裁第三小法廷・上記判決支持(2004年6月15日、同年6月25日付確定)[新聞 24][新聞 25] |
本事件の加害者である男F・S(姓名のイニシャル、以下文中では姓イニシャルを用い「F」と表記)は1960年(昭和35年)8月21日に生まれ[書籍 4][書籍 5]、2007年(平成19年)12月7日に法務省(法務大臣:鳩山邦夫)の発した死刑執行命令により死刑囚として収監されていた東京拘置所で死刑を執行された(47歳没)[書籍 4][新聞 21]。逮捕当時は神奈川県平塚市上平塚11番地4号在住・元工場従業員だった[新聞 26]。
幼少期の生い立ち
Fは神奈川県茅ヶ崎市内の病院で生まれ[書籍 5]、平塚市内で育った[書籍 7]。幼少期こそ両親から愛情を注がれて育ったが、幼稚園卒園直前に妹が誕生すると両親は妹ばかりを溺愛するようになり[書籍 8]、3,4歳ごろに近所の窓ガラスを割った際には母親から自転車の荷台に乗せられて自宅周辺を連れ回され、ヒステリックに問い詰められるような姿が目撃されていた[新聞 27]。1967年(昭和42年)4月に平塚市立富士見小学校に入学したものの[書籍 9]、家では母親により「しつけ」と称して手足を縛られ押し入れに閉じ込められたり[書籍 10]、たばこの火を手に押し付けられたりするなど折檻を受けることがあった一方[新聞 28]、学校やその近くの店で万引き・喧嘩などの非行を繰り返していたため[書籍 10]、当時の担任教諭たちが「Fは母親からまともな愛情を注がれていないのではないか?」と感じていた[注 3]。
Fは幼少期から姓の読みをもじった蔑称で侮辱されていた[注 4]ことから「大きくなったら徹底した悪になりひねくれてやる」と考えていた一方で「強い者には弱く、弱い者には強い態度に出る傾向」が強く[新聞 6]、小学校4年生までは女子児童・下級生の男子児童をいじめていた[新聞 28]。しかし小学4年生の際に同級生女児の頬を鉛筆で突いて怪我を負わせる事件を起こしたことで同級生から決定的に疎外されるようになり[書籍 12][注 5]、5年生進級以降はFからいじめられていた子供たちがグループを組んでFに報復するようになったため[新聞 28]、一転して同級生から使い走りにされるなどいじめを受けたり、忘れ物・宿題忘れが多くなり母親に「自殺したい」と漏らしていた[書籍 14]。また富士見小学校卒業時の記念文集には小学校時代の思い出として「5年生の夏休みには祖母の家の近くに親類がある友達と一緒に自転車で湘南の海・川へ遊びに行った」と書き記していたが、そこに級友の名前はなかったことから『神奈川新聞』では「名前も知らない少年との触れ合いが小学校6年間で唯一の財産だったのか?」と取り上げられた[新聞 28]。
富士見小学校卒業後の1973年(昭和48年)4月には平塚市立春日野中学校に入学し[書籍 15]、中学時代には新聞配達のアルバイトを始めた一方[書籍 16]、入学直後に同級生の間で「Fを殺す会」が結成されるなど深刻ないじめを受けるようになった[書籍 17][注 6]、中学1年生の時には新聞配達のアルバイトで稼いだ金で果物を買い妹と一緒に食べるなど心優しい兄としての一面も有していたが[新聞 27]、このころには母親が腎臓病で寝込んだ一方[書籍 18]、2年生のころには[新聞 27]両親からピアノを買い与えられるなど両親から溺愛されていた妹への嫉妬心から母親・妹に対し家庭内暴力を振るうようになったほか[書籍 18]、周囲を見返すために空手道場に通い始めたが、周囲から危険視されたことなどからわずか3,4か月程度で通わなくなった[書籍 17]。中学2・3年時代は学校・家庭内とも居場所がない状態で、学業成績は全教科が1評価だったほか[書籍 19]、中学卒業直前には学級の不良少年たちの番長格と大喧嘩をして相手を流血させる事件を起こした[書籍 20]。
このようなFの凶暴性は「子供のいじめ・いたずら」の域を超えたほどのもので、それが年齢を重ねるにつれてエスカレートしたためにかえって周囲の者の結束を招き、Fは一層孤立することとなった[新聞 6]。平塚市立春日野中学校の卒業文集では「将来はお金持ちになって御殿を建てているだろう」と書き記していたほか[書籍 21]、寄せ書きに平仮名で「ぼくのことをわすれないでほしい」とも書き記していたが[書籍 22][雑誌 1]、事件後も小学校時代の同級生の間では極めて印象の薄い存在となっていた[書籍 23]。
非行の連続
1976年(昭和51年)3月に中学校を卒業後、学校から紹介を受け学校近くの工場に旋盤工として就職したがわずか3か月未満で退職し[書籍 24]、それ以降は同年だけでも「父親の勤務していた鉄工会社の下請け会社・平塚市内の新聞販売店・ラーメン店・別の新聞販売店」[注 7]、その翌年となる1977年(昭和52年)も「中郡大磯町内の新聞販売店・鎌倉市内の新聞販売店・厚木市の工場」と短期間で職を転々としたほか[書籍 24]、1977年8月26日には厚木市内で駐車中のオートバイを盗んで乗り回していたところを交番の警察官に発見・補導され保護観察処分となり、これに併せて窃盗6件の余罪も発覚した[新聞 29]。その一方で1977年8月には交通事故で負傷して茅ヶ崎市内の外科病院に入院したが、その際に同じく交通事故で負傷してその病院に入院していた中学生の少女と親しくなり連絡先を教えている[書籍 25]。
1977年10月、中学卒業からわずか1年半で職を9つにわたり転々としていたF(当時17歳2か月)は平塚市内の事務所に侵入して現金2,000円を盗んだほか、それに前後して中学時代の先輩たちとともに平塚市内の高校へ侵入して現金・音響機器を盗んだ[書籍 26]。Fはその後、事務所荒らし(窃盗容疑)で平塚警察署(神奈川県警察)に逮捕され(1度目の逮捕)、少年審判で家庭裁判所から「在宅試験観察」の処分を受けた[書籍 26][注 8]。当時、事務所荒らし事件で逮捕されたFを取り調べた平塚署員は遠藤の取材に対し「Fは落ち着きがあまり見られなかったが割と素直な感じだった」と証言したが、Fは家裁の「在宅試験観察」処分決定から半月後、両親に無断で横浜市戸塚区内の新聞販売店にて住み込みで働き始め[注 9]、数か月ほどで退職した[書籍 28]。
1978年(昭和53年)3月にはオートバイで通行人を撥ねる交通事故を起こしたほか、同年6月には東京都品川区大崎で[新聞 29]中学時代の先輩とともにひったくりをしたため、同月30日に警視庁三田警察署に逮捕され(2度目の逮捕)「中等少年院送致」の処分を受けた[書籍 28]。1978年8月2日から新潟少年学院(新潟県長岡市)に入所したFは院内で起こした暴力事件により計2回・通算3か月近く単独室に収容され、同院に塀・柵がなかったことから1978年12月27日には脱走を試みるも失敗し、翌1979年(昭和54年)3月には自宅に近い小田原中等少年院(神奈川県小田原市)に移送された[注 10][書籍 29]。小田原少年院では同室の少年たちからいじめを受けつつ「強そうな相手からどんなに馬鹿にされてもじっと耐える」生活を送り[書籍 29]、目立った問題行動を起こすことなく半年の在院期間を過ごしていた一方[書籍 30][注 11]、後に「横浜事件(X事件)」「尼崎事件(Y事件)」で殺害した少年X・Yと知り合い親しくなっていた[書籍 29]。
しかし新潟少年学院在院中に家族は遠距離を理由に一度もFとの面会に訪れていなかったほか[新聞 31]、小田原少年院在院中も家族の面会は実母が2回訪れただけで、仮退院が近づいた際に保護司がFの実家を訪ねて身元引受を説得しても両親は拒否するなどしたため、仮退院(1979年10月5日)は申請 - 許可までに4か月近くを要した[書籍 30]。家族に引き受けてもらえず自宅に帰れなかったFは川崎市内の施設に身を寄せたが、わずか10日間で姿を消すと同市内の耐火施設会社に就職し、同年秋には東京都葛飾区の清掃工場・関西電力尼崎第三発電所(尼崎市)にて大型焼却炉の建設・修理を請け負ったが[書籍 31][注 12]、後者の工事では後に共犯者Yを殺害した尼崎市内に6日間滞在していたため[書籍 31]、尼崎には「関西で最も強い土地勘」があった[書籍 32]。
その後は食品会社・高座郡寒川町内の日本国有鉄道(国鉄、現在のJR東海)東海道新幹線の保守工事下請け会社でも勤務したが同様に長続きせず[書籍 31]、以降は再び定職を得ずバイクを乗り回す生活を送っていた[書籍 33]。1980年(昭和55年)3月9日に生活態度を父親から注意されて逆上したFは止めに入ろうとした妹を殴り、近くにあったバールを手に取り大暴れしたが、息子からの家庭内暴力に辟易し続けていた父が身の危険を感じて平塚署に110番通報した[書籍 33]。この時、父親が駆け付けた署員へごみ箱に捨ててあった女性用ハンドバッグを「息子がひったくりで持ち帰ったものだ」と提示したため、Fは窃盗容疑で平塚署に逮捕された、同年4月9日には久里浜特別少年院(神奈川県横須賀市、横須賀刑務所に隣接)へ送致されることが決定された[書籍 33]。約1か月の観察期間の結果、Fは「集団生活に馴染めず人とトラブルを起こしやすい」と判断されたため退院までの大半期間を単独室で過ごしたが[書籍 33][注 13]、約1年間にわたり個別担任を務めFとコミュニケーション・カウンセリングに努めた教官(Fの小・中学校の先輩)はFの人物像を「親思いの少年」と評していた[書籍 34]。Fは同院在院時代、成績不良に加え何度かふて腐れて教官に反抗的な態度を取ることがあったため、原則として退院措置が取られる20歳を過ぎても6か月間の収容継続措置となったが[新聞 30]、退院前には「今度退院してから事件を起こせば刑務所に入る。前科が付いてしまうのでここで本当に反省して悪いことを繰り返さないよう心掛けたい」「退院後は新聞販売店に就職していつかは自分で新聞店を経営したい」と感想文を書いていた[新聞 30]。しかし退院後に凶悪事件を相次いで起こしたことから、同院在院時を回顧した『神奈川新聞』の記事では「この少年院時代の更生への誓いはうわべだけだったのか?」と言及された[新聞 30]。
1981年(昭和56年)5月8日、Fは成年してから約9か月後と異例の遅さで久里浜少年院を退院したが、この時も以前と同様に両親から引き受けを拒否されたため横浜市内の更生施設に身を寄せることとなり[書籍 35]、このころには「どでかい完全犯罪をやってやる」という思いに凝り固まっていた[新聞 6]。Fは更生保護施設をわずか1日で逃げ出すとすぐ平塚市内に帰ったが、再び家族から拒絶されたため自宅近くの左官店に住み込んで4日間働き、その後は2か月早く久里浜少年院を退院していたXを頼り鎌倉市内の空調設備会社(Xの勤務先)に就職した[書籍 36]。その後もFはたまに帰宅すると「よくも俺を少年院に入れてくれた」と暴れ、両親・妹に対し家庭内暴力を振るったほか、オートバイで帰宅してきた際には偶然自転車で外出しようとしていた妹を追い回す騒ぎまで起こしたため、恐怖した妹はFが帰宅すると自室に引きこもって1人で食事を取ったほどだった[書籍 37]。一方、Fはオートバイ好き[注 14]でありながら暴走族に入ろうとしなかったり、幼少期から非行を繰り返していた一方で飲酒・喫煙・シンナー乱用などを「体に害だから」と行わなかったりと「ある面で非常に意志の堅いところ」も有していた[書籍 38]。
横浜地検による冒頭陳述では性格傾向について「被告人Fは友人がほとんどおらず、他人への猜疑心が著しく強い。一方でいったん心を許すと相手に過大な信頼を寄せ、執拗に付きまとうため疑われたが、それを『相手の背信行為』と考え激しい恨みを抱くに至る傾向がある」と指摘された[新聞 6]。
人物像・家庭環境
Fの母親は知人らによれば「見栄っ張りで決して自分の非を認めず、身の不幸はすべて相手に責任転嫁して自己正当化するようなところがあった」性格で、幼少期のFに対し過保護に接していたが[注 15]、その偏愛を成績優秀な妹へ向けるようになると一転してFを放任するようになった[新聞 33]。このことから事件当時の新聞記事ではその家庭環境・教育方針について以下のように言及されている。
- 『読売新聞』神奈川県版
- 「Fの母親は出来の悪い息子より成績の良い娘(Fの妹)をかわいがっており、Fは友人に『母親は俺に冷たい』と寂しそうに訴えていた」[新聞 34]
- 「Fは家庭に一貫した教育方針がなく、親に甘えてばかりで自立心がないまま突き放されたことで極度の不安から自己防衛本能を昂らせた。子供は成育時に周囲の環境(特に母親)の影響を強く受けるが、Fが平気で嘘をつき、両親の痛みさえ覚えなかった原因は親の価値観にもあるだろう。Fは別件逮捕後に10日間殺人の容疑を否認していたが、『X事件の際にも母親が虚偽のアリバイを証明してかばってくれたから、今回もかばってくれるはず』という甘えがあったことが要因ではないか?」[新聞 33]
- 『神奈川新聞』 - 「久里浜少年院退院後、Fの家には狭い一室を占有するかのように妹のピアノが置かれていたが、Fは『父が妹のためにピアノを買ってやったことがショックだった』と言うほどで、F自身も帰るべき家がないことを自覚していたようだ」[新聞 35]
しかしFの母親は少年院出所後の息子の引き受けを拒否していた一方、後に事情聴取を受けた際はFの事件への関与を否定していたため、『神奈川新聞』の取材に応じた捜査員は「Fの母親は決して冷たかったわけではなく、息子に対する愛情も皆無ではなかった。その母親が少年院から出てきた息子を引き取らなかった理由は家庭全体の平穏を考えたためではないか?」と推測した[新聞 35]。
またFの中学時代の同級生は『読売新聞』の取材に対し「近所の人には必ず笑顔で挨拶し、子どもたちを集めてボール遊びをすることもあった」と証言した一方、同紙では「だらしがなく優柔不断な性格で仕事は長続きしない。友人と話していた時に突然『もし人を殺すなら完全犯罪をやってやる』と漏らしていたことがあった」と報道された[新聞 34]。同紙では「Fは逮捕されるまでに両親からオートバイを3台買い与えられており、かなり甘やかされて育った。定職に就かないのに十分すぎるほどの小遣いをもらっており、財布には常に2, 3万円入っていた」という報道もなされた[新聞 36]。
被害者
横浜事件(X事件)・尼崎事件(Y事件)でFに殺害された元少年院仲間の男性X・少年YはいずれもFと同じく愛情の希薄な家庭で生育したばかりか、両親の庇護を受けて育ったFとは異なり教護施設で少年時代を過ごしていたため「その点を見ればFより非行が進んでいたともいえる」人物だった[書籍 39]。
横浜事件・被害者X
横浜市の事件で被害者となったFの友人男性X(20歳没)は1960年(昭和35年)11月25日生まれ・北海道出身[書籍 40]。死亡当時は神奈川県鎌倉市山崎在住・無職だった[新聞 4][新聞 37][新聞 38]。
両親と弟・妹を合わせた5人家族で生活していたが、小遣いも満足にもらえない貧困生活でストレスを抱えた父親から母・きょうだいを含めて当たり散らされ、小学2年生の時には神社の賽銭箱から硬貨を盗んだことがあった[書籍 40]。小学校3年生の時に神奈川県内在住の父方の親類から紹介を受けて鎌倉市内に移住したが、小学4年生のころから現金を盗んで買い食いする非行を繰り返すようになり、父親から体罰を加えられた[書籍 40]。その後いったんは盗み癖が治り更生しかけたが小学校卒業直前から盗み癖が再発し、中学校進学直後の1973年5月ごろから万引きなどの非行を繰り返したため、6月に神奈川県立教護院に送られた[書籍 40]。教護院では「無気力型で思っていることを率直に出せない弱気なタイプの性格」と評されつつも規則正しい生活を送り、教護完了(1976年3月)後に横浜市内の青年寮へ移ると勉強して神奈川県立普通科高校定時制へ進学したが、長続きせず2年生で中退した[書籍 40]。
高校中退後は1978年に再び横浜市内で非行2件(1月に出店荒らし・7月に自動車盗)を犯したため小田原少年院へ送致され、退院後の1980年2月には自宅近くで空き巣をして横須賀市内の久里浜特別少年院へ収容されたが[書籍 40]、この時に同い年のFと知り合い、1980年春 - 1981年春までともに在院していた[書籍 41]。このように少年院を出入りする生活が続く中でも更生に向けて努力し、後述の(自宅近くの)空調設備会社で空調配管工として働き始めると月収の多くを母親に渡していたが、左官店を辞めたFが自身のアパートに転がり込んでからはFとひったくりを始めるようになり、その5か月後にFによって殺害された[書籍 40]。
なおXの母親は事件で息子を失った直後から酒に溺れるようになり、横浜地裁で審理が続いていた1987年夏に肝硬変で入院して闘病生活を送るがその4か月後(1987年12月)に49歳で病死した[新聞 39]。Xの両親は「(Fの)嫌な顔を見るだけだから」と公判を傍聴しなかったが、第一審判決(1988年3月10日)直前にXの父親(当時53歳・土木作業員)は『読売新聞』の取材に対し「仮にFが無期懲役になれば(仮釈放で)まだ出てくることもある。事件から6年が経過しても当時の怒りは忘れられない」と述べていた[新聞 39]。
藤沢事件・被害者母娘
2件目の事件(藤沢市内における母娘3人殺害事件)で妻子3人を一挙に失い被害者遺族となった少女Aの父親D(当時46歳・会社員男性)は事件当時、厚木市内の日産自動車設計総務部工務課に勤務していた[新聞 40]。Dは事件2年前の1980年3月30日(長女Aが中学3年・次女Bが小学6年に進級する直前)に事件現場となった土地付き分譲住宅を約3,000万円で購入し、横浜市旭区内の社員寮から引っ越していた[新聞 41]。
本事件で犠牲となった被害者母娘3人について、遠藤允(1983)は「被害者一家は『中堅社員として毎日会社に通う父親D』『パート仕事で張りの出てきた母親C』『非行化の兆しなど見せずに育っていく娘たち(A・B)』による『どこにでもあるごく普通の家庭』だった。もし事件さえ起きなければ新聞・テレビで実名報道されることはあり得なかったはずだ」と評した[書籍 42]。
- 被害者少女A(16歳没・神奈川県立茅ヶ崎高校2年生の女子高生)[新聞 3] - 1965年(昭和40年)11月30日生まれ[書籍 43]。高校入学直後の1981年6月以降、夏休みの旅行費用を稼ぐ目的で藤沢市鵠沼海岸にあるハンバーガーチェーン店(江ノ島店)にてアルバイトをしていた[書籍 44]。
- Aの妹・被害者B(13歳没・一家の次女で藤沢市立明治中学校2年生)[新聞 3] - 1968年(昭和43年)11月24日・当時父親Dが母親D・姉Aとともに一家で転勤していた栃木県下都賀郡石橋町(現:栃木県下野市)で生まれた[書籍 45]。
- A・B姉妹の母親C(45歳没)[新聞 3] - 1936年(昭和11年)に神奈川県鎌倉市で生まれ、北鎌倉女子学園高校を卒業後に就職した光学会社で1年先輩だった男性D(早生まれ、光学会社がその後倒産したため日産へ再就職)と知り合い、6年間の交際を経て結婚した[書籍 46]。事件当時は茅ケ崎駅前の大型スーパーマーケットで勤務していた[書籍 47]。
男性Dは第一審の証人尋問で法廷にて「被告人Fを妻子と同じように殺してやりたい。せめて3人分(3発)だけ殴らせてほしい」と証言したほか[新聞 24]、上告審判決前日(2004年6月14日)には『読売新聞』の取材を受け「明日が上告審判決とは知らなかった。事件のことはもう思い出したくないが、死刑を望む気持ちは変わらない」と述べていた[新聞 24]。また第一審判決直前に『読売新聞』の取材に応じた同僚たちは「(Dは)事件のことは1日も早く忘れたがっているようだ」と証言した[新聞 39]。
尼崎事件・被害者Y
2件目の藤沢事件でFと共犯関係となり、その後尼崎市内で刺殺された3件目被害者・少年Y(19歳没)は1962年(昭和37年)7月4日生まれ[書籍 48]。死亡当時は東京都江東区出身[注 16]・元ゲームセンター店員で[新聞 26]、知人の間では「10日以上連絡をしてこないときはたいてい少年院に入っているか逮捕されているかだ」と言われていたほど寂しがり屋な性格だった[書籍 48]。
出生地近くの台東区内の小学校に通学したが小学5年生の時から不良になり家出・恐喝を繰り返したため、中学に進学できず埼玉県浦和市内の教護施設に入った[書籍 48]。その後も両親離婚・父親の自殺が重なり、転入先の足立区立中学校を卒業(1975年3月末)後も16歳でシンナーを乱用して1978年10月に小田原少年院へ送致され、1年後に仮退院したがその半年後には再びシンナー乱用で久里浜少年院へ送致された[書籍 48]。1981年6月に久里浜少年院を仮退院してからは浅草のゲームセンターで働いていたが、母娘殺害事件直後にはゲームセンターの経営者宅に電話を掛け「店に務めていたころが人生で最高の時だった」と話している[書籍 48]。
1982年4月にシンナー乱用で警視庁新宿警察署に検挙され2年間の保護観察となり、東京都内の更生施設に預けられた[書籍 48]。同月末には別れた母親と東京で会っていたほか[新聞 44][注 17]、5月9日には東京都内の福祉施設へ預けられていた弟2人と面会していたが、広告宣伝会社への就職が内定していた矢先の1982年5月14日に無断で施設を飛び出し、暴力団風の男と行動を共にしていた[書籍 48]。このころは「職を持たず高校も出ていない自分は暴力団に入って出世するしかない。度胸を付けて幹部になってやる」と吹聴していたが[書籍 48]、母娘殺害事件3日前の1982年5月24日深夜に新宿界隈を徘徊していたところ、歌舞伎町でFと再会した[書籍 49]。
事件の経緯
第1の事件(X事件)
事件現場:神奈川県横浜市戸塚区中田町2748番地[注 18][新聞 38]・キャベツ畑[新聞 45]
- X事件の現場[新聞 38]
- 相鉄いずみ野線・いずみ野駅から約3キロメートル(km)南地点の田園地帯にある「立場交差点から約800メートル(m)離れて神奈川県道402号阿久和鎌倉線から約200m入った地点」で[新聞 4]、戸塚西郵便局(現:横浜泉郵便局)から約200m離れた場所[新聞 46]。当時の現場一帯はキャベツ・ネギなど野菜畑や荒れ地が広がり、夜はほとんど人通りがない静かな場所だったが、暴走族がよくたまり場として出入りする場所でもあった[新聞 4]。
金銭トラブル
被害者XはFに先駆けて1981年3月19日に少年院を退所し、空調設備会社で配管工として働き始めたが、Fが就職した直後(1981年5月18日)からは2人でひったくりを再開した[書籍 50][注 19]。結局、2人は5月18日・5月19日と2日連続でひったくりを行ったことで現金17万6,000円を得ることに成功し、Fが働き始めてからわずか5日後に2人で退職した[書籍 51]。
その後寮も退去した2人は神奈川県茅ヶ崎市東海岸の民間アパートを借りた後、1981年7月末には横浜市鶴見区矢向のアパートに転居してひったくりを重ね、ひったくりで得た金を遣い家賃・生活費などを支払って共同生活を送っていた[書籍 51]。またX殺害事件以前にF・X両加害者は神奈川県内各地(鎌倉市・川崎市・厚木市・横浜市)で以下8件・被害総額145万円の窃盗事件(ひったくり・事務所荒らしなど)を起こした[新聞 47]。
- 1981年5月18日:鎌倉市大船の路上 - 女性から現金13,000円入りのハンドバッグを奪う[新聞 47]。
- 1982年5月19日:川崎市川崎区の路上 - 女性から現金16万3,000円入りのハンドバッグを奪う[新聞 47]。
- 1981年6月3日:厚木市旭町の路上 - 女性から現金40,000円入りのショルダーバッグを奪う[新聞 47]。
- 1981年6月3日:厚木市恩名の路上 - 女性から現金33,000円入りのショルダーバッグを奪う[新聞 47]。
- 1981年6月9日:横浜市西区の路上 - 男性から現金13,000円入りのショルダーバッグを奪う[新聞 47]。
- 1981年7月4日:横浜市戸塚区の事務所 - 金庫から現金13万3,000円を奪う[新聞 47]。
- 1981年7月13日未明:横浜市鶴見区下末吉一丁目21番地8号のレストラン - 店内に侵入して金庫から現金101万8,000円あまりを盗む[新聞 48][注 20]。
- 1981年8月4日:横浜市中区の路上 - 女性から現金38,000円入りのショルダーバッグを奪う[新聞 47]。
Fは「どうせやばいこと(犯罪)をやるんだから銭のない奴は狙わない」という考えの下で犯行前に十分な計画を練り、現場に遺留すると身元が割れる可能性がある書類(身分証明書・運転免許証など)・装身具を一切身に着けず狙いを定めて行動していたほか、犯行後は現金だけを抜き取り証拠となる財布・バッグなどをゴミ箱に遺棄することで検問を掻い潜っていた[新聞 49]。その上でこれらの窃盗事件で盗んだ金の一部を後に母娘殺害事件で逃走する際の資金として自宅に隠していたほか[新聞 48]、時折実家に帰宅しては母親に10万円 - 20万円程度の現金を渡して「俺は金を稼げるぞ」という意思表示をしたが、母親はFからの暴力を恐れて真正面から問い質すことこそできなかったものの「悪いことをして稼いだ金ではないか?」と不安視していた[書籍 52]。
しかし1981年8月5日夜にXがFの財布から現金20万円を抜き取って逃げたため、これに激怒したFはXを「裏切り者」としてその行方を捜し[書籍 51]、Xを見つけ出すと母親ともども脅迫し「10月5日までに20万円を返済する。Xが返済しきれなかった場合は母親が代わりに月々5,000円ずつ返済する」と誓約させた[書籍 53][注 21]。Fはその後もXが覚醒剤を密売して稼いだ代金7万円を取り上げたり、消費者金融から借金させようとするなどして全額回収しようとしたが、1981年9月ごろにXが「俺がFと共謀して行ったひったくりを警察に自首したらFもおしまいだな」と発言したことを知り「金を取り戻す気持ち」以外に「Xに対する殺意」も抱くようになった[書籍 54]。
Xを殺害
Xへの殺意を抱き始めたFは1982年9月上旬 - 下旬にかけて「国鉄東海道線・茅ケ崎駅前の金物店でくり小刀」「藤沢駅前のデパートで刺身包丁」と、それぞれ凶器に用いた刃物を相次いで購入したほか、同月中旬には犯行後の逃走場所を確保するため東京都豊島区池袋近辺のアパートを賃貸契約した[書籍 54]。また刺殺以外に「血が出ない殺害方法」としてXを生きたまま焼き殺すことまで検討し、空き瓶2本にガソリンを入れて用意した[書籍 54]。一方でXは当時覚醒剤の売買で損害を出して70 - 80万円の借金を抱えており、Fへの借金を返済できる状態ではなかった[書籍 55]。
「返済期限」と定めていた1981年10月5日、外出していたFは帰宅後に「(外出中に)Xから電話があった」と聞かされたため2度目の電話を待ち続けたが、その後Xからの電話は掛かってこなかった[書籍 56]。一方でXは1981年10月5日18時ごろにいったん帰宅後[新聞 52]、「友人のところに行く」と言い残してバイクで自宅から外出し[新聞 4][新聞 38]、1981年10月6日0時過ぎに大船駅付近のキャバレーで友人のボーイと会っていた一方[新聞 52]、同夜には横浜市戸塚区笠間町(現:栄区笠間町)の路上で覚醒剤の売買をめぐり元少年院仲間(Z)[注 22]と大喧嘩して顔面を負傷し[新聞 50][注 23]、パトカーで駆け付けた警察官に諫められた[新聞 50]。この喧嘩はXが被害届を出さなかったため立件されなかったものの、納得できなかったZは同日夜に[新聞 50]鎌倉市内の元少年院仲間を訪れ「Xはいないか」と行方を尋ねたがXはいなかった[書籍 58]。Zがこの元少年院仲間宅を訪問した直後、Xは同宅を訪問して元少年院仲間と2人で覚醒剤を注射した[書籍 58]。
一方でFは「Xに裏切られた。もう殺すしかない」と殺意を固め、事前に用意していた凶器類をショルダーバッグに詰め込んで自動二輪車でX宅に向かい、翌日(1981年10月6日)深夜3時ごろにX宅に到着したが、Xが乗っていたバイクが見当たらなかった[書籍 56]。Fはいったん引き返そうとバス用道路へ向かったが、湘南モノレール高架下にてバイクで大船駅方面へ走行するXの姿を発見して「止まれ」と声をかけ、Xを停車させた[書籍 56]。Xは当時、元少年院仲間とともに覚醒剤を注射しあった帰りで[書籍 58]、Fから「金を返す気はあるのか?」と質問されたが前述の事情から「もう返す気はない」と返答した[書籍 55]。さらにXはFに「お前とはもう付き合いたくない」と吐いたほか[書籍 27][注 24]、「俺の知り合いにヤクザがいる。警察に犯行をチクる(密告する)ぞ」と逆にXを脅したため[新聞 15]、Xが一向に誠意ある態度を見せなかったXに激怒したFは「Xを人気のない場所へ連れて行って殺害しよう」と考え[裁判 1]、そのための口実として「最後のドライブだ」と提案し国鉄根岸線・本郷台駅(大船駅の隣駅)までともにバイクで走り、同駅駐輪場でXに被らせるヘルメットを盗んでからともに中田町方面まで走行した[書籍 27]。
1981年10月6日5時ごろ[注 25][書籍 27][裁判 1]、Fは「畑まで自分の自動二輪車で乗り付けるとタイヤの跡で犯行が発覚する恐れがある」と考えて現場の手前1kmで停車し[書籍 27]、Xに「ここまで来たらもう警察はいないから大丈夫だろう」と言って盗んだヘルメットを捨てさせた上で「お前のバイクの調子をみてやる」と申し出[新聞 15]、Xのバイクに2人乗りして畑へ乗り入れさせた[書籍 27]。このようにして殺害現場のキャベツ畑に至ったところ、バイクを降りたFは刺身包丁を右手に持ち「ぶっ殺してやる」とXを脅し[書籍 59]、「よくも俺を裏切ったな。そこに座れ」と命じてXを道端でうつぶせにさせた[書籍 59]。そしてショルダーバッグからガソリン入りの瓶を取り出してガソリンをXの背中にふりかけ、点火したマッチを投げつけたが[書籍 59]、当日は小雨が降っていたため引火せず[新聞 53]、2本目のマッチを擦ろうとしたところXが立ち上がって抵抗したため、「動くな!」と叫びながらXに2回包丁を突き出したところ、2度目で刃先がXの大腿部に深く突き刺さった[書籍 59][注 26]。しかし刃から柄が抜け落ち、Xは苦痛に悶えつつも自分で大腿部から抜き取った刃を右手に持ったまま走り出そうとしたため、Fはくり小刀・落ちていた角材をそれぞれ持ち、Xに「包丁を捨てろ」と命じて包丁を捨てさせた[書籍 59][注 27]。Xは力尽きて歩けなくなったが、FはXが自力で包丁を引き抜いたことから「素手になっても激しく抵抗するだろうから、油断させた上で殺そう」と考え、Xに「俺が悪かった。背負って医者に連れて行ってやる」と謝罪しつつXに近づき、くり小刀で背中・首・胸を11か所にわたり滅多刺しにして殺害した[書籍 60]。死因は左総頚動脈切断による失血死だった(第1の殺人)[裁判 1]。
X事件の捜査
事件発生直後の早朝5時40分ごろ、散歩中だった近隣住民がキャベツ畑道端で血まみれになり死亡している被害者Xの遺体を発見して戸塚警察署に110番通報し[新聞 4]。本事件を殺人事件と断定した戸塚署および神奈川県警捜査一課は捜査本部を設置し[新聞 4][新聞 46][新聞 38]、捜査員150人を動員して捜査を開始した[新聞 4]。県警が所有物を調べたところ、遺留品のクレジットカードから遺体の身元は直ちに男性Xと判明したほか[新聞 37]、死亡推定時刻は発見直前の未明3時 - 4時ごろと推測された[新聞 4]。
- 手帳[新聞 55]・クレジットカード以外の所持品は発見できず[新聞 4]、その他の遺留品はXが前述のように途中で盗んで被っていた白いヘルメットだけだった[書籍 60]。遺体の周囲には約20mにわたって血痕・肉片が散乱し[新聞 4]、多数の足跡や押し潰されたキャベツが確認された[新聞 56]。また遺体は着衣に乱れがなく抵抗した形跡も確認できなかった一方[新聞 4]、左首・左胸・肩・大腿部など7,8か所を鋭利な刃物で刺されており[新聞 38]、特に直接の致命傷として左首への刺し傷(前述の左総頚動脈切断)が確認されたほか[新聞 4]、左胸の傷は肺に達していた[新聞 38]。
- 遺体発見現場から南へ[新聞 46]約250m離れた農道には、被害者Xが所有していた原動機付自転車(原付)が鍵付きのままで放置されていたため[新聞 56]、捜査本部は「被害者Xはバイクで現場近くまで来て犯人と争い刺殺された」と推測した[新聞 46]。またX自身が「友人のところに行く」と言い残して自宅を出ていたこと・事件現場には「何人かが入り乱れて争ったような形跡」があったことから、捜査本部は「被害者Xは複数の相手と喧嘩をして刺された可能性が高い」と推測して交友関係などを調べたが[新聞 38]、被害者Xの財布・所持金などがなくなっていたことから物取り目的(強盗殺人)の線も浮上した[新聞 4]。
- 加えて捜査本部は上記のような背景に加えて「遺体には着衣の乱れ・抵抗した跡が見られなかった一方で背後から5か所以上も刺されていた点」「現場周辺にXの友人は住んでおらず『Xには土地勘がない』と推測される点」「Xが家を出た時に持って行った現金4万円がなくなっている点」などの事実から「犯人は被害者Xと面識がある者で、現場に誘い出していきなり刺殺し金品を奪った可能性が強い」と推測して捜査した[新聞 4]。
Fは犯行後に「犯行が露見する可能性がある物品の処分・証拠隠滅」を行おうとして凶器とXが着ていた上着をショルダーバッグに詰め込み、その上で事件前に借りていた池袋のアパートへ向かう途中で清涼飲料水の空き瓶2本を鶴見川に投棄したほか、Xの上着から現金17,000円を抜き取った一方で上着・自分の衣服をコインランドリーで洗濯し、ビニール袋に詰めて山手線五反田駅前で遺棄した[書籍 61]。その後、Fは凶器の包丁などの処分に取り掛かり[書籍 61]、2本の凶器(くり小刀・包丁)を多摩川に架かる六郷橋(国道15号・第一京浜国道)から投げ捨てたほか、包丁の空き箱も川崎市内のゴミ箱に投棄したが、最後に残った紙袋を投棄する場所を探しながら横浜市鶴見区岸谷の道路を走っていた22時ごろ、一方通行道路を逆走したところを鶴見警察署員に発見された[書籍 61]。Fはこの時、ナンバープレートを隠蔽していたことに加え[新聞 57]、免許停止処分を受けていたため道路交通法違反(無免許運転)で現行犯逮捕された[書籍 61][注 29]。
現行犯逮捕されたFが鶴見署の留置場にいたころ、戸塚署は前述のように事件前に被害者Xと喧嘩していた厚木市の元少年院仲間Zを以下の理由から最有力被疑者として取り調べていた[書籍 58]。
- 当時、殺害の動機は「覚醒剤が入っていたはずのXの上着がなくなり、バイクからも覚醒剤の粉末すら発見されていない」という事実から「覚醒剤取引を巡るトラブルが殺人にまで発展した」という線で捜査されていた[書籍 58]。実際にこの捜査の過程では覚醒剤常用者・取引関係者らが重点的に取り調べられ30人近くが事情聴取を受けた結果4人が覚せい剤取締法違反で逮捕され[書籍 58]、うち同月17日に「自宅に覚醒剤0.09gを隠し持っていた」として覚せい剤所持容疑で逮捕されたZは同年11月末に懲役1年・執行猶予1年の有罪判決を受けた[新聞 50]。
- また事件前日の10月5日昼には被害者Xの運転免許証が厚木市内に落ちており、近隣の警察署に「遺失物」として届けられていたが[新聞 4]、このことも「Zが犯行に関与した線が強い」と推測させる結果となった[書籍 58]。
しかしFは「事件直前に被害者Xと接触した」事実までは把握されなかったもののZと同様に強い嫌疑を掛けられており、身柄を当初の留置先(鶴見署)から戸塚署に移送された上、直前の逮捕容疑は道路交通法違反だったにも拘らず10日間の検事勾留を受けた[書籍 58]。それでも取り調べに対しては潔白を主張した上、Fの実母も事情聴取に対し「息子は被害者Xの死亡推定時刻を含めて事件前夜から自宅で就寝していた」とアリバイを証言した[書籍 58]。このように実母からアリバイを主張された上、Fが逮捕前に凶器など物的証拠を完全に処分していたため物証も発見できず、神奈川県警は検事勾留期限満了となる1981年10月17日に嫌疑不十分で被疑者Fを釈放した[書籍 58][注 30]。
Fの実母が神奈川県警の事情聴取に対し虚偽のアリバイを証言したことで事件解決が遅れたことに対し、遠藤は「もしも当時Fの実母が警察の事情聴取に対し息子のアリバイを申し立てなければFはX殺害容疑で逮捕され、(この時点でまだFは被害者少女Aと出会ってすらいなかったため)後にA一家が殺害されることもなく済んだはずだ」と批判している[書籍 58]。またFの実母が取った行動に関して「それまで荒れた生活を送っていたFが同時期から急におとなしくなり、母子関係が改善していたほか、近所の人々にも愛想を振りまくようになっていたが、これはX事件の際にFの実母が虚偽のアリバイを申し立てたためだろう。X事件では3事件で唯一物証が出なかったが、Fの自供内容は具体的・詳細だったため、もし母親からアリバイ証言がなければ警察はこれを突破口にFを検挙できていたかもしれないし、後の母娘殺害事件・Y事件とも阻止できただろう」と批判的な見解を述べている[書籍 62]。
- また実母は事件解決後に『女性セブン』(小学館)・『3時のあなた』(フジテレビ系列)の取材に対し「息子(F)が犯行を自供した際の心境」を尋ねられ「『よく勇気を振り絞り自供した』と褒めてあげたい」と回答していたが、遠藤は「母娘殺害事件直後にFが帰宅した際、両親は警察より前にFが母娘殺害事件の犯人であることを把握していたのだからすぐにでも警察に届け出るべきだった。仮にそうしていればY事件だけでも防げただろうが、両親はFから『喋ったら皆殺しにする』と脅され、過去に受けた暴力を思い起こして『殺される』と怯えたのだろう」と指摘している[書籍 63]。
結局、戸塚署内に設置された「戸塚区中田町畑地内殺人事件捜査本部」は160人の捜査員を動員しても被疑者逮捕に至らず継続捜査に切り替えた[書籍 58]。一方でFはこのX殺害事件とほぼ同時期の1981年10月に業務上過失傷害罪で罰金18万円に処されており、初公判時点で前科一犯だったほか[新聞 6]、X事件直後 - 翌1982年2月中旬にかけて厚木市内の元少年院仲間Z宅に「Xのことで警察に余計なことを言うな。喋ると一家を皆殺しにするぞ」「放火してやる」[新聞 59]などと頻繁に脅迫電話を掛け続けていた[新聞 57]。脅迫電話は2月にいったん収まったが、後述の藤沢事件・Y事件後にもZ宅には再び同様の電話が掛かるようになった[新聞 59]。
第2の事件(藤沢事件)
藤沢事件の現場(神奈川県藤沢市辻堂神台二丁目7番地3号、事件当時の被害者少女A宅)[新聞 3][新聞 40]
- 事件現場は日本国有鉄道(国鉄、現在のJR東日本)東海道線・辻堂駅から北へ約2kmに位置する「夜間はほとんど人通りのない閑静な住宅街の一角」だった[新聞 40]。事件当時の現場一帯は事件3年前の1979年に造成された13戸の新興住宅地だった一方で関東特殊製鋼の広大な工場・グラウンドがあり[注 31]、道路は狭く暗かった[新聞 41]。また防犯灯の故障も目立ち、犯行直前にも素行不良者がたびたび出没していた[新聞 41]。
加害者F・被害者Aの関係
1981年11月20日[書籍 64]、当時高校1年生だった藤沢事件の被害者少女Aはアルバイト先と同じチェーン店(茅ケ崎駅前店)を訪れて「現在勤務している江ノ島店では藤沢駅を経由して小田急江ノ島線に乗り換えねばならず、自転車でも遠すぎて不便だ。自宅(最寄り駅は辻堂駅)から乗り換えなしで行けて学校からも近い茅ケ崎駅前店に転勤したい」と申し出たが同店からは「人手が不足していないから」という理由で断られ、その直後に立ち寄ったスーパーマーケットで手袋を万引きした[書籍 65]。この「万引き」をした少女Aの当時の心理状態に関して遠藤は「転勤の希望が入れられなかった腹いせだろう。両親が知らないところで小さな過ちを犯していた」と推測した上で[書籍 65]、この万引きを「結果的には小さな過ちでは終わらなかった。スーパーに寄ることさえなかったら後述のようなFとの出会いはなかっただろうし、万引きせずに買い物かウィンドウショッピング程度で終わっていれば普段と変わらない気持ちでいられたはずだ」と評した[書籍 64]。
一方で約1か月半前にX殺害事件を犯したばかりだったFは[書籍 64]、かねてから女子高生との交際願望を持っていたものの、自宅のある平塚市周辺では自己の非行歴などが知られているリスクを考慮して茅ヶ崎市方面に目を付け[新聞 6]、1981年11月20日夕方にはAが在学していた茅ヶ崎高校付近で女子生徒の下校を待った[新聞 6]。少女Aが同日19時ごろに自転車で同級生の少女とともに帰宅しようとしていたところ[書籍 65]、待ち構えていたFが「時刻を尋ねるふり」をして2人に声をかけ[裁判 1]、Aら2人から「19時(午後7時)」と回答されると「君たちはどこの学校?」などと質問しつつ「自分は平塚に住む『山田等』(偽名)だ。父親は社長で金持ちだ」[新聞 6]「俺と友達になろうよ」と語りかけ[書籍 64]、2人から住所・電話番号を尋ねた[書籍 65]。この時、同級生は「馴れ馴れしい人」と思いつつ応対をAに任せ[新聞 60]、自身は頑なにに答えなかった一方、Fに専ら対応していた少女Aは[書籍 65]自分の名前[裁判 1]・自宅の住所・電話番号をメモしてFに渡したが、この時にFの住所・電話番号を尋ねることはなかった[書籍 66]。Aから名前・住所・電話番号を訊き出すことに成功したFは続いて「平塚はどこの方向?」と尋ねた上で走り去った[新聞 60]。
- この時の少女Aの心理状況に関して判決文は「軽い気持ちで応答した」と事実認定しているが[裁判 1]、遠藤は「まだ人を疑うことを知らなかったAは直前に万引きしたことで興奮状態、すなわち『一種の異常心理』が続いており、その隙間に偶然Fが入り込んだのだろう。もし平常心さえ持っていれば1か月半前に殺人を犯していたFから『異様な雰囲気』が感じ取れたかもしれない」と推測した[書籍 64]。また『読売新聞』神奈川県版では「Aにとって不幸だったことは男兄弟がいなかったため“オオカミ”の危険を知らずに育ち、他人に何の警戒心も抱かなかった温かい家庭環境にあるだろう。さらに決定的だったのは交際を始めた相手(F)が異常性格者だったことだ」と言及された[新聞 42]。
- 当時、Aは「あの人は何?図々しい」と不満をこぼしていた同級生少女に対し「私は電話番号教えたけど、夜に電話が掛かってきたらどうしよう」と不安げに打ち明けていたが、その夜は電話がなかったことから翌朝には同級生に「なくて本当に良かった」と話していた[新聞 60]。一方、1週間後にFからデートの誘いの電話が掛かってきた際にAは「電話掛かってきちゃった」と「喜びと不安が入り混じった複雑な表情」で打ち明けていたが、その後しばらくは冬休み中に同じハンバーガー店でその同級生少女とともにアルバイトしていた時を含め)Fのことを話題にすることはなく、バレンタインデーに以前から好意を寄せていた同級生の男子生徒へ交際を求めたが失恋した[新聞 42]。
Fはそれから約1週間後にA宅へ電話を掛けてAをデートに誘い[書籍 64]、2回目の電話で「1981年12月11日(土曜日)の13時に茅ヶ崎高校近くの国道1号交差点付近で待ち合わせる」と約束したが、Aの同級生少女が「すっぽかしてしまえばいい」と忠告したため、Aはこの日待ち合わせ場所に現れなかった[書籍 67]。しかしFは再び電話を掛け、期末試験後の12月15日14時に改めて辻堂駅前で待ち合わせすることを提案し、この時はAも約束通り辻堂駅でFと待ち合わせた[書籍 67]。2人はこの日、東海道線の下り電車に乗車して熱海駅(静岡県熱海市)まで移動してバスを乗り継ぎ熱海後楽園ゆうえんちへ行き、レストランで食事をしたりゲームを楽しんだりしたほか[書籍 67]、Fはこの時に初めて自分の住所・電話番号をAに教え、自宅近くの平塚駅で下車する際にAと別れた[書籍 68]。当時のFに関して捜査員は『神奈川新聞』の取材に対し「それまで家族から愛情を注がれず、小学校時代にいじめを受け、中学時代にも心を許す友人がいなかったFは中学卒業後も少年院を行ったり来たりで、友人は皆人に話せない過去を背負った者たちばかりだ。そんなFにとってAは初めて淡い感情を抱いた女性で『マドンナのような存在』だったのだろう」と述べた[新聞 61]。
- 遠藤允は当時のFの心理状態に関して「Fは中学卒業まで同級生にほとんど相手にされず、周囲が男性だらけの少年院で通算2年3か月過ごしていたことを抜きにしても成人に達するまで女性関係がほとんどなかった。口ではキスを求めながら行動に移せず、相手の女性に拒絶されるとあっさり引き下がる弱気な面も持っていたFにとって、自ら接近して声をかけたAが熱海までデートに付き合ってくれたことはかなり嬉しかっただろうし、Aと一緒に過ごした数時間は天にも昇る気持ちだったに違いない」と推測した[書籍 69]。またこの時にはAから「ニューミュージックのファンだ」と聞き出していたことから、後述のように12月27日にA宅を訪問した際にはイギリス人グループのカセットテープを持参している[書籍 70]。
- またこの時にFは2人分の往復電車賃・食事代・ゲーム料金などすべての費用を自分で支払っていたが、遠藤はこの点に関して「この時の出費は大した金額ではないとはいえ、(しばらくしてAへしつこく取り立てを始めることからもわかるように)普段なら定職を持たずひったくりを重ねていたFは気前よく現金を出さなかっただろう」と述べた[書籍 71]。
しかしデートに浮かれていたFとは対照的に、AにとってFは「ゲーム機の操作は上手いが話題性に乏しい」ことに加えて「Fが本当に心を寄せていたのは初対面の時、自分と一緒にいた同級生少女だ」と勘づいていたことからあまり楽しい雰囲気ではなく[書籍 71]、1981年12月中旬ごろからは交際を望まなくなった[注 32][新聞 6]。実際、Fはその同級生少女の方に好意を寄せており、その住所・電話番号をAから聞き出そうとしたが、自分の住所などを教えたAも同級生少女のことまで明かす気にはなれなかったため「まさか本当に来ることはないだろう」と考えつつも自宅までの道順を教えて「遊びに来てもいい」と伝えたが、熱海でデートしてからFは少しずつAの方に心が傾いていた[書籍 72]。
茅ヶ崎高校が冬休みに入った1981年12月27日の夕暮れ時、Fは前述のようにAの好みだったイギリス人グループのカセットテープを持参した上でバイクに乗りA宅を訪問したが、Aは自宅の住所・電話番号などをFに教えたことを後悔しつつ、当時父親Dも在宅していたことから「Fは両親に会わせてはならない人物だ」と判断して自宅からやや離れた路上で「なんで急に来るのよ!」と責めた[書籍 70]。Aの心境の変化も知らないFは「Aは喜んで迎え入れてくれる」とばかり信じ込んでおり、「日曜日なら遊びに来たっていいといったじゃないか」と言いつつカセットテープを差し出したり「この辺を散歩しよう」と持ち掛けたりしが、Aが「今日はダメ」と言ったため、後楽園で味わった楽しい雰囲気を味わうことはできなかった[書籍 70]。Aの父親Dはこの時に娘がバイクに乗った男(F)と話している姿を遠目で玄関先から見ており、話し声は聞こえなかったがそれまで自宅に娘の男友達が訪問してくることはなかったため、Aが戻ってくると「どういう人なんだ?」と素性を尋ねたが、Aがはっきりと答えなかったため(Aがこの年の夏休みに「先輩にいい人がいる」と話していたこと、および男の背格好から)「高校の先輩だろう」と思い込んだ[書籍 73]。
1981年12月31日(大晦日)、Fは改めて電話で打ち合わせた上でAと辻堂駅南口で会い「俺と付き合ってほしい」と告白したが[書籍 73]、AはFから詰め寄られる度に好意を寄せていた同級生男子生徒へ惹きつけられており、Fに対し「こんな男は相手にしていられない」という心境でその同級生男子の存在・名前を挙げつつ「好きな人がいるからダメ」と拒絶し、それでもなお交際を求められると「私に『付き合ってほしい』だなんて10年早い」と笑いながら拒絶した[書籍 74]。これは当時Aが自分とFを同い年程度と思い込んでいたためだったが、Fは「付き合ってくれ」と繰り返すばかりで、執拗に詰め寄られたことにたまりかねたAは「あんたなんかガキみたいでダサいし不潔だから嫌」と拒絶したが、この言葉は「Fにとってはかなり乱暴で『侮辱された』と受け取れるような言葉」だった[書籍 74]。
年が明けた1982年1月5日、Fは前回の会話でうっかりAがFに同級生男子生徒の名前を明かしてしまったことを利用してAに電話を掛け、「俺はあいつ(同級生男子)を知っている」と実名だけでなくその出身中学校まで述べたが、Aはその男子のフルネームを思わず漏らしてしまったことを忘れていたため驚いた[書籍 75]。Fはその後も数日間にわたり、Aの両親が出勤している昼間にA宅へ電話を掛けたが、やがて表現がエスカレートし「耳にするのも耐えられない言葉」を口走るようになったため、Aは一方的に電話を切るようになった[書籍 75]。さらにFは1982年1月12日にAが在学していた茅ヶ崎高校へ「Aの従兄」を名乗り電話を掛け「Aのクラスにいる前述の同級生男子生徒の件」に関して聞き出そうとしたほか、その後も数回にわたり「Aの母親Cが倒れたからAを急いで帰宅させてほしい」などと騙り茅ヶ崎高校へ電話を掛けたが、その電話をきっかけにAは明確にFを拒絶するようになったほか、Aへの電話が不審な内容ばかりだったため事務職員もAに電話を取り継がなかった[書籍 76]。この時、電話を受けて応対していた高校の事務職員はFの顔こそ見ていないものの、その口調から「幼稚っぽさが残るしゃべり方」という印象を抱いていた[書籍 77]。Aはこのころには「名前と電話番号を教えなければよかった」と後悔していた上、知人に「Fは名前・年齢がコロコロ変わるからどれが本名なのかわからない」とも漏らしていた[新聞 62]。
一方でFはAから避けられるようになったことを察知しつつも「電話では埒が明かない」と考えて再びA宅を訪れてAに「12月のデートで貸した金を返済しろ」と迫り、玄関を開けてもらえなかったためにドア越しにAに話しかけたが「返す金なんかないから帰れ」と突き放され、別の日の夜にも再び訪問したが、Aに加えて妹のBも加わり同様に追い返された[書籍 78]。遠藤允はこの時の背景に関して『Fは熱海でデートした時の幸福感を継続させたっかったのか、それともAが好意を寄せていただろう男子同級生への嫉妬心を燃え立たせたのか…そこまではよくわからないが、具体的な行動として『貸した金の返済要求』に戦術を変えたのは事実だ」と述べ[書籍 77]、その上で「FはAとのつながりを保ち続けようとするための単なる口実で『金を返せ』と迫ったのだろう。熱海でのデートの時の金はAの(後述のような)『おごってもらったもので、借りたわけではない』という解釈が正しい」と解釈している[書籍 79]。
FはAが下校する際に校門前・通学路の途中でAに声をかけようとしたが、担任教師から助言を受けたAは必ず数人の同級生と一緒に下校していたため、FはAに話しかける機会をつかめなかったことから「Aと直接対面して話すことは無理だ」と感じ、1982年1月下旬には両親が在宅する時間を選んだ上で改めて電話を掛けた[書籍 78]。この時はAの父親Dが電話に応対したところ、Fが「娘さん(A)に金を貸したが返してもらえないのでお父さんが代わりに払ってほしい」とDに要求したが、Dは娘Aに毎月小遣いを5,000円渡して学用品も買い与えていた上に「無闇に他人から金を借りてはいけない」と諭していたためFからの要求が信じられず[書籍 78]、「いい加減なことを言うな。うちの子供が他人から金など借りるわけがない」と反論した[書籍 80]。
1982年2月、Fは久しぶりに再会した中学時代のクラスメイトに「俺には何も残っていないが、もし惚れた女ができたら命をかける」と話していた[新聞 61]。Fは同月のある日21時ごろにA宅を訪れ、当初はA宅の玄関の外にてAと2人で話し合っていたが、Aが大声を出したことから父親Dから玄関内に入れられた[書籍 81]。DはAを居間に入れて話を引き継いだ上で「いつどこでいくら借りた?」と質問したが、Aから「熱海へ行った時の金だ」と聞かされたことから驚いた[書籍 81]。それに関するAの解釈は「おごってもらったもので、借りたわけではない」というものだったが、Dは「目の前にいる男(F)とこれ以上関わり合いになりたくない」という考えから「2人で熱海に行ったのが事実なら、立て替えてもらったAの分は自分が払う」とFに申し出た上で金額を尋ね[書籍 81]、おおよその額である3,000円をFに渡した[書籍 82]。この時にDは「Fが受け取った現金3,000円を財布にしまう際、その中に1万円札が数枚入っている」ことを目撃したが、当時はFの素性を詳しく知らなかったためにその年齢を風貌から「17,18歳程度」と推測した上で「若い割には大金を持っている」という印象を抱いた[書籍 82]。その上でDがFに「娘が世話になったからどこの誰なのか教えてほしい」と訊いたところ、Fは「平塚市在住の山田等(偽名)だ」とだけ答え、それ以上のことを聞き出そうとするDに「詳しく教えれば家に電話を掛けてくるだろう。そうなるとお母さんが迷惑する」と答え、最後にDが「うちの娘とはもう付き合わないでくれ」と念を押すと「金さえ返してもらえればいい」と回答した[書籍 6]。
これにより借金の問題は解決したが[書籍 6]、Fにとってこれは前述のように少女Aとのつながりを保つ目的の口実だった上に、その口実として使用した要求が案外簡単に通ってしまったことで「このままでは少女Aに近寄ることができなくなる」と困るようになったためその後も午後にA宅へ電話したが、ほとんどがその都度電話を切られるかAが不在の時だった[書籍 79]。しかし3学期修了直前の1982年3月11日に電話するとAが応対したため、FはAと辻堂駅南口で落ち合う約束をした[書籍 79]。約束通り辻堂駅でAと対面したFは「あの金(3,000円)は返してもらう必要はなかった」と言いつつAに金を返し、その上で「お前のことが好きだ。付き合ってほしい」と申し出たが、Aは「あんたなんかダサいし不潔で顔もマズいし話題も貧弱だから嫌だ」と拒絶したため、Fは「やっぱり金を返すのはやめだ」と言っていったん手渡した現金をひったくるように取り返し、Aの顔面をいきなり平手打ちした[書籍 83]。
このように喧嘩別れに終わった後もFはAに電話を掛け続け、1982年3月20日には互いに自分たちの非を認め謝罪する形で和解した[書籍 84]。その後、2人は1982年3月下旬に再び辻堂駅南口(東急ストア前)で待ち合わせ、Fは「以前(1982年3月11日)に2,500円しか渡されなかったのに3,000円を奪われた」というAからの申し出を受け、「寄りが戻せるならどうでもいい」としてAに500円を渡した[書籍 84]。その後、制服姿だったAが「帰宅して着替えたい」と言ったためFはA宅まで同伴したが、家の中に入った途端にAは玄関を施錠してFを閉め出し、2人がドア越しに口論になっていたところで帰宅した母親CがFに「まだ何か用があるの?」と問い詰めてきたため[書籍 84]、Fは先ほど釈然とせぬまま渡した500円のことを思い浮かべつつ「お金のことで来ました」と申し出たが、Cからも「お金なら前返したはずじゃない」と返され相手にされなかった[書籍 85]。
1982年3月30日 - 4月1日夕方まで少女Aは1人で栃木県宇都宮市内へ旅行に行ったが、それを知らなかったFは4月1日午後の早い時間帯にA宅を訪れ、AとFの事情を知らずちょうど1人で在宅していたAの妹Bが応対して2階4畳半のAの部屋にFを招き入れた[書籍 85]。この訪問を含めFは1982年3月 - 4月ごろにかけて妹Bが1人で留守番していたA宅にチョコレートなどを持って2回ほど訪問しており、妹BはFの申し出を受けて自室に案内して自分と姉Aの卒業アルバムを見せたほか、その際にFからキス(接吻)を求められると「わずかながら嫌がる様子」を見せたが明確には拒絶せずにキスに応じた[書籍 86]。遠藤允は当時のFの心境を「好きな相手の個室に足を踏み入れることができて感激した反面、自分自身の狭い家を思い浮かべて妬ましさを感じたかもしれない」と推測している[書籍 87]。Fはその数日後に近所の中学2年生とバイクで2人乗りして藤沢駅前を走行していたところで偶然美容院へ行く途中だったAと出会ったためAに改めて3,000円を返して美容院前でAが出てくるのを待ったが、Aは一向に出てこず連れの中学生がしびれを切らしたためそのまま帰宅し、これが2人の最後の対面となった[書籍 88]。
その一方でFは1982年4月初旬ごろ、5年前(1977年夏)に入院先で連絡先を教えた少女から連絡を受けて茅ケ崎駅前で落ち合い[書籍 25]、いったん少女を自動二輪車に乗せて帰宅した後で横浜駅西口のデパート(後に凶器を購入)へ向かい、さらに江ノ島近くのハンバーガー店[注 33]で食事をした後に少女を連れて帰宅した[書籍 89]。Fは少女と自宅前でしばらく談笑した後に真剣に「俺と一緒に暮らしてほしい」と申し出たが拒絶され[注 34]、さらに金目川の土手に移動して「キスしてほしい」と申し出て拒絶されても「今日はうちに泊まってほしい」と食い下がった[書籍 89]。しかし少女は自分の腕を引っ張って引き留めようとするFに対し「自分の知り合いにヤクザがいる。何をするかわからないよ」と脅し、それを聞いたFは諦めて手を離した[書籍 89]。
Fは1982年4月に入ってからも[書籍 90]再びA宅へ頻繁に電話を掛けるようになったが、当初こそ快活に応対していた少女Aが一貫して拒絶するような態度を取るようになり、Fが電話を掛けてくる度に「私はあんたのことなんか好きじゃない。あんたみたいな顔じゃ結婚できそうもないね」などと罵倒するようになったほか、電話を代わった妹BもFを「お姉ちゃん(A)の気持ちがよくわかる」などと非難した[書籍 88]。ある日の21時ごろに数回目の電話を掛けたところで父親Dが応対した際、「また(Aが美容院に行った際に)金を貸したから返してくれ」と申し出たが[書籍 88]、父親Dはそのことを娘Aから聞いていなかったために電話が終わった後でAに問い質したところ「Fが自分のポケットに勝手に押し込んで逃げた」と聞かされた[書籍 91]。その電話でもFは父親Dに対し「金の問題云々以前に俺はAが好きだ。Aと交際させてほしい」と申し出たが、Dは「Aは大学受験を控えているから男女交際などする暇はない。Aも嫌がっているからやめてほしい。勝手に好きになられても困る」と拒否し、Fが食い下がると「いい加減にしろ」と言って電話を切った[書籍 91]。その後もFは執拗に電話を掛け続け、Dが「金を送るから住所を教えろ」と要求しても「俺の方からとりに行くから教えなくてもいいだろう」と回答を拒否し、長い時では30分近くも話したが互いに平行線の会話となり問題は解決しなかったため、Dは最終的に「勝手に押し付けた金など返す必要はない」と最後通告して電話を切り、その後妻子に「しつこい男だ。これ以上来たら110番通報しよう」と言い渡した[書籍 91]。
一家殺害計画
それまで「マドンナのような存在」としてAに思いを寄せ続けており、嫌われても逆に思い詰める感情を深めていたFだったが[新聞 63]、一連の電話で「Aから一貫して侮辱された」と逆恨みしたFは殺意を抱き始め[書籍 90]、「バイクで少女Aの後ろから通り魔的に刺殺しよう」などと考えた[新聞 64]。その目的を達するべく、Fは以下のように凶器を用意して殺害の準備を始め[書籍 90]、用意した凶器から自分の指紋を拭き取るなどして自宅に保管した[新聞 6]。
- 犯行に使用したくり小刀(刃渡り13.3センチメートル〈cm〉・全長24cm)[書籍 92] - 1982年4月28日に自宅近く(平塚市内)のスーパーマーケットで購入した[新聞 64]。なおこのくり小刀の鞘には「栄太郎」と銘が入っていた[新聞 65]。
- 1982年4月ごろには凶器として前述のくり小刀のほかに包丁2本(文化包丁・刺身包丁)を用意した[書籍 90]。
くり小刀以外に包丁を用意した理由は「Xを刺殺した際に刃が体に突き刺さって柄から刃が抜けたため、留め金の付いた包丁を選んだ」ためで、刺身包丁を尼崎で入手した理由は「刺殺する際には刃幅が狭い刃物が良いし、遠方で入手すれば凶器入手の足が付きにくい」と考えたためだった[新聞 6]。Fは自宅付近にて短時間で一家4人を殺害するための練習を行った一方[新聞 64]、このころからは少女Aに対する「心変わりされた腹立たしさ」「なお交際を求めたい気持ち」が入り混じった感情から無言電話・いたずら電話でAに嫌がらせをするなど[裁判 2]、執拗に交際を求めてAに付きまとうストーカー行為をしたが、A本人のみならずAの両親・妹Bから[裁判 1]ますます疎まれ、強く交際を拒絶される結果となった[裁判 2]。
- Fは深夜1時ごろに喫茶店・スナックバーなどからA宅に無言電話を繰り返すようになり[書籍 90]、自分で電話するだけでなく少年院仲間たちに頼んでA宅に電話させた[書籍 93]。それに辟易したA一家はベルの音が漏れないように電話機の下に座布団を敷いて毛布で包む防音措置を施すようになった上[書籍 90]、「電話番号の変更」を検討して家族会議をしたが、結局はA・B姉妹が「学校の緊急連絡網を変えなければいけなくなる」と反対したため実現しなかった[書籍 93]。
Fは遊園地で少女Aのために使った金の返済を要求するべく[裁判 2]、1982年5月8日19時ごろにA宅のチャイムを鳴らしたが、ドア越しに応対した母親Cから「いつまでもお金のことで娘に付きまとわないで」と非難され、「俺の話を聞いてほしい」と食い下がっても相手にされなかった[書籍 93]。これを受けてFは「一度金を返した父親Dと直接話をしよう」と考えた上で20時ごろに再びA宅を訪問したが、Dは事情を全く知らずに室内でテレビを見ていたため再びCが応対してFを「いい加減にして!これ以上は警察に通報する!」と怒鳴りつけた上、Bから事情を知らされた父親Dが玄関にあった電話機に手を掛けつつ「110番通報するぞ」とFを怒鳴りつけて110番通報したところでFが逃げ出した[書籍 94]。Dは10分 - 15分後にA宅付近の羽鳥派出所(現:羽鳥交番)から駆け付けた藤沢警察署員2人に事情を説明して「また困るようなことがあったら110番通報してほしい」と助言を受けたが[書籍 94]、この出来事をきっかけに一家への逆恨みの念を募らせたFは「A一家の者たちから散々馬鹿にされた」と感じたことから「Aを家族もろとも皆殺しにしてやる」と企てるようになり[裁判 1]、以前と同様に無言電話を繰り返すようになった[書籍 94]。
その中でFは単独犯で2件(被害総額174万円)の窃盗事件を起こしており、奪った金は後の母娘殺害事件を起こした際に逃走資金として利用した[新聞 47]。
- 1982年3月8日11時過ぎ、川崎市川崎区南町20番地の路上をオートバイで走行し、歩いていた無職男性(当時60歳・茨城県内在住)が住宅資金として銀行預金から下ろしてきたばかりの現金108万3,000円あまりが入ったバッグをひったくった[新聞 49](起訴状9件目・単独犯窃盗事件)[新聞 47]。近くの銀行で被害者を物色し、マイホーム資金として多額の預金を下ろした被害者に狙いを定めた用意周到な犯行だった[新聞 49]。
- 1982年5月12日、藤沢市鵠沼の路上で女性から現金66万円入りの手提げバッグを奪った(起訴状10件目・単独犯窃盗事件)[新聞 47]。
Fは「A一家殺害計画をいつ実行するか」を決めかね、しばらくあちこちを遊び歩いていたことから、遠藤允は当時のFに関して「もしYと出会わなければ、FのA一家に対する恨みは少しずつ薄れ、嫌がらせ電話だけで終わっていたかもしれない」と推測した[書籍 49]。しかし事件3日前の1982年5月24日深夜、Fは東京都新宿区歌舞伎町のゲームセンターを出たところでかつて小田原中等少年院にて同室で過ごし、久里浜特別少年院にも同時期に入所していた元少年院仲間である少年Y(後述の尼崎市内で発生したY事件にて殺害)と再会した[書籍 49]。当時2人とも金に困っていたため東京都内でくり小刀を使った銀行強盗を企て、第一勧業銀行新宿支店など東京都内の銀行数軒を下見したが人通りの多さ・警戒の厳重さから断念した[新聞 66]。この時はYが銀行強盗を提案した一方、Fは「逮捕されると窃盗より罪が重い」と反対していたことから『神奈川新聞』連載特集記事では「逮捕後の罪にまで思いを及ぼすFが自分の方からA一家殺害を持ち掛けたのは、よほど憎悪の念が深かったからだろう」と述べられた[新聞 61]。
YはFに「俺は犯罪で飯を食っていきたい。俺と組んでほしい」と持ち掛けたが、FはYを完全に信用しきれていなかったために即答を避け[書籍 49]、「Yを平塚へ連れて行ってしばらく一緒に行動してみよう。そのうちに信用できるかどうかがわかるはずだ」と考え、翌日(1982年5月25日)正午前に日本国有鉄道(国鉄、現在のJR東日本)東海道線・平塚駅前で落ち合うと2人で平塚市内の知人少女宅へ向かった[書籍 95]。Fはこの少女から「露天商の手伝いをしている」と聞いていたことから「森田久」の偽名を用いて少女に電話で仕事の紹介を受け、いったんは1982年5月27日(事件当日)朝から横浜公園一帯で開催された「横浜開港記念バザー」の露天商の手伝いの紹介を受けた一方、Yはこの時にFが「森田」の偽名を使っていることを不審に思っていた[書籍 95]。しかしYには寝泊まりする場所がなくFの家の部屋も2人で寝泊まりするには狭すぎたため、Yは24日・25日と2日連続でこの少女宅に泊まった[書籍 95]。
事件前日の1982年5月26日朝、Fは平塚駅前の喫茶店でYに「A一家を皆殺しにする計画」を打ち明けたが、当初Yは「冗談を言うな。そんなことがFにできるかよ」と本気にしなかったため、FはYの態度に「見下された」と感じつつ「俺はやる、できる。本気であいつらを皆殺しにする」と「Aから浴びせられた言葉・Aの家族たちの応対ぶり」などを自分の主観で説明した[書籍 96]。Fの話を聞かされたYはすぐに態度を翻意し「Fとはこれからも一生付き合っていきたい。犯行を手伝わせてもらう」と引き受け[書籍 96]、ここにA一家4人殺害に関するF・Y両加害者の共謀が成立した[新聞 6]。
- 遠藤允はこのようにすぐ翻意した当時のYの心情を「Fから仕事を斡旋してもらった恩義を感じたのかもしれない」と推測したほか、当時のFの心情に関しても「Yから共謀への同意を取り付けられてホッとするとともに大いに感激した。『殺人という重大な行為』を一緒に実行してくれるYに全幅の信頼を置いたとしても不思議ではない」と推測した[書籍 96]。
喫茶店を出たF・Y両名は細かい実行計画を練り以下のように犯行計画を固めた一方[書籍 96]、翌27日の仕事は「Yが叔父から『帰って来い』と言われている」という方便で辞退することとした[書籍 97]。
- 翌日(1982年5月27日)20時に決行する[書籍 96]。この時間帯を選んだ理由は「Aの父親Dが仕事を終えて帰宅している時間帯」と予想したためで[新聞 64]、FはDを含めた一家4人を皆殺しにする目的で犯行計画を立てていた[新聞 66]。しかし結果的にはDはこの日2時間にわたり残業していた上、3日後の日曜日に控えていた社内の親善ゴルフ大会に向けて平塚市内の相模川河川敷にあったゴルフ練習場へ向かおうとしていたため[書籍 98]、事件当時は不在だった[新聞 64]。
- 凶器はFが事前に用意していた刃物3本を用いる[書籍 96]。うちFが包丁2本・くり小刀1本はYが持ち、Yはまず電話線を切断する[書籍 96]。
- 家に侵入したらチェーンロックを掛け、逃げようとする被害者は羽交い絞めにし、家族を皆殺しにする[書籍 96]。殺害行為はFが実行し、Yは家人が屋外に避難しようとしたときに刃物を突き付けてこれを阻止する[新聞 6]。
そしてFは自動二輪車にYとともに2人乗りして国道129号を北上して東京都町田市へ出かけると「ボタン付きの服は犯行当時にボタンを落とす可能性がある」という理由でYに黒いジャージ・運動靴を買い与えて着替えさせたほか[書籍 99]、同日には自宅近くのオートバイ店へYとともに出向いて自分のオートバイのオイル交換を依頼していた[新聞 67]。その後FはYとともにいったん帰宅して銭湯に行き、かつて自分が在学していた平塚市立富士見小学校近くの旅館に宿泊した[書籍 99]。
このようにFがAとその家族の殺害計画を練っていた一方、被害者Aの担任は「Aが校門で待ち伏せされている」などの事態を把握して在校生から平塚市内などの中学校卒業アルバムを借り、「山田等」と名乗った男(=F)の素性を調べようとしていた[書籍 100]。またBはこのころまでに中学校で同級生に「姉(A)が男(Fのこと)にしつこく付きまとわれ、いたずら電話も頻繁にかかってきて困っている。怖くて外に出られない」などと悩みを打ち明けており、これに対し級友らは「(Fは)気持ちが悪いね」などと応じていたが、後にBら母娘3人が惨殺されることは完全に予想外の出来事だった[新聞 13]。
事件当日
事件当日の1982年5月27日朝にはFの自宅を戸塚署員2人が訪問したが、FはYとともに前夜から平塚市内の旅館へ投宿していたため不在だった[書籍 101]。その後(「戸塚署員訪問」と後述の「平塚署からの電話」とのちょうど中間の時間帯)[書籍 101]、Fは10時ごろにいったん帰宅してYとともに16時ごろまで音楽鑑賞などをして時間を潰したが[書籍 99]、戸塚署員訪問の1時間後にはF宅に平塚警察署から「Fが平塚市内で起こした交通違反の件」で呼び出し電話が入っていた[書籍 101]。F・Y両名は互いに身体検査を行いあった上で[新聞 64]、16時ごろに自宅を出て平塚駅前に行き「Fが犯行時に使用する運動靴」を購入したり夕食を食べたりしてから再び自宅に戻り、Fの両親・妹が夕食を食べている中で凶器3本・手袋6足を入れて用意してあったスポーツバッグを取り出して中身の凶器・手袋をボストンバッグに詰め替えた[書籍 99]。Fは19時にYを自動二輪車の後ろに乗せて自宅を出発し、茅ケ崎駅前のスーパーマーケット横の駐輪場に駐輪すると駅前バス停留場から神奈川中央交通・藤沢駅行き路線バスに2人で乗車し、約10分後に国道1号上のバス停「二ッ谷」で下車して徒歩で数分の場所にあった少女A宅に向かい[書籍 99]、現場付近の路上でYにくり小刀を手渡した[新聞 64]。なお事件直前に外出した当時のFは「長袖・Vネック・ベージュ色のコットン地のセーター」を着用していたが、事件翌日9時ごろにはそのセーターがF宅の軒先に干されていたことが確認されている[新聞 67]。
Fは当時不在だった父親D以外の母娘3人を皆殺しにすることを決意し、1982年5月27日20時ごろにYと共謀して凶器の包丁2本・くり小刀を持参した上でそれぞれ新聞集金人を装い[裁判 1]、神奈川県藤沢市辻堂神台二丁目7番地3号の少女A宅を訪れた[新聞 68]。それ以前から下見を含めて少女A宅を数回にわたり訪れていたFは[書籍 99]「Aの父親Dも含めて一家4人を皆殺しにしてやる」と考えていたが[新聞 69]、A宅のガレージに自動車が駐車されていなかったことから「Dはまだ帰ってきていない」と悟った[書籍 99]。しかし周囲に人通りがあったため[書籍 99]「Dの帰宅を待っていると怪しまれる」と思い[新聞 6]、「目撃されないうちに押し入って母娘3人を殺し、室内でDの帰宅を待ち伏せよう」と決めた[書籍 99]。
Fは既にAとその家族に声を知られていたため[書籍 99]、「自分の声では家族が警戒する」と考え[新聞 64]、A宅を初めて訪れたYが玄関ドアの前に立ち[書籍 99]新聞集金人を装って玄関ドアを叩いた[新聞 64]。屋内でA・B・Cの母娘3人が夕食を食べていたところでYが玄関のチャイムを鳴らすとB・C両名が玄関に出て応対した[書籍 102]。偶然とはいえ同日昼過ぎには本物の新聞集金人がA宅を訪れており、その時には中間テストを終えて帰宅していたAが応対して「母がいないのでまた来てください」と答えていた[書籍 102][注 35]。
「玄関の外に立っている男は娘にストーカー行為を繰り返していたFだ」という事実に気づかなかったCが玄関ドアを開けたところ、軍手をはめて包丁を握ったFがYとともに家の中に押し入り、Yが素早くドアのチェーン錠を掛けて玄関に置いてあった電話機の電話線を切断した[書籍 102]。Fは共犯Yに廊下で見張り役をさせ、被害者3人が現場から逃避することを妨害させつつ[新聞 70]、2本の凶器(文化包丁・刺身包丁)のうち文化包丁を手に取り[新聞 6]、被害者宅の居間へ[新聞 64]怒鳴りながら土足で上がり込んだ[書籍 102]。
Fはまず目についたB・C両被害者のうち手近にいた次女Bに襲い掛かり、胸部・腹部などを突き刺すと、Bが転倒したのを見届けた上で台所にて母親Cを襲撃して胸部を2回突き刺した[新聞 6]。さらに長女Aが異変に気付いて2階から降りてきたところ[新聞 64]、Fは台所と居間の境にいたAを襲撃して[書籍 102]胸部を2回突き刺し[新聞 6]、被害者母娘3人を持っていた包丁・くり小刀で次々と滅多刺しにして、3人をいずれも以下のような傷害により失血死させて殺害した(第2の事件・藤沢事件)[裁判 1][新聞 68]。A・B姉妹ともに心臓に達するほどの深手が致命傷となりほとんど即死状態で、Cは刺された後も台所のドアを開けて外まで這い出たところをFにくり小刀でとどめを刺された[書籍 102]。
- 少女A - 6か所におよぶ右前胸部刺切創などの傷害[裁判 1]。心臓を一突きにされていた[新聞 70]。
- 少女Aの妹B - 15か所におよぶ左右前胸部刺切創などの傷害[裁判 1]。
- A・B姉妹の母親C - 6か所におよぶ背部刺切創などの傷害[裁判 1]。肺に通じる大動脈が切断されていた[新聞 70]。
被害者母娘3人は「周到な準備・刺突訓練まで重ねた屈強な若い男」を前にして抵抗することも逃げることもできず、背中・胸などを滅多刺しにされて絶命し[書籍 103]、Cの遺体の背中には文化包丁・Bの遺体の胸にはくり小刀がそれぞれ突き刺さったまま現場に放置された[新聞 26]。Fは次女Bを殺害した際、うめき声をあげていたBの胸を包丁で突き刺してとどめを刺そうとしたが、包丁は右腕に刺さり筋肉収縮により抜けなくなった[書籍 86]。この時に携行していた刺身包丁を落としてしまったため、FはYからもぎ取ったくり小刀でBの背部を突き刺した[新聞 6]。Bは最後に激しく抵抗したため10か所以上を刺されたにも拘らず、絨毯の上でもがき苦しみながら絶命した[新聞 64]。Fはその後、Bの背部をくり小刀で2,3回つついて死亡を確認すると[新聞 6]、うつぶせに倒れていた長女Aの背中をくり小刀で突いたが、まだ息があることを確かめたためとどめを刺した[新聞 64]。しかしこの時、Cが瀕死の重傷を負いつつも起き上がって勝手口から逃げ出そうとしたことに気づいたYが「やばいぞ」と声を上げたため、Fは裏口の通路へ飛び出してCの肩口を掴むと背後から2回突き刺してとどめを刺し[新聞 64]、Cは隣家との幅わずか1mの勝手口通路で息絶えた[新聞 41]。
被害者3人の死亡推定時刻は近隣住民の証言・司法解剖結果などから「20時前後」と推定され[書籍 103]、同時刻ごろには被害者女性Cが自宅で絶命する寸前に隣人の主婦に「奥さん」と2度にわたり助けを求めるような声を出したが、その主婦は恐怖から外に出られず部屋の照明・テレビを消して室内に籠っていた[新聞 71]。そこに女性の夫が帰宅したため、夫婦で家の外に出て被害者A一家宅に回ったところ、裏庭で瀕死の被害者Cが「お姉ちゃんは…?」と消え入るような声で長女Aの身を案じていた[新聞 71]。
F・Y両加害者は犯行後もそのまま家の中に隠れ[新聞 63]、A・B姉妹の父親(Cの夫)である男性Dの帰宅を待ち伏せてDも刺殺する予定だったが、3人の悲鳴が大きかったため「近隣住民に犯行を知られたのではないか?」と恐れて断念し[新聞 70][新聞 6]、「わずか数分か長くて5分」の犯行後に玄関から逃走した[書籍 103]。しかし実際には大半の家庭が雨戸を閉めてテレビを視聴しており、悲鳴を聞いた住民は数人しかいなかったばかりか、悲鳴を聞いたわずかな住民もいったんA宅近くまで出向いたが引き返したり「子供の喧嘩だろう」と思って気に留めなかったりしたほか、雨戸を開けて外を覗いた人もいたが不審な様子が確認できなかったため110番通報まではしなかった[新聞 41]。なおYは廊下で見張り役をしていたものの被害者3人を押さえつけるなどの行為はせず、室内にYの足跡・指紋などは残されていなかったほか[新聞 70]、凶行の一部始終を目撃して戦慄していたため、犯行後にFから「ガタガタするな」と叱られていた[新聞 66]。
事件発覚
現場住民の会社員男性D(当時48歳・Cの夫でA・B姉妹の父親)は事件発生時刻ごろに相模川河川敷のゴルフ練習場に向かって自家用車を運転していたが、その途中で虫の知らせを覚えてゴルフ練習場へ向かうのを中止し帰宅した[書籍 98]。Dが帰宅したところ、自分が帰宅する時間帯には点灯しているはずの玄関の街灯が消えていた上、普段は妻子が開けてくれるはずの玄関ドアも閉まっていた[書籍 104]。男性Dが「普段は見慣れない光景」に違和感を覚えつつも自分でドアを開けて家に入ったところ、玄関先の電話機に接続させていた電話線が切断されており、家の中からも家族の声が全く聞こえてこなかった[書籍 104]。Dは「妻子が既に殺されている」とは考えもせず「A・Bが酷い姉妹喧嘩でもしたのだろう」と考えつつ洋間に入ったが、そこで食卓近くにて長女Aが、台所との境目においてあった冷蔵庫前の床に次女Bがそれぞれうつぶせになって倒れており、Aの倒れていた辺り一面が血の海になっていた[書籍 104]。Dは娘2人の惨殺された光景を目の当たりにしつつも「妻だけでも生きていてほしい」と一縷の希望を持ちつつ、妻Cが既に裏庭で死亡していることも知らずに押し入れ・トイレ・2階などを探したが家の外周までは探す余裕がなく、警察へ110番通報しようとしたが混乱していたために電話線が切断されていることを忘れており、いったんは電話線が切断された玄関先の電話機を手に取った後に20時40分ごろになって隣家の電話を借りて神奈川県警察へ110番通報した[書籍 104]。110番通報を受けた神奈川県警本部通信指令室は「殺人容疑事件」として事件現場付近を走行していた機動捜査隊のパトカーに現場急行を指令するとともに所轄の藤沢警察署および隣接各署(当時は茅ヶ崎・海老名・大和・戸塚・鎌倉の各警察署)に緊急配備命令を出した[書籍 92]。
藤沢署員が通報を受けて事件現場に駆け付けたところ、男性の娘2人(A・B)が食卓脇でそれぞれ胸を刺されてうつぶせになって死亡しており[新聞 3][新聞 40]、さらに隣家との境になっていた台所裏の裏庭にてうつぶせで血を流して死亡している妻Cを発見した[書籍 104]。被害者Cの遺体の背中には刃渡り13.3cmのくり小刀(柄を含めた全長24cm)が突き立てられていたほか、被害者Bの右腕にも刃渡り18.4cm(全長30.3cm)の文化包丁が突き立てられ[書籍 92]、Bの腕に刺さった包丁は床まで串刺しにされていた[新聞 65]。それら刃物の鞘・段ボール箱ケースなどが遺留されていたことに加え、こちらは犯行には使用されることはなかったが台所の床の上には包丁ケースに入ったままの刺身包丁(刃渡り20cm・全長33cm)が落ちていたほか、殺害された3人の血液型(A型)とは異なるO型の血痕が玄関の三和土に残され、台所にも波型に刻まれたゴム底の足跡があった[書籍 92]。
事件現場は室内の照明・テレビがつけっぱなしになっていたほか、リビングの食卓上には3人分の食事が箸をつけた状態で残されていた[新聞 3][新聞 40]。また遺体は3人とも血まみれ・即死状態だった一方で抵抗した跡・着衣の乱れは確認できず、室内に物色の形跡も見当たらなかったため、神奈川県警捜査一課・藤沢署は現場の様子などから総合して「3人は食事中に襲われ、Cは裏庭に逃げたところで殺された」と推測した上で本事件を殺人事件と断定して捜査を開始した[新聞 3][新聞 40]。1982年5月28日0時、神奈川県警は藤沢署内に「藤沢市辻堂母娘殺人事件捜査本部」を設置して同署員100人・本部から派遣された捜査一課員30人・鑑識課員20人・機動捜査隊員45人の計195人を動員した[書籍 105]。県警の聞き込みを受けた近隣住民は「事件当日19時30分ごろにAら3人の悲鳴を聞いた」と証言したほか[新聞 40]、当時の『中日新聞』報道では「事件約1週間前にAの友人とみられる『高校生風の男』が被害者宅に押し掛け、家人の通報でパトカーが出動する事件があった。捜査本部はその男と本事件の関連を調べている」と言及された[新聞 40]。
この事件は被害者少女A・B姉妹の同級生たちにも大きな衝撃を与え、Bが通っていた明治中学校では「級友が事件翌日に貧血で卒倒する」「Bより1学年上の先輩(3年生)がショックでひきつけを起こす」など心的外傷後ストレス障害(PTSD)を引き起こした生徒もいた[新聞 13]。その後、Aが在学していた茅ヶ崎高校では事件から約20日が経過した6月16日に重要参考人としてFが逮捕されると落ち着きが戻るようになった[新聞 72]。
被害者3人の遺体は1982年5月28日未明に神奈川県警科学捜査研究所(科捜研)で司法解剖され、いずれも死因は「胸・背中を鋭利な刃物で4,5か所刺されたことによる失血死」と断定された[新聞 71][新聞 73]。捜査本部は被害者全員の遺体に多数かつ大小数種類の刺し傷があった一方、3人全員が現場から逃げられなかったことに着目し「単独犯では不自然であり、複数犯の可能性が高い。凶器も複数使用されたことが確実だ」とほぼ断定した[新聞 74]。一方で『読売新聞』神奈川県版では「現場に残された犯人のものと思しき足跡・血痕の血液型はいずれも1種類で、Aの遺体は階段下で発見された。『犯人はまずダイニングキッチンでBを襲い、さらに逃げるCを襲った。最後に階下の異変に気付いて2回から降りてきたAを殺した』と考えれば単独犯でも可能だ」と指摘されていた[新聞 65]。
このほか、犯人が室内を物色していないことが判明した一方[新聞 71]、犯行の状況としては「短時間で3人を刺殺したことに加え、包丁の握り部分まで強く刺し込むほどの犯行態様」から犯人像は「粗暴な若い男」に絞られた[新聞 65]。そして「加害者は被害者を前からいきなり胸を刺し、逃げる被害者を追いかけて背中からとどめを刺す」という犯行の様相も判明したため、捜査本部は「恨みによる犯行」との見方を強め、被害者の交友関係を調べるなどして捜査した[新聞 73]。また捜査本部は事件発生時刻前後の不審者情報などの聞き込みに全力を挙げた一方、事件前から長女Aに付きまとっていた男(後にFと判明)の存在を把握したことから[新聞 71][新聞 73]、28日夜までに「長女Aに付きまとっており事件後に失踪した男が何らかの事情を知っている可能性が高い」と断定して行方を追った[新聞 71][新聞 75]。
- なお『読売新聞』はその男に関して「平塚市内在住の『田中』と名乗る20歳の男」と報道したが[新聞 75]、実際にFが使用していた偽名は「山田等」だった上、実際にはFの当時の年齢は21歳だった[書籍 106][注 36]。また『読売新聞』1982年6月3日神奈川県版はFの人物像が前述の「粗暴な若い男」という犯人像と一致することに加え、前年に発生したX事件でFが参考人として取り調べられたことにも言及した[新聞 65]。
- また地元紙『神奈川新聞』はその「不審な男」に関して「平塚市内在住の17歳少年でミニバイクを乗り回しているが、この少年は長女Aの生徒手帳に書かれていなかった上、男性Dも1度しか会っていないから顔もあまりよく覚えていないそうだ」と報道した[新聞 71]。これに加えて「バイクを乗り回していた」点・事件当夜(発生時刻に近い19時50分ごろ)に現場付近でたむろしていた暴走族のメンバーが仲間の少女から「人を刺してきたのか?」と詰問されていた姿が目的されていた点から「藤沢市・平塚市内の暴走族グループが犯行に関与しているのではないか?」「Fがその不審な男女グループのメンバーである可能性がある」という趣旨の報道もされたが[新聞 76]、実際のFは暴走族に入っていなかった[書籍 38]。
被害者3人の葬儀は母親Cの実家近くにある法源寺(鎌倉市腰越)で1982年5月29日19時から営まれ[新聞 71]、翌30日11時30分から告別式が営まれた[新聞 77]。
一方で捜査本部は事件3日後(1982年5月29日)には現場付近2か所に情報提供を求める立て看板を掲出した一方[新聞 78]、執拗な手口・男性Dの「『平塚の山田等』と名乗った男から娘Aが付きまとわれていた」という証言からこの事件を早くも怨恨殺人と断定して「山田等」を有力被疑者としてマークしたが、被害者A・C両名が生前に残していた「山田等」の住所・電話番号を手掛かりに平塚市役所の戸籍係で該当者を探しても「山田」姓の住民はいなかった[書籍 107]。そのため周辺で聞き込み捜査を行ったところ、普段から素行が悪く犯行時間帯にアリバイがなかったFが浮上し[注 37]、その顔写真を男性Dに見せたところ「この男によく似ている」という供述を得た[書籍 107]。その顔写真は散髪前のもの(Fが男性Dと対面した際は丸刈りにしていた)だったため、それだけでは同一人物と断定できなかったが、現場・国道1号の歩道に落ちていた血痕がFの血液型と一致したほか、現場宅の玄関ドア内側からはFの掌紋が検出され、さらに残された足跡と同種の靴(25.5cm)がFの自宅に置いてあったことも判明した[書籍 107]。またF宅には事件数日前から「同年齢ぐらいで身長が高い男(=Y)」が頻繁に出入りしていたが、事件以降はFとともに姿をくらましたことも確認された[新聞 62]。
しかし男性DがFに対し抱いていた印象は「17,18歳程度」で実際のFの年齢(21歳)とは隔たりがあったほか、Fの無断外泊は以前から度々あったこと、Fの掌紋も以前に家まで押しかけてきた際に付着していた可能性が否めなかったこと、凶器から指紋が発見されなかったことから、この時点では「Fの犯行」と断定するには至らなかったため[書籍 107]、殺人容疑でFを指名手配することはできなかった[新聞 33]。中でもその犯行動機は事件解決の実績豊富なベテラン捜査員でも「それだけで3人を殺害する動機になるだろうか?」と疑問を呈さざるを得ないものであったため[注 38]、Fに限らず両親を含めた一家4人の関連人物をアリバイも含めてくまなく捜査したが、D・C夫妻や次女Bの周辺人物からは犯行に結びつく動機を持つ人物は浮上しなかった[新聞 77]。結局、F以外に捜査線上に浮上した人物はほとんどが「容疑性なし」と結論付けられたため、事件発生時間帯にアリバイがなく事件後から行方不明になっていたFへの容疑が次第に強まっていった[書籍 108]。
捜査本部は男性Dの「せめて納骨までには犯人を逮捕してほしい」という声に応えるべく第一機動隊員150人を動員して遺留品捜索・タクシー運転手や通行人など1,200人近くへの聞き込みによる足取り操作などを行い、事件解決までに捜査本部が事情聴取した人数は容疑の濃淡を問わず2,000人に上った[書籍 109]。事件直後から被疑者としてFの存在こそ把握していたものの、後述のようにFから知人への電話が掛かるまではその行方さえつかめず、新たな証拠なども特に見つからないような膠着状態がしばらく続いた[書籍 109]。
- 捜査本部は目撃者である近隣住民の「事件当日は被害者宅の勝手口が開いていた」という証言から「犯人たちは勝手口から侵入した」という見方を強めたが[新聞 80]、実際には侵入・逃走経路とも玄関経由だった[書籍 102]。また近所で集金をしていた人が「事件当夜(19時30分ごろ)、被害者宅周辺に不審な自動車2台が駐車してあった。車があまり通らない時間だから怪しく思った」と証言しており、捜査本部は「複数犯人説を裏付ける有力な材料になる可能性がある。また前述の暴走族と関連している可能性もある」と推測したが[新聞 80]、これも結果的には事件と無関係だった。
- 一方で捜査本部は1982年6月1日、それまで国道1号沿いにて重点的に行っていた捜索の範囲を海岸線(国道134号)まで拡大して実施し、血液が付着したシャツ・シーツなど10点を発見した[新聞 80]。それまでの捜査ではA宅に加え、A宅から約250m離れた国道1号の歩道上にも約50mにわたり血痕が二十数か所にわたり発見されたがそこまでで途切れており、A宅 - 国道間の道路にも血痕はなかったほか、さらにその先の平塚市方面・湘南海岸まで範囲を拡大した大捜索でも犯人の血痕は発見されなかった[新聞 65]。「仮に犯人が犯行時に怪我をし、逃走中にハンカチ・タオルなどで傷口を撒いて止血しつつ逃走したとしても不可解」であることに加え「犯人は大量の返り血を浴びたはずなのに目撃者がいない」点もあったため、捜査本部は「逃走を手伝った者がいる」と推測していた[新聞 65]。
一方で被害者宅の電話線が引きちぎられていたこと、後にFと判明した不審な男が少女Aが通学していた茅ヶ崎高校に「お母さんが急病で倒れた」など嘘の電話をかけて少女Aを誘い出そうとしていたり、Aの自宅に5,6回電話をかけて執拗に交際を迫ったり登下校中に待ち伏せるなどしていたため、たまりかねた少女Aが2度にわたり担任教師に相談していたことも判明した[新聞 81]。
事件解決後に判明した新事実
なお本事件には発生当時から正確に解明されず「憶測に近い形」で解釈されていた2点の事実があった[書籍 86]。
- 妹Bが受けた刺し傷が姉A・母Cに比べて異様に多かった理由[書籍 86]
- 前述のように「Fは長女Aに最も強い恨みを抱いていたにも拘らずその妹Bの刺し傷が異様に多かった」点が疑問視され、報道機関は事件当時「F自身の妹に対する恨みを(八つ当たりのような形で)Bに集中させた」と推測して報道したが、実際には「まだ息があったBにとどめを刺す際に使用しようとした包丁がBの右腕に刺さったまま筋肉収縮で抜けなくなったためにYのくり小刀で何度もBの胸を突き刺したため」だった[書籍 86]。
- また遠藤は「仮にFがBへの恨みを抱いていたとすれば前述のような『自分の妹への恨み』ではなく『一度は自分とキスをした仲だったにも拘らず姉Aからなされた侮辱に同調したこと』だろう」と推測している[書籍 86]。
- 少女Aが加害者Fとの交際を再開した理由[書籍 110]
- 長女AはFとの交際と同時期に別の神奈川県内の成人男性と文通をしていたほか、事件前年(1981年)夏からは同級生の男子生徒に好意を寄せていたが、前者との交際は不調に終わり、後者に対しても告白できずにいた[書籍 110]。
- またAとともにFから声を掛けられた同級生の女子生徒は『読売新聞』の取材に対し「『早くボーイフレンドが欲しい』と言っていたAは(前述の)成績優秀だった同級生男子生徒に以前から好意を寄せており、1982年2月14日(バレンタインデー)にはその男子生徒へチョコレートを贈り交際を求めたが『僕には他に付き合っている子がいるから…』と断られ失恋していた。あの失恋が結果的にAとFを近づけてしまったかもしれない」と述べた[新聞 42]。その取材結果を踏まえ、同紙神奈川県版記事も「Aが抱いていた『ボーイフレンドが欲しい』という憧れはミドルティーンなら当然だろう。街で声掛けられた男の子と交際を始めたとしても特に奇異には映らない」と評している[新聞 42]。
- 遠藤はこの点から「長女Aは同級生の男子生徒に告白できないことの寂しさを紛らすため、もしくは心の空白を埋めるために成人男性と文通に応じたのだろう。同時にFは『しつこさこそ目に余るが自分へ盛んにモーションをかけてくる存在』だったため、いったんは自ら避けることを決めたばかりか、父親Dからも『付き合うな』と言われたFと電話で会話したり対面したりしたのだろう。しかしFには『Aを思い詰める気持ち』はあっても『Aが思い煩う内面』を理解できるだけの思いやりがなく、Aはそれまで時に喧嘩しても強引に押していけば会ってくれたから『このまま突き進めば相思相愛の間柄になれるのではないか』と幻想を抱いた。しかし、それが幻想だったことを認識したことで殺意が生まれたのだろう」と推測した[書籍 110]。
- 長女AはFとの交際と同時期に別の神奈川県内の成人男性と文通をしていたほか、事件前年(1981年)夏からは同級生の男子生徒に好意を寄せていたが、前者との交際は不調に終わり、後者に対しても告白できずにいた[書籍 110]。
事件後の逃走生活
一方でF・Y両加害者は母娘3人を惨殺した直後に国道1号まで全速力で走って逃げ、同国道を西に折れて茅ヶ崎市内の小和田郵便局まで徒歩で逃走すると20時30分ごろ、横浜市から中郡大磯町内の営業所に戻る途中で同所付近を通過していた空車のタクシーを呼んで乗車した[書籍 111]。Fは当初の行き先としてタクシー運転手に「国鉄東海道線茅ケ崎駅前」と伝えたが、その後「同線大磯駅で別のタクシーに乗り換えて逃走経路を攪乱しよう」と考えたことから行き先を大磯駅前に変更した[書籍 111]。その途中でタクシーはFの自宅付近を通過したが、Fは前述の目的から自宅に直行することを避けた[書籍 111]。
F・Y両加害者が大磯駅前に到着したタクシーから下車して改札口東の公衆トイレに入り傷口を確認したところ、Fの左手首・右親指の切り傷をはじめそれ以外にも無数の小さな傷があった[書籍 111]。その中でも左手首の切り傷は静脈にまで達していたためか、後に帰宅した際にも血液が滴っていた[書籍 112]。Fがトイレットペーパーで血液を拭き取ろうとしたところ、手袋の片方が水洗トイレの便器に落ちてしまい、拾い上げることを躊躇しつつ水を流すと手袋もそのまま流れたため、F・Y両加害者は証拠隠滅のために血液が付着した手袋4足を同様に流し[書籍 111]、手を洗った[新聞 82][注 39]。
約20分間を公衆トイレの中で過ごした2人は大磯駅前のタクシー乗り場で再びタクシーに乗車したが、Fはこのタクシーの運転手が先ほど乗車した時と全く同じ運転手であることに気づき唖然とした[書籍 112]。しかし既にYを奥の座席に座らせていたことからFは「このまま乗車を断念するとタクシー運転手から怪しまれる」と考えてそのまま自宅前の狭い路地までこのタクシーに乗車して帰宅した[書籍 112]。Fは自宅前に到着した際、「大磯駅で降りた際に支払った1,000円札に血液が付着した可能性がある」と危惧し、その1,000円札を釣り銭で回収できる機会に賭けて「1万円札で母親に料金を払わせよう」と考えたが、母親に「1万円札で支払ってほしい」と説明してもその説明が要領を得なかったため、母親は結局1,000円札を出して釣り銭を受け取った[書籍 112]。これに憤慨したFは母親を怒鳴りつけ、今度は1万円札をタクシー運転手に差し出して両替を求めたが、タクシー運転手が持っていた1,000円札は10枚に満たなかったため、Fは結局血液の付着した1,000円札を回収できなかった[書籍 112]。
F・Y両加害者とも家の中に上がり、Fの母親は息子の左手首の傷を不審がりつつもマーキュロクロム液を塗って包帯を巻くなどして手当てしたが[書籍 112]、Fはその傷を「人を殺してきた。母娘3人を殺した」と答えた[書籍 113]。これを聞いて就寝していたFの父親が起き出し、両親ともFに警察への自首を勧めたがFは「絶対に自首しない。逃げる」と答え、なおも説得されると「警察に通報したら家族を皆殺しにするぞ」と言い放った[書籍 113]。F・Y両加害者は40分近くF宅に滞在している中でFの母親に「鈴木」の偽名でタクシーを呼ばせていったん茅ケ崎駅に向かい、Fは犯行前に同駅前駐輪場に駐輪してあった自動二輪車を自宅に持ち帰ると衣服を着替え、犯行時に着用していた衣服をボストンバッグに詰め込み、大阪方面への逃走を開始した[書籍 114][注 40]。事件前の1982年5月12日に藤沢市内でひったくりをして得た現金66万円のうちこの時点で約半分の30万円ほどが残っていたため、それらの現金と同じくひったくりで得たハンドバッグを持参してタクシーで東海道線小田原駅へ向かった[書籍 115]。F・Y両加害者は小田原駅で23時48分発・沼津駅行き普通電車に乗車し、沼津駅到着から約1時間後には後続の大垣駅行き夜行列車・さらに大垣駅で同駅始発西明石駅行き普通電車を乗り継いだが[書籍 115]、その際にFは夜行列車内でYが母娘殺害事件の際に何もできずに立ちすくんでいたことを非難しており[書籍 116]、Yがその事実に負い目を感じていた一方、Fはこの時点から「Yが警察に自首するかもしれない」と疑心を抱いていた[書籍 117]。
翌日(1982年5月28日)9時57分に大阪駅へ到着したFは当初「犯行時の衣服を大阪駅周辺のコインランドリーで洗濯してから遺棄しよう」と考えていたが、同駅周辺は阪急・阪神・大阪市営地下鉄(現:大阪市高速電気軌道)などの駅が集中して人通りも多かったため、Fは目標としていたコインランドリーが見つからないことにいら立ち「より馴染み深い兵庫県尼崎市内へに移動しよう」と決意し[書籍 115]、Yとともに阪神電気鉄道本線・梅田駅から阪神電車に乗車して13時ごろに阪神尼崎駅へ到着し、駅北口から尼崎中央・三和・出屋敷商店街に入ると商店街内のコインランドリーで衣服を洗濯して犯行当時の靴とともにごみ収集所へ投棄した[書籍 118]。その上でFは商店街付近の洋品店で「自分用の黒いジャージ上下」「Y用の近ズボン・青半袖シャツ」を購入したが、Yは「藤沢事件の際に何もできなかった負い目」からか退店時にFに「Fにばかり金を使わせて申し訳ない」と述べた上で「俺は恐喝で金を稼ぐ」と提案し、尼崎駅から北約200mの国道2号沿い商店街で刃渡り13.5cmのくり小刀を購入した[書籍 116]。その後2人は大阪に戻って夕食を摂り、Fは夕食後に自宅に「逃亡開始から初の電話」をして実母から「刑事が自宅にやってきて『山田等』と名乗った男を探している」と伝えられ、行き先を「(大阪とは逆方向の)北海道に行っている」と伝えて電話を切った[書籍 119]。
F・Y両加害者は20時12分新大阪駅発23時45分博多駅着の山陽新幹線「ひかり29号」に乗車して九州方面へ逃亡し、同夜は博多駅筑紫口(東口)付近のビジネスホテルに宿泊した[書籍 119]。1982年5月29日 - 6月4日にかけてF・Y両加害者は福岡県福岡市内に宿泊して[注 41]博多・中洲・天神など同市内の繁華街・熊本県熊本市などをうろつきながら過ごしていたが[書籍 120]、その間に「一家殺害の時に全く度胸のなかったYが警察に自首するのではないか」と不安になったことことから[裁判 1]、投宿先のホテルで「Yが信用できる人物か試そう」という意図のもと、財布をポケットに入れたまま狸寝入りをした[新聞 83]。このようにFがYに誘いの隙を見せたところ[裁判 1]、YはFが寝入る隙を突いてFから財布を盗もうとしたため、Fがくり小刀をYに突き付けたところ、Yは「Fは怖い。一緒にいるのが嫌になった」とこぼした[書籍 121]。この言葉を聞いたFは「Yは裏切り者だから口封じのために殺すしかない」と殺意を抱き[裁判 1][書籍 121]、その殺害場所・機会を狙うために「無目的のようなぶらつき」を繰り返していた[書籍 120]。Fはその準備として凶器を購入するため、1982年5月29日には「Yが尼崎で購入したくり小刀の予備の凶器を得よう」とYに「恐喝で金を稼ぐんだよな。俺も手伝う」という口実で声をかけ、福岡市博多区上川端町の金物店でくり小刀・バールを購入させた上に「恐喝の際に指紋を残さない目的」という口実でドライブ用の革手袋2足を購入した[書籍 122]。
Fはこのように九州で逃亡生活を送っていた間、数回にわたりYを殺害する機会を得ていたが「Yを油断させる口実で空き巣に入らせようとしたところで近隣住民に気づかれる」「熊本市内まで出向いたが土地勘がない上、防犯カメラの目が気になる」「福岡市内を歩き回ったことで『顔を覚えられてしまったのではないか』と気になる」などの悪条件が重なって機会を逸した[書籍 123]。そのため、1982年6月4日深夜(6月5日未明)に「九州では駄目だ。やはり尼崎でYを殺すしかない」と決断してYを尼崎へ連れ出すべく寝台特急「なは」(博多駅0時29分発大阪駅9時37分着・新大阪駅終点)に乗車して再び関西方面へ向かった[書籍 123]。
一方で息子Fの犯行を知ったFの両親は「このままでは世間に顔向けできない。息子の犯した罪の責任を取ろう」と2人で心中することを相談し、事件翌日(1982年5月28日)夜[注 42]に長女(Fの妹)を連れて「最後の晩餐」として3人で自宅近くのレストランへ行った[書籍 124]。その後、帰宅するとに長女へ「父親の実家へ行きなさい」と打ち明けたが、異様な雰囲気を察した長女は号泣して「私は今までお母さんのおかげで生きてきた。私への責任はどうしてくれるの?」と反対し[書籍 124]「お父さん、お母さんには生きていてほしい」と強い口調で言ったため[新聞 84]、両親は心中を断念した[書籍 124][新聞 84]。
Fが捜査線上に浮上
逃亡を続けたFだったが、藤沢事件で殺害されたA一家のみならずX・Y両名が殺害された2事件を含めて全被害者と接点があったことから、神奈川県警察捜査本部(県警本部捜査一課が藤沢警察署と合同で同署内に設置)から「被害者5人全員と交流関係があり、かつ藤沢事件以降に所在不明となっている」点から重要参考人として行方を追われた[裁判 3]。『読売新聞』1982年6月16日東京朝刊にて報道された「捜査本部が被疑者Fと母娘殺害事件との関連を重視した理由」は主に以下の通りだが、それまでの捜査では「犯行当夜の被疑者Fの足取りなど決め手になる裏付け」が取れなかったため、捜査本部は後述の脅迫容疑で逮捕状を用意した[新聞 85]。
- 現場の状況から「顔見知りの恨みによる犯行」が濃厚である点[新聞 9]
- 事件直前の1982年5月8日夜にFが被害者A宅に押し掛け、Aの父親Dから「もう娘とは付き合わないでくれ」と追い返されたことから「A一家を強く恨んでいた」と推測される点[新聞 85]
- 被害者A宅の玄関前・近くの国道1号歩道上に落ちていた血痕の血液型を鑑定したところ[新聞 9]、いずれも被疑者Fの血液型と一致するO型だった点[新聞 85]
- 凶器のくり小刀・文化包丁はいずれも被疑者Fの自宅周辺のスーパーなどで販売されていた点[新聞 85]
- 被害者A宅の玄関ドア内側から被疑者Fの掌紋が検出された点[新聞 85]
- 被疑者Fは「一見おとなしそうだがすぐカッとなる性格」で、友人たちからは「何をするかわからない男」と恐れられていた点[新聞 85]
また逮捕後には以上の理由に加え、以下の事実も被疑者Fの犯行を裏付けるものとなった[新聞 86]。
- 被疑者Fが逮捕された際、その体には左手などに新しい刃物傷が多数あった点[新聞 86]
- (後にY事件への関与がほぼ断定された際に)両事件とも被害者の遺体にくり小刀が突き刺されており、犯行の手口が酷似している点[新聞 86]
- 被疑者Fが犯行直前の27日19時ごろに共犯・被害者Yとともに自宅を出てから別件逮捕された6月14日まで姿をくらましていた点[新聞 86]
- 被害者A宅から発見された血糊の大きさが被疑者Fの足の大きさと一致した点[新聞 86]
事件発生から10日近くが経過した1982年6月4日夕方、被疑者Fは知人の少女に電話を掛け「今は横浜にいる。7日の夜7時(19時)ごろには平塚に向かう」と約束した[書籍 125]。この情報を把握した捜査本部が「Fはまた誰かに電話を掛けてくる」と推測しつつ次の手がかりを持っていたところ、Fは翌日(1982年6月5日)8時50分ごろになって[新聞 87]かつて自分や被害者Xと同時期に久里浜特別少年院で在院していた厚木市の元少年院仲間Z宅に電話を掛け、応対した父親に「息子には『Xの事件のことを警察に話すな』と伝えろ。約束を破ったら一家を皆殺しにする。お前の妻の勤務先も知っているから妻も強姦して殺すぞ」と脅した[書籍 57]。FがZを脅迫した動機は、殺害されたXとも親しかった彼がFに対し「お前がXを殺したんだろう」と詰め寄るなど、強い疑いを抱いていたためだった[新聞 15]。
さらにFは同伴していたY(同日夜に尼崎市内で刺殺)に対し「あいつ(電話相手の元少年院仲間Z)も殺すつもりだ。お前も手伝え」と告げ、Yは女性のような調子の声で電話相手の父親を脅した[新聞 15]。同日昼過ぎ、Zの父親は「電話の主は声・話し方の特徴から息子(Z)の元少年院仲間で自宅に2回ほど泊まったことがあるFに間違いない」と確信した上で県警厚木警察署にこの脅迫電話の事実を届け出た[新聞 87][書籍 57]。捜査本部はそれまで神奈川県警の全46警察署(当時)中26署から1人ずつ捜査員を招集して捜査に当たりつつも有力な証拠が得られないまま苦戦を強いられていたが、この「(Fの犯行を裏付ける)有力な証拠」となる被害届提出を受け、1982年6月8日には脅迫容疑で被疑者Fの逮捕状を請求した[新聞 87]。
脅迫容疑で逮捕状を得た捜査本部は残る20署からも新たに捜査員を動員し、主にFの交友関係の中心となっていた少年院当時の同室者などに重点を置きつつ、あらゆる方向へ捜査網を広げた[書籍 101]。一方でFはその後も連日のようにZ宅へ脅迫電話を掛け続け、逮捕状が発行される前日(Y事件後)の1982年6月7日夜には自宅近くに住む小中学校時代の同級生宅へ3分ほど電話を掛け[新聞 88]「何か変わったことはないか?」と探りを入れていたほか[新聞 57]、逮捕される約2時間前の6月14日正午過ぎにもZ宅へ脅迫電話を掛けていた[新聞 59]。
第3の事件(Y事件)
事件現場:兵庫県尼崎市西大物町90番地[注 43][新聞 5][新聞 89]。マンション「第二ハイツ玉江橋」[新聞 5][新聞 89][書籍 126][注 44] - 3・4階中間踊り場[新聞 89]
- Y事件の現場(現:兵庫県尼崎市昭和通二丁目6番地35号)
- 阪神電気鉄道尼崎駅(本線・西大阪線)北口東約500mに位置しており[新聞 5]、「尼崎駅から庄下川沿いに国道2号に出て玉江橋を渡った直後に右折し、庄下川沿い道路に面して建っていた2棟のマンションのうち橋から歩いて手前のマンション」だった[書籍 126]。
1982年6月5日朝、寝台特急「なは」に乗車して再び大阪に到着したF・Y両名は同駅および阪急梅田駅にほど近い映画館にて三菱銀行人質事件を起こした梅川昭美を題材とした映画「TATTOO<刺青>あり」(監督:高橋伴明)を鑑賞したが、遠藤は当時のFの精神状態を以下のように推測している[書籍 127]。
「どでかいことをやってやるんだ」―こう言い続けて死んでいった梅川と、Fが自らをオーバーラップさせたとしても、不思議ではない。梅川が思い描いていた「どでかい」ことと、Fのそれ(本事件)とは異なっていただろうが、社会を驚かせた点では、共通していた。隣(の席)に座っているYを殺すことなど、Fにとっては「ついで」のようなものだったかもしれない。—遠藤允、『Fの家』(1983年)[書籍 128]
その後Fは「強盗に押し入るマンションを探す」という名目でYを伴って殺害場所を探したが、その一帯では殺害場所をうまく見つけられなかったために「大阪は(盗みに入るのに)いいところがないから駄目だ。尼崎に行けばあるかもしれない」という口実で阪神本線・梅田駅から阪神電車に乗車し[書籍 128]、Yを殺害する場所として適当な場所を探そうと兵庫県尼崎市方面へ向かった[裁判 1]。
FはYとともに21時ごろになって尼崎駅の改札を出ると北口から前回訪れた商店街とは逆方向へ向かい[書籍 128]、偶然見つけたマンションで[裁判 1]少年Yに怪しまれないように「このマンションに強盗に入ろう。人妻がいたら強姦して逃げよう」などと持ち掛けた[書籍 126]。なお事件当時の『読売新聞』1982年6月25日東京朝刊[新聞 66]・『中日新聞』1982年6月26日朝刊は「自首しようとしたYが兵庫県警察尼崎中央警察署(現:尼崎南警察署)へ約150メートル(m)のところまで来た時に犯行発覚を恐れたFがYをマンション踊り場に誘導した」と報道していたほか[新聞 90]、『読売新聞』神奈川県版では「屋上が施錠されていたため出口の踊り場でくり小刀2本を取り出し、強盗の段取りを相談するふりをしてしゃがみこんだところでYが『俺はやりたくない』といったため、チャンスとばかりに刺殺した」と報道していた[新聞 15]。
Fは屋上にYを誘導してから殺害するつもりだったが、屋上は扉が施錠されており入れなかかったため「踊り場でYを殺害しよう」と考え、Yに「指紋が付着したものを落とせばそこから足がつく。持っているものを全部出して指紋を拭き取れ」と命じてYに所持品の腕時計・サングラスなどを取り出させ、手袋をはめて指紋を拭き取るYに小田原少年院などで過ごした日々の思い出話をした[書籍 126]。しかしYが指紋を拭き取り終わった直後、Fは豹変して「お前のような度胸のないやつをこのまま生かしておいたら俺の身が危ないから消えてもらう」と言いつつ[書籍 126]、以前から持ち歩いていたくり小刀2本を両手に1本ずつ握った上で殺意を持って右手のくり小刀でYの胸を突き刺した[書籍 2]。そのくり小刀は刃先が曲がったが、Fはもう1本の左手のくり小刀をYに突き付けて動きを封じつつ、刃先の曲がったくり小刀を右足で伸ばして再び襲い掛かった[書籍 2]。Yは特に凶器・武器となるものを持っておらず、なすすべもなく「既に4人を刺し殺しており手慣れて度胸もついている」Fに胸・腹などを突き刺されつつも階段を駆け下りて逃げようとしたが、Fは3・4階間の踊り場で高い位置からYに飛び掛かって押し倒し、両手のくり小刀でYの背中を滅多刺しにした上、最後はとどめとして右の背中・左脇腹を深く突き立て[書籍 2]、結果的に共犯少年Yを「29か所におよぶ右側頸部刺切創などの傷害」により失血死させて殺害した(第3の殺人)[裁判 1]。
Yを殺害後、Fはマンション屋上に通じる踊り場に駆け上り、くり小刀を入れてあった紙袋を拾って再び1階まで駆け降りると犯行に使用した手袋を紙袋の中に収めた[書籍 2]。これは「紙袋に指紋が付着していたためにどうしても回収する必要があったため」の行動だったが、マンション出口から道路に出たFは「周囲を注意深く観察する余裕」がなく、マンション最寄り駅の阪神尼崎駅まで徒歩移動して同駅でタクシーを拾って逃走した[書籍 2]。目の前の尼崎駅に発着していた阪神電車に乗車せず客待ちのタクシーで移動した理由は「返り血を浴びているから電車に乗ると怪しまれる」という理由であり、その後は新大阪駅まで移動した上で「山陽新幹線で再び福岡に逃走しよう」と目論んでいたが、タクシー運転手から「もう博多行きは終電が出た」と知らされたためにやむを得ず京都方面まで向かった[書籍 129]。しかし、タクシーの座席シートに返り血が付着してしまったためにタクシーを京都市内で乗り捨て、同市内で別のタクシーを拾って愛知県名古屋市内まで移動した[書籍 129]。
Y事件の捜査
21時45分になって現場マンション4階住民が踊り場を通りかかったところ、右脇腹・背中などを刺されて血まみれになり、くり小刀2本が刺さった状態でうつ伏せで倒れ死亡している少年Yを発見して兵庫県警に110番通報した[書籍 2]。これを受けて兵庫県警捜査一課・尼崎中央署は殺人事件として捜査を開始し[新聞 91]、事件翌日(1982年6月6日)2時には尼崎中央署内に捜査本部を設置した[書籍 2]。捜査本部による事件直後の調べによれば遺体の特徴は「20歳 - 25歳で身長170cm - 175cmの男性だがマンションの住民ではない」というものだったほか、22時ごろにマンション1階の駐車場にいた住民が捜査本部に対し「4・5階の階段付近で言い争うような声が聞こえた直後、3階付近から『110番して』と女性のような悲鳴が聞こえ、衣服に血液が付着した不審な若い男が階段を駆け下りて自転車で北に逃げた」と証言した[新聞 5]。そのため、尼崎中央署はその男の身柄を追うため隣接各署に緊急手配した[新聞 92]。
- なお当時の『朝日新聞』大阪朝刊は「事件直前に1階にいた住民によれば階上から女性の『110番通報して』という悲鳴が聞こえ、直後に不審な男2人組が自転車に相乗りして逃走したということだ。事件現場の状況から『被害者男性は2人の男に追われて5階付近の階段で刺され、降りる途中に力尽きた』と推測できる」と報道したほか[新聞 93]、『神戸新聞』朝刊も「事件発生時、現場近くに不審な若い男2人組がいた」と報道した[新聞 91]。また目撃証言の中には「現場で男2人が口論し、Yらしい男がもう1人に自首を勧めていた」とするものもあった[新聞 17]。
被害者Yが全身を滅多刺しにされていたことから捜査本部は「強い恨みを持つ顔見知りの人物による犯行」と推測して捜査を進め、兵庫医科大学にて遺体を司法解剖した結果「死因は右首の切り傷・刺し傷による失血死で死亡推定時刻は遺体発見直前。そのほか背中に10か所、胸・腹部に数か所の切り傷」と判明した[新聞 91]。尼崎中央署は司法解剖の結果が判明する前に指紋照会を行い、その結果判明した犯罪歴を基に被害者少年Yの身元を洗い出し[書籍 130]、同日中に被害者の身元を「東京都江東区森下三丁目在住、元ゲームセンター店員の19歳少年Y」と発表した[新聞 43]。事件発生直後こそ少年Yが尼崎市と全く接点がなかったために捜査は難航したが[書籍 130]、Yの身元が判明したことを受け兵庫県警が捜査員を東京に派遣して交友関係などを調べ上げたところ、被疑者Fと被害者少年Yの交友関係が判明した上、藤沢署捜査本部が以下の事実に注目して尼崎中央署捜査本部と連絡を取った[書籍 130]。
- 首都圏の新聞各紙で数少ないY事件を取り上げた『東京新聞』1982年6月7日夕刊記事に掲載されていた「滅多刺し」の手口が母娘殺害事件に酷似している点[書籍 130]
- 被害者Yは尼崎に土地勘こそなかったものの、母娘殺害事件以前に被疑者Fは「若い男」とともに行動していたことから「被害者Yは被疑者Fと行動を共にしていた」と考えれば合点がいく点[書籍 130]
- 実際に暴走族仲間が藤沢署捜査本部に対し「事件直前の1982年5月下旬に平塚市内で被疑者Fと一緒にいた」と証言した点[新聞 58]
1982年6月10日、藤沢署・尼崎中央署の双方の捜査本部に加えて警察庁の幹部が集結して1回目の合同捜査会議を開き「兵庫県警はY事件の起訴捜査に全力を挙げる」「神奈川県警は被疑者Yの身柄確保を最重点に捜査する」ことが取り決められた[書籍 130]。
Yを殺害した翌日(1982年6月6日)、Fは国鉄名古屋駅西口のサウナで仮眠した上で日没までは同駅周辺で過ごし、付近の洋品店にて着替えのスポーツウェア上下・ランニングシャツ・靴下などを購入し、返り血を浴びていた衣服はコインランドリーで洗濯した上で2か所に分散して廃棄した[書籍 129]。Fは名古屋駅から20時25分発の静岡駅行き普通列車(静岡駅23時42分着)に乗車し、終点・静岡駅待合室で声をかけてきた男を頼って徒歩約20分の静岡県静岡市西島(現:静岡市駿河区西島)の養豚業者宅へ宿泊した[書籍 129]。翌日(1982年6月7日)、Fは所持金が3万円程度まで減少していたことから仕事先を探すために静岡市内を回ったが仕事が見つからなかったため、東京に出ることを決め東海道新幹線・山手線を乗り継いで静岡駅から池袋駅まで移動した[書籍 129]。なおFは同日、静岡駅で購入した新聞に「尼崎市内のマンションで男性が刺殺された」(=Y事件のニュース)という記事が掲載されていることを確認したが、この時点では身元は判明していなかった[書籍 129]。池袋駅に到着したFはかつて新潟少年院で同じ寮にいた仲間を頼り借金をしようとしたが、その母親から「不在だ」と告げられた上に借金もできなかったため[書籍 131]、池袋駅西口のゲームセンターで一夜を過ごしたのちに翌8日早朝、池袋駅西口公園のベンチで声をかけてきた手配師について行き[書籍 129]、1歳年下の従弟の名前を偽名として用いた上で[書籍 131]同日からは国鉄大宮駅から北東へ徒歩40分ほどで陸上自衛隊大宮駐屯地にもほど近い埼玉県大宮市三橋町(現:埼玉県さいたま市大宮区三橋)の建設工事現場宿舎に偽名で住み込み、昼間は群馬県前橋市内の建設現場で働くようになった[書籍 132]。飯場は三食付き・工事の日当は3,000円で[新聞 94]。窃盗の前歴があったFが金に困っても盗みをせず不慣れな飯場暮らしをしていた理由について捜査本部は「警察の目を極端に恐れていたためだ」と推測した[新聞 95]。
Fは後述のように逮捕されるまで飯場内を整然と片付け「いつでも退去できる状態」にしていたほか、その間にも知人らと頻繁に電話などで連絡を取っていたが、その内容の中には「東北地方方面に行くから金を貸してほしい」といったものもあったため、捜査本部は逮捕後に「東北方面へ逃亡を企てた可能性がある」と推測して家宅捜索・知人からの事情聴取を行った[新聞 96]。
捜査
脅迫容疑で別件逮捕
一方で捜査本部はZから「金を無心された」と通報を受けたために被疑者Fが池袋にいたことを把握し、Fの身柄を追跡するべく神奈川県警で東京都心に最も近い川崎警察署に前線基地を設置して都内に追跡班を派遣した[書籍 132]。聞き込み捜査の結果、FはZとは別の元少年院仲間[書籍 132](大宮市内在住)[新聞 87]に対し「埼玉県内にいる」と告げていたことが判明したため、Fの身柄確保に全力を尽くしていた神奈川県警は特別捜査班を埼玉県内に投入して浦和市・大宮市・川越市などを捜索し[書籍 132]、Fの潜伏先を割り出すこととなった[新聞 87]。また捜査本部は事件当初「母娘は鋭利な刃物で刺し殺された」という事実を発表した一方で「事件現場に凶器は残されていなかった」と発表したが、『読売新聞』(読売新聞社)が1982年5月29日までに調べたところ「B・C両被害者の遺体にはそれぞれ包丁が突き立てられた状態で遺留されていた」事実が判明した[新聞 97]。
一方で逃走を続けていた加害者Fは「X殺害事件の口止めを図ろうとした別件脅迫事件」が判明したことから1982年6月14日にはその脅迫容疑で通常逮捕された[裁判 3]。母娘殺害事件から18日目の逮捕当日は雨のため仕事がなく、Fは退屈しのぎのために飯場から外出していたが[新聞 94]、同日昼前に神奈川県警捜査一課員・機動捜査隊員の2人組がFが潜伏していた宿舎と同じ道路沿い(約300mの距離)にあった埼玉県大宮市櫛引町の菓子店へ聞き込みに行った結果[書籍 132]、店の主婦から「数日前からほぼ毎日のように客として買い物に来ている」と証言を得たことから同店で張り込みした[書籍 133]。同日15時35分、当日は雨で仕事が休みだったことからFは同店へ菓子パンを買いに来たが、そこで待ち伏せていた捜査員2人に取り押さえられた[書籍 133]。Fが潜伏していた宿舎には「Fが自宅で購読していたものと同じ新聞」の「事件を報道した記事切り抜き」が置いてあったが、所持金はわずか3,000円だった[書籍 133]。
被疑者Fは逮捕には素直に応じ[新聞 87]、藤沢署の捜査本部にその報告がなされた上で直接の逮捕容疑が「厚木市内に住む元少年院仲間Z一家に対する脅迫」容疑であったために身柄を捜査本部により厚木警察署(脅迫事件を捜査していた所轄署)へ連行された[書籍 134]。被疑者Fは同日18時に厚木署に到着して脅迫容疑に関する弁解録取書を取られた後で隣接の伊勢原警察署へ移送されてポリグラフ検査を受けたが、遠藤は逮捕直後に被疑者Fの身柄を厚木署・伊勢原署へ移送した背景を以下のように評している[書籍 134]。
- 最初の逮捕時点で脅迫の事実はどの報道機関にも把握されておらず、報道陣は被疑者逮捕に備えて藤沢署に集中していたため、手薄だった厚木署への移送は被疑者Fを初めから大勢の報道陣の前にさらさなくて済むメリットがあった[書籍 134]。
- 伊勢原署管内(伊勢原市)に支局・通信部を持つ報道機関は当時皆無だったため、駐在記者が署の近くに何人も住んでいる厚木署に比べれば「報道陣に感づかれる可能性が最も少ない警察署」といえる[書籍 134]。
逮捕翌日(送検前日)の6月15日には報道陣向けの記者会見で「皆さんがよく知っている男(=F)が脅迫容疑で別件逮捕された」と発表されたが、その第一報となった1982年6月16日付の新聞各紙は『産経新聞』を除き実名報道を見送り匿名で報道した[書籍 135]。なお報道写真家・須田慎太郎は6月15日に伊勢崎署の裏口で刑事らに連行される加害者Fの写真を撮影したが、須田本人はその際のFの表情を「能面のように無表情のままで『なんとも肝の中のわからん人だな』と感じた」と述べているほか、後日その写真が掲載された写真週刊誌『FOCUS』(新潮社)を読んだ取り調べ担当の刑事は事件担当記者に対し「須田の撮影した写真には顔と同じで性格も無表情だったF本人らしさがよく出ている」と話している[書籍 136]。
取り調べの経緯
脅迫容疑で別件逮捕された当初は神奈川県警本部の捜査員2人が直接の取り調べを担当し、捜査本部を設置された藤沢署の署員1人が雑用・連絡係を務めた[裁判 3]。被疑者Fが伊勢原署内でポリグラフ検査を受けたところ、被害者B・Cの遺体に突き刺さっていた凶器や着ていた衣類などの質問に対し強い陽性反応が出たが、供述調書を取られた際には殺人・別件容疑の脅迫ともに全面否認した[書籍 137]。Fは不可解な点を捜査員から追及されてものらりくらりと言い逃れを繰り返し、被害者Aと出会った事実・A宅を訪れた点は認めたものの、「5月8日にA宅を訪れて以来会っていないし家にも言っていない」と主張した[書籍 138]。
被疑者Fはその後も藤沢事件およびX・Y両名殺害事件の被疑者として取り調べを受け始めたものの、過去に事件を起こして補導・逮捕されたことから取り調べを受けることに慣れており、追及を受けても以下のように犯行を否認し続けた[新聞 33]。
- 逮捕翌日(1982年6月15日)、捜査本部は身体捜査令状を取った上でFの体の傷を確認するべく医師に身体検査を依頼した[書籍 138]。Fが身体検査を受けたところ「左手首の静脈が切断された傷をはじめ2,3週間前に鋭利な刃物で切り付けられたような4か所の傷」が確認されたが、その傷について尋問されると「チンピラに因縁をつけられて切り付けられた」と供述した[書籍 139]。なおそれまでの捜査の結果「Fの体は事件発生2日前(1982年5月25日)まで特に目立つ傷はなかった」ことが判明していた[新聞 98]。
- 取り調べに対し薄笑いを浮かべつつ「そんなことは知らない」などと供述するなどしたほか[新聞 85]、取り調べ途中には電線マンの歌を歌ったり大声を出したりと挑発的な言動を繰り返し[裁判 3]、事件当日の行動について「発生推定時刻の20時ごろは平塚市内を走り回っていた」と供述した[書籍 140]。しかし「アリバイ」と主張する行動に関してその裏を取ると「まったくのでたらめ」というような状況があり、その点を追及すると「壁に頭を打ち付ける・立ち上がるなど相当な動揺」を示した[裁判 3]。
- 逮捕2日後(1982年6月16日)にはポリグラフ検査を拒否するなどして抵抗したが[裁判 3]、結局ポリグラフ検査を実施した際にA母娘殺害事件に関して「被害者A一家の家族構成」「事件現場周辺の地理」などに関する質問をされると強い動揺反応を示した[新聞 58]。
- 捜査官から「人を殺しておいて良心の呵責を感じないのか!」と追及されても「自分には関係ない。被害者が肉親なら『かわいそう』と思うが知らない人ならどうでもいいし、嫌いな奴なら『ざまあみろ』と思う。自分はXに迷惑を掛けられたのだから『あんな奴は殺されて当然だ』と思う」と述べた[書籍 141]。
被疑者Fは留置先・厚木警察署から伊勢原警察署を経て[新聞 96]、1982年6月16日午前に最初の逮捕容疑・脅迫容疑で横浜地方検察庁に送検され[新聞 96][新聞 99]、同日から10日間の検事拘置となった[新聞 57]。この脅迫事件に関してもFは「知らない」と容疑を否認し続けていたが[裁判 3]、捜査本部はこの脅迫容疑の裏付け・本件殺人事件の追及を進めており[新聞 99]、同日には横浜地検が横浜地方裁判所へ「被疑者Fを10日間拘置する」と申請して許可を得た[新聞 59]。Fの体には当時右手・足など二十数か所の傷跡があり、その多くは「暴走族などとの喧嘩の際にできたもの」と推測された一方で左手内側には「比較的新しい刃物で切り裂いた傷」があったため、捜査本部は「文化包丁・くり小刀などで母娘3人を襲撃した際にもみあったり手が滑ったりするなどして左手に傷を負った」と推測した上でこの傷を「犯行立証に結び付く有力な物的証拠」として追及した[新聞 96]。一方で被害者遺族である男性Dは6月16日になって葉山峻・茅ヶ崎市長に対し「香典の一部である40万円を福祉のために役立ててほしいので、近く茅ヶ崎市福祉協議会に振り込む」と申し出、葉山も「Dの意向を尊重して有効に使わせていただく」と回答した[新聞 100]。
なお当初は被疑者Fによる別件逮捕の容疑事実は詳細には発表されていなかったためにX・Y殺害事件に関しても言及されていなかったが、新聞各紙のスクープ合戦の結果X・Y事件との関連も報道される形となった[書籍 142]。
- 最初にY事件との関連を報道したのは『毎日新聞』1982年6月17日大阪夕刊で、別の全国紙は前日(6月16日)の合同取材により被疑者FとY事件の関係性を把握してはいたが、大阪支局に問い合わせても「大阪府内には該当事件はない」というものだったため、『毎日新聞』に先を越される格好となった[書籍 142]。
- 『読売新聞』1982年6月17日東京夕刊では「藤沢事件直後に友人に電話をした被疑者FがX事件に関して口封じと思われる脅迫電話をしていた。また尼崎市内で殺害されたYは1980年春に久里浜少年院へ収容された際に知り合った被疑者Fと少年院出所後も交際し続けていた」という形でX・Y事件と被疑者Fの関係が初めて報道されたほか[新聞 101]、1982年6月23日東京朝刊でも藤沢・Y両事件に加えて別件逮捕容疑である脅迫容疑と絡めた上で「X事件に関して被疑者Fが嫌疑を持たれている」と言及された[新聞 86]。
- 地元紙『神奈川新聞』1982年6月18日朝刊は被害者Yと被疑者Fの接点・被疑者Fが逃亡中に電話でX事件をめぐりZを執拗に脅迫した点などを報道した[新聞 102]。
- 『中日新聞』1982年6月18日朝刊では藤沢事件・Y事件に加えてX事件に関しても「被害者がFの友人で手口も前述2件と酷似している」点から「X事件もFによる犯行である疑いがある」と報道された[新聞 89]。
またY事件を捜査していた兵庫県警察は現場一体で聞き込み捜査をした結果「事件当日の5日22時過ぎ、現場マンションから北へ約50m離れた玉江橋でFに似た男を目撃した」という証言を得たため、その目撃者にFの顔写真を見せたところ「間違いない」という証言が得られ、現場マンションから玉江橋まで道路を調べるとルミノール反応(血液反応)が点々と検出された[新聞 103]。一方で1982年6月20日、鑑識課の係員を神奈川県警に派遣して被疑者Fの足跡・Y事件現場に残された足跡の対照を実施させ、1982年6月22日にその結果を記載した捜査復命書を作成させた上で兵庫県警本部に報告させた[裁判 3]。それに先立ち1982年6月17日までの捜査の結果、Y事件に関しても被疑者Fの犯行である嫌疑が強まったことから兵庫県警は捜査員8人を神奈川県警に派遣して裏付け捜査を開始した一方[新聞 89]、『毎日新聞』(毎日新聞社)が1982年6月17日朝刊にて「被疑者F(当時は匿名報道)がY殺害事件にも関与している疑いが新たに浮上した」とスクープ記事を掲載した[書籍 142]。そして1982年6月21日までに藤沢署捜査本部が「被疑者Fは事件3年前の1979年に仕事で尼崎市内に1週間滞在していた」事実を断定したことで「なぜ共犯・被害者Yが全く土地勘のなかった尼崎市内で殺害されていたのか?」という謎が氷解し「FがYを連れて関西方面へ逃走し、口封じのために殺害した」と解明される格好となった[新聞 32]。
結局、Fは自白に至らなかったため「現在の捜査員では性格が合わない」と判断した県警上層部が1982年6月22日から新たな取り調べ担当者として「県警本部から別の捜査員2人」「これら担当者の調整役としてまた別の捜査員1人」の計3人を応援として加えた[裁判 3]。一方で同日、兵庫県警捜査本部(尼崎中央署所在)は以下の理由から被疑者FをY事件の犯人と断定して本格的な追及を開始し[新聞 104]、同時に今後の捜査方針を「神奈川県内の事件が解決次第、殺人の逮捕状を請求して被疑者Fの身柄を兵庫県警に移す」と決めた[新聞 105]。
- 犯行直後に事件現場付近で不審な男を目撃した人物から犯人の人相・体形などの特徴を問い質したところFの特徴と一致し[新聞 104]、その上で写真週刊誌『FOCUS』(新潮社)に掲載されたFの写真・手配写真を確認させたところ「Fで間違いない」と証言を得た点[新聞 106]。その目撃証言によれば被疑者Fの衣服には血痕が付着しており[新聞 105]、これも当初の目撃証言と合致した[新聞 5]。
- Fが犯行現場から逃走した際、付近(現場から約150m)の国道2号からタクシーに乗車する姿が目撃されていたが、事件現場 - 国道までの路上にはつま先に付着した血液のルミノール反応が残っていた点[新聞 106]。
- 殺害された被害者Yの右脇腹・背中に刺さっていた2本のくり小刀などに被疑者Fの指紋が付着していた点[新聞 105]
- またこれに伴い同日の『読売新聞』東京夕刊[新聞 107]・『神戸新聞』夕刊はそれまで匿名で報道してきた被疑者Fを実名報道に切り替え[新聞 104]、『読売新聞』は「これまでは脅迫容疑の別件逮捕のため匿名で報道してきた」という旨の「おことわり」を掲載した[新聞 107]。
これに加えて神奈川県警・藤沢署捜査本部も兵庫県警と連絡を取りつつ、藤沢事件と併せて被疑者Fを引き続き追及し[新聞 108]、同日中に藤沢事件に関しても尼崎事件(Y事件)と同様に被疑者Fの犯行である事実がほぼ断定される形となったが、この時点では既に状況証拠こそ十分だったものの決定的な物的証拠が不足していたため、いつでも母娘3人に対する殺人容疑で再逮捕できるように逮捕状請求の準備をした[新聞 86]。また横浜地検も本事件に重大な関心を示し、凶悪事件としては異例の対応として5人の検事を投入して捜査本部の取り調べと並行し、Fやその家族・友人などから事情聴取を続けた上で捜査本部と同じく「限りなく黒に近い灰色」という心証を深めていたが、この時点ではFが犯行を全面否認しており絶対的な証拠もなかったため、まずは「拘置期限が切れる1982年6月25日に10日間の拘置延長を横浜地裁へ申請し、Fをさらに取り調べて公判で有罪に持ち込めるだけの証拠を引き出す。仮に担当裁判官の判断次第で拘置延長の不許可決定が出された場合は準抗告手続する」という方針を固めた[新聞 109][注 45]。なお当時、被疑者Fの家族は「息子が被害者Yとともに自宅を出た際には体に傷はなかった」と証言していたが[新聞 86]、前述のように被疑者Fは藤沢事件の犯行時に負傷して母親から手当てを受けていた[書籍 112]。
被疑者Fの身柄は逮捕後、24日に母娘3人殺害事件を全面自供するまで神奈川県警察本部総合留置場(横浜市)内に留置されていたが[新聞 26]、被疑者Fは一連の事件に対する取り調べの最中も一貫して容疑を否認し続け、X・Y両事件の核心を追及されても「殺されたところを見たわけじゃないが『死んだ』とは聞いた」「Yが殺されたことは大宮から自宅に電話した時に母親から初めて教えられたから驚いた」などと「計算しつくされたような答え」を返し続けたほか、落ち着きがなく大あくびを繰り返すなどの態度を取り続け[書籍 143]、以下のように無関係な事柄に関して以下のように繰り返し述べていたため、これらの態度を遠藤は「まるで『自供さえしなければ絶対に大丈夫だ』と思い込んでいるようだ」と評した[書籍 144]。
- 「(大型バイクの走行音を聞いて)いつ聞いてもいい音だ。乗りたくなる」[書籍 144]
- 「女の子を紹介してほしい」[書籍 144]
- 「腹が減ったから何か食わせてほしい。上寿司・天丼・刺身定食・すき焼きが食べたい」[書籍 144]
殺人を自供・再逮捕
被疑者Fはその後も取り調べ中にニヤニヤしながら鼻歌を歌うなどの態度を取り続けていたが[新聞 110]、逮捕から10日後の1982年6月23日午後にはY事件を捜査していた兵庫県警から「Y事件の現場に残された足跡が被告人Fの靴の足跡と一致する」と情報提供がなされ、従来からの捜査員2人がそれをFにぶつけるとFはショックを受けた様子を示した[裁判 3]。また同日夜(Fの自供とわずか2時間差)、それまでは犯行当夜から一貫して長男Fの関与を否定し続けていたFの母親も捜査員の事情聴取に対し「息子がやったことを知っていた」と認め[書籍 145]、その際の詳細な状況については「Fは藤沢事件の当夜に傷を負って帰ってきた。手当てをしてやった際に『母親と娘2人を殺して帰ってきた』と述べていた」と証言した[裁判 3]。Fは同日夜になって現場にあった血痕・手の傷などを追及されると沈黙してうつむくようになり、その情報をもとに捜査員らがFを説得したところ[裁判 3]、ついには取調官たちからの説諭の言葉に折れるような形で容疑を認めた[書籍 146]。
その後、被疑者Fは翌日(1982年6月24日)になって[新聞 1][新聞 110][新聞 111]具体的な自供を開始したため、「容疑が固まった」と断定した神奈川県警捜査本部(藤沢署)は1982年6月24日20時5分に被害者A・B・Cの母娘3人に対する殺人容疑で被疑者Fを再逮捕した[新聞 112]。この急進展はFがそれまで本件殺人・別件脅迫とも全面否認していたため、捜査本部が25日の拘置期限を目前に「拘置延長を申請するか、それとも殺人容疑で再逮捕するか」の重大な選択を迫られていた矢先だった[新聞 113]。また警察庁は同日付で一連の連続殺人事件3件を「広域重要指定112号事件」に指定し[注 46][新聞 1][新聞 2]、関係する神奈川・兵庫両県警本部の協力体制を強化する方針を打ち出した[新聞 112]。
捜査本部は同日21時から開かれた記者会見で被疑者Fの実名を公表し「Fが本件犯行を自供した。また本件含め3件は警察庁から『広域重要指定112号事件』に指定された」と発表した[書籍 147]。なお被害者遺族の男性Dはこの直前に捜査員から「Fが犯行を自供した」と知らされ、「捜査本部の捜査により犯人を逮捕していただいて感謝している。犯人はなぜもっと早く自供してくれなかったのだ。一瞬にして楽しい一家を絶望の縁に陥れた犯人が許せず、厳罰を望むと同時に『事件当日に早く帰宅していれば妻子を犯人から守ってやれたかもしれない』と悔やんでいる」というコメントを出した[書籍 148]。捜査本部は1982年6月24日21時50分に被疑者Fの身柄を神奈川県警総合留置場から藤沢署へ移送したが[新聞 115][新聞 26]、テレビ放送のニュース報道で自供を知った市民約200人が藤沢署前に詰めかけ、護送車を降りて署内へ向かうFに「馬鹿野郎」「死ね」「Aさんを返せ」などの罵声を浴びせた[書籍 149]。同日22時半過ぎ、被疑者Fの身柄は再び県警本部総合留置場へ移送された[新聞 115]。
- この「全面自供」が母娘殺害事件から約4週間(約1か月)ぶりに[新聞 1]2府県3市にまたがる3件5人の広域連続殺人事件を一挙に解決に向かわせたが[新聞 112]、そのきっかけは『朝日新聞』などの報道によれば同日(1982年6月24日)朝に取調官が「家庭的な愛情に恵まれなかった」被疑者Fの生い立ちを考えて[新聞 110]「お前の親兄弟はとうの昔にお前を見捨てている。頼れるのは俺たち取調官だけだ」と述べたことだった[新聞 110][雑誌 1][注 47]。その一方で控訴審判決は「被告人Fが捜査段階で自供したきっかけは犯行を知っていた母親の『正直に自白しなさい』という言葉だった」と認定したが、当時の捜査員は『神奈川新聞』の取材に対し「被告人Fは母親の供述内容を聞いて『母親も殺しておくべきだった』とうなだれていた」と証言した[新聞 13]。
- また被疑者Fは同日に母娘殺害事件のほかX・Y両少年殺害事件に関しても一部自供を開始しており[新聞 1][新聞 110]、母娘殺害事件の経緯に関して「犯行は自分1人でやった。現場には徒歩で向かった」と述べた[新聞 110]。その上で犯行動機を「被害者少女Aと交際したかったのに一家全員からバカにされたから」と述べて大筋で犯行を認めたが[新聞 1]、その動機は常識の枠をはるかに超えたもので疑問点の完全な解消には至らなかった[新聞 17]。また犯行前後の行動・犯行方法など細部に関する自供が曖昧だったため、捜査本部はそれらの点をさらに詳しく追及した[新聞 117]。
地元紙『神奈川新聞』[新聞 1]・『朝日新聞』[新聞 110]・『中日新聞』は[新聞 26]前述の別件逮捕後も被疑者Fに関して「逮捕容疑が別件逮捕であったため」[新聞 1]「殺人事件との関係が明確でなかったため」との理由から匿名で報道していたが、いずれも本件殺人容疑で逮捕されたことを報道した1982年6月25日朝刊からそれぞれ前述の旨の説明を「おことわり」として添えた上で実名報道に切り替えた[新聞 110][新聞 26]。
1982年6月25日朝以降、捜査本部は殺人容疑で再逮捕した被疑者Fの本格的な取り調べを開始し、X・Y両事件に関しても追及を開始した[新聞 117]。被疑者Fは同日になって以下のように母娘殺害事件の手口・状況などに関して具体的な自供を開始するとともにX・Y事件に関しても具体的な供述を開始した[新聞 90]。
- X事件 - 「覚醒剤売買に関するトラブルから殺害に発展した」と供述したが、現場にはX以外の足跡が2人以上あったことから捜査本部はこの時点では「共犯者がいる疑いが強い」と推測した[新聞 90]。
- 藤沢事件 - 「1982年5月中旬に新宿で偶然出会った元少年院仲間のYにA一家殺害計画を持ち掛け、2人でA宅に押し入って自分1人で母娘3人を刺殺した。Yは直接手を下すことはなかった」[新聞 90]
- Y事件 - 「事件後に尼崎市内まで逃走したが、Yから強く自首を勧められて言い争いになった。Yが『俺1人でも自首する』と言い出したため『このままでは自分のこともしゃべられてしまう』と考え、尼崎中央署近くまで来た時にマンションの階段踊り場に誘導して刺殺した」[新聞 90]
さらに同日、捜査本部はFの「藤沢事件の犯行時に使用した手袋4足を大磯駅前の公衆トイレに流して遺棄した」という自供を受けてバキュームカー16台を動員し、大磯町職員を立ち会わせて便槽を総ざらいした[書籍 150]。この時は手袋を発見することはできなかったが、通水実験を行ったところ設計図にはなかった便槽があったことが判明したためそちらの中身も調べたところ、汚物の中からドライブ用3足・軍手1足が発見され、そのうち水色のドライブ用手袋はFの負傷箇所と同じ位置が切れていた[書籍 150]。手袋はかなり汚れていたものの血液鑑定をしたところ、被害者母娘3人と同じA型の血液が付着していたことから「Fが被害者3人を殺害した際に返り血を浴びたもの」と断定された[新聞 118]。
捜査本部は1982年6月26日11時に被疑者Fの身柄を横浜地検へ送検した[新聞 119]。この時までに被疑者Fは母娘殺害事件に関して「事件前に約20日間にわたり犯行計画を練り上げた。逃走資金を確保するために事前にひったくりをして約70万円を集めた」「一家を皆殺しにするためY事件の被害者少年Yにも刃物を持たせて押し入った」などと犯行の全容を自供しており、捜査本部は共犯の疑いが強まった被害者Yを被疑者死亡のまま書類送検することを検討した[新聞 120]。
1982年6月26日 - 9月9日までの長期にわたって横浜地検の検察官[注 48]から取り調べを受けた際、被疑者Fは一連の連続殺人事件に関して詳細に供述したほか、友人などかなりの数の電話番号などを正確に記憶していたため、横浜地検の検察官から「それだけの記憶力を良い方向に使えば殺人を犯さなくて済んだだろう」と諭されると逮捕されてから3回目の涙を流した[裁判 3]。その一方で1982年6月28日にはFが小田原駅プラットホームのごみ箱に遺棄したハンドバッグが委託清掃員により捜査本部へ届けられた上、凶器(包丁・くり小刀)も類似品こそ多かったが販売ルートが狭かったため、このころまでに入手経路がほぼ特定された[書籍 150]。これにより藤沢事件・Y事件の2件はFの犯行であることがほぼ完全に裏付けられたが[書籍 150]、X事件はFが「六郷橋(国道15号・第一京浜国道)から多摩川に捨てた」と自供した凶器[新聞 54](包丁・くり小刀)を含め決定的な証拠を欠いていたため、まだ裏付けに時間を要した[書籍 150][注 49]。『新潮45』2006年10月号記事(新潮社・記者:上條昌史)は本事件の捜査の経緯に関して「取調当初の被疑者Fはなかなか自供しなかったが、いったん供述が始まればその内容は秘密の暴露を含んだ『動機・犯行状況・逃走経路などが具体的で裏付けが取れる』内容だったため、当時の捜査関係者は『こうした事件では珍しいほど、ほぼ完璧に近い捜査ができたのではないかと思う』と証言した」と報道した[雑誌 1]。
捜査本部・横浜地検の調べは藤沢市の母娘3人殺害事件に集中し、被疑者Fも3件すべての殺人容疑について大筋で容疑を認めたが、X事件では現場の状況(複数人とみられる足跡)から捜査本部・地検が「複数犯の可能性がある」と推測しており[新聞 121]、この時点では脅迫電話に出たとされた女性の声も共犯者Yであることが解明されておらず「Fが共犯者の女性をかばっている可能性」が捨てきれていなかった[新聞 122]。しかしFはX事件について「自分1人でやった(単独犯だ)」と自供し、同事件と密接に関係していた脅迫電話事件は否認していたため[新聞 121][新聞 122]、捜査本部は最初の逮捕容疑だった脅迫容疑に関して「事件(脅迫電話)内容が十分に解明されていない」という理由から[新聞 123]、20日間の拘置期限が切れた1982年7月5日付で処分保留とした[新聞 121]。同容疑については事件の全容が解明され次第起訴する方針だったが[新聞 122]、初公判前日時点でも処分保留状態となっていた[新聞 124]。その翌日(1982年7月6日)に被疑者Fを取り調べていた横浜地検は横浜地裁に拘置延長を申請してさらに10日間の拘置許可を得た上で[新聞 125]、1982年7月13日までに「被疑者Fを母娘3人に対する殺人罪で7月16日に起訴する」と決めた[新聞 126]。また捜査本部・横浜地検によりY事件で被疑者Fに殺害された被害者少年Yも「母娘殺害事件の共犯」と断定され、捜査本部は殺人容疑で被疑者死亡のまま書類送検する方針を固めた[新聞 127]。
後述の起訴を控えて藤沢署捜査本部は1982年7月14日9時30分から被害者A宅に被疑者Fを同行して約2時間の現場検証を行い[新聞 128]、母娘殺害事件の裏付け捜査を完了した[新聞 129]。
- 『神奈川新聞』の報道によれば「被疑者Fは事件後初めて被害者A宅を訪れたが、特に悔悟の表情は見せなかったどころか、現場検証終了後に家屋を出た際には薄笑いを浮かべていた」ほどで、同紙は「これまでの捜査本部の調べに対し被疑者Fは母娘3人を次々と滅多刺しにした状況・被害者Aが刺された瞬間の表情などを正確に記憶しており、無我夢中で被害者らを襲撃しつつも冷静な一面を持っていたことを推察させる供述をしているが、検証でもそれが裏付けられた」と報道した[新聞 128]。
- また『読売新聞』の報道によれば当時の態度は「3件5件の大量殺人を犯したとは思えないほど平然とした表情」で、被害者に扮した捜査員を相手に犯行の模様を再現して終始淡々と犯人を演じていた[新聞 129]。
- 『神戸新聞』1982年7月15日朝刊(神戸新聞社)は「被疑者Fは捜査員の質問に素直に答えていたが、質問内容が母娘刺殺の詳しい状況など生々しい部分に触れても興奮したり涙を見せたりはせず、時折薄笑いを浮かべながら淡々と答えていた」と報道した[新聞 130]。
起訴
横浜地検は1982年7月16日にA・B・Cの母娘3人を殺害した藤沢市の事件における殺人罪で被疑者Fを横浜地方裁判所へ起訴した[新聞 10][新聞 131][新聞 82][書籍 151]。横浜地検は同日、記者会見で「全力を挙げて事件を解明し、県警との協力により完璧に近い裏付けが取れた。被告人Fの責任能力にも問題はない」と談話を発表した[新聞 132]。これにより「包丁を買い揃えて自宅で一家4人の殺害を練習するなど極めて計画的」かつ「被害者にとどめを刺し、刃物で遺体の背中をつついて生死を確認する」など「21歳の若者による犯行としては類を見ない残忍な凶悪犯罪」である母娘殺害事件の全容が解明される形となったが[新聞 82]、横浜地検はその後も「本事件は現代の病根の1つの表れ」として被告人Fの生育家庭・少年院など社会的環境の解明に努めつつ[新聞 132][新聞 82]、捜査本部とともに残るX・Y両事件を含めた連続殺人の全容解明を急いだ[新聞 131]。また兵庫県警は同日までに、同月下旬にも尼崎中央署捜査本部から捜査員を藤沢署へ出張させて被疑者Fの取り調べを行う方針を固め[新聞 133]、7月27日から捜査員3人を神奈川県警へ派遣して本格的な捜査を開始した一方[新聞 134]、Fが凶器のくり小刀を購入した商店などの裏付けも行った[新聞 135]。
兵庫県警捜査本部(尼崎中央署内)は1982年8月28日 - 30日の3日間にわたり[新聞 136]、被疑者・被告人Fの身柄を尼崎中央署へ移送し[新聞 135]、1982年8月29日に尼崎市内の殺害現場へFを同行してY事件の現場検証を行った[新聞 135][新聞 137]。Fは捜査員をYに見立て、実況見分の際に繰り小刀で滅多刺しにする格好をするなど犯行の様子を50分間にわたり再現したが[新聞 137]、検証後には両手でVサインをしつつ笑みを浮かべて報道陣のカメラに映っていた[新聞 135][新聞 137]。実況見分の際にFが笑みを浮かべつつVサインを見せつけた姿は『神戸新聞』1982年8月30日朝刊で「カメラにも悪びれずふざける姿」として取り上げられ[新聞 135]、近隣住民からも怒りを買ったが[新聞 137]、公判時もたびたび見られたこの「Vサインを見せつける」言動について事件当時に捜査を担当していた神奈川県警幹部は第一審判決後に『読売新聞』東京本社横浜支局の取材に対し「Vサインは『目的を達成した』という意味のようだ。被告人Fは取り調べで被害者の悪口ばかりを言っていたが、これは『被害者は殺されても仕方がない』と自己を正当化し続けるための言動だ」と振り返った[新聞 138]。
神奈川県警捜査本部は1982年9月7日に被疑者・被告人Fを伴ってX事件に関する現場検証を行い、同日にはX事件に関する殺人容疑で被疑者・被告人Fを横浜地検に追送検した[新聞 139][新聞 140]。この時点では余罪のひったくり・脅迫電話などにおいて未解明の部分こそ残っていたが、これにより一連の連続殺人事件に関する警察の捜査はほぼ完了した[新聞 139]。
横浜地検は1982年9月10日に被告人Fを「横浜市内のキャベツ畑殺人事件(X殺害)」・「兵庫県尼崎市内のマンション殺人事件(Y殺害)」の2件に関していずれも殺人罪で横浜地裁に追起訴し[新聞 141][新聞 142][新聞 143]、一連の連続殺人事件に関する捜査が完了した[新聞 141]。被告人Fはこの時点までにひったくり8件・事務所荒らし・友人への脅迫電話事件などを自供していたため[新聞 143]、横浜地検はそれらの余罪に関しても裏付け捜査をした上で早期に一括で追起訴する方針を固めた[新聞 141]。神奈川県警捜査本部は1982年9月28日付で既に3件5人の殺人罪で横浜地検から横浜地裁に起訴されていた被告人Fを余罪10件の窃盗容疑で横浜地検に追送検し[新聞 48][新聞 49][新聞 144]、横浜地検は同年9月30日にFを窃盗罪で横浜地裁へ追起訴した[新聞 145]。なお死亡した共犯・被害者Yについて横浜地検はFを追起訴した9月30日付で被疑者死亡を理由に不起訴処分とした[新聞 8]。
その他
別の殺人疑惑
なお5日の脅迫電話で厚木市内の元少年院仲間Zの父親はFから「京急蒲田駅付近から電話している」と脅迫された後、電話の声が女性のような声に変わり「余計なことは言わないほうが身のためよ」と脅迫された[新聞 146]。この点から捜査本部は当初「Fは女性とともに逃走していた」と推測したほか[新聞 102]、以下のような情報から「尼崎市内でYが殺害された際にも前述と同一人物の女性がFと同行しており、Yと同様に口封じ目的で殺害された可能性が高い」と推測してこの「謎の女性」の足取り・行方を追った[新聞 147][注 50]。
- Yが尼崎市内のマンションで刺殺された際、現場から若い女性の声で「やめて」と2度叫び声が聞こえた[新聞 147]。
- その後東京都内に戻ったFが厚木市内の友人宅に脅迫電話をした際、女性の声でも脅すような言葉が聞こえた[新聞 147]。
- 被害者5人の殺害を認めた一方でそれよりはるかに罪が軽いはずの脅迫容疑を一貫して否認していることから「脅迫電話の背後にいた女性を殺害したため、新たな犯罪の発覚を恐れて供述を渋っている」可能性がある[新聞 148]。
実際、同月22日には岡山県邑久郡邑久町(現:瀬戸内市)の山中にて25歳前後・身元不明の女性の刺殺体(死亡推定時期:6月上旬)が発見されており、Y事件現場に残されていたハイヒールの足跡が刺殺されたその女性のサンダルの足跡と一致していた[新聞 149]。このためY事件を捜査していた兵庫県警が捜査員を岡山へ派遣したほか[新聞 150]、神奈川県警捜査本部も岡山・兵庫両県警と連絡を取りつつ身元特定を進めたが[新聞 151]、一連の逃亡劇では女性の姿が全く確認できなかったため[新聞 69]、殺人容疑による逮捕後に「女性が本当にFとともに逃亡していたのか?いたとすればYと同様に口封じ目的で殺害されたのか、それとも逃亡している女性をFが庇っているのか?」などの疑問点に関して厳しくFを追及した[新聞 70]。結局、被疑者Fは否認し続けていた脅迫電話に関して一転して容疑を認めた際に「電話の最後に出た女性の声はYが声色を変えたものだ。逃亡中にYが逃げようとしたため足止めをしようと“次の殺人を計画している”と思わせる目的だった」と自供した[新聞 139]。横浜地検はその後も「Fがこの『脅迫電話に出た女性』の存在を頑なに否認する裏には何らかの事件が隠されている可能性がある」と推測し、拘置延長(1982年7月6日付)後も本件殺人容疑追及の中で併せて取り調べたが[新聞 123]、当初「女性用の靴の足跡」とみられていた小さな足跡(23.5cm)はその後の調べで「Fが履いていた運動靴の足跡の一部」と判明したほか[新聞 136]、岡山の事件も岡山県警によるその後の捜査の結果「Fとは無関係。兵庫県尼崎市内在住の男が当時30歳の妻を殺害して遺体を遺棄した」と判明した[新聞 152]。
また起訴された殺人3件とは別に「1981年12月10日に兵庫県西宮市新甲陽町の駿河銀行甲陽園寮で31歳女性(同銀行大阪市店長代理男性の妻)とその5歳の長男が刺殺された事件」に関しても以下のような点から被疑者Fの関与が疑われ、兵庫県警捜査本部(西宮警察署)がその可能性も視野に捜査を開始したが[新聞 153]、この強盗殺人事件も結局はFの犯行としては立件されず、事件発生から15年後の1996年(平成8年)12月9日に公訴時効が成立した[新聞 154]。
- 「傷口の深さ・形状が小型の刃物と推測され、Fの用いたくり小刀(刃渡り13cm・幅3cm)による傷と似ている点」[新聞 153]
- 「藤沢・尼崎両事件と同様に遺体の頸動脈が切られている点」[新聞 153]
- 「現場に残された足跡の長さが25cmで、被疑者Fの足のサイズ24.5cmとほぼ一致する点」[新聞 153]
- 「被害者の死亡推定時刻・目撃証言から推測すると『短時間で複数人が殺害された点』が似ていること」[新聞 153]
- 「被疑者Fが1980年に尼崎市内の建設現場で働いており、阪神間(尼崎市・西宮市など)へ土地勘があることが推測される点」[新聞 153]
「暴力的取り調べ」の有無
被告人Fは第一審第2回公判・第44回公判(特に第44回公判)にて弁護人の所論と同様に「別件逮捕された直後から取り調べを行った警察官らから『A一家はお前が殺したのだろう。白状しろ』『X・Yもお前が殺しただろう』などと平手打ちなどの暴行を受け、ポリグラフ検査を拒否すると膝蹴りなどの暴行を受けた。特に取り調べ捜査員が増員されてからは『本格的な拷問』を受けるようになり、顔を平手打ちされては『キョウカンゴウメイで訴える』などと言っても無視して顔を叩かれ、壁に頭を打ち付けるなどの暴行を受け、果ては体を抑えられてタオルで首を絞められるなど激しい暴行を受けた。食事に唾液をかけられるなどしてろくに食事も摂れない状況に耐え切れず自白した」などと「暴力的な取り調べを受けた」と主張したが、第一審・控訴審判決では以下のように「被告人Fの供述のみから『暴力的な取り調べがあったことが明らかだと認定する』ことは困難だというべきだ」と事実認定された[裁判 3]。
- 被告人Fが当該公判で主張した「取り調べを担当して警察官の顔ぶれ」には「やや首をかしげざるを得ない誤り」があり「内容的に客観的事実に相違する点がある」ばかりか、仮にそのような行為をされたのならば「勾留裁判官をはじめ直後に取り調べをした検察官・第一審審理の際や鑑定人に対して訴える機会」が数多くあったにも拘らず全くその点を訴えていないことから「一過性の訴えに過ぎない」時点で「まず根本的な疑問を持たざるを得ない」ものである[裁判 3]。
- またその述べる内容も「具体性に富む」という反面で「強調するためだろうか『同じパターンの訴え』が目に付く」上に「『キョウカンゴウメイ』など意味不明な言葉」「『取り調べ警察官が食事に唾をかけた』などの信じ難い内容」を含むものである[裁判 3]。また被告人は第一審の第7,8回公判で「拘置所職員に関してオーバーな訴えをした」事実があり、それを勘案すると被告人Fの主張は信用性が薄い[裁判 3]。
- 被告人Fは少年時代から窃盗など非行を繰り返して警察に検挙され、2度にわたって少年院に収容された前歴があった上、かねてから六法全書を読んだり、元少年院仲間のYから知識を得たり、刑事もののテレビ番組などに関心を持ったりしていたことから「黙秘権があること」「警察官の暴力的な取り調べは許されないこと」を知っていた[裁判 3]。そのため「殺人事件に関する追及をかわす目的」で取り調べ中に歌を歌うなど敢えて「挑発的態度に出ていた」可能性がある[裁判 3]。
- 前述のような被告人Fの態度は捜査官にとって「被告人Fに対する反抗の嫌疑を強める」ものとして働き、被告人Fへの厳しい追及につながったことは想像に難くないが、その一方で「被告人Fのようなタイプの被疑者には暴行・脅迫など暴力的な取り調べは有効ではない」ことは捜査員もよく心得ていたことが窺える上に当時は「被告人Fへの取り調べ以外の捜査[注 51]も相当程度進展していた」状態であり、その中で「自白を無理に、しかも被告人Fが主張するような『警察官が総出で暴行などを加えて無理矢理にでも獲得しなければならない』ような切羽詰まった状況にあったか」は甚だ疑問である[裁判 3]。
- 以上に挙げた点から捜査官が反論したように「アリバイを追及して供述の矛盾を突き、状況証拠を突き付けるなどして厳しく追及したこと」は当然である[裁判 3]。また「被告人Fの心情に訴える取り調べ」も行われたと思われるが、結局は「Y事件現場に残された足跡」という「言いぬけしがたい証拠」に加え、「『A一家殺害直後にその犯行を打ち明けるほどの信頼・愛情を抱いていた』母親から『正直に話せ』という言葉を伝え聞いたことから自白するに至った」ということが真相に近いと思われる[裁判 3]。だからこそ「6月23日に上申書を作成して以降は素直に取り調べに応じ、6月25日付をはじめとして計8通の調書が作成され、並行して検察官の取り調べに対し本件の検察官調書が作成された」ものと認められる[裁判 3]。
- なお自白の経緯に関しては「新聞報道とやや齟齬する点」が認められるが、新聞報道自体各紙により違いがある上に「捜査中の事件の微妙な問題のある事柄」に関しては「どの程度まで正確に報道されているか」は疑問である[裁判 3]。また自白を始めた翌日に被告人Fは取調室で貧血などにより倒れているようだが、それは「前述のように警察を散々挑発して追及を逃れようとしていたにも拘らず自白に追い込まれたショック」と「それまでの心身の疲労」が出たとみることも可能であり(その後には精神障害をり患している)、上記の判断を左右する事情とはならないものと思料される[裁判 3]。
- 検察官の供述調書などの内容を見るとその内容は「犯人にしか語れない具体性に富み、裏付けも十分で信用性に全く問題がない」ことが認められる上、その中には「自白の動機」「偽らざる心境を述べたもの」などが存在することから「被告人Fの供述・自白が拷問・強制によらないこと」を示す証拠の1つと思われる[裁判 3]。
- 以上を総合勘案すると被告人Fの第一審公判における供述が「正常な精神状態」におけるものだったとしても「暴力的な取り調べなどしていない」と一致して訴える警察官の供述を排斥するには足りず、まして「信用性のある検察化の供述調書など」における「『自白の任意性』には全く問題はない」と判断できる[裁判 3]。
また弁護人は「検察官の供述調書などは別件逮捕・勾留を利用した取り調べの結果なされた自白をもとに得られたものであるため証拠能力はない」と主張したが、第一審・控訴人は「脅迫事件自体が逮捕・勾留を必要とするものである上、その事件に関する調べがなされていることも被告人が1982年6月21日に勾留裁判官に対して質問調書上で述べたことからも明らかだ。そして本件連続殺人事件は原因・動機と関連するものであり、その間になされた自白が基となって供述調書などが作成されたとしても『別件逮捕・勾留を利用して得られた不当なもの』とは言えない」と事実認定した[裁判 3]。
刑事裁判
第一審・横浜地裁
被告人Fは3件5人の殺人罪・被害総額約321万円の窃盗罪10件で横浜地検から横浜地裁に起訴された[裁判 1]。初公判期日は当初1982年9月20日に予定されていたが、X・Y両事件の追起訴前に弁護人の申請により1982年10月12日に変更された[新聞 141]。
後述の初公判を前に横浜地検は殺人3件・窃盗余罪のいずれも被告人Fの自供を引き出し「有罪立証のための証拠は揃っている」と公判維持に自信を見せていたほか[新聞 124]、『読売新聞』1982年10月11日東京朝刊は「被告人Fは鼻歌交じりで犯行を全面否認していた当初のふてぶてしい態度から一転し、最近はやや落ち着いて凶行を反省しているらしい」と報道していた一方[新聞 155]、同紙1982年10月12日朝刊神奈川県版は「弁護人は被告人F本人の罪状認否に際して『母娘殺害事件は無罪』と主張し、同時に『起訴状の内容は犯行動機などまで記載され、裁判所に予断を持たせるものであるため刑事訴訟法第256条6項(起訴状一本主義)に反する』として公訴棄却を申し立てる方針だ。公判は冒頭から波乱が予想される」と報道した[新聞 156]。
初公判
1982年10月12日10時より[書籍 152]横浜地方裁判所刑事第2部(小川陽一裁判長)で初公判が開かれた[新聞 157][新聞 158][新聞 159][新聞 160][書籍 153]。同日の一般傍聴席数はわずか34枚だった一方、傍聴券を求めて100人近くの希望者が行列を作り「事件への高い関心」を窺わせた[書籍 154]。被告人Fは勾留先・県警総合留置所から横浜地裁まで移送される際、護送車を取り囲んだ報道陣のカメラに向かって笑顔で窓越しにVサインを送った[新聞 158][書籍 154]。
裁判長を担当した小川は当時・横浜地裁刑事部総括裁判官で右陪席裁判官は判事補・志田洋、左陪席裁判官は判事補・松本清隆が担当した[書籍 155]。通常の刑事事件では検察官は公判立会検事が1人出席するのみだが、この初公判では公判立会検事・鮫島清志に加えて被告人Fの取り調べを担当した捜査検事2人[注 48]が同席していたことから、初公判を傍聴した遠藤允は3人の検察官が出席した様子を「検察の(事件に対する並々ならぬ)決意を示すようだった」と表現した[書籍 156]。被告人Fは捜査中に私選弁護人を「必要ない」と主張して選任しなかったため、国選弁護人として横浜弁護士会所属の弁護士・本田敏幸が被告人Fの弁護人を担当した[書籍 157]。
- 裁判長から被告人Fへの人定質問・検察官の起訴状朗読を経て被告人Fへの罪状認否が行われたが[書籍 158]、被告人Fは小川裁判長から「黙秘権がある」旨を告げられると「はあい」と「事の重大さを微塵も感じさせない間延びした返事」を返した上で[書籍 159]、「『言いたくないことは言わなくてもよい』という法律があるので何も言いません」と述べて黙秘権を行使した[新聞 159][書籍 159]。遠藤允によれば「事件発生時から取材を続けていた新聞記者には『被告人Fは自供後に被害者母娘3人の冥福を祈るため留置所で手を合わせていた』という情報が入っているなどしていた」ことから、大方では「罪状認否で起訴事実を認めるだろう」と予想されていたため、この「黙秘権行使」は意外なものであり、傍聴席がざわつくこととなった[書籍 159]。
- なお弁護人・本田敏幸弁護士は「起訴状3通のうち母娘殺害事件以外の余罪に関しては今回は意見を保留し、次回公判で罪状認否を行う」と前置きした上で、以下のように主張した[書籍 157]。
- 横浜地裁に対し「起訴状には犯行動機・経過などがあまりにも詳細に記載されており、裁判官に予断を抱かせる記載があるため無効である」と述べ[新聞 157]、刑事訴訟法違反を主張[新聞 159]。公訴棄却を求めたが[新聞 159][新聞 160]、本田はその理由に関して「弁護人の冒頭陳述で明らかにする」と述べただけだった[書籍 160]。これに対し小川裁判長は「検察の起訴状は余事記載に該当しない」として訴えを却下した[新聞 160][書籍 160]。
- 続いて罪状認否で弁護人はX・Y両殺人事件及び窃盗事件10件について「まだ記録を閲覧していない」として認否を留保した上で母娘殺害事件のみ認否に応じたが、この点に関しても「被告人Fは別件の脅迫容疑で逮捕されたにも拘らず終始殺人事件について取り調べを受けた。別件逮捕に基づく自白の強要(違法逮捕)であり、調書には証拠能力がない」と述べて無罪を主張し、刑事訴訟法上の手続きに関して争う姿勢を見せた[新聞 157]。
罪状認否の後[新聞 157]、検察官が約25分間にわたり冒頭陳述を行ったが[新聞 161]、弁護人の都合を受けて内容は藤沢事件に限定した[新聞 158]。その上で検察官は動機・殺意の形成・犯行状況などを詳細に説明した上で[新聞 157]、被告人Fの生い立ち・犯行の経緯・一家の状況などに関しても述べ、以下のような事実とともに「凶悪事件を決意するに至った異常性格ぶり」を明らかにした[新聞 158]。
- 被告人Fが幼少期からいじめを受け、中学校卒業と同時に窃盗などで少年院との間を往復したこと[新聞 158]。
- 被告人Fは周囲から冷たい視線を注がれつつも「いつか世の中を驚かせるような衝撃的な完全犯罪を起こしてやる」と決意したこと[新聞 158]。
しかし冒頭陳述書朗読中に被告人Fは「被告人席の長椅子にふんぞり返るように座って両足を投げ出す」「頭を上下に振る・首を左右に回す・あくびをする」などしており、遠藤はこれらの態度を「とても真面目には見えない。冒頭陳述に対し『そんなものは聞きたくもない』という態度だった」と表現した[書籍 161]。冒頭陳述が終わった直後、再び手錠をかけられて腰縄を回された被告人Fは右手を左手で支えながら突き立てて傍聴人・法廷外のカメラマンにVサインを見せつけた[書籍 161]。
法廷内で2度にわたり傍聴席へ向かってVサインを見せつけた被告人Fの「ふてぶてしい態度」には傍聴席から怒りの声が漏れたほか[新聞 158]、この「初公判で笑顔のVサインを見せる被告人」の姿は「極めて異例なもの」としてテレビのニュース番組・翌日の新聞朝刊で取り上げられた[書籍 161]。
- 『読売新聞』1982年10月12日東京夕刊は「妻子3人を失った被害者遺族の男性D(A・B姉妹の父親でCの夫)は『こみ上げる怒りを抑えるかのような表情』でふてぶてしい態度を押し通す被告人Fを傍聴席からじっと見つめていた」と報道した[新聞 158]。
- また同記事によれば弁護人・本田からの驚き・困惑の反応とともに「強要こそできないが被告人として取るべき態度を取ってほしい」という声も取り上げられた[新聞 158]。
初公判で検察官は証拠220点を提示したが、弁護人が法廷にて取り調べることに同意したのはわずか21点で、いずれも「被告人Fの犯行そのものとは無関係のもの」ばかりだった[書籍 162]。捜査段階における被告人Fの供述調書など「犯行と結びつく証拠」がいずれも不同意となったため、検察側は「証拠と同等の価値を有する証言」を引き出すべく証人尋問で犯行の立証へ務めた[書籍 162]。 なお初公判翌日には「検察側の冒頭陳述要旨」が新聞各紙に掲載されたが、冒頭陳述全文・報道用の要旨ともに「被告人Fの経歴・性格など」は「自供前後に新聞で報道された内容とそこまで変わらず、たいして踏み込んだ内容ではなかった」ため、遠藤は「内容に物足りなさを感じた傍聴人・新聞読者は多い。起訴に当たって横浜地検がわざわざ談話を発表してまで指摘した『現代の病根の表れ』などに関しては言及されていなかった」と評価した[書籍 163]。
- これに関して『サンケイ新聞』(産業経済新聞社)は1982年10月13日朝刊記事にて「冒頭陳述に『被告人Fの生育した家庭環境』への言及が特になかったのは、横浜地検の『家族がある時点で被告人Fを限るなど“しつけに多少問題があった”としても、世間とかなりかけ離れたような家庭とは言えず、その責任を家庭環境に全面的に負わせることは無理だ』という判断からだ。地検幹部の『被告人Fは矯正不能の男だ』という言葉が、被告人Fの頑なな性格をよく表している」と評した[書籍 162]。
被告人Fの身柄は初公判後[書籍 164]、それまでの神奈川県警察本部総合留置場から[書籍 156]横浜刑務所横浜拘置支所(横浜市港南区港南)に移送された[書籍 164]。
証拠調べ
Fの不規則発言など
第2回公判は1982年11月30日に開かれ[新聞 162]、X・Y両事件に関する検察官の冒頭陳述[新聞 83][新聞 163]・被告人Fの罪状認否が行われた[書籍 164]。
- 冒頭陳述に先立ち弁護人によるX・Y両事件に関する罪状認否が行われ、弁護人・本田は両事件の自白調書に関して「被告人Fを別件の脅迫容疑で逮捕・勾留している間に作成したものであり、別件逮捕が違法である以上、自白調書に証拠能力はない」として母娘殺害事件と同様に無罪を主張した[新聞 162][書籍 165]。その上で、初公判では述べなかった「被告人Fが強制的・拷問的な取り調べを受けたため、その調書には任意性もない」旨を主張した[新聞 162][書籍 165]。
- その後、検察官は冒頭陳述でX・Y両事件および一連の連続殺人に前後して行われた窃盗事件などに関して犯行の模様を明らかにし、その上で「被告人Fは『裏切り者は消せ』の論理で凶悪な犯行を繰り返した」と冷酷さを強調しつつ、各事件に関して「陰湿で計画的・残忍な手口が共通する」と詳細に陳述した[新聞 163]。この時、被告人Fは同日の入廷直後から落ち着いたようなそぶりをしていたものの、検察官の言及が殺害状況に及ぶと笑い出すなどした[新聞 162][書籍 165]。
- なお同日の公判を傍聴したのは19人(傍聴券全27枚)で、遠藤允はこの件に関して「事件が起きるたびに示される強い関心は、思いもよらぬ特異な事件が次々と発生するたびに移りやすい。この公判では(初公判のように)テレビ局が傍聴人を取材することはなかった」と表現した[書籍 165]。
- 11時10分に「次回公判で3事件の実況見分調書を書いた尼崎中央署・戸塚署員ら警察官3人を証人尋問する」と決めた上で小川裁判長が閉廷を告げたが、その際に被告人Fが突然「裁判長、言いたいことがあります」と発言した[書籍 165]。小川はいったん席を離れたが[新聞 163]、被告人Fには特に何も指示を出さなかった[書籍 166]。小川がそのまま席に戻ったため[新聞 163]、被告人Fは「発言を許可された」と判断した上で「自分の敵は6人の拷問警官だ。警官たちは自分をうそ発見器(ポリグラフ)にかけて言いたくないことを言わせたり、殴る・蹴る・タオルで首を絞める・壁に頭をぶつける・頬を本でたたくなどの拷問を加えた。基本的人権を蹂躙するような取り調べを受けたので彼ら6人を告訴する」などと演説した[書籍 166]。これに対し小川は「この場で告訴しても仕方がないから弁護士とよく相談しなさい」と諭すと[書籍 166]、被告人Fは「刑事を徹底的に摘発してやる」と吐き捨てて退廷した[新聞 163]。
- 被告人Fは初公判で「はい」と返事したり住所・氏名などの単語を答える程度の発言しかしなかった一方、同公判にて自分の言葉で上記のような不規則発言をしたことから、遠藤はこれを「直接耳にした傍聴人は『被告人Fの話し方に幼稚さが残っている』という印象を強く感じた。その感じ方は被害者少女Aの父親Dが被告人Fと初めて会話を交わしたとの第一印象、および少女Aの学校に被告人Fが電話した時の事務職員の印象と全く同じだ」と表現した上で、取り調べ開始から自供までの経緯に関して「被告人Fの言う通り『拷問が行われた』という事実があったとすれば、被告人Fの性格からして『一貫して犯行を否認し続けたに違いない』と推測できる」と推測した[書籍 166]。
- 被告人Fが主張した「違法取り調べ」問題に関しては弁護人も「問題にしたい」と述べたが、傍聴人は「5人も殺していながら罪の意識が感じられない」と呆れ果てていたほか、『神奈川新聞』も被告人Fの当時の言動を「相変わらずのスタンドプレーだ。自分の犯した罪を棚に上げ、人を食った弁明をとうとうと述べていた」と表現した[新聞 162]。
第3回公判は1982年12月23日に開かれ、検察側の証人尋問が行われた[新聞 164][新聞 165]。同日は証人として神奈川県警鑑識課員・尼崎中央署員がそれぞれ実況見分調書に関して証言し[書籍 3]、被告人Fは検察官・鮫島から「凶器の包丁・くり小刀」「事件現場のカラー写真」などの証拠を示されても特に表情を変えず「これに見覚えがあるか」と質問されても「黙秘します」としか答えなかった[書籍 3]。
第4回公判は1983年(昭和58年)1月13日に開かれ、同公判から法廷がそれまでの602号法廷から601号法廷に変更された[書籍 3]。遠藤は同日の公判を「被害者遺族の男性D(A・B姉妹の父親でCの夫)が証言台に立つため多数の傍聴人が訪れる」と予想したが、結局は同日も空席が残り、冒頭でX事件の実況見分調書に関して当時の戸塚署員が証言を行った[書籍 167]。その後、男性Dが検察側証人として証言台に座り休憩を挟んで「自らの経歴・長女A誕生までの夫婦の悩み・殺害された妻子3人の性格・事件発生当日の行動など・被告人Fが自宅にやってきた1981年12月以降の出来事」を証言したが[書籍 167]、被告人Fはこの公判でも薄笑いを浮かべ、他人事のように聞き流していた[新聞 166]。
1983年2月3日の第5回公判でも前回公判から引き続き遺族男性Dの証人尋問が行われ[新聞 167]、「事件に至るまでの事実問題」に触れる尋問が行われた[書籍 167]。まずは「被告人Fと長女Aの交際の経過・Fが自宅に押し掛けてきた際の状況・Fによる無言電話の恐怖」などについて尋問した結果[新聞 168]、いったんはDから事実に関する証言が引き出されたが、終了後に鮫島検事が「証人の被害者感情を補充尋問したい」と申し出て小川裁判長から許可を得た上で、改めて男性Dに「被告人Fに対し、被害者遺族としてどう思うか?」と質問した[書籍 168]。Dが言葉に詰まっている様子だったため、加えて裁判長が「なんでも素直に言ってほしい」と促すと、Dはハンカチで涙をぬぐいながら「妻子と同じように殺してやりたいと思う」と答えたが[新聞 167]、証言台の後ろ約3メートルの被告人席に座っていた被告人Fが天井を向いて「冗談じゃねえ、俺はやっちゃいねえよ」と絶叫し[書籍 168]、(被告人席から)身を乗り出して証言台にいたDに掴みかかろうとした[新聞 168]。Fは小川裁判長から「静かに!退廷させるぞ」と警告・制止されても聞き入れず「ふざけんじゃないよ」と叫び[新聞 168]、Dの背中をにらみつつ「俺はやっていない。取り調べは拷問だ」と叫んだために小川裁判長から退廷を命じられ、横浜拘置支所の刑務官4人により法廷外へ連れ出された[書籍 168]。学生運動など公安事件では被告人欠席の裁判は珍しいものではなかったが、それ以外の一般の計事件において被告人が退廷命令を受けたことは極めて異例だった[新聞 168]。被告人Fが退廷させられた後、続いて鮫島検事が調書の記載内容に基づいてDに「検察官が取った調書に『被告人Fを3発だけ殴らせてほしい』と申し出たことが記載されている点」に関して質問すると、Dは「『被告人Fをこの手で殺すことができないのはわかっているが、それができないならせめて自分の手で3人分・3発殴りたい』という意味だ。その程度なら許されてもいいはずだと思う」と説明し、傍聴席からもすすり泣く声が聞こえた[書籍 168]。鮫島検事の主尋問が終了したのちに弁護人・本田が断りを入れた上で長女Aの人となりに関して尋問をしようとしたが、小川裁判長が「検察官と同じ質問をしても無意味だろう」と諭したことに対し、本田は「審問方法にまで言及したことに抵抗するかのように」小川裁判長に対し「それは違う。真実を発見するためには必要な尋問だ」と反論したが、結局小川裁判長から許可が下りなかったために質問を変えたため、反対尋問では新しい事実は出なかった[書籍 168]。
1983年3月7日に第6回公判が開かれ[新聞 169]、同日は被害者Aに被告人Fが執拗なつきまといをしていたことを立証するため[新聞 170]、以下の3人に対する証人尋問が行われた[書籍 169]。
- 1982年5月8日に110番通報を受けて被害者A宅に駆け付けた藤沢署員[書籍 169](当時、現場付近の派出所に勤務)[新聞 170]
- 被害者少女Aが生前に通っていた茅ヶ崎高校の事務職員・担任教諭[書籍 169][新聞 170]
同日の法廷で開廷直後、小川裁判長が被告人に「勝手な発言をしないように」と異例の注意をし、この時は被告人Fも「はい」と素直に返事していた[新聞 169]。しかし藤沢署員が証言する直前に被告人Fが「裁判長、発言したいことがあります」と言いつつ右手を挙げた[書籍 169]。前回の不規則発言を受けてか小川裁判長から「黙りなさい!」と一喝されても被告人Fは「『証言を黙って聞いているのは面倒だ』と言いたげな態度」で「どうしても言いたいことがある」と続けるが、小川は「もう一度発言すると退廷させます。証人が一生懸命に証言しているのを邪魔することになる」と諭した[書籍 170]。その後も被告人Fは尋問の途中にも再三にわたり「話を聞いてくれないなら退廷で結構だ。裁判を受けない」などと述べて発言を求め[新聞 170]、退廷命令こそ出さないものの「静かにしなさい」と諭す小川裁判長のやり取りが続き[書籍 170]、弁護人・本田が被告人Fを「裁判は手続きに従って行うものだから我慢するように」と説得して場を収めたが[新聞 169]、被告人Fは3度目の制止を受けた際[新聞 169]、公判で初めて突然涙を流したために傍聴席が一時騒然した[新聞 170]。その後、学校事務職員の証言が終わったところで本田が小川に「ちょうど区切りですから被告人Fから『何が言いたいのか』聞いてやってもらえませんか?」と提案したが、小川は「今日は証人の話を聞く日だから、言いたいことがあるなら上申書を書いて提出するべきだ」と認めなかった[書籍 170]。その後、少女Aの担任教諭が証言を開始しても被告人Fは発言をやめず「発言させてほしい。ダメなら退廷で結構だ」と発言したが[書籍 170]、それまでに5度も同じようなやり取りが繰り返されていたためにたまりかねた小川が退廷命令を出し[新聞 169]、被告人Fは刑務官らに連れ出されて「もう2度と出廷しない」と捨て台詞を残しつつ退廷した[書籍 170]。被告人不在となった法廷で被害者少女Aの担任は「Aは人を疑うことを知らない性格で、逆恨みで殺されたとしか思えない。『自分を大事にすることは相手の立場に立って理解することだ』と教えたことが仇になってしまった。これから『見知らぬ人に声をかけられた時の対応』などをどうやって教えていけばいいのか悩み苦しんでいる」と述べた[書籍 170]。
1983年3月31日に第7回公判が開かれた[新聞 171]。同日は藤沢事件直後に被告人F・共犯者Yを乗車させたタクシー運転手ら3人の証人尋問が行われ[書籍 171]、事件直後の足取りなどについて証言したが[新聞 171]、冒頭で本田が小川に「5分程度で結構だから被告人Fの言い分を聞いてほしい」と求めた[書籍 171]。これを受けて小川は陪席裁判官2人と協議した上で発言を許可したが、その前に前回公判にて「上申書を提出すれば読む」と述べたにも拘らず被告人Fが上申書を提出しなかった理由を尋問した[書籍 171]。これに対し被告人Fは「刑務官に読まれると困るからだ」と述べ、小川が「法廷で発言しても横に入る刑務官に聞かれているじゃないか」と呆れつつも発言を簡潔に述べるよう促したため、被告人Fは「拘置所内で腹痛に悩まされても寝かせてもらえず、担当の刑務官から毛布を引き剥がされたり、腕を捻って痣を作られるなどの暴行を受けた。自分の身分を保障してほしい」と述べた[書籍 171]。これに対し小川は「それは裁判所からはどうこう言えないから弁護人と相談しなさい」と苦笑いしつつ諭したが、傍聴席からは「人を殺しておいて『身分を保障してほしい』なんて自分勝手すぎる」などの声が漏れた[書籍 171]。結局、被告人Fは「言いたいことが言えた」という満足感からか前回までのような不規則発言はせず、16時30分まで続いた公判にて3人の証言を最後までおとなしく聞いていたが、前回及び前々回で退廷させられたために見送られていた証拠物採用において「凶器の包丁・くり小刀」「切断された電話線」「被害者少女Aの日記帳」などに関して1つずつ「黙秘します」と述べた[書籍 171]。
1983年5月17日に開かれた第9回公判では警察官など事件関係者5人が証人として出廷し、被告人Fが犯行時に使用した手袋が大磯駅付近のトイレから発見された経過などを証言した[新聞 172]。被告人Fは途中まで静かに証言を聞いていたが、4人目の証人が発言している最中に突然発言を求め、証言終了後に発言を認められると[新聞 172]「弁護人(本田)を解任したい」と述べた[書籍 171]。これに対し小川は「弁護人は記録を丹念に読んでちゃんと弁護活動をしているじゃないか」と諭したが、被告人Fは「本田先生は能力がない」[書籍 171]「弁護人を換えてくれなければ次回は出廷しない」などと譲らず[新聞 172]、小川は「君はそのうち『裁判官も能力がないからやめろ』とか言い出すんじゃないのか?」と諭した[書籍 171]。結局、横浜地裁・弁護人とも被告人Fの「弁護人解任申し立て」の真意を図りかねてはいたものの、小川は被告人Fに「(弁護人の解任申し立ては)理由を書いて上申書として裁判所に提出しなさい」と伝えた[新聞 172]。
- 遠藤允はこの「弁護人解任宣言」をした被告人Fの真意を「公判が思い通りにならないことが忌々しくて仕方ないからだろう」と推測した上で、小川の反応については「それまでの心理で被告人Fの内面をある程度見抜いたようだ」と表現した[書籍 171]。続く第11回公判(1983年7月21日)では神奈川県警鑑識課員らが証人として出廷し、母娘殺害事件の現場から採取された指紋・足跡などの鑑定について証言した[書籍 171]。
結局、藤沢事件から1年が経過した次回第10回公判(1983年6月2日・証人尋問)でも本田は解任されず[新聞 173]、伸びきっていた髪を散髪して同公判に出廷した被告人Fは不規則発言などをせず神妙に公判に臨んだが[書籍 171]、それまでの公判で「荒れる法廷」の主役を演じ続けて改悛の情を見せていなかったため、それまで欠かさず公判を傍聴していた被害者遺族の男性Dは「被告人Fの態度は理解できない」とこぼしたほか、接見の度に被告人Fを注意していた弁護人・本田も「今日の神妙な態度が本物なら嬉しいのだが…」と戸惑っていた[新聞 173]。本田は事件から丸1年を控えて1983年5月に『読売新聞』の取材に応じた際も「自分は被告人Fにとって不利なことは話すことはできないが、最近のF(当時、裁判長宛てに拘置所内の出来事・法廷での公判内容の不満を上申書に書いて横浜地裁へ送ることが唯一の楽しみになっていた)の言動は自分にも理解できない」と困惑していた[新聞 174]。また、それまでの公判をすべて傍聴していた男性Dも事件から1年を前にして同紙の取材に対し「最近は周囲の人から特別扱いされなくなったことで少しは気が楽になったし、仕事中は事件のことを忘れられるが、帰宅して誰もいない家に帰るとその反動がこみ上げてしまう。Fは未だに自分の罪を認めようとしておらず、殺してやりたい気持ちは今も変わらない」と述べた[新聞 175]。
1983年7月21日に開かれた第11回公判では神奈川県警の鑑識課員らが証人として出廷し、藤沢事件現場から採取された指紋・足跡などの鑑定経過に関して証言した[新聞 176][書籍 172]。同日、横浜地裁は「次回公判で被告人Fの母親を証人尋問する」と決めて夏休みに入ったが、この時点までに被告人Fは黙秘・弁護人は一貫して無罪を主張をした[書籍 173]。一方で「タクシー運転手が犯行直後のFを自宅まで乗せた際の証言」「F本人の証言に基づき血の付いた手袋が駅のトイレから発見された経過」「犯行時にFが手に負った傷の鑑定」などにより事件の全容は解明されつつあったが、検察官により提出された[新聞 173]犯行に結び付く証拠のほとんども弁護人が採用に不同意としたため、検察官は被告人Fの犯行を立証するべく多数の証人を召喚することとなり[注 52][書籍 173]、X・Y両事件および窃盗事件の審理を残した公判は長期化必至となった[新聞 173]。遠藤允はそれまでの公判を総括して「被告人Fの犯罪は『起訴状記載の犯罪事実の有無を認定する』だけでは不十分で『現代の病根がなぜ被告人Fによって現れたのか?』を明らかにしなけばならない。この事件で衝撃を受けた多くの人々もそれを強く願っているに違いないが、冒頭陳述でも明らかにされなかった『現代の病根』は公判で鮮明に浮き出てくるとは思えない」と述べた[書籍 173]。
1983年9月13日に開かれた第12回公判では被告人Fの実母が検察側証人として出廷することが予定されていたが、弁護人が母親の検察官調書について同意するか否かを決めていなかったため、検察官は被告人Fの犯行前後の状況・母娘殺害事件の際にできたての傷などについて約3時間にわたり尋問する予定だった[新聞 176]。Fの母は「事件を知る貴重な証人」として証言内容が注目されており[新聞 177]、同日の横浜地裁前には久々にテレビ局の中継車が来るなど同日の公判は高く注目されていたが、被告人Fの実母はネフローゼの持病を抱えていたことに加えて前夜から吐き気を催し、医師の診察を受けたところ「1週間の安静加療が必要」と診断されたため、開廷前の9時過ぎに検察官・高橋寛へ「本日は出廷できない」と断りの電話を入れた[書籍 174]。小川裁判長は弁護人・本田にも被告人Fの実母の健康状態を尋ねたが、本田も「証人(被告人Fの実母)は自分と面接する際も常に具合が悪そうで、途中で横たわって休むこともある。しかし『公判に出頭しない』とまでは言っていないので次回には必ず出廷するはずだ」と回答したため[書籍 174]、同日の公判は5分間で閉廷し、母親の証言は次回公判(1983年10月11日)に延期された[新聞 178]。
初公判から丸1年となる1983年10月11日に第13回公判が開かれ[書籍 175]、改めて被告人Fの実母が検察側証人として出廷した[新聞 179][新聞 177]。Fの母は事件直後の検察官による取り調べに対しては詳細に回答しており、同日の公判でも息子の交友関係などに関しては特に躊躇なく証言したが[書籍 175]、「藤沢事件当夜の息子の行動」に関して「被告人は事件当夜自宅に帰ってきたのか?」「誰と一緒に帰宅したのか?」[新聞 179]「手にけがをしていたのか?」などと事件の核心に触れる質問をされると[書籍 175]、刑事訴訟法第147条「近親者の証言拒否権」に基づいて証言を拒否した上、事件直後に自らが述べた検察官調書の内容についても「記憶にない」と繰り返した[新聞 179]。証人尋問開始から10分後[新聞 179]、検察官は「思うような証言が得られない」と質問を打ち切ったが、肝心の事実関係が不明瞭なままだったために小川裁判長が改めてほとんど同様の質問をすると、被告人Fの実母は一転して「息子は事件当夜自宅に帰ってきた。右手親指腹・左手首の怪我には薬を塗ったが大した怪我ではなかった」などと明確に回答した[書籍 175]。その後、検察官の質問が再開されると被告人Fの実母はそれまでと一転して証言拒否権を行使しなかったが、事件当時の検事調書の内容に関して「事件直前の調べに対し『帰宅した息子が被害者A母娘の殺害を告白したため、自首を勧めたが聞き入れられなかった』と述べたことに間違いはないか?」と再度質問されると、「殺人の告白・自首を勧めた事実ともにない。しかし警察の話から『3人を殺したのはFではないか?』と思い夫と心中しようとした」[新聞 179]「娘(被告人Fの妹)が『(心中を)やめて』と言ったので思い留まった」と証言した[書籍 175]。同日の公判で被告人Fの実母は入廷 - 退廷まで息子の顔を見ようともしなかった一方、母親の証言を静かに聴いていたFも終始無表情で、母親が退廷する際に視線を送っただけだった[新聞 179]。
1983年10月31日に開かれた第14回公判では被告人Fの実父が証人として出廷し[新聞 31]、事件当時の様子に関しては以下のように「妻(被告人Fの実母)とあまり変わらない証言」をした[書籍 176]。
- 「藤沢事件当夜は事件発生時刻の20時ごろ・被告人Fが帰宅した時間ともに寝入っており、事件当時のことは何も知らない。事件直後の事情聴取で検察官に対し『自分たちが息子に自首を勧めた』と証言したが、あの証言は検察官から『Fが“両親から自首を勧められた”と言っているし、狭い家で帰宅したことに気づかないはずがないだろう』と繰り返し言われたからそう答えただけだ」[書籍 176]。
- 「事件翌日に捜査員が自宅を訪れたことや新聞報道などで事件を『息子の犯行だ』と悟り、『大変なことになった』と思い夫婦で心中しようとしたが娘から反対されて思い留まった」[書籍 176]。
- 「息子は幼少期からなぜか電球が好きでこだわりが強かったほか、足は「普通の速さ」と思っていたが小学校5年生の時にマラソン大会で優勝したことがあった。中学入学後に新聞配達のアルバイトを始めたので『何か買いたいものでもあるのか?』と思ったが、何が欲しかったのかまではわからない」[書籍 178]
- 「息子は幼稚園時代からすぐ喧嘩をして仲間に溶け込めず、別の幼稚園に転園したこともあったが、最初の子供だから姓の読みをからかわれないよう呼称を変えるなど、親としての愛情を注いだ時期もあった。しかし小学校高学年に成長すると近所の子供をいじめた息子に代わり謝罪に回る回数が増え、中学では登校拒否・窃盗が目立ったため、持て余し気味の息子の行動にあまり関与しなくなった」[新聞 31]
- 「息子が家にいると常に家庭内が不穏な状態になり、少年院入院時には平穏を取り戻していたが、息子の性格は少年院を退院する度に悪化していった。自分たちにも『なぜ手が付けられない性格に育ったのか?』という原因は思い当たらず、息子自身の生まれつきの性格としか思えない。息子が成長するとともに親子喧嘩の際も自分が圧倒されるようになり、家族が危険な状態に陥っていった」[書籍 179]。
- 「自分は息子が真犯人でないことを願ってはいるが、息子に対し親としての愛情は感じていない」[書籍 180]。
遠藤允は被告人Fの両親による一連の証言を総括して「夫婦が心中を考えるほど思い詰めていたことなどから考えると、両親は藤沢事件の詳細まではともかく息子が重大犯罪を犯したことはわかっていたはずだろう。初期の取り調べ段階における供述・法廷にて宣誓した上での証言のどちらが正しいかまではわからないが、被告人Fが藤沢事件後に逃走したことで『藤沢事件は息子の犯行だ』と確信したはずだ」と評したほか[書籍 177]、『神奈川新聞』は「血のつながった親子の情愛は遠い昔、プツンと切れていたことを思わす父親の暗い証言だった。他人事のように淡々と話す父親の証言は、息子との関わり合いをできるだけ否定し、冷たく突き放す歪んだ親子関係を物語っていた」と評した[新聞 31]。
逮捕から2年近くが経過した1984年(昭和59年)4月26日に開かれた第20回公判で陪席裁判官2人の交代に伴い公判手続きの更新が行われ[新聞 180]、検察官が改めて起訴状に基づく公訴事実の要旨を述べた[書籍 180]。被告人Fにもそれに対する陳述機会が与えられたが、被告人Fは新たに以下のような陳述を行った[書籍 180]。
- 「初公判閉廷直後にVサインをしたのは同じ留置場に入っていた暴力団組員から『法廷でVサインをしろ』と脅されたためだが、あのような言動を取ったことは大変申し訳なく思う」[書籍 180]
- 「被害者5人を殺害した真犯人は茅ヶ崎市内在住の人物で、いずれの事件も数人の人間から目撃されているほか、自分も事件現場でその人物を目撃していた」[書籍 180]
- 「これまでこのことを伏せていたのは留置場で前述の暴力団組員にその事実を話したところ、事件目撃者の1人が組員と親戚だったためにその組員から『俺の親戚の名前を聞き出したらただでは済ませない。地下室で拷問してやる』と脅されたためだ」[書籍 180]。
- 「自分は完全に無実だから一刻も早く釈放してほしい。弁護人・本田弁護士は加藤が所属している暴力団の組長と親戚であり、本田もまた『弁護人を解任したら承知しない』と自分を脅しているので裁判所から弁護人解任を命じてほしい」[書籍 181]
しかし被告人Fは犯行に使用したくり小刀・手袋など証拠品を提示されると押し黙ったまま無表情に見つめるのみだった[新聞 180]。遠藤允はこれらの一連の発言を総括して「当時の被告人Fはこのような常識の枠を超える夢想発言をしていたが、もしかすると拘禁症状(ノイローゼ)を発症していたのかもしれない。弁護人の解任要求は第9回公判でもあったが、今回は『暴力団幹部と親戚だから』という事実無根の理由が付くなど、陳述そのものが支離滅裂だった」と評した[書籍 182]。
さらに1984年7月24日に開かれた第23回公判にて被告人Fは「被害者一家のことは自分は知らない。真犯人は(第20回公判で言及した)前述の茅ヶ崎の人間で、真実を喋ればあいつに殺されるから黙っていた」と陳述した[書籍 182]。1984年秋までに藤沢事件に関する審理が終了し、X・Y両事件の審理に移行すると翌1985年(昭和60年)4月25日に開かれた第31回公判で裁判長が小川陽一から和田保に交代した[書籍 182]。同日の公判でも改めて公判手続きの更新が行われたが、陳述にて被告人Fは改めて「茅ヶ崎の人物の犯行だ」と発言した[書籍 182]。このように被告人Fが支離滅裂な発言をするようにはなったが公判そのものは順調に進行し、1985年秋には殺人3件のほかに起訴されていた窃盗(ひったくり)に関する審理へ移行した[書籍 182]。このころまでに捜査段階で明かされた事実は殺人・窃盗ともに細部を除き大筋で検察官調書そのままの証言が続き、被告人Fの犯行が裏付けられていった[書籍 183]。
黙秘・否認から自白へ
初公判でこそ被告人F・弁護人ともに無罪を主張したが、公判途中からは一転して起訴事実を認め、弁護人は情状酌量を求める方針に転換した[雑誌 1]。1986年(昭和61年)3月25日に開かれた第41回公判にて閉廷直前、被告人Fが「裁判長、言いたいことがあります」と述べた[書籍 1]。それまでに何度も同じような状況で被告人Fが不規則発言をしたために法廷にいた関係者は「またか」とうんざりしたが、被告人Fはその直後にそれまでの無罪主張と異なり「自分は5人の殺人・10件の窃盗で起訴されているが、それらはすべて事実だ。それまで本当のことを言わず迷惑をかけて申し訳ない」と述べ、自ら起訴事実を全面的に認めた上でそれまでの黙秘・否認を謝罪する発言をした[書籍 1]。
- それまで一貫して起訴事実を否認していた被告人Fが弁護人にさえ事前に何の相談もすることなくこの期に及んで一転して起訴事実を認めたため、弁護人・本田はその言葉を初めて法廷で聞かされるとともに大きく驚かされる格好となった[書籍 1]。
- 結局、被告人Fは供述を一転させた理由を最後まで明かさなかったが、本田は当時の被告人Fの心理状況を「審理がほぼ尽くされ、検察側により被告人Fの犯行は大筋で立証された。被告人Fは『もう否認しても無駄だ』と思ったのだろう」と推測した[書籍 1]。
- 一方でこの証言は「この裁判で最も劇的な供述」ではあったが、当時の公判は傍聴人がほとんどおらず新聞記者も傍聴していない状態だったために翌日の新聞朝刊で報道されることはなく、結果的に「被告人Fが犯行を認めた」事実が最初に報道されるのは次回第42回公判(1986年5月13日)の翌日・1986年5月14日まで待たねばならなかった[書籍 1]。
1986年5月13日に第42回公判が開かれ[書籍 1]、担当裁判官の交代による更新手続き(通算3回目)の中で行われた被告人陳述にて被告人Fは以下のように証言した[書籍 184]
- 前回と同様に「起訴事実はすべて事実であり間違いない。被害者5人は全員自分が殺害したし、単独犯で2件・共犯Xとともに8件の窃盗を犯したことは事実だ」と述べた上で[書籍 184]、和田裁判長から「それまでの黙秘・否認・『別人がやった』という発言はいずれも撤回するか?」と問われると「はい」と答えた[新聞 181][書籍 184]。
- その上でそれまで黙秘・事実と異なる陳述などをしてきた理由を「『黙秘・否認を続ければ裁判を長期化させられる』と考えたためだが、今年3月ごろからは『やはりあんな悪いことはせず真面目に生活していればよかった』と後悔・反省するようになった」と述べた[書籍 184]。
- 同日の公判では捜査段階における自白調書などが検察官から証拠申請されたが、弁護人は「状況が変わったため被告人Fと十分打ち合わせをした上で認否する」として認否を留保した[新聞 181]。また弁護人・本田は捜査段階で自ら検察官に犯行を自白していたにも拘らず公判で黙秘・否認を繰り返し、ここで再び供述を翻した真意がわからず、被告人Fと横浜拘置支所で面会したところ「被告人Fの言動は正気ではない。拘禁性ノイローゼどころか精神障害を起こしている可能性すらある」と思うようになった[書籍 184]。
- 同日の公判の模様を『神奈川新聞』1986年5月14日朝刊は「被告人Fは初公判から一貫して黙秘・全面否認を繰り返してきたが前回公判で初めて犯行を認める発言をし、この日の公判で正式に認めた」と報道したほか[新聞 181]、『読売新聞』1986年5月14日東京朝刊は「第42回公判にて被告人Fはそれまで犯行を一貫して否認していたがその主張を一転させ、起訴事実をすべて認めた」と報道した[新聞 182]。
1986年6月16日に第43回公判が開かれ、弁護人は以下の理由から横浜地裁に精神鑑定実施を申請した[新聞 183]。
- 「被告人Fは第41回公判直前の1986年3月10日9時ごろ、拘置先・横浜拘置支所で独房の窓ガラスに自ら頭を打ち付け、割れたガラスの破片で喉を突き刺そうとしたところを刑務官に発見された。その後、被告人Fは保護室に移されても窓ガラスを割って自殺を図ろうとしたが制止され、頭に全治1週間の怪我をした。それ以降、被告人Fは横浜拘置支所内で抗生新薬投与・抗ヒスタミン剤注射などの治療を受けている」[書籍 185]
- 「被告人Fは第41回公判を境に起訴事実を全面的に認めたが、最近の接見の際には『うるさい音がして眠れない』『電波が飛んでいる』などとと訴えたり、異常な言動が見られるなど精神的な機能障害が進行していることが認められる。仮に精神疾患があれば自白は無効だ」[新聞 183]
これを受けて和田裁判長は被告人質問を行ったが、これに対し被告人Fは弁護人との面会で「うるさい音がして眠れない」「電波が飛んでいる」などと話したことについては語らなかったが「黙秘・否認で裁判を引き延ばそうとしていたが、日が経つにつれて自分の犯行を後悔するようになったので認めた。1日でも早く罪を償いたい」と述べた[新聞 183]。和田裁判長は陪席裁判官2人と合議した結果[書籍 185]、被告人質問の結果を受けて和田裁判長は弁護人の精神鑑定申請を以下のように却下した[新聞 183]。
- 「被告人Fは自分が現在置かれている立場・問われている責任を理解した上で証言を翻しており、防御能力は備わっているため精神鑑定は必要ない」[新聞 183]
- 「拘置支所内における注射も『一過性の拘禁症状を治療するため』という報告があることから弁護人の主張には理由がない」[書籍 185]
- 遠藤允はこの注射・薬剤投与に関して「被告人Fは薬剤の作用により精神的に安定を得たことで、本心から反省しているか否かはさておき犯行を認めたのだろう」と推測した[書籍 186]。
弁護人はこの却下決定に不服を唱え異議申し立てをしたが、和田裁判長は「公判手続きを停止せねばならないほど重大な精神的欠陥は認められない」と退けた[新聞 183]。
1987年(昭和63年)3月16日の第51回公判で被告人Fは弁護人による被告人質問にて起訴事実を全面的に認めて以来初めて(X事件について)殺人の具体的・詳細な犯行状況を供述したほか、同日の公判では「Fが同年2月20日・28日の2回にわたり横浜地裁宛てに『裁判を早く進めてほしい』など早期結審を求める上申書を提出していた」ことが明かされ、翌日の『読売新聞』神奈川県版では「Fは一時期拘禁性ノイローゼの疑念が指摘されていたが、最近は本格的に事件に対する反省の情を持ち始めている様子が窺えた」と報道された[新聞 184]。
- FはXを殺害した動機を「事件2か月前に現金を持ち逃げされたことで殺意が生じた。その後、Xが自分に窃盗の罪を擦り付けようとしていたことを知って殺意が確定的になった」と述べたほか、「犯行場所は本来、人が少ない北海道あたりにしたかった。犯行時にXの足を包丁で刺したが、Xに包丁を奪われたため油断させて不意討ちした」と供述した[新聞 184]。
- また「当時は殺して『ざまあみろ』と思ったし、証拠となる凶器の遺棄・衣服の洗濯を行ったため『完全犯罪が成立した。もうこれで窃盗の罪を擦り付けられずに済む』と思った」と述べたが、弁護人から「今はどう思うか?」と追及されると「Xの両親にも悪いことをしたと思うし、冥福を祈っている」と述べた[新聞 184]。
その後の公判は証拠調べが淡々と進むようになったが、前述の全面的な自白の際には神妙に反省の意を示した被告人Fが被告人質問にて再び不規則発言を再開するようになり、被害者少女Aとの関係に関して「聞くに堪えない言葉」を連呼したほか[書籍 186]、裁判所側に「早く判決を出してほしい」とも要求するようになった[書籍 187]。
- 1987年6月18日の第53回公判では被告人Fが突然、後に判決公判の際にも名前を挙げた暴力団幹部の実名[書籍 186](『毎日新聞』報道によれば広域暴力団・稲川会総裁の稲川聖城)[新聞 68]を挙げ、証人の証言内容をメモしていたキャンパスノートを読み上げつつ「週刊誌を読んで知ったことをきっかけに稲川さんを尊敬するようになり、稲川さんの子供になりたいと思った。裁判長は自分のこの願いを稲川さんに伝えてほしい」と述べ、和田裁判長が「裁判所はそのような反社会的勢力の幹部と連絡はとれない」と諭しても聞き入れなかった[書籍 186]。
- 捜査を担当していた神奈川県警幹部は『読売新聞』東京本社横浜支局の取材に対しこの被告人Fの言動に関して「暴力団の最高幹部と関係があるというハッタリ、もしくは見栄だろう」と推測したほか、弁護人・本田は「『その最高幹部が自分を助けてくれる、助けてほしい』という訴えだろう」と推測した[新聞 138]。
- 1987年8月31日に開かれた第55回公判では和田裁判長が被告人Fに対し「君は『早く判決を出してほしい』と言うが、本件は死刑判決もあり得ることをよく考えた上で発言しているのか?」と質問すると、被告人Fはあっさり「はい、そうです」と回答した[書籍 187]。
遠藤はこの背景を「被告人Fは長期化した公判に嫌気が差したのだろう」と推測した上で[書籍 186]、判決を催促するようになった背景に関しては「被告人Fは『死刑』の意味も、5人を殺害した罪の重さも本当に理解しているとは思えない。そもそも殺人という『普通の人間にとって極めて重大なこと』も被告人Fにとっては自らに科される可能性の高い死刑と同じく『日常の出来事』だったのかもしれない」と推測した[書籍 187]。
事実審理は1987年10月27日の第56回公判まで続いたが[書籍 187]、被告人Fが公判で捜査段階における自供を一転させて全面否認を繰り返し、弁護人も「調書に任意性がない」と主張して調書の証拠採用に同意しなかったため、検察側は関係者100人以上に証言を求めた[新聞 16]。そのため公判は最初の殺人容疑における起訴(1982年7月) - 論告求刑公判(1987年11月)まで5年4か月と長期化することとなった[新聞 16]。第56回公判にて弁護人は被告人質問終了後に改めて精神鑑定を申請した上で被告人Fの母親を情状証人として申請したが、いずれも被告人F自身が拒否した[新聞 145]。
死刑求刑・結審
横浜地裁刑事第2部(和田保裁判長)で[新聞 45]1987年(昭和62年)11月26日13時から第57回公判(論告求刑公判)が開かれ[書籍 187]、横浜地検は被告人Fに死刑を求刑した[新聞 16][新聞 185][新聞 186][新聞 187][新聞 45]。立会検察官は加藤元章・猪俣尚人の2人で[書籍 187]、論告要旨は以下の通り。
- 母娘殺害事件の犯行現場はまさに血の海と化し、残虐性も極まり、まさに鬼畜の業と断ぜざるを得ない[新聞 16]。
- 被害者Yを尼崎市内で殺害した動機は口封じであり身勝手極まる理由だ[新聞 16]。被害者Xを横浜市内で殺害した動機も窃盗の発覚を恐れたためで、自己保身のために他人を犠牲にして省みない冷酷非情さが表れている[新聞 16]。
- 極刑を求める強烈な被害者遺族の処罰感情は量刑選択に当たり十分に加味されるべきである上、被告人Fの自己中心的・凶暴な犯罪的性格は根深く固定化されており教育的処遇に期待を寄せて矯正を図ることはもはや困難だ[新聞 16]。
- 最高裁が1983年に示した「永山基準」と照らして考慮しても被告人Fは犯行当時既に成年しており、殺害された被害者数も5人に上ることからその罪状は「ただただ極悪」というほかなく、死刑を回避することは許されない[新聞 16]。
この論告において横浜地検は一連の連続殺人を「犯罪史上稀に見る凶悪かつ重大な事犯」と位置づけ、3つの殺人の情状関係を中心に「自己中心的な動機・残虐非道な手口・粗暴な性格」などを厳しく断罪した一方、動機・被害者感情を含めて被告人Fにとって有利に働く情状に関しては一切言及しなかった[新聞 188]。被告人Fは同日、論告を落ち着いた様子で聞きつつ自分のノートにメモを取っていたが、検察官が「死刑を求刑する」と述べた際には顔をこわばらせていた[新聞 188]。
1988年(昭和63年)1月14日10時から横浜地裁刑事第2部(和田保裁判長)で[新聞 189]第58回公判が開かれ[新聞 190]、弁護人による最終弁論が行われて結審した[新聞 189][新聞 190]。最終弁論で弁護人は以下のように訴えて無罪を主張した上で死刑廃止論者の立場から「仮に有罪としても無期懲役が相当だ」と訴えた[新聞 190]。
- 被告人Fは脅迫罪で別件逮捕されたにも拘らず取り調べは母娘3人に対する殺人容疑に終始し、未明まで長時間にわたり暴行を交えた取り調べが行われたことから「早く楽になりたい」と自白した[新聞 190]。このような取り調べ方法は刑事手続き上違法である上[新聞 189]、殺人の自白も強制・拷問によるもので任意性・証拠能力はない[新聞 190]。
- 被告人Fは第41回公判以降、5人を殺害した一連の犯行を認め深く反省している[新聞 190]。仮に有罪だとしても死刑は(「拷問及び残虐な刑罰」を固く禁じた)日本国憲法第36条に違反する[新聞 191]。
- 本事件は極悪非道な犯行ではあるが、母娘殺害事件の場合は家族ぐるみで被告人Fを馬鹿にするなど、被害者側にも犯行の引き金となった原因がある[新聞 190]。検察側が前回論告求刑公判で言及した永山事件は本事件とは社会的影響が大きく異なる無差別的な強盗殺人であり[新聞 190]、本件は何の落ち度もない人間を殺しているわけではないため抑えた量刑判断が必要だ[新聞 191]。
- 被告人Fは「甘やかされて育った家庭環境」「身体が小さいことで友人にいじめられ続けた情状面」から矯正の余地がある[新聞 190]。
被告人Fは論告求刑公判の際は神妙にしていたが[新聞 190]、同日は弁論開始直前に暴力団組長の名前を叫びつつ傍聴席へVサインを向けたほか、約90分間の弁論の間にも数回不規則発言をして弁論を妨害し、その度に和田裁判長から注意された[新聞 191]。さらに最終陳述では3事件についてそれぞれ自身の意見を主張したが、その内容は要領を得ないもので[新聞 191]、「犯行の直前に被害者Aへナイフを見せつけたところ、Aが『歯の治療中に自分を殺す』という計画を立てていたことを白状した」と述べるなど「被害者5人とも自分を殺そうとしていたから先に殺した」と弁明した上で「刑を軽くしてください」と述べた[新聞 190][注 53]。そして閉廷直後には和田裁判長に「ちょっと言いたいことがあります」と述べた上で暴力団幹部の実名を連呼し、満席の傍聴席を向いてVサインを見せつけるなどの行動を繰り返した上、大声で「判決の日を早くしてください」と叫び、和田裁判長からたしなめられた[新聞 190]。
なお同時期には犯行当時少年だった永山則夫による連続4人射殺事件の量刑をめぐって死刑存廃問題が大きな波紋を呼んでいたため、横浜地裁に限らず各裁判所とも死刑事件の審理を一時中断していたが、1987年3月18日に東京高裁が永山被告人に差し戻し控訴審で死刑判決を言い渡して以降は死刑判決が相次ぐ形となり、1988年1月 - 3月の間(被告人Fに死刑が言い渡されるまで)に3件の死刑判決が出ていた[新聞 68]。結局、本件第一審は初公判(1982年10月) - 判決までに5年5か月と長期間を要したが、検察・弁護人とも事実関係に特段の争いはなく、主な争点は被告人Fの情状面となった[新聞 14]。
死刑判決
1988年3月10日10時から横浜地裁602号法廷で判決公判が開かれ[新聞 192][新聞 68]、横浜地裁刑事第2部(和田保裁判長)は横浜地検の求刑通り被告人Fに死刑判決を言い渡した[新聞 193][新聞 22][新聞 194][新聞 68]。
死刑判決の場合は主文宣告を最後まで後回しにした上で判決理由から朗読する場合が多いが、和田裁判長は開廷直後に死刑事件としては異例となる冒頭主文宣告を行った上で[新聞 193][書籍 188][注 54]、以下のように判決理由を朗読した。なお同日の判決公判には被害者遺族は1人も傍聴に訪れていなかった[新聞 195]。[新聞 39]。
- 公判で弁護人が主な争点として挙げた「脅迫容疑による別件逮捕の違法性」に関して、横浜地裁は「別件脅迫事件と母娘殺害事件(本件)は事実として一連の関係にあった上、もっぱら本件殺人事件の取り調べを行ったことは認められないため違法とは言えない。拷問的取り調べがあった事実も認められない」として弁護人の違法主張を退け、被告人Fの自白調書に関して証拠能力を認めた[新聞 193]。
- また同じく弁護人が主張していた「死刑制度違憲論」に関しても「絞首刑は日本国憲法第36条が規定する『残虐な刑罰』には該当せず違憲ではない。死刑適用は最高裁判例が示した『永山基準』に照らして慎重に行われるべきだが、犯罪の結果の重大性などを考慮すれば死刑選択も許される」と退けた[新聞 193]。
判決理由の大半は検察側の主張を事実認定したが[書籍 189]、一方で以下の2点に関しては弁護人側の主張を採用した[書籍 190]。
- X事件に関する「捜査が不十分だった」という指摘 - 「Fの母親がアリバイを申し立てた事情があったとはいえ、さらに慎重な捜査を行い被告人Fをこの時点で逮捕していればA・B・C母娘や被害者Yが殺害されることはなかった」[書籍 190]
- 「被告人Fと初めて接触した際の被害者Aに関して(取り立てて責められるべきほどの落ち度ではないとはいえ)『軽率な点がなかったとは言えない』」[書籍 190]
その上で横浜地裁は量刑理由において以下のように死刑を選択した理由を挙げた[新聞 193]。
- 一連の犯行に関する情状においては母娘殺害事件に多くを割いた上で「被告人Fは最初のX事件で嫌疑をかけられながらも証拠不十分で釈放となったことから完全犯罪に自信を持ち、一家皆殺しの計画を立てた。特に2件目の母娘殺害事件は平和な社会において稀にみる凶悪・残虐な犯行である上、自己の非を棚に上げた身勝手・短絡的な動機に酌量の余地はない。その死屍累々・鬼哭啾啾というべき惨状をもたらした残虐さには戦慄を覚える」と非難した[新聞 193]。
- また殺害された被害者5人に関しては「いずれも取り立てて責められるべき落ち度はまったくもない。A・B・Cの母娘3人はさしたる落ち度もないのに突然被告人Fから凶刃を振るわれて非業の最期を遂げたものでその苦痛・恐怖・無念さには計り知れぬものがあり、最愛の妻子を一挙に失った男性Dの衝撃・悲嘆の心境は筆舌に尽くしがたく同情を禁じ得ない。X・Y両被害者に関しても素行が芳しくなかったとはいえ、被告人Fに殺害されなければならない理由はなかったことは明らかだ。被害者遺族の処罰感情は峻烈である一方、それに対し被告人Fからは何ら慰藉の措置も講じられておらず遺族らが死刑を望むことも当然だ」と言及した[書籍 191]。
- 最後に被告人Fに関して「犯罪能力は人並み以上で精神的能力の欠如は認められず、生命軽視の人格態度はこの上ない非難に値する。(連続射殺事件で死刑判決を受け当時上告中だった)永山則夫と比較しても勝るとも劣らない」と異例の見解を述べた[新聞 193]。
和田裁判長は主文宣告後に約1時間におよぶ判決理由朗読を淡々と続けたが[新聞 192]、藤沢事件で殺害された被害者母娘3人に「平穏な生活を送り、これからという矢先で非業の死を遂げた」と言及した際には感情を昂らせて涙を流し、続いて最愛の妻子を一挙に失い1人遺された被害者遺族・男性Dに言及した際にはほとんど声にならないほど涙むせていた[新聞 196]。和田は判決理由を朗読し終えた後、被告人Fへ「我々はこの事件を『永山より酷い』と判断した。君は5人の人々を刃物で惨殺しておきながら全く反省していない。被害者の痛み・苦しみに思いを馳せれば君自身の命でその罪を償ってもらう以外にない」と説諭した上で、控訴手続きを説明しつつ「死刑判決だから最高裁まで判断を仰いだほうがいいかもしれない」と諭した[新聞 192]。しかし被告人Fは判決理由朗読中も和田の声にほとんど耳を傾けず[新聞 196]、辺りをキョロキョロ見渡すなどしており[新聞 192][書籍 192]、判決朗読後には「言いたいことがある」と立ち上がりノートを広げ[新聞 192]、突然暴力団幹部の実名[新聞 192](『毎日新聞』報道によれば広域暴力団・稲川会総裁の稲川聖城)[新聞 68]を連呼しつつ[新聞 192]「稲川さん万歳」などと発言したほか[書籍 192]、薄笑いを浮かべながら傍聴席に向き直ると[書籍 192]、傍聴席に向かって2,3回両手でVサインをした[新聞 68][注 55]。その態度に激怒した和田は被告人Fに「そんなことをしているから『反省していない』と思われるんだ!」と非難して退廷を命じ[新聞 192]、被告人Fは手錠をかけられ刑務官たちに退廷されられた[新聞 192]。
被告人Fの国選弁護人・本田敏幸弁護士は「被告人F本人が拒絶しても弁護人の立場として控訴する。控訴審でも引き続き弁護活動を続け、精神鑑定を申請する」と表明した上で[新聞 197]同日中に東京高等裁判所へ控訴した[新聞 197][新聞 193][新聞 198]。その後、本田が被告人Fと拘置所で面会し「お前、死刑になってしまうぞ。私は控訴した」と語りかけたところ、Fは「死刑になりたくない」と答えた上で「自分も控訴するつもりだ」という意思表示をした[新聞 195]。
死刑判決を受けて『読売新聞』には本事件に関する以下のような要旨の投書が寄せられ、1988年3月15日東京朝刊の投書欄[気流]に掲載された[新聞 11]。
- 事件後に被告人Fの母親がテレビの取材を受けていた際に「派手ないでたちと異様な話しぶり」をしていたことに違和感を覚えるとともに「Fはこの母親にどのように育てられたのか?」と興味を覚えて公判を傍聴したところ「人間形成に最も大事な幼児期」に家族の温かさ・善悪を教えられることのないまま成人したFに哀れみさえ感じた[新聞 11]。
- 判決の際に裁判長が被害者遺族の悲嘆に思いを馳せて涙しながら判決文を読み上げていた一方、その涙の意味も理解できずにVサインをしてみせた被告人Fをつくづく「気の毒な人間だ」と思った[新聞 11]。
- 被告人Fからはまだ被害者遺族に対する謝罪すら聞かれないが、自分は「彼が人間として目覚め、本当に心から改心せぬ限りこの事件は解決したことにはならない」と思う[新聞 11]。
また『朝日新聞』(朝日新聞社)にも以下のような要旨の投書が寄せられ、1988年3月23日東京朝刊の投書欄に掲載された[新聞 199]。
- 被告人Fの犯行は死刑も免れぬ「冷酷非情極まる情状酌量の余地なき犯行」であり、反省どころか開き直りの態度さえ見せているFの「反社会的性格」の改善は困難とされる[新聞 199]。
- その罪は許しがたいが、自分は人間として「加害者もまた哀れだ」と思うし、その非人間的性格から救い出して更生させ、真っ当な人間に戻した上で罪を償わせたい[新聞 199]。
- 「何が彼をそのような犯罪者に至らしめるほど歪めたのか?手の施しようがないとしても死刑以外に償いの手立てはないのだろうか?」と思う[新聞 199]。
控訴審・東京高裁
控訴取り下げ・異議申し立て
死刑判決を不服として東京高等裁判所に控訴した被告人Fだったが、控訴審第1回公判(初公判)期日前の1989年(平成元年)5月6日夜には収監先・東京拘置所の職員に対し「もう助からないから控訴をやめる」と言い出し、当直職員(副看守長)から「弁護人とよく相談してから判断しろ」と説諭され「わかりました」と答えたが、その翌日(1989年5月7日)にも拘置所職員に対し「(控訴から)もうすぐ1年になるのにまだ裁判の日が決まらない。最近はいらいらして仕方ないのでいっそ(控訴を)取り下げたい」などと発言し[裁判 4]、同高裁第11刑事部で1989年7月10日に開かれた控訴審初公判、および1989年9月11日に開かれた控訴審第2回公判では「もう助からないから控訴をやめたい(死刑判決が覆る見込みがないから控訴を取り下げたい)」という趣旨の発言をした[裁判 5]。これに対し裁判長は「重要な事項なので(控訴を取り下げる場合は)弁護人とよく相談してから決めるように」と説諭したが、被告人Fは1989年12月28日にも拘置所職員に「控訴を取り下げて死刑を確定させろ。上司に会いたい。早くしてくれ」と言い張るなどしたほか、その後も拘置所職員・接見のために同拘置所を訪れた弁護人に対してもしばしば「控訴を取り下げたい」という趣旨の発言をしていたため[裁判 4]、弁護人はその度に被告人Fを説得して控訴取り下げを思い留まらせつつ、東京拘置所職員にも「被告人Fの『控訴取り下げ』要求を取り上げないでほしい」などと依頼するなどしていた[裁判 5]。
1990年(平成2年)3月13日、被告人Fは東京拘置所職員に「電波で音が入ってきてうるさい。生き地獄が辛い。早く確定して死刑になって死にたい」などと発言したほか[裁判 4]、1991年(平成3年)4月10日の第11回公判で、東京高裁が「弁護人がかねてから請求していた被告人Fの犯行時及び現在の精神状態に関する精神鑑定」を採用した際に「その精神鑑定を拒否する。要求が容れられないなら控訴を取り下げる」などと発言した上、それから8日後の1991年4月18日には東京拘置所で控訴取下に必要な手続・書類の交付を強く求めた[裁判 5]。
この事実を東京拘置所から連絡された弁護人・岡崎敬は1991年4月23日に被告人Fと接見して[裁判 5]控訴を取り下げないように説得した上で[新聞 200]被告人Fを制止したが[新聞 201]、被告人Fは説得に応じることなく[新聞 200]弁護人との接見・拘置所職員による事情聴取などの手続を経て「控訴取下書」用紙の交付を受け、所要事項を記入して同日付の控訴取下書を作成した上で東京拘置所長に提出した[裁判 5]。
これにより公判は第11回目まで開かれた時点で中断する格好となったが[新聞 202]、これを受けて弁護団は以下のような理由から「控訴取り下げの効力には疑義がある」と表明した[新聞 200]。
- 被告人Fは「控訴取り下げ」の意味を理解しておらず「控訴を取り下げれば死刑判決が確定する」とは思っていなかった[新聞 200]。被告人Fに対してはそれまで裁判所による精神鑑定が行われておらず、被告人Fはその精神鑑定を回避する目的で控訴を取り下げた[新聞 202]。
- 被告人Fは深刻な拘禁症状(ノイローゼ)を発症しており弁護団ともまともな意思疎通ができない状態にある一方[新聞 202]、控訴取り下げ書提出後、被告人Fは1991年10月 - 11月にかけて実母宛の手紙で一転して控訴取り下げを撤回する意思表示をしている[新聞 200][注 56]。
1991年5月10日、被告人Fは東京高裁から審尋を受けて控訴取下書提出の動機・経緯などの真意を質問された際に「裁判所・訴訟関係人の質問」に対してはあまり多くを語らなかったが「1991年4月23日付の控訴取下書は自ら作成したものだ」と認めた上で[裁判 5]、それを作成した動機は「本当は無罪になって娑婆に出たいが、世界で一番強い人に『生きているのがつまらなくなる』魔法をかけられたり『10年間の生き地獄にする』と言われたりしているので毎日がとても苦しい。『控訴を取り下げれば早く死刑になって楽になれる』と思ったからだ」と供述した[裁判 4]。これを受けて東京高裁はその供述に鑑みて「被告人Fの現在の精神状態、特に被告人Fが控訴取下書を提出した時点で『控訴取り下げなどの行為が訴訟上持つ意味を理解して行為する能力』(=訴訟能力)があったか否か」を含めて慶應義塾大学医学部名誉教授の医師・保崎秀夫に精神鑑定を命じた[裁判 5]。鑑定人・保崎は関係記録を検討して1991年6月10日 - 1991年8月20日までの約2か月間に6回にわたり被告人Fに面接して精神鑑定作業を進めたが、被告人Fはその間も保崎の再三に亘る説得を聞き入れず身体的・精神的諸検査を拒否したため、保崎はやむを得ず「被告人Fとの面接結果」を中心に鑑定を行い、1991年9月13日付で東京高裁に精神鑑定書を提出した[裁判 5][注 57]。
東京高裁が「死刑判決に対する控訴の取り下げ」という「訴訟法上重大な効果を伴うもの」である本件に関して「その効力の有無を慎重に検討する」目的で1991年11月18日に鑑定人・保崎に対する証人尋問を行い、「被告人Fの精神状態の把握」「被告人Fの訴訟能力の有無」に関する疑問点の解消に努めたところ[裁判 5]、証人尋問で保崎は「被告人Fは現在(鑑定当時)拘禁反応の状態にはあるが、本件控訴取り下げ書を作成・提出した時点において『控訴取り下げなどの行為が訴訟上有する意味を理解・行為する能力』は多少問題があったとしても失われているほどではない」とする結論を示した[裁判 4]。一方で1992年(平成4年)1月22日には弁護人から東京高裁に「本件控訴取下げ当時の被告人Fの訴訟能力(とりわけ主体的・合理的な判断能力)の存在には大きな疑問があるため、本件控訴取下げは無効とすべきである」などとする趣旨の意見書(千葉大学法経学部助教授・後藤昭作成)が提出された[裁判 4]。
結果、東京高裁第11刑事部(小泉祐康裁判長)は1992年1月31日付で[裁判 5]以下のように「控訴取り下げは被告人F自身の『死への願望』というやや特殊な動機だが、被告人本人の真意であるため取り下げは有効である」とする決定を出した[新聞 202][新聞 200][新聞 201]。
- 被告人F自身が控訴審初公判で「もう助からないから控訴を取り下げたい」と発言したり、取り下げ書提出後に東京高裁の質問に対し「『控訴を取り下げれば早く死刑になって楽になれる』と思った」と回答した[新聞 200]。
- 精神鑑定結果で「被告人Fの精神は拘禁反応の状態にはあるが、『控訴取り下げの意味を理解する能力』は多少の問題はあるにしても完全に失われているわけではない」とされており、弁護団の「取り下げは被告人Fの一時の気紛れ・気の迷いによるもの」という主張は当てはまらない[新聞 200]。
- 控訴取り下げ撤回の意思を表明してもいったん終了した訴訟状態は復活させることはできない[新聞 202][新聞 200]。
この決定により控訴審は「控訴取り下げ時点に遡って終了し、そのまま第一審・死刑判決が確定」することになったが、被告人Fの弁護団は1992年2月3日夜に「控訴取り下げは精神的に不安定な状況で行われており、本人に訴訟能力がないため無効だ」などとして東京高裁決定に対する異議を申し立て[新聞 202][新聞 200]、同年3月27日には東京高裁に「被告人Fには精神分裂病(統合失調症)の疑いがあり、本件控訴取下は幻覚・妄想に影響された非合理的・非現実的な動機によってなされたものだ。仮に被告人Fが保崎の鑑定で示されたように拘禁症状を有していたとしても、被告人Fの訴訟能力には重大な障害が発生していることは否定できず、被告人の精神鑑定を再度実施する必要がある」とする趣旨の意見書(財団法人東京都精神医学総合研究所副参事医師・中谷陽二作成)を提出した[裁判 4]。これを受け[裁判 4]、1992年6月11日までに東京高裁第12刑事部(横田安弘裁判長)は「『被告人Fが控訴取り下げの意味を理解した上で取り下げを行ったかどうか』を改めて精査する必要がある」として聖マリアンナ医学研究所顧問・逸見武光を鑑定人に指定した上で[新聞 203]、被告人Fに対し2度目の精神鑑定を行うことを決定した[新聞 204]。
鑑定人・逸見は1993年(平成5年)2月1日付で精神鑑定書を提出したほか、1993年4月22日に東京高裁が実施した鑑定人尋問で「被告人Fはいわゆる境界例人格障害者で、現在(鑑定時)の精神状態は幻覚・妄想状態にある。その幻覚・妄想状態は重度の心因(ストレス)に起因する特定不能の精神障害のうち『分裂病型障害』と考えられ、控訴取り下げ時の精神状態も現在と同様であると思われる。拘禁後の被告人Fの幻覚・妄想状態は精神分裂病状態とほとんど変わらず、被告人が死への願望を抱くこと自体が精神分裂病に起因するものであって、被告人Fは控訴取り下げの意味を十分に理解しているとはいえず、その訴訟能力はなかったといわざるを得ない」とする結論を示した[裁判 4]。それに対し検察官から1993年6月23日付で「さらに被告人Fの精神状態を鑑定する必要がある」とする申し出がなされたため、東京高裁第12刑事部(小田健司裁判長)は[新聞 205]1993年7月16日付で(鑑定人尋問は同年8月17日)上智大学文学部教授(心理学)・福島章に3度目の精神鑑定を行うよう命じた[裁判 4]。被告人1人に対し再々鑑定(3度目の精神鑑定)が行われることは極めて異例で[新聞 205]、鑑定人・福島は1993年11月19日に精神状態鑑定書を提出したほか、1994年(平成6年)6月30日に行われた証人尋問では「被告人Fは現在に至るまで精神分裂病・境界例であったことはない。控訴取り下げ時点では拘禁反応状態で願望充足的な妄想的観念を抱いていたため、控訴取り下げの義理を理解し、自己を守る能力(訴訟能力)は多少低下していたがその実質的能力が著しく低下・喪失された精神状態ではなかった」とする鑑定結果を示した[裁判 4]。
東京高裁第12刑事部(円井義弘裁判長)は1994年11月30日付で[裁判 4][新聞 206]「被告人Fは控訴を取り下げた時点で拘禁反応状態(ノイローゼ)にはあったが、取り下げの意味は理解しており訴訟能力の欠如は認められず、控訴取り下げは有効なものだ」と認定して弁護人からなされた「訴訟終了決定」への異議申し立てを棄却する決定をした[新聞 206][新聞 207]。
審理再開
最高裁判所判例 | |
---|---|
事件名 | 訴訟終了宣言決定に対する異議申立て棄却決定に対する特別抗告事件 |
事件番号 | 平成6年(し)第173号 |
1995年(平成7年)6月28日 | |
判例集 | 『最高裁判所刑事判例集』(刑集)第49巻6号785頁、『最高裁判所裁判集刑事』(集刑)第265号873頁、『裁判所時報』第1149号6頁、『判例時報』第1534号139頁、『判例タイムズ』第880号131頁、裁判所ウェブサイト掲載判例 |
裁判要旨 | |
死刑判決の言渡しを受けた被告人が、その判決に不服があるのに、死刑判決の衝撃及び公判審理の重圧に伴う精神的苦痛によって精神障害を生じ、その影響下において、苦痛から逃れることを目的として控訴を取り下げたなどの判示の事実関係の下においては、被告人の控訴取下げは、自己の権利を守る能力を著しく制限されていたものであって、無効である。 | |
第二小法廷 | |
裁判長 | 大西勝也 |
陪席裁判官 | 中島敏次郎・根岸重治・河合伸一 |
意見 | |
多数意見 | 全員一致 |
反対意見 | なし |
参照法条 | |
刑事訴訟法359条・411条1号 |
しかし弁護人が同決定を不服として最高裁判所へ特別抗告した結果[新聞 207][新聞 208]、最高裁第二小法廷(大西勝也裁判長)は1995年(平成7年)6月28日付で[裁判 6]弁護人の特別抗告を認容して「控訴取り下げは有効」とした東京高裁決定を取り消し「控訴取り下げは無効であり、東京高裁は控訴審の公判を再開すべきである」と命じる決定を出した[新聞 208][新聞 209]。決定理由で同小法廷は「死刑判決に対する上訴取り下げは死刑を確定させる重大な法律効果を伴うものである」と指摘した上で、東京高裁が行った尋問の際に被告人Fが「無罪になって自由の身になりたいから控訴取り下げを撤回する」などと意思表示をしていたことから「被告人Fは無罪を希望していた」と認定した[新聞 209]。その上で「被告人Fは死刑判決を不服として控訴したにも拘らず、控訴を取り下げた当時は死刑判決の衝撃などにより『もう助かる見込みがない』と思い詰めており、その精神的苦痛から逃れるために控訴を取り下げたことが明らかである。そのため『自己防御能力が著しく制限されていた』と断定できる」と指摘した上で[新聞 208]「今回のように『判決に不服があるにも拘らず死刑宣告の衝撃などで精神障害を生じ、その苦痛から逃れるために上訴を取り下げた場合』は取り下げは無効とするのが相当である」との判断を示した[新聞 209]。
最高裁決定後に東京医科歯科大学教授・山上晧による精神鑑定が行われた後[新聞 210]、1998年(平成10年)6月22日に東京高裁(荒木友雄裁判長)で約7年ぶりに控訴審公判が再開された[新聞 211][新聞 210][新聞 212]。同日の公判では以下のような結果を示した精神鑑定書が証拠採用された一方[新聞 211][新聞 210][新聞 212]、弁護人は「被告人Fは『控訴取り下げを行う能力がない』と認定されており、裁判を続ける訴訟能力もない」などと主張して公判手続き停止を申し立てた[新聞 211][新聞 210][新聞 212]。
- 「被告人Fは異常性格だが、犯行当時は特に病的な精神状態ではなかった」[新聞 211][新聞 210]
- 「現在は被告人Fの判断能力が弱まっている可能性はあるが著しいものではない」[新聞 211][新聞 212]
1999年(平成11年)10月29日に東京高裁(荒木友雄裁判長)で控訴審第19回公判が開かれ、弁護人・検察官の双方が最終弁論を行って結審した[新聞 213][新聞 214]。
控訴棄却判決
2000年(平成12年)1月24日に控訴審判決公判が開かれ、東京高裁第11刑事部(荒木友雄裁判長)は第一審・死刑判決を支持して被告人F・弁護人側の控訴を棄却する判決を言い渡した[新聞 215][新聞 216][新聞 12][新聞 13][新聞 23][新聞 217][新聞 218]。
- 東京高裁は「起訴後の被告人Fの言動に異常な点が見られる点は『拘禁の影響によるもの』と認められる」と判断した一方で[新聞 215][新聞 23]、事件当時の刑事責任能力に関しては弁護人側の心神喪失・心神耗弱とする主張を退け「犯行経緯・動機は十分に了解可能で犯行時の意識も清明だった」ことを指摘し[新聞 215]、「完全犯罪を意図して周到・緻密な準備の上で行われた高度な計画性に基づく犯行で、死刑になり得ることも十分に理解していた」として「責任能力が認められる」と事実認定した[新聞 23]。
- また「脅迫罪で別件逮捕したことによる取り調べ・自白強要など違法な訴訟手続きが行われた」とする弁護人側の控訴趣意書主張に関しては「本件殺人のみならず別件の取り調べも行われている。そもそも別件・脅迫事件は本件・殺人事件と原因・動機が関連しているため違法とは言えない」と判断して退けた[新聞 215]。
- そして「量刑不当」と主張した弁護人側の控訴趣意書論旨を「被告人Fは公判で否認から自白に転じ、いったんは控訴を取り下げるなど精神的成長・改善矯正の兆しが認められなくはないが、5人の人命を奪った罪の重さを鑑みれば死刑を選択した第一審の量刑はやむを得ず、弁護人側の『重すぎて不当』という主張は当てはまらない」として退けた[新聞 215]。
- 被告人Fは判決言い渡しの間も落ち着かない様子だった一方、判決後に接見室で弁護人・岡崎敬弁護士と接見した際には[新聞 12]「控訴審はこれで終わりか?」と質問し、『読売新聞』の報道によれば判決の結論を「第一審と同じ死刑だ」と教えられると指で丸を作り「わかった」という様子を見せた[新聞 23]。一方で『神奈川新聞』報道部記者・佐藤奇平は同紙2000年1月25日朝刊記事にて「被告人Fは接見時に岡崎から『判決の意味は分かっているか?第一審と同じ死刑だ』と返答されても理解しかねる様子で、何も答えなかった」と述べ、判決宣告当時の被告人Fの様子を以下のように形容した[新聞 12]。
- 「犯行当時短かった頭髪が伸びて長めのおかっぱに変わっていたが、年齢に比して幼さの残る顔つきで、それ以上に立ち振る舞いが月日の積み重ねを感じさせた。第一審で国選弁護人を務めた本田が語っていた『世間が評するほどの悪人には見えない。素直で純粋なところがあった』という事件当時の面影はなかった。逮捕から約18年にわたる拘禁生活の辛さ・怯え続けた『死刑』の影が被告人Fを変えてしまったのだろうか?」[新聞 12]
- 「弁護人・岡崎によれば被告人Fは事件の話になると耳を一切貸さないらしい。終始落ち着きなく傍聴席を見渡す被告人Fの姿からは、その心に『突然の凶行に遭い、無防備のままに恐怖・苦痛のうちに非業の最期を遂げた被害者母娘3人の無念さは察するに余りある』という判決文が響いているようには感じられなかった」[新聞 13]
- 「被告人Fは判決理由で控訴棄却の理由が説明されてもまるで他人事のように聞き流していたようだったが、荒木裁判長が被害者の名前・事件内容に触れると当時を思い出したためか落ち着きを失い、退廷直前には弁護人・岡崎に『すぐに(接見に)来て』と叫んだ。本田は今も被告人Fに対し『いつか自分の犯した罪に気付き、真人間になってもらいたい』と願っているが、今回も心からの贖罪の言葉は聞けなかった」[新聞 12]
- 「被告人Fは拘置所で事件の話にほとんど耳を貸さなかったそうだが、2度目の死刑判決言い渡しの意味を受け止められているのだろうか?」[新聞 12]
- また控訴審判決を受けて被害者少女Bと明治中学校で同級生だった藤沢市在住の女性は『神奈川新聞』の取材に対し「身近な友人が被害者で、ましてや思春期に起きたから『とてつもない大事件』だった。(前年に発生した)桶川ストーカー殺人事件など類似事件が起きる度にあの事件を思い出してしまう」と回答した[新聞 13]。
- 控訴審判決公判で裁判長を担当した荒木は死刑執行後の2008年3月に『毎日新聞』(毎日新聞社)の取材を受けて同判決を述懐し「全力で審理した上で『死刑以外にあり得ない』と確信した。判決を読み直しても付け加えたり変えたりするべき部分は見当たらない」と断言した[新聞 219]。
被告人Fの弁護人は控訴審判決を不服として2000年2月4日付で最高裁判所へ上告した[新聞 220][新聞 221]。
上告審・最高裁第三小法廷
最高裁判所は2003年(平成15年)12月17日までに被告人Fの上告審口頭弁論公判開廷期日を「2004年3月23日」に指定して関係者に通知した[新聞 222][新聞 223]。
2004年(平成16年)3月23日に最高裁第三小法廷(濱田邦夫裁判長)で上告審口頭弁論公判が開かれた[新聞 224][新聞 225]。
- 弁護人側は「被告人Fは長期間の拘禁により精神障害が生じている影響で[新聞 224]刑罰の意味さえ理解できておらず、死刑執行は意味をなさない」と主張して死刑判決破棄を求めた[新聞 225]。
- 一方で検察側は「被告人Fが刑罰を理解できない証拠はなく、極悪非道の重大犯罪である本事件は死刑が相当だ」と主張し[新聞 224]、死刑判決支持・被告人側上告棄却を求めた[新聞 224][新聞 225]。
最高裁第三小法廷(濱田邦夫裁判長)は2004年6月8日までに被告人Fの上告審判決公判開廷期日を「2004年6月15日」に指定して関係者に通知した[新聞 226][新聞 227]。弁護人は上告審判決前日(2004年6月14日)に被告人Fと東京拘置所で接見したが、被告人Fは「翌日に上告審判決が言い渡されること」は理解していた一方で弁護人に対し「『無罪判決なら釈放ですか?』と聞くなど『状況を正確に把握できていない』様子」で、弁護団側によれば「言動が異常で意識が裁判に向いていない状態」だった[新聞 228]。
2004年6月15日に上告審判決公判が開かれ、最高裁第三小法廷(濱田邦夫裁判長)は第一審・控訴審の死刑判決を支持して被告人F・弁護人の上告を棄却する判決を言い渡したため、被告人Fの死刑が確定することとなった[新聞 229][新聞 24][新聞 230][新聞 20][新聞 231]。
被告人Fは上告審判決から10日間の判決訂正申し立て期限内(2004年6月24日まで)に最高裁第三小法廷(濱田邦夫裁判長)へ判決訂正を申し立てなかったため、2004年6月25日付で正式に死刑判決が確定した[新聞 25]。
弁護士・安田好弘は死刑執行後の抗議集会にて「共犯者がいる本件では『加害者Fが事件の主導者か否か』『被告人Fは責任能力・防御能力を十分に有していたか否か』」の2点に関して疑問を呈しているほか[書籍 4]、控訴審から公判を傍聴し、控訴審判決後から被告人(→死刑囚)Fと交流を続けていた支援者は「自分が見たFは公判の際に明らかに精神的に病んでいる状態で、毎回5人の看守が付き添っていた。裁判所だけでなく拘置所側もFを『普通ではない』と認識していたから他の被告人と違う扱いをしていたのだろう。死刑囚Fは自分との面会の際に隣の看守に食って掛かっていたことがあったが、そのことから想像するとFは死刑執行の際におとなしく刑を受け入れたかは疑問だ」と述べている[書籍 193]。
死刑執行
2007年(平成19年)12月7日午前、法務省(法務大臣:鳩山邦夫)の発した死刑執行命令により収監先・東京拘置所で死刑囚F(47歳没)の死刑が執行された[3][4][新聞 232][新聞 21][新聞 233][新聞 234]。
- 法務省は長らく死刑執行の事実を公表せず、矯正統計年報にて前年の死刑執行件数を掲載していただけだったが、1998年に当時の法務大臣・中村正三郎が「死刑執行の公表方法を検討すること」を法務省刑事局に指示して同年11月の死刑執行(泰州くん誘拐殺人事件・名古屋保険金殺人事件の各死刑囚ら3人)からは死刑執行の事実・人数の発表を開始していた[新聞 232]。しかし氏名に関しては「死刑囚の遺族らに不利益を与える」という理由でそれまで引き続き公表を見送っていたが[新聞 232]、鳩山は法務大臣に就任してから初となる今回の死刑執行にあたり同日に執行された別の死刑囚2人(うち1人は東京拘置所、もう1人は大阪拘置所)を含めて「死刑囚の氏名・犯罪事実の概要・執行場所」を初めて法務省として公表した[新聞 232][新聞 21][新聞 233][新聞 234]。
- 国会会期中の死刑執行は極めて異例で[新聞 21]、2007年4月27日に前法務大臣・長勢甚遠の指揮により行われた3人に対する死刑執行以来だった[新聞 232]。鳩山は同日に行われた衆議院法務委員会でこの死刑執行にあたって死刑囚の氏名などを公表した理由を「死刑という非常に重い刑罰が『法に基づいて適正に粛々と行われているかどうか』は被害者あるいは国民が知り理解する必要がある」と説明した[新聞 21][新聞 233][新聞 234]。
- またこの死刑執行により同年内の死刑執行は計9人となり、1976年以来では当時最多となった[新聞 232](現在の最多記録は2008年・2018年の各15人)。
分析・考察
共立女子大学教授・間宮武はFが両親から優秀な妹と比較されて生育していた点に着目し「親が子供を叱ったりしつけたりする際に他の子供・兄弟と比較することは良くない。Fは家庭・学校・社会から『劣等生・非行少年』と疎外され続けた積年の恨みを爆発させて凶行に走ってしまったのだろう。Fのように周囲から孤立しストレスを抱えている青年は他にもかなりいるだろうし、『良い子=良い点数を取る子』という風潮の社会では今後も同種の犯罪が起きそうだ」と評したほか、上智大学教授・福島章も「子供は母親の叱り方が『見捨てるぞ』と脅すような厳しいものだと安心して母親に甘えることができず、Fの場合は本来は十分に満たされれば消えていくはずのその甘えが満たされないまま残ってしまったのだろう。Fによる犯罪は家庭内暴力の延長線上にあるといえる」と分析している[新聞 235]。
また大東文化大学教授・山根清道(犯罪心理学者、元横浜少年鑑別所所長)はFの心理状態について「Fは『自信を温かく受け入れてくれ、叱るところは叱ってくれる』環境に飢えており、自身への愛を求めようとして少女Aに交際を迫ったがうまくいかず、A本人への『自分の愛を受け入れてくれなかった』という憎しみのみならず妹・母親への恨みも含めて爆発させてしまったのだろう」と、瀬尾和子・神奈川県立こども医療センター精神科医長は「Fのような子供を生み出さないためには幼少期から自分自身の感情表現をトレーニングさせること必要だ。幼少期から感情を抑えつけさせるのではなく、喜怒哀楽を明確に言葉で他人に伝えさせ、成長する過程で『どこを抑えて我慢していくべきか』を自分で覚えさせるべきだ」「子供にはどこか取り得があるのだから1つの側面だけで決めつけず、幅広い側面から見てあげるべきだ」と分析・考察している[新聞 236]。
脚注
注釈
- ^ a b c 現:横浜市泉区中田町。
- ^ 2016年(平成28年)7月26日には相模原市緑区内で本事件を上回る19人が殺害された相模原障害者施設殺傷事件が発生している。前者は単独事件ではあるが、連続殺人事件としても2017年(平成29年)10月に座間9遺体事件(座間市内で9人が殺害された事件)が発覚している。
- ^ 小学校1年生当時の担任教諭は他の児童の家庭より頻繁にF宅を家庭訪問していたが、F宅の家庭事情について「Fは学業成績が最下位レベルの上に同級生から疎外されることが多い一方、Fの妹は両親から溺愛されている」という事情から「家庭内で両親の愛情は妹にばかり向けられている」と直感していたほか[書籍 11]、4年生当時の担任教諭も「鉛筆事件」の際にFが母親から激しく叱責されている姿を見て「いくら他人の子供を傷つけたとはいえ、Fの母親の叱り方には自分の子供への愛情が感じられない。Fの母親はFを快く思わないどころか憎しみを抱いているように感じられるほどだ」という印象を抱いていた[書籍 12]。
- ^ これは母親にとっても耐え難い出来事だったため、母親は家庭裁判所へ相談し「姓の読み方を変えよう」と提案されたことから当時Fが通園していた幼稚園に改姓手続きをした[書籍 13]。
- ^ 当時怪我をした女子児童はFにとってわずか2人しかいなかった仲の良い友達の1人で、Fは悪意から女子児童を傷つけたわけではなく「指を突き出して相手の名を呼び、振り向きざまに指が頬に当たる」遊びの延長線上に過ぎなかったが、その際に鉛筆を手にしていたために傷を与えてしまった[書籍 12]。
- ^ このころには女子生徒からはまったく相手にされなかった上、男子生徒たちも悪意からではなく「成績が悪く話し相手にならない」という理由でFを自然と疎外するようになっていた[新聞 28]。
- ^ Fの母親は当時無職だったFから金をせびられていたところ偶然集金目的で訪れてきた新聞販売店主に助けられたことで店主を信頼し、Fをその販売店へ就職させた[新聞 29]。その店主は親分肌の性格で妻とともにFの面倒をよく見たほか、Fの母からの相談にもよく乗っていたため、Fの母親はその後家庭内暴力が深刻化した際にFを店主の下に住み込みで預ける決心をしたが、その住み込み生活は相部屋になった先輩から「自分のプライベートな生活もある」と1週間で終えられ、Fは半年後に新聞販売店を退職して以降さらに非行・家庭内暴力を深刻化させていった[新聞 29]。
- ^ 在宅試験観察処分は「少年犯罪としては軽い処分」だが、その処分理由は「初犯であり両親の下で善導することが必要」というものだった[書籍 26]。
- ^ Fは「X事件の4年ほど前」(=1977年)ごろ、後に知人Xを殺害した戸塚区中田町[注 1]内に位置していた新聞販売店で新聞配達をしたことがあり、同町内に強い土地勘があった[書籍 27]。
- ^ Fが小田原少年院に移送された理由は「脱走を試みた少年は周囲を塀で囲まれ容易に抜け出せない少年院に収容すべき」という判断のほかに「新潟では両親の面会もままならないので、自宅に近い小田原ならばF自身の精神安定にもつながる」という少年院側の配慮もあった[書籍 29]。
- ^ 当時の小田原少年院次長・金内竹寿は「Fは従順で目立たず問題を起こさなかった」と証言した上、Fの在院期間は一般的な機関(約1年)より短かった[新聞 30]。
- ^ 後者の工事を請け負った工場は前述の耐火設備会社の関連工場で、後に友人Yを殺害したマンションの近くに位置していた[新聞 32]。
- ^ この判断は「Fの行動の悪さ」からではなく「Fは集団の部屋に入れるといじめを受ける危険性がある」という判断からだった[書籍 34]。
- ^ 対人関係で様々な挫折を味わっていたFはオートバイに対し「自分を裏切らず言うことを忠実に聞いてくれる唯一の相手」として気に入っており、ひったくりの際にもほとんどオートバイを利用していた[書籍 16]。
- ^ Fの母親はFが喧嘩して泣きながら帰宅してくると喧嘩をした相手の家まで怒鳴り込んだり、成績不良を担任教諭のせいにするなどしていた[新聞 33]。
- ^ 兵庫県警はYについて「江東区森下三丁目在住」と発表していた[新聞 43]。
- ^ Yの母親は当時江東区内に住んでおり、Fはたびたび母親へ会いに行っていた[書籍 48]。
- ^ 現住所:横浜市泉区中田町2748番地。
- ^ 遠藤允は「2人の経歴を見る限りはXよりFの方が労働意欲に欠けていただろうから、Fの方がXにひったくりを提案したのだろう」と考察している[書籍 51]。
- ^ Xはかつてこの店に勤務しており内部事情に詳しかった[新聞 49]。
- ^ 『神奈川新聞』によれば、Fはその後も暴力団風の男5人を取立人として送り込んでXを脅迫していた[新聞 50]。またXの母親は『神奈川新聞』の取材に対し「Fは表面的には礼儀正しいところもあったが、常にポケットにバールを忍ばせるなど不気味な感じで、息子(X)もいつも怖がっていた」と証言した[新聞 51]。
- ^ 「かつて自分やFとともに久里浜特別少年院にいた厚木市内の元少年院仲間」(=Z)のこと[書籍 57]。
- ^ 『読売新聞』1982年10月8日朝刊神奈川県版では「5日夕方に大船駅前で友人2人と些細なことで殴り合いの喧嘩をした」とされている[新聞 52]。
- ^ 遠藤(1983)は「Xは一緒に寝泊まりしていたFについて『カッとなると何をしでかすかわからない男だ』とわかってはいたが、覚醒剤を注射した直後で気が大きくなっていたため「お前とはもう付き合いたくない」と発言したのだろう」と推測している[書籍 27]。
- ^ 当時、まだ夜は完全に明けてはいなかったが「周囲が畑であることはわかる程度の明るさ」になっていた[書籍 27]。
- ^ Fは逮捕後、捜査本部の調べに対し「当初はガソリンでXを焼殺しようとしたが、自動車のライトが近づいてきたため『炎が上がると犯行が露呈する』と思い刺殺に切り替えた」と自供していた[新聞 54]。
- ^ この時、XがおとなしくFの指示に従ったことに関して遠藤(1983)は「足を負傷してしまったから下手に動かず、様子を窺いながら反撃に転じようとしたのだろう」と考察している[書籍 60]。
- ^ Xのアドレス帳に記録されていた友人の大半は横浜市内在住だったが茅ヶ崎市・平塚市・厚木市など神奈川県内のほか群馬県・新潟県在住の人物も記載されていた[新聞 52]。
- ^ 戸塚署が被害者Xの身元を割り出してから約16時間後の逮捕だった[書籍 58]。
- ^ この時神奈川県警はFの尿検査を行ったが、覚醒剤反応は陰性だった[新聞 50][書籍 58]。
- ^ 2019年(令和元年)現在は関東特殊製鋼の工場は閉鎖され、その跡地は湘南C-Xとして再開発されている。
- ^ AがFを避けるようになった理由について、横浜地検は冒頭陳述で「Fが教養に欠け話題に乏しいため」と主張したほか[新聞 6]、判決文では「AはFの人柄を知ったことから交際を拒否するようになった」と認定されている[裁判 2]。また『神奈川新聞』連載特集記事では「Fの粗暴な性格が明らかになったため」と述べられている[新聞 61]。
- ^ この店が少女Aのアルバイト先かどうかは明言されていないが、Fはこの時少女に「この店に知っている人がいた」と述べている[書籍 89]。
- ^ その背景には当時「少女は既に年上で子持ちの男性と結婚していた」という事情があるが、それを抜きにしても自身・Fともに定職に就いていなかった事情もあった[書籍 89]。
- ^ Yは結果的に「昼間にA宅を訪問した新聞集金人」とほとんど年齢差がなかったため[書籍 99]、遠藤允は「Aたちは『新聞集金人が改めて来た』と思ったのだろう」と推測した[書籍 102]。
- ^ このように2点の誤りが生じてしまった理由に関して遠藤允は「同紙記者が捜査員から取材を受けた際に両者の認識に齟齬が生じたこと」「捜査員が被疑者Fの生年月日を単純に計算間違いしていたこと」を推測している[書籍 106]。
- ^ Fの母親は捜査本部から聞き込みされた際に「息子は27日の夕方に外出したまま帰ってきておらず、その後の行動はまったく知らない」と主張していた[書籍 107]。
- ^ 後にFが逮捕されX・Y事件との関与も明らかになった際には捜査本部側から「Fの執拗な誘いに負けた被害者Aが引きずり込まれるように喫茶店などでFと話をしたが、その際にFからX事件をネタに脅された。それを知ったAは母親Cなどに相談したが、事件前日にF宅を警察官が訪れたことで『しばらく止まっていたX事件の捜査が再び動き出した』と判断し一家皆殺しを決意したFにより口封じのためB・Cとともに殺害された」という仮説も出た[新聞 79]。
- ^ 遠藤允は「Fはこのように手袋が偶然便器に落ちたことを巧みに利用し、残りの手袋をトイレに流して遺棄したことで『証拠物を完全に消し去った』と思ったに違いないが、その証拠隠滅工作は後に手痛いしっぺ返しを食らうことになる」と表現した[書籍 112]。
- ^ 遠藤は「Fが茅ケ崎駅まで自動二輪車を取りに行っている間だけでも、既に犯行を把握していた両親が警察に通報するだけの時間は十分にあったはずだ」と指摘している[書籍 63]。
- ^ 『読売新聞』神奈川県版では宿泊先が「福岡県北九州市内」と報道されているが[新聞 15]、遠藤の著書では「福岡市内」となっている[書籍 120]。
- ^ 遠藤(1983)では「事件翌日(1982年5月28日)夜」[書籍 124]、『読売新聞』神奈川県版の報道では「Fが殺人容疑で逮捕された翌日(1982年6月25日)夜」となっている[新聞 84]。
- ^ Y事件の現場となったマンション「第二ハイツ玉江橋」の住所は事件当時「兵庫県尼崎市西大物町90番地」だったが[新聞 5]、2012年時点では「兵庫県尼崎市昭和通二丁目6番地35号」となっている[1]。
- ^ 「第二ハイツ玉江橋」(別表記:第2ハイツ玉江橋)は2000年(平成12年)6月時点で既に住宅としては使用されておらず、同月に実施された尼崎市消防局の訓練場所となっている[2]。
- ^ この時点では捜査本部の調べにより「母娘殺害事件の現場周辺から採取された血痕は90%以上の確率でFと一致する」ことが判明してはいたが、まだ別人の可能性も排除しきれなかったため更なる裏付けが必要だった[新聞 109]。また横浜地検内部では「比較的罪の軽い脅迫の罪状で10日間の拘置延長は許可されないのではないか?」という慎重論もあったが、地検は真相解明の手掛かりを得るため拘置延長申請する方針を決めた[新聞 109]。
- ^ 警察庁により広域重要指定事件に指定されたのは1980年2月・3月に発生した富山・長野連続女性誘拐殺人事件(111号事件)以来だった[新聞 114]。
- ^ 『読売新聞』1982年7月3日朝刊神奈川県版では「Fは取調官から『君が今頼れるのは我々だけだ。我々を親であり兄でもあると思って何でも話せ』と促されて自供した。続けて『今一番会いたい人は?』と尋ねられると『お母さん』と述べた」と報道された[新聞 116]。
- ^ a b 被告人Fの取り調べを担当した検察官のうち1人は熊崎勝彦[新聞 6]。
- ^ 捜査本部はX事件の凶器を発見すべく第二機動隊員80人や金属探知機を動員して多摩川の川底を捜索したが、結局凶器は発見できなかった[書籍 150]。
- ^ Fが自宅周辺で交友関係を有していた女性は事件と無関係だったため、その「謎の女性」の正体は「Yの知り合い、もしくは尼崎周辺でFと知り合った女性」と推測された[新聞 148]。
- ^ 「事件当時の被告人Fの行動」に加えて「被害者少女Aに付きまとっていた男」=被告人Fであることは「被害者少女Aの日記帳・メモの分析」「被害者少女Aの実父である被害者遺族男性Dによる写真面割り」から判明していたばかりか、現場で採取された血液型の鑑定もABO式のみならずMN式・G型の鑑定が進められていた[裁判 3]。
- ^ 第10回公判までに出廷した証人は男性D・捜査を担当した警察官・司法解剖を行った医師など25人に上った[新聞 173]。
- ^ 同日、Fは閉廷直前に和田裁判長へ「死刑や無期懲役ではなく私を助けてください」と述べている[新聞 191]。
- ^ 裁判所が死刑判決を言い渡す際に主文を後回しにせず冒頭で言い渡した例は他に大久保清事件(大久保清)、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(宮崎勤)、広島タクシー運転手連続殺人事件・附属池田小事件・熊谷連続殺人事件などがある。
- ^ 被告人Fによる「Vサイン」は初公判以来何度も現れてはいたが、遠藤は「この日は被告人F自身の生命が絶たれる死刑判決を受けた直後だったため、法廷内には異様な空気が漂った」と述べている[書籍 192]。
- ^ 被告人Fは1991年10月19日付の母親あての手紙で「控訴を辞めない。世界で一番強い人が『控訴を取り下げないほうが早く裁判が終わる』と言った」と記したほか、同年11月18日に行われた東京高裁の審尋において「母親あての手紙には確かに『控訴を取り下げない』と書いたし、今でもその気持ちに変わりはない」と述べていた[裁判 4]。
- ^ 東京高裁1992年1月31日付決定では「1991年9月13日付」[裁判 5]、同高裁1994年11月30日付決定では「1991年10月1日付」となっている[裁判 4]。
出典
刑事裁判の判決文・決定文
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab 判例タイムズno.1160(2004-12-01)
- ^ a b c d e 最高裁第三小法廷判決(2004-06-15)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac 東京高裁判決(2000-01-24)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 東京高裁決定(1994-11-30)
- ^ a b c d e f g h i j k 東京高裁決定(1992-01-31)
- ^ 最高裁第二小法廷決定(1995-06-28)
新聞報道記事(※見出しに死刑囚の実名が含まれる場合はその箇所を死刑囚の姓イニシャル「F」で表記している)
- ^ a b c d e f g h i j k l 『神奈川新聞』1982年6月25日朝刊B版1面1頁「藤沢の母娘惨殺 F、犯行を全面自供 4週間ぶり解決 連続殺人『戸塚』『尼崎』も自供」
- ^ a b c 『朝日新聞』1982年6月25日東京朝刊第14版第一社会面23頁「母娘3人殺し自供 逮捕のF、他の2件も供述開始 一気に広域殺人の様相」
- ^ a b c d e f g h i j 『神奈川新聞』1982年5月28日朝刊C版第一社会面15頁「母娘3人惨殺される 藤沢市辻堂の新興住宅地 夕食中襲い次々と 長女(高2)追い回した男か」
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『神奈川新聞』1981年10月7日朝刊C版第一社会面15頁「戸塚区の畑地 けんか?メッタ刺し 無職青年、死体で」
- ^ a b c d e f g h 『神戸新聞』1982年6月6日朝刊第15版第一社会面23頁「マンション踊り場に刺殺体 尼崎で若い男 ナイフ、背と腹に 犯人?自転車で逃走」
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 『読売新聞』1982年10月13日第14版神奈川版横浜読売地域面21頁「残忍犯行生々しく 冒頭陳述要旨」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b 『読売新聞』1982年7月13日第14版神奈川版横浜読売地域面20頁「F 大量殺人の一貫動機 裏切りへの報復」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b 『朝日新聞』1982年10月1日東京朝刊神奈川県版湘南第一地方面21頁「Fを追起訴 窃盗、Yも共犯」【湘南】
- ^ a b c 『神奈川新聞』1982年6月16日朝刊B版第一社会面15頁「辻堂の母娘3人惨殺事件 重要参考人を逮捕 長女に付きまとった男、別件の脅迫容疑 容疑事実すべて否認」
- ^ a b c 『神奈川新聞』1982年7月17日朝刊A版第二社会面16頁「Fを殺人で起訴 共犯のYも『被疑者死亡』で送検へ」
- ^ a b c d e 『読売新聞』1988年3月15日東京朝刊第12版発言・投書欄8頁「[気流]人間性欠いた被告が哀れ」(神奈川県横浜市在住・42歳塾教師女性からの投書)
- ^ a b c d e f g 『神奈川新聞』2000年1月25日朝刊B版第一社会面23頁「F被告控訴審 一審死刑判決を支持 しょく罪の言葉なく 最後まで落ち着かず 棄却理由聞き流す?」(報道部記者:佐藤奇平)
- ^ a b c d e f g h 『神奈川新聞』2000年1月25日朝刊B版第一社会面23頁「F被告控訴審 一審死刑判決を支持 当時の同級生、今も傷癒えず 命の大切さ考える/とてつもない事件」(報道部記者:佐藤奇平)
- ^ a b 『読売新聞』1988年3月9日東京朝刊第14版神奈川版横浜読売地域面22頁「連続5人殺しF被告 5年半ぶり、あす判決 横浜地裁 情状の程度焦点 求刑は死刑、事実争わず」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b c d e f g h 『読売新聞』1982年9月8日東京朝刊第14版神奈川版横浜読売地域面20頁「『広域連続殺人』103日ぶり捜査終わる “どうせオレ死刑” いまだ乏しい罪の意識 F“裏切り者は消す”の論理」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b c d e f g h i 『神奈川新聞』1987年11月27日朝刊B版第一社会面23頁「F被告に死刑求刑 母娘ら5人殺害『まさに鬼畜の業』 自己中心的、矯正困難と検察」
- ^ a b c 『神奈川新聞』1982年6月27日朝刊A版第二社会面16頁「屈折の軌跡 2 Fの犯罪 ナゾ 自供内容なお疑問」
- ^ 『読売新聞』1982年12月26日東京朝刊第14版神奈川版横浜読売地域面20頁「読者が選んだ県内10大ニュース決まる トップ『殺人鬼・F』」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ 『読売新聞』1982年12月26日東京朝刊第14版神奈川版横浜読売地域面20頁「相武言 あの日、この時」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b 『東京新聞』2004年6月15日夕刊第一社会面11頁「5人殺害 F被告の死刑確定へ 最高裁が上告棄却 『執拗かつ残虐な犯行』」
- ^ a b c d e f g 『読売新聞』2007年12月7日東京夕刊1面1頁「3人死刑、初の氏名公表 法相『国民が知る必要』 5人殺害のF死刑囚ら」
- ^ a b 『読売新聞』1988年3月10日東京夕刊第一社会面15頁「神奈川・藤沢市の母娘ら5人殺し F被告に死刑判決/横浜地裁」
- ^ a b c d e 『読売新聞』2000年1月25日東京朝刊第二社会面30頁「女子高生ら5人殺害のF被告、二審も死刑 異常行動『拘禁の影響』/東京高裁」
- ^ a b c d 『読売新聞』2004年6月15日東京夕刊第一社会面19頁「女子高生と母、妹ら5人殺害 F被告の死刑確定へ」
- ^ a b 『読売新聞』2004年6月29日東京朝刊第三社会面37頁「女子高生ら5人殺害 F被告の死刑確定 判決に訂正申し立てず」
- ^ a b c d e f g 『中日新聞』1982年6月25日朝刊第12版第一社会面23頁「藤沢 母娘3人殺しを自供 別件逮捕の元工員」【藤沢】
- ^ a b c 『神奈川新聞』1982年7月1日朝刊B版第二社会面18頁「屈折の軌跡 6 Fの犯罪 母の影 『しつけ』厳しく…」
- ^ a b c d e 『神奈川新聞』1982年6月30日朝刊B版第二社会面16頁「屈折の軌跡 4 Fの犯罪 孤独 友達との交流なく」
- ^ a b c d 『読売新聞』1982年7月8日第14版神奈川版横浜読売地域面21頁「殺人鬼Fの周辺 10 すさむ家庭 母に暴力、金無心 悪への道まっしぐらに」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b c d 『神奈川新聞』1982年6月28日朝刊A版第二社会面16頁「屈折の軌跡 3 Fの犯罪 ある作文 虚飾だった?誓い」
- ^ a b c d 『神奈川新聞』1983年11月1日朝刊A版第二社会面16頁「傍聴席 F公判 『居ると波風』と父親 息子に愛情なんか…」
- ^ a b 『読売新聞』1982年6月22日東京朝刊第14版第一社会面23頁「母娘殺しの参考人 尼崎にも土地カン 友人殺し容疑濃厚」【藤沢】
- ^ a b c d e 『読売新聞』1982年7月11日第14版神奈川版横浜読売地域面21頁「殺人鬼Fの周辺 13 記者座談会 何が“怒れる若者”に 欲求不満を殺人で燃焼」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b 『読売新聞』1982年6月16日第14版神奈川版横浜読売地域面20頁「辻堂の母娘惨殺 別件逮捕の男 素顔 愛想の裏に狂気 『完全犯罪やってやる』」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b 『神奈川新聞』1982年6月29日朝刊B版第二社会面14頁「屈折の軌跡 4 Fの犯罪 疎外 退院後再び?非行」
- ^ 『読売新聞』1982年6月16日第14版神奈川版横浜読売地域面20頁「辻堂の母娘惨殺 別件逮捕の男 愛想の裏に狂気 『完全犯罪やってやる』 家庭環境 オート3台も買い与え」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b 『読売新聞』1981年10月6日東京夕刊第4版第一社会面11頁「横浜で若い男刺殺される」
- ^ a b c d e f g h 『中日新聞』1981年10月6日夕刊E版第二社会面6頁「横浜で若い男性 畑で刺殺される」
- ^ a b c d 『読売新聞』1988年3月11日東京朝刊第14版神奈川版横浜読売地域面24頁「連続5人殺人に死刑判決 一日も早く忘れたい 法廷に遺族の姿なく」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b c d e f g h 『中日新聞』1982年5月28日朝刊第12版第一社会面23頁「藤沢 母娘3人惨殺さる 夕食中、メッタ刺し」【藤沢】
- ^ a b c d e 『読売新聞』1982年5月29日第14版神奈川版横浜読売地域面20頁「辻堂の母娘殺し 悔い残る新興住宅街の惨劇 宵の隣近所、大半が雨戸 悲鳴届いてたら…」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b c d e f 『読売新聞』1982年6月29日第14版神奈川版横浜読売地域面21頁「殺人鬼Fの周辺 3 あこがれ “疑い”知らぬ性格 オオカミの手に無抵抗」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b 『朝日新聞』1982年6月7日大阪朝刊第14版第一社会面23頁「尼崎の刺殺 被害者は元店員」
- ^ 『神戸新聞』1982年6月7日夕刊第5版第一社会面7頁「藤沢の母子殺人別件逮捕男 尼崎の殺しも関連か 被害者と面識」
- ^ a b c 『毎日新聞』1987年11月27日東京朝刊第二社会面26頁「8か月間に5人殺人のF被告に死刑求刑」
- ^ a b c d 『朝日新聞』1981年10月6日東京夕刊第3版第一社会面15頁「畑に男性の刺殺体 戸塚 周辺に争った形跡」
- ^ a b c d e f g h i j k 『読売新聞』1982年10月13日東京朝刊第14版神奈川版横浜読売地域面20頁「F事件の経過」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b c 『神奈川新聞』1982年9月29日朝刊A版第二社会面14頁「F、盗みでも送検 ひったくりや事務所荒らし」
- ^ a b c d e 『読売新聞』1982年9月29日東京朝刊第14版神奈川版横浜読売地域面20頁「“ゼニのない奴は狙わない” 冷酷『F』泥棒でも 金庫破りやひったくり 1件平均40万円」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b c d e f 『神奈川新聞』1982年6月17日朝刊B版第一社会面17頁「母娘惨殺の重要参考人 3人三様“黒い交際”」
- ^ 『神奈川新聞』1982年6月26日朝刊B版第一社会面17頁「屈折の軌跡 1 Fの犯罪 残忍 何が狂気を加速?」
- ^ a b c d e 『読売新聞』1981年10月8日第14版神奈川版横浜読売地域面20頁「戸塚の殺し 血染めのシャツ発見 二人分、現場近くで」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ 『読売新聞』1982年7月25日第14版神奈川版横浜読売地域面20頁「F供述、まだウソだらけ 共犯・女の影追及に全力 Xさん殺し、初め焼殺図る」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b 『読売新聞』1982年8月20日第14版神奈川版横浜読売地域面20頁「『F』捜査大詰め キャベツ畑殺人事件 凶器発見に全力」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b c 『神奈川新聞』1981年10月7日朝刊B版第一社会面15頁「交友関係など洗う 戸塚区の刺殺事件」
- ^ a b 『読売新聞』1981年10月7日第14版神奈川版横浜読売地域面20頁「戸塚 Xさん刺殺 周辺に多数の足跡 犯罪も急増…新興住宅地帯 恐怖つのる住民たち 複数犯人と格闘」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b c d 『読売新聞』1982年6月25日東京朝刊第14版神奈川版横浜読売地域面21頁「Fと事件の経過」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b c 『読売新聞』1982年6月17日東京朝刊第14版第一社会面23頁「母娘惨殺の重要参考人、ポリグラフに強い動揺 尼崎刺殺被害者に新証言『藤沢現場で見た』」【藤沢】
- ^ a b c d 『神奈川新聞』1982年6月16日朝刊B版1面1頁「辻堂事件の重要参考人 戸塚の殺人(去年)でも脅迫 “点と線”の可能性 戸塚の被害者と“友人”」
- ^ a b c 『読売新聞』1982年6月26日第14版神奈川版横浜読売地域面21頁「殺人鬼Fの周辺 1 出会い 執ように聞かれた電話番号 教えたのが“始まり”」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b c d 『神奈川新聞』1982年7月3日朝刊A版第二社会面16頁「屈折の軌跡 7 Fの犯罪 淡い思い、一転殺意 愛と憎しみ」
- ^ a b 『神奈川新聞』1982年5月30日朝刊B版第一社会面17頁「辻堂の母娘惨殺 交際迫った男姿消す 複数犯行説も浮上」
- ^ a b 『読売新聞』1982年7月7日第14版神奈川版横浜読売地域面20頁「拘置延長の『F』 母娘3人殺し自供の全容 計画的、残忍犯行こうして 約20日間かけ綿密に準備 悲鳴の中次々に」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『神奈川新聞』1982年7月17日朝刊A版第二社会面16頁「F 凶行繰り返し練習 自首勧めた両親も脅す」
- ^ a b c d e f g h 『読売新聞』1982年6月3日第14版神奈川版横浜読売地域面20頁「辻堂の母娘三人惨殺きょうで一週間 事件のカギやはり平塚の21歳 参考人で 行方追及に全力 動機は『恨み』-凶器、血痕など多いナゾ」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b c d 『読売新聞』1982年6月26日東京朝刊第14版第一社会面23頁「母娘宅には二人で侵入」
- ^ a b 『神奈川新聞』1982年6月3日朝刊A版第一社会面15頁「辻堂の母娘惨殺 庭に不審な洗濯物 事件翌日、A(=加害者F)の自宅に」
- ^ a b c d e f g h 『毎日新聞』1988年3月10日東京夕刊第一社会面13頁「死刑判決 神奈川の母娘3人など5人殺害のF被告に横浜地裁」
- ^ a b 『神奈川新聞』1982年6月26日朝刊B版第一社会面17頁「母娘惨殺のF 一家皆殺し狙う 犯行後関西など転々?殺されたYさん、玄関先まで同行」
- ^ a b c d e f 『神奈川新聞』1982年6月29日朝刊B版第二社会面14頁「母娘殺しF供述 『Yさんは見張り役』 事前に打ち合わせも」
- ^ a b c d e f g h 『神奈川新聞』1982年5月29日朝刊B版第一社会面19頁「辻堂の母娘惨殺 カギ握るバイクの少年 長女に交際を迫る 母親『おねえちゃん』と絶命」
- ^ 『神奈川新聞』1982年6月17日朝刊湘南地域面13頁「藤沢の母子殺人事件 級友たちに落ち着き 机にひっそりアジサイ 茅ヶ崎高校」
- ^ a b c 『読売新聞』1982年5月28日東京夕刊第4版第一社会面15頁「交友関係洗う母娘3人惨殺事件 恨みの線、濃厚に 近くの歩道、血痕50メートル」
- ^ 『朝日新聞』1982年5月29日東京夕刊第4版第一社会面9頁「藤沢の母娘殺し 犯人、複数か」
- ^ a b 『読売新聞』1982年5月29日東京朝刊第14版第一社会面23頁「藤沢市の三人殺し 『田中』名乗る20歳の男 参考人で行方追う」
- ^ 『神奈川新聞』1982年6月1日朝刊C版第一社会面15頁「藤沢の母娘3人惨殺 当夜不審な暴走族 『殺してきたの』-詰問調の少女 現場近くで目撃者」
- ^ a b 『読売新聞』1982年5月31日第14版神奈川版横浜読売地域面21頁「Aさん母娘の告別式 悲しみ新たに同級生ら千人」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ 『神奈川新聞』1982年5月30日朝刊B版湘南地域面13頁「藤沢の母娘殺人事件 有力情報求め立て看板 町内会が自主パト」
- ^ 『神奈川新聞』1982年6月20日朝刊B版第一社会面19頁「母娘惨殺のナゾ 何かを知った?Aさん 戸塚殺人の情報 “口封じ”で殺される?」
- ^ a b c 『神奈川新聞』1982年6月2日朝刊A版第一社会面15頁「辻堂の母娘惨殺 被害者宅近くに車2台 事件当夜不審な車」
- ^ 『朝日新聞』1982年5月31日東京朝刊第14版第一社会面23頁「母娘殺し 電話線切り逃走」
- ^ a b c d 『朝日新聞』1982年7月17日東京朝刊第14版第一社会面23頁「母娘殺しF起訴 類を見ない残忍さ 包丁買い殺害練習 『現代の病根』まざまざ」
- ^ a b 『神奈川新聞』1982年12月1日朝刊B版第二社会面18頁「検察官の冒頭陳述要旨」
- ^ a b c 『読売新聞』1982年7月9日第14版神奈川版横浜読売地域面21頁「殺人鬼Fの周辺 11 家族の苦悩 『夢であれば』と父 逮捕後、夫妻は自殺決意」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b c d e f g 『読売新聞』1982年6月16日東京朝刊第14版第一社会面23頁「母娘3人殺し参考人逮捕 つきまとった男、別件で 血液型、掌紋が一致 まず脅迫を追及 犯行否認」
- ^ a b c d e f g h 『読売新聞』1982年6月23日東京朝刊第14版第一社会面23頁「F『母娘殺し』ほぼ断定 尼崎殺人と同じ手口」【藤沢】
- ^ a b c d e f 『読売新聞』1982年6月16日東京朝刊第14版第一社会面23頁「母娘3人殺し参考人逮捕 友人の父に脅迫の電話」
- ^ 『読売新聞』1982年6月16日第14版神奈川版横浜読売地域面20頁「辻堂の母娘惨殺 逃走 電話で様子探る 自宅近くの友人らに」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b c d e 『中日新聞』1982年6月18日朝刊第12版第一社会面23頁「母娘3人刺殺(藤沢)の参考人、友人2人も殺害か 手口が酷似 口封じのため?」【藤沢】
- ^ a b c d e 『中日新聞』1982年6月26日朝刊第12版第一社会面23頁「母娘3人殺しのF 横浜の友人殺しも自供 覚せい剤の売買もつれ」【藤沢】
- ^ a b c 『神戸新聞』1982年6月7日朝刊第15版第一社会面19頁「尼崎の殺人被害者、19歳の元店員」
- ^ 『毎日新聞』1982年6月6日東京朝刊第14版第一社会面23頁「尼崎 マンションで若い男刺殺される」
- ^ 『朝日新聞』1982年6月6日大阪朝刊第14版第一社会面23頁「尼崎 若い男を2人組襲う マンションで刺殺」
- ^ a b 『読売新聞』1982年6月16日第14版神奈川版横浜読売地域面20頁「辻堂の母娘惨殺 逮捕 飯場に偽名で住み込み」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ 『読売新聞』1982年6月16日第14版神奈川版横浜読売地域面20頁「辻堂の母娘惨殺 “クロ”一色、状況証拠 残るナゾ解明に全力 複数の凶器・逃走経路・一度に三人も」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b c d 『読売新聞』1982年6月16日東京夕刊第4版第一社会面15頁「母娘惨殺『脅迫』送検、『殺人』再逮捕へ 左手傷、有力な物証 いぜん否認 東北へ逃亡図る」
- ^ 『読売新聞』1982年5月29日東京夕刊第4版第一社会面11頁「藤沢の三人殺し 凶器の包丁は二本」
- ^ 『朝日新聞』1982年6月19日東京朝刊第14版第一社会面23頁「母娘殺しの参考人 被害者との交際認める」
- ^ a b 『中日新聞』1982年6月16日夕刊E版第二社会面6頁「藤沢市の母娘3人刺殺 別件逮捕の作業員 脅迫容疑で送検」【藤沢】
- ^ 『神奈川新聞』1982年6月17日朝刊湘南地域面13頁「藤沢の母子殺人事件 遺族のDさん 香典の一部40万円帰宅」
- ^ 『読売新聞』1982年6月17日東京夕刊第4版第一社会面15頁「母娘惨殺『A』(被疑者Fのこと)を厳しく追及 戸塚、兵庫の殺人も」【藤沢】
- ^ a b 『神奈川新聞』1982年6月18日朝刊B版第一社会面17頁「母娘惨殺の重要参考人 尼崎で仲間刺殺? ナゾめく点と点 手口の残忍さ酷似 “口封じ”目的か」
- ^ 『朝日新聞』1982年6月23日東京朝刊第14版第一社会面23頁「尼崎の殺人で目撃者現れる やはり母娘殺し参考人?」
- ^ a b c 『神戸新聞』1982年6月22日夕刊第5版第一社会面7頁「尼崎の店員殺し、Fの犯行と断定 目撃者の証言で」
- ^ a b c 『読売新聞』1982年6月22日東京夕刊第4版第一社会面11頁「母娘殺し参考人 尼崎の刺殺犯と断定 クリ小刀の指紋一致」【神戸】
- ^ a b 『神奈川新聞』1982年6月23日朝刊B版第一社会面15頁「母娘惨殺の重要参考人 『尼崎殺人』に有力証言 犯行の直後目撃者」
- ^ a b 『読売新聞』1982年6月22日東京夕刊第4版第一社会面11頁「おことわり」
- ^ 『読売新聞』1982年6月22日東京夕刊第4版第一社会面11頁「母娘3人惨殺さらに追及」【横浜】
- ^ a b c 『神奈川新聞』1982年6月24日朝刊B版第一社会面15頁「母娘惨殺 現場の血痕 ほぼ容疑者と一致 地検、10日間の拘置延長へ」
- ^ a b c d e f g h 『朝日新聞』1982年6月25日東京朝刊第14版第一社会面23頁「母娘3人殺し自供 逮捕のF、他の2件も供述開始 血痕・傷 追及に観念 『長女が冷たい』と恨む」
- ^ 『朝日新聞』1982年6月25日大阪朝刊第14版第一社会面23頁「広域連続5人殺しか 作業員を再逮捕 『藤沢の母娘やった』尼崎・横浜も一部自供」
- ^ a b c 『読売新聞』1982年6月25日東京朝刊第14版1面1頁「Fが母娘3人殺し自供 尼崎、戸塚の殺人も認める」【横浜】
- ^ 『神奈川新聞』1982年6月23日朝刊B版第一社会面15頁「母娘惨殺の重要参考人 拘置切れ目前 どう対応捜査陣」
- ^ 『朝日新聞』1982年6月25日大阪朝刊第14版第一社会面23頁「広域連続5人殺しか 作業員を再逮捕 警察庁 3件の殺人事件広域112号事件に指定」
- ^ a b 『読売新聞』1982年6月25日東京朝刊第14版第一社会面23頁「母娘惨殺F、うなだれ自供 冷たくされてカッと 追及11日『オレがやった』」【横浜】
- ^ 『読売新聞』1982年7月3日第14版神奈川版横浜読売地域面21頁「殺人鬼Fの周辺 7 甘え 背後には母の姿?成長後も消えない幼さ」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b 『中日新聞』1982年6月25日夕刊E版第二社会面12頁「母娘3人殺しのF 2友人殺し追及」【横浜】
- ^ 『読売新聞』1982年6月27日東京朝刊第14版第一社会面23頁「【藤沢】母娘殺し、自供通り血染め手袋」
- ^ 『朝日新聞』1982年6月26日東京夕刊第4版第一社会面13頁「広域殺人のF送検 同行の女性いぜん不明」
- ^ 『読売新聞』1982年6月29日東京朝刊第14版第一社会面23頁「70万円ひったくり逃走資金 『F』自供」
- ^ a b c 『神奈川新聞』1982年7月6日朝刊B版第一社会面15頁「連続殺人のF 脅迫は処分を保留」
- ^ a b c 『朝日新聞』1982年7月6日東京朝刊第14版第一社会面23頁「藤沢の母娘殺し 脅迫容疑は」
- ^ a b 『読売新聞』1982年7月6日第14版神奈川版横浜読売地域面21頁「母娘殺し Fの拘置延長申請 脅迫の女の声解明も」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b 『神奈川新聞』1982年10月11日朝刊B版第二社会面14頁「F(母娘3人惨殺事件)あす初公判 横浜地裁 弁護側 違法逮捕を主張か」
- ^ 『読売新聞』1982年7月7日東京朝刊第14版第二社会面22頁「母娘殺しのF、拘置を延長」【横浜】
- ^ 『神奈川新聞』1982年7月14日朝刊A版第二社会面16頁「F、16日に起訴 3事件とも“裏切りへの報復”」
- ^ 『読売新聞』1982年7月11日東京朝刊第14版第一社会面23頁「殺されたYも共犯 母娘殺害で断定」【横浜】
- ^ a b 『神奈川新聞』1982年7月15日朝刊B版第一社会面17頁「母娘惨殺現場検証 F、薄笑いも浮かべ淡々と凶行を再現」
- ^ a b 『読売新聞』1982年7月15日東京朝刊第14版第一社会面23頁「F、平然と殺人再現 現場検証」【横浜】
- ^ 『神戸新聞』1982年7月15日朝刊第15版第一社会面23頁「【横浜】藤沢の母娘殺害のF 現場検証でも悪びれず淡々」
- ^ a b 『読売新聞』1982年7月17日東京朝刊第14版第二社会面22頁「母娘殺しF起訴」【横浜】
- ^ a b 『神奈川新聞』1982年7月17日朝刊A版第二社会面16頁「地検が談話 証拠類の裏付けほぼ完ぺき」
- ^ 『神戸新聞』1982年7月17日朝刊第15版第一社会面23頁「【横浜】藤沢の母娘三人刺殺 Fを殺人罪で起訴」
- ^ 『読売新聞』1982年7月28日第14版神奈川版横浜読売地域面20頁「F、Y殺し本格追及 尼崎署から捜査員」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b c d e 『神戸新聞』1982年8月30日朝刊第15版第一社会面23頁「尼崎のマンション殺人犯 F、平然と供述 現場検証 Vサインでニタニタ」
- ^ a b 『読売新聞』1982年8月28日第14版神奈川版横浜読売地域面20頁「『F』最後の裏付け捜査へ 兵庫に身柄移す」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b c d 『読売新聞』1982年8月30日東京朝刊第14版神奈川版横浜読売地域面21頁「F、ふてぶてしくVサイン Yさん殺し兵庫で検証」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b 『読売新聞』1988年3月11日東京朝刊第14版神奈川版横浜読売地域面25頁「連続5人殺人に死刑判決 F被告 法廷で異様な行動 Vサインや暴力団の名」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b c 『神奈川新聞』1982年9月8日朝刊B版第一社会面17頁「母娘殺しのF 戸塚の殺人で追送検 盗みバラすと脅され」
- ^ 『読売新聞』1982年9月8日東京朝刊第14版第二社会面22頁「ニュース・スポット F、戸塚事件も送検」【横浜】
- ^ a b c d 『神奈川新聞』1982年9月11日朝刊B版第一社会面15頁「F 戸塚・尼崎殺人で追起訴」
- ^ 『読売新聞』1982年9月11日東京朝刊第14版第二社会面22頁「『戸塚』『尼崎』事件でF起訴」【横浜】
- ^ a b 『日本経済新聞』1982年9月11日朝刊第一社会面23頁「横浜地検、藤沢の母娘3人刺殺で起訴のFを戸塚と尼崎の殺人事件で追起訴」
- ^ 『読売新聞』1982年9月29日東京朝刊第14版第二社会面22頁「『F』窃盗で追送検」【横浜】
- ^ a b 『読売新聞』1988年3月11日東京朝刊第14版神奈川版横浜読売地域面25頁「連続5人殺人に死刑判決 F被告の事件、裁判経過」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ 『神奈川新聞』1982年6月17日朝刊B版第一社会面17頁「母娘惨殺の重要参考人 逮捕直前まで脅迫電話 『話せば皆殺し』 戸塚殺人でも仲間宅に」
- ^ a b c 『朝日新聞』1982年6月25日東京夕刊第4版第一社会面19頁「連続殺人犯人・F 同行の女性も殺す? 行方はいぜん不明」
- ^ a b 『読売新聞』1982年6月29日第14版神奈川版横浜読売地域面20頁「F やはり背後に女性? 尼崎に捜査員を派遣」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ 『読売新聞』1982年6月26日東京朝刊第14版第一社会面23頁「F、口封じ連続殺人か 岡山 『犯行同伴』女性も 尼崎の足跡と一致」
- ^ 『読売新聞』1982年6月25日東京夕刊第4版第一社会面15頁「F追及 岡山の女性殺しも」
- ^ 『読売新聞』1982年6月26日東京夕刊第4版第一社会面15頁「【藤沢】 殺人のFを身柄送検」
- ^ 『読売新聞』1982年6月28日東京朝刊第14版第一社会面23頁「【岡山】 岡山女性刺殺は前夫の凶行」
- ^ a b c d e f 『朝日新聞』1982年6月25日大阪夕刊第4版第一社会面15頁「藤沢・親子殺しのF 西宮の母子惨殺も追及 凶器・手口が酷似 阪神間に土地カン 同行の女性も殺害か」
- ^ 『朝日新聞』1996年12月10日大阪夕刊第4版第一社会面15頁「銀行寮母子殺人が時効【西宮】」
- ^ 『読売新聞』1982年10月11日東京朝刊第14版第二社会面22頁「あす初公判 母娘惨殺のF」【横浜】
- ^ 『読売新聞』1982年10月12日第14版神奈川版横浜読売地域面20頁「殺人鬼『F』きょう初公判 弁護側、公訴棄却申し立て? 冒頭から波乱予想」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b c d e 『神奈川新聞』1982年10月13日朝刊C版1面1頁「F、黙秘権を行使 母娘惨殺初公判 波乱の幕開け 弁護人、無罪を主張」
- ^ a b c d e f g h i 『読売新聞』1982年10月12日東京夕刊第4版第一社会面15頁「藤沢の母娘惨殺、初公判『何も言いたくない』 『F』不敵なVサイン 弁護人も驚き、怒る父」
- ^ a b c d 『中日新聞』1982年10月12日夕刊E版第二社会面6頁「Fが黙秘権行使 藤沢の母娘殺害初公判」【横浜】
- ^ a b c 『日本経済新聞』1982年10月12日夕刊第一社会面11頁「横浜地裁、藤沢の母娘殺し初公判--F、黙秘権使う」
- ^ 『神奈川新聞』1982年10月13日朝刊B版第一社会面15頁「法廷のF ふて腐れ?薄笑い 冒頭陳述 足投げ出し聞き流す」
- ^ a b c d e 『神奈川新聞』1982年12月1日朝刊B版第二社会面18頁「F『刑事から拷問受けた』 犯した罪よそに弁明 第2回公判 冒頭陳述に薄ら笑い」
- ^ a b c d e 『読売新聞』1982年11月30日東京夕刊第二社会面14頁「冷酷なF 検察冒陳」【横浜】
- ^ 『神奈川新聞』1982年12月24日朝刊C版第二社会面16頁「F事件の次回公判 検察側証人でDさん法廷に」
- ^ 『読売新聞』1982年12月24日東京朝刊第14版神奈川版横浜読売地域面20頁「大量殺人事件第3回公判 捜査員2人が証言」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ 『神奈川新聞』1983年1月14日朝刊B版第二社会面18頁「傍聴席 F事件で父親が証言 夢多かった娘たち」
- ^ a b 『神奈川新聞』1983年2月4日朝刊B版第二社会面16頁「藤沢の母娘3人殺し公判 傍聴席もあ然 F被告『オレは無罪』」
- ^ a b c d 『読売新聞』1983年2月4日東京朝刊第14版神奈川版横浜読売地域面20頁「連続殺人公判 『F』退廷させられる 証人尋問中に“ふざけるな”と大声」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b c d e 『神奈川新聞』1983年3月8日朝刊A版第二社会面14頁「F被告また退廷 発言制止をきかず」
- ^ a b c d e 『読売新聞』1983年3月8日東京朝刊第14版神奈川版横浜読売地域面20頁「“殺人鬼“F、また退廷させられる 裁判長の警告聞かず発言」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b 『神奈川新聞』1983年4月1日朝刊A版第二社会面18頁「F被告の第7回公判 拘置所内の不満訴える」
- ^ a b c d 『神奈川新聞』1983年5月18日朝刊C版第二社会面16頁「F被告『弁護士替えて』 解任を申し立て」
- ^ a b c d e 『神奈川新聞』1983年6月3日朝刊B版第二社会面16頁「傍聴席 母娘3人殺害 感情の起伏激しく 一周忌、坊主頭のF」
- ^ 『読売新聞』1983年5月27日東京朝刊第14版神奈川版横浜読売地域面18頁「藤沢の母娘3人惨殺 きょうで一年 『F』罪の意識なく 公判で暴言、退廷繰り返す」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ 『読売新聞』1983年5月27日東京朝刊第14版神奈川版横浜読売地域面18頁「藤沢の母娘3人惨殺 きょうで一年 悲しみいえぬ日々 Dさん」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b 『神奈川新聞』1983年7月22日朝刊B版第二社会面22頁「F事件 次回公判で母親証言」
- ^ a b 『読売新聞』1983年10月12日東京朝刊第14版神奈川版横浜読売地域面18頁「母娘3人殺し公判 F被告の母親初出廷 あいまい証言に終始」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ 『神奈川新聞』1983年9月14日朝刊B版第二社会面16頁「F事件公判 母親の証言次回に延期」
- ^ a b c d e f 『神奈川新聞』1983年10月12日朝刊C版第二社会面16頁「傍聴席 藤沢の親子ら5人殺害 Fの母親、核心部分には触れず 揺れ動く胸中」
- ^ a b 『神奈川新聞』1984年4月27日朝刊A版第二社会面18頁「F 平然と『私は無罪』 更新手続きで改めて主張」
- ^ a b c 『神奈川新聞』1986年5月14日朝刊C版第二社会面16頁「F被告犯行認める」
- ^ 『読売新聞』1986年5月14日東京朝刊第14版第一社会面23頁「F被告、全面否定翻す 五人殺害認める」
- ^ a b c d e f 『神奈川新聞』1986年6月17日朝刊A版第二社会面16頁「連続殺人地裁公判 F被告が後悔の弁 精神鑑定申請を却下」
- ^ a b c 『読売新聞』1988年3月17日東京朝刊第14版神奈川版横浜読売地域面18頁「公判でF、事件を反省? 生々しい犯行供述」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ 『中日新聞』1987年11月26日夕刊第二社会面12頁「8か月間に5人殺人のF被告に死刑求刑」
- ^ 『読売新聞』1987年11月27日東京朝刊第一社会面27頁「5人殺しの『F』に死刑求刑/横浜地裁」
- ^ 『朝日新聞』1987年11月27日朝刊第一社会面31頁「連続殺人、Fに死刑求刑」
- ^ a b 『読売新聞』1988年11月27日東京朝刊第14版神奈川版横浜読売地域面22頁「F被告死刑求刑 一瞬顔こわばらせ 大量殺人厳しく論告」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b c 『読売新聞』1988年1月14日東京夕刊第二社会面18頁「神奈川県内で5人殺害のF裁判が結審」
- ^ a b c d e f g h i j k l 『神奈川新聞』1988年1月15日朝刊B版第一社会面17頁「F事件結審 弁護側、無罪を主張 母娘ら5人殺し 『有罪でも無期相当』 またもVサイン」
- ^ a b c d e 『読売新聞』1988年1月15日東京朝刊第14版神奈川版横浜読売地域面22頁「連続殺人F被告 Vサインで『助けて』 弁護側『無罪』『情状』両面作戦」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b c d e f g h i 『神奈川新聞』1988年3月11日朝刊B版第一社会面23頁「F被告死刑判決 極刑にもVサイン 裁判長の涙まるで他人事 意味不明の連呼 横浜地裁」
- ^ a b c d e f g h 『神奈川新聞』1988年3月11日朝刊B版第二社会面22頁「F被告死刑判決 『冷酷非情極まる犯行』 異例の冒頭言い渡し 弁護側主張 ことごとく却下」
- ^ 『朝日新聞』1988年3月10日夕刊第一社会面19頁「藤沢の母娘など5人殺し Fに死刑判決 横浜地裁」
- ^ a b 『読売新聞』1988年3月11日東京朝刊第14版神奈川版横浜読売地域面24頁「連続5人殺人に死刑判決 『残虐さに戦慄』と断罪 『情状酌量の余地なし』 『死刑は違憲』退ける 弁護側、精神鑑定必要と控訴」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b 『読売新聞』1988年3月11日東京朝刊第14版神奈川版横浜読売地域面24頁「連続5人殺人に死刑判決 感情高ぶり裁判長も涙」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ a b 『神奈川新聞』1988年3月11日朝刊B版第一社会面23頁「F被告死刑判決 『もっと反省の色を見せてほしかった』 弁護側が即日控訴」
- ^ 『読売新聞』1988年3月11日東京朝刊第二社会面30頁「死刑判決のF被告が控訴/神奈川の母娘ら5人刺殺」
- ^ a b c d 『朝日新聞』1988年3月23日東京朝刊発言・投書欄5頁「『死刑』でしか償いはないの(声)」(神奈川県鎌倉市在住・20歳大学生女性からの投書)
- ^ a b c d e f g h i j 『読売新聞』1992年2月4日東京朝刊第一社会面31頁「昭和57年の5人殺し F被告の控訴取り下げ 高裁が有効の判断 死刑確定へ」
- ^ a b 『毎日新聞』1992年2月4日大阪朝刊第一社会面23頁「“志願”の死刑が確定、F被告の控訴取り下げ有効--東京高裁が決定」
- ^ a b c d e f 『神奈川新聞』1992年2月4日朝刊B版第一社会面19頁「F被告 控訴取り下げ死刑確定 弁護側は異議申し立て」
- ^ 『読売新聞』1992年6月12日東京朝刊第一社会面31頁「母娘ら5人殺人 『死刑』の控訴取り下げた被告 再度精神鑑定へ/東京高裁」
- ^ 『神奈川新聞』1992年6月13日朝刊A版第二社会面24頁「殺人罪のF被告 改めて精神鑑定へ」
- ^ a b 『産経新聞』1993年8月11日東京朝刊第一社会面「5人殺害で死刑判決のF被告 3度目の精神鑑定へ 東京高裁」
- ^ a b 『神奈川新聞』1994年12月1日朝刊A版第二社会面24頁「藤沢のF事件 被告の控訴取り下げは有効 東京高裁」
- ^ a b 『読売新聞』1994年11月30日東京夕刊第二社会面18頁「神奈川・藤沢の連続殺人 一審死刑判決のF被告の控訴取り下げ有効/東京高裁」
- ^ a b c 『神奈川新聞』1995年6月30日朝刊A版第二社会面28頁「F被告『死刑判決にショック』 控訴取り下げは無効 最高裁」
- ^ a b c 『読売新聞』1995年6月30日東京朝刊第二社会面35頁「神奈川・藤沢の5人殺し、F被告 控訴審の公判再開 最高裁が決定」
- ^ a b c d e 『読売新聞』1998年6月23日東京朝刊第一社会面35頁「女子高生ら5人殺害、一審死刑判決のF被告 7年ぶり控訴審再開/東京高裁」
- ^ a b c d e 『神奈川新聞』1998年6月23日朝刊B版第二社会面22頁「F被告公判 7年ぶり再開」
- ^ a b c d 『東京新聞』1998年6月23日朝刊第二社会面22頁「F被告の公判が再開 控訴取り下げ問題で」
- ^ 『神奈川新聞』1999年10月30日朝刊A版第二社会面26頁「F被告来年1月判決 東京高裁」
- ^ 『毎日新聞』1999年10月29日東京夕刊第一社会面15頁「5人殺害の被告、判決は1月24日に--東京高裁」
- ^ a b c d e 『神奈川新聞』2000年1月25日朝刊B版1面1頁「一審死刑判決を支持 F被告の控訴棄却 東京高裁」
- ^ 『神奈川新聞』2000年1月25日朝刊A版第三社会面21頁「F控訴棄却の判決要旨」
- ^ 『中日新聞』2000年1月25日朝刊第一社会面27頁「一審の死刑支持 5人殺害事件 東京高裁判決」
- ^ 『東京新聞』2000年1月25日朝刊第一社会面23頁「母子ら5人殺害のF被告 東京高裁も死刑支持 控訴棄却」
- ^ 『毎日新聞』2008年3月27日東京朝刊第二社会面30頁「正義のかたち:裁判官の告白・6 釈放後に別の殺人で無期」 - 荒木が本事件以前に裁判官の1人として担当した首都圏女性連続殺人事件の控訴審判決(被告人・小野悦男に無罪を言い渡したが小野は釈放後に足立区首なし殺人事件で無期懲役が確定)に関する記事。
- ^ 『神奈川新聞』2000年2月5日朝刊B版第二社会面24頁「5人殺害 F被告側が上告」
- ^ 『東京新聞』2000年2月5日朝刊第二社会面26頁「F被告側が上告 女子高生ら5人刺殺」
- ^ 『朝日新聞』2003年12月18日朝刊第三社会面37頁「最高裁、弁論実施へ 死刑判決の4被告」
- ^ 『産経新聞』2003年12月18日東京朝刊社会面「死刑事件で最高裁が弁論」
- ^ a b c d 『読売新聞』2004年3月23日東京夕刊第二社会面18頁「女子高生ら5人殺害 F被告、最高裁で弁論」
- ^ a b c 『毎日新聞』2004年3月23日東京夕刊第一社会面9頁「神奈川・5人殺害:弁護側、精神障害を主張--最高裁上告審で弁論」(記者:清水健二)
- ^ 『神奈川新聞』2004年6月9日朝刊A版第一社会面21頁「藤沢などで5人殺害 最高裁が15日判決言い渡し」
- ^ 『毎日新聞』2004年6月9日東京朝刊総合面24頁「[情報ファイル]F被告、15日判決--81~82年、神奈川などで5人殺害」(記者:小林直)
- ^ 『毎日新聞』2004年6月15日東京夕刊第一社会面9頁「神奈川・5人殺害:F被告、死刑確定へ--最高裁、上告棄却『計画的で残虐』」(記者:小林直)
- ^ 『神奈川新聞』2004年6月16日朝刊A版第二社会面22頁「5人殺害で死刑確定へ 最高裁 F被告の上告棄却」
- ^ 『中日新聞』2004年6月15日夕刊第一社会面13頁「5人殺害 死刑確定へ 神奈川などの事件 最高裁が上告棄却」
- ^ 『毎日新聞』2004年6月15日東京夕刊第一社会面9頁「『無罪なら釈放?』状況把握できず--F被告」
- ^ a b c d e f 『神奈川新聞』2007年12月8日朝刊A版1面1頁「死刑、初の氏名公表 F確定囚ら3人執行 法相『理解得るため』」
- ^ a b c 『中日新聞』2007年12月7日夕刊1面1頁「死刑執行、初の氏名公表 法務省 東京、大阪で3人 被害者感情を重視」
- ^ a b c 『東京新聞』2007年12月7日夕刊1面1頁「死刑執行、氏名を初公表 法務省 F確定囚ら3人」
- ^ 『読売新聞』1982年7月10日東京朝刊第14版神奈川版横浜読売地域面21頁「殺人鬼Fの周辺 12 識者の声 間宮武・共立女子大教授『疎外感の恨み爆発』 福島章・上智大教授『家庭内暴力の延長』」(読売新聞東京本社横浜支局)
- ^ 『神奈川新聞』1982年7月7日朝刊A版第二社会面18頁「屈折の軌跡 10 座談会 Fの犯罪(下)」(司会・神奈川新聞報道部副部長:牧内良平)
雑誌報道記事
- ^ a b c d 新潮45 & 2006-10, pp. 56–58)
書籍
- ^ a b c d e f g 遠藤允 (1988, p. 168)
- ^ a b c d e f g h 遠藤允 (1983, pp. 98–99)
- ^ a b c d e 遠藤允 (1983, p. 153)
- ^ a b c d e f 年報・死刑廃止 (2008, p. 122)
- ^ a b c d 遠藤允 (1983, p. 179)
- ^ a b c 遠藤允 (1983, p. 40)
- ^ 遠藤允 (1983, p. 172)
- ^ 遠藤允 (1983, pp. 184–185)
- ^ 遠藤允 (1983, p. 186)
- ^ a b 遠藤允 (1983, pp. 190–191)
- ^ 遠藤允 (1983, p. 188)
- ^ a b c 遠藤允 (1983, pp. 191–193)
- ^ 遠藤允 (1983, p. 182-183)
- ^ 遠藤允 (1983, pp. 196–197)
- ^ 遠藤允 (1983, p. 201)
- ^ a b 遠藤允 (1983, p. 223)
- ^ a b 遠藤允 (1983, pp. 201–202)
- ^ a b 遠藤允 (1983, pp. 202–204)
- ^ 遠藤允 (1983, pp. 204–205)
- ^ 遠藤允 (1983, pp. 207–208)
- ^ 遠藤允 (1983, p. 169)
- ^ 遠藤允 (1983, p. 9)
- ^ 遠藤允 (1983, pp. 198–199)
- ^ a b 遠藤允 (1983, p. 208)
- ^ a b 遠藤允 (1983, pp. 242–243)
- ^ a b c 遠藤允 (1983, p. 209)
- ^ a b c d e f g h 遠藤允 (1983, p. 76)
- ^ a b 遠藤允 (1983, pp. 209–210)
- ^ a b c d 遠藤允 (1983, pp. 211–213)
- ^ a b 遠藤允 (1983, p. 214)
- ^ a b c 遠藤允 (1983, p. 215)
- ^ 遠藤允 (1983, pp. 86–87)
- ^ a b c d 遠藤允 (1983, pp. 216–217)
- ^ a b 遠藤允 (1983, p. 218)
- ^ 遠藤允 (1983, pp. 220)
- ^ 遠藤允 (1983, pp. 221–222)
- ^ 遠藤允 (1983, p. 225)
- ^ a b 遠藤允 (1983, pp. 224–225)
- ^ 遠藤允 (1983, pp. 225–226)
- ^ a b c d e f g 遠藤允 (1983, p. 229-231)
- ^ 遠藤允 (1983, p. 71)
- ^ 遠藤允 (1983, p. 26)
- ^ 遠藤允 (1983, p. 20)
- ^ 遠藤允 (1983, p. 24)
- ^ 遠藤允 (1983, p. 20)
- ^ 遠藤允 (1983, p. 18)
- ^ 遠藤允 (1983, p. 24)
- ^ a b c d e f g h i 遠藤允 (1983, p. 226)
- ^ a b c d 遠藤允 (1983, p. 50)
- ^ 遠藤允 (1983, pp. 71–73)
- ^ a b c d 遠藤允 (1983, pp. 72–73)
- ^ 遠藤允 (1983, pp. 222–223)
- ^ 遠藤允 (1983, pp. 72–75)
- ^ a b c 遠藤允 (1983, pp. 74–75)
- ^ a b 遠藤允 (1983, pp. 75–76)
- ^ a b c 遠藤允 (1983, p. 75)
- ^ a b c 遠藤允 (1983, pp. 70–71)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 遠藤允 (1983, pp. 80–81)
- ^ a b c d e 遠藤允 (1983, p. 77)
- ^ a b c 遠藤允 (1983, p. 78)
- ^ a b c d 遠藤允 (1983, p. 79)
- ^ 遠藤允 (1983, pp. 249–251)
- ^ a b 遠藤允 (1983, pp. 251–252)
- ^ a b c d e f 遠藤允 (1983, p. 28)
- ^ a b c d e 遠藤允 (1983, p. 27)
- ^ 遠藤允 (1983, pp. 27–28)
- ^ a b c 遠藤允 (1983, p. 29)
- ^ 遠藤允 (1983, p. 29-30)
- ^ 遠藤允 (1983, p. 30)
- ^ a b c 遠藤允 (1983, p. 32)
- ^ a b 遠藤允 (1983, pp. 30–31)
- ^ 遠藤允 (1983, pp. 31–33)
- ^ a b 遠藤允 (1983, pp. 33)
- ^ a b 遠藤允 (1983, pp. 33–34)
- ^ a b 遠藤允 (1983, p. 35)
- ^ 遠藤允 (1983, pp. 35–36)
- ^ a b 遠藤允 (1983, p. 36)
- ^ a b c 遠藤允 (1983, p. 37)
- ^ a b c 遠藤允 (1983, p. 41)
- ^ 遠藤允 (1983, p. 38)
- ^ a b c 遠藤允 (1983, p. 39)
- ^ a b 遠藤允 (1983, pp. 39–40)
- ^ 遠藤允 (1983, pp. 41–42)
- ^ a b c 遠藤允 (1983, p. 42)
- ^ a b 遠藤允 (1983, p. 43)
- ^ a b c d e f 遠藤允 (1983, pp. 157–159)
- ^ 遠藤允 (1983, pp. 43–44)
- ^ a b c 遠藤允 (1983, p. 44)
- ^ a b c d e 遠藤允 (1983, pp. 244–246)
- ^ a b c d e f g h 遠藤允 (1983, p. 46)
- ^ a b c 遠藤允 (1983, p. 45)
- ^ a b c d e f 遠藤允 (1983, p. 56)
- ^ a b c 遠藤允 (1983, p. 47)
- ^ a b c 遠藤允 (1983, pp. 48–49)
- ^ a b c 遠藤允 (1983, p. 51)
- ^ a b c d e f g h 遠藤允 (1983, pp. 52–53)
- ^ 遠藤允 (1983, pp. 53–54)
- ^ a b 遠藤允 (1983, pp. 14–15)
- ^ a b c d e f g h i j k l 遠藤允 (1983, pp. 54–55)
- ^ 遠藤允 (1983, p. 66)
- ^ a b c d 遠藤允 (1983, pp. 81–82)
- ^ a b c d e f g h 遠藤允 (1983, pp. 12–14)
- ^ a b c 遠藤允 (1983, p. 14)
- ^ a b c d e 遠藤允 (1983, pp. 15–17)
- ^ 遠藤允 (1983, p. 57)
- ^ a b 遠藤允 (1983, pp. 64–65)
- ^ a b c d e 遠藤允 (1983, pp. 57–59)
- ^ 遠藤允 (1983, pp. 59–60)
- ^ a b 遠藤允 (1983, pp. 68–69)
- ^ a b c 遠藤允 (1983, pp. 159–161)
- ^ a b c d e 遠藤允 (1983, pp. 83–84)
- ^ a b c d e f g h 遠藤允 (1983, p. 84)
- ^ a b 遠藤允 (1983, p. 85)
- ^ 遠藤允 (1983, pp. 85–86)
- ^ a b c 遠藤允 (1983, p. 86)
- ^ a b 遠藤允 (1983, pp. 87–88)
- ^ 遠藤允 (1983, p. 91)
- ^ 遠藤允 (1983, p. 87)
- ^ a b 遠藤允 (1983, p. 88)
- ^ a b c 遠藤允 (1983, pp. 89–90)
- ^ a b 遠藤允 (1983, pp. 91–92)
- ^ 遠藤允 (1983, p. 92)
- ^ a b 遠藤允 (1983, pp. 92–94)
- ^ a b c d 遠藤允 (1983, p. 253)
- ^ 遠藤允 (1983, pp. 69–70)
- ^ a b c d e 遠藤允 (1983, pp. 96–97)
- ^ 遠藤允 (1983, pp. 94–95)
- ^ a b c 遠藤允 (1983, pp. 95–96)
- ^ a b c d e f g 遠藤允 (1983, pp. 102–103)
- ^ a b c d e f 遠藤允 (1983, pp. 100–101)
- ^ a b 遠藤允 (1983, p. 107)
- ^ a b c d e 遠藤允 (1983, p. 108)
- ^ a b c 遠藤允 (1983, pp. 109–110)
- ^ a b c d 遠藤允 (1983, p. 113)
- ^ 遠藤允 (1983, pp. 117–118)
- ^ 須田慎太郎(写真・文)、立花隆(対論) 著、長廻健太郎(発行人) 編『80年代 スキャンダラス報道の時代』(初版第1刷発行)翔泳社、1995年9月10日。ISBN 978-4881352274。
- ^ 遠藤允 (1983, pp. 113–114)
- ^ a b 遠藤允 (1983, p. 114)
- ^ 遠藤允 (1983, pp. 114–115)
- ^ 遠藤允 (1983, p. 116)
- ^ 遠藤允 (1983, p. 117)
- ^ a b c 遠藤允 (1983, pp. 122–123)
- ^ 遠藤允 (1983, p. 123)
- ^ a b c d 遠藤允 (1983, p. 124)
- ^ 遠藤允 (1983, pp. 254–255)
- ^ 遠藤允 (1983, pp. 124–125)
- ^ 遠藤允 (1983, pp. 126–127)
- ^ 遠藤允 (1983, pp. 127–128)
- ^ 遠藤允 (1983, pp. 128–129)
- ^ a b c d e f 遠藤允 (1983, p. 84)
- ^ 遠藤允 (1983, p. 131)
- ^ 遠藤允 (1983, p. 137)
- ^ 遠藤允 (1983, p. 135)
- ^ a b 遠藤允 (1983, p. 136)
- ^ 遠藤允 (1983, p. 138)
- ^ a b 遠藤允 (1983, p. 139)
- ^ a b 遠藤允 (1983, p. 141)
- ^ 遠藤允 (1983, pp. 138–140)
- ^ a b c 遠藤允 (1983, pp. 140–141)
- ^ a b 遠藤允 (1983, p. 142)
- ^ a b c 遠藤允 (1983, p. 145)
- ^ a b c 遠藤允 (1983, p. 148)
- ^ 遠藤允 (1983, pp. 145–148)
- ^ a b c 遠藤允 (1983, p. 149)
- ^ a b c d e 遠藤允 (1983, pp. 149–150)
- ^ a b c d 遠藤允 (1983, pp. 151–152)
- ^ a b c 遠藤允 (1983, pp. 154–155)
- ^ a b c d e 遠藤允 (1983, pp. 155–157)
- ^ a b c d 遠藤允 (1983, p. 161)
- ^ a b c d e f 遠藤允 (1983, pp. 161–163)
- ^ a b c d e f g h i j k l 遠藤允 (1983, pp. 164–165)
- ^ 遠藤允 (1988, p. 160)
- ^ a b c 遠藤允 (1983, p. 166)
- ^ a b 遠藤允 (1988, pp. 161–162)
- ^ a b c d e 遠藤允 (1988, pp. 162–163)
- ^ a b c 遠藤允 (1988, p. 164)
- ^ a b 遠藤允 (1988, pp. 164–165)
- ^ 遠藤允 (1988, p. 165)
- ^ 遠藤允 (1988, pp. 165–166)
- ^ a b c d e f 遠藤允 (1988, p. 166)
- ^ 遠藤允 (1988, pp. 166–167)
- ^ a b c d e 遠藤允 (1988, p. 167)
- ^ 遠藤允 (1988, pp. 167–168)
- ^ a b c d e 遠藤允 (1988, p. 169)
- ^ a b c 遠藤允 (1988, p. 170)
- ^ a b c d e 遠藤允 (1988, p. 171)
- ^ a b c d e f 遠藤允 (1988, p. 172)
- ^ 遠藤允 (1988, p. 188)
- ^ 遠藤允 (1988, p. 186)
- ^ a b c 遠藤允 (1988, p. 194)
- ^ 遠藤允 (1988, pp. 188–189)
- ^ a b c d 遠藤允 (1988, p. 193)
- ^ 年報・死刑廃止 (2008, p. 124)
その他出典
- ^ “所在不明株主の株式売却に関する異議申述の公告” (PDF). 東邦ガス. p. 36 (2012年11月1日). 2019年1月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年1月4日閲覧。
- ^ “消防年鑑2018” (PDF). 尼崎市消防局企画管理課. p. 8 (2019年8月). 2019年11月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年11月1日閲覧。
- ^ 「衆議院法務委員会」『第168回国会』議事録、5巻、2007年12月7日(日本語)。2019年9月19日閲覧。「鳩山国務大臣 今回の三名については、名前も場所も、基本的な犯罪事実と裁判の経過も、資料として記者発表をさせていただいております。」
- ^ 「死刑制度に関する資料」(PDF)、衆議院調査局法務調査室、2008年6月、 オリジナルの2019年7月22日時点におけるアーカイブ、2019年9月19日閲覧。「鳩山邦夫君(法務大臣) 今回の三名については、名前も場所も、基本的な犯罪事実と裁判の経過も、資料として記者発表をさせていただいております。」
参考文献
刑事裁判の判決文・決定文
- 横浜地方裁判所刑事第2部判決 1988年(昭和63年)3月10日 『D1-Law.com』(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:28175496(判決文本文は未収録)、昭和57年(わ)第1271号・昭和57年(わ)第1684号・昭和57年(わ)第1857号、『殺人,窃盗被告事件』。
- 判決内容:死刑(求刑・同、被告人側控訴)
- 裁判官:和田保(裁判長)
- 東京高等裁判所第11刑事部決定 1992年(平成4年)1月31日 、昭和63年(う)第622号、『殺人,窃盗被告事件』「死刑判決を受けた被告人の控訴取下げが有効とされた事例」、“被告人の控訴取下げ当時、訴訟能力に欠けるところがなく、その動機が第一審の死刑判決の重圧による精神的苦痛から逃避するため、死刑になって早く楽になりたいということにあり、真意に出たものと認められる本件事情(判文参照)の下においては、右取下げは、有効である。”。
- 『高等裁判所刑事判例集』第45巻1号20頁
- 『判例タイムズ』第783号276頁
- 【判示事項】第1審で死刑の言渡を受けた被告人の控訴取下が有効であるとされた事例
- 裁判所ウェブサイト掲載判例
- 『D1-Law.com』(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:27921242
- 第一審で死刑の判決を受けて控訴した被告人の控訴取り下げが訴訟能力の瑕疵及び錯誤がなく有効であると認められた事例。
- 『TKCローライブラリー』(LEX/DBインターネット) 文献番号:27921242
- 【事案の概要】殺人及び窃盗被告事件について死刑判決の宣告を受けて即日控訴をし、審理中であった被告人が、控訴取下書を提出したが、当時、訴訟能力を有していなかったから、本件控訴取下は無効であるなどと主張した事案で、本件控訴取下当時の被告人の訴訟能力には、なんら欠けるところがないばかりでなく、その取下の行為は、死への願望に裏付けられている点で、やや特殊な動機というべきであるが、その置かれた状況に照らし真意に出たものと認められ、かつ、取下にこめられた被告人の意図には錯誤はないことが明らかであるから、本件控訴取下は有効であり、本件控訴は、被告人がした控訴取下により終了したとした事例。
- 東京高等裁判所第12刑事部決定 1994年(平成6年)11月30日 、平成4年(け)第1号、『訴訟終了宣言決定に対する異議申立事件』。
- 決定内容:弁護人側の異議申立棄却(原決定支持・弁護人側は特別抗告)
- 裁判官:円井義弘(裁判長)
- 弁護人:岡崎敬・大西啓介(異議申立書・異議申立補充書を連名作成)
- 『最高裁判所刑事判例集』(刑集)第49巻6号797頁
- 『D1-Law.com』(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:24006453
- 『TKCローライブラリー』(LEX/DBインターネット) 文献番号:24006453
- 【事案の概要】殺人及び窃盗被告事件について即日控訴をした被告人が、控訴取下書を提出したが、当時、訴訟能力を有していなかったから、本件控訴取下は無効であるなどと主張したのに対し、本件控訴は控訴取下により終了したものであるとの決定がなされたため、右決定を取り消し、本件控訴は係属しているとする旨の裁判を求める本件異議申立をした事案で、妄想ないし妄想様観念に支配されていたのではないことなどに照らすと、被告人は、本件控訴取下につき、その意義を理解し、真意に基づいて本件控訴取下をなしたものであり、自己の権利を守る能力に欠けるところはなかったとし、異議の申立を棄却した事例。
- 最高裁判所第二小法廷決定 1995年(平成7年)6月28日 、平成6年(し)第173号、『訴訟終了宣言決定に対する異議申立て棄却決定に対する特別抗告事件』「死刑判決の言渡しを受けた被告人の控訴取下げが無効とされた事例」、“死刑判決の言渡しを受けた被告人が、その判決に不服があるのに、死刑判決の衝撃及び公判審理の重圧に伴う精神的苦痛によって精神障害を生じ、その影響下において、苦痛から逃れることを目的として控訴を取り下げたなどの判示の事実関係の下においては、被告人の控訴取下げは、自己の権利を守る能力を著しく制限されていたものであって、無効である。”。
- 『最高裁判所刑事判例集』(刑集)第49巻6号785頁
- 『最高裁判所裁判集刑事』(集刑)第265号873頁
- 『裁判所時報』第1149号6頁
- 『判例時報』第1534号139頁
- 『判例タイムズ』第880号131頁
- 【判示事項】死刑判決の言渡しを受けた被告人の控訴取下げが無効とされた事例
- 裁判所ウェブサイト掲載判例
- 『D1-Law.com』(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:24006452
- 『TKCローライブラリー』(LEX/DBインターネット) 文献番号:24006452
- 【事案の概要】殺人及び窃盗被告事件について死刑判決の宣告を受けて即日控訴をした被告人が、控訴取下書を提出したが、当時、訴訟能力を有していなかったから、本件控訴取下は無効であるなどと主張したのに対し、原審が、本件控訴取下げを有効とした原原決定を支持したため、特別抗告をした事案で、申立人は、1審の死刑判決の衝撃及び公判審理の重圧に伴う精神的苦痛により、妄想様観念の影響下において、その精神的苦痛から逃れることを目的として、本件控訴取下げに至ったものと認められるのであって、申立人は、本件控訴取下げ時において、自己の権利を守る能力を著しく制限されていたものというべきであるから、本件控訴取下げは無効と認めるのが相当であるとし、原決定及び原原決定を破棄し、差し戻した事例。
- 東京高等裁判所第11刑事部判決 2000年(平成12年)1月24日 、昭和63年(う)第622号、『殺人、窃盗被告事件』。
- 判決内容:被告人・弁護人側の控訴棄却(原審の死刑判決支持・弁護人側上告)
- 裁判官:荒木友雄(裁判長)・田中亮一・林正彦
- 弁護人:岡崎敬・大西啓介(異議申立書・異議申立補充書を連名作成)
- 『判例タイムズ』第1055号294頁【判示事項】
- 連続殺人事件について、取調警察官による暴行、脅迫があったとする主張が排斥され、被告人の検察官に対する自白調書等の任意性が肯定された事例
- 連続殺人を犯した被告人について、精神異常により心神喪失ないしは心神耗弱の状態にあったとする主張が排斥され、完全責任能力が肯定された事例
- 殺害された被害者の数が合計5名に及ぶ3件の殺人等の事案について、第1審の死刑の科刑が維持された事例
- 『高等裁判所刑事裁判速報集』(平成12年)号53頁
- 【判示事項】昭和56年から同57年にかけて、多数の窃盗事犯及び3件5名の被害者を連続殺害した被告人に対し、死刑に処した原審判決を支持した事例
- 『D1-Law.com』(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:28065107
- 殺害された被害者の数が合計5名に及ぶ3件の殺人等の事案において、完全責任能力が肯定され、一審の死刑判決が維持された事例。
- 約8か月の間になされた3件5名に対する殺人につき、死刑を言い渡した原判決の量刑が相当とされた事例。
- 『TKCローライブラリー』(LEX/DBインターネット) 文献番号:28065107
- 【事案の概要】少年院仲間として気の合った者と共謀し、あるいは単独で、引ったくりや事務所荒らしをし、現金を窃取したという約1年の間になされた10件の窃盗事案及び、少年院仲間を包丁、くり小刀で多数回刺して殺害し、少年院仲間を誘い、一家皆殺しの意図のもと、在宅していた家族を包丁、くり小刀で次々と刺して殺害し、マンション踊り場付近において、少年を2本のくり小刀で滅多突きにして殺害したという僅か8か月の間になされた3名5件に及ぶ殺人で公訴提起された被告人が死刑とされたため控訴した事案において、自白調書等の任意性を肯定し、完全責任能力を肯定して、極刑が止むを得ない場合に相当するとして、控訴を棄却して死刑とした事例。
- 最高裁判所第三小法廷判決 2004年(平成16年)6月15日 、平成12年(あ)第823号、『殺人、窃盗被告事件』。
- 『最高裁判所裁判集刑事』(集刑)第285号457頁
- 『判例タイムズ』第1160号109頁
- 【判示事項】辻堂の女子高生一家3名殺害等事件-死刑の量刑が維持された事例
- 裁判所ウェブサイト掲載判例
- 死刑の量刑が維持された事例(神奈川・兵庫の5人殺害事件)
- 『D1-Law.com』(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:28095644
- 窃盗の共犯者であった仲間を殺害し、女子高生とその母及び妹を殺害し、女子高生一家を殺害する際の共犯者であった仲間を殺害し、その他10回にわたって窃盗をした被告人に対し、原判決が維持した第一審判決の死刑の量刑が維持された事例。
- 『TKCローライブラリー』(LEX/DBインターネット) 文献番号:28065107
- 【事案の概要】被告人が、約8か月の間に、(1)窃盗の共犯者(2)交際に応じない女子高生とその母及び妹(3)女子高生一家殺害の共犯者の合計3件5名を殺害するなどした事案で、被告人が殺害を決意し実行してゆく過程は誠に短絡的かつ身勝手であって動機に酌量の余地はなく、殺害はいずれの場合も甚だ執拗かつ残虐であり、生じた結果は極めて重大であることなどに照らすと、被告人の刑事責任は極めて重大であり、被告人のために酌むべき情状を考慮しても、原判決が維持した第1審判決の死刑の科刑は是認せざるを得ないとして、上告を棄却した事例。
- 「辻堂の女子高生一家3名殺害等事件 死刑の量刑が維持された事例(2004年6月15日 上告審判決)」『判例タイムズ』第1160巻、判例タイムズ社、東京都千代田区麹町三丁目2番1号、2004年12月1日、109-111頁、2018年12月3日閲覧。
雑誌記事
- 上條昌史「総力特集 昭和&平成 世にも恐ろしい13の「死刑囚」事件簿 - F(死刑囚の実名)「藤沢・交際相手母娘他5人殺害」不遇な青年が殺人鬼へ」、『新潮45』25巻10号(通巻第294号/2006年10月号)、新潮社 pp. 56-58
書籍
※書籍名に死刑囚Fの氏名が使われている場合はその部分を本文中で使用されている姓イニシャル「F」に置き換える。
- 遠藤允 著、加藤博(発行人) 編『Fの家』(初版第1刷)新声社、1983年8月10日。ISBN 978-4881990582。
- 単行本。第一審途中の1983年に出版されたため、公判の模様は第11回公判までで終わっている。
- 遠藤允『Fの家 ある連続殺人事件の記録』(初版第1刷)講談社〈講談社文庫〉、1988年9月15日。ISBN 978-4061842847。
- 1988年3月の第一審判決後、上記書籍を改題した上でその後の裁判の進行などを加筆・訂正した文庫本。後述の#外部リンクにて全文をアーカイブより閲覧可能。
- 年報・死刑廃止編集委員会 著、(編集委員:岩井信・江頭純二・菊池さよ子・菊田幸一・笹原恵・島谷直子・高田章子・永井迅・安田好弘・深田卓) 編『犯罪報道と裁判員制度 年報・死刑廃止2008』(第1刷発行)インパクト出版会、2008年10月20日、121-127頁。ISBN 978-4755401923。
関連項目
- ストーカー - 桶川ストーカー殺人事件
- 長期裁判
- 死刑存廃問題
- JT女性社員逆恨み殺人事件・熊本母娘殺人事件 - 同じく加害者から被害者への一方的な逆恨みが動機となった殺人事件
死刑判決を受けた被告人が控訴を自ら取り下げたため、弁護人が控訴取下げの無効を主張して裁判所に異議を申し立てた事件
- ピアノ騒音殺人事件 - 控訴取り下げへの異議申し立ては退けられたが死刑は未だに執行されていない。
- マブチモーター社長宅殺人放火事件 - 控訴取り下げへの異議申し立ては退けられたが、死刑を執行されることなく病死した。
- 奈良小1女児殺害事件・闇サイト殺人事件 - 控訴取り下げへの異議申し立てが退けられた後に死刑囚の刑が執行された。
- 寝屋川市中1男女殺害事件
外部リンク
- “遠藤允の書斎”. 遠藤允. 2001年4月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年2月8日閲覧。本事件を題材としたノンフィクション『Fの家』を出版した作家・遠藤允による個人サイト。
- “遠藤允の書斎>作品集>Fの家(作品全文掲載。目次集)”. 遠藤允. 2001年5月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年2月8日閲覧。