「下邳郡」の版間の差分
編集の要約なし |
m Bot作業依頼: 邳郗郯郴などの改名に伴うリンク修正依頼 (邳州) - log |
||
11行目: | 11行目: | ||
[[525年]]([[北魏]]の[[孝昌]]元年)、下邳郡は[[東徐州]]に転属した。下邳郡は下邳・良城・僮・坊亭・柵淵・帰正の6県を管轄した<ref>『[[魏書]]』地形志二中</ref>。 |
[[525年]]([[北魏]]の[[孝昌]]元年)、下邳郡は[[東徐州]]に転属した。下邳郡は下邳・良城・僮・坊亭・柵淵・帰正の6県を管轄した<ref>『[[魏書]]』地形志二中</ref>。 |
||
[[533年]]([[中大通]]5年)、[[梁 (南朝)|南朝梁]]が下邳郡を奪った。下邳郡は[[ |
[[533年]]([[中大通]]5年)、[[梁 (南朝)|南朝梁]]が下邳郡を奪った。下邳郡は[[邳州|武州]]に転属した。 |
||
[[550年]]([[東魏]]の[[武定 (東魏)|武定]]8年)、東魏が下邳郡を領有した。下邳郡は再び東徐州に転属した。 |
[[550年]]([[東魏]]の[[武定 (東魏)|武定]]8年)、東魏が下邳郡を領有した。下邳郡は再び東徐州に転属した。 |
||
[[北周]]のとき、下邳郡は[[ |
[[北周]]のとき、下邳郡は[[邳州]]に転属した。 |
||
[[581年]]([[開皇]]元年)、邳州が廃止されて、下邳郡は[[泗州]]に転属した。[[583年]](開皇3年)、隋が郡制を廃すると、下邳郡は廃止されて、泗州に編入された。[[607年]]([[大業]]3年)に州が廃止されて郡が置かれると、泗州が下邳郡と改称された。下邳郡は[[宿豫県|宿豫]]・夏丘・[[泗洪県|徐城]]・[[淮陰県|淮陽]]・下邳・[[良城県|良城]]・[[郯城県|郯]]の7県を管轄した<ref>『[[隋書]]』地理志下</ref>。 |
[[581年]]([[開皇]]元年)、邳州が廃止されて、下邳郡は[[泗州]]に転属した。[[583年]](開皇3年)、隋が郡制を廃すると、下邳郡は廃止されて、泗州に編入された。[[607年]]([[大業]]3年)に州が廃止されて郡が置かれると、泗州が下邳郡と改称された。下邳郡は[[宿豫県|宿豫]]・夏丘・[[泗洪県|徐城]]・[[淮陰県|淮陽]]・下邳・[[良城県|良城]]・[[郯城県|郯]]の7県を管轄した<ref>『[[隋書]]』地理志下</ref>。 |
2020年8月17日 (月) 05:03時点における版
下邳郡(かひ-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。後漢から隋代にかけて、現在の江蘇省北部に設置された。
概要
72年(後漢の永平15年)、劉衍が下邳王となり、東海郡下邳県に下邳国が置かれた[1]。79年(建初4年)、臨淮郡は下邳国に編入された[2]。下邳国は徐州に属し、治所は下邳県に置かれた。後漢の下邳国は下邳・徐・僮・睢陵・下相・淮陰・淮浦・盱台・高山・潘旌・淮陵・取慮・東城・曲陽・司吾・良成・夏丘の17県を管轄した[3]。184年(中平元年)、下邳王劉意が死去したが、後嗣となる子がなかったため、下邳国は廃止されて、下邳郡と改められた[4]。
222年(三国の魏の黄初3年)、曹宇が下邳王となり、下邳郡は下邳国と改められた。232年(太和6年)、曹宇が燕王に改封されると、下邳国は下邳郡と改められた[5]。
265年(西晋の泰始元年)、司馬晃が下邳王となり、下邳郡は下邳国と改められた。西晋の下邳国は下邳・凌・良城・睢陵・夏丘・取慮・僮の7県を管轄した[6]。
525年(北魏の孝昌元年)、下邳郡は東徐州に転属した。下邳郡は下邳・良城・僮・坊亭・柵淵・帰正の6県を管轄した[7]。
533年(中大通5年)、南朝梁が下邳郡を奪った。下邳郡は武州に転属した。
550年(東魏の武定8年)、東魏が下邳郡を領有した。下邳郡は再び東徐州に転属した。
581年(開皇元年)、邳州が廃止されて、下邳郡は泗州に転属した。583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、下邳郡は廃止されて、泗州に編入された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、泗州が下邳郡と改称された。下邳郡は宿豫・夏丘・徐城・淮陽・下邳・良城・郯の7県を管轄した[8]。
621年(武徳4年)、唐により下邳郡は泗州と改められ、下邳郡の呼称は姿を消した[9]。
僑置下邳郡
南下邳郡
東晋の明帝のとき、南下邳郡が僑置された。南下邳郡は下邳・北凌・僮の3県を管轄した。460年(大明4年)、南彭城郡に併合された[10]。
北下邳郡
南朝宋のとき、下邳郡の本土を失陥すると、北下邳郡が僑置された。北下邳郡は僮・下邳・寧城の3県を管轄した[10]。