コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「一乗寺」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
真言律宗との関わり等について加筆
Cewbot (会話 | 投稿記録)
75行目: 75行目:
[[ファイル:Ichijoji Kasai12n4272.jpg|thumb|180px|三重塔]]
[[ファイル:Ichijoji Kasai12n4272.jpg|thumb|180px|三重塔]]
* 三重塔 - 解説は前出。
* 三重塔 - 解説は前出。
* 絹本著色聖徳太子及び天台高僧像 10幅 - 平安時代、11世紀後半頃の作。各図とも縦125.6〜131.6&nbsp;cm、横74.7〜75.8&nbsp;cm<ref>[[東京文化財研究所]] [[奈良国立博物館]]編集 『法華山一乗寺蔵 国宝聖徳太子及天台高僧像光学調査報告書―カラー画像編―』 東京文化財研究所、2016年4月28日。</ref>。[[龍樹]]、[[善無畏]](以上インド)、[[慧文]]、[[慧思]](南嶽大師)、[[智ギ|智顗]](天台大師)、[[章安灌頂|灌頂]]、[[湛然]](以上中国)、[[最澄]]、[[円仁]](以上日本)の高僧像に[[聖徳太子]]像を加えて10幅としたもの。聖徳太子は天台宗で重視する[[法華経]]の信奉者であったことに加え、慧思(南嶽大師)の生まれ変わりとする伝承があることから加えられたものとみられる。ただし、元々10幅構成だったのか、更に多数幅だったのが失われて現状のように成ったのかは判然としない。各像とも人物が画面一杯に大きく表され、着衣などに暖色系を中心とした彩色が鮮やかで、立像・坐像、正面向き・斜め向き、横向きなど、変化に富む点が特色である。着衣の文様は彩色のみで表され、持物などに金銀を裏箔で使い[[截金]]を一切用いないのは古様である。部分的に補絹・補筆・補彩がされているものの、平安時代に作られたことを考えれば普通で、むしろよく当初の状態を保っており、しかも10幅がまとまって残っているのは極めて貴重である。慧文像と灌頂像の画中短冊形にそれぞれ「法華寺 第三」「法華寺 第六」と記されていることから、平安時代後期には法華寺すなわち現在の一乗寺に制作当初から伝来した可能性が高い。善無畏像と慧文像は[[東京国立博物館]]、灌頂像は[[大阪市立美術館]]、他の7幅は[[奈良国立博物館]]に、それぞれ寄託されている。
* 絹本著色聖徳太子及び天台高僧像 10幅 - 平安時代、11世紀後半頃の作。各図とも縦125.6〜131.6&nbsp;cm、横74.7〜75.8&nbsp;cm<ref>[[東京文化財研究所]] [[奈良国立博物館]]編集 『法華山一乗寺蔵 国宝聖徳太子及天台高僧像光学調査報告書―カラー画像編―』 東京文化財研究所、2016年4月28日。</ref>。[[龍樹]]、[[善無畏]](以上インド)、[[慧文]]、[[慧思]](南嶽大師)、[[智顗]](天台大師)、[[章安灌頂|灌頂]]、[[湛然]](以上中国)、[[最澄]]、[[円仁]](以上日本)の高僧像に[[聖徳太子]]像を加えて10幅としたもの。聖徳太子は天台宗で重視する[[法華経]]の信奉者であったことに加え、慧思(南嶽大師)の生まれ変わりとする伝承があることから加えられたものとみられる。ただし、元々10幅構成だったのか、更に多数幅だったのが失われて現状のように成ったのかは判然としない。各像とも人物が画面一杯に大きく表され、着衣などに暖色系を中心とした彩色が鮮やかで、立像・坐像、正面向き・斜め向き、横向きなど、変化に富む点が特色である。着衣の文様は彩色のみで表され、持物などに金銀を裏箔で使い[[截金]]を一切用いないのは古様である。部分的に補絹・補筆・補彩がされているものの、平安時代に作られたことを考えれば普通で、むしろよく当初の状態を保っており、しかも10幅がまとまって残っているのは極めて貴重である。慧文像と灌頂像の画中短冊形にそれぞれ「法華寺 第三」「法華寺 第六」と記されていることから、平安時代後期には法華寺すなわち現在の一乗寺に制作当初から伝来した可能性が高い。善無畏像と慧文像は[[東京国立博物館]]、灌頂像は[[大阪市立美術館]]、他の7幅は[[奈良国立博物館]]に、それぞれ寄託されている。


=== 重要文化財 ===
=== 重要文化財 ===

2020年8月16日 (日) 12:16時点における版

一乗寺
本堂(大悲閣、金堂)
所在地 兵庫県加西市坂本町821-17
位置 北緯34度51分33.51秒 東経134度49分8.49秒 / 北緯34.8593083度 東経134.8190250度 / 34.8593083; 134.8190250座標: 北緯34度51分33.51秒 東経134度49分8.49秒 / 北緯34.8593083度 東経134.8190250度 / 34.8593083; 134.8190250
山号 法華山
宗派 天台宗
本尊 聖観音
創建年 伝・白雉元年(650年
開山 伝・法道仙人
正式名 法華山 一乗寺
札所等 西国三十三所第26番
播磨西国三十三箇所第33番
神仏霊場巡拝の道第77番
播磨天台六山
文化財 三重塔、聖徳太子及び天台高僧像10幅(国宝)、本堂他(重要文化財
法人番号 9140005017455 ウィキデータを編集
一乗寺の位置(兵庫県内)
一乗寺
テンプレートを表示

一乗寺(いちじょうじ)は、兵庫県加西市にある天台宗寺院山号は法華山、本尊聖観音菩薩である。西国三十三所第26番札所。国宝三重塔平安時代後期を代表する和様建築の塔であり、国内屈指の古塔である。境内は、春は桜、秋は紅葉の名所としても知られている。中世には山内に真言律宗の有力律院も併設されており、宗祖の興正菩薩叡尊播磨国(兵庫県)での布教活動の拠点とした他、真言律宗出身の真言僧後醍醐天皇の腹心だった文観房弘真が仏門に入った地でもある。

本尊真言:おん あろりきゃ そわか

ご詠歌:春は花夏は橘秋は菊 いつも妙(たえ)なる法(のり)の華山(はなやま)

歴史

三重塔国宝

一乗寺を開山したとされる法道仙人は、天竺インド)から紫の雲に乗って飛来したとされる伝説的人物である。『元亨釈書』等の記述によれば、法道はインドに住んでいたが、紫の雲に乗って中国百済を経て日本へ飛来、播州賀茂郡(兵庫県加西市)に八葉蓮華(8枚の花弁をもつハスの花)の形をした霊山を見出したので、そこへ降り立ち、法華経の霊山という意味で「法華山」と号したという。法道は神通力で鉢を飛ばし、米などの供物を得ていたため、「空鉢仙人」と呼ばれていた。法道の評判は都へも広まり、白雉元年(650年)、時の帝である孝徳天皇の勅命により法道に建てさせたのが一乗寺であるという。

法道仙人開基伝承をもつ寺院は兵庫県東部地域に集中しており、「インドから紫雲に乗って飛来」云々の真偽は別としても、こうした伝承の元になり、地域の信仰の中心となった人物が実在した可能性は否定できない。一乗寺には7世紀 - 8世紀にさかのぼる金銅仏6躯が存在し(うち3躯は重要文化財)、付近には奈良時代にさかのぼる廃寺跡、石仏などが存在することからも、この地域一帯が早くから仏教文化の栄えた地であることは確かである[1]

創建当時の一乗寺は現在地のやや北に位置する笠松山にあったと推定されている。笠松山の山麓には古法華(ふるぼっけ)石仏と称される奈良時代の三尊石仏(重要文化財)があり、「古法華」とは「法華山一乗寺の旧地」の意味と思われる。現存する一乗寺三重塔は平安時代末期の承安元年(1171年)の建立であるところから、その年までには現在地において伽藍が整備されていたと思われるが、正確な移転時期は不明である。

中世においては、山内に真言律宗の律院も併設されていた[2]。真言律宗の宗祖である興正菩薩叡尊の自伝『感身学正記』弘安8年(1285年7月23日条によれば、弘安6年(1283年)頃から、法華山は「殺生禁断」の起請文(きしょうもん、神仏へ誓う文)を掲げて叡尊の訪問を要望し、宿老4、5人が真言律宗の本拠地である西大寺を訪ねること7回に及んだ[3]。そこで弘安7年(1284年)冬、叡尊は僧侶の評定を開いたのち、法華山への訪問を決定し、弘安8年(1285年)春には伺うと約束していた[3]。ところが、叡尊は、幕府・朝廷双方から四天王寺別当という仏教界の重職に就くことを要請されており、さすがに勅命を断ることはできず、結局、弘安8年(1285年)春は四天王寺で活動を行うことになった[3]。そして、遅ればせながら同年7月23日、大和国奈良県)の西大寺を発ち、28日に法華山に到着した[3]。それから様々な仏教活動が行われ、8月7日には、叡尊は2,124人もの人に菩薩戒(出家・在家を問わず守るべき基礎的な規律)を授けた[3]

また、正応3年(1290年)には、後に後醍醐天皇後村上天皇の護持僧(祈祷で天皇を守護する僧)となる文観房弘真が、この地で真言律宗に入信している[4]。このとき文観は数え13歳の少年で、真言律宗の巌智律師という僧に入室し(=弟子となり)、慶尊のもと得度した(=剃髪して出家した)(『瑜伽伝灯鈔』)[4]。このうち後者の観性房慶尊は叡尊の高弟であり、播磨国(兵庫県)での布教活動の指導者格だったと見られる[5]。2年後、文観は正応5年(1292年)に大和国奈良県)へ留学に旅立ったが[6]、20代後半の時に故郷播磨に戻ってきて10年間ほど開拓事業に尽力しており[7]、当寺境内にある「一乗寺石造笠塔婆」(正和5年(1316年)12月21日、兵庫県指定文化財[8])はこの時に文観の監修によって作られ、大覚寺統後醍醐天皇皇統)に奉献された物と見られる[9]

一乗寺は中世、近世には何度かの火災に遭っているが、平安時代の三重塔をはじめとする古建築がよく保存されている。本堂は姫路藩本多忠政の寄進により、寛永5年(1628年)に建てられたものである。

境内

弁天堂(左)と妙見堂(ともに重要文化財)
護法堂(重要文化財)

山間に位置する境内は長い石段が続き、数段に分けて整地されている。バス通りに面した境内入口には山門はなく、正面に石造笠塔婆(県指定文化財)が立つ。その左方には宝物館(平素は非公開)と本坊の地蔵院がある。右方は公園風に整備され、太子堂、放生池、やや奥まったところに見子大明神の社がある。

境内入口から最初の石段を上った狭い平地の左手に常行堂があり、次の石段を上ると左手に国宝の三重塔、右手に法輪堂(経蔵)がある。三重塔の直上、さらに階段を上った位置に懸崖造の本堂が建つ。このため、本堂の縁に立つと三重塔を見下ろすことができる。本堂裏手には鎮守社の護法堂、妙見堂、弁天堂(以上重要文化財)、行者堂があり、本堂からさらに200メートルほど登ったところに法道仙人を祀る奥の院開山堂が建つ。

  • 本堂(重要文化財) - 大悲閣または金堂とも称する。入母屋造、本瓦葺き、正面9間、側面8間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を示す建築用語)。斜面にせり出した懸造とし、内部は広い外陣と、閉鎖的な内陣、脇陣、後陣からなる、密教仏堂の典型的な平面をもつ。札所寺院として、参拝者用の空間である外陣を広く取っており、外陣天井には巡礼者の打ちつけた木札が大量に残る。『法華山諸堂記』の記載により、寛永5年(1628年姫路藩本多忠政の援助で再建されたことがわかる。内陣には三間の大厨子を置き、中央の間に本尊聖観音立像(重要文化財)、左右の間には不動明王毘沙門天像を安置するが、いずれも秘仏である。厨子外の左右には二十八部衆風神雷神像を安置する。堂は1998年平成10年)の台風で大きな被害を受け、1999年(平成11年)から2009年(平成21年)にかけて災害復旧を兼ねた半解体修理が行われた。
    • 銅造観音菩薩立像(重要文化財) - 秘仏本尊像は像高72.7 cm、お前立ち像(現在は宝物館に安置)は80.3 cm。いずれも飛鳥時代末 - 奈良時代初(7世紀後半)の金銅仏。直立した姿勢、素朴な顔貌表現、緻密に表現された装身具などに特色がある。秘仏本尊像は、2009年(平成21年)11月1日 - 30日および2010年(平成22年)5月11日 - 30日、22年ぶりに開扉。
  • 三重塔(国宝) - 伏鉢(屋根上、相輪の下部にある半球状の部材)の銘から、承安元年(1171年)の建立と判明する。平安時代にさかのぼり、建立年代の明らかな塔として日本でも稀有のものである。塔身部の逓減率(初重から三重に向かって小さくなる率)の大きいことが特色である。
  • 鐘楼
  • 常行堂 - 聖武天皇の勅願による建立と伝えられ、嘉吉の乱で焼失して天文2年(1533年)に再建されたが、再び焼失し、1868年明治元年)に再建された[10]
  • 法輪堂(経蔵
  • 護法堂(重要文化財) - 本堂裏手、石段上に建つ、一間社春日造の社殿。鎌倉時代
  • 妙見堂(重要文化財) - 本堂裏手に建つ、三間社流造の社殿。室町時代
  • 弁天堂(重要文化財) - 妙見堂の左に並んで建つ、一間社春日造の社殿。室町時代。
  • 行者堂
  • 奥の院開山堂
  • 本坊(地蔵院)
  • 粟嶋堂
  • 太子堂
  • 宝物館 - 境内入口左手にある。公開は年に2日、4月4日と11月5日のみで、それ以外の拝観は事前の許可が必要。
  • 隣聖院 - 塔頭

文化財

国宝

最澄像(聖徳太子及び天台高僧像10幅のうち)平安時代(11世紀)
三重塔
  • 三重塔 - 解説は前出。
  • 絹本著色聖徳太子及び天台高僧像 10幅 - 平安時代、11世紀後半頃の作。各図とも縦125.6〜131.6 cm、横74.7〜75.8 cm[11]龍樹善無畏(以上インド)、慧文慧思(南嶽大師)、智顗(天台大師)、灌頂湛然(以上中国)、最澄円仁(以上日本)の高僧像に聖徳太子像を加えて10幅としたもの。聖徳太子は天台宗で重視する法華経の信奉者であったことに加え、慧思(南嶽大師)の生まれ変わりとする伝承があることから加えられたものとみられる。ただし、元々10幅構成だったのか、更に多数幅だったのが失われて現状のように成ったのかは判然としない。各像とも人物が画面一杯に大きく表され、着衣などに暖色系を中心とした彩色が鮮やかで、立像・坐像、正面向き・斜め向き、横向きなど、変化に富む点が特色である。着衣の文様は彩色のみで表され、持物などに金銀を裏箔で使い截金を一切用いないのは古様である。部分的に補絹・補筆・補彩がされているものの、平安時代に作られたことを考えれば普通で、むしろよく当初の状態を保っており、しかも10幅がまとまって残っているのは極めて貴重である。慧文像と灌頂像の画中短冊形にそれぞれ「法華寺 第三」「法華寺 第六」と記されていることから、平安時代後期には法華寺すなわち現在の一乗寺に制作当初から伝来した可能性が高い。善無畏像と慧文像は東京国立博物館、灌頂像は大阪市立美術館、他の7幅は奈良国立博物館に、それぞれ寄託されている。

重要文化財

  • 金堂(大悲閣、本堂) - 解説は前出。
  • 護法堂
  • 妙見堂
  • 弁天堂
  • 石造五輪塔 - 鎌倉時代、元亨元年(1321年)の銘がある。境内入口の石段下の右手奥にある。
  • 絹本著色阿弥陀如来
  • 絹本著色五明王像
  • 銅造観音菩薩立像 2躯 - 秘仏本尊像とその前立ち像。
  • 銅造観音菩薩立像 1躯 - 像高48.0 cm。7世紀にさかのぼる古像。頭部を大きく、手足を小さく造るプロポーションに特色がある。
  • 木造法道仙人立像
  • 木造僧形坐像

兵庫県指定有形文化財

  • 鐘楼 - 江戸時代初期
  • 石造宝塔2基 - 鎌倉時代末期 。奥の院への参道の右手に立つ。
  • 石造笠塔婆[8] - 鎌倉時代末期、正和5年(1316年)12月21日[9]。境内入口に立つ。文観房弘真の監修による[9]。なお、銘文の奉献先には「金輪聖主」(=天皇)とあり当時の天皇は花園天皇であるが、文観との結びつきを考えれば実際は後宇多上皇かその皇子の皇太子尊治親王(のちの後醍醐天皇)のことを指していると推測される[9]
  • 三重塔古瓦

加西市指定有形文化財

  • 石造九重塔 - 奥の院開山堂のさらに上方、「賽の河原」にある。

札所

西国三十三所
25 播州清水寺 - 26 一乗寺 - 27 圓教寺
播磨西国三十三箇所
32 国分寺 - 33 一乗寺 - 客番 常光寺
神仏霊場巡拝の道
76 赤穂大石神社 - 77 一乗寺 - 78 播州清水寺
播磨天台六山
書寫山圓教寺 - 増位山随願寺 - 八徳山八葉寺 - 文殊山神積寺 - 蓬萊山普光寺 - 法華山一乗寺

所在と交通

〒675-2222 兵庫県加西市坂本町821-17

周辺情報

脚注

  1. ^ 本節における法道仙人にかかる記述は、田中日佐夫『仏像のある風景』(駸々堂、1989)pp87 - 97に基づく。
  2. ^ 内田 2006, pp. 24–25.
  3. ^ a b c d e 内田 2006, pp. 23–24.
  4. ^ a b 内田 2006, p. 23.
  5. ^ 金子 2019, pp. 5–8.
  6. ^ 内田 2006, p. 26.
  7. ^ 金子 2019.
  8. ^ a b 加西市教育委員会 2014.
  9. ^ a b c d 金子 2019, pp. 16–18.
  10. ^ 西国三十三ヶ所巡り(一乗寺)
  11. ^ 東京文化財研究所 奈良国立博物館編集 『法華山一乗寺蔵 国宝聖徳太子及天台高僧像光学調査報告書―カラー画像編―』 東京文化財研究所、2016年4月28日。

参考文献

  • 内田啓一『文観房弘真と美術』法藏館、2006年。ISBN 978-4831876393 
  • 加西市教育委員会 (2014年). “県指定文化財 一乗寺石造笠塔婆”. 加西市デジタルミュージアム. 2020年8月11日閲覧。
  • 金子, 哲「東播磨における文観の活動――空白の11年間を中心とする石塔造立・耕地開発――」『鎌倉遺文研究』第44号、吉川弘文館、2019年10月、1–27頁。 
  • 『週刊朝日百科』「日本の国宝31(太山寺、一乗寺ほか)」、朝日新聞社、1997(解説執筆は多淵敏樹、田中敏雄)

関連項目

外部リンク