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漢の[[劉邦|高祖]]のとき、豫章郡が置かれた<ref name="kanjo28">『[[漢書]]』地理志上</ref>。[[紀元前202年]](高帝5年)、[[英布]]が淮南王となると、[[九江郡|淮南国]]が置かれ、[[衡山郡|衡山]]・[[九江郡|九江]]・[[廬江郡|廬江]]・豫章の4郡を管轄した<ref>『漢書』韓彭英盧呉伝</ref>。[[紀元前196年]](高帝11年)、英布が反乱を起こすと、劉長が淮南王に立てられた<ref>『[[史記]]』高祖本紀</ref>。[[紀元前173年]]([[文帝 (漢)|文帝]]7年)、淮南国が廃止され、4郡は漢の直轄の郡になった。[[紀元前168年]](文帝12年)、城陽王劉喜が淮南王となり、再び淮南国が置かれた。[[紀元前164年]](文帝16年)、劉喜が城陽王に戻されると、淮南国は廃止され、廬江郡と豫章郡を管轄する廬江国が置かれ、淮南厲王劉長の子の陽周侯劉賜が廬江王とされた。[[紀元前153年]]([[景帝 (漢)|景帝]]4年)、廬江王劉賜が衡山王に改封され、廬江国は廃止されて、再び廬江郡と豫章郡が置かれた<ref>『漢書』淮南衡山済北王伝</ref>。[[前漢]]の豫章郡は[[揚州 (古代)|揚州]]に属し、[[南昌県|南昌]]・[[廬陵県|廬陵]]・[[彭沢県|彭沢]]・[[鄱陽県|鄱陽]]・[[徳安県|歴陵]]・[[余干県|余汗]]・[[柴桑区|柴桑]]・[[修水県|艾]]・[[贛県区|贛]]・[[新幹県|新淦]]・[[南城県|南城]]・[[高安市|建成]]・[[袁州区|宜春]]・[[永修県|海昏]]・[[于都県|雩都]]・[[都昌県|鄡陽]]・[[南康区|南野]]・[[安福県|安平]]の18県を管轄した。[[王莽]]のとき、九江郡と改められた<ref name="kanjo28"/>。 |
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[[後漢]]が建てられると、豫章郡の称にもどされた。後漢の豫章郡は南昌・建城・新淦・宜春・廬陵・贛・雩都・南野・南城・鄱陽・歴陵・余汗・鄡陽・彭沢・柴桑・艾・海昏・[[安福県|平都]]・[[峡江県|石陽]]・[[臨川区|臨汝]]・[[南城県|建昌]]の21県を管轄した<ref>『[[後漢書]]』郡国志四</ref>。 |
[[後漢]]が建てられると、豫章郡の称にもどされた。後漢の豫章郡は南昌・建城・新淦・宜春・廬陵・贛・雩都・南野・南城・鄱陽・歴陵・余汗・鄡陽・彭沢・柴桑・艾・海昏・[[安福県|平都]]・[[峡江県|石陽]]・[[臨川区|臨汝]]・[[南城県|建昌]]の21県を管轄した<ref>『[[後漢書]]』郡国志四</ref>。 |
2020年8月17日 (月) 07:50時点における版
豫章郡(よしょう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から唐代にかけて、現在の江西省北部に設置された。
概要
漢の高祖のとき、豫章郡が置かれた[1]。紀元前202年(高帝5年)、英布が淮南王となると、淮南国が置かれ、衡山・九江・廬江・豫章の4郡を管轄した[2]。紀元前196年(高帝11年)、英布が反乱を起こすと、劉長が淮南王に立てられた[3]。紀元前173年(文帝7年)、淮南国が廃止され、4郡は漢の直轄の郡になった。紀元前168年(文帝12年)、城陽王劉喜が淮南王となり、再び淮南国が置かれた。紀元前164年(文帝16年)、劉喜が城陽王に戻されると、淮南国は廃止され、廬江郡と豫章郡を管轄する廬江国が置かれ、淮南厲王劉長の子の陽周侯劉賜が廬江王とされた。紀元前153年(景帝4年)、廬江王劉賜が衡山王に改封され、廬江国は廃止されて、再び廬江郡と豫章郡が置かれた[4]。前漢の豫章郡は揚州に属し、南昌・廬陵・彭沢・鄱陽・歴陵・余汗・柴桑・艾・贛・新淦・南城・建成・宜春・海昏・雩都・鄡陽・南野・安平の18県を管轄した。王莽のとき、九江郡と改められた[1]。
後漢が建てられると、豫章郡の称にもどされた。後漢の豫章郡は南昌・建城・新淦・宜春・廬陵・贛・雩都・南野・南城・鄱陽・歴陵・余汗・鄡陽・彭沢・柴桑・艾・海昏・平都・石陽・臨汝・建昌の21県を管轄した[5]。
晋のとき、豫章郡は南昌・海昏・新淦・建城・望蔡・永修・建昌・呉平・豫章・彭沢・艾・康楽・豊城・新呉・宜豊・鍾陵の16県を管轄した[6]。
南朝宋のとき、豫章郡は江州に属し、南昌・新淦・豊城・建城・望蔡・呉平・永修・建昌・豫章・康楽・新呉・艾の12県を管轄した[7]。
南朝斉のとき、豫章郡は南昌・新淦・艾・建城・建昌・望蔡・新呉・永修・呉平・康楽・豫章・豊城の12県を管轄した[8]。
589年(開皇9年)、隋が南朝陳を滅ぼすと、豫章郡は廃止されて、洪州が置かれた。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、洪州が廃止されて豫章郡と改称された。豫章郡は豫章・豊城・建昌・建城の4県を管轄した[9]。
622年(武徳5年)、唐が林士弘を平定すると、豫章郡は洪州と改められ、豫章・豊城・鍾陵の3県を管轄した。742年(天宝元年)、洪州は豫章郡と改称された。758年(乾元元年)、豫章郡は洪州と改称され、豫章郡の呼称は姿を消した[10]。