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== 経歴 ==
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=== プロ入り前 ===
=== プロ入り前 ===
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[[大阪市立加賀屋中学校]]時代は成績優秀であったため、当初は[[大阪府立岸和田高等学校]]への進学を希望していた。しかし野球をしたいがために、途中で志望を変更し、最終的には{{by|1961年}}、[[大阪体育大学浪商中学校・高等学校|浪商高校]]に入学。1年次の同年は2年生エース・[[尾崎行雄 (野球)|尾崎行雄]]を擁して[[第43回全国高等学校野球選手権大会|夏の甲子園]]に出場し、準決勝では、甲子園で二度敗れている[[法政大学第二中・高等学校|法政二高]]と対戦。尾崎と法政二高のエース[[柴田勲]]との投げ合いとなり、延長11回の熱戦の末4-2で勝利。決勝では[[和歌山県立桐蔭中学校・高等学校|桐蔭高]]に苦戦するが1-0で降し優勝を飾る<ref name=sensyuken>「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年</ref>。この時のチームメートには、いずれも3年生の[[大塚弥寿男]]、[[住友平]]、[[大熊忠義]]が揃っていた。尾崎を擁し[[右翼手]]、三番打者として同年の秋季近畿大会府予選に出場。決勝で[[中塚政幸]]のいた[[PL学園中学校・高等学校|PL学園]]を破るが、直後の[[11月6日]]に尾崎は高校を中退しプロ入り、エースを失った浪商は近畿大会1回戦で[[滋賀県立水口高等学校|甲賀高]]に敗れた。その後は尾崎の後継として2年次の{{by|1962年}}から[[投手]]に回り、夏は[[全国高等学校野球選手権大阪大会|大阪大会]]準々決勝で[[溜池敏隆]]のいた[[興國高等学校|興国商]]に敗退<ref name=sensyuken />。3年次の{{by|1963年}}夏は大阪大会準決勝に進出するが、[[PL学園中学校・高等学校|PL学園]]の[[戸田善紀]]と投げ合い2-3で惜敗<ref name=sensyuken />、甲子園には届かなかった。子供の頃から[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]ファンであった高田は、高校在学中に南海・監督の[[鶴岡一人]]から、「内野手として採るから来て欲しい」と誘われる。しかし{{by|1964年}}、[[明治大学]]に進学。在学中は大学球界を代表する[[中堅手]]として活躍し、[[東京六大学野球連盟|東京六大学リーグ]]では優勝こそなかったものの、1年次の秋季リーグから7季連続ベストナインを受賞している。7度のベストナインは現在も六大学記録である。春に首位打者を獲得した2年次の{{by|1965年}}に[[マニラ]]で開催された[[第6回アジア野球選手権大会]](東京六大学選抜チームが日本代表)、主将となった4年次の{{by|1967年}}に[[東京都|東京]]で開催された[[第7回アジア野球選手権大会]]に連続出場、いずれも日本の優勝に貢献した。リーグ通算102試合に出場し、打率.331(384打数127安打)、5本塁打、29打点、48盗塁を記録<ref>『明治大学野球部 - 「人間力野球」の軌跡』([[ベースボール・マガジン社]])P19。 ISBN 978-4583621197</ref>。通算127安打は{{by|2015年}}に明大の後輩で左打者の[[山俊]]が更新するまで東京六大学記録であったが、右打者では現在も歴代最多である。


=== 現役時代 ===
=== 現役時代 ===

2020年11月15日 (日) 22:30時点における版

高田 繁
東京ヤクルトスワローズでの監督時代
(2009年12月9日)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府大阪市住之江区
生年月日 (1945-07-24) 1945年7月24日(78歳)
身長
体重
173 cm
70 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手三塁手
プロ入り 1967年 ドラフト1位
初出場 1968年4月6日
最終出場 1980年10月20日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

高田 繁(たかだ しげる、1945年7月24日 - )は大阪府大阪市住吉区(現・住之江区)出身の元プロ野球選手外野手内野手)・コーチ監督横浜DeNAベイスターズゼネラルマネージャーを経て、現在はディー・エヌ・エーのフェロー[1]

セ・リーグ初の外野手部門のダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)を受賞している。

経歴

プロ入り前

大阪市立加賀屋中学校時代は成績優秀であったため、当初は大阪府立岸和田高等学校への進学を希望していた。しかし野球をしたいがために、途中で志望を変更し、最終的には1961年浪商高校に入学。1年次の同年は2年生エース・尾崎行雄を擁して夏の甲子園に出場し、準決勝では、甲子園で二度敗れている法政二高と対戦。尾崎と法政二高のエース柴田勲との投げ合いとなり、延長11回の熱戦の末4-2で勝利。決勝では桐蔭高に苦戦するが1-0で降し優勝を飾る[2]。この時のチームメートには、いずれも3年生の大塚弥寿男住友平大熊忠義が揃っていた。尾崎を擁し右翼手、三番打者として同年の秋季近畿大会府予選に出場。決勝で中塚政幸のいたPL学園を破るが、直後の11月6日に尾崎は高校を中退しプロ入り、エースを失った浪商は近畿大会1回戦で甲賀高に敗れた。その後は尾崎の後継として2年次の1962年から投手に回り、夏は大阪大会準々決勝で溜池敏隆のいた興国商に敗退[2]。3年次の1963年夏は大阪大会準決勝に進出するが、PL学園戸田善紀と投げ合い2-3で惜敗[2]、甲子園には届かなかった。子供の頃から南海ホークスファンであった高田は、高校在学中に南海・監督の鶴岡一人から、「内野手として採るから来て欲しい」と誘われる。しかし1964年明治大学に進学。在学中は大学球界を代表する中堅手として活躍し、東京六大学リーグでは優勝こそなかったものの、1年次の秋季リーグから7季連続ベストナインを受賞している。7度のベストナインは現在も六大学記録である。春に首位打者を獲得した2年次の1965年マニラで開催された第6回アジア野球選手権大会(東京六大学選抜チームが日本代表)、主将となった4年次の1967年東京で開催された第7回アジア野球選手権大会に連続出場、いずれも日本の優勝に貢献した。リーグ通算102試合に出場し、打率.331(384打数127安打)、5本塁打、29打点、48盗塁を記録[3]。通算127安打は2015年に明大の後輩で左打者の髙山俊が更新するまで東京六大学記録であったが、右打者では現在も歴代最多である。

現役時代

大学進学後も南海が第一志望であったが[4]1967年のドラフト1位で読売ジャイアンツに入団。背番号は「8[5]。1年目の1968年は開幕2試合目から中堅手、一番打者として起用され、6月末には高倉照幸に代わり左翼手に定着。規定打席には届かなかったが打率.301、23盗塁を記録して新人王を獲得する。同年の阪急ブレーブスとの日本シリーズでは、全6試合に一番打者として出場、26打数10安打と活躍しシリーズ最優秀選手賞(MVP)を受賞する。1969年には打率.294(4位)の好成績で初のベストナイン(外野手)に選出された。1971年には38盗塁を記録し、柴田勲を抑え初の盗塁王となる。1973年南海ホークスとの日本シリーズでは第3戦で3安打、第4戦で3四球を選ぶなど活躍、シリーズ優秀選手賞を獲得した。俊足・強肩・強打と走攻守の三拍子揃った外野手として、V9時代の巨人を支える。しかし1975年は打撃の低迷に苦しみ、淡口憲治の台頭もあってシーズン後半には出場機会が減る。

同年オフには日本ハムファイターズから張本勲が移籍入団。張本が左翼手を希望したこともあり、監督の長嶋茂雄に三塁手へのコンバートを通告される[6][7]。これによって長嶋の後継三塁手として前年に獲得したデービー・ジョンソンの守備負担を軽減するため、本来の守備位置である二塁手に回す構想も実現する。高田が日本プロ野球で初めて外野手から内野手(一塁手を除く)に守備をコンバートされた選手と言われることもあるが、実際には丸山完二苑田聡彦上垣内誠等の例がある。

正月返上の猛特訓で三塁守備をものにし、1976年開幕から三塁手として定着。内野手にコンバートされた1年目にも関わらず、打率.305(10位)の好成績(規定打席以上としては生涯唯一の3割)を残し、ダイヤモンドグラブ賞を外野手に続いて獲得した[8]。外野手・内野手両方での受賞経験は史上初だった。後に西村徳文も内野手→外野手で受賞するが、外野手→内野手の順での受賞は2012年に稲葉篤紀一塁手として受賞するまで唯一の存在であった。同年の阪急ブレーブスとの日本シリーズでは、最終第7戦で足立光宏から本塁打を放つ。翌1977年の阪急ブレーブスとの日本シリーズは全5試合とも安打を記録し、20打数6安打の好成績を残した。

1979年までレギュラーを守るが、1980年には中畑清に定位置を譲り、主に左翼手として出場。自身初のリーグ最多犠打を記録する。同年10月に長嶋の監督解任があり、高田も守備の衰えを感じたという理由(打撃成績も前年から大きく落としていた)で、35歳の若さで現役引退を決める。引退セレモニーは同年オフの巨人ファン感謝デーにて王貞治と共に行った。

現役引退後

日本ハム監督

引退後はNHK野球解説者(1981年 - 1984年)を経て、1985年から1988年まで日本ハムファイターズの監督を務めた。初年度は総得点が総失点を上回った歴代のチームの中では史上最低の勝率(.449)を記録したこともあったが、1987年からの2年間でAクラスを確保した。勝率は負け越しており、ずば抜けた実績は残していないが、恵まれていないチーム戦力で、この間、後の“ミスターファイターズ”田中幸雄を見出し、レギュラーに育て上げている。また津野浩西崎幸広松浦宏明など1990年前後のファイターズを支えた主力投手が台頭したのもこの時期である。ちなみに二軍投手コーチだった村上雅則は、松浦を一軍に送り出したことを球団常務の大沢啓二に評価され1987年オフに一軍投手コーチへの配置転換の話が出たが、高田が村上の一軍コーチ加入を拒否したため、二軍コーチで留任することになった[9]

巨人コーチ・二軍監督

退任後は再びNHKの野球解説者(1989年 - 1991年)を務め、1992年に古巣・巨人のヘッドコーチとなったが、藤田元司の監督退任に伴い1年で退団。その後は日本テレビラジオ日本野球解説者(1993年 - 1995年)を経て、巨人に復帰。一軍外野守備・走塁コーチ(1996年 - 1997年)、二軍監督(1998年 - 2001年)を務めた。その後はラジオ日本野球解説者(2002年 - 2004年)を務めた。

日本ハムGM

2005年から2007年にかけて、北海道日本ハムファイターズゼネラルマネージャー(GM)を務めた。

2006年にチームは日本シリーズを制し、アジアシリーズでも優勝。アジア一を経験した日本初のGMとなった。翌2007年も日本ハム初のパ・リーグ連覇を達成している。編成権を握るチーム統括部などと積極的に会議を繰り返し、現場経験者としての貴重なアドバイスを送り、就任初年度はチーム遠征にも同行した。こうしたフロント改革の成果として、日本ハム優勝の一つの力となった、社長の藤井純一とチーム統括本部長の島田利正が運用の「選手評価システム」が挙げられる。2005年・2006年のドラフトで獲得したルーキー投手(武田勝吉川光夫木下達生ら)の活躍も話題になっている。

日本ハムGM職初仕事となったダルビッシュ有の入団交渉に際しては、ダルビッシュの母が現役時代の高田の熱烈なファンであったため、指名の挨拶の斬込み役として交渉をスムーズにしたといわれる。MLBを目指してFA宣言した稲葉篤紀を、アメリカ球界からのオファー切れを待つ姿勢を見せて招聘したときも、交渉役を務めている。

ヤクルト監督

2008年より、東京ヤクルトスワローズの監督に就任。背番号は現役時代の番号を重ね合わせた88

2007年 - 2008年シーズンオフに神宮球場が拡張工事されたことで、3億と高年俸に加え守備に難のある主砲アレックス・ラミレスを放出。高田率いるヤクルトは機動力を重視し、スモールベースボールを掲げた(球場の特性や主軸の流出からスモールボールに切り替えるパターンは、日本ハムのパターンと似ている)。かつてGMだった日本ハムから川島慶三押本健彦橋本義隆萩原淳が移籍。韓国からは林昌勇ダニエル・リオスをそれぞれ獲得するなど積極的な補強・選手の入れ替えを行った。また俊足の福地寿樹、巨人を戦力外通告された斉藤宜之を獲得した。

2008年シーズンは福地がリードオフマンとして活躍。またチーム事情で三塁手だった飯原誉士が本職の左翼手に収まり躍進。空いた三塁にはチームリーダーで名手の宮本慎也がコンバートされ、遊撃には宮本の後継者として期待する川島慶三が積極的に試用された。一塁には中盤以降ファームの主砲畠山和洋が起用され結果を残した。福地が42盗塁を記録、盗塁王を獲得したのをはじめ、青木宣親、飯原誉士、川島慶三などの選手が積極的に盗塁することでチーム盗塁数が12球団最多の148を記録。投手陣は前年の勝ち頭セス・グライシンガーが退団、巨人へ移籍。獲得した外国人選手も林昌勇を除き活躍しなかったが、前年壊滅状態だった投手スタッフが積極的なメンバー入れ替え、村中恭兵押本健彦松岡健一など若手の台頭で整備されたことでチーム防御率も3点台に回復、最下位を脱出し5位となったが、中継ぎ左腕不在に泣いた。この盗塁、ヒットエンドラン、バントなどを積極的に多用し、終盤まで中日ドラゴンズ広島東洋カープクライマックスシリーズ進出争いをしていたが、終盤に大型連敗したことで最終的に5位となった。

2009年も積極的に補強に乗り出し、12球団合同トライアウトで中日から森岡良介、ソフトバンクから吉本亮、オリックスから田中祐貴を獲得し、また球団史上初のFA補強選手として横浜から相川亮二を獲得、外国人も韓国から補強ポイントだった左腕の李惠踐、おなじく左腕のリッキー・バレット、野手では長打力強化のためにジェイミー・デントナを獲得、さらに開幕直前に楽天から一場靖弘宮出隆自とのトレードで獲得した。シーズンではチームを3年ぶりのAクラス入りへ導いた。

2010年は開幕当初は3カード連続勝ち越しと上々のスタートを見せたが、4月中旬以降になり急激に失速。連勝すら挙げられなくなる。5月にセ・パ交流戦が始まってからは全く勝てなくなり、球団に進退伺いを出す事態となる。6連敗となった5月20日、球団から慰留を受け一度は辞任を思い留まるものの、その後も2連敗。5月23日にはテコ入れとして、打撃アドバイザーに伊勢孝夫を招聘。5月26日には一部メディアで「辞任」と報じられる。本人は一旦は否定したものの、同日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦(神宮球場)でも敗れ、9連敗となる。試合後、改めて辞任を申し出て了承された[10]。ここまで13勝32敗1分の借金19で、リーグ最下位。特に4月24日以降は、2勝20敗と大きく負け越した。後任には、ヘッドコーチの小川淳司がシーズン終了まで監督代行を務めることとなった[11]。連敗に業を煮やした少年ファンから「高田、やめちまえ」と罵声を浴びたことが、最終的に辞任に踏み切らせたという[12][13]

退任後、2011年には日刊スポーツの野球評論家、テレビ北海道GAORAプロ野球中継の野球解説者を務めていた。

DeNA・GM

2011年12月5日横浜DeNAベイスターズがゼネラルマネージャー(GM)を新設したのに伴い、その初代GMに正式に就任[14]。なお同日の就任会見の席で、監督就任を要請していた工藤公康の起用を断念したことを発表した[15]。DeNAが監督就任を要請をしていた工藤公康の条件が厳しくて難しいかなと思っていたところ、中畑清のことが頭に浮かび、高田家の庭になっていた甘柿を切ってママチャリに乗ってジーパン姿で中畑家に行き、中畑に『工藤の条件が厳しくて、もし破断になったら監督をやってみる気はあるか?でも、保険なんだけどな』と言い、返事もまともに聞いてなてのに次の日に中畑DeNA初代監督就任決定と出した。中畑「今考えれば、あの甘柿が契約金だった」[16]

スカウト陣を駆使して三嶋一輝三上朋也山﨑康晃関根大気等をドラフトで獲得するかたわら、それまでチームの中心選手だった金城龍彦らベテランを放出し若手重視の編成を行った。2015年には梶谷隆幸筒香嘉智らを主力に成長させた。

2015年10月、最下位となった責任をとり中畑が監督を辞任したため、2011年12月 - 2013年10月にベイスターズに選手として所属していたアレックス・ラミレスを一軍監督に抜擢した[17]

高浦美佐緒(2012年 - 2014年二軍バッテリーコーチ)は「高田さんがGMになってやりやすくなった。若い選手を使うようになった。竹田(光訓…ファームディレクター・GM補佐)が厳しい目で選手を見極めそれを高田さんに推薦し一軍に上げて監督に使うように促してくれる。一軍は実績のある選手を使いたがる傾向がありますが今は違います。高田さんから怒鳴る指導は辞めてくれと言われています。選手がやりやすい環境を作ってくれています」と語っている[18]

2018年10月11日、球団から退任が発表された[1]。25日に行われたドラフト会議では、1位指名がオリックス・ソフトバンク・広島と競合した小園海斗の抽選でくじ引きの場に立ったが外し、球団は上茶谷大河を獲得した。

選手としての特徴

打撃

大学時代から両拳を離してバットを握る独特のスタイル。そのためバットのヘッドが返ることでレフト線への強烈な打球がしばしばファウルになり、「高田ファウル」と名付けられるほどの極端な引っ張りが特徴で、当時の打撃コーチだった荒川博は打球の方向を修正するためにかなり苦心したが、結局直らなかったという。荒川は高田について「言われたことは何でも『ハイ!』と素直に聞いてくれたが、試合になると結局元に戻っていた。もしかしたら守備に比べたら、あまりまじめに取り組んでいなかったんじゃないかな」と述懐している。また荒川は「もし矯正できていれば、コンスタントに年間30本塁打できる選手になれた」とも語っている。

打席ではファウルを連発し、よく粘ることで相手ピッチャーの投球数を稼がせるのが常套手段であった(そのとき観客からは、1回のファウル毎に溜め息をつかれることがしばしばあった)。

守備

上述のとおり、大学時代は強肩俊足の中堅手として高く評価されていたが、巨人では柴田勲が不動のレギュラーとして存在しており、左翼手への転向を余儀なくされた。そのような経緯にもかかわらず、高田はプロ野球史上でも屈指の名左翼手の呼び声が高い。中でも外野フェンスに当たった打球がどのようにはね返るかを正確に先読みし、本来なら二塁打となる当たりを単打にとどめてしまうというプレーを得意としたことから「壁際の魔術師」と呼ばれた。どの球場においても三塁線を抜いた打球が左翼フェンスのどこに当たり、どの角度で跳ね返るかを把握していた。そしてゴロを捕球した際、今度は二塁ベースがどこにあるか把握できており、目をつぶっても送球できたという。

また、クッションボールの正確な処理もさることながら高田自身は「クッションに入れないことを第一に考えた」と語っており、打者のスイングから打球の方向を見極め、常に打球への最短距離を走るように努めたという。その守備範囲の広さ、打球への反応の速さは長嶋茂雄に「オレの後ろにもう一人三塁手がいたようなもの」と言わしめた。ある試合で、田淵幸一の打ち返した打球が長嶋がファウルだと思うほどのライン際で、長嶋が「ファウルだファウルだ」とアピールする中、高田がこの打球を素早く処理し田淵を二塁アウトにし、長嶋が一転して「やっぱりフェア、アウトアウト」とアピールし直したこともあるという。このプレーは田淵も覚えており、「いくら僕が足が遅いといったって、あれは完全な二塁打コース。あれで高田さんに逆らうのはやめよう(一塁にとどまろう)と思った」と語っている。

高田を内野手に転向させたのは長嶋茂雄だが、その長嶋自身が「高田の魅力は内野手より外野手でしょう」と語っている[19]

1980年に引退した際、「イメージと捕球位置との間、20cmぐらいの誤差が出るようになりました。プロとしては失格ですよ」と述べている。

評価

当時の巨人はV9時代であり、レギュラーもほとんどが固定している中で、高田は厳しい競争を勝ち抜いてレギュラーを勝ち取った。その一方で選手からの信望も厚かったという。当時監督の川上哲治は、高田について「実にスマートな生き方をした選手。自分勝手に気ままにやりながら誰からも憎まれも嫌われもせず、逆に良く好かれていた。努力も相当したんだろうけど、彼には努力の跡はまるで感じられず、ただ良い選手だったという事だけが強く残っている」と語っている。

人物

大学時代は、明治の「御大」こと監督の島岡吉郎にもっとも可愛がられた優等生であった。主将を務めていた時期も、鉄拳制裁を辞さないスパルタ教育で知られた島岡に、一度も殴られなかったという。一方、高田自身は、荒くれ者揃いで知られる浪商高出身であるからか、紳士的な外見からは想像できないほどの武闘派であった。大学の1年後輩であり乱闘で有名な星野仙一にとって、頭の上がらない人物の一人であり、ある番組で星野は「高田さんを温厚そうに見えるなんてとんでもない。本当の高田さんを知らないだけだよ」と笑いながら言った。

1976年には、巨人に移籍してきた張本勲に対して「巨人では俺の方が先輩」という理由で対等に口をきいた(張本は高田の出身校・浪商高の大先輩にあたり、また当時パ・リーグの暴れ者として知られた日本ハムの中でも、特に一目置かれる存在であった)。高田の芯の強さ、気の強さを示すエピソードの一つである。

近眼で、大学時代からコンタクトレンズを愛用していた。しかし目が悪いことを誰にも話しておらず、周囲の人間はもちろん、寮で同室だった星野や、キャプテン時代ほとんど行動を共にしていた島岡もそのことを知らなかった。卒業直前、何気なくコンタクトを外した高田を見た島岡から「いつからコンタクトをはめていた?」の問いに「大学1年の春からです」と答え、これを聞いた島岡は驚きのあまり座っていた椅子から転げ落ちたという。

近年では、カラフルなグローブを利用する選手も多く見られるが、1970年代後半期においては茶色のグラブ以外を使う選手はまずいなかった。そのようななか、高田は青いグラブを愛用しており、アドバイザリースタッフ契約しているミズノ(当時は美津濃スポーツ)では“高田モデル”という青のグラブが大変人気があった。手袋も青いものを使用して、同時期に活躍した赤い手袋の柴田勲と対称的な人気があった。

1993年、皇太子徳仁親王と小和田雅子の婚約がメディアで報道された際、小学生時代の雅子が高田のファンであったと紹介された。その際、テレビの画面がいきなり高田の顔写真に切り替わったのを当時テレビで見ていた高田本人は「いきなり自分の顔が出たので『な、な、なんだ?』とびっくりしました。でもほんとうにおめでとうございます」とコメントした。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1968 巨人 120 404 346 75 104 19 9 9 168 30 23 7 10 1 35 0 12 60 1 .301 .383 .486 .869
1969 120 525 462 70 136 23 3 12 201 46 12 12 6 5 37 0 15 67 4 .294 .362 .435 .797
1970 130 569 519 85 136 24 0 10 190 26 24 5 2 1 41 1 6 45 3 .262 .323 .366 .689
1971 127 535 477 74 129 26 2 11 192 51 38 8 14 3 33 1 8 42 5 .270 .326 .403 .729
1972 128 557 488 84 137 19 3 19 219 62 19 10 8 2 52 1 7 34 10 .281 .357 .449 .806
1973 121 428 375 67 94 18 1 14 156 42 18 1 14 5 30 0 4 34 6 .251 .309 .416 .725
1974 121 374 333 53 84 10 2 12 134 30 9 9 2 2 31 0 6 33 4 .252 .325 .402 .728
1975 123 386 332 49 78 16 3 6 118 31 9 3 8 3 36 0 7 41 6 .235 .320 .355 .676
1976 118 492 430 84 131 22 3 13 198 58 17 2 25 3 28 1 6 24 7 .305 .353 .460 .814
1977 127 554 473 81 140 22 2 17 217 65 11 6 32 6 40 1 3 42 6 .296 .351 .459 .809
1978 100 411 349 48 97 15 2 5 131 31 11 3 17 4 38 1 3 25 4 .278 .350 .375 .726
1979 96 355 316 48 87 10 2 8 125 21 6 3 12 1 23 0 3 33 5 .275 .329 .396 .725
1980 81 209 164 20 31 5 0 3 45 6 3 2 22 2 17 0 4 14 6 .189 .278 .274 .552
通算:13年 1512 5799 5064 838 1384 229 32 139 2094 499 200 71 172 38 441 6 84 494 67 .273 .339 .414 .753
  • 各年度の太字はリーグ最高

通算監督成績

年度 球団 順位 試合[20] 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1985年 日本ハム 5位 130 53 65 12 .449 23.0 169 .265 4.36 40歳
1986年 5位 130 57 65 8 .467 13.5 151 .262 4.10 41歳
1987年 3位 130 63 60 7 .512 11.5 128 .259 3.96 42歳
1988年 3位 130 62 65 3 .488 12.5 101 .245 3.12 43歳
2008年 ヤクルト 5位 144 66 74 4 .471 17.5 83 .266 3.75 63歳
2009年 3位 144 71 72 1 .497 22.0 116 .259 3.97 64歳
2010年[21] [22] 46 13 32 1 .289
通算:7年 854 385 433 36 .471 Aクラス3回 Bクラス3回

獲得タイトル

表彰

記録

初記録
節目の記録
その他の記録

背番号

  • 8 (1968年 - 1980年)
  • 80 (1985年 - 1988年)
  • 72 (1992年)
  • 78 (1996年 - 2001年)
  • 88 (2008年 - 2010年)

※上記はいずれも公式試合の記録

関連情報

解説者としての出演番組

ゲスト出演

漫画・アニメ

ドラマ出演

脚注

  1. ^ a b 高田繁GM 退任のお知らせ横浜DeNAベイスターズ、2018年10月11日掲載
  2. ^ a b c 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  3. ^ 『明治大学野球部 - 「人間力野球」の軌跡』(ベースボール・マガジン社)P19。 ISBN 978-4583621197
  4. ^ 小学館『サライ』2010年10月号
  5. ^ 巨人でこの背番号は、高田から続く3人が連続して新人王を獲得している。ちなみに2人目は、高田が現役引退した翌1981年入団の原辰徳で、3人目は原が引退した翌1996年入団の仁志敏久である。余談だが、この背番号から新人王が出た年に巨人はリーグ優勝を達成している(高田と原の時は日本一も達成)。
  6. ^ 張本の入団で高田は球団にトレードを志願した。しかし長嶋に慰留され、加えて守備位置変更を要請された。
  7. ^ 高田繁、長嶋監督に呼び出され…トレード覚悟
  8. ^ 【11月15日】1975年(昭50) サード・高田繁デビュー 長嶋監督「去年までのサードよりうまい」
  9. ^ スポーツニッポン2016年7月30日付連載記事「我が道」より、村上談。一軍投手コーチは、阪神へ移籍した大石清の後任として中日スカウトだった高橋良昌を招聘。
  10. ^ ヤクルト・高田監督が成績不振を理由に辞任 - サンケイスポーツ 2010年5月26日
  11. ^ シーズン終了後に正式に監督に就任、2014年まで指揮を執った。
  12. ^ 「やめちまえ」少年ファンの声に戦意喪失 ヤクルト・高田監督 - 朝日新聞 2010年5月26日
  13. ^ 高田繁、朝の4時過ぎまで眠れなかった監督時代 - サンスポ 2015年4月23日
  14. ^ “高田GM就任を発表…横浜DeNA”. スポーツ報知. (2011年12月5日). http://hochi.yomiuri.co.jp/baseball/npb/news/20111205-OHT1T00172.htm [リンク切れ]
  15. ^ “横浜が工藤氏の監督起用断念”. 毎日新聞. (2011年12月5日). http://mainichi.jp/enta/sports/news/20111205k0000e050179000c.html?inb=fs 
  16. ^ https://www.youtube.com/watch?v=YAvbo8Hvb7M&t=320s
  17. ^ 『プロ野球ロワイヤル』配信直前記念! プロデューサー馬場保仁氏 × 横浜DeNAベイスターズGM高田繁氏インタビュー【前編】
  18. ^ 野球太郎 No.025 2017ドラフト総決算&2018大展望号 (廣済堂ベストムック 375)、廣済堂出版、52頁
  19. ^ 文春Numberビデオ「巧守好走列伝」
  20. ^ 1985年から1996年までは公式試合130試合制、2007年から2014年までは144試合制
  21. ^ 開幕から5月26日まで
  22. ^ 辞任した5月26日時点では最下位。最終的には4位

関連項目

外部リンク