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「中川郡 (十勝国)」の版間の差分

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2021年9月6日 (月) 03:35時点における版

北海道十勝国中川郡の位置(1.幕別町 2.池田町 3.豊頃町 4.本別町 薄緑:後に他郡から編入した区域 薄黄:後に他郡に編入された区域)

中川郡(なかがわぐん)は、北海道十勝国十勝総合振興局

人口40,181人、面積1,778.05km²、人口密度22.6人/km²。(2024年11月30日、住民基本台帳人口)

以下の4町を含む。

郡域

1879年明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、概ね上記4町から幕別町の一部(忠類各町)、豊頃町の一部(湧洞・長節・大津・打内および大津各町)を除き、下記を加えた区域にあたる。

  • 帯広市の一部(桜木町・以平町および泉町の一部)
  • 河西郡中札内村の一部(元更別・上札内・南札内の各一部)
  • 河西郡更別村の一部(上更別・更南・勢雄および更別・弘和の一部)
  • 河東郡音更町の一部(長流枝・長流枝幹線ほか概ね士幌川流域[1]
  • 河東郡士幌町の一部(下居辺および概ね士幌川流域[1]
  • 河東郡上士幌町の一部(概ね居辺東[1]
  • 足寄郡足寄町の一部(概ね利別川以西および平和・共栄町・上利別・上利別本町・大誉地)
  • 足寄郡陸別町の一部(トマム)

歴史

郡発足までの沿革

江戸時代の中川郡域は、松前藩によって開かれたトカチ場所に含まれた。中川郡北部(現在の足寄郡足寄町利別川以西に相当)にある芽登温泉蝦夷の人々の間では古くから知られていた。

江戸時代後期、中川郡域は東蝦夷地に属していた。国防のため寛政11年中川郡域は天領とされたが、文政4年には一旦松前藩領に復した。安政2年中川郡域は再び天領となり仙台藩が警固をおこない、同6年以降は仙台藩領となった(6藩分領)。戊辰戦争箱館戦争)終結直後の1869年大宝律令国郡里制を踏襲して中川郡が置かれた。郡名の決める際に松浦武四郎は当郡を「下川郡」と命名し、開拓使公文録でも「下川郡」であったが、その後現在の中川郡に変更されている。変更の経緯は明らかになっていない。十勝国では、他にも現在の上川郡十勝郡で郡名が変更されている。

郡発足以降の沿革

北海道一・二級町村制施行時の中川郡の町村(4.凋寒村 5.豊頃村 6.幕別村 7.本別村 桃:幕別町 橙:豊幌町 緑:足寄郡足寄町 青:区域が発足時と同じ町村および合併を経ていない町村)

行政

浦河郡外十郡長
釧路郡外十一郡長
釧路郡外十郡長
釧路郡外十二郡長
河西郡外五郡長
氏名 就任年月日 退任年月日 備考
1 吉田直太郎[3] 明治30年(1897年)7月 明治30年(1897年)11月5日 河西郡外五郡役所を廃し河西支庁を置く

脚注

  1. ^ a b c 相次ぐ町名変更のため、公開資料を用いての境界線の比定は難しい。
  2. ^ 現在の湧洞・長節・旅来・大津・打内および大津各町。
  3. ^ 千枝 1925, 14頁.

参考文献

関連項目