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「PlayStation (ゲーム機)」の版間の差分

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: PS規格のCD-ROMは一般的な音楽CDやCD-ROMメディアとは異なり、記録面の樹脂が黒く着色されていることが特徴である{{Efn|厳密には、光を透かすと濃い青色に見える}}。この黒い樹脂の光学的な特性自体は通常の音楽CDやCD-ROMメディアと相違ないものであり、例えばBGMをCD音源として収録しているタイトルのディスクならば、楽曲収録トラックを通常のCDプレーヤーでも再生することが可能である。
: PS規格のCD-ROMは一般的な音楽CDやCD-ROMメディアとは異なり、記録面の樹脂が黒く着色されていることが特徴である{{Efn|厳密には、光を透かすと濃い青色に見える}}。この黒い樹脂の光学的な特性自体は通常の音楽CDやCD-ROMメディアと相違ないものであり、例えばBGMをCD音源として収録しているタイトルのディスクならば、楽曲収録トラックを通常のCDプレーヤーでも再生することが可能である。
: 開発時には通常のCD-ROMのままでCDマットを付ける事が検討されていたが、久夛良木のコストカット路線により、CDマットをやめ、記録面の色を変えるという方向に落ち付いた{{Sfn|麻倉|1998|p={{要ページ番号|date=2021年3月}}}}。記録面を黒いものとする導入当初の目的は、正規流通商品と海賊版や偽造品を容易に見分けられるようにするためとされていた。
: 開発時には通常のCD-ROMのままでCDマットを付ける事が検討されていたが、久夛良木のコストカット路線により、CDマットをやめ、記録面の色を変えるという方向に落ち付いた{{Sfn|麻倉|1998|p={{要ページ番号|date=2021年3月}}}}。記録面を黒いものとする導入当初の目的は、正規流通商品と海賊版や偽造品を容易に見分けられるようにするためとされていた。
: ただし、この記録面の着色については、後継機であるPS2ではPS2規格のCD-ROMの記録面が青く着色されているのみで、CD・DVDなどの各種ディスクメディアでの汎用的な規格としての採用実績はなく、事実上PS規格CD-ROM特有の仕様となっている。
: ただし、この記録面の着色については、後継機であるPS2ではPS2規格のCD-ROMの記録面が青く着色されているのみで、CD・DVDなどの各種ディスクメディアでの汎用的な規格としての採用実績はなく、事実上PS規格CD-ROM特有の仕様となっている。 また、規格外ディスクを認識したりすると、「'''PlayStation®規格のディスクではありません。'''」という警告メッセージが表示される。
; 海賊版対策
; 海賊版対策
: 非正規ソフトの対応については、[[CD-ROM]]のコピープロテクトを解除するための「[[MODチップ]]」と呼ばれるICチップが世界規模で出回り、それに対してソニー・コンピュータエンタテインメントは「[[コピーガード|レッドハンドプロテクト]]」で対抗した。
: 非正規ソフトの対応については、[[CD-ROM]]のコピープロテクトを解除するための「[[MODチップ]]」と呼ばれるICチップが世界規模で出回り、それに対してソニー・コンピュータエンタテインメントは「[[コピーガード|レッドハンドプロテクト]]」で対抗した。

2022年9月23日 (金) 09:26時点における版

PlayStation > 初代PlayStation
PlayStation
プレイステーション

メーカー ソニー・コンピュータエンタテインメント
種別 据置型ゲーム機
世代 第5世代
発売日 日本の旗 1994年12月3日
アメリカ合衆国の旗カナダの旗 1995年9月1日
欧州連合の旗 1995年9月29日
オーストラリアの旗ニュージーランドの旗 1995年11月15日
大韓民国の旗 1997年2月
CPU R3000A 33.8688 MHz
対応メディア CD
対応ストレージ メモリーカード
コントローラ入力 プレイステーションコントローラ
アナログコントローラ
DUALSHOCK
DUALSHOCK 2
外部接続 シリアルポート
パラレルポート(SCPH-7500まで)
2G回線[注釈 1]
オンラインサービス iモード
売上台数 日本の旗 1,900万台[1]
アメリカ合衆国の旗 3,967万台[2]
欧州連合の旗 3,961万台[2]
世界 1億240万台[3]
最高売上ソフト 日本の旗 ドラゴンクエストVII エデンの戦士たち /406万本[4]
世界 グランツーリスモ /1,085万本[5]
互換ハードウェア PS one
次世代ハードウェア PlayStation 2
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PlayStation(プレイステーション、略称: PS, PSX, PS1[注釈 2])は、ソニー・コンピュータエンタテインメント(略: SCE)[注釈 3]1994年12月3日に発売した家庭用ゲーム機

1990年代中期に「次世代機」と呼ばれた家庭用ゲーム機の一つ。家庭で本格的なテクスチャ付き3Dグラフィックを実現した初めてのゲーム機である。開発を主導した久夛良木健の独特の技術論や、丸山茂雄らによる従来のゲーム機ビジネスとは異なるレコードビジネス仕込みの戦略で、セガ・エンタープライゼス(現・セガ)のセガサターン任天堂NINTENDO64と共に次世代機戦争と呼ばれた[6]市場競争に勝利し、ファミリーコンピュータのヒット以来任天堂が独占していた市場でトップシェアとなった。

同社の次世代機である『PlayStation 2』が2000年3月4日に発売されて以降も本機は2006年まで生産された。

沿革

  • 1993年
    • 10月27日 - ソニーとソニーミュージックエンタテインメントは共同出資でソニー・コンピュータエンタテインメントを同年11月中旬に設立し、家庭用TVゲーム機に参入することを発表[7]
    • 11月15日 - ソニーとナムコは「PS-X」の業務用への応用に関して共同開発することで基本合意[8]
  • 1994年
    • 5月10日 - 名称が「プレイステーション」に決定したことを発表、サードパーティは164社[9]
    • 10月27日 - 価格は39,800円、発売日は同年12月3日であることを発表、サードパーティは240社、初回出荷10万台、年内30万台、半年後100万台の出荷予定[10]
    • 12月3日 - 希望小売価格39,800円で発売、初回出荷10万台を完売。
  • 1995年
    • 1月19日 - ソニー・コンピュータエンタテインメント・ヨーロッパを設立。
    • 5月29日 - 「SCPH-3000」を同年7月21日に29,800円で発売することを発表、アメリカでは同年9月9日に299ドルで発売予定、ヨーロッパは秋頃予定[11]
    • 7月21日 - 「SCPH-3000」を日本国内価格29,800円で発売。
    • 9月9日 - アメリカで299ドル(約30,000円)で販売開始。
    • 9月29日 - ヨーロッパでプレイステーションが発売。
  • 1996年
    • 5月11日 - 有料会員制ネットワークサービス「ネットやろうぜ!」が始動。会員を対象に、個人クリエータ向け開発ツールであるスタータキット(DTL-3000)を12万円で提供開始。
    • 5月末 - アメリカで販売価格を199ドルに値下げ。
    • 6月4日 - 「SCPH-5000」を同年6月22日に発売、価格を19,800円にすることを発表。[12]
    • 6月22日 - 「SCPH-5000」を発売。the Bestシリーズ。既存ソフトを低価格ソフトとして再発売。
    • 9月10日 - 「ネットやろうぜ!」の会員対象にゲーム制作系専門学校を追加[13]
    • 10月15日 - 「ネットやろうぜ!」スタータキットに3次元グラフィックツール「LightWave 3D」のバンドルを開始[14]
    • 10月23日 - 香港・シンガポール・タイ・マレーシアで「SCPH-5003」を1996年12月初旬から発売を発表[15]
    • 10月31日 - 「SCPH-5500」の発売を発表[16]
  • 1997年
    • 2月28日 - 欧州・オセアニアで値下げを発表[17]
    • 3月4日 - 北米で199ドルから149ドルの値下げを発表[18]。香港・シンガポール・タイ・マレーシアでビデオCD再生機能を加えた「SCPH-5903」の発売を発表[19]
    • 3月11日 - 振動機能を持ったアナログコントローラー「SCPH-1150」の発売を発表[20]
    • 6月11日 - クリアタイプのメモリーカード「SCPH-1190」の発売を発表[21]
    • 9月24日 - 2種類の振動機能を持ったアナログコントローラー「SCPH-1200」の発売を発表[22]
    • 11月4日 - 「SCPH-7000」の発売[23]、クリスマスカラーのメモリーカードの発売[24]を発表。
  • 1998年
    • 1月20日 - ソニー・コンピュータエンタテインメント、公正取引委員会から「PlayStation用ソフトウェアの販売について、小売業者に対し希望小売価格で販売するように、圧力を加えた」として独占禁止法に基づく排除勧告[25]
    • 1月28日 - 限定メモリーカードの発売を発表[26]
    • 2月5日 - 32ビット機以上で日本57%、北米53%、欧州65%のシェアを獲得[27]
    • 2月17日 - デュアルショックのカラーバリエーションの発売[28]、多色のメモリーカードをシリーズ化することを発表[29]
    • 8月27日 - 北米・欧州で本体価格の値下げを発表[30]
  • 1999年
  • 2000年
  • 2001年
    • 10月12日 - PS one 専用液晶モニターが14800円で発売。
    • 12月13日 - PS one 専用カーアダプターを発売。
  • 2005年
  • 2006年
    • 3月 - PS oneの生産終了をもって初代規格のPlayStationマシンの生産終了[35]
    • 12月31日 - 日本でのソフトウェアの累計生産出荷本数は約2億8600万本、全世界で9億6200万本
  • 2014年3月31日 - アフターサービス受付終了[36][37]

累計出荷台数

  • 1995年
    • 5月第4週 - 日本100万台[11](同年内に200万台達成)[注釈 4]
  • 1996年
    • 6月4日 - 世界500万台[12]
    • 8月31日 - 世界720万台(日本350万台、北米210万台、欧州160万台)[38]
    • 10月31日 - 世界900万台(日本400万台、北米280万台、欧州220万台)[39]
    • 11月30日 - 世界1,000万台(日本420万台、北米345万台、欧州235万台)[40]
  • 1997年
    • 1月8日 - 日本500万台[41]/世界1,100万台(サターン:日本440万台/世界720万台、N64:日本185万台/世界400万台)[42]
    • 2月14日 - 世界1,200万台(日本560万台、北米380万台、欧州260万台)[17]
    • 3月19日 - 世界1,300万台[43]
    • 3月31日 - 世界1,350万台[44]
    • 5月31日 - 世界1,600万台(日本750万台、北米480万台、欧州370万台)[45]
    • 8月26日 - 世界2,000万台(日本850万台、北米640万台、欧州510万台)[46]
    • 12月31日 - 日本1,000万台[47]
  • 1998年
    • 2月5日 - 世界3,000万台(日本1,065万台、北米1,075万台、欧州860万台)[48]
    • 3月31日 - 世界3,282万台[49]
    • 6月30日 - 世界3,732万台[50]
    • 8月21日 - 世界4,000万台(日本1,300万台、北米1,430万台、欧州1,270万台)[51]
    • 12月21日 - 世界5,000万台(日本1,425万台、北米1,935万台、欧州1,640万台)[52]
  • 1999年12月2日 - 世界7,000万台(日本1,677万台、北米2,594万台、欧州2,733万台)[53]
  • 2004年5月18日 - 世界1億台(日本とアジア2,072万台、北米3,967万台、欧州3,961万台)[54]

ハードウェア

開発の経緯

任天堂スーパーファミコンPCM音源を提供する事業の仕掛け人だった久夛良木が、同事業に引き続き、スーパーファミコンのCD-ROMドライブ拡張機器「スーパーファミコン CD-ROMアダプタ」の共同開発事業の約束を取り付けたのに端を発する。

任天堂との共同開発

久夛良木は1987年6月16日から2泊3日にわたるソニーと任天堂の合同合宿に、スーパーファミコン開発が一段落した1989年頃にも提案している。当時の任天堂はCD-ROMに消極的で「ソニーさんでやってください」と返答している。丸山によれば久夛良木は京都の任天堂本社に通っている間中「CD-ROMでやるべきだ」と粘り強く進言し続けた結果、任天堂は「どうにもならないと思うが、CD-ROMをやっていい」とOKを出した[55][注釈 5]

1989年4月にテレビゲームではなく液晶画面を持ったカセット式のハンディーゲームマシン「ゲームボーイ」が発売され大ヒットしていたが、ファミコンの人気は既にピークを過ぎかけている事が前年の実績から明らかになっていた。後にも、ソフトメーカーのスタンスは変わらず問屋の倉庫は売れないソフトが大量に溢れることになった。そして任天堂はファミコンの後継機(スーパーファミコン)の市場投入を決意した事で、そこからソニーとの関係が始まった[57]

当時の久夛良木は業務用のデジタルビデオエフェクタ「システムG」をゲームに転用してビジネス化出来ないかと考えていた[58]。ただし、当時ソニー内ではソニーのイメージを損なうとしてゲーム事業への進出に反対する社員が多く、久夛良木自身も「異端児」と呼ばれており逆風が強かった。この事業にゴーサインを出したのが当時社長の大賀典雄である。

1989年10月から共同開発が始まり、翌1990年1月1日には大賀典雄(ソニー)と山内溥(任天堂)の間で両社の締結を確認する合意文書が作られた。開発コードネームは「プレイステーション」[59][60]であった。プレイステーションという名称は久夛良木が名付けた[61]

計画では、CD-ROMアダプタは玩具流通で任天堂ブランドで発売し、スーパーファミコンとCD-ROMの一体型マシンは家電流通でソニーブランドで発売することとなっていた。価格は49800円を予定していた[62]

任天堂の共同開発の破棄

プレイステーション(試作機)
スーパーディスクのロゴ

こうして1991年6月1日のシカゴでのコンシューマー・エレクトロニクス・ショーにおいて、ソニーがプレイステーションの試作機を発表したが、一方で任天堂はソニーとの共同開発計画ではなく、フィリップスとの提携と、CD-iでのゲーム開発を発表した[63]。久夛良木は5月29日の時点で任天堂とフィリップスが共同開発する件を把握しており、出井伸之とともに任天堂本社を訪ねて問いただすと、任天堂の言い分は「ソニーとの契約は履行する」[64][65]、「契約は生きており、ソニーが「スーパーファミコン CD-ROMアダプタ」を発売するのは構わないが、任天堂は別の規格を採用する」[66]というものであり、その後も粘り強く交渉が続けられたものの任天堂の決定は覆らなかった。

任天堂がフィリップスと共同開発することにした理由として、当時の関係者はCD-ROMやゲームソフトのライセンスにあったとしている。

  1. スーパーファミコンCD-ROMソフトはスーパーディスクと名付けられ、任天堂ではなくソニーがライセンスを有することになっていた。当時のコンシューマー機のソフトはROMカセットが主流であり、CD-ROMは付属的な立場のメディアとして認識されていたため、任天堂はCD-ROMの権利を重視していなかった。しかし、任天堂米国法人社長だった荒川實がアメリカのコンピューター業界でのCD-ROMの躍進ぶりを目の当たりにしており、この契約のままだと任天堂がソニーの従属的立場になると危機感を抱き、山内溥にソニーとの提携を止めるように口説いたとされている[66][注釈 6]。丸山も同様の発言をしている[55]
  2. また、当初ソニー側はハード開発のみを行うはずだった。しかし、ソニーが自前のソフトで試供品を実演していた。それを知った山内溥社長(当時)は激怒していたという[68]

ファミコンスペースワールド92の会場でスーパーファミコンCD-ROMアダプタは発売延期が決まると同時に32ビットCPUを搭載する仕様変更が発表された[69]がソニーだけの規格では市場が広がらないと判断されたことから、スーパーファミコン互換機は開発を中断することになり、既にゲームソフトの製作を進めていたソニー・ミュージックエンタテインメントは、マーク・フリントによる『フォルテッツァ』[6](5億円を投じていた)、『沈黙の艦隊』『フック』などを没企画にし、15億円の損失を出したとされる[70]

これらの騒動により、久夛良木ら開発陣は社内での居場所を無くすが、大賀典雄の判断により、丸山茂雄率いるソニー・ミュージックエンタテインメント(現・ソニー・ミュージックレーベルズ[注釈 7])のゲーム部門に一時的に避難させられることになった。

ソニー単独でのプロジェクト再始動

1992年6月24日のソニーの経営会議で、ゲーム事業への進出の是非が議論になり、大半の役員が反対意見を投じる中、経緯説明のために会議に参加した久夛良木が、「我々は本当にこのまま引き下がっていいんですか。ソニーは一生、笑いものですよ」と食ってかかり[66]、試作品はほぼ出来上がっている事を公表。最終的に大賀が久夛良木に「そんなに言うならやってみろ!」と叫び、「DO IT!」[注釈 8]と声を張り上げながら机を叩いた事で[72]ゴーサインを出し、ゲーム事業への進出を決断した。

なお、大賀はプレイステーション製作にあたり、社内のコンセンサス形成のみならず、ゲーム機製作自体にも深く関わっており、業界標準とも言える任天堂型のコントローラからの脱却を図るグリップ型のコントローラーを作るように指示し、何度もダメ出しをしている[66](本体・コントローラーのデザインは後藤禎祐が担当)。後藤禎祐がデザインの依頼を受けた時期は、細かな仕様だけでなく基板の大きさも決まっていなかった。本体を真上から見ると、四角に丸がついたシンプルな構成である。後藤氏は"熊さんの顔"と言って笑うが、このわかりやすさもソニーらしさの重要なファクターとなる。「ソニーらしさは、無駄な造形に入り込んでいかない。それは飽きてしまう原因になったりするので長続きしないんです。シンプルな形、クリーンなイメージ。そういう媚びないデザインだと思う。中身の機能を素直に表していけば、必ずシンプルで飽きのこないいいモノができるだろうと、僕は昔からそういうデザインポリシーでやってきました。」と述べている。[73]

また盛田昭夫もゲーム事業のプレゼンを聞いた後、久夛良木の手を握って「これはおもしろい。こういうビジネスを望んでいたんだ」とチームを激励したという。ただ後述の通り、盛田は「プレイステーション」という名前を再検討するよう指示した(その後盛田は病に倒れた。内海州史は、あのまま盛田が健在であれば「プレイステーション」の名称は変わっていたかもしれないと記している[74])。

1992年夏から正式に「PS-X」プロジェクトが立ち上がり[75]、1993年11月16日にソニーの技術者と株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメントのコンピュータゲーム製作部門のスタッフら65人で構成される株式会社ソニー・コンピュータエンタテインメントが設立。1994年5月10日に「PS-X」と呼ばれていたマシンの正式名称を「プレイステーション」と発表した[9]。同時にコンピュータグラフィックで描かれたデモ映像を会場で流し、本体のモックアップを展示した。本来、プレイステーションはスーパーファミコン互換のCD-ROMゲーム機で使われる予定だった名称であり、これを流用したものである。頓挫した商品と同一名は縁起が悪いという意見もあったが、既に全世界ベースで商標権を登録しており、新しい商標にするには調べるだけで半年かかるため、そのまま同一のプレイステーションの名称が採用された[76]。1994年11月にプレイステーションの価格を39,800円、発売日は1994年12月3日と発表した。

名称の由来と略称

久夛良木は仕事で使うコンピュータを「ワークステーション」と呼ぶことに対して、遊びで使うコンピュータという意味で「プレイステーション」に決めた。ユーザー間では「プレステ」と略されることが多いが、CMや自社製品内での記載では一貫して「PS(ピーエス)」と略されている[注釈 9]。「週刊ファミ通」の記事によると、盛田昭夫がプレステの「ステ」が「捨て」に通じることから避けさせたという[77]。「プレステと呼ぶなー」という新聞広告を出したこともある。

ナムコとの関係

ソニーがプレイステーションを開発していた時にナムコも同じように次世代ゲームマシンの開発を行っていた。ナムコのゲーム機開発は1980年代の終わりから始まっており、ナムコの研究開発部隊を率いていた石村繁一が開発の中心にいた。アーケードにおいては、最先端の3D技術分野でもあったが、家庭用ビジネスにおいては、ファミコンやスーパーファミコン参入当初の絶対的な優位性を失いつつあった。そんな当時のナムコにとって、独自のアーケードのヒット作を家庭に持ち込むことは悲願だった。1993年、ナムコの幹部数人はソニー本社に招かれプレイステーションの原型たるマシンスペックを見て驚きナムコの技術者は家庭用ゲーム機の開発を中止した。そして、ソニーが開発するハードに全面的に協力する意向を固めた[78]

中村和幸も「ほかとは違うものを造りたがる人間は多いのは確か」と言うように、ナムコはもとより、音楽面、デザイン面で他社より自由な発想で抜き出ている作品が多い。数々のミュージシャン、アーティストなどナムコで働いていたエピソードを持っている[79]

本体部

本機はCGワークステーションの仕様を縮小したような設計になっており、3Dゲームで最高の性能が発揮されるように作られた。当時は2Dゲームが数多く発売されていた時代であり、大多数のゲームメーカーが3Dの採用を時期尚早と捉え、2D描画性能を重視する中、3D専用設計のゲーム機を開発すること自体がリスキーな挑戦であったが、実際にプレイステーションが市場に投入されると、美麗かつ高速に動作する3Dグラフィックスは各界に大きな衝撃を与えることになった。特に、ローンチタイトルの『リッジレーサー』はプレイステーションの性能を知らしめる上で、良いベンチマークソフトとして機能した。当時のゲームクリエイターは3Dという新たな表現手法を使って実験的な作品を世に送り出し、ゲームの幅を大きく広げて行った。

メインCPUにはR3000を独自にカスタマイズしたものを採用。また3DCGの描画を支えるベクトル演算専用LSIGPU)を別途搭載する。非常に高価なグラフィックスワークステーションでのみ実現できた[80]ポリゴンによる3次元コンピュータグラフィックスを比較的簡単にプログラミングできる。

3Dに特化したハード
ハードウェアの性能としては3Dポリゴン描画に特化したアーキテクチャが最大の特徴である。座標変換専用チップの搭載で1秒間あたり、150万ポリゴンの演算が可能。ポリゴンの頂点演算や座標変換を行うジオメトリエンジンを搭載し、さらにフレームバッファにポリゴンやテクスチャマップドポリゴンを転送する機能をハードウェアで備えるため、これらの演算を全てソフトウェア処理させる(CPUに膨大な量の演算を強いる)ことが多かった当時のパソコンや他のゲーム機と比較して格段に高い性能を引き出せた。以後主流となる、3Dに特化したハードウェアと言える。しかし、プロセッサに集積できるトランジスタ数の制約から、空間座標は固定小数点数で扱うこととなったため、ポリゴンやテクスチャにカクカクとした歪みが出る問題があった。
一方、旧来のゲーム機では常識であったラインバッファ方式のスプライトBG機能は搭載しておらず、2Dの表現は苦手である。例えば、2Dゲームでは当たり前に用いられているラスタースクロール特有の画像変形を行うことが難しい。
動画の再生
JPEGデコーダのMDECを内蔵しており、この機能を活用して当時の水準としては高画質なMotion JPEGによる動画(ムービー)の再生が可能であった点も特筆される[81]。『ファイナルファンタジーVII』をはじめとするこの機能を活用したコンテンツの登場により、プリレンダリングされた3DCGムービーとネイティブの3Dゲーム操作シーンを連結して多用することで場面と時間を繋ぎ物語性を補完する表現手法が確立された。またゲーム導入時のデモムービーやエンディングムービーなど、ゲームをプレイするための動機付けとしても広く活用されるようになった。
サウンド能力
プレイステーションはPCM音源24チャンネルのサウンド能力を持っている。チャンネルは同時に鳴らせる音の数。[82]この音源の量子化ビット数は16ビット、サンプリング周波数は44.1キロヘルツ。この数値はオーディオCDと全く同じものが使われている事で同等のリアルな音が再生可能。他にも音を色々変化させられるデジタルエフェクト機能を持っている。高度なサウンド能力は、パラッパラッパーを筆頭とする音楽ゲームの登場にも大きく寄与している。スーパーウーファー、サブウーファーなど別売のスピーカーをゲーム環境に加えたセットアップによってアーケードを超えた音と呼ばれる程、クリアで乾いたサウンドクオリティが引き出せるようになる。[83]
内蔵音源
1回のロードでは本体のオーディオ用の記憶容量は500 KBまでと制限があり、音色や音程をプログラム上のデータとして記録して、それを効果音などと同じ方法で再生する内蔵音源といった機能があり、音楽CDと同じ方法で再生するよりも処理の減速を防いだり、ロード時間が短縮される効果が発揮される。[84]
ロゴマーク
PSのロゴマークは、当時ソニーのクリエイティブセンターに所属していた坂本学によるものである[85]。当初は4色で構成されていたロゴだったが、のちにモノトーンのバリエーションも登場した。
サウンドロゴ
PS起動時のサウンドロゴは藤澤孝史によるものである。藤澤は2週間ほどで起動音を作り上げた[86]。また、CMにおけるサウンドロゴをムーンライダーズのメンバーである岡田徹が担当しており、同グループが手がけているCMソングなどを収めた『MOONRIDERS CM WORKS 1977-2006』にはCM始めとCM終わりの2つのサウンドロゴが収録されている。

周辺部

CD-ROM

PlayStation用CD-ROM XAの裏面は、黒色になっている。
大容量、低価格、量産時間の短縮
ソフトウェア媒体として採用したCD-ROMは従来のROMカートリッジと比較してデータへのアクセス速度が劣るが(ローディング時間が生ずる)、大容量、低価格、量産時間の短縮といった利点があり、コンピュータゲームの表現方法から流通にまで幅広く影響を与えた[87]
当時のCD-ROM機は大容量メディアという反面、それゆえにローディングに非常に時間がかかるのが難点とされていたが、PlayStationはローディング時に読み込むデータは3D映像自体ではなくデータコードであり、それを本体内で処理・展開させて3D映像を作り出すという構造にすることで、当時としては高速なローディングを実現していた。
黒い記録面
PS規格のCD-ROMは一般的な音楽CDやCD-ROMメディアとは異なり、記録面の樹脂が黒く着色されていることが特徴である[注釈 10]。この黒い樹脂の光学的な特性自体は通常の音楽CDやCD-ROMメディアと相違ないものであり、例えばBGMをCD音源として収録しているタイトルのディスクならば、楽曲収録トラックを通常のCDプレーヤーでも再生することが可能である。
開発時には通常のCD-ROMのままでCDマットを付ける事が検討されていたが、久夛良木のコストカット路線により、CDマットをやめ、記録面の色を変えるという方向に落ち付いた[88]。記録面を黒いものとする導入当初の目的は、正規流通商品と海賊版や偽造品を容易に見分けられるようにするためとされていた。
ただし、この記録面の着色については、後継機であるPS2ではPS2規格のCD-ROMの記録面が青く着色されているのみで、CD・DVDなどの各種ディスクメディアでの汎用的な規格としての採用実績はなく、事実上PS規格CD-ROM特有の仕様となっている。 また、規格外ディスクを認識したりすると、「PlayStation®規格のディスクではありません。」という警告メッセージが表示される。
海賊版対策
非正規ソフトの対応については、CD-ROMのコピープロテクトを解除するための「MODチップ」と呼ばれるICチップが世界規模で出回り、それに対してソニー・コンピュータエンタテインメントは「レッドハンドプロテクト」で対抗した。

CDプレーヤー

トラックの再生・一時停止・早送りといった基本的な機能に加えて3つのトリックプレーが可能で、当時の一般的なオーディオ機器に搭載されていたものが用意されている。

  • シャッフル機能 - トラックの順番がランダムで決まる為、毎回違った順番でトラックが再生できる。
  • プログラム機能 - トラックを再生する順番を決められる。
  • リピート機能 - 同じトラックを繰り返し再生できる。

また、SCPH-7000以降はコントローラーで映像に影響を与えられるオーディオビジュアライザーであるサウンドスコープ機能が搭載されている。

メモリーカード

ROMメディアがディスクになったため、ゲームのセーブデータは外部記憶装置であるメモリーカードを使用する。コントローラー接続部の上部に差込口があり、そこに差し込むことで使用する。PS規格ソフトを挿入せずにPSを起動した場合、メモリーカードの管理画面に移行し、移動・コピーや削除[注釈 11]が行える。

セーブデータのサイズを「ブロック」という単位で管理しており、メモリーカード1枚につき15ブロックまで保存することができる。ゲームタイトルによって使用ブロック数は異なる(パッケージに記載されている)。複数のブロックを一括で確保するタイトルや、データ作成によって逐一ブロックを確保するタイトルが存在するため、ブロックによっては使用ブロック数が多くなり、1枚では足りずに2枚3枚と買い足すプレイヤーも多かった。のちにHORIなどから廉価な互換品が発売されると、売れ筋はそちらに移った[89]

セーブデータの保存形式がバッテリーバックアップではなくなったことで、データ保存先の本体内部、もしくはカセットのバッテリーがなくなると同時にセーブデータが消失してしまう事がなくなった。バッテリーがなくなった時にセーブデータが消える事を防ぐために、別のメディアに移行させて電池交換を行う必要もなくなった。操作ミスなどによりメモリーカードメニューでセーブデータを消してしまった時に、他の操作をする前なら、L1・L2・R1・R2を同時に押すことでデータの復元が可能。

セーブ、ロードの時には、Now Loadingの画面が開いてソフトとメモリーカードの間で処理を行う。ブロック内に保存されたセーブデータタイトル判別および未使用領域のための管理用の1ブロック[注釈 12]と、ゲームタイトルごとに使用するブロック数が変動するセーブデータ用の15ブロック(計16ブロック)が用意されており、使用するブロック数によるが1枚につき最低1ゲーム分、最大15ゲーム分のゲームデータを保存することが可能。

ソフト開発メーカーの中で周辺機器の活用度を予想するアンケート調査では「対応させたい」と回答していたメーカーが多く、ハイスコアやボタン設定などを記録したりなど”あると便利”な機能に対応しているソフトは多いが、メモリーカードがなくても困らないソフトも多い[90]

プレイステーション3の周辺機器などのメモリーカードアダプターを利用する事で、PS3に搭載された仮想メモリーカードにバックアップを取る事でPSNからダウンロード購入したアーカイブス版のセーブデータと従来のディスク版のセーブデータは両方に適用が可能になっている。ただしPS/PS2との互換性がある一部モデルのみに限る。

業務用汎用筐体の「サイバーリードII」ではスロットリンクシステムが搭載されておりスーパーワールドスタジアム2000などの限られた業務用ビデオゲームにはメモリーカードの使用が可能な物もあった[91]

コントローラー

一番の利点はスーパーファミコンやPCエンジン、メガドライブ等、他ハードのコントローラーよりも強度を増した内ゴムの劣化に対する耐久性にある。

老若男女、国籍を問わない共通した記号として1994年にABXYボタンではなく△○×□ボタンが採用された。ゲーム内にも記号アイコンを表示させるソフトがあるなど、直観的に使える操作性を実現している。[92]

NINTENDO64の発表時、任天堂の山下社長によってゲームの"質的転換"の第一とされたのが3Dスティックが標準搭載されている事。また、ゲームの動きに合わせて震える周辺機器「振動パック」をコントローラーの背面に挿して振動を楽しめるオプションも売り物のひとつだった。当初は別売りだったがデュアルショックを本体に同梱することで、様々なソフトを発売予定に持つNINTENDO64の対応策であることは疑いようもなかった。[93]

仕様

CPU/GTE CXD8606BQ
SCPH-9000に実装
GPU CXD8561CQ
SCPH-9000に実装
SPU CXD2938Q
SCPH-9000に実装

CPU

  • MIPS R3000A ベース 32ビット RISCプロセッサ (R3051)
  • クロック周波数: 33.8688 MHz
  • 4 KB 命令キャッシュ
  • 1 KB データキャッシュ
  • 命令処理能力: 30 MIPS
  • バス帯域: 132 MB/s
  • ベクトル演算コプロセッサ: GTE (Geometric Transfer Engine)
    • ジオメトリエンジン
    • 演算能力(描画性能): 最大150万ポリゴン/秒(SCE公表値)
    • ポリゴン表示能力: 最大36万ポリゴン/秒(SCE公表値)[注釈 13]
    • スプライト描画性能: 最大表示4000個(1/60秒、SCE公表値)[注釈 14]
    • 可変長の整数演算
    • テクスチャマッピンググーローシェーディングフォグ 半透明処理機能搭載
    • 描画が1/60秒を超えた場合に垂直同期を待たずに表示を切り替えることができ、処理落ちを最小限に抑えられる。
    • GTEの演算誤差(当時の半導体プロセスの制約から浮動小数点演算の実装は困難であり、高速化のために整数演算を用いている)の影響で、ポリゴンの間にPS特有の「継ぎ目」ができる。またパースペクティブ補正処理を省いているため、テクスチャマッピングにも独特の歪みが出る。他にも、Zバッファ法処理も省いているため、ポリゴンが循環的に重なると背面に隠れるはずのポリゴンが一番手前に現れる現象が起きる。
    • テクスチャバッファとして使用できるメモリが少なく、テクスチャ伸長の際にピクセル境界やバンディングが露見する部分をカバーするため、後期のゲームでは展開後のテクスチャにディザリングをかける手法が多用された。
    • 後期PSではジオメトリエンジンのアーキテクチャが改良されており、そのためプロセッサも「GTE」ではなく「GTE-2」と呼ばれた。
  • 画像伸張エンジン MDEC (Macroblock Decoder)
    • JPEGデコーダチップ。動画再生エンジン兼テクスチャ展開。
    • Motion JPEG動画の再生能力は、320x240ドット時で秒間30フレーム。これは動画再生を売りにしたPC-FXと同等スペックである[94]。640x240ドット時は、秒間15フレームの再生能力となる[81]
    • JPEGとはファイルヘッダーのフォーマットとブロック圧縮の方式(JPEGがハフマン法を使用しているのに対し、MDECはランレングス法を使っている)に違いがある。非圧縮ブロックの仕様はJPEGと同じである。
  • ダイサイズ: 128平方 mm(初期型)
  • 集積トランジスタ数: 100万個
  • 半導体製造プロセス: 0.6 μm(初期型)

GPU

  • 最大 1677 万色(24 ビット)
  • レンダリング解像度/最大解像度: 256 × 224 - 640 × 480
    • CXD8514の場合は4 Mbit 60 nsのVRAM2個、CXD8561の場合は8 Mbit 12 nsまたは10 nsのSGRAM1個
    • (PS oneの後期型)CXD9500QではGPUとSGRAMをワンパッケージ化
  • 表示画素数: 256ドット×224ライン(ノンインターレース)〜640ドット×480ライン(インターレース[注釈 15]
  • 表示画面: 1面

サウンド SPU

メモリ

  • メインメモリ: 2 MB EDO DRAM
    • 4 Mbitチップ4個搭載のパターンと16 Mbitチップ1個搭載のパターンがある。
  • ビデオメモリ: (VRAM): 1 MB
  • オーディオメモリ: 512 KB[95]

メディア

コントローラ(プレイステーションコントローラ / アナログコントローラ / DUALSHOCK)

  • コントローラ端子×2(最大2台。マルチタップ使用時は最大8台)

通信

  • モバイルネットワーク: 2G mova(別途増設が必要)

AV出力

  • アナログ映像出力: コンポジット端子×1(SCPH-5000まで)、S端子×1(SCPH-1000のみ)
  • アナログ音声出力: RCA端子×1(SCPH-5000まで)
  • アナログ出力: AVマルチ×1(RGBコンポジット端子、S端子、RF端子に変換可能)

I/O

外形寸法(幅、高さ、奥行き)

    • SCPH-1000から9000 270×60×188 mm
    • SCPH-100 193×38×144 mm

本機の発売後に登場した周辺機器で実現できるスペックを含む。

本体

PlayStationは製造時期、販売地域によって異なる型番が付けられており、仕様が異なっている。その違いは主に入出力端子の有無によるものだが、ハードウェアの内部が変更されたことによるものもある。ソニー・コンピュータエンタテインメントは、型番による動作の違いはないとしているが、実際には1996年以降のバージョン「SCPH-5000」以降、グラフィックスの処理能力が向上したり、バグが改善された一方で、新たなバグが発生したり、動作しないゲームソフトが発生している。そのため、古いハードウェアでは正常にプレイできないゲームソフトが数百タイトル存在し、サードパーティーは型番毎に動作チェックすることを余儀なくされた。

型番はSCPH-XXXYの形式で付けられている。Sony Computer Playstation Hardwareの略とされる。XXXが型式、Yが発売地域を表している。Yは日本用([NTSC J]、AC100 V)が0、北米地域用([NTSC U/C]、AC110 V - 127 V)が1、ヨーロッパ・オセアニア地域用([PAL]、AC200V - 240V)が2、アジア地域用([NTSC J]、AC110 V - 240 V)が3である。

国内生産には、ソニー木更津、ソニー美濃加茂など(現・ソニーグローバルマニュファクチャリング&オペレーションズ)が担当した。最終版のPS oneのみ中国製が見られる。

コンシューマー向け

特記がない場合、日本における概要について記述する。

初期モデルのSCPH-1000
北米地域用 NTSC U/C 型 SCPH-1001の裏面
SCPH-1000
1994年12月3日発売。
初代型番。39,800円で登場。日本では「イチ・ニ・サン」の掛け声のCMが放映された。
発売日は、ワン、ツー、スリーの語呂とともに大安吉日であるところから12月3日となった。[96]
AVマルチ出力端子、通信ケーブル出力端子、ビデオ端子、S端子、外部電源端子、パラレル入出力端子が装備され、ビデオ端子ケーブルが同梱。
用途の限定されない拡張コネクタがある。これは発売直前までROMカートリッジでもゲームを供給するために用意した部分を流用したもの[97]
SCPH-3000が発売され値下げされた後も市場に出回っており、後期は29,800円で購入できた。
通気口が少ないため長時間の稼動で熱暴走を起こす、内部ソフトウェアのバグなど、ハード面での不具合が多い。特にディスクが純正かつ日本向けであるかどうかのチェックが1回しかなく、またこの際ディスクの回転も止まることから、ハード起動時にPlayStationのロゴが表示されたタイミングでディスクを入れ替えることによって、海外用ディスクやCD-Rにバックアップコピーしたソフトが簡単に起動した。
北米向けに発売された最初期型SCPH-1001はこのSCPH-1000とほぼ同じ物である。
デザインが評価されグッドデザイン賞を受賞した[98]
SCPH-3000
1995年7月21日発売。
29,800円に値下げ。ほとんどの店で実売価格26,800円に統一された。
S端子が削除される。
通気口が改善される。
描画に使用される画像処理プロセッサ「GTE」がバージョンアップ。エフェクト(フォグ)のかかり具合が違う。
この型番以降は基板が変更されBIOSの仕様も変更された。またCDチェックの回数が2回に増え、海外用のソフトやコピーソフトが起動しづらくなった(ただし、一部ロットではSCPH-1000と同等の基板が使用されたものもあり、その場合はSCPH-1000と同様の方法で起動するものがあった)。その結果、闇市場において「MODチップ」が開発され、日本国内でも出回ることとなった。
しかし根本的な解決方法とまでは至らず、プロアクションリプレイなどの「製品自体は純正品だが、ゲームデータは後ほど読み込ませる」形式のメディアを用い、無理やりゲームソフトを入れ替えるとバックアップCDが起動してしまう状況だった。
SCPH-3500
1996年3月28日発売。
24,800円に値下げ。
ナムコの『鉄拳2』の発売に合わせ、「ファイティングボックス」と銘打ってコントローラー2個が付属(通常は1個)。
SCPH-5000
1996年6月22日発売。
19,800円に値下げ。
5000番以降はバグをなくすとして、さまざまな目立った改良が施されているため、この型番の登場以降のゲームソフトは、その弊害で3500番台以前のハードウェアでは不具合を起こすゲームソフトがある。
バックアップCDの起動、海外版起動の起動対策として本体のオープンスイッチの機構が改良され、またセキュリティも上昇。一部のチートツール等が利用できなくなった。
一部ロットに5500番以降で搭載されている新型のGPUが搭載されているものが存在する。
次の日の6月23日にはライバル機のNINTENDO64が発売されている。
SCPH-5000までのPlayStationはCD-ROMドライブの読み取り(ピックアップレンズ)部分の設計の欠陥により、ピックアップレンズが随時動くことによるレールの磨耗によりピックが沈み込み、データを読み取れなくなる不具合がある。そのためSCPH-5000あるいはそれ以前の型番のプレイステーションを重用するユーザーは、本体を縦に立てて置く、裏返して置く、斜めに傾けるなどの延命策を講じている。
SCPH-5500
北米地域用 NTSC U/C 型 SCPH-5501の裏面
1996年11月15日発売。
ビデオ端子(RCA規格)が削除され、新たにAVマルチ出力端子から各種専用ケーブルによる出力となる。ビデオ端子がないテレビのRF端子に接続して映像を映すための(DC出力端子)も削除された。
「PU-20」という基板になり、メインメモリの変更やGPUなどがバージョンアップされ、画質と処理能力が若干向上。発熱も殆どなくなった。
CD-ROMドライブの読み取り部分の設計が改められる。これにより、縦置き術などの努力が不要になる。
SCPH-5903
1997年発売。日本以外のアジア圏では「ビデオCD」の文化が栄えており、東アジアや東南アジア市場で展開するため、それに対応しビデオCDも見られるようにしたもの。本体は白色で、本体の右上に「Video CD」の表記がある。ソフトウェア再生ではなく、専用のMPEGデコーダを搭載している。ビデオ端子がAVマルチ端子に一元化されたSCPH-5500が発売された後の機種ではあるが、本機種のビデオ端子はSCPH-5000以前と同じく、RCAピン端子を装備する。
SCPH-7000
1997年11月13日発売。
18,000円に値下げ。
従来のプレイステーションコントローラに代わり、振動機能付きコントローラー「デュアルショック」を同梱。
画像処理プロセッサ「GTE」が「GTE-2」にバージョンアップ。ポリゴン描画性能が向上する(ただし、ソニー・コンピュータエンタテインメントの公称では変わっていないとされる)。
SCPH-5500にて改善されたCD-ROMドライブの読み取り部分の設計が再度見直され、更に改良されている。
音楽CD再生機能が更新され、新たに『サウンドスコープ』というアプリケーションがハードウェアに搭載される。これは1997年6月20日に発売されたゲームソフト『BABY UNIVERSE』の一部機能を取り込んだものである。
2チップ構成だったCDコントローラーを司るLSIが1チップに集積化。
SCPH-7500
北米地域用 NTSC U/C 型 SCPH-7501の裏面
1998年12月1日発売。
15,000円に値下げ。
サウンドCPUとCDコントローラーの2チップが統合されて1チップに集積化。
SCPH-9000
PAL 型 SCPH-9002の裏面
1999年5月28日発売。
外観はSCPH-1000と変わらないが、内部の基板はそれまで幾度の改良・再構成を経て最終世代に近づいていた時期でもあり、SCPH-1000の半分程度の大きさにまでシュリンクされている。
この機種より外側のパラレル入出力端子が削除されたが、基盤には残っているため分解しコネクタと配線を自力で付ければ使用可能。
SCPH-100
2000年7月7日発売。最終モデルである。

開発者及び出版社向け

PAL規格のDebugging Station
DTL-H1000など
開発用のSCPH-1000などに相当する。
DTL-H1200など
開発用のSCPH-3000などに相当する。
通称「リビジョン-C」と呼ばれ、ライセンシー(ライセンス契約した法人)は前記のDTL-H1000と、両方で正常に動作することを確認させられる。本体が緑色だったため、「緑ステ」("みどすて")と呼ばれることもある。
DTL-H2000
IBM-PC/ATバスタイプの開発用ボード。DTL-H2000 CPU2ボードにはCPU(GTE)とGPU,SPUが、またPIOボードにはCD-ROM用制御LSIが実装されている。
DTL-H200 GRAPHICS ARTIST BOARD
IBM-PC/ATバスタイプの開発用ボード。GPUと画像出力回路のみ実装されている。
DTL-H201A GRAPHICS ARTIST BOARD
IBM-PC/ATバスタイプの開発用ボード。GPUと画像出力回路のみ実装されている。
DTL-H3000
ネットやろうぜ!」用。「ネットやろうぜ!」とは、ソニー・コンピュータエンタテインメントが一般人に向けてインターネット上で情報交換をしながらオリジナルのソフトウェア開発環境を提供するシステムで、12万円でスターターキットが通信販売された。国籍プロテクトがかかっていないため、日本国内のゲームソフトだけでなく、日本以外で販売されたゲームソフトも動作する。募集締め切りの後、現在は学校関係者にのみ8万円で販売されている。黒い外観から「黒ステ」と呼ばれることがある[99]。なお本機器についてはメーカー向けの開発機材ではないためコピーCDやリージョンが異なるソフトの起動は行えない。

本シリーズはソニー・コンピュータエンタテインメントとPlayStation専用ソフトウェア開発におけるライセンス契約した法人[注釈 17]、ゲーム関連業務を行う出版社のみが同社から直接提供されるものであり、門外不出。本体裏に通し番号があり、売り払ったりすると誰が売ったか分かる仕組みになっている。開発用なだけあり、CD-Rにコピーしたソフトを動かす事が可能。本体の色が一般の灰色と違い、青色だったため「青ステ」と呼ばれることもある。また、販売価格も非常に高額となっており、万が一破損した場合についてのサポートも販売した会社、関連会社以外からの依頼以外は一切受け付けて居ない。

本体形状がコンシューマー向けのものと同じで本体色が異なるPlayStationは「デバッギングステーション」、「デバステ」と呼ばれることがある。これはゲームソフトを開発するために設計された機種であり、世代ごとの動作やコネクタ有無も含め、コンシューマー向けのPlayStationとは機能が大きく異なる。

インターネットオークションや店頭にてデバステと称した品が販売されていることがあるが、本来では一般市場に流通するものではなく、一般向けの機材にMODチップ搭載などの改造を施して塗装し直したものが存在するために注意を要する。(前述の通り開発機器には1台ごとに番号が振られており、背面シールに型番と製造時期、通し番号が記載されている事からある程度推測は可能。シールにSCPH-xxxxと記載されていたり、製造時期やシリアルが記載されていなかったりするものは確実に偽物)

各モデル比較

各モデルの背面
型番 発売月 特徴・スペックや販売形式の違い
SCPH-1000 1994年12月 初代型番
SCPH-3000 1995年7月 S端子によるビデオ出力が削減
SCPH-3500 1996年3月 コントローラーが2個付属
SCPH-5000 1996年6月 バグ修正
SCPH-5500 1996年11月 RCA端子によるAV出力が削減
SCPH-7000 1997年11月 付属コントローラーがDUALSHOCKに変更、画像処理プロセッサがGTE-2に改良。CDコントローラーLSIが集積化
SCPH-7500 1998年12月 サウンドチップ、CDコントローラー集積化
SCPH-9000 1999年5月 パラレル入出力端子が削減
SCPH-100 2000年7月 最終型番。メニュー画面のリメイク、専用液晶モニターが搭載可能。電源ユニットがACアダプターに外部化
SCPH- 1000 3000 5000 5500 7000 7500 9000 100 (PS one)
AV出力 RCA端子
S端子
AVマルチ
RCA端子
AVマルチ
AVマルチ
パラレル入出力端子 ×
画像演算コプロセッサ GTE GTE-2
GPU CXD8514 CXD8514
もしくは
CXD8561
CXD8561 CXD8561
もしくは
CXD9500Q
サウンドスコープ ×
付属コントローラー 初期型 DUALSHOCK
電源 ACケーブル ACアダプター
消費電力 10.5 W 9.8 W 9 W 9.5 W 9 W 6.5 W
質量 1.5 kg 1.4 kg 1.2 kg 560 g

互換機

PlayStationのアーキテクチャは家庭用のみならず、アーケードゲーム機としても活用された。PlayStation互換及びPlayStation上位互換の業務用システム基板は大手ゲームメーカー各社で採用され、業務用ゲームの家庭用への移植に貢献した。

復刻版

2018年12月3日発売。PlayStationの小型復刻版。型番はSCPH-1000RJ。価格は9,980円(税抜)。内蔵しているソフト20作品のみプレイが可能。

周辺機器

SCE純正品

型番 名称 発売日 備考
SCPH-1010 コントローラー 1994年12月3日 SCPH-1000/3000シリーズの本体に付属。デジタル入力のみのコントローラー。海外版と異なりケーブルが短く、日本人に合わせて外形寸法が小さい。総演算速度は1秒間に5億回の命令実行が可能。[100]
SCPH-1020 メモリーカード ゲームのセーブデータを保存しておくための補助記憶装置。記憶媒体として1 Mbit(128 KB)のフラッシュメモリを採用している。保存領域は15ブロックだが、PS2のメモリーカード管理画面では消費容量が1ブロック辺り8 KBで表示されている。それによると8 KB(1ブロック)が未使用になるが、これはメモリーカード自身のデータ管理用の領域で1ブロック消費されているためであり、それも含めて16ブロック、128 KBの記録領域がある。
SCPH-1030 マウスセット PlayStation規格ソフト専用のボール式2ボタンマウス。マウスパッドもセットに含まれる。PlayStation 2規格ソフトには使用できない。
SCPH-1040 対戦ケーブル 1995年9月22日[101] PlayStationを2台接続して対戦ができる。2台のTVを使用することが前提となる[102]。PS oneやPlayStation 2には使用できない。
SCPH-1050 RGBケーブル 1995年3月17日 音声・映像を出力するためのケーブル。15KhzモードをサポートしておりRGB21ピンコネクタ搭載テレビで(ディスプレイ)利用できる。PlayStation 2でも使用可能。
SCPH-1060 RFUアダプタキット 音声・映像を出力するためのケーブル。RF出力でアンテナ線に接続できる。SCPH-5500以降の本体には使用できない。
SCPH-1070 マルチタップ 1995年11月22日 PlayStation規格ソフトを3人以上でプレイする際に使用する。PlayStation 2規格ソフトには使用できない。形状はL字型。コントローラーを4台まで接続できる。なお、PS2用のものは使用不可。
SCPH-1080 コントローラ 1996年4月2日 SCPH-5000シリーズの本体に付属。SCPH-1010の改良版。コードが長くなり、接続部近くにノイズフィルターがついた。機能的には変わらないと公開している[103]
SCPH-1090 マウスセット(ロングケーブル) 1998年5月7日 SCPH-1030の改良版。ケーブルが長くなっている。
SCPH-1100 S端子ケーブル 1995年11月22日 音声・映像を出力するためのケーブル。S端子付きのテレビで利用できる。SCPH-3000以降のモデルでS端子に出力する場合に必要。
SCPH-1110 アナログジョイスティック 1996年4月26日 フライトシューティングゲーム向けにアナログスティックが2本ある大型のジョイスティック
SCPH-1120 RFUアダプターキット 1996年11月22日 RF出力をするためのキット。
SCPH-1130 電源ケーブル PlayStationに電源を供給するケーブル。本体に付属。
SCPH-1140 AVケーブル 1997年3月14日 PlayStationをテレビに接続する、映像/音声一体型のケーブル。SCPH-5500以降のモデルには標準で付属する。
SCPH-1150 アナログコントローラ 1997年4月25日 アナログスティック2本と、振動機能を搭載している。のちに発売された「デュアルショック」と形状は似ているが、グリップのサイズがやや大きく、アナログスティックの中央部が凹んでいる違いがある。振動用のモーターが左グリップの1つしか内蔵されておらず強弱の区別がない。SCPH-1110の互換モードを持っている。
SCPH-1160 AVアダプター PlayStationを通常のAVケーブルでテレビに接続することができるキット。SCPH-5500以降の本体にガンコンを接続する際にも使用する。
SCPH-1180 Analog Controller 日本未発売。アナログコントローラに似ているが、振動機能未搭載。
SCPH-1200 アナログコントローラ DUALSHOCK 1997年11月20日 SCPH-7000/7500/9000の本体に付属のコントローラー。左右グリップに強さの異なるモーターが内蔵され振動の強弱をコントロールできるようになった。SCPH-1150にあったSCPH-1110互換モードは省かれた。
SCPH-1210 メモリーカードケース 1998年3月19日 メモリーカードを収納するケース。当初はメモリーカードとセットであったが、後に別売りになり、その時に型番がついた。
SCPH-4000 ポケットステーション 1999年1月23日 モノクロ液晶画面付きのメモリーカード。ちょっとしたゲームを遊ぶことも可能。
SCPH-4010 Vpick ギターのピックを模した入力機器
SCPH-4020 ロングストラップ 1999年1月23日 ポケットステーション用のロングストラップ。
SCPH-4030 ハンドストラップ 1999年3月25日 ポケットステーション用のハンドストラップ。
SCPH-110 アナログコントローラ DUALSHOCK 2000年7月7日 PS one付属のコントローラー。
基本のボディカラーは本体に合わせた白。コネクタ部分は丸みを帯びている。

ソニー

  • VMC-AVM250[104] - AVマルチケーブル
  • KV-21SP1[105] - 上記のAVケーブル一本で接続できる21型トリニトロンカラーテレビ。他の機種でも接続出来るテレビはラインナップされているが、本品は特にゲームプレイに特化している。スタイルもPlayStationのイメージに合わせている。

ライセンス品

ジョグコン
ガンコン
  • 『チョーきれいだね!』アップスキャンコンバーター SLPH-00016(WAKA製作所)
    • AVマルチ端子のRGB出力で31kHzの一般PCモニターへ接続用ラインダブラー
  • ファイティングスティックPS (ホリ電気)
    • ボティにはメタルを多用し、重さは1.3Kg。8つのボタンのそれぞれに毎秒24発の連射機能つき。
  • ネジコン株式会社ナムコ)SLPH-00001
    • コントローラーそのものをねじってアナログ入力できる。レースゲームだけでなく、野球ゲーム『ワールドスタジアム2』などにも対応している。
  • ブラックネジコン(株式会社ナムコ)SLPH-00069
    • 新フォルム、新カラーリングのネジコン。
  • ジョグコン(株式会社ナムコ)
    • 「反発力」の再現を実現した、新しいタイプのコントローラー。中央のダイアル部分が電気的に制御されて回転し、ステアリング操作とよく似た反発力を生み出す。PS本体から電力供給がされるので電池不要。
  • ガンコン(株式会社ナムコ)
    • ナムコの独自開発による銃型コントローラー。映像出力端子を利用した、命中精度の高さが魅力とされている。映像出力端子を持たないPS(型番:SCPH-5500以降)に接続する場合は、別売りのAVアダプター(SCE/標準価格1,200円)が必要。
  • ハイパーブラスター(コナミ株式会社
  • イマジガン デュアルフライトコントロールシステム(イマジニア
  • 『コックピットBIGショック』振動ステアリングコントローラ SLPH-00101(OPTEC)
  • コンパクトアナログスティック(株式会社HORI)
  • 釣りコン(アスキー
  • 電車でGO!専用コントローラ(株式会社タイトー
    • 型番はSLPH-00051だが、以降発売の色替えバージョン及びワンハンドルタイプ等はSLPHはついていない(TCPP-200XX等の品番となっている)。
  • beatmania専用コントローラ(コナミ株式会社)
    • アスキーが発売したものの型番はASC-0515BM、コナミが発売したDJ Station PROはCT013と、どちらもSLPHはついていない。
  • ダンスダンスレボリューション専用コントローラ(コナミ株式会社)
    • 型番はそれぞれRU017(本体のみ・初期版)/RU023(マット内蔵のデラックス版)/RU026(ハンドコントローラ)/RU031(ディズニー版)/RU039(本体のみ・後期版)と、どれもSLPHはついていない。
  • ギターフリークス専用コントローラ(コナミ株式会社)
  • ドラムマニア専用コントローラ(コナミ株式会社)
    • ギターフリークス用がRU018、ドラムマニア用がRU021。ドラムマニアはPlayStation 2用ソフトとして発売。後にGuitarFreaksV & DrummaniaVと同時発売された廉価版は型番の後ろに-J2が付く。尚、ドラムマニア用のRU021-J2はスタンドがデスク用ミニ脚になっている。
  • 『SANKYO N・ASUKA』パチンコハンドル型コントローラ SLPH-00007(ティー・イー・エヌ研究所)
  • キッズステーション専用コントローラ(株式会社バンダイ
  • ワープロセット(株式会社コーエー


ソフトウェア

立ち上げ期においては、セガとはアーケードゲーム市場でライバル関係にあり、任天堂とは関係が悪化してゲーム機の自社開発を模索していたナムコがSCEと提携してプレイステーション陣営につき、ローンチタイトルとして『リッジレーサー』を発売し普及を牽引するキラーソフトとなった[6][106][107][108]。前評判あるいは口コミによって「リッジレーサー」の人気が広まり、従来のコンシューマ機とは比べ物にならないほどの完成度が新ハードにユーザーを惹きつける功績となった。[109]その後も初期にはナムコの『鉄拳』やタカラの『闘神伝』といった格闘ゲームソフトでハードの売り上げを伸ばした。1995年末は、ソフトを充実させる事がメインテーマとされており、ソフトメーカーが参入しやすい環境作りなど流通の安定といった側面は既に固めていた。[109]またSCEプロモーション企画部所属の細谷恵は「95年はプレイステーションをゲーム機として定着させるためにも、看板ソフトとなるRPGの登場は不可欠になると思います。」と述べ[110]、同年6月30日にはSCEから『アークザラッド』が発売された。本作は100万本を超える出荷を記録し、同社における初期のヒット作となった。

1996年2月9日にはこれまで任天堂マシンで発売されていた日本を代表するRPGシリーズであるスクウェアファイナルファンタジーシリーズの参入が発表されて[111][112][113]、同年8月21日に発売された『TOBAL NO1』に『ファイナルファンタジーVII』の体験版が付属された。また3月22日に発売されたカプコンの『バイオハザード』や同月29日に発売された『鉄拳2』はリピートによるロングセラーになる[114]6月7日にはSNKから『ザ・キング・オブ・ファイターズ95』が発売。8月9日にはカプコンから『ストリートファイターZERO2』が発売され、これらヒット作に恵まれたことで1996年の年末商戦でプレイステーションは独り勝ちした[115]

1997年1月には『ファイナルファンタジーVII』が発売されて大ヒットし、エニックスドラゴンクエストシリーズがプレイステーションに参入することが発表され、プレイステーションの優勢が決定づけられた[116][117]。この頃にはスクウェアのゲームをはじめミリオンセラーが続発し、SCEのソフトではロングヒットにより、『グランツーリスモ』や『みんなのGOLF』などダブルミリオンを達成するソフトも出てきた[118]8月7日にはナムコからガンコンを使ったタイムクライシスが発表された。

チュンソフトからは1998年12月3日に『サウンドノベルエボリューション2 かまいたちの夜 特別編』、1999年3月25日に『サウンドノベルエボリューション1 弟切草 蘇生篇』が発売される。どちらもスーパーファミコン版からのリメイク移植だが、伊集院光は「マシンのスペックが上がって、音質が良くなって、画面が良くなって、CGがリアルになったのに、本質的なところはまったく変わっていない所がすごいと思うんですよ」と述べている[119]

このようにゲーム内容に関しては、3D化により、従来のゲームよりリアルな表現が可能になり、子供のおもちゃというイメージを持ち合わせたうえで、ゲームから離れていた青年・中年層の支持を得ることにも成功しつつ、リメイク作品によって、前世代機からのユーザーの移行が進んだ。こうして新作タイトルはPlayStation 2発売以降も登場し、日本では2004年まで発売された。公式サイトのソフトウェア製品情報に登録された日本国内のタイトルは廉価版、初回限定版などによる重複を除き3,289タイトルに及び、同世代機であるセガサターンの1,058タイトル、NINTENDO64の208タイトルと比べ、圧倒的だった。

影響

本機を普及させるにあたって、久夛良木や丸山が行った流通改革や広告、本体の値下げ、ゲームソフトの低価格化は、それまでの任天堂および初心会などの他社が行ってきたものとは多くの部分で異なっており、結果的には前世代機でトップシェアとなった『スーパーファミコン』の全世界出荷台数4,910万台[120]を大幅に上回る1億240万台[3]の出荷を記録した。

流通

流通面においては、参入時に任天堂会社の蜜月関係による初心会流通を研究し、音楽CDの流通販売で多大なノウハウを有していたEPIC・ソニーレコード仕込みの流通改革を実施した[121]。これにより、既存のゲーム流通、特に任天堂の初心会流通は壊滅的なダメージを受け、多くの問屋が廃業に追い込まれ、初心会自体も1997年に解散している[注釈 18]

サードパーティーはメーカーが制作したソフトを受注、生産、物流までソニーが引き受ける流通システムの大筋で、現行のゲームソフト流通と異なりソフトが店頭に並ぶまで問屋を通さないスタイルを取っている。そのためソフトの売れ行きは中間問屋や量販店からの発注数で決まるのではなく、ソフトの内容としてのクオリティーが直接ユーザーから問われる流通構造とされている。[122]品切れとなったソフトでも遅くて中4日で補充される公約がありユーザーの評判は高かった。しかし「モータートゥーン・グランプリ」などの予想をはるかに超えて売れたソフトはパッケージなどの印刷物が間に合わなかったことから一部で公約通りにはならなかった例外的な事実はある。[123]

安定的なソフト供給
SCEは自らが直接小売店と取引をする問屋機能を担い、従来の投機的な見込み発注ではなく、適切な初回生産と小まめで迅速なリピート生産による安定的なソフトの供給路線を進めた[124]。CD-ROMの生産は設立母体であるソニー・ミュージックエンタテインメントのCD工場(現・ソニーDADCジャパン)で行い、追加生産が必要な場合でも最長で6日で小売店にソフトが届く体制を築いた[125][126]。これらの流通改革は、リピート生産が容易で生産が低コストであり、CD-ROMのメリットを活かしたものであった[125]。セガサターンは従来通りの任天堂に準じた流通を行っていたため、ゲームメーカー側は流通の速度感から徐々にプレイステーションの方が利益を出しやすいと考え出した[127]
メーカー側の流通参入
一方でSCEの主張する初回生産枚数とサードパーティーの主張との隔たりも発生[128]し、そのことが原因でプレイステーションで発売予定のソフトが他社ハードへ移籍するエネミー・ゼロ事件が起きた[129]。このように自主的な生産本数の決定を望むサードパーティーが現れて、1997年夏にSCEの完全買い上げは終了し、コナミなど有力メーカーは独自の流通を開始した[128]
定価販売の断念
SCEは、同じソフトでもゲームショップによって価格が2割も3割も異なるという従来のゲーム流通も問題視し、再販売価格維持制度で定価販売が認められている音楽ソフトのように、どこの店でも同じ価格で購入できるように事実上の定価販売を目指した[130]
しかし、 公正取引委員会から1998年1月20日に「プレイステーション用ソフトウェアの販売について、小売業者に対し希望小売価格で販売するように、圧力を加えた」として独占禁止法に基づく排除勧告を受けた。SCEは一貫して容疑を否認していたが、2001年8月1日、SCEが圧力を加えていた事実を認定する審決が下され[131]、2001年11月20日に排除勧告を受諾した[132]
公取委の摘発により定価販売は不可能となり、目指していたリピートビジネスも発売タイトルが膨大になったことできめ細かな対応が不可能となって徐々に初動型のビジネスとなって崩れ去った[129]
また発注の失敗による不良在庫で値引きやワゴンセールは相変わらず発生していた[133][134]

以上より、流通改革については必ずしも上手くいかなかった面もあるが、改革を通じてゲームソフトの媒体がCD-ROMになったことで、広告の展開方法やゲームソフトの価格に変化が生じた点は消費者にはメリットとなった。

広告

アーティストとの関わり
丸山はミュージシャンとSMEの繋がりを利用して音楽番組の出演者にプレイステーションを無料で配布した。多くのミュージシャンがプレイステーションに熱中し、その事を音楽番組内で話してもらうことで宣伝へと繋げた。また、これは結果としてゲームをプレイする層の拡大にも繋がった[55]
ソニーはミュージシャンを活用しながら興味を持つ層を広げた。「クライム・クラッカーズ」のエンディングテーマを穴井夕子が歌い、その曲をミュージックCDとして発売する。ゲーム中の音楽をサウンドトラックとして販売するケースは多かったが歌謡曲として発売するのはまれだった[135]
テレビCM
テレビCMでは、冒頭や最後にプレイステーションのCMであることを示すサウンドロゴを採用している他、ユニークなことで定評があった「いくぜ100万台」[注釈 19]「いくぜ(1996年)年内200タイトル」「よい子とよいおとなの」などのキャッチフレーズを活用[138][139]、CM内ではマスコットとして「プレステマン」、「クラッシュ・バンディクー」、「パラッパラッパー」、「ピポサル」といったキャラクターも使用していた。またいわゆるタレントを積極的には起用せず、小学生やサラリーマンなど市井の人々をプロモーションに積極的に取り入れた。初期のCMでは「1、2、3」を連呼するだけの一見意図が読み取れない内容のものもあった[140]
体験版の配布
これまでにもPCエンジンメガCDなどCD-ROMを採用したゲーム機があったが、それらのマシン以上にCD-ROMの低コストの利点を活用して、体験版の無料配布やレンタルショップでの無料レンタル、本体への添付、雑誌への付録などで新作ソフトに触れる機会を増やした。
特に1997年クリスマス商戦期には、多数のゲームソフトの体験版を収録した2種類の体験版を一部の店舗にて100万枚無料配布するなど派手な広告展開を行った。
ゲーム専用機をアピール
同時期に発売された他社のゲーム機と販売競争が繰り広げられた。特にセガサターンとの販売台数争い・値下げ競争はマスメディアによって「次世代ゲーム機戦争」などと呼ばれ、このことはプレイステーションの宣伝にも繋がった[6][141]
この次世代ゲーム機戦争ではCD-ROMがメディアとして採用されており、松下電器産業三洋電機金星電子3DOで、日立がHiサターン、ビクターがVサターンというセガサターン互換マシンで参入して、通信カラオケビデオCDなど、マルチメディアマシンを標榜していたが、プレイステーションはあくまでゲーム専用のゲームマシンであることをアピールした[7][142]

価格

本体価格の段階的値下げ
発売後の値下げの素地として、久夛良木はプレイステーションのベースをソニーのシステムGにすることや、システムGの開発メンバーがGTEを開発するなど可能な限り主要な半導体は自社で開発することが念頭にあり[143][注釈 20]、半導体プロセス技術の進歩などにより、再集積化[注釈 21]やシュリンク化[注釈 22]などのカスタムは自社開発のため製品発売後も容易に行えた。
こうして数度にわたるコストダウンを実現し、プレイステーションは発売時の希望小売価格は39,800円だったが、1995年5月27日、ライバルのセガサターンの値下げに対抗する形で10000円もの大幅値下げを発表。同時に新バージョンのSCPH-3000の発売日を1995年7月21日と発表し1995年5月4週時点で国内販売台数が100万台を突破した。その後29,800円から24,800円、19,800円、18,000円と段階的に値下げをしていき、最終的に15,000円まで価格が下がった。1000万台を超えた段階でハードのみで黒字化を達成し、1台あたり数十ドルの利益を得られるようになり、ライバル機種のセガサターンに対して優位な戦いが出来た[注釈 23]
ゲームソフトの低価格化
従来のゲーム機のソフト媒体であるマスクROMはリピート生産に時間がかかるため、問屋は初回販売で品切れによって販売チャンスを逃すまいと見込み発注を行っていた。この発注で見込み違いにより売れなかったソフトが過剰在庫となり、投げ売りされたり、いわゆる抱き合わせ商法で人気ソフトとともに販売される原因となっていた[146][147]。一方で、「ドラゴンクエスト」などの人気シリーズは店先からすぐになくなり、遊び終わった中古品が出回るという中古市場がないと成立しない業界になっていた[148]。問屋側も売れないソフトを抱えるリスクをソフトの価格に転嫁していたことで高額化を起こしていた[149]
こうしてスーパーファミコン時代には1万円近くまで高騰していたゲームソフト価格に関しても、CD-ROM採用によるソフト生産のコストダウン、生産スピードの向上と短期大量出荷、ロイヤリティの削減などを行い、5800円からと低価格化させ[150]、ソフト購入の敷居を大幅に下げるなどした。
ただし小売店と特約店契約を結び「定価販売の強制」を前提とした価格設定だったために大量の売れ残りが生まれる問題が起こり、一部行っていた返品制度も縮小に追い込まれた。結果的に流通企業、メーカー、小売店が赤字を出すほど経営を圧迫し、デジキューブ破綻後はソフト生産コストも定価も上昇に転じている。
廉価版の発売
SCEは中古ソフト販売は違法であると主張していたが、それが認められずにいたこともあり、利益が製作者に還元されない中古市場対策として、発売から一定期間が経過したソフトについて「PlayStation the Best」などの廉価版をリリースした[151]。ほか、新作ソフトで1,980円のパンドラMAXシリーズや1,500円のSIMPLE1500、950円のスーパープライスシリーズが誕生した[152]。中でもSIMPLE1500シリーズは104タイトルを数える人気シリーズとなり、その中からは150万本のロングセラーとなった『THE 麻雀』も生まれた[153]

他社の取り込み・人の囲い込み

発売時には「全てのゲームは、ここに集まる」のキャッチフレーズを使っていたが、開発時は任天堂の黄金時代であり、3Dという未知のソフト開発に取り組まなければならないことから、サードパーティーや人材の育成・発掘は必要不可欠だった。

ソフト会社との関係
ソニーがMSXで一度はゲームビジネスから他社よりも早く撤退し、他社に対して救済をしなかった過去から[154]、ソフト会社は参入に難色を示していたが、丸山は「ゲーム開発をしていたSMEが依頼に来たことでゲームメーカーは話を聞いてくれた」と語っている[155]。ただ、久夛良木とともに全国のソフト会社を訪ねた際の反響は芳しくなかった[156]
しかし、1993年末、セガがアーケードゲーム『バーチャファイター』を発表し、3Dゲームの可能性を体現した直後から難色を示していたソフト会社が興味を持つようになった[157][158][159][6][160]
格安の開発機材と独自ライブラリ
幅広くサードパーティーを招き入れようと、150万円という安価で開発機材を提供[注釈 24]したことで、新興ゲームメーカーが多数参入した[162][163]。また、サードパーティーのプログラマの負担を軽減するため、SCEでプログラムのライブラリを構築して開発者の支援を試みた[164]。当初このプログラムのライブラリは自分たちでプログラムを組みたがっていた技術者からは不評だったが、後に非常に便利なものであると認識されるようになり、続々とサードパーティーが参入するようになり、1994年夏には契約したサードパーティは200社を越えた[165]
クリエイターの発掘
レコード会社の発想で、ゲームクリエーターをアーティスト的存在として扱い[148][166]、ゲーム誌では積極的に開発者のインタビューを乗せるようになった[6]。アマチュアからクリエイターを発掘しようと、一般向けの開発環境「ネットやろうぜ!」を販売し、これとは別に「ゲームやろうぜ!」というゲームクリエイター志望者を一般から募集していた[167]。ユーザーの意見をメーカーやショップに直接伝える事で、ゲームを開発する上での主要な材料として扱うところも少なくなかった[168]
プレイステーション本体と携帯電話を専用通信ケーブルで接続して、メモリダイヤルや着信メロディの編集を行ったり譜面上でオリジナルの着メロを作成する機能を持った携帯エディターソフト、「ケータイ・エディ」 が2000年7月27日にインクリメントPから発売されている。また、オーケストラの指揮者となりバトン・コントローラーの振り方で演奏の評価が変わる体感音楽ゲーム『ザ・マエストロムジーク』が2000年7月27日にグローバル・A・エンターテイメントから発売された。
レコード会社が出資して設立されたSCEでは、プレイステーションでアーティストとレコード会社が一致協力して音楽を作る手法をゲームソフト制作も取り入れ、ライブラリ提供やゲームやろうぜなどでソフト会社やクリエーターを育てようとしたと言われる[169]
人材発掘
ソニー・ミュージック・エンターテイメントは1993年から"デジタル・エンターテイメント・プログラム"を開催していた。これはデジタルアーティストのオーディションを意味するもので応募資格に制限がなく、入選した人には育成を支援するプログラムが与えられることになっていた。入選者はワークステーションやプレイステーションの開発機材が提供され、そこで様々な学習が可能であり、コンテストは才能のある人材を一般から発掘して、自分たちで育成していこうという試みを持っていた[170]
ユーザーの囲い込み
ゲームの体験版や最新デモ映像などを盛り込んだCD-ROMを年に数回発行する有償会員サービス「PlayStation CLUB」を1995年より運営していた。発行物以外にはゲームイベントの優先入場権、独自開催イベントへの参加権などの特典もあった[注釈 25]

エミュレータに対するSCEの対応

世界中で大ヒットとなった本機種ではあるが、それに比例して1998年からシェアウェア、フリーウェア問わず多数のエミュレータが登場した。その中のシェアウェアソフトの一部に対し、SCEは積極的に訴訟を繰り返し販売停止を求めた。

Connectix
1999年1月5日 - コネクティクスMacintosh向け[注釈 26]エミュレータソフト「Virtual Game Station英語版」をMacworld Expoで販売。会場内では「SCEが訴訟を起こすのではないか?」との噂[171]
同年1月27日 - SCE、コネクティクスを著作権・知的所有権侵害で提訴[172][173]
同年2月4日 - SCEが申請したVirtual Game Stationの一方的緊急差し止め命令は棄却[172][174]
同年4月21日 - SCEが申請したVirtual Game Stationの仮差し止め命令は受理[175]
2000年2月10日 - SCEの敗訴が確定[176]
同年6月30日 - SCEA、「Virtual Game Station」の特許侵害については訴訟を取り下げるも別件で再提訴[177]
2001年3月14日 - 合法ソフトとして販売され続けていたが、SCEとコネクティクス、技術提携により和解し、同ソフト販売終了[178]
bleem
1999年3月 - bleem社、bleem!英語版の販売開始。
同年5月 - SCE、著作権侵害を理由にbleem!の仮差し止めを提訴。これを受けてbleem社はE3に出展していた同ソフトの自主規制[179]
同年8月23日 - 連邦地裁はSCEのbleem!販売差し止め請求を棄却[180]
2001年11月19日 - 合法ソフトとして販売され続けていたが、国内外にてSCEよりショップに対して繰り返しの販売停止要請が行われた結果、bleem社の事業閉鎖とエミュレータの販売停止へ[181]

関連商品

書籍
  • 最新版 ヤングセレクション プレイステーション 大百科 実業之日本社(1997年8月1日)(ISBN 978-4408614441
  • 最新版 ヤングセレクション プレイステーション 大百科 実業之日本社(1998年12月1日)(ISBN 978-4408614809
  • 2000年最新版 プレイステーション 大百科 実業之日本社(ISBN 978-4408615172
  • 2001年最新版 プレイステーションソフト オールカタログ 実業之日本社(ISBN 978-4408615455
プラモデル
2020年3月にBANDAI SPIRITSより、過去のヒット商品をプラモデル化する「BEST HIT CHRONICLES」の第1弾ならびに第2弾として、「2/5 PlayStation(SCPH-1000)」が「2/5 セガサターン(HST-3200)」と共に発売されている[182]

脚注

注釈

  1. ^ 周辺機器による。
  2. ^ 後継機に対するレトロニムとして。
  3. ^ 2016年に社名をソニー・インタラクティブエンタテインメント(略: SIE)に変更。
  4. ^ 100万台達成はライバルのセガサターンが先に達成。
  5. ^ 「PCエンジンの成功を見たソニーは、ロムカセットの代わりにCD-ROMを用いたゲームを採用するように任天堂に提案」したという説もある[56]
  6. ^ この様な経緯がある為、フィリップスによるスーパーファミコンCD-ROMは任天堂がライセンスを持ち、同社のソフト管理システムを維持する契約内容であった[67]
  7. ^ 2014年4月1日よりSMEJは中間持株会社になったため、本来の事業はSMLへ移管されることとなった。
  8. ^ 一方で丸山は大賀が「そのように言ったらしい」と前置きしつつ、久夛良木にやらせてあげたらどうかと大賀に進言したところ、大賀は久夛良木を「君に預ける」と答えた[71]
  9. ^ ただし、一部のテレビCMなどでは「プレステ」という表現が使用されている。
  10. ^ 厳密には、光を透かすと濃い青色に見える
  11. ^ 実際はブロック内の実データは消去されず、削除処理にしたブロックを未使用領域として管理用ブロックに認識させた上で、該当ブロックをロード不可・上書き可能の状態にすることで、他のセーブデータの書き込みができるようにしている。参照:データの完全消去
  12. ^ 管理ブロック内のセーブデータ2ブロック目の参照設定がゲームBと設定されることで、そのゲームで遊ぶ際にセーブデータ2ブロック目のタイトルをゲームBとして読み込む。仮に管理データがセーブ中のリセット等によって参照設定がゲームAになった場合、セーブデータ2ブロック目がゲームBのままでもゲームAとして読み込む。
  13. ^ テクスチャ・半透明処理・シェーディングを施した時の実測値。
  14. ^ スプライトサイズ8×8ドットの場合。
  15. ^ RAM容量の関係からこの解像度のグラフィックをリアルタイムで動かす事は難しく、主に「一枚絵」と呼ばれる画像の表示に用いられた。
  16. ^ スーパーファミコンの「SPC700」はソニーが開発していた。
  17. ^ 「ライセンシー」。サードパーティーやゲーム開発会社などが該当。対義語にはライセンスを許諾したメーカーを指す「ライセンサー」があり、ソニー・コンピュータエンタテインメントのことを指す。
  18. ^ 初心会は後に別名で復活するが、その影響力は皆無に近くなった。
  19. ^ このフレーズに関して、丸山は消費者向けというより社内向け[136]、久夛良木は協力メーカーへのエール[137]と語る。
  20. ^ LSIの集積化に関してはLSI Logicとパートナーを組んだ[144]
  21. ^ 複数の半導体を一枚のシリコンにまとめる
  22. ^ LSI面積を縮小し、一枚のシリコンウェハーからより多くのLSIを生産する
  23. ^ セガサターンはCPUを始めとして複数社からの半導体の採用による影響でコストカットやワンチップ化がしにくい複雑なハード構成に加え外注による生産であったこともあり、大幅なコストダウンが効かず、ソニーなどの競合機による価格競争に対抗して値下げを続けた結果、多額の赤字を計上することとなりセガは体力を消耗していった[145]
  24. ^ 1986年時点で米Sun Microsystems社のワークステーションが1000万円以上、ソニーのワークステーション「NEWS」の最上位機種は低価格で市場に衝撃を与えたがそれでも275万円であった[161]
  25. ^ 2001年4月からはPlayStation 2向けの会員サービスへと移行している。
  26. ^ 後にWindows版も発売

出典

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参考文献

関連項目

外部リンク