コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「ヴィム・ヴェンダース」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: まわり道へリンクしている項目のリンク先ををまわり道 (映画)へ変更する依頼 - log
44行目: 44行目:
[[1945年]][[8月14日]]、[[デュッセルドルフ]]で生まれた。[[ギムナジウム]]卒業後、大学では[[1963年]]から[[1964年]]まで医学を、1964年から[[1965年]]まで哲学を専攻したが、いずれも断念した。[[1966年]]10月に画家を志して[[パリ]]へ引っ越した。しかし、[[高等映画学院]] (IDHEC) の入試に失敗。その後、[[モンパルナス]]にあるJohnny Friedlaenderのスタジオで彫刻を学んだ。この頃、1日5本以上もの映画を観る生活を送っていた。[[1967年]]、[[ユナイテッド・アーティスツ]]のデュッセルドルフ・オフィスで働くためにドイツに帰国。同年秋にはミュンヘンテレビ・映画大学 (Hochschule für Fernsehen und Film München, HFF) に入学。[[1970年]]まで『FilmKritik』誌や『[[南ドイツ新聞]]』、『Twen magazine』誌、『[[デア・シュピーゲル]]』誌で映画批評を執筆した。また、1967年からは映画監督としての活動を開始し、[[1969年]]までの3年間で『[[警察映画]]』(1969年)や『[[アラバマ:2000光年]]』(1969年)、『[[3枚のアメリカのLP]]』(1969年)など8本の短編映画を製作した。
[[1945年]][[8月14日]]、[[デュッセルドルフ]]で生まれた。[[ギムナジウム]]卒業後、大学では[[1963年]]から[[1964年]]まで医学を、1964年から[[1965年]]まで哲学を専攻したが、いずれも断念した。[[1966年]]10月に画家を志して[[パリ]]へ引っ越した。しかし、[[高等映画学院]] (IDHEC) の入試に失敗。その後、[[モンパルナス]]にあるJohnny Friedlaenderのスタジオで彫刻を学んだ。この頃、1日5本以上もの映画を観る生活を送っていた。[[1967年]]、[[ユナイテッド・アーティスツ]]のデュッセルドルフ・オフィスで働くためにドイツに帰国。同年秋にはミュンヘンテレビ・映画大学 (Hochschule für Fernsehen und Film München, HFF) に入学。[[1970年]]まで『FilmKritik』誌や『[[南ドイツ新聞]]』、『Twen magazine』誌、『[[デア・シュピーゲル]]』誌で映画批評を執筆した。また、1967年からは映画監督としての活動を開始し、[[1969年]]までの3年間で『[[警察映画]]』(1969年)や『[[アラバマ:2000光年]]』(1969年)、『[[3枚のアメリカのLP]]』(1969年)など8本の短編映画を製作した。


1970年、[[16ミリ]]・[[モノクロフィルム|モノクロ]]による初の長編『[[都市の夏]]』を監督。[[1972年]]、友人でもある[[ペーター・ハントケ]]の同名小説を映画化した『[[ゴールキーパーの不安]]』を発表し、第32回[[ヴェネツィア国際映画祭]]で国際映画批評家連盟賞を受賞した。以後もハントケはヴェンダースのいくつかの作品の脚本を手がけている。[[1974年]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]から[[オランダ]]へと旅する青年と少女を描いた『[[都会のアリス]]』を発表。翌[[1975年]]には戦後ドイツを表象した『[[まわり道]]』を発表。[[1976年]]の『[[さすらい (1976年の映画)|さすらい]]』は即興演出により[[ロードムービー]]の頂点を極めた作品と評価され、[[第29回カンヌ国際映画祭|カンヌ国際映画祭]]国際映画批評家連盟賞、[[シカゴ国際映画祭]]ゴールデン・ヒューゴ賞などを受賞した。これら3作品は「'''ロードムービー三部作'''」と呼ばれる。また、これらの作品により、[[フォルカー・シュレンドルフ]]や[[ヴェルナー・ヘルツォーク]]、[[ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー]]らとともに[[ニュー・ジャーマン・シネマ]]の旗手として一躍注目されるようになった。
1970年、[[16ミリ]]・[[モノクロフィルム|モノクロ]]による初の長編『[[都市の夏]]』を監督。[[1972年]]、友人でもある[[ペーター・ハントケ]]の同名小説を映画化した『[[ゴールキーパーの不安]]』を発表し、第32回[[ヴェネツィア国際映画祭]]で国際映画批評家連盟賞を受賞した。以後もハントケはヴェンダースのいくつかの作品の脚本を手がけている。[[1974年]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]から[[オランダ]]へと旅する青年と少女を描いた『[[都会のアリス]]』を発表。翌[[1975年]]には戦後ドイツを表象した『[[まわり道 (映画)|まわり道]]』を発表。[[1976年]]の『[[さすらい (1976年の映画)|さすらい]]』は即興演出により[[ロードムービー]]の頂点を極めた作品と評価され、[[第29回カンヌ国際映画祭|カンヌ国際映画祭]]国際映画批評家連盟賞、[[シカゴ国際映画祭]]ゴールデン・ヒューゴ賞などを受賞した。これら3作品は「'''ロードムービー三部作'''」と呼ばれる。また、これらの作品により、[[フォルカー・シュレンドルフ]]や[[ヴェルナー・ヘルツォーク]]、[[ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー]]らとともに[[ニュー・ジャーマン・シネマ]]の旗手として一躍注目されるようになった。


その後、一時は作風を変え、[[パトリシア・ハイスミス]]の小説を映画化した『[[アメリカの友人]]』([[1977年]])や死期近い[[ニコラス・レイ]]の姿を映した『[[ニックス・ムービー/水上の稲妻]]』([[1980年]])などを発表した。[[1982年]]には[[フランシス・フォード・コッポラ]]の依頼を受け、[[アメリカン・ゾエトロープ|ゾエトロープ社]]が製作した『[[ハメット (映画)|ハメット]]』の監督を務めた。しかし、製作方針をめぐりコッポラと衝突。撮影は何度も中断され、ヴェンダースはこの期間に[[ポルトガル]]にわたり、映画製作の現場を舞台にした『[[ことの次第]]』を製作。同作は[[第39回ヴェネツィア国際映画祭]]で[[金獅子賞]]を受賞した。[[1984年]]、[[サム・シェパード]]の脚本を元に、アメリカを舞台にしたロードムービー『[[パリ、テキサス]]』を発表。[[第37回カンヌ国際映画祭]]で[[パルム・ドール]]を受賞した。翌[[1985年]]には敬愛する[[小津安二郎]]に捧げた[[ドキュメンタリー]]『[[東京画]]』を製作。[[1987年]]、10年ぶりにドイツで製作した[[ファンタジー映画|ファンタジー]]『[[ベルリン・天使の詩]]』を発表。[[第40回カンヌ国際映画祭]]で[[カンヌ国際映画祭 監督賞|監督賞]]を受賞した。[[1989年]]にはファッションデザイナー[[山本耀司]]に関するドキュメンタリー『[[都市とモードのビデオノート]]』を発表した。
その後、一時は作風を変え、[[パトリシア・ハイスミス]]の小説を映画化した『[[アメリカの友人]]』([[1977年]])や死期近い[[ニコラス・レイ]]の姿を映した『[[ニックス・ムービー/水上の稲妻]]』([[1980年]])などを発表した。[[1982年]]には[[フランシス・フォード・コッポラ]]の依頼を受け、[[アメリカン・ゾエトロープ|ゾエトロープ社]]が製作した『[[ハメット (映画)|ハメット]]』の監督を務めた。しかし、製作方針をめぐりコッポラと衝突。撮影は何度も中断され、ヴェンダースはこの期間に[[ポルトガル]]にわたり、映画製作の現場を舞台にした『[[ことの次第]]』を製作。同作は[[第39回ヴェネツィア国際映画祭]]で[[金獅子賞]]を受賞した。[[1984年]]、[[サム・シェパード]]の脚本を元に、アメリカを舞台にしたロードムービー『[[パリ、テキサス]]』を発表。[[第37回カンヌ国際映画祭]]で[[パルム・ドール]]を受賞した。翌[[1985年]]には敬愛する[[小津安二郎]]に捧げた[[ドキュメンタリー]]『[[東京画]]』を製作。[[1987年]]、10年ぶりにドイツで製作した[[ファンタジー映画|ファンタジー]]『[[ベルリン・天使の詩]]』を発表。[[第40回カンヌ国際映画祭]]で[[カンヌ国際映画祭 監督賞|監督賞]]を受賞した。[[1989年]]にはファッションデザイナー[[山本耀司]]に関するドキュメンタリー『[[都市とモードのビデオノート]]』を発表した。
69行目: 69行目:
*[[緋文字]] ''Der Scharlachrote Buchstabe'' (1973年)
*[[緋文字]] ''Der Scharlachrote Buchstabe'' (1973年)
*[[都会のアリス]] ''Alice in den Städten'' (1974年)
*[[都会のアリス]] ''Alice in den Städten'' (1974年)
*[[まわり道]] ''Falsche Bewegung'' (1975年)
*[[まわり道 (映画)|まわり道]] ''Falsche Bewegung'' (1975年)
*[[さすらい (1976年の映画)|さすらい]] ''Im Lauf der Zeit'' (1976年)
*[[さすらい (1976年の映画)|さすらい]] ''Im Lauf der Zeit'' (1976年)
*[[アメリカの友人]] ''Der Amerikanische Freund'' (1977年)
*[[アメリカの友人]] ''Der Amerikanische Freund'' (1977年)

2020年6月5日 (金) 00:27時点における版

ヴィム・ヴェンダース
Wim Wenders
Wim Wenders
本名 エルンスト・ヴィルヘルム・ヴェンダース
Ernst Wilhelm Wenders
生年月日 (1945-08-14) 1945年8月14日(79歳)
出生地 ドイツの旗 ドイツ デュッセルドルフ
職業 映画監督脚本家プロデューサー
ジャンル 劇映画ドキュメンタリー
活動期間 1967年 -
配偶者 Edda Köchl (1968年 - 1974年
リサ・クロイツァー (1974年 - 1978年
ロニー・ブレイクリー1979年 - 1981年
Isabelle Weingarten (1981年 - 1982年
ドナータ・ヴェンダース (1993年 - )
公式サイト 公式ウェブサイト
主な作品
さすらい
パリ、テキサス
ベルリン・天使の詩
受賞
カンヌ国際映画祭
パルム・ドール
1984年パリ、テキサス
審査員グランプリ
1993年時の翼にのって/ファラウェイ・ソー・クロース!
監督賞
1987年ベルリン・天使の詩
ある視点部門 特別賞
2014年セバスチャン・サルガト/地球へのラブレター
国際映画批評家連盟賞
1976年さすらい
1984年 『パリ、テキサス』
エキュメニカル審査員賞
1984年 『パリ、テキサス』
ヴェネツィア国際映画祭
金獅子賞
1982年ことの次第
国際映画批評家連盟賞
1972年ゴールキーパーの不安
1982年 『ことの次第』
1995年愛のめぐりあい
ユネスコ連盟賞
2004年ランド・オブ・プレンティ
ベルリン国際映画祭
銀熊賞 (審査員賞)
2000年ミリオンダラー・ホテル
名誉金熊賞
2015年
ヨーロッパ映画賞
監督賞
1988年 『ベルリン・天使の詩
ドキュメンタリー賞
1999年 『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ
2011年 『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち
全米映画批評家協会賞
ドキュメンタリー映画賞
1999年『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ
ニューヨーク映画批評家協会賞
ドキュメンタリー映画賞
1999年ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ
ロサンゼルス映画批評家協会賞
外国語映画賞
1988年ベルリン・天使の詩
ドキュメンタリー賞
1999年ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ
英国アカデミー賞
監督賞
1984年 『パリ、テキサス
セザール賞
ドキュメンタリー賞
2014年『セバスチャン・サルガト/地球へのラブレター
ブルーリボン賞
外国語作品賞
1988年ベルリン・天使の詩
その他の賞
テンプレートを表示
ベルリンにあるヴェンダースのスター

ヴィム・ヴェンダースWim Wenders, 1945年8月14日 - ) は、ドイツ映画監督

経歴

1945年8月14日デュッセルドルフで生まれた。ギムナジウム卒業後、大学では1963年から1964年まで医学を、1964年から1965年まで哲学を専攻したが、いずれも断念した。1966年10月に画家を志してパリへ引っ越した。しかし、高等映画学院 (IDHEC) の入試に失敗。その後、モンパルナスにあるJohnny Friedlaenderのスタジオで彫刻を学んだ。この頃、1日5本以上もの映画を観る生活を送っていた。1967年ユナイテッド・アーティスツのデュッセルドルフ・オフィスで働くためにドイツに帰国。同年秋にはミュンヘンテレビ・映画大学 (Hochschule für Fernsehen und Film München, HFF) に入学。1970年まで『FilmKritik』誌や『南ドイツ新聞』、『Twen magazine』誌、『デア・シュピーゲル』誌で映画批評を執筆した。また、1967年からは映画監督としての活動を開始し、1969年までの3年間で『警察映画』(1969年)や『アラバマ:2000光年』(1969年)、『3枚のアメリカのLP』(1969年)など8本の短編映画を製作した。

1970年、16ミリモノクロによる初の長編『都市の夏』を監督。1972年、友人でもあるペーター・ハントケの同名小説を映画化した『ゴールキーパーの不安』を発表し、第32回ヴェネツィア国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞した。以後もハントケはヴェンダースのいくつかの作品の脚本を手がけている。1974年アメリカからオランダへと旅する青年と少女を描いた『都会のアリス』を発表。翌1975年には戦後ドイツを表象した『まわり道』を発表。1976年の『さすらい』は即興演出によりロードムービーの頂点を極めた作品と評価され、カンヌ国際映画祭国際映画批評家連盟賞、シカゴ国際映画祭ゴールデン・ヒューゴ賞などを受賞した。これら3作品は「ロードムービー三部作」と呼ばれる。また、これらの作品により、フォルカー・シュレンドルフヴェルナー・ヘルツォークライナー・ヴェルナー・ファスビンダーらとともにニュー・ジャーマン・シネマの旗手として一躍注目されるようになった。

その後、一時は作風を変え、パトリシア・ハイスミスの小説を映画化した『アメリカの友人』(1977年)や死期近いニコラス・レイの姿を映した『ニックス・ムービー/水上の稲妻』(1980年)などを発表した。1982年にはフランシス・フォード・コッポラの依頼を受け、ゾエトロープ社が製作した『ハメット』の監督を務めた。しかし、製作方針をめぐりコッポラと衝突。撮影は何度も中断され、ヴェンダースはこの期間にポルトガルにわたり、映画製作の現場を舞台にした『ことの次第』を製作。同作は第39回ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞した。1984年サム・シェパードの脚本を元に、アメリカを舞台にしたロードムービー『パリ、テキサス』を発表。第37回カンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞した。翌1985年には敬愛する小津安二郎に捧げたドキュメンタリー東京画』を製作。1987年、10年ぶりにドイツで製作したファンタジーベルリン・天使の詩』を発表。第40回カンヌ国際映画祭監督賞を受賞した。1989年にはファッションデザイナー山本耀司に関するドキュメンタリー『都市とモードのビデオノート』を発表した。

1991年、念願の企画だったSF大作『夢の涯てまでも』を発表。1993年には『ベルリン・天使の詩』の続編となった『時の翼にのって/ファラウェイ・ソー・クロース!』を発表。第46回カンヌ国際映画祭審査員グランプリを受賞した。1995年ミケランジェロ・アントニオーニの指名を受け、彼の13年ぶりの長編『愛のめぐりあい』の一部を監督した。1997年には映画と暴力の関係を扱った『エンド・オブ・バイオレンス』を発表。1999年の音楽ドキュメンタリー『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』はヨーロッパ映画賞ロサンゼルス映画批評家協会賞のドキュメンタリー映画賞を受賞するなど高く評価された。

2000年U2ボノの原案を元にした『ミリオンダラー・ホテル』を発表。第50回ベルリン国際映画祭審査員賞を受賞した。2003年にはマーティン・スコセッシのプロジェクトの一環として音楽ドキュメンタリー『ソウル・オブ・マン』を製作した。2004年には9.11以降のアメリカを舞台にした『ランド・オブ・プレンティ』を発表した。翌2005年には『パリ、テキサス』以来およそ20年ぶりにサム・シェパードと組んだ『アメリカ、家族のいる風景』を発表した。同年にはロカルノ国際映画祭名誉豹賞を受賞した。2008年にはデニス・ホッパーが死神役で出演した『パレルモ・シューティング』を発表した。

2011年、20年にわたって企画を練っていたピナ・バウシュに関するドキュメンタリー『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』を発表。翌2012年第84回アカデミー賞では長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされた。2014年ジュリアーノ・リベイロ・サルガドと共同製作したドキュメンタリー『セバスチャン・サルガド/地球へのラブレター』を発表。第67回カンヌ国際映画祭のある視点部門に出品され、特別賞を受賞した[1]2015年第65回ベルリン国際映画祭名誉金熊賞を授与された[2]。同年、自身初の3D映画誰のせいでもない』を発表。

2017年6月にはベルリン国立歌劇場の指揮者ダニエル・バレンボイムの依頼で、ジョルジュ・ビゼー作曲《真珠とり》(主演パトリツィア・チョーフィ)でオペラ演出家としてデビューした。

写真展「尾道への旅」

2006年4月29日から5月7日にかけて、東京・表参道ヒルズ本館地下3階のオー「O」で開催された。

写真家である妻のドナータ・ヴェンダースと共に、京都から尾道鞆の浦直島へ旅をした道中の、古都や瀬戸内の原風景を収めた写真を展示した。作風としてはヴィムが風景を、ドナータがモノクロ写真での人物を表現した。日立造船向島西工場跡地の『男たちの大和』のロケ地での写真も展示された。

また、高橋栄樹によるドキュメンタリー作品も製作された。『東京物語』の第二の舞台となった尾道の風景とともにヴェンダースによる尾道へのオマージュを表現したもので、『東京物語』に登場する浄土寺の裏山を登るシーンも記録されている。

作品

長編

短編

製作

脚注

関連項目

外部リンク