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孫権が重体になると、[[前漢]]の[[呂雉|呂后]]が高祖([[劉邦]])の死後に[[称制]]した経緯を、人を遣って[[孫弘]]に質問し、[[垂簾聴政]]への意欲を見せたが、看病の疲れから自身も病になり衰弱し、[[神鳳 (呉)|神鳳]]元年(252年)2月には急死した。同年4月に孫権も崩御したため、共に陵へ合葬された。
孫権が重体になると、[[前漢]]の[[呂雉|呂后]]が高祖([[劉邦]])の死後に[[称制]]した経緯を、人を遣って[[孫弘]]に質問し、[[垂簾聴政]]への意欲を見せたが、看病の疲れから自身も病になり衰弱し、[[神鳳 (呉)|神鳳]]元年(252年)2月には急死した。同年4月に孫権も崩御したため、共に陵へ合葬された。


孫亮が即位すると、淑の姉の夫である譚紹を[[騎都尉]]に任用して兵権を与えた。[[太元 (呉)|太平]]三年([[258年]])孫亮が廃位させられ、譚紹は一族もろとも故郷の[[廬陵郡]]に左遷された。
孫亮が即位すると、淑の姉の夫である譚紹を[[騎都尉]]に任用して兵権を与えた。[[太元 (呉)|太平]]三年([[258年]])孫亮が廃位させられ、譚紹は一族もろとも故郷の[[廬陵郡]]に左遷された。

2020年9月15日 (火) 15:20時点における版

潘皇后
の皇后
『百美新詠図伝』
在位 251年5月 - 252年2月

全名 潘淑
死去 神鳳元年(252年
埋葬 蔣陵
配偶者 大帝
子女 廃帝
譚紹の妻
立后前身位 夫人
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潘 淑[1][2](はん しゅく、? - 252年)は、三国時代の大帝孫権の皇后。揚州会稽郡句章県(現在の浙江省寧波市江北区)の出身。父母の名は不明。呉の第2代皇帝である孫亮の母。

生涯

下級役人の娘として生まれた。父は法を犯して死刑になった。潘淑は姉とともに、連座して奴婢に落とされて織室に送り込まれた。機織などの雑用に従事し、この時孫権は彼女を一目見ると人並み外れたものを感じ取り、召し抱えて後宮へ入れた。孫権の幾人かの夫人の中で最も遅く参入した。

赤烏6年(243年)、孫亮(後の廃帝)を出産んだ。孫権は潘淑と孫亮母子を寵愛していた。赤烏13年(250年)11月、孫亮が皇太子に立てられると、姉を織室から解放して嫁に行かせてほしいと願い出て、孫権に許された。

孫権即位以降、皇后候補には徐夫人歩夫人袁夫人王夫人が挙がったものの、広く認められていなかった。太元元年(251年)5月に皇后に立てられた。徐夫人が廃されて以来、40年ぶりに立てられた正室である。その後、袁夫人ら後宮の多くの人を嫉妬して讒言した。

孫権が重体になると、前漢呂后が高祖(劉邦)の死後に称制した経緯を、人を遣って孫弘に質問し、垂簾聴政への意欲を見せたが、看病の疲れから自身も病になり衰弱し、神鳳元年(252年)2月には急死した。同年4月に孫権も崩御したため、共に蔣陵へ合葬された。

孫亮が即位すると、淑の姉の夫である譚紹を騎都尉に任用して兵権を与えた。太平三年(258年)孫亮が廃位させられ、譚紹は一族もろとも故郷の廬陵郡に左遷された。

逸話

拾遺記』には潘夫人が後宮に入ったという話が収録されている。

世に並ぶもののない美人であり、「江東の絶色」と賞される。哀愁に駆られご飯を食べられないため、細くて弱々しい体だったという。

はじめは織室に入り、織室の者から「神女」と呼ばれて敬遠された。この噂を聞いた孫権は潘氏の肖像画を所望して、そこで画家が写実的な姿を描いて献上する。孫権は見て「この子は確かに神女だ。たとえ憂色ても人の心を動かす。うれしそうな顔は言うまでもない」と言ってかわいがった。潘氏は孫権の後宮に入って夫人となった。

潘夫人は孫権の寵愛を受け、昭宣台への行幸に随行し、そのときに酒に酔ってルビーの指輪をザクロの枝に吊る。そして、あそこに建てる高楼は「榴環台」の名前をつけました。孫権とともに釣りをしていた際、より大きい魚を釣って喜ぶ孫権に対して、夫人は「憂えはいつも喜びに伴って生じた。今後も厳に慎むべきだ」と言ったという。孫権の末年まで、人々がお互いの悪口によって朝廷から追放されている。その後、先見の明がある人物として評価された。その釣台は東晋の時代まで残っていたという[3]

備考

  • 懐妊した際は誰かが龍の頭を自分に授けて、彼女自身がそれを受け取るという夢を見たという。こうして生まれたのが孫亮であった。
  • 立后の前年には仙人が書を授け、改年と立后のことを告げた。また崩御後は部将や官吏たちが王表という神のもとをおとずれて、福を祈ったと記されている。
  • 死因については諸説がある。一般的には昏睡の中で宮人や宮女たちによって縊殺され、急病で死んだことにされた。後に事実が判明すると、この件に関わったとして6・7人が死刑に処せられた。一方に胡三省は潘皇后は実際に権臣により暗殺されたと唱えている[4]
  • 仏祖統紀』によると武昌で仏教寺院の恵宝寺を建て、これは南朝梁の時代に有名になった。

三国志演義などでは

小説『三国志演義』では、孫権の第三子になった孫亮の母という設定になっている。

蔡東藩の小説『後漢演義』では、孫権は罪人の娘である潘氏を手に入れている。小柄で華奢な体型と温順な性格のため、孫権の寵愛を一身に受けたとされている。全公主と親交を結び、自らの子の孫亮を皇太子にするよう運動した。孫亮が皇太子に立てられた後、皇后に昇格された。以降、潘后は驕り高ぶり、宮女たちに疎まれ、暗殺された。孫権は潘皇后の死を深く悲しみ、彼女の殺害に加わった宮人たちを処刑して、間もなく死去したとなっている。

脚注

  1. ^ 文淵閣本『四庫全書』引『建康実録』卷2:皇后潘氏暴崩于内宮。后諱淑,会稽句章人。后自織室召入得幸。
  2. ^ 一説には諱が謹淑。光緒28年の文津閣本『四庫全書』の影印版から確認。「后謹淑」を「后諱淑」の誤字と見なす見解もある。
  3. ^ 『百美新詠』:満面啼痕涙不収,堪憐織室竟同幽。誰知感動君王處,就在圖中一點愁。
  4. ^ 資治通鑑』の注で、宮女の単純な行動としては不合理であると考えられている。潘皇后が幼帝の後見として必ず摂政を行い、その結果として権臣の利益が損なわれるのが予想され、それを防ぐために権臣が暗殺を画策した。

参考文献