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'''衛 覬'''(えい き、? - [[230年]])は、[[中国]][[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]の政治家・学者・文化人。[[字]]は'''伯覦'''<ref>『華芳墓誌』,『三国志』では伯儒</ref>。[[司隷]]河東郡安邑県([[山西省]][[夏県]])の人。子は[[衛カン|衛瓘]]・衛寔(字は叔始)。孫は衛恒。曾孫は衛&#29600;。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』[[魏 (三国)|魏]]志21巻に伝がある。
'''衛 覬'''(えい き、? - [[230年]])は、[[中国]][[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]の政治家・学者・文化人。[[字]]は'''伯覦'''<ref>『華芳墓誌』,『三国志』では伯儒</ref>。[[司隷]]河東郡安邑県([[山西省]][[夏県]])の人。子は[[衛瓘]]・衛寔(字は叔始)。孫は衛恒。曾孫は衛&#29600;。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』[[魏 (三国)|魏]]志21巻に伝がある。


若くして頭角を現し[[曹操]]に登用され、茂陵[[県令|令]]・[[尚書]]郎となった。曹操は[[袁紹]]と対立すると、[[荊州]]の[[劉表]]が気がかりであったため、[[益州]]の[[劉璋]]に使者を送り牽制させようとし、その使者に衛覬を選んた。治書[[侍御史]]に任命された衛覬は、[[長安]]まで来たところで益州への道が途絶していることを知り、そのまま[[関中]]に留まった。また関中の荒廃を見て、[[荀彧]]に手紙を送り復興を提言し、曹操の了承を得て整備に尽力した。民力の充実を第一にしたため、関中の軍事的な安定の確立を目指す[[鍾繇]]とは、対立することもあった。衛覬伝に引く『魏書』によると、衛覬は鍾繇のやり方が関中の諸将の疑惑を招く危険を警告した。後に潼関の[[戦い]]における曹操軍の戦死者が5桁にのぼったことから、曹操に衛覬の策をとらなかったことを深く悔い、いっそう尊重されるようになったという。
若くして頭角を現し[[曹操]]に登用され、茂陵[[県令|令]]・[[尚書]]郎となった。曹操は[[袁紹]]と対立すると、[[荊州]]の[[劉表]]が気がかりであったため、[[益州]]の[[劉璋]]に使者を送り牽制させようとし、その使者に衛覬を選んた。治書[[侍御史]]に任命された衛覬は、[[長安]]まで来たところで益州への道が途絶していることを知り、そのまま[[関中]]に留まった。また関中の荒廃を見て、[[荀彧]]に手紙を送り復興を提言し、曹操の了承を得て整備に尽力した。民力の充実を第一にしたため、関中の軍事的な安定の確立を目指す[[鍾繇]]とは、対立することもあった。衛覬伝に引く『魏書』によると、衛覬は鍾繇のやり方が関中の諸将の疑惑を招く危険を警告した。後に潼関の[[戦い]]における曹操軍の戦死者が5桁にのぼったことから、曹操に衛覬の策をとらなかったことを深く悔い、いっそう尊重されるようになったという。

2021年3月22日 (月) 03:34時点における版

衛 覬(えい き、? - 230年)は、中国後漢末期から三国時代の政治家・学者・文化人。伯覦[1]司隷河東郡安邑県(山西省夏県)の人。子は衛瓘・衛寔(字は叔始)。孫は衛恒。曾孫は衛玠。『三国志志21巻に伝がある。

若くして頭角を現し曹操に登用され、茂陵尚書郎となった。曹操は袁紹と対立すると、荊州劉表が気がかりであったため、益州劉璋に使者を送り牽制させようとし、その使者に衛覬を選んた。治書侍御史に任命された衛覬は、長安まで来たところで益州への道が途絶していることを知り、そのまま関中に留まった。また関中の荒廃を見て、荀彧に手紙を送り復興を提言し、曹操の了承を得て整備に尽力した。民力の充実を第一にしたため、関中の軍事的な安定の確立を目指す鍾繇とは、対立することもあった。衛覬伝に引く『魏書』によると、衛覬は鍾繇のやり方が関中の諸将の疑惑を招く危険を警告した。後に潼関の戦いにおける曹操軍の戦死者が5桁にのぼったことから、曹操に衛覬の策をとらなかったことを深く悔い、いっそう尊重されるようになったという。

その後、中央に召還され、官職は尚書にまで昇った。朝廷の古い慣例に詳しいという才を買われ、王粲と共に魏国体制の基礎を築く作業を行なった。曹操が没すると、魏への禅譲の道を開く作業に尽力し、功績があった。

曹丕(文帝)の時代も尚書・陽吉亭侯となり活躍し、曹叡(明帝)の時代には閿郷侯となって、領邑600戸を得た。また法の整備を提言し、功績があったという。

230年に没し、敬侯と号された。子の衛瓘が爵位を継いだ。『魏官儀』など著作を多く残し、西晋の時代には文筆家として著名を馳せた。また、書体にも精通していたため、後世の書道の世界でも名を知られるようになった。

出典

  1. ^ 『華芳墓誌』,『三国志』では伯儒