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島田紳助

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島田紳助
本名 長谷川 公彦(はせがわ きみひこ)
生年月日 (1956-03-24) 1956年3月24日(68歳)
出身地 日本の旗 日本 京都府京都市南区
血液型 AB型
身長 170cm
言語 日本語
方言 関西弁
最終学歴 京都学園大学中退
師匠 島田洋之介・今喜多代
コンビ名 紳助竜介(解散)
相方 松本竜介
芸風 ボケ(漫才師時代)
立ち位置 右(漫才師時代)
事務所 吉本興業(最終所属)
活動時期 1974年 - 2011年
同期 タモリ
明石家さんま
関根勤
オール巨人
桂小枝
過去の代表番組 オレたちひょうきん族
行列のできる法律相談所
クイズ!ヘキサゴンII
開運!なんでも鑑定団
クイズ!紳助くん 他多数
作品 映画「風、スローダウン
他の活動 (株)ディンプス相談役
京都市特別観光大使
配偶者 既婚
弟子 島田まさし ほか
受賞歴
1984年 花月大賞 マンスリーよしもと賞
1991年 日本映画批評家賞 特別賞
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島田 紳助(しまだ しんすけ、1956年3月24日 - )は、日本の元お笑いタレント司会者。コンビ時代は紳助・竜介ボケ担当。実業家でもある。本名、長谷川 公彦(はせがわ きみひこ)[1]

京都府京都市南区出身。2011年8月24日まで吉本興業よしもとクリエイティブ・エージェンシー)に所属していた。株式会社ディンプス元相談役。[2]京都市特別観光大使

プロフィール

自称身長170cm、体重70kg、血液型AB型。妻は一般人で、3人の娘がいる。

京都市立唐橋小学校・京都市立八条中学校を経て大谷高校卒業、京都学園大学入学であるが、親が入学金を支払った直後に弟子入りしたため通っていない。この事と本人から自身の大学についてのエピソードが語られる事もなく、学歴は大学中退である。

吉本興業に属しているが、別に「有限会社オフィス百三十アール」(通称 「130R」)という個人事務所を設けている。事務所の名前は鈴鹿サーキットにあるコーナーの名称に由来している。ちなみに、紳助に弟子入りを申し込んで断られた板尾創路(その後NSCに入る)はこの「130R」という名前を気に入り、紳助の了承を得て、「130R」という名前をほんこんと自身のコンビ名にした。

弟子に島田まさしらがいる。また土建屋よしゆきは高校の同級生。

多くの芸能人からは「紳助さん」、(若手芸人)同期の明石家さんま和田アキ子坂田利夫ら先輩芸能人からは「紳助」、くりぃむしちゅーら中堅芸人からは「紳助さん」の他に「師匠」と呼ばれている。また、フジテレビ系列『クイズ!ヘキサゴンII』や日本テレビ系列『人生が変わる1分間の深イイ話』などで作詞家として活動する際の名義は「カシアス島田」である。ただし、紳助本人は「遠い親戚」と主張している。その他にオール巨人からは「紳ちゃん」、松本人志からは「紳助兄やん」、自身の妻は「みー君」(本名の公彦から)と呼んでいる。

プロ野球阪神タイガースファン。その一方で、近鉄バファローズの選手に「目標を達成できなければ、丸坊主にする公約を誓わせたり、千葉ロッテマリーンズの外国人選手が活躍できるかどうか?」予想したりするなど、他球団の選手に関しても公平に接している。「阪神ファンだが、若くて野球の実力があったならば巨人に入る」とも冗談交じりに話している。阪神関係者では掛布雅之金本知憲と交友がある。 1985年に「阪神が優勝したら坊主になります」と公言したが、板東英二が「仕事の都合上遠慮してください」と言われ、関係者にレトルトうどんを配ったことがある。

嫌いなものは高い所と毛虫[3]。苦手な食べ物はトマトジュース、パン、ホルモン[4]

人物

  • 出演番組内で自ら涙を流したり、感動演出を行うことが多い。
  • 下ネタを交えたトークを行うことが多々あった。
  • 老眼の年齢に差し掛かったこともあり、共にフジテレビ系列『一攫千金!日本ルー列島』や『クイズ!ヘキサゴンII』の初期にはメガネを着用して番組に出演することもある。特に、TBS系列『オールスター感謝祭』では200人もの芸能人を仕切らなければならないため、毎回眼鏡を着用し司会を務めている。
  • 海外旅行は、絶対にグアムしか行かないことを1990年代にフジテレビ系列『メトロポリタンジャーニー』で明らかにしていたが、その後ABCクイズ!紳助くん』のロケで韓国に行ったことからそのポリシーを変え始めている。また90年代末頃からグアムに代わって沖縄へ旅行する。2004年の謹慎期間は石垣島などに滞在していた。2009年は休日を沖縄・石垣島で生活。
  • ものまねのレパートリーは本人曰く「0」。一応、後述の通り出演番組内で草野仁所ジョージ古畑任三郎田村正和)などのまねを披露している。だが、あまりにも似ていないものもあり、共演者から不評を買っている。
  • BSの番組を好んで視聴している。
  • 生まれ変わったならばフラミンゴになりたいらしい。
  • 口笛を吹くことができない。
  • ドジョウを飼っている。
  • フジテレビ系列『めざましテレビ』内で行われた大塚範一の対談にて、「現在の自分は芸人とは思っていない」と語っている。また、「娘の結婚相手に芸人は許さん」とも発言している。
  • 極度の高所恐怖症である。ある番組でリフトに乗った際、2mの高さで本気で怖がっていた。また高いところで作業している人間を見ているだけで気分が悪くなるとも発言している。また、『松紳』で、脚立の一番上にも立てないことを明かした。
  • 1人っ子だった為、かねてから1人っ子の有害性を主張しており、一人っ子政策によって中華人民共和国がいずれ衰退すると断言している。

家族・生活

1995年から約10年間、家族で大阪府能勢町に引越し、著書名を引用すると『「えせ」田舎暮らし』の日々を過ごす。そこでの日々はトークのネタとなっていた。

結婚に関して、「自分の命と同じ価値のある人とする事」という考えを持つ。因果関係は不明だが、自身が作詞した『僕らには翼がある〜大空へ〜』に「命と同じ人に出会うまで」という歌詞がある。

高校時代のクラスの友人・知人とは卒業後から現在に至るまで交流があり、毎年年2回のペースで同窓会を開くほどの関係である。また、地元に有名人がプライベートで訪れた時も友人から必ず報告があり、過去には紳助と親交もある渡辺正行が女性とお忍びで紳助の地元・京都に訪問していたときもすぐに紳助の耳に入っており、そのことを渡辺本人に伝え驚かれた経緯がある。

両親とは毎月一回は実家に帰り、両親に直に会って仕送りを手渡す事を習慣としている。紳助曰く、実家に顔を出して話する事で親が危篤になった時に意識不明であるなら病院に行っても自分がいる事もわからずにただ心配するだけとなるからそれなら普段からこうして会って話しする事で後悔しないようにしていざその状況になっても自分は(仕事を抜けて)病院にはいかないからと両親には因果を含めている。高齢となった両親は2007年3月18日放送分の『行列のできる法律相談所 「紳助と行くとっておき裏京都の旅スペシャル」』に出演したことがあり(磯野貴理子が京都にある両親の自宅を訪れる形)、「紳助が司会を務める番組を常に観ている」とコメントした他、母親は紳助について「言葉遣いが悪いところを気にしている」と話していた。

娘(3人娘の何番目かは不明)は破天荒な部分があると磯野が日本テレビ系列『行列のできる法律相談所』で話した。それは磯野が紳助の自宅ですき焼きを御馳走になった時に居合わせた、すき焼きに使った牛肉を育てた農家の人に対し(皆で「おいしい」と話しているにも関わらず)「自分で育てた牛食べるのってどんな気分なんですか?」と質問し紳助が止めたが、それでも治まらずしばらくしてから「牛の名前とかって覚えているんですか?」と聞き出したという。

仕事も軌道に乗っていた80年代半ば、腹膜炎をこじらせ開腹手術を受けている。腹部に化膿した膿が広がっていたため直ぐに縫合せず、約1ヶ月の間、患部にガーゼを詰めて膿を除去する治療をしていた。その間、ベッドに寝たきりのまま寝返りを打つことも出来ず、痛みと苛立ちと不安で精神的に極限状態だったという。世話をしてくれる家族に対し泣きながら大声でなじったり、唯一動かせる手で物を投げつけたりしていたという。暫くして腹部を縫合し、一般病棟に移ることが出来ると積極的に医療関係の本を読み、二度と大病を患わないよう自ら予防を心がけるようになった。その頃の経験が現在まで続いており、定期的に病院・診療所に通い、健康診査を受けたり、薬を常備している。日本テレビ系『行列のできる法律相談所』で医療特集をやった際、医療について専門的な知識を披露して、専門家も認めるほど。また、生死の境を彷徨っている自分がどのような状態にあっても、ひたすら耐えて励まし介護をしてくれた家族に強く恩義を感じているという。自らの人生観も大きく変わったという。

数多くのレギュラー番組を持っているが、それらの収録は週末に集中しており、平日の3日か4日は休み。は火・水・木の3日間は定休日で、以前までは月も休み。まれにゲスト出演する場合、定休日でも仕事をすることがある、と話す。2009年7月26日放送のフジテレビ系列『FNS26時間テレビ』では月・火・水・木曜日は休みであるため、沖縄に帰って過ごしていると明かしている。最低でも1年間は沖縄と東京を行き来する生活を送ろうと思っているとも語った。沖縄石垣島)で生活する時の名前は、「マイク与那嶺」である。また、「宅配便が届いた時に、マイクさ~んと言われるのがうれしいが、与那嶺という漢字が難しい。」と発言[5]

自身が死去した際の告別式の出棺時に小田和正のものまねタレントオフコース小田に『言葉にできない』を歌ってもらうのが夢と語っている。

弟子・相方

弟子に対する面倒見はよく、紳助の元で修行をしながらも芽が出ずに芸人を辞めた弟子にも特にその人柄や芸事に対する姿勢を見て評価しており、かつて紳助の弟子であった野呂祐介は師匠である紳助の目から見ても漫才の才能は優れていなかったが先述の5の努力をする人間性を評価しており、漫才を辞めてお好み焼き屋をやることを勧める、包丁を握ったこともない消極的な反応を示す野呂に紳助はできるはずと確信し、日夜努力し続けた結果、開店一年半で行列ができる程繁盛している状況に野呂の持つ努力の成果が報われたことを喜んでいる。他にも同じく芸人を辞めるときに野呂と同じ人間性を評価した弟子には自身の経営するお店を任せるなど芸人としての資質はなくとも努力する弟子には何分にも評価している。

元相方の松本竜助について、著書に「彼が居たから8年もの間漫才が出来た」と記してある。また、竜助に対し「俺は司会者になるために漫才をしている」と話していたとのこと。2006年3月に竜助が倒れた際には東京での仕事を全てキャンセルして大阪へ駆けつけた。同年4月1日に竜助は亡くなったが、通夜と葬儀には参列しなかった。

事業

テレビ業以外にも喫茶店、寿司店、BARを経営するなど実業家としての顔も窺わせる紳助だが、お店を経営する理由としてひとつは“自分の能力を自分の中で証明するため”としており、自身が芸人として成功した要因がフロック(偶然)でなかったことを証明したかったこと、またもうひとつの理由は若者へのメッセージとして「5の努力をもっている奴は時間はかかっても絶対成功する」ということを証明するためとしている。それは“才能と努力を通知表の5段階に例えて評価し、才能×努力=結果であるという紳助独自の算出論”を掲げており、“5の努力を持っている者はこの世界がダメでも他の世界で努力を繰り返すうちに自分に合った新しい世界を見つけて絶対成功できるから”であると確信している。

時事問題を扱った番組の出演から知識派のイメージを持たれる。しかし株運用では1990年前後のバブルとその崩壊により損失を被った。JALの経営危機が囁かれ始めた2000年代前半より、多数のJAL株を購入・所有し、結果JALの倒産によって億単位の損失を出した。これに本人は「株儲けで買っていない。沖縄に行くためのJALの株主優待券をたくさん貰うため」、JALのロゴマークにかけて「あんなに恩返しをしないツルはいない」[6]「よく見たらツルではなくサギ(詐欺)だった」[7]などとネタにしている。また大阪・心斎橋に自社ビル(土地の所有者は別)を所有しているが、購入時は5億円だった物件が現在は資産価値5000万円にまで下落している。

芸能観

毒舌的なテレビ芸を売りにしている紳助だが、当初MCとしての地位を確立するために他の司会者を引き合いに出し、「さんまには天性の明るさ、古舘さんには理論の面ではかなわない」とし、他者と比較し分析した結果、毒舌を売りにする司会者としての地位を確立した。ただし、自分の中のルールとして「好きな人の悪口しか言わない」ことを公言し、守っている。ちなみに、ビートたけしは「司会では紳助に勝てない」と発言している。

「大物芸能人である自分と一般人では特別な力などで違いはない」とし、続けて「どう(力があるように)見せ掛けるか(が大事)」と発言した事がある。

自身の笑いについても明石家さんまダウンタウンを引き合いに出し、「さんまは何でもないトークでも爆笑させる力がある。ダウンタウンの笑いは何度見ても笑える二次使用としての力がある。自分の笑いはその時にしか通用しないから瞬発力が必要になる。」と評している。

紳助竜助が漫才師として脚光を浴びていた当時、芸能界で権威を誇っていた横山やすしから「お前らの漫才はチンピラの漫才や!」と一蹴されたがそれに対して紳助は「師匠、違います。馬に例えれば『やすきよ』の漫才はダービー馬みたいなものです。ボクらはどんなに頑張っても師匠のようなダービー馬にはなれません。だからボクらは師匠とは違う種目の障害レースの競争馬で一等を狙っているんです」と伝えるとそれを聞いたやすしは「わかった」と一言残し、後日やすしから「お前らは障害馬でお前らなりに頑張れ」と言葉を受け、ジャケットのプレゼントを頂いた挿話をやすしの訃報時のコメントとして残している。

ダウンタウンが全国区の芸人となって以降、ダウンタウンの漫才のスタイル(テンポを遅くした調子でしゃべる、ダラダラ舞台に出る、など)を真似る若手が多数現れた。それについて紳助は、「ダウンタウンは、それまでの漫才をこなした上で、あのスタイルにたどり着いている。彼らはピカソだ。それを漫才の基本もなってない若手が、ただスタイルだけダウンタウンをまねしても面白いはずはない。」と批判している。

M-1グランプリの立案理由について、「世の中、テレビはおろか、劇場に立ったことすらほとんどない、売れない芸人はたくさんいる。それでも、そういう子らは夢を見てやってるから辞めようとしない。そこで、M-1に出られる期限を結成10年にしたら、まあそこで芽があれば、準決勝に出てテレビに映る。運のエエ子らはそこ以外で世に出られる可能性もあるけど、基本的には10年やって芽が出なんだら、お笑いをやめるべき。周りを不幸にする。そのための区切り。」と語っている[8]

和田アキ子に影響を受けたため挨拶や礼儀作法には厳しさを持ち、自身の番組でゲストとして出演することになっていた溝端淳平が番組に遅刻してしまった際に、その遅刻の理由が溝端自身が搭乗した飛行機のトラブルによるものであり、溝端自身には非が無いにも関わらずあたかも自分に非があるかのように謝罪した溝端の人間性を高く評価していたり、ピース綾部祐二が吉本芸人の風紀委員を自称していることについても「そういうの好き」と言うなどしている。このように謙虚で礼儀正しい人間ばかりを評価していると思われがちだが、その一方で亀田三兄弟や石井慧本田圭佑などの結果を出してはいるものの生意気な発言・パフォーマンスが見られる人間に対しても理解し高く評価するなどの寛容さもある。

くりぃむしちゅー上田晋也を非常に高く評価しており、日本テレビ系列『しゃべくり007』ゲスト出演時に「最も人数の多い30代の芸人の中で上田は一番」「上田や名倉潤ネプチューン)は(将来)大丈夫だと思う。この2人が難なく生き残れる程芸能界は甘くないが、お前ら(堀内健有田哲平原田泰造)が出し抜くことはない」「自分を謙虚に評価している上田は脅威。そういう奴は失敗しない」と述べた。また、2009年7月26日放送分の『行列のできる法律相談所』でも「10年後は上田が日本中を仕切っている。有田は見失っても上田だけは見失うな」「人として優れている」「上田は男気がある」と絶賛した。

政治観

テレビ朝日ABC系列『サンデープロジェクト』や読売テレビ紳助のサルでもわかるニュース』の出演を機に予習として政治や時事問題について独学で勉強する。この頃から大阪府知事選挙や国政選挙での出馬の可能性についてしばしば報道される。

東国原英夫は、紳助が「俺は政治家じゃなくて、商人だ。豪商の立場から政治家を応援する」と自らに語ったことがあるとし、転身の可能性について否定している[9]。他タレントから政治活動への転身を勧められた際「賄賂でも持って来られたら言下に断れず、お礼を言ってそのまま貰ってしまう」と客観的に自身の性格を分析した。

『サンプロ』降板後、2004年参院選で、民主党から出馬した尾立源幸の選挙運動の応援演説に駆けつけた。尾立はこの選挙でトップ当選を果たした。同時に「民主党候補を支援したのは強力な2大政党制をつくるため。民主党が政権を取ったら今度は自民党を応援する」と語った。投開票日の夜、選挙事務所でABCなどのインタビューで「『サンプロ』をしてきた事への恩返し」と発言。

2008年4月27日放送の『行列のできる法律相談所』にて、橋下徹大阪府知事による4年間の府政によって結果(大阪府の債務削減など)が出なかった場合、自らが出馬して同知事と争うと冗談で言っていた。また、同日に橋下府知事より、選挙戦での演説におけるアドバイスを求めていたことを同知事によって明らかにされた。作戦は「情に訴える」だったという。

政治信条に関しては保守主義で、読売テレビ制作・日本テレビ系列『今夜はシャンパリーノ』で憲法9条がテーマとして取り上げられたとき、「改正したほうが良い」と発言している。

音楽活動(作詞家・音楽プロデューサーとして)・音楽観

音楽好きで古くから音楽活動を行っており、後述の通り音楽関係者とも幅広い交友関係がある。歌手活動の経験もあるが、自身の歌唱力には否定的な発言をしている。作詞家としてのペンネームは「カシアス島田」。

紳助の作詞楽曲の特徴として、「夢を持つ事の大切さ」や「友情」、自身が好きな沖縄を表した歌詞が多く登場する。また、自身は作詞に関して「誰にでもできる」との考えである。

川内康範が作詞した『おふくろさん』の歌詞を、同曲の歌い手である森進一が勝手に改変したとして、2007年に発生した騒動(おふくろさん騒動)について川内に同情し、「これはムカつくな」と発言した(ちなみに、紳助がこの騒動の概要を知ったのは『クイズ!紳助くん』にゲスト出演した清水アキラが森のものまねを交えながらこの場で紳助を含む出演者陣の前で説明したことがきっかけ。それまでは本人曰く「ワイドショーで観たけど詳しく知らなかった」)。

NHKNHK紅白歌合戦』は若い頃から全く興味がなかったが、自身がプロデュースした羞恥心Pabo2008年の『第59回NHK紅白歌合戦』に出場したことに感激し、紅白に関心を抱くようになり、出演番組内で「紅白の司会がしたい」と語ったこともある。なお、羞恥心とPaboの紅白出場が決まった際に一部メディアが紳助が応援ゲストで紅白に出演するのではと報じたが、出演はなかった。

スポーツ

1986年から1995年までの10年間、レーシングチーム『チーム・シンスケ』の監督として、鈴鹿8時間耐久ロードレース全日本ロードレース選手権に参戦した。NHKスポーツ番組でインタビューが放送されたこともある。1980年代後半はバブル景気の絶頂期であり、モータースポーツ界には各方面のタレントをお飾りで監督に仕立てた(つまりサーキットに来てもレース関係の仕事は何もしない)レーシングチームが2輪・4輪を問わず乱立していたが、紳助は自ら企画書を作成してスポンサー企業を回ったり、レース当日は自分で作戦を立ててライダーやスタッフに指示を出したりし、他のタレント監督とは完全に一線を画していた。その時の活動を書いた著書『風よ、鈴鹿へ』は、小説ではあるがノンフィクションに限りなく近い作品である。また、91年にはバイクレースをテーマとした映画『風、スローダウン』の監督をつとめている。

自身も高校時代に経験しているためかボクシングに対しての造詣が深く、他のスポーツに比べて世間的にマイナーなイメージがある事を遺憾に思い、先述の亀田一家のパフォーマンスや過去にも辰吉丈一郎の対戦相手を挑発する言動にもボクシングを世間にアピールするための言動と評している。自身もボクシングに対しての敬意があり、当時数度の防衛を行ないながらも世間的には認知されていなかったWBC世界バンタム級王者の長谷川穂積を自身の番組のゲストで呼び、いく度となく取り上げるなどボクシングと王者に対する敬意は余念がない。また渡辺二郎との交友履歴が長かったが、これが彼を芸能界引退に導くこととなった[10]

ボクシングの亀田一家への理解が高く、『行列のできる法律相談所』において、面識のない亀田一家に対する意見を語ったところ、亀田興毅から丁寧なお礼のメールが来た。ちなみに亀田興毅は、たむらけんじから紳助のメールアドレスを聞いたとのこと(たむらけんじが経営する焼肉料理店が亀田家のスポンサーを務めた縁から)。

2007年の日本シリーズ第5戦において、中日ドラゴンズ落合博満監督が行った、完全試合目前だった山井大介から岩瀬仁紀への継投(2007年日本シリーズにおける完全試合目前の継投の項も参照)について批判的な見解を2008年1月1日付けのスポーツ報知に掲載された当時宮崎県知事東国原英夫との対談内で述べた。

マンガ・アニメ

漫画、アニメは20才に『あしたのジョー』を読んだ・観たきりというほど見ない。さらには「子供の時から一切(漫画を)読まへん、はまったアニメもないし、あんなもん(漫画)家に何もないで」「大人が漫画読むなよ」と発言した事すらある。しかし、アニメ『バリバリ伝説』のラストを見て涙を流している途中、友人から電話がかかってきて「今、ええとこやねん」とそのアニメについて語ったところ友人から先にオチを云われて感動が薄れてしまった挿話を披露したり、『クイズ!紳助くん』において個性のキツイ(濃い)顔の突撃隊員を見て「お前、どおくまんプロの漫画に出てくるような顔やの」とつっこんだり、また話の中でブサイクな女の子を例に挙げた表現として「『嗚呼!!花の応援団』に出てくるみすずちゃん(注:作中に登場する漫画史上類を見ないブサイクキャラ)みたいな…」と表現したり、『CLUB紳助』においてまんだらけの社長・古川益三をゲストに迎えた時に当時連載中であった『ナニワ金融道』の話をするなど少なくとも上記三作品については読んでいたものと思われる。

わたせせいぞうの作画で漫画原作を担当している。

フジテレビ系アニメONE PIECE』のテーマソング『風をさがして』(矢口真里とストローハット)の作詞を依頼されたが資料をほとんど見ないで完成させ、次女に見せたところ、「全然違うで」と不評だったと語り、[11]その意見を聞いて、ONE PIECEのアニメを視聴した上で作詞を一からやり直した[12]。その後同曲が同アニメのオープニングとして流れた直後、東映のホームページやフジテレビの掲示板に多くの批判的な書き込みが寄せられ、炎上する騒ぎが起こったが、これは、オープニングとして使用された時期に放映されていたのが、シリアスシーンが比較的多い「インペルダウン編」であり、明るい曲調のこの曲には合わないという意見が多かったため。また、曲調の明暗は作詞よりも作曲による範疇。

映画・ドラマ

基本的にDVD等をほとんど見ない。理由は「TSUTAYA等に芸能人が行くと借り方が分からないとバカにされていそう」と番組で明かしている。しかし番組を見たTSUTAYAの広報部が人生が変わる1分間の深イイ話で「TSUTAYAは入会方法や借り方を初心者でも親切丁寧に教えます。決してバカにしたり笑ったりしませんのでご安心ください」と番組にコメントを寄せた。ただし、全く見ないというわけではなく、「松紳」内ではレンタルした「タイタニック」や「呪怨」の感想を述べている。CDも「スタンド・バイ・ミー」をTSUTAYAで借りていることから、紳助本人が借り方を知らないわけではない。

映画『ガキ帝国』の撮影中のベッドシーンで演技指導を仰ごうとした紳助に監督である井筒和幸から「紳ちゃんの普段どおりにやってもらったらええよ」と云われ、「なんでみんな(撮影スタッフ)の前でオレのベッドシーンをプレゼンせなアカンねん!」と困惑したエピソードを披露している。

映画『』に出演した時、台本を手渡されたがタイトルが読めなくて(紳助自身、曜日の“曜”みたいな字に思っていた)撮影所で本番を待っていたが、『櫂』組撮影本番のアナウンスがされた時も動かなかったので関係者から「紳助さん、『櫂』組でしょ。アナウンスされてますよ」と聞かされたところ「いや、ボクは“かい”ではなく“よう”という作品なので…」と返答した。

当作品の監督である五社英雄から台本の感想を聞かされた際、まだ台本に目を通してなかった紳助は「いやあ、素晴らしかったです」と握手を求めた。

ドラマ『海岸物語☆昔みたいに』にレギュラー出演をしていたが、当時撮影時間の拘束が長く、他番組出演の多忙さもあって睡眠時間がほとんどなく、ディレクターに「すみません、次回でボクを殺してもらえませんか?」とお願いした。当然実現する事はなく撮影は続き、作中でレギュラーの一人が海外へ行く展開となり、レギュラー陣が空港で見送りに行く場面で突如アドリブで「ボクもついて行きます」と答えて行こうとしたので(当然カットがかかり)ディレクターに「何をやってるんだ!」と叱責を受けたところ「スミマセン、ボクも一緒に行かせて下さい」と懇願した。

『CLUB紳助』〈1992年9月13日放送〉でゲストに映画監督・深作欣二を迎えて(当時『いつかギラギラする日』の宣伝で出演)のトークで『仁義なき戦い』や『蒲田行進曲』の大ファンであることを話していた紳助に深作から「あなたの映画(『風、スローダウン』)の話もしようか?」と云われ、作中での関西弁の使い方の面白さなどの感想を聞かされ、あまりの意外な展開(大好きな監督から自分の作品を観て貰えていた事)に嬉しさのあまりテンションが上がり、自作の撮影挿話を話し込んでしまい、深作から「今日は私の作品(の話)だから…」とたしなめられた。

映画『瀬戸内少年野球団』で共演した夏目雅子の印象として「ものすごくいい人」と語っており、本作での子役たちが親元を離れて寂しがっているだろうと思い、撮影期間中毎日、夏目雅子が子役たちと一緒にお風呂に入り、背中を流してあげていた挿話を披露している。その際、子役たちから夏目雅子と一緒にお風呂に入った事を聞かされた紳助が空ビンを渡して「今度、夏目さんと風呂に入った時、このビンに夏目さんの残り湯を入れてこい」と伝えた。

NHKドラマ『女殺油地獄』で松田優作と共演しており、当時楽屋でかつら合わせの時に隣同士となり、その時、演出家である和田勉が松田優作のかつらに触れて「このヅラ、取れないヅラ」などダジャレをいっぱい喋っていくが、それに関して無表情を装い、凄みのある優作口調で「あっちいきなさいよ」と話し、危険を察知した和田勉が退出した後、しばらく沈黙してから「紳助さんはコカインとかやらないんですか?」と優作からの唐突な質問に返答を窮し、「(紳助自身は優作のギャグだと思い)いやあ、ボク花粉症なんでそんなんしたらクシャミが止まらなくなると思うんですよ」と返答したところ、クックッと笑いをかみ殺しながら「よしなさいよ、ズラ(カツラ)、ヒビいく(ひびが入る)じゃないですか」と答えた優作を笑わせた。

ドラマ撮影後も優作と飲みに行き、「好きですよ」と褒めてもらえたことやタバコを吸うときに優作からライターで火をつけてもらえた事(紳助曰く、優作の代表作である『探偵物語』の工藤ちゃんを見ているようで嬉しかった)を語っており[13]、現在でも有名人との共演での思い出エピソードで語られることが多い。

2010年5月25日放送の『紳助社長のプロデュース大作戦!』においてレオナルド・ディカプリオ主演によるハリウッド新作『インセプション』の公開を控えた共演者である渡辺謙が当番組に自ら宣伝オファーのために出演。番組MCである紳助とは過去に映画『瀬戸内少年野球団』(渡辺謙にとっての映画デビュー作)で共演して以来となる実に26年ぶりの対面を果たした。後日、紳助の店で対面した時に当時渡辺が本作に出演していた事を知らずに謝る紳助に「当時、自分はペーペー(下っ端)だったので紳助さんが知らなかったのは当然ですよ」と答える渡辺の物腰の低さや謙虚さ、また渡辺の物事を取り組む姿勢に改めて好感を抱いた。

来歴

芸能界入りまで

父親が国鉄職員(南満州鉄道の職員歴もある)の家庭に生まれ育つ。「松本紳助」で紳助本人が語ったところによると「鳩みたいに真面目で温厚な性格で、自分が警察に補導されても『話し合いで解決できる』と言って一度も激怒しなかった」とのこと。

中学生の時は学校の窓ガラスを割ったり、教室で盗品を売りさばいたりしており、高校生の頃に車上荒らしで補導されて少年鑑別所送致された経験がある。少年時代は暴走族であったと語っており、現在も当時の話をしばしばネタにしている。高校のとき教師から叱責されたのを機会に「おもろい不良になろう」と改心(?)する。高校時代のあだ名は、泣きながら熱く語ることから「泣き虫みー君」。高校の三者面談で「公彦君はこの学校のゴミです」と言われたことがあった。また、高校時代に生徒会長に立候補しようとしたところ、教職員一同に「頼むからやめてくれ」と言われたという。後年、芸能界で大成した後に学校へ行くと「君はこの学校の誇りだ」と言われ、それに対して、「ゴミと誇り(埃)やったら変わらへん」と冗談めかして話している。高校時代の担任は宗教の教諭であり、注意するときに叱り付けるのではなく、「インドの偉いお坊さんはな・・・・」と悟られていた。その一方で「大学を出ないと人生のスタートラインに遅れる」と考えていて、勉強はやっていたという。

10代の頃は大場政夫に憧れ、ボクシングジムに通っていた。1973年には京都府高校フライ級1位を獲得(ただし紳助いわく出場者は3人)また、料亭に勤めていたことがあり、将来は寿司屋競艇の選手か漫才師かと考えていた。

18歳で芸能界入り

18歳のとき、B&Bに憧れ、B&Bの師匠である漫才コンビの島田洋之介・今喜多代(現・今日喜多代)に弟子入り。同期に明石家さんまオール巨人桂小枝などがいる。「島田洋七を倒すことに俺の青春を賭けよう」と誓ったが、「結局何もしてないのに勝手に倒れた」と当時を振り返っている。

「島田紳助」という芸名の由来は、「島田」は師匠の島田洋之介一門から、「紳助」という名前はいくつかの芸名候補の中から、師匠の島田洋之介が「『紳助』でいいやん」という一言で決まった。(他の芸名の候補に、「洋太」、「洋洋」、「洋福」、「洋慣」、「洋吾」などがあった)。(本人の談)。

なみに紳助本人は数ある芸名候補の中で「けんじ」という芸名にしたいと思っていたが、反対に「紳助」が一番嫌だと思っていたという。理由は、子供の頃に同じ「しんすけ」という名前の友達がおり、その友達があまり良い印象ではなかったためだという。ちなみに、同期の杉本高文に「島田紳助」という芸名が決まった時に「その名前じゃ絶対に売れない」とからかわれ、紳助は落ち込んだが、逆に杉本が「明石家さんま」という芸名をもらったと聞いた時、紳助は「こいつ(芸能人として)終わった」と大笑いしたというエピソードがある。

弟子入りしてから竜介に出会うまでの2年間は別の芸人と2回コンビを組んでいるがどれもまったくうまくいかず、すぐに解散している。この2年間にキャバレーの呼び込みのバイトをしたり、緻密な研究ノートを書いたり、海原千里・万里夢路いとし・喜味こいしB&Bらすでにテレビで活躍している漫才コンビのレギュラーの本数の推移のグラフなどを書き、部屋いっぱいに貼っていた。トップホットシアターなどの劇場に通い漫才を生で研究していた。

20歳代

1977年9月にNGKで進行をしていた松本竜介(解散後松本竜助に改名)と漫才コンビ紳助・竜介結成。明石家さんまにコンビを組もうとして断られた結果、さんまが紹介したのが竜介だった。つなぎ作業着風の衣装を着てリーゼント姿の紳助が竜介と絡む芸風は「ツッパリ漫才」と呼ばれ、若い男性を中心に爆発的人気を得る。1980年頃からの漫才ブームでは、関西の雄として一角を担った他、後輩のダウンタウンにも大きな影響を与えた(詳細は紳助・竜介の項目を参照)。

1981年には、井筒和幸監督の映画『ガキ帝国』で竜介とともに映画初主演を果たした。 同年、後に伝説のバラエティ番組となるフジテレビ系『オレたちひょうきん族』にコンビ揃ってレギュラー出演。この番組で紳助は、TBS系『ザ・ベストテン』のパロディコーナー「ひょうきんベストテン」の司会を務めたり、同期のさんまの恋人役で女装をしてコントを演じたりなど、竜介とのコンビにとらわれない形での出演が増え、紳助個人の才能を見せるようになる。

漫才ブームが次第に沈静化する中、1985年5月、紳助・竜介は解散。その際、「このままではサブロー・シローダウンタウンには勝てない」と発言した[14]

30歳代

1987年、日本テレビ系列『歌のトップテン』で和田アキ子と共に2代目司会を担当。この番組で紳助は和田から司会術を学び、先述の「ひょうきんベストテン」やABC『ヤングプラザ』、MBSヤングおー!おー!』、そしてこの『歌のトップテン』で司会者としての礎を築いた。 現在は司会者としての活躍がメインであり、パネラーとしての出演は滅多にないが、この頃には共にTBS系列『クイズ!!ひらめきパスワード』、『わくわく動物ランド』、フジテレビ系列『アイ・アイゲーム』には解答者として出演していた。

1988年ごろ、東京・大田区羽田空港にて一般の男性を相手に刑事事件になりかねないトラブルを起こしている(この時は紳介竜介の相棒である松本竜介が間に入って止めたため、事なきを得ている)。

1990年代の紳助は、お笑いにとらわれない形での仕事が増えていった。特に1990年に、テレビ朝日系列の報道番組サンデープロジェクト』の司会に起用されたことは話題を呼び、2004年まで14年も続く仕事となり、その間にタレントとしてのイメージを大きく変えることになった。 以降、司会者としての出演が増え、司会を務めた共に日本テレビ系列『EXテレビ』、『嗚呼!バラ色の珍生!!』、TBS系列『ダウトをさがせ!』、テレビ東京系列『開運!なんでも鑑定団』などが人気番組となる。特に、1991年秋には現在も続いているTBS系の春・秋の名物大型特番『オールスター感謝祭』がスタートし、毎回200人もの芸能人を3〜5時間半の長時間仕切り上げ、司会者としての地位を不動のものにする。

こうした司会業の中で、若手の芸能人や素人の出演者を「いじる」才能が徐々に注目されるようになった。それまでバラエティ番組とは無縁だった歌手や俳優のバラエティ番組との相性を見抜いて自分が司会する番組に出演させることが多く、円広志高木美保misono[15]のように、それをきっかけに活動の幅を広げていく芸能人も多数存在する。

40歳代

2000年代に入ってからはプロデュース業にも進出。関西テレビ紳助の人間マンダラ』(関西ローカル)では、吉本興業お笑いコンビであるランディーズロザンキングコングの3組によるアイドルユニット「WEST SIDE」をプロデュース。関西圏ではジャニーズ事務所のアイドル達をも凌駕するほどの大人気グループに成長させた。

2001年には吉本興業から「漫才復活のために知恵を貸してください」と頼まれ、漫才選手権大会(テレビ番組でもある)「M-1グランプリ」を企画。大会委員長として審査員も務めた。笑い飯・ブラックマヨネーズ・チュートリアルなど数多くの若手漫才師を世に送り出す。麒麟・南海キャンディーズなど優勝せずともこの大会をきっかけにブレイクしたコンビも多い。2008年度からは「国民的行事」と呼ばれるほどの注目度と人気が高まった(この年、関西地区での平均視聴率35%以上、瞬間視聴率は40%以上を記録した)。2010年度を以て惜しまれつつ終了したが、紳助は「惜しまれて終わるのが一番いい」と述べている。

2004年10月から2005年1月までの間は傷害事件(詳細後述)により一時、テレビから姿を消していたが、年明けに復帰。

2005年、石垣島に喫茶店「TOMURU(トムル)」をオープン(紳助の個人事務所が経営)。同年、京都で料理店を営んでいた古塚健一と共同で株式会社はせ川を設立。11月に大阪・東心斎橋に「寿司 はせ川」をオープンし、2007年9月には東京・西麻布にもオープン。その他、大阪・東心斎橋に「しゃぶしゃぶ チョモランマ はせ川」や「京風鉄板 はせ川」、「バー はせ川」などを展開する。

50歳代

2005年10月からのフジテレビ系列『クイズ!ヘキサゴンII』ではPabo羞恥心といったユニットをプロデュースし、ブームを巻き起こす。これをきっかけに以降、カシアス島田名義で作詞活動を行なうようになる。

2007年以降の国政選挙施行日の日本テレビ系列の選挙特別番組ZERO×選挙』でメインキャスターを務めている。

2009年6月14日放送分のNHK総合テレビMUSIC JAPAN』に「カシアス島田」名義でコメント出演した。それが15年ぶりのNHKの番組出演になった。

2009年2010年、毎年夏にFNS系で放送されている大型長時間番組/『FNSの日』(2009年は『FNSの日26時間テレビ2009超笑顔パレード 爆笑!お台場合宿!!』/2010年は『FNSの日26時間テレビ2010超笑顔パレード 絆 爆笑!お台場合宿!!』)の総合司会を2年連続で務めた。その中でFNS局対抗企画として2年連続で開催した三輪車12時間耐久レースで大会委員長を務めた。

オリコン調査による「好きな司会者ランキング」では2009年・2010年で2年連続1位を獲得した。一方、 日経BP社刊『日経エンタテインメント!』編集部調査による「お笑い芸人人気調査」において、「嫌いな芸人ランキング」では2011年第1位を獲得した[16]

2011年8月23日、所属する吉本興業から引退が発表され、この日をもって芸能界を引退した(詳細後述)。

傷害事件

2004年10月25日、大阪・ABC社内にて『クイズ!紳助くん』収録前、同じ吉本興業に所属する勝谷誠彦の女性マネージャー(当時40歳)が、紳助の尊敬する会社の社長や上司を呼び捨てにして話すのを聞き、さらにその女性が会社に入ってすでに5年目と知り、その女性を別室に無理やり連れ込み説教をしたが、反省の様子がまったくないと腹を立て、拳や物で殴る、髪をつかんで壁に打ちつける、顔に唾を吐きかけるなどの暴行を加え、全治一週間の頸椎ねんざを負わせた。

すぐさま被害者である女性は大阪府警大淀署に診断書を提出し、10月28日付で傷害容疑で告訴した。紳助は警察に訴えられたと知ると、同日に吉本興業の東京支社で記者会見を開き、暴行傷害の容疑を認め、テレビカメラの前で「100対0で僕が悪いです」、「被害者が芸能界を辞めろと言うならすぐに辞めます」と言って泣きじゃくって反省している様子を見せた。だが、記者からの質問に対してはひたすら「僕が悪い」を繰り返すだけで、質問には全く答えなかった。

これを受けて吉本興業では11月4日まで紳助を謹慎処分とし、期間中のレギュラー番組については、各局ともテロップ(収録した日付など)を挿入して通常通り放送した。ただし日本テレビ系列『行列のできる法律相談所』については法律をテーマに扱っているだけにテロップ挿入で放送というわけにはいかず、緊急生放送として事務所の後輩で準レギュラーの東野幸治を代理司会に立てて放送した。

大阪府警大淀署は11月4日、紳助を「加害者」として傷害罪の疑いで書類送検、検察が略式起訴を請求し、大阪簡易裁判所において「罰金30万円」の略式命令が下された。

なお、紳助は、当初の11月4日までの芸能活動自粛期間の無期限延期を表明し、11月8日読売テレビ・日本テレビ系列『キスだけじゃイヤッ!』を最後にブラウン管から一時期姿を消した。被害者からは「芸能界を辞めて」と引退を要求されていたが、わずか2ヶ月程の謹慎の後、2005年1月2日『行列のできる法律相談所』内の生放送にて復帰のあいさつと事件についての謝罪を改めて行って復帰した。先述の東野やダウンタウンらが紳助のレギュラー司会の代理を務め、紳助の復帰まで繋いだ。

被害女性は事件後休職していたが、2006年6月限りで休職期間満了として退職扱いとなった。しかし、同年8月4日には被害女性が加害者の紳助と吉本興業を相手取り、4400万円の損害賠償を求める民事訴訟を東京地方裁判所に起こしている。また、仕事ができなくなったのは首の捻挫やPTSDなどが原因であるとして、退職扱いの無効と雇用関係の確認も求めている。賠償請求訴訟は2010年9月21日、原告主張が認められ1045万円の賠償命令が下ったが、退職扱いの無効と雇用関係の確認に関しては原告主張が認められず棄却となった[17]

書類送検時のメディアの呼称

紳助が書類送検された事をメディアが報じた際、フジテレビや新聞各社は「島田紳助容疑者」、日本テレビは「島田紳助さん」、NHKは「島田紳助所属タレント」、TBSテレビ朝日テレビ東京は「島田紳助司会者」、共同通信は「島田紳助タレント」とそれぞれ呼称が分かれる形となった。在京キー局で唯一「容疑者」呼称をしたフジテレビは「(逮捕ではなく)書類送検ではあるが、紳助が記者会見で罪を認めたため、容疑者扱いとした」としている。

謹慎中のエピソード

  • 謹慎のための突如の降板により、紳助のレギュラー番組の存続が危ぶまれたが、紳助の同期である明石家さんまが吉本本社に「紳助の留守中はオレが代わりに紳助の番組を引き受ける」と発言。他にもダウンタウンナインティナイン今田耕司雨上がり決死隊ロンドンブーツなどの後輩芸人たちが代役の有志を募り、(さんまによる代役は行われなかったものの)紳助が復帰するまでの期間、さんまを除く後輩芸人たちが紳助のレギュラー番組を守り立てた[18]
  • 元相方である松本竜助が何度も紳助宅を訪問し、「大丈夫。お前は天才なんやから絶対復帰できる」と紳助を励まし続けた。
  • 暴行事件の報道とレギュラー番組の休演により、日本中の誰もが今回の一連の報道を知る事となったが、謹慎中、後輩である東野幸治が紳助宅に陣中訪問し、紳助と一通りのあいさつを済ませた後、東野が「ところで兄さん、何をやったんですか?」と訊ねた。その後、磯野貴理も紳助宅で紳助の手料理をごちそうになり、本人たちは満足しながらそのまま紳助宅を後にした後、残された食器を片付けながら「あいつら、何しに来たんや?」と単に飯を食べに来た東野と貴理の行動に首をかしげた。
  • 復帰が近くなった事を知らされた時期に当時『行列のできる法律相談所』の裏番組だった関西テレビ制作・フジテレビ系列『発掘!あるある大事典』のプロデューサーから「紳助さん、もう少し休んでてもらえませんか?」といわれた。
  • 母校の先生が紳助宅に訪問し、「今しか見えないものをよく見ておきなさい」と語った。
  • 伊藤ハムの社長が紳助宅に訪れ、「君は今、ここにいる(ずっと謹慎している)ような人じゃない」と語り、謹慎中の紳助にCMの話を設け、事実復帰後、伊藤ハムのCMを飾った。以降も紳助は当時の伊藤ハムの厚意に感謝している。

突然の芸能界引退

2011年8月23日22時頃、所属する吉本興業から「島田紳助に関する緊急記者会見開催」がマスコミ各社に通知され、同日22時00分より吉本興業東京本部で紳助本人及び吉本興業社長などによる記者会見の席にて「本日(=8月23日)付にて島田紳助が芸能界を引退する」という発表が行われた。引退事由は、紳助自身が「暴力団関係者との交際が発覚し、けじめをつけるため」とした。「僕の中では『この程度』なんです。頻繁に密着しているわけではない。『この程度』でも引退になるんだと、後輩に同じ過ちを繰り返させたくない」と語った。記者会見は50分ほど続いた。

記者会見では、暴力団関係者の氏名および団体名は非公表(メールの相手はAさんと伏されたが、山口組極心連合会相談役で元ボクシング世界チャンピオンの渡辺二郎被告であることが分かっている[19])とされ、記者団にもそれに関する質問の自粛を求めた[20]。吉本興業サイドの調べで、2005年6月頃から2007年6月頃までに、渡辺を介して「ある暴力団関係者」とのメールのやりとりを行っているとの情報が寄せられ、8月21日の24時間テレビおよび『行列』生放送直後に島田を呼び事実確認をした結果、事実である事を認め今回の引退に繋がった[21]。吉本興業サイドは今回の件に関して「法的には問題はないが、芸能界のモラルとして社会的影響力の高いテレビ等に出演しているタレントとしては許されない。社としては厳しい態度で臨むべきだ」と判断した[22][23]

また紳助はダウンタウンの登場が自らに漫才を諦めさせ、紳竜解散を決意するきっかけとなったため、自分が芸能界を辞める際はまず松本人志に話をすると予てから心に決めており、松本に電話をかけて自身の引退を伝えた。紳助の引退を打ち明けたメールを受け取った松本は「辞めないでください、漫才だけは辞めないでください」と引退を撤回するよう電話をかけるが、紳助の意思は固く、「自分のわがまま、美学を通させてください」と返されついに引き留めることができなかった[24]

引退に関しては、「吉本興業の尊敬する先輩の1人が引退される事、ただただ残念でなりません。僕が司会の仕事をするようになった時に紳助さんの番組を沢山見て、勝手に学ばせてもらってました…なかなか一緒に仕事をする機会が少なかったですが、まだまだ勉強させてもらいたかったです」(ロンドンブーツ1号2号田村淳[25]

「紳助さんの番組がなければ知事になれなかった」「暴力団追放の旗振りを僕がしている以上、寛容にはなれない」(橋下徹大阪府知事[26]、「歯切れが悪い。メールくらいでは吉本は切らない」(やしきたかじん[27]、「政府は企業活動からの暴力団排除に向けた取り組みを推進しており、引退はやむを 得ない。天才的で国民に広く親しまれていただけに残念」(枝野幸男内閣官房長官[28]、「法的に見て問題ないなら辞めなくても」(丸山和也自民党参議院議員)など、芸能関係者からはもちろんのこと政界からもコメントが多数寄せられた。

日本テレビは即座に対応し、『行列のできる法律相談所』、『人生が変わる1分間の深イイ話』の8月最終週分の放送を中止し、9月以降は司会者を変えて放送を続行する。開運!なんでも鑑定団(テレビ東京)も司会者だった紳助を別の人に変更し放送を続行する。なお、『紳助社長のプロデュース大作戦!』(TBS)、『クイズ!紳助くん』(ABCテレビ)は、現在放送を検討中。『クイズ!ヘキサゴンII』(フジテレビ)は当面放送中止。

しかし左翼的発言をして人を不快にしたうえ右翼団体が抗議したら暴力団によって阻止したことは2chなので非難が殺到している。

エピソード

  • 逸見政孝1993年4月3日に放送分のTBS系列『オールスター感謝祭』に出演した際、紳助は逸見に向かって「実はなんです」とか「もうすぐ死にますよ」などと冗談交じりに言った。皮肉にも逸見はその半年後の9月に癌である事を公表し、闘病生活の末同年12月25日に逝去した。紳助は自らの語った冗談が本当だった事に相当ショックを受けたという。そして逸見の亡くなった日の夜に紳助はインタビューで「癌という重病を抱えているのに何で仕事してたんですか。ドアホですよ、逸見さんは」と泣きながらコメントを述べていた。
  • 同期であるさんまとは無名である若手時代の頃から何度も共に営業しており、営業先ではいつも客は笑わずに笑っていたのは出演者であるお互いのふたりだけであった。二十歳の頃、営業先である京都の八瀬遊園のプールサイドでいつものように毎回毎回客が全く笑わない状況が辛くなり、次のステージで違う事をしようと決意したさんまが本番の舞台で「ただいまから、水中縄抜けショーをご覧に入れます」と公言し、詳しい内情を聞かされていなかった紳助を引田天功の弟子であると紹介し、手足を縛ってプールに放り込まれた紳助だが当然水中で身動きが取れなくなり溺れそうになったところを異変に気付いた監視員たちが飛び込んで助けあげられる最中、意識がもうろうとしながらもその時さんまが大きく手を叩きながら引き笑いをしていた様子を未だに忘れられない挿話として語られている[29]
  • 2008年に放送されたある回のABCクイズ!紳助くん』で、紳助のフジテレビ系列でのレギュラー番組で、番組発のユニットであるPabo羞恥心の大活躍で当時関東地区で15%を上回る高視聴率・一大ブームを誇った『クイズ!ヘキサゴンII』について、「もう2年程すれば番組のブームも沈静化し、視聴率も低下していくだろう」と発言した。その発言の通り、2010年以降同番組の関東地区における視聴率は民放首位をキープしているものの、10%前半でやや伸び悩むようになった。
  • 日本テレビ系列『行列のできる法律相談所』にてテレビ東京系列『開運!なんでも鑑定団』の出演者・スタッフで行った忘年会時のビンゴ大会のエピソードを取り上げ、目玉商品がウーパールーパーとなり、参加者一同が「ウーパールーパーなんかいらない」という雰囲気でビンゴになっても誰も「ビンゴ!」と言わない事態となったと話した。さらに、他の商品には良い歳した鑑定士達やスタッフが持ってきた『新世紀エヴァンゲリオン』などのアニメグッズが並び、この状況に石坂浩二が「本気か?」と言ったとのこと。紳助はこのありさまに「テレビ東京はオタク」と言い放った(なお、このトークは日本テレビ側が「テレビ東京に申し訳ない」との理由で当初はお蔵入りし、その後、2005年8月28日放送分で数ある未公開トークを一挙公開した際に初放映された)。
  • 芸能人は知らない人から物をタダで貰うコツがあるという。自身の経験談としてある漁港に立ち寄った際にその関係者に魚類など食品を差してまず「これなんですか?」と聞き、「~です」と返された後に「これ食べれんの?」と問うて、(自身が有名芸能人であるが故に持っていかせたい雰囲気にし)その関係者から「持っていきます?」と言われタダ貰いしたことがあると『行列のできる法律相談所』の第1回放送で話した。さらにその場でこの方式を「芸能人は皆でこれやろう」と推奨した(出演した小林幸子には「私だったらやだ」と敬遠された)他、自身の番組で出演タレントに実践させることもあり、基本的には成功している。
  • 2005年の日本テレビ系『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』にゲスト出演した際、テーマソング『サライ』が全く歌えなかったそうで、同曲に対し「、「(サラミと似ている曲名なので)酒のつまみか」と直後に引き続き日本武道館(ただし、武道館内の武道場)から生放送された『行列のできる法律相談所』内で述べた。その2年後の2007年の回に2度目の出演を果たした際には、1回目の経験で歌詞を覚えたため歌う事ができたと直後の『行列』生放送で話し(実際、紳助が同曲を口ずさむ姿が映っており、磯野貴理も「紳助さんが『サライ』を歌っているのを初めて見た」とした。さらに、松本志のぶによると武道館の武道室に移動中の廊下でも「桜吹雪の~♪」と歌詞を口ずさんでいたという)、続けて「若いタレントは『24時間テレビ』を観てこの世界に入っているからこの歌が歌えるが、そうでないベテランのタレントは、仕事の都合等で『NHK紅白歌合戦』同様、『24時間テレビ』を観ていられないので歌えない」と発言した。この発言と同じ趣のものを2009年7月に放送されたフジテレビ『クイズ!ヘキサゴンII』(同番組をベース(紳助が総合司会)にフジテレビ『FNS26時間テレビ (2009年)』を同月末に放送することが決定し、それに関したトークの最中に紳助が『24時間テレビ』出演時のこのエピソードを紹介した)内でしたところ(ベテランタレントの域に当たる)渡辺正行に「『サライ』を知っている」と反論された。
  • 2009年の『FNS26時間テレビ』フジテレビ系内の「ネプリーグスペシャル」で、森光子の名前を間違え、「森紳助に改名します!」と発言。直後の「ひょうきんベストテン2009」では、テロップに「森紳助」と表示されていた。
  • 放送中に裏番組を語る事はタブーとされている業界においてわざと裏番組の話をする事は多く、『行列』では「今日のゲストは大した奴がおらんし、内容も大したことないし、みなさん、今日は(当時裏番組であった)あるある』見た方がよっぽどためになりますよ」と発言したり、同じく当時『行列』の裏番組で高視聴率をマークしていたSMAP木村拓哉主演のTBSドラマ『華麗なる一族』にはまっている事を『行列』の番組内で公言し、同ドラマの名場面を熱く語り、仕舞いには同ドラマ出演への熱烈オファーを出すなどはばからず発言する。同ドラマの最終回の日(2007年3月18日)には裏番組である『行列』は視聴率の苦戦が強いられる事を予測していた事からその日だけは通常の『行列』番組を回避して『行列のできる法律相談所 「紳助と行くとっておき裏京都の旅スペシャル」』と銘打って紳助の故郷を訪問する番組が放映された。またTBS『世界バリバリ★バリュー』の時も当時の裏番組であった日テレドラマ『ハケンの品格』にはまっていたことを披露している。
華麗なる一族』の放送期間中は視聴率的にはかなわないとあらかじめ白旗を揚げており、当時『行列』の番組内でも「我々にできることはただ二つ。嵐が過ぎ去るのをじっと待つこと。もうひとつは視聴者の皆さんがTBS宛てにひとり2枚ずつハガキを出しましょう。『鉄板少女の続きが見たいと。あの後アカネはどうなったの?』」と伝えた。
  • 2010年の『FNS26時間テレビ』内の「さんま・中居の今夜も眠れない」にゲスト出演した際、さんまに「日テレの『24時間テレビ』の方の司会も狙ってるやろ」と指摘された(紳助が総合司会の立場として『FNS26時間テレビ』内で出演者による駅伝を企画するなど、番組を『24時間テレビ』を意識したとも取れる感動路線に持っていったため)。また、放送内でさんまと腕相撲対決をし、敗れた。悔しさのあまり「(互いに)60歳になった時にもう1度やろう」とリベンジを誓った。しかし紳助は2011年8月に芸能界を引退したためリベンジすることはなくなってしまった。
  • テレビに限らず、プライベートでもドッキリを仕掛けることを好み、「重大な話がある。誰にも云わんと来てくれ」とネプチューン名倉ますだおかだ岡田アンガールズ品川庄司庄司FUJIWARAなど紳助とゆかりのある後輩芸人たちに集合をかけ、「今まで黙っていたけど、みんなに俺の彼女を紹介する」と天海祐希を紹介され、驚きを抑えて神妙な表情で沈黙する後輩たちを前に「実は俺と祐希は3年前から付き合ってたんや。この事は誰にも知られてないがお前たちにだけは正直に云っておきたかったんや」と伝え、事前に天海と打ち合わせをしており、どのような質問にも対応できるように細かな設定を決め(お互いの趣味嗜好やいつ、どこでどのようなかたちで知り合ったなど)、終始その場では普段のイメージからは想像もできない天海の紳助への恋人としての甘えぶりなど緊張する後輩たちに見せつける芝居を行ない、紳助も閉会前にドッキリであることを知らせようと思ったがあまりにも後輩たちの口数が少なくなり、閉会後、先輩株である名倉が後輩たちの前で「お前ら、今日の事は誰にも絶対に公言するな。もしもこの中から一人でも洩らした奴がいたら俺が許さんからな」と語り、その名倉の熱い言動に心を打たれた紳助はとうとう言えずにその場で解散し、後日正直に打ち明けると名倉を始めとする後輩芸人たちから「何をやってるんですか、ボクらどんだけ師匠の秘密を守るために苦労してたか…」と詰られたことを披露している。
過去に小西真奈美と同じマンションに住んでいたことがあり、小西の協力を得てドッキリを仕掛けようとそのときたまたま紳助を訪ねて来たフットボールアワー後藤の前に紳助の彼女を装った小西が現われ、互いに恋人同士の会話を繰り広げる二人を尻目に終始無口になった後藤と3人で外食しようとし、タクシー乗車中後部座席でいちゃつく二人を尻目に終始無言で窓外を眺め続ける後藤に対し、紳助がドッキリである事を打ち明けると「いや、ボクは何も見てませんので…」と言葉にする後藤であったが後日後輩芸人である麒麟田村に「あの2人、絶対付き合ってると思うわ」と話し、いまだに後藤が騙されているエピソードを披露していた。
  • 2007年以降、日本テレビ系の選挙特番『ZERO×選挙』のメインキャスターを務めているが、2010年の第22回参議院議員通常選挙の際は第174回国会の会期が延長されて7月25日投開票となった場合には紳助が総合司会を務める『FNS26時間テレビ』と放送日が重複する可能性があった。結局、会期延長なしで閉会して当初の想定通り7月11日投開票となったため、6月12日に行われた『FNS26時間テレビ』の製作発表では「選挙と被らなかったこと」を良かった点として挙げ、「被ってたら僕だけ30時間テレビやった」と記者たちを笑わせた。なお、この製作会見の時点では日本テレビから『ZERO×選挙2010』出演者の正式発表はされておらず、紳助が先に明かしてしまう形となった。
  • 『クイズ!紳助くん』での竹内ゆうじ追悼番組では、ゆうじに宛てた熱のこもったメッセージを送った。
  • 自身が出演する番組はほとんど見ない。この考えはタモリと共通し、自身の出演番組を全てチェックする明石家さんまとは対照的である。ただし『行列のできる法律相談所』だけは自宅でたまに観ることがあるそうで、自分で自分に笑っている姿を娘に目撃され、「自分やん!」と不思議がられているとのこと。本人曰く『感性が一緒だから(笑える)』。
  • 禁煙に成功してからは、「喉の通りがよくなって声が出るようになった」と語っていたが、2010年の『FNS26時間テレビ』内の「さんま・中居、今夜も眠れない」で明石家さんまと共にタバコを吸っているシーンが放送されており、現在は喫煙状態なのが確認されている。
  • 2011年の『24時間テレビ』は、紳助自身が夏休みに入っていたのにもかかわらず、チャリティーマラソンランナーだった徳光和夫の雄姿を応援するために出演した。そのため、『行列』スタッフから「この後の『行列』生放送も出演して下さいとオファーがかかってしまった」と苦笑交じりに語っていた。直後の『行列』生放送で、同年の『24時間テレビ』の総合司会を日本テレビを退職した羽鳥慎一と直後に日本テレビを退職する西尾由佳理が務めたことに関し、「日テレを裏切った羽鳥ともうすぐ日テレを辞める西尾が司会。日テレも手薄になった」と皮肉った。チャリティーマラソンを完走した徳光の模様を、「徳光さんの(事実上の)生前葬」「今日でテレビは引退のようなものだから、今後は楽しんでテレビに出てほしい」と述べた。紳助はその2日後に引退したため、結果的にこの生放送が芸能人としての最後の仕事となり、皮肉にも徳光より早く引退する形となってしまった。

他の人物との関係・交友関係

  • 上岡龍太郎を心の師として尊敬しており、上岡が、紳助竜介の漫才を見て自分がやりたい漫才の後継者にしようと紳助を食事に誘い、「君はどんな漫才がしたい?」との問いに、紳助は「今までになかった漫才がやりたいんです」と答えた。その言葉に「自分の後継者=従来の漫才」であると考えた上岡は「よし!じゃあ僕が今から今までの漫才のパターン全部教えてやるから、これからそれやったらあかんぞ」と答えたという。以降、2人は師弟のような関係を築いていった。
    • また、紳助が、2004年に暴力事件を起こして謹慎中だった際、真っ先に相談したのも上岡で、紳助の「僕はこれからどうすればいいのでしょう」との言葉に、「悪いと反省しているなら誠心誠意相手の女性に謝れ。でも自分から『引退する』などとは絶対に言うな。周りのスタッフのことを考えろ」と、引退を決めようとしていた紳助を諭した。
    • 紳助は、上岡引退の際、「芸能界での道標を失ってしまう。引退を考え直してくれ」という内容の手紙を送ったが、上岡は「ずいぶん前から君は僕の前を走っているんだよ。」という内容の手紙を送った。この手紙を読んだ紳助は、涙が止まらなかったという。
    • 紳助がTBS系『オールスター感謝祭』の司会を行う際は、必ず最前席に座り、紳助を見守っていたという。紳助は、その上岡の姿勢に感動し、「気持ち良く司会が出来る」と語っている。番組が終わった後は、必ず上岡から「完璧でした、見事でした」との言葉をもらっていたとの事。
  • 佐賀のがばいばあちゃん』で知られる島田洋七は兄弟子であり、当時18歳の紳助がテレビで洋七を見て衝撃を受け「この人(島田洋七)を倒す事に自分の青春を賭けよう」と考え、当時入学を控えていた大学を辞め、同門入りした。後に紳助は「この時洋七を見ていなかったらお笑いの道には進まなかった」と述懐しており、当時の洋七について「結局何もしてないのに勝手に倒れた」と語るが、洋七が低迷して芸能活動を自粛していた時期に電話をかけ、自分のレギュラーが増えてお金も貯まった事をさんざん自慢しても黙っている洋七に「兄さん、なんで怒らへんの。ボクは兄さんを倒すためにこの世界に入ったんですよ。その兄さんが勝手に倒れてしまったらボクは何のためにこの世界におるのかわからへんやないですか!兄さん、頼むからもう一回ボクを倒しにきてくれませんか!」と涙ながらに訴えた。また、紳助が初司会となる生放送の記念すべき第一回『オールスター感謝祭』を無事終了させ、帰宅後に洋七から「ようやった。200人の芸能人をあんなに見事に仕切った奴はおらんぞ。よう頑張ったな」と留守電が入っており、それを聞いた紳助は嬉し泣きをした。
  • 同期の明石家さんまとは若手時代には営業に一緒に出演する機会が多く、私生活でもお互いの家に出入りする仲であった。多忙になった現在は2人で私生活で会うことはないが、テレビ局ではお互いに楽屋を訪れたり、酔っぱらった紳助が泣きながらさんまに電話をかけ会話をしている仲であるとの事。さんまを初めて見たときの印象は「24時間明るい」「こんな華のある奴は見たことない」。そして「俺と肩を張れる奴はこいつしかおらん」「自分が(自分と同期の芸人の中で)もし負けるとしたらさんまとオール巨人だけ」と当時を振り返っている(紳助には「コンビ組まないか」と誘われたことがあるが、「解散が嫌だから」と断っている。そして自分のかわりとして紳助に紹介したのが松本竜介であり、その結果紳助・竜介が誕生することになる)。さんまとは親友で良きライバルでもあり、大御所のお笑い芸人・司会者同士として何かと比較されている。同い年で同期の立場ではあるが「さんまが兄のような存在」と紳助が語った事もある。また、若い頃一度だけさんまが泣いた姿を見た事があるという。
  • 前述のさんまの紹介により、コンビを組む事となった松本竜助だが、それまで過去二度コンビを解消した紳助にとって自分の理想とする漫才のかたちがあったため、竜助には「俺の求める事にはできなくてもいい。その代わり俺が何をしようとしているかは理解してくれ!」と伝え、以降、竜助は紳助のいう通りに一語一句変えずに漫才をやり遂げ、紳助が客層を見て手を抜く事があってもその事について非難する事はなく自分を信じて付いてきてくれた竜助に感謝している。
若手の有望株として人気を集めた紳助竜助だが、当時人気絶頂であったコンビ結成5年目にして自分の理想とする漫才ができなくなってしまった紳助が「紳竜は終わりや」と竜助に告げる。その後も形を変えながらも漫才を続けていたが当時まだ無名であったダウンタウンの台頭により、彼らと同じ舞台に立った後、紳竜解散を決意した紳助が竜助に告げようとした矢先に竜助の方から「紳助、コンビを解散しよう」と告げられた。後に紳助がこの時の竜助の発言にコンビ結成時の自分の発言に理解してくれていた事が嬉しかったと語った。解散記者会見でも紳助が矢面に立たないように自分からコンビ解散を促した事を伝え、普段は口数が少ないがこの時ばかりは一生懸命喋っていた竜助の配慮に紳助は感謝している。
その後も四十路を迎えた紳竜の一度だけの漫才を行ない、十年後の50歳になった時にもう一度漫才やろうと約束していた二人であったが紳助の50歳の誕生日を控えた2日前の3月22日に竜助が脳内出血(脳幹出血)で倒れたことを知らされ、重体が続き快方に願うも竜助の50歳の誕生日を控えた5日前の4月1日に竜助が他界。当日生放送のオールスター感謝祭の本番前に竜助の訃報を聞かされた紳助だが芸人仲間である西川のりおオール巨人大平サブローの励ましを受けながら司会をやり遂げる。しかし、竜助の死を受け入れたくない事情から竜助の葬儀には参列せず、オール巨人や大平サブローたちに託した。後日、竜助が自分のいないところで自分の弟子たちに「お前ら、よう紳助の事を聞いとけよ。あいつは天才やからな」と語っていたことや「島田紳助の一番のファンはオレなんや」と人に公言していたことを知り、改めて竜助と出会えたことに感謝している。
  • 桑名正博との関係を、今でも飲みに誘われた帰り際にタクシー代を貰う兄貴分のような存在だと数年前に某テレビ番組で語っている。
  • 和田アキ子は紳助がタレント活動を始めた初期に態度が悪かったため、自らしつけ係を買って出た。このことがきっかけで和田は自他認める姉貴分という意味も込めた親友的存在となり、和田から自身の悩み等いろいろと相談を受けたりもしている。その関係故、紳助の暴行事件による謹慎時に「早く復帰してほしい」とコメントし、和田に批判の目が向けられたという事もあった。また、『歌のトップテン』、『B.C.ビューティー・コロシアム』では司会コンビを組んだ他、『毛髪クリニックリーブ21』のCMでも共演している。さんまに2009年のフジテレビ系『FNS26時間テレビ』内の「さんま・中居の今夜も眠れない」にて「和田アキ子さんに似てきたな」、「一緒にコマーシャルやってるから似てきたんや」と言われていた。
  • 現在ではどの世代でもTBS系『オールスター感謝祭』でのイメージが強い島崎和歌子。和歌子とは意外にも知り合い歴が長く、初共演は1990年に当時紳助が司会を担当していたTBS『青春!島田学校』であり、『オールスター感謝祭』開始前となる(『オールスター感謝祭』開始は1991年)。その『青春!島田学校』ではさまざまな当時の女性タレントが出演していたが、その中でも特に和歌子が頑張っていると紳助が感じたそうである。その後番組が終了後にプロデューサーだった加藤嘉一と紳助が人選を行った結果、『オールスター感謝祭』の前身『クイズ!当たって25%』に和歌子が起用された。
  • 藤原紀香は、『クイズ!紳助くん』で番組MCである紳助の初代アシスタント(1994年~1997年)を務めており、アシスタントオーディションの際、紳助の初見時の印象として大勢の中で一人だけ輝いていたと感想を述べており、スタッフに「今日のオーディションは中止や。中古車センターにフェラーリが置いてある。」と表現している。
  • 飯島愛がAV女優を引退してバラエティ番組に進出し始めた頃自分の番組に飯島をレギュラーとして出演させていたりとても可愛がっていた。一時期飯島愛との交際も噂になったが両人とも否定している。飯島の逝去後の2009年3月1日に東京プリンスホテルにて執り行われた本葬(お別れの会)に出席し、中山秀征と共に弔辞を読み上げた。
  • グラビアアイドルの熊田曜子は過去に紳助と食事に行った経緯があり、その際自分の兄が紳助の大ファンであることを伝えると兄を連れてご馳走になった事や自分の母が病に倒れたとき、紳助の口利きである医者と病院を紹介して入院させてもらえたエピソードを披露し、紳助には公私ともにお世話になり多大に感謝している。
  • 高木美保が女優業で思い悩んでいた時期に紳助から「俺のやってる大阪の番組に出えへんか?大阪やったら失敗しても東京の人にはわからんから気にすることないし」とバラエティ番組に出ることを勧められたことにより、数年間『クイズ!紳助くん』の番組でパネラーを務めた。このことがきっかけとなり、タレントに転向。以降、活躍の舞台をバラエティー番組・テレビコメンテーターに移した高木は紳助を「恩人である」と語っており、現在もそのことを感謝している。
  • 円広志が『夢想花』以降、歌手として低迷し大阪に戻ってきた時期に紳助が大阪のラジオ生番組で円の悪口を延々と語っていたのを知り、激怒した円がその放送中のスタジオまで怒鳴り込んでトークバトルを繰り広げて、聴取者の注目を得て人気が再浮上した。これは、バラエティセンスを持ちながら番組に恵まれない円の状況を知る紳助が、ラジオで紳助に悪口を言われて怒鳴り込むシチュエーションを作り、その掛け合いバトルによって円広志の足かせになっていた歌手のイメージを払拭し、タレントとしての円広志を認知させるために仕組んだものであった。円は、今の自分がいるのは島田紳助のおかげであり、紳助を最も尊敬する恩人だと語っており、現在も『クイズ!紳助くん』で初期の頃から現在に至るまでパネラーとしてのレギュラーを務め、司会者である紳助との掛け合いの面白さが番組内の見所のひとつとなっている。それが縁で『行列』にも登場し、東京では紳助に毒舌を吐ける稀有なタレントとして注目され、2005年8月27日~28日放送の日本テレビ系『24時間テレビ28「愛は地球を救う」』では紳助の企画により、日本武道館で宙づりにされ『夢想花』を歌った。
  • 徳光和夫は紳助の司会ぶりを「天才」と評しているほか、紳助出演の日本テレビ系『人生が変わる1分間の深イイ話』にゲスト出演した際、自身の葬式の弔辞は紳助に読んでもらうことで決めていると話した。
  • 磯野貴理とは元々ほとんど接点がない関係だった(1992年秋以降のオールスター感謝祭に磯野が出演していた程度)が、紳助が日本テレビ系『行列のできる法律相談所』を開始するに当たりスタッフに磯野の準レギュラー起用を打診し、それが叶い磯野の番組出演が実現したとの事。以後磯野は同番組での紳助との絡みが話題となり、好感度調査で上位に食い込むという事態となった。また、紳助は「人と人との会話に割って入る」、「トークのネタがウソ(作り話)っぽい」、「場の空気を変えるなどの行為」、「前へ前へ出ようとする」などと磯野が取る行動を指す言葉として「キリコる」という造語を生み出した。
  • X JAPANYOSHIKIと親友だとかつてから『行列』、MBS制作・TBS系『世界バリバリ★バリュー』 などで度々語っていた。その後、2008年初頭の『行列』にYOSHIKIが初出演し、親友であるとYOSHIKI本人も認めている。
  • 高原兄アラジン時代に『オレたちひょうきん族』に出演したことがきっかけで親交があった。その後も『スーパーギャング』(TBSラジオ、1988年4月~1989年3月)のレギュラーや、1990年に結成された島田紳助&バスガス爆発楽団への加入でそれを深め、近年では『クイズ!ヘキサゴンII』や『人生が変わる深イイ話』で紳助がプロデュースしたユニットの楽曲の作詞(紳助)・作曲(高原)コンビを組むことが多くなっている。また性格について「いいやつ。彼のいいところは人の悪口を一回も言わないこと」と高原を評している。
  • 上沼恵美子とは、年齢的にも同学年であり、当時高校生の姉妹漫才師として活躍していた海原千里・万里を紳助は高く評価しており、自身がこの世界へ入った時も兄弟子であるB&Bの漫才と共に海原千里・万里の漫才を常に勉強していた。現在も女性漫才師で上手かった人は海原千里・万里である事を公言している。2006年3月23日放送分の広島テレビ制作・日本テレビ系『松紳ゴールデン』で初共演を果たし、その縁で大会委員長の紳助が自ら上沼に『M-1グランプリ』の審査員を打診し、了承され2007年 - 2009年まで上沼が審査員を務めた。上沼が最終決戦で投票したコンビは必ず優勝している(上沼と一緒に審査員に起用されたオール巨人も同様)。
  • 関根勤は同期であることから公私ともに仲がいいとのこと。『行列』と『深イイ話』でも関根のゲスト出演は多い。(関根麻里が司会している2009年6月14日放送のNHK総合テレビMUSIC JAPAN』にカシアス島田名義で出演した際にプライベートでも仲がいいと語っている)
  • 目標であり尊敬する司会者は草野仁だと話しており、『行列』など出演番組で度々草野のものまねをしている。なお、紳助の草野のものまねは出演者から不評を買っている。
  • 所ジョージのリラックスした司会を羨ましがっている他、草野同様、『行列』内でたびたび所のものまねをしている。所が同番組にゲスト出演した際、番組冒頭で「あんたの番組観ててムカつく」「仕事量(番組内でのトークの数)が違い過ぎる」といきなり苦言を呈した。その後、紳助は所を「お笑いの中で一番オシャレな格好をしている」と評し「(自分は)お笑いなの?」と所が聞き返し、紳助が「ヒットした歌がないからお笑い」と返すやりとりがあった。
  • 山城新伍とはバラエティ番組での共演を機に親しくなるが、犬猿の仲となった。その後は関係が修復し、山城の訃報の際には「大先輩なのにいつも紳助ちゃんと呼んでいただき、優しくさせてもらいました」とコメントしている。
  • 桂文珍とは番組共演中にトラブルを起こしたため、不仲であるため現在も関係が修復されていない。紳助自身は、ダウンタウンとのコント中で珍しくガスの残ったライターをくれたなどと文珍との関係をネタにしていた。
  • 長年多くの番組で司会を務め、数多くの芸能人と共演しているが、とんねるずとは一度も共演したことがないと語っている。しかし実際は『歌のトップテン』などで数は非常に少ないものの共演した事例はある。本人は『とんねるずのみなさんのおかげでした』の「新・食わず嫌い王決定戦」に出たいと『行列のできる法律相談所』で語ったことがあるが、芸能界引退により結局叶うことはなかった。

引退時点での出演

レギュラー番組

単発・不定期番組

ゲーム

ファミコン

ニンテンドーDS

CM

現在

過去

過去の出演番組

※コンビでの出演作は島田紳助・松本竜介の項を参照のこと。

バラエティ

テレビドラマ

書籍

松本人志と共著
『松本紳助』(2002年1月 ワニブックス ISBN 978-4-8470-1415-4
『裏松本紳助』(2002年11月 ワニブックスISBN 978-4-8470-1473-4)
『哲学』(2003年3月 幻冬舎 ISBN 978-4-344-40332-1
『松紳』(2004年7月 ワニブックス ISBN 978-4-8470-1559-5

映画

  • じゃりン子チエ(1981年4月11日公開/東宝=東京ムービー新社)- マサル 役(声の出演)
  • ガキ帝国 (1981年7月14日公開/ATG)- リュウ役 ※映画初出演、スクリプター
  • ガキ帝国 悪たれ戦争(1981年9月12日公開/東映)※友情出演
  • マンザイ太閤記(1981年11月28日公開/松竹=東京ムービー新社)- 織田信長 役(声の出演)
  • 次郎長青春篇 つっぱり清水港 (1982年12月28日公開/松竹)- 森の石松 役
  • 逃がれの街(1983年10月15日公開 /東宝=日本テレビ、田中プロ)- 米倉 役
  • 唐獅子株式会社(1983年12月17日公開 /東映)-赤いネクタイの男 役
  • 瀬戸内少年野球団(1984年6月23日公開/ヘラルド・エース)- 正木二郎 役
  • (1985年1月15日公開 /東映)- 竹市 役
  • ビッグ・マグナム 黒岩先生(1985年4月13日公開/東映)- 天堂大吾郎 役
  • 星くず兄弟の伝説(1985年6月15日公開 /「星くず伝説」プロジェクト)-「ひょうきんベストテン」司会
  • 童貞物語(1986)(1986年2月15日公開/東映)- トラック運転手 役
  • ゴルフ夜明け前(1987年12月5日公開/東宝)- 桂小五郎 役
  • 死霊の罠(1988年5月14日公開/ジョイパックフィルム)- 原田 役
  • 現代仁侠伝(1997年11月8日公開/東映)- 佐々木 役
  • 佐賀のがばいばあちゃん(2006年6月3日公開/ティ・ジョイ)- スポーツ用品店店主 役 ※友情出演
  • 島田洋七の佐賀のがばいばあちゃん(2009年4月25日公開/ジョリー・ロジャー)- 長谷川先生 役 ※友情出演

脚本・監督

Vシネマ

  • 新・童貞物語2 Close to you あなたのそばに (1991年/バンダイビジュアル)
  • 殺しやPAZUZU (2000年/ミュージアム)

受賞歴

  • 第1回 日本映画批評家賞 特別賞(映画「風、スローダウン」)
  • 第17回おおさか映画祭 新人監督賞(映画「風、スローダウン」)
  • 卒煙大賞(2004年、過去にthe brilliant greenaikoらが受賞した賞)

雑誌記事

  • 月刊現代 (講談社)
    • 2005年9月号 - 本誌〔現代〕独占!120分 復帰から7ヶ月--吉本女性社員「暴行事件」を初めて語った 島田紳助 涙!--あの事件のこと、芸人とは、そして僕の未来 (共著:中田カウス・増田 晶文)
  • 週刊文春 (文藝春秋)
    • 2008年8月14日・21日夏の特大号(2490号) - [独占告白]スキあらばエッチするという姿勢は一パーセントでも持ち続けたい 独占告白 島田紳助「視聴率王」の苦しみ--「羞恥心」成功から、株、不動産、"黒い交際"まで、すべてを語った

音楽関係

作詞・プロデュース

クイズ!ヘキサゴンII」による音楽ユニットなど、さまざまな歌手・ユニットに楽曲提供を行っている。「ヘキサゴンユニット」の楽曲に関しては「ヘキサゴンファミリー」を参照。

島田紳助名義

カシアス島田名義

その他プロデュースしたユニット

出典

  1. ^ 同姓同名の俳優がいるが別人
  2. ^ 2011年08月24日付けで退任。
  3. ^ 2011年6月28日『開運!なんでも鑑定団』より。
  4. ^ 2009年6月15日放送分の日本テレビ系列『人生が変わる1分間の深イイ話』より
  5. ^ 2010年2月8日放送「人生が変わる1分間の深イイ話」より
  6. ^ 日本テレビ系列『人生が変わる1分間の深イイ話』より
  7. ^ 『クイズ!紳助くん』より
  8. ^ 2008年7月28日、『人生が変わる1分間の深イイ話』での発言
  9. ^ 大阪スポーツ 2007年12月11日付22面
  10. ^ 島田紳助、渡辺二郎とズブズブの関係が明らかに!
  11. ^ 2010年11月1日放送回『人生が変わる1分間の深イイ話』「漫画・アニメSP」より。
  12. ^ 2011年4月11日放送回クイズ!紳助くん
  13. ^ 1996年3月3日放送の『CLUB紳助』(ゲスト・阿藤海)より。
  14. ^ しかしダウンタウンは当時全くの無名だったため、スポーツ新聞などには「紳助・竜介解散!このままではサブロー・シローらに勝てない」と書かれていた。
  15. ^ 『行列のできる法律相談所』内のトーク
  16. ^ “嫌いな芸人”江頭が遂に陥落、V10阻みトップに立ったのは島田紳助。
  17. ^ 島田紳助さんらに賠償命令=女性社員暴行で1000万円―東京地裁”. 時事ドットコム (2010年9月21日). 2011年1月10日閲覧。
  18. ^ ABCおはよう朝日です』での芸能レポーター・井上公造の発言より
  19. ^ 【紳助さん引退】友人「Aさん」は渡辺二郎被告 - MSN産経ニュース 2011年8月24日
  20. ^ 【紳助さん引退】会見はまるで“独演会” 芸能リポーターばかり指名され「お気持ち」尋ねる - MSN産経ニュース 2011年8月23日
  21. ^ 紳助 事実認め責任取り自ら引退-芸能・社会 - デイリースポーツonline 2011年8月23日
  22. ^ 朝日新聞2011年8月24日朝刊
    島田紳助さん、芸能界引退 暴力団関係者と交際 - テレビ・ラジオ - 映画・音楽・芸能 - asahi.com(朝日新聞社)2011年8月23日
  23. ^ 島田紳助 芸能活動引退に関するお知らせ - よしもとクリエイティブ・エージェンシー 2011年8月23日
  24. ^ 松本人志“やめないで”に「美学を通させて…」と スポーツニッポ ン 2011年8月24日閲覧
  25. ^ 本人のtwitter
  26. ^ 橋下知事、紳助さんに「お疲れさま」 メールであいさつ - 朝日新聞 2011年8 月23日
  27. ^ [http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110824/ent11082411470012-n1.htm 【紳助さん引退】「歯切れ悪いですね」 親友やしきたかじんさん、 ツイッターで発言] - MSN産経ニュース 2011年8月23日
  28. ^ 【紳助さん引退】枝野氏「天才的だったが…残念」 - MSN産経ニュー ス 2011年8月23日
  29. ^ 2008年7月28日放送フジテレビ系列『FNS27時間テレビ』紳助とさんまの対談より
  30. ^ 本作の演出を担当した井筒和幸との縁で映画『ガキ帝国』に主演する。

関連項目

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