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「彭城郡」の版間の差分

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== 概要 ==
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[[紀元前201年]]([[前漢]]の[[劉邦|高帝]]6年)、[[劉交]]が楚王となり、彭城郡・[[東海郡]]・[[薛郡]]の36県を封領とする'''楚国'''が置かれた<ref>『[[漢書]]』高帝紀下</ref>。[[紀元前69年]]([[地節]]元年)、楚王[[劉延寿]]が自殺すると、楚国が廃止されて、彭城郡が置かれた<ref>『漢書』宣帝紀</ref>。[[紀元前51年]]([[甘露 (漢)|甘露]]3年)、定陶王[[劉囂]]が楚王に徙封され、再び楚国が立てられた。楚国は[[徐州]]に属し、[[銅山区|彭城]]・[[留県|留]]・[[杜集区|梧]]・[[エキ城区|傅陽]]・[[呂県|呂]]・[[邳州市|武原]]・[[ヨウ橋区|甾丘]]の7県を管轄した。[[王莽]]のとき、和楽郡と改められた<ref>『漢書』地理志下</ref>。
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[[後漢]]が建国されると、'''楚郡'''と改称された。[[39年]]([[建武 (漢)|建武]]15年)に[[劉英 (後漢)|劉英]]が楚公となり、[[41年]](建武17年)に楚王となって、再び楚国が立てられた<ref>『[[後漢書]]』光武十王列伝</ref>。[[70年]]([[永平 (漢)|永平]]13年)、楚王劉英が反乱を計画した罪で廃位されると、楚国が廃止されて、楚郡が置かれた<ref>『後漢書』顕宗紀</ref>。[[88年]]([[章和 (漢)|章和]]2年)、六安王[[劉恭 (彭城王)|劉恭]]が彭城王に徙封され、楚郡は'''彭城国'''と改められた<ref>『後漢書』孝和孝殤帝紀</ref>。彭城国は彭城・武原・傅陽・呂・留・梧・甾丘・[[微山県|広戚]]の8県を管轄した<ref>『後漢書』郡国志三</ref>。
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2021年6月23日 (水) 01:24時点における版

彭城郡(ほうじょう-ぐん)は、中国にかつて存在した漢代から唐代にかけて、現在の江蘇省徐州市および安徽省淮北市にまたがる地域に設置された。

概要

紀元前201年前漢高帝6年)、劉交が楚王となり、彭城郡・東海郡薛郡の36県を封領とする楚国が置かれた[1]紀元前69年地節元年)、楚王劉延寿が自殺すると、楚国が廃止されて、彭城郡が置かれた[2]紀元前51年甘露3年)、定陶王劉囂が楚王に徙封され、再び楚国が立てられた。楚国は徐州に属し、彭城傅陽武原甾丘の7県を管轄した。王莽のとき、和楽郡と改められた[3]

後漢が建国されると、楚郡と改称された。39年建武15年)に劉英が楚公となり、41年(建武17年)に楚王となって、再び楚国が立てられた[4]70年永平13年)、楚王劉英が反乱を計画した罪で廃位されると、楚国が廃止されて、楚郡が置かれた[5]88年章和2年)、六安王劉恭が彭城王に徙封され、楚郡は彭城国と改められた[6]。彭城国は彭城・武原・傅陽・呂・留・梧・甾丘・広戚の8県を管轄した[7]

三国時代のとき、曹據が彭城王に封じられ、彭城国が置かれた[8]

西晋が建国されると、司馬権が彭城王に封じられ、彭城国が置かれた[9]。彭城国は彭城・留・広戚・傅陽・武原・呂・梧の7県を管轄した[10]

南朝宋のとき、彭城郡は彭城・呂・・留の5県を管轄した[11]

北魏のとき、彭城郡は彭城・呂・薛・留・睢陵の6県を管轄した[12]

583年開皇3年)、が郡制を廃すると、彭城郡は廃止されて、徐州に編入された。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、徐州は彭城郡と改称された。彭城・穀陽・留・・蕭・蘭陵符離方与の11県を管轄した[13]

621年武徳4年)、唐が王世充を降すと、彭城郡は徐州と改められ、徐州総管府が置かれた。742年天宝元年)、徐州は彭城郡と改称された。758年乾元元年)、彭城郡は徐州と改称され、彭城郡の呼称は姿を消した[14]

脚注

  1. ^ 漢書』高帝紀下
  2. ^ 『漢書』宣帝紀
  3. ^ 『漢書』地理志下
  4. ^ 後漢書』光武十王列伝
  5. ^ 『後漢書』顕宗紀
  6. ^ 『後漢書』孝和孝殤帝紀
  7. ^ 『後漢書』郡国志三
  8. ^ 三国志』武文世王公伝
  9. ^ 晋書』世祖紀
  10. ^ 『晋書』地理志下
  11. ^ 宋書』州郡志一
  12. ^ 魏書』地形志二中
  13. ^ 隋書』地理志下
  14. ^ 旧唐書』地理志一